744-070-#8全唐文卷0350-24 漢東紫陽先生碑銘

 

2017330

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744-070-#8全唐文卷0350-24 漢東紫陽先生碑銘(卷三○(二)一七三四詩文補遺)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8435

時に年六十二歳であった。紫陽先生は包容力は宏大で栄光は偉大なものであり、その包容力は小さな節操をきにはされなかった。書は尽く絶妙であるとは言い難いが、墨雲の勢いを崩落させるほどで鬱鬱したものである。文章はその技量からも決して速くはないが文学理論書「文心雕龍」のごとき文学理論で時として、文壇を動かした。存在感はあり、この人に比した宇宙に光るものがないというほどであり、しかしまぎれもなく没せられたのであり、波のように仙化してゆきやがて、せみ)のぬけがらとなっていった。


宮島0011 

744-070-#8 -

漢東紫陽先生碑銘

(卷三(二)一七三四詩文補遺) -#8

全唐詩全唐文卷0350-24

李白集校注卷三○(二)一七三四

李太白集未掲載

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8435

紅葉0120 

#1

嗚呼!紫陽,竟夭其誌以默化,不昭然白日而昇九天乎?

或將潛賓皇王,非世所測,□□□□□□□□□□□

挺列仙明拔之英姿,明堂平白,長耳廣顙,揮手振骨,百關有聲,殊毛秀采,居然逸異,□□□□□□□□□□而且達河龜鶴早世而蟪蛄延秋。

#2

元命乎?遭命乎?餘長息三日,懵於變化之理。

先生姓胡氏,□□□□□□族也。代業黃老,門清儒素,皆龍世網,鴻冥高雲。

但貴天爵,何徵閥?始八經仙城山,□□□□□□□□□□□有清都紫微之遐想。

#3

出家,十二休糧。二十遊衡山,雲尋洞府,水涉溟壑。

神王□□□□□□□□召為威儀及天下采經使。

因遇諸真人,授赤丹陽精石景水母。故常吸飛根,吞日魂,密而修之,□□□□□□

#4

所居苦竹院,置餐霞之樓,手植雙桂,棲遲其下,聞金陵之墟,道始盛於三茅,波乎四許。華陽□□□□□□□陶隱居傳昇元子,昇元子傳體元,體元傳貞一先生,貞一先生傳天師李含光,李含光合契乎紫陽□□□□□

#5

於神農之裏,南抵朱陵,北越白水,稟訓門下者三千餘人。

鄰境牧守,移風問道,忽遇先生之宴坐□□□□□隱機雁行而前,為時見重,多此類也。天寶初,威儀元丹邱,道門龍鳳,厚禮致屈,傳籙於嵩山。

#6

東京大唐□□宮三請固辭偃臥,未幾而詔書下責,不得已而行。

入宮一革軌儀,大變都邑。然海鳥愁臧文之享,猨狙裂周公之衣,誌往跡留,稱疾辭帝。

克期離闕,臨別自祭,其文曰:「神將厭餘,餘非厭世。」乃顧命侄道士胡齊物,具平肩輿,歸骨舊土。

#7

王公卿士,送及龍門,入葉縣,次王喬之祠。目若有睹,泊然而化,天香引道,屍輕空衣。及本郡太守裴公以幡華郊迎,舉郭雷動,南□□□開顏如生。

觀者日萬,群議駭俗。至其年十月二十三日,葬於郭東之新鬆山。

#8

春秋六十有二。先生含宏光大,不修小節。

書不盡妙,鬱有崩雲之勢;文非夙工,時動雕龍之作。

存也宇宙而無光,歿也浪化而蟬蛻。

#9

□□□□□□□□乎?有僧貞倩,雅仗才氣,請餘為銘。

餘與紫陽神交,飽餐素論,十得其九,弟子元丹邱、王等,鹹素鸞鳳之儀羽,想珠玉之雲氣。

灑掃鬆月,載揚仙風,篆石頌德,與茲山不朽。其詞曰:

10

賢哉仙士,六十而化。光光紫陽,善與時而為龍蛇。

固亦以生死為晝夜,有力者挈之而趨。劫運落,終歸於無。惟元神不滅,湛然清都。

延陵既歿,仲尼嗚呼。青青鬆柏,離離山隅。篆石頌德,名揚八區。

 

大明宮正面 003 

全唐文/0350 24

唐漢東紫陽先生碑銘

卷別

李白集校注

全唐詩

李太白集

先生碑銘(卷三○(二

/0350-24

巻八38

詩題

漢東紫陽先生碑銘(卷三○(二)一七三四詩文補遺)

文體

墓碑銘

 

詩序

 

     初句

嗚呼紫陽,竟夭

天寶三年   744   44

 

作地點

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)  

及地點

兗州(河南道 / 兗州 / 兗州

 

洛陽 (都畿道 河南府 洛陽別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下

 

長安 (京畿道 京兆府 長安別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都     

 

 

交遊人物/交遊地點

 

李白集校注タイトル 

漢東紫陽先生碑銘

(当時道教の中国随一の指導者といわれ、直接の弟子も三千人を超えたという、その師が逝去しその碑文を依頼されて胡紫陽の事蹟を書いたものである。)

嗚呼!紫陽,竟夭其誌以默化,不昭然白日而昇九天乎?

ああ、紫陽先生、竟に若死にされ、その誌をもってその教えを表現されることはなくなった。太陽のように人々に明らかにされてきたがそれも應ないのであり、天に昇ってしまわれたのであろう。

 

#3

出家,十二休糧。

九歳で出家し、十二歳から穀類を食うことをやめた。(これが修行の第二段階である)

二十遊衡山,雲尋洞府,水涉溟壑。

二十歳になると道教の山といわれる衡山に遊び、そこは年中雲に覆われたところにある神仙の居所を訪ね、そして、くらい深い谷川を渡ったのである。(第三の修行段階)

神王□□□□□□□□召為威儀及天下采經使。

三皇五帝,伝説上の帝王からの祖の地として栄えたところである、胡紫陽は、その後、召されて威儀となり、天下に及び、経使に採用された。年を重ね道教の官に任ぜられ、(隋州に飡霞楼を置いた)などのことが見えている。

因遇諸真人,授赤丹陽精石景水母。

修行が深まることによって、彼の道統は漢の三茅(茅盈、茅固、茅衷の三兄弟)といわれるような真人に出会い、赤丹、陽精、石景、水母、煉丹術に使う材料を授かり錬金術をたかめた。

故常吸飛根,吞日魂,密而修之,□□□□□□

こうして、常に飛根 霊芝など薬草、仙薬を吸入し、三魂七魄の霊気の就業をし、密法を直伝され、これを治めるのである。

 

出家し,十二で糧を休む。

二十で衡山に遊び,雲に尋ね 洞に府し,水に涉り壑に溟す。

神王□□□□□□□□召れて威儀を為して、天下に采經使を及ぶ。

因みに諸真人に遇い,赤丹、陽精、石景、水母を授る。

故に常に飛根を吸い,日魂を吞み,密して之を修む,□□□□□□。

 

#4

所居苦竹院,置餐霞之樓,

隋州に苦竹院に教育実践の拠点を置き、苦竹院の庭裏に桂花樹を栽植を株し朝霞の氣を服食する餐霞楼を置いた。

手植雙桂,棲遲其下,

その庭や楼の内裏には、二本の桂の花木を植えおえたあと、高楼の周りに遅れて咲くようにうえられた。

聞金陵之墟,道始盛於三茅,波乎四許。

彼の道統の話は古代の都、金陵の墟にまできこえ、漢の三茅(茅盈、茅固、茅衷の三兄弟)以来、盛んな就業の場となったのである。 その波は、四許にまで及んだのである

華陽□□□□□□□陶隱居傳昇元子,

華陽国志にもかかれている華陽隠居と名乗り、晋の許穆父子等に流を発し、その後、陳の陶弘景(陶隠居)は、その弟子たちの元子に伝授し、

昇元子傳體元,體元傳貞一先生,

そして、その唐の王遠知(昇元先生)は體元に伝授し、體元先生潘尊師となって、その弟子、司馬承禎(貞一先生)に伝授していったのである。

貞一先生傳天師李含光,李含光合契乎紫陽□□□□□

その弟子で李白とも交りのあった司馬承禎(貞一先生)を経て、天師李含光に伝わり、玄靜先生となって胡紫陽へとつながって伝授されていったのである。

 

