【字解集】 a. 贈郭將軍 b. 贈崔侍御 C.贈參寥子 d.贈盧徵君昆 e.贈薛校書 d。灞陵行送別
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2017年3月14日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
744年-集10【字解集】 a. 贈郭將軍 b. 贈崔侍御 C.贈參寥子 d.贈盧徵君昆 e.贈薛校書 d。灞陵行送別 Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8339 |
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744年-集10【字解集】 a. 贈郭將軍 b. 贈崔侍御 C.贈參寥子 d.贈盧徵君昆 e.贈薛校書 d。灞陵行送別 Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8340 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-78#4 暇日小園散病將種秋菜督勒(郭作勒)耕牛兼書觸目#4 杜詩詳注(卷一九(四)一六六九)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8347 |
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767年-集-6 【字解集】 ・a.又上後園山腳 ・b.奉送王信州崟北歸 杜詩詳注()Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8300 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (129)回目韋莊二十五首《巻三-13 喜遷鶯二首其一》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8342 (03/14) |
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fc2 |
Blog |
花間-011 字解集128)回目韋莊a.謁金門 b.江城子 c.河傳 d.天仙子五首 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8336 (03/14) |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-041§5 古詩 爲焦仲卿妻作§5-#1〔無名氏〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻一ブログ 8343 |
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744年-集10【字解集】 a. 贈郭將軍 b. 贈崔侍御 C.贈參寥子 d.贈盧徵君昆 e.贈薛校書 d。灞陵行送別 Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8339
【字解集】 a. 贈郭將軍
贈郭將軍
1. (郭子儀将軍に贈る詩)
2. 郭子儀(かく しぎ、697年 - 781年)は、中国、唐朝に仕えた軍人・政治家。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた。客家人[要出典]。安史の乱で大功を立て、以後よく異民族の侵入を防いだ。盛唐〜中唐期を代表する名将。憲宗(在位805年 - 820年)の皇后郭氏は子儀の孫である。郭子儀 史書をひともいても、出生はもちろん幼少年期から青壮年期に至るまで、その来歴はほとんど記録に残されていない。地方長官の子息であったが、早くに父を喪ったのか、「蔭官」(父祖の功によって官職に就くこと)によって政界入りを果たした形跡はなく、武挙(官僚を選ぶ科挙と同じく武官を選ぶ試験)において優秀と認められて仕官を果たすが(新書・本伝「武挙の異等なるを以て左衛長史に補さる」および徐松 撰/孟二冬 補正『登科記考補正』巻27)、その後、単于副都護、振遠軍使に累進していったのは、おそらく中年期以降のことであろうと推測されるだけである。
唐代のみならず中国史上の大人物であり、後世画題として珍重されるほど有名人となるが、このように典型的な晩成型の人物であった。史書によると、玄宗の天宝8年(749年)に木剌山に横塞軍と安北都護府を設置した際、横塞軍使に命じられているのが、年号の確認できる最も早い時期の経歴であり、ときに既に53歳であった。李吉甫撰『元和郡県図志』巻4・天徳軍の条によると、「天宝八年、張斉丘 又た西可敦城に横塞軍を置き、又た中受降城より横塞軍を移して理む」と見え、呉廷燮撰『唐方鎮年表』(以下「年表」という)巻1によると、翌天宝9年まで節度使であった張斉丘(あるいは「張斉邱」とも)の配下にあったようである。
李白は安史の乱では粛宗の弟の永王李璘に従ったが、永王が叛いたためにその臣下であった李白もまた囚われの身となり、罪に服すこととなったが、郭子儀は李白の無罪を説いて李白の助命を請うた。そのため、死罪から流罪に軽減された。郭子儀は若年のころに、李白に命を救われたことがあったという。
3. 銀臺 銀臺門, 宮門名。 唐の時、翰林院、學士院は銀台門の附近に在る,後因銀台門を以て代て翰林院を指す。 李白 《贈從弟南平太守之遙》詩之一: “承恩初入 銀臺門 , 著書獨在金鑾殿。(恩を承(う)けて初めて 入る銀台門、書を著してひとり金鑾殿にあり。)天子に翰林の役を仰せつかって初めて銀台門を通過でき翰林院に入れる。書をしたためるとそれを天子のいる金鑾殿に一人で持参できるのだ。”
4. 紫微 紫微垣(しびえん)のことで、古代中国天文学において天球上を3区画に分けた三垣の中垣をいう。天の北極を中心とした広い天区、あるいはその主体となった星官(星座)のことを指す場合もある。「紫微」「紫微宮(しびきゅう)」「紫宮(しきゅう)」「紫垣(しえん)」ともいい、天帝の在所とされたため、転じて皇宮、朝廷の異称ともなった。
星官としての紫微垣は、天における中央の宮殿を囲う藩垣(城壁)の形に象っており、その中枢には天の北極が位置する。
