漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
リンクはフリーです。報告、承諾は無用です。
ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

李白に影響を与えた詩

『楚辞・九歌』東君 屈原詩<78-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩507 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1338

『楚辞・九歌』東君 屈原詩<78-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩507 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1338


     
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   2011/7/11李商隠 1 錦瑟 
      2011/7/11 ~ 2012/1/11 まで毎日掲載 全130首(187回) 
   2012/1/11 唐宋 Ⅰ李商隠187 行次西郊作一百韻  白文/現代語訳 (全文) 
     

東君
暾將出兮東方,照吾檻兮扶桑。
朝日は赤々として東の空に出ようとし、扶桑にある我が宮殿の欄干を照らしはじめている。
撫余馬兮安驅,夜皎皎兮既明。
わたしの馬を撫でてやり、静かにさせて駆けだすと、夜は白々と明けて、もう明るく輝いている。
駕龍輈兮乘雷,載雲旗兮委蛇。
竜に車を引かせて雷雲に乗り、雲の旗をひらめかせて、ゆらゆらとたなびいている。
長太息兮將上,心低佪兮顧懷。
わたしは大きな長いため息をついて、いよいよ一気に天に上ろうとすると、心は去りがたく後ろのほうを振り返る。
羌聲色兮娛人,觀者憺兮忘歸。」

ああ、歌声や美しい巫女の私をなぐさめる、見るものは皆心安らかに帰るのを忘れる。

緪瑟兮交鼓,簫鍾兮瑤虡,

音律におうじて調子を合わせているうちに、神々がやってきて、日を蔽うように天から降りあつまる。
張りつめた瑟の糸を締め、鼓をかわるがわるに打ち交わし、鍾をうち、簴(きょ)を瑤るがせる。
鳴箎兮吹竽,思靈保兮賢姱。
横笛を鳴らして、縦笛を吹けいている、そして巫女の徳すぐれてかしこく見た目が美しいことを思うのである。
翾飛兮翠曾,展詩兮會舞。
巫女たちは飛びまわり、カワセミのように飛び上がる、そして詩を歌いながら舞いまわっている。
應律兮合節,靈之來兮蔽日。」

青雲衣兮白霓裳,舉長矢兮射天狼。
太陽のわたしは青雲の上衣に白霓の裳をつける、太陽光線の長矢を以て天狼星を射る。
操余弧兮反淪降,援北斗兮酌桂漿。
私はそれを操って弓を持って下方へむかって降りてきて、北斗星の柄杓をとって肉桂の漿を酌むのである。
撰余轡兮高駝翔,杳冥冥兮以東行。」
そしてわが手綱を振り上げて高く駆け上って、はるかな暗黒の中をわたしは東へと行くのである。


暾【とん】として將に東方に出でんとし、吾が檻【かん】を扶桑【ふそう】に照らす。
餘が馬を撫して安驅すれば、夜は晈晈【こうこう】として既に明らかなり。
龍輈【りょうちゅう】に駕して雷に乘り、雲旗を載【た】てて委蛇たり。
長太息して將に上らんとすれど、心は低佪して顧【かへり】み懷ふ。
羌【ああ】聲色の人を娛ましむる、觀る者憺として歸るを忘る。」

瑟を緪【こう】し鼓を交へ、鍾を簫【う】ち簴【きょ】を瑤す。
箎【ち】鳴らし竽を吹き、靈保の賢姱【けんか】なるを思ふ。
翾飛【けんぴ】して翠曾し、詩を展【の】べて會舞す。」

律に應じて節に合すれば、靈の來ること日を蔽ふ。

餘が弧を操【と】りて反って淪降【りんこう】し、北斗を援【と】りて桂漿【けいしゅう】を酌【く】む。
餘が轡を撰【も】ちて高く駝翔【ちしゃう】し、杳として冥冥として以て東に行く。」


現代語訳と訳註
(本文)

青雲衣兮白霓裳、舉長矢兮射天狼。
操餘弧兮反淪降、援北斗兮酌桂漿。
撰餘轡兮高駝翔、杳冥冥兮以東行。


(下し文)
青雲の衣白霓の裳、長矢を舉げて天狼を射る。
餘が弧を操【と】りて反って淪降【りんこう】し、北斗を援【と】りて桂漿【けいしゅう】を酌【く】む。
餘が轡を撰【も】ちて高く駝翔【ちしゃう】し、杳として冥冥として以て東に行く。


(現代語訳)
太陽のわたしは青雲の上衣に白霓の裳をつける、太陽光線の長矢を以て天狼星を射る。
私はそれを操って弓を持って下方へむかって降りてきて、北斗星の柄杓をとって肉桂の漿を酌むのである。
そしてわが手綱を振り上げて高く駆け上って、はるかな暗黒の中をわたしは東へと行くのである。


(訳注)
青雲衣兮白霓裳、舉長矢兮射天狼。
太陽のわたしは青雲の上衣に白霓の裳をつける、太陽光線の長矢を以て天狼星を射る。
青雲衣兮白霓裳 高天にある青い雲の上衣をまとい、白い虹のはかまをつけることで、太陽神の象徴でそのいでたちのことである。・天狼 星の名。東井の星の南にあって、侵椋をつかさどる。秦の分野に当たる。冬によく見える星である。これを射る長欠は、太陽の光線を見たてた。


操餘弧兮反淪降、援北斗兮酌桂漿。
私はそれを操って弓を持って下方へむかって降りてきて、北斗星の柄杓をとって肉桂の漿を酌むのである。
 弓。弧矢も星の名。補注に「説文に日く、木弓なりと。晋志に、弧の九星は狼の東南に在り。天弓なり。盗賊に備ふるを主ると。」と。・反淪降 返り立ちもどって、下界に降りる。倫降はしずみくだる。日没のこと。・北斗 北斗七星。ひしゃくの形をしているので、祭りの酒を酌む器として、日神はこれを取る。既に夕空の星が出ていることをいう。・桂漿 肉柱入りの薄い酒。菜はこんずのこと。


撰餘轡兮高駝翔、杳冥冥兮以東行。
そしてわが手綱を振り上げて高く駆け上って、はるかな暗黒の中をわたしは東へと行くのである。
・撰 持ち上げる。・轡 たづな。・配 馳に同じ。はせる。・杳冥冥今以東行 太陽が日没後、遠い暗黒の空を東に行くこと。古代にはそのように考えられていた。


 この篇は、昇り行く朝日としての東君が、自分を祭る地上の祭儀に心ひかれて去り難く思う。その祭儀の盛観に、日神は遂に高い空から降りてくる。太陽神は天狼星を射て、天空を征服し、赫赫とした神威を輝かし、北斗を取って供えられた桂策を酌んで、この祭りを享ける。やがて暗黒の空の中を東へ去るという。

『楚辞・九歌』東君 屈原詩<78-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩506 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1335

『楚辞・九歌』東君 屈原詩<78-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩506 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1335


     
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   2011/7/11李商隠 1 錦瑟 
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   2012/1/11 唐宋 Ⅰ李商隠187 行次西郊作一百韻  白文/現代語訳 (全文) 
     

東君
暾將出兮東方,照吾檻兮扶桑。
朝日は赤々として東の空に出ようとし、扶桑にある我が宮殿の欄干を照らしはじめている。
撫余馬兮安驅,夜皎皎兮既明。
わたしの馬を撫でてやり、静かにさせて駆けだすと、夜は白々と明けて、もう明るく輝いている。
駕龍輈兮乘雷,載雲旗兮委蛇。
竜に車を引かせて雷雲に乗り、雲の旗をひらめかせて、ゆらゆらとたなびいている。
長太息兮將上,心低佪兮顧懷。
わたしは大きな長いため息をついて、いよいよ一気に天に上ろうとすると、心は去りがたく後ろのほうを振り返る。
羌聲色兮娛人,觀者憺兮忘歸。」

ああ、歌声や美しい巫女の私をなぐさめる、見るものは皆心安らかに帰るのを忘れる。
緪瑟兮交鼓,簫鍾兮瑤虡,鳴箎兮吹竽,思靈保兮賢姱。
張りつめた瑟の糸を締め、鼓をかわるがわるに打ち交わし、鍾をうち、簴(きょ)を瑤るがせる。
横笛を鳴らして、縦笛を吹けいている、そして巫女の徳すぐれてかしこく見た目が美しいことを思うのである。
翾飛兮翠曾,展詩兮會舞。
巫女たちは飛びまわり、カワセミのように飛び上がる、そして詩を歌いながら舞いまわっている。
應律兮合節,靈之來兮蔽日。」

音律におうじて調子を合わせているうちに、神々がやってきて、日を蔽うように天から降りあつまる。

青雲衣兮白霓裳,舉長矢兮射天狼。
操余弧兮反淪降,援北斗兮酌桂漿。
撰余轡兮高駝翔,杳冥冥兮以東行。」

暾【とん】として將に東方に出でんとし、吾が檻【かん】を扶桑【ふそう】に照らす。
餘が馬を撫して安驅すれば、夜は晈晈【こうこう】として既に明らかなり。
龍輈【りょうちゅう】に駕して雷に乘り、雲旗を載【た】てて委蛇たり。
長太息して將に上らんとすれど、心は低佪して顧【かへり】み懷ふ。
羌【ああ】聲色の人を娛ましむる、觀る者憺として歸るを忘る。」

瑟を緪【こう】し鼓を交へ、鍾を簫【う】ち簴【きょ】を瑤す。
箎【ち】鳴らし竽を吹き、靈保の賢姱【けんか】なるを思ふ。
翾飛【けんぴ】して翠曾し、詩を展【の】べて會舞す。
律に應じて節に合すれば、靈の來ること日を蔽ふ。」

餘が弧を操【と】りて反って淪降【りんこう】し、北斗を援【と】りて桂漿【けいしゅう】を酌【く】む。
餘が轡を撰【も】ちて高く駝翔【ちしゃう】し、杳として冥冥として以て東に行く。」


現代語訳と訳註
(本文)

緪瑟兮交鼓、簫鍾兮瑤簴。
鳴箎兮吹竽、思靈保兮賢姱。
翾飛兮翠曾、展詩兮會舞。
應律兮合節、靈之來兮蔽日。


(下し文)
瑟を緪【こう】し鼓を交へ、鍾を簫【う】ち簴【きょ】を瑤す。
箎【ち】鳴らし竽を吹き、靈保の賢姱【けんか】なるを思ふ。
翾飛【けんぴ】して翠曾し、詩を展【の】べて會舞す。
律に應じて節に合すれば、靈の來ること日を蔽ふ。


(現代語訳)
張りつめた瑟の糸を締め、鼓をかわるがわるに打ち交わし、鍾をうち、簴(きょ)を瑤るがせる。
横笛を鳴らして、縦笛を吹けいている、そして巫女の徳すぐれてかしこく見た目が美しいことを思うのである。
巫女たちは飛びまわり、カワセミのように飛び上がる、そして詩を歌いながら舞いまわっている。
音律におうじて調子を合わせているうちに、神々がやってきて、日を蔽うように天から降りあつまる。


(訳注)
緪瑟兮交鼓、簫鍾兮瑤簴。

張りつめた瑟の糸を締め、鼓をかわるがわるに打ち交わし、鍾をうち、簴(きょ)を瑤るがせる。
緪瑟 緪をはりつめた瑟(こと)。・交鼓 二個かわるがわるにあわせて打つ鼓。・ 古くから撃つという動詞に読む。手偏が付いたテキストもある。・ 鐘に同じ。・瑤 瑤は玉で飾る。・ 鐘や磬を吊る台。


鳴箎兮吹竽、思靈保兮賢姱。
横笛を鳴らして、縦笛を吹けいている、そして巫女の徳すぐれてかしこく見た目が美しいことを思うのである。
 音チ。ちのふえ。一尺四寸の横笛。竿と同様な竹で作った笛の類。・霊保 祭りに奉仕する巫女のこと。『詩経』に「神保是れ格る」「神保聿【ここ】に騰【あが】る」等の語がある。これはかたしろ、神霊の下るかたしろ。やはり巫のこと。・賢姱 徳すぐれてみめうるわしいこと。姱は美。


翾飛兮翠曾、展詩兮會舞。
巫女たちは飛びまわり、カワセミのように飛び上がる、そして詩を歌いながら舞いまわっている。
翾飛 小さく飛び軽く揚がる。鳥の飛ぶように舞う。・翠曾 かわせみの鳥のように身軽に飛びあがる。曾は翾(あがる)に同じ。巫女が身軽に舞うさま。・展詩 詩を叙べる。詩はここでは歌詞。・会舞 集まり舞う。


應律兮合節、靈之來兮蔽日。
音律におうじて調子を合わせているうちに、神々がやってきて、日を蔽うように天から降りあつまる。
 調子・拍子。節度。・靈之來兮蔽日 霊は日神東君が、自分に従って来る衆神をいう。日を蔽うはむらがる形容。

『楚辞・九歌』東君 屈原詩<78-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩505 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1332

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 2012/1/11唐宋 Ⅰ李商隠187 行次西郊作一百韻  白文/現代語訳 (全文) 
     
『楚辞・九歌』東君 屈原詩


暾將出兮東方、照吾檻兮扶桑。

朝日は赤々として東の空に出ようとし、扶桑にある我が宮殿の欄干を照らしはじめている。
撫余馬兮安驅,夜皎皎兮既明。
わたしの馬を撫でてやり、静かにさせて駆けだすと、夜は白々と明けて、もう明るく輝いている。
駕龍輈兮乘雷,載雲旗兮委蛇。
竜に車を引かせて雷雲に乗り、雲の旗をひらめかせて、ゆらゆらとたなびいている。
長太息兮將上,心低佪兮顧懷。
わたしは大きな長いため息をついて、いよいよ一気に天に上ろうとすると、心は去りがたく後ろのほうを振り返る。
羌聲色兮娛人,觀者憺兮忘歸。」



