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李白集校注 訳注解説ブログ 750-1 《古風,五十九首之一 【巻二(一)九一・大雅】》 漢文委員会  Blog11000

 

 

李白の思想哲學を考察する上で、最も基礎的な文献として指摘・言及される作品は古風五十九首である。

修僻技法の側面とりわけ、隠喩やその延長線上にある諷喩においても、大きな成果をあげているものと考えられ、その表現手法そのものが、李白の発想上の特色なのである。

を明らかにする手掛りになるように思われるのである。

この李白を理解するためには、彼の代表的な連作である古風五十九首を一首づつ丁寧に読んでいく必要がある。この作品群に対する彼の作詩態度を探っていって、その後に、時系列に他の作品を読んでいくことが大切なのである。李白を理解する、早道であり、基本的な学習法である。一千首前後有り、長詩もあるので、毎日8句~10句程度で進める。できる事なら、それを数回繰り返して読み、螺旋階段を上るように理解が高められるということなのである。

  

750

天寶九年

 

 

1. 古風,五十九首之一【巻二(一)九一・大雅】#1 

 

李白集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ11000

 

 


 750
年天寶九年50歳 春、梁苑から穎陽で元丹邱と嵩山に行く、襄陽で半年、秋、南陽で年越 の間の作品は次のとおりである。 

1

古風,五十九首之一   【巻二(一)九一・大雅】

大雅久不作,

2

古風,五十九首之三十五   【巻七(一)五二三】

醜女來效顰,

3

僧伽歌   【巻二(一)一五六・醜女】

真僧法號號僧伽,

4

贈丹陽橫山周處士惟長   【巻九(一)六〇八】

周子橫山隱,

5

雪讒詩贈友人   【巻九(一)六三二】

嗟予沈迷,

6

留別金陵諸公   【巻一五(一)九二六】

海水昔飛動,

7

金陵白下亭留別   【巻一五(一)九三〇】

驛亭三楊樹,

8

別東林寺僧   【巻一五(一)九三〇】

東林送客處,

9

送別   【巻一七(二)一〇二二】

潯陽五溪水,

10

潯陽送弟昌峒鄱陽司馬作  【巻一八(二)一〇六〇】

桑落洲渚連,

11

登黃山凌歊臺,送族弟溧陽尉濟充泛舟赴華陰【巻一八(二)一〇八六】

鸞乃鳳之族,

12

日夕山中忽然有懷  【巻二三(二)一三四六】

久臥青山雲,

13

廬山東林寺夜懷   【巻二三(二)一三四九】

我尋青蓮宇,

14

秋日與張少府楚城韋公藏書高齋作 【巻二三(二)一三五六】

日下空庭暮,

15

感遇,四首之一   【巻二四(二)一三九五】

吾愛王子晉,

16

尋陽紫極宮感秋作   【巻二四(二)一四〇〇】

何處聞秋聲,

17

題嵩山逸人元丹丘山居  【巻二五(二)一四四五】并序:白久在廬霍,元公近遊嵩山,故交深情,出處無間。巖信頻及,許為主人,欣然適會本意,當冀長往不返,欲便舉家就之,兼書共遊,因有此贈

家本紫雲山,

18

尋高鳳石門山中元丹丘 【卷二三(二)一三二六】

尋幽無前期

19

秋日鍊藥院鑷白髮贈元 【卷十(一)六六五】

木落識

20

憶舊遊寄譙郡元參軍 【卷十三(一)八四四】

憶昔洛陽董糟

21

冬夜醉宿龍門覺起言 【卷二三(二)一三三六】

醉來寶劍

22

江上寄元六林宗【卷四(一)八七九】

霜落江始寒

23

酬談少府 【卷十九(二)一○九一】

一尉居倏忽

24

崇明寺佛頂尊勝陀尼幢頌并序 【卷二八(二)一六○八】

共工不觸山

 

 

古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集したのである。宋本は通計五十九篇であり、おおむねこの本をテキストとして進める。

 

 

 

