744-002176_12    送賀賓客歸越(卷十七(二)一○一○)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7570

送賀賓客歸越(太子から賓客という扱いを受けておられた賀老が郷里の越に換えられるのを送る。)天子から賜った静かな鏡湖の水は、澄みきって、清波を漾わせている。今、君はその地に帰休されるというので、船に乗って、湖水を渡ってゆかれるのであり、そこは逸興定めて多きことであろう。かくて、いよいよ浙江の四明に帰着されたのちに、王羲之のような山陰道士に遭われたならば、美しい草書を書かれる賀老としては、いにしえの王逸少を学び、黃庭の一經を写して、道士の白鵞鳥に換えることでありましょう。

 

 

744-002

送賀賓客歸越(卷十七(二)一

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7571

李白詩詳注巻18-41

全唐詩卷176_12

767年大暦256  (2)

 

 

               
  2016年11月2日 の紀頌之5つの校注Blog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注  
  Ⅰ李白詩(李白詩校注) ·         744年-002卷176_12 送賀賓客歸越(卷十七(二)一○一○)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7570  
 LiveDoorBlog  
  孟浩然 李白詩 謝霊運 司馬相如 《子虛賦 ・上林賦》 揚雄 《甘泉賦》  諸葛亮 出師表  
  曹植詩65首 兩都賦序・西都賦・東都賦 李白全詩 漁父辞(屈原 楚辞・九歌》東君 《楚辞九辯》  
        総合案内      
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 806年-2 巻一 14-1-#2秋懷詩,十一首之一Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7572  
  LiveDoorBlog  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41首 index-2[800年~804年]27首 index-3 805年陽山から江陵36首 index-4 806年 39歳 江陵・国子博士25首  
  index-5 806年39歳(2)25首 index-6 807~809年 20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳57首 index-10[817年~818年 51歳]「平淮西碑」28首  
  index-11 819年『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 國子祭酒18首 index-13 821年~822年 22首 index-14 57歳・病気のため退職。没す14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 孟郊  
               
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ 杜詩詳注   LiveDoorBlog 757年-002  江梅  杜詩詳注 卷一八(四)一五九八 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7532  
  杜甫詩(1)736~751年  53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首 杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)757年、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53首 杜甫詩(6)759年 三吏三別 44首  
  杜甫詩(7)759年秦州詩 66首 杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36首 杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45首 杜甫詩(10)761年、50歳 成都82首 杜甫詩(11)762年蜀中転々43首 杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49首  
               
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。  
  Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog 1.花間集 全500首 訳注解説(2漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7574 (11/02)  
               
  ●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始  
  Ⅴ.唐五代詞詩・玉臺新詠・女性 LiveDoorBlog ·         玉-001-#2 玉臺新詠集序⑵§1-2〈徐陵〉Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7575  
  ●薛濤の全詩 ●花間集(1巻 ●花間集(2巻 ●花間集(3巻 ●花間集(4巻 ●花間集(5巻  
  ●魚玄機全詩 ●花間集(6巻 ●花間集(7巻 ●花間集(8巻 ●花間集(9巻 ●花間集10巻  
   ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門) 漢詩総合サイト 07ch  
  杜甫全詩案内 韓愈全詩案内 李白全集 文選 古詩源 花間集案内  
      kanbunkenkyuu      

 

Index-23

Ⅱ― 19-744年 天寶三年44

 

744-001

送賀監歸四明應制(卷十七(二)一○○四)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

久辭榮祿遂初衣

744-002

送賀賓客歸越(卷十七(二)一○一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

鏡湖流水漾清波

744-003

還山留別金門知己(卷十五(一)九一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

好古笑流俗,素

744-004

春陪商州裴使君遊石娥溪(卷二十(二)一一七○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

裴公有仙標,拔

744-005

秋獵孟諸夜歸置酒單父東樓觀妓(卷二十(二)一一五三)(從郁賢皓《謫仙詩豪

傾暉速短炬,走

744-006

月下獨酌四首    其一(卷二三(二)頁一三三一)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

花間一壺酒,獨

744-007

月下獨酌四首    其二(卷二三(二)頁一三三二)

天若不愛酒,酒

744-008

月下獨酌四首    其三(卷二三(二)頁一三三三)

