雑詩其四(閨情詩) 曹植 魏詩
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謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
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孟郊詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩 http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首
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雑詩其四(閨情詩) 曹植 魏詩<34-#2>玉台新詠 巻二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1893
雑詩 其四 (閨情詩)#1
攬衣出中閨。逍遙步兩楹。
今宵はもう我慢が出来ません。寝られないので、ころものすそをたくし上げ、手にとって、閨から外へ出たのです。堂前の二本柱のあいだをいったりきたりさまよい歩くのです。
閒房何寂寞。綠草被階庭。
しずかなガランとしたこの部屋には、なんとものさびしいさがただよっています。緑の草が、もう随分伸びてきて、きざはしや中庭におおいかぶさるほどなのです。
空室自生風。百鳥翩南征。
誰もいない部屋のあいた戸口には、どこからか自然な風が吹いて来るのです、そうすると思うのは多くの鳥が南へ飛んでゆくのに添い、ついて行きたいと思うのです。
春思安可忘。憂戚與我幷。
どんなに我慢をしていても春が来ればあなたと過ごしたいこの思いは、どうしてわたしの心を去りましょう。この苦しい思いとやるせなさが、わたしの心と体のどちらにも感じてしまうのです。
佳人在遠遁。妾身單且煢。
季節は変わろうとしているのに愛しい方は遠い旅路の空の下、私のこの身はなにもかもがひとりぼっちなのです。
#2
歡會難再遇。芝蘭不重榮。
貴方というものがある以上心ときめく出合は許されるものではなくいけないことなのです。このかぐわしい蘭や香草芝は、もう一度花やぐことはかないことでこのまま次第に衰えていくのです。
人皆棄舊愛。君豈若平生。
わたしは決まった一本の松にまつわる姫かずらなのです。またあなたは、水のまにまにうかぶ浮草のようにどこかへ行くのです。
寄松為女蘿。依水如浮萍。
わたしは決まった一本の松にまつわる姫かずらなのです。またあなたは、水のまにまにうかぶ浮草のようにどこかへ行くのです。
齎身奉衿帶。朝夕不墮傾。
わたしは『衿帯の教え』を遵奉し、操を堅くまもっています。朝な夕なに女としての務めをおこたりなくいたしております。
倘終顧盻恩。永副我中情。
私の願いは、万が一にも私を忘れず、かつての愛情を最後までかけて下さいということで、いついつまでも、わたしの心をささえていただきたいということなのです。
衣を携りて中閨を出で、逍遙して 兩楹【りょうえい】に歩む。
閒房【かんぼう】何んぞ寂寞【せきばく】たる、綠草【りょくそう】階庭【かいてい】を被う。
空室【くうしつ】自から風を生じ、百鳥翔りて南に征く。
春思安んぞ忘る可けんや、憂戚【ゆうせき】我と幷【あ】わせり。
佳人【かじん】遠道【えんどう】に在り、妾身【しょうしん】独り単発たり。
歓会【かんかい】再びは遇い難く、蘭芝【らんし】重ねては栄えず。
人皆旧愛【きゅうあい】を棄つ、君豈に平生の若くならんや。
松に寄りて女蘿【じょら】と為り、水に依りて浮萍【ふひょう】の如し。
身を齎【つつ】しみて衿帯【きんたい】を奉じ、朝夕 【ちょうせき】堕傾【だけい】せず。
