漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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抒情詩

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 會吟行#3 詩集 354

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 會吟行#3 詩集 354

(3)3/3

生まれつき政治家として培養され、育てられたため、期待され、その自覚も強く、自分は恵まれた身でありながら、いかに庶民のために献身するかという温かさもけっして忘れてはいない江南の山水詩人であった。
唐になると、山水詩人といわれた孟浩然(689―740)、王維(699-759)に、情熱の詩人李白(701-762)に、愛国の詩人杜甫(712-770)に愛され、消化されて、それぞれに大きな影を静かに落としている。特に孟浩然、李白は、強く霊運文学を意識し、これに大きな目標をおいていたらしいことは、注目せねばならないことだ。


謝霊運(しゃれいうん、385―433)
會吟行 謝霊運 
六引緩清唱、三調佇繁音。列筵皆静寂、咸共聆會吟。」
會吟自有初、請従文明敷。敷績壺冀始、刊木至江汜。
列宿柄天文、負海横地理。』
連峯競千仭、背流各百里。滮池漑粳稲、軽雲曖松杞。
兩京愧佳麗、三都豈能似。層臺指中天、飛燕躍廣途、鷁首戯清沚。』
肆呈窈窕容、路曜嬌娟子。
市場、店は嫋やかな様子を現わし、路には美しき娘たちが楽しげに歩いている。
自乗彌世代、賢達不可紀。
この地の風習、文化はおのずから世代のすみずにひろがっている、優れた人材は時空を超えているのである。
勾践善廢興、越叟識行止。
春秋の勾践は廃位してからこの地の風興を喜びよくした、越叟は旅をするのをやめこの山から釣りをして多くの食材をここの民に与え認識された。
范蟸出江湖、栴福入城市。
春秋の范蟸は江川、湖から出て越王に仕えた。栴福は会稽の城郭に入り、市場を繁栄させた。
東方就旅逸、梁鴻去桑梓。
前漢の東方朔は朝隠の中で会稽によく旅行に来ていた、後漢の梁鴻は隠遁して桑や梓の農耕作業をするために行った。
牽綴書士風、辭殫意未己。』

こうしたこの地の士太夫の風紀は書物に書きつづられてきた、官を辞することはもう出し尽くしたが私のこの地で過ごしたいという決意というのはやむことはない。

六引は清らかなる唱【うた】を緩【ゆる】くし、三調は繁なる音を佇【とど】む
筵に列する皆な静寂にして、咸【あまね】し 共に会の吟を聆【き】け。
会の吟には自から初めに有り、請う文明 従り敷【の】べん。」
績を敷くくこと壺【こ】冀【き】より始まれり、木を刊【か】りて江氾【こうし】に至れり。
列宿は天文 を柄【あき】らかにし、海を負うて地理横【よこ】たう。』

連なれる峰は千便【せんじん】を競い、背【そむ】き流れるは各おの百里。
破【なが】れる池は梗【うるち】と稲とに漑【そそ】ぎ、軽き雲は松と杷【おうち】とに唆【くら】し。
両京も佳麗【かれい】に悦【は】ず、三都豈に能く似んや。
層【かさ】なる台は中天より指【うつく】しく、飛燕【ひえん】は広き途【みち】に躍【おど】り、鶴首【げきしゅ】は清き沚【なぎさ】に戯る。』

肆【しつ】は窃充【おだやか】な容【すがた】を呈【あら】わし、路は婚姻【なまめか】しき子を曜【かが】やかす。
自乗 世代を弥【わた】り、賢達(の人)紀【しる】す可からず。
勾践【こうせん】は廃興を善【よ】くし、越叟【えつそう】は行くと止【とど】まるを識り。
范蟸【はんれい】は江湖に出で、栴福は城市に入り。
東方は旅逸【たび】に就き、梁鴻【りょうこう】は桑梓【ふるさと】を去れり。
牽綴【つづ】って士風を害す、辞 殫【つ】くるも意 未だ己まず。』


keikoku00

現代語訳と訳註
(本文)

肆呈窈窕容、路曜嬌娟子。
自乗彌世代、賢達不可紀。
勾践善廢興、越叟識行止。
范蟸出江湖、栴福入城市。
東方就旅逸、梁鴻去桑梓。
牽綴書士風、辭殫意未己。』

(下し文)
肆【しつ】は窃充【おだやか】な容【すがた】を呈【あら】わし、路は婚姻【なまめか】しき子を曜【かが】やかす。
自乗 世代を弥【わた】り、賢達(の人)紀【しる】す可からず。
勾践【こうせん】は廃興を善【よ】くし、越叟【えつそう】は行くと止【とど】まるを識り。
范蟸【はんれい】は江湖に出で、栴福は城市に入り。
東方は旅逸【たび】に就き、梁鴻【りょうこう】は桑梓【ふるさと】を去れり。
牽綴【つづ】って士風を害す、辞 殫【つ】くるも意 未だ己まず。』

(現代語訳)
市場、店は嫋やかな様子を現わし、路には美しき娘たちが楽しげに歩いている。
この地の風習、文化はおのずから世代のすみずにひろがっている、優れた人材は時空を超えているのである。
春秋の勾践は廃位してからこの地の風興を喜びよくした、越叟は旅をするのをやめこの山から釣りをして多くの食材をここの民に与え認識された。
春秋の范蟸は江川、湖から出て越王に仕えた。栴福は会稽の城郭に入り、市場を繁栄させた。
前漢の東方朔は朝隠の中で会稽によく旅行に来ていた、後漢の梁鴻は隠遁して桑や梓の農耕作業をするために行った。
こうしたこの地の士太夫の風紀は書物に書きつづられてきた、官を辞することはもう出し尽くしたが私のこの地で過ごしたいという決意というのはやむことはない。


(訳注)
肆肆呈窈窕容、路曜嬌娟子。

市場、店は嫋やかな様子を現わし、路には美しき娘たちが楽しげに歩いている。
 店。市。『周禮、天官、内宰』「正其肆、陳其貨賄。」(其の肆を正し、其の貨賄を陳す。)○窈窕【ようちょう】美しくしとやかなさま。上品で奥ゆかしいさま。○嬌娟 なまめかしい。うつくしい。たのしそう。


自乗彌世代、賢達不可紀。
この地の風習、文化はおのずから世代のすみずにひろがっている、優れた人材は時空を超えているのである。
 あまねし。広く端まで行きわたっている。すみずみまで行きわたっているさま。○賢達 各方面に優れた人々。


勾践善廢興、越叟識行止。
春秋の勾践は廃位してからこの地の風興を喜びよくした、越叟は旅をするのをやめこの山から釣りをして多くの食材をここの民に与え認識された。
勾践【こうせん】? - 紀元前465年は、中国春秋時代後期の越の王。范蠡の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉を滅ぼした。春秋五覇の一人に数えられることもある。句践とも表記される。○越叟『荘子』任公子にある。○任公子 子明は会稽山の山頂から沖に届くくらいの竿を作り、餌も去勢牛五十頭ほど用意し、一年かけて釣り上げた。それを村人に食べ物を配った。『荘子』任公子にある。 常時飲酒逐風景。壯心遂與功名疏。


范蟸出江湖、栴福入城市。
集住の范蟸は江川、湖から出て越王に仕えた。栴福は会稽の城郭に入り、市場を繁栄させた。
范蟸(はんれい)春秋時代末期、越の人。呉越同舟の故事が出来た時代の人物、越王勾践に仕え、呉を滅ぼした後、すべてを投げ出し、他国に名を変えて、商売を始め、大金持ちになるという人物である。


東方就旅逸、梁鴻去桑梓。
前漢の東方朔は朝隠の中で会稽によく旅行に来ていた、後漢の梁鴻は隠遁して桑や梓の農耕作業をするために行った。
東方 東方朔前154‐前93年。中国,前漢時代の文学者。字は曼倩。滑稽と弁舌とで武帝に侍した,御伽衆(おとぎしゆう)的な人物。うだつの上がらぬ彼を嘲笑した人々に答えて〈答客難〉を書く。彼は,自分は山林に世を避けるのではなく朝廷にあって隠遁しているのだと主張する。この〈朝隠(ちよういん)〉の思想は六朝人の関心をあつめ,例えば彼の生き方をたたえる夏侯湛〈東方朔画賛〉には王羲之の書がのこることで有名である。○梁鴻は、後漢の梁鴻は字を伯鸞といい、扶風平陵の人。勉学に励み、博学多才で立派な人格だった。そのため、多くの人が自分の娘を嫁にして欲しいと望んだが、彼は受け入れなかった。 同じ県に孟光という、醜い容貌ながら、よい品性を持った女性がいた。


牽綴書士風、辭殫意未己。
こうしたこの地の士太夫の風紀は書物に書きつづられてきた、官を辞することはもう出し尽くしたが私のこの地で過ごしたいという決意というのはやむことはない。


孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 會吟行#2 詩集 353

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 會吟行 詩集 353

はじめに(2) 2/3

彼の生涯が奇に満ち、不幸の連続であったこが、恵まれた家柄であったことと悲運な障害というギャップにこそ偉大な文学の生まれた要素である。
緑したたり、水の豊かな江南を主材料とする風雅な文学は、乾いた黄土を中心とする異民族の脅威を受け続けた北の文学とは、いろいろの意味で大きな変化をみせる。古くからこの地においては複雑な政治の変化、権力を中心にした人間どうしの醜い争いというものが地域性として持っているものであり、門閥、家柄がすべての地域であり、時代であった。謝霊運は有り余る財力と非凡な天から与えられた才能をもっていたが、ついに自己の欲望が達せられないままであった。
美しい風景をみて、日々の生活のなかで、山水詩として彼の詩の大きな特質となった。その単に山水の美のみを詠ったのではなく、複雑な社会における人間の真筆なる生き方を歌ったことは、後世の詩人に多大な影響を与えた。戦のためや艶歌を喜ばれたものから自然と人間としての生き方を山水の表現の中で詠いあげたのである。はかない人の世の「無常」「空」をみつめて当時新しい宗教として説かれた浄土教へ傾斜していったことを詩に生かしたのだ。

謝霊運(しゃれいうん、385―433)

會吟行 謝霊運 
六引緩清唱、三調佇繁音。列筵皆静寂、咸共聆會吟。」
會吟自有初、請従文明敷。敷績壺冀始、刊木至江汜。
列宿柄天文、負海横地理。』

連峯競千仭、背流各百里。
会稽の山の峰々は千仇の高さを競い、その嶺から各方面に流れる川は百里の長さをもっている。
滮池漑粳稲、軽雲曖松杞。
あふれ出る池の水は粳と稲とに漑ぎ、軽き雲は松と杞にその影を落としている。
兩京愧佳麗、三都豈能似。
その町の美しさは、いまの長安や洛陽もその綺麗さに恥じ入るであろうし、さらに魏や呉や蜀の三国鼎立の都もこのちの美しさには及ばない。
層臺指中天、飛燕躍廣途、鷁首戯清沚。』

この町の、重なる楼台は古えの周の穆王の作った中天よりも高く、高い垣には姫垣をさらに積み、大路には漢の文帝が愛した名馬飛燕とみま違えるほどの駿馬が闊歩し、船は波がおさまる静かな清き水の湊に多く泊まる。

肆呈窈窕容、路曜嬌娟子。
自乗彌世代、賢達不可紀。
勾践善廢興、越叟識行止。
范蟸出江湖、栴福入城市。
東方就旅逸、梁鴻去桑梓。
牽綴書士風、辭殫意未己。』

六引は清らかなる唱【うた】を緩【ゆる】くし、三調は繁なる音を佇【とど】む
筵に列する皆な静寂にして、咸【あまね】し 共に会の吟を聆【き】け。
会の吟には自から初めに有り、請う文明 従り敷【の】べん。」
績を敷くくこと壺【こ】冀【き】より始まれり、木を刊【か】りて江氾【こうし】に至れり。
列宿は天文 を柄【あき】らかにし、海を負うて地理横【よこ】たう。』

連なれる峰は千便【せんじん】を競い、背【そむ】き流れるは各おの百里。
破【なが】れる池は梗【うるち】と稲とに漑【そそ】ぎ、軽き雲は松と杷【おうち】とに唆【くら】し。
両京も佳麗【かれい】に悦【は】ず、三都豈に能く似んや。
層【かさ】なる台は中天より指【うつく】しく、飛燕【ひえん】は広き途【みち】に躍【おど】り、鶴首【げきしゅ】は清き沚【なぎさ】に戯る。』

肆【しつ】は窃充【おだやか】な容【すがた】を呈【あら】わし、路は婚姻【なまめか】しき子を曜【かが】やかす。
自乗 世代を弥【わた】り、賢達(の人)紀【しる】す可からず。
勾践【こうせん】は廃興を善【よ】くし、越叟【えつそう】は行くと止【とど】まるを識り。
范蟸【はんれい】は江湖に出で、栴福は城市に入り。
東方は旅逸【たび】に就き、梁鴻【りょうこう】は桑梓【ふるさと】を去れり。
牽綴【つづ】って士風を害す、辭 殫【つ】くるも意 未だ己まず。』




現代語訳と訳註
(本文)

連峯競千仭、背流各百里。
滮池漑粳稲、軽雲曖松杞。
兩京愧佳麗、三都豈能似。
層臺指中天、飛燕躍廣途、鷁首戯清沚。』


(下し文)
連なれる峰は千便【せんじん】を競い、背【そむ】き流れるは各おの百里。
破【なが】れる池は梗【うるち】と稲とに漑【そそ】ぎ、軽き雲は松と杷【おうち】とに唆【くら】し。
両京も佳麗【かれい】に悦【は】ず、三都豈に能く似んや。
層【かさ】なる台は中天より指【うつく】しく、飛燕【ひえん】は広き途【みち】に躍【おど】り、鶴首【げきしゅ】は清き沚【なぎさ】に戯る。』


(現代語訳)
会稽の山の峰々は千仇の高さを競い、その嶺から各方面に流れる川は百里の長さをもっている。
あふれ出る池の水は粳と稲とに漑ぎ、軽き雲は松と杞にその影を落としている。
その町の美しさは、いまの長安や洛陽もその綺麗さに恥じ入るであろうし、さらに魏や呉や蜀の三国鼎立の都もこのちの美しさには及ばない。
この町の、重なる楼台は古えの周の穆王の作った中天よりも高く、高い垣には姫垣をさらに積み、大路には漢の文帝が愛した名馬飛燕とみま違えるほどの駿馬が闊歩し、船は波がおさまる静かな清き水の湊に多く泊まる。


(訳注)
連峯競千仭、背流各百里。

会稽の山の峰々は千仇の高さを競い、その嶺から各方面に流れる川は百里の長さをもっている。
○千仭の連峰がもたらす、川の恵み、水の恵み、農耕の恵みをいう。


滮池漑粳稲、軽雲曖松杞。
あふれ出る池の水は粳と稲とに漑ぎ、軽き雲は松と杞にその影を落としている。
 わきでる、あふれでる。○粳稲 うるちと稲。○ くこ。おうち、楠に似た葉を持つ、木目が細やかでなめらかなので、食器類などに使う。景色が良いだけでなく実際に役だっていることをいう。


兩京愧佳麗、三都豈能似。
その町の美しさは、いまの長安や洛陽もその綺麗さに恥じ入るであろうし、さらに魏や呉や蜀の三国鼎立の都もこのちの美しさには及ばない。


層臺指中天、飛燕躍廣途、鷁首戯清沚。」
この町の、重なる楼台は古えの周の穆王の作った中天よりも高く、高い垣には姫垣をさらに積み、大路には漢の文帝が愛した名馬飛燕とみま違えるほどの駿馬が闊歩し、船は波がおさまる静かな清き水の湊に多く泊まる。」
層臺 政治をつかさどるところ。瑤台 李白「古朗月行」「清平調詞其一」につかう。崑崙山にある神仙の居所。『拾遺記』に「崑崙山……傍らに瑤台十二有り、各おの広さ千歩。皆な五色の玉もて台の基と為す」というように十二層の楼台。十二は道教の聖数に由来する。ここでは李白、謝朓の「玉階怨」のイメージを重ねているように見える。か○指中天 ○飛燕 漢の武帝は大宛より天馬を得たことがある。飛燕という駿馬である。大宛(フェルガーナ)種の駿馬。○鷁首【げきしゅ】船首に鷁を彫刻した舟。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<1> 會吟行 詩集 352

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 會吟行 詩集 347

はじめに(1) 1/3
孟浩然、李白の詩に詠われている会稽はかつて東晋(317-419)の文化が花を開いたところである。この地のシンボルは会稽山で紹興県と嵊県にまたがる小丘陵の重なる山塊で、その主峰香炉峰はわずか海抜300mの丘で愛されたものである。我々日本人には「臥薪嘗胆」「会稽の恥」ということで知れ渡っている地だ。
この土地の生んだ偉大な詩人に謝霊運(385-433)は、その文名は存命中においてははなはだしく著名で、彼が一詩を作ると、都じゅうにただちに知られ、人々の口から口へと愛唱されたと、彼の死後八年たって生まれた宋の沈約(441-513)は、生々しい伝承を、尊敬をこめて『朱書』の本伝に生き生きと記載している。のちに伝記文学の代表的なものとして、『文選』に選ばれ、多くの後世の知識人に愛読された。

謝霊運(しゃれいうん、385―433)

