羽林范將軍畫讚(卷二八(二)一六二四)
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2016年12月16日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
744年-022 -#1卷166_28 -#1 羽林范將軍畫讚(卷二八(二)一六二四) -#1Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7835 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-16-#13 巻二 17-#13答張徹【案:愈為四門博士時作。張徹,愈門下士,又愈之從子婿。】Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7836 |
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806年-16-#14 巻二 17-#14巻二 答張徹 【字解集】Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7842 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
757年-46 承聞河北諸道節度入朝歡喜口號絕句十二首 其五卷一八(四)(頁一六二五)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7837 |
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757年-54 承聞河北諸道節度入朝歡喜口號絕句十二首 【字解集】 杜詩詳注(卷一八(四)頁一六二九)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7885 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 巻一37 (45)回目温庭筠 《楊柳枝八首其八》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7832 (12/15) |
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46)回目温庭筠 《定西番・楊柳枝八首【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7838 (12/16) |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
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744年-022 -#1卷166_28 -#1 羽林范將軍畫讚(卷二八(二)一六二四) -#1Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7835
(天子の親衛の羽林范將軍の雲台に掲げられる肖像画について賛辞を述べたもの。)
長安城は宇宙の中心に位置し、それを取り巻くように国軍、禁軍、羽林軍など近衛軍団が宿営して羅列し、城壁はしっかりと築かれ、夾城も配備され、正面に向けて建物の間にめぐらす廊下道がつづいている。
天子を守る近衛軍には四十五の星座に合わせて将軍が置かれ、大将軍、将軍は輝ききらめいて、尊敬されあがめられた天子はその中心で光り輝く。
そうした中において、肖像画を掲げられた范将軍は、大将軍を拝封され、天子の広くはるかな恩に報い、忠義を全うするために奮闘する。
744年-022
-#1 |
羽林范將軍畫讚(卷二八(二)一六二四) -#1 |
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全唐詩 卷166_28 |
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全唐詩 巻 28-011 -#1 |
李太白集 巻06-007 -#1 |
漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7835 |
羽林范將軍畫讃 #1
(天子の親衛の羽林范將軍の雲台に掲げられる肖像画について賛辞を述べたもの。)
