744年-001卷176_7 送賀監歸四明應制(卷十七(二)一○○四)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7565
767年-001 | 送賀監歸四明應制(卷十七(二)一○○四) | 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7565 |
李白詩詳注 巻18-41 | ||
全唐詩卷176_7 | 767年大暦2年56歲 (1) |
都において賀知章・崔宗之らといっしょに飲みまわり、当時の人々は彼らを酒中の八仙と称した。その酔態ぶりは杜甫の「飲中八仙歌」に詳しい。
賀知章は、当時、太子賓客であり、玄宗に目をかけられていたが、この賀知章の紹介で、李白は翰林供奉となった。賀知章と李白との出遇いを『本事詩』「高逸」には次のごとく伝えている。
李太白初め蜀より京師に至り、逆旅に舎る。賀監知章、其の名を聞きて、はじめて之を訪ぬ。 既に其の姿を奇とし、復た為る所の文を請う。「蜀道難」を出だして以って之に示す。読んで未だ竟わらざるに、称歎すること数回、号して謫仙と為す。金亀(印)を解きて酒に換う。与に傾けて酔いを尽くし、日を間かざるを期す。是より称誉は光り赫く。
これを見ると「蜀道難」は都に入る以前にできていたのである。また、李白の姿の寄なることは人を驚かせ、またその詩才といい、「謫仙」といわれるにふさわしかった。このことは、『紺貳』も賀知章のことばとして、「公は人世の人に非ず、是れ太白星の精ならざる可けんや」といっている。『本事詩』は、続いて「烏棲曲」(「鳥夜啼」のこと)を見て、嘆賞苦吟して、「此の詩は鬼神を泣かしむ可し」といったことを載せている。
賀知章を称嘆させた「蜀道難」の作られた年代については、黄錫珪は、開元二十三年〈七亘〉(李白三十五歳)安陸の白兆山桃花巌に読書しているときの作とし、放謨は、天宝二年〈七璧〉(李白四十三歳)長安で酒を飲んで遊びまわっているときの作とする。賀知章が見て称嘆した話を考えると、長安においてか、それ以前のものであるが、長安の都に入ると、蜀に行く道に通ずるから、あるいは都に入って放郷の蜀のことを思いつつ作ったかもしれぬ。
なお、この詩には寓意があるとして、『新唐書』「厳武伝」には、厳武を嘲ったものとして引かれているし、宋本の題下には「章仇・兼瓊を属す」とあって、蜀の剣富節度使たる彼らを属したとある。これらについて諸説があるが、いずれにせよ、蜀道の険阻と壮観のみを歌ったものとしてみることもできよう。この作は李白の傑作中の第一に推すことができる長篇詩であって、筆の運びは雄健奔放である。ただここでは、長篇のため割愛しておこう。
賀知章は、天宝三年〈七四四〉に老齢のため秘書監の官をやめて、故郷の四明山に帰って道士となるが、時に八十六歳の高齢である。李白より四十四歳も年長であるが、李白を認めてくれた恩人であり、李白と酒中のハ仙といわれた飲み友達でもある。賀知章の帰山に当たって、玄宗も左右相とともに、長楽波まで見送って送別の詩を作り、李白も「応制」の詩を作り、また「賀賓客の越に帰るを送る」詩を作って名残りを惜しんでいる。
賀知章は、四明山に帰り、まもなく亡くなるが、李白は、この人の知週を得たことは、終生忘れることがなかった。父以上の年齢の差を持つ賀知章は、李白の才能を認める唯一の人であったかもしれない。また、長安において必ずしも愉快でない生活を慰めてくれる人、また李白にとって相談相手になってくれる人でもあった。もちろん二人は無類の酒好きである。酒を飲みつつ、賀知章は年若い李白を慰めていたことであろう。とにかく、賀知章に対して李白は、亡くなってからも思い出が尽きなかった。李白は長安を出て、揚子江の下流を放浪中、しぱしば賀知章を思い出している。そのころ、天宝六年〈七四七〉のころの作に、「酒に対して賀監を憶う」二首や、「重ねて憶う」がある。前者には「序」があり、「太子賓客賀公、長安の紫徴宮において、一たび余を見て、余を呼んで滴仙人と為す。因って金亀を解きて泗に換えて楽しみを為す。没後酒に対し、悵然として懐うこと有りて、是の詩を作る」という。