三月咸陽城,千

744-009

月下獨酌四首    其四(卷二三(二)頁一三三三)

窮愁千萬端,美

744-010

于闐採花(卷四(一)二九三)

于闐採花人,自

 

 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩

176_12

文體:

七言

李白詩詳注

17-12

李太白集 巻16-12

詩題:

送賀賓客歸越(卷十七(二)一○一○)

序文

 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) 

及地點:

鑑湖 (江南東道 越州 會稽) 別名:鏡

 

山陰 (江南東道 越州 山陰)     

 

 

 

 

 

 

 

交遊人物:

賀知章

當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

 

 

 

送賀賓客歸越

(太子から賓客という扱いを受けておられた賀老が郷里の越に換えられるのを送る。)

鏡湖流水漾清波,狂客歸舟逸興多。

天子から賜った静かな鏡湖の水は、澄みきって、清波を漾わせている。今、君はその地に帰休されるというので、船に乗って、湖水を渡ってゆかれるのであり、そこは逸興定めて多きことであろう。

山陰道士如相見,應寫黃庭換白鵝。

かくて、いよいよ浙江の四明に帰着されたのちに、王羲之のような山陰道士に遭われたならば、美しい草書を書かれる賀老としては、いにしえの王逸少を学び、黃庭の一經を写して、道士の白鵞鳥に換えることでありましょう。

 

(賀賓客の越に帰るを送る)
鏡湖の流水、清波を漾【ただよ】わし 、狂客の帰舟、逸興多し 。
山陰の道士 もし相(あい)見なば 、応に黄庭を写して白鵝【はくが】に換うべし。

 

 

 

  送賀客歸越

 舊唐書 「天寳三年十二月乙酉、太子客賀知章、請度為道士還。」

  「三載正月庚子、遣左右相以下、祖賀知章於長/樂坡、賦詩贈之。」  法書要録 「賀知章、字維摩、永興人、太子洗馬德仁之孫。少以文辭知名、工草𨽻/書。 進士及第、歴官禮部侍郎、集賢學士、太子右庶子兼皇子侍讀、檢校工部侍郎、集賢學士、太子客慶王侍讀。」  知章、性放善謔、晚年、尤縱 無復規檢。

  年八十六、自號四明狂客。 毎興酣、命筆、好書大字、/或三百言、或五百言、詩筆惟命。 問有幾紙、報十紙、紙盡、語亦盡。 二十紙、三十紙、紙盡、語亦盡。忽有好/處、與造化相爭、非人工所可到也。

    天寶二年、以年老上表、請入道歸里。 特詔、許之、重令入閣、儲皇以下、拜辭、上、親製詩序、令所司供帳、百僚餞送、賜詩叙知章表謝手詔荅曰  

  「卿儒才舊業、德著老/成、方欲乞言以光東序、而乃髙蹈世表、歸心妙門雖雅意難違、良深耿嘆、眷言離祖、是用贈詩、宜保/松喬慎行李也、兒子輩、常所執經、故令親師之義、何以謝為、

  仍 拜其子典、設郎曽子為朝/夫本郡司馬、以伸侍。」

  通典  「皇太子客四人、掌調侍從規諌。 凡太子、有客之事、則為上/齒、葢取象於四皓焉、資位閒重、其流不雜。」

  

鏡湖流水漾清一作/春始波狂客歸舟逸興多山陰道士如

相見應寫黄庭換白鵞

 

