744-003164_39   還山留別金門知己(卷十五(一)九一○)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7575

 

還山留別金門知己(李白が山に還り、後に翰林院の知己を思い浮かべ、その時の思いを、述べたものである。)

わが性分は、古風を好み、滔滔たる流俗の軽薄なるものを笑い、早くより、古しえの賢達の人の風を聞いて、之を敬慕して居た。自分の志ざすところは、明主を輔佐して、大功を為し、やがて、長揖して歸臥するといふことであった。天子は、白日の高天に在るが如く、その廻転する光が、この微躯を照らし、特に恩眷の御沙汰があった。かくて、紫泥で皇帝が儀式をされた鳳凰の詔勅を授かり、一朝、雲蘿の中より起って都に上り、皇城の正門朱雀門はひらかれ登場することになった。清切の閒官を得て、天上の遥かなるに朝し、優游して、自在に宮禁に出入することになった。君王には、拝謁を賜わることができるようになり、特に御引立下さったから、聲價は、煙虹を凌いで、天にも届く位になった。の賦がつまらぬ業くれながら、御書を賜はって、特に清芬であると賞美せられたことから、名誉は無窮に播いたのである。それから長安に歸ってきてからは、王公輩と交際して、談笑したものである。しかし、天命、我に與みせず、まもなく、金馬門を去ることになり、この身は飛蓬のように、処定まらない、放浪の身となったのである。あれほど、皇帝も自分のところへ訪ねてくれていたのに、日日に疎くなって散じつくし、酌み交わした酒樽は、空に成ったままになっていった。そうであっても、我が才力には、これからもなお、たのむべく、世上の豪雄たるに愧じない積りである。だから、平常心を保つことに気を付けながら、齊の國の民謡である東武吟を歌って、わが腹のうちを歌ったのであるが、曲は既につきても、言いたい情は未だ終るものでなく、気は治まるものではないのである。今この詩を書して、知己に挨拶をおくろうとおもっているが、吾は、木の葉船に身を任せて、太公望のように釣り糸を垂らして、よい君主が迎えに来るのを待とうと思っておる。

 

744-003

還山留別金門知己(卷十五(一)九一

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7577

李白詩詳注巻15-08

全唐詩卷164_39(東武吟)

767年大暦256  (1)

 

               
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皇帝紀年: 天寶三年 

寫作時間: 744 

寫作年紀: 44 

卷別: 卷一六四 文體: 五言古詩 

詩題: 東武吟【出東門後書懷,留別翰林諸公】【還山留別金門知己】 

詩序: 

寫作地點: 目前尚無資料 

寫及地點: 新豐 (京畿道 京兆府 新豐)     

咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸     

交遊人物/地點: 

--------------------------------------------------------------------------------

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩

164_39(東武吟)

文體:

五言古詩

李白詩詳注

15-08

李太白集 巻14-08

詩題:

還山留別金門知己(卷十五(一)九一○)

 

出東門後書懷,留別翰林諸公

作地點:

目前尚無資料 

 

及地點:

新豐 (京畿道 京兆府 新豐)    

 

 

 

咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸       

 

 

 

 

 

 

 

交遊人物:

 

 

 

 

744年 天寶三年44

 

744-001

送賀監歸四明應制(卷十七(二)一○○四)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

久辭榮祿遂初衣

744-002

送賀賓客歸越(卷十七(二)一○一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

鏡湖流水漾清波

744-003

還山留別金門知己(卷十五(一)九一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

好古笑流俗

744-004

春陪商州裴使君遊石娥溪(卷二十(二)一一七○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

裴公有仙標

744-005

秋獵孟諸夜歸置酒單父東樓觀妓(卷二十(二)一一五三)(從郁賢皓《謫仙詩豪

傾暉速短炬

744-006

月下獨酌四首    其一(卷二三(二)頁一三三一)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

花間一壺酒

744-007

月下獨酌四首    其二(卷二三(二)頁一三三二)

