全唐文卷0350-24 漢東紫陽先生碑銘(卷三○(二)一七三四詩文補遺)

 

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744-070-#4全唐文卷0350-24 漢東紫陽先生碑銘(卷三○(二)一七三四詩文補遺)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8411

隋州に苦竹院に教育実践の拠点を置き、苦竹院の庭裏に桂花樹を栽植を株し朝霞の氣を服食する餐霞楼を置いた。その庭や楼の内裏には、二本の桂の花木を植えおえたあと、高楼の周りに遅れて咲くようにうえられた。彼の道統の話は古代の都、金陵の墟にまできこえ、漢の三茅(茅盈、茅固、茅衷の三兄弟)以来、盛んな就業の場となったのである。 その波は、四許にまで及んだのである。華陽国志にもかかれている華陽隠居と名乗り、晋の許穆父子等に流を発し、その後、陳の陶弘景(陶隠居)は、その弟子たちの元子に伝授し、そして、その唐の王遠知(昇元先生)は體元に伝授し、體元先生潘尊師となって、その弟子、司馬承禎(貞一先生)に伝授していったのである。その弟子で李白とも交りのあった司馬承禎(貞一先生)を経て、天師李含光に伝わり、玄靜先生となって胡紫陽へとつながって伝授されていったのである。


宮島0008 

744-070-#4

漢東紫陽先生碑銘

(卷三(二)一七三四詩文補遺) -4

全唐詩全唐文卷0350-244

李白集校注卷三○(二)一七三四#4

李太白集未掲載#4

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8411

崋山003#1

嗚呼!紫陽,竟夭其誌以默化,不昭然白日而昇九天乎?

或將潛賓皇王,非世所測,□□□□□□□□□□□

挺列仙明拔之英姿,明堂平白,長耳廣顙,揮手振骨,百關有聲,殊毛秀采,居然逸異,□□□□□□□□□□而且達河龜鶴早世而蟪蛄延秋。

#2

元命乎?遭命乎?餘長息三日,懵於變化之理。

先生姓胡氏,□□□□□□族也。代業黃老,門清儒素,皆龍世網,鴻冥高雲。

但貴天爵,何徵閥?始八經仙城山,□□□□□□□□□□□有清都紫微之遐想。

#3

出家,十二休糧。二十遊衡山,雲尋洞府,水涉溟壑。

神王□□□□□□□□召為威儀及天下采經使。

因遇諸真人,授赤丹陽精石景水母。故常吸飛根,吞日魂,密而修之,□□□□□□

#4

所居苦竹院,置餐霞之樓,手植雙桂,棲遲其下,聞金陵之墟,道始盛於三茅,波乎四許。華陽□□□□□□□陶隱居傳昇元子,昇元子傳體元,體元傳貞一先生,貞一先生傳天師李含光,李含光合契乎紫陽□□□□□

#5

於神農之裏,南抵朱陵,北越白水,稟訓門下者三千餘人。

鄰境牧守,移風問道,忽遇先生之宴坐□□□□□隱機雁行而前,為時見重,多此類也。天寶初,威儀元丹邱,道門龍鳳,厚禮致屈,傳籙於嵩山。

#6

東京大唐□□宮三請固辭偃臥,未幾而詔書下責,不得已而行。

入宮一革軌儀,大變都邑。然海鳥愁臧文之享,猨狙裂周公之衣,誌往跡留,稱疾辭帝。

克期離闕,臨別自祭,其文曰:「神將厭餘,餘非厭世。」乃顧命侄道士胡齊物,具平肩輿,歸骨舊土。

#7

王公卿士,送及龍門,入葉縣,次王喬之祠。目若有睹,泊然而化,天香引道,屍輕空衣。及本郡太守裴公以幡華郊迎,舉郭雷動,南□□□開顏如生。

觀者日萬,群議駭俗。至其年十月二十三日,葬於郭東之新鬆山。

#8

春秋六十有二。先生含宏光大,不修小節。

書不盡妙,鬱有崩雲之勢;文非夙工,時動雕龍之作。

存也宇宙而無光,歿也浪化而蟬蛻。

#9

□□□□□□□□乎?有僧貞倩,雅仗才氣,請餘為銘。

餘與紫陽神交,飽餐素論,十得其九,弟子元丹邱、王等,鹹素鸞鳳之儀羽,想珠玉之雲氣。

灑掃鬆月,載揚仙風,篆石頌德,與茲山不朽。其詞曰:

10

賢哉仙士,六十而化。光光紫陽,善與時而為龍蛇。

固亦以生死為晝夜,有力者挈之而趨。劫運落,終歸於無。惟元神不滅,湛然清都。

延陵既歿,仲尼嗚呼。青青鬆柏,離離山隅。篆石頌德,名揚八區。

 