倘【も】しくは顧眄【こめん】の恩を終えたまわば、永く我が中情【ちゅうじょう】に副【そ】え。
『雑詩其四(閨情詩)』 現代語訳と訳註
(本文) #2
歡會難再遇。芝蘭不重榮。
人皆棄舊愛。君豈若平生。
寄松為女蘿。依水如浮萍。
齎身奉衿帶。朝夕不墮傾。
倘終顧盻恩。永副我中情。
(下し文)
歓会【かんかい】再びは遇い難く、蘭芝【らんし】重ねては栄えず。
人皆旧愛【きゅうあい】を棄つ、君豈に平生の若くならんや。
松に寄りて女蘿【じょら】と為り、水に依りて浮萍【ふひょう】の如し。
身を齎【つつ】しみて衿帯【きんたい】を奉じ、朝夕 【ちょうせき】堕傾【だけい】せず。
倘【も】しくは顧眄【こめん】の恩を終えたまわば、永く我が中情【ちゅうじょう】に副【そ】え。
(現代語訳)
貴方というものがある以上心ときめく出合は許されるものではなくいけないことなのです。このかぐわしい蘭や香草芝は、もう一度花やぐことはかないことでこのまま次第に衰えていくのです。
わたしは決まった一本の松にまつわる姫かずらなのです。またあなたは、水のまにまにうかぶ浮草のようにどこかへ行くのです。
わたしは決まった一本の松にまつわる姫かずらなのです。またあなたは、水のまにまにうかぶ浮草のようにどこかへ行くのです。
わたしは『衿帯の教え』を遵奉し、操を堅くまもっています。朝な夕なに女としての務めをおこたりなくいたしております。
私の願いは、万が一にも私を忘れず、かつての愛情を最後までかけて下さいということで、いついつまでも、わたしの心をささえていただきたいということなのです。
(訳注) #2
其四 閨情詩 雑詩
○雜詩 「玉台新詠」に従って、「雑詩」其四とする。この節の詩題を、各本は「閏情」とする。なおこの詩の制作時期は明瞭でないが、229年太和三年、東阿王に国がえになった後、明帝を懐しんで作るとされる。
参考(1)では、220年頃~223年にかけての情勢の概略をのべる。参考(2)で224~230年の情勢をのべるのでこの詩の背景として参考にされたい。
歡會難再遇。芝蘭不重榮。
貴方というものがある以上心ときめく出合は許されるものではなくいけないことなのです。このかぐわしい蘭や香草芝は、もう一度花やぐことはかないことでこのまま次第に衰えていくのです。
○蘭芝香草で、才徳の象徴。「曹集」では芝蘭に作るが「玉台新詠」に従う。
人皆棄舊愛。君豈若平生。
人はみな、昔の愛人をすてぜるもの。あなたも、若かりし頃のようではありますまい。
○旧愛 昔の愛人。
○豈 反語で、どうして……であろうやの意。反語にとらないで推量的な疑問副詞ととる見方もある。
○平生かつての時間。若い頃。「論語」憲間に「久要(昔の約束)平生の言を忘れずんは」と見え、孔安国の注によると平生とは少時と同義。
寄松為女蘿。依水如浮萍。
わたしは決まった一本の松にまつわる姫かずらなのです。またあなたは、水のまにまにうかぶ浮草のようにどこかへ行くのです。
○女蘿 ヒメカズラ。松は男性の象徴。
齎身奉衿帶。朝夕不墮傾。
わたしは『衿帯の教え』を遵奉し、操を堅くまもっています。朝な夕なに女としての務めをおこたりなくいたしております。
○齎身 身をつつしむこと。貞操を守ること。
○奉衿帯 身をつつしみ婦道にはげめとの《衿帯の教え》を遵奉する。衿帶とは1 着物の襟と帯。2 《山が襟のように、川が帯のように取り巻く意から》山や川に囲まれて、敵の攻撃を受けにくい要害の地。これらを踏まえて嫁いだ女性の操を守る道徳的な教えを云う。
○不墮傾 上述の嫁入り時の母の教を固く守り、道をあやまらないこと。嫁ぎ先の義理の母は絶対であった。32回の連載であった『為焦仲卿妻作』を参考。
