天馬歌(卷三(一)二三四)
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2016年11月24日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
744年-013-#4卷162_11-#4 天馬歌(卷三(一)二三四)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7697 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
757年-24 江雨有懷鄭典設 杜詩詳注(卷一八(四)一六一四)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7705 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 巻一18 (24)回目温庭筠 《更漏子六首其四》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7706 (11/24) |
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Blog |
花間集 巻一 (27)回目温庭筠 《更漏子六首 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7724 (11/27) |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
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744年-013-#4卷162_11-#4 天馬歌(卷三(一)二三四)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7697
まったくもって、寒風子のように、よく馬を相する人でなければ、だれか逸景の子孫ともいうべきこの名馬を見分けることが出来ようか。仙郷がはるか遠き所にあることは、白雲の青天のなかにあるがごときであるし、これを隔てている丘陵は遠きはるか先まで連なって、険しくそびえたっている。あの天馬も今、塩を運搬する馬となって、重い車を引かされ、峻坂を上ってゆき、無理なことを無理矢理させられて、日の暮れるのを恐れ、朝が来るのを恐れているのである。思い起こせは、伯楽は初めにこの馬を見つけ出し、せっかく、鬣や前髪を切りそろえ、塵や垢を洗い流したり、毛づくろいをして心が通じ合うほど世話をしていたのに、どうして中道にしてこれをやめ、これを捨ててしまったのであろうか、若い時その材力を尽くしてずいぶん働き、役だったのに、老いて後には誰も構ってくれないというのだろうか
744年-013-#3 |
天馬歌(卷三(一)二三四) |
漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7691 |
全唐詩卷162_11-#3 |
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李白集校注巻 03-012 |
李太白集 巻12-006 -#3 |
卷別 |
李白集校注 |
全唐詩 |
李太白集 |
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天馬歌(卷三(一)二三四) |
卷162_11 《天馬歌》 |
卷二_12 《天馬歌》 |
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詩題 |
天馬歌 |
文體 |
樂府 |
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詩序 |
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作地點 |
