全唐文卷0350-24 漢東紫陽先生碑銘(卷三○(二)一七三四詩文補遺)

 

2017323

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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

744年-070全唐文卷0350-24 漢東紫陽先生碑銘(卷三○(二)一七三四詩文補遺)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8363

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孟浩然

李白詩

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李白全詩

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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

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806年-集10-【字解集】 ・送區弘南歸 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8383

・李商隠詩 (1) 136首の75

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韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

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index-12 820 國子祭酒18

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韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

Ⅲ 杜詩

詳注

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767年-集-7 【字解集】 ・a.甘林 ・b.暇日小園散病將種秋菜督勒 杜詩詳注 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8354

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

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744-070全唐文卷0350-24 漢東紫陽先生碑銘(卷三○(二)一七三四詩文補遺)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8363

(当時道教の中国随一の指導者といわれ、直接の弟子も三千人を超えたという、その師が逝去しその碑文を依頼されて胡紫陽の事蹟を書いたものである。)

ああ、紫陽先生、竟に若死にされ、その誌をもってその教えを表現されることはなくなった。太陽のように人々に明らかにされてきたがそれも應ないのであり、天に昇ってしまわれたのであろう。

あるいは、まさに、道教の神とし、賓皇王としてお隠れになられたのか、世俗のもののはかる所のものではないのであろう。―――――。

仙道を明るくし、これをぬきんでて堂々とした姿を列して先に抜けて進んでいて、教えを説いた、明堂では何の問題もなくとかれた、

先生の福寿の顔相は、長い耳、広い額、手を振れば対したものの骨を揺るがせ、百の声を完全に聞き分けて聞いた。

そして仙人の優れた風采は髪毛を垂らし、居住まいも存在感を秀逸にし、異彩を放っている。

河にいる、鶴と亀はここに達しており先生が早く世に出られたことで、夏に生まれ夏を鳴きあかしている蝉は季節を知らないまま秋に生き延びているように、陝西の考えが生き続けていくことであろう。

744-070-#1

漢東紫陽先生碑銘(卷三

(二)一七三四詩文補遺) -#1

全唐詩文/0350-24 #1

李白集校注(卷三○(二)一七三四詩文補遺)#1

李太白集巻八38#1

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8393

紅葉001 


李白は少年時代、四川省にいた頃、処士東巌子といい者と岷山(ビンザン)に隠棲していたことがある。東巌子の素姓は不明だが、彼等の生活が十二分に道教的な色彩を帯びたものであったことは否めない。李白は20代後半から30代にかけ、しばしば隋州(湖北省)の胡紫陽の許に赴いた。胡紫陽の事蹟は李白の作「漢東紫陽先生碑銘」あり、ここに詳しく伝えられている。

 「胡紫陽は代々道士の家に生れ、九歳で出家し、十二歳から穀類を食うことをやめ(これが修行の第一段階である)、二十歳にして衡山(五嶽の一、南嶽、湖南省衡陽の北)に遊んだ。(この後は欠文があって判りにくいが、その後、召されて威儀及び天下採経使といふ道教の官に任ぜられ、隋州に飡霞楼を置いたなどのことが書かれている。)彼の道統は漢の三茅(茅盈、茅固、茅衷の三兄弟)、晋の許穆父子等に流を発し、その後、陳の陶弘景(陶隠居)、その弟子唐の王遠知(昇元先生)、その弟子潘師正(体元先生)、その弟子で李白とも交りのあった司馬承禎(貞一先生)を経て、李含光より伝はった。弟子は三千余人あったが、天宝の初、その高弟元丹邱はこれに嵩山(スウザン)及び洛陽に於いて伝籙をなさんことを乞うたが、病と称して往かぬといふ高潔の士であった。その後、いくばくもなくして玄宗に召されると、止むを得ないで赴いたが、まもなく疾と称して帝城を辞した。その去る時には王公卿士みな洛陽の龍門まで送ったが、葉県(河南省)まで来て、王喬(また王子喬、王子晋といい周の王子で仙人だったと)の祠に宿ったとき、しずかに仙化した。この年十月二十三日、隋州の新松山に葬った。時に年六十二歳であった。」

 と示しており、李白が紫陽と親交あり、紫陽の説教の十中の九を得たことをいっている。李白にはまた別に「隋州の紫陽先生の壁に題す」という詩があり、紫陽との交りを表している。しかし胡紫陽先生よりも、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の12首もある。