5. 舞羅衣 霓裳羽衣の曲 唐の玄宗が楊玉環のために作ったとされる曲。霓裳羽衣の曲は玄宗が婆羅門系の音楽をアレンジした曲と言われる。玄宗は愛妾である楊玉環のお披露目の際、この曲を群臣に披露し、群臣に楊玉環が特別な存在であると意識させた。
『霓裳羽衣舞』は唐代舞踊を代表する演目で、「霓裳」とは虹のように美しいもすそ(スカート)、「羽衣」は鳥の羽のように軽い衣のこと。唐の玄宗皇帝が夢のなかで天上の月宮に遊び、仙女が舞っていた調べをもとに作った。
楽史「楊太真外伝」によると、玄宗が三郷駅に登り、女几山を望んだ時に作曲したものである説と、玄宗が、仙人の羅公遠に連れられ、月宮に行き、仙女が舞っていた曲の調べをおぼえて作らせた説双方が記されている。楊貴妃もこれに合わせて、舞うのを得意としたという。しかし、玄宗期に起こった安史の乱以降、この曲は国を傾けた不祥の曲であると忌まれ、楽譜も散逸してしまった。 白居易の「長恨歌」にも曲名が登場する。「漁陽鼙鼓動地來、驚破霓裳羽衣曲。」(漁陽の鼙鼓【へいこ】 地を動【どよ】もして来たり、驚破す 霓裳羽衣の曲。)
6. 疇昔 過去のある日。昔。また,昨日。《文選.左思.詠史詩八首之一》:「雖非甲冑士,疇昔覽穰苴。」(甲冑の士に非ずと雖も,疇昔には穰苴を覽たり。)我は甲冑をつける武人ではないが、かねて穰苴の兵法書を読み心得ている。
7. 雄豪 雄々しく強いこと。また、その人や、そのさま。
8. 夢裡 夢の中。夢中。
9. 春暉 春の太陽の光。
卷別 | 李白集校注 | 全唐詩 | 李太白集 |
(一)六二三) | 卷168_18 | 巻八17 | |
詩題 | 贈郭將軍(卷九(一)六二三) | ||
文體 | 五言古詩 | | |
詩序 | | ||
初句 | 將軍少年出武威 | 天寶三年 744年 44歲 | |
作地點 | 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) | ||
及地點 | 涼州 (隴右道東部 涼州 涼州) 別名:武威、武威郡 | ||
| 銀臺門 (京畿道 京兆府 長安) | ||
| 紫微殿 (京畿道 京兆府 長安) | ||
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交遊人物/交遊地點 | 郭將軍 書信往來 |
【字解集】 b. 贈崔侍御
744年-061 - | 贈崔侍御(卷九(一)六二八) - | |
全唐詩卷168_22 | ||
李白集校注)六二八) | 李太白集巻一37 | 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8285 |
贈崔侍御【贈崔侍郎】
1. (侍御史崔成甫にこの詩を贈って、自分が仕官できるよう手助けをしてほしいと、懇嘱したものである)
2. 侍御・侍郎 李白集或作“侍御”。崔侍御
3. 崔侍御 即崔成甫,官校書郎,再尉関輔,貶湘陰。有《澤畔吟》,李白爲之序。其爲陝縣尉時,韋堅爲陝郡太守,兼水陸轉運使,鑿潭望春楼下。成甫因变得体歌爲得宝歌,韋堅命舟人歌之,成甫又廣爲十闋,今不傳。存詩一首。
李白の交際のあった崔氏について有名なのは、崔宗之があり、李白の詩にも、杜甫にも登場する。
飲中八仙は、中唐初めの8人の酒豪(賀知章、汝陽郡王李璡(李憲の長子)、李適之、崔宗之、蘇晋、李白、張旭、焦遂)。また彼らを謳った杜甫の詩『飲中八仙歌』の略。
「宗之瀟灑美少年,舉觴白眼望青天,皎如玉樹臨風前。」
崔宗之は垢抜けた美少年、杯を挙げては白眼で晴天を望む、輝くようなその姿は風前の玉樹のようだ。』
○宗之 崔宗之。宗之は崔日用の子、斉国公に襲ぎ封ぜられる。また侍御史となったことがある。○瀟灑 さっぱりしたさま。○腸 さかずき。○白眼 魏の阮籍の故事、籍は俗人を見るときには白眼をむきだした。○唆 しろいさま。○玉樹 うつくしい樹。魏の夏侯玄が嘗て毛骨と並び坐ったところが、時の人はそれを「葉餞玉樹二倍ル」といったという、玄のうつくしいさまをいったもの。○臨風前 風の前に立っている。
4. 三尺鯉 全唐詩には、二尺となっている。水經註に「爾雅に云う、鱣は鮪なり。鞏穴を出でて、三月になれば、則ち龍門に上る。度るを得れば則ち龍と為る。否らざれば、則ち額を㸃じて還らん。」白氏六帖に「大鯉魚、龍門に登り、化して龍と為る。登らざる者は、額を㸃じて腮を暴す矣。」とあり、太平廣記には、龍門山は、河東の界に在り、禹鑿の山、斷えて、門の如きこと、一里餘り、黄河、中より流れ下り、兩岸には車馬を通さず、暮春の際ごとに、黄鯉魚有り、流に逆って上り、上り得る者は、便ち化して龍と為る。」とある。つづいて林登が云う、「龍門の下には歳季春の毎に、黄鯉魚が有り、海及び/諸川により、爭い來って之に赴く。一歲の中、龍門に登る者は七十二も過ぎず、初めて龍門に登る、即ち雲雨有り、隨って之れ天火自後、其の尾を燒き、乃ち化し龍と為るなり。」
5. 孟津 :古い黄河の津渡名で,今河南孟津縣東北に在り、孟縣の西南にある。
三秦記、水經の註に「魏土地記に曰う、梁山の北に龍門山有り、大禹、鑿の通ずる所の孟津河口に、廣さ八十歩、巖際の鐫跡、遺功、尚お、存す。」とあり、 尚書正義に「孟津、孟は是れ地名なり、津は是れ、津處なり、孟地の在って、津を置く、之れを孟津と謂う。」杜預は云う、盟津河内、河陽/縣、南孟津也。洛陽の城北都道に在り、湊とする所は古今、常に以て津と為し、武王 之を渡る。近世以來、武濟盧の思道と為すと呼ぶ。」とある。
6. 吹噓. 吹き上げる、取り持つ、世話をする。ここっでは、旧知であるから、力添えしくれて、吹き上げてもらえるようとりなしてもらいたいという意。孤鴻賦「剪拂吹嘘、長其光價。」
7. 崑墟 仙郷であるところの崑崙の墟をいう。山海經に「海内崑崙の墟は、西北帝の下都の崑崙の墟に在り、方八百里、高きこと萬仞なり。」とあり、初學記に「楚國先賢傳に曰う、神龍、朝に崑崙の墟を發し、暮には孟諸に宿し、雲漢の表に超騰し、四瀆の裏に婉轉す。」とある。
卷別 | 李白集校注 | 全唐詩 | 李太白集 |
(卷九(一)六五一) | 卷168_34 | 巻八38 | |
詩題 | 贈崔侍御(卷九(一)六五一) | ||
文體 | 五言古詩 | | |
詩序 | 【贈崔侍郎】 | ||
初句 | 長劍一杯酒,男 | 天寶三年 744年 44歲 | |
作地點 | 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) | ||
及地點 | 兗州(河南道 / 兗州 / 兗州) | ||
