卷176_17 -#1 送于十八應四子舉落第還嵩山
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2017年1月16日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
744年-033卷176_17 -#1 送于十八應四子舉落第還嵩山(卷十七(二)一○二一)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7997 |
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744年-集05【字解集】 a初出金門・b東武吟・c來日大難・d古風三十八Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7979 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-19 全唐文551-11-#9至鄧州北寄上襄陽於相公書【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7998 |
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806年-018-#6 全唐文551-11-#6喜侯喜至贈張籍、張徹 【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7944 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
757年-65#1 課伐木并序#1 杜詩詳注(卷一九(四)一六三九)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7999 |
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757年-集-2 【字解集】 園・歸・園官送菜・園人送瓜 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7993 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 巻二-11 (73)回目温庭筠 《河傳三首其三》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8000 (01/16) |
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fc2 |
Blog |
70)回目温庭筠 《清平樂/遐方怨/訴衷情/思帝鄉/夢江南 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7982 (01/13) |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
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玉集-04 歌詩一首井序・留別妻一首・羽林郎詩一首【字解集】〈〉 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7977 |
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744年-033卷176_17 -#1 送于十八應四子舉落第還嵩山(卷十七(二)一○二一)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7997
(于十八という人が、崇玄館に入るつもりでその擧に応じて入学試験を受けたところ結果、落第であったので、嵩山に帰ろうとするについて、これを送別するためこの詩を作った)
わが祖の老子は、天地の間、なお、橐籥のごときかといったが、誠にそのとおりであり、その鞴から噴出されて、上、天に属し、下、人に属するものが、森然として宇宙の間に羅列しているのである。かくて、ひとたびその根に帰れば、形兆僅かになりし、いわゆる太素の状態に復するので、万種の生物は元気の清和を受けて、和らいでいる。ここに、荘・文・列・庚の四眞人は、老子の統を伝え、雄弁を揮うこと、それはさながら波濤のごとくである。やがて、その会流した揚句には、時として、寂然としたルことなく、いよいよもってやかましくさわぎたてることになり、はては、ながれて楊墨の一派を生じ、それが日々窪みを為して、万派の水を受けるようになったのである。
744年-033 -#1 |
送于十八應四子舉落第還嵩山(卷十七(二)一○二一) -#1 |
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全唐詩卷176_17#1 |
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李白集校注(卷十七(二)一○二一)#1 |