 1.
西岳云台歌送丹邱子   西嶽雲台の丹邱子を送る歌」、(11/7/1)
 2.
元丹邱歌           元丹邱の歌」、                            (11/6/30)
 3.
潁陽元丹邱別准陽之   「潁陽にて元丹邱の准陽に之くに別かる」、
 4.
詩以代書答元丹邱    「詩を以って書に代え元丹邱に答う」、
 5.
酬岑勛見尋就元丹邱對酒相待以詩見招
            「岑勛に尋ねられ元丹邱に就いて酒に対して相待ち詩を以って招かれるに酬いる」、
 6.
尋高鳳石門山中元丹邱      「高鳳の石門山中に元丹邱を酬いぬ」、
 7.
觀元丹邱坐巫山屏風       「元丹邱が坐の巫山屏風を観る」、
 8.
題元丹邱山居           「元丹邱の山居に題す」、
 9.
題元丹邱潁陽山居 并序      「元丹邱の潁陽の山居に題す並びに序」、
10.
題嵩山逸人元丹邱山居 并序  「嵩山の逸人元丹邱の山居に題す并びに序」
11.
聞丹邱子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡、
12.
與元丹邱方城寺談玄作 、


 以上の十二首である。その他にも詩中彼の名の表われる詩も五篇あるので、元丹邱を李白の第一の友、尊敬する先輩という存在であろう。これらの詩の中、第一のものは最も力作である。第2の元丹邱歌を最初に紹介したのはここに導入するためにふさわしいと考えたからである。

 

全唐文/0350 24

唐漢東紫陽先生碑銘

卷別

李白集校注

全唐詩

李太白集

先生碑銘(卷三○(二

/0350-24

巻八38

詩題

漢東紫陽先生碑銘(卷三○(二)一七三四詩文補遺)

文體

墓碑銘

 

詩序

 

     初句

嗚呼紫陽,竟夭

天寶三年   744   44

 

作地點

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)  

及地點

兗州(河南道 / 兗州 / 兗州

 

洛陽 (都畿道 河南府 洛陽別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下

 

長安 (京畿道 京兆府 長安別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都     

 

 

交遊人物/交遊地點

 

 

嗚呼!紫陽,竟夭其誌以默化,不昭然白日而昇九天乎?

或將潛賓皇王,非世所測,□□□□□□□□□□□

挺列仙明拔之英姿,明堂平白,長耳廣顙,揮手振骨,百關有聲,殊毛秀采,居然逸異,□□□□□□□□□□而且達河龜鶴早世而蟪蛄延秋。

 

元命乎?遭命乎?餘長息三日,懵於變化之理。

先生姓胡氏,□□□□□□族也。代業黃老,門清儒素,皆龍世網,鴻冥高雲。

但貴天爵,何徵閥?始八經仙城山,□□□□□□□□□□□有清都紫微之遐想。

 

出家,十二休糧。二十遊衡山,雲尋洞府,水涉溟壑。

神王□□□□□□□□召為威儀及天下采經使。

因遇諸真人,授赤丹陽精石景水母。故常吸飛根,吞日魂,密而修之,□□□□□□

 

所居苦竹院,置餐霞之樓,手植雙桂,棲遲其下,聞金陵之墟,道始盛於三茅,波乎四許。華陽□□□□□□□陶隱居傳昇元子,昇元子傳體元,體元傳貞一先生,貞一先生傳天師李含光,李含光合契乎紫陽□□□□□

 

於神農之裏,南抵朱陵,北越白水,稟訓門下者三千餘人。

鄰境牧守,移風問道,忽遇先生之宴坐□□□□□隱機雁行而前,為時見重,多此類也。天寶初,威儀元丹邱,道門龍鳳,厚禮致屈,傳籙於嵩山。

 

東京大唐□□宮三請固辭偃臥,未幾而詔書下責,不得已而行。

入宮一革軌儀,大變都邑。然海鳥愁臧文之享,猨狙裂周公之衣,誌往跡留,稱疾辭帝。

克期離闕,臨別自祭,其文曰:「神將厭餘,餘非厭世。」乃顧命侄道士胡齊物,具平肩輿,歸骨舊土。

 

王公卿士,送及龍門,入葉縣,次王喬之祠。目若有睹,泊然而化,天香引道,屍輕空衣。及本郡太守裴公以幡華郊迎,舉郭雷動,南□□□開顏如生。

觀者日萬,群議駭俗。至其年十月二十三日,葬於郭東之新鬆山。

 

