天馬歌
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2016年11月21日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩(李白詩校注) |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
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Ⅲ 杜詩詳注 |
757年-21 暮春題瀼溪新賃草屋五首其五 杜詩詳注(卷一八(四)頁一六一二)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7687 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog |
花間集 訳注解説 巻一15 (21)回目温庭筠 《更漏子六首其一》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7688 (11/21) |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・玉臺新詠・女性 LiveDoorBlog |
玉-018-#1 古詩八首其四 (古詩十九首之第十七首) 無名氏 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7689 |
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744年-013卷162_11 天馬歌(卷三(一)二三四)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7625
(大宛国の汗血馬を祖として中国の良い馬は天馬としたが、この馬に託して、自己の不遇を詠嘆したものである。)
天馬は、もともと中国に産出したものではなく、遠き月支國の石屈に生まれ、はるばる東に来たのである。その形を見ると、背の毛並は虎の斑のようで肋骨は龍のようである。
天上の青雲を望んではいななき、緑髪の毿毿たる鬣を打ち振り、目の上のくぼみからは、一条の筋がはっきりととおっていて、あっぱれ名馬の顔相であるばかりか、走らせば、滅するがごとく、歿するがごとく、人の目にはとても止まるものではない。
月支の故国より出でて、崑崙の山に飛び上がり、西極を経て、やがて中国に入ってきたのである。長く険しい道を通ってくる間、四足は一度も躓いたことはなかった。
744年-013-#1 |
天馬歌(卷三(一)二三四) |
漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7679 |
全唐詩卷162_11-#1 |
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李白集校注巻 03-012 |
李太白集 巻12-006 |
卷別 |
李白集校注 |
全唐詩 |
李太白集 |
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天馬歌(卷三(一)二三四) |
卷162_11 《天馬歌》 |
卷二_12 《天馬歌》 |
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詩題 |
天馬歌 |
文體 |
樂府 |
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詩序 |
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作地點 |
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及地點 |