李太白集巻 16-021#1 |
漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7997 |
卷別 | 李白集校注 | 全唐詩 | 李太白集 |
(卷十七(二)一○二一) | 卷176_17 | 巻 16-021 | |
詩題 | 送于十八應四子舉落第還嵩山(卷十七(二)一○二一) | ||
文體 | 0 | | |
詩序 | 0 | ||
初句 | 吾祖吹橐籥,天 | 皇帝紀年: 天寶三年 744年 44歲 | |
作地點 | 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) | ||
及地點 | 嵩山 (都畿道 河南府 嵩山) 別名:嵩高山、嵩、嵩丘、嵩高 | ||
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交遊人物 | 于十八、當地交遊(京畿道 京兆府 長安) |
744-033
送于十八應四子舉落第還嵩山(卷十七(二)一○二一)
(于十八という人が、崇玄館に入るつもりでその擧に応じて入学試験を受けたところ結果、落第であったので、嵩山に帰ろうとするについて、これを送別するためこの詩を作った)
吾祖吹橐籥,天人信森羅。
わが祖の老子は、天地の間、なお、橐籥のごときかといったが、誠にそのとおりであり、その鞴から噴出されて、上、天に属し、下、人に属するものが、森然として宇宙の間に羅列しているのである。
歸根復太素,群動熙元和。
かくて、ひとたびその根に帰れば、形兆僅かになりし、いわゆる太素の状態に復するので、万種の生物は元気の清和を受けて、和らいでいる。
炎炎四眞人,摛辯若濤波。
ここに、荘・文・列・庚の四眞人は、老子の統を伝え、雄弁を揮うこと、それはさながら波濤のごとくである。
交流無時寂,楊墨日成科。
やがて、その会流した揚句には、時として、寂然としたルことなく、いよいよもってやかましくさわぎたてることになり、はては、ながれて楊墨の一派を生じ、それが日々窪みを為して、万派の水を受けるようになったのである。
夫子聞洛誦,誇才才故多。
為金好踴躍,久客方蹉跎。
道可束賣之,五寶溢山河。
勸君還嵩丘,開酌盼庭柯。
三花如未落,乘興一來過。
(于十八の四子が舉すに應じ、落第して嵩山に還えるを送る。)#1
吾が祖 橐籥を吹き,天人 信に森羅たり。
歸根 太素に復し,群動 熙元和を【やわら】ぐ。
炎炎たる四真人,摛辯【ちべん】濤波の若し。
交流 時として寂なる無く,楊墨 日ごとに科を成す。
#2
夫子 洛誦に聞く,才を誇るは 才 故【もともと】多し。
金と為して 好んで踴躍,客久しく 方に蹉跎たり。
道は束ねて之を賣る可き,五寶は 山河に溢る。
君に勸む 嵩丘に還り,開酌して 庭柯を盼【かえりみ】よ。
三花 如し未だ落ちざらば,興に乘じて 一たび 來り過ぐよ。
送于十八應四子舉落第還嵩山 |
通典 「開元二十/九、年始於京師置崇𤣥館、諸州置道舉生徒有差。謂之道舉。 |
舉送課試、與明經等。京都各百人、諸州無常員、習老莊文列謂之四子。䕃第與國子監同。 |
唐㑹要 「開元二十九年正月十五日、於𤣥元皇帝廟、置崇𤣥學、令習道徳經莊子文子列子、 |
待習成後、每年隨舉人例、送名至省、准明經考試、通者准及第人處分。」 |
吾祖吹橐籥,天人信森羅。歸根復太素,群動熙元和。 |
炎炎四眞人,摛辯若濤波。交流無時寂,楊墨日成科。 |
夫子聞洛誦,誇才才故多。為金好踴躍,久客方蹉跎。 |
道可束賣之,五寶溢山河。勸君還嵩丘,開酌盼庭柯。 |
三花如未落,乘興一來過。 |
楊齊賢曰吾祖老子也。老子云 天地之間、其猶橐籥乎、又云萬物芸、芸各復歸其根歸根、曰静。 |
列子 「太素者質之始也。」 白虎/通 「始起先有太初後有太始形兆既成名曰太素混沌相連視之不見聴之不聞。」 潛夫論 「太素之時元氣窈冥/形兆未成。」 淮南子 偃其聰明抱其太素。 |
舊唐書 「天寳元年、莊子號為南華真人、文子號為通元真人、列子號為/冲虛真人、庚桑子號為洞虚真人。其四子所著書、改為真經。 |
班固 《答賓戱》「馳辯如濤波摛藻如春華。」 顔師古註「大波曰濤摛布也。」 |
莊子 「副墨之子、聞諸洛誦之孫。」 陸徳明音義李云副墨可以副貳元墨也洛誦誦通也苞落/無所不通也崔云皆古人姓名或寓言耳無其人也。 |
莊子 大冶鑄金金踴躍曰我必為鏌鎁大冶必以為不祥/之金。 |
歸去来辭 「引壺觴以自酌盼庭柯以怡顔。」 吕向註「柯樹枝也。」 |
初學記 「漢世有道士從外國將貝多子来於/嵩髙西脚下種之有四樹與衆木有異一年三花白色香異。」 |
《送于十八應四子舉落第還嵩山》現代語訳と訳註解説
(本文)
送于十八應四子舉落第還嵩山
吾祖吹橐籥,天人信森羅。
歸根復太素,群動熙元和。
炎炎四眞人,摛辯若濤波。
交流無時寂,楊墨日成科。
(下し文)
(于十八の四子が舉すに應じ、落第して嵩山に還えるを送る。)#1
吾が祖 橐籥を吹き,天人 信に森羅たり。
歸根 太素に復し,群動 熙元和を【やわら】ぐ。
炎炎たる四眞人,摛辯【ちべん】濤波の若し。
