卷176_19 送族弟綰從軍安西
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2017年1月24日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
744年-038卷176_19 送族弟綰從軍安西(卷十七(二)一○二三)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8045 |
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744年-集06字解集 侍從宜春苑奉詔賦・送于十八・送白利・送長沙陳太守・送祝八之江東賦Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8039 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-24 全唐詩338-_24- 2 #1感春,四首之二-#1 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8046 |
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806年-018-#6 全唐文551-11-#6喜侯喜至贈張籍、張徹 【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7944 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
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757年-集-2 【字解集】 園・歸・園官送菜・園人送瓜 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7993 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 巻二-18 (81)回目皇甫松十一首 《天仙子二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8048 (01/24) |
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91)回目皇甫松十一首 《天仙子/浪濤沙/楊栁枝/摘得新/夢江南/採蓮子 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8108 (02/03) |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-032 贈婦詩三首井序其一 -#2 〔秦 嘉〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 8049 |
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744年-038卷176_19
送族弟綰從軍安西(卷十七(二)一○二三)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8045
(安西都護府に従軍して赴く族弟綰を送る詩)
今や、中国の兵馬は、北風に乗じて、勢すさまじく、そして、鼓を打撃ちつつ、西に向って進行し、必ず西戎を破って見せるという手筈である。汝は、中国の大将軍に従う為に門を出でて従軍し、胡虜を斬ること草を薙ぐが如く、十分に奇功を収めることができるようである。今しも、天子は、剣に手をかけて、辺境の風色をのぞまれ、折しも旄頭の星、地に落ちて、胡天寥闊、物もないのである。やがて、匈奴は、球数繋ぎに首を縛られ、あらん限りの数を尽くし、明年、これをかりたてて葡萄宮に入朝するだろうといって、待って居られる。汝等も、そのつもりで、一身を投げ打って、奮闘し、天子の予期せらるるところに負かぬ様にして欲しい。
744年-038 - |
送族弟綰從軍西安(卷十七(二)一○二三) |
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全唐詩卷176_19 |
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李白集校注二)一○二三) |
李太白集巻16-023 |
漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8045 |
卷別 | 李白集校注 | 全唐詩 | 李太白集 |
二)一○二三) | 卷176_19 | 巻16-023 | |
詩題 | 送族弟綰從軍西安(卷十七(二)一○二三) | ||
文體 | 七言律詩 | | |
詩序 | 0 | ||
初句 | 漢家兵馬乘北風 | 天寶二年 743年 | |
作地點 | 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) | ||
及地點 | 安西都護府 (隴右道西部 無第二級行政層級 安西都護府) 別名:安西、安西幕府 | ||