ああ、歌声や美しい巫女の私をなぐさめる、見るものは皆心安らかに帰るのを忘れる。

緪瑟兮交鼓,簫鍾兮瑤虡,鳴箎兮吹竽,思靈保兮賢姱。
翾飛兮翠曾,展詩兮會舞。
應律兮合節,靈之來兮蔽日。」

青雲衣兮白霓裳,舉長矢兮射天狼。
操余弧兮反淪降,援北斗兮酌桂漿。
撰余轡兮高駝翔,杳冥冥兮以東行。」

暾【とん】として將に東方に出でんとし、吾が檻【かん】を扶桑【ふそう】に照らす。
餘が馬を撫して安驅すれば、夜は晈晈【こうこう】として既に明らかなり。
龍輈【りょうちゅう】に駕して雷に乘り、雲旗を載【た】てて委蛇たり。
長太息して將に上らんとすれど、心は低佪して顧【かへり】み懷ふ。
羌【ああ】聲色の人を娛ましむる、觀る者憺として歸るを忘る。」

瑟を緪【こう】し鼓を交へ、鍾を簫【う】ち簴【きょ】を瑤す。
箎【ち】鳴らし竽を吹き、靈保の賢姱【けんか】なるを思ふ。
翾飛【けんぴ】して翠曾し、詩を展【の】べて會舞す。
律に應じて節に合すれば、靈の來ること日を蔽ふ。」

餘が弧を操【と】りて反って淪降【りんこう】し、北斗を援【と】りて桂漿【けいしゅう】を酌【く】む。
餘が轡を撰【も】ちて高く駝翔【ちしゃう】し、杳として冥冥として以て東に行く。」


現代語訳と訳註
(本文)

『楚辞・九歌「東君」』屈原
暾將出兮東方、照吾檻兮扶桑。
撫餘馬兮安驅、夜晈晈兮既明。
駕龍輈兮乘雷、載雲旗兮委蛇。
長太息兮將上、心低佪兮顧懷。
羌聲色兮娛人、觀者憺兮忘歸。


(下し文)
暾【とん】として將に東方に出でんとし、吾が檻【かん】を扶桑【ふそう】に照らす。
餘が馬を撫して安驅すれば、夜は晈晈【こうこう】として既に明らかなり。
龍輈【りょうちゅう】に駕して雷に乘り、雲旗を載【た】てて委蛇たり。
長太息して將に上らんとすれど、心は低佪して顧【かへり】み懷ふ。
羌【ああ】聲色の人を娛ましむる、觀る者憺として歸るを忘る。


(現代語訳)
朝日は赤々として東の空に出ようとし、扶桑にある我が宮殿の欄干を照らしはじめている。
わたしの馬を撫でてやり、静かにさせて駆けだすと、夜は白々と明けて、もう明るく輝いている。
竜に車を引かせて雷雲に乗り、雲の旗をひらめかせて、ゆらゆらとたなびいている。
わたしは大きな長いため息をついて、いよいよ一気に天に上ろうとすると、心は去りがたく後ろのほうを振り返る。
ああ、歌声や美しい巫女の私をなぐさめる、見るものは皆心安らかに帰るのを忘れる。


(訳注)
『楚辞・九歌「東君」』屈原
楚辞(そじ)は中国戦国時代の楚地方に於いて謡われた詩の様式のこと。またはそれらを集めた詩集の名前である。全17巻。その代表として屈原の『離騒』が挙げられる。北方の『詩経』に対して南方の『楚辞』であり、共に後代の漢詩に流れていく源流の一つとされる。また賦の淵源とされ、合わせて辞賦と言われる。
九歌は一種の祭祀歌であると考えられる。湖南省あたりを中心にして、神につかえる心情を歌ったものとするのが、有力な説である。九歌と総称されるが、歌の数は十一ある。
「東君」は太陽の神を祭る歌であって、太陽神の自述の歌辞である。
補注の題下に「博雅に曰く、朱明・輝霊・東君は日なりと。漢書郊祀志に東君有り。」とある。辞中に太陽の神格表象を客観的に述べている所があり、楽劇詩の性質として、自己を客観的に述べるものはよくある。巫が太陽神の東君に扮して、その神威を自讃したものである。


暾將出兮東方、照吾檻兮扶桑。
朝日は赤々として東の空に出ようとし、扶桑にある我が宮殿の欄干を照らしはじめている。
【トン】朝日の初めてさすあかりの形容。・ おはしま。欄干。・吾 東君の自称。・扶桑 東海の日の出る所にあるという神木。日本の別名とされる。『山海経』海外東経に「湯谷の上に扶桑有り。」と。『説文』に「樽桑は神木、日の出づる所なり。」とある。


撫餘馬兮安驅、夜晈晈兮既明。
わたしの馬を撫でてやり、静かにさせて駆けだすと、夜は白々と明けて、もう明るく輝いている。
 しずかに。・ 東君の自称。・晈晈 白くあかるいさま。


駕龍輈兮乘雷、載雲旗兮委蛇。
竜に車を引かせて雷雲に乗り、雲の旗をひらめかせて、ゆらゆらとたなびいている。
竜輈 竜に引かせる空を飛ぶ船のような車。輈は車の轅(ながえ)、馬をつける所。・ 車をひかせる。・乘雷 雷のようにとどろく車に乗る。輪の音の形容を雷というとともに、太陽が雲間を行く様子をもあわせて表現する。・載雲旗兮委蛇 たなびく雲間をすすむ日輪をいう。雲の旗を立てて、ゆらゆらとその旗をたなびかせている。委蛇は音読みでヰィ、またヰダ、ゆらゆらと動く形容とする。


長太息兮將上、心低佪兮顧懷。
わたしは大きな長いため息をついて、いよいよ一気に天に上ろうとすると、心は去りがたく後ろのほうを振り返る。
長大息 ためいきをつく。後句、聯の低佪・顧懷とともに、太陽が上ろうとする前に、遅々としてためらっている様に見えるのをいう。また次聯の祭儀の盛んな様子にひかれて、長大息したともいえる。・低佪 歩きまわって進まないこと。


羌聲色兮娛人、觀者憺兮忘歸。
ああ、歌声や美しい巫女の私をなぐさめる、見るものは皆心安らかに帰るのを忘れる。
 あぁ。感動助詞。・声色 祭祀に供する歌唱や巫女の色美しいことをさす。一に色声に作る。・娯人 人をたのしませる。この人は、日神自身のことをいう。・観者 この祭儀を観る者、衆人と神自身もふくめて。・ 心安んじて。

西陵遇風獻康楽 その5 謝惠運 謝霊運(康楽) 詩<54>Ⅱ李白に影響を与えた詩441 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1140

西陵遇風獻康楽 その5 謝惠運 謝霊運(康楽) 詩<54>Ⅱ李白に影響を与えた詩441 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1140




 謝靈運

 謝惠連

酬従弟謝惠連 五首

西陵遇風獻康楽 五首

従弟の恵連に酬ゆ 五首

西陵にて風に遇い康楽に獻ず五首

(その1

(その1

寢瘵謝人徒,滅跡入雲峯。

我行指孟春、春仲尚未發。

岩壑寓耳目,歡愛隔音容。

趣途遠有期、念離情無歇。

賞心望,長懷莫與同。

成装候良辰、漾舟陶嘉月。

末路令弟,開顏披心胸

瞻塗意少悰、還顧情多闕。

(その2

(その2)

心胸既雲披,意得鹹在斯。

哲兄感仳別、相送越垌

淩澗尋我室,散帙問所知。

飲餞野亭館、分袂澄湖

夕慮曉月流,朝忌曛日馳。

悽悽留子言、眷眷浮客

悟對無厭歇,聚散成分離

迴塘隠艫栧、遠望絶形

(その3

(その3

分離別西,回景歸東

靡靡即長路,戚戚抱遙

別時悲已甚,別後情更

悲遙但自弭,路長當語

傾想遲嘉音,果枉濟江

行行道轉遠,去去情彌

辛勤風波事,款曲洲渚

昨發浦陽汭,今宿浙江

(その4

(その4)

洲渚既淹,風波子行

屯雲蔽曾嶺、驚風湧飛

務協華京想,詎存空穀

零雨潤墳澤、落雪灑林

猶復恵来章,祇足攬余

浮氛晦崖巘、積素成原

儻若果歸言,共陶暮春

曲汜薄停旅、通川絶行

(その5

(その5)

暮春雖未交,仲春善遊

臨津不得済、佇楫阻風波。

山桃發紅萼,野蕨漸紫

蕭條洲渚際、気色少諧和。

鳴嚶已悅豫,幽居猶郁

西瞻興遊歎、東睇起悽歌。

夢寐佇歸舟,釋我吝與

積憤成疢痗、無萱將如何。



西陵遇風獻康楽 謝惠連
謝恵連(394~433)   会稽の太守であった謝方明の子。陳郡陽夏の人。謝霊運の従弟にあたる。大謝:霊運に対して小謝と呼ばれ、後に謝朓を加えて“三謝”とも称された。元嘉七年(430)、彭城王・劉義慶のもとで法曹行参軍をつとめた。詩賦にたくみで、謝霊運に対して小謝と称された。『秋懐』『擣衣』は『詩品』でも絶賛され、また楽府体詩にも優れた。『詩品』中。謝恵連・何長瑜・荀雍・羊濬之らいわゆる四友とともに詩賦や文章の創作鑑賞を楽しんだ。四友の一人。



西陵にて風に遇い康楽に獻ず(その1)
我が行 孟春【もうしゅん】を指すに、春仲【はるなかば】なるも尚 未だ發せず。
途に趣くこと遠く期有り、離【わかれ】を念うて情 歇【や】む無し。
装【よそおい】成して良辰【りょうしん】を候【ま】ち、舟を漾【うかべ】て嘉月を陶【たの】しむ。
塗【みち】を瞻て意に悰【たのしみ】少し、還顧【かんこ】すれば情に闕【か】くること多し。

(その2)
哲兄【てっけい】は仳別【ひべつ】に感じ、相送って垌林【けいりん】を越え。
野亭【やてい】の館に飲餞【いんせん】し、澄湖【とうこ】の陰に分袂【ぶんぺい】す。
悽悽【せいせい】たり留子【りゅうし】の言、眷眷【けんけん】たり浮客【ふかく】の心。
迴塘【かいとう】に櫨挽【ろえい】隠れ、遠望【えんぼう】形音【けいおん】絶ゆ。

(その3)
靡靡【びび】として長路に即【つ】き、戚戚【せきせき】として遙なる悲みを抱く。
悲 遙なるは 但 自ら弭【や】む。路の長ぎに當【まさ】に誰とか語るべき。
行き行ぎて道 轉【うたた】遠く、去り去りて 情 彌【いよい】よ遅し。
昨【きのう】は浦陽【ほよう】の汭【ほとり】を發し、今【きょう】は浙江の湄【みぎわ】に宿る。

(その4)
屯雲【ちゅううん】は曾嶺【そうれい】を蔽【おお】い、驚風【きょうふう】飛流【ひりゅう】を湧かす。
零雨【れいう】墳澤【ふんたく】を潤おし、落雪【らいせつ】林邱【りんきゅう】に灑【そそ】ぐ。
浮氛【ふふん】崖巘【がいけん】に晦【くら】く、積素【せきそ】原疇【げんちゅう】を成【まどわ】す。
曲汜【きょくし】薄【しばら】く旅を停【とど】め、通川【つうせん】に行舟【こうしゅう】を絶つ。

(その5)
津【しん】に臨めど済【わた】り得ず、楫【かじ】を佇【とど】めて風波【ふうは】阻【へだ】てらる。
蕭條【しょうじょう】洲渚【しゅうちょ】の際、気色【けしょく】諧和【かいわ】すること少し。
西に瞻【み】て遊歎【ゆうたん】を興し、東に睇【み】て悽歌【せいか】を起す。
積憤【せきふん】疢痗【ちんばい】を成す、萱【けん】無くば將に如何【いかん】せんとす。



現代語訳と訳註
(本文)
(その5)
臨津不得済、佇楫阻風波。
蕭條洲渚際、気色少諧和。
西瞻興遊歎、東睇起悽歌。
積憤成疢痗、無萱將如何。


(下し文) (その5)
津【しん】に臨めど済【わた】り得ず、楫【かじ】を佇【とど】めて風波【ふうは】阻【へだ】てらる。
蕭條【しょうじょう】洲渚【しゅうちょ】の際、気色【けしょく】諧和【かいわ】すること少し。
西に瞻【み】て遊歎【ゆうたん】を興し、東に睇【み】て悽歌【せいか】を起す。
積憤【せきふん】疢痗【ちんばい】を成す、萱【けん】無くば將に如何【いかん】せんとす。



(現代語訳) (その5)
川の渡場のそばまで来ても渡ることができず、私は舟の楫をとどめて風波のために始寧に帰ることは阻まれている。
蕭条としてものさびしい川の中州のなぎさの際には、風雲によって暗い状態になっており、たのしく心やわらぐものが少ないのだ。
西の方向を眺めてみると他国に遊ぶ旅人達の嘆きを共にすることになり、東のかた郷里、始寧の方角を視てはこの悲しい歌を作ることになるのである。
なかなか帰れないことでつもり積もった憤怒のために私は病気になってしまった。もし憂えを忘れるという萱草が無かったら、わたしはいかにしたらよいというのであろうか。


