李白集校注 訳注解説ブログ 750-6 《留別金陵諸公 【巻一五(一)九二六】》-#2  漢文委員会 紀 頌之 Blog11160

 

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天寶九年 750

 

6. 留別金陵諸公 【巻一五(一)九二六】 #2

 

李白集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 11160

 

 

 

留別金陵諸公  #1
海水昔飛動。 三龍紛戰爭。 
鐘山危波瀾。 傾側駭奔鯨。 
黃旗一掃蕩。 割壤開
京。 
-

六代更霸王。 遺跡見都城。 
至今秦淮間。 禮樂秀群英。

地扇鄒魯學。 詩騰顏謝名。 
-#3

五月金陵西。 祖余白下亭。 
欲尋廬峰頂。 先繞漢水行。 
香爐紫煙滅。 瀑布落太清。 
若攀星辰去。 揮手緬含情。 
(
跡一作都 ) ( 都一作空 )

1
海水 昔 飛動し、三龍 紛として戦争す。
鐘山 波瀾に危うく、傾側して奔鯨を駭(おどろ)かす。
黄旗一たび掃蕩し、割り尽くして呉京を開けり。 

六代 更に霸王、遺跡 都城を見る。 
今に至る秦淮の間、禮樂 群英 秀し。 
地扇 魯學を鄒。 詩騰 顏謝の名。 

五月 金陵の西。 祖余 白下亭。 
盧峰の頂を尋ね、先に漢水を繞(めぐ)り行かんと欲す。
香炉の紫煙滅し、瀑布落ちること太(はなは)だ清ならん。
もし星辰を攀じり去らんも、手を揮うに緬として情を含まん。


-1
(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人にに際して詩を贈ったもの)

海水昔飛動、三龍紛戦争。
むかし、春秋戦国の時代から呉越戦争に代表される戰があったが、その後も事あるごとに金陵のあたりまで海水が飛びあがるように遡ってきたことがあった。その後は魏後蜀の三國がいりまじって三匹の龍が激しく争う戦があり、また、その後小国乱立した時代にも小さな戦争が続いていたのがこの地域である。鐘山危波瀾、傾側駭奔鯨。
金陵山は「王気がある」ことからみだされ渦に呑みこまれそうになった、傾き崩れ自在な巨鯨のような始皇帝によって驚かされたのだ。

黄旗一掃蕩、割尽開呉京。
孫氏が黄色い旗をおし建てて帝王が現われると、江南一帯を掃蕩し、混乱を収拾したのである、壊され傾いた部分を打ち壊し、土壌をきりひらいて呉の都、金陵を経営したのである。

2

六代更霸王、遺跡見都城。 
孫氏はそれに引き続いて、六代のあいだ、ここに覇王としてつづいた、その後遺跡はすべて都城にのこっており、帝都では無くなっても東南の都の城郭をみることができるのである。
至今秦淮間、禮樂秀群英。 
今にいたるも金陵の秦淮河のほとりは華やかな文化をたたえており、礼儀と音楽、礼記と楽記の文人の秀でたものがあつまり英知の中心の地とするところなのである。
地扇鄒魯學。詩騰顏謝名。 

そうして、この地の湧き上がる風は、鄒魯とする老荘孟子の思想、孔子の儒教を学ばせているのが流行し誰でも学んだし、顔延之、謝靈運がでてきて、詩歌はここで盛んになり、謝朓など多くの詩人が生まれ、江南文化は中国を席巻したのである。

 

李白集校注 関係個所 抜粋

都城〕 王云: 景定建康志: 古都城。  按官苑記:呉大帝所築、周迴二十里一十九步、在淮水北五里。 晉元帝過江、不改其舊。宋、齊、梁、陳皆都之。 輿地志曰: 晉琅邪王渡江、鎮建業、因舊都、修而居之。宋、齊而下、室有因革、而都城不改。 東南利便書曰: 孫權雖據石頭、以扼江險、然其都邑、則在建業、歴代所謂都城也。 東晉、宋、齊、梁因之、雖時有改築、而其經畫皆之舊。

秦淮〕初學記 孫盛晉陽秋曰:秦始皇東望氣者云五百年後金陵有天子氣、於是始皇、於方山掘流西入江亦曰:淮今在潤州江寧縣土俗號曰:秦淮太平寰宇記、丹陽記云:始皇鑿金陵方山其斷處為瀆、即今淮水經城中入大江是曰秦淮。 

鄒魯〕史記鄒魯濱邾泗猶有周公遺風俗好儒備於禮 漢書 鄒魯守經學。

 

顏謝〕 宋書顔延之與謝靈運俱以詞采齊名自。 潘岳陸機之後文士莫及也江左稱顔謝焉所著並傳於世

 

