201766

の紀頌之5つの校注Blog

10年のBLOGの集大成

   李白総合案内

 

●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

745年-06 【字解集】006 【字解集】 a.寓言三首  b.登廣武古戰場懷古 c.單父東樓秋夜送族弟沈之秦Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8843

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745年-05 【字解集】005 【字解集】 a.留別王司馬嵩 B.商山四皓  C.訪道安陵遇蓋寰為予造真籙臨別留贈 Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8771

孟浩然

李白詩

謝霊運

司馬相如 《子虛賦 ・上林賦》

揚雄 《甘泉賦》

諸葛亮 出師表

曹植詩65

兩都賦序・西都賦・東都賦

李白全詩

漁父辞(屈原

楚辞・九歌》東君

《楚辞九辯》

 

 

 

 

10年のBLOGの集大成

●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-105 先生-巻八-01#24城南聯句 §5 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8844

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745年-05 【字解集】005 【字解集】 a.留別王司馬嵩 B.商山四皓  C.訪道安陵遇蓋寰為予造真籙臨別留贈 Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8772

・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

index-2[800年~804年]27

index-3 805年陽山から江陵36

index-4 806年 39 江陵・国子博士25

index-5 806年39歳(2)25

index-6 807~809年 20

index-7[810年~811年 44歳] 34

index-8 [812年~814年47歳]46

index-9[815年~816年 49歳57

index-10[817年~818年 51歳]「平淮西碑」28

index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

index-12 820 國子祭酒18

index-13 821年~822年 22

index-14 57歳・病気のため退職。没す14

韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

10年のBLOGの集大成

 

 

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

Ⅲ 杜詩

詳注

767年-121七絶 解悶十二首其九(卷一七(四)頁一五一六)七絶 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8857

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767年-集-16 【字解集】  ・i.-別崔因寄薛據孟雲卿  ・j-寄韓諫議 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8804

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

杜甫詩 全詩 総合案内 

●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。

Ⅳブログ詩集

漢・唐・宋詞

花間集 訳注解説 (213)回目張泌 《巻四39 河傳二首其一》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8846 

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花間集 訳注解説 (210)回目張泌 《巻四37 張泌【字解集】 ー1 浣渓沙十首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8828

 

 

 

10年のBLOGの集大成

 

●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始

.唐五代詞詩・女性

・玉臺新詠

玉-巻二21 樂府詩七首 其二苦相篇 豫章行 -#3〔傳玄〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8847

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玉集-014【字解集】  樂府二首 【字解集】詠懷詩二首    Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8806

●薛濤の全詩

●花間集(1

●花間集(2

●花間集(3

●花間集(4

●花間集(5

●魚玄機全詩

●花間集(6

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●花間集10

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745-06 【字解集】006 【字解集】 a.寓言三首  b.登廣武古戰場懷古   c.單父東樓秋夜送族弟沈之秦Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8843

 


 

宮島001102【字解集】 a.寓言三首  

寓言,三首之一

1. (何か託する思いを自分の身世の感を述べた三首の一)

2.  寓言 自己の思いを、具体的実に託し、事実を借りていうこと。

 

周公負斧扆,成王何夔夔。

むかし、周公が政を摂した時、成王はなお幼弱であったから、自ら斧扆を背にして立ち、天下の諸公を明堂に朝せしめ、成王は悚懼していたにすぎなかった。

3. 周公  中国、周の政治家。文王の子。名は旦。兄の武王を助けて殷(いん)を滅ぼし、武王の死後、幼少の成王を助けて王族の反乱を鎮圧。また、洛邑(洛陽)を建設するなど周王室の基礎を固めた。礼楽・制度を定めたといわれる。

4. 斧扆 当時の家屋構造は,後世のように壁による間仕切りがきちっとなされていなかった。〈屛風〉の語が熟するのは漢代からで,それ以前は〈斧扆(ふい)〉〈斧依〉が屛風にあたる。屛風の面に斧文が刺繡されていて,これによりかかるものであったので斧扆と呼ばれた。