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交遊人物 |
交遊地點 |
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天馬歌 #1
(大宛国の汗血馬を祖として中国の良い馬は天馬としたが、この馬に託して、自己の不遇を詠嘆したものである。)
天馬來出月支窟,背爲虎文龍翼骨。
天馬は、もともと中国に産出したものではなく、遠き月支國の石屈に生まれ、はるばる東に来たのである。その形を見ると、背の毛並は虎の斑のようで肋骨は龍のようである。
嘶青雲,振綠髮,蘭筋權奇走滅沒。
天上の青雲を望んではいななき、緑髪の毿毿たる鬣を打ち振り、目の上のくぼみからは、一条の筋がはっきりととおっていて、あっぱれ名馬の顔相であるばかりか、走らせば、滅するがごとく、歿するがごとく、人の目にはとても止まるものではない。
騰崑崙,歷西極,四足無一蹶。
月支の故国より出でて、崑崙の山に飛び上がり、西極を経て、やがて中国に入ってきたのである。長く険しい道を通ってくる間、四足は一度も躓いたことはなかった。
#2
雞鳴刷燕晡秣越,神行電邁躡慌惚。
天馬呼,飛龍趨,目明長庚臆雙鳧。
尾如流星首渴烏,口噴紅光汗溝朱。
曾陪時龍躡天衢,羈金絡月照皇都。
#3
逸氣稜稜淩九區,白璧如山誰敢沽。
回頭笑紫燕,但覺爾輩愚。
天馬奔,戀君軒,駷〈音竦〉躍驚矯浮雲飜。
萬里足躑躅,遙瞻閶闔門。
#4
不逢寒風子,誰採逸景孫。
白雲在青天〈一本無青字〉,丘陵遠崔嵬。
鹽車上峻坂,倒行逆施畏日晚。
伯樂翦拂中道遺,少盡其力老棄之。
#5
願逢田子方,惻然爲我悲。
雖有玉山禾,不能療苦飢。
嚴霜五月凋桂枝,伏櫪銜冤摧兩眉。
請君贖獻穆天子,猶堪弄影舞瑤池。
(天馬歌)#1
天馬來たって月支の窟より出づ,背は虎文を爲し 翼骨を龍にす。
青雲に嘶き,綠髮を振い,蘭筋 權奇 走って滅沒す。
崑崙に騰り,西極を歷たり,四足 一蹶無し。
#2
雞鳴には燕に刷【つくろ】い晡【ひぐれ】には越に秣【まぐさか】う,神行電邁 躡んで慌惚。
天馬呼び,飛龍趨り,目は長庚よりも明かに 臆は雙鳧【そうふ】。
尾は流星の如く首は渴烏,口は紅光を噴いて汗溝は朱なり。
曾て時龍に陪して天衢を躡み,羈金 絡月 皇都を照らす。
#3
逸氣 稜稜として九區を淩ぎ,白璧 山の如く 誰か敢て沽わん。
頭を回らして 紫燕を笑い,但だ覺ゆ 爾 輩の愚なるを。
天馬奔り,君が軒を戀う,駷躍【しょうやく】驚矯 浮雲飜える。
萬里 足 躑躅,遙に瞻る 閶闔の門。
#4
寒風子に逢わず,誰か採らん 逸景の孫。
白雲 青天に在り,丘陵 遠く崔嵬。
鹽車 峻坂に上り,倒行 逆施 日の晚るるを畏る。
伯樂 翦拂 中道に遺し,少にして其の力を盡し 老いて之を棄つ。
#5
願わくば田子方に逢うて,惻然として我が爲に悲しまん。
玉山も禾有りと雖も,飢に苦しむを療する能わず。
嚴霜 五月 桂枝を凋み,伏櫪 冤を銜んで兩眉を摧く。
請う君 贖【あがな】うて穆天子に獻ぜよ,猶お影を弄して瑤池に舞うに堪えたり。
天馬歌 |
1) 漢書武帝紀元鼎四年秋馬生渥洼水中/作天馬之歌太初四年春貳師將軍廣利 |
斬大宛王首獲汗血馬來作西極天馬之歌 胡震/亨曰漢郊祀天馬二歌皆以歌瑞應太白所擬則 |
以馬之老而見棄自況思/蒙收贖似去翰林後所作 |
天馬來出月支蕭本/作氏窟背為虎文龍翼骨嘶青雲振緑 |
髪蘭筋權竒走滅沒騰崑崙歴西極四足無一蹶雞鳴 |
刷燕晡秣越神行電邁躡恍惚 |
2) 史記「天子得烏孫馬好名曰天馬。及得大宛汗血馬益壯更名烏孫馬曰西極名大宛馬曰天馬云」 |
3) 郭璞山海經註「月支國多好馬」 史記正義 「萬震南州志云大月支在天竺北可七千里地髙燥而逺國中騎乗常/數十萬匹城郭宫殿與大秦國同人民赤白色便習弓馬土地所出及竒偉珍物被服鮮好天竺不及也外國/稱天下有三衆中國為人衆大秦為寳衆月支為馬衆 |
4) 漢天馬歌、虎脊兩化若鬼。」 應劭註「馬毛色如虎脊者有/兩也。」 顔延年赭 白馬賦垂稍植髪。 李善註髪額上毛也 |