春秋六十有二。先生含宏光大,不修小節。

書不盡妙,鬱有崩雲之勢;文非夙工,時動雕龍之作。

存也宇宙而無光,歿也浪化而蟬蛻。

 

□□□□□□□□乎?有僧貞倩,雅仗才氣,請餘為銘。

餘與紫陽神交,飽餐素論,十得其九,弟子元丹邱、王等,鹹素鸞鳳之儀羽,想珠玉之雲氣。

灑掃鬆月,載揚仙風,篆石頌德,與茲山不朽。其詞曰:

 

賢哉仙士,六十而化。光光紫陽,善與時而為龍蛇。

固亦以生死為晝夜,有力者挈之而趨。劫運落,終歸於無。惟元神不滅,湛然清都。

延陵既歿,仲尼嗚呼。青青鬆柏,離離山隅。篆石頌德,名揚八區。

 

紅葉004 

 744-070

  漢東紫陽先生碑銘(卷三○(二)一七三四詩文補遺)

嗚呼!紫陽,竟夭其誌以默化,不昭然白日而昇九天乎?

或將潛賓皇王,非世所測,□□□□□□□□□□□

挺列仙明拔之英姿,明堂平白,長耳廣顙,

揮手振骨,百關有聲,殊毛秀采,居然逸異,

□□□□□□□□□□而且達河龜鶴早世而蟪蛄延秋。

元命乎?遭命乎?餘長息三日,懵於變化之理。

黄庭經 明堂四達法海源梁邱子註眉頭一寸為明堂 蟪蛄見五巻註。 

論衡傳曰、説命有三一曰、正命二曰、隨命三曰、遭命遭命者、行善得惡非所兾望遭逢

而得凶禍、故曰遭命 禮記正義、按援神契云命有三科有受命以保慶有遭命以

謫暴有隨命以督行受命謂年也。遭命謂行善而遇凶也。隨命者謂隨其善惡

而報之云、陳子昻弟孜、墓誌銘云、豈其夭絶喪良圖、嗚呼、其元命歟遭命歟東

方朔荅客難、東方先生喟然長息。

先生姓胡氏,□□□□□□族也。代業黃老,門清儒素,皆龍世網,鴻冥高雲。

但貴天爵,何徵閥

史記 膠西有葢公善治黄老言張晏曰黄帝老子之書也。晉書王隠以儒素自守

不交勢援法言鴻飛冥冥弋人何焉韻。 史記明其等曰閥積其功曰

又有功曰閥有勞曰、漢車千秋傳無伐功、勞師古曰伐積功也經歴也。

今人以世家門為閥誤矣。𤦺按人臣有功于國方得世禄閥之家猶言世禄

之家耳又通鑑裴子野論曰降及季年專限閥胡三省註門在左曰閥在右曰

則以世家門戸為閥更有由也。

始八經仙城山,□□□□□□□□□□□有清都紫微之遐想。

出家,十二休糧。二十遊衡山,雲尋洞府,水涉溟壑。                  

神王□□□□□□□□召為威儀及天下采經使。

因遇諸真人,授赤丹陽精石景水母。故常吸飛根,吞日魂,密而修之,□□□□□□

所居苦竹院,置餐霞之樓,手植雙桂,棲遲其下,

列子 王實以為清都紫鈞天廣樂帝之所居威儀道家職名如釋家維那之

類白玉蟾玉降萬壽道院記唐有左右街威儀五代末周太祖因避諱改為

道録是威儀即今之道録司也。真誥日中五帝字曰日魂珠景昭韜緑映迴霞

赤童元炎飈象凡十六字此是金闕聖君採服飛根之道昔受之于太天帝

君一名赤丹金精石景水母玉胞之經常梁丘子黄庭内景經註上清紫文靈

書有採飛根之法以日初出東向叩齒九通畢陰呪日魂名日中五帝字曰日

魂珠景昭韜綠映迴霞赤童元炎飈象呪呼此十六字畢暝目握固存日中五

色流霞來繞一身于是日光流霞俱入口中名曰日華飛根玉胞水母也。

詩國風 衡門之下可以棲遲。 毛傳曰棲遲游息也。

