秋夜板橋浦泛月獨酌懷謝朓 #1 校注(卷二二〔二〕一三〇二)、卷181-32(天上何所有,) 李白詩749-12 紀頌之Blog12057

 

 

秋夜板橋浦泛月獨酌懷謝

朝代:唐代

作者:李白

#1

天上何所有,迢迢白玉繩。
斜低建章闕,耿耿對金陵。
漢水舊如練,霜江夜清澄。

#2
長川瀉落月,洲渚曉寒凝。
獨酌板橋浦,古人誰可徵。
玄暉難再得,灑酒氣填膺。

 

 (秋夜,板橋浦,月に泛んで獨酌し、謝脁を懷う。)

天上 何の有る所,迢迢たり 白玉繩。
斜に建章の闕のに低れ,耿耿として 金陵に對す。
漢水 舊と練の如し,霜江 夜 清澄たり。
長川 落月を瀉し,洲渚 曉寒 凝る。
獨り酌む 板橋浦,古人 誰か徵す可き。
玄暉 再び得びがたし,酒を灑いで 氣 膺を填む。

 

  秋夜板橋浦汎月獨酌懐謝眺            王琦註

 《水經註》江水經三山又湘浦出焉水上南北結浮橋渡水故曰板橋浦

 《太平寰宇記》板橋浦在昇州江寜縣南四十里五尺源出觀山三十七里注大江

 謝𤣥暉之《宣城出新林浦向板橋詩》云、江路西南永歸流東北鶩天際識歸舟雲中辨江樹

天上何所有,迢迢白玉繩。

斜低建章闕,耿耿對金陵。

漢水舊如練,霜江夜清澄。

長川瀉落月,洲渚曉寒凝。

獨酌板橋浦,古人誰可徵。

玄暉難再得,灑酒氣填膺。

謝眺詩 玉䋲低建章。 李善註 春秋元命苞曰玉衡北兩星為玉䋲星。 

宋書永光元年以石頭城為長樂宫以北邸為建章宫

齊書、謝眺字𤣥暉陳郡陽夏人少好學有美名文章清麗江淹恨賦置酒欲

飲悲來填膺。李善註填滿也。

 

 

《秋夜板橋浦泛月獨酌懷謝》 譯文及註釋

秋夜 (1) 板橋浦泛月獨酌懷 (2) 謝脁

天上何所有,迢迢白(3)玉繩
斜低 (4) 建章闕,耿耿對金陵。
漢水舊如練,霜江夜清澄。
長川瀉落月,洲渚曉寒凝。
獨酌板橋浦,古人誰可徵。
(5)玄暉難再得,灑酒氣 (6) 填膺

 

読み下し文

(秋夜、板橋浦、月に泛んで獨酌し、謝脁を懷う。)

天上 何の有る所,迢迢たり 白玉繩。 
斜に建章の闕に低れ,耿耿として 金陵に對す。 
漢水 舊と練の如し,霜江 夜 清澄たり。 
長川 落月を瀉し,洲渚 曉寒 凝る。 
獨り酌む 板橋浦,古人 誰か徵す可き。 
玄暉 再び得がたし,酒を灑いで 氣 膺【むね】を填【うづ】む。

 

詩意

(秋の夜長、金陵の近くの板橋浦に船を泛べ、月に対して独酌しつつ、かねてより推服している謝朓のゆかりの地であり、それを胸に思い作った詩である。)

天井には何かあるというところであり、北斗の玉繩の星が迢迢として白く輝いている。

そしてその星たちは、建章宮の上の斜めに低く垂れている、そして、耿耿として金陵の山々に対して続いている。

漢水は、“元の練の如し”と言われたぐらいに流れているが、まして、長江の水は極めて冷ややかに、夜色は澄み切っている。

長川はまさに落月に瀉いでいるようだし、河岸の渚、中洲の渚が断続的に連なる間に、曉寒が凝って白靄が川面に広がる。

船を泛べる板橋蒲に、こうして独酌への興も上がってくれば、古くから詩人のだれを徵すべきであろうか。

そうなれば、この地の風景を詠っている謝玄暉は再び得難い詩人であり、酒を灌げば、恨気はこの胸を填ばかりである。

 

 

訳注解説

秋夜 (1) 板橋浦泛月獨酌懷 (2) 謝脁

(秋の夜長、金陵の近くの板橋浦に船を泛べ、月に対して独酌しつつ、かねてより推服している謝朓のゆかりの地であり、その遺跡を目にすれば、それを胸に思い作った詩である。)

