745-025-1 登廣武古戰場懷古(卷二一(二)一二五八)

 

 

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●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

Ⅲ 杜詩

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杜甫詩(1)736~751年  53

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745-025-1 登廣武古戰場懷古(卷二一(二)一二五八)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8783

(秦滅亡のあと、楚漢の古戦場、開封府の廣武城に登って、いにしえを懐って作ったもの)

むかし、秦は帝位を失い、例えば、鹿が野草の間に奔るが奴とく、そこで、群雄はこれを追うて飛蓬の如く、頻りに相争った。中にも、項羽は、気、世を蓋い、帝王の重瞳は明らかにして、紫電の勢いを示した。そして、一呼吸の間に八千人を狩り集め、横行して、江東の地より起った。

洛陽 函谷関 嵩山005

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詩文(含異文)     登廣武古戰場懷古

秦鹿奔野草,逐之若飛蓬。項王氣蓋世,紫電明雙瞳。呼吸八千人,橫行起江東。

赤精斬白帝,叱吒入關中。兩龍不並躍,五緯與天同。楚滅無英圖,漢興有成功。

按劍清八極,歸酣歌大風。伊昔臨廣武,連兵決雌雄。分我一杯羹,太皇乃汝翁。

戰爭有古跡,壁壘層穹。猛虎嘯洞壑【猛虎吟洞壑】,飢鷹鳴秋空【飢鷹獵秋空】。

翔雲列曉陣,殺氣赫長虹。撥亂屬豪聖,俗儒安可通。沈湎呼豎子,狂言非至公。

撫掌黃河曲,嗤嗤阮嗣宗。

 

登廣武古戰場懷古  #1

秦鹿奔野草,逐之若飛蓬。項王氣蓋世,紫電明雙瞳。

呼吸八千人,橫行起江東。

#2

赤精斬白帝,叱吒入關中。兩龍不並躍,五緯與天同。

楚滅無英圖,漢興有成功。按劍清八極,歸酣歌大風。

#3

伊昔臨廣武,連兵決雌雄。分我一杯羹,太皇乃汝翁。

戰爭有古跡,壁壘層穹。猛虎嘯洞壑,飢鷹鳴秋空。

#4

翔雲列曉陣,殺氣赫長虹。撥亂屬豪聖,俗儒安可通。

沈湎呼豎子,狂言非至公。撫掌黃河曲,嗤嗤阮嗣宗。

 

卷別

李白集校注

全唐詩

李太白集

卷二一(二)一二五八

180-35

巻二○-36

詩題

登廣武古戰場懷古(卷二一(二)一二五八)

文體

五言古詩  

 

詩序

0

     初句

秦鹿奔野草,逐

天寶四年  745  45

 

作地點

廣武山(都畿道 / 河南府 / 廣武山)

及地點

廣武山 (都畿道 河南府 廣武山)

 

 

交遊人物/交遊地點

 

交遊人物/交遊地點

 

交遊人物/交遊地點

 

 

登廣武古戰場懷古  #1

秦鹿奔野草,逐之若飛蓬。

項王氣蓋世,紫電明雙瞳。

呼吸八千人,橫行起江東。

登廣武古戰場懷古#1

(秦滅亡のあと、楚漢の古戦場、開封府の廣武城に登って、いにしえを懐って作ったもの)

秦鹿奔野草,逐之若飛蓬。

むかし、秦は帝位を失い、例えば、鹿が野草の間に奔るが奴とく、そこで、群雄はこれを追うて飛蓬の如く、頻りに相争った。

項王氣蓋世,紫電明雙瞳。

中にも、項羽は、気、世を蓋い、帝王の重瞳は明らかにして、紫電の勢いを示した。

呼吸八千人,橫行起江東。

そして、一呼吸の間に八千人を狩り集め、横行して、江東の地より起った。

 

(廣武の古戰場に登りて懷古)  #1

秦鹿 野草に奔り,之を逐うて飛蓬の若し。

項王 氣 世を蓋い,紫電 雙瞳明らかなり。

呼吸す 八千人,橫行して 江東に起る。

汜水関などの地図 

 