為焦仲卿妻作 序 漢詩<143>古詩源 巻三 女性詩583 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1566
倘終顧盻恩。永副我中情。
私の願いは、万が一にも私を忘れず、かつての愛情を最後までかけて下さいということで、いついつまでも、わたしの心をささえていただきたいということなのです。
○倘終顧盻恩 万が一にも私を忘れず、かつての愛情をかけて下さるならばの意。倘は仮定の言葉で、もし、万一にもの意。銘はまっとうする、最後までつづける。顧盻はかえり見る、思いやる。恩は夫婦の愛情をいう。
○副 つまびらかにするという意味を含んでささえること。
○中情 心中。この場合の中はあたるという意味。
参考(2)
蜀の復興と諸葛亮の手腕
223年、劉備に代わって劉禅が皇帝に即位した蜀は、滅亡の危機に瀕していた。夷陵の敗北は蜀の軍事と経済に深刻な打撃を与え、劉備の死は蜀の国威を低下させたのである。223年、成都にはど近い漢嘉の太守黄元が苛に叛旗を翻したのを皮切りに、また同年、益州軍の確聞、脾脚部太守の朱襲、越亮の異民族の王高定と、立て続けに反乱が勃発する。
ここで獅子奮迅の働きをするのが蜀の丞相諸葛亮である。彼は屯田政策、塩・鉄の専売制、蜀錦などの殖産興業の奨励といった数々の経済政策を行ない、蜀の経済を立て直す。一方、呉に部芝を派遣し外交関係の修復にも努める。呉は款の曹丕が南下していたこともあり、蜀からの講和と同盟の再締結の申し出を受け入れるのであった。
この時期の諸葛亮の大いなる働きによって、一時は滅亡寸前であった蜀は内政外交の両面で立ち直っていく。
225年、蜀を再建した諸葛亮は、ようやく南方の反乱の鎮定に乗り出し、これらをすべて治めていく。諸葛亮はここでも優れた手腕を発揮し、この南方の異民族たちを後方の重要な生産力として確保することに成功したのであった。
諸葛亮の北伐227年三月、やっと国内を安定させた諸葛亮は、念願の北伐に乗り出す。「出師の表」で漢の復興を高らかに宣言した彼は、漢中を足がかりとして北への進撃を開始する。諸葛亮にとってこの北伐は、充分に勝算のある作戦であった。というのも、予め上庸の孟達と内応の約束を取り付けてあり、また前年には魂帝の曹杢が崩御しており、その混乱も期待できたからである。しかし、内応した孟達は魏の司馬懿の速攻に漬されてしまう。蜀本軍も、迎撃に出た曹真を相手に善戦するが、228年初頭の街事の戦いで蜀の守将馬謀が魏の名将張部に大敗を喫し、戦線全体が崩壊して撤退を余儀なくされる。
同年十一月、諸葛亮は再び北伐の兵を起こすが、魏の司令官曹真はこれを予期していた。要衝である陳倉には城が築かれ、守将である那昭がこれをよく守り、諸葛亮は手も足も出ず撤退する。
229年、諸葛亮は三度目の北伐を行ない武都、陰平を併竜北伐初の戦果を挙げる。同年九月、孫権が呉において帝位を宣言。名目上、これ以降「三国時代」となる。
231年、請書亮は四度目の北伐を行なう。このとき初めて総司令官として諸葛亮に対したのが、病没した曹真の後を受けた司馬鼓であった。諸葛亮と司馬敦は、郡山において開戦する。これは萄軍有利に終わるが、補給が続かず撤退を余儀なくされる。だが諸葛亮は、この撤退戦において第一次北伐で煮え湯を飲まされた、張部を討ち取ることに成功する。
このように、諸葛亮の北伐は戦果は挙げるものの、その目的である魏の打倒を果たすにははど遠いというのが実情であった。だが、劉備の死後、崩壊するかと思われた蜀を、諸葛亮は見事に立て直したのは事実である。なおかつ彼は、再三にわたる北伐で、覇に歴史の主導権を握らせる。呉も何度か蜀の北伐に呼応して魏に攻め入っていたが、やはりこの時代の主役は蜀であり、諸葛亮であった。