20161117

の紀頌之5つの校注Blog

 

●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

 

Ⅰ李白詩(李白詩校注)

744年-011卷168_37 口號贈楊徵君(卷九(一)六五九)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7615

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韓愈 哲学・儒学「五原」

 

 

 

 

 

 

 

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Ⅲ杜詩詳注

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暮春題瀼溪新賃草屋五首【字解集】と住まいと夔州での農業

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744
-011168_37 口號贈楊徵君(卷九(一)六五九)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7615

(楊某が召されて上京するに就けて、口占して贈ったもの)

六朝期の陶淵明は、五斗米のために、腰を屈することを潔とせず、彭澤の令を辞して、田園に帰り、後漢の梁鴻は、富貴功名を欲することはなく、会稽山の山水のきわめて麗しいところに隠遁していた。我は、高士傳を尋ねにつけて、終生その志を高尚にしたのは、この二人にとどめを刺すように思っていたのであるが、今君のような人がいるという事は陶淵明や梁鴻という人物と比較して引けを取るものではない。はこれまで、西山に隠れ、白雲に臥し、丹壑に留まるという考えであったけれど、しばしばおもむろに紫泥で封じられた勅書を下され、しきりに召され出されたので、もはや断りきれないことになり、山を下られることとなったのである。楊震は、「関西の孔子」と称されていたが、君がひとたび、長安に入ったならば、その声価はこれに引けを取るものではない、だから、いつ君は出発されるのであろうか、なるべく早く発程されたほうがよいであろう。

 

744-011

口號贈楊徵君(卷九(一)六五九)

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7661

全唐詩卷168_37

李白集校注巻 09-041

李太白集 巻08-041

 

 

卷別

李白集校注

全唐詩

李太白集

(卷九(一)六五九)

  卷168_37

  卷八_41

詩題

口號贈楊徵君

文體

五言律詩

詩序

原註 此公時被徵帝 

 

 

 

 

 

 

 

 

寫作地點

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

寫及地點

會稽 (江南東道 越州 會稽) 別名:山陰

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交遊人物

徵君鴻  (廬鴻)

交遊地點

書信往來

 

 

 

口號贈楊徵君(卷九(一)六五九)

(楊某が召されて上京するに就けて、口占して贈ったもの)

陶令辭彭澤,梁鴻入會稽。

六朝期の陶淵明は、五斗米のために、腰を屈することを潔とせず、彭澤の令を辞して、田園に帰り、後漢の梁鴻は、富貴功名を欲することはなく、会稽山の山水のきわめて麗しいところに隠遁していた。

我尋高士傳,君與古人齊。

我は、高士傳を尋ねにつけて、終生その志を高尚にしたのは、この二人にとどめを刺すように思っていたのであるが、今君のような人がいるという事は陶淵明や梁鴻という人物と比較して引けを取るものではない。

雲臥留丹壑,天書降紫泥。

はこれまで、西山に隠れ、白雲に臥し、丹壑に留まるという考えであったけれど、しばしばおもむろに紫泥で封じられた勅書を下され、しきりに召され出されたので、もはや断りきれないことになり、山を下られることとなったのである。

不知楊伯起,早晚向關西。

楊震は、「関西の孔子」と称されていたが、君がひとたび、長安に入ったならば、その声価はこれに引けを取るものではない、だから、いつ君は出発されるのであろうか、なるべく早く発程されたほうがよいであろう。

 

(口號 楊徵君に贈る)

(原註には「此れ公、時に帝に徵さるる」とある)

陶令 彭澤を辭し,梁鴻 會稽に入る。

我は 高士傳を尋ぬ,君は 古人と齊し。

雲臥 丹壑に留み,天書 紫泥を降す。

知らず 楊伯の起,早晚 關西に向う。


 

李太白集校注(王琦)

