漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
リンクはフリーです。報告、承諾は無用です。
ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

艶歌

上留田行 謝霊運(康楽) 詩<86>Ⅱ李白に影響を与えた詩518 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1371

上留田行 謝霊運(康楽) 詩<86>Ⅱ李白に影響を与えた詩518 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1371

     
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 李商隠詩李商隠/韓愈韓退之(韓愈)・柳宗元・李煜・王安石・蘇東坡 
   2011/7/11李商隠 1 錦瑟 
      2011/7/11 ~ 2012/1/11 まで毎日掲載 全130首(187回) 
   2012/1/11 唐宋 Ⅰ李商隠187 行次西郊作一百韻  白文/現代語訳 (全文) 
     

上留田行
薄遊出彼東道,上留田,
少しばかり遊びをしようと東山に向かう道に出発しようとする、留田の高楼に上ろう。
薄遊出彼東道,上留田,
少しばかり遊びをしようと東山に向かう道に出発しようとする、留田の高楼に上ろう。
循聽一何矗矗,上留田,
何度も聞いているとひと度どうしてなのか背伸びをグウッとして見るのだ、留田の高楼に上ろう。
澄川一何皎皎,上留田,
澄みきった川に対しているとひと度どうしてなのか背伸びをしたら明るく光り輝く日がこうこうとしている、留田の高楼に上ろう。
悠哉逷矣征夫,上留田,
ゆったりできたなあ、遠くに出ようとしている出征していく太夫がいる、留田の高楼に上ろう。
悠哉逷矣征夫,上留田,
ゆったりできたなあ、遠くに出ようとしている出征していく太夫がいる、留田の高楼に上ろう。
兩服上阪電遊,上留田,
脱いだ服をきちんと折りたたんで、奥座敷に上がり込んで稲光がするほどの遊びをしている、留田の高楼に上ろう。
舫舟下遊颷驅,上留田,
船を並べて舟遊びをして楽しむのであるそして風のように立ち去っていく、留田の高楼に上ろう。
此別既久無適,上留田,
この場所と別れてしまうとしばらくは、とても長くこんなたのしみはないのだ、留田の高楼に上ろう。
此別既久無適,上留田,

この場所と別れてしまうとしばらくは、とても長くこんなたのしみはないのだ、留田の高楼に上ろう。

寸心繫在萬里,上留田,
そんな男の心の内は万里の先にあるけれどこことつながっている、留田の高楼に上ろう。
尺素遵此千夕,上留田,
手紙をもらえばここで毎日夕方になればこれを読むのです、留田の高楼に上ろう。
秋冬迭相去就,上留田,
秋がさり冬がくるとたがいに互いを思ってどう身を処するかの態度をきめる、留田の高楼に上ろう。
素雪紛紛鶴委,上留田,
白い雪がしんしんと降れば鶴に気持ちをゆだねる、留田の高楼に上ろう。
清風飈飈入袖,上留田,
新年の清々しい風が飄々と吹いて袖口から入り、留田の高楼に上ろう。
嵗云暮矣增憂,上留田,
そしてまた暮になり、年の暮れの憂いが増すのである、留田の高楼に上ろう。
嵗云暮矣增憂,上留田,
そしてまた暮になり、年の暮れの憂いが増すのである、留田の高楼に上ろう。
誠知運來詎抑,上留田,
今となって本当に知ったことは、運命・人生にとってどうしても自分を抑制行くことが大切であるということだ、留田の高楼に上ろう。
熟視年往莫留,上留田。
年を重ねた経験のある目で見ると年齢が行くと抑制したりしないことだ、留田の高楼に上ろう。


薄【いささ】か遊び彼の東の道に出でん,上留田,
薄【いささ】か遊び彼の東の道に出でん,上留田,
聴くに循【したが】って一に何ぞ矗矗【ちくちく】たる,上留田,
澄める川一に何ぞ皎皎【きょうきょう】たる,上留田,
悠【ゆう】なるかな逷【とお】きかな征夫は,上留田,
服を両つにして阪を上り電【いなびかり】のごと遊び,上留田,
舟を舫【なら】べ下り遊び颷【かぜ】のごとく駆く,上留田,
此より別れて既に久しく適【たの】しみ無し,上留田,
此より別れて既に久しく適【たの】しみ無し,上留田

寸心は繋【か】けて万里に在り,上留田,
尺素【しゃくそ】は比の千夕に遵【もち】う,上留田,
秋冬迭【たが】いに相い去り就く,上留田,
秋冬迭【たが】いに相い去り就く,上留田,
素雪【そせつ】は紛粉として鶴のごとく委【ゆだ】ね,上留田,
清風飈飈【ひょうひょう】として袖に入る,上留田,
歳 云に暮れ憂いを増す,上留田,
歳 云に暮れ憂いを増す,上留田,
誠に知る運り来たり詎【いか】んぞ抑【ふせ】がん,上留田,
熟視すれば年往【ゆ】きて留まる美し,上留田,


現代語訳と訳註
(本文)

寸心繫在萬里,上留田,
尺素遵此千夕,上留田,
秋冬迭相去就,上留田,
素雪紛紛鶴委,上留田,
清風飈飈入袖,上留田,
嵗云暮矣增憂,上留田,
嵗云暮矣增憂,上留田,
誠知運來詎抑,上留田,
熟視年往莫留,上留田。


(下し文)
寸心は繋【か】けて万里に在り,上留田,
尺素【しゃくそ】は比の千夕に遵【もち】う,上留田,
秋冬迭【たが】いに相い去り就く,上留田,
秋冬迭【たが】いに相い去り就く,上留田,
素雪【そせつ】は紛粉として鶴のごとく委【ゆだ】ね,上留田,
清風飈飈【ひょうひょう】として袖に入る,上留田,
歳 云に暮れ憂いを増す,上留田,
歳 云に暮れ憂いを増す,上留田,
誠に知る運り来たり詎【いか】んぞ抑【ふせ】がん,上留田,
熟視すれば年往【ゆ】きて留まる美し,上留田,


(現代語訳)
そんな男の心の内は万里の先にあるけれどこことつながっている、留田の高楼に上ろう。
手紙をもらえばここで毎日夕方になればこれを読むのです、留田の高楼に上ろう。
秋がさり冬がくるとたがいに互いを思ってどう身を処するかの態度をきめる、留田の高楼に上ろう。
白い雪がしんしんと降れば鶴に気持ちをゆだねる、留田の高楼に上ろう。
新年の清々しい風が飄々と吹いて袖口から入り、留田の高楼に上ろう。
そしてまた暮になり、年の暮れの憂いが増すのである、留田の高楼に上ろう。
そしてまた暮になり、年の暮れの憂いが増すのである、留田の高楼に上ろう。
今となって本当に知ったことは、運命・人生にとってどうしても自分を抑制行くことが大切であるということだ、留田の高楼に上ろう。
年を重ねた経験のある目で見ると年齢が行くと抑制したりしないことだ、留田の高楼に上ろう。


(訳注)
寸心繫在萬里,上留田,

そんな男の心の内は万里の先にあるけれどこことつながっている、留田の高楼に上ろう。
・寸心 【すんしん】ほんの少しの気持ち。自分の気持ちをへりくだっていう語。


尺素遵此千夕,上留田,
手紙をもらえばここで毎日夕方になればこれを読むのです、留田の高楼に上ろう。
尺素 手紙をいう詩語。長さ一尺のしろぎぬに書いたので尺素という。古楽府「飲馬長城窟行」に「児を呼びて鯉魚を君れば、中に尺素の書有り」。


秋冬迭相去就,上留田,
秋がさり冬がくるとたがいに互いを思ってどう身を処するかの態度をきめる、留田の高楼に上ろう。
・迭 入れかわる。抜けて他のものとかわる。
去就 1 背き離れることと、つき従うこと。 2 どう身を処するかの態度。進退。


素雪紛紛鶴委,上留田,
白い雪がしんしんと降れば鶴に気持ちをゆだねる、留田の高楼に上ろう。
素雪 白い雪。


清風飈飈入袖,上留田,
新年の清々しい風が飄々と吹いて袖口から入り、留田の高楼に上ろう。
清風 清々しい風流な時がやってくる。清々しい風は秋口の風、新春の風をいう。


嵗云暮矣增憂,上留田,
そしてまた暮になり、年の暮れの憂いが増すのである、留田の高楼に上ろう。


嵗云暮矣增憂,上留田,
そしてまた暮になり、年の暮れの憂いが増すのである、留田の高楼に上ろう。


誠知運來詎抑,上留田,
今となって本当に知ったことは、運命・人生にとってどうしても自分を抑制行くことが大切であるということだ、留田の高楼に上ろう。


熟視年往莫留,上留田。
年を重ねた経験のある目で見ると年齢が行くと抑制したりしないことだ、留田の高楼に上ろう。
熟視 年を重ねた経験のある目で見ること。

上留田行 謝霊運(康楽) 詩<81-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩509 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1344

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上留田行
薄遊出彼東道,上留田,
少しばかり遊びをしようと東山に向かう道に出発しようとする、留田の高楼に上ろう。
薄遊出彼東道,上留田,
少しばかり遊びをしようと東山に向かう道に出発しようとする、留田の高楼に上ろう。
循聽一何矗矗,上留田,
何度も聞いているとひと度どうしてなのか背伸びをグウッとして見るのだ、留田の高楼に上ろう。
澄川一何皎皎,上留田,
澄みきった川に対しているとひと度どうしてなのか背伸びをしたら明るく光り輝く日がこうこうとしている、留田の高楼に上ろう。
悠哉逷矣征夫,上留田,
ゆったりできたなあ、遠くに出ようとしている出征していく太夫がいる、留田の高楼に上ろう。
悠哉逷矣征夫,上留田,
ゆったりできたなあ、遠くに出ようとしている出征していく太夫がいる、留田の高楼に上ろう。
兩服上阪電遊,上留田,
脱いだ服をきちんと折りたたんで、奥座敷に上がり込んで稲光がするほどの遊びをしている、留田の高楼に上ろう。
舫舟下遊颷驅,上留田,
船を並べて舟遊びをして楽しむのであるそして風のように立ち去っていく、留田の高楼に上ろう。
此別既久無適,上留田,
この場所と別れてしまうとしばらくは、とても長くこんなたのしみはないのだ、留田の高楼に上ろう。
此別既久無適,上留田,
この場所と別れてしまうとしばらくは、とても長くこんなたのしみはないのだ、留田の高楼に上ろう。

寸心繫在萬里,上留田,
尺素遵此千夕,上留田,
秋冬迭相去就,上留田,
素雪紛紛鶴委,上留田,
清風飈飈入袖,上留田,
嵗云暮矣增憂,上留田,
嵗云暮矣增憂,上留田,
誠知運來詎抑,上留田,
熟視年往莫留,上留田。
 