交流 時として寂なる無く,楊墨 日ごとに科を成す。
(現代語訳)
(于十八という人が、崇玄館に入るつもりでその擧に応じて入学試験を受けたところ結果、落第であったので、嵩山に帰ろうとするについて、これを送別するためこの詩を作った)
わが祖の老子は、天地の間、なお、橐籥のごときかといったが、誠にそのとおりであり、その鞴から噴出されて、上、天に属し、下、人に属するものが、森然として宇宙の間に羅列しているのである。
かくて、ひとたびその根に帰れば、形兆僅かになりし、いわゆる太素の状態に復するので、万種の生物は元気の清和を受けて、和らいでいる。
ここに、荘・文・列・庚の四眞人は、老子の統を伝え、雄弁を揮うこと、それはさながら波濤のごとくである。
やがて、その会流した揚句には、時として、寂然としたルことなく、いよいよもってやかましくさわぎたてることになり、はては、ながれて楊墨の一派を生じ、それが日々窪みを為して、万派の水を受けるようになったのである。
(訳注)
送于十八應四子舉落第還嵩山(卷十七(二)一○二一)
1. 題意(于十八という人が、崇玄館に入るつもりでその擧に応じて、道学の四子でもって入学試験を受けたところ結果、落第であったので、嵩山に帰ろうとするについて、これを送別するためこの詩を作った)
2. 于十八 道教関係者であろうが、不詳の人物である。
3. 嵩山 河南省登封市にある山岳群である。五岳の1つの中岳に数えられる。最高峰は標高1440mの太室山である。古代から山岳信仰の場として有名で、北魏時代からは少林寺などの道教、仏教の道場が建立された。また、唐代には副都であった洛陽に近い事から、政府との結びつきが強く、ここを本拠地としていた潘師正、普寂、慧安などの道士、僧侶らが皇帝の崇敬を受け、道教、禅宗はそれぞれ自派を拡大した。
4. 四子 文官試験を受けるためには、儒学のみに限っていたが、玄宗の時代、大いに道学を標榜し741年開元29年に、道学を以て試験を受けることができるようにした。國子監と同じような学校崇玄館を作り、もっぱら、老子・莊子・文子・列子、すなわち“四子”を講習した。通典に「開元二十/九年、始めて京師に於て崇𤣥館を置き、諸州に道舉生徒を置くことに、差有り。之を道舉と謂う。舉送課試、明經と等し。京都は各の百人、諸州は常員無し、老・莊・文・列を習う之を四子と謂う。䕃第、國子監と同じ。」とあり、唐㑹要に「開元二十九年正月十五日、𤣥元皇帝の廟に於て、崇𤣥學を置き、道徳經・莊子・文子・列子を習わ令め、習成の後を待ち、每年、舉人の例に隨い、名を送て省に至る、明經に准じて考試し、通ずる者は及第人に准じて處分す。」
吾祖吹橐籥,天人信森羅。
わが祖の老子は、天地の間、なお、橐籥のごときかといったが、誠にそのとおりであり、その鞴から噴出されて、上、天に属し、下、人に属するものが、森然として宇宙の間に羅列しているのである。
5. 吾祖 老子を指す。李白は、唐王朝と同性で、老子の系を弾くと称した。楊齊賢は曰う、「吾祖は老子なり。」
6. 橐籥 【たくやく】火を吹きおこす道具。鞴(ふいご)のこと。天地の間は、それなお橐籥のごときか。老子云 天地之間、其猶橐籥乎、又云萬物芸、芸各復歸其根歸根、曰静。
歸根復太素,群動熙元和。
かくて、ひとたびその根に帰れば、形兆僅かになりし、いわゆる太素の状態に復するので、万種の生物は元気の清和を受けて、和らいでいる。
7. 太素 列子に「太素者は質の始なり。」とあり、《白虎/通》には「始めて起る先ず 太初有り、後に、太始有り、形兆 既に成る、名づけて太素と曰う、混沌相連る、之を視れども、見えず、之を聴けども、聞えず。」 《潛夫論》に「太素の時、元氣窈冥/、形兆未だ成らず。」とあり、 《淮南子》に「其の聰明を偃せ、其の太素を抱く。」とある。
8. 熙 やわらぐ。
9. 元和 万種の生物が元気の清和を受けていること。
炎炎四眞人,摛辯若濤波。
ここに、荘・文・列・庚の四眞人は、老子の統を伝え、雄弁を揮うこと、それはさながら波濤のごとくである。
10. 眞人 《舊唐書》に「天寳元年、莊子は號して南華真人と為し、文子は號して通元真人と為し、列子は號して/冲虛真人と為し、庚桑子は號して洞虚真人と為す。其の四子著すところの書、改めて真經と為す。」とある。
11. 摛辯 班固の《答賓戱》に「辯を馳すること濤波の如く、藻を摛すること春華の如し。」とあって 顔師古の註に「大波を濤と曰う、摛は布くなり。」
12. 濤波 おもに冬季における北西の風に乗った濤波が岩に砕け散り、一面を白海に変える豪快な光景が繰り返されるのをいう。
交流無時寂,楊墨日成科。
やがて、その会流した揚句には、時として、寂然としたルことなく、いよいよもってやかましくさわぎたてることになり、はては、ながれて楊墨の一派を生じ、それが日々窪みを為して、万派の水を受けるようになったのである。
13. 楊墨 春秋戦国の思想家、楊朱と墨子をいう。楊朱の唱えた自愛主義と墨子の唱えた兼愛説が戦国時代に流行していたが、孟子が出て、楊朱の説は君主を無視し、墨子の説は父を無視するとして排斥してから、儒家は両者を並称して異端の代表とした。