天若不愛酒

744-008

月下獨酌四首    其三(卷二三(二)頁一三三三)

三月咸陽城

744-009

月下獨酌四首    其四(卷二三(二)頁一三三三)

窮愁千萬端

744-010

于闐採花(卷四(一)二九三)

于闐採花人

 

 

 

  還山留別金門知己

(李白が山に還り、後に翰林院の知己を思い浮かべ、その時の思いを、述べたものである。)

好古笑流俗,素聞賢達風。

わが性分は、古風を好み、滔滔たる流俗の軽薄なるものを笑い、早くより、古しえの賢達の人の風を聞いて、之を敬慕して居た。

方希佐明主,長揖辭成功。

自分の志ざすところは、明主を輔佐して、大功を為し、やがて、長揖して歸臥するといふことであった。

白日在青天,迴光矚微躬。

天子は、白日の高天に在るが如く、その廻転する光が、この微躯を照らし、特に恩眷の御沙汰があった。

恭承鳳凰詔,欻起雲蘿中。

かくて、紫泥で皇帝が儀式をされた鳳凰の詔勅を授かり、一朝、雲蘿の中より起って都に上り、皇城の正門朱雀門はひらかれ登場することになった。

清切紫霄迥,優游丹禁通。

清切の閒官を得て、天上の遥かなるに朝し、優游して、自在に宮禁に出入することになった。

君王賜顏色,聲價淩煙虹。

君王には、拝謁を賜わることができるようになり、特に御引立下さったから、聲價は、煙虹を凌いで、天にも届く位になった。

方學揚子雲,獻賦甘泉宮。

そこで、まさにやがて、自分は、古しえの揚子雲にならって、甘泉宮に入御されるにも持従し、そこで賦を献じたのである。

天書美片善,清芳播無窮。

その賦がつまらぬ業くれながら、御書を賜はって、特に清芬であると賞美せられたことから、名誉は無窮に播いたのである。

歸來入咸陽,談笑皆王公。

それから長安に歸ってきてからは、王公輩と交際して、談笑したものである。

一朝去金馬,飄落成飛蓬。

しかし、天命、我に與みせず、まもなく、金馬門を去ることになり、この身は飛蓬のように、処定まらない、放浪の身となったのである。

賓友日疏散,玉樽亦已空。

あれほど、皇帝も自分のところへ訪ねてくれていたのに、日日に疎くなって散じつくし、酌み交わした酒樽は、空に成ったままになっていった。

長才猶可倚,不慚世上雄。

そうであっても、我が才力には、これからもなお、たのむべく、世上の豪雄たるに愧じない積りである。

閑來東武吟,曲盡情未終。

だから、平常心を保つことに気を付けながら、齊の國の民謡である東武吟を歌って、わが腹のうちを歌ったのであるが、曲は既につきても、言いたい情は未だ終るものでなく、気は治まるものではないのである。

書此謝知己,扁舟尋釣翁。

今この詩を書して、知己に挨拶をおくろうとおもっているが、吾は、木の葉船に身を任せて、太公望のように釣り糸を垂らして、よい君主が迎えに来るのを待とうと思っておる。

 

 

 

 

  還山留別金門知己(卷十五(一)九一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

好古笑流俗,素聞賢達風。方希佐明主,長揖辭成功。

白日在青天,迴光矚微躬。恭承鳳凰詔,欻起雲蘿中。

清切紫霄迥,優游丹禁通。君王賜顏色,聲價淩煙虹。

方學揚子雲,獻賦甘泉宮。天書美片善,清芳播無窮。

歸來入咸陽,談笑皆王公。一朝去金馬,飄落成飛蓬。

賓友日疏散,玉樽亦已空。長才猶可倚,不慚世上雄。

閑來東武吟,曲盡情未終。書此謝知己,扁舟尋釣翁。

 

164_39 《東武吟》李白 (巻五(一)三九八)