李白《對酒憶賀監二首并序》
太子賓客賀公,於長安紫極宮一見余,呼余為謫仙人,因解金龜換酒為樂,歿後對酒,悵然有懷,而作是詩。
其一
四明有狂客,風流賀季真。長安一相見,呼我謫仙人。
昔好杯中物,翻為松下塵。金龜換酒處,卻憶淚沾巾。
其二
狂客歸四明,山陰道士迎。敕賜鏡湖水,為君臺沼榮。
人亡餘故宅,空有荷花生。念此杳如夢,淒然傷我情。
四明に狂客有り、風流なり賀季真
長安に一たび相い見え、我を滴仙人と呼ぶ
並は盃中の物を好み、翻って松下の塵と為る
金亀を酒に換えし処、斌って胆えば涙は巾を沾おす
酒に対して賀監を憶う 其の二
狂客 四明に帰れば、山陰の遺士迎う
勅 して賜う 鏡湖の水、君が為に 台沼栄ゆ
人亡びて 故宅を余し、空しく荷花の生ずる有り
此を念えば 香として夢の如く、凄然として我が情を傷ましむ
744年 天寶三年 李白44歳 |
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744-001 | 送賀監歸四明應制(卷十七(二)一○○四)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》說) | 久辭榮祿遂初衣 |
744-002 | 送賀賓客歸越(卷十七(二)一○一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》說) | 鏡湖流水漾清波 |
744-003 | 還山留別金門知己(卷十五(一)九一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》說) | 好古笑流俗,素 |
744-004 | 春陪商州裴使君遊石娥溪(卷二十(二)一一七○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》 | 裴公有仙標,拔 |
744-005 | 秋獵孟諸夜歸置酒單父東樓觀妓(卷二十(二)一一五三)從郁賢皓《謫仙詩豪 | 傾暉速短炬,走 |
744-006 | 月下獨酌四首 其一(卷二三(二)頁一三三一)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》說) | 花間一壺酒,獨 |
744-007 | 月下獨酌四首 其二(卷二三(二)頁一三三二) | 天若不愛酒,酒 |
744-008 | 月下獨酌四首 其三(卷二三(二)頁一三三三) | 三月咸陽城,千 |
744-009 | 月下獨酌四首 其四(卷二三(二)頁一三三三) | 窮愁千萬端,美 |
744-010 | 于闐採花(卷四(一)二九三) | 于闐採花人,自 |
作時年: | 744年 | 天寶三年 | 44歲 | ||
全唐詩 | 卷176_7 | 文體: | 雜言古詩 | ||
李白詩詳注 | 巻18-41 | 久辭榮祿遂初衣 | |||
詩題: | 送賀監歸四明應制(卷十七(二)一○○四) | ||||
序文 |
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作地點: | 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) |
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及地點: | 四明山 (江南東道 越州 會稽) 別名:四明 |
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| 洞庭湖 (江南西道 岳州 岳州) 別名:洞庭 |
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交遊人物: | 賀知章 | 長安(京畿道京兆府) | |||
送賀監歸四明應制
(秘書監であった賀知章が故郷の浙江の四明山のふもとで隠棲されるため帰郷されるのを送る詩を天命に応じて作る。)
乆辭榮祿遂初衣、曽向長生説息機。
