
卷168_13 贈韋祕書子春二首其二
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2017年3月2日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
744年-059-#4卷168_13 贈韋祕書子春二首其二(卷九(一)六一五)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8267 |
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744年-集08【字解集】 a古風五十九首之五十六 b朝下過盧郎 c登太白峰 d古風三十九 e陽春歌 f憶東山二首其二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8207 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-32 全唐詩339_ 4 #4遊青龍寺贈崔大補闕-#4 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8268 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-76#2 奉送王信州崟北歸#2 杜詩詳注(卷一九(四)一六六三)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8275 |
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767年-集-5 【字解集】 a秋行官張望督促東渚耗・b阻雨不得歸瀼西甘林 杜詩詳注・字解 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8234 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 巻三-02 (117)回目韋相莊二十五首謁金門二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8270 (03/02) |
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花間-010字解集115)回目韋莊a應天長/b.荷葉盃/c.清平樂四首/d.望逺行/ 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8252 (02/29) |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-041§2 古詩 爲焦仲卿妻作§2-#2〔無名氏〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻一ブログ 8271 |
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744年-059-#4卷168_13 贈韋祕書子春二首其二(卷九(一)六一五)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8267
(昔の昇平、謝安のように、大志を抱いて秘書省に奉職している韋子眞が訪ねてくれて唔談したのちこの詩を贈った。)その二
君は折角の才芸がありながら、いわば、不遇であって、徒らに浮世の風塵に苦しめられていながら、一官を守って、すでに白髪頭に成っても不遇であること、誠にお気の毒なことである。但し、気が同じであれば、萬里の隔たりがあっても、いつまでも離れたままというものではなく、席を合すというものであろうし、同じ志操を持つ我々であれば、私を訪うて、この瓊都に来られることであろう。そこで、膝を交えて快談すれば、われをして、かの樂廣と同じように、雲をひらいて青天を睹るという想いをなさしむべく、又、王景略を学び、虱を椚りながら、しかるべき計画に就いて、いろいろ歓談しようとおもうのである。かの張良と綺里季等とは、一見すると全くの別人のようであるが、張良は、晩年世を謝し、赤松子に従って、遊んだというから、商山に隠れて居た彼の綺里李等の四皓と、出處進退、格別異なって居るわけでもない。