5) 陳琳為曹洪與 魏文帝 書整蘭筋。 |
6) 李善註「相馬經云一/筋從𤣥中出謂之蘭筋、𤣥中者目上䧟如井字蘭、筋堅者千里。 吕向註蘭筋馬筋節堅者千里足也 漢天馬歌 志俶儻精權竒赭白馬賦精權竒兮張銑註權竒善行 |
貌列子天下之馬者若滅若沒、若亡若、失若、此者絶塵弭轍 淮南子經紀山川蹈騰崑崙髙誘註騰上也崑崙 |
山名在西北其髙萬九千里。 漢天馬歌 天馬徠從西極/涉流沙九夷服説文蹶僵也。 赭白馬賦旦刷幽燕晝秣 |
荆越劉良註刷括也秣飼也。 幽燕北地名荆越南地名韻㑹晡日加申時也。 杜預左傳註秣穀馬也 晡音逋 |
天馬呼飛龍一作/黄趨目明長庚臆雙鳬尾如流星首渇 |
烏口噴紅光汗溝珠當作/朱曽陪時龍躍蕭本/作躡天衢羈金 |
絡月照皇一作/星都逸氣稜淩九區白璧如山誰敢沽回 |
頭笑紫燕但覺爾輩愚 |
黄伯仁龍馬頌耳如剡筩目象明星初學記長庚太白星也。 |
史記索隠韓詩云太白晨出東方為啟明昏見西方為長/庚齊民要術馬胸欲直而出鳬間欲開望之如雙鳬又 |
曰雙鳬欲大而上註飛鳬胸兩邊肉如鳬埤雅舊説相/馬擎頭如鷹垂尾如彗後漢書作翻車渇烏施于橋西 |
用灑南北郊路章懷太子註渇烏為曲筒以氣引水上/也此言馬尾流轉有似奔星馬首昻矯狀類渇烏即如 |
彗如鷹之意齊民要術相馬之法口中欲得紅而有光/又曰口中欲得色紅白如火光為善材氣多良且夀張 |
率舞馬賦露沫噴紅沾汗流赭赭白馬賦膺門沫赭汗/溝走血李善註相馬經云膺門欲開汗溝欲深孔融薦 |
彌衡表龍躍天衢振翼雲漢楚辭躡天衢兮長驅王逸/註衢路也説文羈馬絡頭也莊子齊之以月題陸徳明 |
註月題馬額上當顱如月形者也赭白馬賦雨權協月/李善註相馬經曰頰欲圓如懸璧因謂之雙璧其盈滿 |
如月異相之表也黄伯仁龍馬頌曰雙璧似月曹植詩/應㑹皇都赭白馬賦罄九區而率順李善註九區九服 |
也沈約詩紫燕光陸離李善註尸子曰我得民而治/則馬有紫燕蘭池吕延濟註紫燕良馬也 臆音益 |
天馬奔戀君軒駷躍驚矯浮雲翻萬里足躑躅遙瞻閶闔 |
門不逢寒風子誰採逸景孫鮑照詩疲馬戀君軒公羊/傳臨南駷馬而由乎孟氏 |
何休註駷捶馬銜走也漢天馬歌天馬來龍之媒逰閶/闔觀玉臺應劭註閶闔天門也吕氏春秋古之善相馬 |
者寒風氏相口齒天下之良工也陸雲與陸/典書逸影之迹永縶幽㝠之坂 駷音聳 |
白雲在青天丘陵逺崔嵬鹽車上峻坂倒行逆施畏日晩伯樂翦 |
拂中道遺少盡其力老棄之願逢田子方惻然為我悲 |
一作/思雖有玉山禾不能療苦一作/我饑繆本/作肌嚴霜五月凋 |
桂枝伏櫪銜寃摧兩眉請君贖獻穆天子猶堪弄影舞瑤池 |
王母謡白雲在天丘陵自出戰國策夫驥之齒至/矣服鹽車而上太行蹄申膝折尾湛胕潰漉汁洒 |
地白汗交流外坂遷延負棘而不能上伯樂遭之下車/攀而哭之解紵衣以羃之驥于是俛而噴仰而鳴聲達 |
于天若出金石者何也彼見伯樂之知巳也劉峻廣絶/交論曰翦拂使其長鳴正用此事翦拂謂修翦其毛鬛 |
洗拭其塵垢史記伍子胥曰吾日暮塗逺吾故倒行而/逆施之陸徳明莊子音義伯樂姓孫名陽善馭馬石氏 |
星經云伯樂天星名主典天馬孫陽善馭故以為名韓/詩外傳田子方出見老馬於道胃然有志焉以問于御 |
者曰此何馬也曰故公家畜也罷而不為用故出放也/田子方曰少盡其力而老棄其身仁者不為也束帛而 |
贖之窮士聞之知所歸心矣鮑照詩誠不及青鳥逺食/玉山禾張協七命瓊山之禾李善註瓊山禾即崑崙山 |
之木禾山海經曰崑崙之上有木禾長五尋大五圍韻/㑹櫪牛馬皁也通作厯葢今之馬槽也漢書馬不伏厯 |
不可以趨道顔師古註㐲厯謂伏槽厯而秣之也列子/穆王肆意逺逰命駕八駿之乗馳驅千里遂賔于西王 |
母觴于瑶池之上楊師道咏飲馬詩清晨控龍馬弄影/出花林王融曲水詩序穆滿八駿如舞瑶水之隂劉良 |
註如舞謂馬行貌不蕭士贇曰此詩/為逸羣絶倫之士 遇知巳者嘆也 |
《天馬歌》 現代語訳と訳註解説
(本文)
天馬歌
#1
天馬來出月支窟,背爲虎文龍翼骨。
嘶青雲,振綠髮,蘭筋權奇走滅沒。
騰崑崙,歷西極,四足無一蹶。
(下し文)
(天馬歌)#1
天馬來たって月支の窟より出づ,背は虎文を爲し 翼骨を龍にす。
青雲に嘶き,綠髮を振い,蘭筋 權奇 走って滅沒す。
崑崙に騰り,西極を歷たり,四足 一蹶無し。