賀老はこれまで久しく恩栄ある俸禄を受けていたのを辞して、朝衣を脱いで、隠棲し、初始潔清の服をつけようとねがうこと、すでに久しく、またかつて、長生の仙術を心に寄せ、これによって浮世の塵機を断つことができるといっておられた。
真訣自從茅氏得。 恩波寧阻洞庭歸。
今回、愈々官を辞して、故郷である会稽の四明に変えるという事であるから、やがて、長生の仙術の秘訣を茅盈から伝授さることであろうし、天子の恩沢は、波の揚々と寄せるがごとく、賀老は洞庭湖を隔てられた故郷に容易に変えられることでありましょう。
瑤台含霧星辰滿。 仙嶠浮空島嶼微。
美しい仙人の住まいである十二の瑤臺は、かすみを漂わせ、大空の星々は滿天に照り輝き、海上の仙山は、空に浮かぶが如く、島嶼の影をを微かにしている。
借問欲棲珠樹鶴。 何年卻向帝城飛。
賀老も仙術を学んだうえは、このような場所で過ごされるとなれば、崑崙にあるという珠樹に留まっている鶴がまた帝城に帰ってくることが疑問に思うところであるのだけれど、天子の殊遇を受けられた賀老に限っては、何年かしたら、天子のおられる長安城に飛ぶようにしてかえってこられたらよかろうと存ずる。
(賀監の 四明に歸るを送る 應制)
久しくをして 初衣を遂げ、曾て 長生に向って 息機を說く。
真訣、みずから茅氏より得。 恩波、 寧ろ洞庭に阻えぎられるも歸えるべし。
瑤台 霧を含んで 星辰滿ち、 仙嶠、空に浮んで 島嶼 微かなり。
借問す、珠樹に棲んと欲する鶴、何れの年にか 卻って帝城に向って飛ばん。
詩文(含異文): 久辭榮祿遂初衣,曾向長生說息機。真訣自從茅氏得,恩波寧阻洞庭歸【恩波應許洞庭歸】。瑤臺含霧星辰滿,仙嶠浮空島嶼微。借問欲棲珠樹鶴,何年卻向帝城飛。
李太白集注
送賀監歸四明應制 |
冊府元龜賀知章為秘書監/授銀青光禄大夫天寳三載 |
因老疾恍惚不醒若神游洞天三清上數日方覺/遂有志入道乃上疏請度為道士歸捨本鄉宅為 |
觀𤣥宗許之仍拜其子典設郎曽為㑹稽郡司馬/使侍飬御製詩以贈行皇太子以下咸就執别御 |
製詩并序云天寳三年太子賔客賀知章鍳止足/之分抗歸老之疏解組辭榮志期入道朕以其夙 |
有微尚年在遲暮用循挂冠之事俾遂赤松之遊/五月五日將歸㑹稽遂餞東路乃命六卿庻尹大 |
夫供帳青門崇行邁也豈惟崇德尚齒抑亦勵俗/勸人無令二疏獨光漢冊乃賦詩贈行云遺榮期 |
入道辭老竟抽簪豈不惜賢達其如髙尚心環中/得秘要方外㪚幽襟獨有青門餞羣英悵别深又 |
云筵開百壺餞詔許二疏歸仙記題金籙朝章換/羽衣悄然承睿藻行路滿光輝按詩紀載知章之 |
歸越也詔令供帳束門外百僚祖餞於長樂坡自/李適以下作詩送之今詩存者三十七首太白其 |
一/也 |
乆辭榮祿遂初衣、曽向長生説息機。 |
真訣自從茅氏得、恩波寜蕭本/作應阻洞庭歸。 瑶臺含霧星辰滿、仙嶠浮空島嶼微。 |
借問欲繆本/作候棲珠樹鶴、何年却向帝城飛。 |
楚辭「進不入以離尤兮、退將復修乎初服、製芰荷以為衣兮、集芙蓉以/為裳」 王逸註「初服、初始潔清之服也。」 |
太𤣥真人傳「「茅盈仙去與家人及親戚辭歸句曲。二弟聞之棄官還家。漢元帝永光元年、渡江求兄於東山、遂與相見。兄曰卿已老矣、欲、難可補、縱得真訣、適可成地上主者耳」 |
水經註「太湖中、有大雷小雷三山、亦謂之三山湖、又謂、之洞庭湖。」 呉地記「揚州記曰、太湖、一名震澤、一名洞庭。」 |
拾遺記 「須彌山旁有瑶臺十二、各廣千歩、皆五色玉為臺基梁。」 武帝詩 「瑶臺、含碧霧羅幕生紫烟。」 |
列子「渤海之東中有/五山其根無所連著常隨潮波上下徃還」 詳見四巻註 仙嶠、浮空、葢用其事。 |
淮南子 「崑崙中有珠樹、玉樹、璇樹、不死樹、在其西。」 論衡 「海外、西南有珠樹焉。」 神仙傳 「蘇仙公、得道、數歲之後、昇雲而去。後、有白鶴、來止郡城東北/樓上。或挾彈彈之。鶴、以爪攫樓板、似漆書曰、『城郭是、人民非、三百甲子一來歸、我是/蘇公、彈我何為。』 |
李太白集分類補註
送賀監歸四明應制 |
久辭榮禄遂初衣曾向長生説息機真訣自從茅氏得 |
恩波應阻洞庭歸瑶臺含霧星辰滿仙嶠浮空島嶼微 |
借問欲棲珠樹鶴何年却向帝城飛 |
齊賢曰賀知章遷/秘書監天寶中疾夢游帝居乃請為道士還鄉里詔許之齊賢曰賀知章遷 |
『送賀監歸四明應制』現代語訳と訳註解説
(本文)
送賀監歸四明應制
久辭榮祿遂初衣,曾向長生說息機。
真訣自從茅氏得,恩波寧阻洞庭歸?