洛陽 (都畿道 河南府 洛陽) 別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下 | |||
長安 (京畿道 京兆府 長安) 別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都 | |||
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交遊人物/交遊地點 | 崔成甫 當地交遊(河南道 兗州 兗州) |
744年-062-#1 -#1 | 贈崔侍御(卷九(一)六五一) -#1 | |
全唐詩卷168_34#1 | ||
李白集校注(卷九(一)六五一)#1 | 李太白集巻八38#1 | 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8291 |
贈崔侍御
1. (侍御史崔成甫にこの詩を贈って、自分が仕官できるよう手助けをしてほしいと、懇嘱してきたものに対して、この時の感慨を述べたものである)
2. 侍御・侍郎 李白集或作“侍御”。崔侍御
3. 崔侍御 即崔成甫,官校書郎,再尉関輔,貶湘陰。有《澤畔吟》,李白爲之序。其爲陝縣尉時,韋堅爲陝郡太守,兼水陸轉運使,鑿潭望春楼下。成甫因变得体歌爲得宝歌,韋堅命舟人歌之,成甫又廣爲十闋,今不傳。存詩一首。
李白の交際のあった崔氏について有名なのは、崔宗之があり、李白の詩にも、杜甫にも登場する。
飲中八仙は、中唐初めの8人の酒豪(賀知章、汝陽郡王李璡(李憲の長子)、李適之、崔宗之、蘇晋、李白、張旭、焦遂)。また彼らを謳った杜甫の詩『飲中八仙歌』の略。
「宗之瀟灑美少年,舉觴白眼望青天,皎如玉樹臨風前。」
崔宗之は垢抜けた美少年、杯を挙げては白眼で晴天を望む、輝くようなその姿は風前の玉樹のようだ。』
○宗之 崔宗之。宗之は崔日用の子、斉国公に襲ぎ封ぜられる。また侍御史となったことがある。○瀟灑 さっぱりしたさま。○腸 さかずき。○白眼 魏の阮籍の故事、籍は俗人を見るときには白眼をむきだした。○唆 しろいさま。○玉樹 うつくしい樹。魏の夏侯玄が嘗て毛骨と並び坐ったところが、時の人はそれを「葉餞玉樹二倍ル」といったという、玄のうつくしいさまをいったもの。○臨風前 風の前に立っている。
8. 劇孟 漢の洛陽の侠者。ここでは、劇孟のごとき大親分。漢書、「劇孟たる者は、洛陽の人なり。周人、商賈を以て資と為し。劇孟は俠を以て顯わる。」とある。
9. 重千金 千金:1大金,千金,非常に価値があるもの.⇒一诺千金 yī nuò qiān jīn .用例千金难买((成語))=幾ら大金を積んでも買えない,その価値は計り知れない.曹植《失題(有美一人)》詩「一顧千金重,何必珠玉錢?」とある。
10. 輶軒 《風俗通》に「周/秦、常に歲の八月を以て輶軒の使を遣し、異代の方言を求め、還り奏して之を籍として秘室に藏す。」とある。按ずるに、太白は、《崔公澤畔吟詩序》作り、中佐憲車の語有るをみれば、是れ崔、甞て事を以て使副と為す。故に曰う、君、乃ち、輶軒の佐は軒轅を作る者は是に非らず。と解している。
11. 叨 ① だらしなくする。② 混同する。
12. 翰墨 叨に翰林院に待詔として長安大明宮に勤めていたことを言う。翰墨: ① 筆と墨。 ② 書画・詩文を書くこと。また,詩文や書画。 ③ 文芸に関すること。文事。張協詩「寄辭翰墨林。」とあり、張銑の註に「翰筆也。文辭に寄せるを謂い、筆墨の林とは、林とう言うは多く謂うなり。
13. 高風摧秀木 李康の《運命論》に「木、林に於て秀ずれば風、必ず之を摧く。」とあるに基づく。李善註に「秀は出づ也。」とあり、劉良註に「木、高ければ林上に出でる者は故に風吹いて先折する也。」とある。
14. 虛彈落驚禽 怯えた鳥が、空玉でも射落とされる。隋、袁朗の詩に「危絃斷客心、虛彈落驚禽。」とあり、「戰國䇿に用い、更に事に嬴す。」とある。
15. 回舟 《世說新語‧任誕》(回舟興) 王子猷が山陰に居,夜大雪があり, 忽憶して剡溪に戴安道在り, 即ち小船に乘じて之を訪う。門口に到って進みて返す。 人其故を問う, 王曰く: “吾本と興に乘じて行く, 興盡して返し, 何ぞ必ず戴を見る。”
16. 命駕 世說に「嵇康、吕安と善し、一每び相い思う 千里、駕を命ず。」とあるに基づく。
17. 扶搖 莊子摶「扶揺して上ること九萬里」とある。
18. 桃李 『史記・李将軍列伝』にある「桃李不言 下自成蹊」【桃李(とうり)もの言わざれども、下おのずから蹊(こみち)を成す】
19. 張儀舌 【史記張儀列伝第十】
魏人有張儀者。 与蘇秦同師。 嘗遊楚、為楚相所辱。 妻慍有語。 儀曰、 「視吾舌、尚在否。」 蘇秦約従時、激儀使入秦。 儀曰、 「蘇君之時、儀何敢言。」 蘇秦去趙而従解。 儀専為横、連六国以事秦。
| 魏人に張儀といふ者有り。 蘇秦と師を同じくす。 嘗て楚に遊び、楚相の辱しむる所と為る。 妻慍りて語有り。 儀曰はく、 「吾が舌を視よ、尚ほ在りや否や。」と。 蘇秦従を約せし時、儀を激して秦に入らしむ。 儀曰はく、 「蘇君の時、儀何ぞ敢へて言はん。」と。 蘇秦趙を去りて従解けぬ。 儀専ら横を為し、六国を連ねて以て秦に事へしむ。
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魏の国に、張儀という者がいた。 蘇秦と同じ鬼谷先生に師事した。 かつて、楚に遊説した際、楚の宰相に恥をかかされた。 妻は怒って愚痴った。 張儀はこう言った、 「私の舌を見ろ、まだちゃんと在るか。」 蘇秦が南北六国の同盟を結んだとき、彼は張儀を怒らせて秦に行くよう仕向けた。 張儀はこう言った、 「蘇君が健在なうちは、彼の策に反するような発言は決してしない。」 蘇秦が趙を去って、南北六国の同盟は崩れた。 張儀は専ら連衡を推進し、南北六国をあわせて秦に仕えさせた。 |
20. 莊舄吟 史記に「越人莊舄、楚に仕えて執珪たり、頃有りて病む。楚王曰く舄は故越の鄙人なり。今、楚に仕えて、執珪富貴、亦た、越を思うや否や。中謝曰く凡そ人の故を思う、其の病に在るなり。彼、越を思うて則ち、越聲、越を思わざれば則ち楚聲、人を使し、往いて之を聽く。猶お越聲を尚ぶなり。」王粲、登樓賦に「莊舄は顯して越吟す。笑うて吐き、張儀の舌談笑を喻す、之美愁莊舄吟を為す。
秋砧 冬支度で、布をやわらかくするために砧で布をうつおとをいう。. 『搗衣(擣衣)』 杜甫700の295首目、杜甫ブログ415回目》 出征している夫の妻が衣をうつことをのべる。その妻のこころを代ってのべたさまである。秋の風物詩である。 擣衣亦知戍不返,秋至拭清砧