羽林列衛、壁壘南垣。
長安城は宇宙の中心に位置し、それを取り巻くように国軍、禁軍、羽林軍など近衛軍団が宿営して羅列し、城壁はしっかりと築かれ、夾城も配備され、正面に向けて建物の間にめぐらす廊下道がつづいている。
四十五星、光輝至尊。
天子を守る近衛軍には四十五の星座に合わせて将軍が置かれ、大将軍、将軍は輝ききらめいて、尊敬されあがめられた天子はその中心で光り輝く。
范公拜將、遥承主恩。
そうした中において、肖像画を掲げられた范将軍は、大将軍を拝封され、天子の広くはるかな恩に報い、忠義を全うするために奮闘する。
(羽林范將軍の畫を讃す)#1
羽林 列衛、壁壘 南垣。
四十五星、至尊を光輝す。
范公將を拜し、遥かに承る 主恩を。
#2
位寵虎臣、封傳雁門。
瞻天蹈舞、踴躍精魂。
逐逐鶚視、昂昂鴻騫。
心豪祖逖、氣爽劉琨。
名震大國、威揚列籓。
麟閣之階、粉圗華軒。
胡兵百萬、横行縱吞。
爪牙帝室、功業長存。
羽林范將軍畫讃羽林将軍見/十七巻注 |
羽林列衛、壁壘南垣。四十五星、光輝至尊。范公拜將、遥承主恩。 |
位寵虎臣、封傳雁門。瞻天蹈舞、踴躍精魂。 |
逐逐鶚視、昂昂鴻騫。心豪祖逖、氣爽劉琨。 |
名震大國、威揚列籓。麟閣之階、粉圗華軒。 |
胡兵百萬、横行縱吞。爪牙帝室、功業長存。 |
甘氏星經:羽林軍 四十五星、壘壁十二星、並在室南、主翊衛天子之軍入安飛將、 |
星欲威明天下安、星暗兵盡失。西入室五度、去北辰/一百二十三度。 |
史記正義:羽林四十五星、三三而聚、散在壘壁南、天軍也。亦 天宿衛、之兵革。 |
壘壁陳十二星横列在營室南、天軍之垣壘。 |
詩 魯頌 「矯矯虎臣、在泮獻馘。」 618 孔穎達 正義:矯矯然有威武如虎之臣 雁門郡即代州 唐𨽻河東道 |
梁書 鶚視争先龍驤並驅 |
晉書巻六二 祖逖傳:劉琨並有英氣、毎語世事、或中宵起坐、相謂曰:『若四海鼎沸、豪傑並起、吾與足下當相避於中原耳。』 |
晉書 列藩九服 式叙王官 麟閣 見四巻註 華軒見 二十五巻注 横行見 |
五巻注 詩 小雅 「祈父予王之爪牙」 107 孔穎逹 正義:鳥用爪獸用牙、以防衛巳身、此人自謂王之爪牙、以鳥獸為喻也。 |
《送羽林陶將軍》 現代語訳と訳註解説
(本文)
羽林范將軍畫讃
#1
羽林列衛、壁壘南垣。
四十五星、光輝至尊。
范公拜將、遥承主恩。
(下し文)
(羽林范將軍の畫を讃す)#1
羽林 列衛、壁壘 南垣。
四十五星、至尊を光輝す。
范公將を拜し、遥かに承る 主恩を。
(現代語訳)
(天子の親衛の羽林范將軍の雲台に掲げられる肖像画について賛辞を述べたもの。)
長安城は宇宙の中心に位置し、それを取り巻くように国軍、禁軍、羽林軍など近衛軍団が宿営して羅列し、城壁はしっかりと築かれ、夾城も配備され、正面に向けて建物の間にめぐらす廊下道がつづいている。
天子を守る近衛軍には四十五の星座に合わせて将軍が置かれ、大将軍、将軍は輝ききらめいて、尊敬されあがめられた天子はその中心で光り輝く。
そうした中において、肖像画を掲げられた范将軍は、大将軍を拝封され、天子の広くはるかな恩に報い、忠義を全うするために奮闘する。
(訳注) #1
羽林范將軍畫讃
(天子の親衛の羽林范將軍の雲台に掲げられる肖像画について賛辞を述べたもの。)
羽林 羽林は、漢称であり、唐では、禁兵という。天子の親衛で十二衛に分かれ、星座に基づいたものである。羽林大将軍、親衛大将軍、虎牙大将軍といった唐名で呼ぶこともあり、左近衛大将・右近衛大将をそれぞれ「左大将」・「右大将」と省略した呼び方もある
1. 羽林(うりん)は前漢に設立された皇帝直属の部隊名。前漢の武帝の太初元年に光禄勲の下に「建章營騎」が設立されたことに始まる。皇帝に従うことを職とした。後に「羽林騎」と改称された。羽林には令、丞が置かれたが、宣帝は中郎将(秩比二千石)と騎都尉(秩比二千石)に羽林を監督させた。また従軍して戦死した者の子を引き取って羽林で養い、武器の使い方を教え、これを「羽林孤児」と称した。後漢においても光禄勲に属し、羽林中郎将(秩比二千石)が宿衛侍従を職とする羽林郎(秩比三百石)を司った。羽林郎は漢陽(天水)、隴西、安定、北地、上郡、西河の六郡の人間から選抜された。また中郎将とは別に羽林左監と羽林右監(各秩六百石)がおり、それぞれ羽林左騎、羽林右騎を司った。
唐の軍組織
唐政府の中央軍である禁軍として、「南衙」と呼ばれる国の正規軍と「北衙」と呼ばれる皇帝親軍の二元化した軍隊が存在した。 南衙禁軍は、長安城内に駐屯し、中央十六衛(左右衛、左右驍衛、左右武衛、左右威衛、左右領軍衛、左右金吾衛、左右監門衛、左右千牛衛)で構成され、十六衛のうち、左右監門衛、左右千牛衛をのぞく十二衛が全国の折衝府を統括し、兵力は長安近隣の関内にある折衝府から送られた府兵から構成されていた。