(訳注)(その5)
臨津不得済、佇楫阻風波。

川の渡場のそばまで来ても渡ることができず、私は舟の楫をとどめて風波のために始寧に帰ることは阻まれている。
渡し場


蕭條洲渚際、気色少諧和。
蕭条としてものさびしい川の中州のなぎさの際には、風雲によって暗い状態になっており、たのしく心やわらぐものが少ないのだ。
蕭條 ものさびしい。・諧和 楽しく和やかた気分。


西瞻興遊歎、東睇起悽歌。
西の方向を眺めてみると他国に遊ぶ旅人達の嘆きを共にすることになり、東のかた郷里、始寧の方角を視てはこの悲しい歌を作ることになるのである。
遊歎 旅にある人の憂い欺き。・悽歌 悲しい歌。この詩をさす。


積憤成疢痗、無萱將如何。
なかなか帰れないことでつもり積もった憤怒のために私は病気になってしまった。もし憂えを忘れるという萱草が無かったら、わたしはいかにしたらよいというのであろうか。
積憤 積もって久しい憤り。・疢痗 病気。疢はわずらい、は病。・ 萱草、諼草、忘れ草。忘憂草。
詩経、衛風伯兮篇に「焉諼得草、言樹之背。願言伯思、使我心痗。」(焉くんぞ諼草を得ん。言に背に樹えん。願いて言に伯を思い、我が心をして痗ましむ)とある。
我憂いを忘れるために、何処かで、もの忘れする草をみつけ、それを裏座敷に植えたい。一生懸命あなたのことばかり思いつめていると、私の心は病気になりそう。
.「雅音徘徊(さまよい)して、清婉(きよらかこやさしく)誦すベし」と。

西陵遇風獻康楽 その4 謝惠運 謝霊運(康楽) 詩<52>Ⅱ李白に影響を与えた詩439 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1134

西陵遇風獻康楽 その4 謝惠運 謝霊運(康楽) 詩<52>Ⅱ李白に影響を与えた詩439 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1134


(その4)
屯雲蔽曾嶺、驚風湧飛流。
とどまって動かない雲は重なる嶺蔽っている、突風はしぶきを浪立つ流れを湧きあげている。
零雨潤墳澤、落雪灑林邱。
降る雨は土手も沢地も一面になって潤している、山の方では飛び散る雪は林にも丘にもふりそそいでいる。
浮氛晦崖巘、積素成原疇。
ただよう靄は崖も峰も暗くしてかすんであいる、ふり積もった雪は原野と田畑の区別をわからなくしている。
曲汜薄停旅、通川絶行舟。

曲がりこんだ入り江の岸に暫くわが旅の一行を停めているが、流れる川には行く舟は全く絶えてしまった。



屯雲【ちゅううん】は曾嶺【そうれい】を蔽【おお】い、驚風【きょうふう】飛流【ひりゅう】を湧かす。
零雨【れいう】墳澤【ふんたく】を潤おし、落雪【らいせつ】林邱【りんきゅう】に灑【そそ】ぐ。
浮氛【ふふん】崖巘【がいけん】に晦【くら】く、積素【せきそ】原疇【げんちゅう】を成【まどわ】す。
曲汜【きょくし】薄【しばら】く旅を停【とど】め、通川【つうせん】に行舟【こうしゅう】を絶つ。



現代語訳と訳註
(本文) (
その4)
屯雲蔽曾嶺、驚風湧飛流。
零雨潤墳澤、落雪灑林邱。
浮氛晦崖巘、積素成原疇。
曲汜薄停旅、通川絶行舟。


(下し文)
屯雲【ちゅううん】は曾嶺【そうれい】を蔽【おお】い、驚風【きょうふう】飛流【ひりゅう】を湧かす。
零雨【れいう】墳澤【ふんたく】を潤おし、落雪【らいせつ】林邱【りんきゅう】に灑【そそ】ぐ。
浮氛【ふふん】崖巘【がいけん】に晦【くら】く、積素【せきそ】原疇【げんちゅう】を成【まどわ】す。
曲汜【きょくし】薄【しばら】く旅を停【とど】め、通川【つうせん】に行舟【こうしゅう】を絶つ。


(現代語訳) (その四)
とどまって動かない雲は重なる嶺蔽っている、突風はしぶきを浪立つ流れを湧きあげている。
降る雨は土手も沢地も一面になって潤している、山の方では飛び散る雪は林にも丘にもふりそそいでいる。
ただよう靄は崖も峰も暗くしてかすんであいる、ふり積もった雪は原野と田畑の区別をわからなくしている。
曲がりこんだ入り江の岸に暫くわが旅の一行を停めているが、流れる川には行く舟は全く絶えてしまった。


(訳注)(その4)
屯雲蔽曾嶺、驚風湧飛流。

とどまって動かない雲は重なる嶺蔽っている、突風はしぶきを浪立つ流れを湧きあげている。
屯雲 とどまって動かない雲 ・曾嶺 重なる嶺。 ・飛流 しぶき浪立つ流れ。


零雨潤墳澤、落雪灑林邱。
降る雨は土手も沢地も一面になって潤している、山の方では飛び散る雪は林にも丘にもふりそそいでいる。
墳沢 土手や沢地。高低一面に。


浮氛晦崖巘、積素成原疇。
ただよう靄は崖も峰も暗くしてかすんであいる、ふり積もった雪は原野と田畑の区別をわからなくしている。
浮氛 ただより靄、水気。・晦崖巘 崖も峰も暗い。 ・積素 ふり積もる雪。 ・成原疇 成は惑。野原と田畑などの区別がわからなくする。


曲汜薄停旅、通川絶行舟。
曲がりこんだ入り江の岸に暫くわが旅の一行を停めているが、流れる川には行く舟は全く絶えてしまった。
曲汜 曲がりこんだ入り江の岸。 ・ しばらく。 ・停旅 旅の一行を停める。 ・通川 通じ流れる川水、 ・絶行舟 行く舟か絶えた。


西陵遇風獻康楽 その3 謝惠運 謝霊運(康楽) 詩<50>Ⅱ李白に影響を与えた詩437 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1128

西陵遇風獻康楽 その3 謝惠運 謝霊運(康楽) 詩<50>Ⅱ李白に影響を与えた詩437 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1128



(3)
靡靡即長路,戚戚抱遙悲。
離れがたい気持ちは足どりを遅くしつつ、遠い旅路についている、憂いもち傷む心ではてしなぎ別れの悲しみを抱いて行くのである。
悲遙但自弭,路長當語誰。
はてしなぎ別れの悲しみは、しかしそれでもやはり自ずから止むのであろうが、長い道中に誰と語ってよいやらどうすべきであろうか。賢兄と別れては語るべき友もないのがいよいよ遠くさびしいのだ。
行行道轉遠,去去情彌遲。
行けども行けども道はいよいよ遠く、離れ去れば雛れるほど賢兄を思う憐はますます残って絶つことができない。
昨發浦陽汭,今宿浙江湄。

それにしても昨日は浦陽江の北の岸を発って、今日は浙江のほとりに宿ったのである。

靡靡【びび】として長路に即【つ】き、戚戚【せきせき】として遙なる悲みを抱く。
悲 遙なるは 但 自ら弭【や】む。路の長ぎに當【まさ】に誰とか語るべき。
行き行ぎて道 轉【うたた】遠く、去り去りて 情 彌【いよい】よ遅し。
昨【きのう】は浦陽【ほよう】の汭【ほとり】を發し、今【きょう】は浙江の湄【みぎわ】に宿る。


現代語訳と訳註
(本文)
(3)
靡靡即長路,戚戚抱遙悲。
悲遙但自弭,路長當語誰。
行行道轉遠,去去情彌遲。
昨發浦陽汭,今宿浙江湄。


(下し文)
靡靡【びび】として長路に即【つ】き、戚戚【せきせき】として遙なる悲みを抱く。
悲 遙なるは 但 自ら弭【や】む。路の長ぎに當【まさ】に誰とか語るべき。
行き行ぎて道 轉【うたた】遠く、去り去りて 情 彌【いよい】よ遅し。
昨【きのう】は浦陽【ほよう】の汭【ほとり】を發し、今【きょう】は浙江の湄【みぎわ】に宿る。


(現代語訳)
離れがたい気持ちは足どりを遅くしつつ、遠い旅路についている、憂いもち傷む心ではてしなぎ別れの悲しみを抱いて行くのである。
はてしなぎ別れの悲しみは、しかしそれでもやはり自ずから止むのであろうが、長い道中に誰と語ってよいやらどうすべきであろうか。賢兄と別れては語るべき友もないのがいよいよ遠くさびしいのだ。
行けども行けども道はいよいよ遠く、離れ去れば雛れるほど賢兄を思う憐はますます残って絶つことができない。

それにしても昨日は浦陽江の北の岸を発って、今日は浙江のほとりに宿ったのである。

(訳注) (3)
靡靡即長路,戚戚抱遙悲。

離れがたい気持ちは足どりを遅くしつつ、遠い旅路についている、憂いもち傷む心ではてしなぎ別れの悲しみを抱いて行くのである。
靡靡 足の進みのおそい形容。 ・遙悲 久しくはるかな悲哀。 ・戚戚 憂い悲しむさま。また、憂い恐れるさま。

悲遙但自弭,路長當語誰。
はてしなぎ別れの悲しみは、しかしそれでもやはり自ずから止むのであろうが、長い道中に誰と語ってよいやらどうすべきであろうか。賢兄と別れては語るべき友もないのがいよいよ遠くさびしいのだ。
 止む。・当語誰 思い切れない。

行行道轉遠,去去情彌遲。
行けども行けども道はいよいよ遠く、離れ去れば雛れるほど賢兄を思う憐はますます残って絶つことができない。
転遠 いよいよ遠い。 ・情弥遅 君を恋うる竹はますますぐずぐずとして、

昨發浦陽汭,今宿浙江湄。
それにしても昨日は浦陽江の北の岸を発って、今日は浙江のほとりに宿ったのである。
浦陽汭 消浦陽は浙江省にある江の名。は支流の注ぐ所。また水の北をいう。 ・浙江 曲折が多いので浙江という。また江ともいう。下流は銭塘江。 ・ ほとり。岸。

西陵遇風獻康楽 その2 謝惠運 詩<48>Ⅱ李白に影響を与えた詩435 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1122

西陵遇風獻康楽 その2 謝惠運 詩<48>Ⅱ李白に影響を与えた詩435 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1122


西陵遇風獻康楽 謝蕙連
謝恵連(394~433)   会稽の太守であった謝方明の子。陳郡陽夏の人。謝霊運の従弟にあたる。大謝:霊運に対して小謝と呼ばれ、後に謝朓を加えて“三謝”とも称された。元嘉七年(430)、彭城王・劉義慶のもとで法曹行参軍をつとめた。詩賦にたくみで、謝霊運に対して小謝と称された。『秋懐』『擣衣』は『詩品』でも絶賛され、また楽府体詩にも優れた。『詩品』中。謝恵連・何長瑜・荀雍・羊濬之らいわゆる四友とともに詩賦や文章の創作鑑賞を楽しんだ。四友の一人。


 謝靈運 謝惠連
酬従弟謝惠連 五首西陵遇風獻康楽 五首

従弟の恵連に酬ゆ 五首

西陵にて風に遇い康楽に獻ず五首

(その1(その1

寢瘵謝人徒,滅跡入雲峯。

我行指孟春、春仲尚未發。

岩壑寓耳目,歡愛隔音容。

趣途遠有期、念離情無歇。

賞心望,長懷莫與同。

成装候良辰、漾舟陶嘉月。

末路令弟,開顏披心胸

瞻塗意少悰、還顧情多闕。

(その2(その2)

心胸既雲,意得鹹在

哲兄感仳別、相送越垌

淩澗尋我室,散帙問所

飲餞野亭館、分袂澄湖

夕慮曉月流,朝忌曛日

悽悽留子言、眷眷浮客

悟對無厭歇,聚散成

迴塘隠艫栧、遠望絶形

(その3(その3

分離別西,回景歸東

靡靡即長路,戚戚抱遙

別時悲已甚,別後情更

悲遙但自弭,路長當語

傾想遲嘉音,果枉濟江

行行道轉遠,去去情彌

辛勤風波事,款曲洲渚

昨發浦陽汭,今宿浙江

(その4(その4)

洲渚既淹,風波子行

屯雲蔽曾嶺、驚風湧飛

務協華京想,詎存空穀

零雨潤墳澤、落雪灑林

猶復恵来章,祇足攬余

浮氛晦崖巘、積素成原

儻若果歸言,共陶暮春

曲汜薄停旅、通川絶行

(その5(その5)

暮春雖未交,仲春善遊

臨津不得済、佇楫阻風

山桃發紅萼,野蕨漸紫

蕭條洲渚際、気色少諧

鳴嚶已悅豫,幽居猶郁

西瞻興遊歎、東睇起悽

夢寐佇歸舟,釋我吝與

積憤成疢痗、無萱將如


西陵遇風獻康楽(その1)
都建康の西陵で病気になったので康楽兄上に近況をお知らせする詩。
我行指孟春、春仲尚未發。
私の旅は春のはじめのつもりであったのに、仲春二月になってもやはりまだ出発しないでいる。
趣途遠有期、念離情無歇。
旅の途に向かうことは遠く以前に心に決めていたが、別れを思えばさびしい気持ちが尽きない。
成装候良辰、漾舟陶嘉月。
旅装も出来上がって門出の良い日を待ちながら、船を浮かべて春の好ましい月を楽しむのである。
瞻塗意少悰、還顧情多闕。
そうはいっても、行く手の途をながめてみると心に楽しみが少なく、あと振り返ってみるなら、ここに留まるには、気持の上で満足することはないことの方が多いのを覚えるのである。