會吟行 謝霊運 
会稽を吟ずる歌
六引緩清唱、三調佇繁音。
古典の六引の曲は清らかなる合唱によってこの宴場を弛緩させてくれる。それに今はやっている三調「清・平・側という曲の調子」は盛繁な音であるがこれらをひとまず止めてほしい。
列筵皆静寂、咸共聆會吟。」
この宴席に列する人々は皆な静寂にして、全員で共に会稽の吟を聞いてくれないか。
會吟自有初、請従文明敷。
会稽吟にはどうしてもまず初めに歌われるべきこと有るのである。古代の三皇五帝が作り上げた礼節の文明が受け継がれてきているところなのだ。
敷績壺冀始、刊木至江汜。
その功績は壺・巽州(陝西・河北・山西省)から始まって、次々に木を伐り長江の下流域を平定した。
列宿柄天文、負海横地理。』

列なれる星座は、天体の現象、日・月・星辰の模様を九天に整列させ、海を背負うようにこの地形は横たわっている。』
連峯競千仭、背流各百里。滮池漑粳稲、軽雲曖松杞。
兩京愧佳麗、三都豈能似。
層臺指中天、飛燕躍廣途、鷁首戯清沚。』
肆呈窈窕容、路曜嬌娟子。自乗彌世代、賢達不可紀。
勾践善廢興、越叟識行止。范蟸出江湖、栴福入城市。
東方就旅逸、梁鴻去桑梓。牽綴書士風、辭殫意未己。』

六引は清らかなる唱【うた】を緩【ゆる】くし、三調は繁なる音を佇【とど】む
筵に列する皆な静寂にして、咸【あまね】し 共に会の吟を聆【き】け。
会の吟には自から初めに有り、請う文明 従り敷【の】べん。」
績を敷くくこと壺【こ】冀【き】より始まれり、木を刊【か】りて江氾【こうし】に至れり。
列宿は天文 を柄【あき】らかにし、海を負うて地理横【よこ】たう。』

連なれる峰は千便【せんじん】を競い、背【そむ】き流れるは各おの百里。
破【なが】れる池は梗【うるち】と稲とに漑【そそ】ぎ、軽き雲は松と杷【おうち】とに唆【くら】し。
両京も佳麗【かれい】に悦【は】ず、三都豈に能く似んや。
層【かさ】なる台は中天より指【うつく】しく、飛燕【ひえん】は広き途【みち】に躍【おど】り、鶴首【げきしゅ】は清き沚【なぎさ】に戯る。』

肆【しつ】は窃充【おだやか】な容【すがた】を呈【あら】わし、路は婚姻【なまめか】しき子を曜【かが】やかす。
自乗 世代を弥【わた】り、賢達(の人)紀【しる】す可からず。
勾践【こうせん】は廃興を善【よ】くし、越叟【えつそう】は行くと止【とど】まるを識り。
范蟸【はんれい】は江湖に出で、栴福は城市に入り。
東方は旅逸【たび】に就き、梁鴻【りょうこう】は桑梓【ふるさと】を去れり。
牽綴【つづ】って士風を害す、辞 殫【つ】くるも意 未だ己まず。』


現代語訳と訳註
(本文)
會吟行 謝霊運 
六引緩清唱、三調佇繁音。
列筵皆静寂、咸共聆會吟。」
會吟自有初、請従文明敷。
敷績壺冀始、刊木至江汜。
列宿柄天文、負海横地理。』

(下し文)
六引は清らかなる唱【うた】を緩【ゆる】くし、三調は繁なる音を佇【とど】む
筵に列する皆な静寂にして、咸【あまね】し 共に会の吟を聆【き】け。
会の吟には自から初めに有り、請う文明 従り敷【の】べん。」
績を敷くくこと壺【こ】冀【き】より始まれり、木を刊【か】りて江氾【こうし】に至れり。
列宿は天文 を柄【あき】らかにし、海を負うて地理横【よこ】たう。』

(現代語訳)
会稽を吟ずる歌

古典の六引の曲は清らかなる合唱によってこの宴場を弛緩させてくれる。それに今はやっている三調「清・平・側という曲の調子」は盛繁な音であるがこれらをひとまず止めてほしい。
この宴席に列する人々は皆な静寂にして、全員で共に会稽の吟を聞いてくれないか。
会稽吟にはどうしてもまず初めに歌われるべきこと有るのである。古代の三皇五帝が作り上げた礼節の文明が受け継がれてきているところなのだ。
その功績は壺・巽州(陝西・河北・山西省)から始まって、次々に木を伐り長江の下流域を平定した。
列なれる星座は、天体の現象、日・月・星辰の模様を九天に整列させ、海を背負うようにこの地形は横たわっている。』


(訳注)
會吟行

会稽を吟ずる歌
『文選』巻二十七「楽府」として選定されている。○會 江蘇省会稽。会稽は海にも近く、気温も薯からず、寒からず、湿度も割合に高い。それゆえ、植物もよく茂り、物産の豊かな地であった。会稽はかつて東晋(317-419)の文化が花を開いたところである。この地のシンボルは会稽山で紹興県と嵊県にまたがる小丘陵の重なる山塊で、その主峰香炉峰はわずか海抜300mの丘で愛されたものである。


六引緩清唱、三調佇繁音。
古典の六引の曲は清らかなる合唱によってこの宴場を弛緩させてくれる。それに今はやっている三調「清・平・側という曲の調子」は盛繁な音であるがこれらをひとまず止めてほしい。
六引 古典の六引の曲。六つの弦楽器による合奏と合唱など。○三調 清・平・側という曲の調子


列筵皆静寂、咸共聆會吟。」
この宴席に列する人々は皆な静寂にして、全員で共に会稽の吟を聞いてくれないか。
列筵 宴席に身分役職により居並ぶ状況をいう。○咸共 みんな全員でいっしょに。○ 聞け。○會吟 会稽吟。会稽で古くからつたえられた詩。


會吟自有初、請従文明敷。
会稽吟にはどうしてもまず初めに歌われるべきこと有るのである。古代の三皇五帝が作り上げた礼節の文明が受け継がれてきているところなのだ。
文明 古代から引き継がれる礼節の君主三皇五帝、堯舜禹の文明が土着化している。


敷績壺冀始、刊木至江汜。
その功績は壺・巽州(陝西・河北・山西省)から始まって、次々に木を伐り長江の下流域を平定した。
壺 禹穴禹が皇帝になった後、“巡守大越(見守り続けた大越)”ここで病死してしまったため、会稽山の麓に埋葬した。禹陵は古くは、禹穴と呼ばれ、大禹の埋葬地となった。大禹陵は会稽山とは背中合わせにあり、前には、禹池がある。
冀始 古代九州をしめす。冀州、兗州、青州、徐州、揚州、荊州、豫州、梁州、雍州を指


列宿柄天文、負海横地理。』
列なれる星座は、天体の現象、日・月・星辰の模様を九天に整列させ、海を背負うようにこの地形は横たわっている。』
○愿隨任公子。 欲釣吞舟魚。任公子の故事。子明は会稽山の山頂から沖に届くくらいの竿を作り、餌も去勢牛五十頭ほど用意し、一年かけて釣り上げた。それを村人に食べ物を配った。『荘子』任公子にある。という故事ができるほど、海の幸にも恵まれている地の理をいう。

盛唐詩 秋登蘭山寄張五 孟浩然<40> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -347

盛唐詩 秋登蘭山寄張五 孟浩然<40> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -347


卷159_4 「秋登蘭山寄張五」孟浩然

秋登蘭山寄張
9月9日に、肉親の健康を願って蘭山に登り、張家の五番目の弟に寄せる。
北山白雲裏,隱者自怡悅。
北の山は白雲の中に有る、この景色はこの地に隠棲している者にとっておのずから慶び満足するものである。
相望試登高,心飛逐鳥滅。
私もそうだから君もこちらを眺めるだろう試みに高い山に登ってみるとするなら、ここだけは飛んでいき鳥を追って地平線の向こうに消えていく。
愁因薄暮起,興是清秋發。
しかし困った事には夕暮れになって薄暗くなることだ、風興な気持ちは、この清々しい秋が発散している。
時見歸村人,沙行渡頭歇。
そんな気分に浸っていると村にむかって帰るひとがいる、河江の砂地を歩いて意気渡し場のところまで行って休んでいる。
天邊樹若薺,江畔舟如月。
大空と川とのほとりに木樹がまるで、ナズナのように見える、河江の畔には船がまるで月のように止まっている。
何當載酒來,共醉重陽節。

この場所は高い山に登ったのと同じだからた、ちょうどよく酒をぶら下げてやって來る、そしたら一緒に重陽の節句として祝って酔おうではないか。


(秋登蘭山寄張五)
北山 白雲の裏、隠者 自ら恰悦す。
相望み 試みに登高すれば、心は飛び 鳥の滅するを逐ふ。
愁因は薄暮に起こり、興は是れ清秋に登す。
時に見る 歸村の人、沙行 渡頭に歇む。
天邊 樹は薺のごとく、江畔 舟は月のごとし。
何か当に酒を載せて來り、共に重陽の節に酔ふべし。

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現代語訳と訳註
(本文)

北山白雲裏,隱者自怡悅。
相望試登高,心飛逐鳥滅。
愁因薄暮起,興是清秋發。
時見歸村人,沙行渡頭歇。
天邊樹若薺,江畔舟如月。
何當載酒來,共醉重陽節。


(下し文)
秋、蘭山に登り張五に寄せる
北山 白雲の裏、隠者 自ら恰悦【いえつ】す。
相望み 試みに登高すれば、心は飛び 鳥の滅するを逐ふ。
愁因は薄暮に起こり、興は是れ清秋に發す。
時に見る 歸村の人、平沙 渡頭に歇む。
天邊 樹は薺のごとく、江畔 舟は月のごとし。
何か当に酒を載せて來り、共に重陽の節に酔ふべし。


(現代語訳)
9月9日に、肉親の健康を願って蘭山に登り、張家の五番目の弟に寄せる。
北の山は白雲の中に有る、この景色はこの地に隠棲している者にとっておのずから慶び満足するものである。
私もそうだから君もこちらを眺めるだろう試みに高い山に登ってみるとするなら、ここだけは飛んでいき鳥を追って地平線の向こうに消えていく。
しかし困った事には夕暮れになって薄暗くなることだ、風興な気持ちは、この清々しい秋が発散している。
そんな気分に浸っていると村にむかって帰るひとがいる、河江の砂地を歩いて意気渡し場のところまで行って休んでいる。
大空と川とのほとりに木樹がまるで、ナズナのように見える、河江の畔には船がまるで月のように止まっている。
大空と川とのほとりに木樹がまるで、ナズナのように見える、河江の畔には船がまるで月のように止まっている。
この場所は高い山に登ったのと同じだからた、ちょうどよく酒をぶら下げてやって來る、そしたら一緒に重陽の節句として祝って酔おうではないか。


(訳注)
秋登蘭山寄張五

9月9日に、肉親の健康を願って蘭山に登り、張家の五番目の弟に寄せる。
 9月9日重陽節。○蘭山 浙江省蘭渓の北にある山。天台―建徳―桐盧―蘭渓―金華―会稽。○張五 張家の五番目の弟。


北山白雲裏,隱者自怡悅。
北の山は白雲の中に有る、この景色はこの地に隠棲している者にとっておのずから慶び満足するものである。
恰悦【いえつ】喜び楽しむこと。喜んで満足する。『文選、傳毅、舞賦』「觀者稱麗、莫不恰悦。」(觀る者麗しと稱し、恰悦せざる莫し。)


相望試登高,心飛逐鳥滅。
私もそうだから君もこちらを眺めるだろう試みに高い山に登ってみるとするなら、ここだけは飛んでいき鳥を追って地平線の向こうに消えていく。
 たがいに。相手がいない場合も、自分がそうだから、君もそうだろう。○登高 重陽にはたかい所に登る。「遥知兄弟登高処、遍挿茱萸少一人。」(遥かに知る兄弟高きに登る処、遍く茱萸を挿して一人を少くを。)kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 145 九月九日憶山東兄弟  王維
陳子昂『峴山懷古』「秣馬臨荒甸、登高覽舊都。」
李白『古風 其三十九』「登高望四海。 天地何漫漫。」


愁因薄暮起,興是清秋發。
しかし困った事には夕暮れになって薄暗くなることだ、風興な気持ちは、この清々しい秋が発散している。
愁因 秋は困ったもの原因がある。白雲と日暮れが速いこと。○薄暮起 秋の夕暮はつるべ落としという。あっという間に薄暗くなってしまう。○ 風流、趣興。○清秋 すがすがしい秋。重陽の節句の常套語。


時見歸村人,沙行渡頭歇。
そんな気分に浸っていると村にむかって帰るひとがいる、河江の砂地を歩いて意気渡し場のところまで行って休んでいる。
○時見 しばらくしてみると。○歸村 山に登った人たちが帰るのを見ること。○沙行 川が大きくて砂浜が長くある。○渡頭 船着き場。渡し場。○ 船を待つのに休んでいることを示す。


天邊樹若薺,江畔舟如月。
大空と川とのほとりに木樹がまるで、ナズナのように見える、河江の畔には船がまるで月のように止まっている。
天邊 大空と山の端、大空と水面、水平線。○ なずな。茱萸のように感じることをいう。○舟如月 小船は船首、船尾が反りあがっているので三日月ということで、高い山に上がったと同じ情景とする。


何當載酒來,共醉重陽節。
この場所は高い山に登ったのと同じだからた、ちょうどよく酒をぶら下げてやって來る、そしたら一緒に重陽の節句として祝って酔おうではないか。
何當 この場所は水面が空みたいで船が三日月。山に登ったのと同じようなものだ。○重陽節 九月九日、重陽節に、茱萸(「ぐみ」の一種)の枝をかざして兄弟や親しい友人が小高い丘に登り、菊の花びらを浮かべた酒を飲み、粽を食べて健康を祈るものなのだ。


重陽の節句は高い所に登って、菊酒を飲み風習であるが、川のほとりに居ても高い山に登ったのと同じ景色である。それだったら重陽の節句をここでしよう、というもので、村人は、故郷を離れて旅や、戦に行っている人たちの健康を願って山登りをして帰ってきた。きっと白雲で見えないし、暗くなってきて見合ない高い所に登っても相手には届かなかったのではないか。
川面に浮んだ一槽の船は三日月なのだ。高い山は雲に隠れて登っても仕方がない。君が山に登って私のことを祝ってくれるように、ここに居ても同じように祝ってあげられる。
 孟浩然の着眼点の素晴らしさは他に例を見ない面白いものである。孟浩然の時代までの詩人は武人が多く万能選手のように何でもできる人間であることが条件みたいなものであったが、此のものぐさで、ある意味、不真面目ともいえるものである。詩人は新境地を作り上げたのだ。


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盛唐詩 晚泊潯陽望廬山 孟浩然<39> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -346

盛唐詩 晚泊潯陽望廬山 孟浩然<39> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -346


卷160_51 「晚泊潯陽望廬山」孟浩然

晩泊潯陽望香爐峰
掛席幾千里,名山都未逢。
帆を上げて幾千里漂泊の旅をしているのだろう、この名山のことは都で聞いてはいたがまだ見てはいないのだ。
泊舟潯陽郭,始見香爐峰。
夕暮れてきたので船を潯陽の湊に停泊させる。するとどうだろう初めて香爐峰を見ることができたのだ。
嘗讀遠公傳,永懷塵外蹤。
この廬山にはあこがれて読んだ慧遠の仏教書や伝記にちなんだ土地である。わたしはこれまで長い間遠公の俗世を隠遁し「塵外」にしてその足跡を残されたことに思いをはせるのである。
東林精舍近,日暮但聞鐘。
その東林精舎近くに来ている。日暮れてくると黄昏(こうこん)の座禅をしてるのだろう、わたしはただひたすら「空」になって鐘の音を聞いている。

晩 潯陽に泊して香爐峰を望む
席を掛けて幾千里、名山 都て未だ逢はず。
舟を潯陽の郭に泊め、始めて香爐峰を見たり。
嘗て遠公の伝を読み、永く塵外の蹤を懐く。
東林精舎近く、日暮れて 但【た】だ 鐘を聞けり。

韓愈の地図00


現代語訳と訳註
(本文)
晩泊潯陽望香爐峰
掛席幾千里,名山都未逢。
泊舟潯陽郭,始見香爐峰。
嘗讀遠公傳,永懷塵外蹤。
東林精舍近,日暮但聞鐘。


(下し文) 晩 潯陽に泊して香爐峰を望む
席を掛けて幾千里、名山 都て未だ逢はず。
舟を潯陽の郭に泊め、始めて香爐峰を見たり。
嘗て遠公の伝を読み、永く塵外の蹤を懐く。
東林精舎近く、日暮れて 但【た】だ 鐘を聞けり。


(現代語訳)
帆を上げて幾千里漂泊の旅をしているのだろう、この名山のことは都で聞いてはいたがまだ見てはいないのだ。
夕暮れてきたので船を潯陽の湊に停泊させる。するとどうだろう初めて香爐峰を見ることができたのだ。
この廬山にはあこがれて読んだ慧遠の仏教書や伝記にちなんだ土地である。わたしはこれまで長い間遠公の俗世を隠遁し「塵外」にしてその足跡を残されたことに思いをはせるのである。
その東林精舎近くに来ている。日暮れてくると黄昏(こうこん)の座禅をしてるのだろう、わたしはただひたすら「空」になって鐘の音を聞いている。