搗衣(擣衣)杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1352 杜甫詩
【字解集】c .贈參寥子
卷別 | 李白集校注 | 全唐詩 | 李太白集 |
(卷九(一)六三九) | 卷168_32 | 巻八29 | |
詩題 | 贈參寥子(卷九(一)六三九) | ||
文體 | 五言古詩 | | |
詩序 | 0 | ||
初句 | 白鶴飛天書,南 | 天寶三年 744年 44歲 | |
作地點 | (山南東道 襄州 襄陽) | ||
及地點 | 峴山 (山南東道 襄州 峴山) 別名:峴首山 | ||
| 麒麟閣 (京畿道 京兆府 長安) 別名:麟閣 | ||
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交遊人物/交遊地點 | | ||
交遊人物/交遊地點 | 參寥子 當地交遊(山南東道 襄州 峴山) |
贈參寥子
(莊子に言う、參寥のような先生にこの詩を贈る)
1 參寥子 王琦の解に、「當時の逸士、其の姓名考える無し。蓋し、莊子の說を取って、以て號と為せるなる。莊子に:𤣥冥、之を參寥に聞く、參寥、之を疑始に聞くとあり。崔云う:皆、古人の姓名、或は之を寓するのみ、其の人無し、と。 李云う、參、高なり、高邈 寥 曠 名づく可からざるなり。」とある。隱逸した高士であるが、名前も、生まれもわからず、しかし、存在感を消しているのに、あえば尊敬できる人物であったということであろう。
2 南荊 楚血をいう。陸機 《演連珠》「南荆有寡和之歌。」(南荆に寡和の歌有り。)李善註に南荆とは楚を謂うなり。
3 五云 五色の雲。參某は隠遁者、仙人であるから常侍白雲が随行する。五雲は彩雲であり、朝日に光ることを言う。
4 峴山 襄陽県の東南にある山で、漢水にのぞむ。唐代の名勝の地。《无和郡縣志》「峴山在襄州襄陽縣東南九里、東/臨漢、水古今大路。」(峴山は襄州襄陽縣の東南九里に在り、東に漢水を/臨み、古今の大路なり。)とあり、 《水經》の註に「峴山羊祜之鎮襄陽也、與鄒潤甫嘗登之。及祜薨後、後人立碑於故處、望/者悲感、杜元凱謂之墮淚碑。」(峴山羊祜の鎮は襄陽なり、與鄒潤甫は嘗て之に登る。祜に及び薨の後、後の人は故の處に碑立した、望む者は悲感し、杜元凱は之を墮淚碑と謂う。)とある。
《卷9-03憶襄陽舊遊贈馬少府巨》
憶襄陽舊遊贈馬少府巨#1 昔為大堤客,曾上山公樓。 開窗碧嶂滿,拂鏡滄江流。 高冠佩雄劍,長揖韓荊州。 此地別夫子,今來思舊遊。 | (襄陽の舊遊を憶い 馬少府巨に贈る) 昔 大堤の客と為り,曾て上る 山公の樓。 窗を開けば 碧嶂滿ち,鏡を拂うて滄江流る。 高冠 雄劍を佩び,長揖す 韓荊州。 此の地 夫子に別れ,今來 舊遊を思う。 |
#2 朱顏君未老,白髮我先秋。 壯志恐蹉跎,功名若雲浮。 歸心結遠夢,落日懸春愁。 空思羊叔子,墮淚峴山頭。 | 朱顏 君 未だ老いず,白髮 我れ先づ秋。 壯志 蹉跎を恐る,功名 雲の浮ぶが若し。 歸心 遠夢を結び,落日 春愁を懸く。 空しく思う 羊叔子,淚を墮す峴山頭。 |
285-#2 《卷9-03憶襄陽舊遊贈馬少府巨》#2Index-20Ⅱ― 15-740年開元二十八年40歳 <285-#2> Ⅰ李白詩1570 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6398
143巻四18襄陽曲四首其二 | 山公醉酒時。 酩酊高陽下。頭上白接籬。 倒著還騎馬。 |
144巻四19襄陽曲四首其三 | 峴山臨漢江。 水綠沙如雪。上有墮淚碑。 苔久磨滅。 |
145巻四20襄陽曲四首其四 | 且醉習家池。 莫看墮淚碑。 山公欲上馬。 笑殺襄陽兒。 |
206卷六01襄陽歌 | 落日欲沒峴山西。 倒著接籬花下迷。襄陽小兒齊拍手。 |
315巻八29卷八贈參寥子 | 白鶴飛天書、南荊訪高士。 五云在峴山、果得參寥子。 |
754巻二一32 峴山懷古 | 訪古登峴首、憑高眺襄中。天清遠峰出、水落寒沙空。 |
峴山 襄陽県の東南にある山で、漢水にのぞむ。唐代の名勝の地。
「峴山の詩」孟浩然 与諸子登峴山 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -305
「峴山の詩」張九齢 登襄陽峴山 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -306
峴山の詩] 陳子昂 峴山懷古 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -307
還至端駅前与高六別処 張説 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -308
輿黄侍御北津泛舟 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -309
峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大) 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 350 -310
過故人莊 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -311
5 骯臟 高亢律直の貌。
6 辭故園 それまで勤めてきた翰林院を辞したこと。
7 昂藏 意気昂然の貌。
8 玉帛 神前にささげる供物。幣物、賜り物 ・ 贈もの ・ 貰い物 ・ 到来物。
9 話言 才知に優れ、徳のあるものが聖天子のもとに百官、臣下は談話を交え、頻りに優遇するということ。《詩經、大雅、抑》「其維哲人、告之話言、順德之行。」(其れ維れ哲人は、之に話言を告ぐれば、德に順いて之れ行う。)に基づく。
10 毫墨 筆を揮えば、字体灑落でというほどの意。
11 時洒落 ① 生意気なさま。しゃらくさいさま。② さっぱりしているさま。しゃれているさま。
12 探玄 道教の玄理を探求する。
13 著論窮天人 道家に関する著作の論理の展開は、もはや、天人の際を窮めると、道家に対する最大の惨事というものであろう。
千春 千回春を迎えること、とこしえにつづくことを言う。
