卷一六四_39 東武吟
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2017年1月8日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
|
||||
|
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
|
|||||
|
Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
744年-029-#4卷一六四_39 東武吟(卷五(一)三九八)-#4Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7949 |
|
|||
|
744年-集05【字解集】 a初出金門・b東武吟・c來日大難・d古風三十八Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7979 |
|
|||||
|
|
||||||
|
|
||||||
|
|
|
|
|
|
||
|
|
||||||
|
Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-19 全唐文551-11-#1至鄧州北寄上襄陽於相公書 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7950 |
|
||||
|
806年-018-#6 全唐文551-11-#6喜侯喜至贈張籍、張徹 【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7944 |
|
|||||
|
|
||||||
|
|
||||||
|
|
||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
||||||
|
Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
757年-63 園官送菜 -#2 (本文-1) 杜詩詳注(卷一九(四)一六三六)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7951 |
|
|||
|
757年-集-2 【字解集】 園・歸・園官送菜・園人送瓜 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7993 |
|
|||||
|
|
||||||
|
|
||||||
|
|
|
|||||
|
|
||||||
|
|
|
|
||||
|
●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
|
|||||
|
Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 巻二-04 (65)回目温庭筠 《遐方怨二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7952 (01/08) |
|
|||
|
fc2 |
Blog |
70)回目温庭筠 《清平樂/遐方怨/訴衷情/思帝鄉/夢江南 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7982 (01/13) |
|
|||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
|
|||||
|
Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
|
||||
|
玉集-04 歌詩一首井序・留別妻一首・羽林郎詩一首【字解集】〈〉 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7977 |
|
|||||
|
|
||||||
|
|
||||||