(訳注)
掛席幾千里,名山都未逢。

帆を上げて幾千里漂泊の旅をしているのだろう、この名山のことは都で聞いてはいたがまだ見てはいないのだ。
○掛 帆をあげる。旅をいう。旅の基本は船である。席はむしろ。謝霊運『游赤石進帆海詩』「揚帆采石華、掛席拾海月。」(帆を揚げて石華を采り、席を掛げて海月を拾う。)仕官を諦めて会稽・天台・銭塘江に遊ぶのであるが襄陽から漢水を下り長江に入り潯陽に入ったことをしめす。この時、謝霊運の詩のイメージをもって詠う詩が多い。


泊舟潯陽郭,始見香爐峰。
夕暮れてきたので船を潯陽の湊に停泊させる。するとどうだろう はじめて香爐峰を見ることができたのだ。
潯陽 現在の江西省の揚子江岸九江市付近に置かれた郡と県の名称。この付近で揚子江は潯陽江とよばれ、白居易の「琵琶(びわ)行」に歌われた。 城郭。街。○香爐峰廬山 主峰で江西省最高峰。海抜1,474メートル。九江の南にそびえる名山。北は長江、東から南にかけては鄱陽湖と、三方が水にのぞみ、西は陸地に臨む。奇峰が多く天下の璧号いわれる。○香炉峰 廬山の西北の峰で、細長くて尖が円く、ちょうど香炉(香を焚く糞)に似ている。
廬山は断層の運動によって地塊が周囲からせりあがった断層地塊山地であり、その中に川や谷、湖沼、峰など多様な相貌をもつ。中国における第四紀の氷河が形成した地形の典型とも評され、この観点からジオパーク(世界地質公園)に指定されている。主峰の漢陽峰(大漢陽峰)は海抜が1,474メートルであるが、その周囲には多数の峰がそびえ、その間に渓谷、断崖絶壁、瀑布、洞窟など複雑な地形が生じている。
五老峰: 海抜1,436メートルの奇岩の峰。形が、五人の老人が座っているように見えることからきている。
漢陽峰: ピラミッド状の形をした廬山の主峰で江西省最高峰。海抜1,474メートル。
香炉峰: 白居易の詩の一節(「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」)や『枕草子』への引用などで知られる。
三畳泉: 落差155メートルの大きな滝。
龍首崖: 空中に突き出した崖。明代の寺院・天池寺の跡地に近い。
含鄱口: 五老峰と太乙峰の間の谷間。鄱陽湖に面しているため、湖からの水蒸気がここで霧となって峰々を覆い隠している。


嘗讀遠公傳,永懷塵外蹤。
この廬山にはあこがれて読んだ慧遠の仏教書や伝記にちなんだ土地である。わたしはこれまで長い間遠公の俗世を隠遁し「塵外」にしてその足跡を残されたことに思いをはせるのである。
遠公傳 慧遠(えおん、334年 - 416年)は、中国の東晋、廬山に住んだ高僧。隋代、浄影寺の慧遠と区別して廬山の慧遠とも呼ばれる。俗姓は賈氏。中国仏教界の中心的人物の一人である。『高僧伝』巻6「晋廬山釈慧遠伝」がある。


東林精舍近,日暮但聞鐘。
その東林精舎近くに来ている。日暮れてくると黄昏(こうこん)の読経をしてるのだろう、わたしはただひたすら「空」になって鐘の音を聞いている。
東林精舍 慧遠は46,7歳で西林寺から東林寺に移り、48歳の時に開祖となる。以来92歳で亡くなるまで、山を下りなかったということになっている。。
<虎渓三笑>儒教、仏教、道教の三人の賢者が話しに夢中のあまり、気がつくと思いも掛けないところまで来ていたという故事に基づいている。 中国浄土教の開祖で廬山(江西省にある山)の東林精舎の主、慧遠(えおん)法師は来客を見送る際は精舎の下の虎渓という谷川の手前で足を止めまだ虎渓を渡ったことがなかった。 ところがある日、詩人・陶淵明(とうえんめい)と道士の陸修静(りくしゅうせい)の二文人高士を見送った時には、話に夢中で虎渓を越えてしまい虎の吠える声を聞いて初めてそれと気づいた三人はここで大笑をしたという. ○【た】だ 1.ひとり、それだけ。もっぱら、ひたすら。しかし。いたずらに、むなしく。2.おおよそ。すべて。3.かたぬぐ。4.ほしいまま。5.たわむ。別には「空」と作る。その場合も仏教的な空として「空」として聞く、雑念を払って、、煩悩を討ち消す巣鐘の音をひたすら聞くだけということである。○
『夏日辮玉法師茅齋』
夏日茅齋裏,無風坐亦涼。竹林深筍穊,籐架引梢長。
燕覓巢窠處,蜂來造蜜房。物華皆可玩,花蕊四時芳。
(夏日 辮玉法師の茅齋にて)
夏日 茅齋の裏、風無けれども坐すれば亦た涼し。竹林深筍穊おお)く、籐架 梢を引きて長し。
燕は巢窠の處を覓め、蜂は蜜を造る房に來たる。物華 皆翫ぶべし、花蕊  四時 芳し。
四時 ・1年の四つの季節、春夏秋冬の総称。四季。・1か月中の四つの時。(かい)・(さく)・弦・望。・一日中の4回の読経の時。早晨(そうしん)(朝午前4時)・晡時(ほじ)(昼午前10時)・黄昏(こうこん)(夕方午後8時)・後夜(ごや)(夜午後8時)の座禅。ここでは一日中の4回の読経のとき。

盛唐詩 宿桐廬江寄廣陵舊遊 孟浩然<37> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -347

盛唐詩 宿桐廬江寄廣陵舊遊 孟浩然<37> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -347
宿桐廬江寄廣陵舊遊    孟浩然


宿桐廬江寄廣陵舊遊
桐建德(浙江省桐廬県の南)は、わたしの故郷とか寓居とするところではなく、昔出かけた廣陵の人ことを思い出して作る詩。
山暝聽猿愁,滄江急夜流。
建德附近の桐廬江一帯の山は暗くなって猿のもの悲しい鳴き声を聽きいってしまう、青々として深い銭塘江は流れが急で夜もその流れがわかる。
風鳴兩岸葉,月照一孤舟。
風は鳴り、兩岸が移動し、木の葉がゆれる。月は輝きを増し、ただ一人の旅人が孤舟にいる。
建德非吾土,維揚憶舊遊。
建德は、わたしの住まいとするところではない。維揚に昔出かけたときの人のことを思い出している。 
還將兩行涙,遙寄海西頭。

その時も泣いたが、なおまた、二筋の涙をながし、遙かに海西の青海湖のほとりのあなたの許(もと)に、この詩文を差しだそう。


桐廬江に宿して 廣陵の舊遊に寄す     
山 暝【くらく】して 猿愁を聽き,滄江【そうこう】 急ぎて夜に流る。
風は鳴る 兩岸の葉,月は照らす 一孤舟【しゅう】。
建德【けんとく】は 吾が土【と】に非ず,維揚【いよう】は 舊遊を憶ふ。
還【また】 兩行の涙を將【もっ】て,遙かに 海西【かいせい】の頭【ほとり】に寄す。


 現代語訳と訳註
(本文)
宿桐廬江寄廣陵舊遊
山暝聽猿愁,滄江急夜流。
風鳴兩岸葉,月照一孤舟。
建德非吾土,維揚憶舊遊。
還將兩行涙,遙寄海西頭。

(下し文)
桐廬江に宿して 廣陵の舊遊に寄す     
山 暝【くらく】して 猿愁を聽き,滄江【そうこう】 急ぎて夜に流る。
風は鳴る 兩岸の葉,月は照らす 一孤舟【しゅう】。
建德【けんとく】は 吾が土【と】に非ず,維揚【いよう】は 舊遊を憶ふ。
還【また】 兩行の涙を將【もっ】て,遙かに 海西【かいせい】の頭【ほとり】に寄す。


(現代語訳)
桐建德(浙江省桐廬県の南)は、わたしの故郷とか寓居とするところではなく、昔出かけた廣陵の人ことを思い出して作る詩。

建德附近の桐廬江一帯の山は暗くなって猿のもの悲しい鳴き声を聽きいってしまう、青々として深い銭塘江は流れが急で夜もその流れがわかる。
風は鳴り、兩岸が移動し、木の葉がゆれる。月は輝きを増し、ただ一人の旅人が孤舟にいる。
建德は、わたしの住まいとするところではない。維揚に昔出かけたときの人のことを思い出している。 
その時も泣いたが、なおまた、二筋の涙をながし、遙かに海西の青海湖のほとりのあなたの許(もと)に、この詩文を差しだそう。

(訳注)
宿桐廬江寄廣陵舊遊

建德(浙江省桐廬県の南)は、わたしの故郷とか寓居とするところではなく、昔出かけた廣陵の人ことを思い出して作る詩。


宿桐廬江寄廣陵舊遊
桐廬江沿い浙江省建德市に来て滞在していたが、旧友の居る広陵(江蘇省揚州市)を懐かしんで、揚州に手紙で詩を送った。731年長安での仕官活動が不調に終わった後、江浙(江淮)を旅したときの作品。
宿 宿泊する。泊まる。○桐廬江 桐江のこと。銭塘江の中流。現・浙江省桐廬県境。杭州の西南80キロメートルのところ。

宿建徳江 孟浩然 「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -329

 手紙で詩を贈る。○廣陵 江蘇省揚州市の旧名。「維揚」「海西頭」の指すところに同じ。○舊遊 古い交際。旧交。以前、共に遊んだことのある友だち。


山暝聽猿愁,滄江急夜流。 【首聯】
建德附近の桐廬江一帯の山は暗くなって猿のもの悲しい鳴き声を聽きいってしまう、青々として深い銭塘江は流れが急で夜もその流れがわかる。
 暗い。日が暮れる。○ 耳をすまして聞く。意識をもって、聞き耳を立てて聞く。ここは「聞」とするのもあるが、その場合は「聞こえてくる」の意。○猿愁 引き裂くように引っ張って鳴く。猿のもの悲しい鳴き声。○滄江 青い川。作者の今居るところの桐廬江を指す。○ 急な流れ。 ○夜流 夜にも流れる。夜であっても流れが見て取れるという意味自然の景色を詠ってもその中に動きのあることを表現する孟浩然の詩風である。。


風鳴兩岸葉,月照一孤舟。 【頷聯】
風は鳴り、兩岸が移動し、木の葉がゆれる。月は輝きを増し、ただ一人の旅人が孤舟にいる。
孤舟 ただ一つの舟。孤独な(人生の)旅人の形容。
秋浦歌十七首其二
秋浦猿夜愁。 黃山堪白頭。
清溪非隴水。 翻作斷腸流。
欲去不得去。 薄游成久游。
何年是歸日。 雨淚下孤舟。
前の聯から「山暝」「猿愁」「」「夜流」「風鳴」「兩岸」「葉」「月照」「一」などすべてが孤舟を強調するための語である。それでいてそれらすべてのものが動くのであり、その中に一層の小舟がいるのである。


建德非吾土,維揚憶舊遊。 【頸聯】
建德は、わたしの住まいとするところではない。維揚に昔出かけたときの人のことを思い出している。 
建德 現・浙江省建德市。○ …ではない。あらず。○吾土 わたしの居住するところ。○維揚 古代の揚州の発祥地で、江蘇省揚州市区の西部の地名。○ 思い出す。また、思う。覚える。


還將兩行涙,遙寄海西頭。 【尾聯】
その時も泣いたが、なおまた、二筋の涙をながし、遙かに海西の青海湖のほとりのあなたの許(もと)に、この詩文を差しだそう。  
なおまた。○將 …をもって。…を。○兩行涙 ふたならびの涙。二筋の涙。○遙寄 遥か遠くに手紙で詩を送る。○海西頭 唐時代、海西は「海西布」で知られるように青海湖を意味し、現在でもチベット族モンゴル族系を示す。
『黄河二首』其一「黄河北岸海西軍、推鼓鳴鐘天下聞。鐵馬長鳴不知數、胡人高鼻動成羣。」(黄河の北岸 海西の軍、鼓を推(う)ち鐘を鳴らして天下に聞ゆ。鐵馬 長鳴して數を知らず、胡人 高鼻にして動((ややも)すれば羣を成す。)―この詩では「海西」援軍を求めたウイグルの騎兵隊の軍をいう。―
黄河二首 其一 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 193

ここでは昔の友人がはるか遠き地に赴任したということとであろう。


五言律詩。【首聯】【頷聯】【頸聯】【尾聯】で構成。同じ四分割の絶句の起承転結の一線の曲折にはならない。中の【頷聯】【頸聯】については対句が絶対条件である。


 山は日か暮れて猿の悲しげな声か聞こえてくる。青黒い水を湛えた川の、夜の流れはますます急である。嵐が吹き、両岸の木々の葉をざわざわと鳴らす。空に懸かる月は、ひそやかに孤独な】岐の小舟を照らしている。建徳は我が故郷ではない、それゆえ寂しさがこみ上げてきて、揚州で別れた旧友を思わずにはいられない。我が頬を垂らす涙を川に託して、遥か青海湖の西にいる友へ思いを寄せるばかりだ。

盛唐詩 春暁 孟浩然28 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -335

盛唐詩 春暁 孟浩然29 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -336



孟浩然『春暁』 と王維『田園楽』

729年王維30歳、孟浩然40歳。二人は世俗から離れた田園、澗林にいる。
春の眠りを詩に詠う。



孟浩然は、字も浩然ともいい、襄州襄陽(湖北省)の人。
その世系や事蹟には不明な点が多い。

没年は740年開元二十八年、通説では卒年を五十二歳とし、溯って生年を則天朝の689年永昌元年とする。
<しかし山本巌は、卒年を五十歳とし、生年を則天朝の天授二年(六九一)とする説を唱えている。>
若い頃、地元の鹿門山に隠棲し、白雲道士のものとで修学したらしい。『田園作』など、隠棲生活を記している。
のちに洛陽に出て士人と交わり、


727年、開元十五年38歳、には長安に赴いて科挙の試験を受けたが落第。失意の彼は故郷に帰るが、40歳までは受験したのか、長安と襄陽を往来しているようだ。

731年、同十九年41歳に越の地を遊覧する。天台山を訪れたのはこの折であったと思われる。道教、天台山に関する詩を多く残している。
そののち故郷に戻ったが、

737年同二十五年(48歳)には、丞相であった張九齢の従事となっている。
740年同二十八年(52歳)に、王昌齢に看取られて没している。



 その境遇は李白に類似している。交友関係は李白と酷似し、ほとんどが道教に関連した者たちと思われ、それも多くの詩人たちが受け入れる、司馬承禎とそのの系統のものであった。司馬承禎(643年~735年)は老子・荘子に精通し、その思想は「道禅合一」を特徴とし、それまでの道教が煉丹・服薬・祈祷を中心としたものだったのを、修養を中心としたものへと転換した。こうした迷信・神秘からの脱却傾向は弟子の呉筠へと引き継がれている。李白は孟浩然の影響をかなり受けているのも、道教とその境遇に起因しているものと思われるのである。王維との交流の内密度の濃かった期間は、727年~730年かけてと思われる。

「旧唐書」巻一九○下、「新唐書」巻二○三本伝。「唐才子伝」巻二。「孟浩然集」は諸本あるが、四部叢刊初輯所収は四巻本。和刻本に「孟浩然詩集」(不分巻、元文四年刊「和刻本漢詩集成唐詩第一」)、同「孟浩然詩集(襄陽集)」巻中(北村可昌点、元禄三年刊「和刻本漢詩集成唐詩第一」)がある。


 孟浩然は若いころ、磊落な生活をしていて、30代後半まで、基本的に襄陽鹿門山で隠棲し、各有名寺観を旅した。そして、727~732年頃(この時も定住ではない)唐の都、長安に上京。この時期に張九齢、諸光義、崔顥、李邕、賀知章、李白、王昌齢、王維、岑参、崔敏童、賈至、高適、裴迪と長安にはいたのである。孟浩然は道教の影響を強く受けている詩人との付き合いが多かったようで王維、李白、岑参、詩人仲間はすぐに打ち解けた。でもその中で孟浩然は王維と詩に対して、山水、自然に関して底辺にあるものに好感を持てた。この時朝廷で、一方では、「一芸に秀でたもの」を李園に集め、六朝から続く雅な艶歌を好み、他方では、文人を忌み嫌い狡猾な宰相李林甫が台頭し、文人の登用、重用の排除し頽廃が蔓延して行っていた。
 士官を目指す詩人たちもこの李林甫により夢を壊されていく。

当時朝廷の出勤は夜明けで、鶏人が夜明けを告げるころは朝廷に出勤した。春は合格発表がある時で、孟浩然は落第をしたので、及第の象徴、牡丹が咲き乱れるこの季節は街を歩くのも嫌なのである。万物が芽吹く希望の春ではない孟浩然の「春」を詠うのが春暁である。王維の『田園楽』と比較してみると面白い。

春曉   孟浩然

春眠不覺曉,處處聞啼鳥。
夜來風雨聲,花落知多少。


春の眠りは心地よいので、夜が明けるのも分からずに眠ってしまう。ふと目覚めるとあちこちから鳥のさえずりが聞こえてくる。
そういえばゆうべの雨風の音が激しかったが、今朝の庭にはどれほどの花がたくさん散ったことだろう。


春曉
春眠 曉を覺えず,處處 啼鳥を聞く。
夜來 風雨の聲, 落つること 知りぬ多少ぞ。


現代語訳と訳註
(本文)
春曉
春眠不覺曉,處處聞啼鳥。
夜來風雨聲,花落知多少。

(下し文) 春曉
春眠 曉を覺えず,處處 啼鳥を聞く。
夜來 風雨の聲, 落つること 知りぬ多少ぞ。

(現代語訳)
春の眠りは心地よいので、夜が明けるのも分からずに眠ってしまう。ふと目覚めるとあちこちから鳥のさえずりが聞こえてくる。
そういえばゆうべの雨風の音が激しかったが、今朝の庭にはどれほどの花がたくさん散ったことだろう。