5. 成王 周朝の第2代の王。武王の子。「成王」とは諡号ではなく、生前からの称号である。易姓革命後、わずか2年で崩御してしまった父の武王の後を継いで即位する。成王誦は即位した時はまだ幼少であったので、実際の政務は母の邑姜、叔父の周公旦、太公望呂尚、召公奭(燕の開祖)らが後見した。成王が成長すると、自ら政務を執るも、『史記』周本紀によると、若くして崩御したと記されている。

6. 武王 周朝の創始者。殷を滅ぼし、周を立てた。文王の次子。同母兄に伯邑考、同母弟に管叔鮮、周公旦、蔡叔度、霍叔処、康叔封らがいる。父の西伯昌(文王)が死んだあと、呂尚(太公望)や周公旦を左右に父の事業の継承に励んだ。

7. 剪爪 成王が病で何もできないとき、周公旦は自分の爪を切って川に沈めたという事。史記列傳に、「昔周の成王、初めて立つ未だ襁褓を離れず、周公旦、王に負うて以て朝卒し、天下を定む。成王病い有り、甚だ殆きに及び周公旦、自ら其の爪を揃り、以て河に沈む。」と見えることに。基づく。

8. 管蔡、鴟鴞 周の武王が崩御し、子の成王が立ったが、まだ幼かったので、弟の周公旦が国政を代行した。しかし、その弟である管叔と蔡叔らは周公旦を疑い、殷の帝辛(紂王)の子である武庚禄父とともに反乱を起こして成周を攻撃しようとした。そこで周公旦は成王の命により出兵して反乱軍を討ち、首謀者である管叔と武庚禄父を誅殺し、蔡叔を放逐した。

9. 鴟鴞詩 周公旦が親鳥の言葉に託して、我が子を自分の兄弟鴟鴞詩に比し、武庚が弟たちをそそのかし、三監の乱を起こしたことに喩えた。鴟梟・鴟鴞 ① フクロウの異名。  奸悪かんあくな人をたとえていう語。 《詩經國風鴟鴞》「鴟鴞鴟鴞,既取我子,無毀我室!恩斯勤斯,鬻子之閔斯。」のことをいう。

10. 周公旦(しゅうこう たん)は、中国周王朝の政治家。姓は姫、諱は旦。魯の初代の公である伯禽の父。呂尚(太公望)や召公奭と並ぶ、周建国の功臣の一人である。武王の死により、武王の少子(年少の子)の成王が位に就いた。成王は未だ幼少であったため、旦は燕の召公と共に摂政となって建国直後の周を安定させた。

その中で三監の乱(中国語版)が起きた。殷の帝辛の子の武庚(禄父)は旦の三兄の管叔鮮と五弟の蔡叔度、さらに八弟の霍叔処ら三監に監視されていた。だが、霍叔処を除く二人は旦が成王の摂政に就いたのは簒奪の目論見があるのではと思い、武庚を担ぎ上げて乱を起こしたのである。反乱を鎮圧した旦は武庚と同母兄の管叔鮮を誅殺し、同母弟の蔡叔度は流罪、霍叔処は庶人に落とし、蔡叔度の子の仲胡に蔡の家督を継がせた。

その後、7年が経ち成王も成人したので旦は成王に政権を返して臣下の地位に戻った。その後、雒邑(洛陽)を営築し、ここが周の副都となった。

また旦は、礼学の基礎を形作った人物とされ、周代の儀式・儀礼について書かれた『周礼』、『儀礼』を著したとされる。旦の時代から遅れること約500年の春秋時代に儒学を開いた孔子は魯の出身であり、文武両道の旦を理想の聖人と崇め、常に旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかった(吾不復夢見周公)ので「年を取った」と嘆いたという。

