卷161_8 陌上贈美人
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2017年2月4日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
744年-045卷161_8 陌上贈美人(卷二五(二)一四七八)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8111 |
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744年-集06 【字解集】 送族弟綰・送程劉二侍御・前有樽酒行・春日行Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8099 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
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806年-018-#6 全唐文551-11-#6喜侯喜至贈張籍、張徹 【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7944 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-68#3 上後園山腳#3 杜詩詳注(卷一九(四)一六四七)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8113 |
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767年-集-4字解 【字解集】 a槐葉冷淘・ b上後園山腳・c季夏送鄉弟韶字解 杜詩詳注Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8131 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集訳注解説 (92)回目韋莊二十二首-1《巻二28 浣溪沙五首其一》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8114 (02/04) |
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fc2 |
Blog |
91)回目皇甫松十一首 《天仙子/浪濤沙/楊栁枝/摘得新/夢江南/採蓮子 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8108 (02/03) |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
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744年-045卷161_8 陌上贈美人(卷二五(二)一四七八)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8111
(大通りで出会った妓優の美人を見かけてひやかして贈る詩)
〔【小放歌行】普段自由に外に出られないものが、ちょっとだけの自由を味わうのを歌にしてみたという意味の詩題になる。〕
美人の色香は馬まで元気にしているのだろう、いきりたって進んで行き、この風流な散り落ちる花の絨毯を踏みしだいて行く。馭者はむちを垂らしていたのを、一目見ようと寄ってくるものを避けるため、美しい西王母と見まごう五雲の馬車をさっと打ち払った。
車の中の芸妓美人は、遊侠の貴公子を見つけ、にっこり笑い、真珠のすだれをまくりあげ、はるかむこうの紅い楼閣をゆびさして、あれがわたしの家だからきっと覚えていてくださいと言ったのだ。
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744年-045 - |
陌上贈美人(卷二五(二)一四七八) - |
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全唐詩卷161_8 |
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李白集校注卷二五(二)一四七八 |