李白集校注タイトル 

全唐文/0350 24

唐漢東紫陽先生碑銘

卷別

李白集校注

全唐詩

李太白集

先生碑銘(卷三○(二

/0350-24

巻八38

詩題

漢東紫陽先生碑銘(卷三○(二)一七三四詩文補遺)

文體

墓碑銘

 

詩序

 

     初句

嗚呼紫陽,竟夭

天寶三年   744   44

 

作地點

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)  

及地點

兗州(河南道 / 兗州 / 兗州

 

洛陽 (都畿道 河南府 洛陽別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下

 

長安 (京畿道 京兆府 長安別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都     

 

 

交遊人物/交遊地點

 

 

漢東紫陽先生碑銘

(当時道教の中国随一の指導者といわれ、直接の弟子も三千人を超えたという、その師が逝去しその碑文を依頼されて胡紫陽の事蹟を書いたものである。)

嗚呼!紫陽,竟夭其誌以默化,不昭然白日而昇九天乎?

ああ、紫陽先生、竟に若死にされ、その誌をもってその教えを表現されることはなくなった。太陽のように人々に明らかにされてきたがそれも應ないのであり、天に昇ってしまわれたのであろう。

或將潛賓皇王,非世所測,□□□□□□□□□□□

あるいは、まさに、道教の神とし、賓皇王としてお隠れになられたのか、世俗のもののはかる所のものではないのであろう。―――――。

挺列仙明拔之英姿,明堂平白,

仙道を明るくし、これをぬきんでて堂々とした姿を列して先に抜けて進んでいて、教えを説いた、明堂では何の問題もなくとかれた、

長耳廣顙,揮手振骨,百關有聲,

先生の福寿の顔相は、長い耳、広い額、手を振れば対したものの骨を揺るがせ、百の声を完全に聞き分けて聞いた。

殊毛秀采,居然逸異,

そして仙人の優れた風采は髪毛を垂らし、居住まいも存在感を秀逸にし、異彩を放っている。

□□□□□□□□□□而且達河龜鶴早世而蟪蛄延秋。

河にいる、鶴と亀はここに達しており先生が早く世に出られたことで、夏に生まれ夏を鳴きあかしている蝉は季節を知らないまま秋に生き延びているように、陝西の考えが生き続けていくことであろう。

(漢東、紫陽先生の碑銘)

嗚呼!紫陽,竟に其の誌を夭し以て默化す,昭然として白日にならずして九天に昇られるや?

或いは將に賓皇の王に潛み,世の測る所に非らず,□□□□□□□□□□□。

挺列し、仙明之を拔く英姿なり,明堂は平白し,長耳 廣顙にして,手を揮れば振骨す,百關には聲有り,殊毛 秀采なり,居然として逸異なり,□□□□□□□□□□而して且つ河龜鶴に達し 早世して蟪蛄 秋に延ぶ。

#2

元命乎?遭命乎?餘長息三日,懵於變化之理。

もともと「三命」があるがこの命はなんであるのか、その命は因果の一致しない何かに遭遇することによってそこまでの命であったというのか、その変化の説明できる劉ははっきりしない

先生姓胡氏,□□□□□□族也。

胡東陽先生は「胡」氏であり、○○の血筋である。

代業黃老,門清儒素,

代々黄老思想を生業とされており、名儒の一族であり、清廉な一門としている、その皆さん方は世俗の網を潜り抜けられた龍のごとき人々である。

皆龍世網,鴻冥高雲。

だから、大鳥が、高く舞い上がり、すぐに見えなくなるようなものである。

但貴天爵,何徵閥?始八經仙城山,

ただし、人格を高めることによって、天から与えられた貴き「天爵」であり、なにが、功績のある家柄のお方を調停にどうして徴収できようか、という事で人となりを見てゆくと、八歳で、随州の修行寺觀のある仙城山を経ている。

□□□□□□□□□□□有清都紫微之遐想。

そして、この幼少期において、胡紫陽の内部形性がなされ、この地が、道家のものにとって、《列子.周穆王》にいう、天帝の住む場所であり、はるか遠く先まで思いをはせるところであった。

#2

元命なるや乎?遭命なるか乎?餘は三日長息し,變化の理に於いて懵す。

先生は姓を胡氏という,□□□□□□族なり。

代だい 黃老を業い,儒素に門清し,皆龍なり世網を,鴻 高雲に冥す。

但し貴き天爵なるも,何ぞ閥徵さんか?始めて八にして仙城山を經る,

□□□□□□□□□□□清都に紫微の遐想有り。

 

#3

出家,十二休糧。

九歳で出家し、十二歳から穀類を食うことをやめた。(これが修行の第二段階である)

二十遊衡山,雲尋洞府,水涉溟壑。

二十歳になると道教の山といわれる衡山に遊び、そこは年中雲に覆われたところにある神仙の居所を訪ね、そして、くらい深い谷川を渡ったのである。(第三の修行段階)