白鵞 通典越州稽縣有鏡湖野客/叢書西清詩話曰太白詩山陰

道士如相見應寫黄庭換白鵝按晉書右軍寫道德經/換道士鵝非黄庭也僕觀陶穀跋黄庭經曰山陰道士

劉君以鵝羣獻右軍乞書黄庭經此是也穀亦謂黄庭/得非承太白之誤乎黄魯直詩為君寫就黄庭了不博

山陰道士鵝梅聖詩道士難換黄庭經又曰黄庭換/白鵝皆承此謬或謂晋史但言道士鵝羣不知穀何以

知其為道士劉君也僕考晉帖獻之有劉道士鵝羣亦/復歸也無乃據此乎米元章書史黄素黄庭經一巻是

六朝人書陶榖跋云山陰道士劉君以鵝羣獻右軍乞/書黄庭經此卽是也晉史載為寫道德經當舉羣相贈

因李白詩送賀監云山隂道士如相見應寫黄庭換白/鵝世人遂以黄庭經為換鵝經甚可笑也黄伯思東觀

餘論世傳黄庭真帖為逸少書僕嘗考之非也按陶隠/居真誥翼真檢論上清真經始末云晋哀帝興

南岳魏夫人所授弟子司徒公府長史楊君使作𨽻/寫出以傳軍長史許君及子上計掾掾以付子黄

民以傳孔黙後為王興先竊寫之始濟浙江遇風淪漂/惟黄庭一篇得存葢此經也僕按逸少以晉穆帝昇平

五年卒是年在辛酉後二年在甲子卽哀帝興/二年始黄庭於世安得逸少預書之又按梁虞龢

書表云山陰曇鑲(石+襄)村鵝道士謂羲之曰欲寫河上/公老子縑素早辦而無人能書府君若能自屈書道德

經兩章便合羣以奉於是羲之便停半日為寫畢攜鵝/去晉書本傳亦著道士云爲寫道德經當舉羣相贈耳

初未嘗言寫黄庭也以二書考之則黄庭非逸少書無/疑然陶隠居與梁武帝云逸少有名之蹟不過數

黄庭勸進告誓等不審猶有存否葢此在著真誥前/故未之考證耳至唐張懐瓘作書估云樂毅黄庭但得

篇卽為國寳遂誤以為逸少書李太白承之作詩山/陰道士如相見應寫黄庭換白鵝欲随之耳初未

考之而韓退之第云數紙尚可慱白鵝而不云黄庭豈/非覺其謬歟王氏法書苑伯思之論似若詳悉以予考

之其説非也葢書黄庭經換鵝與書道德經換鵝自是/兩事伯思謂黄庭之傳在右軍死後此最失於詳審也

道家有黄庭内景經黄庭外景經及黄庭遁甲緣身經/黄庭玉軸經世俗例稱為黄庭經内景經乃大道玉晨

君所作扶桑大帝君命暘谷神王傳魏夫人凡三十六/章卽真誥所言者外景經三篇乃老君所作卽右軍所

書者與魏夫人所傳初不同于家舊藏右軍所書外景/經石刻一巻凡六十行末云永和十三年五月二十五

日在山陰縣寫與小歐陽集古録目校之與文忠所藏/本同則右軍之寫黄庭甚曉然緣諸公考之未詳故未

免紛紜如此伯思謂與梁武在著真誥之前此又曲/為之辯也子又嘗於道藏中得務成子註外景經一巻

有序云晉有道士好黄庭之術意專書寫常求序人聞/王右軍精於草𨽻而復愛白鵝遂以數頭贈之得其妙

翰右軍逸興自縱未免脱漏但美其書耳張君房所進/雲笈七籖亦載此序此最為的據也葢道德經是偶悦

道士之鵝因為之寫若黄庭是道士聞其善書且喜鵝/故以是為贈以求其書此是兩事頗分明緣俱以寫經

得鵝遂使後人指為一事而妄起異論唯李太白知其/為二事故其書右軍一篇云右軍本清真瀟洒出風塵

山陰過羽客要此好鵝掃素寫道經筆精妙入神書/罷籠鵝去何曽主人此言書道德經得鵝也送賀賓

客歸越一篇云山隂道士如相見應寫黄庭換白鵝此/言書黄庭經得鵝也太白於兩詩亦各言之都未嘗誤

乃後人自誤也又程文簡演繁露云王羲之本傳以書/鵝者道德經也文士用作黄庭人皆以爲誤張彦

法書要録載遂良右軍書目正書第二巻有黄庭經/六十行與山陰道士其時真蹟故在可以見其為黄

庭無疑又武平一徐氏法書記親在禁中見武后曝太/宗時法書六十餘函所記憶者扇書樂毅告誓黄庭又

徐浩古蹟記𤣥宗時大王正書三巻以黄庭為第一不/聞道德經則傳之所云却誤程云晉書傳誤者葢未詳

太白之詩故不知為二事也𤦺按白氏六帖右軍王羲/之嘗見山隂道士有羣鵝求之乃邀右軍書黄庭經以