「周公」の称号については旦は周の故地である岐山に封じられて周の公(君主)となったのでこう呼ばれるのではないかとの説もある。また、武王が崩御した後に旦は本当は即位して王になっており、その後成王に王位を返したのではないかとの説もある。

寓言,三首之二

11.何か託する思いを自分の身世の感を述べた三首の二:当時後宮に入り、后妃、公主、妃嬪に媚びをとり、爵位、をもとめるものが多かった、それを、比喩を以て謗った。)

12. 搖裔 波の上に浮きつ、沈みつする。遙かにかすけき貌。李白《古風,五十九首之四十二》「搖裔雙白鷗,鳴飛滄江流。」波の上に浮きつ、沈みつする番の白鴎は、滄江の上に飛鳴している。

13. 雙彩鳳 きらびやかに着飾った鳳、佞幸に比すもの。

14. 三青禽 メッセンジャーとして飛び歩くような青い鳥、後宮の中での佞幸に比すもの。

15. 瑤臺裡 玉で飾った美しい御殿。玉のうてな。玉楼。宮掖、後宮に比す。

16. 玉山岑 後宮の中にある庭園のを意味するが、宮掖、後宮に比す。

17. 秦娥 春秋秦穆公女,又称秦娥、秦女、秦王女等。弄玉仙とは、中国春秋時代の秦の女性。簫史(しょうし)という仙人から、鳳凰の声のような簫の吹き方を学び、彼女が簫を吹くと鳳凰が飛来したという。「秦娥」は公主に比している。

18. 王母 西王母(せいおうぼ、さいおうぼ)は、中国で古くから信仰された女仙、女神。后妃に比す。

19. 精衛 李白《來日大難》「思填東海,強銜一木。」だから、自分は、その有り難さに堪えかねて、何とか恩を報じたいと思ったが、どうにも成らない。しかし、心に済まぬ気持ちが残り、かの精衛が木石を銜んで東海に投げ入れたというように、強いて一木を銜んで、この恩に報いたいと思うところである。

《述異記》「昔、炎帝女溺死東海中。化為精衛、其名自呼、常銜西山木石、填東海。」(昔、炎帝の女、東海中に溺死す。化して精衛と為す、其の名を自ら呼び、常に西山の木石を銜んで、東海を填む。)とあるに基づく。

「精衛鳥銜木」は、小臣が区区報国の心を懐き、忠義を尽くし、誠意を尽くしてもそれを知られない、不遇に会うを比す。

寓言,三首之三

20. (何か託する思いを自分の身世の感を述べた三首の二:遼東方面の守りに出たまま帰らない夫を、物に触れに就け思い起こし、心は苦しくなる。)

21. 青門 唐代、長安城東壁には、通化門、春明門、延興門とあり、青門は春明門を示した。漢代には雍錄 青門在漢都城為東面南來第一門、即邵平種瓜之地也。とある。

22. 秦宮 長安の故宮。

23. 簾櫳 すだれと窓であるが、ここから留守婦の閨につばめが出入りすることを指す。謝惠連詩「升月照簾櫳。」 文に櫳は房室の疏なり。

24. 遼城東 遼東の東のあたり。秦、遼西、遼東二郡を置く、遼水の西東に在るに因って名づく。唐時に在って遼西は柳城郡及び北平郡之東境為り。 遼東は安東都護府の地為り。外、奚契丹、室韋、靺鞨、諸夷と相い接す、皆、邊城なり。兵有り之を戍る。

 

 

 

宮島001702【字解集】b.登廣武古戰場懷古  

登廣武古戰場懷古  #1

1. (秦滅亡のあと、楚漢の古戦場、開封府の廣武城に登って、いにしえを懐って作ったもの)

2. 廣武 (河南地図10)都畿道河南府滎陽縣に廣武城がある。城は山上にあり、漢が築いた。劉邦が絶澗に臨んで対語し、劉邦は項羽の十罪を責めた時、項羽の射たやがむねのささり重症をおった。西征記に「三皇山あり、或は三室山という、各々山上に城あり、東に東廣武城、西を西廣武城と云い、この間、絶澗をへだつ、漢祖、項籍と語る處。」とある。 