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及地點 |
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交遊人物 |
交遊地點 |
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天馬歌 #1
(大宛国の汗血馬を祖として中国の良い馬は天馬としたが、この馬に託して、自己の不遇を詠嘆したものである。)
天馬來出月支窟,背爲虎文龍翼骨。
天馬は、もともと中国に産出したものではなく、遠き月支國の石屈に生まれ、はるばる東に来たのである。その形を見ると、背の毛並は虎の斑のようで肋骨は龍のようである。
嘶青雲,振綠髮,蘭筋權奇走滅沒。
天上の青雲を望んではいななき、緑髪の毿毿たる鬣を打ち振り、目の上のくぼみからは、一条の筋がはっきりととおっていて、あっぱれ名馬の顔相であるばかりか、走らせば、滅するがごとく、歿するがごとく、人の目にはとても止まるものではない。
騰崑崙,歷西極,四足無一蹶。
月支の故国より出でて、崑崙の山に飛び上がり、西極を経て、やがて中国に入ってきたのである。長く険しい道を通ってくる間、四足は一度も躓いたことはなかった。
#2
雞鳴刷燕晡秣越,神行電邁躡慌惚。
こで、雞鳴の時に北方の燕の國において巣作りをして雛を養っていたかとおもうと、日暮れには、南方である越の地方で秣かうという、一日のうちに、中国の北の端から南の果てまでも、駆け通すというので、その走る姿は、神霊が飛行したり、電光がひらめいたりするようで、足が地につくかつかぬほどで、「慌惚を躡む」というほどである。
天馬呼,飛龍趨,目明長庚臆雙鳧。
この天馬が声を上げて一度嘶けば、たちまちのうちに飛竜厩の駿馬たちも一斉に走り出し、目はキラキラと輝き、まるでそれは宵の明星がと見まごうばかりで、兩の胸は高く膨れ上がって二羽のカモを並べたようである。
尾如流星首渴烏,口噴紅光汗溝朱。
尻尾はふさふさとして、流星の光芒のようであり、首は水をくみ上げる渴烏と同じような形をしているし、口中は、真っ赤に輝き、汗の流れるところは溝を為して、血の色に潤っていて、まさに「汗血馬」という所以そのものである。
曾陪時龍躡天衢,羈金絡月照皇都。
この天馬はかつて、天子のお供をして、都大路を練っていったことがあって、首や頬を絡める小金の綱は、月といわれる馬の頬に輝けば、その月が皇都を照らし輝いている。
#3
逸氣稜稜淩九區,白璧如山誰敢沽。
したがって、馬は、逸氣稜稜として、九千里、世界を藐視していたほどであるが、この時こそ、天馬として知られていたからこそ、価値のある白玉を山のように積み上げても到底、売ってもらえるようなものではないのである。
回頭笑紫燕,但覺爾輩愚。
どう頭をめぐらしてみても、漢の文帝の良馬九匹、其の一の紫燕騮などというものであってもまるで眼中になく、一笑にふされ、すべて愚かなものとして斥けられるのを覚えるのが関の山であるくらいである。
天馬奔,戀君軒,駷躍驚矯浮雲飜。
しかし、天馬は、やがて、天子に捨てられ、眷顧を得られなくなって、所構わず惑い走り、天子の御車を引きたいと思いつづけていても、持っている能力は変わることがなくても、ひとたび鞭を打たれて走らされても、こどくになってしまった馬は浮雲の飜るようなものである。
萬里足躑躅,遙瞻閶闔門。
天子の御車を引きたいと思いつづけていても、天馬の万里をかける能力の足も、寵愛を失えば、足踏みをして行き悩むだけであり、はるか先の九重の天門、閶闔門を見つめるだけなのである。
#4
不逢寒風子,誰採逸景孫。
まったくもって、寒風子のように、よく馬を相する人でなければ、だれか逸景の子孫ともいうべきこの名馬を見分けることが出来ようか。
白雲在青天,丘陵遠崔嵬。
仙郷がはるか遠き所にあることは、白雲の青天のなかにあるがごときであるし、これを隔てている丘陵は遠きはるか先まで連なって、険しくそびえたっている。
鹽車上峻坂,倒行逆施畏日晚。
あの天馬も今、塩を運搬する馬となって、重い車を引かされ、峻坂を上ってゆき、無理なことを無理矢理させられて、日の暮れるのを恐れ、朝が来るのを恐れているのである。