好古笑流俗,素聞賢達風。方希佐明主,長揖辭成功。 

白日在高天,回光燭微躬。恭承鳳凰詔,欻起雲蘿中。 

清切紫霄迥,優遊丹禁通。君王賜顏色,聲價淩煙虹。 

  乘輿擁翠蓋,扈從金城東。寶馬麗景,錦衣入新豐。 

  依岩望松雪,對酒鳴絲桐。因學揚子雲,獻賦甘泉宮。 

  天書美片善,清芬播無窮。歸來入咸陽,談笑皆王公。 

  一朝去金馬,飄落成飛蓬。賓客日疏散,玉樽亦已空。 

  才力猶可倚,不慚世上雄。閑作東武吟,曲盡情未終。 

書此謝知己,吾尋黃綺翁。 

 

 

  還山留金門知己一本作出金門後書/懐留翰林諸

好古笑流俗素聞賢達風方希佐明主長揖辭成功白

日在青天迴光矚一作/躬恭承鳳凰詔歘起雲一作/

蘿中清切紫霄迥優丹禁通君王賜顔色聲價凌

虹乗輿擁翠葢扈從金城東寳馬驟絶景錦衣入新豐

倚巖望松雪對酒鳴絲桐方學揚子雲獻賦甘泉

書美片善清芳播無窮歸來入咸陽談笑皆王公一朝

去金馬飄落成飛蓬賓友一作/日疎散玉樽亦一作/

空長才猶可倚不慚世上雄閒來東武吟曲盡情未終

書此謝知己扁舟一作/滄波尋釣翁此篇即五巻之東武吟/也句字互有同異今仍

舊本兩存之註不/重出 矚音竹

 

 

 

   還山留金門知

好古笑流俗素聞賢達風方希佐明主長揖辭成功白

日在青天迴光矚微躬恭承凰詔歘起雲蘿中清

紫霄迴優游丹禁通君王賜顔色聲價凌煙虹齊賢曰/

已見前/巻註乘輿擁翠蓋扈從金城東寶馬驟絶景錦衣入

新豐倚巖望松雪對酒鳴絲桐方學揚子雲獻賦甘泉

天書美片善清芬播無窮歸來入咸陽談笑皆王

齊賢曰太白應制為樂章明皇嘗賜/之錦𫀆新豐及子雲獻賦並見前一朝去金馬飄落

成飛蓬賓友日疎散玉樽亦成空長才猶可倚不慚世

上雄閒來東武吟曲盡情未終盡此謝知巳扁舟尋釣

齊賢曰鮑照東武吟詩/東武太山下小山名

 

 

 

還山留別金門知己》現代語訳と訳註解説
(
本文)

 
還山留別金門知己(卷十五(一)九一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

好古笑流俗,素聞賢達風。方希佐明主,長揖辭成功。

白日在青天,迴光矚微躬。恭承鳳凰詔,欻起雲蘿中。

清切紫霄迥,優游丹禁通。君王賜顏色,聲價淩煙虹。

方學揚子雲,獻賦甘泉宮。天書美片善,清芳播無窮。

歸來入咸陽,談笑皆王公。一朝去金馬,飄落成飛蓬。

賓友日疏散,玉樽亦已空。長才猶可倚,不慚世上雄。

閑來東武吟,曲盡情未終。書此謝知己,扁舟尋釣翁。

(下し文)
 
(卷十五(一)九一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

好古笑流俗,素聞賢達風。方希佐明主,長揖辭成功。

白日在青天,迴光矚微躬。恭承鳳凰詔,起雲蘿中。

清切紫霄迥,優游丹禁通。君王賜顏色,聲價煙虹。

方學揚子雲,獻賦甘泉宮。天書美片善,清芳播無窮。

歸來入咸陽,談笑皆王公。一朝去金馬,飄落成飛蓬。

賓友日疏散,玉樽亦已空。長才猶可倚,不慚世上雄。

閑來東武吟,曲盡情未終。書此謝知己,扁舟尋釣翁。

 