居とする所は苦竹院で,餐霞の樓に置き,

雙桂を手植し,其の下に棲遲すは,

金陵の墟に聞え,道の始め三茅を盛にす,

波、四許に乎ぶ。華陽□□□□□□□陶隱居は昇元子に傳,

昇元子は體元に傳じ,體元は貞一先生に傳じ,

貞一先生は天師李含光に傳じ,李含光合は紫陽に契乎す□□□□□

#5

於神農之裏,南抵朱陵,

神農大帝”と尊称されていて、医薬と農業を司った地内であり、その南に、朱陵天尊をささえた。

北越白水,稟訓門下者三千餘人。

その北は、太陽をいっぱいに浴びた明るく澄んだ水の流れを越え、集まった門下の弟子は、三千人以上で、そのもの達に稟訓された。

鄰境牧守,移風問道,

その修行場に隣接する境界は牧民官をおき、道を問、風俗を移し替えて世の中をよくする。

忽遇先生之宴坐□□□□□隱機雁行而前,

たちまち、胡紫陽先生の宴坐に遇席したし、機知機敏を隠し、先になり後になりして進んで前に進んだ

為時見重,多此類也。

時間を取って何度も見返し、多くのものがこれと同じようにした。

天寶初,威儀元丹邱,道門龍鳳,

天宝の初、その高弟である、元丹邱は道家の才德優異的人物であり、

厚禮致屈,傳籙於嵩山。

礼を厚くして、なにごとに屈することなく、これに嵩山(スウザン)及び洛陽に於いて伝籙をなさんことを乞うたが、 病と称して往かぬといふ高潔の士であった。

#5

神農の裏に於て,南には朱陵を抵え,

北は白水を越ゆ,門下に稟訓する者は三千餘人。

鄰境に牧守を,移風して道を問う,

忽ち先生の宴坐に遇い□□□□□機を隱じ雁行して前にす,

為時をし見重し,多くは此類なり。

天寶の初め,威儀の元丹邱に,道門に龍鳳し,

禮を厚く屈に致り,嵩山に於て傳籙す。

 

#6

東京大唐□□宮三請固辭偃臥,

洛陽の金堂天堂道教寺觀に三度請われて召されても、固く辞退して苦竹院に隠遁し続け、

未幾而詔書下責,不得已而行。

いまだいくばくもなくして詔書がだされ責を下され、やめることもできずして、行動した。

入宮一革軌儀,大變都邑。

その後、いくばくもなくして玄宗に召されるとひとたび変わると民の軌儀として、都の街が大変革したのである。

然海鳥愁臧文之享,猨狙裂周公之衣,

そういう事で、海鳥大鵬賦にいう よい文章の享受されることについて愁い、どうしてかといえば、荘子外篇天運にいう、猿に周公の服を無理矢理着せようとしても、やぶられてしまうという事である。