(訳注)春曉
春の夜明け。詩人は床からは出ない。春の朝に目覚めていても、時間経過順に、淡々と詠われている。


春眠不覺曉,處處聞啼鳥。
春の眠りは心地よいので、夜が明けるのも分からずに眠ってしまう。ふと目覚めるとあちこちから鳥のさえずりが聞こえてくる
(この春はむかつくので、昨日の夜しこたま酒を飲んだため、早く起きることはしない。布団の中に何時までもいつづけていても小鳥の声が聞えてくる。)
春眠 春の季節の睡眠。 ○不覺曉 日の出の時を覚えていない。寝坊をすること。○ …を覚えている。知っている。気づく。「覺」には、「覚醒」の意がある。○ あかつき。あけぼの。夜明け。○處處 ところどころ。ほうぼう。いたるところ。○ きこえる。聞こえてくる。品からすると「きく」の場合は、「聽」が良いのだが。○啼鳥 鳴く鳥。さえずる鳥。

夜來風雨聲,花落知多少。
そういえばゆうべの雨風の音が激しかったが、今朝の庭にはどれほどの花がたくさん散ったことだろう。
(遅くまで酒を飲んだので、春の嵐雨の音がしていたの知っているし、花が吹き飛ばされて落ちているだろうと思っているがそれを見たいとは思はない。)
夜來 昨夜。夜間。また、昨夜来の意。その場合、「-來」は「~から」の意。○風雨聲 雨風の音。酒を飲んだこと。○花落 花が散る。○知 わかる。この語で、作者の推量を表している。○多少 どれほど、どれくらい。多い。少ない。

この詩は単に春の眠りの心地よさを詠っているのではないところにこの詩の良さがある。試験に落第していること、早起きをして朝廷勤めをしている者を見ることが嫌であること、少し暖かくなって、布団の中ので居心地が良いこと、雨が降り続くのかと思っていたらきっと晴れたのだろうということ、後悔卑屈を全く感じさせないところ、等々、この詩を興味あるものにしている。落第してこんな詩が書けるのも孟浩然くらいではなかろうか。もう一人、李白もそうである。襄陽、峴山、鹿門山、天台山、道教、謝霊運、、、孟浩然と李白に共通点は多い。このブログで李白特集に孟浩然を取り上げているのはその意味を示すことにある。
この詩、春暁、山水田園詩については王維との調和感もある。


この詩で寝坊して、寝床の中から、昨夜の雨風の様子から始まり春たけなわの咲き誇る庭の花の状況の移り変わりをよく表していて、布団の中で、世俗のことなんか気にするより、昨夜の風雨で散った花弁も庭中に散らばって、それが美しいような情景を彷彿させるのである。
 最後の句には小僧さん早く起きてせっかく美しい庭をきれいにするなよという意味を込めている。

五言絶句 ○韻 暁、鳥、少 




 この詩を読んだ王維は早起きして掃除をしては興が覚めると詩を作っている。


田園楽 王維
珍しい六言の絶句
歌うのに心地良いように、二言の語で啖呵を切るようにつくっている。


桃紅復含宿雨、柳緑更帯春煙。  
花落家童未掃、鶯啼山客猶眠。 
 


桃の花は、夕べの雨を含んでつやつやといっそう紅色あざやか、柳は青さを増して、春のかすみにけむる。
花が庭先に散り敷かれている、召使いの少年は掃き清めたりはしない。ウグイスがしきりに鳴くのに山荘のあるじはまだまだ夢うつつの中に有る。


は紅にして、復【ま】た宿雨【しゅくう】を含み、柳は緑にして、更に春煙【しゅんえん】を帯ぶ。
花落ちて 家僮 未【いま】だ掃【は】らわず、鶯啼いて 山客 猶【な】お 眠る。


 この詩の作者王維は高級官僚であったが、孟浩然のように自然の中での暮らしを愛していた。宮使いの合間に都の郊外にある山荘、輞川荘で悠々自適の生活を楽しんでいた。
 こうした生き方を「半官半隠」といい、この生活は詩人の憧れで古くから多くの詩人が詠っている。王維の詩も孟浩然の詩もテーマは同じでも品格にはずいぶんの差がある。王維はその情景を静かに語りかけている。裏も表もなく。

 同じように花が咲き、風雨があり、鶯が鳴き、庭に散った花が誰も踏みつけていないきれいな模様となっていて、だけど布団の中で眺めている。そして、あたりは他の煩わしいことは何にもない。すべての事象が、山水画のように静けさの世界を作り出している。

 二人の詩の違いは少しずつ感じるものではあるが、人をとっても穏やかにしてくれくる詩であることは間違いない。


現代語訳と訳註
(本文)
田園楽
桃紅復含宿雨、柳緑更帯春煙。  
花落家童未掃、鶯啼山客猶眠。


(下し文)
桃は紅にして、復【ま】た宿雨【しゅくう】を含み、柳は緑にして、更に春煙【しゅんえん】を帯ぶ。
花落ちて 家僮 未【いま】だ掃【は】らわず、鶯啼いて 山客 猶【な】お 眠る。


(現代語訳)

(訳注) 田園楽 
春のぼんやりした、けだるい情景の中で。
王維は高級官僚であったが、孟浩然のように自然の中での暮らしを愛していた。妻との早い死別がそれを強めた。宮使いの合間に、都の郊外にある山荘で悠々自適の生活を楽しんだ。
こうした『半官半隠』が、王維の地位や名誉は必ずしも心を満たすものではなく、次第に朝廷での務め、短料としての意欲は失っていくのである。熱心な仏教徒であった母の影響であるのかもしれない。しかし、詩の持っている品格は王維独特のものである。


桃紅復含宿雨、柳緑更帯春煙。  

桃の花は、夕べの雨を含んでつやつやといっそう紅色あざやか、柳は青さを増して、春のかすみにけむる。
宿雨 前日から降り続いている雨。○春煙 雨靄。


花落家童未掃、鶯啼山客猶眠。  
花が庭先に散り敷かれている、召使いの少年は掃き清めたりはしない。ウグイスがしきりに鳴くのに山荘のあるじはまだまだ夢うつつの中に有る。
家僮 召使。○山客 山荘の主。王維のこと。

雨と靄、遠くの景色は春煙で水墨画の様なモノトーンの世界、その中に桃の紅と柳の緑が色あざやかに詠い込まれる。

 雨に濡れた庭の土はもっとも黒い。その上に散り敷かれた花、花びらも美しいのだろう。急いで召使に履かせたりはしない。自然のまま、自然の風情が一番きれいだ。鶯が鳴く中、朝寝坊をする
休みはたっぷり取って山荘でのんびり田園生活する。

桃紅+復含+宿雨、柳緑+更帯+春煙。  
花落+家童+未掃、鶯啼+山客+猶眠。
句、句。がそれぞれ対になる:対句。句、+句。を聯。聯の最後の語が韻です。絶句は対句にこだわらないものであるがこの詩は対と韻は欠かせない。
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盛唐詩 舟中曉望 孟浩然 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -332

盛唐詩 舟中曉望 孟浩然 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -332


卷160_90 「舟中曉望」孟浩然
☆前集巻上、許本巻一
★唐百、方外志巻二七、古今巻一二五、孟浩然集巻三

舟中曉望
掛席東南望,青山水國遙。
帆をあげて船を出し東南の方角を眺めれば青々とした山々や水郷が遙かかなたに横たわっている。
舳艫爭利涉,來往接風潮。
船は先を争うように順調に進んでいる。この往来では風や潮が一緒になって舟を進める。
問我今何去,天臺訪石橋。
わたしに「どこへ向かっていますか」と質問されたら、、「天台山へ行って、石橋の下から流れ落ちる滝を訪ねているのです」。
坐看霞色曉,疑是赤城標。
進みにしたがって、霞たなびく曉の中であのあかくかがやいている岩山が次第に見えてきた。これこそ、天台山の目印、赤城山ではないだろうか。(前から見たかったのだ)


(舟中にて曉に望む)
席を掛けて東南に望めば、青山水國遙かなり。
舳艫利渉を爭ひ、來往風潮に接す。
我に問ふ今何くに去ると、天台に石橋を訪ねんとす。
坐く看る霞色の曉、疑ふらくは是れ赤城の標か。

ishibashi00

現代語訳と訳註
(本文) 舟中曉望

掛席東南望,青山水國遙。
舳艫爭利涉,來往接風潮。
問我今何去,天臺訪石橋。
坐看霞色曉,疑是赤城標。

(下し文)
(舟中にて曉に望む)
席を掛けて東南に望めば、青山 水國 遙かなり。
舳艫 利渉を爭ひ、來往 風潮に接す。
我に問ふ 今何くに去ると、天台に石橋を訪ねんとす。
坐く看る霞色の曉、疑ふらくは是れ赤城の標か。

(現代語訳)
帆をあげて船を出し東南の方角を眺めれば青々とした山々や水郷が遙かかなたに横たわっている。
船は先を争うように順調に進んでいる。この往来では風や潮が一緒になって舟を進める。
わたしに「どこへ向かっていますか」と質問されたら、、「天台山へ行って、石橋の下から流れ落ちる滝を訪ねているのです」。
進みにしたがって、霞たなびく曉の中であのあかくかがやいている岩山が次第に見えてきた。これこそ、天台山の目印、赤城山ではないだろうか。(前から見たかったのだ)

宮島(5)


(訳注)
舟中曉望

曉望 赤城山は暁の語と併称されることが多い。


掛席東南望,青山水國遙。
帆をあげて船を出し東南の方角を眺めれば青々とした山々や水郷が遙かかなたに横たわっている。
挂席 帆を上げること。○青山 遠くに見える春の山。
孟浩然卷160_51 「晚泊潯陽望廬山」孟浩然
掛席幾千里,名山都未逢。泊舟潯陽郭,始見香爐峰。
嘗讀遠公傳,永懷塵外蹤。東林精舍近,日暮但聞鐘。
卷159_34 「彭蠡湖中望廬山」孟浩然
太虛生月暈,舟子知天風。掛席候明發,眇漫平湖中。
中流見匡阜,勢壓九江雄。黤黕容霽色,崢嶸當曉空。
香爐初上日,瀑布噴成虹。久欲追尚子,況茲懷遠公。
我來限於役,未暇息微躬。淮海途將半,星霜歲欲窮。
寄言岩棲者,畢趣當來同。
「彭蠡湖中望廬山」に「挂席候明発、渺漫平湖中」の表現があるが、更に溯れば謝霊運「遊赤石進航海」に「揚帆采石華、挂席拾海月(帆をあげて海草を採り、蓆を掲げて海月を採集に行く)」の句がある。


舳艫爭利涉,來往接風潮。
船は先を争うように順調に進んでいる。この往来では風や潮が一緒になって舟を進める。
舳艫 船の船首と船尾のせりあがっている部分。単に船といわないのは船の方向性と動きのある雰囲気を出すものである、○利渉 船が流れに沿って順調にすすむこと。利は素早い、理にかなったということ。渉は渡、進むこと。
卷159_48 「自潯陽泛舟經明海」孟浩然
大江分九流,淼淼成水鄉。舟子乘利涉,往來至潯陽。
因之泛五湖,流浪經三湘。觀濤壯枚發,吊屈痛沉湘。
魏闕心恒在,金門詔不忘。遙憐上林雁,冰泮也回翔。
孟浩然は「泛舟経湖海」に「舟子乗利渉、往来逗潯陽」、
卷160_98 「夜渡湘水(一作崔國輔詩)」孟浩然
客舟貪利涉,暗裏渡湘川。露氣聞芳杜,歌聲識採蓮。
榜人投岸火,漁子宿潭煙。行侶時相問,潯陽何處邊。
「夜渡湘水」に「客行貪利渉、夜裏渡湘川」などと頻用する。○風潮  風と潮。謝霊運「入彭蠡湖口」(「文選」巻二六)に「客遊倦水宿、風潮難具論(船旅の水上の宿りにも飽き、風や潮の困難さは詳しく論ずるまでもない)」とある。唐百などの如く「任風潮」ならば「風や潮に任せて行く」となる。


問我今何去,天臺訪石橋。
わたしは質問する、「どこへ向かっていますか」、「天台山へ行って、石橋の下から流れ落ちる滝を訪ねているのです」。
天台山(てんだいさん)は、中国浙江省中部の天台県の北方2kmにある霊山である。最高峰は華頂峰で標高1,138m。洞栢峰・仏隴峰・赤城峰・瀑布峰などの峰々が存在する。中国三大霊山の一つ。仏教との関係では、呉の赤烏中(238年 - 251年)に仏教寺院が建立された、という伝承がある。支遁や曇光、竺曇猷らの僧が、この山中に住した。また、後漢のころから道教の聖地ともされていた。石橋の下から流れ落ちる滝がある。


坐看霞色曉,疑是赤城標。
進みにしたがって、霞たなびく曉の中であのあかくかがやいている岩山が次第に見えてきた。これこそ、天台山の目印、赤城山ではないだろうか。(前から見たかったのだ)
霞色、赤城標 赤城山は赤土の砂礫が層をなしており、あたかも城壁のようであるのでこの名がついた。また、その石が赤く輝いていて朝焼けのようであるということで、朝靄夕霞が漂い纏うこの山にまつわる慣用的表現である。


解説
五言律詩。
韻字 遥・潮・橋・標。

東南方向、天台山へ向かう、まもなく赤城山に至ろうとしている船旅の途上を詠うものである。道教の本山のあるところ、長安では友人たちの話題になっていた景色である。赤城山はまさしく天台山の入り口に聳える特徴的な景観をなしている。この詩は、聞いており想像していた赤城山の景勝が、孟浩然特有の船の動きのなかで、目の前に現れようとしていることへの期待と、目の当たりにしての感動を動的に描いたものである。
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盛唐詩 與顏錢塘登障樓望潮作 孟浩然 「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -330


盛唐詩 與顏錢塘登障樓望潮作 孟浩然 「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -330


孟浩然は目で捉えたものをそのものの奥にある心のなかを詠うことはしない、事物の置かれている環境、事物そのものの動きを描く。随って事物を、自然界をできるだけ自然の動きの中で詠おうとしている。他の詩人にはない感覚である。『宿建徳江』(建徳の江に宿す)では同じ銭塘江の中流の人影もない荒野の岸辺に一夜を過ごしてものであった。
 この詩は、当時も仲秋に銭塘江の逆流を見物、観光が流行していた様子が描かれている。

韓愈の地図00

與顏錢塘登障樓望潮作(孟浩然 唐詩)

  百里聞雷震,鳴弦暫輟彈。
百里四方に雷のような音とあたりの空気を振動させる轟音が聞こえてくる。優雅に琴の弦を鳴らし、暫くして引くのをやめる。
  府中連騎出,江上待潮觀。
杭州の幕府からも急いで馬を連ねて飛び出して、銭塘江の上に特別な潮の動きがみられるのを待っている。
  照日秋雲迥,浮天渤澥寬。
太陽は燦々と照り輝いており、秋の雲は流れている。天に浮ぶほど垂直に立ち上がった壁の様な大波が河江いっぱいにひろがって逆流してきている。
  驚濤來似雪,一坐凛生寒。
その驚く様な大波のその頂には雪のようであり、まるで雪崩がおこったようにやってきて、ひとたびここに座って見ていると凛としてまさに寒さを感じてくるのである。


百里 雷聲震い、鳴弦 暫し弾くを輟(や)む。
府中 騎を連ねて出で、江上 潮を待ちて観る。
日に照らされて 秋雲逈かに、天を浮かべて 渤澥寛【ひろ】し。
驚濤 來たること雪の似【ごと】し、一坐 凛として寒を生ず。

 


現代語訳と訳註
(本文)

 百里聞雷震,鳴弦暫輟彈。
 府中連騎出,江上待潮觀。
 照日秋雲迥,浮天渤澥寬。
 驚濤來似雪,一坐凛生寒。


(下し文)
百里 雷聲震い、鳴弦 暫し弾くを輟(や)む。
府中 騎を連ねて出で、江上 潮を待ちて観る。
日に照らされて 秋雲逈かに、天を浮かべて 渤澥寛(ひろ)し。
驚濤 來たること雪の似(ごと)し、一坐 凛として寒を生ず。


(現代語訳)
百里四方に雷のような音とあたりの空気を振動させる轟音が聞こえてくる。優雅に琴の弦を鳴らし、暫くして引くのをやめる。
杭州の幕府からも急いで馬を連ねて飛び出して、銭塘江の上に特別な潮の動きがみられるのを待っている。
太陽は燦々と照り輝いており、秋の雲は流れている。天に浮ぶほど垂直に立ち上がった壁の様な大波が河江いっぱいにひろがって逆流してきている。
その驚く様な大波のその頂には雪のようであり、まるで雪崩がおこったようにやってきて、ひとたびここに座って見ていると凛としてまさに寒さを感じてくるのである。


(訳注)
 百里聞雷震,鳴弦暫輟彈。

百里四方に雷のような音とあたりの空気を振動させる轟音が聞こえてくる。優雅に琴の弦を鳴らし、暫くして引くのをやめる。
雷震 雷のような音とドルビーサラウンドのように空気を振動させて響きが伝わってくるさま。○鳴弦 遊興の名所でもあるこの地では琴はどこかで引かれている。○ 逆流現象の音を待っていた様子をあらわす語。○輟彈 引くのをやめる。ただやめるのではなく一斉にピタッと揃えて辞めること。・ 隊列の進行が瞬時に止まることをいう。