遂書之太平御覧何法盛晉中興書曰山隂有道士/羣鵝羲之意甚悦道士云爲寫黄庭經當舉以相贈

乃為寫訖籠鵝而去仙傳拾遺山陰道士管霄霞籠紅/鵝一雙遺羲之請書黄庭經太白所用似非誤記卽謂

仙傳拾遺或出於偽撰白氏六帖所引又不著本自何/書自當以晉書所載為信然太平御覧所引何法盛晉

中興書則又晉史之先鞭也豈亦不足信乎夫一經也/或以為黄庭或以為道德一道士也或以為劉或以為

管一鵝也或以為舉羣或以為一雙葢所謂傳聞異辭/之故遐考一事兩傳者載籍固多有也乃取其一説而

以訾其餘或以為太白之誤或以為晉書之誤或以為/右軍換鵝本有二事或以為右軍初未嘗書黄庭經皆

失之執矣又洪容齋四筆謂太白眼高四海衝口成章/必不規規然簡閲晉史看逸少傳然後落筆正使誤以

道徳為黄庭於理正自無害夫詩之美劣原不關乎用/事之誤與否然白璧微瑕不能不受後人之指摘若太

白此詩則固未嘗有瑕者也故歴引昔人/之論而辨晰之且以見考古者之不易也

 

送賀賓客歸越現代語訳と訳註解説
(
本文)

送賀賓客歸越

鏡湖流水漾清波,狂客歸舟逸興多。

山陰道士如相見,應寫黃庭換白鵝。

 

(下し文)
賀賓客の越に歸るを送る

鏡湖の流水、清波を漾【ただよ】わし 、狂客の帰舟、逸興多し 。

山陰の道士 もし相(あい)見なば 、応に黄庭を写して白鵝【はくが】に換うべし。


(現代語訳)

(太子から賓客という扱いを受けておられた賀老が郷里の越に換えられるのを送る。)

天子から賜った静かな鏡湖の水は、澄みきって、清波を漾わせている。今、君はその地に帰休されるというので、船に乗って、湖水を渡ってゆかれるのであり、そこは逸興定めて多きことであろう。

かくて、いよいよ浙江の四明に帰着されたのちに、王羲之のような山陰道士に遭われたならば、美しい草書を書かれる賀老としては、いにしえの王逸少を学び、黃庭の一經を写して、道士の白鵞鳥に換えることでありましょう。

 

(訳注) 

送賀賓客歸越

(太子から賓客という扱いを受けておられた賀老が郷里の越に換えられるのを送る。)

1.賀監 賀老、賀知章、賀監で、《賀監歸四明》の一首とほぼ同時期の作である。前の一首は應制であるが、この一首は個人的に別に送ったものであろう。

22  舊唐書 「天寳三年十二月乙酉、太子客賀知章、請度為道士還。」

  「三載正月庚子、遣左右相以下、祖賀知章於長/樂坡、賦詩贈之。」  法書要録 「賀知章、字維摩、稽永興人、太子洗馬德仁之孫。少以文辭知名、工草𨽻/書。 進士及第、歴官禮部侍郎、集賢學士、太子右庶子兼皇子侍讀、檢校工部侍郎、集賢學士、太子客慶王侍讀。」  知章、性放善謔、晚年、尤縱 無復規檢。

  年八十六、自號四明狂客。 毎興酣、命筆、好書大字、/或三百言、或五百言、詩筆惟命。 問有幾紙、報十紙、紙盡、語亦盡。 二十紙、三十紙、紙盡、語亦盡。忽有好/處、與造化相爭、非人工所可到也。

    天寶二年、以年老上表、請入道歸里。 特詔、許之、重令入閣、儲皇以下、拜辭、上、親製詩序、令所司供帳、百僚餞送、賜詩叙知章表謝手詔荅曰  

  「卿儒才舊業、德著老/成、方欲乞言以光東序、而乃髙蹈世表、歸心妙門雖雅意難違、良深耿嘆、眷言離祖、是用贈詩、宜保/松喬慎行李也、兒子輩、常所執經、故令親尊師之義、何以謝為、

  仍 拜其子典、設郎曽子為朝/夫本郡司馬、以伸侍。」

  通典  「皇太子客四人、掌調侍從規諌。 凡太子、有客之事、則為上/齒、葢取象於四皓焉、資位閒重、其流不雜。」

23解説 前半は、四明に帰着するまでの旅趣興、後半は帰着してから後のことを言っている。

  •  

 