われ等の希望するところは、-かどの事業を完成して社稷を安んじ、やがて功成り名立ちし後は、古しえの范蠡の如く、超然高踏、一葉の扁舟に乗じて、五湖に去ろうというので、君の志も定めてそういうのであらう。
744年-059-§2 - |
贈韋祕書子春二首其二(卷九(一)六一五) - |
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全唐詩卷168_13 |
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李白集校注子春二首其二(卷九( |
李太白集巻六06 |
漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8267 |
卷168_13 《贈韋秘書子春二首其一》李白
谷口鄭子真,躬耕在岩石。高名動京師,天下皆籍籍。
斯人竟不起,雲臥從所適。苟無濟代心,獨善亦何益。
惟君家世者,偃息逢休明。談天信浩蕩,說劍紛縱橫。
謝公不徒然,起來為蒼生。秘書何寂寂,無乃羈豪英。
且複歸碧山,安能戀金闕。舊宅樵漁地,蓬蒿已應沒。
卻顧女幾峰,胡顏見雲月。
其二
徒為風塵苦,一官已白須。氣同萬里合,訪我來瓊都。
披雲睹青天,捫虱話良圖。留侯將綺裏,出處未雲殊。
終與安社稷,功成去五湖。
卷別 | 李白集校注 | 全唐詩 | 李太白集 |
子春二首其二(卷九( | 卷168_13 | 巻六06 | |
詩題 | 贈韋祕書子春二首其二(卷九(一)六一五) | ||
文體 | 五言古詩 | | |
詩序 | 【一本二詩合作一首。】 | ||
初句 | 徒為風塵苦 | 天寶三年 744年 44歲 | |
作地點 | 廬山(江南西道 / 江州 / 廬山) | ||
及地點 | 無 | ||
| 0 | ||
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交遊人物 | 韋子春 | ||
交遊地點 | 書信往來 |
贈韋祕書子春,二首之二
(昔の昇平、謝安のように、大志を抱いて秘書省に奉職している韋子眞が訪ねてくれて唔談したのちこの詩を贈った。)その二
徒為風塵苦,一官已白鬚。
君は折角の才芸がありながら、いわば、不遇であって、徒らに浮世の風塵に苦しめられていながら、一官を守って、すでに白髪頭に成っても不遇であること、誠にお気の毒なことである。
氣同萬里合,訪我來瓊都。
但し、気が同じであれば、萬里の隔たりがあっても、いつまでも離れたままというものではなく、席を合すというものであろうし、同じ志操を持つ我々であれば、私を訪うて、この瓊都に来られることであろう。
披雲睹青天,捫蝨話良圖。
そこで、膝を交えて快談すれば、われをして、かの樂廣と同じように、雲をひらいて青天を睹るという想いをなさしむべく、又、王景略を学び、虱を椚りながら、しかるべき計画に就いて、いろいろ歓談しようとおもうのである。
留侯將綺里,出處未云殊。
かの張良と綺里季等とは、一見すると全くの別人のようであるが、張良は、晩年世を謝し、赤松子に従って、遊んだというから、商山に隠れて居た彼の綺里李等の四皓と、出處進退、格別異なって居るわけでもない。
終與安社稷,功成去五湖。
われ等の希望するところは、-かどの事業を完成して社稷を安んじ、やがて功成り名立ちし後は、古しえの范蠡の如く、超然高踏、一葉の扁舟に乗じて、五湖に去ろうというので、君の志も定めてそういうのであらう。
《》現代語訳と訳註解説
(本文)
贈韋秘書子春二首其二
徒為風塵苦,一官已白須。氣同萬里合,訪我來瓊都。
披雲睹青天,捫虱話良圖。留侯將綺裏,出處未雲殊。
終與安社稷,功成去五湖。
(下し文)
(韋祕書子春に贈る二首の其の二)
徒に風塵の爲に苦み、一官すでに白髪。
気同じく萬里合し、我を訪うて瓊都に來る。
雲を披いて青天を観、虱を椚【ひね】って良圖を話す。
留侯と綺里と、出處未だ殊なりと云わず。
終に與【とも】に社稷を安んじ、功成らば五湖に去らむ。
(現代語訳)
(昔の昇平、謝安のように、大志を抱いて秘書省に奉職している韋子眞が訪ねてくれて唔談したのちこの詩を贈った。)その二
君は折角の才芸がありながら、いわば、不遇であって、徒らに浮世の風塵に苦しめられていながら、一官を守って、すでに白髪頭に成っても不遇であること、誠にお気の毒なことである。
但し、気が同じであれば、萬里の隔たりがあっても、いつまでも離れたままというものではなく、席を合すというものであろうし、同じ志操を持つ我々であれば、私を訪うて、この瓊都に来られることであろう。