瑤臺含霧星辰滿,仙嶠浮空島嶼微。
借問欲棲珠樹鶴,何年卻向帝城飛?
(下し文)
(賀監の 四明に歸るを送る 應制)
久しくをして 初衣を遂げ、曾て 長生に向って 息機を說く。
真訣、みずから茅氏より得。恩波、 寧ろ洞庭に阻えぎられるも歸えるべし。
瑤台 霧を含んで 星辰滿ち、仙嶠、空に浮んで 島嶼 微かなり。
借問す、珠樹に棲んと欲する鶴、何れの年にか 卻って帝城に向って飛ばん。
(現代語訳)
(秘書監であった賀知章が故郷の浙江の四明山のふもとで隠棲されるため帰郷されるのを送る詩を天命に応じて作る。)
賀老はこれまで久しく恩栄ある俸禄を受けていたのを辞して、朝衣を脱いで、隠棲し、初始潔清の服をつけようとねがうこと、すでに久しく、またかつて、長生の仙術を心に寄せ、これによって浮世の塵機を断つことができるといっておられた。
今回、愈々官を辞して、故郷である会稽の四明に変えるという事であるから、やがて、長生の仙術の秘訣を茅盈から伝授さることであろうし、天子の恩沢は、波の揚々と寄せるがごとく、賀老は洞庭湖を隔てられた故郷に容易に変えられることでありましょう。
美しい仙人の住まいである十二の瑤臺は、かすみを漂わせ、大空の星々は滿天に照り輝き、海上の仙山は、空に浮かぶが如く、島嶼の影をを微かにしている。
賀老も仙術を学んだうえは、このような場所で過ごされるとなれば、崑崙にあるという珠樹に留まっている鶴がまた帝城に帰ってくることが疑問に思うところであるのだけれど、天子の殊遇を受けられた賀老に限っては、何年かしたら、天子のおられる長安城に飛ぶようにしてかえってこられたらよかろうと存ずる。
(訳注)
送賀監歸四明應制(賀監 四明に歸るを送る 應制)
(秘書監であった賀知章が故郷の浙江の四明山のふもとで隠棲されるため帰郷されるのを送る詩を天命に応じて作る。)
1. この詩に関する、いきさつ、概要について、原文。
冊府元龜、賀知章為秘書監、授銀青光禄大夫。天寳三載、因老疾、恍惚不醒、若神游洞天三清上、數日方覺、遂有志入道、乃上疏、請、度為道士歸、捨本鄉宅為觀。𤣥宗許之、仍拜其子典設郎、曽為㑹稽郡司馬使侍飬、御製詩、以贈行皇太子以下、咸就執别、
御製詩并序云。
天寳三年、太子賔客賀知章、鍳止足之分、抗歸老之疏、解組辭榮、志期入道、
朕以其夙有微尚、年在遲暮、用循挂冠之事、俾遂赤松之遊、五月五日將歸㑹稽。
遂餞東路、乃命六卿庻尹大夫、供帳青門、崇行邁也、豈惟崇德尚齒、抑亦勵俗勸人、
無令二疏獨光漢冊、
乃賦詩贈行云、
遺榮期入道、辭老竟抽簪、豈不惜賢達、其如髙尚心、環中/得秘要、方外㪚幽襟、
獨有青門餞、羣英悵别深。
又云
筵開百壺餞、詔許二疏歸、仙記題金籙、朝章換/羽衣、悄然承睿藻、行路滿光輝。
按詩紀載、知章之歸越也、詔令供帳束門外、百僚、祖餞於長樂坡。
自李適以下、作詩送之、今詩存者三十七首、太白其一也。
2. 賀監 秘書外警号していた賀知章のこと。詩人賀知章、あざなは季真、会稽の永興(いまの浙江省蔚山県西)の人である。気の大きい明るい人で話がうまかった。かれを盲見ないと心が貧しくなるという人もいた。官吏の試験に合棉して、玄宗の時には太子の賓客という役になった。また秘書監の役にもなった。しかし晩年には苦く羽目をはずし、色町に遊び、自分から四明狂客、または租書外監と号した。李白が初めて長安に来たとき、かれを玄宗に推薦したのは、この人であったと伝えられる。天宝二年、老齢のゆえに役人をやめ、郷里にかえって道士になった。
3. 應制 天子の命令によって即興でつくるものとされている。
4. 四明 四明山1017m。浙江にある山の名。杭州市、蕭山市の東南100kmの所にある。近くに会稽山がある。「賀監」「賀公」どれも、賀知章のこと。
賀知章の詩 (1) 回鄕偶書二首