聞金陵之墟,道始盛於三茅,波乎四許。華陽□□□□□□□

陶隱居傳昇元子,昇元子傳體元,體元傳貞一先生,

貞一先生傳天師李含光,李含光合契乎紫陽□□□□□

真誥句曲山漢有三茅君來治其上時父老又轉名茅君之山三君徃

一白鵠各集山之三處時人互有見者是以發於歌謡乃復因鵠集之處分句

曲山為大茅君中茅君小茅君三山焉總而言之盡是句曲之一山耳山生黄

金漢靈帝時詔敕郡縣採句曲之金以充武庫逮孫權時又遣宿衛人採金常

輸官兵帥百家遂屯居伏龍之地因改為金陵之墟名也。三茅者漢景帝中元

間人長兄名盈次弟名固又次弟名衷俱得仙道老君拜盈為司命真君固為

定録真君衷為保生真君故號為三茅君四許者許穆汝南平與人官至

長史晉太和中入茅山修道功成仙去為上清真人第三子玉斧先於太和五

年在茅山尸觧為上清仙官長子揆次子虎牙並亦得道南史陶𢎞景丹陽秣

陵人為諸王侍讀除奉朝請上表辭禄止於句容之句曲山恒曰此山下是第

八洞名金壇華陽之天周迴一百五十里昔漢有咸陽三茅君得道來掌此

山故謂之茅山乃中山立館自號華陽/陶隠居人間書疏即以隱居代名舊唐

書王知琅琊人少聰敏博綜羣書入茅山師事陶𢎞景傳其道法太宗登極

將加重位固請歸山、貞觀九年謂弟子潘師正曰吾見仙格以吾少時誤損一

童子吻不得白日昇天見署少室伯將行在即翌日沐浴如冠衣焚香而寢卒

年一百二十六歳調露二年追贈太中大夫諡曰昇真先生天授二年改諡曰

昇元先生潘師正趙州贊皇人師事王知盡以道門隱訣及符籙授之髙宗

幸東都因召見焉永淳元年卒時年九十八髙宗追思不巳贈太中大夫賜謚

曰體元先生司馬承禎字子河内温人少好學薄於為吏遂為道士事潘師

正傳其符籙及辟榖導引服餌之術師正特賞異之卒時年八十九其弟子表

稱死之日有雙鶴逸壇及白雲從壇中湧出上連於天而師容色如生元宗深

嘆異之贈銀青光禄大夫號貞一先生顔真卿元靜先生李君碑先生姓李諱

含光廣陵江都人本姓𢎞以孝敬皇帝廟諱改焉提孩則有殊異晬日獨取孝

經如捧讀焉開元十七年從司馬鍊師于王屋山傳授大法靈文金記一覧無

遺綜覈古今該明奥㫖元宗知先生徧得子微之道乃詔先生居王屋山陽臺

觀以繼之餘請歸茅山纂修經法頻徵皆謝病不出天寳四載冬乃命中官

璽書徴之至延入禁中每欲諮禀必先齋沐他日請傳道法先生辭以足

疾不任科儀者數焉元宗知不可而止

先生常以茅山靈蹟翦焉將墜真經秘録亦多散落請歸修葺特詔於楊許舊居

紫陽觀以宅之仍賜絹二百匹法衣兩副香爐一具御製詩及序

以餞之初隱居先生以三洞真經傳昇元先生昇元付體元先生體元付正一先生    

正一付先生自先生距於隱居凡五葉矣。 皆總襲妙門大正真法 

於神農之裏,南抵朱陵,北越白水,稟訓門下者三千餘人。

鄰境牧守,移風問道,忽遇先生之宴坐□□□□□隱機雁行而前,

為時見重,多此類也。

路史世言神農生而九井自出按九井在頼山州記云江夏隨縣北界厲

村南重山也。井在山北重塹周之廣一頃一十畝内有地云神農宅神農生此

神農既育九井自穿舊汲一井則八井皆動。 寰宇記在縣北百里人不敢觸

按今惟存一穴大木旁蔭人即其處為神農社年常祀之亦引

州記所言厲村厲山下之穴神農所生穴口方一歩容數人上有神農廟

州圖永陽縣西北二百三十里厲山東石穴也。高三十丈長二百尺謂之神農穴名山

