176_13  送張遙之壽陽幕府 #1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017125

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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

 

 

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

744年-039-#1卷176_13 送張遙之壽陽幕府 #1(卷十七(二)一○一四)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8051

 

 

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744年-集06字解集 侍從宜春苑奉詔賦・送于十八・送白利・送長沙陳太守・送祝八之江東賦Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8039

 

 

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●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

 

 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-24 全唐詩338-_24- 2 #2感春,四首之二-#2 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8052

 

 

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806年-018-#6 全唐文551-11-#6喜侯喜至贈張籍、張徹  【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7944

 

 

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韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

 

 

Ⅲ 杜詩

詳注

767年-66 柴門 杜詩詳注(卷一九(四)一六四三)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8053

 

 

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757年-集-2 【字解集】 園・歸・園官送菜・園人送瓜 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7993

 

 

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

 

 

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

 

 

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

 

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

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744-039-#1176_13  送張遙之壽陽幕府 #1(卷十七(二)一○一四)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8051

(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

壽春城は、まことに天険で、南方の楚地、荊門から関門として続く天然の要害の地によって、まもられている。横たわっている。むかし、苻堅は、百万の衆を率いて、江南を挙げむとし、遥かに八公山を隔てて、ここに陣取った。その勢は、まことにに凄じい位であったが、東晋の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄・謝石の如き大賢が其間に居たのである。

 

744-039 -1

送張遙之壽陽幕府(卷十七(二)一○一四) -1

全唐詩卷176_13 1

李白集校注卷十七(二)一○一四)#1

李太白集巻16-0131

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8051

 

楚州0015李白集校注タイトル


  

卷別

李白集校注

全唐詩

李太白集

卷十七(二)一○一四)

176_13

16-013

詩題

送張遙之壽陽幕府(卷十七(二)一○一四)

文體

五言古詩

 

詩序

0

     初句

壽陽信天險,天

天寶三年   744   44

 

作地點

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點

壽州 (淮南道 壽州 壽州別名:壽陽             

 

八公山 (淮南道 壽州 八公山)           

 

 

交遊人物/交遊地點

 

 

交遊人物/交遊地點

張遙

當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

 

李白集校注

送張遙之壽陽幕府(卷十七(二)一○一四)

壽陽信天險,天險橫荊關。

苻堅百萬眾,遙阻八公山。

不假築長城,大賢在其間。

 

戰夫若熊虎,破敵有餘閒。

張子勇且英,少輕衛霍孱。

投軀紫髯將,千里望風顏。

勗爾效才略,功成衣錦還。

 

全唐詩

送張遙之壽陽幕府

壽陽信天險,天險橫荊關。

苻堅百萬眾,遙阻八公山。

不假築長城,大賢在其間。

 

戰夫若熊虎,破敵有餘閑。

張子勇且冰,少輕衛霍孱。

投軀紫髯將,千里望風顏。

勗爾效才略,功成衣錦還。

 

送張遙之壽陽幕府

(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

壽陽信天險,天險橫荊關。

壽春城は、まことに天険で、南方の楚地、荊門から関門として続く天然の要害の地によって、まもられている。横たわっている。

苻堅百萬眾,遙阻八公山。

むかし、苻堅は、百万の衆を率いて、江南を挙げむとし、遥かに八公山を隔てて、ここに陣取った。

不假築長城,大賢在其間。

その勢は、まことにに凄じい位であったが、東晋の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄・謝石の如き大賢が其間に居たのである。

#2

戰夫若熊虎,破敵有餘閒。

麾下の戦士は、その勇悍なること、熊の如く、虎の如く、見事に敵を破り、しかも余裕綽々として居た。

張子勇且英,少輕衛霍孱。

ここに、張遥は、勇鋭英俊であり、年少にして漢の武帝時代の衛青、霍去病の如き古しえの将軍をさえ、孱弱な者として之を軽んずる位であるという。

投軀紫髯將,千里望風顏。

かくて、今回、「碧眼紫髯」という孫権に比すべき名将の幕下に身を投じ、千里の遠きを馳せて、態態これに逢いに行くというので、汝に勧めるは他にいないというものである。

勗爾效才略,功成衣錦還。

一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。

 

(張遙の壽陽幕府に之くを送る)

壽陽は信に天險たり,天險 荊關に橫たう。

苻堅 百萬の,遙に 八公の山を阻【へだ】。つ

長城を築く假らず,大賢 其の間に在り。

 