  登廣武古戰塲懷古

水經註「郡國志、滎陽縣武城、城在山上漢所城也。髙祖與項羽臨絶澗對語、

 責羽十罪羽、射漢祖中胸處也。後漢書 註「西征記曰、有三皇山、或謂三室山、山上

 有二城、東者曰東廣武、西者曰西廣武、各在一山頭、其間隔深澗、漢祖與項籍語處」

 元和郡縣志「東廣武、西廣武、二城各在一山頭、相去二百餘歩、在鄭州滎澤縣西二十里、

 漢髙與項羽俱臨廣武而軍、今東城髙壇、即是項羽坐太公上、以示漢軍處。」

 一統志「古戰塲、在開封府廣武山下、即楚漢戰處。」

秦鹿奔野草,逐之若飛蓬。項王氣蓋世,紫電明雙瞳。呼吸八千人,橫行起江東。

赤精斬白帝,叱吒入關中。兩龍不並躍,五緯與天同。楚滅無英圖,漢興有成功。

按劍清八極,歸酣歌大風。伊昔臨廣武,連兵決雌雄。分我一杯羹,太皇乃汝翁。

戰爭有古跡,壁壘層穹。猛虎嘯洞壑,飢鷹鳴秋空。翔雲列曉陣,殺氣赫長虹。 

撥亂屬豪聖,俗儒安可通。沈湎呼豎子,狂言非至公。撫掌黃河曲,嗤嗤阮嗣宗。 

 