(山に還り、金門の知己に留別す)

古を好んで、流俗を笑う,素より賢達の風を聞く。

方に明主を佐け,長揖して成功を辭するを。

白日、高天に在り,光を回らせて 微躬を矚【み】る。

恭しく鳳凰の詔りを承け,欻【こつ】として雲蘿の中に起る。

 

清切 紫霄迥かに,優游 丹禁通ず。

君王 顏色を賜い,聲價 煙虹をぐ。

乘輿は翠蓋を擁し,扈從す 金城の東。

まさに學ぶ 揚子雲,賦を獻ず 甘泉宮。

天書 片善を美し,清芬 無窮に播く。

歸り來って 咸陽に入り、談笑 皆 王公。

 

一朝 金馬を去り,飄落して 飛蓬と成る。

賓友は 日に疏散し,玉樽も 亦た 已に空し。  

長才 猶お倚る可く,慚じず 世上の雄に。

閑來 東武吟,曲盡きて 情 未だ終らず。

此を書して 知己に謝し,扁舟 釣翁を尋ねん。


(現代語訳)
(李白が山に還り、後に翰林院の知己を思い浮かべ、その時の思いを、述べたものである。)

わが性分は、古風を好み、滔滔たる流俗の軽薄なるものを笑い、早くより、古しえの賢達の人の風を聞いて、之を敬慕して居た。

自分の志ざすところは、明主を輔佐して、大功を為し、やがて、長揖して歸臥するといふことであった。

天子は、白日の高天に在るが如く、その廻転する光が、この微躯を照らし、特に恩眷の御沙汰があった。

かくて、紫泥で皇帝が儀式をされた鳳凰の詔勅を授かり、一朝、雲蘿の中より起って都に上り、皇城の正門朱雀門はひらかれ登場することになった。

清切の閒官を得て、天上の遥かなるに朝し、優游して、自在に宮禁に出入することになった。

君王には、拝謁を賜わることができるようになり、特に御引立下さったから、聲價は、煙虹を凌いで、天にも届く位になった。

そこで、まさにやがて、自分は、古しえの揚子雲にならって、甘泉宮に入御されるにも持従し、そこで賦を献じたのである。

その賦がつまらぬ業くれながら、御書を賜はって、特に清芬であると賞美せられたことから、名誉は無窮に播いたのである。

それから長安に歸ってきてからは、王公輩と交際して、談笑したものである。

しかし、天命、我に與みせず、まもなく、金馬門を去ることになり、この身は飛蓬のように、処定まらない、放浪の身となったのである。

あれほど、皇帝も自分のところへ訪ねてくれていたのに、日日に疎くなって散じつくし、酌み交わした酒樽は、空に成ったままになっていった。

そうであっても、我が才力には、これからもなお、たのむべく、世上の豪雄たるに愧じない積りである。

だから、平常心を保つことに気を付けながら、齊の國の民謡である東武吟を歌って、わが腹のうちを歌ったのであるが、曲は既につきても、言いたい情は未だ終るものでなく、気は治まるものではないのである。

今この詩を書して、知己に挨拶をおくろうとおもっているが、吾は、木の葉船に身を任せて、太公望のように釣り糸を垂らして、よい君主が迎えに来るのを待とうと思っておる。


(訳注)

  還山留別金門知己(卷十五(一)九一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

(李白が山に還り、後に翰林院の知己を思い浮かべ、その時の思いを、述べたものである。)

1 詩題 「出金門後、書懐、留翰林諸公」「金門を出し後、懐を書して、翰林諸公に留別す。」とあって、李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、東武吟はこの詩を、その地の土風に倣って作り、述べたものであると考えられる。李白詩集校注は、「還山留別金門知己」を(卷十五(一)九一○)に、東武吟を(巻五(一)三九八)に所収して、別ものとしている。全唐詩では、東武吟だけを載せている。