鏡湖流水漾清波,狂客歸舟逸興多。

天子から賜った静かな鏡湖の水は、澄みきって、清波を漾わせている。今、君はその地に帰休されるというので、船に乗って、湖水を渡ってゆかれるのであり、そこは逸興定めて多きことであろう。

24.鏡湖 通典 越州會稽縣の鏡湖である。 名前の由来は、《述異記》に軒轅氏がこの湖のほとりで鏡を鋳造したこと、研磨石もここにあったためであったとみえる。浙江省の会稽・山陰両県のさかいにある湖。李白が朝廷に上がって間もなく賀知章が官を辞して、玄宗皇帝から鏡湖を賜わった。長く宮仕えをしたご褒美である。鏡湖:浙江省紹興県の南。鑑湖、長湖、太湖、慶湖ともいう。開元中に秘書監賀知章に鏡湖溪一曲を賜う。賀監湖。宋代に田地となる。

 安徽省の撫湖市には有名な鏡湖があるが、別のもの。《述異記》「饒州舊傳,軒轅氏鑄鏡於湖邊,因得名。今有軒轅磨鏡石。」【釋名】鏡,景也。言有光景也。【前漢·韓安國傳】淸水明鏡,不可以形逃。 又明也。【前漢·衞傳】深經義,明鏡聖法。 又石鏡,山名。【潯陽記】石鏡山之東,一圓石縣厓,明淨照人見形。 又石名。

李白 子夜歌【子夜四時歌】四首:夏歌

鏡湖三百里,菡萏發荷花。五月西施採,人看隘若耶。回舟不待月,歸去越王家。

(子夜歌【子夜 四時の歌】四首:夏の歌)

鏡湖 三百里,菡萏 荷花を發く。五月 西施も採る,人は看る 若耶 隘しと。

舟を回して 月を待たず,歸り去る 越王の家。

李太白集  302《太白巻五 28李白23 子夜呉歌 其二 夏》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7091 (12/19)

25.水漾 陝西省漢水の上流の嶓冢山から流れ出る川の名であるが、澄み切って綺麗な流れということで、きれいなものの比較対象として使われる。きれいな心の持ち主の賀知章が長安のひと山越えて、漢水のきれいな水に乗って鏡湖に帰ってきたいうこと。○この句「鏡湖流水漾清波」は、次の句の帰舟にかかっている。  

26.狂客帰舟逸興多 ・賀知章:659年~744年(天寶三年)盛唐の詩人。越州永興(現・浙江省蕭山県)の人。字は季真。則天武后の代に進士に及第して、国子監、秘書監などになった。・狂客:奇抜な振る舞いをする文人。また、軽はずみな人。常軌を逸した人。狂草で有名な張旭と交わり、草書も得意としていた。酒を好み、酒席で感興の趣くままに詩文を作り、紙のあるに任せて大書したことから、杜甫の詩『飲中八仙歌』では八仙の筆頭に挙げられている賀知章の自号は「四明狂客」で、ここでは彼を指す。 

・賀季真:賀知章を字で呼ぶ。親しい友人からの呼びかけになる。気の大きい明るい人で話がうまかった。かれを見ないと心が貧しくなるという人もいた。則天武后の時、官吏の試験に合格して、玄宗の時には太子の賓客という役になった。また秘書監の役にもなった。しかし、晩年には苦く羽目をはずし、色町に遊び、自分から四明狂客、または租書外監と号した。これは、李林甫と宦官たちの悪政に対し、数少ない抗議をする役割を借ってもいたのだ。竹林の七賢人の役割を意識してのものであった。政治的な抵抗は、「死」を意味する時代であった。李白が初めて長安に来たとき、かれを玄宗に推薦したのは、この人であったと伝えられる。天宝二年、老齢のゆえに役人をやめ、郷里にかえって道士になった。

 

 

山陰道士如相見,應寫黃庭換白鵝。

かくて、いよいよ浙江の四明に帰着されたのちに、王羲之のような山陰道士に遭われたならば、美しい草書を書かれる賀老としては、いにしえの王逸少を学び、黃庭の一經を写して、道士の白鵞鳥に換えることでありましょう。