薄【いささ】か遊び彼の東の道に出でん,上留田,
薄【いささ】か遊び彼の東の道に出でん,上留田,
聴くに循【したが】って一に何ぞ矗矗【ちくちく】たる,上留田,
澄める川一に何ぞ皎皎【きょうきょう】たる,上留田,
悠【ゆう】なるかな逷【とお】きかな征夫は,上留田,
服を両つにして阪を上り電【いなびかり】のごと遊び,上留田,
舟を舫【なら】べ下り遊び颷【かぜ】のごとく駆く,上留田,
此より別れて既に久しく適【たの】しみ無し,上留田,
此より別れて既に久しく適【たの】しみ無し,上留田,

寸心は繋【か】けて万里に在り,上留田,
尺素【しゃくそ】は比の千夕に遵【もち】う,上留田,
秋冬迭【たが】いに相い去り就く,上留田,
秋冬迭【たが】いに相い去り就く,上留田,
素雪【そせつ】は紛粉として鶴のごとく委【ゆだ】ね,上留田,
清風飈飈【ひょうひょう】として袖に入る,上留田,
歳 云に暮れ憂いを増す,上留田,
歳 云に暮れ憂いを増す,上留田,
誠に知る運り来たり詎【いか】んぞ抑【ふせ】がん,上留田,
熟視すれば年往【ゆ】きて留まる美し,上留田,


現代語訳と訳註
(本文)
上留田行
薄遊出彼東道,上留田,
薄遊出彼東道,上留田,
循聽一何矗矗,上留田,
澄川一何皎皎,上留田,
悠哉逷矣征夫,上留田,
悠哉逷矣征夫,上留田,
兩服上阪電遊,上留田,
舫舟下遊颷驅,上留田,
此別既久無適,上留田,
此別既久無適,上留田,


(下し文)
留田に上がるの行【うた】
薄【いささ】か遊び彼の東の道に出でん,上留田,
薄【いささ】か遊び彼の東の道に出でん,上留田,
聴くに循【したが】って一に何ぞ矗矗【ちくちく】たる,上留田,
澄める川一に何ぞ皎皎【きょうきょう】たる,上留田,
悠【ゆう】なるかな逷【とお】きかな征夫は,上留田,
服を両つにして阪を上り電【いなびかり】のごと遊び,上留田,
舟を舫【なら】べ下り遊び颷【かぜ】のごとく駆く,上留田,
此より別れて既に久しく適【たの】しみ無し,上留田,
此より別れて既に久しく適【たの】しみ無し,上留田,

(現代語訳)
少しばかり遊びをしようと東山に向かう道に出発しようとする、留田の高楼に上ろう。
少しばかり遊びをしようと東山に向かう道に出発しようとする、留田の高楼に上ろう。
何度も聞いているとひと度どうしてなのか背伸びをグウッとして見るのだ、留田の高楼に上ろう。
澄みきった川に対しているとひと度どうしてなのか背伸びをしたら明るく光り輝く日がこうこうとしている、留田の高楼に上ろう。
ゆったりできたなあ、遠くに出ようとしている出征していく太夫がいる、留田の高楼に上ろう。
脱いだ服をきちんと折りたたんで、奥座敷に上がり込んで稲光がするほどの遊びをしている、留田の高楼に上ろう。
船を並べて舟遊びをして楽しむのであるそして風のように立ち去っていく、留田の高楼に上ろう。
この場所と別れてしまうとしばらくは、とても長くこんなたのしみはないのだ、留田の高楼に上ろう。
この場所と別れてしまうとしばらくは、とても長くこんなたのしみはないのだ、留田の高楼に上ろう。


(訳注)
上留田行

宏調曲で歌う。この詩は魏の文帝、曹丕がそうであったのであろうか、同句の繰り返しが非常に多い。
上留田行  曹丕(貧乏な男をうたう) 
居世一何不同、上留田行。
富人食稲與粱、上留田行。
貧子食糟與糠、上留田行。
貧賤亦何傷、上留田行。
禄命懸在蒼天、上留田行。


今爾歎息、将欲誰怨、上留田行。
世に居る 一に何ぞ同じからざる、上留田行。
富人は稲と粱を食い、上留田行。
貧子は糟と糠を食い、上留田行。
貧賤なるも亦た何んぞ傷まん、上留田行。
禄命 懸りて蒼天に在り、上留田行。
今 爾 歎息し、将に誰れをか怨まんとす、上留田行。

謝靈運の詩から想像して、留田というのは歓楽街であろうと思う。○○○ 留田のおねえちゃんとはやし立てるようなイメージをする。謝安の芸妓を携えて東山
始寧の別荘の南に楼があり、そこで漢の謝安の故事、朝廷の誘いに乗らず始寧の芸妓を携えて遊んだことにならい、芸妓を待っていたが来なかったときの感情を歌ったものである
送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈
攜妓東山去。 春光半道催。
遙看若桃李。 雙入鏡中開。
 姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り
妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。
遙(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。
○漢の謝安(字は安石)が始寧(会稽紹興市の東の上虞県の西南)に隠居して朝廷のお召しに応じなかったのは「東山高臥」といって有名な講である。山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。○携 佳人=美人=芸妓を携える。謝安の故事をふまえる。
送姪良携二妓赴会稽戯有此贈  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -287


薄遊出彼東道,上留田,
少しばかり遊びをしようと東山に向かう道に出発しようとする、留田の高楼に上ろう。


薄遊出彼東道,上留田,
少しばかり遊びをしようと東山に向かう道に出発しようとする、留田の高楼に上ろう。


循聽一何矗矗,上留田,
何度も聞いているとひと度どうしてなのか背伸びをグウッとして見るのだ、留田の高楼に上ろう。
【じゅん】 決まったルールにしたがう。よる。「循守・循吏/因循」2 あちこちとめぐる。「循環」
矗矗【ちくちく】直立して伸びるさま。そびえ立つさま。


澄川一何皎皎,上留田,
澄みきった川に対しているとひと度どうしてなのか背伸びをしたら明るく光り輝く日がこうこうとしている、留田の高楼に上ろう。
皎皎【こうこう】明るく光り輝くさま。特に、太陽・月・雪などにいう。こうこう。


悠哉逷矣征夫,上留田,
ゆったりできたなあ、遠くに出ようとしている出征していく太夫がいる、留田の高楼に上ろう。
 ゆったりとどこまでも長く続く。・ とおく。・征夫 出征していく太夫。武士。


悠哉逷矣征夫,上留田,
ゆったりできたなあ、遠くに出ようとしている出征していく太夫がいる、留田の高楼に上ろう。


兩服上阪電遊,上留田,
脱いだ服をきちんと折りたたんで、奥座敷に上がり込んで稲光がするほどの遊びをしている、留田の高楼に上ろう。
・阪 坂道のこと。普通、坂と書く。


舫舟下遊颷驅,上留田,
船を並べて舟遊びをして楽しむのであるそして風のように立ち去っていく、留田の高楼に上ろう。
舫舟 舟と舟をつなぎあわせてあること、または、杭などに舟をつなぎとめることで、そのつなぎとめているものを「舫綱」という。

此別既久無適,上留田,
この場所と別れてしまうとしばらくは、とても長くこんなたのしみはないのだ、留田の高楼に上ろう。

此別既久無適,上留田,
この場所と別れてしまうとしばらくは、とても長くこんなたのしみはないのだ、留田の高楼に上ろう。

西門行 漢の無名氏 詩<81-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩511 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1350

西門行 漢の無名氏 詩<81>Ⅱ李白に影響を与えた詩511 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1350

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李商隠詩
2011/7/11 ~ 2012/1/11 まで毎日掲載 全130首(187回)
第一回李商隠 1 錦瑟
最終回唐宋 Ⅰ李商隠187 行次西郊作一百韻  白文/現代語訳 (全文)


古詩源 漢の無名氏『西門行』。
西門行
出西門、歩念之、今日不作樂、當待何時。
歓楽街のある西門を出たのであるが、歩きながらおもいかえしてみる、今日、楽しいことはしていない、こんなことではいったいいつ楽しむことができるというのだ。
夫爲樂、爲樂當及時。
そもそも悦楽をえようというのなら、楽しむべき時に逃さないようにしないといけないのだ。
何能坐愁拂鬱、當復待來茲。
どうして座ったままでくよくよし悶々と苦悩したとしてまさに来年まで待たなければいけないなんてことはあるまいに。
飲醇酒、炙肥牛、請呼心所歡、可用解愁憂。
よい酒を飲み、肥えた牛の肉を炙り、自分の心から許せる相手をよびたいのだ、そのうえで初めて心の憂いを解消することが出来るというものなのだ。
人生不滿百、常懷千歳憂。
人生は百年にも満たないというのに、常に千年後の憂いを心配するおろかなものである。
晝短而夜長、何不秉燭游。
秋の日は昼は短くして夜は長いのが苦であるなら、明かりを照らし夜を比に継ぎ足して遊ばないのだ。(毎夜毎夜、ともし火を掲げて遊びをつくすべきなのだ。)
自非仙人王子喬、計會壽命難與期。
仙人の王子喬ではないから寿命を数えたところで他人と寿命時期を同じようにすることなど難しいのだ。
自非仙人王子喬、計會壽命難與期。
王子喬のような仙人ではないから、寿命を数えたところでたかが知れたものということだ。
人壽非金石、年命安可期。
人の寿命は金石のように不変ではないのだ。いつまでもいきると予測できる命ではないのた。
財愛惜費、但爲後世嗤。
財貨をむさぼり、出費を惜しむことだけをしたとしても、その結果はただ、後世の笑われ草、嗤となるだけのことである。



現代語訳と訳註
(本文)
西門行

出西門、歩念之、今日不作樂、當待何時。
夫爲樂、爲樂當及時。
何能坐愁拂鬱、當復待來茲。
飲醇酒、炙肥牛、請呼心所歡、可用解愁憂。
人生不滿百、常懷千歳憂。
晝短而夜長、何不秉燭游。
自非仙人王子喬、計會壽命難與期。
自非仙人王子喬、計會壽命難與期。
人壽非金石、年命安可期。
貪財愛惜費、但爲後世嗤。


(下し文)
西門行 【せいもんきょう】
西門を出で、歩みて之を念う、今日 樂しみを作さずんば、當【まさ】に何れの時をか待つべき。
夫れ樂しみを爲さん、樂しみを爲すには當に時に及ぶべし。
何んぞ能く坐し愁えて鬱を拂いて、當に復た來茲を待んや。
醇酒【じゅんしゅ】を飲み、肥牛【ひぎゅう】を炙り、請する心に歡ぶ所を呼べば、用って愁憂を解く可けん。
人生は百に滿たず、常に千歳の憂いを懷う。
晝【ひる】短くして夜長く、何ぞ燭游を秉らざるや。
仙人王子喬に非らざるより、計會して壽命【じゅみょう】を與に期するを難し。
仙人王子喬に非らざるより、計會して壽命【じゅみょう】を與に期するを難し。
人壽は金石に非らず、年命安くんぞ期す可けん。
財を貪【むさぼ】りて費を愛惜すれば、但 後世の嗤【わらび】と爲るのみ。


