182_48 秋夜獨坐懷故山(卷二三(二)一三五七)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

201727

の紀頌之5つの校注Blog

 

 

 

 

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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

 

 

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

744年-046-#1卷182_48 秋夜獨坐懷故山(卷二三(二)一三五七)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8117

 

 

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744年-集06 【字解集】 送族弟綰・送程劉二侍御・前有樽酒行・春日行Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8099

 

 

孟浩然

李白詩

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諸葛亮 出師表

 

 

曹植詩65

兩都賦序・西都賦・東都賦

李白全詩

漁父辞(屈原

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●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

 

 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-28 全唐詩338_25 #2寒食日出游 -#2 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8130

 

 

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806年-018-#6 全唐文551-11-#6喜侯喜至贈張籍、張徹  【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7944

 

 

・李商隠詩 (1) 136首の75

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韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

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index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

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index-13 821年~822年 22

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韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

 

 

Ⅲ 杜詩

詳注

767年-70 灩澦 杜詩詳注(卷一九(四)一六五○)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8137

 

 

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767年-集-4字解 【字解集】 a槐葉冷淘・ b上後園山・c季夏送弟韶字解 杜詩詳注Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8131

 

 

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

 

 

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

 

 

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

 

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

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744-046-#1182_48 秋夜獨坐懷故山(卷二三(二)一三五七)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8117

(秋夜斎中に獨坐し、故郷を懐うで作った詩。)

われは林薮に隠れる小隠者の身ながら、古しえの謝安石を慕い、又平生、遠游を事として秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられなかった屈原【あるいは、高士である向子平】を学び、浮世と隔絶して、自ら打澄まして居た。然るに、天子より詔書を下して、江海の間を尋ね廻られたということで、今まで白雲に臥して居た此身を起して、長安に上京し、天子の寵遇を受くることになったのである。朝廷に入っては西王母の瑤池の宴である興慶宮の宴に侍坐し、出でては天子の玉輦の行くままに陪従し、晨夕、御側を離れなかったのである。また、胡である異民族の者たちに誇るため、新たに賦を作って昇平の盛を叙し、天子の狩猟に耽らせられるを諫めて、短書を草して、上疏したことがある。私はただ、至尊の眷顧に答えんとしたままででなにも、ことさらに、功名をたてて、歴史上不朽の名を迎えようというような考えはない。

 

 

744-046-#1 -#1

秋夜獨坐懷故山(卷二三(二)一三五七) -#1

全唐詩卷182_48#1

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李太白集巻24-046#1

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大明宮正面 003李白集校注タイトル太白山00 


卷別

李白集校注

全唐詩

李太白集

山(卷二三(二)一三

182_48

22-039

詩題

秋夜獨坐懷故山(卷二三(二)一三五七)

文體

五言古詩  

 

詩序

0

     初句

小隱慕安石,遠

天寶三年   744   44

 

作地點

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)  

及地點

0

 

0

交遊人物/交遊地點

0

 

 

744-046 秋夜獨坐懷故山(卷二三(二)一三五七)

秋夜獨坐懷故山 #1

(秋夜斎中に獨坐し、故郷を懐うで作った詩。)

小隱慕安石,遠遊學屈平。

われは林薮に隠れる小隠者の身ながら、古しえの謝安石を慕い、又平生、遠游を事として秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられなかった屈原【あるいは、高士である向子平】を学び、浮世と隔絶して、自ら打澄まして居た。

天書訪江海,雲臥起咸京。

然るに、天子より詔書を下して、江海の間を尋ね廻られたということで、今まで白雲に臥して居た此身を起して、長安に上京し、天子の寵遇を受くることになったのである。

入侍瑤池宴,出陪玉輦行。

朝廷に入っては西王母の瑤池の宴である興慶宮の宴に侍坐し、出でては天子の玉輦の行くままに陪従し、晨夕、御側を離れなかったのである。

誇胡新賦作,諫獵短書成。

また、胡である異民族の者たちに誇るため、新たに賦を作って昇平の盛を叙し、天子の狩猟に耽らせられるを諫めて、短書を草して、上疏したことがある。

但奉紫霄顧,非邀青史名。

私はただ、至尊の眷顧に答えんとしたままででなにも、ことさらに、功名をたてて、歴史上不朽の名を迎えようというような考えはない。

(秋夜 獨坐して 故山を懷う) #1

小隱 安石を慕い,遠遊 屈平を學ぶ。

天書 江海を訪い,雲臥 咸京より起つ。

侍っては瑤池の宴に入し,出でては 玉輦の行に陪す。

胡に誇って新賦を作り,獵を諫めて短書を成す。

但だ 紫霄の顧を奉ず,青史の名を邀うるに非ず。
2

莊周空劍,墨翟恥論兵。

拙薄遂疏,歸閒事耦耕。

顧無蒼生望,空愛紫芝榮。

寥落暝霞色,微茫舊壑情。

秋山綠蘿月,今夕為誰明。

 