北衙禁軍は、唐創業時、皇帝親軍として残った「元戎禁軍」を基礎としている。長安の北、苑内に駐屯した。その選抜部隊が「百騎」と呼ばれ次第に拡大し、玄宗の時代に「左右龍武軍」として確立した。 また、元戎禁軍の本流からは 「左右羽林軍」が設立された。玄宗の時代に、「左右龍武軍」、 「左右羽林軍」は衰退した府兵の代わりに皇帝警護の中心となった。
南衙禁軍は、府兵制度の衰退とともに兵力の確保が困難になり、一部負担を軽減して下等戸から優先して徴兵する彍騎を確保しようとしたが、府兵制度事態が崩壊したため、玄宗の時代に名目的な存在となった。そのため、北衙禁軍がただ「禁軍」と呼ばれることになる。
安史の乱の際に、長安は陥落し、中央軍は壊滅していた。そのため、安史の乱の鎮圧にあたった粛宗が新たに北衙に「左右神武軍」を定めた。代宗の時代に「左右神策軍」が、徳宗は「左右神威軍」を新設し、 北衙は十軍となった。左右神策軍が、吐蕃の侵攻や朱泚の乱で功績を建てたため、左右神武軍・左右神威軍を吸収し、禁軍の中核を担うようになった。憲宗の代には、 左右神策軍の力を背景に藩鎮勢力を抑え込み、皇帝権の確立に貢献した。晩唐には、左右神策軍は横暴となり、民間は大変苦しんだ。
唐の軍は、府兵制の時代に、10人から成る「火」を最小単位とし、「火」が5つから成る50人を「隊」、「隊」が2つから成る100人を「旅」、「旅」が2つから成る200人を「団」とし、全国に600以上ある折衝府(800人~1,200人、初唐には600人~1,000人)が統括した。
それぞれの折衝府は、折衝都尉が責任者となり、以下、果毅都尉、別将・長吏、校尉、旅帥、隊正、副隊正、火長、衛士という官位になっていた。校尉は団を率い、旅帥は旅を率い、隊正は隊を率い、火長は火を率いた。副隊正から上位は、官品が与えられていた。功績が認められれば、勲官を受けることができ、府兵も校尉までは昇進することが制度上可能であった。折衝府は、十二衛は、(左右衛、左右驍衛、左右武衛、左右威衛、左右領軍衛、左右金吾衛)及び太子六宮六率(左右衛率、左右司御率、左右清道率)によって統括された。
十二衛はそれぞれ1名の大将軍と2名の将軍が置かれ、各衛は折衝府を40府から60府を統括し、各衛にも奉車都尉、司階、長史、録事参軍事、司戈・諸曹参軍事、執戟の順で官品を持つ軍人が置かれた。
杜佑の『通典』に引用する「衛公李靖兵法」によると、戦争の時には、将軍は兵2万人を与えられ、7軍に分けた。7軍は中・前・後・左・右軍、左・右虞候軍であり、2万の編成は騎兵4,000、弩兵2,000、弓兵2,200、跳蕩兵2,900、奇兵2,900、輜重兵6,000であった。戦いが終わると、将軍は朝廷に帰還し、府兵は折衝府に戻った。
王維 少年行《少年行四首 其二》「出身仕漢羽林郎、初随驃騎戦漁陽。」にみえる。また李白も《侍從遊宿溫泉宮作》「羽林十二将、羅列応星文。」
《送羽林陶將軍》「將軍出使擁樓船,江上旌旗拂紫煙。」とみえる。
李白319 《巻十九19侍從遊宿溫泉宮作》Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首
羽林列衛、壁壘南垣。
長安城は宇宙の中心に位置し、それを取り巻くように国軍、禁軍、羽林軍など近衛軍団が宿営して羅列し、城壁はしっかりと築かれ、夾城も配備され、正面に向けて建物の間にめぐらす廊下道がつづいている。
2. 列衛 衛 まもる。 防衛、衛生. 建物などを定常的に警護すること又はその人。 衛兵、守衛. 周りを取り囲む。宿衛:宿泊して護衛すること。また,その兵士。
3. 壁壘 城壁をめぐらしたとりで。長安城、北側と東側城壁に設置された夾城をいう。
4. 南垣 南正面に向けて建物の間にめぐらす廊下がつづいている。①垣根。②室内に置く仕切りや、建物の間にめぐらす廊下など、垣根に似たもの。
四十五星、光輝至尊。
天子を守る近衛軍には四十五の星座に合わせて将軍が置かれ、大将軍、将軍は輝ききらめいて、尊敬されあがめられた天子はその中心で光り輝く。
5. 四十五星 長安城、皇城、大明宮を指す。12の星座でよんだ門のこと。宮廷の門を守備する軍。長安の都市計画は、宇宙都市の中心である皇城を幾重にも守る表現として、星座で国軍三軍を整理していった。
