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李白集校注 訳注解説ブログ 750-3 《僧伽歌 【巻七(一)五二三】》-#1  漢文委員会 紀 頌之 Blog11032

 

750

天寶九年

 

3. 僧伽歌 【巻七(一)五二三】  #1

 

李白集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 11032

 

 

 

僧伽歌

#1

真僧法號號僧伽,有時與我論三車。

問言誦咒幾千徧,口道恆河沙復沙。

此僧本住南天竺,爲法頭陀來此國。

戒得長天秋月明,心如世上青蓮色。

#2

意清淨,貌稜稜,亦不減,亦不增。

瓶裏千年鐵柱骨,手中萬胡孫藤。

嗟予落魄江淮久,罕遇真僧空有。

一言散盡波羅夷,再禮渾除犯輕垢。

 

 

僧伽歌

 僧伽 太平廣記:僧伽大師、西域人、姓何氏。唐龍/朔初來遊北土、𨽻名於楚州龍興寺。後於

  泗州臨淮縣信義坊乞地施標、將建伽藍、於標下掘得古香積寺銘記并金像一軀、上有普照王佛

  字、遂建寺焉。景龍二年、中宗皇帝遣使迎師入内道塲、尊爲國師、尋出居薦福寺。嘗獨處一室其頂

  上有一穴恒以絮塞之夜則去絮香從頂穴中出/烟氣滿房非常芳馥及曉香還入頂穴中又以絮

  窒之師嘗濯足人取其水飲之痼疾皆愈一日中/宗於内殿語師曰京師無雨已是數月願師慈悲

  解朕憂迫師乃將瓶水泛洒俄頃陰雲驟起甘雨/大降中宗大悅詔賜所修寺額以臨淮寺爲名師

  請以普照王字爲名蓋欲依金像上字也中宗以/照字是天后廟諱乃改爲普光王寺御筆親書以

  賜焉

至景龍四年三月二日端坐而終中宗卽令/於薦福寺起塔供養俄而大風歘起臭氣滿長安

  中宗問曰是何祥也近臣奏曰僧伽大師化緣在/臨淮恐是欲歸彼處故現此變中宗心許其臭頓

  息頃刻之間竒香馥烈卽以其年五月送至臨淮/起塔供養中宗問萬迴師曰僧伽大師何人萬迴

  曰是觀音化身也如法華經普門品云應以比丘/身得度者卽見比丘身而爲法此卽是也傳

  録泗州僧伽大師世謂觀音大士應化也但此土/有緣之衆乃謂大師自西國來唐高宗時至長安

  洛陽行化歴楚間身執楊枝混於緇流或問師/何姓答曰我姓何又問師是何國人師曰我何國

  人尋於泗上欲搆伽藍因宿州民賀跋氏捨所居/師曰此本爲佛宇令掘地果得古碑云香積寺卽

  齊李龍建所剏又獲金像衆謂然燈如來師曰普/光王佛也因以爲寺額景龍二年中宗遣使迎大

  師至輦轂深加禮異命住大薦福寺三年/三月三日大師示滅 伽具牙切音茄

 

 

真僧法號號僧伽,有時與我論三車。

問言誦咒幾千徧,口道恆河沙復沙。

此僧本住南天竺,爲法頭陀來此國。

戒得長天秋月明,心如世上青蓮色。

 

意清淨,貌稜稜,亦不減,亦不增。

瓶裏千年舍利蕭本作/鐵柱骨,手中萬胡孫藤。

嗟予落蕭本/作魄江淮久,罕遇真僧空有。

一言許本作散盡波羅夷,再禮渾除犯輕垢。

 