洞天福地記南岳衡山周迴七百里名朱陵之天在衡州衡山縣白水即白河也。

一名淯水在南陽府詳七巻註宴坐靜坐也

見二十三巻註埤雅雁行斜歩側身故/莊子謂士成綺雁行避影而問老子

天寶初,威儀元丹邱,道門龍鳳,厚禮致屈,傳籙於嵩山。

東京大唐□□宮三請固辭偃臥,未幾而詔書下責,不得已而行。

入宮一革軌儀,大變都邑。然海鳥愁臧文之享,

猨狙裂周公之衣,誌往跡留,稱疾辭帝。

克期離闕,臨別自祭,其文曰:「神將厭餘,餘非厭世。」

乃顧命侄道士胡齊物,具平肩輿,歸骨舊土。

王公卿士,送及龍門,入葉縣,次王喬之祠。目若有睹,

泊然而化,天香引道,屍輕空衣。及本郡太守裴公以幡華郊迎,

舉郭雷動,南□□□開顏如生。

觀者日萬,群議駭俗。至其年十月二十三日,葬於郭東之新鬆山。

春秋六十有二。

海鳥見大鵬賦註莊子今取猿狙而/衣以周公之服彼必齕齧挽裂盡去

而後慊觀古今之異猶猿狙之異乎周公也晉書王獻之嘗經郡聞顧

辟彊有名園先不相識乗平肩輿徑入文章正宗龍門在河南縣地志曰

闕塞山一名伊闕/而俗名龍門王喬祠在南陽府葉縣治東北相傳即喬

飛鳬之所故後人立祠於此以祀之今謂之雙鳬觀晉書葛洪卒時年八

十一視其顔色如生體亦柔軟舉尸入棺甚輕如空衣世以為尸觧得仙

 狙子余切音脽

先生含宏光大,不修小節。書不盡妙,鬱有崩雲之勢;文非夙工,時動雕龍之作。

存也宇宙而無光,歿也浪化而蟬蛻。豈□□□□□□□□乎?

周易含𢎞光大品物咸亨正義云包含以厚光著甚大也。後漢書劉陶為人居簡不修小節梁昭明

太子錦帶書叢談發流水之源筆陣引崩雲之勢 史記齊人頌曰談天衍雕龍奭裴駰註

劉向録曰騶衍之所言五德終始天地廣大書言天事故曰談天騶奭修衍之術文飾之

若雕鏤龍文故曰雕龍左思都賦赤須蟬蛻而附麗劉淵林註言/此人昇仙如蟬之殻也

僧貞倩,雅仗才氣,請餘為銘。餘與紫陽神交,飽餐素論,十得其九,

弟子元丹邱、王等,鹹素鸞鳳之儀羽,想珠玉之雲氣。

灑掃鬆月,載揚仙風,篆石頌德,與茲山不朽。其詞曰:

賢哉仙士,六十而化。光光紫陽,善與時而為龍蛇。

固亦以生死為晝夜,有力者挈之而趨。劫運落,終歸於無。

惟元神不滅,湛然清都。延陵既歿,仲尼嗚呼。

青青鬆柏,離離山隅。篆石頌德,名揚八區。

莊子一龍一蛇與時俱化而無肯專為淮南子以利害為塵垢以死生為晝夜方輿勝覧

延陵季子墓在常/州晉陵縣北七十里申浦之西孔子嘗題曰嗚呼有延陵季子之墓

舊石湮滅唐元宗命殷仲容摹以傳揚/雄長楊賦洋溢八區李善註八區八方之區也。

按宋敏求後序謂呂縉叔出漢東紫陽先生碑而殘缺間莫能辨不復收入本集

太平寰宇記紫陽先生塔銘李白譔在廢光化縣今不知存否此本從道藏

劉大彬茅山志中録出雖有缺文然與集中所稱紫陽先生元丹丘

僧倩公仙城山飱霞樓等句多所取證且其文係/太白真作銘詞元奥可喜宋氏棄之不收固矣

 右一篇見劉大彬茅山志

 李白集校注タイトル

 

漢東紫陽先生碑銘

(当時道教の中国随一の指導者といわれ、直接の弟子も三千人を超えたという、その師が逝去しその碑文を依頼されて胡紫陽の事蹟を書いたものである。)

嗚呼!紫陽,竟夭其誌以默化,不昭然白日而昇九天乎?