 府中連騎出,江上待潮觀。
杭州の幕府からも急いで馬を連ねて飛び出して、銭塘江の上に特別な潮の動きがみられるのを待っている。
府中 宮中に対して、政治を行う場所。律令制の州幕府所在地。


 照日秋雲迥,浮天渤澥寬。
太陽は燦々と照り輝いており、秋の雲は流れている。天に浮ぶほど垂直に立ち上がった壁の様な大波が河江いっぱいにひろがって逆流してきている。
渤澥  たちあがる、湧き上がる大波。・ とだえた流、並の低い部分をいう。湾。海の名。ここでは垂直に立ち上がった壁の様な大波が逆流してくることをいう。銭塘江の逆流を「渤澥」と表現しているのも孟浩然らしい動きのあるものである。


 驚濤來似雪,一坐凛生寒。
その驚く様な大波のその頂には雪のようであり、まるで雪崩がおこったようにやってきて、ひとたびここに座って見ていると凛としてまさに寒さを感じてくるのである。



解説
・銭塘江のラッパ状の河口と太陽や月の引力による満潮時によって起きる現象で、特に旧暦の8月18日に起きるものが「銭塘の秋涛」で知られている。潮の高さが歴史上9メートルもあったという。近年は3~5メートルの高さに安定している。潮が線を引き、唸りをたて、雷の音をして流れてくるため、「壮観無天下」(壮観天下なし)と称えられ、この詩では「驚濤來似雪」(驚濤 來たること雪の似【ごと】し“怒涛は雪崩のよう”)としている。

・潮を見る風習が唐の時代から始まり、宋の時代盛んになり、ずっと現在まで伝わっている。

・平穏な秋空の下、それとは対照的な銭塘潮が、正に怒濤となって押し寄せる様子と、それを見て圧倒される人々の緊張やざわつきが臨場感をともなって伝わってくる。一画面一画面が動的な描写であり、活動感に満ちたものとなっている。そして、今まで接写していた情景は急に鳥瞰図にかわるのが頸聯で、背景として、銭塘潮のダイナミズムを際立たせ、その中で、再度接写し「渤澥」と表現し、更に「寬」と鳥瞰図に戻る。遠→近→遠としている。

宿建徳江 孟浩然 「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -329

宿建徳江 孟浩然 「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -329

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孟浩然の「自然(月)と人」についてみてみる。


宿建徳江
移舟泊烟渚、日暮客愁新。  
野曠天低樹、江清月近人。


建徳の江に宿す 

舟を移して 烟渚に泊す、日暮 客愁 新たなり。
野曠【むなし】くして 天 樹に低【た】れ、江清くして 月 人に近し。


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現代語訳と訳註
(本文)

移舟泊烟渚、日暮客愁新。  
野曠天低樹、江清月近人。
 

(下し文)
舟を移して 烟渚に泊す、日暮 客愁 新たなり。
野曠【むなし】くして 天 樹に低【た】れ、江清くして 月 人に近し。


(現代語訳)
銭塘江中流あたり、建徳に宿泊する
私は船を夕靄に包まれた岸辺と漕ぎ寄せさせ、今夜の泊りの用意をする。やがて日は暮れ、旅の愁が新たなものとしてわいてきて胸に迫る。
がらんとしてさびしい原野がひろがり、天空が木々樹の上に低くたれさがっている。銭塘江の水は清くすみきっていて、水面に映る月だけがそ私の身近にあるものだ。


(訳注) 宿建徳江
銭塘江中流あたり、建徳に宿泊する
建徳江 建徳は県名。いま浙江省に属する。その川は銭塘江の中流である。


移舟泊烟渚、日暮客愁新。  
私は船を夕靄に包まれた岸辺と漕ぎ寄せさせ、今夜の泊りの用意をする。やがて日は暮れ、旅の愁が新たなものとしてわいてきて胸に迫る。
烟渚 もやのたちこめた砂浜。


野曠天低樹、江清月近人。  
がらんとしてさびしい原野がひろがり、天空が木々樹の上に低くたれさがっている。銭塘江の水は清くすみきっていて、水面に映る月だけがそ私の身近にあるものだ。
野曠 がらんとして人けのないのが曠。○ ここでは孟浩然自身をさす。

この詩の「人」は作者自身であるが、不特定な人をいう場合もある。王維の『輞川集』「竹里館」
獨坐幽篁裏,彈琴復長嘯。
深林人不知,明月來相照。
竹里館
獨り坐す  幽篁の 裏(うち),琴を弾じて  復(ま)た 長嘯す。
深林  人 知らず,明月  來りて 相ひ照らす。


孟浩然は自身の視線が中心であり、視線の動きが自然の動きとしている。李白などは「月」が自分の動きについてくると、山が動くのに月が自分の動きについてくるというものだが、そうした動きのないはずの「天」「月」も時間の経過で動くというだけでなく、「樹」「人」のほうにひきよせたように描いている。孟浩然が宋の謝霊運に学ぶところがあり、その詩的感覚が同質の傾向を持つと指摘する中で、その例として、右の孟詩の転句・結句と、次に掲げる謝霊運の「初去郡」詩(『文選』巻二十六「行旅」)中の二句とを対比している。
・・・・・・・・・・
負心二十載、於今廢将迎。
理棹遄還期、遵渚騖修垌。
遡渓終水渉、登嶺始山行。
野曠沙岸浄、天高秋月明。
憩石挹飛泉、攀林搴落英。

・・・・・・・・・・
心に負くこと二十載、今において将迎を廢め。
棹を理めて 還る期を遄くし、渚に遵いて修き垌を騖す。
渓を遡り終に水を渉り、嶺に登らんとして始めて山行す。
野は曠くして 沙岸は浄く、天高くして 秋月明らかなり。

謝霊運の詩の大意は、悟った人間は浮世から脱出すべきものである。「低き位をみずから耕すに代えた」というものである。隠棲する心情を詠うための「自然」である。

孟浩然詩の「天」「月」に対して、謝詩の「沙岸」は清いままで動きがなく、また「秋月」は天空に懸かったまま静止していないと隠棲の心情があらわせないと考えている。孟浩然と謝霊運とは、自分の心情の表現として自然描写における詩的感覚が同様であるとしても、描写された自然が動いているか静止しているかという点で、大きな違いがあるといえる。
謝霊運に学んでいるのは李白にもしばしばある。月が上がり落ちていく様子であり、舟を移動する、歩行している・・・・・。

登安陽城樓 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -325

登安陽城樓 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -325

登安陽城樓
縣城南面漢江流,江漲開成南雍州。
襄陽城の南の城壁に向かって漢水の江が流れていく。川はその水を満々とたたえてこの南の襄陽の街を開いている。
才子乘春來騁望,羣公暇日坐銷憂。
才知にすぐれ、頭の働きのすばやい人は春が来たらその陽気にのってここまで馳せ参じてけしきをながめるのである。太公望は、暇な日を過ごすのにじっとすわって心配事をすくなくしたのである。
樓臺晚映青山郭,羅綺晴驕綠水洲。
城郭の高台は夕日に映えていて城郭の向こうに春霞の山々がかすんで見えている。春になるとうつくしいあや絹は晴れた日には妖艶な感じになってくるし、澄み切った水にまた中州も春に驕っている。
向夕波搖明月動,更疑神女弄珠遊。
夕方になってきて満々とたたえた漢水の水面は揺れているそして明るい月がのぼってくる。更に月の仙女が輝く宝飾をもって遊んでいるのかと見間違うようである。


安陽城の樓に登る
縣城の南面に 漢江流る,江を漲らせて成を開く 南雍の州。
才子 春に乘じて 來騁を望む,羣公 暇日 坐して銷を憂う。
樓臺 晚に映ず 青山の郭,羅綺 晴に驕りて綠水の洲。
夕に向い 波搖 明月 動じ,更に疑う 神女 珠遊に弄る。

韓愈の地図00

現代語訳と訳註
(本文) 登安陽城樓

縣城南面漢江流,江漲開成南雍州。
才子乘春來騁望,羣公暇日坐銷憂。
樓臺晚映青山郭,羅綺晴驕綠水洲。
向夕波搖明月動,更疑神女弄珠遊。


(下し文)安陽城の樓に登る
縣城の南面に 漢江流る,江を漲らせて成を開く 南雍の州。
才子 春に乘じて 來騁を望む,羣公 暇日 坐して銷を憂う。
樓臺 晚に映ず 青山の郭,羅綺 晴に驕る綠水の洲。
夕に向い 波搖れ 明月 動ず,更に疑う 神女 珠遊に弄るかと。


(現代語訳)
襄陽城の南の城壁に向かって漢水の江が流れていく。川はその水を満々とたたえてこの南の襄陽の街を開いている。
才知にすぐれ、頭の働きのすばやい人は春が来たらその陽気にのってここまで馳せ参じてけしきをながめるのである。太公望は、暇な日を過ごすのにじっとすわって心配事をすくなくしたのである。
城郭の高台は夕日に映えていて城郭の向こうに春霞の山々がかすんで見えている。春になるとうつくしいあや絹は晴れた日には妖艶な感じになってくるし、澄み切った水にまた中州も春に驕っている。
夕方になってきて満々とたたえた漢水の水面は揺れているそして明るい月がのぼってくる。更に月の仙女が輝く宝飾をもって遊んでいるのかと見間違うようである。

55moon

(訳注)
登安陽城樓

○安陽城 西には太行山脈がそびえ、そこから流れる漳河(しょうが、海河水系衛河の支流)が河北省邯鄲市との境を流れる。中国七大古都(北京、南京、杭州、西安、洛陽、開封、安陽)の一つである。約三千三百年前の商代後期の都で中国古代王朝の一つである殷の時代の遺跡「殷墟」があり、ヒエログリフ、楔形文字と並び世界三大古代文字の一つに数えられる甲骨文字が大量に出土している。


縣城南面漢江流,江漲開成南雍州。
縣城の南面に 漢江流る,江を漲らせて成を開く 南雍の州。
襄陽城の南の城壁に向かって漢水の江が流れていく。川はその水を満々とたたえてこの南の襄陽の街を開いている。
○縣城 襄陽城。○江漲 春の雪解け水が満々と水を湛えていること。別には、嶂と造るものがある。その場合安陽城の北側を流れる漳河のことを指すのか。○開成 世の人知を開発し、事業を完成すること。○雍州 湖北省襄陽。九州の一つ。古代王朝の安陽ということ。


才子乘春來騁望,羣公暇日坐銷憂。
才子 春に乘じて 來騁を望む,羣公 暇日 坐して銷を憂う。
才知にすぐれ、頭の働きのすばやい人は春が来たらその陽気にのってここまで馳せ参じてけしきをながめるのである。太公望は、暇な日を過ごすのにじっとすわって心配事をすくなくしたのである。
○才子 才知にすぐれ、頭の働きのすばやい人。多く男についていう。才人。才物。 2 抜けめがなく要領のよい人。○張公両竜剣 竜泉、太阿という二つの宝剣が、豫章と豐城とで出土し、張華と雷煥の二人が、おのおのその一刀を待ったと伝えられる。その後、張華が誅せられ、剣のありかを失った。雷煥が亡くなったのち、子の雷華が剣を持って旅をし、延平津に通りかかった時、剣が突然、腰間から躍り出て水中におちた。人を水にもぐらせてさがしたが、剣は見つからず、しかし、長さ数丈の二頭の竜を見たという。○羣公 太公望のこと。○暇日 暇な日。仕事のない日。○銷憂 心配を消す。
 

樓臺晚映青山郭,羅綺晴驕綠水洲。
樓臺 晚に映ず 青山の郭,羅綺 晴に驕る綠水の洲。
城郭の高台は夕日に映えていて城郭の向こうに春霞の山々がかすんで見えている。春になるとうつくしいあや絹は晴れた日には妖艶な感じになってくるし、澄み切った水にまた中州も春に驕っている。
○樓臺 建物などの高台見晴らし台。高閣、高楼、やぐら。○青山 孟浩然の自然を動的に表現、遠近法的表現する。また、青は春を意味する。城郭の向こうに小高い山、峴山を遙かに望むことを意味する。
過故人莊
故人具雞黍,邀我至田家。
綠樹村邊合,青山郭外斜。
開筵面場圃,把酒話桑麻。
待到重陽日,還來就菊花。
○羅綺「羅」は、うすぎぬ。「綺」はあやぎぬ。美しい衣服。


向夕波搖明月動,更疑神女弄珠遊。
夕に向い 波搖れ 明月 動ず,更に疑う 神女 珠遊に弄るかと。
夕方になってきて満々とたたえた漢水の水面は揺れているそして明るい月がのぼってくる。更に月の仙女が輝く宝飾をもって遊んでいるのかと見間違うようである。


この詩は安陽城を借りて、襄陽城の遊郭のある大堤あたりから襄陽城の向こうに見える峴山を詠っているようである。
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孟浩然 登鹿門山懐古 #2 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -320

登鹿門山懐古 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -320

 
 孟略然は、故郷の鹿門山に自適の暮らしをし、季節の訪れも気づかず、あくせくと過ごす俗人の世界に対して、悠然と自然にとけ入った世界が歌われている。
「ぬくぬく春の眠りを貪っている」のは、宮仕えの生活を拒否した、つまり世俗の巷を低く見ている入物であり、詩人にとってあこがれの生活である。立身出世とは全く縁のない世界、悠然たる『高士』の世界である。この詩は、内容からして孟浩然の若いころの作品である。

卷159_35 登鹿門山懐古孟浩然


登鹿門山懐古孟浩然
#1
清曉因興來,乘流越江峴。沙禽近方識,浦樹遙莫辨。
漸至鹿門山,山明翠微淺。岩潭多屈曲,舟楫屢回轉。
昔聞龐德公,采藥遂不返。
#2
金澗餌芝朮,石床臥苔蘚。
黄金に輝く谷川の透きとった水際に貴重な薬草を育てている。その岩壁には緑の苔がびっしり生えている。
紛吾感耆舊,結攬事攀踐。
わたしの心の中では複雑なものがある。「襄陽耆舊記」の龐德公のように生きたいとは思っている。もう一方では、家族からも期待されている頭髪を束ねて結い直し、官位に付き上り詰めるということも考えるのである。
隱跡今尚存,高風邈已遠。
確かに、龐德公が隠棲された史蹟は今なお残っているのであるが、『高士』の風はぼんやりとして来て今や遠くなりつつあるのだ。
白雲何時去,丹桂空偃蹇。
龐德公の隠棲という雰囲気を残した白雲がいつしかきえさって、その丹桂遺跡はその場所に空しく広がっているだけなのである。
探討意未窮,回艇夕陽晚。

鹿門山のあちこちを奥深く隅々までさぐり調べたのだがその気持ちはいまだ窮まってはいない。今すぐ隠棲するわけではないので夕日が落ちて暮れてきているなかで、船を廻して帰ろうと思う。

#1
清暁 興来るに因り、流れに乗りて江峴を越ゆ。
沙禽 近づきて方に識り、浦樹 遙かに辨ずる莫し
漸く鹿門山に至れば、山明らかにして翠微浅し。
岩潭 屈曲多く、舟楫 屡々回り転ず。
昔聞く 龐徳公、業を採りて遂に返らずと。
#2
金澗に芝朮(しじゅつ)を養ひ、石床 苔蘇に臥す。
紛として 吾 耆舊(ききゅう)に感じ、攬を結びて攀踐(はんせん)を事とす。
隠跡 今尚は存するも、高風 邈(ばく)として已に遠し。
白雲 何れの時にか去らん、丹桂 空しく偃蹇(えんけん)たり。
探討 意未だ窮まらず、艇を回らす 夕陽の晩。


現代語訳と訳註
(本文) #2

金澗餌芝朮,石床臥苔蘚。
紛吾感耆舊,結攬事攀踐。
隱跡今尚存,高風邈已遠。
白雲何時去,丹桂空偃蹇。
探討意未窮,回艇夕陽晚。


(下し文)#2
金澗に芝朮(しじゅつ)を養ひ、石床 苔蘇に臥す。
紛として 吾 耆舊(ききゅう)に感じ、攬を結びて攀踐(はんせん)を事とす。
隠跡 今尚は存するも、高風 邈(ばく)として已に遠し。
白雲 何れの時にか去らん、丹桂 空しく偃蹇(えんけん)たり。
探討 意未だ窮まらず、艇を回らす 夕陽の晩。


(現代語訳)
黄金に輝く谷川の透きとった水際に貴重な薬草を育てている。その岩壁には緑の苔がびっしり生えている。
わたしの心の中では複雑なものがある。「襄陽耆舊記」の龐德公のように生きたいとは思っている。もう一方では、家族からも期待されている頭髪を束ねて結い直し、官位に付き上り詰めるということも考えるのである。
確かに、龐德公が隠棲された史蹟は今なお残っているのであるが、『高士』の風はぼんやりとして来て今や遠くなりつつあるのだ。
龐德公の隠棲という雰囲気を残した白雲がいつしかきえさって、その丹桂遺跡はその場所に空しく広がっているだけなのである。
鹿門山のあちこちを奥深く隅々までさぐり調べたのだがその気持ちはいまだ窮まってはいない。今すぐ隠棲するわけではないので夕日が落ちて暮れてきているなかで、船を廻して帰ろうと思う。