そこで、膝を交えて快談すれば、われをして、かの樂廣と同じように、雲をひらいて青天を睹るという想いをなさしむべく、又、王景略を学び、虱を椚りながら、しかるべき計画に就いて、いろいろ歓談しようとおもうのである。
かの張良と綺里季等とは、一見すると全くの別人のようであるが、張良は、晩年世を謝し、赤松子に従って、遊んだというから、商山に隠れて居た彼の綺里李等の四皓と、出處進退、格別異なって居るわけでもない。
われ等の希望するところは、-かどの事業を完成して社稷を安んじ、やがて功成り名立ちし後は、古しえの范蠡の如く、超然高踏、一葉の扁舟に乗じて、五湖に去ろうというので、君の志も定めてそういうのであらう。
(訳注)
贈韋祕書子春二首
1. (昔の昇平、謝安のように、大志を抱いて秘書省に奉職している韋子眞が訪ねてくれて唔談したのちこの詩を贈った。)
2. 【題意】 この詩は、秘書省に奉職している韋子春が、来訪したことにより、唔談時を移して行った後、賦して贈ったもの。
3. 【解説】 廬山(江南西道 / 江州 / 廬山)において、744年天寶3年44歳の作である。ここではこの詩を二首に分けたが、王琦は、「今按此詩一氣貫注不能斷乙通作一首/為是故校從古本」として二首を、一貫して一首と見るべきであるとしている。
其二
徒為風塵苦,一官已白鬚。
君は折角の才芸がありながら、いわば、不遇であって、徒らに浮世の風塵に苦しめられていながら、一官を守って、すでに白髪頭に成っても不遇であること、誠にお気の毒なことである。
20. 風塵苦 浮世の風塵に苦しめられてい
氣同萬里合,訪我來瓊都。
但し、気が同じであれば、萬里の隔たりがあっても、いつまでも離れたままというものではなく、席を合すというものであろうし、同じ志操を持つ我々であれば、私を訪うて、この瓊都に来られることであろう。
21. 瓊都 仙京、京都。ここは二人共通の道觀をいう。 南朝梁江淹 《被百僚敦勸受表》「奸回內奰,則戮力瓊都。」とある。
披雲睹青天,捫蝨話良圖。
そこで、膝を交えて快談すれば、われをして、かの樂廣と同じように、雲をひらいて青天を睹るという想いをなさしむべく、又、王景略を学び、虱を椚りながら、しかるべき計画に就いて、いろいろ歓談しようとおもうのである。
22. 披雲睹青天 《世說》衛伯玉為尚書に見る“樂廣”與中朝名士談議命子弟造之曰う、此人は之れ水鏡の人なり。之を見て雲霧を披るも青天を覩るが若し。」とみえる。樂廣の人となりを、青天、水鏡のようであるといったことに基づく。・樂廣(?—304年),樂廣は字を彦輔といい、南陽郡淯陽の人である。河南の長官に転任した。かつて親しい客が長い間、来訪しないことがあった。楽廣はその理由を質問し、客は答えた「この前、席に着いて、お酒を御馳走になりました。飲もうとしたとき、ふと盃の中に蛇がいるのが見えました。ひどく気持ちが悪かったのです。そして飲んだ後、病気になってしまいました。」と。この時、河南の役所の壁には角でできた弓が掛けてあり漆で蛇が書かれていた。楽廣は盃中の蛇とは、きっと角の弓の影であろうと思った。そこで、再び酒を前の場所に用意すると、客に、言った。「盃の中に復た何かが見えるでしょうか?みえないでしょうか?」客は答えた「始めの時のように(蛇が)見えます」そこで楽廣は理由を告げた。客は思い込みが解けて、長い病気が、すぐさま治ってしまった。
23. 捫蝨話良圖 晉書 桓温入關、王猛被褐詣之一面談當世之事、捫虱而言旁若無人。王景略 王猛(325年 - 375年)の故事のことで、中国の前秦の苻堅に仕えた宰相。字は景略。苻堅の覇業を全面的に補佐した賢臣で、華北統一に貢献した。北海郡剧県(今の山東省寿光市/維坊市)の出身。漢人の有力貴族の家に生まれたが家は貧しく、もっこ(竹や藁を編んで作り、物を盛って運搬する道具)を売って生計を立てていたが、細事にはこだわらず博学で殊に兵書を好んだ。
354年に東晋の桓温が前秦を北伐したときに訪ねていき、虱をつぶしながら天下の大事を堂々と論じ合ったという。この際、桓温が「わしは天子の命令を奉じて逆賊と戦っているのに、秦の豪傑の中にわしの所に来る者がないのはどうしたわけだと思うか」と尋ね、王猛は「将軍は数千里を遠しとせず、深く敵の領土に侵入して今は長安の間近に迫っておられる。しかるに、あなたは覇水を渡ろうとはされない。これでは人民には貴方がどう考えておられるのか、わからんではないか。だから誰も来ないのです」と述べ、桓温は「江東には君のような人物はおらぬよ」と述べて東晋への仕官を勧められたがこれを断った。後に異民族の王・苻堅の枢機に参与したが、苻堅とは即位する前から知り合った仲でたちまちの内に身分を越えた仲になった。
