卷176_6 灞陵行送別(卷十七(二)一○○三)
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2017年3月13日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
744年-066卷176_6 灞陵行送別(卷十七(二)一○○三)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8333 |
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744年-集09字解集 a古風五十九首之三十七,b豳歌行,c題東谿公幽居,d贈韋祕書子Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8274 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
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806年-集07- 【字解集】・a. 豐陵行 ・b. 遊青龍寺贈崔大補闕 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8287 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-78#3 暇日小園散病將種秋菜督勒(郭作勒)耕牛兼書觸目#3 杜詩詳注(卷一九(四)一六六九)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8341 |
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767年-集-6 【字解集】 ・a.又上後園山腳 ・b.奉送王信州崟北歸 杜詩詳注()Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8300 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間-011 字解集128)回目韋莊a.謁金門 b.江城子 c.河傳 d.天仙子五首 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8336 (03/13) |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-041§4 古詩 爲焦仲卿妻作§4-#4〔無名氏〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻一ブログ 8337 |
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744年-066卷176_6 灞陵行送別(卷十七(二)一○○三)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8333
(㶚水、㶚陵橋、㶚陵亭、㶚陵橋のたもとで繰り広げられる別れの歌、送別のうた。)
灞陵亭で君を送るというのが恒例である、そこは灞水の流れが、浩浩としてうららかにながれ、春の水で渡ることはできないくらいである。あたりは、まだ早春で、頭上には花のない古木がにょきにょきたっている、足元には心を痛めるような芽生え始めた春草が心痛め占め生えはじめている。そこで、土地の人に向かって東、洛陽方面と南はどこへ通じるのかと分かれ道のことを尋ねると、こちらの道こそは、建安の七子の王粲が「南の灞陵の丘に登れば」と歌った古道はこれでそのまま南に進めば漢水まで続き、荊州に着くのだという。もう一方の古道は、洛陽から連綿と続いて長安にはしっている。その紫の天子の御門のうちでは夕日が落ちて宮女たちのよろこびが生じ、心痛めしむ浮き雲におおわれているのだろう。まさに今夜わたしは別れてひとりの夜、断腸のもだえ聲のあるところ、女が主人恋しさに唄う歌は、聞くに堪えないものであるのも当然の事であろう。
744年-066 - |
灞陵行送別(卷十七(二)一○○三) - |
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全唐詩卷176_6 |
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李白集校注別(卷十七(二)一○ |
李太白集巻八38 |
漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8333 |
送君灞陵亭,灞水流浩浩。
上有無花之古樹,下有傷心之春草。
我向秦人問路岐,云是王粲南登之古道。
古道連綿走西京,紫闕落日浮雲生。
正當今夕斷腸處,黃鸝愁絕不忍聽。