神王□□□□□□□□召為威儀及天下采經使。

三皇五帝,伝説上の帝王からの祖の地として栄えたところである、胡紫陽は、その後、召されて威儀となり、天下に及び、経使に採用された。年を重ね道教の官に任ぜられ、(隋州に飡霞楼を置いた)などのことが見えている。

因遇諸真人,授赤丹陽精石景水母。

修行が深まることによって、彼の道統は漢の三茅(茅盈、茅固、茅衷の三兄弟)といわれるような真人に出会い、赤丹、陽精、石景、水母、煉丹術に使う材料を授かり錬金術をたかめた。

故常吸飛根,吞日魂,密而修之,□□□□□□

こうして、常に飛根 霊芝など薬草、仙薬を吸入し、三魂七魄の霊気の就業をし、密法を直伝され、これを治めるのである。

 

出家し,十二で糧を休む。

二十で衡山に遊び,雲に尋ね 洞に府し,水に涉り壑に溟す。

神王□□□□□□□□召れて威儀を為して、天下に采經使を及ぶ。

因みに諸真人に遇い,赤丹、陽精、石景、水母を授る。

故に常に飛根を吸い,日魂を吞み,密して之を修む,□□□□□□。

 

#4

所居苦竹院,置餐霞之樓,

隋州に苦竹院に教育実践の拠点を置き、苦竹院の庭裏に桂花樹を栽植を株し朝霞の氣を服食する餐霞楼を置いた。

手植雙桂,棲遲其下,

その庭や楼の内裏には、二本の桂の花木を植えおえたあと、高楼の周りに遅れて咲くようにうえられた。

聞金陵之墟,道始盛於三茅,波乎四許。

彼の道統の話は古代の都、金陵の墟にまできこえ、漢の三茅(茅盈、茅固、茅衷の三兄弟)以来、盛んな就業の場となったのである。 その波は、四許にまで及んだのである

華陽□□□□□□□陶隱居傳昇元子,

華陽国志にもかかれている華陽隠居と名乗り、晋の許穆父子等に流を発し、その後、陳の陶弘景(陶隠居)は、その弟子たちの元子に伝授し、

昇元子傳體元,體元傳貞一先生,

そして、その唐の王遠知(昇元先生)は體元に伝授し、體元先生潘尊師となって、その弟子、司馬承禎(貞一先生)に伝授していったのである。

貞一先生傳天師李含光,李含光合契乎紫陽□□□□□

その弟子で李白とも交りのあった司馬承禎(貞一先生)を経て、天師李含光に伝わり、玄靜先生となって胡紫陽へとつながって伝授されていったのである。

 

居とする所は苦竹院で,餐霞の樓に置き,

雙桂を手植し,其の下に棲遲すは,

金陵の墟に聞え,道の始め三茅を盛にす,

波、四許に乎ぶ。華陽□□□□□□□陶隱居は昇元子に傳,

昇元子は體元に傳じ,體元は貞一先生に傳じ,

貞一先生は天師李含光に傳じ,李含光合は紫陽に契乎す□□□□□

 

《漢東紫陽先生碑銘》現代語訳と訳註解説
(
本文)
 
所居苦竹院,置餐霞之樓,

手植雙桂,棲遲其下,

聞金陵之墟,道始盛於三茅,波乎四許。

華陽□□□□□□□陶隱居傳昇元子,

昇元子傳體元,體元傳貞一先生,

貞一先生傳天師李含光,李含光合契乎紫陽□□□□□。

 

(下し文)
居とする所は苦竹院で,餐霞の樓に置き,

雙桂を手植し,其の下に棲遲すは,

金陵の墟に聞え,道の始め三茅を盛にす,

波、四許に乎ぶ。華陽□□□□□□□陶隱居は昇元子に傳,

昇元子は體元に傳じ,體元は貞一先生に傳じ,

貞一先生は天師李含光に傳じ,李含光合は紫陽に契乎す□□□□□。

 

(現代語訳)

隋州に苦竹院に教育実践の拠点を置き、苦竹院の庭裏に桂花樹を栽植を株し朝霞の氣を服食する餐霞楼を置いた。

その庭や楼の内裏には、二本の桂の花木を植えおえたあと、高楼の周りに遅れて咲くようにうえられた。

彼の道統の話は古代の都、金陵の墟にまできこえ、漢の三茅(茅盈、茅固、茅衷の三兄弟)以来、盛んな就業の場となったのである。 その波は、四許にまで及んだのである

華陽国志にもかかれている華陽隠居と名乗り、晋の許穆父子等に流を発し、その後、陳の陶弘景(陶隠居)は、その弟子たちの元子に伝授し、

そして、その唐の王遠知(昇元先生)は體元に伝授し、體元先生潘尊師となって、その弟子、司馬承禎(貞一先生)に伝授していったのである。

その弟子で李白とも交りのあった司馬承禎(貞一先生)を経て、天師李含光に伝わり、玄靜先生となって胡紫陽へとつながって伝授されていったのである。

 