|
|
||||||
|
|
||||||
744年-029-#4卷一六四_39 東武吟(卷五(一)三九八)-#4Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7949
しかし、天命、我に與みせず、まもなく、金馬門を去ることになり、この身は飛蓬のように、処定まらない、放浪の身となったのである。賓客も、日日に疎くなって散じつくし、酒樽は、空に成ったままになっていった。そうであっても、我が才力には、これからもなお、たのむべく、世上の豪雄たるに愧じない積りである。だからこうして東武吟を作って、わが経歴の一斑を歌ったのであるが、曲は既につきても、言いたい情は未だ終るものでなく、気は治まるものではないのである。今この詩を書して、知己に挨拶をおくるが、吾は、これから商山に分け入って、夏貴公、綺里李等、いわゆる商山の四皓ともいうべき人々を尋ねて、ともに遊び暮そうと思うのである。
744年-029-#4 - |
東武吟(卷五(一)三九八)-#4 - |
|
全唐詩卷一六四_39 |
||
李白集校注卷五(一)三九八)-#4 |
李太白集巻 05-036 |
漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7949 |
-376-161巻四36 東武吟 〔出東門后書懷留別翰林諸公 〕 (好古笑流俗,)
Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-15【56首】
卷別 | 李白集校注 | 全唐詩 | 李太白集 |
卷五(一)三九八)-#4 | 卷一六四_39 | 巻 05-036 | |
詩題 | 東武吟(卷五(一)三九八)-#4 | ||
文體 | 樂府 | | |
詩序 | 出東門后書懷留別翰林諸公 | ||
初句 | 0 | 744年天寶三年44歲 | |
作地點 | 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) 金城 | ||
及地點 | 新豐 (京畿道 京兆府 新豐) | ||
| 甘泉宮 | ||
| 咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸 | ||
| 0 | ||
交遊人物 | 0 |
卷164_39 《東武吟》、李太白集 巻四36 -#1
東武吟
(李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。)
好古笑流俗,素聞賢達風。
わが性分は、古風を好み、滔滔たる流俗の軽薄なるものを笑い、早くより、古しえの賢達の人の風を聞いて、之を敬慕して居た。
方希佐明主,長揖辭成功。
自分の志ざすところは、明主を輔佐して、大功を為し、やがて、長揖して歸臥するといふことであった。
白日在高天,回光燭微躬。
天子は、白日の高天に在るが如く、その廻転する光が、この微躯を照らし、特に恩眷の御沙汰があった。
恭承鳳凰詔,欻起雲蘿中。
かくて、紫泥で皇帝が儀式をされた鳳凰の詔勅を授かり、一朝、雲蘿の中より起って都に上り、皇城の正門朱雀門はひらかれ登場することになった。
#2
清切紫霄迥,優遊丹禁通。
清切の閒官を得て、天上の遥かなるに朝し、優游して、自在に宮禁に出入することになった。
君王賜顏色,聲價淩煙虹。
君王は、拝謁を賜はり、特に御引立下さったから、聲價は、煙虹を凌いで、天にも届く位になった。
乘輿擁翠蓋,扈從金城東。
やがて、天子が御幸になり、翠蓋を擁して、乗輿を進められる時には、自分も、供奉の列に備わって、長安の東なる驪山の温泉に御供をした。
寶馬麗絕景,錦衣入新豐。
その時は、古しえの義の武帝の名馬、“絶景”にも勝れる名馬に跨り、きらきらの錦衣を著て、新豊の市に入ったことがあったのである。
#3
依岩望松雪,對酒鳴絲桐。
やがて、驪山に到着してから後は、巌によりかかって、松に降り積もる雪を眺め、酒に対して琴を掻き鳴らし、日日悠悠として、遊び暮らした。
因學揚子雲,獻賦甘泉宮。