(現代語訳)
歓楽街のある西門を出たのであるが、歩きながらおもいかえしてみる、今日、楽しいことはしていない、こんなことではいったいいつ楽しむことができるというのだ。
そもそも悦楽をえようというのなら、楽しむべき時に逃さないようにしないといけないのだ。
どうして座ったままでくよくよし悶々と苦悩したとしてまさに来年まで待たなければいけないなんてことはあるまいに。
よい酒を飲み、肥えた牛の肉を炙り、自分の心から許せる相手をよびたいのだ、そのうえで初めて心の憂いを解消することが出来るというものなのだ。
人生は百年にも満たないというのに、常に千年後の憂いを心配するおろかなものである。
秋の日は昼は短くして夜は長いのが苦であるなら、明かりを照らし夜を比に継ぎ足して遊ばないのだ。(毎夜毎夜、ともし火を掲げて遊びをつくすべきなのだ。)
仙人の王子喬ではないから寿命を数えたところで他人と寿命時期を同じようにすることなど難しいのだ。
王子喬のような仙人ではないから、寿命を数えたところでたかが知れたものということだ。
人の寿命は金石のように不変ではないのだ。いつまでもいきると予測できる命ではないのた。
財貨をむさぼり、出費を惜しむことだけをしたとしても、その結果はただ、後世の笑われ草、嗤となるだけのことである。


(訳注)
西門行

・城郭における西門は遊郭のある歓楽街の門である。この詩は時を逸せず快楽を得るものだという享楽思想を詠ったもので貴族の遊びの歌である。したがって、駢儷文のような歯切れの良さと抑揚をもって詠うものであった。

出西門、歩念之、今日不作樂、當待何時。
歓楽街のある西門を出たのであるが、歩きながらおもいかえしてみる、今日、楽しいことはしていない、こんなことではいったいいつ楽しむことができるというのだ。


夫爲樂、爲樂當及時。
そもそも悦楽をえようというのなら、楽しむべき時に逃さないようにしないといけないのだ。


何能坐愁拂鬱、當復待來茲。
どうして座ったままでくよくよし悶々と苦悩したとしてまさに来年まで待たなければいけないなんてことはあるまいに。
來茲 来年。句の頭に來ると、謝靈運『白石巖下徑行田詩』「天鑒儻不孤。來茲驗微誠。」來茲[読み]まさに~すべし;応(應)~ [意味]おそらく(きっと)~だろう。

白石巌下径行田詩 #1 謝霊運<18>  詩集 383


飲醇酒、炙肥牛、請呼心所歡、可用解愁憂。
よい酒を飲み、肥えた牛の肉を炙り、自分の心から許せる相手をよびたいのだ、そのうえで初めて心の憂いを解消することが出来るというものなのだ。


人生不滿百、常懷千歳憂。
人生は百年にも満たないというのに、常に千年後の憂いを心配するおろかなものである。
この句からは、古詩十九首其十五とおなじ。

晝短而夜長、何不秉燭游。
秋の日は昼は短くして夜は長いのが苦であるなら、明かりを照らし夜を比に継ぎ足して遊ばないのだ。(毎夜毎夜、ともし火を掲げて遊びをつくすべきなのだ。)
・秉燭 蝋燭を手に取るのではなく、燃えていると暗くなるので燃え尽きた部分を切ると再び明るくなる。このことで「燭を秉る」とは芯を取り換えることを言い、一晩中と意味になる。ここでは昼が短いので次の夜もつないでずっとということになる。秋から冬の長い夜全部つないでと考えると味わい深い。
古風五十九首 其二十三
秋露白如玉、團團下庭綠。
我行忽見之、寒早悲歲促。
人生鳥過目、胡乃自結束。
景公一何愚、牛山淚相續。
物苦不知足、得隴又望蜀。
人心若波瀾、世路有屈曲。
三萬六千日、夜夜當秉燭。
秋の霧は白くて宝玉のように輝いている。まるく、まるく、庭の木の下に広がっている縁の上におりている。
わたしの行く先々で、どこでもそれを見たものだ。寒さが早く来ている、悲しいことに年の瀬がおしせまっている。
人生は、鳥が目のさきをかすめて飛ぶ瞬間にひとしい。それなのに、どうして儒教者たちは自分で自分を束縛することをするのか。
むかしの斉の景公は、じつに何とおろかなことか。牛山にあそんで美しい国土をながめ、人間はどうして死んでしまうのかと歎いて、涙をとめどもなく流した。
世間の人間が満足を知らないというのは困ったことだ。隴が手に入ると、蜀まで欲しくなるものなのだ。
人の心はあたかも大波のようだ。そして、処世の道には曲りくねりがある。
人生、三万六千日、毎夜毎夜、ともし火を掲げて遊びをつくすべきなのだ。

古風 其二十三 李白113


春夜宴桃李園序 李白116

天地者,萬物之逆旅;
光陰者,百代之過客。

浮生若夢,爲歡幾何?
古人秉燭夜遊,良有以也。

陽春召我以煙景,大塊假我以文章。
會桃李之芳園,序天倫之樂事。
群季俊秀,皆爲惠連。
吾人詠歌,獨慚康樂。
幽賞未已,高談轉清。
開瓊筵以坐華,飛羽觴而醉月。
不有佳作,何伸雅懷?
如詩不成,罰依金谷酒斗數。

春夜桃李園宴序李白116


自非仙人王子喬、計會壽命難與期。
仙人の王子喬ではないから寿命を数えたところで他人と寿命時期を同じようにすることなど難しいのだ。


自非仙人王子喬、計會壽命難與期。
王子喬のような仙人ではないから、寿命を数えたところでたかが知れたものということだ。
王子喬に関する詩(1)  
謝霊運(康楽) 『登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。』 「倘遇浮丘公,長絕子徽音。」
あるいは、もし、山中で浮丘公のような仙人にあうようなことがあったならは、王子喬がそのまま山にとどまったように永久に君のおたよりを貰えぬことになるだろう。 
浮斤公 列仙伝に「王子喬は好んで笙を吹く。道人の浮丘公は接して以て嵩山にのぼる」。周の霊王の太子。笙を吹くことを好み、とりわけ鳳凰の鳴き声を出すことが得意だった。王子喬がある時、河南省の伊水と洛水を漫遊した時に、浮丘公という道士に出逢った。王子喬は、その道士について嵩山に登っていった。そこにいること三十余年、浮丘公の指導の下、仙人になった。その後、王子喬は白い鶴に乗って、飛び去った、という『列仙傳』に出てくる故事中の人物。
微音 りっぱななたより。
登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。 謝霊運(康楽) 詩<65-4>Ⅱ李白に影響を与えた詩486 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1275

王子喬に関する詩(2)
謝靈運『石室山詩』「微戎無遠覽。總笄羨升喬。」
あの昔の微子啓と公子罷戎の同盟を結んだはるかに遠い出来事として見ることはできないし、髪の毛を束ねて役人の簪をつけたとして趙升や王子喬の仙人を羨ましがっているのだ。
微戎 微子啓(鄭の王)と罷戎(楚の公子)のこと。B.C.564閏12月、鄭が晋についたので、楚恭王は鄭を討たれ、その後楚と和睦したので、公子罷戎は鄭に使いして同盟を結んだ。・總笄 總は髪の毛を束ねること。笄はかんざし。・ 趙升のこと。漢代の仙人,生卒年均不詳,道教天師道創始者張道陵の弟子。・喬 王子喬【おうしきょう】のこと。中国、周代の仙人。霊王の太子といわれる。名は晋。白い鶴にまたがり、笙(しょう)を吹いて雲中を飛んだという。
石室山詩 謝霊運(康楽) 詩<55-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩443 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1146

王子喬に関する詩(3)
孟浩然『將適天臺,留別臨安李主簿』「羽人在丹丘,吾亦從此逝。」
仙境の道士たちは丹を練り、天台山で道を求めてしゅぎょうしている。私もまたその地へ赴いていこうとしている。
羽人 中国の道教において、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を指す。羽人、僊人ともいう。 道教の不滅の真理である、道(タオ)を体現した人とされる。○丹丘 胡紫陽の事蹟は李白の作「漢東紫陽先生碑銘」あり、ここに詳しく伝えられている。 「胡紫陽は代々道士の家に生れ、九歳で出家し、十二歳から穀類を食うことをやめ(これが修行の第一段階である)、二十歳にして衡山(五嶽の一、南嶽、湖南省衡陽の北)に遊んだ。(この後は欠文があって判りにくいが、その後、召されて威儀及び天下採経使といふ道教の官に任ぜられ、隋州に飡霞楼を置いたなどのことが書かれている。)彼の道統は漢の三茅(茅盈、茅固、茅衷の三兄弟)、晋の許穆父子等に流を発し、その後、陳の陶弘景(陶隠居)、その弟子唐の王遠知(昇元先生)、その弟子潘師正(体元先生)、その弟子で李白とも交りのあった司馬承禎(貞一先生)を経て、李含光より伝はった。弟子は三千余人あったが、天宝の初、その高弟元丹邱はこれに嵩山(スウザン)及び洛陽に於いて伝籙をなさんことを乞うたが、病と称して往かぬといふ高潔の士であった。その後、いくばくもなくして玄宗に召されると、止むを得ないで赴いたが、まもなく疾と称して帝城を辞した。その去る時には王公卿士みな洛陽の龍門まで送ったが、葉県(河南省)まで来て、王喬(また王子喬、王子晋といい周の王子で仙人だったと)の祠に宿ったとき、しずかに仙化した。この年十月二十三日、隋州の新松山に葬った。時に年六十二歳であった。」 と示しており、李白が紫陽と親交あり、紫陽の説教の十中の九を得たことをいっている。李白にはまた別に「隋州の紫陽先生の壁に題す」という詩があり、紫陽との交りを表している。しかし胡紫陽先生よりも、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、12首もある。
「楚辞」遠遊に「仍羽人於丹丘兮、留不死之旧郷」、孫綽「遊天台山賦」に「仍羽人於丹丘、尋不死之福庭」とある。
將適天臺,留別臨安李主簿 孟浩然26 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -333


王子喬に関する詩(4)
李白『古風五十九首 其七』「兩兩白玉童。雙吹紫鸞笙。」
左右に、白玉のように美しいお顔の童子う従えて、ともに紫檀で鷲のかたちの笙を奏でている。
○白玉童 白玉のような清らかな顔の童子。○紫鸞笙 王子喬という仙人は笙の名手であったが、かれの笙は紫檀で鳳翼にかたどって製ってあった。鸞は、鳳風の一種。