古風五十九首之一  #1

(詩、文学への思いを古の『詩経』の歌のように詠う)の一

大雅久不作,吾衰竟誰陳。

詩経の大雅のような堂々として荘重な詩風が、長い間作られなくなった。わたくしのやろうという気持ちが衰退したら、いったい誰がそれを復活して陳べてくれるだろうか。

王風委蔓草,戰國多荊榛。

諸侯の国の民話である「王風」の詩は草のはびこる中にすてられるに任せている、戦国の世の詩、文学は、イバラとハシバミが代表するような雑草・雑木林ばかりになってしまった。

龍虎相啖食,兵戈逮狂秦。」

それは竜と虎とが食いあうように戦国諸侯はあらそい、戦争はながくつづいて、天下は統一されたものの、狂暴な秦国の「焚書坑儒」の思想弾圧事件に及んでしまった。

正聲何微茫,哀怨起騷人。

「詩経、大雅」の系統で正しい歌声で詠った屈原のような人はわずかいるかの状態となり、哀しみと怨みにより「楚辞」を著し、騒人を生み出した。

揚馬激波,開流蕩無垠。」

揚雄と司馬相如は、屈原の流を汲む者として崩れゆく波をかき立てようと努力したが、いったん開いた流れは、取り留めなく広がって、行き着くところを知らない。」
廢興雖萬變,憲章亦已淪。

その後、すたれたり、復興したりがあって千変万化したのだけれど、正しい詩法はすっかり文学の世界から沈んでしまったのだ。

自從建安來,綺麗不足珍。』

それ以降、建安文学の時代に至ったのであるが、ただ綺麗な文、清談といわれる詩を作るだけで、新しく珍しく良いものは見ることはできない。

 

大雅久しく作【おこ】らず、吾れ衰えなば竟【つい】に誰か陳【の】べん。

王風 蔓草【まんそう】に委【い】し、戦国 荊榛【けいしん】多し。

龍虎 相い啖食【たんしょく】し、兵戈 狂秦【きょうしん】に逮【およ】ぶ。」

正声 何ぞ微茫たる、哀怨 騒人より起こる。

揚馬【ようば】頽波【たいは】を激し、流れを開き 蕩として垠【ぎん】無し。」

廃興 万変すと雖も、憲章 亦た已に淪【ほろ】ぶ。

建安より来【こ】のかたは、綺麗にして珍とするに足らず。』

 

#2

聖代復元古,垂衣貴清真。群才屬休明,乘運共躍鱗。

文質相炳煥,眾星羅秋旻。」

我志在刪述,垂輝映千春。希聖如有立,筆於獲麟。」

 

聖代 元古に復し、衣を垂れて清真を貴ぶ。

群才 休明に属し、運に乗じて共に鱗を躍【おど】らす。

文質 相い炳煥【へいかん】し、衆星 秋旻【しゅうびん】に羅【つら】なる。」

我が志は刪述【さんじゅつ】に在り、輝を垂れて千春を映【てら】さん。

聖を希【こいねが】いて如【も】し立つ有らば、筆を獲麟【かくりん】に絶たん。』

 

 

『古風、五十九首其一』 現代語訳と訳註解説

(本文)

古風,五十九首之一  #1

大雅久不作,吾衰竟誰陳。王風委蔓草,戰國多荊榛。

龍虎相啖食,兵戈逮狂秦。」

正聲何微茫,哀怨起騷人。揚馬激波,開流蕩無垠。」

廢興雖萬變,憲章亦已淪。自從建安來,綺麗不足珍。』

 

(下し文)

王風 蔓草【まんそう】に委【い】し、戦国 荊榛【けいしん】多し。

龍虎 相い啖食【たんしょく】し、兵戈 狂秦【きょうしん】に逮【およ】ぶ。」

正声 何ぞ微茫たる、哀怨 騒人より起こる。

揚馬【ようば】頽波【たいは】を激し、流れを開き 蕩として垠【ぎん】無し。」

廃興 万変すと雖も、憲章 亦た已に淪【ほろ】ぶ。

建安より来【こ】のかたは、綺麗にして珍とするに足らず。』

 

