卷176_30 2 送長沙陳太守二首其二
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2017年1月20日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
744年-036卷176_30 2 送長沙陳太守二首其二(卷十七(二)頁一○三六)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8021 |
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744年-集05【字解集】 a初出金門・b東武吟・c來日大難・d古風三十八Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7979 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
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806年-018-#6 全唐文551-11-#6喜侯喜至贈張籍、張徹 【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7944 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-65#5 課伐木并序 杜詩詳注(卷一九(四)一六三九)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8023 |
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757年-集-2 【字解集】 園・歸・園官送菜・園人送瓜 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7993 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 巻二-15 (77)回目温庭筠 《荷葉盃三首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8024 (01/20) |
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fc2 |
Blog |
70)回目温庭筠 《清平樂/遐方怨/訴衷情/思帝鄉/夢江南 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7982 (01/13) |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
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玉集-04 歌詩一首井序・留別妻一首・羽林郎詩一首【字解集】〈〉 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7977 |
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744年-036卷176_30 2 送長沙陳太守二首其二(卷十七(二)頁一○三六)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8021
(陳某が新たに長沙の太守に補せられて赴任するのを送ってつくったものである。その二)
古のいわゆる長沙國は、今の湖南七郡を汎称したもので、洞庭湖に灑ぐ湘江を南に遡ってほとりに連接してあったものである。漢の長沙の定王は、紀元前142年、諸王が長安に入朝した際、父景帝の前に出て、手を小さく出す不恰好な舞いをした。周りの者が笑ったが、景帝が怪しんで聞くと、「私の国は狭いものですから、十分に旋回することも出来ないのです」と答えた。景帝はそこで武陵、零陵、桂陽を長沙国に加増してやったという故事がある。だから、君は、二千石の秩禄をもって「小」となさず、専心一意、施政に励み、僻遠の人民を安撫するが善い。都からは遠いけれど、君は、もともと、洞庭湖付近の出身で、今次、赴任するに就いては、故郷を通過されることであろうが、錦衣をきらびやかに、折からの春景色に輝いて、見えることであろうから、まことにうらやましい限りである。
744年-036 - |
送長沙陳太守二首其二(卷十七(二)頁一○三六) |
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全唐詩卷176_30 2 |
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李白集校注七(二)頁一○三六) |
李太白集巻16-33 |
漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8021 |
卷別 | 李白集校注 | 全唐詩 | 李太白集 |
七(二)頁一○三六) | 卷176_30 2 | 巻16-33 | |
詩題 | 送長沙陳太守二首其二(卷十七(二)頁一○三六) | ||
文體 | 五言律詩 | | |
詩序 | 0 | ||
初句 | 七郡長沙國,南 | 天寶二年 743年 43歲 | |
作地點 | 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) | ||
及地點 | 潭州 (江南西道 潭州 潭州) 別名:潭州 | ||
| 衡山 (江南西道 衡州 衡山) 別名:衡岳、南嶽、衡嶽、南岳 | ||
| 洞庭湖 (江南西道 岳州 岳州) 別名:洞庭 | ||
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交遊人物/交遊地點 | 陳太守 | 書信往來(江南西道 潭州 潭州) |
送長沙陳太守二首其一(卷十七(二)頁一○三五)
(陳某が新たに長沙の太守に補せられて赴任するのを送ってつくったものである)
長沙陳太守,逸氣凌青松。
この度、長沙太守に任命された陳殿は、誠にあっぱれな人物で、その逸氣は、青松をしのぐほどであり、大いに俗離れしている。
英主賜五馬,本是天池龍。
それから天地の龍種とも称すべき名馬五頭を天子より賜り、それに騎して任地に向かう事である。
湘水迴九曲,衡山望五峰。
やがて長江を渡って、衡湘一帯の地に行くと、湘水の流れはうねったり、くねったりしておおよそ九曲としょうされ、衡山の五峰は、目の前にはっきりと望めるのである。
榮君按節去,不及遠相從。
君が初めて手綱を緩めて、しずしずとゆっくりと練りゆかれるのは誠に栄誉の極まりで、早く任地に到着して、今後、施政を見事に遂げられることであろうし、ここで別れを惜しんで遠くへ行くのを引き留めるような輩に相従うようなことがあってはならないのである。
(長沙の陳太守を送る,二首の一)
長沙の陳太守,逸氣 青松を凌ぐ。
英主 五馬を賜い,本と是れ天池の龍。
湘水 九曲を迴らし,衡山 五峰を望む。
君が節を按じて去るを榮とし,遠く相い從うに及ばず。
送長沙陳太守,二首之二
(陳某が新たに長沙の太守に補せられて赴任するのを送ってつくったものである。その二)
七郡長沙國,南連湘水濱。
古のいわゆる長沙國は、今の湖南七郡を汎称したもので、洞庭湖に灑ぐ湘江を南に遡ってほとりに連接してあったものである。
定王垂舞袖,地窄不迴身。
漢の長沙の定王は、紀元前142年、諸王が長安に入朝した際、父景帝の前に出て、手を小さく出す不恰好な舞いをした。周りの者が笑ったが、景帝が怪しんで聞くと、「私の国は狭いものですから、十分に旋回することも出来ないのです」と答えた。景帝はそこで武陵、零陵、桂陽を長沙国に加増してやったという故事がある。
莫小二千石,當安遠俗人。
だから、君は、二千石の秩禄をもって「小」となさず、専心一意、施政に励み、僻遠の人民を安撫するが善い。
洞庭鄉路遠,遙羨錦衣春。
都からは遠いけれど、君は、もともと、洞庭湖付近の出身で、今次、赴任するに就いては、故郷を通過されることであろうが、錦衣をきらびやかに、折からの春景色に輝いて、見えることであろうから、まことにうらやましい限りである。
『送長沙陳太守,二首之二』 現代語訳と訳註解説
(本文)
送長沙陳太守,二首之二
七郡長沙國,南連湘水濱。
定王垂舞袖,地窄不迴身。
莫小二千石,當安遠俗人。
洞庭鄉路遠,遙羨錦衣春。
詩文(含異文)
七郡長沙國,南連湘水濱。定王垂舞袖【吳王垂舞袖】,地窄不迴身。
莫小二千石,當安遠俗人。洞庭鄉路遠,遙羨錦衣春。
(下し文)
(長沙の陳太守を送る,二首の二)
七郡 長沙國,南 連らる湘水の濱。
定王 舞袖を垂れ,地窄くして 身を迴らせず。
二千石を小とする莫れ,當に安んずべし 遠俗の人。
洞庭 鄉路遠くあれど,遙かに 錦衣の春を羨やむ。
(現代語訳)
送長沙陳太守,二首之二(陳某が新たに長沙の太守に補せられて赴任するのを送ってつくったものである。その二)
古のいわゆる長沙國は、今の湖南七郡を汎称したもので、洞庭湖に灑ぐ湘江を南に遡ってほとりに連接してあったものである。
漢の長沙の定王は、紀元前142年、諸王が長安に入朝した際、父景帝の前に出て、手を小さく出す不恰好な舞いをした。周りの者が笑ったが、景帝が怪しんで聞くと、「私の国は狭いものですから、十分に旋回することも出来ないのです」と答えた。景帝はそこで武陵、零陵、桂陽を長沙国に加増してやったという故事がある。
だから、君は、二千石の秩禄をもって「小」となさず、専心一意、施政に励み、僻遠の人民を安撫するが善い。
都からは遠いけれど、君は、もともと、洞庭湖付近の出身で、今次、赴任するに就いては、故郷を通過されることであろうが、錦衣をきらびやかに、折からの春景色に輝いて、見えることであろうから、まことにうらやましい限りである。