秋夜獨坐懷故山

小隱慕安石,遠遊學屈平。天書訪江海,雲臥起咸京。

入侍瑤池宴,出陪玉輦行。誇胡新賦作,諫獵短書成。

但奉紫霄顧,非邀青史名。莊周空劍,墨翟恥論兵。

拙薄遂疏,歸閒事耦耕。顧無蒼生望,空愛紫芝榮。

寥落暝霞色,微茫舊壑情。秋山綠蘿月,今夕為誰明。

王康琚詩 小隱「隱林薮、大隱隱朝市」

謝安石 髙臥東山見 七巻註「向于平肆意遊五岳名山見 十三巻註 楚詞遊者屈原之所作也。

其詞曰悲時俗之廹阨兮願輕舉而

鮑照詩「雲卧恣天行」    穆天子傳「天子觴西王母於瑶池之上」

潘岳 籍田賦「天子乃御玉輦誇胡用」 揚雄賦 長楊事見一巻

大獵賦註史記 司馬相如常從上至長楊獵 是時天子方好自撃熊彘馳逐野獸

相如上疏諌之  梁簡文帝賦升紫霄之丹地排玉殿之金扉青史 見二十二巻

註莊子 説劍篇 趙文王喜劍、劍士夾門而客三千餘人。

日夜相撃於前死傷者歳百餘人如是三年、國衰諸侯謀之太子悝患之募

左右曰 孰能説王之意止劍士者/賜之千金左右曰 莊子當能太子乃使人以千金奉莊

子莊子弗受太子乃與見王。

王曰夫子所御杖長短何如曰臣有三劍、唯王所用有天子劍有諸侯劍有

劍今大王有天子之位而好人之劍臣竊為大王薄之

氏春秋墨子爲守攻公輸般服而不肯以兵知髙

誘註公輸般在楚、楚王使設雲梯爲攻宋之具墨子聞而往説之楚王曰公輸般天下之巧工也。

寡人使攻宋之城何爲不得。 

墨子曰使公輸般攻宋之城臣請爲宋/守之備公輸般九攻之墨子九却之又令公輸般守備

墨子九下之不肯以善用兵見知於天下也。  

墨子名翟魯人也。  周禮二耜爲耦賈公彦疏二耜爲耦者兩人各

執一耜若長沮桀溺耦而耕也

禮記命農計耦耕事修/耒耜具田噐陳澔註耦謂二人相耦也通鑑謝安少有

重名前後徵辟皆不就寓居稽以山水文籍自娯雖/爲布衣時人皆以公輔期之士大夫至相謂曰安石不

出當如蒼生何四皓歌莫莫髙山深谷逶迤曄曄紫/芝可以療飢

宋之問詩鏡愁𤣥髪改心愛紫芝榮

 

 

 

『秋夜獨坐懷故山』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

秋夜獨坐懷故山 #1

小隱慕安石,遠遊學屈平。

天書訪江海,雲臥起咸京。

入侍瑤池宴,出陪玉輦行。

誇胡新賦作,諫獵短書成。

但奉紫霄顧,非邀青史名。
詩文(含異文)

小隱慕安石,遠遊學屈平【遠遊學子平】。

天書訪江海,雲臥起咸京。

入侍瑤池宴,出陪玉輦行。


(下し文)
(秋夜 獨坐して 故山を懷う) #1

小隱 安石を慕い,遠遊 屈平を學ぶ。

天書 江海を訪い,雲臥 咸京より起つ。

侍っては瑤池の宴に入し,出でては 玉輦の行に陪す。

胡に誇って新賦を作り,獵を諫めて短書を成す。

但だ 紫霄の顧を奉ず,青史の名を邀うるに非ず。


(現代語訳)
秋夜獨坐懷故山 #1(秋夜斎中に獨坐し、故郷を懐うで作った詩。)

われは林薮に隠れる小隠者の身ながら、古しえの謝安石を慕い、又平生、遠游を事として秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられなかった屈原【あるいは、高士である向子平】を学び、浮世と隔絶して、自ら打澄まして居た。

然るに、天子より詔書を下して、江海の間を尋ね廻られたということで、今まで白雲に臥して居た此身を起して、長安に上京し、天子の寵遇を受くることになったのである。

朝廷に入っては西王母の瑤池の宴である興慶宮の宴に侍坐し、出でては天子の玉輦の行くままに陪従し、晨夕、御側を離れなかったのである。

また、胡である異民族の者たちに誇るため、新たに賦を作って昇平の盛を叙し、天子の狩猟に耽らせられるを諫めて、短書を草して、上疏したことがある。

私はただ、至尊の眷顧に答えんとしたままででなにも、ことさらに、功名をたてて、歴史上不朽の名を迎えようというような考えはない。


(訳注)