李白集校注(卷十五 〔一〕九二六

《留別金陵諸公》 現代語訳と訳註
(
本文)

-

六代更霸王。 遺跡見都城。 
至今秦淮間。 禮樂秀群英。

地扇鄒魯學。 詩騰顏謝名。

 

 (下し文)
六代 更に霸王、遺跡 都城を見る。 
今に至る秦淮の間、禮樂 群英 秀し。 
地扇 魯學を鄒。 詩騰 顏謝の名。 

 

 (現代語訳)

(留別金陵諸公)
(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人にに際して詩を贈ったもの)

孫氏はそれに引き続いて、六代のあいだ、ここに覇王としてつづいた、その後遺跡はすべて都城にのこっており、帝都では無くなっても東南の都の城郭をみることができるのである。
今にいたるも金陵の秦淮河のほとりは華やかな文化をたたえており、礼儀と音楽、礼記と楽記の文人の秀でたものがあつまり英知の中心の地とするところなのである。

そうして、この地の湧き上がる風は、鄒魯とする老荘孟子の思想、孔子の儒教を学ばせているのが流行し誰でも学んだし、顔延之、謝靈運がでてきて、詩歌はここで盛んになり、謝朓など多くの詩人が生まれ、江南文化は中国を席巻したのである。

(訳注)
留別金陵諸公

(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人にに際して詩を贈ったもの)

金陵に来た李白は、旧知の友人たちとの再会を喜びつつ酒を飲み、一時を楽しんで、やがて廬山を目指して旅立ってゆく。「金陵の諸公に留別す」では、その送別の宴で、廬山に隠棲したい胸の中を明らかにしている詩である。

#2

六代更霸王、 遺跡見都城。 
孫氏はそれに引き続いて、六代のあいだ、ここに覇王としてつづいた、その後遺跡はすべて都城にのこっており、帝都では無くなっても東南の都の城郭をみることができるのである。
六代 かつては呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳(以上の6朝を総称して六朝)、王朝の都であった。

都城〕  王云: 景定建康志に古都城とある。  按ずるに官苑記に呉大帝の築く所なり、周迴二十里一十九步、淮水の北五里に在る。 晉の元帝 江を過ぎ、其の舊を改めず。宋、齊、梁、陳は皆 之を都す。 輿地志に曰う: 晉の琅邪王江を渡る、建業を鎮め、因て舊都とし、之を居にして修す。宋、齊は下って、室は因を有すれば革有り、而して都城 改めず。 東南利便書に曰く: 孫權は石頭に據すと雖も、以て江險を扼し、然し其れ都邑とし、則ち建業を在す、歴代 所謂る都城とするなり。 東晉、宋、齊、梁之に因って、時に改築有ると雖も、而して其の經畫は皆  之れ舊なり。


至今秦淮間、 禮樂秀群英。 
今にいたるも金陵の秦淮河のほとりは華やかな文化をたたえており、礼儀と音楽、礼記と楽記の文人の秀でたものがあつまり英知の中心の地とするところなのである。
禮樂礼儀と音楽、礼記と楽記、周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を、戴聖が編纂したものである。全49篇。これは唐代以降、五経の1つとして尊重された。楽記‐一説に前漢の武帝のときに河間献王が編纂させたといわれている。その他、公孫尼子、荀子などの説もある。

長江と秦淮河の辺には歓楽街があった。

秦淮〕 初學記に 孫盛え、晉陽秋に曰う:秦始皇が東氣を望む者、五百年後金陵とい、天子の氣有り、是に於て始皇、於方山西入江に掘流し、亦た曰う:淮は今、潤州の江寧縣に在る。土俗號に曰う:秦淮は太平寰宇記と、丹陽記に云う:始皇、金陵の方山を鑿つ、其の斷ずる為瀆と處す、即ち今、淮水經城の中、大江に入り、是て秦淮と曰う。 

 

地扇鄒魯學。詩騰顏謝名。 
そうして、この地の湧き上がる風は、鄒魯とする老荘孟子の思想、孔子の儒教を学ばせているのが流行し誰でも学んだし、顔延之、謝靈運がでてきて、詩歌はここで盛んになり、謝朓など多くの詩人が生まれ、江南文化は中国を席巻したのである。
地扇 その地の湧き上がる風 

鄒魯學 鄒と魯の国の学問、鄒は孟子、魯は孔子。老荘思想、儒教。
詩騰 詩の高ぶり。

顏謝 顔 延之と謝霊運の山水詩人。文末に参考として掲載。

鄒魯〕 孔子、孟子の生地、儒学を指す。史記に鄒とは邾泗に濱し、猶お周公の遺風有り。 俗、儒を好み、禮に備る。 漢書に鄒魯は、經學を守る。とある。