誌往跡留,稱疾辭帝。

事実をしるした文章・記録には跡をとどめてはいるものの、止むを得ないで赴いたが、まもなく疾と称して帝城を辞した。

克期離闕,臨別自祭,

期日を決めて,朝廷を辞して離れる。別れの時が来ると祭儀を自分でした程である。

其文曰:「神將厭餘,餘非厭世。」

その祭り文にいう、「神はまさに予を厭がられた、予は世の中を厭がったわけではない。」と。

乃顧命侄道士胡齊物,具平肩輿,歸骨舊土。

そうしたら、道士の人々、胡紫陽の関係者らこぞってともに肩を組み神輿を担いで送ってくれ、故郷の土に骨を送ったのである。

#6

東京の大唐□□宮 三たび請も固辭し偃臥す,

未だ幾もなくして 詔書 責を下る,已むを得ずして行く。

宮に入り一たび革し軌儀す,都邑を大變させる。

然りて 海鳥 臧文の享を愁い,猨狙 周公の衣を裂くなり,

誌 往き 跡 留む,疾と稱して帝を辭す。

克期 闕を離る,臨別 自ら祭る,

其の文に曰う:「神は將に餘を厭い,餘は世を厭うに非らず。」

乃ち顧命あり 侄道士 胡齊物,具に平肩 輿し,骨を舊土に歸す。

 

#7

王公卿士,送及龍門,

その送りの去る時には王公卿士みな洛陽の龍門まで送ったのであるが、

入葉縣,次王喬之祠。

葉県(河南省)まで来て、王喬、また王子喬、王子晋といい周の王子の祠のところである。

目若有睹,泊然而化,

衆人の目は視線を集めてみていたなか、祠に宿ったときに、しずかに仙化した。

天香引道,屍輕空衣。

その香は天に届き、道は天に続く、胡紫陽の屍は、衣の中を軽くしやがてなくなっていた。

及本郡太守裴公以幡華郊迎,

こんなことがあったということで、本郡の太守裴度公は献花の幡華をもって郊がいにむかえた。

舉郭雷動,南□□□開顏如生。

雷が響き渡るほどに城郭内は湧きあがった、南に進むと胡紫陽の貌は生き返ったようであった。

觀者日萬,群議駭俗。

贈りを観覧する人々は、一日一万人であり、この集まった人々に予議論の中でも、胡紫陽の評判は、おどろくほど俗世をこえた高世の人であるとした。

至其年十月二十三日,葬於郭東之新鬆山。

この年(806年)十月二十三日、隋州の新松山に葬ったのである。

#7

王公 卿士,龍門に及んで送る,

葉縣に入る,王喬に祠に次【やど】る。

目は睹る有るが若,泊し然りして化す,

天に香しく道を引き,屍は輕くして衣に空す。

及びて本郡の太守裴公は幡華を以て郊に迎う,

郭に雷動を舉,南に□□□顏を開ければ生が如し。

觀者は日に萬とし,群議し 俗を駭す。

其の年十月二十三日に至って,郭の東の新鬆山に葬る。

 

#8

春秋六十有二。

時に年六十二歳であった。

先生含宏光大,不修小節。

紫陽先生は包容力は宏大で栄光は偉大なものであり、その包容力は小さな節操をきにはされなかった。

書不盡妙,鬱有崩雲之勢;

書は尽く絶妙であるとは言い難いが、墨雲の勢いを崩落させるほどで鬱鬱したものである。

文非夙工,時動雕龍之作。

文章はその技量からも決して速くはないが文学理論書「文心雕龍」のごとき文学理論で時として、文壇を動かした。

存也宇宙而無光,歿也浪化而蟬蛻。

存在感はあり、この人に比した宇宙に光るものがないというほどであり、しかしまぎれもなく没せられたのであり、波のように仙化してゆきやがて、せみ)のぬけがらとなっていった。

#8

春秋 六十と二有り。

先生は含宏光大であり,小節を修めず。

書は盡く妙ならず,鬱は雲の勢を崩す有り;

文は夙工に非らず,時として雕龍の作を動す。

存也は宇宙にして光無く,歿也は浪化して蟬蛻す。

#9

□□□□□□□□乎?