27.山陰道士・應寫黃庭換白鵝 王羲之が書写した道徳経と鵞鳥を交換した、いわゆる換鵞の故事。『晋書』「王羲之性鵞を愛す。山陰に一道士有り。好き鵞を養ふ。羲之往きて焉を観て、意甚だ悦び、因って之を市はんことを求む。道士云う、為に道徳経を写せ、当に群れを挙げて相贈るべきのみと。羲之欣然として写し畢り、鵞を籠めて帰り、甚だ以て楽しみと為せり」。

・山陰 浙江省紹興市、会稽山あたりのこと。・道士 道教の本山が近くにあって、賀知章も道士であった。道教の熱心な地域である。○黄庭 王羲之の書の中では『蘭亭序』・『楽毅論』・『十七帖』・『集王聖教序』が特に有名である。他に『黄庭經』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』などが見られるが、そのうちの『黄庭経』を書いてもらうためにこの地の道士たちが、王羲之が大変好きであった、白鵝(あひる)をたくさん送って書いてもらったことに基づく。賀知章も草書が上手だったので、「黄庭経」を書いて白鵝を貰うといいよ。 賀知章を王羲之に見立てて面白いことが起こるという。李白は、「黄庭經」とするが、一般的には「道徳經」だという。

晋の書家。王羲之(最高峰の書家)は当時から非常に有名だったので、その書はなかなか手に入れるのが困難であった。山陰(いまの浙江省紹興県)にいた一人の道士は、王羲之が白い鵞鳥を好んで飼うことを知り、一群の鵞をおくって「黄庭經」を書かせた。その故事をふまえで、この詩では山陰の故郷に帰る賀知章を、王義之になぞらえている。

             

 天宝二年(743)の十二月、賀知章は八十六歳の高齢でもあり、病気がちでもあったので、道士になって郷里に帰ることを願い出て許された。翌天宝三載(この年から年を載というように改められた)の正月五日に、左右相以下の卿大夫(けいたいふ)が長楽坡で賀知章を送別し、李白も詩を贈っている。
 賀知章がこんなに早くなくなるとはだれも思っていなかった。故郷に帰ってすぐなくなったのである。


王羲之の有名な逸話 王羲之は幼い頃から鵞鳥が大好きであった。ある日のこと、一軒の家の前を通ると、鵞鳥の鳴き声が聞こえてきたので、譲って欲しいと頼んだところ、一人の老婆が出て来てこれを断った。翌日、鳴き声だけでも聞かせてもらおうと、友人の一人を伴って、老婆の家に赴いた。この姿を家の窓から見つけた老婆は、すぐさま鵞鳥を焼いて食ってしまった。そして、老婆は彼に「鵞鳥は今食ってしまったところだよ」と答え、羲之は大変がっかりし、一日中溜め息をついていた。それから数日後、鵞鳥をたくさん飼っている所を教えてくれる人がおり、その人に山の向こうの道観に案内され、道士に「一羽でもいいから譲って欲しい」と頼んだところ、道士はこの人が王羲之と知って、「老子の道徳経を書いて下さるなら、これらの鵞鳥を何羽でもあなたに差し上げます」と申した。彼は鵞鳥欲しさに張りきって道徳経一巻を書きあげ、それを持参して行って鵞鳥を貰い、ずっと可愛がったという。

王羲之は興に乗ると手近な物に字を書いてしまう習性があった。ある日のこと、酒屋で酒を買って帰る時に、店の主人が酒代を請求すると、羲之は酒代の代わりに壁に文字を書いたという。主人がその文字を見ると「金」という文字であった。主人がその文字を薄く削って売ったところ、莫大な値になり、その主人はおかげで裕福になったという。

またある日のこと、嘗て門人の家に行き、机の表面が非常に滑らかなのを見てそれに字を書いたのだが、門人の父親がこの落書きを見つけて削ってしまい、後でこれに気付いた門人は、何日もふさぎ込んでいたという。