西陵にて風に遇い康楽に獻ず(その1)
我が行 孟春【もうしゅん】を指すに、春仲【はるなかば】なるも尚 未だ發せず。
途に趣くこと遠く期有り、離【わかれ】を念うて情 歇【や】む無し。
装【よそおい】成して良辰【りょうしん】を候【ま】ち、舟を漾【うかべ】て嘉月を陶【たの】しむ。
塗【みち】を瞻て意に悰【たのしみ】少し、還顧【かんこ】すれば情に闕【か】くること多し。

(その2)
哲兄感仳別、相送越垌林。
賢兄は私との別れに心を感きわまったようだ、互いの別れのために野の林を越えて遠く送って下さいました。
飲餞野亭館、分袂澄湖陰。
郊外の宿場の館で贐の酒宴を催してくれ、澄んだ入江の南岸でたもとを分かち別れを惜しまれた。
悽悽留子言、眷眷浮客心。
後に留まる貴君のことばは悲しみに満ち、旅人の私はいつまでも心引かれて顧みるのであった。
迴塘隠艫栧、遠望絶形音。
舟は進みやがで曲がった岸に楫や舟のへさきが隠れて、はるかな眺めの中に人々の姿も声も絶えてしまった。


(その2)
哲兄【てっけい】は仳別【ひべつ】に感じ、相送って垌林【けいりん】を越え。
野亭【やてい】の館に飲餞【いんせん】し、澄湖【とうこ】の陰に分袂【ぶんぺい】す。
悽悽【せいせい】たり留子【りゅうし】の言、眷眷【けんけん】たり浮客【ふかく】の心。
迴塘【かいとう】に櫨挽【ろえい】隠れ、遠望【えんぼう】形音【けいおん】絶ゆ。


現代語訳と訳註
(本文)

哲兄感仳別、相送越垌林。
飲餞野亭館、分袂澄湖陰。
悽悽留子言、眷眷浮客心。
迴塘隠艫栧、遠望絶形音。

(下し文) (その2)
哲兄【てっけい】は仳別【ひべつ】に感じ、相送って垌林【けいりん】を越え。
野亭【やてい】の館に飲餞【いんせん】し、澄湖【とうこ】の陰に分袂【ぶんぺい】す。
悽悽【せいせい】たり留子【りゅうし】の言、眷眷【けんけん】たり浮客【ふかく】の心。
迴塘【かいとう】に櫨挽【ろえい】隠れ、遠望【えんぼう】形音【けいおん】絶ゆ。


(現代語訳)
賢兄は私との別れに心を感きわまったようだ、互いの別れのために野の林を越えて遠く送って下さいました。
郊外の宿場の館で贐の酒宴を催してくれ、澄んだ入江の南岸でたもとを分かち別れを惜しまれた。
後に留まる貴君のことばは悲しみに満ち、旅人の私はいつまでも心引かれて顧みるのであった。
舟は進みやがで曲がった岸に楫や舟のへさきが隠れて、はるかな眺めの中に人々の姿も声も絶えてしまった。


(訳注) (その二)
哲兄感仳別、相送越垌林。
賢兄は私との別れに心を感きわまったようだ、互いの別れのために野の林を越えて遠く送って下さいました。
哲兄 賢兄に同じ。 ・仳 別れ。


飲餞野亭館、分袂澄湖陰。
郊外の宿場の館で贐の酒宴を催してくれ、澄んだ入江の南岸でたもとを分かち別れを惜しまれた。
 爾雅に「。野外を林と日ひ、林外な桐と臼ふ、」と。郊外、秋野。・飲餞はなむけの宴を催す。・野亭鮮 郊外にある宿場の旅館。・澄湖陰 澄んだ入江の南岸。陰は水の南。


悽悽留子言、眷眷浮客心。
後に留まる貴君のことばは悲しみに満ち、旅人の私はいつまでも心引かれて顧みるのであった。
留子 残留する人。謝霊運を指す。・眷眷 心引かれて顧みる。・浮客 行方定めぬ旅人。


迴塘隠艫栧、遠望絶形音。
舟は進みやがで曲がった岸に楫や舟のへさきが隠れて、はるかな眺めの中に人々の姿も声も絶えてしまった。
迴塘 曲がった岸。・艫栧 舟のへさきとかじ。・絶形音 姿も声も絶えてわからなくなる。

西陵遇風獻康楽 その1 謝惠運 詩<46>Ⅱ李白に影響を与えた詩433 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1116

西陵遇風獻康楽 その1 謝惠運 詩<46>Ⅱ李白に影響を与えた詩433 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1116



 謝靈運

 謝惠連

酬従弟謝惠連 五首

西陵遇風獻康楽 五首

従弟の恵連に酬ゆ 五首

西陵にて風に遇い康楽に獻ず五首

(その1

(その1

寢瘵謝人徒,滅跡入雲峯。

我行指孟春、春仲尚未發。

岩壑寓耳目,歡愛隔音容。

趣途遠有期、念離情無歇。

賞心望,長懷莫與同。

成装候良辰、漾舟陶嘉月。

末路令弟,開顏披心胸

瞻塗意少悰、還顧情多闕。

(その2

(その2)

心胸既雲披,意得鹹在斯。

哲兄感仳別、相送越垌

淩澗尋我室,散帙問所知。

飲餞野亭館、分袂澄湖

夕慮曉月流,朝忌曛日馳。

悽悽留子言、眷眷浮客

悟對無厭歇,聚散成分離

迴塘隠艫栧、遠望絶形

(その3

(その3

分離別西,回景歸東

靡靡即長路,戚戚抱遙

別時悲已甚,別後情更

悲遙但自弭,路長當語

傾想遲嘉音,果枉濟江

行行道轉遠,去去情彌

辛勤風波事,款曲洲渚

昨發浦陽汭,今宿浙江

(その4

(その4)

洲渚既淹,風波子行

屯雲蔽曾嶺、驚風湧飛

務協華京想,詎存空穀

零雨潤墳澤、落雪灑林

猶復恵来章,祇足攬余

浮氛晦崖巘、積素成原

儻若果歸言,共陶暮春

曲汜薄停旅、通川絶行

(その5

(その5)

暮春雖未交,仲春善遊

臨津不得済、佇楫阻風波。

山桃發紅萼,野蕨漸紫

蕭條洲渚際、気色少諧和。

鳴嚶已悅豫,幽居猶郁

西瞻興遊歎、東睇起悽歌。

夢寐佇歸舟,釋我吝與

積憤成疢痗、無萱將如何。



西陵遇風獻康楽 謝惠連
謝恵連(394~433)   会稽の太守であった謝方明の子。陳郡陽夏の人。謝霊運の従弟にあたる。大謝:霊運に対して小謝と呼ばれ、後に謝朓を加えて“三謝”とも称された。元嘉七年(430)、彭城王・劉義慶のもとで法曹行参軍をつとめた。詩賦にたくみで、謝霊運に対して小謝と称された。『秋懐』『擣衣』は『詩品』でも絶賛され、また楽府体詩にも優れた。『詩品』中。謝恵連・何長瑜・荀雍・羊濬之らいわゆる四友とともに詩賦や文章の創作鑑賞を楽しんだ。四友の一人。


西陵遇風獻康楽(その1)
都建康の西陵で病気になったので康楽兄上に近況をお知らせする詩。
我行指孟春、春仲尚未發。
私の旅は春のはじめのつもりであったのに、仲春二月になってもやはりまだ出発しないでいる。
趣途遠有期、念離情無歇。
旅の途に向かうことは遠く以前に心に決めていたが、別れを思えばさびしい気持ちが尽きない。
成装候良辰、漾舟陶嘉月。
旅装も出来上がって門出の良い日を待ちながら、船を浮かべて春の好ましい月を楽しむのである。
瞻塗意少悰、還顧情多闕。
そうはいっても、行く手の途をながめてみると心に楽しみが少なく、あと振り返ってみるなら、ここに留まるには、気持の上で満足することはないことの方が多いのを覚えるのである。


西陵にて風に遇い康楽に獻ず(その1)
我が行 孟春【もうしゅん】を指すに、春仲【はるなかば】なるも尚 未だ發せず。
途に趣くこと遠く期有り、離【わかれ】を念うて情 歇【や】む無し。
装【よそおい】成して良辰【りょうしん】を候【ま】ち、舟を漾【うかべ】て嘉月を陶【たの】しむ。
塗【みち】を瞻て意に悰【たのしみ】少し、還顧【かんこ】すれば情に闕【か】くること多し。


現代語訳と訳註
(本文)

西陵遇風獻康楽(その1)
我行指孟春、春仲尚未發。
趣途遠有期、念離情無歇。
成装候良辰、漾舟陶嘉月。
瞻塗意少悰、還顧情多闕。

(下し文)
西陵にて風に遇い康楽に獻ず(その1)
我が行 孟春【もうしゅん】を指すに、春仲【はるなかば】なるも尚 未だ發せず。
途に趣くこと遠く期有り、離【わかれ】を念うて情 歇【や】む無し。
装【よそおい】成して良辰【りょうしん】を候【ま】ち、舟を漾【うかべ】て嘉月を陶【たの】しむ。
塗【みち】を瞻て意に悰【たのしみ】少し、還顧【かんこ】すれば情に闕【か】くること多し。


(現代語訳)
都建康の西陵で病気になったので康楽兄上に近況をお知らせする詩。
私の旅は春のはじめのつもりであったのに、仲春二月になってもやはりまだ出発しないでいる。
旅の途に向かうことは遠く以前に心に決めていたが、別れを思えばさびしい気持ちが尽きない。
旅装も出来上がって門出の良い日を待ちながら、船を浮かべて春の好ましい月を楽しむのである。
そうはいっても、行く手の途をながめてみると心に楽しみが少なく、あと振り返ってみるなら、ここに留まるには、気持の上で満足することはないことの方が多いのを覚えるのである。


(訳注)
西陵遇風獻康楽

都建康の西陵で病気になったので康楽兄上に近況をお知らせする詩。
西綾 西陵は都建康の西とされる。・遇風 風流な景色に出遭ったという意味であるが、ここでは風邪か、痛風か、肝臓の病気になったと思われる。台風などに出遭う場合にも使う。・献康楽 康楽侯謝靈運は従兄であったから尊んで獻ずという。この詩は文選に一首とあり、五節一連の詩であるが、節ごとに韻を換えている。


我行指孟春、春仲尚未發。
私の旅は春のはじめのつもりであったのに、仲春二月になってもやはりまだ出発しないでいる。
孟春 初春。・春仲 二月 


趣途遠有期、念離情無歇。
旅の途に向かうことは遠く以前に心に決めていたが、別れを思えばさびしい気持ちが尽きない。
趣途 途に向かう。・遠有期 すでに遙か前に心に期をきめていた。


成装候良辰、漾舟陶嘉月。
旅装も出来上がって門出の良い日を待ちながら、船を浮かべて春の好ましい月を楽しむのである。
良辰 良い時。「安静風無き時なり」・漾 うかべる。・陶嘉月 楚辞九懐篇「嘉月を陶滲みて駕を総ぶ」謝靈運『酬従弟謝蕙連 五首その4』「儻若果歸言,共陶暮春時。」


瞻塗意少悰、還顧情多闕。
そうはいっても、行く手の途をながめてみると心に楽しみが少なく、あと振り返ってみるなら、ここに留まるには、気持の上で満足することはないことの方が多いのを覚えるのである。
 たのしみ。・多闕 意に満たないことが多い。




(謝霊運のその1)
酬従弟謝惠連 五首
(その1)
寢瘵謝人徒,滅跡入雲峯。
岩壑寓耳目,歡愛隔音容。
永絕賞心望,長懷莫與同。
末路值令弟,開顏披心胸。
病の床について人と会うのを謝絶した、それから後名跡を訪れることはなく雲に隠れる峯に隠棲した。
ひととの交じりを断って岩の谷間の水音に耳や目を寄せた。愛しい人とも声を聞くことも隔たったのである。
その隠棲生活は長く続いた、景観を賞賛する心でここで臨んだのだ。そして長期間にわたって同じ気持ちで過ごすことはなかった。
晩年になって、弟の君と逢うことが出来た。そして顔を開いたし、心を打ち解け、胸襟を開いたのだ。

(従弟謝惠運に酬ゆ五首)
(その1)
瘵【やまい】に寢【い】ね 人徒【じんと】を謝し,滅跡【めつせき】して雲峯【うんほう】に入れり。
岩壑【がんがく】耳目【じもく】を寓【よ】せ,歡愛【かんあい】音容【おんよう】を隔てり。
永絕【えいぜつ】して賞心【しょうしん】を望み,長懷【ちょうかい】して 與に同じくするを莫きを。
末路【ばんねん】令弟【おとうと】に值【あ】い,開顏【かいがん】心胸【しんきょう】を披【ひら】けり。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<5> 廬陵王墓下作 #1 詩集 359