史記「蒯通曰秦失其鹿天下共逐之是髙材足者先得焉。」張晏曰「以鹿帝位也。」

項羽垓下歌力山兮氣盖世史記項羽本紀聞項羽亦重瞳子又羽 

本紀籍與江東子弟八千人渡江而西。  漢書待詔夏賀良等言赤精子之

應劭註 髙祖感赤龍而生、自謂赤帝之精。 陳子昻詩復聞赤精子提劍入咸京斬白帝事

擬恨賦 註史記 索隠叱咤發怒聲 通典平王東遷洛邑以岐酆之地賜秦襄公

乃為秦地至孝公作為咸陽築冀闕徙都之、故謂之秦川亦曰中地

中記曰東自函𢎞農郡靈寳縣界西至隴今汧陽郡汧源縣界二関之中謂之

東西千餘里史記漢王之入関五星聚東井東井者秦分也。先至必霸西京賦髙祖之始入也

五緯相汁以旅東井。李善註五緯五星也。宋書英武畧事駕前古髙誘淮南子註八極八方

之極也。 漢髙帝沛歌大風起兮雲飛揚威加海内兮歸故詳見二十卷註項

本紀漢王引兵渡河復取成軍廣武就敖倉食項王巳定東海来西與漢俱臨廣武、而軍相守數

月項王為髙爼置太公其上告漢王曰今不急下吾烹太公漢王曰吾與項羽俱北面受命

懐王曰約為兄弟吾翁即若翁必欲烹而翁則幸分我一杯羹項王怒欲殺之項伯曰天下事未可知

且為天下者不家雖殺之無益祗益禍耳項王從之楚漢相持未决丁壯苦軍

旅老弱罷轉漕項王謂漢王曰天下匈匈數徒以吾兩人耳願與漢王挑戰决雌雄母徒苦

天下之民父子為也漢王笑謝曰吾闘智不能闘力是項王乃即漢王相

與臨廣武間而語漢王數之項王怒欲一戰漢王不聴項王伏弩射中漢王

史記秦楚之際月表撥亂誅暴平定海内卒踐帝阼成漢家淮南子康樂沉湎

髙誘註沉湎酒也韓詩薛君章句夫飲之禮齊顔色均衆寡謂之沉閉門不出謂之湎廣韻嗤笑也

三國志註阮籍字嗣宗魏氏春秋曰籍嘗登廣武觀楚漢戰處乃嘆曰時無英雄使豎子成名嘆

東坡志林昔先友史經臣彦輔謂余阮籍登廣武而 曰時無英雄使豎子成名豈謂沛公豎子乎

予曰非也傷時無劉項也豎子指晋魏間人耳今日讀李白登廣武古戰塲詩沉湎呼豎子狂言

非至公乃知太白亦誤認嗣宗語嗣宗雖放蕩本有志世以魏晋間多故故一放酒何

至以沛公為豎子乎洪容齋曰阮籍登廣武嘆曰時無英雄使豎子成名盖嘆是時無英雄如

昔人者俗士不達以為籍譏漢祖雖李白亦有是言失之矣蕭士贇曰予嘗讀阮籍傳未嘗不羡其

能以佯狂任達全身晋魏之交非孰能與此品量人物之際豈不識漢髙之

人至發廣武之嘆哉因味其言至時之一字而知籍之所謂時無英雄者非指漢髙也

盖謂所遭之時炎劉之末桓靈之君無英雄之材卒使神鼎暗移臣下

豎子者指曹氏父子籍之興嘆者此耳或曰然則太白之詩失言矣曰此非太白之詩也

詩中語意錯亂用事失倫大風之歌能事畢矣詩乃重申廣武之事此詩本意稱述髙祖之

如仗義入縞素代楚軍臨廣武數羽十罪可稱者不少曽無一語及此分羹之語出

時處變之權奚足為髙祖道者可謂無識者矣太白有識者也。

肯作此語乎吾故曰非太白之詩也。琦按阮籍盖習見夫三國之時覆軍殺将亙勝亙敗

而終未能一統以視項羽之一敗而遂不復振相去天淵矣使三國之君而生其世恐漢髙

亦不能以五載而成帝業

此其易也廣武一嘆初無深義自東坡創一説而後之人皆因之蕭氏更謂桓靈無英雄之才

而以豎子指曹氏父子則其説益左夫漢髙固英雄然觀其鴻門之困睢水之敗滎陽之圍廣武

之弩瀕危者數矣而卒不死終以有天下者天命也。豈真筭無遺而天下莫能當者哉且

觀其生平惟以詐術制御羣材好罵侮士漫言負約以阮籍之白眼觀之呼為豎子亦何足異太

白非至公之言亦尊題之法自當如此或兩人所見實

有不同安得訾其誤哉若云詩中語意錯亂則歸酣歌大風以上是泛言楚漢之興廢伊

昔臨廣武以下乃始著題與登金陵冶城西北謝安墩一詩同一機軸條理井然若云用事

失倫在分我盃羹一語追想當時情事良平之儔何賈之伍言語妙天下豈不知此語之繆

第恐卑辭屈節適足以長楚人之燄而堕其計中矯手措足悉為所制不得已而為是悖逆

之辭以見為天下者不家之意非此一語不足折楚人之心捨此一語

無以復楚之命其實太公生死全不在此一言正不必為漢髙諱也仗義入縞素伐楚俱

非軍廣武時事此處何可攙入蕭氏之云云無乃皆贅癡乎叱嗔入聲咤去聲湎音勉嗤

 

《登廣武古戰場懷古》現代語訳と訳註解説
(
本文)
 
登廣武古戰場懷古  #1

秦鹿奔野草,逐之若飛蓬。

項王氣蓋世,紫電明雙瞳。

呼吸八千人,橫行起江東。

 

(下し文)
(廣武の古戰場に登りて懷古)  #1

秦鹿 野草に奔り,之を逐うて飛蓬の若し。

項王 氣 世を蓋い,紫電 雙瞳明らかなり。

呼吸す 八千人,橫行して 江東に起る。

 

(現代語訳)

(秦滅亡のあと、楚漢の古戦場、開封府の廣武城に登って、いにしえを懐って作ったもの)

むかし、秦は帝位を失い、例えば、鹿が野草の間に奔るが奴とく、そこで、群雄はこれを追うて飛蓬の如く、頻りに相争った。

中にも、項羽は、気、世を蓋い、帝王の重瞳は明らかにして、紫電の勢いを示した。

そして、一呼吸の間に八千人を狩り集め、横行して、江東の地より起った。

河南省中南部 陸渾00 

(訳注) 
登廣武古戰場懷古  #1

1. (秦滅亡のあと、楚漢の古戦場、開封府の廣武城に登って、いにしえを懐って作ったもの)

2. 廣武 (河南地図10)都畿道河南府滎陽縣に廣武城がある。城は山上にあり、漢が築いた。劉邦が絶澗に臨んで対語し、劉邦は項羽の十罪を責めた時、項羽の射たやがむねのささり重症をおった。西征記に「三皇山あり、或は三室山という、各々山上に城あり、東に東廣武城、西を西廣武城と云い、この間、絶澗をへだつ、漢祖、項籍と語る處。」とある。 