詩文(含異文):
送君灞陵亭,灞水流浩浩。上有無花之古樹,下有傷心之春草。
我向秦人問路岐,云是王粲南登之古道。
古道連綿走西京,紫闕落日浮雲生【紫關落日浮雲生】。
正當今夕斷腸處,黃鸝愁絕不忍聽【驪歌愁絕不忍聽】。
卷別 | 李白集校注 | 全唐詩 | 李太白集 |
別(卷十七(二)一○ | 卷176_6 | 巻十六06 | |
詩題 | 灞陵行送別(卷十七(二)一○○三) | ||
文體 | 雜言古詩 | | |
詩序 | 0 | ||
初句 | 送君灞陵亭,灞 | 天寶三年 744年 44歲 | |
作地點 | 萬年(京畿道 / 京兆府 / 萬年) | ||
及地點 | 灞陵 (京畿道 京兆府 萬年) | ||
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交遊人物/交遊地點 | 0 |
灞陵行送別
(㶚水、㶚陵橋、㶚陵亭、㶚陵橋のたもとで繰り広げられる別れの歌、送別のうた。)
送君灞陵亭。 灞水流浩浩。
灞陵亭で君を送るというのが恒例である、そこは灞水の流れが、浩浩としてうららかにながれ、春の水で渡ることはできないくらいである。
上有無花之古樹。下有傷心之春草。
あたりは、まだ早春で、頭上には花のない古木がにょきにょきたっている、足元には心を痛めるような芽生え始めた春草が心痛め占め生えはじめている。
我向秦人問路歧,云是王粲南登之古道。
そこで、土地の人に向かって東、洛陽方面と南はどこへ通じるのかと分かれ道のことを尋ねると、こちらの道こそは、建安の七子の王粲が「南の灞陵の丘に登れば」と歌った古道はこれでそのまま南に進めば漢水まで続き、荊州に着くのだという。
古道連綿走西京。紫闕落日浮云生。
もう一方の古道は、洛陽から連綿と続いて長安にはしっている。その紫の天子の御門のうちでは夕日が落ちて宮女たちのよろこびが生じ、心痛めしむ浮き雲におおわれているのだろう
正當今夕斷腸處。驪歌愁絕不忍聽。
まさに今夜わたしは別れてひとりの夜、断腸のもだえ聲のあるところ、女が主人恋しさに唄う歌は、聞くに堪えないものであるのも当然の事であろう。
(灞陵の行【うた】送別に)
君を送る 灞陵亭、灞水は流れて浩浩たり。
上に無花の古樹有り、下に傷心の春草有り。
我 秦人に向かって路岐を問う、云う是れ 王粲が南登の古道なりと。
古道は連綿として西京に走り、紫闕 落日 浮雲生ず。
正に当たる 今夕断腸の処、驪歌愁絶(して聴くに忍びず。
灞陵行送别 |
送君灞陵亭,灞水流浩浩。 |
上有無花之古樹,下有傷心之春草。 |
我向秦人問路岐,云是王粲南登之古道。 |
古道連綿走西京,紫闕落日浮雲生。 |
正當今夕斷腸處,〔黃鸝愁絕不忍聽。〕 |
驪歌蕭本作/黄鸝愁絶不忍聼太平寰宇記灞陵在咸陽縣/東北二十五里。 |
水經註「灞水歴白鹿原、東卽灞川、西故芷陽矣、是謂之灞上。 漢文帝、𦵏其上、謂之灞陵。上有四出、道以瀉水在。」 |
長安東南三十里、故王仲宣、賦詩云、“南登霸陵岸、廻首望長安。” |
王粲/字仲宣以西京擾亂乃之荆州依劉表作七哀詩卽“南登霸陵岸、廻首望長安。“一首。 |
漢書 「王式曰、客、歌驪駒、主人歌客無容歸。」 |
服䖍曰、驪駒逸詩篇名、見大戴禮、客欲去歌之、其辭曰、“驪駒在門、僕夫具存、驪駒在路、僕夫整駕。”」 |
驪音離 |
《灞陵行送別》現代語訳と訳註解説
(本文)
灞陵行送別
送君灞陵亭,灞水流浩浩。
上有無花之古樹,下有傷心之春草。
我向秦人問路岐,云是王粲南登之古道。
古道連綿走西京,紫闕落日浮雲生【紫關落日浮雲生】。
正當今夕斷腸處,黃鸝愁絕不忍聽【驪歌愁絕不忍聽】。
(下し文)
(灞陵の行【うた】送別に)
君を送る 灞陵亭、灞水は流れて浩浩たり。
上に無花の古樹有り、下に傷心の春草有り。
我 秦人に向かって路岐を問う、云う是れ 王粲が南登の古道なりと。
古道は連綿として西京に走り、紫闕 落日 浮雲生ず。
正に当たる 今夕断腸の処、驪歌愁絶(して聴くに忍びず。
(現代語訳)
.(㶚水、㶚陵橋、㶚陵亭、㶚陵橋のたもとで繰り広げられる別れの歌、送別のうた。)
灞陵亭で君を送るというのが恒例である、そこは灞水の流れが、浩浩としてうららかにながれ、春の水で渡ることはできないくらいである。
あたりは、まだ早春で、頭上には花のない古木がにょきにょきたっている、足元には心を痛めるような芽生え始めた春草が心痛め占め生えはじめている。
そこで、土地の人に向かって東、洛陽方面と南はどこへ通じるのかと分かれ道のことを尋ねると、こちらの道こそは、建安の七子の王粲が「南の灞陵の丘に登れば」と歌った古道はこれでそのまま南に進めば漢水まで続き、荊州に着くのだという。
もう一方の古道は、洛陽から連綿と続いて長安にはしっている。その紫の天子の御門のうちでは夕日が落ちて宮女たちのよろこびが生じ、心痛めしむ浮き雲におおわれているのだろう
まさに今夜わたしは別れてひとりの夜、断腸のもだえ聲のあるところ、女が主人恋しさに唄う歌は、聞くに堪えないものであるのも当然の事であろう。