(現代語訳)

(詩、文学への思いを古の『詩経』の歌のように詠う)

詩経の大雅のような堂々として荘重な詩風が、長い間作られなくなった。わたくしのやろうという気持ちが衰退したら、いったい誰がそれを復活して陳べてくれるだろうか。

諸侯の国の民話である「王風」の詩は草のはびこる中にすてられるに任せている、戦国の世の詩、文学は、イバラとハシバミが代表するような雑草・雑木林ばかりになってしまった。

それは竜と虎とが食いあうように戦国諸侯はあらそい、戦争はながくつづいて、天下は統一されたものの、狂暴な秦国の「焚書坑儒」の思想弾圧事件に及んでしまった。

「詩経、大雅」の系統で正しい歌声で詠った屈原のような人はわずかいるかの状態となり、哀しみと怨みにより「楚辞」を著し、騒人を生み出した。

揚雄と司馬相如は、屈原の流を汲む者として崩れゆく波をかき立てようと努力したが、いったん開いた流れは、取り留めなく広がって、行き着くところを知らない。」
その後、すたれたり、復興したりがあって千変万化したのだけれど、正しい詩法はすっかり文学の世界から沈んでしまったのだ。

それ以降、建安文学の時代に至ったのであるが、ただ綺麗な文、清談といわれる詩を作るだけで、新しく珍しく良いものは見ることはできない。

 

(訳注解説)

古風五十九首之一  #1

(詩、文学への思いを古の『詩経』の歌のように詠う)の一

 

大雅久不作。 吾衰竟誰陳。 

詩経の大雅のような堂々として荘重な詩風が、長い間作られなくなった。わたくしのやろうという気持ちが衰退したら、いったい誰がそれを復活して陳べてくれるだろうか。

大雅 「詩経」の分類の一種で、周の王室に関することを詠じたものが多く、詩経中もっとも堂々として荘重な作が集められている。

 「禮記」王制篇に、古は天子が大師(楽官の長)に命じ、詩を陳ねしめて以て民間の風俗を観た、と有る。陳は陳述である。 

 

王風委蔓草、戰國多荊榛。 

諸侯の国の民話である「王風」の詩は草のはびこる中にすてられるに任せている、戦国の世の詩、文学は、イバラとハシバミが代表するような雑草・雑木林ばかりになってしまった。

王風 詩経の国風篇巻の六。周の都が東方の洛邑(今の河南洛陽)に遷都により、王室の尊厳が衰えたので、王城畿内の歌話を諸侯の国の民話(即ち国風)と同等に取扱って之を王風と日った。

 棄置である。蔓草の叢生、はびこるにまかせる。・

戦国 紀元前5~前3世紀までの秦・楚・燕・斉・韓・超・魏の七国が争った時代。周は洛邑(王城・成周)周辺を支配する小国となり、往時と比するべくもない程まで没落した。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(春秋五覇)。そのわずかな権威も戦国時代に入ると完全に無くなり、各諸侯がそれぞれ「王」を称するようになった。その小さな王朝の中でも権力争いは続いており、東西に分裂したり、何度となく王が殺されることが起きた。

荊榛 雑木雑草。イバラとハシバミ。また、それらが茂る雑木林のこと。「

 

龍虎相啖食、兵戈逮狂秦。

それは竜と虎とが食いあうように戦国諸侯はあらそい、戦争はながくつづいて、天下は統一されたものの、狂暴な秦国の「焚書坑儒」の思想弾圧事件に及んでしまった。

兵戈 武器。戦争。 

 及ぶ。とどく。 

狂秦 狂暴な秦。秦王朝が統治していた時代に発生した「焚書坑儒」の思想弾圧事件。

 

正聲何微茫、哀怨起騷人。 

「詩経、大雅」の系統で正しい歌声で詠った屈原のような人はわずかいるかの状態となり、哀しみと怨みにより「楚辞」を著し、騒人を生み出した。

正聲 詩経、特に大雅の系統を意味する。

騒人 「離騒」の作者である屈原(前三世紀)をはじめ「楚辞」をあらわし、悲憤條慨の詩を作った一派の詩人たち、それ以来悲憤憤慨の人をたくさん作りだしたことをいう。

 