(訳註)
金澗餌芝朮,石床臥苔蘚。

金澗に芝朮(しじゅつ)を養ひ、石床 苔蘇に臥す。
黄金に輝く谷川の透きとった水際に貴重な薬草を育てている。その岩壁には緑の苔がびっしり生えている。
金澗 谷川の透きとった水の巌底に太陽光線が当たった景色をいう。王維『遊化感寺』「瓊峰當戸拆、金澗透林鳴。」(瓊峰 戸に当たりて拆け、金澗 林を透して鳴る。)『澗南園即時貽皎上入』  孟浩然 
養芝朮 貴重な薬草をそだてる。


紛吾感耆舊,結攬事攀踐。
紛として 吾 耆舊(ききゅう)に感じ、攬を結びて攀踐(はんせん)を事とす。
わたしの心の中では複雑なものがある。「襄陽耆舊記」の龐德公のように生きたいとは思っている。もう一方では、家族からも期待されている頭髪を束ねて結い直し、官位に付き上り詰めるということも考えるのである。
 入り混じること。○耆舊 「襄陽耆舊記」龐德公と劉表、諸葛孔明らと問答をまとめて書いた史書。○結攬 攬結 刈り取った稲束のようにとりまとめる。とりあつめる。【攬】[漢字項目]の意味は?国語辞書。 [音]ラン(呉)(漢) 取り集めて持つ。手中に収める。「 収攬 ・ 総攬 」○攀踐 官位に付き上り詰めること。孟浩然は『高士』にあこがれる。


隱跡今尚存,高風邈已遠。
隠跡 今尚は存するも、高風 邈(ばく)として已に遠し。
確かに、龐德公が隠棲された史蹟は今なお残っているのであるが、『高士』の風はぼんやりとして来て今や遠くなりつつあるのだ。


白雲何時去,丹桂空偃蹇。
白雲 何れの時にか去らん、丹桂 空しく偃蹇(えんけん)たり。
龐德公の隠棲という雰囲気を残した白雲がいつしかきえさって、その丹桂遺跡はその場所に空しく広がっているだけなのである。
丹桂 鹿門山にある龐徳公の隠居跡。○偃蹇(えんけん)  1 物が延び広がったり高くそびえたりしているさま。また、多く盛んなさま。2 おごり高ぶるさま。


探討意未窮,回艇夕陽晚。
探討 意未だ窮まらず、艇を回らす 夕陽の晩。
鹿門山のあちこちを奥深く隅々までさぐり調べたのだがその気持ちはいまだ窮まってはいない。今すぐ隠棲するわけではないので夕日が落ちて暮れてきているなかで、船を廻して帰ろうと思う。
探討 奥深く隅々までさぐり調べること。調べ究めること。探究。

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 孟浩然は、故郷の鹿門山に自適の暮らしをし、季節の訪れも気づかず、あくせくと過ごす俗人の世界に対して、悠然と自然にとけ入った世界が歌われている。
「ぬくぬく春の眠りを貪っている」のは、宮仕えの生活を拒否した、つまり世俗の巷を低く見ている入物であり、詩人にとってあこがれの生活である。立身出世とは全く縁のない世界、悠然たる『高士』の世界である。この詩は、内容からして孟浩然の若いころの作品である。

嚢陽一帯00


卷159_35 登鹿門山懐古孟浩然


登鹿門山懐古孟浩然
鹿門山に登り古えを懐かしむ
#1
清曉因興來,乘流越江峴。
初夏の清々しい明け方、風興の気分によってここに来ている。漢水の流れに乗って峴山が川を越えて見る。
沙禽近方識,浦樹遙莫辨。
砂浜にいる水鳥に近づくとこちらを向いて気が付いたようだ。入り江の奥の樹林は遙か遠くにあり、瓣別することができない。
漸至鹿門山,山明翠微淺。
しばらく山の道を進んでゆくと鹿門山にいたるのだけれど、山に日の光が射していて、山の中腹の浅いところが見える。
岩潭多屈曲,舟楫屢回轉。
大岩と淵で、川は折れ曲がりが多い、舟の楫をしばしば使って舳先をめくらして進む。
昔聞龐德公,采藥遂不返。

ここには昔、後漢の龐徳公の有名な故事がある。薬草を取りに山に入ったが帰ってこなかったというものだ。

#2
金澗餌芝朮,石床臥苔蘚。
紛吾感耆舊,結攬事攀踐。
隱跡今尚存,高風邈已遠。
白雲何時去,丹桂空偃蹇。
探討意未窮,回艇夕陽晚。

鹿門山に登り古えを懐かしむ#1
清暁 興来るに因り、流れに乗りて江峴を越ゆ。
沙禽 近づきて方に識り、浦樹 遙かに辨ずる莫し
漸く鹿門山に至れば、山明らかにして翠微浅し。
岩潭 屈曲多く、舟楫 屡々回り転ず。
昔聞く 龐徳公、業を採りて遂に返らずと。

#2
金澗に芝朮(しじゅつ)を養ひ、石床 苔蘇に臥す。
紛として 吾 耆舊(ききゅう)に感じ、攬を結びて攀踐(はんせん)を事とす。
隠跡 今尚は存するも、高風 邈(ばく)として已に遠し。
白雲 何れの時にか去らん、丹桂 空しく偃蹇(えんけん)たり。
探討 意未だ窮まらず、艇を回らす 夕陽の晩。

haqro04

現代語訳と訳註
(本文) #1

清曉因興來,乘流越江峴。
沙禽近方識,浦樹遙莫辨。
漸至鹿門山,山明翠微淺。
岩潭多屈曲,舟楫屢回轉。
昔聞龐德公,采藥遂不返。


(下し文) #1
清暁 興来るに因り、流れに乗りて江峴を越ゆ。
沙禽 近づきて方に識り、浦樹 遙かに辨ずる莫し
漸く鹿門山に至れば、山明らかにして翠微浅し。
岩潭 屈曲多く、舟楫 屡々回り転ず。
昔聞く 龐徳公、業を採りて遂に返らずと。


(現代語訳)
鹿門山に登り古えを懐かしむ
初夏の清々しい明け方、風興の気分によってここに来ている。漢水の流れに乗って峴山が川を越えて見る。
砂浜にいる水鳥に近づくとこちらを向いて気が付いたようだ。入り江の奥の樹林は遙か遠くにあり、瓣別することができない。
しばらく山の道を進んでゆくと鹿門山にいたるのだけれど、山に日の光が射していて、山の中腹の浅いところが見える。
大岩と淵で、川は折れ曲がりが多い、舟の楫をしばしば使って舳先をめくらして進む。
ここには昔、後漢の龐徳公の有名な故事がある。薬草を取りに山に入ったが帰ってこなかったというものだ。


(訳注) #1
登鹿門山懐古
鹿門山に登り古きを懐かしむ
鹿門山 鹿門山は旧名を蘇嶺山という。建武年間(25~56年)、襄陽侯の習郁が山中に祠を建立し、神の出入り口を挟んで鹿の石像を二つ彫った。それを俗に「鹿門廟」と呼び、廟のあることから山の名が付けられた。


清曉因興來,乘流越江峴。
清暁 興来るに因り、流れに乗りて江峴を越ゆ。
初夏の清々しい明け方、風興の気分によってここに来ている。漢水の流れに乗って峴山が川を越えて見る。
清曉 清々しい明け方。


沙禽近方識,浦樹遙莫辨。
沙禽 近づきて方に識り、浦樹 遙かに辨ずる莫し。
砂浜にいる水鳥に近づくとこちらを向いて気が付いたようだ。入り江の奥の樹林は遙か遠くにあり、瓣別することができない。
沙禽 砂浜にいる水鳥。○浦樹 漢水に灌ぎこむ襄水の入り江の奥の樹林。○ 辯ではなく瓣別すること。


漸至鹿門山,山明翠微淺。
漸く鹿門山に至れば、山明らかにして翠微浅し。
しばらく山の道を進んでゆくと鹿門山にいたるのだけれど、山に日の光が射していて、山の中腹の浅いところが見える。
○翠微 山の中腹。李白『游泰山六首 其六』、同『下終南山過斛斯山人宿置酒』


岩潭多屈曲,舟楫屢回轉。
岩潭 屈曲多く、舟楫 屡々回り転ず。
大岩と淵で、川は折れ曲がりが多い、舟の楫をしばしば使って舳先をめくらして進む。
岩潭 大岩と淵。襄陽に沈碑潭という名勝があるがここでは襄水を登っているのであろう。


昔聞龐德公,采藥遂不返。
昔聞く 龐徳公、業を採りて遂に返らずと
ここには昔、後漢の龐徳公の有名な故事がある。薬草を取りに山に入ったが帰ってこなかったというものだ。
龐德公 東漢の末年、襄陽の名士である龐徳公は薬草を求めて妻を連れて山に入ってからもどらなかった。劉表からの士官への誘い、諸葛孔明からも誘われた、それを嫌って、奥地に隠遁したということと解釈している。隠遁を目指すものの憧れをいう。


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孟浩然 夏日南亭懷辛大 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -318

孟浩然 夏日南亭懷辛大 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -318

卷159_13 「夏日南亭懷辛大」孟浩然

李白


夏日南亭懷辛大
山光忽西落,池月漸東上。
峴山からの西日がさしていたがすぐに山の端にしずんでいった、峴首亭から習家池へと散策していくと池に月が影を落として東の鹿門山からのぼってくる。
散發乘夕涼,開軒臥閑敞。
髪の束ねた簪を抜いて髪の毛をさばいたら夕涼みにはもってこいの格好で乗ってきた。亭の長廊下の窓からの眺めは開けていて、少し小高く、閑静な広々とした場所なので横になる。
荷風送香氣,竹露滴清響。
池の蓮の上を抜けてきた風はほのかな香りを運んでくる、静かな竹林の葉に落ちた露が落ちたしずくの音が響く。
欲取鳴琴彈,恨無知音賞。
しずかな竹林には琴を弾きならしてくれる人を呼びたいと思っている、ところが残念な事にはあの音を鑑賞したことを覚えている君はいない。
感此懷故人,中宵勞夢想。

やはり、この感情は友人を懐かしむのであり、様々なことが夢心に浮かび思い悩んで夜が更けてしまう。

夏日に南亭で辛大に懐う
山光 忽ち西に落ち、池月 漸く東に上る。
髪を散じて夕涼に乗じ、軒を開きて間敞に臥す。
荷風 香気を送り、竹露 清響を滴らす。
琴を弾き鳴らしむるものを取(よ)ばんと欲するも、恨むらくは音の賞するを知るは無し。
此に感じて故人を懐ひ、中霽 夢想を勞す

 宮島(3)

現代語訳と訳註
(本文)
夏日南亭懷辛大
山光忽西落,池月漸東上。
散發乘夕涼,開軒臥閑敞。
荷風送香氣,竹露滴清響。
欲取鳴琴彈,恨無知音賞。
感此懷故人,中宵勞夢想。

(下し文) 夏日に南亭で辛大に懐う
山光 忽ち西に落ち、池月 漸く東に上る。
髪を散じて夕涼に乗じ、軒を開きて間敞に臥す。
荷風 香気を送り、竹露 清響を滴らす。
琴を弾き鳴らしむるものを取(よ)ばんと欲するも、恨むらくは音の賞するを知るは無し。
此に感じて故人を懐ひ、中霽 夢想を勞す


(現代語訳)
峴山からの西日がさしていたがすぐに山の端にしずんでいった、峴首亭から習家池へと散策していくと池に月が影を落として東の鹿門山からのぼってくる。
髪の束ねた簪を抜いて髪の毛をさばいたら夕涼みにはもってこいの格好で乗ってきた。亭の長廊下の窓からの眺めは開けていて、少し小高く、閑静な広々とした場所なので横になる。
池の蓮の上を抜けてきた風はほのかな香りを運んでくる、静かな竹林の葉に落ちた露が落ちたしずくの音が響く。
しずかな竹林には琴を弾きならしてくれる人を呼びたいと思っている、ところが残念な事にはあの音を鑑賞したことを覚えている君はいない。
やはり、この感情は友人を懐かしむのであり、様々なことが夢心に浮かび思い悩んで夜が更けてしまう。


(訳注)
夏日南亭懷辛大

夏日に南亭で辛大に懐う
南亭 詩の雰囲気と西側に山があることから、襄陽城南西方向峴山中腹の峴首亭とする。南は夏を示す季語である。○辛大 辛家の長男。孟浩然とこの亭に来た友人であろう。


山光忽西落,池月漸東上。
山光 忽ち西に落ち、池月 漸く東に上る。
峴山からの西日がさしていたがすぐに山の端にしずんでいった、峴首亭から習家池へと散策していくと池に月が影を落として東の鹿門山からのぼってくる。
山光 峴山に落ちかかった夕日。○池月 峴首亭から南にむかってすこし進むと山簡の行楽した高陽池、習家池がある。○東上 東の方、鹿門山から月がのぼる。習家池から東に鹿門山が位置する。


散發乘夕涼,開軒臥閑敞。
髪を散じて夕涼に乗じ、軒を開きて間敞に臥す。
髪の束ねた簪を抜いて髪の毛をさばいたら夕涼みにはもってこいの格好で乗ってきた。亭の長廊下の窓からの眺めは開けていて、少し小高く、閑静な広々とした場所なので横になる。
散發 正式な場所では髪を束ねて簪で止めていたのを、それをほどいた。夕涼みだから髪の毛に風を当てることをいう。○開軒 亭の長廊下の窓が開けているさま。・ 亭の長廊下の窓。『登峴山亭,寄晉陵張少府』
峴首風湍急,雲帆若鳥飛。憑軒試一問,張翰欲來歸。」『澗南園即時貽皎上人』「弊廬在郭外,素產惟田園。左右林野曠,不聞朝市喧。釣竿垂北澗,樵唱入南軒。書取幽棲事,將尋靜者論。」王維『少年行四首 其四』「漢家君臣歓宴終、高議雲台論戦功。天子臨軒賜侯印、将軍佩出明光宮。」○閑敞 少し小高く、閑静な広々とした場所。


荷風送香氣,竹露滴清響。
荷風 香気を送り、竹露 清響を滴らす。
池の蓮の上を抜けてきた風はほのかな香りを運んでくる、静かな竹林の葉に落ちた露が落ちたしずくの音が響く。
荷風 池の蓮を抜けてきた風をいう。○竹露 竹の葉の露。前の聯の静けさを受けた句で清閑をいう。王維『竹里館』「独坐幽篁裏、弾琴復長嘯。深森人不知、明月来相照。」場所的には襄水の川べりの竹林に急流か滝から霧のような水しぶきが竹の葉に落ちているような情景ではなかろうか。静けさをしずくの滴り音であらわしている。


欲取鳴琴彈,恨無知音賞。
琴を弾き鳴らしむるものを取(よ)ばんと欲するも、恨むらくは音の賞するを知るは無し。
しずかな竹林には琴を弾きならしてくれる人を呼びたいと思っている、ところが残念な事にはあの音を鑑賞したことを覚えている君はいない。
鳴琴彈 琴をひきならす者。○知音 音を鳴らすものを知る。・ 鑑賞する。ここでは辛大のことをいう。


感此懷故人,中宵勞夢想。
此に感じて故人を懐ひ、中霽 夢想を勞す
やはり、この感情は友人を懐かしむのであり、様々なことが夢心に浮かび思い悩んで夜が更けてしまう。



解説

この詩は、孟浩然がその場にいたのではなく、そう昔のことではない友人と別れた峴山の峴首亭を思い浮かべて作ったのであろう。情景の動きと時間の経過に関しては、歳をまたいで移動するものである。詩は、唐時代に流行した、詩の中に自然を鏤める趣向を凝らしている。
 「夏日」、「南亭」、「山光」、「池月」、「夕涼」、「閑敞」、「荷風」、「香氣」、「竹露」、「清響」、「琴彈」、「夢想」とつづいていくのである。律詩で終わるべき詩に一韻を追加する形で友人の辛君との友情を強調している。自然の美を詠うために友情の意味の言葉が足らなくて一韻を追加したのか。いずれにしても、この詩の時期の孟浩然の行動範囲、友好関係が矮小化していたものと推定できる。「弊居」の書斎において作られたものであろう。

夏日
南亭
懷辛大
山光西落池月東上
散發夕涼開軒閑敞
荷風香氣竹露清響
欲取琴彈,恨無音賞
感此故人中宵夢想

夏日南亭懷辛大⑪

忽↔漸↔乘↔臥↔送↔滴↔鳴↔知↔懷↔勞


対句 a:d b:e c:f


        
 夏日 南亭 懷辛大 
 abcdef
1山光西落池月東上
2散發夕涼開軒閑敞
3荷風香氣竹露清響
4欲取琴彈恨無音賞
5感此故人中宵夢想

季語・語の進行    
山光→西落→池月→東上。→
散發→夕涼→開軒→閑敞。→
荷風→香氣→竹露→清響。→
欲取→琴彈→恨無→音賞。→
感此→故人→中宵→夢想。



田家元日 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -316

田家元日 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -316


卷160_104 「田家元日」孟浩然


田家元日
昨夜鬥回北,今朝歲起東。
昨夜、北の星が北に回ってきて、そうしてこの朝、新しい年が生まれ起きてくる。
我年已強仕,無祿尚憂農。
我年 已に強仕なるに、禄無くして尚を農を憂ふ。わたしも年を重ね元気ではたらける、俸禄はないことは農作物の出来いかんが憂いの種なのだ。
桑野就耕父,荷鋤隨牧童。
桑畑や田野でおやじさんと一緒に野良仕事をし、鋤を担いで牧童のあとをついて行く。
田家占氣候,共說此年豐。