  口號贈楊繆本/作陽徵君 

原註 此公時被徵帝

 詩題有口號、始於梁簡文 和衛尉新渝侯巡城口號

  庾肩吾、王筠、俱有此作、至唐遂相襲用之、即是口占之義。蕭本、作口號贈徵君鴻

  而註云、見前贈盧徵君題註。葢以為即盧鴻矣、未詳是否。註中被徵一作被召。

陶令辭彭澤,梁鴻入會稽。

我尋高士傳,君與古人齊。

雲臥留丹壑,天書降紫泥。

不知楊伯起,早晚向關西。

陶令:事已見九巻註。梁鴻:事見八巻註。

隋書「髙士傳 六巻皇甫謐撰」、又「髙士傳二巻虞槃佐撰」、冊府元龜「嵇康、為中散大夫撰髙士傳三巻」

鮑照詩 雲卧恣天行、又照詩 妍客逐丹壑紫泥用以封壐書者見七巻註

後漢書 楊震字伯起𢎞農華隂人少好學受歐陽尚書於太常桓郁明/經博覧無不窮究諸儒為之語曰西孔子楊伯起

 

李白の足跡0000 

《口號贈楊徵君》 現代語訳と訳註解説
(本文)

口號贈楊徵君(卷九(一)六五九)

原註 此公時被徵帝

陶令辭彭澤,梁鴻入會稽。

我尋高士傳,君與古人齊。

雲臥留丹壑,天書降紫泥。

不知楊伯起,早晚向關西。


(下し文)
(口號 楊徵君に贈る)

(原註には「此れ公、時に帝に徵さるる」とある)

陶令 彭澤を辭し,梁鴻 會稽に入る。

我は 高士傳を尋ぬ,君は 古人と齊し。

雲臥 丹壑に留み,天書 紫泥を降す。

知らず 楊伯の起,早晚 關西に向う。

(現代語訳)
(楊某が召されて上京するに就けて、口占して贈ったもの)

六朝期の陶淵明は、五斗米のために、腰を屈することを潔とせず、彭澤の令を辞して、田園に帰り、後漢の梁鴻は、富貴功名を欲することはなく、会稽山の山水のきわめて麗しいところに隠遁していた。

我は、高士傳を尋ねにつけて、終生その志を高尚にしたのは、この二人にとどめを刺すように思っていたのであるが、今君のような人がいるという事は陶淵明や梁鴻という人物と比較して引けを取るものではない。

はこれまで、西山に隠れ、白雲に臥し、丹壑に留まるという考えであったけれど、しばしばおもむろに紫泥で封じられた勅書を下され、しきりに召され出されたので、もはや断りきれないことになり、山を下られることとなったのである。

楊震は、「関西の孔子」と称されていたが、君がひとたび、長安に入ったならば、その声価はこれに引けを取るものではない、だから、いつ君は出発されるのであろうか、なるべく早く発程されたほうがよいであろう。

長安付近図00
(訳注) 

口號贈楊徵君(卷九(一)六五九)

(楊某が召されて上京するに就けて、口占して贈ったもの)

1. 口號 口占の儀(① 言い方から察せられる本心。相手が本心を推察できるような話しぶり。 《口裏》 「相手の-から大体のことは察せられる」 ② 人の言葉を聞いて,それで吉凶を占うこと。)

2. 楊徵君 楊某が召されて上京するということ。

 

陶令辭彭澤,梁鴻入會稽。

六朝期の陶淵明は、五斗米のために、腰を屈することを潔とせず、彭澤の令を辞して、田園に帰り、後漢の梁鴻は、富貴功名を欲することはなく、会稽山の山水のきわめて麗しいところに隠遁していた。

3. 陶令 陶 淵明(とう えんめい、365年(興寧3年)- 427年(元嘉3年)11月)は、中国の魏晋南北朝時代(六朝期)、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字が淵明。五斗米【ごとべい】(① 5斗の米。今の5升の米。② 《年に5斗の扶持米 (ふちまい) の意から》わずかな給料。)で腰を屈するを避け、官を辞して隠遁した。

4. 辭彭澤 405年秋8月、彭沢県(九江市の約90km東)の県令となるが、80数日後の11月には辞任して帰郷した。以後、陶淵明は隠遁の生活を続け二度と出仕せず、廬山の慧遠に師事した周続之、匡山に隠棲した劉遺民と「潯陽の三隠」と称された。

5. 梁鴻 梁鴻は、後漢の梁鴻は字を伯鸞といい、扶風平陵の人。勉学に励み、博学多才で立派な人格だった。そのため、多くの人が自分の娘を嫁にして欲しいと望んだが、彼は受け入れなかった。 同じ県に孟光という、醜い容貌ながら、よい品性を持った女性がいた。