僧貞倩,雅仗才氣,請餘為銘。

餘與紫陽神交,飽餐素論,

十得其九,弟子元丹邱、

等,鹹素鸞鳳之儀羽,想珠玉之雲氣。

灑掃鬆月,載揚仙風,

篆石頌德,與茲山不朽。其詞曰:

10

賢哉仙士,六十而化。

光光紫陽,善與時而為龍蛇。

固亦以生死為晝夜,有力者挈之而趨。

劫運落,終歸於無。

惟元神不滅,湛然清都。

延陵既歿,仲尼嗚呼。

青青鬆柏,離離山隅。

篆石頌德,名揚八區。

 

 

《漢東紫陽先生碑銘》現代語訳と訳註解説

(本文) 
#8

春秋六十有二。

先生含宏光大,不修小節。

書不盡妙,鬱有崩雲之勢;

文非夙工,時動雕龍之作。

存也宇宙而無光,歿也浪化而蟬蛻。

 

(下し文)
#8

春秋 六十と二有り。

先生は含宏光大であり,小節を修めず。

書は盡く妙ならず,鬱は雲の勢を崩す有り;

文は夙工に非らず,時として雕龍の作を動す。

存也は宇宙にして光無く,歿也は浪化して蟬蛻す。

 

(現代語訳)

時に年六十二歳であった。

紫陽先生は包容力は宏大で栄光は偉大なものであり、その包容力は小さな節操をきにはされなかった。

書は尽く絶妙であるとは言い難いが、墨雲の勢いを崩落させるほどで鬱鬱したものである。

文章はその技量からも決して速くはないが文学理論書「文心雕龍」のごとき文学理論で時として、文壇を動かした。

存在感はあり、この人に比した宇宙に光るものがないというほどであり、しかしまぎれもなく没せられたのであり、波のように仙化してゆきやがて、せみ)のぬけがらとなっていった。

 

(訳注) 
漢東紫陽先生碑銘

1. (当時道教の中国随一の指導者といわれ、直接の弟子も三千人を超えたという、その師が逝去しその碑文を依頼されて胡紫陽の事蹟を書いたものである。)

 

#8

春秋六十有二。

時に年六十二歳であった。

73. 春秋 春と秋。年月。また、一年。年齢。とし。《史書の「春秋」から》歴史書。春秋高し《「戦国策」秦策から》高齢である。

 

先生含宏光大,不修小節。

紫陽先生は包容力は宏大で栄光は偉大なものであり、その包容力は小さな節操をきにはされなかった。

74. 小節 1.大したことでない節操。 2.音楽楽譜で、縦線で句切られた区間のそれぞれ。

 

書不盡妙,鬱有崩雲之勢;

書は尽く絶妙であるとは言い難いが、墨雲の勢いを崩落させるほどで鬱鬱したものである。

 

文非夙工,時動雕龍之作。

文章はその技量からも決して速くはないが文学理論書「文心雕龍」のごとき文学理論で時として、文壇を動かした。

75. 夙工 はやいたくみ。

76. 雕龍 文心雕龍は、中国・南朝梁の劉勰が著した文学理論書。全10巻。5世紀の末、南斉の末期に成立したと推測される。中国文学史上で有数の体系的なおかつ総合的な文学理論の書として評価される。各巻は5篇からなり、全体で50篇から成る構成である。前半の25篇は「原道」(文学原理)以下、33種の各カテゴリーの文学に関して論じており、後半25篇では創作、修辞、文学環境や作者論などの諸問題を論述している。六朝は中国文学史において、初めて文学が文学として自立した時代であるが、本書はその記念碑的な存在である。しかしながら、単なる文学理論にとどまらず、広く六朝時代の時代層を反映しており、この時代全般を考える上でも重要な書物である。

 

存也宇宙而無光,歿也浪化而蟬蛻。

存在感はあり、この人に比した宇宙に光るものがないというほどであり、しかしまぎれもなく没せられたのであり、波のように仙化してゆきやがて、せみ)のぬけがらとなっていった。

77. 浪化 波のように仙化してゆく。①波。清滝川の清冽(せいれつ)な流れ。その波の中へ松の青葉がはらはらと散り込んでいる。②波のように起伏が生じるものをたとえていう。③年老いて皮膚にできたしわのたとえ。

78. 蟬蛻  ① 蟬 (せみ)のぬけがら。うつせみ。 ② 俗世間から超然としていること。蟬脱。