| 蒲桃宮 (葡萄宮)(京畿道 京兆府 長安) | ||
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交遊人物/交遊地點 | | | |
交遊人物/交遊地點 | 李綰 | 當地交遊(京畿道 京兆府 長安) |
李白集校注
送族弟綰從軍安西(卷十七(二)一○二三)
漢家兵馬乘北風,鼓行而西破犬戎。
爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。
君王按劍望邊色,旄頭已落胡天空。
匈奴繫頸數應盡,明年應入蒲桃宮。
全唐詩
漢家兵馬乘北風,股行而西破犬戎。
爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。
君王按劍望邊色,旄頭已落胡天空。
匈奴繫頸數應盡,明年應入葡萄宮。
(族弟 綰の安西に從軍するを送る)
漢家の兵馬 北風に乘ず,鼓行して西し 犬戎を破る。
爾 漢の將に隨て門を出でて去り,虜を剪るは 草の若く奇功を收む。
君王 劍を按じて 邊色を望めば,旄頭 已に落ちて 胡天 空し。
匈奴 頸を繫いで 數 應に盡すべし,明年 應に入るべし 蒲桃宮。
送族弟綰從軍安西 |
一作/琯 通典 「安西都䕶府、本龜兹國也。大唐明慶中置。 |
東接焉耆、西連疏勒、南鄰吐蕃、北拒突厥。 |
漢家兵馬乘北風,鼓行而西破犬戎。 |
爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。 |
君王按劍望邊色,旄頭已落胡天空。 |
匈奴繫頸數應盡,明年應入蒲桃宮。 |
漢書項籍傳 我引兵鼔行而西必舉秦矣。 顔師古註 「鼓行 謂撃鼔而行無畏懼也。」 |
國語 「穆王將征犬戎」韋昭註犬戎西戎也文獻通考犬戎西戎之别名在荒服 |
漢書 「昴曰旄頭胡星也。」 |
賈誼傳 「陛下何不試以臣為屬國之官以主匈奴行臣之計請必係單于之頸而制。 其命 吳均詩 匈奴數欲盡僕在雁門關 |
三輔黄圗「蒲桃宫在上林苑西。」 漢哀帝元夀三年 單于来朝以太嵗厭勝所在舍之即此宫也。 |
《送族弟綰從軍安西》現代語訳と訳註解説
(本文)
送族弟綰從軍安西(卷十七(二)一○二三)
漢家兵馬乘北風,鼓行而西破犬戎。
爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。
君王按劍望邊色,旄頭已落胡天空。
匈奴繫頸數應盡,明年應入蒲桃宮。
(下し文)
(族弟 綰の安西に從軍するを送る)
漢家の兵馬 北風に乘ず,鼓行して西し 犬戎を破る。
爾 漢の將に隨て門を出でて去り,虜を剪るは 草の若く奇功を收む。
君王 劍を按じて 邊色を望めば,旄頭 已に落ちて 胡天 空し。
匈奴 頸を繫いで 數 應に盡すべし,明年 應に入るべし 蒲桃宮。
(現代語訳)
(安西都護府に従軍して赴く族弟綰を送る詩)
今や、中国の兵馬は、北風に乗じて、勢すさまじく、そして、鼓を打撃ちつつ、西に向って進行し、必ず西戎を破って見せるという手筈である。
汝は、中国の大将軍に従う為に門を出でて従軍し、胡虜を斬ること草を薙ぐが如く、十分に奇功を収めることができるようである。
今しも、天子は、剣に手をかけて、辺境の風色をのぞまれ、折しも旄頭の星、地に落ちて、胡天寥闊、物もないのである。
やがて、匈奴は、球数繋ぎに首を縛られ、あらん限りの数を尽くし、明年、これをかりたてて葡萄宮に入朝するだろうといって、待って居られる。汝等も、そのつもりで、一身を投げ打って、奮闘し、天子の予期せらるるところに負かぬ様にして欲しい。
(訳注)
送族弟綰從軍安西(卷十七(二)一○二三)
1. (安西都護府に従軍して赴く族弟綰を送る詩)
2. 族弟綰 別に「琯」としたテキストもある。李白の詩でこの人物が登場するのはこの詩のみ。
3. 安西 安西大都護府(あんざいだいとごふ)のこと。中国の唐代に西州(現在のトルファン市)および亀茲(現在のクチャ県)に置かれた行政区画である。管轄範囲はタリム盆地を中心に東西トルキスタンにおよぶ。北には北庭大都護府がある。通典に「安西都䕶府、本龜兹國也。大唐明慶中置。東接焉耆、西連疏勒、南鄰吐蕃、北拒突厥。」とある。またこの頃の、情勢を羅列すると以下の通りである。
・貞観22年(648年)、太宗は安西都護府を亀茲城に遷し、郭孝恪を安西都護に任命して于闐,疏勒,砕葉を統領させ、これを“四鎮”とした。
・貞観23年(649年)2月、西突厥の乙毗射匱可汗(在位:641年 - 651年)が唐に求婚してきたので、太宗はこれを許し、詔令で亀茲,于闐,疏勒,朱倶波,葱嶺の五国を分割して聘礼(結納品)とした。
・永徽2年(651年)、亀茲を亀茲都督府とし、亀茲王の素稽(そけい)を右驍衛大将軍・亀茲都督として11月、高昌故地(西州)に安西都護府を遷した。
・顕慶2年(657年)11月、唐の蘇定方は西突厥の阿史那賀魯を討伐すると、その地を分けて濛池、昆陵の2都護府を置き、種落を分けて州県を置いた。これにより西の波斯国(サーサーン朝)までの国々はすべて安西に隷属し、また都護府治を高昌故地(西州)に遷した。
・顕慶3年(658年)5月、都護府治を亀茲都督府に遷し、今までの府治は再び西州となる。
龍朔元年(661年)、吐火羅国を始めとする西域諸国が遣使を送って唐に内属した。これにより唐は於闐国以西、波斯国以東の16国にそれぞれ都督を置き、督州80、県110、軍府126を設置して安西都護府に管轄させた。
