于闐採花

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20161116

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744-010163_8 于闐採花(卷四(一)二九三)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7655

 

(西域異民族の于闐国の花を摘む女ということで、王昭君の事を詠じたもの)

西域異民族の于闐国の花を摘む女は、自分の顔色も、その花に似ていると思っているものである。

それは彼女たちが中国の花、美女を知らないからで、王昭君がある朝、匈奴に嫁して匈奴に入ったときに、胡中の美女たちはその美しさに多くのものが、羞死したという。

このことで中国には名姝がとても多くいるということが認知され、胡中の花では比べるものがなかったというのである。

王昭君がなぜ匈奴に入ったのかというと、後宮絵師の毛延寿に賄賂を渡さなかったために選定画を見にくく書かれたことで、不美人を選定し、胡地に送ったのであった。是と反対に、無鹽のごとき醜いものであっても多分な賄賂を贈っていれば、選定画を絶世の美女に書き上げ後宮の妃賓の列に加わり、君側に侍することになるのである。

古より言われていることわざ通り、蛾眉は後宮に入れば、妬まれるものであり、それも胡地に送られることを言うのであり、その絶世の美女は胡地の砂漠に明眸皓歯をうずめて、ついに帰らぬ人となった。人生には、凡そ、このような実に慨嘆に堪えぬこともあるのである。

 

 

 

744-010

于闐採花(卷四(一)二九三)

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7655

全唐詩卷163_8

李白集校注巻 04-008

李太白集 巻22-0010

 

 

 

 

卷別

李白集校注

全唐詩

李太白集

于闐採花(卷四(一)二九三)

163_8 《於闐采花》 

于闐採花(卷三-8) P349 

詩題

于闐採花

文體

樂府

詩序

 

 

 

作地點

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

及地點

0

0

交遊人物

 

交遊地點

 

 

 

于闐採花

(西域異民族の于闐国の花を摘む女ということで、王昭君の事を詠じたもの)

于闐採花人,自言花相似。

西域異民族の于闐国の花を摘む女は、自分の顔色も、その花に似ていると思っているものである。

明妃一朝西入胡,胡中美女多羞死。

それは彼女たちが中国の花、美女を知らないからで、王昭君がある朝、匈奴に嫁して匈奴に入ったときに、胡中の美女たちはその美しさに多くのものが、羞死したという。

乃知漢地多名姝,胡中無花可方比。

このことで中国には名姝がとても多くいるということが認知され、胡中の花では比べるものがなかったというのである。

丹青能令醜者妍,無鹽翻在深宮裡。

王昭君がなぜ匈奴に入ったのかというと、後宮絵師の毛延寿に賄賂を渡さなかったために選定画を見にくく書かれたことで、不美人を選定し、胡地に送ったのであった。是と反対に、無鹽のごとき醜いものであっても多分な賄賂を贈っていれば、選定画を絶世の美女に書き上げ後宮の妃賓の列に加わり、君側に侍することになるのである。

自古妒蛾眉,胡沙埋皓齒。

古より言われていることわざ通り、蛾眉は後宮に入れば、妬まれるものであり、それも胡地に送られることを言うのであり、その絶世の美女は胡地の砂漠に明眸皓歯をうずめて、ついに帰らぬ人となった。人生には、凡そ、このような実に慨嘆に堪えぬこともあるのである。

 

(于闐【うてん】 花を採る)

于闐 花を採る人,自ら言う 花 相い似たり と。

明妃 一朝 西に 胡に入る,胡中の美女 多く羞死す。

乃ち知る 漢地に名姝多く,胡中 花の方比す可き無きを。

丹青 能く醜者をして妍なら令む,無鹽 翻って 深宮の裡に在り。

古より 蛾眉を妒み,胡沙 皓齒を埋む。

 


 

 