2. 金門 漢代の未央宮(びおうきゅう)の門の一。側臣が出仕して下問を待つ所。金馬。金門。ここでは、大明宮の門の名、銀臺門の右銀臺門(金馬門)で、大明宮西壁三門の真ん中に位置し、入門して左に翰林院がある。《長安志、東内大明宮章》「西面右銀台門、?侍省右藏庫、次北、翰林門?翰林院學士院、又、東翰林院、北有少陽院、結鄰殿。翰林門北、曰、九仙門。」

 

好古笑流俗,素聞賢達風。

わが性分は、古風を好み、滔滔たる流俗の軽薄なるものを笑い、早くより、古しえの賢達の人の風を聞いて、之を敬慕して居た。

 

方希佐明主,長揖辭成功。

自分の志ざすところは、明主を輔佐して、大功を為し、やがて、長揖して歸臥するといふことであった。

 

白日在高天,回光燭微躬。

天子は、白日の高天に在るが如く、その廻転する光が、この微躯を照らし、特に恩眷の御沙汰があった。

3 微躬 自らを謙遜して言う。

 

恭承鳳凰詔,欻起雲蘿中。

かくて、紫泥で皇帝が儀式をされた鳳凰の詔勅を授かり、一朝、雲蘿の中より起って都に上り、皇城の正門朱雀門はひらかれ登場することになった。

4 恭承 恭しく敬いながら承る。

5 鳳凰詔 十六國春秋「石虎在臺上、有詔書以五色紙著凰口中。既銜詔。侍人放數百丈緋、轆轤迴轉、状若飛翔飛下端門。以木作之、五色文身脚皆用金。」(石虎、臺上に在り、詔書有り五色の紙を以て凰の口中に著く。、既に詔を銜む。侍人、數百丈の緋を放ち、轆轤迴轉、状、飛翔するが若く、飛んで端門を下る。は、木を以て之を作り、五色文身、脚、皆金を用う。紫泥で皇帝が儀式をされた鳳凰の詔勅が、初めて下された日、私は皇帝に拝謁し、酒杯を挙げて、御宴に登ったのだ。

鳳凰(天子)が、紫泥で封をした詔勅を初めて下す。五胡十六国の一つ後題の皇帝石虎が、木製の鳳凰のロに詔勅をくわえさせ、高い楼観の上から緋色の絶で回転させ舞いおろさせた、という故事(『初学記』巻三十、所引『鄭中記』)に基づく。「紫泥」は、紫色の粘り気のある泥。ノリの代りに用いた。

6. 鳳銜 鳳詔と同じ。 鳳凰が口に銜える。詔勅を木製の鳳凰に銜えさせた故事。鳳詔:《鄴中記》.「石季龍與皇后在觀上為詔書,五色紙著鳳口中,鳳既銜詔,詩人放,數百丈緋繩轆盧回轉,鳳凰飛下,謂之鳳詔。鳳凰以木作之,五色漆畫,皆用金。」

韋莊《巻3-14 喜遷鶯二首 其二》「鳳銜金膀出雲來,平地一聲雷。

街鼓動,禁城開,天上探人回。

鳳銜金膀出雲來,平地一聲雷。

鶯已遷,龍已化,一夜滿城車馬。

家家樓上簇神仙,爭看鶴冲天。

(喜遷鶯二首 其の二)

街は鼓動し,禁城 開く,天上 人を探して回る。

鳳は金膀を銜へ 雲來に出づ,平地 一聲雷。

鶯は已に遷り,龍 已に化す,一夜 城の車馬に滿つ。

家家の樓上 神仙に簇【むらが】り,爭って看る 鶴の天に冲【のぼ】るを。

(喜遷鶯【きせんのう】二首 其の二:科挙の試験に合格し、天子にお目見えするさまを、そして、その後街中を無礼講で歩き回り、夜の宮中晩さん会を仙郷に喩えて詠う。)