秋夜獨坐懷故山 #1

(秋夜斎中に獨坐し、故郷を懐うで作った詩。)

1 秋夜獨坐懷故山詩について 

743年天寶二年43歳の時、長安においてつくる。この年 94首作ったがその78首目の作である。

・李太白集では、〈懐思〉篇に所収され、或は人を懐い、或は地を思い、延佇低徊の意を寓したのである。

・起首四句は、御召に應じて上京するまでの事、入侍瑤池宴あ四句は、翰林に供奉せしこと、但奉紫霽顧の四句は、兎角する中に、天子の眷顧を失いしこと、拙薄遂疎絶の四句は、長安より放逐されしこと、寥落暝霞色の四句は、即ち題意の正面で、懐郷の意を述べたのである。かく一身の経歴を叙し、簡単ながら、その要を得、且つ故事を運旋して、暴露せぬところは、さすがに、含蓄ありというべく、全体がが絶妙を以て許すべからざるも、なお一顧の価値はあることと思はれる。

 

小隱慕安石,遠遊學屈平。【遠遊學子平】

われは林薮に隠れる小隠者の身ながら、古しえの謝安石を慕い、又平生、遠游を事として秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられなかった屈原【あるいは、高士である向子平】を学び、浮世と隔絶して、自ら打澄まして居た。

2 小隱 大したものではない隠者のようなもの。小隠者の身。謙譲語。

3 安石 東晋の謝安(字は安石)が、朝廷からしばしば出仕を催されながら、東山に隠棲したま基易に承知しなかったこと。人々は、「安石出づる喜んぜずんは、将た蒼生(人民)を如何んせん」と言って心配した。(『世説新語』「排調、第二十五」の二六)。「高臥」は、世俗の欲望を離れて隠棲すること。

会稽東山の山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。謝安の芸妓を携えて東山始寧の別荘の南に楼があり、そこで漢の謝安の故事、朝廷の誘いに乗らず始寧の芸妓を携えて遊んだことにならい、芸妓を待っていたが来なかったときの感情を歌ったものである

『送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈』

攜妓東山去。 春光半道催。

遙看若桃李。 雙入鏡中開。

 姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り

妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。

(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。

送姪良携二妓赴会稽戯有此贈  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -287

○漢の謝安(字は安石)が始寧(会稽紹興市の東の上虞県の西南)に隠居して朝廷のお召しに応じなかったのは「東山高臥」といって有名な講である。山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。○携 佳人=美人=芸妓を携える。謝安の故事をふまえる。府城臥竜山南にあった白樓亭のこと。『会稽志卷第九』山府城の卧龍山府に其東麓に治据されていた。隸山陰陽經雲种山、また別名として重山は越大夫の种所葬られた太平御覧种山の名とした處である。山南道で旧と傳えられる白楼亭は今の遺址は関連性からいうと不確かであるが、山頂にある城隍祠ああって、其の西南の越王台の下にある。

李白《346卷九17贈僧崖公》「手秉玉麈尾, 如登白樓亭。」

会稽記 「浙江又東北、重山を径す、西山の上に白楼亭あり。」とある。

4-⑴ 屈平 屈原(くつげん、紀元前343121日頃 - 紀元前27855日頃)は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。春秋戦国時代を代表する詩人であり、政治家としては秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。

4-⑵【子平】 向長ことで,字を子平という,河出身の朝廷歌人である。隱居して仕えることはなかった,性格は尚、中和であり,好く《老子》、《易經》に通じた。貧して資食無く,好事者は更に饋すれば,之を受け,取足して其の餘に反らう。王莽大司空の王邑は之連年に辟く,乃ち至る。之を莽に薦めんと欲するに,固辭し乃ち止む。潛かに家に隱る,《易》を讀み「損益の卦」に至る,喟然として歎して曰く:「吾 已に富を知るは貧の如からず,貴は賤のく如からず,但し未だ死を知らずは何如に生くるのみや?」建武中,男女娶嫁既に畢り,敕:「家の事を斷じ,相關する勿れ,當に我死ぬるが如き也!」是に於て遂に肆意と同好し北海の禽慶,俱に五嶽名山に遊ぶ,竟に終る所知らず。

 