 蕭士贇 補註 李太白集分類補註巻四

于闐採花

   士贇曰樂錄于闐採花者蕃胡四曲之一

   太白此篇則借明妃之事以興世之君子不遭明君賢不肖易置如明皇之思

   張九齡雖遣祭曲江何補哉此詩㫖意皆自國風中來/讀者毋忽

于闐採花人,自言花相似。明妃一朝西入胡,胡中美女多羞死。

乃知漢地多名姝,胡中無花可方比。

丹青能令醜者妍,無鹽翻在深宮裡。自古妒蛾眉,胡沙埋皓齒。

・于闐   齊賢曰西域傳于闐國王治西域去長安九千六百/七十里于闐之西水皆西流

・丹青能令醜者妍  齊賢曰 《西京雜記》曰「杜陵工毛延善為人醜好老少必得真。

元帝人頗多嘗令工圖之有欲呼者披圖以召。

人多行賂於工昭君姿容甚麗無所求工遂其形狀後匈奴求美女。

帝以昭君充行既召見恱之而名字已去遂不復留帝怒殺毛延

・無鹽  《列女傳》 鍾離春齊無鹽邑之女為人極/醜皮膚染漆行年四十嫁不售。

齊宣燕於漸臺無鹽詣之召見為陳四殆王立拆漸臺拜無鹽為后。

・餘論   士贇曰此篇、是借事引以刺時君昏聵借聽於人而賢不肖易置者讀之/令人感歎

 

 

『于闐採花』 現代語訳と訳註解説
(本文)

于闐採花

于闐採花人,自言花相似。

明妃一朝西入胡,胡中美女多羞死。

乃知漢地多名姝,胡中無花可方比。

丹青能令醜者妍,無鹽翻在深宮裡。

自古妒蛾眉,胡沙埋皓齒。

(下し文)
(于闐【うてん】 花を採る)

于闐 花を採る人,自ら言う 花 相い似たり。

明妃 一朝 西に 胡に入る,胡中の美女 多く羞死す。

乃ち知る 漢地に名姝多く,胡中 花 方比す可き無し。

丹青 能く醜者をして妍なら令む,無鹽 翻って 深宮の裡に在り。

古より 蛾眉を妒み,胡沙 皓齒を埋む。

(現代語訳)
(西域異民族の于闐国の花を摘む女ということで、王昭君の事を詠じたもの)

西域異民族の于闐国の花を摘む女は、自分の顔色も、その花に似ていると思っているものである。

それは彼女たちが中国の花、美女を知らないからで、王昭君がある朝、匈奴に嫁して匈奴に入ったときに、胡中の美女たちはその美しさに多くのものが、羞死したという。

このことで中国には名姝がとても多くいるということが認知され、胡中の花では比べるものがなかったというのである。

王昭君がなぜ匈奴に入ったのかというと、後宮絵師の毛延寿に賄賂を渡さなかったために選定画を見にくく書かれたことで、不美人を選定し、胡地に送ったのであった。是と反対に、無鹽のごとき醜いものであっても多分な賄賂を贈っていれば、選定画を絶世の美女に書き上げ後宮の妃賓の列に加わり、君側に侍することになるのである。

古より言われていることわざ通り、蛾眉は後宮に入れば、妬まれるものであり、それも胡地に送られることを言うのであり、その絶世の美女は胡地の砂漠に明眸皓歯をうずめて、ついに帰らぬ人となった。人生には、凡そ、このような実に慨嘆に堪えぬこともあるのである。


(訳注)

于闐採花

(西域異民族の于闐国の花を摘む女)

1. 于闐採花 六朝の陳隋《海山記》「山川雖異所,草木 尚お春を同じうす。亦た溱洧地の如し,自ら花人を采る有り。」(山川 所を異にすると雖も,草木尚同春。亦如溱洧地,自有采花人。)にあるのが本辭である。西国異民族の音譜をとって中国の歌楽に乗せるのが大流行し、ここにいう于闐国、即ち、胡国、異民族、匈奴であるから、李白は、王昭君の故事を詠じたのである。