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<5> 廬陵王墓下作 詩集 359


廬陵王墓下作 #1
曉月發雲陽,落日次朱方。
明け方月がまだ出ているときに雲陽を出発した、夕暮れには南の丹徒についてここに宿泊する。
含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
身を切るような悲しみの心をもって長江の広い河川に船で移動した。陵墓のある連なる丘を眺めているが涙は兩の頬をそそぐようにあふれている。
眷言懷君子,沈痛結中腸。
ここをぐるり眺めていて、君主となるべき廬陵王を偲ばれるのである。心が痛み沈んだ気持ちになってゆくこの悲しみを胸に刻んでいる。
道消結憤懣,運開申悲涼。
消え去ったしかし殺されたということは怒りがわきでききて止めようがない、国の盛運を開いたとしているが、それは門閥たちにとっても事であり、凍りつくような悲しみということでしかない。
#2
神期恆若在,德音初不忘。徂謝易永久,松柏森已行。
延州協心許,楚老惜蘭芳。解劍竟何及,撫墳徒自傷。
#3
平生疑若人,通蔽互相妨。理感深情慟,定非識所將。
脆促良可哀,夭枉特兼常。一隨往化滅,安用空名揚?
舉聲泣已灑,長歎不成章。

 高祖長安を伐つ。騏騎将軍道憐 居守し、版して諮議参軍と為す。
 中書侍郎に転ず。

とある。『宋書』の「武帝紀」によると、義煕十二年〈416〉二月、のちの宋の高祖、すなわち、太尉劉裕は後秦の姚私討伐を謀ることとなり、建康を八月に出発。その留守部隊となった謝霊運は諮議参軍の役に就いた。この役はすべて庶務的な仕事の相談をうけるものである。やがて、中書侍郎へと転じたが、これは宮廷の文書をつかさどるものであった。
「武帝紀」によると、騏騎将軍道憐が留守したのは義煕十一年正月に司馬休之を討つために都を出発したときのことである。

高祖は、417年義煕十三年四月に洛陽に、九月には長安に進んで、これを平定、翌年に都に帰ってきた。そうし、謝霊運を陰に陽にかばってくれた宋国の初代の天子劉裕も永初三年〈422〉三月には病いを患い、五月にはついに死亡してしまうのである。

直情的な謝霊運は政治家としては疎外され、文人として尊重された。謝霊運が当時超一流の文人で、その詩は広く待ち望まれており、発表されると一気にひろまったという。
 劉裕が死亡すると、ただちに長男の義符が裕の跡をつぎ、これが少帝である。『宋書』の「霊運伝」では。

  少帝即位し権は大臣に在り、霊運異同を構扇し執政を非毀す。
  司徒の徐茨之等之を患う。


少帝はとかく素行が修まらなかった。したがって、取り巻きの奸臣の大臣たちがそれを利用し、権力をほしいままにしていた。これに対して、謝霊運は、世間をはばからず、批判を繰り返したようだ。「患之」の二宇によく表現されている。

 この時代は、力のある貴族の上に祭り上げられた皇帝がいるのであり、皇帝の権威は形成されてはいなかった。謝霊運の崇拝した義真は、王の位を奪われ、新安郡(浙江省淳安県)にうつされ、景平二年〈424〉の六月に、その道中で徐羨之グループの手によってわずか十八歳の若さで殺されてしまった。
後日、聡明だけど不幸な盟主義真の墓を訪ねて作ったのが「廬陵王の墓下の作」で、名作の一つとして、『文選』の巻二十三に引用されている。便宜上3分割して掲載する。


(廬陵王の墓下の作)#1
暁月【ぎょうげつ】に雲陽【うんよう】を發【た】ち、 落日【らくじつ】に朱方【しゅほう】に次【やど】る。
悽【いたみ】を含んで廣川【こうせん】に泛【うか】び、涙を灑【そそ】ぎて連岡【れんこう】を眺【み】る
眷【かえり】みて言【ここ】に君子を懷い、沈痛は中腸【ちゅうちょう】を切【き】る。
道消【みちき】えて慣懣【ふんまん】を結び、運開いて悲涼【ひりょう】を申【の】ぶ。
#2
神期【しんき】は恆【つね】に在るが若【ごと】く、徳音【とくいん】は初【はじめ】より忘れられず。
徂謝【そしゃ】して永久なり易く、松柏【しょうはく】は森【しん】として已【もっ】て行【つら】なる。

延州【えんしゅう】は心許【しんきょ】に協【かな】い、楚老【そろう】は蘭芳【らんぽう】を惜しむ。
劒を解くも竟【つい】に何ぞ及ばん、墳【つか】を撫【ぶ】して徒【いたず】らに自ら傷む。
#3
平生疑う若【かくのごと】き人を疑えり、通【つう】蔽【へい】互に相 妨【さまた】ぐることを。
理もて感ずるは深く情は慟【いた】む、識【しき】の將【おこ】なう所に非ずと定めぬ。
脆促【ぜいそく】は良【まこと】に哀【かな】しむ可し、 夭枉【ようおう】は特に常を兼ぬ。
一【ひと】たび往化【おうか】に随って滅ぶ、安んぞ用いん空名【くうめい】の揚【あが】るを。
声を挙げて泣【なみだ】已【すで】に灑ぎ【そそ】、長歎【ちょうたん】して章を成さず。



現代語訳と訳註
(本文)

廬陵王墓下作
曉月發雲陽,落日次朱方。
含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
眷言懷君子,沈痛結中腸。
道消結憤懣,運開申悲涼。


(下し文)
暁月【ぎょうげつ】に雲陽【うんよう】を發【た】ち、 落日【らくじつ】に朱方【しゅほう】に次【やど】る。
悽【いたみ】を含んで廣川【こうせん】に泛【うか】び、涙を灑【そそ】ぎて連岡【れんこう】を眺【み】る
眷【かえり】みて言【ここ】に君子を懷い、沈痛は中腸【ちゅうちょう】を切【き】る。
道消【みちき】えて慣懣【ふんまん】を結び、運開いて悲涼【ひりょう】を申【の】ぶ。


(現代語訳)
明け方月がまだ出ているときに雲陽を出発した、夕暮れには南の丹徒についてここに宿泊する。
身を切るような悲しみの心をもって長江の広い河川に船で移動した。陵墓のある連なる丘を眺めているが涙は兩の頬をそそぐようにあふれている。
ここをぐるり眺めていて、君主となるべき廬陵王を偲ばれるのである。心が痛み沈んだ気持ちになってゆくこの悲しみを胸に刻んでいる。
消え去ったしかし殺されたということは怒りがわきでききて止めようがない、国の盛運を開いたとしているが、それは門閥たちにとっても事であり、凍りつくような悲しみということでしかない。


(訳注) 廬陵王墓下作
廬陵王【ろりょうおう】の墓の下で作る
廬陵王 劉義真406~424武帝の次男。『宋書』では「聡明にして文義を愛すれど、軽佻にして徳なし」と評された。東晋末の劉裕の北伐後は関中鎮守に残され、翌418年には内訌と夏軍の来攻で長安を失陥した。劉裕の即位で廬陵王とされ、後に南豫州刺史に叙されたが、夙に帝位への志向が強く、篤交した謝霊運・顔延之・慧林らに即位後の顕官を保証していたことで徐羨之ら託孤六傅に忌まれ、少帝廃黜後の混乱を避けるために少帝に先立って殺されたのである。


曉月發雲陽,落日次朱方。
明け方月がまだ出ているときに雲陽を出発した、夕暮れには南の丹徒についてここに宿泊する。
雲陽 江蘇省丹陽市(鎮江市のすぐ南)曲阿のこと。
 宿の意味、「二」に通じるため、「つぎ」という意味。 杜甫『行次昭陵』 李商隠『行次西郊作 一百韻』
朱方 今の江蘇省鎮江市の丹徒のこと。廬陵王の墓参りのために、明け方に雲陽を発ち、夕方に朱方に着いたという意味になる。

漢の時代に確立された五行思想の世界観が反映されていて、主な事項は以下である。
五行       木  ―火  ―土  ―金  ―水
五色      青(緑) 紅   黄    白   玄(黒)
五方      東    南   中    西   北
五時      春    夏   土用   秋   冬
五節句    人日   上巳  端午  七夕  重陽
(旧暦の日)  (1/1)  (3/3)  (5/5)  (7/7)  (9/9)
             
このことと、十二支による日付の表し方を理解する必要がある。この表現法は、中国社会では切り離せないものである。年号との組み合わせで日付が明確に示されている。何月の何番目の日とか。


含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
身を切るような悲しみの心をもって長江の広い河川に船で移動した。陵墓のある連なる丘を眺めているが涙は兩の頬をそそぐようにあふれている。
 凄と同様で「切」に通じる言葉で、身を切られるような悲しい思いを意味する。○ 水面を覆うように浮く。○ 本来、水を流して洗い流すことだが、涙をたれ流す際にも用いる。○ 左右を広く見渡すこと。


眷言懷君子,沈痛結中腸。
ここをぐるり眺めていて、君主となるべき廬陵王を偲ばれるのである。心が痛み沈んだ気持ちになってゆくこの悲しみを胸に刻んでいる。
君子 廬陵王のこと。○沈痛 心の底に沈殿してゆくような深い痛みをいう。○中腸 胸の痛み。断腸は下腹。
 目をぐるっと回す所から来た言葉で、振り返る、世話をする、目をかけることをいう。眷属というのは、世話をしている配下の者のこと。○ 『詩経』「我ここに」という意味で用いられることがある。小雅の「大東」という詩に「睠言顧之 潸焉出涕(睠かえりみて我ここに之れを顧み、潸焉として涕を出す。)」とあるが、「睠」と「眷」は同じ。


道消結憤懣,運開申悲涼。
消え去ったしかし殺されたということは怒りがわきでききて止めようがない、国の盛運を開いたとしているが、それは門閥たちにとっても事であり、凍りつくような悲しみということでしかない。
道消 『易経、天地否』「小人道長、君子道消」(小人は道長じ、君子は道消するなり)」とあり、君子の道が消えることをいう。これに基づき対句にしている。○憤懣 憤は噴出すもので、懣はいっぱいになることをいう。○ 糸で口を縛り付けることをいい、「慣懣を結ぶ」とは噴出してくる憤りが溜まりに溜まって、その出口もなくわだかまっていることをいう。○ 道の上を廻るものをいう。○ 心が裂けること。○ 高い所にある水のような凍てつく冷たさをいう。○ 手を前に伸ばすこと。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<4> 三月三日侍宴西池 詩 詩集 358

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<4> 三月三日侍宴西池 詩 詩集 358
南朝宋謝靈運 三月三日侍宴西池 詩(三月三日侍して西池に宴す)


三月三日侍宴西池 詩
三月三日の西池「臨水の会」に参列しての詩
詳観記牒,鴻荒莫博。
詳しく調べてみたが、その記録に三月三日と特定されたものはない。大昔からこの日ということで伝えられたわけではないが、奇数日が重なっているので縁起のいいものなのでやり始めたのだろう。
降及雲鳥,日聖則天。
この日には雲竜や鳳凰が降りてくるに及び、聖心は天子の心に法則としている。
虞承唐命,周典商期。
虞(舜)王は唐(堯)王の命を承け、周というくには商という国の艱難を引き継いだ。
江之永美,皇心惟苔。
長江の流れはこれは永遠に美しい、天子のみこころは苔むすほどのうるおいを与えている
矧乃暮春,時物芳街。
ましてや春の盛りを過ぎているこの時、時も萬物、すべてが香しい香りに包まれる。
濫觴逶迤,周流蘭殿。
長江のような大河もその源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないものでうねっている。周の国の勢いは商の国を流し立派な宮殿とし今日の禊ぎとして流れた。
禧備朝容,楽関タ宴。
この例祭に、禊と水神を祭ることは備わっている、やがて夕方の宴に変わっていき音楽も終わってゆく。

(三月三日侍して西池に宴す)
詳しく記牒【きろく】を観るに、鴻荒【むかし】は伝うる莫【な】し。
降【くだ】りて雲と鳥とに及び、曰【い】わく聖は天に則ると。
虞【ぐ】は唐の命を承け、周は商の艱【かん】を襲う。
江は之れ永し、皇心 惟【こ】れ眷【いつく】しむ
矧【いわ】んや迺【すなわ】ち 暮春、時物芳衍【はびこ】り
濫觴【らんしょう】逶迤【ななめ】に、蘭殿に周流し。
礼は朝容に備わり、楽は夕宴に闋【や】む


宋国への転身
 『宋書』の本伝によると、

  (宋国の黄門侍郎に除せられ、相国の従事中郎、世子の左衛率に遊る。)


この時代これは謝霊運にとっては非常な変動をしめすものである。謝霊運がどうして、東晋から禅譲を受けて間もない劉裕に仕えるようになったか、その理由が示されたものはないが、詩文力は認められていたことから、王朝発足まもない劉裕から強い希望で迎えられたものであろう。劉裕に直接仕えたこと、『晋書』の「謝玄伝」には「元煕中〈419〉劉裕の世子の左衛率となる」と記されている。元煕は一年しかなく、すぐ永初〈420〉となる。謝霊運三十五歳のときに当たる。この時代の年齢としては決して若いことを期待されたというものではない。
 別に、『宋書』の本伝では「輒【みだ】りに門生を殺して官を免ぜらる」と記されている。当時の権力者にはよくあったことであるが、「みだりに門生を殺す」ということは、どうみても感情の激しい部分を持った人格であったようだ。これはやがて自分も殺されるという遅命の兆しであったというのか、おそらく、そういう人物に書き上げられたものであろうと思う。歴史書はその時の権力者の都合で敗者はよく書かれるわけはない。いや、悪く書かれることは悪く書かないといけないほどの影響力があったとみるべきであろう。敗者謝霊運のことについては『宋書』の「王弘伝」には詳しく述べられている。すなわち、義煕十四年六月、劉裕が宋公となるや、王弘は尚書僕射となり、謝霊運の罪状をあばいているが、その文によると。