古風五十九首 其七 李白 108/350


人壽非金石、年命安可期。
人の寿命は金石のように不変ではないのだ。いつまでもいきると予測できる命ではないのた。


貪財愛惜費、但爲後世嗤。
財貨をむさぼり、出費を惜しむことだけをしたとしても、その結果はただ、後世の笑われ草、嗤となるだけのことである。

順東門行 謝霊運(康楽) 詩<79>Ⅱ李白に影響を与えた詩507 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1338

順東門行 謝霊運(康楽) 詩<79>Ⅱ李白に影響を与えた詩507 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1338

     
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 李商隠詩李商隠/韓愈韓退之(韓愈)・柳宗元・李煜・王安石・蘇東坡 
   2011/7/11李商隠 1 錦瑟 
      2011/7/11 ~ 2012/1/11 まで毎日掲載 全130首(187回) 
   2012/1/11 唐宋 Ⅰ李商隠187 行次西郊作一百韻  白文/現代語訳 (全文) 
     

順東門行
出西門,眺雲間,揮斤扶木墜虞泉,
西門を出ることは閨を後にするか、歓楽から出ること、振り返ると薄もやの中に妓女をのぞむ。斧をふるいうまく枝を断ち切る『荘子』に出る二人の名人郢と匠の故事ように上手な技術で美人の泉を陥落させた。
信道人,鑒徂川,思樂暫捨誓不旋,
浄土信仰を信じる者にとって、川は低きに流れゆく当たり前のこととして、歓楽を思うことはしばらくは捨てると誓い人生を迷うことない。
閔九九,傷牛山,宿心載違徒昔言,
古代の禹帝の子啟【けい】が勤勉によって九辯九歌を得たのに死ねば憐れだし、孟子が言われた牛山の木にしても斧できればただの木で、前々からの志があってもそれは昔の人が言うようにはなりはしない。
競運落,務頹年,招命儕好相追牽,
良い時には思いもしなかったが運が落ちてきたら競争するし、年老いてくれば急に勤勉に務めるものだ。そして息の合った友達同士が招いたり、命じたりして、互いに追いもとめ、ひっぱりあう。
酌芳酤,奏繁絃,惜寸陰,情固然。
そうして、香しいお酒を酌み交わし、一所懸命に琴を演奏して、わずかの間も惜しむことなく、心情、感情、友情を固くするものである。
西門【せいもん】を出でて 雲間を眺め、斤【まさかり】を揮【ふる】いて木を扶【えぐ】り虞泉【ぐせん】に墜つ。
信の道の人 徂川【そせん】に鑒【かんが】み、楽を思うこと暫く捨てて旋【せん】せざるを誓う。
九九を閔【あわ】れみ 牛山を傷む、宿心 載【すなわ】ち違い徒【いたず】らに昔言す。
落運に競い 頽年は務め、儕好【さいこう】を招命して相い追牽【ついけん】す。
芳しき酤【さけ】を酌み 繁絃【はんげん】を奏し、惜しみ 情は固然【かた】し。

miyajima 709330


現代語訳と訳註
(本文)
順東門行
出西門,眺雲間,揮斤扶木墜虞泉,
信道人,鑒徂川,思樂暫捨誓不旋,
閔九九,傷牛山,宿心載違徒昔言,
競運落,務頹年,招命儕好相追牽,
酌芳酤,奏繁絃,惜寸陰,情固然。


(下し文)
西門【せいもん】を出でて 雲間を眺め、斤【まさかり】を揮【ふる】いて木を扶【えぐ】り虞泉【ぐせん】に墜つ。
信の道の人 徂川【そせん】に鑒【かんが】み、楽を思うこと暫く捨てて旋【せん】せざるを誓う。
九九を閔【あわ】れみ 牛山を傷む、宿心 載【すなわ】ち違い徒【いたず】らに昔言す。
落運に競い 頽年は務め、儕好【さいこう】を招命して相い追牽【ついけん】す。
芳しき酤【さけ】を酌み 繁絃【はんげん】を奏し、惜しみ 情は固然【かた】し。


(現代語訳)
西門を出ることは閨を後にするか、歓楽から出ること、振り返ると薄もやの中に妓女をのぞむ。斧をふるいうまく枝を断ち切る『荘子』に出る二人の名人郢と匠の故事ように上手な技術で美人の泉を陥落させた。
浄土信仰を信じる者にとって、川は低きに流れゆく当たり前のこととして、歓楽を思うことはしばらくは捨てると誓い人生を迷うことない。
古代の禹帝の子啟【けい】が勤勉によって九辯九歌を得たのに死ねば憐れだし、孟子が言われた牛山の木にしても斧できればただの木で、前々からの志があってもそれは昔の人が言うようにはなりはしない。
良い時には思いもしなかったが運が落ちてきたら競争するし、年老いてくれば急に勤勉に務めるものだ。そして息の合った友達同士が招いたり、命じたりして、互いに追いもとめ、ひっぱりあう。
そうして、香しいお酒を酌み交わし、一所懸命に琴を演奏して、わずかの間も惜しむことなく、心情、感情、友情を固くするものである。


(訳注)
順東門行

東門は志を以て家を出ること。謝恵連にも同題の作がある。詩は、古詩源 漢の無名氏『西門行』をまねて作る。
西門行
出西門、歩念之、今日不作樂、當待何時。
夫爲樂、爲樂當及時。
何能坐愁拂鬱、當復待來茲。
飲醇酒、炙肥牛、請呼心所歡、可用解愁憂。
人生不滿百、常懷千歳憂。
晝短而夜長、何不秉燭游。
自非仙人王子喬、計會壽命難與期。
自非仙人王子喬、計會壽命難與期。
人壽非金石、年命安可期。
貪財愛惜費、但爲後世嗤。


出西門,眺雲間,揮斤扶木墜虞泉
西門を出ることは閨を後にするか、歓楽から出ること、振り返ると薄もやの中に妓女をのぞむ。斧をふるいうまく枝を断ち切る『荘子』に出る二人の名人郢と匠の故事ように上手な技術で美人の泉を陥落させた。
西門 西は家でいえば閨であったり、城郭内では芸妓のいる歓楽街の門である。・揮斤扶木 『荘子』 に出る二人の名人郢と匠の故事。 郢人(えいひと)の左官の鼻先に薄く塗った土を、匠石(しょうせき)という大工が手斧(ちょうな)を振って傷つけることなくこれを落としたという。 ここでは、釈迦・弥陀二尊の意が一致していることを喩えたもの。郢匠揮斤.【釋義】:比喻純熟、高超的技藝。 【出處】:《莊子•徐無鬼》載,匠石揮斧削去郢人塗在鼻翼上的白粉,而不傷其人。


信道人,鑒徂川,思樂暫捨誓不旋,
浄土信仰を信じる者にとって、川は低きに流れゆく当たり前のこととして、歓楽を思うことはしばらくは捨てると誓い人生を迷うことない。
信道人 浄土信仰を信じる者。・徂川 川は低きに流れゆく当たり前のこと。東流と同義語。


閔九九,傷牛山,宿心載違徒昔言,
古代の禹帝の子啟【けい】が勤勉によって九辯九歌を得たのに死ねば憐れだし、孟子が言われた牛山の木にしても斧できればただの木で、前々からの志があってもそれは昔の人が言うようにはなりはしない。
閔九九 『楚辞、天問』「啟棘賓商,九辯九歌」(啟【けい】棘【ゆめ】に商【てい】に賓【ひん】し,九辯九歌あり。)聖人といわれる禹の一般の男女と同じに交友をしたのかと詠い、その子啟が災難に遭って拘禁されたが、後自由を得て、勤勉によって九辯九歌を得たのに死ねば憐れだ。・傷牛山 【孟子:告子章句上八】 『原文』 孟子曰、 牛山之木嘗美矣、 以其郊於大國也、 斧斤伐之、可以爲美乎。(孟子曰く、 牛山の木は 嘗て美なり。 其の大国に 郊するを以て、 斧斤【ふきん】之を伐る、以て美と為す可けんや。)・宿心 =宿志:かねてからの希望。前々からの志。・昔言 古人のことば。


競運落,務頹年,招命儕好相追牽,
良い時には思いもしなかったが運が落ちてきたら競争するし、年老いてくれば急に勤勉に務めるものだ。そして息の合った友達同士が招いたり、命じたりして、互いに追いもとめ、ひっぱりあう。
競運落 良い時には思いもしなかったが運が落ちてきたら競争する。・務頹年 年老いてくれば急に勤勉に務める。・儕好 息の合った友達同士。・相追牽 互いに追いもとめ、ひっぱりあうこと。


酌芳酤,奏繁絃,惜寸陰,情固然。
そうして、香しいお酒を酌み交わし、一所懸命に琴を演奏して、わずかの間も惜しむことなく、心情、感情、友情を固くするものである。

早春寄王漢陽  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -284

早春寄王漢陽  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -284


早春寄王漢陽
早春に王漢陽に寄せる。
聞道春還未相識、走傍寒梅訪消息。
今年も春がめぐってきたと誰からともなく聞いたけれど、どこにも見あたりはしない、寒中に咲いている梅があった、春のたよりをたずねてみるにはその木の傍に寄ってみることなのだ。
昨夜東風入武昌、陌頭楊柳黃金色。
ゆうべも、東の春風は、もう武昌に入って、大道の町角の柳絮やこがね色柳の芽が芽吹いたという。
碧水浩浩云茫茫、美人不來空斷腸。
碧の澄んだ水は、ひろびろとひろがっている、雲ははるかかなたまでつづいている。王君と別れるこの場には美人の芸妓が来るかと思ったがこなかった残念でたまらないことだろう。
預拂青山一片石、與君連日醉壺觴。

青い山でみつけた一つの石をきれいに払い清めて預けよう、君といっしょに連日、新種の壺酒の紐をほどいて酔いたいのだ。


早春 王漢陽に寄す
聞遠く春還ると 未だ相識らず、走って寒梅に傍うて 消息を訪う。
昨夜東風 武昌に入る、陌頭の楊柳 黄金の色。
碧水は浩浩 雲は茫茫、美人来らず 空しく断腸す。
預め払う青山一片の石、君と連日 壺觴に酔わん。

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早春寄王漢陽 現代語訳と訳註
(本文)  早春寄王漢陽

聞道春還未相識、走傍寒梅訪消息。
昨夜東風入武昌、陌頭楊柳黃金色。
碧水浩浩云茫茫、美人不來空斷腸。
預拂青山一片石、與君連日醉壺觴。


(下し文) 早春 王漢陽に寄す
聞道く春還ると 未だ相識らず、走って寒梅に傍うて 消息を訪う。
昨夜東風 武昌に入る、陌頭の楊柳 黄金の色。
碧水は浩浩 雲は茫茫、美人来らず 空しく断腸す。
預め払う青山一片の石、君と連日 壺觴に酔わん。


