李白集校注 訳注解説ブログ 750年-6 《留別金陵諸公 【巻一五(一)九二六】》 漢文委員会 紀 頌之 Blog11152
750年 |
天寶九年 750年 |
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6. 留別金陵諸公 【巻一五(一)九二六】 #1 |
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李白集校注 訳注解説 |
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漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 11152 |
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留別金陵諸公 #1
海水昔飛動。 三龍紛戰爭。
鐘山危波瀾。 傾側駭奔鯨。
黃旗一掃蕩。 割壤開吳京。
-#2
六代更霸王。 遺跡見都城。
至今秦淮間。 禮樂秀群英。
地扇鄒魯學。 詩騰顏謝名。
-#3
五月金陵西。 祖余白下亭。
欲尋廬峰頂。 先繞漢水行。
香爐紫煙滅。 瀑布落太清。
若攀星辰去。 揮手緬含情。
( 跡一作都 ) ( 都一作空 )
#1
海水 昔 飛動し、三龍 紛として戦争す。
鐘山 波瀾に危うく、傾側して奔鯨を駭(おどろ)かす。
黄旗一たび掃蕩し、割り尽くして呉京を開けり。
六代 更に霸王、遺跡 都城を見る。
今に至る秦淮の間、禮樂 群英 秀し。
地扇 魯學を鄒。 詩騰 顏謝の名。
五月 金陵の西。 祖余 白下亭。
盧峰の頂を尋ね、先に漢水を繞(めぐ)り行かんと欲す。
香炉の紫煙滅し、瀑布落ちること太(はなは)だ清ならん。
もし星辰を攀じり去らんも、手を揮うに緬として情を含まん。
-#1
(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人に别れに際して詩を贈ったもの)
海水昔飛動、三龍紛戦争。
むかし、春秋戦国の時代から呉越戦争に代表される戰があったが、その後も事あるごとに金陵のあたりまで海水が飛びあがるように遡ってきたことがあった。その後は魏後蜀の三國がいりまじって三匹の龍が激しく争う戦があり、また、その後小国乱立した時代にも小さな戦争が続いていたのがこの地域である。鐘山危波瀾、傾側駭奔鯨。
金陵山は「王気がある」ことからみだされ渦に呑みこまれそうになった、傾き崩れ自在な巨鯨のような始皇帝によって驚かされたのだ。
黄旗一掃蕩、割尽開呉京。
孫氏が黄色い旗をおし建てて帝王が現われると、江南一帯を掃蕩し、混乱を収拾したのである、壊され傾いた部分を打ち壊し、土壌をきりひらいて呉の都、金陵を経営したのである。
清・王琦 李白集校注(卷十五 〔一〕九二六
留别金陵諸公 六代更霸王、遺跡見都城。 一作遺都見空城 至今秦淮間、禮樂秀群英。 地扇鄒魯學、詩騰顏謝名。 五月金陵西、祖余白下亭。 欲尋廬峰頂、先繞漢水行。 香爐紫煙滅、瀑布落太清。 若攀星辰去、揮手緬含情。 〔海水〕王云: 劇秦美新、海水羣飛。 李善註: 海水喻萬民、羣飛言亂。 〔三龍〕 三龍蜀吳魏也。 〔 鐘山〕 太平寰宇記:蔣山在昇州上元縣東北十五里、周迴六十里面南顧東東逹青龍□門等山西臨青溪。絶山南面有鍾浦水流下入秦淮、北連雉亭山。 按輿地志云: 蔣山古曰金陵山、縣之名因此而立。 漢輿地圖名鍾山、吳大帝時有蔣子文發神騐於此、封子文為蔣侯、改曰蔣山。 参考:巻七金陵歌送別范宜註。 〔都城〕 謝朓詩:奔鯨自此曝。 顔延年詩:襟衛徙吳京吳京金陵也。