三車 言羊車、鹿車、牛車。今在門外可以遊戲汝等於此火宅/宜速出來。註云:羊車聲聞乘鹿車緣覺乘牛車

菩薩乘俱以運載爲義方便設施舊聲聞不能化他/如羊不顧後羣故以羊車譬聲聞乘緣覺是法行人從

他如法少自推義多故以鹿車譬緣覺乘鹿不依人故/也或云譬鹿猶有囘顧之慈菩薩慈悲化物如牛之安

忍運載故以牛車譬菩薩乘琦謂當是以三獸之力有/大小三車之所載有多寡三乘諸賢聖道力之淺

恆河 耳恒河西域中水名釋典謂西域香山頂上有無熱惱/池四方流出四水其東方之水謂之伽河卽恒河

廣四十里水中之沙微細如法之處皆與此河/相近故常取以爲云如恒河中所有沙數蓋言其

之極多非算數所能知者耳劉昫

南天竺 唐書天竺國卽漢之/身毒國或云婆羅門地也在葱嶺西北周三萬餘里其

中分爲五天竺一曰中天竺二曰東天竺三曰南天竺/四曰西天竺五曰北天竺地各數千里城邑數百南天

竺際大海北天竺拒雪山四周有山爲壁南面一谷通/爲國門東天竺東際大海與扶南林邑鄰接西天竺與

波斯相接中天竺據四天竺之其都城周圍七/十餘、里北臨禪連河云。

頭陀 法苑珠林西云頭陀此云抖擻

能行此法卽能抖擻煩惱去離貪著如衣抖擻能去塵/垢是故從爲名錦繡萬花谷頭陀梵語云杜多漢

抖擻謂三毒如塵坌眞心此人能振撣除去故今訛稱/頭陀

秋月,青蓮 陳永陽王解講疏戒與秋月共明禪與春池共潔

華嚴經菩提心者猶如蓮花不染一切諸罪垢故僧肇/維摩詰經註天竺有靑蓮花其葉修廣靑白分明

舍利 孫興公見林公稜稜露其爽心經是諸法空相不生不/滅不垢不淨不減不增

魏書佛謝世香木焚尸靈骨分碎大小如粒擊之不壞焚亦不焦或有光明神騐胡

言謂之舍利弟子收奉置之寳瓶竭香花致敬慕法苑珠林舍利者西域梵語此云骨身恐濫凡夫死人之骨

故存梵本之名舍利有三種一是骨舍利其色白二是

髪舍利其色黒三是肉舍利其色赤是佛舍利椎打不/碎是弟子舍利椎擊便破矣

胡孫藤 楊齊賢曰胡孫藤乃藤杖手所執者

空有 後漢書西域傳淸心釋累之訓空有兼遣之/宗章懷太子註不執著爲空執著爲有兼遣謂不空不

有虚實兩忘也鳩摩羅什維摩詰經註佛法有二種一/者有二者空若常在有則累於想著若常在空則捨於

善本若空有迭用則不設二過猶日月代明萬物以成/胡三省通鑑註釋氏以面陳悔過爲懺

波羅夷,輕垢 波羅夷者華言

棄謂犯此罪者永棄佛法邊外法苑珠林云波羅夷者/此云極重罪是也輕垢罪者比重減輕一等凡玷汙淨

行之類皆是據梵網輕重戒有十犯者得波羅夷罪輕/戒有四十八犯者爲輕垢罪。 

 

廣川書跋僧伽傳蔣穎叔作其謂李太白嘗以詩與師論三車者誤也

詩鄙近知非太白所作世以昔人類在集中信而不疑且未嘗深求其言而知其不類予爲之校其年始知之太白死在

代宗元年上距大足二年壬寅爲六十年而白生當景龍四年白生九固不與僧伽接然則其詩爲出於世

俗而復不考月殆其服者托白以爲重而儒者信之又増異也聲懺

鑑切攙

 

 

僧伽歌

(子供頃、天竺から仏教を広めるために来たえらい高僧、僧伽法師と論じ、あるいは懺悔して、重い罪を軽くできると詠う)

#1

真僧法號號僧伽,有時與我論三車。

まことの高僧というべき尊き法師がいらっしゃる、その法号を僧伽といわれるお方である。ある時、このお方は我々とともに、諸賢聖道力の浅深、三車に類することを論じたのである。

問言誦咒幾千徧,口道恆河沙復沙。

いままでに経文を幾千遍唱えてきたかといって、問うてみたが恆河の沙また沙ほどで、とても数え切れるものではない、と申された。

此僧本住南天竺,爲法頭陀來此國。

この大師はもともと天竺に生まれたが仏教を広めるために、行いを澄まして、わざわざ中国まで来たのである。

戒得長天秋月明,心如世上青蓮色。

この法徳堅固なることは、もとより論ずべくもなく、戒を持することは、長天の秋月のように明るく、心は塵埃に染まらない青蓮の色のようである。

#2

意清淨,貌稜稜,亦不減,亦不增。

瓶裏千年鐵柱骨,手中萬胡孫藤。

嗟予落魄江淮久,罕遇真僧空有。

一言散盡波羅夷,再禮渾除犯輕垢。

 