(現代語訳)
早春に王漢陽に寄せる。
今年も春がめぐってきたと誰からともなく聞いたけれど、どこにも見あたりはしない、寒中に咲いている梅があった、春のたよりをたずねてみるにはその木の傍に寄ってみることなのだ。
ゆうべも、東の春風は、もう武昌に入って、大道の町角の柳絮やこがね色柳の芽が芽吹いたという。
碧の澄んだ水は、ひろびろとひろがっている、雲ははるかかなたまでつづいている。王君と別れるこの場には美人の芸妓が来るかと思ったがこなかった残念でたまらないことだろう。
青い山でみつけた一つの石をきれいに払い清めて預けよう、君といっしょに連日、新種の壺酒の紐をほどいて酔いたいのだ。

DCF00110

(訳注)   早春寄王漢陽
早春に漢陽で王に寄せる。
王漢陽漢陽(いまの湖北省漢陽県)の県令であった王某。


聞道春還未相識、走傍寒梅訪消息。
今年も春がめぐってきたと誰からともなく聞いたけれど、どこにも見あたりはしない、寒中に咲いている梅があった、春のたよりをたずねてみるにはその木のの傍に寄ってみることなのだ。
寒梅 寒中に咲く梅。黄梅のこと。芸妓を示すこともある。○消息たより。


昨夜東風入武昌、陌頭楊柳黃金色。
ゆうべも、東の春風は、もう武昌に入って、大道の町角の柳絮やこがね色柳の芽が芽吹いたという。
東風 はるかぜ。○武昌湖北省武昌。漢陽のすぐ東。漢水と長江の合流するところ。○陌頭 町角。大通りの交差点の曲がり角。春風には青緑となるが黄金色は真ん中を表す語で次の聯の美人の真ん中、断腸で下半身の真ん中という意味を含んでおり、李白の遊び心十分の言い回しである。○楊柳 楊柳は男女を示す。また楊は芸妓の色町を示す語である。柳は男性であるが、細柳は女性を示す語として、つかわれる。


碧水浩浩云茫茫、美人不來空斷腸。
碧の澄んだ水は、ひろびろとひろがっている、雲ははるかかなたまでつづいている。王君と別れるこの場には美人の芸妓が来るかと思ったがこなかった残念でたまらないことだろう。
 ○浩浩 水のひろびろしたさま。○美人 よき人。友人にもいう。ここでは断腸という語に対しての語であるから、芸妓のことと思われる。断腸は胸のもやもやではなく下半身のもやもやをいう。


預拂青山一片石、與君連日醉壺觴。
青い山でみつけた一つの石をきれいに払い清めて預けよう、君といっしょに連日、新種の壺酒の紐をほどいて酔いたいのだ。
醉壺觴 酒つぼとさかずき。壺酒は新酒は春の呼び声とともにある。新種の壺酒は油紙のような蓋をして黄色の紐で封印がしてある。この2句も男女の交わりを連想させる語を使用している。

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古風 五十九首 其二十六 李白  Kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 李白173 と 玄宗(6)

古風 五十九首 其二十六 李白  Kanbuniinkai 紀頌之の漢詩 李白173 と 玄宗(6)



玄宗(6)
寿王との結婚を受け入れた楊玉環だが、玄宗と運命的な出会いをしてしまう。寿王を含めた兄弟たちの権力争いが大きくなっていく。
寿王の母の武恵妃は芙蓉園での演奏会で、楊玉環の発案という名目で、500人の近衛兵に鎧を着せ、武器を持たせる事を提案する。それは、自分たちの危機を感じていた李瑛たちが、これに乗じて動き出すと考えた武恵妃の罠だった。光王、鄂王がこの罠にはまり、偽の剣とみせかけて本物の剣を持ち込んだ事が発覚してしまう。


737年(開元25年)玄宗は、謀反を企てた李瑛と光王、鄂王を平民に落として都から追放。張九齢は自ら命を絶つ。李瑛を罠にはめた武恵妃は治療法のない重い病で没する。

玄宗は、見晴らしの良い場所に墓地を設けて敬陵と名づける。寿王は馬でその地を駈けた事で怒りを買い、母の墓の建立という重要な任務を忠王に取られてしまう。この情報操作は、宦官の手によるものであった。


738年(開元26年)、玄宗冊立の大典を行い、正式に忠王を皇太子とし、名を李亨と改める。大失態の寿王は皇太子の地位をめぐる後継者争いは、敗れてしまった。



740年の前後、李白は山東で竹渓の六逸と称して遊び、酒と詩作の生活をしていた。この中の一人呉筠が朝廷から呼び出された。道教の仲間であった
玄宗は驪陽宮で再び楊玉環と会い、美しい胡服姿に目を奪われる。妹である玉真に頼み、楊玉環を驪山華清宮に招き評価をさせる。

父である玄宗に楊玉環を奪われてしまう事は寿王苦しまたが、玄宗の絶対的な権力に抵抗することはできない。玄宗は寿王に、側室として魏来馨を与えられる
寿王は、楊玉環に、自分を皇太子にするよう様に頼むことしかなかった。
西暦740年(開元28年)に、玄宗皇帝は楊玉環を後宮に住まわせ、道号「太真法師」とし、宮中に道観を建てる。

742年玄宗は李林甫を人事部長官に任命すると共に、節度使の後任には皇太子側の勢力である王忠嗣と皇甫惟明を任命し、権力を分散させる。地方潘鎮の力が強まるのを抑える意味で、時期尚早との意見がある中、安禄山を平盧軍の節度使に抜擢する。李は持朝廷に召されるのである。


其二十六
碧荷生幽泉。 朝日艷且鮮。
みどりの蓮が、人目につかない泉に生えている。朝日をうけて、つややかで、その上、あざやかだ。
秋花冒綠水。 密葉羅青煙。
秋にひらく花は、綠の水の上におおいかぶさる。密生した葉は、青い靄に網をかぶせられたよう。
秀色空絕世。 馨香竟誰傳。
そのすばらしい色は絶世のうつくしさだが、そのよいかおりを、だれが世間につたえてくれよう。
坐看飛霜滿。 凋此紅芳年。
やがて霜がいちめんにふりかかる時節ともなれば、せっかくの紅い花びらのしおれてしまうのを、むざむざと見なければならぬ。
結根未得所。 願托華池邊。

根をおろすのに場所がわるかった。何とかできるものなら、華池のぞばに身をよせたいものだが。


みどりの蓮が、人目につかない泉に生えている。朝日をうけて、つややかで、その上、あざやかだ。
秋にひらく花は、綠の水の上におおいかぶさる。密生した葉は、青い靄に網をかぶせられたよう。
そのすばらしい色は絶世のうつくしさだが、そのよいかおりを、だれが世間につたえてくれよう。
やがて霜がいちめんにふりかかる時節ともなれば、せっかくの紅い花びらのしおれてしまうのを、むざむざと見なければならぬ。
根をおろすのに場所がわるかった。何とかできるものなら、華池のぞばに身をよせたいものだが。




古風其の二十六
碧荷(へきか)幽泉に生じ、朝日艶にして且つ鮮(あざや)かなり。
秋花綠水を冒(おお)い、密葉青煙を羅(あみ)す。
秀色 空しく絶世、馨香 誰か為に伝えん。
坐(そぞろ)に看る 飛霜(ひそう)満ちて、此の紅芳の年を凋(しぼ)ましむを。
根を結んで 未だ所を得ず、願わくは華池の辺に託せん。


碧荷生幽泉。 朝日艷且鮮。
みどりの蓮が、人目につかない泉に生えている。朝日をうけて、つややかで、その上、あざやかだ。
碧荷 みどり色の蓮。 ○幽泉 人目につかないところ。茂みの影の暗いところ。


秋花冒綠水。 密葉羅青煙。
秋にひらく花は、綠の水の上におおいかぶさる。密生した葉は、青い靄に網をかぶせられたよう。
綠水 澄み切った水。 ○羅青煙 青い靄に網をかぶせられる。


秀色空絕世。 馨香竟誰傳。
そのすばらしい色は絶世のうつくしさだが、そのよいかおりを、だれが世間につたえてくれよう。
馨香 よいかおり。


坐看飛霜滿。 凋此紅芳年。
やがて霜がいちめんにふりかかる時節ともなれば、せっかくの紅い花びらのしおれてしまうのを、むざむざと見なければならぬ。


結根未得所。 願托華池邊。
根をおろすのに場所がわるかった。何とかできるものなら、華池のぞばに身をよせたいものだが。
華池 西王母の住む崑崙山上にある池の名。(瑤地)


******もう一つの意味*********************
この詩も高貴なところで詠われる詩で、艶情詩である、
碧荷生幽泉。 朝日艷且鮮。
まだうら若い女性の局部は高貴なお方によって艶や科であっても新鮮。
○碧荷 まだうら若い女性。 ○幽泉 女性の局部。

秋花冒綠水。 密葉羅青煙。
(性交の描写)これは訳したくない。
秀色空絕世。 馨香竟誰傳。
そのすばらしい色は絶世の美しさだが、その好い香りは、伝えることができない。

坐看飛霜滿。 凋此紅芳年。
やがて年を重ねる、素晴らしかった紅い花弁もしおれてしまうものだ。
結根未得所。 願托華池邊。
寿王などでは所がわるい。天子の華清宮の側に身をよせるのがよい。
*****************************************

灞陵行送別 李白:Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白139

灞陵行送別 李白:Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白139
雑言古詩「灞陵行送別」 李白 



灞陵行送別
送君灞陵亭。 灞水流浩浩。
灞陵亭で君を送る、灞水の流れはひろびろとうららかにながれている。
上有無花之古樹。 下有傷心之春草。
まだ早春で、頭上には花のない古木がある、足元には心を痛めるような芽生え始めた春草が生えている
我向秦人問路歧。 云是王粲南登之古道。
土地の人に向かって東洛陽方面と南はどこへと分かれ道のことを尋ねた。こちらの道は建安の七子の王粲が「南登」と歌った古道はこれで漢水まで続くのだといった。
古道連綿走西京。 紫闕落日浮云生。
もう一方の古道は、洛陽から連綿と続いて長安にはしっている。その紫の天子の御門のうちでは夕日が落ちて宮女たちのよろこびが生じているのだろう。
正當今夕斷腸處。 驪歌愁絕不忍聽。