伯樂翦拂中道遺,少盡其力老棄之。
思い起こせは、伯楽は初めにこの馬を見つけ出し、せっかく、鬣や前髪を切りそろえ、塵や垢を洗い流したり、毛づくろいをして心が通じ合うほど世話をしていたのに、どうして中道にしてこれをやめ、これを捨ててしまったのであろうか、若い時その材力を尽くしてずいぶん働き、役だったのに、老いて後には誰も構ってくれないというのだろうか
#5
願逢田子方,惻然爲我悲。
雖有玉山禾,不能療苦飢。
嚴霜五月凋桂枝,伏櫪銜冤摧兩眉。
請君贖獻穆天子,猶堪弄影舞瑤池。
(天馬歌)#1
天馬來たって月支の窟より出づ,背は虎文を爲し 翼骨を龍にす。
青雲に嘶き,綠髮を振い,蘭筋 權奇 走って滅沒す。
崑崙に騰り,西極を歷たり,四足 一蹶無し。
#2
雞鳴には燕に刷【つくろ】い晡【ひぐれ】には越に秣【まぐさか】う,神行電邁 躡んで慌惚。
天馬呼び,飛龍趨り,目は長庚よりも明かに 臆は雙鳧【そうふ】。
尾は流星の如く首は渴烏,口は紅光を噴いて汗溝は朱なり。
曾て時龍に陪して天衢を躡み,羈金 絡月 皇都を照らす。
#3
逸氣 稜稜として九區を淩ぎ,白璧 山の如く 誰か敢て沽わん。
頭を回らして 紫燕を笑い,但だ覺ゆ 爾 輩の愚なるを。
天馬奔り,君が軒を戀う,駷躍【しょうやく】驚矯 浮雲飜える。
萬里 足 躑躅,遙に瞻る 閶闔の門。
#4
寒風子に逢わず,誰か採らん 逸景の孫。
白雲 青天に在り,丘陵 遠く崔嵬。
鹽車 峻坂に上り,倒行 逆施 日の晚るるを畏る。
伯樂 翦拂 中道に遺し,少にして其の力を盡し 老いて之を棄つ。
#5
願わくば田子方に逢うて,惻然として我が爲に悲しまん。
玉山も禾有りと雖も,飢に苦しむを療する能わず。
嚴霜 五月 桂枝を凋み,伏櫪 冤を銜んで兩眉を摧く。
請う君 贖【あがな】うて穆天子に獻ぜよ,猶お影を弄して瑤池に舞うに堪えたり。
《天馬歌》 現代語訳と訳註解説
(本文)
#4
不逢寒風子,誰採逸景孫。
白雲在青天〈一本無青字〉,丘陵遠崔嵬。
鹽車上峻坂,倒行逆施畏日晚。
伯樂翦拂中道遺,少盡其力老棄之。
(下し文)
#4
寒風子に逢わず,誰か採らん 逸景の孫。
白雲 青天に在り,丘陵 遠く崔嵬。
鹽車 峻坂に上り,倒行 逆施 日の晚るるを畏る。
伯樂 翦拂 中道に遺し,少にして其の力を盡し 老いて之を棄つ。
(現代語訳)
まったくもって、寒風子のように、よく馬を相する人でなければ、だれか逸景の子孫ともいうべきこの名馬を見分けることが出来ようか。
仙郷がはるか遠き所にあることは、白雲の青天のなかにあるがごときであるし、これを隔てている丘陵は遠きはるか先まで連なって、険しくそびえたっている。
あの天馬も今、塩を運搬する馬となって、重い車を引かされ、峻坂を上ってゆき、無理なことを無理矢理させられて、日の暮れるのを恐れ、朝が来るのを恐れているのである。
思い起こせは、伯楽は初めにこの馬を見つけ出し、せっかく、鬣や前髪を切りそろえ、塵や垢を洗い流したり、毛づくろいをして心が通じ合うほど世話をしていたのに、どうして中道にしてこれをやめ、これを捨ててしまったのであろうか、若い時その材力を尽くしてずいぶん働き、役だったのに、老いて後には誰も構ってくれないというのだろうか
(訳注)
#4
不逢寒風子,誰採逸景孫。
まったくもって、寒風子のように、よく馬を相する人でなければ、だれか逸景の子孫ともいうべきこの名馬を見分けることが出来ようか。
36. 寒風子 馬の世話を善くしかわいがったたとえに上がる人物を言う。
吕氏春秋に(古の善く馬を相する者は、寒風氏、口齒を相す、天下の良工なり。)「古之善相馬者,寒風是相口齒,麻朝相頰,子女厲相目,衛忌相琵,許鄙相服,投伐褐相胸脅,管青相憤肋,陳悲相股腳,秦牙相前,贊君相後。凡此十人者,皆天下之良工也。其所以相者不同,見馬之一徵也。」とある。
37. 逸景孫 名馬の子孫であるという事。陸雲の陸典書に「逸影の迹、永く幽㝠の坂を縶ぐ。 」
白雲在青天,丘陵遠崔嵬。
仙郷がはるか遠き所にあることは、白雲の青天のなかにあるがごときであるし、これを隔てている丘陵は遠きはるか先まで連なって、険しくそびえたっている。