(世子の左衛率、康楽県公の謝霊運 力人(カ士)の桂興其の嬖妾【そばめヘイショウ】に淫【おぼ】れしため、興を江の挨【ほとり】に殺し、屍を洪流【おおかわ】に棄つ。事は京畿に発【わか】り遐邇【おちこち】に播【つた】わり聞こゆ。宜しく重劾【じゅうがい】を加え、朝風を粛正すべし。案ずるに世子の左衛率康楽県公謝霊運は過【はなは】だご恩奨を蒙りヽ頻りに栄授を叨【かたじけな】くす。礼を聞き 禁を知ること日を為すこと已に久し。而るに、閫闈【かきね】を防閑すること能わずして、茲の紛穢【ふんわい】を致す。憲軌を顧みること罔【な】く、忿殺【ふんさつ】は自由なり。此にして治【ただ】す勿【な】くば、典刑将に替【す】たれんとす。請う事を以って霊運の居る所の官を免ぜしめ、上台は爵土を削り、大理(司法官)に収付して罪を治せしめんことを。)


と奏上したと記されている。この奏上文によって、謝霊運はただちに官職を免ぜられた。これは明らかに謝霊運の異常な出世を妬んで、わずかな失敗により、寝首をかかれたためであろう。
 やがて、劉裕は元煕二年〈420〉六月に建康(今の南京)で即位し、国を宋とし、年号を永初と改めた。そして、曹からの王朝創設の例により、論功行賞を行なったが、『宋書』の武帝紀によると、

(晋氏の封爵は咸【ことごと】く運に随って改めよ。徳 徴官に参【まじ】わり、勲 蒼生【そうせい】を済うに至っては、人を愛し、樹を懐い、猶お或いは翦【ほろぼ】すこと勿かれ。異代に在りと雖ども、義は絶【ひんぜつ】すること無く、降殺の儀、一に前典に依れ。(中略)康楽公を即ち県侯に封ず可し。各おの五百戸。)


とある。すなわち、謝霊運はこの慶祝で、罪も減ぜられ、そのうえ、県侯に新しく封ぜられたのである。本当に貴公子としての傍若無人な振る舞いに問題があるようだと、救われはしまい。
『宋書』の本伝では、

(高祖命を受くるや公爵を降【くだして侯と為す。食邑五百戸。起こして散騎常侍と為し、太子左衛率に転ず。)


と記す。この王朝の禅譲が詩人の鋭い感情に大きな影響を与えた。同世代の、謝霊運より二十歳年長であった陶淵明のような下級の身分のものだと、晋王朝が亡びても、宋王朝の年号は用いなかったと『宋書』の「隠逸伝」に記されているけれど、それは当時の人間に影響力が及ばないものである。謝霊運の態度は影響力があるのである。陶淵明のごとく隠者を自称した小地主と、謝霊運のように名族の者との相違は現代では計り知れないほど違いのものであった。後世の儒者の見方からすれば謝霊運の行為は、二朝に仕えた人間としてあまり尊敬を受けないものであるが、それは時代の変化により評価は変わるものであり、時の権力者はその権力の維持のために利用するのか、切り捨てるのかを選択したのである。

謝霊運は、利用価値があったということなのだ。半分は、隠遁生活にあこがれを抱く謝霊運から見れば、これらのことは、重なる不幸ということになるであろう。おそらく、その心に煮えたぎるものを抱きながら二君に仕えたのである。その激動は詩人の心を大いに詩作へと走らせるはずであるが、不平不満を詩にすることはできない。それは、死を意味することであるからである。詩文による影響力のけた違いに大きい時代である。その感情をあらわに述べたら、その生命の危険は自分のみならず、謝氏の一族にも及ぶのである。
しかし、からくも命だけは救われ、県侯に封ぜられた。その気持を奏上したのが、『芸文類聚』巻五十一にある。
 このような憤りに満ちていた霊運は、そのストレスのはけ口として、『宋書』の本伝に、

  (廬陵王義真少くして文籍を好み、霊運と情款 常と異なる。)


といったほうに傾いていった。すなわち、「廬陵王義真」とは劉裕の次子で、『宋書』の「武三王伝」には「聡明にして文義を愛し、軽く動いて徳業なし」と、利ロではあるがはなはだしく軽率であったと記されている。時に義真は十四歳であり、霊運は三十六歳の油ののりきった年齢であった。
「義真伝」によると、
「陳郡の謝霊運、琅邪【ろうや】の顔延之、慧琳道人並びに周旋【まじわり】は常に異なる」とあり、
なお、義真の言葉として、
「志を得る日、霊運 延之を以って宰相と為し、慧琳を西豫州の都督と為さん」といったと記してあるのをみると、義真はクーデターを考えていたとして、つぶされたものと考えられる。詩文は表に出やすいものであり、妬みは影で動くものである。十四歳の子供とはいえ詩文のわかる聡明な次男はその標的にされたのである。謝霊運『廬陵王墓下作』は次に掲載する。
父劉裕の亡きあとは宋国を背負って国王になれる可能性もあった。反劉裕グループに巧みに利用されたものである。謝霊運がこのころ作ったらしいものに四言古詩「三月三日侍宴西池」(三月三日侍して西池に宴す)がある。この詩の制作年代は明らかでないが、前の年九月、十二月、そしてこの三月のこの詩、謝霊運の一生をみて、侍宴できる可能性はこのころの一年しかないのである。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 九日従宋公戯馬台集送孔令詩#1 詩集 356

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 彭城宮中直感暮 詩集 357



現代語訳と訳註
(本文)
三月三日侍宴西池 詩
詳観記牒,鴻荒莫博。
降及雲鳥,日聖則天。
虞承唐命,周襲商艱。
江之永矣,皇心惟眷。
矧乃暮春,時物芳衍。
濫觴逶迤,周流蘭殿。
禧備朝容,楽関タ宴。


(下し文) (三月三日侍して西池に宴す)
詳しく記牒【きろく】を観るに、鴻荒【むかし】は伝うる莫【な】し。
降【くだ】りて雲と鳥とに及び、曰【い】わく聖は天に則ると。
虞【ぐ】は唐の命を承け、周は商の艱【かん】を襲う。
江は之れ永し、皇心 惟【こ】れ眷【いつく】しむ。
矧【いわ】んや迺【すなわ】ち 暮春、時物 芳衍【はびこ】り。
濫觴【らんしょう】逶迤【ななめ】に、蘭殿に周流し。
礼は朝容に備わり、楽は夕宴に闋【や】む



(現代語訳)
三月三日の西池「臨水の会」に参列しての詩
詳しく調べてみたが、その記録に三月三日と特定されたものはない。大昔からこの日ということで伝えられたわけではないが、奇数日が重なっているので縁起のいいものなのでやり始めたのだろう。
この日には雲竜や鳳凰が降りてくるに及び、聖心は天子の心に法則としている。
虞(舜)王は唐(堯)王の命を承け、周というくには商という国の艱難を引き継いだ。
長江の流れはこれは永遠に美しい、天子のみこころは苔むすほどのうるおいを与えている
ましてや春の盛りを過ぎているこの時、時も萬物、すべてが香しい香りに包まれる。
長江のような大河もその源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないものでうねっている。周の国の勢いは商の国を流し立派な宮殿とし今日の禊ぎとして流れた。
この例祭に、禊と水神を祭ることは備わっている、やがて夕方の宴に変わっていき音楽も終わってゆく。



(訳注) 三月三日侍宴西池 詩
(三月三日侍して西池に宴す)
三月三日の西池「臨水の会」に参列しての詩
三月三日 いわゆる行楽の季節である。謝霊運の時代をさかのぼること100年、三国時代の魏および西晋の襄陽の刺史であった山簡が、襄陽の高陽池で行楽を行った。字は季倫。父親は竹林の七賢の一人、山濤。別名「山翁」「山公」。李白『襄陽歌』『襄陽曲四首』『秋浦の詩十七首』また、漢の時代より前、古代から、3月最初の巳の日に行われていた伝統行事に「曲水の会」がある。水辺の大祓い行事として雪解け水が流れ始め、水量を増す川、池、湖、川が雪解けで水量を増す頃には、水辺の掃除をするというものである。渡水(着物の裾をちょっとだけ水に濡らす)、酒を川に流す、といったような形になって伝わっていくのである。また、棗や卵を川に投げ込んで神に捧げる風習もあったと記載されている。つまり、禊と水神を祭るということ。それが魏の時代に3月3日に行われるようになったとされるが、謝霊運の時代には書物での確認はできなかったのである。
 そして王朝の宮中では、「臨水の会」、「曲水の会」と形を変えていく。水辺で行う春の禊祓い祭事が陽気さそわれ、酒宴となった。唐の時代には帷を張り巡らせて、行われるようになる。


詳観記牒,鴻荒莫博。
(詳しく記牒【きろく】を観るに、鴻荒【むかし】は伝うる莫【な】し。)
詳しく調べてみたが、その記録に三月三日と特定されたものはない。大昔からこの日ということで伝えられたわけではないが、奇数日が重なっているので縁起のいいものなのでやり始めたのだろう。
鴻荒 大昔。太古。


降及雲鳥,日聖則天。
(降【くだ】りて雲と鳥とに及び、曰【い】わく聖は天に則ると。)
この日には雲竜や鳳凰が降りてくるに及び、聖心は天子の心に法則としている。


虞承唐命,周襲商艱。
(虞【ぐ】は唐の命を承け、周は商の艱【かん】を襲う。)
虞(舜)王は唐(堯)王の命を承け、周というくには商という国の艱難を引き継いだ。
虞唐 中国の伝説上の聖天子である陶氏((ぎょう))と有氏(舜(しゅん))を併せてよぶ名。また、その二人の治めた時代。○ 余分にあまる。余計な。「衍字・衍文」 2 延び広がる。押し広げる。○商は、紀元前1100年頃に、西の諸侯であった、武王こと、姫発率いるに滅ぼされます。有名な小説「封神演義」の舞台で、周の軍師・太公望(呂望 異民族の羌族の出身)などが活躍します。三皇五帝、聖人として黄帝・堯・舜。


江之永美,皇心惟眷。
(江は之れ永し、皇心 惟【こ】れ眷【いつく】しむ。)
長江の流れはこれは永遠に美しい、天子のみこころは苔むすほどのうるおいを与えている


矧乃暮春,時物芳衍。
(矧【いわ】んや迺【すなわ】ち 暮春、時物芳衍【はびこ】り)
ましてや春の盛りを過ぎているこの時、時も萬物、すべてが香しい香りに包まれる。


濫觴逶迤,周流蘭殿。
(濫觴【らんしょう】逶迤【ななめ】に、蘭殿に周流し。)
長江のような大河もその源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないものでうねっている。周の国の勢いは商の国を流し立派な宮殿とし今日の禊ぎとして流れた。
濫觴 《揚子江のような大河も源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないという「荀子」子道にみえる孔子の言葉から》物事の起こり。始まり。起源。○逶迤 (道路,山脈,河川が)うねうねと続く,曲がりくねった。


禮備朝容,楽闋タ宴。
(礼は朝容に備わり、楽は夕宴に闋【や】む)
この例祭に、禊と水神を祭ることは備わっている、やがて夕方の宴に変わっていき音楽も終わってゆく。


 
この詩は、詩経のような古風な四言古詩で、宴会の楽しさを荘厳に賛えるものである。

『宋書』の本伝では、
 高祖長安を伐つ。騏騎将軍道憐 居守し、版して諮議参軍と為す。中書侍郎に転ず。
とある。『宋書』の「武帝紀」によると、義煕十二年〈416〉二月、のちの宋の高祖、すなわち、太尉劉裕は後秦の姚私討伐を謀ることとなり、建康を八月に出発。その留守部隊となった霊運は諮議参軍の役に就いた。この役はすべて庶務的な仕事を相談することである。やがて、これから中書侍郎へと転じたが、これは宮廷の文書をつかさどるのであった。すなわち、霊運は劉裕に随って武功をたてることはできなかった。ただ、「武帝紀」によると、騏騎将軍道憐が留守したのは義煕十一年正月に司馬休之を討つために都を出発したときのことである。当時は中軍将軍であって硫騎将軍ではなかった。高祖は、417年義煕十三年四月に洛陽に、九月には長安に進んで、これを平定、翌年に都に帰ってきた。ところが、謝霊運を陰に陽にかばってくれた宋国の初代の天子劉裕も永初三年〈422〉三月には病いを得、五月にはついに死亡してしまった。


孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<3> 彭城宮中直感歲暮 詩集 357

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<3> 彭城宮中直感歲暮 詩集 357(彭城の宮中にて直【とのい】し歳暮【さいぼ】に感ず)

418年 34歳の作 五言古詩

その年の九月九日、重陽の日、宋公すなわち劉裕と戯馬台(彭城=今の江蘇省銅山県の南にあった)所で、孔令つまり孔靖を送る宴会が盛大に開かれ、そのとき、「九日宋公の戯馬台の集に従って孔令を送る」の作が生まれた。
晩秋になって、寒さが日毎に厳しくなって、自然が急にその美しい姿を変えてゆくのを草木や鳥を用いて巧みに歌い、そして、宋公が孔靖の送別の宴を開いたその様子を詳しく述べ、別れの悲しみをいうのであろうが、謝霊運は隠棲した願望をおたった者であった。
この年の暮れは彰城で暮らしていて、年の暮れに朝廷に宿直した時、「彭城の宮中にて直し歳暮に感ず」の作がある。
miyajima 697