水經註に「郡國志、滎陽縣に武城あり、城は山上在り、漢の城所ろなり。髙祖、項羽と絶澗に臨んで對語し、羽の十罪を責め、羽、漢祖を射て、胸に中る處なり。」とあり、後漢書の註に「西征記に曰く、三皇山有り、或いは、三室山と謂う、山上に二城有り、東なる者は東廣武と曰い、西なる者は西廣武と曰う、各おの一山頭在り、其の間、深澗を隔つ、漢祖、項籍と語る處なり。」とあり、元和郡縣志に「東廣武、西廣武、二城各の一山頭在り、相い去ること二百餘歩、鄭州滎澤縣西二十里に在り、漢髙、項羽と俱に廣武に臨んで軍す、今、東城髙壇あり、即ち是れ項羽が太公を上に坐せしめ、以て漢軍に示す處。」とあり、一統志に「古戰塲は、開封府廣武山下にり、即ち楚漢の戰いし處。」とある。

項羽は広武を進発し、劉邦も出陣する。両軍は三皇山で対峙する。一騎打ちを臨む項羽に対し、劉邦は智力で勝負すると返す。相対する両者だったが、項羽はまっしぐらに劉邦の首を狙って突っ込んできた。たまらず退却する劉邦だったが、鍾離昧による伏兵により、劉邦は矢を受け重傷を負ってしまう。一方、項羽のもとには、韓信の軍の到着を知らせる使者が。楚兵は韓信の名を聞いて浮足立ってしまう。やむなく項羽は軍を立て直すために引き上げる。

負傷した劉邦だったが、張良らの献策により、痛みをこらえながら陣中を巡行する。項羽は補給路が彭越によって断たれたことから、広武まで引き上げることを決断する。

3. 秦鹿 秦國の帝位をしめす。鹿を馬といわせた秦の支配が終わったこと。趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れて来た。 胡亥は「丞相はどうかしたのか、これは鹿ではないか」と言ったが、「これは馬です」と趙高が答え、群臣にどう見えるか聞いた。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。史記「蒯通曰秦失其鹿天下共逐之是髙材足者先得焉。」 張晏曰「以鹿帝位也。」

4. 氣蓋世 項羽の垓下歌「力拔山兮氣蓋世」とあり、項羽は自分がまだ意気盛んだと言っている。項羽垓下歌に「力山兮氣盖世。」とある。

5. 雙瞳 重瞳、項羽本紀「羽もまた重瞳子」とある。重瞳(ちょうどう)とは、一つの眼玉に、瞳が二つある眼のこと。とくに、中国の貴人の身体的特徴として表現されることが多い。たとえば、伝説上の聖王である舜は重瞳だったという。また、資治通鑑などの史書によれば、項羽も重瞳だったという。

明らかな異相であるが、王の権威付けのためか、特に古代中国の王には重瞳にかぎらず、常人とは異なった身体的特徴をしていることが多い。たとえば、文王は四乳といって乳首が四つあったといわれ、禹は三漏といって耳の穴が三つあったという伝承が残っている。史記項羽本紀に「項羽亦重瞳子」とある。

 6. 八千人 項羽本紀「天之亡我。我何渡為。且籍与江東子弟八千人渡江而西。」(天の我を亡す、我何ぞ渡るを為さん。 且つ籍、与に江東の子弟八千人、江を渡りて西す。)

7. 起江東 項 (こう せき、紀元前232 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王”(在位紀元前206 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、次第に劣勢となって敗死した。

姓は項、名は籍、字が羽である。[1]以下、一般に知られている項羽(こうう)の名で記す。項羽は楚の将軍であった項燕の孫であり、項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であった。項羽は両親を早くに亡くしたため叔父の項梁に養われていた。