(現代語訳)
(大宛国の汗血馬を祖として中国の良い馬は天馬としたが、この馬に託して、自己の不遇を詠嘆したものである。)
天馬は、もともと中国に産出したものではなく、遠き月支國の石屈に生まれ、はるばる東に来たのである。その形を見ると、背の毛並は虎の斑のようで肋骨は龍のようである。
天上の青雲を望んではいななき、緑髪の毿毿たる鬣を打ち振り、目の上のくぼみからは、一条の筋がはっきりととおっていて、あっぱれ名馬の顔相であるばかりか、走らせば、滅するがごとく、歿するがごとく、人の目にはとても止まるものではない。
月支の故国より出でて、崑崙の山に飛び上がり、西極を経て、やがて中国に入ってきたのである。長く険しい道を通ってくる間、四足は一度も躓いたことはなかった。
(訳注)
天馬歌 #1
(大宛国の汗血馬を祖として中国の良い馬は天馬としたが、この馬に託して、自己の不遇を詠嘆したものである。)
1).【題義】 漢の天馬の二歌にならって翰林院を去って以降につくったもの。《漢書武帝紀》 「元鼎四年秋、馬生渥洼水中、作天馬之歌。太初四年春、貳師將軍廣利斬大宛王首、獲汗血馬來、作西極天馬之歌。」(元鼎四年の秋、馬 渥洼の水中に生ぜしにより、天馬の歌を/作る。太初四年の春、貳師將軍廣利は、大宛王の首を斬り、汗血の馬を獲て來りしにより、西極天馬の歌を作った。) 紀元前112年(元鼎四年)の秋、
胡震亨曰「漢郊祀天馬二歌、皆以歌瑞應、太白所擬、則以馬之老而見棄自、況思蒙收贖似去翰林後所作。」(漢の郊祀天馬二歌あり、皆 以て歌 瑞應し、太白 擬する所は、則ち以て馬之老て見て自ら棄つ、況んや思蒙 收め贖うて似て翰林を去て後 所作す。)
渥洼 1.水名。在今甘粛省安西縣境,傳説産神馬之処。 2.指代神馬。即渥洼。 樊增祥《<東溪草堂詞選>自序》:“此五君者,譬诸渥漥美駟, 荊野明摇,詞学一日不湮,斯人亦一日不没。
2). 天馬 2) 史記「天子、得烏孫馬好、名曰天馬。及得大宛汗血馬、益壯。更名烏孫馬曰西極、名大宛馬曰、天馬云。」(天子、烏孫の馬を得て好し、名づけて天馬と曰う。大宛の汗血馬を得るに及びて、益す壯。更めて烏孫の馬を名づけて西極と曰い、大宛の馬を名づけて曰うは、天馬と云う。)
烏孫は、紀元前161年から5世紀にかけて、イシク湖周辺(現在のキルギス)に存在した遊牧国家である。
〈武帝と汗血馬〉
前漢時代、中国北方に覇を唱える遊牧国家の匈奴に悩まされていた武帝は、前代までの屈辱的和平関係を脱し、武力による討伐へと策を転じた。武帝は衛青や霍去病らの将軍によって匈奴を進撃するとともに、西方から匈奴を挟撃する計画のもと、張騫を西方の月氏に派遣した。張騫は途中、匈奴に十年以上も抑留されるなどの辛苦を経ながらも西域諸国を行き巡り、その結果、西方の多くの情報を漢にもたらし、漢の西域経営の端緒を開いた。世に言う「張騫の鑿空」である。
衛青や霍去病らの活躍により、漢は次第に匈奴を駆逐し、西域を支配下に置いていった。その過程で張騫が武帝に進言した情報の一つが、フェルガナ地方の大宛国で産するという、血の汗を流し、祖先は天馬の子とされる名馬「汗血馬」であった(『漢書』西域伝(12))。この名馬を欲した武帝は、使者に「千金及び金馬」を持たせて大宛に遣わしたが、馬を惜しんだ大宛王は、漢は遠国ゆえ攻めてくることもあるまいと見くびり、使者を殺害して財物を奪い取ってしまった。そこで武帝は、弐師将軍李広利に兵十余万人を率いて大宛を討たせ、ついに汗血馬を得た。この喜びを歌ったのが、冒頭の「西極天馬之歌」である。それ以前、「天馬」の名は、先に烏孫より贈られていた良馬に対して与えられていたが、いま更に優れた大宛馬を手に入れたことで、烏孫馬は「西極」と名を改められ、「天馬」の称は大宛馬に与えられることになった(『史記』大宛列伝)。