(訳注)
送長沙陳太守,二首之二
(陳某が新たに長沙の太守に補せられて赴任するのを送ってつくったものである。その二)
1長沙 長沙の名は早くも『逸周書』に見え、春秋戦国時代には楚国に属し、成王のとき黔中郡が置かれたことに始まる。秦代に秦36郡のひとつとして長沙郡が設置されている。漢代初には呉芮を封じて臨湘県を都とする長沙王国が設置され、5代46年間続いた。長沙王国の相である軑侯利蒼一族の墓所として有名な馬王堆漢墓を今に伝える。隋唐代から清末にかけて潭州の中心として発展した。唐の郡名、潭州で、江南西道に属していた。この詩は、陳某が新に長沙の太守に補せられて赴任するのを送って作ったのである。
この首は、施政に励んで、故郷に錦を飾ることであるからうらやましいと、其一とは異なった意象を詠出しで居る。まさしく、連作の最たるものである。
七郡長沙國,南連湘水濱。
古のいわゆる長沙國は、今の湖南七郡を汎称したもので、洞庭湖に灑ぐ湘江を南に遡ってほとりに連接してあったものである。
14 七郡 唐時、潭州長沙郡、衡州衡陽郡、永州零陵郡、連州連山郡、道州江華郡、郴州桂陽郡、卲州卲陽郡、の事。
15 長沙國 春秋戦国時代においては楚国の領土下属國にあり、長沙城が設置されていた。このように古代から長沙の市街区の位置は変わることなく同じ場所に存在し続けており、中国史上で最も古い歴史を有する街と言われている。後漢王朝初期、長沙国は廃止され、長沙郡へと改編され七郡となる。
16 南連湘水濱 この七郡は、湘水に連なって接する郡であることをいう。
定王垂舞袖,地窄不迴身。
漢の長沙の定王は、紀元前142年、諸王が長安に入朝した際、父景帝の前に出て、手を小さく出す不恰好な舞いをした。周りの者が笑ったが、景帝が怪しんで聞くと、「私の国は狭いものですから、十分に旋回することも出来ないのです」と答えた。景帝はそこで武陵、零陵、桂陽を長沙国に加増してやったという故事がある。
17 定王 長沙の定王、劉発、前漢の人。漢の景帝の子の一人。劉氏長沙国の初代王で、光武帝の先祖として知られる。
18 垂舞袖・地窄不迴身 定王は、景帝前2年(紀元前155年)に長沙王に立てられた。母が微賎で寵愛されていなかったため、貧しい国に封じられたのである。景帝後2年(紀元前142年)、諸王が長安に入朝した際、王が前に出て歌舞をするよう命じられた。長沙王劉発は手を小さく出す不恰好な舞いであったために周りの者が笑った。景帝が怪しんで聞くと、「私の国は狭いものですから、十分に旋回することも出来ないのです」と答えた。景帝はそこで武陵、零陵、桂陽を長沙国に加増してやったという「垂舞袖/地窄不迴身」の故事。
387巻十一醉後贈王歷陽 | 筆蹤起龍虎、舞袖拂云霄。 |
548卷十六51魯中送二從弟赴舉之西京 (一作送族弟(鍠) ) | 舞袖拂秋月、歌筵聞早鴻。 |
553卷十六56送長沙陳太守二首其二 | 定王垂舞袖、地窄不回身。 |
646巻十九20邯鄲南亭觀妓 | 舞袖拂花枝、把酒顧美人。 |
677巻十九51銅官山醉後絕句 | 要須回舞袖、拂盡五松山。 |
712卷20-26與夏十二登岳陽樓 | 醉後涼風起、吹人舞袖回。 |
784巻二十二5對酒醉題屈突明府廳 | 山翁今已醉、舞袖為君開。 |
莫小二千石,當安遠俗人。
だから、君は、二千石の秩禄をもって「小」となさず、専心一意、施政に励み、僻遠の人民を安撫するが善い。
19 二千石 漢代に郡太守の代名詞として使われたことから転じ、知事などの地方長官を「二千石」と表現する用法があった。二千石(にせんせき)は、中国古代、漢における官僚の等級と俸給(秩石)を表す語。漢の秩石には万石から百石まであり、その数字に応じて俸給が半分は穀物、半分は銭で支給された。二千石は主に郡太守などの高官が該当し、中二千石、真二千石、二千石、比二千石の4種類に分かれていた。
洞庭鄉路遠,遙羨錦衣春。
都からは遠いけれど、君は、もともと、洞庭湖付近の出身で、今次、赴任するに就いては、故郷を通過されることであろうが、錦衣をきらびやかに、折からの春景色に輝いて、見えることであろうから、まことにうらやましい限りである。
20 洞庭鄉路遠 長沙へ行く道中の最大の地点。
21 錦衣春 故郷に錦を飾り、折からの春景色がかがやいてみえる。
錦衣・衣錦
218 卷六13 鳴皋歌送岑徵君 | 魚目混珍,嫫母衣錦。 |
361 卷10-08 贈劉都使 | 飲冰事戎幕, 衣錦華水鄉。 |
531 卷十六34 送張遙之壽陽幕府 | 勖爾效才略,功成衣錦還。 |
536 卷十六39 送外甥鄭灌從軍三首 其一 | 丈夫睹命報天子,當斬胡頭衣錦回。 |
83 巻02-24 楽府・雉朝飛 | 麥隴青青三月時,白雉朝飛挾兩雌。 |
161 巻四36 東武吟 | 錦衣入新丰,依岩望松雪。 |
553 卷十六56 送長沙陳太守二首其二 | 洞庭鄉路遠,遙羨錦衣春。 |
751 巻二十一29 越中覽古 | 越王句踐破吳歸,義士還鄉盡錦衣。 |