またある日のこと、羲之が町の中を歩いていると、一人の老婆が扇を売っており、彼は売っている扇の何本かに五文字ずつ字を書いたところ、老婆は「どうしてくれる」と色をなして詰った。すると彼は「『これは王羲之という人が書いたものです』と言って売れば、少し高くいっても、きっと買ってくれます」と言ってその場を立ち去っていった。数日後、同じ場所を通ると、先日の老婆が彼を見つけて、「今日はこの扇に全部書いてください」と頼んだのだが、彼はただ微笑んだだけで、そのまま立ち去っていったという。



 この山陰地方で語るべきは、謝朓と王羲之である。謝朓は別に取り上げているので王羲之について概略を述べる。
王羲之(303 - 361年)は書道史上、最も優れた書家で書聖と称される。末子の王献之と併せて二王(羲之が大王、献之が小王)あるいは羲献と称され、また顔真卿と共に中国書道界の二大宗師とも謳われた。
「書道の最高峰」とも言われ、近代書道の体系を作り上げ、書道を一つの独立した芸術としての地位を確保し、後世の書道家達に大きな影響を与えた。その書の中では『蘭亭序』・『楽毅論』・『十七帖』・『集王聖教序』が特に有名で、他に『黄庭経』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』などがある。
 王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の家に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の王導や王敦らから一族期待の若者として将来を嘱望され、東晋の有力者である郗鑒の目にとまりその女婿となり、またもう一人の有力者であった征西将軍・庾亮からは、彼の幕僚に請われて就任し、その人格と識見を称えられた。その後、護軍将軍に就任するも、しばらくして地方転出を請い、右軍将軍・会稽内史(会稽郡の長官、現在の浙江省紹興市付近)となった。
会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に詩、酒、音楽にふける清談の風に染まっていき、ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名士たちとの交遊を楽しんだ。一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、この地方の頼りになる人材となった。
354
年、かねてより羲之と不仲であった王述(琅邪王氏とは別系統の太原王氏の出身)が会稽内史を管轄する揚州刺史となり、王羲之は王述の下になることを恥じ、翌355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、道教の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごしたという。

 

 

 

 

送賀監歸四明應制(賀監 四明に歸るを送る 應制)の(訳注)

 

(秘書監であった賀知章が故郷の浙江の四明山のふもとで隠棲されるため帰郷されるのを送る詩を天命に応じて作る。)

久辭榮祿遂初衣,曾向長生息機。

真訣自從茅氏得,恩波寧阻洞庭歸?

瑤臺含霧星辰滿,仙嶠浮空島嶼微。

借問欲棲珠樹鶴,何年卻向帝城飛?

(賀監の 四明に歸るを送る 應制)

久しくをして 初衣を遂げ、曾て 長生に向って 息機をく。

真訣、みずから茅氏より得。 恩波、 寧ろ洞庭に阻えぎられるも歸えるべし。

瑤台 霧を含んで 星辰滿ち、 仙嶠、空に浮んで 島嶼 微かなり。

借問す、珠樹に棲んと欲する鶴、何れの年にか 卻って帝城に向って飛ばん。

 

1. この詩に関する、いきさつ、概要について、原文。

 冊府元龜、賀知章為秘書監、授銀青光禄大夫。天寳三載、因老疾、恍惚不醒、若神游洞天三清上、數日方覺、遂有志入道、乃上疏、請、度為道士歸、捨本宅為觀。𤣥宗許之、仍拜其子典設郎、曽為稽郡司馬使侍御製詩、以贈行皇太子以下、咸就執