(僧 伽の歌)

#1

真僧の法號は僧伽と號し,時に有って 我と三車を論ず。

問うて言う 咒を誦する幾千徧,口に道う 恆河沙 復た沙。

此の僧 本と 住うは南天竺,法の爲に 頭陀 此の國に來る。

戒は得たり 長天秋月 明らかなるを,心は世上青蓮の色の如し。

#2

意 清淨,貌 稜稜,亦た不減,亦た不增。

瓶裏 千年 鐵柱の骨,手中 萬 胡孫の藤。

嗟す予が江淮に落魄すること久しく,真僧が空有をくに遇うこと罕【まれ】なるを

一言散じ盡す波羅夷,再禮 渾【す】べて 輕垢を犯すを除く。

 

 

李白集校注《僧伽歌》現代語訳と訳註解説
(
本文)

僧伽歌

#1

真僧法號號僧伽,有時與我論三車。

問言誦咒幾千徧,口道恆河沙復沙。

此僧本住南天竺,爲法頭陀來此國。

戒得長天秋月明,心如世上青蓮色。

 

(下し文)
(僧 伽の歌)

#1

真僧の法號は僧伽と號し,時に有って 我と三車を論ず。

問うて言う 咒を誦する幾千,口に道う 恆河沙 復た沙。

此の僧 本と 住うは南天竺,法の爲に 頭陀 此の國に來る。

戒は得たり 長天秋月 明らかなるを,心は世上青蓮の色の如し

 

(現代語訳)

(子供頃、天竺から仏教を広めるために来たえらい高僧、僧伽法師と論じ、あるいは懺悔して、重い罪を軽くできると詠う)

まことの高僧というべき尊き法師がいらっしゃる、その法号を僧伽といわれるお方である。ある時、このお方は我々とともに、諸賢聖道力の浅深、三車に類することを論じたのである。

いままでに経文を幾千遍唱えてきたかといって、問うてみたが恆河の沙また沙ほどで、とても数え切れるものではない、と申された。

この大師はもともと天竺に生まれたが仏教を広めるために、行いを澄まして、わざわざ中国まで来たのである。

この法徳堅固なることは、もとより論ずべくもなく、戒を持することは、長天の秋月のように明るく、心は塵埃に染まらない青蓮の色のようである。

 

(訳注)

僧伽歌

(子供頃、天竺から仏教を広めるために来たえらい高僧、僧伽法師と論じ、あるいは懺悔して、重い罪を軽くできると詠う)

 僧伽は、唐時代の高僧で、その傳は、太平廣記にみえる。

 《太平廣記異僧》:「僧伽大師,西域人也,俗姓何氏。唐龍朔初來遊北土,隸名於楚州龍興寺。後於泗州臨淮縣信義坊乞地施標。將建伽藍。於其標下,掘得古香積寺銘記。幷金像一軀。上有普照王佛字,遂建寺焉。唐景龍二年,中宗皇帝遣使迎師,入道場,尊為國師。尋出居薦福寺。常獨處一室。而其頂有一穴,恒以絮塞之,夜則去絮。香從頂穴中出,煙氣滿房,非常芬馥。及曉,香還入頂穴中,又以絮塞之。師常濯足,人取其水飲之。痼疾皆愈。一日,中宗於殿語師曰:「京畿無雨,已是數月,願師慈悲,解朕憂迫。」師乃將瓶水泛洒,俄頃陰雲驟起,甘雨大降。中宗大喜,詔賜所修寺額,以臨淮寺為名。師請以普照王字明鈔本、陳校本字作寺。為名,蓋欲依金像上字也。中宗以照字是天后廟諱。乃改為普光王寺,仍御筆親書其額以賜焉。至景龍四年三月二日,於長安薦福寺端坐而終。中宗即令於薦福寺起塔,漆身供養。俄而大風歘起。臭氣徧滿於長安。中宗問曰:「是何祥也。近臣奏曰:「僧伽大師化緣在臨淮,恐是欲歸彼處,故現此變也。。中宗默然心許,其臭頓息。頃刻之間,奇香郁烈。即以其年五月,送至臨淮,起塔供養,即今塔是也。後中宗問萬廻師曰。僧伽大師何人耶。萬廻曰。是觀音化身也。如法華經普門品云:『應以比丘、比丘尼等身得度者。即皆見之而為法。此即是也。」先是師初至長安。萬廻禮謁甚恭。」