ああ、紫陽先生、竟に若死にされ、その誌をもってその教えを表現されることはなくなった。太陽のように人々に明らかにされてきたがそれも應ないのであり、天に昇ってしまわれたのであろう。

或將潛賓皇王,非世所測,□□□□□□□□□□□

あるいは、まさに、道教の神とし、賓皇王としてお隠れになられたのか、世俗のもののはかる所のものではないのであろう。―――――。

挺列仙明拔之英姿,明堂平白,

仙道を明るくし、これをぬきんでて堂々とした姿を列して先に抜けて進んでいて、教えを説いた、明堂では何の問題もなくとかれた、

長耳廣顙,揮手振骨,百關有聲,

先生の福寿の顔相は、長い耳、広い額、手を振れば対したものの骨を揺るがせ、百の声を完全に聞き分けて聞いた。

殊毛秀采,居然逸異,

そして仙人の優れた風采は髪毛を垂らし、居住まいも存在感を秀逸にし、異彩を放っている。

□□□□□□□□□□而且達河龜鶴早世而蟪蛄延秋。

河にいる、鶴と亀はここに達しており先生が早く世に出られたことで、夏に生まれ夏を鳴きあかしている蝉は季節を知らないまま秋に生き延びているように、陝西の考えが生き続けていくことであろう。

(漢東、紫陽先生の碑銘)

嗚呼!紫陽,竟に其の誌を夭し以て默化す,昭然として白日にならずして九天に昇られるや?

或いは將に賓皇の王に潛み,世の測る所に非らず,□□□□□□□□□□□。

挺列し、仙明之を拔く英姿なり,明堂は平白し,長耳 廣顙にして,手を揮れば振骨す,百關には聲有り,殊毛 秀采なり,居然として逸異なり,□□□□□□□□□□而して且つ河龜鶴に達し 早世して蟪蛄 秋に延ぶ。

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《漢東紫陽先生碑銘》現代語訳と訳註解説
(
本文)
 
嗚呼!紫陽,竟夭其誌以默化,不昭然白日而昇九天乎?

或將潛賓皇王,非世所測,□□□□□□□□□□□。

挺列仙明拔之英姿,明堂平白,長耳廣顙,揮手振骨,百關有聲,殊毛秀采,居然逸異,□□□□□□□□□□而且達河龜鶴早世而蟪蛄延秋。

 

(下し文)
(漢東、紫陽先生の碑銘)

嗚呼!紫陽,竟に其の誌を夭し以て默化す,昭然として白日にならずして九天に昇られるや?

或いは將に賓皇の王に潛み,世の測る所に非らず,□□□□□□□□□□□。

挺列し、仙明之を拔く英姿なり,明堂は平白し,長耳 廣顙にして,手を揮れば振骨す,百關には聲有り,殊毛 秀采なり,居然として逸異なり,□□□□□□□□□□而して且つ河龜鶴に達し 早世して蟪蛄 秋に延ぶ。

 

(現代語訳)

(当時道教の中国随一の指導者といわれ、直接の弟子も三千人を超えたという、その師が逝去しその碑文を依頼されて胡紫陽の事蹟を書いたものである。)

ああ、紫陽先生、竟に若死にされ、その誌をもってその教えを表現されることはなくなった。太陽のように人々に明らかにされてきたがそれも應ないのであり、天に昇ってしまわれたのであろう。

あるいは、まさに、道教の神とし、賓皇王としてお隠れになられたのか、世俗のもののはかる所のものではないのであろう。―――――。

仙道を明るくし、これをぬきんでて堂々とした姿を列して先に抜けて進んでいて、教えを説いた、明堂では何の問題もなくとかれた、

先生の福寿の顔相は、長い耳、広い額、手を振れば対したものの骨を揺るがせ、百の声を完全に聞き分けて聞いた。

そして仙人の優れた風采は髪毛を垂らし、居住まいも存在感を秀逸にし、異彩を放っている。

河にいる、鶴と亀はここに達しており先生が早く世に出られたことで、夏に生まれ夏を鳴きあかしている蝉は季節を知らないまま秋に生き延びているように、陝西の考えが生き続けていくことであろう。

 

(訳注) 
漢東紫陽先生碑銘

1. (当時道教の中国随一の指導者といわれ、直接の弟子も三千人を超えたという、その師が逝去しその碑文を依頼されて胡紫陽の事蹟を書いたものである。)

2. 漢東紫陽先生碑銘 李白は胡紫陽と親交あり、紫陽の説教の十中の九を得たことをいっている。隋州(湖北省)の胡紫陽の許に赴き、教えを乞い、また李白の詩文も評価された。胡紫陽の事蹟は李白の作「漢東紫陽先生碑銘」あり、肝心な個所に、消失した部分はあるものの、ここに詳しく伝えられている。李白にはまた別に「隋州の紫陽先生の壁に題す」という詩があり、紫陽との交りを表している。

 

嗚呼!紫陽,竟夭其誌以默化,不昭然白日而昇九天乎?