まさに今夜わたしは別れてひとりの夜、断腸のもだえ聲のあるところ、女が主人恋しさに唄う歌は、聞くに堪えない。

miyajima596


灞陵亭で君を送る、灞水の流れはひろびろとうららかにながれている。
まだ早春で、頭上には花のない古木がある、足元には心を痛めるような芽生え始めた春草が生えている
土地の人に向かって東洛陽方面と南はどこへと分かれ道のことを尋ねた。こちらの道は建安の七子の王粲が「南登」と歌った古道はこれで漢水まで続くのだといった。
もう一方の古道は、洛陽から連綿と続いて長安にはしっている。その紫の天子の御門のうちでは夕日が落ちて宮女たちのよろこびが生じているのだろう。
まさに今夜わたしは別れてひとりの夜、断腸のもだえ聲のあるところ、女が主人恋しさに唄う歌は、聞くに堪えない。


君を送る  灞陵亭(はりょうてい)、灞水(はすい)は流れて浩浩(こうこう)たり
上に無花(むか)の古樹(こじゅ)有り、下に傷心(しょうしん)の春草(しゅんそう)有り
我  秦人(しんじん)に向かって路岐(ろき)を問う、云う是れ 王粲(おうさん)が南登(なんと)の古道なりと
古道は連綿(れんめん)として西京(せいけい)に走り、紫関(しかん)  落日  浮雲(ふうん)生ず
正(まさ)に当たる 今夕(こんせき)断腸の処(ところ)、驪歌(りか)愁絶(しゅうぜつ)して聴くに忍(しの)びず

 
長安と五陵他

 
灞陵行送別
㶚水、㶚陵橋、㶚陵亭、㶚陵橋のたもとで繰り広げられる別れの歌、送別のうた。
灞陵 漢の文帝劉恆(紀元前203-前157年)陵墓。長安の東南にある。
 

送君灞陵亭、 灞水流浩浩
灞陵亭で君を送る、灞水の流れはひろびろとうららかにながれている。
 この君は、不特定多数の君である。この場所で東の洛陽方面と、南の漢水に向けての古道を行くかのジャンクションである㶚水橋のたもとで別れることを意味する。 ○灞陵亭 長安東の正門たる春明門からここまでに滻水に架かる橋をわたってくるのであるが、㶚水にかかる橋のたもとにあった亭である。ここを過ぎるとしばらくは、宿場町があるだけである。長の別れを惜しみ、一夜、酒を酌み交わすのである。また、娼屋の様なものもあったようだ。㶚水の堤には楊柳があり、柳を折って旅の安全を願ったのである。 ○灞水流 長安の東を流れる川は終南山を水源にした滻水と驪山、藍田の方角から流れてくるこの㶚水が北流して合流し渭水に灌ぐのである。㶚水、滻水の二俣川。○浩浩 川の流れのひろびろとしたさま。



上有無花之古樹。 下有傷心之春草。
まだ早春で、頭上には花のない古木がある、足元には心を痛めるような芽生え始めた春草が生えている
無花之古樹 雪解け水で春が来たのではあるが、まだ早春で、花を咲かせるはずの古樹があることで別れの悲しさを演出する。 ○傷心之春草 春草は男女の情愛を連想させ、せっかく芽生えた恋心と別れに伴ういろんな意味を加えて味わいを深めている。この二句で上の無花と下の春草ばかりでなく別れの何度も振り返り手を振る、号哭することもイメージしてくる。



我向秦人問路歧。 云是王粲南登之古道。
土地の人に向かって東洛陽方面と南はどこへと分かれ道のことを尋ねた。こちらの道は建安の七子の王粲が「南登」と歌った古道はこれで漢水まで続くのだといった。
秦人 秦は陝西省の南部一帯であるから長安一帯の地元の人のこと。 ○問路歧 東と南の分岐点両方について問うこと。 ○王粲(おう さん)177年 - 217年、)は、中国、後漢末の文学者・学者・政治家。字は仲宣。王龔の曾孫、王暢の孫、王謙の子。王凱の従兄弟。子に男子二名。山陽郡高平県(現山東省)の人。曽祖父の王龔、祖父の王暢は漢王朝において三公を務めた。文人として名を残し、建安の七子の一人に数えられる。代表作として、登樓賦、公讌詩、詠史詩、七哀詩三首   從軍詩五首がある。七哀詩三首に「南の方㶚陵に登り、首をめぐらして長安を望む」とある。王粲は長安を去って㶚水を上流に登り、峠を越えて、漢水にのり、荊州(湖北省江陵県)の劉表のもとに赴くのである。こちらの古道は南の道。



古道連綿走西京。 紫闕落日浮云生。
もう一方の古道は、洛陽から連綿と続いて長安にはしっている。その紫の天子の御門のうちでは夕日が落ちて宮女たちのよろこびが生じているのだろう
古道 この路は洛陽に向かう道である。○西京 西京は長安であるが、わざわざ最強というには東京、洛陽があるということを示唆する。。 ○紫闕 天子の宮殿の御門。○落日 夕日が沈むことと洛陽と掛けてある。○浮云生 雲は、男女の混じり合いを意味し、天子の後宮のことを意味する。



正當今夕斷腸處。 驪歌愁絕不忍聽。
まさに今夜わたしは別れてひとりの夜、断腸のもだえ聲のあるところ、女が主人恋しさに唄う歌は、聞くに堪えない

斷腸處 断腸というのは、エクスタシーのことを指す。 ○驪歌 古歌で妾の女が主人を恋しくて歌う詩。○愁絕 交わりを断つこと。 ○不忍聽 女の身として聞くに忍びない。男をあさることなど全くない時代。悶えた声、待ち人の詩・・・聞くことはできない。


解説
しゃれた男は、男女の睦愛を巧妙に掛けことばで詩歌にするものであり、六朝から続く伝統的なもので、李白は集大成し、発展させたのである。 そういう意味合いを、偲ばせているからこの詩の味わい深さがあるのである。

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烏棲曲 :李白

李白  烏棲曲

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。 東方漸高奈樂何。

(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)  呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

李太白集巻一44

烏  棲  曲

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7485

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-9

423 <1000

 

 

 

-371-6502-06楽府烏棲曲  (姑蘇臺上烏棲時,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六二  06

文體:

樂府

李太白集 

02-06

 

 

詩題:

烏棲曲

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 姑蘇台

 

交遊人物:

 

 

 

 

 

-371-6502-06楽府烏棲曲  (姑蘇臺上烏棲時,) 

  卷162_6 《烏棲曲》李白 

烏棲曲

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。

歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。 

東方漸高奈樂何。 


烏棲曲 
烏棲の曲。(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。 
呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。

歌楚舞歡未畢、青山猶銜半邊日。 

歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。

銀箭金壺漏水多、起看秋月墜江波。 
そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。

東方漸高奈樂何。

はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

(烏棲曲)

姑蘇の臺上 烏棲む時、呉王の宮裏 西施を酔わしむ。
呉歌 楚舞 歓び未だ畢らず、青山 猶お銜まんと欲す、半邊の日。
銀箭 金壷 漏水多し、起って看る 秋月の江波に墜つるを。
東方漸く高く 楽しみを奈何。


大明宮の圖003
『烏棲曲』現代語訳と訳註解説
(
本文)

烏棲曲

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。

歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。

東方漸高奈樂何。

(下し文)
(烏棲曲)

姑蘇の臺上 烏棲む時、呉王の宮裏 西施を酔わしむ。

呉歌 楚舞 歓び未だ畢らず、青山 猶お銜まんと欲す、半邊の日。

銀箭 金壷 漏水多し、起って看る 秋月の江波に墜つるを。

東方漸く高く 楽しみを奈何。

(現代語訳)
烏棲曲(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)

呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。

歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。

そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。

はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

霓裳羽衣舞002
(訳注) 

烏棲曲

(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)

1 烏棲曲 梁簡文帝、梁の元帝、蕭子顯、並びに此の題有り之を作る。《樂府詩集巻四十八》に「清商曲辞、西曲歌」の歌中に烏夜啼を列して後よりなる。男女の歓楽を詠うものが多い。また、李白詩に、これに倣った「大堤曲」「襄陽歌」「丁都護歌」「荊州歌」「採連曲」などある。

2 本事詩に李白初めて蜀より京師に至る。賀知章は其の烏棲曲を見て嘆賞苦吟し、曰く「此詩可以泣鬼神矣」。或は言う「是烏夜啼二篇、未だ孰是を知らん。」とある。

3 蕭士贇は「この樂府は然り深く國風諷刺の體を得り、盛んに其の美を言うて、美ならざる者、自ら見わる。」という。

 

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。

呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。

4 姑蘇台 春秋時代の末期、呉王の開聞と夫差が、父子二代をかけて築いた姑蘇山の宮殿。現在の江蘇省蘇州市、もしくはその西南約一五キロ、横山の北がその跡とされる。16世紀に王世貞撰よってかかれた《豔異編--第五卷》に、「越王越謀滅,畜天下奇寶、美人、異味進於。殺三牲以祈天地,殺龍蛇以祠川岳。矯以江南億萬民輸為傭保。越又有美女二人,一名夷光,二名修明(即西施、鄭旦之別名),以貢於處以椒華之房,貫細珠為簾幌,朝下以蔽景,夕卷以待月。二人當軒並坐,理鏡靚妝於珠幌之,竊窺者莫不動心驚魂,謂之神人。王妖惑忘政。」(越王 越謀し滅さんとし,天下の奇寶、美人、異味を畜えて進む。三牲を殺し 以て天地を祈り,龍蛇を殺し 以て川岳を祠る。矯って以て江南億萬民を輸して傭保為らしむ。越 又た、美女二人有り,一名は夷光,二名は修明(即ち西施、鄭旦の別名である),以て貢ぐ。處らしむるに椒華の房を以てし,細珠を貫いて簾幌と為し,朝に下し 以て景を蔽い,夕に卷き以て月を待つ。二人 軒に當って並坐し,鏡を理めて珠幌の靚妝し,竊に窺うもの動心驚魂せざるは莫し,之れ神人と謂う。王 妖惑し 政を忘る。

《述異記》に王夫差築姑蘇之臺、三年乃成。周旋詰屈横亘五里、崇飾土木、殫耗人力、妓數千人、上立春宵為長夜之飲、造千石酒鍾、夫差作天池池中造青龍舟、舟中盛陳妓樂、日與西施為水嬉。」(王夫差 姑蘇之臺、三年乃る。周旋詰屈 横に亘る五里、土木を崇飾し、人力を殫耗し、妓數千人、上に春宵立てて夜の飲をし、千石の酒鍾を造り、夫差 天池を作し 池中に青龍舟を造り、舟中盛に妓樂を陳じ、日に西施と水嬉を為す。

《述異記》は、中国の南朝梁の任昉が撰したとされる志怪小説集。2巻。 ... 隋書』や『旧唐書』の「経籍志」および『新唐書』「芸文志」で著録される『述異記』10巻は、撰者を祖沖之としている。