留侯將綺里,出處未云殊。
かの張良と綺里季等とは、一見すると全くの別人のようであるが、張良は、晩年世を謝し、赤松子に従って、遊んだというから、商山に隠れて居た彼の綺里李等の四皓と、出處進退、格別異なって居るわけでもない。
24. 綺里季 秦末に商山(陝西省商県)に乱を避けて隠居した4人の老人を画題とする絵画をいう。四皓とは東園公,夏黄公,甪里(ろくり)先生,綺里季の4人で,鬚眉がみな白かったのでこのように呼ばれた。水墨人物画の主題としてとりあげられている。
商山の四皓 秦の始皇帝の時、国難を避けて商山に入りし隠士四人にして、東園公、綺里季、夏黄公、角里先生是なり、髪眉皓白の故に四皓と称す。東園公、姓は唐、字を宣明という、夏黄公、姓は廣、名は黄、角里先生は周術という、皆漢の世となるに及び、義、漢の臣とならず、高祖大に之を高しとし屡招けども到らず、高祖に寵姫威夫人あり、趙王如意を生む、会々上盈太子仁弱なりしを以て、之を廃し如意を以て之に替へんとす、太子の生母呂后之を憂ひ、張良に謀る、張良即ちこの四隠士を誘うて太子に侍せしむ、高祖之を見て驚きて問うて曰く、吾れ公を求むる歳あり、公我を避逃す、今児に侍す如何と、四人曰く陛下士を軽んじ善く罵る、今太子は即ち仁孝恭敬、士を愛するを聞く、故に臣等来ると、高祖遂に太子を廃する能はずという。
張良 秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。
終與安社稷,功成去五湖。
われ等の希望するところは、-かどの事業を完成して社稷を安んじ、やがて功成り名立ちし後は、古しえの范蠡の如く、超然高踏、一葉の扁舟に乗じて、五湖に去ろうというので、君の志も定めてそういうのであらう。
25. 功成去五湖 范蠡の故事を言う。《呉越春秋》「范蠡、乃ち扁舟に乗じ、三江を出でて五湖に入る。人、其の適く所を知る莫し。」とあるに基づく。・范蟸【はんれい】越玉句践を助げて呉を滅した(前473年)。後范蟸は五湖(太湖)に浮かんで越を去り野に隠れ、名を鴟夷子皮と変えて産を成し、自ら陶の朱公と号した。
李白《古風が十九首之十八》 「何如鴟夷子,散髮棹扁舟。」
かの氾蠡(はんれい)が鴟夷子と名乗って髪をかっさばき引退し、小舟に棹さして気ままに江湖にうかんだ境地こそ何よりだ。
○鴟夷子 越王勾践は呉王夫差と戦って会稽山で和を請うた。その後二十年、嘗胆の苦しみを経て、氾蠡の助けを得て軍隊を訓練し、呉と戦って会稽の恥をそそいだ。越が呉を滅ぼすと、汚轟は越を去った。小舟に乗り、江湖に浮かび、姓名を変じて斉の国におもむき、怨夷子皮と名のった。鴎夷とは馬の革でつくった袋である。呉の功臣伍子背が呉王夫差に死を命ぜられた上、死体は線夷につつまれて揚子江に投げこまれた。泡轟は賢いから、自分もぐずぐずしていたら、そんな目にあっただろうという意味で、こういう皮肉な名前をつけたのである。
○散髪 役人のかむる冠で髪を拘束しないこと。
范蠡(はんれい 生没年不詳)は、中国春秋時代の越の政治家、軍人。氏は范、諱は蠡、字は少伯。越王勾践に仕え、勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げた最大の立役者。
范蠡は夫差の軍に一旦敗れた時に、夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光(西施(せいし))を密かに送り込んでいた。思惑通り夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴って斉へ逃げた。
越を脱出した范蠡は、斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は名が上がり過ぎるのは不幸の元だと財産を全て他人に分け与えて去った。 斉を去った范蠡は、かつての曹の国都で、今は宋領となっている定陶(山東省陶県)に移り、陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言う。陶朱公の名前は後世、大商人の代名詞となった(陶朱の富の故事)。このことについては、史記の「貨殖列伝」に描かれている。