・咸亨元年(670年)4月、吐蕃の侵攻により安西都護府が陥落する。
・儀鳳時(676年 - 679年)、吐蕃はふたたび焉耆以西を攻撃し、四鎮は陥落した。
・長寿元年(692年)、武威軍総管の王孝傑,阿史那忠節は吐蕃を大破し、ふたたび亀茲,于闐等四鎮を手に入れ、ふたたび亀茲に安西都護府を置いた。しかし経営は難しく、四鎮を破棄する声もでたが、武則天は許さなかった。
開元7年(719年)、安西節度使の湯嘉恵は表して焉耆国を安西四鎮のひとつとした。
・開元10年(722年)、吐蕃が安西四鎮を攻略する。
・至徳元載(756年)、名を鎮西と改めるが、後にまた安西となる。この年、再び吐蕃が侵攻してきたが、北庭都護府と安西都護府は李元忠と郭昕および沙陀と回鶻の協力によって守られ、吐蕃の侵攻を食い止められた。
・上元元年(760年)、河西軍鎮の多くが吐蕃によって陥落する。
漢家兵馬乘北風,鼓行而西破犬戎。
今や、中国の兵馬は、北風に乗じて、勢すさまじく、そして、鼓を打撃ちつつ、西に向って進行し、必ず西戎を破って見せるという手筈である。
漢家 唐王朝を言う。
鼓行 軍隊などが,堂々と太鼓を鳴らして進軍すること。漢書の項籍傳に「我引兵鼔行而西必舉秦矣。」(我 兵を引くに鼔行して西せば 必ず秦を舉げむ。)とあり、顔師古註 「鼓行 謂撃鼔而行無畏懼也。」(鼓行とは 鼔を撃て行き 畏懼すること無きなりを謂う。)とある。
犬戎 西戎のこと。西戎あるいは戎および犬戎は、四夷の一つ。中国西部に住んでいた遊牧民族で、たびたび中国の歴代王朝に侵入して略奪を行ったことから、西戎という言葉に蔑んだ意味合いを込めている。古代中国人がトルコ族・チベット族など西方の異民族を称した語。國語に「穆王將征犬戎。」(穆王 將に犬戎を征せんとす。)。 韋昭の註に「犬戎西戎也。」(犬戎は西戎なり。)とあり、文獻通考に「犬戎西戎之别名在荒服。」(犬戎は西戎の别名、荒服に在る。)とある。
爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。
汝は、中国の大将軍に従う為に門を出でて従軍し、胡虜を斬ること草を薙ぐが如く、十分に奇功を収めることができるようである。
剪虜
君王按劍望邊色,旄頭已落胡天空。
今しも、天子は、剣に手をかけて、辺境の風色をのぞまれ、折しも旄頭の星、地に落ちて、胡天寥闊、物もないのである。
邊色 邊塞、邊境の景色。
旄頭 昴星をいう。昴【すばる】は、髦頭の胡【えびす】である。白い衣冠の人の会合する喪事を意味する。(史記天官書) 七海注、昴【ボウ】、髦【ボウ】後漢書光武帝紀) 七海注、旄は、唐牛の長い毛。これを飾った旄頭旗。髦頭とは、怪物の牛を恐れさせる姿であった。武器の柄頭につけられ、敵をあの世に送る凶事の神:昴星を象ったものである。星名は二十八星宿之一,白虎七宿の第四星と為す。昴星。すばるぼし(六連星:異称)おうし座17番星、戦に吉兆。(神仏詣で・祝い事・開店に吉)《漢書.卷二六.天文志》:「昴を旄頭と曰う,胡星なり,白衣の會を為す。」とある。帝王衛士所持的旗。擔任先驅的騎兵。《漢書.卷六五.東方朔傳》:「羿為旄頭,宋萬為式道候。」《後漢書.卷一.光武帝紀下》:「賜東海王彊虎賁、旄頭、鍾虡之樂。」也作「旄騎」。星名。二十八星宿之一,為白虎七宿之第四星。
匈奴繫頸數應盡,明年應入蒲桃宮。
やがて、匈奴は、球数繋ぎに首を縛られ、あらん限りの数を尽くし、明年、これをかりたてて葡萄宮に入朝するだろうといって、待って居られる。汝等も、そのつもりで、一身を投げ打って、奮闘し、天子の予期せらるるところに負かぬ様にして欲しい。
匈奴繫頸 《漢書》卷四十八《賈誼傳》「陛下何不試以臣為屬國之官以主匈奴?行臣之計,請必系單于之頸而制其命,伏中行說而笞其背,舉匈奴之眾唯上之令。」(陛下 何ぞ試みに臣を以て 屬國の官と為し以て匈奴を主らさん?臣の計を行はざる,請う必ず單于の頸を系ぎて其の命を制せん,中行の說を伏して其の背に笞ち,匈奴の眾を舉げ唯だ之の令を上る。)とある。
蒲桃宮(葡萄宮) 漢の上林苑にあった宮の名、唐の御苑内の宮をいうのに天子を指すことになるので、古い呼び名をかり用いる。事実は758年乾元元年八月、回紇が其の臣骨啜特勅及び帝徳をつかわし、驍騎三千をもって安慶緒を討つことを助けさせた。天子は、朔方左武鋒便僕国懐恩をして、これを領せしめたということがある。三輔黄圗「蒲桃宫在上林苑西。」 漢哀帝元夀三年 單于来朝以太嵗厭勝所在舍之即此宫也。漢元帝時,單于來朝,居上林苑葡萄宮。此指回紇長安住所。《漢書》卷九十四下《匈奴傳下》元壽二年,單于來朝,上以太歲厭勝所在,舍之上林苑蒲陶宮。告之以加敬於單于,單于知之。加賜衣三百七十襲,錦繡繒帛三萬匹,絮三萬斤,它如河平時。既罷,遣中郎將韓況送單于。單于出塞,到休屯井,北度車田盧水,道里回遠。況等乏食,單于乃給其糧,失期不還五十餘日。
杜甫 《06-55 洗兵馬(行)》「京師皆騎汗血馬,回紇喂肉葡萄宮。」(京師【けいし】皆 騎【の】る汗血【かんけつ】の馬、回紇【かいこつ】肉を喂【い】す葡萄宮【ぶどうきゅう】。)長安のみやこでも回紇(ウイグル騎馬)の兵が援助にきて彼等はみな汗血の馬に騎り、葡萄宮の役割の御苑宮城ですべて養われつつあるのである。