5 呉王 夫差をさす。

6 裏  なか。

7 西施  呉王夫差の歓心を買うために、越王勾践から夫差に献上された美女。

李白8  蘇台覧古

(2)西施ものがたり

  

歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。

8 呉歌楚舞  呉(江蘇地方)の歌、楚(湖南・湖北地方)の舞い。ここでは、呉王の歓楽の象徴としての長江中流・下流地方の歌舞をいう。

・呉歌《樂府詩集》卷四十四引《晉書·樂志》にく「歌雜曲,並出江南。東晉已來,稍有增廣。其始皆徒歌,既而被之管弦。」とあり、呉歌は、南方の流行歌。

・楚舞 《史記留侯世家》:「高帝謂戚夫人曰:『為我楚舞,吾為若楚歌.』歌曰:「鴻鴈高飛,一舉千里。羽翮已就,橫四海。橫四海,當可奈何!雖有矰繳,尚安所施!」(鴻鵠高く飛んで、一挙に千里。羽翼すでに就って、四海を横絶す。四海を横絶すれば、 当に如何すべき。矰繳あれど、何処に施さん。)といった南方に行われた舞曲。

9 半邊日 青い山脈が、まだ太陽の半輪を衝えている。夕陽が半ば青山に沈み隠れた状態をいう。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。

そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。

10 銀箭 水時計の漏水桶に泛べる銀の箭。「箭」は時刻の目盛りを指し示すハリである。江總詩「虬水銀箭莫相催」

11 金壷 金属製の水時計の壷。鮑照詩 「金壺夕淪劉良」 註に金壺は、貯し、漏水を刻する者銅を以て之を為し、故に金壺と曰う。

12 漏水多 水時計の底から水が多く漏れる。長時間の経過を示す。夜は夜明けまでの五更に別れるので、上の桶の水が下の桶に流れ落ちてゆくので、時間の長さを水の量で表現したもの。

 

東方漸高奈樂何。

はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

13 漸高 (空が)次第に白く明るくなる。ここでは、「高」は「塙」「呆」の音通で用いられている。

14 奈楽何 (たとえ夜空が白もうとも)歓楽を尽くすことに支障はない。


(烏棲曲)

姑蘇の臺上 烏棲む時、呉王の宮裏 西施を酔わしむ。
呉歌 楚舞 歓び未だ畢らず、青山 猶お衝んと欲す、半邊の日。
銀箭 金壷 漏水多し、起って看る 秋月の江波に墜つるを。
東方漸く高く 楽しみを奈何。

 

 

 

【字解】

   烏棲曲

士贇曰樂録烏栖曲者/鳥獸三十一曲之一也

 

姑蘇臺上烏棲時呉王裏醉西施齊賢曰賀知章見/太白烏栖曲嘆賞

曰此詩可/以泣鬼神呉歌楚舞歡未畢青山欲半邊日銀箭

壺漏水多起看秋月墜江波東方漸高柰樂何士贇曰/此詩雖

只樂府然深得國風諷刺之體盛言/其美而不美者自見觀者其毋忽諸

 

 

  烏棲曲梁簡文帝梁元帝蕭子顯並有此題之作/樂府詩集列于西曲歌中烏夜啼之後

姑蘇臺上烏棲時裏醉西施歌楚舞歡未

青山欲繆本/作猶銜半邊日銀箭金壺一作金/壺丁丁漏水多起看

秋月墜江波東方漸髙奈樂何

述異記王夫差/築姑蘇之臺三年乃成周旋詰曲横亘五里崇飾土木殫耗人力官妓千/

立春宵為長夜之飲造千石酒鍾作天池池中造青龍舟舟中盛陳妓樂日與西施為水

晉書 /歌雜曲並出江南 漢書 為我楚舞 

江總詩「虬水銀箭莫」相催 鮑照詩 「金壺夕淪劉良」 註に金壺は、貯し、漏水を刻する者銅を以て之を為し、故に金壺と曰う。

本事詩に李白初めて蜀より京師に至る。賀知章は其の烏棲曲を見て嘆賞苦吟し、曰く「此詩可以泣鬼神矣」。或は言う「是烏夜啼二篇、未だ孰是を知らん。」

 

烏棲曲 李白125 花の都長安(翰林院供奉)

烏棲曲 李白125 花の都長安(翰林院供奉)

妻子との離別は寂しいが、前途洋々たる思いで花の都長安に着いた。長安の都で天下に君臨する玄宗は、史上において名高き君主であり、唐代文化の極盛期を生み出した人でもあり、政治上、「開元の治」といわれる統一国家を作り上げた人でもある。玄宗の即位の開元元年(睾二)に先立つ三年前には、わが国では、奈良の平城京に遷都し、即位の前年には、太安万侶が『古事記』を上っている。わが遣唐使の往来も随時繁くなってゆくころである。
玄宗期の都長安は、開元の治といわれる中国始まって以来の繁栄を示していた。貴族の家には必ず牡丹を主力にした庭園を造っていた。花の都は、詩人たちにさまざまに歌われた。人口も100万人を超え、世界最大都市といわれた。長安にはシルクロードよりローマ、ギリシャ、トルコ、ペルシャ世界中の人が集まっていた国際都市であった。

都市の設計は、天下に君臨する天子の名にふさわしいものであり、天下に威力を見せつけるものであり、周辺諸国には絶大な影響を与えた。日本もこの超先進国から学び国の制度を整えていったのだ。
長安城は、外郭は、東西約10km、南北8.2km、城壁は5m以上の高さがあった。東西十四条、南北に十一条の街路が通じ、碁盤の目状で、街路の幅も広く、東西の通り広いので約150mの幅員、狭いのでも70mあり、南北の通りは、ほとんどが150m級で火災に対応した都市計画であった。
この都市の優れたものは生活基盤の東西それぞれ市場があったことだ。また、北には官庁のある皇城と天子の住まいの宮城があるが、天子が実際政治をとったのは、北東の隅に当たるところの大明官であった。

李白の出仕したのも大明官であり、小高い丘の上にある。玄宗はしばしば東にある離宮の興慶官に楊貴妃とともに遊んでいる。李白の「清平調詞」の書かれた舞台である。南東の隅には、長安第一の行楽地、曲江池がある。また、その近くには大慈恩寺があり、大雁塔がそびえている。こうした花の大都会に、各地、長い放浪の旅を終え、江南の風土になじんでいた李白にとっては、見るもの珍しく感激ひとしおであったことは想像にかたくない。


李白が都についたのは晩秋九月はじめのころ、李白は老子を祀る玄元廟(げんげんびょう)に宿を取っている。道教の知人、詩人の秘書監(従三品)の賀知章(がちしょう)の指示で泊まったようだ。賀知章は八十四歳である。
賀知章は李白が差し出した詩を読んで「此の詩、以て鬼神を哭せしむべし」と称賛し、李白を「謫仙人」(たくせんにん)と言って褒めたという。「謫仙人」とは天上から地上にたまたま流されてきた仙人という意味であって、道教では最大の褒め言葉である。
「烏棲曲」は楽府題で、春秋呉越戦争の時代の懐古詩は、賀知章によって評価され、天子が三顧の礼をもって李白を迎えたことにつながる評価であったようだ。詩人で道教者の良すぎる評価は後の逆評価で奈落の底へ落とされることを引き起こす原因かもしれない。
朝廷は李林甫が宦官たちと組んで権力を集中化し始めたころであり、その一方で玄宗は、息子寿王の妃楊玉環(ようぎょくかん)を召し上げて女道士とし、宮中に入れて太真(たいしん)と名を変えさせ溺愛しはじめたころでもあった。


烏棲曲
姑蘇台上烏棲時、吳王宮里醉西施。
吳歌楚舞歡未畢、青山猶銜半邊日。
銀箭金壺漏水多、起看秋月墜江波。
東方漸高奈樂何。


烏棲の曲。
姑蘇山の台上で、カラスがねぐらに宿るとき、呉王の宮殿では、絶世の美女の西施の色香に酔いしれている。
呉の歌、楚の舞いも、歓びの宴は、尽きはしない、青い山並みに、沈みかけた半輪の太陽が光輝きを放っている。
時を示す銀の箭と金の壷、水時計はいつしか多くの水を漏らしていた、身を起こして秋の月を見れば、西の太湖の波の中に沈んでゆく。
東の空が次第に白めはじめ、明かるくなってゆこうとも、この楽しみはまだまだ続けられていくのだ。


烏棲の曲。
○烏棲曲 『楽府詩集』巻四十八「清商曲辞、西曲歌、中」。男女の歓楽を詠うものが多い。「大堤曲」「襄陽歌」
「丁都護歌」「荊州歌」「採連曲」などある。


姑蘇台上烏棲時、吳王宮里醉西施。
姑蘇山の台上で、カラスがねぐらに宿るとき、呉王の宮殿では、絶世の美女の西施の色香に酔いしれている。
○姑蘇台 -春秋時代の末期、呉王の開聞と夫差が、父子二代をかけて築いた姑蘇山の宮殿。現在の江蘇省蘇州市、もしくはその西南約一五キロ、横山の北がその跡とされる。(★印)。○呉王  ここでは夫差をさす。○裏  なか。○西施  呉王夫差の歓心を買うために、越王勾践から夫差に献上された美女。参照‥七言絶句「蘇台覧古」李白8蘇台覧古  ・西施ものがたり
  
吳歌楚舞歡未畢、青山猶銜半邊日。
呉の歌、楚の舞いも、歓びの宴は、尽きはしない、青い山並みに、沈みかけた半輪の太陽が光輝きを放っている。
○呉歌楚舞  呉(江蘇地方)の歌、楚(湖南・湖北地方)の舞い。ここでは、呉王の歓楽の象徴としての長江中流・下流地方の歌舞をいう。○青山猶衝半辺日 青い山脈が、まだ太陽の半輪を衝えている。夕陽が半ば青山に沈み隠れた状態をいう。


銀箭金壺漏水多、起看秋月墜江波。
時を示す銀の箭と金の壷、水時計はいつしか多くの水を漏らしていた、身を起こして秋の月を見れば、西の太湖の波の中に沈んでゆく。
○銀箭  水時計の銀の箭。「箭」は時刻の目盛りを指し示すハリ。○金壷 金属製の水時計の壷。○漏水多 水時計の底から水が多く漏れる。長時間の経過を示す。


東方漸高奈樂何。
東の空が次第に白めはじめ、明かるくなってゆこうとも、この楽しみはまだまだ続けられていくのだ。
○漸高 (空が)次第に白く明るくなる。ここでは、「高」は「塙」「呆」の音通で用いられている。○奈楽何 (たとえ夜空が白もうとも)歓楽を尽くすことに支障はない。