38 白雲在青天 西王母の謡に「白雲在天」王母謡「白雲在天」とあるのに基づく。
39. 丘陵遠崔嵬 丘陵は遠きはるか先まで連なって、険しくそびえたっている。この山越えの道を塩を運んでいる。
鹽車上峻坂,倒行逆施畏日晚。
あの天馬も今、塩を運搬する馬となって、重い車を引かされ、峻坂を上ってゆき、無理なことを無理矢理させられて、日の暮れるのを恐れ、朝が来るのを恐れているのである。
40. 鹽車上峻坂 このいきさつは、戦国策にみえ、前句の丘陵は太行山脈であり、長く連なるところを塩車をひいてゆく。戰國策「夫驥之齒至矣。服鹽車而上太行 蹄申膝折 尾湛胕潰漉汁洒地。白汗交流外坂遷延負棘而不能上。伯樂遭之下車攀而哭之解紵衣以羃之驥于是俛而噴仰而鳴聲達于天若出金石者何也。」(「夫れ驥の齒至る。鹽車に服して太行を上る。蹄申 膝折 尾は潰漉汁洒に地を湛胕す。白汗 交流し外坂 遷延す。棘に負いて上るに能わず。伯樂 之に遭い、下車攀て之を哭し、紵衣を解き、以て之を羃し、驥 是を俛じて 噴仰して鳴聲 天に達し金石出づるが若き者は何なるか。」)
41. 倒行逆施 無理なことをする。史記「伍子胥曰吾日暮塗逺。吾故倒行而逆施。」(伍子胥曰く、吾、日暮れて塗 逺し。吾 故に倒行して逆施す。)とある。日が暮れ行くとき、無理をさせてでも、馬を走らせることを言う。
42. 畏日晚 日の暮れるのを恐れ、朝が来るのを恐れている。無理な労働を言う。
伯樂翦拂中道遺,少盡其力老棄之。
思い起こせは、伯楽は初めにこの馬を見つけ出し、せっかく、鬣や前髪を切りそろえ、塵や垢を洗い流したり、毛づくろいをして心が通じ合うほど世話をしていたのに、どうして中道にしてこれをやめ、これを捨ててしまったのであろうか、若い時その材力を尽くしてずいぶん働き、役だったのに、老いて後には誰も構ってくれないというのだろうか
423 伯楽 天馬を守る星のこと。転じて、名馬鑑定人、あるいは、名馬を育てるのが上手な人のこと。伯樂 姓孫、名陽、善馭馬。石氏星經云 伯樂天星名。主典 天馬孫陽善馭 故以為名。(伯樂は姓を孫、名は陽、善く馬を馭す。石氏星經に云う 伯樂は天星の名なり。主典 天馬は孫陽が善く馭す 故に以て名を為す。)
伯楽について、以下の逸話がある。【伯楽一顧】
賢者が名君に才能を見出されて重用されることのたとえ、である。
『戦国策』燕策にみられる故事で、蘇代(蘇秦の弟)が、燕の為に斉に遊説に行こうとした時、
淳于髡(ジュンウコン:齊王に信任されてた名臣。博覧強記。滑稽多弁)を伯楽に見立て、齊王への面閲を依頼した話の中に【伯楽一顧】がでている。
蘇代が燕のために斉に遊説した。
斉王に謁見するまえに、先に淳于髡に説いて言うには、
駿馬を売る人が居た。
この人は三日続けて市場に立っておりましたが、誰一人として駿馬に気がつかなかった。
そこで伯楽を訪ねて言い、「私は駿馬を持っていて、これを売りたいのですが、三日間、市に立ちましたが見向きもされません。先生に来ていただいて、駿馬をご覧いただきたいのです。
子還而視之去而顧之(子、還りて之を視、去りて之を顧みよ、)先生、馬の回りをぐるっと廻って馬を凝視し、立ち去って馬を振りかえって見てほしいのです。
臣請獻一朝之費(臣請ふ、一朝の費を献ぜんと。)そうして頂ければ、私は一日分の費用をあなたに差し上げさせて頂きます。
伯楽は言われた通りに駿馬を視て、立ち去り難(がた)そうに振り返って馬を見た。
すると駿馬の値段は一日にして十倍になった。
「ところで今、私は駿馬として斉王に謁見したいと願っておりますが、私には伝手がありません。どうでしょうか、私にとっての伯楽となって下さるお気持ちはございませんか。
そうして頂けるなら、私は、一対の白璧と、黄金千鎰(センイツ)を差し上げます。 」
淳于髡が言う、「謹んでお引き受けしましょう」と。
淳于髡は斉王に事の次第を告げて、蘇代に引き合わせた。
斉王は蘇代と語り、大いに悦んだ。
44. 翦拂 鬣や前髪を切りそろえ、塵や垢を洗い流したり、毛づくろいをして心が通じ合うほど世話をしていた
45. 中道遺 折角、心が通じ合うほど世話をしていたのに、中道にしてこれをやめ、これを棄ててしまう。