長安の街に「引見」の太鼓の音が鳴り響き、皇城の正門朱雀門はひらかれ、宮官人たちは早くから動きにぎわい、宮中では人を探し回るほどの騒ぎである。

古来より恒例の詔勅の入った金沙の袋を木製の鳳凰が口に銜えたのが、天子につづいて、更に百官が居並んでてきて、平地には祝福の号砲のような雷が鳴り響く。

既に鶯は谷を渡ったという、進士の試験に及第した、龍が既に化身したがこれからどれだけ伸びてくれるか計り知れない前途洋洋である。その夜は長安城には及第者は無礼講で、溢れるほどの車馬でいっぱいになった。

多くの人が家家の高楼の上にあがって、仙郷である朝廷の及第者の様子を見ようと群がって見ている。そこに鶴に乗って天に上る及第者が御殿に昇っていくのをみんな爭ってみるのである。

『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-36韋荘114《巻3-14 喜遷鶯二首 其二》三巻14-114〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5772

清切紫霄迥,優遊丹禁通。

清切の閒官を得て、天上の遥かなるに朝し、優游して、自在に宮禁に出入することになった。

7 紫霄迥 紫霄とは、天上、此処では、宮禁を言う。天子の詔勅を授かったものは、朝廷内を比較的自由に歩けることを意味する。鳳凰(天子)が、紫泥で封をした詔勅を初めて下す。五胡十六国の一つ後題の皇帝石虎が、木製の鳳凰のロに詔勅をくわえさせ、高い楼観の上から緋色の絶で回転させ舞いおろさせた、という故事(『初学記』巻三十、所引『鄭中記』)に基づく。「紫泥」は、紫色の粘り気のある泥。ノリの代りに用いた。

8 丹禁通   朱で塗った宮殿の階段、紫微宮、外朝(含元殿)、中朝(宣政殿)、内朝(紫宸殿)これらをつなぐ庭、丹陛は丹く塗られていたことで、皇城、大明宮を示す。

 

君王賜顏色,聲價淩煙虹。

君王には、拝謁を賜わることができるようになり、特に御引立下さったから、聲價は、煙虹を凌いで、天にも届く位になった。

 

方學揚子雲,獻賦甘泉宮。

そこで、まさにやがて、自分は、古しえの揚子雲にならって、甘泉宮に入御されるにも持従し、そこで賦を献じたのである。

9. 揚子雲 揚雄のことで、(前53―後18)中国、漢代の儒学者、文人。蜀郡成都(四川省)の人。字は子雲。前漢、新、後漢の三王朝に仕えた。学者として高名である。著書としては『易経』に擬した『太玄経』と、『論語』を模した『法言』が有名である。また司馬相如の影響を受けて賦をよくした。『太玄経』は『易経』の六四卦()三八四爻【こう】に倣って八一首七二九賛とし、新しい占筮書とした。その根本原理は老子の道の思想より得た玄である。その生成を説くに、一玄が分かれて三方となり、三方が九州となり、九州が二七部となり、二七部が八一家となるとする。これを人事にあてて、三方は三公、九州は九卿(けい)、二七部は大夫、八一家は元士にかたどり、一玄を君主としてこれを統べるものと説いた。『法言』は『論語』に倣い、巻1の「学行」から巻10の「孝至」に及んで、聖人を尊び、王道を説いた。漢・唐の諸儒は揚雄を高く評価したが、宋(そう)代の程伊川(ていいせん)や朱熹(朱子)が、聖人の書の模作を難じ、性善悪混説を唱え、三朝に仕えたことなどで批判したため、それ以後の儒者も多くこれに倣った。

10. 甘泉宮 秦の始皇帝が前220年に首都咸陽(かんよう)の北西の甘泉山(陝西省淳化県)に築いた離宮の林光宮に始まる。漢の武帝が建元年間(140‐前135)に高光宮,迎風館,通天台などを増築し,周囲19(7.7km)12宮,11台などを甘泉宮と総称した。別に山谷に沿って雲陽に至る周囲540(219km)の甘泉苑を設け,仙人,石闕(せきけつ),封巒(ほうらん),鳷鵲(しじやく)諸観など宮殿台閣100ヵ所以上があった。