作者:李白
(1) 板橋浦:王琦の解説、・《水經註》に「江水、三山を經、又た湘浦に出づ。水上南北、浮橋を結んで水を渡す。故に板橋浦と曰う」とある。

  ・《太平寰宇記》には、「板橋浦は、昇州江縣の南四十里に在り、五尺源は、觀山を出でて、三十七里、大江に注ぐ。」とある。

謝𤣥暉之《宣城出新林浦向板橋詩》に云う、「江路西南永、歸流東北鶩、天際識歸舟、雲中辨江樹。」

・昇州江縣:建康、金陵、南京のことで、隋代には江寧県、唐代には金陵県、白下県、上元県と改称されている。隋唐代には新たに開削された大運河により、長江対岸の揚州が物資の集積地となり、この地域の中心地としての地位を奪われた恰好となり、往時の都としての繁栄は見られなくなった。唐崩壊後の五代十国時代には、南唐の都城である金陵府が置かれ、後に改名されて西都と称する。三国時代になると呉の孫権が229年に石頭城という要塞を築いて建業と称してこの地に都を置いた。西晋にて一旦、建業とされた後に司馬鄴(愍帝)を避諱して建康と改められ、東晋及びその後の四王朝(宋、斉、梁、陳)の都となった。呉を含めた六国が全て同じ地に都を置いたことから六朝時代の名がある。

【意構成】起首四句は、玉縄の星を写す板橋浦の夜更けの風情を詠じ、中四句は、金陵付近の江上の風景を詠う。下四句は、謝朓を思って追慕の念を詠う。

天上何所有  迢迢白玉
斜低建章闕  耿耿對金
漢水舊如練  霜江夜清
長川瀉落月  洲渚曉寒
獨酌板橋浦  古人誰可
玄暉難再得  灑酒氣填

  
  
  
  
  
  

 

(2)   謝𤣥暉之《宣城出新林浦向板橋詩》云、「江路西南永歸流東北鶩天際識歸舟雲中辨江樹

六朝時代の斉の詩人。字は玄暉(げんき)。陽夏(河南省)の人。早くから文才をうたわれ,明帝のとき宣城太守となった。それによって謝宣城とも呼ばれる。のち斉末の勢力争いに巻き込まれて獄死した。沈約らとともに,武帝の永明年間に竟陵王(きょうりょうおう)蕭子良の客となり,いわゆる「永明体」の詩風をつくった「竟陵八友」の第一人者。形式美の追求と繊細清新な着想と表現を示し,特に叙景詩に優れ,その巧みな対句はのちに唐代の近体詩成立に影響を与えた。唐の杜甫,李白からも大いに推重され,一族の謝霊運,謝恵連とともに「三謝」と呼ばれる。『謝宣城集』(5巻)が現存する。

 

天上何所有,迢迢白(3)玉繩。

天井には何かあるというところであり、北斗の玉繩の星が迢迢として白く輝いている。

迢迢」の意味は遠くへだたるさまのこと。《文選.古詩十九首其十.迢迢牽牛星》:「迢迢牽牛星,皎皎河漢女。」

 

斜低 (4) 建章闕,耿耿對金陵
そしてその星たちは、建章宮の上の斜めに低く垂れている、そして、耿耿として金陵の山々に対して続いている。

(4) 建章闕:宋書に、「永光元年、石頭城を以って長樂と為し、北邸って建章宫。」とある。

・耿耿:1 光が明るく輝くさま。「洋 灯(ランプ)が―と輝いて居る」〈独歩・忘れえぬ人々〉2 気にかかることがあって、心が 安らかでないさま。

・金陵: 長江(揚子江)の河口近く、江蘇省の平野部の中心に位置する重要な都市。中国史上、何度か都とされ、その名も変わった。戦国時代の楚国に金陵邑に始まるとされ、金陵は今でも南京の古名および雅名とされている。三国時代の呉が都として建業といわれ、南北朝時代には東晋が都として建康と改名され、宋→斉→梁→陳の南朝の都となり、六朝文化が栄えた。隋は陳を滅ぼすと建康の都城を破壊、地名も江寧と改めた。唐以降は都ではなくなり、隣の揚州(江都)に繁栄を奪われたが、五代十国でこの地を都とする王朝(呉、南唐)が現れ、宋から元にかけても金陵府・江寧府・建康府と改称されたが、江南地方の中心として繁栄をとりもどした。元末の紅巾の乱のさなか、朱元璋は1356年にこの地を拠点として自立、応天府と名付けた。1368年に即位して明を建国、この地に大都城を築いて京師と称し都とした。1421年に永楽帝が北京に遷都してからはその副都となり、それ以降はこの地は南京と言われるようになる。以上、金陵→建業→建康→江寧→南京という地名に変化した。

 

漢水舊如練,霜江夜清澄。

漢水は、“元の練の如し”と言われたぐらいに流れているが、まして、長江の水は極めて冷ややかに、夜色は澄み切っている。

・漢水:漢江(かんこう)または漢水(かんすい)は、長江の最大の支流である。延長は1,532km、流域の面積は17.43km2。をいうものであるが、李白は、板橋蒲に浮かべての表現であるから長江のことを言う。