李太白集巻24-046 |
漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8111 |
卷別 | 李白集校注 | 全唐詩 | 李太白集 |
卷二五(二)一四七八 | 卷161_8 | 巻24-046 | |
詩題 | 陌上贈美人(卷二五(二)一四七八) | ||
文體 | 七言絕句 | | |
詩序 | 小放歌行 | ||
初句 | 駿馬驕行踏落花 | 天寶三年 744年 44歲 | |
作地點 | 江寧(江南東道 / 潤州 / 江寧) | ||
及地點 | 0 | ||
陌上贈美人【小放歌行】
(大通りで出会った妓優の美人を見かけてひやかして贈る詩)
〔【小放歌行】普段自由に外に出られないものが、ちょっとだけの自由を味わうのを歌にしてみたという意味の詩題になる。〕
駿馬驕行踏落花,垂鞭直拂五雲車。
美人の色香は馬まで元気にしているのだろう、いきりたって進んで行き、この風流な散り落ちる花の絨毯を踏みしだいて行く。馭者はむちを垂らしていたのを、一目見ようと寄ってくるものを避けるため、美しい西王母と見まごう五雲の馬車をさっと打ち払った。
美人一笑褰珠箔,遙指紅樓是妾家。
車の中の芸妓美人は、遊侠の貴公子を見つけ、にっこり笑い、真珠のすだれをまくりあげ、はるかむこうの紅い楼閣をゆびさして、あれがわたしの家だからきっと覚えていてくださいと言ったのだ。
(陌上の美人に贈る)
駿馬 驕【おご】り 行いて、落花を踏む。鞭を垂れて 直ちに拂う、五雲の車。
美人一笑 珠箔を褰【かか】げ、 遙かに紅樓を指す 是れ妾が家。
陌上贈美人一云小放歌行一首/在第三此是第二篇 |
駿馬驕行踏落花垂鞭直拂五雲車美人一笑褰珠箔 |
遥指紅一作/青樓是妾家真誥赤水山中學道者朱孺子/八月五日西王母遣迎即日乗 |
五色雲車登天庾信步虚詞東明九芝盛北燭/五雲車五雲車仙人所乗者此盖誇美言之 |
『陌上贈美人』【小放歌行】 現代語訳と訳註解説
(本文)
陌上贈美人【小放歌行】
駿馬驕行踏落花,垂鞭直拂五雲車。
美人一笑褰珠箔,遙指紅樓是妾家。
(下し文)
(陌上の美人に贈る)
駿馬 驕【おご】り 行いて、落花を踏む。鞭を垂れて 直ちに拂う、五雲の車。
美人一笑 珠箔を褰【かか】げ、 遙かに紅樓を指す 是れ妾が家。
(現代語訳)
(大通りで出会った妓優の美人を見かけてひやかして贈る詩)
〔【小放歌行】普段自由に外に出られないものが、ちょっとだけの自由を味わうのを歌にしてみたという意味の詩題になる。〕
美人の色香は馬まで元気にしているのだろう、いきりたって進んで行き、この風流な散り落ちる花の絨毯を踏みしだいて行く。馭者はむちを垂らしていたのを、一目見ようと寄ってくるものを避けるため、美しい西王母と見まごう五雲の馬車をさっと打ち払った。
車の中の芸妓美人は、遊侠の貴公子を見つけ、にっこり笑い、真珠のすだれをまくりあげ、はるかむこうの紅い楼閣をゆびさして、あれがわたしの家だからきっと覚えていてくださいと言ったのだ。
陌上贈美人
1.(大通りで出会った妓優の美人を見かけてひやかして贈る詩)
2. 陌 大道。 南京は揚州に次いで交通の要衝で陸水駅の最も大きな拠点で、当時、長安、洛陽、揚州に次いで唐四大歓楽街があった。芸妓の数が位置といわれるくらい最も多かった。この南京から揚州に掛けての花街の風習は後世にをもたらした。その代表格が、唐時代からこの街から広まった纏足である。この時代に大道を行き交うことは、通常の芸妓では不可能で、官妓の妓優が長官の命令でどこかにさしむけられての道中であろう。
3.【小放歌行】普段自由に外に出られないものが、ちょっとだけの自由を味わうのを歌にしてみたという意味の詩題になる。
駿馬驕行踏落花。垂鞭直拂五雲車。
美人の色香は馬まで元気にしているのだろう、いきりたって進んで行き、この風流な散り落ちる花の絨毯を踏みしだいて行く。馭者はむちを垂らしていたのを、一目見ようと寄ってくるものを避けるため、美しい西王母と見まごう五雲の馬車をさっと打ち払った。
4. 駿馬 元気なりっはな馬。
5. 驕 馬がいきりたって、人のいうことをきかない。
散った花をしばらくそのままにして楽しむのが風流とされる。王維「田園楽」にみえる。
6. 五雲車 伝説では、五色の雲で出来た仙人の乗る馬車。
美人一笑褰珠箔。遙指紅樓是妾家。