秦末期、陳勝・呉広の乱が起きると、項羽は項梁に従って会稽郡役所に乗り込み、郡守である殷通をだまし討ちした後に襲いかかってきた殷通の部下数十名を一人で皆殺しにし、会稽の役人たちは項羽の強さに平伏、項梁は会稽郡守となって造反軍に参加した。

8. 赤精 高祖劉邦は、赤龍に感じて生まれる。自ら赤精という。《漢書‧哀帝紀》: 待詔夏賀良等言赤精子之讖。” 顏師古注引應劭して曰く: “ 高祖感赤龍而生, 自謂赤帝之精。

9. 斬白帝 白帝の子が赤帝の子に斬られて、乏しい人がその理由を高祖にはなすと、高祖が喜んだ。それより先に、劉邦が自分で大蛇を斬り殺している。「白帝の子が赤帝の子に斬られて」と言われた。劉邦は自分が赤帝の子だと思っているから、五行説から、赤が黒を征服し、黄が赤を征服する。劉邦が喜んだのは、「赤が黒を征服し」の方だ。秦の色は黒だから、秦の旗の色は黒。だから、劉邦はこの言葉を聞いて、秦を征服するのは自分だと確信して喜んだ。劉邦軍の旗の色は赤。漢の色は赤、火の徳を持つとされる。漢のから政権を奪った魏の色は黄、土の徳を持つとされる。

10. 叱吒 【叱咤】 怒気をあらわして大声でしかること。しかりつけること。 しっ‐せき【叱責】 しかりせめること。

11. 關中 函谷関の西側の地域を指す。現在の中国陝西省渭水盆地の西安を中心とした一帯である。春秋戦国時代の秦の領地であり、その後の前漢や唐もこの地に首都を置いた。

12. 五緯 五星のこと。張平子(張衡)《西京賦》「自我高祖之始入也,五緯相汁以旅於東井。」(我が高祖の始めて入りし自り,五緯【ごい】相い汁【あ】いて以て于東井【とうせい】に旅【つらな】る。(帝都の計画) 我が高祖が始めて雍の地に入られると、この地を五つの星の配列に相い応じて東井の星座のようにならべる。

張平子(張衡)《西京賦》(8)(帝都の計画)#3-1 文選 賦<114―(8)>31分割68回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1045 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3773

13. 八極 八方と同じ、ここでは天下。李白は江陵で当時の道教教団、最高指導者の司馬承禎(しばしょうてい)と会っている。司馬承禎は玄宗皇帝から幾度も宮中に召され、法籙(ほうろく・道教の免許)を授けるほどに信頼された人物だ。司馬承禎は南岳衡山(こうざん)での祭儀に参加するため湖南に行く途中で、江陵にさしかかったのだった。すでに高齢に達していた司馬承禎に李白は詩を呈し、道教について教えを乞うた。司馬承禎が李白を「仙風道骨あり、神とともに八極の表に遊ぶべし」と褒めた。

14. 大風 高祖 大風歌「大風起兮雲飛揚云云」とある。

15. 分我一杯羹 項羽本紀「項羽はすでに東海地方を平定して西にむかい、広武山に臨んで漢と相 対して陣をしいた。たがいに守備して対峙すること数ヵ月であった。 このときにあたって、彭越はしばしば梁の地で反抗し、楚の糧食を絶 った。項羽はこれを憂慮し、高い俎板をつくって太公をその上に磔にし、 漢王劉邦に告げた。「いま、早急に降服しなければ、太公を烹殺してしまうぞ」漢王劉邦は言った。「わしは項羽とともに北面して懐王の命を受けたが、そのとき『兄弟 となることを約束しよう』と言った。 してみれば、わが父はすなわちおまえの父だ。どうしてもおまえの父を烹殺すというのなら、ぜひ、 わしにも一杯の羹をくれ」項羽は怒って、本当に太公を殺そうとした。項伯が言った。「天下がどう定まるかは、まだわかりません。かつまた、天下を取ろうとするものは、家族のことなどかえりみません。太公を殺しても益 はなく、かえってむだに漢王を怒らせて、当方の禍を増すにすぎませ ん」項羽はこの意見にしたがった。楚と漢は相対峙してなかなか決戦しなかった。若者は兵役に苦しみ、老弱は陸上・水上の輸送に疲れはてた。項羽が漢王劉邦に言った。「天下は匈々としてさわぎ乱れること数年になるが、それは、ただわれら両人のためだ。ひとつ、挑戦して雌雄を決しようではないか。いたずらに天下の民の父子を苦しめるようなことはやめよう」漢王劉邦は笑ってことわって言った。「わしは、むしろ智でたたかうのであって、力ではたたかわ ない」劉邦は項羽を責めて言った。