水經註に「郡國志、滎陽縣に武城あり、城は山上在り、漢の城所ろなり。髙祖、項羽と絶澗に臨んで對語し、羽の十罪を責め、羽、漢祖を射て、胸に中る處なり。」とあり、後漢書の註に「西征記に曰く、三皇山有り、或いは、三室山と謂う、山上に二城有り、東なる者は東廣武と曰い、西なる者は西廣武と曰う、各おの一山頭在り、其の間、深澗を隔つ、漢祖、項籍と語る處なり。」とあり、元和郡縣志に「東廣武、西廣武、二城各の一山頭在り、相い去ること二百餘歩、鄭州滎澤縣西二十里に在り、漢髙、項羽と俱に廣武に臨んで軍す、今、東城髙壇あり、即ち是れ項羽が太公を上に坐せしめ、以て漢軍に示す處。」とあり、一統志に「古戰塲は、開封府廣武山下にり、即ち楚漢の戰いし處。」とある。

項羽は広武を進発し、劉邦も出陣する。両軍は三皇山で対峙する。一騎打ちを臨む項羽に対し、劉邦は智力で勝負すると返す。相対する両者だったが、項羽はまっしぐらに劉邦の首を狙って突っ込んできた。たまらず退却する劉邦だったが、鍾離昧による伏兵により、劉邦は矢を受け重傷を負ってしまう。一方、項羽のもとには、韓信の軍の到着を知らせる使者が。楚兵は韓信の名を聞いて浮足立ってしまう。やむなく項羽は軍を立て直すために引き上げる。

負傷した劉邦だったが、張良らの献策により、痛みをこらえながら陣中を巡行する。項羽は補給路が彭越によって断たれたことから、広武まで引き上げることを決断する。

 

秦鹿奔野草,逐之若飛蓬。

むかし、秦は帝位を失い、例えば、鹿が野草の間に奔るが奴とく、そこで、群雄はこれを追うて飛蓬の如く、頻りに相争った。

3. 秦鹿 秦國の帝位をしめす。鹿を馬といわせた秦の支配が終わったこと。趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れて来た。 胡亥は「丞相はどうかしたのか、これは鹿ではないか」と言ったが、「これは馬です」と趙高が答え、群臣にどう見えるか聞いた。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。史記「蒯通曰秦失其鹿天下共逐之是髙材足者先得焉。」 張晏曰「以鹿帝位也。」

 

項王氣蓋世,紫電明雙瞳。

中にも、項羽は、気、世を蓋い、帝王の重瞳は明らかにして、紫電の勢いを示した。

4. 氣蓋世 項羽の垓下歌「力拔山兮氣蓋世」とあり、項羽は自分がまだ意気盛んだと言っている。項羽垓下歌に「力山兮氣盖世。」とある。

5. 雙瞳 重瞳、項羽本紀「羽もまた重瞳子」とある。重瞳(ちょうどう)とは、一つの眼玉に、瞳が二つある眼のこと。とくに、中国の貴人の身体的特徴として表現されることが多い。たとえば、伝説上の聖王である舜は重瞳だったという。また、資治通鑑などの史書によれば、項羽も重瞳だったという。

明らかな異相であるが、王の権威付けのためか、特に古代中国の王には重瞳にかぎらず、常人とは異なった身体的特徴をしていることが多い。たとえば、文王は四乳といって乳首が四つあったといわれ、禹は三漏といって耳の穴が三つあったという伝承が残っている。史記項羽本紀に「項羽亦重瞳子」とある。

 

呼吸八千人,橫行起江東。

そして、一呼吸の間に八千人を狩り集め、横行して、江東の地より起った。

6. 八千人 項羽本紀「天之亡我。我何渡為。且籍与江東子弟八千人渡江而西。」(天の我を亡す、我何ぞ渡るを為さん。 且つ籍、与に江東の子弟八千人、江を渡りて西す。)

7. 起江東 項 (こう せき、紀元前232 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王”(在位紀元前206 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、次第に劣勢となって敗死した。

姓は項、名は籍、字が羽である。[1]以下、一般に知られている項羽(こうう)の名で記す。項羽は楚の将軍であった項燕の孫であり、項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であった。項羽は両親を早くに亡くしたため叔父の項梁に養われていた。

秦末期、陳勝・呉広の乱が起きると、項羽は項梁に従って会稽郡役所に乗り込み、郡守である殷通をだまし討ちした後に襲いかかってきた殷通の部下数十名を一人で皆殺しにし、会稽の役人たちは項羽の強さに平伏、項梁は会稽郡守となって造反軍に参加した。