揚馬激波、開流蕩無垠。」 

揚雄と司馬相如は、屈原の流を汲む者として崩れゆく波をかき立てようと努力したが、いったん開いた流れは、取り留めなく広がって、行き着くところを知らない。」

揚馬 前一、二世紀の漢の時代に出た文人で、漢の揚雄と司馬相如。漢代の賦の代表的作家。屈原の流を汲む者。 

揚雄 《甘泉賦 序》 全26回文選  詩<107李白に影響を与えた詩854 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2818

 揚雄(よう ゆう、紀元前53年(宣帝の甘露元年) - 18年(王莽の天鳳5年))は、中国前漢時代末期の文人、学者。現在の四川省に当たる蜀郡成都の人。字は子雲。また楊雄とも表記する。揚雄は年少の頃から学問を好み、広く書を読んで見ていない書物がないほどであった。細々としたことは気にしない大まかな性格で、人と論争するのは得意ではなく、黙って思惑に耽ることを好んだ。また富谷や名声を求めようとしなかった。家産は十金にすぎず、わずか1石(訳31キロ)か2石の米のたくわえもない貧しさであったが、安らかで落ち着いており、度量が大きかった。蜀の地にいた若いころは、郷土の先輩司馬相如の影響から辞賦作りに没頭していた。賦を作るごとに司馬相如の作品を見本とした。また揚雄は、世に悲観し、自ら江水に身を投じた屈原の『離騒』に深く感銘を受け、『反離騒』を作り、その死を哀悼した。30歳を過ぎたときはじめて都の京師に上るが、彼の文学の才能を推薦する者がおり、これが認められて待詔(皇帝の下問に答える者)となった。

司馬相如 《子虚賦 》(1)#0-0 文選 賦<109-#0-0>9分割26回 李白に影響を与えた詩880 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2948

司馬相如 《上林賦 》(1)#1-1 文選 賦<110-#1-1>9分割26回 李白に影響を与えた詩906 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3078

司馬 相如(しば しょうじょ、紀元前179 - 紀元前117年)は、中国の前漢の頃の文章家である。字は長卿(ちょうけい)。もとの名は犬子(けんし)と言った。蜀郡成都県の人。賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。また妻である卓文君との恋愛も有名である。司馬相如は、蜀郡の成都の裕福な家に生まれた。若い頃は、書物を読むことを好み、剣術を習っていた。もともと名は犬子であったが、成長後、戦国時代の趙の将軍である藺相如に憧れて、相如に改めた。前漢の当時の官僚体制では、入貲という、飢饉などの際にある一定の穀物やそれに相当する金銭を納めることで郎となることができた。そのため司馬相如もこの方法によって、郎となり景帝に仕えた。後、武騎常侍となった。しかし、景帝が文学を好まなかったこともあり、司馬相如はこの仕事に愛着を持っていなかった。

 屈原の後、衰えかけた賦を盛んにした人である。

 かぎり、はて。さかい。

 

廢興雖萬變、憲章亦已淪。

その後、すたれたり、復興したりがあって千変万化したのだけれど、正しい詩法はすっかり文学の世界から沈んでしまったのだ。

憲章 正しい法則。・憲章 法度憲章。

 沈没。

 

自從建安來。 綺麗不足珍。』 

それ以降、建安文学の時代に至ったのであるが、ただ綺麗な文、清談といわれる詩を作るだけで、新しく珍しく良いものは見ることはできない。

自徒 同義の字を重ねたものである。

建安 後漢末期、建安年間、当時、実質的な最高権力者となっていた曹一族の曹操を擁護者として、多くの優れた文人たちによって築き上げられた、五言詩を中心とする詩文学。三曹七子。三曹 : 曹操・曹丕・曹植 建安七子孔融・陳琳・徐幹・王粲・応瑒・劉楨・阮瑀。