やがて、甘泉宮に入御されるにも持従し、そこで自分は、古しえの揚子雲にならって、賦を献じたのである。
天書美片善,清芬播無窮。
その賦がつまらぬ業くれながら、御書を賜はって、特に清芬であると賞美せられたことから、名誉は無窮に播いたのである。
歸來入咸陽,談笑皆王公。
それから長安に歸ってきてからは、王公輩と交際して、談笑したものである。
#4
一朝去金馬,飄落成飛蓬。
しかし、天命、我に與みせず、まもなく、金馬門を去ることになり、この身は飛蓬のように、処定まらない、放浪の身となったのである。
賓客日疏散,玉樽亦已空。
賓客も、日日に疎くなって散じつくし、酒樽は、空に成ったままになっていった。
才力猶可倚,不慚世上雄。
そうであっても、我が才力には、これからもなお、たのむべく、世上の豪雄たるに愧じない積りである。
閑作東武吟,曲盡情未終。
だからこうして東武吟を作って、わが経歴の一斑を歌ったのであるが、曲は既につきても、言いたい情は未だ終るものでなく、気は治まるものではないのである。
書此謝知己,吾尋黃綺翁。
今この詩を書して、知己に挨拶をおくるが、吾は、これから商山に分け入って、夏貴公、綺里李等、いわゆる商山の四皓ともいうべき人々を尋ねて、ともに遊び暮そうと思うのである。
(東武吟)
古を好んで、流俗を笑う,素より賢達の風を聞く。方に明主を佐け,長揖して成功を辭せんことを希う。
白日、高天に在り,回光 微躬を燭らす。恭しく鳳凰の詔りを承け,欻ち雲蘿の中より起つ。
#2
清切 紫霄迥かに,優遊 丹禁通ず。君王 顏色を賜わり,聲價 煙虹を淩ぐ。
輿に乘じて翠蓋を擁し,扈從す 金城の東。寶馬 絕景麗かに,錦衣新豐に入る。
#3
岩に依って松雪を望み,酒に對して 絲桐を鳴らす。揚子雲を學ぶに因って,賦を獻ず甘泉宮。
天書 片善を美し,清芬 無窮に播く。歸り來って 咸陽に入り,談笑 皆 王公。
#4
一朝 金馬を去り,飄落 飛蓬と成る。賓客 日に疏散,玉樽 亦た已に空し。
才力 猶お倚る可く,世上の雄たるに慚じず。閑に東武吟を作り,曲盡きて 情 未さ終らず。
此を書して 知己に謝し,吾は 黃綺の翁を尋ねん。
『東武吟』現代語訳と訳註解説
(本文)
#4
一朝去金馬,飄落成飛蓬。
賓客日疏散,玉樽亦已空。
才力猶可倚,不慚世上雄。
閑作東武吟,曲盡情未終。
書此謝知己,吾尋黃綺翁。
(下し文)
#4
一朝 金馬を去り,飄落 飛蓬と成る。賓客 日に疏散,玉樽 亦た已に空し。
才力 猶お倚る可く,世上の雄たるに慚じず。閑に東武吟を作り,曲盡きて 情 未さ終らず。
此を書して 知己に謝し,吾は 黃綺の翁を尋ねん。
(現代語訳)
#4
しかし、天命、我に與みせず、まもなく、金馬門を去ることになり、この身は飛蓬のように、処定まらない、放浪の身となったのである。
賓客も、日日に疎くなって散じつくし、酒樽は、空に成ったままになっていった。
そうであっても、我が才力には、これからもなお、たのむべく、世上の豪雄たるに愧じない積りである。
だからこうして東武吟を作って、わが経歴の一斑を歌ったのであるが、曲は既につきても、言いたい情は未だ終るものでなく、気は治まるものではないのである。
今この詩を書して、知己に挨拶をおくるが、吾は、これから商山に分け入って、夏貴公、綺里李等、いわゆる商山の四皓ともいうべき人々を尋ねて、ともに遊び暮そうと思うのである。
東武吟
(李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。)
2 詩題 「出金門後、書懐、留别翰林諸公」「金門を出し後、懐を書して、翰林諸公に留別す。」とあって、李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。
一朝去金馬,飄落成飛蓬。
しかし、天命、我に與みせず、まもなく、金馬門を去ることになり、この身は飛蓬のように、処定まらない、放浪の身となったのである。
26. 金馬 漢代の未央宮(びおうきゅう)の門の一。側臣が出仕して下問を待つ所。金馬。金門。ここでは、大明宮の門の名、銀臺門の右銀臺門(金馬門)で、大明宮西壁三門の真ん中に位置し、入門して左に翰林院がある。《長安志、東内大明宮章》「西面右銀台門、?侍省右藏庫、次北、翰林門?翰林院學士院、又、東翰林院、北有少陽院、結鄰殿。翰林門北、曰、九仙門。」