麟閣 麒麟閣の略。別に畫麟閣.雲嫖姚というもとは漢の高祖の時、蒲何が建てて、図書を蔵していたが、のち漢の宜帝は功臣を紀念して表彰するため、霍光等十一人の像を閣上に画かした。宣帝は戎狄が定まって皆、賓服 し、股肱の臣の美を思い、功臣を人に図画させて麒麟閣に絵諸させた。 麒麟閣は未央宮にある。麒麟閣には十一臣が描かれた。 容貌に官爵、姓名を記した。麒麟閣十一臣は以下の通り。・大司馬大将軍博陸侯姓霍氏、・衛将軍富平侯 張安世、・車騎将軍龍額侯 韓増、・後将軍営平侯 趙充国、・丞相高平侯 魏相、・丞相博陽侯 邴吉、・御史大夫建平侯 杜延年、・ 宗正陽城侯 劉徳、・少府 梁邱賀、・太子太傅 蕭望之、・典属国 蘇武
李白 《塞下曲,六首之三》「駿馬似風飆,鳴鞭出渭橋。彎弓辭漢月,插羽破天驕。陣解星芒盡,營空海霧消。功成畫麟閣,獨有霍嫖姚。」
唐の玄宗皇帝の故事に由来する。 玄宗皇帝は音楽や舞踏の愛好家で、自ら舞楽を教えていた。 その場所に梨が多く植えられていたことから、音楽や舞踏を学ぶ者を「梨園の弟子」といい、転じて、その世界をさすようになった。
14 金馬 大明宮の門の名、銀臺門の右銀臺門(金馬門)で、大明宮西壁三門の真ん中に位置し、入門して左に翰林院がある。《長安志、東内大明宮章》「西面右銀台門、內侍省右藏庫、次北、翰林門內翰林院學士院、又、東翰林院、北有少陽院、結鄰殿。翰林門北、曰、九仙門。」また、漢書東方朔傳に「金門に待詔して、稍や親近を得たり」とある。
金馬・金馬門・銀台(臺)門 | |
30巻一古風五十九首其三十 | 但識金馬門、誰知蓬萊山。 |
161巻四36東武吟 ( 一作出東門后書懷留別翰林諸公 ) | 談笑皆王公、一朝去金馬。 |
315巻八29贈參寥子 | 余亦去金馬、藤蘿同所歡。 |
373卷十贈從弟南平太守之遙二首 其一 | 承恩初入銀台門、著書獨在金鑾殿。 |
644巻十九18朝下過盧郎中敘舊游 | 君登金華省、我入銀台門。 |
卷六05 -《玉壺吟》「世人不識東方朔、大隱金門是謫仙。」(世人は識らず東方朔、金門に大隱するは是れ謫仙。) いにしえの東方朔の才能とされ、かくいう私の才能が分からないが、「大隠者」のごとく金馬門の翰林院に隠棲している、これをもって、天上よりの「謫仙人」であるが、世間の人々は、そのことを認識していないのである。
○東方朔 漢の武帝に仕えた滑稽文学者をさすが、ここでは、李白、自分自身をたとえた。
○大隠金門 最上級の隠者は、金馬門(翰林院)に隠棲する。東方朔が酒宴で歌った歌詞に「世を金馬門に避く。宮殿の中にも以って世を避け身を全うす可し」とあるのを踏まえた。晋の王康裾の「反招隠」詩にも、「小隈は陵薮(山沢)に隠れ、大隠は朝市(朝廷や市場)に隠る」とある。
743年(55)李太白集卷六05 -《玉壺吟》#2 374Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(55)#2 Ⅰ李白詩1722 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7153
金門 漢代の未央宮にあった門で、金門・金閨門の名であり、文学の士(学問をもって天子に仕える人)がここから出仕した。本来この門は、「魯般門」という名であるが、門の外に銅製の馬があることからこうよばれた。揚雄 解嘲 「與羣賢同行,歷金門,上玉堂」(羣賢と同行し,金門を歷,玉堂に上る)とある。唐における金門は、右銀臺門をいい、宣政殿の北には紫宸門があり、その内側には紫宸殿がある。紫宸殿の南にある紫寢門の左側には崇明門があり、右側には光順門がある。紫宸殿の東の方角には左銀台門があり、西の方角には右銀台門がある。この門の北沿いに九仙門がある。唐時代では、右銀台門より学士がことから金馬門といい、翰林學士院に出仕するものの代名詞とされた。銀臺 雍録載するところの大典大明宮の圖に「紫宸殿側に右銀臺門、左銀臺門あり」と記してある。學士は院門を出でてより、右銀臺門に至るまで、皆歩行して直に至り、すでに宮城の銀臺門外に出でて、それから馬に乗ることに成って居る。唐.李肇の《翰林志》:「今在右銀臺門之北,第一門向牓曰翰林之門,其制高大重複,號為胡門,入門直西為學士院,即開元十六年所置也。」(今右銀臺門の北にり,第一門牓に向う翰林の門を曰う,其れ高大重複を制し,胡門を為すを號し,門に入り直西は學士院を為し,即ち開元十六年(728)に所置されるなり。)唐.李白.相逢行:「朝騎五花馬,謁帝出銀臺。」(朝に五花の馬に騎し,帝に謁して 銀臺を出ず。)“朝に五花の文ある名馬に跨って参内し、天子に拝謁したる後、銀臺門を出でて歸途に就いた人がある。”
相思在何處、桂樹青云端。
ともかく、思いは、世俗のどこかにおいているものでなく、かの桂樹叢生する靑雲仙界にあると、常に心に思っているのである。
15 桂樹 《山中雜詩三首》 山際見來煙,竹中窺落日。鳥向簷上飛,雲從窗裏出。 綠竹可充食,女蘿可代裙。山中自有宅,桂樹籠青雲。
桂樹 | |
117巻三28古朗月行 | 仙人垂兩足、桂樹何團團。 |
216卷六11白毫子歌 | 八公攜手五云去、 空余桂樹愁殺人。 |
315巻八29贈參寥子 | 相思在何處、桂樹青云端。 |
419巻十二09寄淮南友人 | 復作淮南客、因逢桂樹留。 |
421卷12-11聞丹丘子于城北營石門・・・ | 方從桂樹隱、不羨桃花源。 |
435巻十二25禪房懷友人岑倫 | 歸來儻有問、桂樹山之幽。 |
16 青云端 高い志であるが、此処では仙郷の意。
【字解集】 d. 贈盧徵君昆
贈盧徵君昆弟
(高操の美といえる盧徵君兄弟を尊敬しこの詩を贈る。)
卷別 | 李白集校注 | 全唐詩 | 李太白集 |
昆弟(卷九(一)六四 | 卷168_15 | 巻八36 | |
詩題 | 贈盧徵君昆弟(卷九(一)六四九) | ||
文體 | 五言古詩 | | |
詩序 | 【贈崔侍郎】 | ||
初句 | 明主訪賢逸,雲 | 天寶三年 744年 44歲 | |
作地點 | 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) | ||
及地點 | 無 | ||
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交遊人物/交遊地點 | | ||
交遊人物/交遊地點 | | ||
交遊人物/交遊地點 | 盧徵君昆弟 書信往來 |