武帝による積極的な外征は、西域諸国に漢の威を示すこととなり、以後、楼蘭にはじまり安息、康居などの西域諸国が陸続と漢に入貢するにいたった。また武帝は、西域のみならず南方や東方にも遠征の手を伸ばし、その結果、西域の様々な物資が、南方の奇貨などとともに、大量に漢にもたらされるようになった。その様子を『漢書』西域伝「天馬・葡萄を聞き、則ち大宛・安息に通ず。是より後、明珠・文甲・通犀・翠羽の珍は、後宮に盈ち、蒲梢・竜文・魚目・汗血の馬は、黄門に充ち、鋸象・師子・猛犬・大雀の群は、外囿に食われ、殊方の異物、四面より至りぬ。」
天馬來出月支窟,背爲虎文龍翼骨。
天馬は、もともと中国に産出したものではなく、遠き月支國の石屈に生まれ、はるばる東に来たのである。その形を見ると、背の毛並は虎の斑のようで肋骨は龍のようである。
3). 月支 月氏。紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア、中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。大月氏時代は東西交易で栄えた。郭璞の山海經の註に「月支國多好馬」(月支國に、好馬多し) 史記正義に萬震の南州志をひいて云う「大月支、在天竺北、可七千里。地髙燥、而逺國中騎乗常/數十萬匹。城郭宫殿與大秦國同。人民赤白色、便習弓馬。土地所出、及竒偉珍物、被服鮮好、天竺不及也。外國稱、天下有三衆、中國為人衆、大秦為寳衆、月支為馬衆。」(「大月支は、天竺の北に在り、七千里可り。地 髙燥にして、而逺し。國中騎乗 常に/數十萬匹、城郭宫殿、與大秦國と同じ。人民赤白色、便ち弓馬を習う。土地出す所、及び竒偉珍物、被服鮮好、天竺も及ばざるなり。外國 稱す、天下に三衆有り、中國を人衆と為し、大秦を為寳衆とし、月支を馬衆と為す。」)
4). 背爲虎文 漢の天馬歌に、「虎脊兩化若鬼。」(脊の兩は鬼の若く化す。)とあって 應劭の註に「馬毛色如虎脊者有/兩也。」(馬の毛色 虎脊の如き者は兩に有るなり。) 顔延年 《赭白馬賦》「垂稍植髪。」(白馬の賦は稍に垂して髪を植う。) 李善註「髪額上毛也。」(髪は額上の毛なり。)馬の毛を切りそろえ、埃を払い、清めることを言う。
5). 龍翼骨 肋骨が龍の骨のように森張していること。
嘶青雲,振綠髮,蘭筋權奇走滅沒。
天上の青雲を望んではいななき、緑髪の毿毿たる鬣を打ち振り、目の上のくぼみからは、一条の筋がはっきりととおっていて、あっぱれ名馬の顔相であるばかりか、走らせば、滅するがごとく、歿するがごとく、人の目にはとても止まるものではない。
6). 蘭筋 目の上の窪みのところから一条の筋が走り出しているので、その一筋の堅いものは、すなわち千里の俊足であるということ。 陳琳が為曹洪のために魏文帝に与えたる書に整蘭筋とある。李善の註に「相馬經云一/筋從𤣥中出謂之蘭筋𤣥中者目上䧟如井字蘭筋堅者千里。」吕向の註に「蘭筋馬筋節堅者千里足也。」(相馬經に云う、一筋 從𤣥中より出づ、之れを蘭筋と謂う。𤣥中とは目の上䧟って井の字の如し。蘭筋堅き者は千里、と。吕向の註に 蘭筋とは馬筋節の堅き、千里足るなり。)
7). 權奇走 竒は善行の貌、即ち、蘭筋がはっきりと通っていること。(俊敏に走り抜けて、目にも止まらないことを言う。)
漢の天馬歌に志俶 儻精權竒赭。 白馬賦 精權竒兮 張銑註權竒善行
騰崑崙,歷西極,四足無一蹶。
月支の故国より出でて、崑崙の山に飛び上がり、西極を経て、やがて中国に入ってきたのである。長く険しい道を通ってくる間、四足は一度も躓いたことはなかった。
8). 騰 上がる。
9). 崑崙 崑崙とは、中国古代の伝説上の山岳。崑崙山・崑崙丘・崑崙虚ともいう。中国の西方にあり、黄河の源で、玉を産出し、仙女の西王母がいるとされた。仙界とも呼ばれ、八仙がいるとされる。崑崙奴とは、アフリカ系黒人に対しての呼び名であるが、伎楽の崑崙〔くろん〕面の名称も、そもそもは黒人のことをさした。
10) 歷西極 ユウーラシア大陸の西の果て、西極、天馬歌、漢の天馬歌、「天馬徠、從西極、涉流沙、九夷服。」(天馬徠、西極より、流沙涉り、九夷に服す。)とあり、説文に蹶僵なり。
11) 四足無一蹶 四本の脚、つまずくことは全くない。