車の中の芸妓美人は、遊侠の貴公子を見つけ、にっこり笑い、真珠のすだれをまくりあげ、はるかむこうの紅い楼閣をゆびさして、あれがわたしの家だからきっと覚えていてくださいと言ったのだ。
7. 美人一笑 美人一笑千金、一笑傾国の美人
8. 褰 まくりあげる。
9. 珠箔 真珠のすだれ。
10. 紅楼 朱塗の高殿。
11. 妾 女の一人称。
12. 唐の妓優の生活
宮妓・官妓・教坊妓 などの生活
これら何百何千もの宮妓は、どのような生活をしていたのであろうか。宮妓は宮人と共通するところもあったが、しかし全く同じというわけでもなかったようだ。宮人の中から選抜されて宮妓にされたものの大半は、「宮婢」の身分のままであったが、それ以外の民間から選抜されたものの地位と身分は、一般の宮人に比べてやや高かったようである。各時代の記録はきわめて少ないが、ただ玄宗の時代についてだけは、『教坊記』という書物が彼女たちについて専門に書いている。その
記載によると、選ばれて宜春院に入った「内人」は身分が最も高かった。彼女たちが演舞する時には、雲詔院で訓練中の宮人とは衣服や装飾品に高低の区別があり、「内人」には佩魚(五品以上の貴人が身に着けることを許されていた魚形のバヴジ)が許されていたが、宮人には許されなかった。内人は比較的優遇されており、その家庭は「内人家」とよばれ、みな宮廷の外の外教坊に住み、季節ごとに宮廷から糧米が支給されていた。内人の中で皇帝から最も寵愛を受けていた「十家」と称される内人は邸宅を賜り、日常の賞賜もたいへん多かった。また、内人は家族と常時会うことができ、毎月の二目、十六日、あるいは自分の誕生日などに母親や姉妹が訪ねることができた。敬宗の時、皇帝は自ら内人の家族千二百人を招待し、教坊で宴席を設け、褒美として錦を下賜した(『旧唐書』敬宗紀)。
彼女たちの生活も比較的自由で、彼女たちに対する宮中の束縛も、それほど厳格ではなかった。年をとり容色が衰えると、宮中から出て家に帰りたいと申し出ることが許されており、宮人のように必ずしも深宮の中で朽ち果てねばならないというわけではなかった。『教坊記』に記されている竿木妓の芭漢女大娘子、許渾の「蕭煉師に贈る」という詩に出てくる内妓の蕭煉師、また『楽府雑録』に記されている宣徽院(宮中の一役所)の門弟楊氏などは、みな年老いて後、宮中から退出した内人であった。張結の「退宮の人」という詩に、「歌喉漸く退えて宮閲を出でんとし、泣いて伶官(宮中の楽官)に話せば 上 帰るを許す」とある。席融の「退宮妓」という詩に、「一且色衰えて故里に帰るも、月明 猶お夢に梁州(曲名)を按く」とあるが、これらはいずれも内人が年老いて後、宮中から退いたことを述べているのである。宮妓が宮中から出た後の境遇は、おしなぺてそれほど良いというわけでもなかったが、宮人に比べれば概して白由の身であったといえよう。以上によって、唐朝の宮廷は宮妓を芸人と見なして待遇し、宮人のような賤民身分とは区別していたこと、少なくとも玄宗の時代には、宮妓たちの待遇はまだ比較的良かったことが分かる。
もちろんのこと、たとえ宮妓は芸術家であり、原則として芸は献じるが身は献じないということになっていたにせよ、そしてまた一般の宮人に比べれば高い礼遇を受けていたにせよ、所詮彼女たちも皇帝の慰み物にすぎず、その漁色の対象になるものも少なくなかった。玄宗の弟の申王は、冬になると宮妓たちに周囲をすき間なく囲ませて暖をとり、これを「妓囲」とよんだ。別の弟の岐王は寒い時妓女の懐に乎を入れて暖をとった(『開元天宝遺事』巻古。こうした事例からみると、宮妓たちは芸人ではあったが、結局のところ娼妓との区別は、彼女たちが皇室専用の慰み物であるというにすぎない。
宮妓はまたしばしば皇帝の御下賜晶として大臣や貴族に与えられた。唐の各時代に、某人に「女楽」幾祖を下賜するといった記録があるが、この「女楽」とはよく訓練された宮中の楽妓のことである。宮妓たちはその半生を軽やかな音楽とあでやかな舞、笙・蕭などの笛や太鼓の中に費やし、そして少なからざる宮妓がその名を後世に残したのであるが、しかし生前の境遇はといえば、たいへん不幸なものであった。彼女たちはいったん年老いて容色が衰え、婚期を逸すると、宮中を退いてから嫁に行くのは容易でなく、また芸を売るのはさらに難しかった。それで非常に多くの宮妓が尼か女道士となって、孤独と貧寒の中で残生のけりをつけなければならなかった。