《太平廣記異僧》:「僧伽大師は,西域の人なり,俗姓を何氏といい。唐の龍朔の初めに,來って北土に遊ぶ,名を楚州の龍興寺に隸す。後に泗州臨淮縣信義坊において地を乞うて標を施し,將に伽藍を建んとす。其標下に於て,古香積寺も銘記,並びに金像一軀を掘り得たり,上に普照王佛の字有り,遂に寺を建てる。唐の景龍二年に,中宗皇帝は使を遣わし師を迎え,道場に入れ,尊き國師と為す。尋いで出でて薦福寺に居る。常に獨りで一室に處る。而して其の頂に一穴有り,恒に絮を以て之を塞ぎ,夜は則ち絮を去る。香 頂穴中從り出でて,煙氣房に滿ち,非常芬馥【ほうふく】す。曉くに及び,香は還た頂穴中に入り,又た以て絮 之を塞ぐ。師は常に足を濯い,人 其の水を取って之を飲めば,病疾 皆 愈ゆ。一日,中宗 殿において師に語って曰く:「京畿 雨無し,已でに是れ數月,願わくば師慈悲,朕の憂迫を解く。」と。師 乃ち瓶水を將って泛灑【はんさい】し,俄頃【がけい】にして 陰雲 驟【にわか】に起り,甘雨 大いに降る。中宗 大いに喜び,詔して修する所の寺の額を賜り,臨淮寺を以て名と為す。師 普照王寺を以て名を為さんと請い,蓋し金像上の字に依らんと欲するなり。中宗 照の字は是れ天後の廟諱【びょうき】なるを以て。乃ち改めて普光王寺と為す,仍って御筆親書 其額を以て賜う。景龍四年三月二日に至り,長安に於て薦福寺に端坐して終る。中宗 即ち令じて薦福寺に於て塔を起し,漆身供養す。俄にして大風 歘【たちま】ち起り,臭氣 長安に遍滿す。中宗 問うて曰く:「是れ何ぞ祥ぞや?」  近臣 奏じて曰く:「僧伽大師 化緣して臨淮に在り,恐らく是れ 彼處に歸らんと欲し,故に此の變を現ずるならん。」と。中宗 默然として心許し,其の臭 頓に息む。頃刻の間,奇香鬱烈。即ち 其の年五月を以て,送て臨淮に至り,塔を起して供養し,即ち今 塔 是なり。後に中宗 問うて萬回師に曰く:「僧伽大師は何人や?」萬回曰く:「是れ觀音の化身なり。と、法華經普門品に如して云う:『應に比丘、比丘尼等の身を以て得度すべき者なり。即ち皆 之れを見して為に法をく。』と、此れ即ち是れなり。」

僧伽(そうぎゃ、 628 - 710年(景龍4年))は、中国の唐代に西域より渡来した神異の僧である。

パミール高原の北の何国の人であり、自ら姓は何氏であると称していた。幼くして出家し、諸国を遊方した後、龍朔元年(661年)に、西涼地方に渡来し、さらに江南に至り、山陽県(江蘇省淮安県)の龍興寺に所属した。しばしば神異にわたる行跡が見られた。臨淮県(江蘇省盱眙県)城の信義坊で、地面を掘らせ、そこに伽藍を建立すると言った。古碑が出土し、そこは北斉代の香積寺の遺地であることが判明した。また、「普照王佛」と刻まれた金像も出土した。そこは賀跋氏の家であったが喜捨して、香積寺の故地に寺を建立した。

景龍2年(708年)には、中宗が宮中の内道場に招聘して供養を行なった。また、僧伽の住寺に普光王寺の名を賜った。「照」字は武則天の避諱字に当たり、用いられなかったものである。

景龍4年(710年)に、大薦福寺で坐亡した。そのさまは生前と何ら変わらず、静かに瞑目した姿であった。中宗はその死を悼み、絹300疋を賜い、臨淮の普光王寺に葬った。生前の僧伽は、十一面観音形を現したことがあり、また、万廻が観音菩薩の化身であると中宗の下問に答えたため、その化身として信仰を集めた。