戰夫 熊虎の若く,敵を破って餘閒有り。

張子 勇にして且つ英,少にして 輕んず衛霍の孱なるを。

軀を投ず 紫髯の將,千里 風顏を望む。

爾を勗【つと】む 才略を效【いた】し,功 成らば錦を衣て還れ


  送張遙之壽陽幕府

 唐書地利志「淮南道有州、春郡中督都府、本淮南郡天寳元年更名」

 𤦺「按春之名、本自戰國。史記楚世家、考烈王、徙都春。正義曰、春在南春縣。

 是也。陽之名起自東晉。通典東晉、以鄭皇后諱、改春曰陽。宜春曰宜陽、富春曰富陽、

 凡名春者悉改之。唐時名春、而太白用陽、葢襲用舊名耳。」 

史記索隠「凡將軍、謂之幕府者、葢兵門合施帷帳、故稱幕府。」

 崔浩曰、古者出征為將帥、軍、還則罷、理無常處、以幕為府署、故曰幕府。」

壽陽信天險,天險橫荊關。

苻堅百萬,遙阻八公山。不假築長城,大賢在其間。

戰夫若熊虎,破敵有餘閒。張子勇且英,少輕衛霍孱。

投軀紫髯將,千里望風顏。勗爾效才略,功成衣錦還。

太平寰宇記 「陽城臨淝水北有八/公山山北即淮水自東晉至今常為要害之地」

十六國春秋 「苻堅意欲取江東遣征南大/將軍陽平公融督驃騎將軍張蚝撫軍大將軍苻方衛

軍將軍梁成等率步騎二十五萬號稱三十萬為前鋒/堅發長安戍卒六十餘萬騎二十七。 

萬前後千里旗鼓相望衆號百萬。

晉遣謝石為征虜將軍征討大都督與/前鋒都督謝𤣥西中郎將桓伊輔國將軍謝琰等水陸

七萬相繼来拒堅與融登春城望之見晉兵部陣嚴/整將士精銳。   

又望見八公山上草木皆以為晉兵顧謂融曰此亦勁敵何謂弱也。

憮然始有懼色。撃之仍進决戰於淮水南

𤣥謝琰桓伊等以精卒八千涉渡淝水融馳騎畧陣馬倒為 晉軍所殺軍遂大敗

江南通志 「八公山在州城北五里淝水之北淮水之南漢淮南王

安與其賓客八公俱登此山學仙。 

今山有淮南王廟圖安及八士像。山以八公名葢本。

於此苻堅望。晉兵見八公山草木皆旌旗狀即此山也。

三國志 「劉備以梟雄之姿而有關羽張飛熊虎之將江表傳戰如熊虎不惜軀命。」

葢本於牧誓如虎如貔如熊如羆之義。」

漢書 張耳傳「吾王孱王也。」

孟康註 「冀州人謂懦弱為孱鮑照詩投軀報明主紫髯將軍是孫稽。」詳見四巻註。

南史「栁慶出為雍州刺史。帝餞於新亭謂曰卿衣錦還朕無西顧憂矣。」近孱士連切音

 

 

『送張遙之壽陽幕府』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送張遙之壽陽幕府

壽陽信天險,天險橫荊關。

苻堅百萬,遙阻八公山。

不假築長城,大賢在其間。

(下し文)

(張遙の壽陽幕府に之くを送る)

壽陽は信に天險たり,天險 荊關に橫たう。

苻堅 百萬の,遙に 八公の山を阻【へだ】。つ

長城を築く假らず,大賢 其の間に在り。


(現代語訳)
送張遙之壽陽幕府(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

壽春城は、まことに天険で、南方の楚地、荊門から関門として続く天然の要害の地によって、まもられている。横たわっている。

むかし、苻堅は、百万の衆を率いて、江南を挙げむとし、遥かに八公山を隔てて、ここに陣取った。

その勢は、まことにに凄じい位であったが、東晋の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄・謝石の如き大賢が其間に居たのである。

 

(訳注)

送張遙之壽陽幕府

1.(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

2. 前八句は壽春が故事、後六句は迭別の正意で、両者の関係は、自然緊密である。

3. 壽陽幕府 壽陽、現在の寿県のこと。安徽省淮南市に位置する県である。安徽省の中央部、淮河の南岸に位置しており、国家歴史文化名城に指定される古い街である。旧称は郢(えい、Yǐng)、寿春(じゅしゅん、Shòu Chūn)といい、南北交通の要衝であり、古くから兵家必争の地であった。楚の首都であり淝水の戦いの古戦場ともなっている。楚は秦の圧力に対抗するため、春申君の提言で寿春へ遷都し、寿春を「郢」と改める。楚の都城の遺跡は現在の寿県県城内にある。楚の滅亡後、秦代には寿春に改名され、三十六郡のひとつ九江郡の治所となった。漢の初期のころは外姓王の英布が淮南王に封じられその王都となっている。淮南王であった劉安はこの地で『淮南子』を著した。後漢末期、袁術は寿春を都に皇帝を称した。三国時代の魏の後期には相次いで大きな兵変が発生した。