(訳注) 
漢東紫陽先生碑銘

1. (当時道教の中国随一の指導者といわれ、直接の弟子も三千人を超えたという、その師が逝去しその碑文を依頼されて胡紫陽の事蹟を書いたものである。)

 

所居苦竹院,置餐霞之樓,

隋州に苦竹院に教育実践の拠点を置き、苦竹院の庭裏に桂花樹を栽植を株し朝霞の氣を服食する餐霞楼を置いた。

36. 苦竹院 八仙伝説の一人、傳呂祖曾師苦竹真君の開かれた寺觀をいう。随州において、胡紫陽在他居住的苦竹院をいう。8人の仙人はその出身や特徴により、それぞれ老、若、男、女、富み、権力、貧乏、低い身分を代表し、社会の各階層、あらゆる生活状態の人々を包括している。八仙人の物語は、唐の時代から伝わり、構成人物が変わったりしている。明の時代になって、呉元泰が、『八仙東遊記』という小説を書き、その小説によって、ようやく8人の名前が確定したというもの。

37. 餐霞之樓 胡紫陽在他居住的苦竹院の裏,栽植を親手に了す。2桂花樹を株し,修築了して餐霞樓とす。所謂"餐霞"である,意思として是れ朝霞の氣を服食し,是れ道教における一種の氣功修煉術である。

 

手植雙桂,棲遲其下,

その庭や楼の内裏には、二本の桂の花木を植えおえたあと、高楼の周りに遅れて咲くようにうえられた。

 

聞金陵之墟,道始盛於三茅,波乎四許。

彼の道統の話は古代の都、金陵の墟にまできこえ、漢の三茅(茅盈、茅固、茅衷の三兄弟)以来、盛んな就業の場となったのである。 その波は、四許にまで及んだのである

38. 墟 古代の都、金陵の墟

 

華陽□□□□□□□陶隱居傳昇元子,

華陽国志にもかかれている華陽隠居と名乗り、晋の許穆父子等に流を発し、その後、陳の陶弘景(陶隠居)は、その弟子たちの元子に伝授し、

39. 華陽 華陽国志(かようこくし)は、中国東晋の永和11年(355年)に常璩によって編纂された「華陽」、つまり巴・蜀・漢中の地誌である。古代から晋への歴史が断片的に書かれており、さらに地理の沿革・物産の状況を伝えている。

40. 陶隱居傳 陶 弘景(とう こうけい、孝建3年(456年) - 大同2年(536年))は、中国六朝時代の医学者・科学者であり、道教の茅山派の開祖。字は通明。隠居後は名を捨て華陽隠居と名乗り、晩年には華陽真逸と称した。

眉目秀麗にして博学多才で詩や琴棋書画を嗜み、医薬・卜占・暦算・経学・地理学・博物学・文芸に精通した。山林に隠棲しフィールドワークを中心に本草学を研究し今日の漢方医学の骨子を築いた。また、書の名手としても知られ、後世の書家に影響を与えた。

 

昇元子傳體元,體元傳貞一先生,

そして、その唐の王遠知(昇元先生)は體元に伝授し、體元先生潘尊師となって、その弟子、司馬承禎(貞一先生)に伝授していったのである。

41. 昇元子 王遠知(昇元先生) 王遠知(528年—635年),又名遠智,字廣德,原籍琊臨沂(今屬山東),後為揚州人。《唐國師升真先生王法主真人立觀碑》

42. 體元 體元先生潘尊師

43. 貞一先生 司馬承禎(貞一先生) 唐玄宗朝の上清派道教の指導者。字は子微,号は白雲子。21歳で道士となり,中岳嵩山の潘師正に師事して上清派道教の秘法をすべて伝授された。その後天台山に居を定めたが,則天武后朝から玄宗朝にかけて何度か宮廷に招かれ,晩年は玄宗の求めで王屋山に居を移し,《老子道徳経》の定本を作っている。代表的著作に禅の思想を取り入れた道教修養論の〈坐忘論〉がある。

 

貞一先生傳天師李含光,李含光合契乎紫陽□□□□□

その弟子で李白とも交りのあった司馬承禎(貞一先生)を経て、 天師李含光に伝わり、玄靜先生となって胡紫陽へとつながって伝授されていったのである。

44. 李含光 李含光(682-769)唐道士、茅山十三代宗師。本姓弘,因避孝敬皇帝李弘廟諱而改姓李,號"玄靜先生"。廣陵江都(今江蘇揚州)人。一晉陵(今江蘇常州)人。家世業佛。父孝威,博學好古,雅修彭聃之道,州裏人稱"貞隱先生"