27. 飛蓬 ①風に吹かれてとぶ蓬(ホウ)。《同義語》蜚蓬。②頭髪の乱れたさまのたとえ。③ふらふらして定まらない境遇のたとえ。④あてどない旅人のたとえ。▽「蓬」は、ひめじょおんに似た植物。
賓客日疏散,玉樽亦已空。
賓客も、日日に疎くなって散じつくし、酒樽は、空に成ったままになっていった。
才力猶可倚,不慚世上雄。
そうであっても、我が才力には、これからもなお、たのむべく、世上の豪雄たるに愧じない積りである。
28. 可倚・上雄 自分の能力は、頼りにされるべき才力を持っているし、頼りにされればそれにこたえるに、世上の豪雄に負けるものではないという、対句である。
閑作東武吟,曲盡情未終。
だからこうして東武吟を作って、わが経歴の一斑を歌ったのであるが、曲は既につきても、言いたい情は未だ終るものでなく、気は治まるものではないのである。
29. 東武吟・情未終 東武吟は古くから詠われ、進化発展してきた、自分の東武吟もその意味で詠っている、それに対して、そうした情は終るものでなく、気は治まるものではないという対句である。
書此謝知己,吾尋黃綺翁。
今この詩を書して、知己に挨拶をおくるが、吾は、これから商山に分け入って、夏貴公、綺里李等、いわゆる商山の四皓ともいうべき人々を尋ねて、ともに遊び暮そうと思うのである。
30. 黃綺翁 夏黃公、綺里季のことで、商山の四皓の二人を言う。東園公・綺里季・夏黄公・甪里【ろくり】先生の四人の隠士。みな鬚眉【しゅび】が皓白の老人であったのでいう。
秦の始皇帝の時、国難を避けて商山に匿れた四人の老高士のこと、四皓とは鬚眉皓白、故にこれを四皓といふ、その四人は、東園公、綺里季、夏黄公、甪里先生で、漢高祖その名を聞き招聘したが応ぜず、偶々高祖の寵妃戚夫人が上盈太子を廃して自が産んだ趙王如意を立てやうとしたので、太子の生母呂后が之を悲しみ張良を召して之を謀る、張良即ち商山に四皓を訪ひ其出廬を促したこと、史記留僕世家、前漢書にあり、又、『塵添壒囊鈔』に記す処精しい、左に之を引く。
四皓と云ふは皆皓の字を付くる名歟、非爾には、皓は皜の字也、又は皞共書く、皜は胡老の友、白色也と釈せり、四人共に年老いて白髪なる故に是れを四皓と云ふ也、譬へば秦の世の乱を遁れて商洛山に隠れ居るなり、仍商山の四皓といふ、其の名、園公、甪里先生、綺里季、夏黄公也、漢の世に出仕ふる故に漢の四皓と云ふ、高祖の嫡男恵帝を太子と定め給ふと云へ共、愛する戚夫人が子趙王如意をいとほしみて恵帝を捨て如意を太子とせんとし給ひしに、恵帝の母呂后驚きて張良に云ひ合せ給ふに、張良申して曰く是れゆゝしき大事也、但高祖の召仕はいやと思食す者四人ありと云へ共、高祖の御心余りに侈りて人をあなどり給ふ故に漢の臣たらじとて未だ商山に隠居し侍べり、此の事をいみじく口惜く思食せ共不叶して年を経たり、所詮彼等を何にもして召出して太子の輔佐の臣とし給はゞ、君も動し給はじと申しければ呂后兎角して招き寄びて太子に付給へり、其の後高祖宴会し給ひけるに太子出給ふ時、彼の四人伴にありければ、奇みてあれは何人ぞと問ひ給ふに各其の名を謁りけり、其の時高祖大に驚きて我汝を求むる事年久し、何ぞ今我子の賎きに出仕ふると、四皓が申さく、君は人をあなどり給ふ故に不仕、太子は其の性穏にして人生の機に足り給へり、然れば率土の皇民皆以て太子の御為には一命を軽くすべしと承る間、我等も参り仕ふと申しければ、高祖戚夫人に向ひて、彼の四人已に太子を輔佐す、羽翼更に動じ難しとて、恵帝に定りければ、戚夫人涙を流すと云へり、是れ併しながら張良が計ごとに出たり。
東武吟 |
一作出金門後書懐留别翰林諸公東樂/府詩集古今樂録曰王僧䖍技録有 武吟行今不歌。樂府觧題曰、鮑照云、「主人且勿諠」、沈/約云、「天徳深且廣。」、傷時移事異榮華徂謝也。 左思、《齊都賦》註云、東武太山皆齊之土風、絃歌謳吟之/曲名也。 通典曰、漢有東武郡、今、高宻諸城縣是也。 元和郡縣志、宻州諸城縣、即漢東武縣也。属琅邪/郡。樂府章所謂東武吟者也。《海録碎事》東武吟樂府、詩人有少壮從征伐、年老被棄、逰於東武者不敢論功、但戀君耳。 |