16. 沈湎 しずみおぼれること。特に、酒色にふけってすさんだ生活を送ること。魏の末期に、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置くため、大酒を飲み清談を行ない、礼教を無視した行動をした阮籍のことを言う。

17. 呼豎子 「豎子」=「孺子」は、漢高祖の謀臣、張良(子房)のことを指す。張良は亡命中に、黄石公という老人が橋の下に落とした履を拾いに行かされて、「はいはい」と拾いに行った。その外柔らかにして内剛なる性質を知った黄老人は「孺子、可教。」(孺子、教うべし。)小僧、どうやら教えてやる甲斐がありそうじゃな。と言って、その後少し紆余曲折があった後に、張良に自らの用兵の術を教えた。

阮籍は竹林の七賢の筆頭扱いの阮籍である。白眼視や嗜酒、能嘯で名高いが、彼は時に自ら車を駆り、道窮まって泣いたといい、暢ばすことのできぬ志があったひとであったのである。廣武城に登り、劉邦と項羽の楚漢の戦いの跡を見渡したとき、「時無英雄、使豎子成名。」(時に英雄無く、豎子をして名を成さしむ。)そのときには英雄というべき者がいなかったのだ、だから小僧っ子に名声を成さしめてしまったのだ。と嘆じたという。(晋書巻49「阮籍等伝」)

 18. 阮嗣宗 阮籍(げん せき、210年(建安15年) - 263年(景元4年))は、中国三国時代の人物。字(あざな)を嗣宗、兗州陳留郡尉氏の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は建安七子の一人である阮瑀。甥の阮咸も竹林の七賢の一人である。子は阮渾。兄は阮煕。魏の末期に、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置くため、大酒を飲み清談を行ない、礼教を無視した行動をしたと言われている。俗物が来ると白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対した。

 

 

 

宮島五重塔 0102【字解集】 c.單父東樓秋夜送族弟沈之秦

單父東樓秋夜送族弟沈之秦 
1. (単父の東楼に秋夜 同族の弟 沈の秦に行くのを送る。) 

2. 單父は河南道 宋州脽陽郡 單父縣に属した。李白が開封とともに比較的永くいたのが単父である。ここは兗州から西南二百支里で、家族の住居とも近かったからたびたび往来したと考へられる。県の主簿の任にあった李凝、その弟らしい李沈(リシン)の二人との交際によって、事実しばらく滞在していたのである。

3. 族弟は從弟であり、名は「沈」、穆本には「況」である。

4. 秦は長安、一本には、西京に作ってある。秋の夜、單父の東の城楼に登り、そこで従弟李沈の長安に赴くを送って作ったものである。

【時凝弟在席】 

5.【この時、弟凝もその席に在った。】
6.
 咸陽 長安。

7. 沐猴(もっこう)史記・項羽本紀「沐猴而冠」、猿が冠をかぶっているということより心の賤しいつまらない者が外見を飾る、あるいは、高官となること。記、説者曰人言、楚人は沐猴して冠するのみ。 張晏曰く沐猴は獮猴なり。漢書に蓼太子、以為らくは漢廷の公卿列侯、皆、沐猴/して冠するが如きのみ。其れ衣冠を著すると雖も、但だ、人形に似て、他の才能無きを言うなり。