韻字   時・施/畢・日/多・波・何


烏棲曲

姑蘇の台上 烏棲む時
呉壬の官裏 西施を酔わしむ
呉歌 楚舞 歓び未だ畢らず
青山 猶お衝む 半辺の日
銀箭 金壷 漏水多し
起って看る 秋月の江波に墜つるを
東方漸く高し 楽しみを奈何せん

李白85 安陸白兆山桃花岩寄劉侍御綰

 

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李白85 安陸白兆山桃花岩寄劉侍御綰


安陸白兆山桃花岩寄劉侍御綰
安陸の白兆山桃花巌にて劉侍御綰に寄す 

云臥三十年。 好閑復愛仙。
浮雲暮らしで30年、その間、隠遁の閑暇を好み、また神仙の道を愛してきました。
蓬壺雖冥絕。 鸞鶴心悠然。
蓬萊山の宮女の部屋ははてしなく遠いけれど、鸞鳳のような心はゆったりとしています。
歸來桃花岩。 得憩云窗眠。
桃花巌に帰ってきた、雲に抱かれ夢心地の窓辺で眠れました。
對嶺人共語。 飲潭猿相連。
山を相手に人は語り合いができるが、淵の水を飲む猿であっても手をつなぎ合っている。(私たちは手を取り合っています)
時升翠微上。 邈若羅浮巔。
時として青い山々に靄が立ち込めている山に登れば、はるかかなたの羅浮山のいただきにいる気がしてくるのです。
兩岑抱東壑。 一嶂橫西天。
二つの岑峰が東の谷を抱いてそそり立ち、屏風のような山が西の空を横切っています。
樹雜日易隱。 崖傾月難圓。
樹々は茂り合って日陰になりやすく、崖は急で  満月の形も見えにくいものです。
芳草換野色。 飛蘿搖春煙。
草は、ほのかにかおり、野色を変え、飛蘿(ひかげかずら)は春霞のようはゆらめいています。
入遠構石室。 選幽開上田。
遠く山中に岩屋をかまえ、分け入って、奥深い場所を選んで高いところに田をひらきました。
獨此林下意。 杳無區中緣。
ひとり山中の情を維持します、世間との縁はすっかり切れてしまったとしても。
永辭霜台客。 千載方來旋。
侍御史の客となって永の暇を告げましたが、いつの日にかまた参上いたしましょう。


浮雲暮らしで30年、その間、隠遁の閑暇を好み、また神仙の道を愛してきました。
蓬萊山の宮女の部屋ははてしなく遠いけれど、鸞鳳のような心はゆったりとしています。
桃花巌に帰ってきた、雲に抱かれ夢心地の窓辺で眠れました。
山を相手に人は語り合いができるが、淵の水を飲む猿であっても手をつなぎ合っている。(私たちは手を取り合っています)
時として青い山々に靄が立ち込めている山に登れば、はるかかなたの羅浮山のいただきにいる気がしてくるのです。
二つの岑峰が東の谷を抱いてそそり立ち、屏風のような山が西の空を横切っています。
樹々は茂り合って日陰になりやすく、崖は急で  満月の形も見えにくいものです。
草は、ほのかにかおり、野色を変え、飛蘿(ひかげかずら)は春霞のようはゆらめいています。
遠く山中に岩屋をかまえ、分け入って、奥深い場所を選んで高いところに田をひらきました。
ひとり山中の情を維持します、世間との縁はすっかり切れてしまったとしても。
侍御史の客となって永の暇を告げましたが、いつの日にかまた参上いたしましょう。

云臥三十年。 好閑復愛仙。
浮雲暮らしで30年、その間、隠遁の閑暇を好み、また神仙の道を愛した
○愛仙 道教の神仙の道

蓬壺雖冥絕。 鸞鶴心悠然。
蓬萊山の宮女の部屋ははてしなく遠いけれど、鸞鳳のような心はゆったりとしている
○蓬壺 蓬は蓬莱山。中国東方の海中にあって、不老不死の仙人が住むところ。壺は竜宮城の女官の住む部屋。 ○冥絕 果てしなく遠いさま。手の届かない存在。 ○鸞鶴 想像上の鳥。天子の乗る御車。 ○悠然 ゆったりとしたさま。。

歸來桃花岩。 得憩云窗眠。
桃花巌に帰ってきた、雲に抱かれ夢心地の窓辺で眠れた
○得憩 ゆっくりと休めた。 ○云窗 雲中の窓というのは男女の営み行為を連想させる言葉。この前後の句は儒教的な解釈では理解できない。道教的な考え方と、詩人李白の想像力は読む人にも想像を与えてくれる。


對嶺人共語。 飲潭猿相連。
山を相手に人は語り合いができる、淵の水を飲む猿であっても手をつなぎ合っている。(私たちは手を取り合っています)

時升翠微上。 邈若羅浮巔。
時として青い山々に靄が立ち込めている山に登れば、はるかかなたの羅浮山のいただきにいる気がしてくる。
○升 のぼる。成熟する。○翠微 青い山々に靄が立ち込めているさま。山の八合目あたり。萌黄いろ。男女のことを示唆。○邈 ばく はるか、はなれる。もだえる。 ○巔 てん 山頂。ものの上側。おちる。


兩岑抱東壑。 一嶂橫西天。
二つの岑峰が東の谷を抱いてそそり立ち、屏風のような山が西の空を横切っている
○兩岑 二つの先のとがった山。 壑 がく 谷間。あな。いわや。女性の体を示唆している聯である。抱く東と横わる西が対句になるのでこの東西は直接的な意味はなく胸の乳頭とその谷間横たわる軆体と解釈する。


樹雜日易隱。 崖傾月難圓。
樹々は茂り合って日陰になりやすく、崖は急で  満月の形も見えにくい。


芳草換野色。 飛蘿搖春煙。
草はほのかにかおり野色を変える、飛蘿(ひかげかずら)は春霞のようはゆらめいている。
(体からほのかにいい匂いがしきて、体に紅色がさしてきた、二人は春カスミのなかで揺らめいている。)


入遠構石室。 選幽開上田。
遠く山中に岩屋をかまえ、分け入って、奥深い場所を選んで高いところに田をひらく。


獨此林下意。 杳無區中緣。
ひとり山中の情があるのみで、世間との縁はすっかり切れてしまった。
○杳 よう くらい。はるかな。はっきりしない。 ここは悦楽を示唆する。


永辭霜台客。 千載方來旋。
侍御史の客となって永の暇を告げ、また参上できるのは  いつの日だろうか


○韻 年、仙、然、連、巔、天、圓、煙、田、緣、旋。
李白は多くの長編の古詩に変韻を使うが、ここでは一気に最後まで韻を踏襲している。お礼状としてのありがたさを増していることと感じられる。
   
安陸白兆山桃花巌寄劉侍御綰
    
安陸の白兆山桃花巌にて劉侍御綰に寄す     
雲臥(うんが)すること三十年、閑(かん)を好み復(ま)た仙(せん)を愛す
蓬壷(ほうこ)  冥絶(めいぜつ)すと雖も、鸞鳳(らんほう)  心(こころ)悠然たり
帰り来る桃花巌(とうかがん) 、雲窻(うんそう)に憩(いこ)うて眠るを得たり
嶺(みね)に対(むか)って人は共に語り、潭(ふち)に飲んで猿は相い連なる
時に翠微(すいび)の上に昇(のぼ)れば、邈(ばく)として羅浮(ふら)の巓(いただき)の若(ごと)し
両岑(りょうしん) 東壑(とうがく)を抱(いだ)き、一嶂(いつしょう) 西天(せいてん)を横(よこ)ぎる
樹(き) 雑(まじ)って 日 隠れ易(やす)く、崖(がけ) 傾いて 月 円(まどか)なり難し
芳草(ほうそう) 野色(やしょく)を換(か)え、飛蘿(ひら) 春煙(しゅんえん)を揺るがす
遠きに入りて石室(せきしつ)を構え、 幽(ふか)きを選んで山田(さんでん)を開く
独り此の林下(りんか)の意(い)のみ、杳(よう)として区中(くちゅう)の縁(えん)無し
永く辞す霜台(そうだい)の客、千載(せんざい) 方(まさ)に来(きた)り旋(めぐ)らん

 李白は官を辞して隠遁している劉綰(りゅうわん)という人に随州でお世話になったことを風雅に表現してお礼を述べているもの。六朝からの男女の営みを、想像力豊に表現する伝統の艶辞表現を李白が集大成した見事な詩になっている。儒教的な解釈だとわけのわからない詩となってしまう。李商隠などに影響を与えたものであろう。

別に詩題が「春歸桃花岩貽許侍御 」春帰る桃花岩にて許侍御に貽(おくる)としている。
この場合、舅の許氏へ夫婦仲睦まじく暮らしておりますご安心くださいという詩になる。いずれも男女のことを詠っていることには違いはない。

越女詞 五首 其一 李白12

李白の若い娘の歌はつづきます。

越女詞 五首  李白12 (修正補完) 
其一
長干呉兒女,眉目麗新月。
長干の街に住む呉の娘らは、眉と目が星や月よりもなまめかしい。
屐上足如霜,不着鴉頭襪。

木靴のうえの足は霜のように白く、足袋をはかなくてもうす絹をつけように素足が美しい。



長干の街に住む呉の娘らは、眉と目が星や月よりもなまめかしい。
木靴のうえの足は霜のように白く、足袋をはかなくてもうす絹をつけように素足が美しい。


越女詞 えつじょし

越女の詞うた
越 現浙江省方面。戦国時代 越の国があった。


  長干呉兒女   眉目艶新月
ちょうかんのごじのむすめ びもくしんげつよりえんなり
長干の色街に住む呉の娘らは眉と目が新月よりもなまめかしい。
長干 江蘇省南京の南にある町。水運によって開けた町で、色町もあった。そのことを指す。○呉児 呉は今の江蘇省一帯。児は、大都会のあか抜けている雰囲気を示す。江戸吉原の芸妓にあたる。

  屐上足如霜   不着鴉頭襪
げきじょうあししものごとく  あとうのべつをつけず
靴のうえの足は霜のように白く、もう鴉頭の足袋を履いていなくてもうす絹をつけように素足が美しい。
 木靴に下駄の歯をつけたようなもの。女用は先が丸く、男用は角だった。
鴉頭襪 あとうべつ 襪はくつした。纏足用に巻きつけた靴下のようなもの。女の子は4,5歳になると纏足をした。黒い帯状のものを巻きつけて大きくならないようにしたもの。カラスの首から頭のほっそりと引き締まったラインのことを指す。足が小さいほど身売りの値段に差がついた。古来南京の色町では行われていたが、流行先進地であった端を発し、晩唐以降大流行した。清朝から禁止令が出ても構わず、続けられて現中国まで実在した。


韻 月、襪。

長干の呉児のむすめ、眉目 新月より艶やかなり
屐上げきじょうの足 霜の如く、鴉頭あとうの襪べつを着けず

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