好古笑流俗,素聞賢達風。方希佐明主,長揖辭成功。 |
白日在高天,回光燭微躬。恭承鳳凰詔,欻起雲蘿中。 |
十六國春秋「石虎在臺上有詔書以五色紙著鳯凰口中鳯既銜詔侍人放數百丈緋䋲轆轤迴轉状/若飛翔飛下端門鳯以木作之五色文身脚皆用。」 |
清切紫霄迥,優游丹禁通。君王賜顔色、聲價凌烟虹。 |
乗輿擁翠盖、扈從金城東。寳馬麗絕景、錦衣入新豐。 |
|
依繆本/作倚巖望松雪、對酒鳴絲桐。因學揚子雲、獻賦甘泉宫。 |
天書美片善、清芬播無窮。歸來入咸陽、談笑皆王公。許本誤失/去此二句 |
|
一朝去金馬、飄落成飛蓬。賔客繆本/作友日疎散、玉樽亦已。 |
才力猶可倚、一作/恃不慙世上雄。閒作東武吟、曲盡情未終。 |
書此謝知已、吾尋黄綺翁。一作扁舟尋釣翁達劉/峻廣絶交論斯賢 之 |
素交沈約詩便欲息微躬漢書恭承嘉惠兮顔師古註/恭敬也 金宋書殷淳居黄門為清切魏書對九重之清切望八襲之/峥嶸 梁簡文帝圍城賦升紫霄之丹地排玉殿之金扉 隋書分司丹禁侍衛左右上官儀詩清切丹禁 静顔之/推詩楚王賜顔色出入章華裏鮑照詩輝石亂烟虹賈誼新書天子車曰乗輿。 |
淮南子建翠盖髙誘註翠盖以/翠鳥羽飾葢也。 上林賦扈從横行出乎四校之中晉灼註扈大也。 封氏聞見記百官從駕謂之扈從葢臣下侍/從至尊各供所職猶僕御扈養以從上故謂之扈從耳 上林賦云、扈從横行顔監釋云謂扈從縱恣而行也據/顔此觧乃讀從為放縱不取行從之義所未詳也。 石林燕語從駕謂之扈從始司馬相如上林賦晉灼以扈為/大張揖謂跋扈縱横不安鹵簿故顔師古因之亦以為跋扈恣縱而行果爾從葢作去聲侍天子而言跋扈可乎唐封演以為扈從以從猶之僕御此或近之。 張協詩朱軒耀金城劉良註金城長安城也。史記中廐之寳馬臣得賜之水經註魏武與張繡戰於宛馬名絶景為流矢所中 |
舊唐書 京兆府有昭應縣本隋之新豐縣治古/新豐城北天寳三載分新豐萬年置㑹昌縣 七載省新豐縣改㑹昌為昭應治温泉宫之西北琦 按自乗輿擁/翠葢而下是指其侍從温泉宮、而言宫在新豐縣之驪山下正直唐京師之東太白入朝、在天寳二三載是時新豐尚未省也。 |
顔延年詩倚巖聴緒風又曰庭昏見野隂山明望松雪漢書揚雄待詔承明之庭正月從上甘/泉還奏甘泉賦以風桓譚新論揚子雲從成帝祠甘泉詔雄作賦思精苦困倦小卧夢五臟出外以手收而納/之及覺病喘悸少氣王筠詩自知心所愛獻賦甘泉宫 |
鮑照詩 片善辭革萊 漢書公孫𢎞拜為博士待詔金馬/門。 曹植詩 玉樽盈桂酒夏黄公綺里季事見四巻註歘音旭又音忽 |
東武吟 |
一作“出東門後書懷留别翰林諸公士” 贇曰「東武吟」即樂府正聲東門行也。 晉樂奏古辭云「出東門不顧歸」言、士有貧不安其居、拔劔去、妻子牽衣留之、願共餔糜、斯足。不求富貴也。 太白詩、則自述其志也。又、王僧䖍技錄、相和歌楚調十曲有《東武吟》亦曰《東武琵琶吟行》 |
好古笑流俗、素聞賢達風。方希佐明主、長揖辭成功。 白日在髙天、迴光燭微躬。 |
齊賢曰 尚書序好古博約/君子漢書酈生長揖不拜 |
恭承鳳凰詔、歘起雲蘿中。清切紫霄逈、優游丹禁通。 |
齊賢曰 事始曰石季龍置戲馬觀上安詔書用五色紙銜于木鳳口而頒行禁中門户有禁非侍御不得入 |
君王賜顔色、聲價淩煙虹。乗輿擁翠葢、扈從金城東。 |
寳馬麗絶景、錦衣入新豐。 齊賢曰明皇嘗賜太白錦袍士贇曰輿/服志乗輿大駕公卿奉引太僕御大將軍㕘乗屬車八十一乘千乗萬騎名曰鹵簿 |
依巖望松雪、對酒鳴絲桐。因學揚子雲、獻賦甘泉宫。 |
天書美片善、清芬播無窮。 齊賢曰 漢成帝時、揚雄從上幸甘泉、還奏甘泉賦以風 |
一朝去金馬、飄落成飛蓬。賔客日疎散、玉樽亦已空。 |
士贇曰待詔金馬門、詳見一巻史孟嘗君廢諸客皆去。馮驩曰富貴多士貧賤寡友事之固然也。今君失位而賔客皆去事之固然也。漢書、孔融喜後進、賔客日盈其門常歎曰座上客常滿樽中酒不空吾無憂矣。此反其意而用之 |
才力猶可倚、不慙世上雄。閒作東武吟、曲盡情未終。 |
書此謝知已、吾尋黄綺翁。 |
齊賢曰 東武太山皆齊之土風絃歌謳吟之曲名也。士贇曰此詩、乃太白放黜之後作此以别知已者抱材於世始遇而卒不合見知而不見用卒章曰閒作東武吟曲盡情未終書此謝知已吾尋黄綺翁惓戀不忘之意悠然見於辭外亦可慨歎也已。 |