乆辭榮祿遂初衣、曽向長生説息機。
賀老はこれまで久しく恩栄ある俸禄を受けていたのを辞して、朝衣を脱いで、隠棲し、初始潔清の服をつけようとねがうこと、すでに久しく、またかつて、長生の仙術を心に寄せ、これによって浮世の塵機を断つことができるといっておられた。
5. 久辭 長く命を受けて努めた職をやっと辞する。
6. 榮祿 恩と栄誉をもって俸禄を受ける
7. 初衣 楚辭に「進不入以離尤兮、退將復修乎初服、製芰荷以為衣兮、集芙蓉以/為裳」とあり、王逸註に「初服、初始潔清之服也。」とある。すなわち、朝衣を脱いで、誰の援助、影響も受けない「初始潔清の服」を着ることを言う。
8. 息機 しごとをやめる
9. 說 よろこぶ。自分の説を話す。
真訣自從茅氏得、恩波寧阻洞庭歸。
今回、愈々官を辞して、故郷である会稽の四明に変えるという事であるから、やがて、長生の仙術の秘訣を茅盈から伝授さることであろうし、天子の恩沢は、波の揚々と寄せるがごとく、賀老は洞庭湖を隔てられた故郷に容易に変えられることでありましょう。
10 真訣 真の別れ 太𤣥真人傳に「「茅盈、仙去與、家人及親戚辭、歸句曲。二弟、聞之棄官還家。漢元帝、永光元年、渡江、求兄於東山、遂與相見。兄曰、卿已老矣、欲、難可補、縱得真訣、適可成地上主者耳。」とある。
11 茅氏 茅盈という諸侯名。
12 恩波 波のように降り注ぐ御恩のめぐみ。
13 寧阻 むしろ~をさえぎる
14 洞庭 洞庭に歸る。水經註に「太湖中、有大雷小雷三山、亦謂之三山湖、又謂、之洞庭湖。」とあり、呉地記には「揚州記曰、太湖、一名震澤、一名洞庭。」とある。
瑤臺含霧星辰滿、 仙嶠浮空島嶼微。
美しい仙人の住まいである十二の瑤臺は、かすみを漂わせ、大空の星々は滿天に照り輝き、海上の仙山は、空に浮かぶが如く、島嶼の影をを微かにしている。
15 瑤台 五色の玉で作った高台。美しい仙人の住まい。拾遺記に 「須彌山旁有瑶臺十二、各廣千歩、皆五色玉為臺基梁。」とあり、漢の武帝の詩に 「瑶臺、含碧霧羅幕生紫烟。」とある。
李白も「清平調詞其一」、「古朗月行」にみえる。
743年(45)李白363 巻四31-《清平調詞,三首之二》(一枝穠豔露凝香,) 363Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(45) <李白363> Ⅰ李白詩1704 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7068
16 星辰滿 星も辰も、ほし。
17 仙嶠 仙人のいるところへ向かう嶮しい道。 列子「渤海之東中有/五山其根無所連著常隨潮波上下徃還」 詳しくは、四巻註にみえる。仙嶠、浮空、葢用其事。
18 浮空 ・島嶼微 島、嶼もしまをかくす。
借問欲棲珠樹鶴、何年卻向帝城飛。
賀老も仙術を学んだうえは、このような場所で過ごされるとなれば、崑崙にあるという珠樹に留まっている鶴がまた帝城に帰ってくることが疑問に思うところであるのだけれど、天子の殊遇を受けられた賀老に限っては、何年かしたら、天子のおられる長安城に飛ぶようにしてかえってこられたらよかろうと存ずる。
19 借問 ちょっとうかがう。 わかりきったことをことさら尋ねることを言う。ここでは、~を疑問に感じているというほどの意。
20 珠樹鶴 仙境にあるという樹に留まっている鶴 。淮南子に 「崑崙中有珠樹、玉樹、璇樹、不死樹、在其西。」とあり、 論衡に 「海外、西南有珠樹焉。」とみえる。次に、神仙傳に 「蘇仙公、得道、數歲之後、昇雲而去。後、有白鶴、來止郡城東北/樓上。或挾彈彈之。鶴、以爪攫樓板、似漆書曰、『城郭是、人民非、三百甲子一來歸、我是/蘇公、彈我何為。』とある。
21 卻向 うえをあおぎみてむかう。