以吳人所都。 故曰吳京 王云: 景定建康志: 古都城。 按官苑記:呉大帝所築、周迴二十里一十九步、在淮水北五里。 晉元帝過江、不改其舊。宋、齊、梁、陳皆都之。 輿地志曰: 晉琅邪王渡江、鎮建業、因吳舊都、修而居之。宋、齊而下、宫室有因冇革、而都城不改。 東南利便書曰: 孫權雖據石頭、以扼江險、然其都邑、則在建業、歴代所謂都城也。 東晉、宋、齊、梁因之、雖時有改築、而其經畫皆吳之舊。 〔秦淮〕初學記 孫盛晉陽秋曰:秦始皇東逰望氣者云五百年後金陵有天子氣、於是始皇、於方山掘流西入江亦曰:淮今在潤州江寧縣土俗號曰:秦淮太平寰宇記、丹陽記云:始皇鑿金陵方山其斷處為瀆、即今淮水經城中入大江是曰秦淮。 〔鄒魯〕史記鄒魯濱邾泗猶有周公遺風俗好儒備於禮 漢書 鄒魯守經學。 〔顏謝〕 宋書顔延之與謝靈運俱以詞采齊名自。 潘岳陸機之後文士莫及也江左稱顔謝焉所著並傳於世 〔祖〕鄭𤣥儀禮註將行而飲酒曰祖 〔白下〕 蕭士□曰圖經白下亭在上元縣西北 〔廬峰〕 廬峰即廬山也。 〔 香爐〕江西通志:廬山在南康府治北二十里、九江府城南二十五里脈接衡陽由武功來古南障山也髙三千三百六十丈或云七千三百六十丈凡有七重周迴五百里山無主峰横潰四出嶤嶤嵺嵺各為尊髙不相拱揖異於武當太岳諸名山出風降雨抱異懷靈道書稱為第八洞天香爐峰在開先文殊寺後其形圓聳如爐山南山北皆見峰上常出雲氣有似香烟故名 〔瀑布〕太平寰宇記:廬山瀑布在山東、亦名白水源出、髙峰挂流三百許丈逺望如匹布故名瀑布。 劉琨詩揮手長相謝 |
《留別金陵諸公》 現代語訳と訳註
(本文)
留別金陵諸公
海水昔飛動。 三龍紛戰爭。
鐘山危波瀾。 傾側駭奔鯨。
黃旗一掃蕩。 割壤開吳京。
(下し文)
(別金陵の諸公に留す)
海水 昔 飛動し、三龍 紛として戦争す。
鐘山 波瀾に危うく、傾側して奔鯨を駭(おどろ)かす。
黄旗一たび掃蕩し、割り尽くして呉京を開けり。
(現代語訳)
(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人に别れに際して詩を贈ったもの)
むかし、春秋戦国の時代から呉越戦争に代表される戰があったが、その後も事あるごとに金陵のあたりまで海水が飛びあがるように遡ってきたことがあった。その後は魏後蜀の三國がいりまじって三匹の龍が激しく争う戦があり、また、その後小国乱立した時代にも小さな戦争が続いていたのがこの地域である。
金陵山は「王気がある」ことからみだされ渦に呑みこまれそうになった、傾き崩れ自在な巨鯨のような始皇帝によって驚かされたのだ。
孫氏が黄色い旗をおし建てて帝王が現われると、江南一帯を掃蕩し、混乱を収拾したのである、壊され傾いた部分を打ち壊し、土壌をきりひらいて呉の都、金陵を経営したのである。
(訳注)
留別金陵諸公
(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人に别れに際して詩を贈ったもの)
海水昔飛動、三龍紛戦争。
むかし、春秋戦国の時代から呉越戦争に代表される戰があったが、その後も事あるごとに金陵のあたりまで海水が飛びあがるように遡ってきたことがあった。その後は魏後蜀の三國がいりまじって三匹の龍が激しく争う戦があり、また、その後小国乱立した時代にも小さな戦争が続いていたのがこの地域である。
海水昔飛動、戦国時代に呉と楚と秦の三国がここ金陵の地で戦いがあった。 〔海水〕王琦云う: 揚雄の劇秦美新に、海水羣飛とあって、李善の註に: 海水は萬民に喻え、羣飛は亂を言う。とある。
三龍 魏後蜀の三國がいりまじって戦争を行った。〔三龍〕 三龍は蜀吳魏なり。とある。