6. 會稽 會稽 (江南東道 越州 會稽) 別名:山陰  いまの浙江省紹興市附近。このあたりは水郷で、たいへん景色がよい。
李白
憶東山二首其二 李白 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -270』  
我今攜謝妓。 長嘯人群。 
欲報東山客。 開關掃白云

我 今 謝妓を攜え。 長嘯して 人群をつ。 
東山の客に報わんと欲っす。關を開いて 白云を掃く。

 

我尋高士傳,君與古人齊。

我は、高士傳を尋ねにつけて、終生その志を高尚にしたのは、この二人にとどめを刺すように思っていたのであるが、今君のような人がいるという事は陶淵明や梁鴻という人物と比較して引けを取るものではない。

7. 高士傳 『史記』「伯夷列伝第一」 に「甫謐高士傳云・・「許由字武仲。堯聞致天下而譲焉、乃退而遁於中嶽潁水陽、箕山之下隠。堯又召爲九州長、由不欲聞之、洗耳於穎水濱。」(皇甫謐『高士伝』に云ふ、許由、字は武仲。尭、天下を致して譲らんとするを聞き、乃ち退いて中嶽潁水の陽、箕山の下に遁れ隠る。尭、又た召して九州の長と為さんとす。由、之を聞くを欲せず、耳を潁水の浜に洗ふ。)

孟浩然《仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊》

 

(仲夏 漢南園に歸る,京邑の耆舊に寄せる)

讀高士傳,最嘉陶征君。

日耽田園趣,自謂羲皇人。

予複何爲者,棲棲徒問津。

中年廢丘壑,上國旅風塵。」

嘗て高士傳を讀み、最も陶徴君を嘉せり。

日び田園の趣きに耽り、自ら謂う義皇の人と。

予は復た何為る者ぞ、棲棲として徒らに津を問う。

中年にして丘壡を廢し、上國 風塵に旅す。」

孟浩然 仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊 #1 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩

 

雲臥留丹壑,天書降紫泥。

君はこれまで、西山に隠れ、白雲に臥し、丹壑に留まるという考えであったけれど、しばしばおもむろに紫泥で封じられた勅書を下され、しきりに召され出されたので、もはや断りきれないことになり、山を下られることとなったのである。

7. 雲臥 雲臥 雲がわく岩場の奥深い處に隠遁すること。謝靈運《石門在永嘉》「躋険築幽居、披雲臥石門。」(険に躋【のぼ】りて幽居を築き、雲を披【ひら】きて石門に臥す。)嶮しい道を登ったところに一軒家を別荘として建てた、雲におおわれたところ、石門のところに病の療養に伏せた。

謝霊運  《石門新營所住四面高山回溪石瀨修竹茂林》 kanbuniinkai紀 頌之漢詩

杜甫  遊龍門奉先寺》kanbuniinkai紀 頌之漢詩

作者が臥すのであり、雲とは高処なのでかくいう。雲に臥するとは悟りの心を連想する。

8. 丹壑 あかい色をした谷。金丹を練ることから、道士の隠遁の場所をいう。

9. 天書 勅書。

10. 降 勅書が下さらる。

11. 紫泥 勅書を封じるに紫泥でした。

 

不知楊伯起,早晚向關西。

楊震は、「関西の孔子」と称されていたが、君がひとたび、長安に入ったならば、その声価はこれに引けを取るものではない、だから、いつ君は出発されるのであろうか、なるべく早く発程されたほうがよいであろう。

12. 楊伯起 《後漢書》卷五十四《楊震傳》 「楊震字伯起,弘農華陰人也。」「震少好學,受歐陽尚書於太常桓郁,明經博覽,無不窮究。諸儒為之語曰:『關西孔子楊伯起。』常客居於湖,不荅州郡禮命數十年,人謂之晚暮,而震志愈篤。」(楊震 字は伯起,弘農華陰の人なり。震 少にして學を好み,歐陽の尚書を太常桓郁に受け,明經 博覽,窮究せざる無し。諸儒 之が語を為して曰く:『關西の孔子 楊伯起。』常客湖に居,荅州郡禮命せずして數十年,人之を晚暮と謂う,而して震 志愈篤し。)

13. 早晚 何時か、あまり遅くない時期に、というほどの意。何時に同じ。

14. 向關西 長安に向かうこと。前句の楊伯起が『關西孔子』と呼ばれていたことから、その地に向かうとした。