羽林四十五星 羽林軍. 按《星經》:羽林軍星四十五星,壘壁十二星並在室南,. 主翊衛天子之軍。西入室五度,去北辰一百三十三. 度也。 按《史記‧天官書》:虛南有眾星,曰羽林天軍。 (注)《正義》曰:羽林三十五星,三三而聚散在壘壁南,. 天軍也。亦天宿衛主兵革。
6. 至尊 1 この上なくとうといこと。また、そのもの。2 天子。天皇。
范公拜將、遥承主恩。
そうした中において、肖像画を掲げられた范将軍は、大将軍を拝封され、天子の広くはるかな恩に報い、忠義を全うするために奮闘する。
9. 范公拜將 雲台二十八将は、後漢の光武帝の天下統一を助けた28人の功臣である。永平年間に明帝が前代の功臣たちに感じて洛陽南宮の雲台に二十八将の肖像画を描かせたことから「雲台二十八将」と称される。また永初6年の安帝の詔に「建武元功の二十八将は天命を受けた天子を扶けた勇猛な臣下であり、讖記(予言書)に徴兆がある」という。
雲台にはその他の功臣、王常・李通・竇融・卓茂も加えられて計32人が顕彰された[4]ため、「雲台三十二将」と称されることもある。しかし、同じく光武帝の功臣のひとりである馬援は、すでにその娘が明帝の皇后となっていたため選ばれなかった。東平王・劉蒼が「なぜ伏波将軍(馬援)の像を描かないのですか」と尋ねたが、明帝は笑って答えなかったという
范曄は『後漢書』において「中興の二十八将は、前代には二十八宿の星座に対応したものという考えがあったが、未だ解明されていない」と述べた上で、「みな風雲に乗じて智勇を奮い、佐命の臣と称され、志操と才能とを兼ね備えた者たちである」と評価している。
また、雲台二十八将は天下統一の後に前漢初めの功臣のような粛清を受けなかった一方で、朝廷の要職に任用されることもなかった。『後漢書』はその理由について詳論している。
まず范曄は、「周の王道が廃れて覇道が行われた春秋時代でさえも、桓公における管仲・隰朋、文公における先軫・趙衰のように功臣・賢者はみな然るべき地位に就いていた。しかし、漢初の功臣は過大な封邑や地位を与えられたため、権勢を増して君主から疑惑の目を向けられ、乱が生じた。そうであれば蕭何・樊 噲すら罪人扱いを受け、韓信・彭越が誅殺されてしまったのも当然である」と指摘する。
長安は、円い矢の中心と四角い地の中心の交差する点に立地している、と観念されていた。隋唐長安城における、この交差点は、宮城の中核をなす宮殿、すなわち、隋の大興殿、唐の太極殿である。
唐長安城の宮城の宮殿を太極宮とよんだのは、宇宙の都としての長安の意味を端的にしめす名称といえよう。この太極殿の「太極」は、『易経』 の用語によると、混沌とした宇宙の始原的状態を意味し、太極殿の北に位置する両儀殿の「両儀」は、その太極から生じた、万物の根源である陰と陽、ないし天と地を意味している。
このように、太極官は、『易経』 のイメージに包まれているが、一方、太極は、天文占星思想では、北極周辺の星座を意味し、西洋星座の小熊座やケフェウス座、願麟座などに重なる「紫微官」(=紫宮・紫徴垣) の中核をなす位置にあり、天の最高神・天帝(=実天上帝・天皇大帝) の常居と考えられていた。つまり、太極殿は、天帝の代行者として天下に臨む、天子の居住地を意味しており、宇宙の中心に直結する場所として認識されていたのである(図40)。
古来、王都建設の時には、北極星の観測により、都市の南北軸が決められたので(『周礼』夏官、土方氏)、もともと、南北線上の宮殿は、北極星を象徴する位置が与えられていた。
後漠から、北辰・北斗信仰が盛んとなり、天の中心としての北極星(=北辰・天極・帝星) への絶対視が強まってゆき、その動きと対応し、王都の宮城の正殿としての太極殿の名が、三国魂から現れ後代に継承されてゆく。唐長安城の太極殿の北方配置も、このような、天文思想の流れの中で理解することができ、地上の太極殿は、天上の北極星を中心とする、天帝の居住地に直接つながり、宇宙軸の不動の中心に位置していたのである。
また、宇宙の最高神・天帝(天皇大帝)は、道教の最高神でもあり、その天上の神仙界が地上に投影されたものが、晴唐長安城の太極殿をはじめとする建築群である、と考えることもできる(福永光司『道教と日本思想』徳間書店、一九八五年、一五三〜一五四頁)。
このような道教の影響は、唐代における道教の浸透に応じて、六六三年に完成した大明宮の宮殿配置に、さらに具体的にあらわれている。大明宮は、蓬莱官とも称されるように、天上の神仙界を摸してつくられたのである(砂山稔「道教と隋唐の歴史・社会」 『隋唐道教思想史研究』 平河出版社、一九九〇年、初出一九八六年)。