2. 于闐 西域南道沿いにあった仏教王国。タリム盆地のタクラマカン砂漠の南に位置する。現在では中華人民共和国新疆ウイグル自治区にあたる。漢語では于闐(うてん)、于寘(うてん)、於闐。コータン王国とも書かれる。漢、唐代の中国では「于」として知られていた。オアシス沿いにあり、植えられていたクワによる絹および絹織物、その他軟玉、硬玉(共にヒスイの一種)および陶磁器を輸出していた。漢書西域傳「于闐國,王治西城,去長安九千六百七十里。.. 于闐之西,水皆西流,注西海」

 

于闐採花人,自言花相似。

西域異民族の于闐国の花を摘む女は、自分の顔色も、その花に似ていると思っているものである。

 

明妃一朝西入胡,胡中美女多羞死。

それは彼女たちが中国の花、美女を知らないからで、王昭君がある朝、匈奴に嫁して匈奴に入ったときに、胡中の美女たちはその美しさに多くのものが、羞死したという。

3. 明妃一朝西入胡 明妃は王昭君。周辺各国境付近で局地戦を常に行っている。一方、和平策も行っている。それは、最も普通なのは古来より行われた騎馬民族に対し豊かな産物や文化財を与へて懐柔するやり方と、婚姻という形をとった。この李白の時代まで、二千年近くも続いていたことであり、その中で、もっとも興味を持たれるのは、王昭君であった。

 漢書匈奴傳 「竟寧元年呼韓邪單于復入朝。單于自言願婿漢氏以自親。元帝以後宮良家子王牆字昭君賜單于。單于驩喜,上書願保塞。」(竟寧元年(紀元前33年)呼韓邪單于復た入朝す。單于、自ら言う、願はくば漢氏に婿として、以て自ら親しまん。元帝、後宮良家の子王牆、字は昭君を以て單于に賜う。單于驩喜,上書して願はくば塞を保たん。)とある。

 

乃知漢地多名姝,胡中無花可方比。

このことで中国には名姝がとても多くいるということが認知され、胡中の花では比べるものがなかったというのである。

4. 方比 比べてみること。

 

丹青能令醜者妍,無鹽翻在深宮裡。

王昭君がなぜ匈奴に入ったのかというと、後宮絵師の毛延寿に賄賂を渡さなかったために選定画を見にくく書かれたことで、不美人を選定し、胡地に送ったのであった。是と反対に、無鹽のごとき醜いものであっても多分な賄賂を贈っていれば、選定画を絶世の美女に書き上げ後宮の妃賓の列に加わり、君側に侍することになるのである。

5. 丹青能令醜者妍 ・丹青は宮廷絵師のこと。丹青は赤と青の鉱物性絵の具。赤と青。丹碧。絵の具。また、彩色。「―の妙を尽くす」3《「たんぜい」とも》絵画。また、絵の具で描くこと。西京雜記 「畫工有杜陵毛延壽。為人形。醜好老少必得其真。《世説新語;賢媛》漢元帝宮人既多、乃令画工図之、欲有呼者、輒披図召之。其中常者、皆行貨賂。王明君姿容甚麗、志不苟求。工遂毀為其状。後匈奴来和、求美女於漢帝。帝以明君充行。既召見而惜之。但名字已去,不欲中改,於是遂行。 ... 帝悅之,而名字已去,遂不復留。帝怒,殺畫工毛延壽』。

 

5. 無鹽 「貌似無鹽」醜女にたいする形容である,這「無鹽」とは是れ戰國時代齊國の無鹽縣醜女が鐘離の春,今の山東東平縣東部に在る。書上她「四十にして未だ嫁せず」,「極めて醜く雙と無し」,「凹頭 深目,長肚大節,昂鼻結喉,肥頂少髮」,而して且つ「皮膚烤漆」とみにくいことをいう。

列女傳  鐘離春齊國無鹽縣醜女  《列女傳》中的《辯通傳》。她是齊國無鹽縣人,姓鍾,所以又稱她為鍾無鹽,她德才兼備、卻容顏醜陋,年四十未嫁,許多古書里動不動就「貌比無鹽」,跟「貌如西子」呼應。無鹽詣之 召見