東晋の時代、華北を制した前秦が南征を行い、寿春の八公山に至り淝水で東晋軍と激突した。これが淝水の戦いであり、前秦軍が総崩れになり壊走した。「投鞭断流」、「風声鶴唳」、「草木皆兵」などの故事成語はこの戦いが起源である。

隋および唐は寿春を寿州と改名した。当時、この地で興った「壽州窯」は古代中国の著名な陶器の生産地で、その産品は南北の風格を兼ね備え、朝野に広く受け容れられた。

唐書地利志に「淮南道有州、春郡中督都府、本淮南郡天寳元年更名」とあり、𤦺の解に「按春之名、本自戰國。史記楚世家、考烈王、徙都春。正義曰、春在南春縣。是也。陽之名起自東晉。通典東晉、以鄭皇后諱、改春曰陽。宜春曰宜陽、富春曰富陽、凡名春者悉改之。唐時名春、而太白用陽、葢襲用舊名耳。」 といった。それから、瀑布というものは、史記索隠に、「凡將軍、謂之幕府者、葢兵門合施帷帳、故稱幕府。崔浩曰、古者出征為將帥、軍、還則罷、理無常處、以幕帟為府署、故曰幕府。」とある。

 

壽陽信天險,天險橫荊關。

壽春城は、まことに天険で、南方の楚地、荊門から関門として続く天然の要害の地によって、まもられている。横たわっている。

4. 壽陽 陽城。太平寰宇記「陽城臨淝水、北有八/公山、山北即淮水、自東晉至今、常為 要害之地。」陽城は淝水に臨み、北に八公山有り、山北 即ち淮水 東晉より今に至るまで 常に要害の地為り。)とある。

5. 信天險 まことに天に何もなく広がる青空の中でただ一つ鋭くたっている姿を言う。

6. 天險橫荊關 その天険の地は、南方の楚地、荊門から続く天然の要害の地によって、まもられている。

 

苻堅百萬眾,遙阻八公山。

むかし、苻堅は、百万の衆を率いて、江南を挙げむとし、遥かに八公山を隔てて、ここに陣取った。

7. 苻堅百萬眾 淝水の戦いをいう。3838月、苻堅は南北統一を目指して群臣の反対を押し切り、総勢100万と号する東晋討伐の軍を起こした。前秦軍は苻融の軍が寿春を落とすなど優勢だったが、漢族将軍でかつての東晋の梁州刺史朱序が「堅、敗れたり!」と叫んで苻堅を裏切り、さらに東晋軍の謝玄・謝石らに動揺した隙を突かれて大敗した。苻堅は流れ矢に当たって負傷しながらも弟の苻融と共に鮮卑族の慕容垂の軍勢によって守られて敗走したが、苻融は戦死した。《十六國春秋》 秦遣兵分道、寇晉  八月,以苻融為前鋒都督,指揮慕容垂等步騎二十五萬先行,苻堅隨後繼發,戎卒六十餘萬,騎二十七萬,旗鼓相望,前後千里。晉以以謝石為前線大都督,謝玄為先鋒,並謝琰、桓伊等人,領八萬兵馬,分三路迎擊前秦軍。」

8. 八公山 古代から戦場になったり、名士が隠棲したりする歴史豊かな地でした。戦国時代に趙の名将として知られ、「刎頸の交わり」の故事で有名な廉頗の墓もあるところ。《江南通志》に「八公山,在壽陽城北五里、在淝北淮南,亦名北山。峽石山西北夾淮為險,在西岸為峽石,在東岸為壽陽山。」(八公山は,壽陽城北五里に在り,淝北淮南に在り,亦たの名を北山という。峽石山の西北は夾淮 險を為し,西岸は峽石を為す在り,東岸は壽陽山を為す在る。)

 

不假築長城,大賢在其間。

その勢は、まことにに凄じい位であったが、東晋の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄・謝石の如き大賢が其間に居たのである。

9. 大賢在其間 淝水の戦いにおける謝玄・謝石のことをいう。