彭城宮中直感歲暮
彭城の宮中に宿直した年の暮れに感じた詩
草草眷物徂、契契矜歳殫。
辛く苦しいおもいをしたままでいて物が行くのを見る、先のことを考えて愁いに悩んでいる儘年の暮れを迎えて感じることがある。
楚艶起行戚、呉趨絶帰懽。
長江下流域、昔楚の国であった頃からの艶歌は隠棲しようとする旅人を威光を強くした、呉の国のことは「呉趨行」という詩にもあらわされたように風光明美なところであり、ここに何時かは帰るのであるから今帰ることをしないことを喜ばないといけない。
修帯緩舊裳、素髪改朱顔。
何度も古い衣裳を緩め、帯を直してきたことか、いつのまにか、若さあふれる顔から、白髪に変わっている
晩暮悲濁坐、嗚鶗歇春蘭。

日暮れて哀しくしてひとりすわっている。ああこの鷹といわれた男も春のあでやかな蘭の花も萎れてしまうのか

(彭城の宮中にて直【とのい】し歳暮【さいぼ】に感ず)
草草 物の徂【ゆ】くを眷【み】、契契 歳の殫【つ】くるを矜【お】しむ
楚艶【そえん】に行【たび】の戚【かな】しみを起こし、呉趨【ごすう】に帰る懽びを絶つ。
修帯も旧裳に緩【ゆる】やかに、素髪に朱顔も改まりぬ。
晩暮に独り坐するを悲しむ、鳴く鶗【たか】 春蘭を歇【しぼ】ます。


現代語訳と訳註
(本文)
 彭城宮中直感歲暮
草草眷物徂、契契矜歳殫。
楚艶起行戚、呉趨絶帰懽。
修帯緩舊裳、素髪改朱顔。
晩暮悲濁坐、嗚鶗歇春蘭。

(下し文) (彭城の宮中にて直【とのい】し歳暮【さいぼ】に感ず)
草草 物の徂【ゆ】くを眷【み】、契契 歳の殫【つ】くるを矜【お】しむ
楚艶【そえん】に行【たび】の戚【かな】しみを起こし、呉趨【ごすう】に帰る懽びを絶つ。
修帯も旧裳に緩【ゆる】やかに、素髪に朱顔も改まりぬ。
晩暮に独り坐するを悲しむ、鳴く鶗【たか】 春蘭を歇【しぼ】ます。


(現代語訳)
彭城の宮中に宿直した年の暮れに感じた詩
辛く苦しいおもいをしたままでいて物が行くのを見る、先のことを考えて愁いに悩んでいる儘年の暮れを迎えて感じることがある。
長江下流域、昔楚の国であった頃からの艶歌は隠棲しようとする旅人を威光を強くした、呉の国のことは「呉趨行」という詩にもあらわされたように風光明美なところであり、ここに何時かは帰るのであるから今帰ることをしないことを喜ばないといけない。
何度も古い衣裳を緩め、帯を直してきたことか、いつのまにか、若さあふれる顔から、白髪に変わっている
日暮れて哀しくしてひとりすわっている。ああこの鷹といわれた男も春のあでやかな蘭の花も萎れてしまうのか


(訳注)
彭城宮中直感歲暮

彭城の宮中に宿直した年の暮れに感じた詩
南朝宋は420年に劉裕(高祖・武帝)が、東晋の恭帝から禅譲を受けて、王朝を開いた。東晋以来、貴族勢力が強かったものの、貴族勢力との妥協のもと政治を行なった。文帝の治世は元嘉の治と呼ばれ、国政は安定したが、文帝の治世の末期には北魏の侵攻に苦しむようになった。


草草眷物徂、契契矜歳殫。
辛く苦しいおもいをしたままでいて物が行くのを見る、先のことを考えて愁いに悩んでいる儘年の暮れを迎えて感じることがある。
草草 心配する様子。辛く苦しいおもいをする様子。草木が生い茂るさま。○契契 憂えるさま。憂苦の急迫するさま。


楚艶起行戚、呉趨絶帰懽。
長江下流域、昔楚の国であった頃からの艶歌は隠棲しようとする旅人を威光を強くした、呉の国のことは「呉趨行」という詩にもあらわされたように風光明美なところであり、ここに何時かは帰るのであるから今帰ることをしないことを喜ばないといけない。
楚艶 楚の国の艶歌。玉臺新詠に代表される宮中文化。長江下流域、湖南省、湖北省にあたる。○呉趨 陸機の呉という国の素晴らしさを歌った「呉趨行」という詩がある。呉の国には、慶雲が穏やかに漂い、涼やかな風が吹いている。山や沢には、芽生え伸び育っていくものが豊かにあり、土地の気風は、清らかで優れてもいるという内容のもの。


修帯緩舊裳、素髪改朱顔。
何度も古い衣裳を緩め、帯を直してきたことか、いつのまにか、若さあふれる顔から、白髪に変わっている
修帯 帯を直す。時間の経過を示す。○緩舊裳 衣装によって時の経過を示す。○素髪 白髪のことである。34歳ですべてが白髪になったというのではなく、自分の思う時の過ごし方をしていないうちに年を取っていってしまうことをいう。○改朱顔 紅顔の美少年からいつの間にか年を取った顔になる。時の経過を強調しているのではなく、自分の希望した人生を生きてきてはいないということをいっている。


晩暮悲濁坐、嗚鶗歇春蘭。
日暮れて哀しくしてひとりすわっている。ああこの鷹といわれた男も春のあでやかな蘭の花も萎れてしまうのか
○年の暮れと日の暮れ、気持ちの整理として作ったものであろう。この歌に表われた霊運の感情は年の暮れに、宮中で家族と離れて宿直している寂しさといった単純なものではないことは当然のことである。この国が約60年(420年 - 479年)の王朝であったこと、王朝の変遷はあっても旧態の貴族が支えているのであり、不安定な王朝でしかなかったものである。一方では建安文学の流れで、隠棲生活についての強いあこがれがあったのだ。


孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<2> 九日従宋公戯馬台集送孔令詩 #2 詩集 356

 
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 上代~隋南北朝・隋の詩人初唐・盛唐・中唐・晩唐 
 
孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<2> 九日従宋公戯馬台集送孔令詩 #2 詩集 356

(九日宋公の戯馬台の集に従って孔令を送る)


九日、従宋公戯馬台集、送孔令詩
季秋邊朔苦、旅鴈違霜雪。凄凄陽卉腓、皎皎寒潬洯。
良辰感聖心、雲旗興暮節。鳴葭戻朱宮、蘭巵獻時哲。
餞宴光有孚、和樂隆所缺。
#2
在宥天下理、吹萬羣方悦。
天子は天下の筋道として酒宴のおくり物をたまわったのである、万物の根本の気がやしなわれ、集まった人々は、皆喜びを持つことができる。
歸客遂海隅、脱冠謝朝列。
かえる客は岸辺を歩いていく、型ぐるしい冠を脱ぎ去って朝の参列をお許しいただくことになる。
弭棹薄枉渚、指景待樂闋。
渚の湾になったところで小舟の棹をとめて待っている。宴の風景は最後の音楽が終わるのを待っている。
河流有急瀾、浮驂無緩轍。
江川は波立てながら速く流れている、はね浮いている添え馬が幅広に進み轍をなくしてすすむ。
豈伊川途念、宿心愧將別。
どうしてこのようにまだやり遂げるべき仕事が中途のように思えるのだが、旅の志というものをもっていることは別れということに対して恥じ入るものである。
彼美丘園道、喟焉傷薄劣。
あこがれているのは美しい丘や田園へ隠棲していくことであるが、それもできずに自分の覚悟のなさを嘆くのである。

宥【ゆる】うする在りて天下 埋【おさ】まり、吹万【あたたか】くすれば群方 悦【よろこ】ぶ。
帰客は海隅に遂【ゆ】かんとし、冠を脱し朝列を謝す。
棹【さお】を弭【とど】め枉がれる渚に薄【いた】り、景【ひ】を指し楽の闋【お】わるを待つ。
河流 急なる瀾【なみ】有り、浮驂【ゆくそえうま】は緩【ゆる】き轍【わだち】なし。
豈に伊れ川途の念いのみならんや、宿心ありて将に別れんとするに愧ず。
彼の美しき丘園の道、喟焉【なげきて】薄劣【おとれる】を傷む。

謝霊運は、山水詩人といわれた王維(699-759)に、情熱の詩人李白(701-762)に、愛国の詩人杜甫(712-770)に、孟浩然(689―740)に愛され、消化されて、それぞれに大きな影を静かに落としている。特に李白は、強く霊運文学を意識し、これに大きな目標をおいていたらしいことは、注目すべきところである。宋以後、明から清にかけても多くの文人に霊運は山水詩文学の元祖として愛され、その名句が口ずさまれてきた。それは、幾多の人々によって、その詩に、また、詩に関する随筆である詩話に、いろいろな形で述べられている。
偉大な財力と才能をもちながら、不安な政治のなかに、後半の人生は不幸にも失意に満ちつつ、熱心に自然の美を求めて生き続けた霊運の詩は、おかれた環境、あたえられた試練が詩人を作り上げたのであろう。
この求美の精神と美しい調べは、今なお、現代にも生きているし、未来にも消滅しないであろう。

a謝霊運011

現代語訳と訳註
(本文)

在宥天下理、吹萬羣方悦。
歸客遂海隅、脱冠謝朝列。
弭棹薄枉渚、指景待樂闋。
河流有急瀾、浮驂無緩轍。
豈伊川途念、宿心愧將別。
彼美丘園道、喟焉傷薄劣。

(下し文)
宥【ゆる】うする在りて天下 埋【おさ】まり、吹万【あたたか】くすれば群方 悦【よろこ】ぶ。
帰客は海隅に遂【ゆ】かんとし、冠を脱し朝列を謝す。
棹【さお】を弭【とど】め枉がれる渚に薄【いた】り、景【ひ】を指し楽の闋【お】わるを待つ。
河流 急なる瀾【なみ】有り、浮驂【ゆくそえうま】は緩【ゆる】き轍【わだち】なし。
豈に伊れ川途の念いのみならんや、宿心ありて将に別れんとするに愧ず。
彼の美しき丘園の道、喟焉【なげきて】薄劣【おとれる】を傷む。

(現代語訳)
天子は天下の筋道として酒宴のおくり物をたまわったのである、万物の根本の気がやしなわれ、集まった人々は、皆喜びを持つことができる。
かえる客は岸辺を歩いていく、型ぐるしい冠を脱ぎ去って朝の参列をお許しいただくことになる。
江川は波立てながら速く流れている、はね浮いている添え馬が幅広に進み轍をなくしてすすむ。
どうしてこのようにまだやり遂げるべき仕事が中途のように思えるのだが、旅の志というものをもっていることは別れということに対して恥じ入るものである。
あこがれているのは美しい丘や田園へ隠棲していくことであるが、それもできずに自分の覚悟のなさを嘆くのである。


(訳注)
在宥天下理、吹萬羣方悦。

宥【ゆる】うする在りて天下 埋【おさ】まり、吹万【あたたか】くすれば群方 悦【よろこ】ぶ。
天子は天下の筋道として酒宴のおくり物をたまわったのである、万物の根本の気がやしなわれ、集まった人々は、皆喜びを持つことができる。
○宥 客をもてなす酒宴の贈り物。おおめにみる。○ 天下の筋道。原理、法理。○吹萬 もろもろの風。万物の根本の気がやしなわれること。


歸客遂海隅、脱冠謝朝列。
帰客は海隅に遂【ゆ】かんとし、冠を脱し朝列を謝す。
かえる客は岸辺を歩いていく、型ぐるしい冠を脱ぎ去って朝の参列をお許しいただくことになる。

弭棹薄枉渚、指景待樂闋。
棹【さお】を弭【とど】め枉がれる渚に薄【いた】り、景【ひ】を指し楽の闋【お】わるを待つ。

渚の湾になったところで小舟の棹をとめて待っている。宴の風景は最後の音楽が終わるのを待っている。
枉渚 曲渚。入り江。辰州の東にある地名。 ○指景 日射しを指し、時を待つ。○樂闋 膳を撤去するときの奏楽の終わること。

河流有急瀾、浮驂無緩轍。
河流 急なる瀾【なみ】有り、浮驂【ゆくそえうま】は緩【ゆる】き轍【わだち】なし。
江川は波立てながら速く流れている、はね浮いている添え馬が幅広に進み轍をなくしてゆっくりとすすむ。

浮驂  浮くように軽るくかけてゆく添え馬  ○緩轍 ゆるやかなわだち。速度の遅い車。

豈伊川途念、宿心愧將別。
豈に伊【こ】れ川途の念いのみならんや、宿心ありて将に別れんとするに愧ず。
どうしてこのようにまだやり遂げるべき仕事が中途のように思えるのだが、旅の志というものをもっていることは別れということに対して恥じ入るものである。


彼美丘園道、喟焉傷薄劣。
彼の美しき丘園の道、喟焉【なげきて】薄劣【おとれる】を傷む。
あこがれているのは美しい丘や田園へ隠棲していくことであるが、それもできずに自分の覚悟のなさを嘆くのである。
喟焉  ため息をついて嘆く。○薄劣 徳が薄く、才能が劣っていること。謙譲の語。 

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<2> 九日従宋公戯馬台集送孔令詩#1 詩集 355

 
 謝靈運index謝靈運詩古詩index漢の無名氏  
孟浩然index孟浩然の詩韓愈詩index韓愈詩集
杜甫詩index杜甫詩 李商隠index李商隠詩
李白詩index 李白350首女性詩index女性詩人 
 上代~隋南北朝・隋の詩人初唐・盛唐・中唐・晩唐 
 
孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<2> 九日従宋公戯馬台集送孔令詩#1 詩集 355

この詩までの概略

405年 21歳、霊運初めて士官、琅邪王大司馬行参軍となる。
412年 28歳、太尉参軍となるが、途中免職。
416年 32歳、諮議参軍となり、中書省に転ず。
417年 33歳、世子中軍諮議・黄門侍郎となる。
418年 義照十四年八四一八)霊運は三十四歳となった。その年の九月九日、重陽の日、宋公すなわち劉裕と戯馬台(彭城=今の江蘇省銅山県の南にあった)所で、孔令つまり孔靖を送る宴会が盛大に開かれ、そのとき、「九日宋公の戯馬台の集に従って孔令を送る」の作が生まれた。霊運の作品のなかで年代のはっきりしている最初のものである。これは『文選』巻二十の 「公讌」の部に選ばれ、後世の人々にも愛唱されている。

九日、従宋公戯馬台集、送孔令詩(九日宋公の戯馬台の集に従って孔令を送る)
重陽の日に戯馬台において孔靖を送る宴会が盛大に開かれた時に作る詩。
季秋邊朔苦、旅鴈違霜雪。
晩秋になると、北方の邊塞地は艱難辛苦に満ちている。旅ゆく雁は、霜や雪をさけるように既にここにきている。
凄凄陽卉腓、皎皎寒潬洯。
寒々とものさびしく夏草はすっかり枯れてしまっている、月明かりはこうこうと光り輝いて辺りはさむざむとした深い淵がありみずは清く澄んでいる。
良辰感聖心、雲旗興暮節。
しかしここでは一年で最も良い日である、天子のみ心が感じられる日なのである。王朝の戦いの御旗は年の瀬にはかかげられる。
鳴葭戻朱宮、蘭巵獻時哲。
葦笛の音は宮中のなかにもどってくる。蘭の酒盃は時哲孔令に献じられた。
餞宴光有孚、和樂隆所缺。
餞別のための宴は光り輝き天子の真心として伝わってくる。音楽は合奏され宴のかけたところを再び盛り上げてくれる。

在宥天下理、吹萬羣方悦。歸客遂海隅、脱冠謝朝列。
弭棹薄枉渚、指景待樂闋。河流有急瀾、浮驂無緩轍。
豈伊川途念、宿心愧將別。彼美丘園道、喟焉傷薄劣。

(九日宋公の戯馬台の集に従って孔令を送る)
季秋【ばんしゅう】 辺朔【くにざかい】の苦しみ、旅ゆく雁も霜雪を違ける。
凄凄【さむさむ】として陽卉【しげりくさ】も腓【しぼ】み、皎皎【きょうきょう】寒潬【さむきふち】洯【きよ】し。
良辰【りょうしん】は聖心を感ぜしめ、雲旗【みはた】は暮節に興こり。
鳴葭【あしのふえ】 朱宮に戻【いた】る、蘭巵【らんし】もて時哲(孔令)に献じ。
餞宴【わかれのうたげ】 光【おお】いに孚【まこと】有り、和楽して缺【か】けたる所を隆【さか】んにす。

宥【ゆる】うする在りて天下 埋【おさ】まり、吹万【あたたか】くすれば群方 悦【よろこ】ぶ。
帰客は海隅に遂【ゆ】かんとし、冠を脱し朝列を謝す。
棹【さお】を弭【とど】め枉がれる渚に薄【いた】り、景【ひ】を指し楽の闋【お】わるを待つ。
河流 急なる瀾【なみ】有り、浮驂【ゆくそえうま】は緩【ゆる】き轍【わだち】なし。
豈に伊れ川途の念いのみならんや、宿心ありて将に別れんとするに愧ず。
彼の美しき丘園の道、喟焉【なげきて】薄劣【おとれる】を傷む。


現代語訳と訳註  #1
(本文)
九日、従宋公戯馬台集、送孔令詩
季秋邊朔苦、旅鴈違霜雪。
凄凄陽卉腓、皎皎寒潬洯。
良辰感聖心、雲旗興暮節。
鳴葭戻朱宮、蘭巵獻時哲。
餞宴光有孚、和樂隆所缺。


(下し文) (九日宋公の戯馬台の集に従って孔令を送る)
季秋【ばんしゅう】 辺朔【くにざかい】の苦しみ、旅ゆく雁も霜雪を違ける。
凄凄【さむさむ】として陽卉【しげりくさ】も腓【しぼ】み、皎皎【きょうきょう】寒潬【さむきふち】洯【きよ】し。
良辰【りょうしん】は聖心を感ぜしめ、雲旗【みはた】は暮節に興こり。
鳴葭【あしのふえ】 朱宮に戻【いた】る、蘭巵【らんし】もて時哲(孔令)に献じ。
餞宴【わかれのうたげ】 光【おお】いに孚【まこと】有り、和楽して缺【か】けたる所を隆【さか】んにす。


(現代語訳)
重陽の日に戯馬台において孔靖を送る宴会が盛大に開かれた時に作る詩。
晩秋になると、北方の邊塞地は艱難辛苦に満ちている。旅ゆく雁は、霜や雪をさけるように既にここにきている。
寒々とものさびしく夏草はすっかり枯れてしまっている、月明かりはこうこうと光り輝いて辺りはさむざむとした深い淵がありみずは清く澄んでいる。
しかしここでは一年で最も良い日である、天子のみ心が感じられる日なのである。王朝の戦いの御旗は年の瀬にはかかげられる。
葦笛の音は宮中のなかにもどってくる。蘭の酒盃は時哲孔令に献じられた。
餞別のための宴は光り輝き天子の真心として伝わってくる。音楽は合奏され宴のかけたところを再び盛り上げてくれる。


(訳注)
九日、従宋公戯馬台集、送孔令詩

(九日宋公の戯馬台の集に従って孔令を送る)
重陽の日に戯馬台において孔靖を送る宴会が盛大に開かれた時に作る詩。
九日 重陽の日。○宋公 劉裕(りゅう ゆう)は、南朝の宋の初代皇帝。廟号は高祖、諡号は武帝。字は徳與。幼名は寄奴。彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山県)が本籍であるが、実質は南徐州晋陵郡丹徒県京口里。○戯馬台 彭城=今の江蘇省銅山県の南にあった○孔令つまり孔靖


季秋邊朔苦、旅鴈違霜雪。
(季秋【ばんしゅう】 辺朔【くにざかい】の苦しみ、旅ゆく雁も霜雪を違ける。)
晩秋になると、北方の邊塞地は艱難辛苦に満ちている。旅ゆく雁は、霜や雪をさけるように既にここにきている。


凄凄陽卉腓、皎皎寒潬洯。
(凄凄【さむさむ】として陽卉【しげりくさ】も腓【しぼ】み、皎皎【きょうきょう】寒潬【さむきふち】洯【きよ】し。)
寒々としてものさびしく夏草はすっかり枯れてしまっている、月明かりはこうこうと光り輝いて辺りはさむざむとした深い淵がありみずは清く澄んでいる。
凄凄 寒く冷たいさま。寒々とものさびしいさま。また、涼しいさま。○陽卉 夏草が生い茂っているさま。○
色が変わる。○皎皎 明るく光り輝くさま。特に、太陽・月・雪などにいう。○寒潬 辺りは凍てつく深い淵。○ いさぎよい。自動的に生成されること。


良辰感聖心、雲旗興暮節。
(良辰【りょうしん】は聖心を感ぜしめ、雲旗【みはた】は暮節に興こり。)
しかしここでは一年で最も良い日である、天子のみ心が感じられる日なのである。王朝の戦いの御旗は年の瀬にはかかげられる。
良辰 よい日。吉日。吉辰。事を成すに及んで、日を選ぶこと。○聖心 聖人の心。天子のみ心。○雲旗 『離騷其二:楚辞・屈原』「載雲旗之委蛇」(雲旗の委蛇【いい】たるを載く)○暮節 陰暦十二月。


鳴葭戻朱宮、蘭巵獻時哲。
(鳴葭【あしのふえ】 朱宮に戻【いた】る、蘭巵【らんし】もて時哲(孔令)に献じ。)
葦笛の音は宮中のなかにもどってくる。蘭の酒盃は時哲孔令に献じられた。
鳴葭 「葦」と「葭」とは同じ草。 ○蘭巵 酒杯の一。鉢形で、両側に環状の取っ手がある大杯。○時哲 当時のもっとも明智の人。孔令。孔季恭。


餞宴光有孚、和樂隆所缺。
(餞宴【わかれのうたげ】 光【おお】いに孚【まこと】有り、和楽して缺【か】けたる所を隆【さか】んにす。)
餞別のための宴は光り輝き天子の真心として伝わってくる。音楽は合奏され宴のかけたところを再び盛り上げてくれる。
餞宴 餞別のための宴。○ 孚は信。天子の真心。『詩経、大雅、文王』「萬邦作孚」○和樂 音楽、合奏○ 宴の盛り上がりが落ちかけたところ。

李白44 春夜洛城聞笛

李白44  春夜洛城聞笛 


七言絶句 春夜洛城聞笛

誰家玉笛暗飛聲,散入春風滿洛城。
どこで笛を吹いているのだろうか、宵闇に笛の音(ね)だけが聞こえてくるが、散らばっ

て春風に乗って洛陽城に満ちている。

此夜曲中聞折柳,何人不起故園情。

この夜、流れてくる曲中に、別れの曲折楊柳の曲が聞こえてきた、誰が故郷を思う気

持ちを起こさずにおれようか、きっと、起こしてしまう。



どこで笛を吹いているのだろうか、宵闇に笛の音(ね)だけが聞こえてくるが、散らばっ

て春風に乗って洛陽城に満ちている。
この夜、流れてくる曲中に、別れの曲折楊柳の曲が聞こえてきた、誰が故郷を思う気

持ちを起こさないだろうか。きっと、起こしてしまう。



春夜洛城聞笛    しゅんやらくじょうのふえをきく
春の夜に洛陽の街で(「折楊柳」の曲を奏でる)笛をきく。
同様のモチーフのものに、王翰の『涼州詞』「秦中花鳥已應闌,塞外風沙猶自寒。夜聽胡笳折

楊柳,敎人意氣憶長安。」や、王昌齢 『出塞』「秦時明月漢時關、萬里長征人未還。但使龍城飛將在、不敎胡馬渡陰山。」がある。漢文委員会総合サイト漢文委員会 漢詩総合サイト 辺塞/塞下/塞上/涼州にある。


誰家玉笛暗飛聲  たがいえにぎょくてきをひそやかにきくのであろう
どこで笛を吹いているのだろうか、宵闇に笛の音(ね)(だけ)が聞こえてくるが。
 ・誰家

:どこ。だれ。 *かならずしも「だれの家」と、住処を尋ねていない。 ・玉笛:宝玉でで

きた笛。立派な笛。 ・暗:暗闇に。宵闇に。或いは、密やかに。 ・飛聲:笛の音を飛ばす

。笛の音を流す。 ・聲:ひびき。おと。ふし。


散入春風滿洛城   さんじて しゅんぷうに いりて  らくじょうに みつ
散らばって(春風に)乗って洛陽城に(笛の音が)満ちている。
 ・散入:散らばって(春風

に)乗って。 ・洛城:洛陽城。東都洛陽の都。洛陽の街。 ・城:都市。城市。都会。街。


此夜曲中聞折柳   このよる きょくちゅう  せつうりゅうを きく

この夜、(流れてくる)曲中に、(別れの曲)折楊柳の曲が聞こえてきた。
 ・曲中:玉笛の

聲裏ということ。 ・折柳:折楊柳のこと。横吹曲の一。別れの情をうたった曲名。別離の折

り、水の畔まで見送り、柳の枝を折って贈った故事に基づくもの。前出、『涼州詞』「夜聽胡

笳折楊柳,敎人意氣憶長安。」の影響を受けていよう。


何人不起故園情   なんびとか こえんのじょうを おここさざらん
誰が故郷を思う気

持ちを起こさないだろうか。きっと、起こしてしまう。

 ・何人:〔なんびと〕誰。 ・不起:起こさない。 ・何人不起:誰が起こさないだろうか。いや、起こす。(反語反問の気勢の語形。)  ・故園:故郷。 ・情:想い。

 ・故園情:故郷を思う気持ち。郷愁。

春夜洛城聞笛

誰家玉笛暗飛聲,散入春風滿洛城。
此夜曲中聞折柳,何人不起故園情。

春夜 洛城に 笛を聞く       
誰が家の玉笛ぞ  暗に 聲を飛ばす,散じて 春風に 入りて  洛城に 滿つ。
此の夜 曲中  折柳を 聞く,何人か 故園の情を 起こさざらん

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過去のページも加筆・修正しました。
李白26~30塞下曲六首
李白12越女詞五首其の一から其の五まで読みと訳注を加筆しました

この後、李白女詩をシリーズでとりあげます。
短い詩ほど李白の芸術性が出てきます。他のサイトでできるだけ取り上げられていない詩を主体にしていこうと思っています。
このブログ掲載ののち、漢文委員会 06ch倶楽部に掲載します。ブログとちがって、横のつながり、背景とか理解が深まると思います。
  漢文委員会 漢詩総合サイト 7ch 漢詩ZERO倶楽部 には全体的に掲載しています。


李白の詩 連載中 7/12現在 75首

漢文委員会 ホームページ それぞれ個性があります。

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