 

自古妒蛾眉,胡沙埋皓齒。

古より言われていることわざ通り、蛾眉は後宮に入れば、妬まれるものであり、それも胡地に送られることを言うのであり、その絶世の美女は胡地の砂漠に明眸皓歯をうずめて、ついに帰らぬ人となった。人生には、凡そ、このような実に慨嘆に堪えぬこともあるのである。

 

 

王昭君  李白

昭君払玉鞍、上馬啼紅頬。

今日漢宮人、明朝胡地妾。

 

王昭君  李白

漢家秦地月、流影照明妃。

一上玉関道、天涯去不帰。

漢月還従東海出、明妃西嫁無来日。

燕支長寒雪作花、娥眉憔悴没胡沙。

生乏黄金枉図画、死留青塚使人嗟。

 

李白33-35 王昭君を詠う 三首

怨詩 王昭君  漢詩<110-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩545 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1452

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王昭君歎二首 其一 沈満願(梁の征西記室范靖の妻) <114-#1>玉台新詠集 女性詩 551 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1470

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◎王昭君
前漢の元帝の宮女。紀元前33年(竟寧元年)、匈奴との和親のため、呼韓邪単于に嫁し、「寧胡閼氏」としてその地で没した。名は檣。昭君は字。明君、明妃は、「昭」字をさけたための晋以降の称。
『漢書・本紀・元帝紀』「竟寧元年春正月,匈奴 呼韓邪單于來朝。詔曰:「匈奴呼韓邪單于不忘恩德,鄕慕禮義,復修朝賀之禮,願保塞傳之無窮,邊垂長無兵革之事。其改元爲竟寧,賜單于待詔掖庭王檣爲閼氏。」
王檣 王昭君のこと。
閼氏 單于の正妻の称で皇后のこと。
『漢書・匈奴傳・下』「王昭君號寧胡閼氏,生一男伊屠智牙師,爲右日逐王。」
多くの子供をもうけ、夫の没後は、匈奴の習慣に従った再婚をし、父子二代の妻となり、更に子供を儲けている。子供達の名も記録されている。
辺疆安寧のための犠牲になったことで漢・匈奴友好使節の役を果たした。
李白33-35 王昭君を詠う 三首、五言絶句『王昭君』、雑言古詩、『王昭君』、雑言古詩『于闐採花』、王昭君ものがたり『王昭君 二首』

 白楽天 《王昭君 其一》

滿面胡沙滿鬢風、眉銷殘黛臉銷紅。

愁苦辛勤憔悴盡、如今卻似畫圖中。

顔一面に吹きかける砂漠の砂、ほつれた髪に吹きすさぶ異国の風

美しかった眉薫も、頬の紅もいつしか色あせた。

悲しみ苦しみのためにすっかり窶れはて、今やあの醜い肖像画にそっくりになった。

李商隠《聞歌》
斂笑凝眸意欲歌,高雲不動碧嵯峨。
銅臺罷望歸何處,玉輦忘還事幾多。
靑冢路邊南雁盡,細腰宮裏北人過。
此聲腸斷非今日,香
燈光奈爾何。

李商隠 3 聞歌

王昭君の七十余年前に、烏孫公主の故事がある。烏孫公主は漢の皇室の一族、江都王・劉建の娘で、武帝の従孫になる劉細君のこと。彼女は、西域の伊犂地方に住んでいたトルコ系民族の国家・烏孫国に嫁した。ともに漢王朝の対西域政策と軍略を物語るものである。
悲愁歌 烏孫公主(劉細君) 女流<108>542 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1443


◎『怨詩』
空高く飛ぶ鳥のさまから己の身を想い、遙かに離れ去ることとなってしまった境遇を詠う。『樂府詩集』に基づく。『昭君怨』『怨曠思惟歌』ともする。