紛戦争 南北朝、五胡十六国時代には、局地戦争のようにあちこちで戦が起こった。
鐘山危波瀾、傾側駭奔鯨。
いかに金陵山は「王気がある」と金陵は守られているといっても、みだされ渦に呑みこまれそうになったのである、そして、傾き崩れていったが自在な巨鯨のような始皇帝によって天下統一さえたのには驚かされたものだ。
○この二句の根拠 春秋時代に呉がこの地に城を築いたことに始まる。戦国時代に呉を征服した楚は金陵邑を設置。その後秦朝による統一事業が達成され、始皇帝がこの地に巡幸してきた際に、「この地に王者の気がある」と言われ、それに怒って地形を無理やり変えてこの地の気を絶とうとした。また名前も金から秣(まぐさ)の秣陵県と改称している。このことを示している。
鐘山 金陵の東の郊外にある紫金山(鍾山)を金陵山と呼ぶところから生まれた。-現在の南京市の雅名。李白は特にこの名を愛用している。金陵 現在の南京市。六朝の古都。南朝の各朝の首都。金陵、建業、建、建康、南京。戦国時代の楚の威王が金を埋めて王気を鎮めたことによる。
鐘山、別名の紫金山、南京市の東の北の郊外に位置して、中山陵を中心にして、紫金山、玄武湖の2の大きい地区を含む。自然が優美な地域で、古跡の文化財の豊かにすること、“金陵毓ショー”の称賛がある。鐘山は寧月城鎮山脈の西端で、南京の中で山門の外で横たわって、古くて有名な金陵山、聖人は山に泳いで、三国の時に東呉はそれを蒋山と呼んでことがあるものの長い7.4キロメートル、南北の幅の3キロメートル、周囲は約20数キロメートル。くねくねと起伏して、投げてもし竜に泳ぐならば、だから古人は“時計の多い竜蟠”を語っている。金陵毓ショーの鐘山、中国の第1陣の国家級の名勝の中の一つです。山の上に紫色の岩石層があって、日光が照らすもとに、はるかに紫金の生耀を見て、故人達はまたそれを紫金山と呼んだのである。山に3匹の龍がいるが、詩中にある三龍は戦の子というための比喩であるからこの山のことを言うのではない。
それは、主峰の北のピーク、海抜の468メートル、金陵最高峰で、第二峰の偏る東南、名小茅山、海抜の360メートル、中山陵のあるその南の麓、第三峰の偏る南西、太平天国の曾在山の上で築天トーチカ城のため、だから1日のトーチカの山を語って、海抜の250メートル、有名な紫金山天文台はすぐこの山頂の上にある。
玄武湖は鐘山の西で、南京城北、古名桑は停泊して、またトップに立つ湖である。鏡のような湖と青々した山が相映っている景色である。湖水は青く波打って、島の上で緑の木は青々と茂って、周囲の青い山は青黒色である。
〔 鐘山〕 太平寰宇記:即ち蔣山は昇州上元縣東北十五里に在り、周迴六十里、南に面し東を顧る、東に青龍・雁門等山に逹り、西に青溪を臨む。絶山の南面には鍾浦が有り水流下って秦淮に入り、北に雉亭山に連る。 按ずるに輿地志に云う: 蔣山は古曰金陵山といい、縣の名は此れに立つことに因る。 漢の輿地圖には鍾山と名す、吳大帝の時、蔣子に文に此に神騐を發すと有る、封子の文に 蔣侯と為す、改めて蔣山と曰う。 参考:巻七に 《金陵歌送別》范宜の註。
奔鯨 秦の始皇帝の南巡により、この地が平定されたことを指す。謝朓詩に「奔鯨は自ら此に曝れる。」
黄旗一掃蕩、割尽開呉京。
孫氏が黄色い旗をおし建てて帝王が現われると、江南一帯を掃蕩し、混乱を収拾したのである、壊され傾いた部分を打ち壊し、土壌をきりひらいて呉の都、金陵を経営したのである。
黄旗 孫権による呉の建国。孫権の中央の船隊はすべて 黄旗をひるがえしたとある。
呉京 呉の都、建業(金陵)とした。顔延年詩に「襟衛は吳京を徙す。吳京は金陵なり。以て吳人都とする所なり。 故に吳京と曰う。