(訳注)
灞陵行送別
1.(㶚水、㶚陵橋、㶚陵亭、㶚陵橋のたもとで繰り広げられる別れの歌、送別のうた。)
2. 灞陵 漢の文帝劉恆(紀元前203-前157年)陵墓。長安の東南にある。
解説
しゃれた男は、男女の睦愛を巧妙に掛けことばで詩歌にするものであり、六朝から続く伝統的なもので、李白は集大成し、発展させたのである。 そういう意味合いを、偲ばせているからこの詩の味わい深さがあるのである。
送君灞陵亭、 灞水流浩浩。
灞陵亭で君を送るというのが恒例である、そこは灞水の流れが、浩浩としてうららかにながれ、春の水で渡ることはできないくらいである。
3. 君 この君は、不特定多数の君である。この場所で東の洛陽方面と、南の漢水に向けての古道を行くかのジャンクションである㶚水橋のたもとで別れることを意味する。
4. 灞陵亭 長安東の正門たる春明門からここまでに滻水に架かる橋をわたってくるのであるが、㶚水にかかる橋のたもとにあった亭である。ここを過ぎるとしばらくは、宿場町があるだけである。長の別れを惜しみ、一夜、酒を酌み交わすのである。また、娼屋の様なものもあったようだ。㶚水の堤には楊柳があり、柳を折って旅の安全を願ったのである。太平寰宇記「灞陵在咸陽縣/東北二十五里。」とある。
5. 灞水流 長安の東を流れる川は終南山を水源にした滻水と驪山、藍田の方角から流れてくるこの㶚水が北流して合流し渭水に灌ぐのである。㶚水、滻水の二俣川。水經の註に「灞水歴白鹿原、東卽灞川、西故芷陽矣、是謂之灞上。漢文帝、𦵏其上、謂之灞陵。上有四出、道以瀉水在。長安東南三十里、故王仲宣、賦詩云、“南登霸陵岸、廻首望長安。”」とある。
長安東南三十里故王仲宣賦詩云南登霸陵岸廻首望長安。
6. 浩浩 川の流れのひろびろとしたさま。春水の増水の様子を言う。
上有無花之古樹。 下有傷心之春草。
あたりは、まだ早春で、頭上には花のない古木がにょきにょきたっている、足元には心を痛めるような芽生え始めた春草が心痛め占め生えはじめている。
7. 無花之古樹 雪解け水で春が来たのではあるが、まだ早春で、花を咲かせるはずの古樹があることで別れの悲しさを演出する。
8. 傷心之春草 春草は男女の情愛を連想させ、せっかく芽生えた恋心と別れに伴ういろんな意味を加えて味わいを深めている。この二句で上の無花と下の春草ばかりでなく別れの何度も振り返り手を振る、号哭することもイメージしてくる。
我向秦人問路歧。 云是王粲南登之古道。
そこで、土地の人に向かって東、洛陽方面と南はどこへ通じるのかと分かれ道のことを尋ねると、こちらの道こそは、建安の七子の王粲が「南の灞陵の丘に登れば」と歌った古道はこれでそのまま南に進めば漢水まで続き、荊州に着くのだという。
9. 秦人 秦は陝西省の南部一帯であるから長安一帯の地元の人のこと。
10. 問路歧 東と南の分岐点両方について問うこと。
11. 王粲(おう さん)177年 - 217年、)は、中国、後漢末の文学者・学者・政治家。字は仲宣。王龔の曾孫、王暢の孫、王謙の子。王凱の従兄弟。子に男子二名。山陽郡高平県(現山東省)の人。曽祖父の王龔、祖父の王暢は漢王朝において三公を務めた。文人として名を残し、建安の七子の一人に数えられる。代表作として、登樓賦、公讌詩、詠史詩、七哀詩三首 從軍詩五首がある。七哀詩三首に「南の方㶚陵に登り、首をめぐらして長安を望む」とある。王粲は長安を去って㶚水を上流に登り、峠を越えて、漢水にのり、荊州(湖北省江陵県)の劉表のもとに赴くのである。こちらの古道は南の道。王粲、字仲宣以西京擾亂乃之荆州依劉表作七哀詩卽“南登霸陵岸、廻首望長安。“一首。
古道連綿走西京。 紫闕落日浮云生。
もう一方の古道は、洛陽から連綿と続いて長安にはしっている。その紫の天子の御門のうちでは夕日が落ちて宮女たちのよろこびが生じ、心痛めしむ浮き雲におおわれているのだろう
12. 古道 この路は洛陽に向かう道である。
13. 西京 西京は長安であるが、わざわざ最強というには東京、洛陽があるということを示唆する。。
14. 紫闕 天子の宮殿の御門。
15. 落日 夕日が沈むことと洛陽と掛けてある。
16. 浮云生 雲は、男女の混じり合いを意味し、天子の後宮のことを意味する。
正當今夕斷腸處。 驪歌愁絕不忍聽。
まさに今夜わたしは別れてひとりの夜、断腸のもだえ聲のあるところ、女が主人恋しさに唄う歌は、聞くに堪えないものであるのも当然の事であろう。
17. 斷腸處 断腸というのは、エクスタシーのことを指す。
18. 驪歌 古歌で妾の女が主人を恋しくて歌う詩。○愁絕 交わりを断つこと。 19. 不忍聽 女の身として聞くに忍びない。男をあさることなど全くない時代。悶えた声、待ち人の詩・・・聞くことはできない。漢書 「王式曰、客、歌驪駒、主人歌客無容歸。」
服䖍曰、驪駒逸詩篇名、見大戴禮、客欲去歌之、其辭曰、“驪駒在門、僕夫具存、驪駒在路、僕夫整駕。”」