天書訪江海,雲臥起咸京。

然るに、天子より詔書を下して、江海の間を尋ね廻られたということで、今まで白雲に臥して居た此身を起して、長安に上京し、天子の寵遇を受くることになったのである。

4 天書 天子より下れた詔書。

5 訪江海 江海(長江、淮河、黄河の流域、最終的には嵩山で受ける)の間を尋ね廻られた

5 雲臥 雲がわく岩場の奥深い處に隠遁すること。謝靈運《石門在永嘉》「躋険築幽居、披雲臥石門。」(険に躋【のぼ】りて幽居を築き、雲を披【ひら】きて石門に臥す。嶮しい道を登ったところに一軒家を別荘として建てた、雲におおわれたところ、石門のところに病の療養に伏せた。

《石門新營所住四面高山回溪石瀨修竹茂林》石門在永嘉 謝霊運<30>#1 詩集 404  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1029

杜甫 2 遊龍門奉先寺

6 咸京 秦の時の都、咸陽であるがここでは唐の都長安のことをいう。

307巻八21卷八讀諸葛武侯傳書懷贈長安崔少府叔封昆季

武侯立岷蜀、壯志吞咸京。

377卷十23流夜郎半道承恩   放還兼欣克復之美書懷示息秀才

旋收洛陽宮、回輿入咸京。

816巻二十二37秋夜獨坐懷故山

天書訪江海、云臥起咸京。

 

入侍瑤池宴,出陪玉輦行。

朝廷に入っては西王母の瑤池の宴である興慶宮の宴に侍坐し、出でては天子の玉輦の行くままに陪従し、晨夕、御側を離れなかったのである。

7 瑤池宴 西王母の瑤池の宴である興慶宮勤政楼の宴、龍池の沈香亭での宴をいう。

8 玉輦行 天子の専用道路である夾城を移動、誰にも分らず大明宮と興慶宮、曲江離宮、芙蓉園を移動できたことを言い、金銀宝飾で飾った皇帝の御車に乗って移動した。《卷六04侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌》》「仗出金宮隨日轉。天回玉輦繞花行。」

(ジョウ)を持つ警護の者たちは金鑾殿を出て皇帝に付き添って回ってゆく。皇帝は天子の道である夾城で移動され、宝玉の輦(レン)をころがして花々を繞って御行なされる。

743年(54)李太白集卷六04-《侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌》 373-#3Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-54) Ⅰ李白詩1720 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7148

潘岳 籍田賦「天子乃御玉輦誇胡用」 

 

誇胡新賦作,諫獵短書成。

また、胡である異民族の者たちに誇るため、新たに賦を作って昇平の盛を叙し、天子の狩猟に耽らせられるを諫めて、短書を草して、上疏したことがある。

誇胡 揚雄が長楊賦を作ったこと。

諫獵 李白詩《溫泉侍從歸逢故人》「漢帝長楊苑,誇胡羽獵歸。子雲叨侍從,獻賦有光輝。」(漢帝の長楊苑,胡に誇って 羽獵して歸る。子雲 叨りに侍從,賦を獻じて 光輝有り。)むかし、漢の武帝は胡人に誇るのに、禽獣が多いにいることをしめそうと、長楊苑で羽獵を催され、猛々しい獣や鳥の狩りを持ち帰った。その時、お供をしていた楊雄は畏れ多くも、その行に陪従し、羽獵の帰後、「長楊賦」を献上し、大いに面目を施したというところであった。

揚雄《長楊賦序》「上將大誇胡人以多禽獸,秋,命右扶風發民入南山,西自褒斜,東至弘農,南敺漢中,張羅罔罝罘,捕熊羆豪豬虎豹狖玃狐菟麋鹿,載以檻車,輸長楊射熊館。以網為周阹,縱禽獸其中,令胡人手搏之,自取其獲,上親臨觀焉。是時,農民不得收斂。雄從至射熊館,還,上長楊賦」(上、將に大いに胡人に誇るに禽獸の多きを以ってせんとし,秋,右扶風に命じ、民を發って南山に入り,西は褒斜自り,東は弘農に至り,南は漢中を敺り,羅罔の罝罘を張り,熊羆・豪豬・虎豹・狖玃・狐菟・麋鹿を捕え,載するに檻車を以ってす,長楊 射熊館に輸す。網を以って周阹と為し,禽獸を其の中に縱ち,胡人を令て手もて之を搏ち,自ら其獲を取らしめ,上 親ら臨み觀る。是の時,農民收斂するを得ず。雄 從って射熊館に至り,還って,長楊賦を上る。)とある。

 

但奉紫霄顧,非邀靑史名。

私はただ、至尊の眷顧に答えんとしたままででなにも、ことさらに、功名をたてて、歴史上不朽の名を迎えようというような考えはない。

紫霄 大空。転じて、皇居や宮中もいう。梁簡文帝賦 「升紫霄之丹地、排玉殿之金扉。」

青史  歴史、史乗 、史過去の出来事の記録または物語風の記述話説  由来書き。 青史 見二十二巻