なおその没年に関しては、『景徳伝灯録』は「景龍3年に卒す」とし、『隆興仏教編年通論』では「景雲2年に卒す」などと異なるが、ここでは、『宋高僧伝』巻18や『太平広記』などの没年によって記す。

実は、僧伽の生前の事跡に関しては、殆ど記される記事はなく、その伝の大半は、その没後のことに割かれている。中宗は特恩度僧によって、慧岸・慧儼・木叉という僧伽の3人の弟子をも供養していたが、僧伽の没後、しばしば僧伽がその姿を現すようになった。そのような記事は、大暦中(766 - 779年)から、乾寧元年(894年)にまで及んでいる。そのため、「泗州大聖僧伽和尚」として人々の信仰を集めるようになった。臨淮県は泗州に属していた。

それは、唐代だけにはとどまらず、五代十国の後周の世宗の時代を経て、宋代にまで及んでいる。『宋高僧伝』の撰者、賛寧の時代にも、『僧伽実録』という書物が見られ、太宗がそれを見て、寺の勅額を、武則天の避諱の「普光王」から「普照王」に改めさせている。

 




#1

真僧法號號僧伽,有時與我論三車

まことの高僧というべき尊き法師がいらっしゃる、その法号を僧伽といわれるお方である。ある時、このお方は我々とともに、諸賢聖道力の浅深、三車に類することを論じたのである。

    三車 羊車、鹿車、牛車を言う。今在門外可以遊戲汝等於此火宅/宜速出來。註に云う:羊車は聲聞乘にえられ、鹿車は緣覺乘にえられ牛車は菩薩乘にえられ俱に以て運載し、義を爲し、方便設施す。王琦は謂う、「當に是れ以て三獸の力有り、大小三車、之を所載する多寡有り、三乘諸賢の聖道力の淺深にふる」

 

問言誦咒幾千徧,口道恆河沙復沙。

いままでに経文を幾千遍唱えてきたかといって、問うてみたが恆河の沙また沙ほどで、とても数え切れるものではない、と申された。

    恆河 恒河西域中水名。釋典に謂う「西域香山の頂上に無熱惱池有り。四方に流出す。四水は其の東方の水、之を伽河と謂い。卽ち恒河なり。廣さ四十里、水中の沙微細にしてし。法之處、皆 此の河と相い近し、故に常に取って以てえと爲すと云う。恒河中所有沙數の如しは、蓋し其の數、之れ極めて多く算數の能く知る所に非らざる者を言うのみ。

 

此僧本住南天竺,爲法頭陀來此國。

この大師はもともと天竺に生まれたが仏教を広めるために、行いを澄まして、わざわざ中国まで来たのである。

     南天竺 舊唐書に天竺國、卽ち漢の身毒國、或いは婆羅門の地と云う也。葱嶺在り、西北の周は三萬餘里、其の中の分れは五天竺と爲し、一に中天竺と曰い、二に東天竺と曰う、三に南天竺と曰い、四に西天竺と曰い、五に北天竺と曰う。地は各數千里、城邑は數百、南天竺際には大海あり、北天竺は雪山を拒し、四周して山有り、南面に壁爲し、一谷通は國門と爲す。東天竺は東際に大海あり、扶南と林邑とは鄰接しており、西天竺は罽波斯と相い接し、中天竺は四天竺のり、其の都城の周圍は七十餘里、北は禪連河を臨むと云う。

    頭陀 法苑珠林に 西は頭陀と云い、此に抖擻と云う。能く此の法を行えば、卽ち能く煩惱を抖擻し、貪著を去離することとし、抖擻を衣て能く塵垢を去るが如し、是れ故にって名と爲す、と、いい。錦繡萬花谷に「頭陀、梵語に杜多と云い、漢に抖擻とう。三毒、塵の如しと謂う。眞心を坌す、此の人、能く振撣して除去す、故に今訛して頭陀と稱す。」とある。

 

戒得長天秋月明,心如世上青蓮色

この法徳堅固なることは、もとより論ずべくもなく、戒を持することは、長天の秋月のように明るく、心は塵埃に染まらない青蓮の色のようである。

    秋月,青蓮 陳永陽王の解に講疏戒は秋月と共に明、禪と春池と共に潔し。

    青蓮色 華嚴經に「菩提心は、猶お蓮花の如く、諸罪垢に一切染まず。故に僧肇の維摩詰經の註に天竺に靑蓮花有り、其の葉修くして廣く、靑白分明。」とある。