ああ、紫陽先生、竟に若死にされ、その誌をもってその教えを表現されることはなくなった。太陽のように人々に明らかにされてきたがそれも應ないのであり、天に昇ってしまわれたのであろう。

 

或將潛賓皇王,非世所測,□□□□□□□□□□□

あるいは、まさに、道教の神とし、賓皇王としてお隠れになられたのか、世俗のもののはかる所のものではないのであろう。―――――。

3. 賓皇王 玉皇大帝、あるいは玉皇、玉帝は、中国道教における事実上の最高神で、天界の支配者でありその下の地上・地底に住むあらゆるものの支配者でもある。現在も庶民から篤く崇拝されており、民間信仰や、東南アジアなどの華僑の間では最高神として扱われる。

道教の最高神は時代ごとに変わっている。まず「太元」を神格化した元始天尊、次に「道」を神格化した霊宝天尊(太上道君)、その後これらに「老子」を神格化した道徳天尊(太上老君)を加えた三柱(三清)が最高神とみなされていった。これら自然の無為と始まりを象徴する神々の下に、実質的に宇宙万物を運用・統治している最高神祇である「四御」がいる。すなわち、全ての神を統括し宇宙を治める太上金闕至尊玉皇昊天上帝(玉皇大帝)、全ての霊を統括する勾陳上宮天皇大帝、全ての星を統括する週天星主紫微大帝、全ての土地を統括する地母神である承天效法后土皇地祇(后土、后土娘娘)である。

 

挺列仙明拔之英姿,明堂平白,

仙道を明るくし、これをぬきんでて堂々とした姿を列して先に抜けて進んでいて、教えを説いた、明堂では何の問題もなくとかれた、

4. 挺列 〖挺〗1.先にぬけ出て進む。「挺進・挺身・挺争・空挺」2.群れからぬけ出てすぐれている。「挺出・挺然」

5. 仙明 仙の道を明確にする。

6. 英姿 すぐれてりっぱな姿。堂々とした姿。

7. 明堂 伝説上の王者が政務を行う宮殿。古代には,王者は太陽の霊を受けて諸侯を朝見し政令を発するという信仰があったが,これから展開したものと思われ,土の台上に54門の宮殿を設け,時節によって礼を異にし室を異にする朝儀を行なったという。黄庭經 「明堂四達法海源梁邱子註眉頭一寸為明堂蟪蛄見五巻註。」

8. 平白 平白の意味や日本語訳。ピンインpíngbái副詞 何の理由もなく,わけもなく,いわれもなく,やすやすと,みすみす.

 

長耳廣顙,揮手振骨,百關有聲,

先生の福寿の顔相は、長い耳、広い額、手を振れば対したものの骨を揺るがせ、百の声を完全に聞き分けて聞いた。

9. 長耳 ながいみみ。(先生の福寿の顔相)

10. 廣顙 ひろいひたい。(先生の福寿の顔相)

11. 揮手振骨 紫陽先生から発せられる気は、手を振ればでしたちの骨を揺るがせるほどのものであるという意。

12. 百關 弟子の質問に関連すること、百人の関する事柄を同時に判断すして、指導するというほどの意。。

 

殊毛秀采,居然逸異,

そして仙人の優れた風采は髪毛を垂らし、居住まいも存在感を秀逸にし、異彩を放っている。

13. 秀采 秀逸な風采。

 

□□□□□□□□□□而且達河龜鶴早世而蟪蛄延秋。

河にいる、鶴と亀はここに達しており先生が早く世に出られたことで、夏に生まれ夏を鳴きあかしている蝉は季節を知らないまま秋に生き延びているように、陝西の考えが生き続けていくことであろう。

14. 蟪蛄 《荘子、逍遙遊篇》「朝菌不知晦朔、蟪蛄不知春秋。」(朝菌は晦朔を知らず。蟪蛄は春秋を知らず。) 朝菌は朝から暮れまでのいのちで、夜と明け方を知らず、夏に生まれ夏を鳴きあかしている蝉は季節を知らないのであるから、どうして夏が夏であることを知りえようか。紅葉001