御製詩并序云。

天寳三年、太子客賀知章、鍳止足之分、抗歸老之疏、解組辭榮、志期入道、

朕以其夙有微尚、年在遲暮、用循挂冠之事、俾遂赤松之遊、五月五日將歸稽。

遂餞東路、乃命六卿尹大夫、供帳青門、崇行邁也、豈惟崇德尚齒、抑亦勵俗勸人、

無令二疏獨光漢冊、

乃賦詩贈行云、

遺榮期入道、辭老竟抽簪、豈不惜賢達、其如髙尚心、環中/得秘要、方外幽襟、

獨有青門餞、羣英悵深。

又云

筵開百壺餞、詔許二疏歸、仙記題金籙、朝章換/羽衣、悄然承睿藻、行路滿光輝。

按詩紀載、知章之歸越也、詔令供帳束門外、百僚、祖餞於長樂坡。

自李適以下、作詩送之、今詩存者三十七首、太白其一也。

2. 賀監 秘書外警号していた賀知章のこと。詩人賀知章、あざなは季真、会稽の永興(いまの浙江省蔚山県西)の人である。気の大きい明るい人で話がうまかった。かれを盲見ないと心が貧しくなるという人もいた。官吏の試験に合棉して、玄宗の時には太子の賓客という役になった。また秘書監の役にもなった。しかし晩年には苦く羽目をはずし、色町に遊び、自分から四明狂客、または租書外監と号した。李白が初めて長安に来たとき、かれを玄宗に推薦したのは、この人であったと伝えられる。天宝二年、老齢のゆえに役人をやめ、郷里にかえって道士になった。 

3. 應制 天子の命令によって即興でつくるものとされている。  

4. 四明  四明山1017m。浙江にある山の名。杭州市、蕭山市の東南100kmの所にある。近くに会稽山がある。「賀監」「賀公」どれも、賀知章のこと。  

賀知章の詩  (1) 回鄕偶書二首

5. 久辭 長く命を受けて努めた職をやっと辞する。 

6. 榮祿 恩と栄誉をもって俸禄を受ける 

7. 初衣 楚辭に「進不入以離尤兮、退將復修乎初服、製芰荷以為衣兮、集芙蓉以/為裳」とあり、王逸註に「初服、初始潔清之服也。」とある。すなわち、朝衣を脱いで、誰の援助、影響も受けない「初始潔清の服」を着ることを言う。

8. 息機 しごとをやめる 

9.  よろこぶ。自分の説を話す。

10 真訣 真の別れ  太𤣥真人傳に「「茅盈、仙去與、家人及親戚辭、歸句曲。二弟、聞之棄官還家。漢元帝、永光元年、渡江、求兄於東山、遂與相見。兄曰、卿已老矣、欲、難可補、縱得真訣、適可成地上主者耳。」とある。

11 茅氏 茅盈という諸侯名。

12 恩波 波のように降り注ぐ御恩のめぐみ。 

13 寧阻 むしろ~をさえぎる 

14 洞庭 洞庭に歸る。水經註に「太湖中、有大雷小雷三山、亦謂之三山湖、又謂、之洞庭湖。」とあり、呉地記には「揚州記曰、太湖、一名震澤、一名洞庭。」とある。 

15 瑤台 五色の玉で作った高台。美しい仙人の住まい。拾遺記に 「須彌山旁有瑶臺十二、各廣千歩、皆五色玉為臺基梁。」とあり、漢の武帝の詩に 「瑶臺、含碧霧羅幕生紫烟。」とある。
李白も「清平調詞其一」、「古朗月行」にみえる。 

743年(45)李白363 巻四31-《清平調詞,三首之二》(一枝穠豔露凝香,) 363Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(45) <李白363> Ⅰ李白詩1704 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7068

16 星辰滿  星も辰も、ほし。

17 仙嶠 仙人のいるところへ向かう嶮しい道。 列子「渤海之東中有/五山其根無所連著常隨潮波上下徃還」 詳しくは、四巻註にみえる。仙嶠、浮空、葢用其事。

18 浮空 ・島嶼微  島、嶼もしまをかくす。

19 借問 ちょっとうかがう。 わかりきったことをことさら尋ねることを言う。ここでは、~を疑問に感じているというほどの意。

20 珠樹鶴  仙境にあるという樹に留まっている鶴 。淮南子に 「崑崙中有珠樹、玉樹、璇樹、不死樹、在其西。」とあり、 論衡に 「海外、西南有珠樹焉。」とみえる。次に、神仙傳に 「蘇仙公、得道、數之後、昇雲而去。後、有白鶴、來止郡城東北/樓上。或挾彈彈之。鶴、以爪攫樓板、似漆書曰、『城郭是、人民非、三百甲子一來歸、我是/蘇公、彈我何為。』とある。

21 卻向 うえをあおぎみてむかう。 

 

送賀賓客帰越 李白 賀知章の思い出
賀賓客の越に帰るを送る
鏡湖の流水、清波を漾【ただよ】わし 、狂客の帰舟、逸興多し 。
山陰の道士 もし相(あい)見なば 、応に黄庭を写して白鵝【はくが】に換うべし。