1 盧徵君 盧鴻を征士の尊稱、徵君と号されたのと同じような人物として盧徵君兄弟をいう。《新唐書》卷一百九十六〈隱逸列傳‧盧鴻〉“盧鴻字顥然,其先幽州范陽人,徙洛陽。博學,善書籀。廬嵩山。玄宗開元初,備禮徵再,不至。五年,詔曰:「鴻有泰一之道,中庸之德,鉤深詣微,確乎自高。詔書屢下,每輒辭託,使朕虛心引領,于今數年。雖得素履幽人之介,而失考父滋恭之誼,豈朝廷之故與生殊趣邪?將縱欲山林,往而不能反乎?禮有大倫,君臣之義不可廢也。今城闕密邇,不足為勞,有司其齎束帛之具,重宣茲旨,想有以翻然易節,副朕意焉。」鴻至東都,謁見不拜,宰相遣通事舍人問狀,答曰:「禮者,忠信所薄,臣敢以忠信見。」帝召升內殿,置酒。拜諫議大夫,固辭。復下制,許還山,歲給米百斛、絹五十,府縣為致其家,朝廷得失,其以狀聞。將行,賜隱居服,官營草堂,恩禮殊渥。鴻到山中,廣學廬,聚徒至五百人。及卒,帝賜萬錢。鴻所居室,自號寧極云。”(盧鴻は字を顥然,其の先は幽州范陽の人,洛陽に徙【うつ】る。博學,善く籀を書す。嵩山に廬す。玄宗開元の初,禮を備えて徵すこと再,至らず。五年,詔して曰く:「鴻 泰一の道有り,中庸の德,詣微を鉤深し,確乎自ら高す。詔書屢ば下し,每に輒ち託を辭し,朕 虛をして心 領を引き,今に于て數年。素履 幽人の介を得ると雖も,而て父滋恭の誼を失考し,豈に朝廷に之き故に與生殊趣邪?將に山林に縱欲し,往き能反せずや?禮 大倫に有り,君臣の義 廢す可からざるなり。今 城闕密邇し,勞を為すに足らず,司有り其の齎 帛の具を束し,重ねて茲の旨を宣し,想う有り 以て翻然易節 朕の意を,副えんや。」鴻 東都に至り,謁見して拜せず,宰相 遣通事舍人問狀,答えて曰く:「禮者,忠信所薄,臣敢以忠信見。」帝 召して內殿に升り,置酒す。諫議大夫に拜せらる,固辭す。復た制を下し,山に還えるを許し,歲に米百斛、絹五十を給し,縣に府し 其の家に致るを為し,朝廷得失し,其れ以て狀聞す。將て行き,隱居の服を賜い,草堂を官營す,禮に恩渥をし殊にす。鴻 山中に到り,廣く廬に學び,聚徒至五百人に。卒するに及び,帝 萬錢を賜う。鴻 居る所の室,自ら寧極と號すと云う。)
2 徵君, 征君 征士の尊稱。 《後漢書‧黃憲傳》「友人勸其仕, 憲亦不拒之, 暫到京師而還, 竟無所就。 年四十八終, 天下號曰徵君。」(友人 其の仕を勸む, 憲 亦た之を拒まず, 暫く京師に到りて還る, 竟に就く所無く。 年四十八にして終る, 天下に號して徵君と曰う。)
3 雲泉 雲が生じるのは、巌洞の泉湧くところであるということ。
4 二盧 征士である盧徵君兄弟のこと。
5 萬乘 万乗の天子。
6 河上 河上公。河上公とは如何なる人物であるのか。河上公注『老子』につけられた、葛玄の序という文章によると、河上公は姓名未詳。前漢の文帝の時に黄河の岸辺に隠居して、『老子』を読み解いていた。文帝は、河上公が『老子』に通じていると聞いて召し寄せようとしたが、「そんなことでは道や徳は教えられない」と河上公が上京を拒むので、しかたなく文帝みずからが出向いてその非礼を責めたところ、河上公は手を打ってふわりと虚空に浮かび上がり、自分は帝王の指図を受けぬと宣言する。そこで文帝は河上公が神人であると悟り、礼を尽くして教えを乞うたところ、河上公は『老子道徳経章句』二巻を文帝に授け、「これをよく研究すれば、『老子』は分かるだろう。余がこの経に注をつけて以来、千七百年になるが、伝授したのは、あなたを含めて四人だけだ。人には見せるな」と言った。伝授を終えると、河上公はどこかに消えた、と。葛玄の序はそのように説く。河上公もまた、謎に満ちた人物である。
神仙傳「河上公者,莫知其姓名也。漢孝文帝時,結草為庵於河之濱,常讀老子道德經。時文帝好老子之道,詔命諸王公大臣州牧在朝卿士,皆令誦之,不通老子經者,不得陛朝。帝於經中有疑義,人莫能通,侍郎裴楷奏雲:陜州河上有人誦老子。即遣詔使賫所疑義問之,公曰:「道尊德貴,非可遙問也。」帝即嘉幸詣之,公在庵中不出,帝使人謂之曰:「溥天之下,莫非王土,率土之濱,莫非王民,域中四大,而王居其一,子雖有道,猶朕民也,不能自屈,何乃高乎?朕能使民富貴貧賤。」須臾,公即拊掌坐躍,冉冉在空虛之中,去地百余尺,而止於虛空,良久,俛而答曰:「余上不至天,中不累人,下不居地,何民之有焉?君宜能令余富貴貧賤乎?」帝大驚,悟知是神人,方下輦稽首禮謝曰:「朕以不能,忝承先業,才小任大,憂於不堪,而誌奉道德,直以暗昧,多所不了,惟願道君垂湣,有以教之。」河上公即授素書老子道德章句二卷,謂帝曰:「熟研究之,所疑自解。余著此經以來,千七百余年,凡傳三人,連子四矣,勿視非人!」帝即拜跪受經,言畢,失公所在。遂於西山築臺望之,不復見矣。論者以為文帝雖耽尚大道,而心未純信,故示神變以悟帝,意欲成其道,時人因號河上公。」
神仙傳「河上公は,其の姓名を知る莫し也。漢の孝文帝の時,草を結び庵を河の濱を為る,常に老子は道德經を讀む。時に文帝 老子の道を好み,詔命して諸王公大臣州牧 朝卿士在り,皆 之を誦ぜ令む,老子經を通ぜざる者,陛朝を得ず。帝 經中に疑義有り,人は能く通ずること莫れ,侍郎裴楷 奏して雲う:陜州河上 人有り 老子を誦す。即ち遣詔使 疑義を賫所し 之を問う,公曰く:「道は尊く德は貴し,遙に問う可きに非ざる也。」と。帝 即ち嘉び幸にして之を詣し,公 庵中に在りて出でず,帝 人を使し 之を謂うて曰く:「溥天の下,王土非ざるは莫く,率土の濱,王民非ざるは莫し,域中四大,而して王居其一は,子 道有りと雖も,猶お朕の民なり,不能自屈,何乃高乎?朕能使民富貴貧賤。」と。須臾して,公 即ち掌を拊して坐躍すれば,冉冉として空虛の中に在り,地を去ること百余尺,而して虛空に止み,良久,俛して答えて曰く:「余 上 天に至らず,中 人に累せず,下 地に居らず,何の民か之れ有らんと?君 宜く能く余 富貴貧賤か?」と。帝 大いに驚き,是れ神人を悟知し,方に輦を下りて稽首し禮謝して曰く:「朕 以て能わず,忝承して先業し,才は小 任は大,憂 堪えず,而して誌は道德を奉り,直ちに以て暗昧し,多所 了らず,惟だ願うは道君垂湣,有 以て之を教う。」河上公 即ち素書、老子道德章句二卷を授け,帝に謂うて曰く:「熟して之を研究し,所疑 自ら解す。余 此經を著して以來,千七百余年,凡そ三人に傳え,子を連ねて四と,視る勿れ人に非らず!」帝 即ち拜跪して經を受け,言畢って,公在る所を失う。遂に 西山 臺を築き 之を望み,復た見るなし。論者 以て文帝を為し 耽すと雖も 尚お大道,而して心 未だ純信せず,故に神變を示し以て帝を悟り,意 其の道を成さんと欲し,時に人に因り河上公と號す。」と。