こうした、農家というものは気候を占う、一緒になって今年の豊作を願って主張し合うのだ。


昨夜 斗北に回り、今朝 歳 東に起つ。
我年 已に強仕なるに、禄無くして尚を農を憂ふ。
桑野 父 耕に就き、鋤を荷いて牧童に隨う。
田家 気候を占い、共に説く 此の年の豊を。
嚢陽一帯00

現代語訳と訳註
(本文)

昨夜鬥回北,今朝歲起東。
我年已強仕,無祿尚憂農。
桑野就耕父,荷鋤隨牧童。
田家占氣候,共說此年豐。

(下し文)
昨夜 斗北に回り、今朝 歳 東に起つ。
我年 已に強仕なるに、禄無くして尚を農を憂ふ。
桑野 父 耕に就き、鋤を荷いて牧童に隨う。
田家 気候を占い、共に説く 此の年の豊を。

(現代語訳)
昨夜、北の星が北に回ってきて、そうしてこの朝、新しい年が生まれ起きてくる。
我年 已に強仕なるに、禄無くして尚を農を憂ふ。
わたしも年を重ね元気ではたらける、俸禄はないことは農作物の出来いかんが憂いの種なのだ。
桑畑や田野でおやじさんと一緒に野良仕事をし、鋤を担いで牧童のあとをついて行く。
こうした、農家というものは気候を占う、一緒になって今年の豊作を願って主張し合うのだ。

安陸・南陽・嚢陽 李白00

(訳注)
昨夜鬥回北,今朝歲起東。

昨夜 斗北に回り、今朝 歳 東に起つ。
昨夜、北の星が北に回ってきて、そうしてこの朝、新しい年が生まれ起きてくる。
○斗 中國における六つ星により形成される星座。天廟を指す。玄武の蛇身。北極星を含む星座。太陽は西側の天涯に落ち、地の底を抜けて、東から生まれるというのが天体感であり、それを象徴する北の星をいう。悪気を消すことを意味する。斗(牛宿 女宿 虚宿 危宿 室宿 壁宿)


我年已強仕,無祿尚憂農。
我年 已に強仕なるに、禄無くして尚を農を憂ふ。
わたしも年を重ね元気ではたらける、俸禄はないことは農作物の出来いかんが憂いの種なのだ。

強仕 強く元気のいいさま。働き盛り。○無祿 士官していないので俸禄がないこと。○憂農 今後の農作物の出来について心配をすること。

桑野就耕父,荷鋤隨牧童。
桑野 父 耕に就き、鋤を荷いて牧童に隨う。

桑畑や田野でおやじさんと一緒に野良仕事をし、鋤を担いで牧童のあとをついて行く。
桑野 桑畑や田野畑。○耕父 おやじさんと一緒に野良仕事をすること。 


田家占氣候,共說此年豐。
田家 気候を占い、共に説く 此の年の豊を。

こうした、農家というものは気候を占う、一緒になって今年の豊作を願って主張し合うのだ。


305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府 ⑥
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作   ⑧
316  〃   田園作元旦⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下層石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処
328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
*(番号の順でこのブログに掲載する)



詩人名生年 - 歿年 概  要
陳子昴
(ちんすこう)
661年 - 702年六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とする詩を作り、盛唐の質実な詩の礎を築いた。
張九齢 (ちょうきゅうれい)678年 - 740年陳子昂の詩と並んで「神味超逸」の風があり、阮籍の「詠懐詩」の流れをくむ「感遇詩」12種の連作が有名。著作に『張曲江集』20巻がある。字は子寿。韶州曲江の人。幼少の頃、南方に流されてきた張説に才能を認められた。長安二年(702)、進士に及第した。左拾遺となり、玄宗の信任を得て左補闕・司勲員外郎を歴任。張説の腹心として活躍した。のちに中書舎人から工部侍郎・中書令(宰相)に至った。李林甫と衝突し、玄宗の信頼を失って荊州長史に左遷された。『曲江張先生集』。
孟浩然 (もうこうねん)689年 - 740年盛唐の詩人。王維とともに「王孟」と並称され、山水自然派の詩人として知られるが、王維が自然の静的な面を客観的に歌うのに比して、より主観的に、自然を人間に親しいものとしてとらえる傾向を持つ。「春眠暁(あかつき)を覚えず」など、日本でも著名な作品が多い。襄陽出身。諱は浩、浩然は字。鹿門山に隠棲し、40才頃に進士に応じて落第し、王維との親交によって玄宗に謁見しながらも、「不才にして明主に棄てられ…」の句で官途を失い、郷里に隠棲した。襄陽長史に遷された張九齢の幕下に加わり、致仕後は江南を巡って王昌齢とも親交したが、まもなく襄陽で病死した。
 盛唐期にあって王維らとともに田園詩人群を形成し、王維とともに後の韋応物・柳宗元と併称される。ともに山水美を訴求しながら、王維の客観的・傍観的・静的態度と異なり、主観的・親近的・動的追及を旨とし、特に『春暁』は人口に膾炙している。
白   (りはく)701年 - 762年中国最大の詩人の一人。西域で生まれ、綿州(四川省)で成長。字(あざな)は太白(たいはく)。号、青蓮居士。玄宗朝に一時仕えた以外、放浪の一生を送った。好んで酒・月・山を詠み、道教的幻想に富む作品を残した。詩聖杜甫に対して詩仙とも称される。「両人対酌して山花開く、一杯一杯又一杯」「白髪三千丈、愁いに縁(よ)りて個(かく)の似(ごと)く長し」など、人口に膾炙(かいしゃ)した句が多い。

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澗南園即時貽皎上入  孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -314

澗南園即時貽皎上入  孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -314


 孟浩然の郷里・襄陽における作品を示す。襄陽は、孟浩然がその生涯の多くの時間を過ごし、彼の一風の形成の場となったことはいうまでもない。

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処

305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作   ⑧
316  〃   田園作元旦⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下贛石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
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卷160_24 「澗南即事,貽皎上人」孟浩然

澗南園即時貽皎上人
襄陽の私の澗南の農園で即興で貽皎上人に詠った詩。
弊廬在郭外,素產惟田園。
わたしの粗末な庵は襄陽城の郊外にあり、先祖から受け継いだ土地においてを田ばたで作物をつくっているのだ。
左右林野曠,不聞朝市喧。
左右見渡して、林野、田畑が広がっているし、襄陽城での朝市の喧噪は全く聞こえてこない。
釣竿垂北澗,樵唱入南軒。
釣り竿は北側の漢水に灌ぐ谷川にたれるのである。その場所から南の高く上がった山の中に入っていくと樵が木挽き歌をうたっている。
書取幽棲事,將尋靜者論。

こうして一人静かな隠棲をしていることの風興な事を詩に書きとめる、随ってもっぱらの楽しみはお上人の様な静清なお方と論を交合わせるため訪ねてくださることなのだ。


澗南園で即時にて貽皎上人に。
弊廬 郭外に在り、素より惟だ田園に產とす。
左右 林野 曠く、朝市の喧しきを聞かず。
釣竿 北澗に垂れ、樵唱 南軒に入る。
幽棲の事を書取して、還た静者の言を尋ねん。


詩題に見える「澗南園」は、孟浩然の郷里襄陽における住まいである。それは襄州襄陽県の県城の東南方、峴山を漢水を挟んで鹿門山が位置し、漢水、鹿門山の南までを江村としている。また襄陽県は「漢代以降、南北(華北と華南の勢力か激突する地点であり、南北を結ぶ交通の要衝として経済的に重視された重要地点であった。そして、漢江の水運を利用した物資の集散地たる商港として、南朝以来繁栄し、遊楽の都市であった。大堤がそれである。地図に示す通り、襄陽城と漢水の間に一詩北征から流れてきた漢水が大きく南に大きく湾曲したところであったため、堤の長い場所であった。


現代語訳と訳註
(本文) 澗南園即時貽皎上人
弊廬在郭外,素產惟田園。
左右林野曠,不聞朝市喧。
釣竿垂北澗,樵唱入南軒。
書取幽棲事,將尋靜者論。


(下し文) 澗南園で即時にて貽皎上人に。
弊廬 郭外に在り、素產 惟田園あり。
左右 林野 曠く、朝市の喧しきを聞かず。
釣竿 北澗に垂れ、樵唱 南軒に入る。
幽棲の事を書取して、還た静者の言を尋ねん


(現代語訳)
襄陽の私の澗南の農園で即興で貽皎上人に詠った詩。
わたしの粗末な庵は襄陽城の郊外にあり、先祖から受け継いだ土地においてを田ばたで作物をつくっているのだ。
左右見渡して、林野、田畑が広がっているし、襄陽城での朝市の喧噪は全く聞こえてこない。
釣り竿は北側の漢水に灌ぐ谷川にたれるのである。その場所から南の高く上がった山の中に入っていくと樵が木挽き歌をうたっている。
こうして一人静かな隠棲をしていることの風興な事を詩に書きとめる、随ってもっぱらの楽しみはお上人の様な静清なお方と論を交合わせるため訪ねてくださることなのだ


(訳注)
澗南園即時貽皎上人

襄陽の私の澗南の農園で即興で貽皎上人に詠った詩。
澗南園 漢水の南。谷川の傍に畑を持っていた。孟浩然の郷里襄陽における住まいである。それは襄州襄陽県の県城の東南方、峴山を漢水を挟んで鹿門山が位置し、漢水、鹿門山の南までを江村としている。○即時 その場で即興で詠った詩。○上人 仏教における高僧への敬称。修行を積み、智徳を備えた高僧に対して用いられる。

弊廬在郭外,素產惟田園。
弊廬 郭外に在り、素より惟だ田園に產とす。
わたしの粗末な庵は襄陽城の郊外にあり、先祖から受け継いだ土地においてを田ばたで作物をつくっているのだ。
弊廬 隠遁しているあばら家の庵。○郭外 襄陽城の郊外○素產 先祖からうけついだもの。土地をいう。・ 生産する。作物を作る。生産して経営する。○田園 前の「産」と園で従僕がいて小作させていたことがわかる。しかし、大規模なものではない。


左右林野曠,不聞朝市喧。
左右 林野 曠く、朝市の喧しきを聞かず。
左右見渡して、林野、田畑が広がっているし、襄陽城での朝市の喧噪は全く聞こえてこない。
左右 辺りを見回してみていること。○林野 森と原っぱ、田畑がひろがっている。○朝市 襄陽城の市場。朝の位置には大勢が集まる。○ 朝市の喧噪。襄陽は当時かなりの都市であった。


釣竿垂北澗,樵唱入南軒。
釣竿 北澗に垂れ、樵唱 南軒に入る。
釣り竿は北側の漢水に灌ぐ谷川にたれるのである。その場所から南の高く上がった山の中に入っていくと樵が木挽き歌をうたっている。
釣竿 釣りをする。隠遁者は散歩することを含む。○北澗 漢水は孟浩然の家の北の方に流れており、その漢水に聞か向きに流れ灌ぎこむきこむ谷川のこと。○樵唱 木こりが木挽き歌を唄うこと。○ 山の中に入っていく。○南軒 南に向けて高く上がること。軒は欄干、家の軒、久という意味とここでは、誘われて高く上がっていくことをいう。。


書取幽棲事,將尋靜者論。
幽棲の事を書取して、還た静者の言を尋ねん。
こうして一人静かな隠棲をしていることの風興な事を詩に書きとめる、随ってもっぱらの楽しみはお上人の様な静清なお方と論を交合わせるため訪ねてくださることなのだ
○書取 書き留める。詩を作ること。○幽棲 一人で隠遁生活をしていること。○ 仕事。事件。ここでは、山水の風流な興味を抱いたことをいう。○將 まさに。もって、ここでは自分の楽しみになることに導く意味を持つ。○尋 こちらから行くことをいうのであるが、ここでは来訪されること。○靜者 静清なお方。清廉なひと。○ 論議、哲学、詩を論ずることなどを指す。


解説
 この孟浩然の詩「澗南即事,貽皎上人」においてまず、注目するのは、この襄陽県城という大きく繁華な都市の描かれ方である。「郭」「朝市喧」として描写された県城か、それぞれ「外」「不聞」という字句か示すように、詩人との場所的に距離を置いた存在として描かれていることがあげられる。「喧」から隔絶したことを強調すること、孟浩然が大きな町影響下にない隠遁をしていることを強調したいのである。
 そして、その静かな景色は、朝から始まり、やがて昼には北の谷川に釣り糸を垂れ、そして、木挽き歌を聴くため南の山の中に入っていく。こんな生活をしてることを理解できるのは、清廉な人だけだろう。
 「出世欲や、物欲のある人には到底理解できないことであろう」と詩を締める。この詩も風景、心理を動的にとらえているのである。

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登峴山亭,寄晉陵張少府 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -313

登峴山亭,寄晉陵張少府 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -313
(峴山の亭に登る。晋陵の張少府に寄せる。)



305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作   ⑧
316  〃   田園作元旦⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下贛石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処
328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
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孟浩然詩全集 卷160_161 「登峴山亭,寄晉陵張少府」
全集245首中絶句は約一割の26首である。孟浩然といえば、『春眠』「不覺曉,處處聞啼鳥。夜來風雨聲,花落知多少。」である。このブログはストーリーがないわけではないが、第一に考えていることは、できるだけマイナーなものを取り上げる。李白のブログに孟浩然を割り込ませて進めている。

 孟浩然は、襄陽城の東南漢水を渡ってひと山越えたあたり、鹿門山の麓に隠遁している。体があまり丈夫でなく気ままな生活をしていたようだ。友人が訪ねてきて別れる場所は、峴山に登って、襄陽の街を眺めると詩には出てくるが、この詩に登場する峴首亭がお目当てだったのではないだろうか。

登峴山亭,寄晉陵張少府
峴山に登り峴首亭にいってみると、晋の張翰少府の気持ちがよくわかりこの詩を寄せる。
峴首風湍急,雲帆若鳥飛。
峴山の鼻先にある峴首亭にいるが、川の流れと急な風が吹いていて、舟の雲帆ままるで都営が飛んでいくように見える。
憑軒試一問,張翰欲來歸。

亭の欄干に寄りかかったところで、あなたにちょっと一言聞いてみるけど、晋の張翰少府が、秋風が吹いたら、鱠を食べないと自分の人生ではないといって官を辞して呉の郷里に帰ったけれどあなたも帰ろうと思っているのではないのか。

峴山の亭に登る。晋陵の張少府に寄せる。
峴首 風湍 急にして,雲帆 鳥の飛ぶが若し。
軒に憑(よ)りて試みに一たび問わん,張翰 來り歸らんと欲するか。


現代語訳と訳註
(本文) 登峴山亭,寄晉陵張少府

峴首風湍急,雲帆若鳥飛。
憑軒試一問,張翰欲來歸。

(下し文) (峴山の亭に登る。晋陵の張少府に寄せる。)
峴首 風湍 急にして,雲帆 鳥の飛ぶが若し。
軒に憑(よ)りて試みに一たび問わん,張翰 來り歸らんと欲するか。

(現代語訳)
峴山に登り峴首亭にいってみると、晋の張翰少府の気持ちがよくわかりこの詩を寄せる。
峴山の鼻先にある峴首亭にいるが、川の流れと急な風が吹いていて、舟の雲帆ままるで都営が飛んでいくように見える。
亭の欄干に寄りかかったところで、あなたにちょっと一言聞いてみるけど、晋の張翰少府が、秋風が吹いたら、鱠を食べないと自分の人生ではないといって官を辞して呉の郷里に帰ったけれどあなたも帰ろうと思っているのではないのか。
嚢陽一帯00

(訳注)
登峴山亭寄晉陵張少府

峴山の亭に登る。晋陵の張少府に寄せる。
峴山に登り峴首亭にいってみると、晋の張翰少府の気持ちがよくわかりこの詩を寄せる。
峴山 襄陽城の南十里にある。孫堅が襄陽を攻撃したとき、黄祖(あるいは呂公)はこの山に潜んで孫堅を射殺した。○ 峴首亭のこと。○少府 後漢での少府は、宮中の御物、衣服、珍宝、御膳を担当すると注釈されている。秩禄は中二千石。丞は1人である。属官には以下のものがあり、中常侍等の宦官の各職官に加え、侍中、尚書令、御史中丞等のような政務の中枢をつかさどる職官が係属されている。


峴首風湍急,雲帆若鳥飛。
峴首 風湍 急にして,雲帆 鳥の飛ぶが若し。
峴山の鼻先にある峴首亭にいるが、川の流れと急な風が吹いていて、舟の雲帆ままるで都営が飛んでいくように見える。
風湍 急な風と水の流れが速い。 ・ 流れが急である. 急流.杜甫『将赴成都草堂途中有作先寄厳鄭公 五首其四』 
常苦沙崩損藥欄,也從江檻落風湍
新松恨不高千尺,惡竹應須斬萬竿。
生理只憑黃閣老,衰顏欲付紫金丹。
三年奔走空皮骨,信有人間行路難。
雲帆 雲のように大きな船の帆。
送蕭三十一之魯中、兼問稚子伯禽 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白350-208
六月南風吹白沙,吳牛喘月氣成霞。
水國鬱蒸不可處,時炎道遠無行車。
夫子如何涉江路,雲帆嫋嫋金陵去。
高堂倚門望伯魚,魯中正是趨庭處。
我家寄在沙丘傍,三年不歸空斷腸。
君行既識伯禽子,應駕小車騎白羊。