 

天書美片善,清芬播無窮。

その賦がつまらぬ業くれながら、御書を賜はって、特に清芬であると賞美せられたことから、名誉は無窮に播いたのである。

11. 清芬 すがすがしく、よいかおりのするさま。きよい匂いただようさま。

 

歸來入咸陽,談笑皆王公。

それから長安に歸ってきてからは、王公輩と交際して、談笑したものである。

12 咸陽 ここでは長安のこと。秦朝の首都として大いに栄えた。風水においては山・丘・阜などの南側、河・江・川・湖などの水辺の北側を陽と言う。この都市は九嵕山の南、渭水の北に当たり「咸陽」なためにこの名前がついた。

一朝去金馬,飄落成飛蓬。

しかし、天命、我に與みせず、まもなく、金馬門を去ることになり、この身は飛蓬のように、処定まらない、放浪の身となったのである。

2. 金馬 漢代の未央宮(びおうきゅう)の門の一。側臣が出仕して下問を待つ所。金馬。金門。ここでは、大明宮の門の名、銀臺門の右銀臺門(金馬門)で、大明宮西壁三門の真ん中に位置し、入門して左に翰林院がある。《長安志、東内大明宮章》「西面右銀台門、?侍省右藏庫、次北、翰林門?翰林院學士院、又、東翰林院、北有少陽院、結鄰殿。翰林門北、曰、九仙門。」

 

賓客日疏散,玉樽亦已空。 

あれほど、皇帝も自分のところへ訪ねてくれていたのに、日日に疎くなって散じつくし、酌み交わした酒樽は、空に成ったままになっていった。

13. 賓客 稀に来る人の意。大空・海の彼方・常世国などから来て村々をめぐり、富や齢をもたらし、その年に行うべきことを予告すると信じられている神。「なまはげ」のように異形であったり、祖先神であったりする。ここでは、玄宗皇帝をいいのであろう。

14. 疏散 (集中している人・物資を)幾つかに分ける,分散させる,疎開させる.

 

長才猶可倚,不慚世上雄。

そうであっても、我が才力には、これからもなお、たのむべく、世上の豪雄たるに愧じない積りである。

15. 長才 「一展長才」。 特出、專精的才能。

 

閑來東武吟,曲盡情未終。 

だから、平常心を保つことに気を付けながら、齊の國の民謡である東武吟を歌って、わが腹のうちを歌ったのであるが、曲は既につきても、言いたい情は未だ終るものでなく、気は治まるものではないのである。

 16. 閑來 平時。

 

書此謝知己,扁舟尋釣翁。 

今この詩を書して、知己に挨拶をおくろうとおもっているが、吾は、木の葉船に身を任せて、太公望のように釣り糸を垂らして、よい君主が迎えに来るのを待とうと思っておる。

17 釣翁 元々呂尚は殷に仕えていたが、帝辛の悪行に反発して殷を出奔した。諸侯の元を遍歴した後、文王に仕える。

文王は猟に出る前に占いをしたところ、獣ではなく人材を得ると出た。狩猟に出ると、落魄して渭水で釣りをしていた呂尚に出会った。二人は語り合い、文王は「吾が太公[ 2]が待ち望んでいた人物である」と喜んだ。そして呂尚は文王に軍師として迎えられ、太公望と号した。3つの逸話の中で一般に知られているのは、この説である。陝西省宝鶏には太公望が釣りをしたという釣魚台があり、観光地となっている。

黃綺翁 夏黃公、綺里季のことで、商山の四皓の二人を言う。東園公・綺里季・夏黄公・甪里【ろくり】先生の四人の隠士。みな鬚眉【しゅび】が皓白の老人であったのでいう。