7 壺中趣 壺中有天。 現実の世俗的生活の中に自らが創っている別天地。自分だけの時間と世界をもてる幸せを大切にしたいもの。後漢書に「費長房が役所の二階から何気なく町中の老商人を眺めていた。仕事を終えた老商人があたりを見回し、ポンと壺に入り込んでしまった。不思議に思った彼が翌日、老商人を問い詰めた。『見られたか。じゃ仕方がない。ついておいで』と大きな壷の中に誘った。壷の中は彼が見たこともない別天地だった。」という故事による。老商人の壺中有天は、彼の現実の生活、その人生の中に開けている楽しみであって、費長房のものでないということに留意すべきであると。
《後漢書》卷八十二下《方術傳·費長房傳》“費長房者,汝南人也。曾為市掾。市中有老翁賣藥,懸一壺於肆頭,及市罷,輒跳入壺中。……翁知長房之意其神也,……長房遂欲求道,而顧家人為憂。翁乃斷一青竹,度與長房身齊,使懸之舍後。家人見之,即長房形也,以為縊死,大小驚號,遂殯葬之。……長房辭歸,翁與一竹杖,曰:「騎此任所之,則自至矣。既至,可以杖投葛陂中也。」又為作一符,曰:「以此主地上鬼神。」長房乘杖,須臾來歸,自謂去家適經旬日,而已十餘年矣。……遂能醫療疾,鞭笞百鬼,及驅使社公。……後東海君來見葛陂君,因淫其夫人,於是長房劾繫之三年,而東海大旱。長房至海上,見其人請雨,乃謂之曰:「東海君有罪,吾前繫於葛陂,今方出之使作雨也。」於是雨立注。長房曾與人共行,見一書生黃巾被裘,無鞍騎馬,下而叩頭。長房曰:「還它馬,赦汝死罪。」人問其故,長房曰:「此狸也,盜社公馬耳。」又嘗坐客,而使至宛市鮓,須臾還,乃飯。或一日之閒,人見其在千里之外者數處焉。後失其符,為眾鬼所殺。”
(費長房は,汝南の人也。曾て市掾を為す。市中に老翁賣藥する有り,肆頭に一壺に懸り,市罷に及び,輒ち跳んで壺中に入る。……翁 長房の意、其の神を知る也,……長房 遂に道を求めんと欲す,而して家人をて憂を為す。翁 乃ち一び青竹を斷じ,度と長房とに身を齊し,之を懸け舍後とせん。家人 之を見,即ち長房の形なり,以て縊死と為す,大小 驚いて號し,遂に殯して之を葬す。……長房 辭して歸り,翁と一に竹杖す,曰く:「騎して此の任所に之く,則ちら自る至矣。既ち至って,以て葛陂の中に杖を投じすべしなり。」又 一符を作る為し,曰く:「以て此の主地は鬼神に上る。」長房 杖に乘り,須臾して來り歸えり,自謂う家を去って經旬に適く日,而して已に十餘年。……遂に能く醫療疾し,百鬼に鞭笞し,驅して社公に及ぶ。……後に東海君來り葛陂君を見る,因に其の夫人を淫し,是に於いて長房は劾繫すること之れ三年,而して東海大いに旱す。長房海上に至り,其人が雨を請うを見て,乃ち之を謂うて曰く:「東海君罪有り,吾 葛陂に前繫す,今 方に之に出づれば雨を作さしむるなり。」是に於て雨注き立つ。長房 曾て人に與え共に行き,一書を見て黃巾の被裘を生ず,騎馬するに鞍無く,下りて頭を叩く。長房曰く:「它馬還り,汝死罪を赦さる。」人問うて其れ故に,長房曰く:「此れ狸なり,社公の馬耳を盜む。」又嘗坐客し,而して宛市の鮓に至らしむ,須臾して還り,乃ち飯。或いは一日之を閒く,人は其れを見て 千里の外に在る者は數處なり。後に其の符を失い,眾鬼 殺す所と為す。)
に基づく。
8 滄州 実際の地名というよりは、水辺の土地をいい、隠者の住むところを象徴する。東方の海上にあると信じられた仙人の島。謝眺『之宣城、出新林浦、向版橋』『文選』巻二七に「既懽懐禄情、復協滄州趣」(禄を得たいという心情にもかない、また隠遁したいという心にもかなうのだ)とある。《巻八15玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首 其二》「功成拂衣去,搖曳滄洲傍。」(功成【な】らば衣を払って去り、滄洲の傍らに揺裔【ようえい】せん。)こうして、この世において思う存分功業を成し遂げ、衣を払って去り、かの滄州のほとりに逍遥して仙郷を味わいたいと思っておるところで、その辺りをお含み頂、ご登用の御助力をいただきたいものである。
李白『夜泊黄山聞殷十四呉吟』「朝来果是滄州逸、酤酒提盤飯霜栗。」『春日獨酌 二首 其二』「我有紫霞想、緬懷滄洲間。」
9. 鼇背 おおうみがめの背。想像上の動物の名。海中に住み、背に蓬莱山などの仙山を背負っているという。おおうみがめが背にのせているという、海中の仙山の峰。②翰林院のこと。
10 方蓬 東海の蓬莱山。神仙三山、蓬莱、瀛州、方丈をいう。
11 倒景 大陽が沈んだあと、日の光が西から照り返すこと。夕日。 2.水面に逆さまに写った景色。逆さに映った影。倒影(とうえい)。
12 星虹 星の虹の架け橋。《巻06-08 元丹丘歌》「躡星虹,身騎飛龍耳生風。」
14. 豪英 豪傑で英雄。
且復歸碧山,安能戀金闕。
しかし、そうかといって、再びむかしの碧山に歸って仕舞えば、宮闕を恋い慕ったところで、千里の距離も相隔っていて、とても及びもないことになるのである。
15. 金闕 ① 漢の未央宮(びおうきゆう)にあった金馬門の異名。 ② 「 きんけつ(禁闕) 」に同じ。宮殿全体の美称・総称」とする説と、「宮殿の門の名、銀台門ないし、その北にあった翰林院」とする説との二説に解釈が分かれる。 金闕 … 天子の宮殿。「闕」は宮殿
16. 舊宅 以前に住んでいた家。
17. 樵漁 漁者、樵者、木を切ることと魚を捕ること。また、木こりと漁師。の両者とも隠遁者を示すものである。漁樵問答は漁と樵と互にその天分とする境遇に就いて問答する様を図せるものなり。宋の張載に漁樵対問あり、又蘇軾の著というものに漁樵閑話あり、古くよリ称せられたる所なり、古来各家の図甚だ多し。漁樵に就いては更に漁樵の条参照ずべし。
18. 蓬蒿 シュンギクの別称。キク科の一年草、越年草
19. 女几峰 元和郡/縣志に「女几山は河南府福昌縣の西南三十四里に在り。」、一統志に、「女几山は河南宜陽縣の西九十里に在り、唐の李賀の集に、杜蘭香は神/女上昇、遺几在り、焉づく故に名づく。」とある。
【字解集】 e. 贈薛校書
卷別 | 李白集校注 | 全唐詩 | 李太白集 |
(卷九(一)六一九) | 卷168_19 | 巻八19 | |
詩題 | 贈薛校書(卷九(一)六一九) | ||
文體 | 五言古詩 | | |
詩序 | | ||
初句 | 我有吳越曲,無 | 天寶三年 744年 44歲 | |
作地點 | 未詳 | ||
及地點 | 姑蘇臺 (江南東道 蘇州 蘇州) 別名:蘇臺 | ||
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交遊人物/交遊地點 | 薛校書 書信往來 |
贈薛校書
(薛校書郎に贈る)