8. 土牛 猿である上に土の牛にのっているからのろのろとして。猴、騎土牛又何遲也。是周泰答鍾繇語詳見十二巻

9. 坐來 そぞろに来てしまった
10. 坐來 そぞろに来てしまった

11. 糸桐 琴。王粲詩 「絲桐感人情、為我發悲音。」とあるに基づく。

12.  主要な座敷。奥座敷。

13. 清興來:疑是山陰夜中雪 晋の風流人、王徽之が見てたちまち友人戴逵を懐った山陰の夜の夜中の雪かと、月光を見ておもう。晋の王徽之(未詳―388) 中国、東晋(しん)の人。字(あざな)は子猷。王羲之(おうぎし)の第五子。官は黄門侍郎に至る。会稽の山陰に隠居し、風流を好み、特に竹を愛した。世説、「王子猷、山隂に居る。夜大雪、眠覺、開室、命酌酒、四望皎然。」とある。

14. 惆悵((ちゅうちょう)かなしくうらめし。

15. 清路塵 聖人の道を歩いてきた一粒の塵のような存在。曺植《七哀詩》「君若清路塵 妾若濁水泥。」(君は 清路の塵の若く 妾は 濁水の泥の若し。)

16. 宮闕 宮廷。宮廷の遠望台を言うのであるがここで李白は朝廷を強調して表現している。

17. 九天 宇宙を九分割する、地上も空も。

18. 屈平 洞庭湖畔に追放された屈原。中国、戦国時代の楚(そ)の政治家・詩人。名は平。原は字(あざな)。楚の王族に生まれ、懐王に仕え内政・外交に活躍したが、汨羅(べきら)に身を投じたという。楚辭屈原既放游於江潭行吟澤畔顔色憔悴。

19. 亭伯 後漢の崔駰、字は亭伯、楽浪郡の官に左遷された。後漢書「崔駰、字は亭伯、竇憲の主簿と為り、前後奏記數十、長短を切指す。憲、容るる能わず、稍や之を疎んず。因って駰の髙第を察し、出して長岑の長と為す。 駰、自らくに去り、意を得ざるを以て遂に官に之かずして歸る。」とある。章懐太子の註に、長岑は縣、樂浪郡に屬し、其の地は、遼東に在る。

20.  羽のもと、羽のくき。

21. 転蓬 風に吹かれて飛ぶよもぎ。

文選曹植《雜詩六首其二
轉蓬離本根,飄颻長隨風。何意回飆舉,吹我入雲中。
高高上無極,天路安可窮。類此遊客子,捐軀遠從戎。
毛褐不掩形,薇藿常不充。去去莫復道,沈憂令人老。

曹植詩 「轉蓬本根を離れ、飄颻として長風に隨う。何ぞ意わん 迴颷舉り、我を吹いて雲中に入れんとは。 髙髙として上りて極り無く、天路 安んぞ窮む可けんや。類たり此の遊客の子,軀を捐てて遠く戎に從う。

毛褐 形を掩わず,薇藿【びかく】常に充たざるに。去り去りて復た道う莫れ,沈憂 人をして老わしむ。戎

雜詩六首其二 曹植 魏詩<19>古詩源 巻三 女性詩645 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1797

22. 聞弦虚墜 つる音をきいてあたりもしないのに落ちて来る。聞弦虚墜用、戰國に「更に嬴、弓を引き虚しく發して鳥を下さむ。」

23. 青云士 学徳高き賢人。 

24. 張長公 漢の張摯、字は長公、官吏となったが、世間と合はないとてやめられたのち終身仕へなかった。漢の張釈之の子。大獵賦 註 史記張釋之傳に「其の子を張摯と曰う、字は長公、官、大夫に至り、免ず、容を當世に取る能わざる以って、故に終身仕えず。」

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