1 薛 朝廷の管理であるが、何処の省かわからないし、人物も不詳である。ただ、吳趨曲、姑蘇台、廣陵之觀濤乎などの呉越に関係あるものか、官妓、芸妓を管理するものか、詩文の記録、編纂の直接担当者であろうか。
2 校書 正九品上の校書郎をいう。「校合 (きょうごう) 」に同じ。日本、平安では“きょうしょ”といった。「唐才子伝」に唐の元稹 が蜀に使者として行ったとき、接待に出た妓女薛濤 の文才を認め、校書郎に任じたという故事がみえる。《唐書百官志》、𢎞文館有校書郎二人、集/賢殿書院有校書四人、秘書省有校書郎十人、著作局有校書郎二人、崇文館有/校書郎二人、司經局有校書四人、皆九品。(𢎞文館に校書郎二人有り、集/賢殿、書院に校書四人有り、秘書省に校書郎十人有り、著作局に校書郎二人有り、崇文館に/校書郎二人有り、司經局に校書四人有り、皆九品。)とある。
3 吳趨(越)曲 呉越地方の身振り、手ぶりで歌い踊る曲をいう。晉崔豹の《古今注·音樂》:“《吳趨曲》, 吳人以歌其地也。”(吳趨曲は、吳人以て其の地を歌うなり。”とあり)、晉陸機《吳趨行》 “四坐並清聽,聽我歌《吳趨》。”(四坐に並び清聽す,我は《吳趨》歌うを聽く。) 劉良の註には“趨は歩なり。此の曲、呉人其の土風を歌うなり。”とある。
4. 姑蘇 《漢書、伍被傳》「子胥諫吳王、吳王不用、乃曰:「臣今見麋鹿游姑蘇之臺也。」(子胥 吳王を諫む、吳王 用いず、乃ち曰く:「臣 今 麋鹿の姑蘇の臺に游ぶ見をるなり。)
悲吟 《吳越春秋》「吳宫為墟、庭生蔓草。」(吳宫 墟を為し、庭蔓草を生ず。)
5. 觀濤 怒涛が押し寄せ、其処の景色に最もよく一体化しているのを観賞する。枚乗《七發》:「將以八月之望、與諸侯逺方交遊兄弟、並/往觀濤乎廣陵之曲江。」(將に八月の望を以て、諸侯逺方交遊の兄弟と、並に往いて、濤を廣陵の曲江に觀んとす。)
6. 釣鰲 ①海中の大龜おおがめを釣る。②転じて、抱負の大きなこと。また、振る舞いの豪快なことのたとえ。」
釣鰲心 | |
305卷八-19 贈薛校書 | 未夸觀濤作。 空郁釣鰲心。 |
642巻十九16同友人舟行游台越作 | 空持釣鰲心。 從此謝魏闕。 |
7. 東海 滄海。
【字解集】 f. 灞陵行送別
灞陵行送別
1.(㶚水、㶚陵橋、㶚陵亭、㶚陵橋のたもとで繰り広げられる別れの歌、送別のうた。)
2. 灞陵 漢の文帝劉恆(紀元前203-前157年)陵墓。長安の東南にある。
解説
しゃれた男は、男女の睦愛を巧妙に掛けことばで詩歌にするものであり、六朝から続く伝統的なもので、李白は集大成し、発展させたのである。 そういう意味合いを、偲ばせているからこの詩の味わい深さがあるのである。
3. 君 この君は、不特定多数の君である。この場所で東の洛陽方面と、南の漢水に向けての古道を行くかのジャンクションである㶚水橋のたもとで別れることを意味する。
4. 灞陵亭 長安東の正門たる春明門からここまでに滻水に架かる橋をわたってくるのであるが、㶚水にかかる橋のたもとにあった亭である。ここを過ぎるとしばらくは、宿場町があるだけである。長の別れを惜しみ、一夜、酒を酌み交わすのである。また、娼屋の様なものもあったようだ。㶚水の堤には楊柳があり、柳を折って旅の安全を願ったのである。太平寰宇記「灞陵在咸陽縣/東北二十五里。」とある。
5. 灞水流 長安の東を流れる川は終南山を水源にした滻水と驪山、藍田の方角から流れてくるこの㶚水が北流して合流し渭水に灌ぐのである。㶚水、滻水の二俣川。水經の註に「灞水歴白鹿原、東卽灞川、西故芷陽矣、是謂之灞上。漢文帝、𦵏其上、謂之灞陵。上有四出、道以瀉水在。長安東南三十里、故王仲宣、賦詩云、“南登霸陵岸、廻首望長安。”」とある。
長安東南三十里故王仲宣賦詩云南登霸陵岸廻首望長安。
6. 浩浩 川の流れのひろびろとしたさま。春水の増水の様子を言う。
7. 無花之古樹 雪解け水で春が来たのではあるが、まだ早春で、花を咲かせるはずの古樹があることで別れの悲しさを演出する。
8. 傷心之春草 春草は男女の情愛を連想させ、せっかく芽生えた恋心と別れに伴ういろんな意味を加えて味わいを深めている。この二句で上の無花と下の春草ばかりでなく別れの何度も振り返り手を振る、号哭することもイメージしてくる。
9. 秦人 秦は陝西省の南部一帯であるから長安一帯の地元の人のこと。
10. 問路歧 東と南の分岐点両方について問うこと。
11. 王粲(おう さん)177年 - 217年、)は、中国、後漢末の文学者・学者・政治家。字は仲宣。王龔の曾孫、王暢の孫、王謙の子。王凱の従兄弟。子に男子二名。山陽郡高平県(現山東省)の人。曽祖父の王龔、祖父の王暢は漢王朝において三公を務めた。文人として名を残し、建安の七子の一人に数えられる。代表作として、登樓賦、公讌詩、詠史詩、七哀詩三首 從軍詩五首がある。七哀詩三首に「南の方㶚陵に登り、首をめぐらして長安を望む」とある。王粲は長安を去って㶚水を上流に登り、峠を越えて、漢水にのり、荊州(湖北省江陵県)の劉表のもとに赴くのである。こちらの古道は南の道。王粲、字仲宣以西京擾亂乃之荆州依劉表作七哀詩卽“南登霸陵岸、廻首望長安。“一首。
12. 古道 この路は洛陽に向かう道である。
13. 西京 西京は長安であるが、わざわざ最強というには東京、洛陽があるということを示唆する。。
14. 紫闕 天子の宮殿の御門。
15. 落日 夕日が沈むことと洛陽と掛けてある。
16. 浮云生 雲は、男女の混じり合いを意味し、天子の後宮のことを意味する。
17. 斷腸處 断腸というのは、エクスタシーのことを指す。
18. 驪歌 古歌で妾の女が主人を恋しくて歌う詩。
19. 愁絕 交わりを断つこと。
20. 不忍聽 女の身として聞くに忍びない。男をあさることなど全くない時代。悶えた声、待ち人の詩・・・聞くことはできない。漢書 「王式曰、客、歌驪駒、主人歌客無容歸。」
服䖍曰、驪駒逸詩篇名、見大戴禮、客欲去歌之、其辭曰、“驪駒在門、僕夫具存、驪駒在路、僕夫整駕。”」
卷別 | 李白集校注 | 全唐詩 | 李太白集 |
別(卷十七(二)一○ | 卷176_6 | 巻十六06 | |
詩題 | 灞陵行送別(卷十七(二)一○○三) | ||
文體 | 雜言古詩 | | |
詩序 | 0 | ||
初句 | 送君灞陵亭,灞 | 天寶三年 744年 44歲 | |
作地點 | 萬年(京畿道 / 京兆府 / 萬年) | ||
及地點 | 灞陵 (京畿道 京兆府 萬年) | ||
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交遊人物/交遊地點 | 0 |