憑軒試一問,張翰欲來歸。
軒に憑(よ)りて試みに一たび問わん、張翰 來り帰らんと欲するか
亭の欄干に寄りかかったところで、あなたにちょっと一言聞いてみるけど、晋の張翰少府が、秋風が吹いたら、鱠を食べないと自分の人生ではないといって官を辞して呉の郷里に帰ったけれどあなたも帰ろうと思っているのではないのか
憑軒 欄干によりかかるさま。・憑1 よりかかる。頼みにする。よりどころ。「憑拠/証憑・信憑」 2 霊がのり移る。つく。○翰 【翰藻】かんそう. 詩・文章のこと。 「藻」は言葉のあや。 【翰墨】かんぼく. 筆と墨。 「翰墨を座右に置く」; 文学のこと。 書いたもの。文章のこと。 筆跡。 【翰林】かんりん. 学者・文人の仲間。文書の集まっている所の意から。 「学林・儒林」; 「 翰林院 ( かんりんいん ) 」1.の略。ここでは翰林院に仕える張君ということ。又西晋の文人張翰をもじっているという解釈とする。張翰については後述している。


DCF00199


解説と参考(張翰)
起句、嚢陽の峴山のもと、風が吹き付ける漢水の急激な流れの描写と、承句、それに乗って雲のような大きな帆を膨らませて鳥のように進む舟の描写は、スピード感に満ちた活動性を持ち、さらにはその「秋風」にのって張翰のように故郷へ帰りたいのかと心の動きを描いている。視線、心理どちらも動的にとらえていく孟浩然の秀作である。。

晉陵 張翰
蓴羹鱸膾(じゅんこうろかい) 《四熟》 1.故郷(ふるさと)の味。 類:●お袋の味 2.故郷を思う気持ちが抑えられなくなることの喩え。 類:●里心が付く 故事:「晋書-文苑伝・張翰」「翰因見秋風起,乃思呉中菰菜、蓴羮、鱸魚膾」 晋の張翰(ちょうかん)は、秋風に逢って、故郷の蓴菜(じゅんさい)の羹(あつもの)と鱸(すずき)の膾(なます)の味を思い出し、辞職して帰郷した。


 張翰は夏侯湛のこと。
この西晋太康期に「新」をもって評された文人に夏侯湛・張翰がいる。
夏侯湛包有盛才、文章宏富、善構新詞、而美容観、與溢岳友善。
          (晋書 侯湛傳)

張翰有清才美望、博學善蜀文、造次立成、辭義清新。
           (文士傳 世説識鑒注所引)

張翰字季鷹、呉郡人也。文藻新麗。
          (今書七志 文選巻二十九注所引)

夏侯湛はその美貌ゆえに潘岳とともに「連壁」ともてはやされた美男子である。

張翰は陸機と同じく呉郡の出身である。呉滅亡後、西晋に仕えた張翰は同郡出身の顧栄にその複雑な心境を述べ、又その顧栄が死んだ時弔問に出向いて、生前共に楽しんだ琴を撫して激しく慟哭したということが『世説』に見えるが、その顧栄のために「妻に贈る詩」を代作したのが陸機であった。張翰が有名なのは折角、西晋朝に仕えながら秋風の立つのを見て、故郷呉の鱸魚の鱠が恋しく、この人生、地位のためにあの美味を捨てられようかと職を投げ打って呉に馬を走らせた曠達ぶりによってであるが、なるほど「江東の歩兵(阮籍)」と時人の評目を得るだけの常識破りな人物であった。
張翰の文学は、『文選』の雑詩を示し、「短篇に鋭いものを見せる」と言い、『詩品』は、「季鷹の黄華の唱は美を具へずと雖も、文彩は高麗なり」(中品)と評す。


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過故人莊 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -311

過故人莊 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -311



305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作    ⑧
316  〃   田家元旦  ⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下贛石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処
328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
*(番号の順でこのブログに掲載する)


詩人名生年 - 歿年 概  要
陳子昴
(ちんすこう)
661年 - 702年六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とする詩を作り、盛唐の質実な詩の礎を築いた。
張九齢 (ちょうきゅうれい)678年 - 740年陳子昂の詩と並んで「神味超逸」の風があり、阮籍の「詠懐詩」の流れをくむ「感遇詩」12種の連作が有名。著作に『張曲江集』20巻がある。字は子寿。韶州曲江の人。幼少の頃、南方に流されてきた張説に才能を認められた。長安二年(702)、進士に及第した。左拾遺となり、玄宗の信任を得て左補闕・司勲員外郎を歴任。張説の腹心として活躍した。のちに中書舎人から工部侍郎・中書令(宰相)に至った。李林甫と衝突し、玄宗の信頼を失って荊州長史に左遷された。『曲江張先生集』。
孟浩然 (もうこうねん)689年 - 740年盛唐の詩人。王維とともに「王孟」と並称され、山水自然派の詩人として知られるが、王維が自然の静的な面を客観的に歌うのに比して、より主観的に、自然を人間に親しいものとしてとらえる傾向を持つ。「春眠暁(あかつき)を覚えず」など、日本でも著名な作品が多い。襄陽出身。諱は浩、浩然は字。鹿門山に隠棲し、40才頃に進士に応じて落第し、王維との親交によって玄宗に謁見しながらも、「不才にして明主に棄てられ…」の句で官途を失い、郷里に隠棲した。襄陽長史に遷された張九齢の幕下に加わり、致仕後は江南を巡って王昌齢とも親交したが、まもなく襄陽で病死した。
 盛唐期にあって王維らとともに田園詩人群を形成し、王維とともに後の韋応物・柳宗元と併称される。ともに山水美を訴求しながら、王維の客観的・傍観的・静的態度と異なり、主観的・親近的・動的追及を旨とし、特に『春暁』は人口に膾炙している。
白   (りはく)701年 - 762年中国最大の詩人の一人。西域で生まれ、綿州(四川省)で成長。字(あざな)は太白(たいはく)。号、青蓮居士。玄宗朝に一時仕えた以外、放浪の一生を送った。好んで酒・月・山を詠み、道教的幻想に富む作品を残した。詩聖杜甫に対して詩仙とも称される。「両人対酌して山花開く、一杯一杯又一杯」「白髪三千丈、愁いに縁(よ)りて個(かく)の似(ごと)く長し」など、人口に膾炙(かいしゃ)した句が多い。


卷160_85 「過故人莊」孟浩然

過故人莊
古い友人の邑里へ行く。
故人具雞黍,邀我至田家。
古い友人が、鶏(ニワトリ)と黍(きび)の料理でわたし心からもてなしをしてくれる準備している。わたしはその友人の農家に招いてくれたので行ったのだ。
綠樹村邊合,青山郭外斜。
緑の樹々が、村の周囲に繁り合わさっている。はるかとおくに青く春の峴山が、襄陽城郭の外側、向こうの方に斜めに見えている。 
開筵面場圃,把酒話桑麻。
穀類を乾燥させる庭に面したところに筵をひろげて、酒盃をとって、桑や麻の故事、商山芝であるとか、東陵の瓜のことなど、人の「道」の事を話題にするのだ。
待到重陽日,還來就菊花。
今度は、九月九日の重陽の節句を待って、菊花を愛で、菊花酒を飲みたいとおもうので、また友人の家を訪れるのだ。

故人の莊に過ぎる     
故人 鷄黍(けいしょ)を 具(そろ)へ、我を邀(むか)へて 田家(でんか)に 至らしむ。
綠樹 村邊(そんぺん)に 合(がっ)し、青き山 郭外(かくがい)に 斜めなり。
筵(むしろ)を開きて 場圃(じょうほ)に 面し、酒を把(とり)て 桑麻(そうま) を 話す。
重陽(ちょうよう)の日を 待ち到り、還(また)來(きた)りて 菊花(きくか)に就(つ)かん。

tanbo955



現代語訳と訳註
(本文) 過故人莊

故人具雞黍,邀我至田家。
綠樹村邊合,青山郭外斜。
開筵面場圃,把酒話桑麻。
待到重陽日,還來就菊花。

(下し文)
故人の莊に過ぎる     
故人 鷄黍(けいしょ)を 具(そろ)へ、我を邀(むか)へて 田家(でんか)に 至らしむ。
綠樹 村邊(そんぺん)に 合(がっ)し、青き山 郭外(かくがい)に 斜めなり。
筵(むしろ)を開きて 場圃(じょうほ)に 面し、酒を把(とり)て 桑麻(そうま) を 話す。
重陽(ちょうよう)の日を 待ち到り、還(また)來(きた)りて 菊花(きくか)に就(つ)かん。

(現代語訳)
古い友人の邑里へ行く。
古い友人が、鶏(ニワトリ)と黍(きび)の料理でわたし心からもてなしをしてくれる準備している。わたしはその友人の農家に招いてくれたので行ったのだ。
緑の樹々が、村の周囲に繁り合わさっている。はるかとおくに青く春の峴山が、襄陽城郭の外側、向こうの方に斜めに見えている。 
穀類を乾燥させる庭に面したところに筵をひろげて、酒盃をとって、桑や麻の故事、商山芝であるとか、東陵の瓜のことなど、人の「道」の事を話題にするのだ。
今度は、九月九日の重陽の節句を待って、菊花を愛で、菊花酒を飲みたいとおもうので、また友人の家を訪れるのだ。


(訳注)
過故人莊

古い友人の邑里へ行く。
陶淵明(陶潛)の
『歸園田居』五首其二
野外罕人事,窮巷寡輪鞅。白日掩荊扉,虚室絶塵想。
時復墟曲中,披草共來往。相見無雜言,但道桑麻長。
桑麻日已長,我土日已廣。常恐霜霰至,零落同草莽。
卷159_46 「田園作」孟浩然
弊廬隔塵喧,惟先養恬素。卜鄰近三徑,植果盈千樹。
粵余任推遷,三十猶未遇。書劍時將晚,丘園日已暮。
晨興自多懷,晝坐常寡悟。沖天羨鴻鵠,爭食羞雞鶩。
望斷金馬門,勞歌采樵路。鄉曲無知己,朝端乏親故。
誰能為揚雄,一薦甘泉賦。
故人 昔からの友人。古いなじみ。 古い友人。○ 邑里。いなか。街の郊外の田園にかこまれた数軒の家が固まったようなところ

故人具雞黍,邀我至田家。
古い友人が、鶏(ニワトリ)と黍(きび)の料理でわたし心からもてなしをしてくれる準備している。わたしはその友人の農家に招いてくれたので行ったのだ。
 そろえる。支度をする。準備をする。○鷄黍〔けいしょ〕ニワトリを殺し、きび飯をたいてもてなすこと。転じて、人を心からもてなすこと。 ○邀 〔えう〕まねく。呼ぶ。迎える。 ○ 行き着く。くる。 ○田家 〔でんか〕いなか家。農家。

綠樹村邊合,青山郭外斜。
緑の樹々が、村の周囲に繁り合わさっている。はるかとおくに青く春の峴山が、襄陽城郭の外側、向こうの方に斜めに見えている。 
村邊 村の周り。村はずれ。 ○合 合わさる。いっしょにする。ひとまとめにする。
郭外 襄陽城郭の外側、向こう側。孟浩然の自然を動的に表現、遠近法的表現する。また、青は五行思想で春を意味する。孟浩然は、春の季語として、青山を使っている。『峴山餞房琯、崔宗之』『登安陽城樓』『舟中曉望』『送友人之京』などに見える。城郭の向こうに小高い山、春の峴山を遙かに望むことを意味する。そびえる山には斜めという表現をしない。この「青き山」は次の「桑麻」の語にかかり、邵平などの故事に繋がっていく。


開筵面場圃,把酒話桑麻。
穀類を乾燥させる庭に面したところに筵をひろげて、酒盃をとって、桑や麻の故事、商山芝であるとか、東陵の瓜のことなど、人の「道」の事を話題にするのだ。
開筵 酒宴の筵を開く意。 ○ 面する。向かう。 ○場圃 〔じょうほ〕農家の前の穀物を干す広場。家の前の穀物干し場。○把酒 酒器、酒盃を持つ。 ○ 話す。後出・陶潛の『歸園田居』其二でいえば「道」。○桑麻 〔そうま〕桑(くわ)と麻(あさ)。商山芝、とか、東陵の瓜、など故事について、話をすること。桑は絹、麻は麻布を意味し、穀物以外に農事の基本であり、貨幣と同じ扱いであったもの。ここでは、人の「道」の話をすることである。前の聯での青山もこの句の桑麻にかかっている。この句までは春の時期の話である。次に秋に移っていく。
「古風」 第九首李白109
喜晴 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 157

待到重陽日,還來就菊花。
今度は、九月九日の重陽の節句を待って、菊花を愛で、菊花酒を飲みたいとおもうので、また友人の家を訪れるのだ。
待到- …になるのを待って。 ○重陽 陰暦九月九日。九は陽の数の極みで、九が重なるから重陽という。この日、高い所に登り、家族を思い、菊酒を飲んで厄災を祓う慣わし。菊の節供。この日、茱萸(しゅゆ、朝鮮呉茱萸を神の毛に挿しておく。 ○ また。 ○ つく。近づく。 ○菊花 重陽の日に吉祥を呼ぶとされて、珍重される花。




広陵の人、邵平は、秦の時代に東陵侯であったが、秦が漢に破れると、平民となり、青門の門外で瓜畑を経営した。瓜はおいしく、当時の人びとはこれを東陵の瓜 押とよんだ。

○商山芝 商山は長安の東商商州にある山の名、漢の高祖の時四人の老人があり秦の乱をさけでその山に隠れ芝を採ってくらした。中国秦代末期、乱世を避けて陝西(せんせい)省商山に入った東園公・綺里季・夏黄公・里(ろくり)先生の四人の隠士。みな鬚眉(しゅび)が皓白(こうはく)の老人であったのでいう。○往者 さきには、これも昔時をさす。○東門瓜 漢の初め、卲平というものが長安の城の東門外で五色の瓜を作って売っていた、彼はもと秦の東陵侯であったという。

李白『古風其九』「青門種瓜人。 舊日東陵侯。」 ・種瓜人 広陵の人、邵平は、秦の時代に東陵侯であったが、秦が漢に破れると、平民となり、青門の門外で瓜畑を経営した。瓜はおいしく、当時の人びとはこれを東陵の瓜 押とよんだ。
東陵の瓜 召平は、広陵の人である。世襲の秦の東陵侯であった。秦末期、陳渉呉広に呼応して東陵の街を斬り従えようとしたが失敗した。後すぐに陳渉が敗死し、秦軍の脅威に脅かされた。長江の対岸の項梁勢力に目をつけ、陳渉の使者に成り済まし項梁を楚の上柱国に任命すると偽り、項梁を秦討伐に引きずり出した。後しばらくしてあっさり引退し平民となり、瓜を作って悠々と暮らしていた。貧困ではあったが苦にする様子も無く、実った瓜を近所の農夫に分けたりしていた。その瓜は特別旨かったので人々は『東陵瓜』と呼んだ。召平は、かつて秦政府から東陵侯の爵位を貰っていたからである。後、彼は漢丞相の蕭何の相談役となり、適切な助言・計略を蕭何に与えた。蕭何は、何度も彼のあばら家を訪ねたという。蕭何が蒲団の上で死ねたのも彼のおかげである。

喜晴  杜甫
皇天久不雨,既雨晴亦佳。出郭眺四郊,蕭蕭增春華。
青熒陵陂麥,窈窕桃李花。春夏各有實,我饑豈無涯。』
干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。甘澤不猶愈,且耕今未賒。
丈夫則帶甲,婦女終在家。力難及黍稷,得種菜與麻。』
千載商山芝,往者東門瓜。其人骨已朽,此道誰疵瑕?
英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。顧慚味所適,回手白日斜。
漢陰有鹿門,滄海有靈查。焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』

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輿黄侍御北津泛舟 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -309

輿黄侍御北津泛舟 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -309



305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作   ⑧
316  〃   田園作元旦⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下贛石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処
328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
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輿黄侍御北津泛舟
黄県令と北津の渡し場から舟を泛べる。
津無蛟龍患,日夕常安流。
湧き出る水がなくて蛟龍が患ってくれている。だから、ひがな一日、漢水もずっと穏やかに流れてくれている。
本欲避驄馬,何如同鹢舟。
はじめから、青白交じりの元気のいい馬での遊びを避けたいと思っている。どうしたことか鷁首のついた船での遊びをするというどちらも同じように避けたいところだ。
豈伊今日幸,曾是昔年游。
できることならこの遊びで今日の一日何事もなく幸せ過ごせたらいい。以前、ずっと昔のことであるがこの遊びをしたことがある。
莫奏琴中鶴,且隨波上鷗。
琴を弾いてくれているのに自分詠う順番がも割ってこないでくれ、そうして、波間に浮かぶ鴎は詠わないから従っていく。
堤緣九里郭,山面百城樓。
大堤は九里四方の郭に妓楼街がある。そこから峴山に向かって、樓閣の屋根が連なっている。
自顧躬耕者,才非管樂儔。
自分からこうして隠遁して一から畑を耕すことから始めているものであるから、文才はあっても管楽、音楽のたぐいは才能はないのである。
聞君薦草澤,從此泛滄洲。

あなたに聞くのですがこのまま民間人を勧めますか、そうであれば、ここにいることこの中州に浮んでいることは隠遁して棲んでいるところということなのだ。


黄侍御と北津に舟を泛ぶ。
津 無くして蛟龍 患い,日夕して常に安(おだやか)に 流る。
本より驄馬 避んと欲す,何んぞ鹢舟 同うするが如し。
豈(ねがわく)ば 伊れ 今日 幸なれ,曾て是 昔年游ぶ。
琴に中りて鶴(かく)を奏ずる莫れ,且 波上の鷗(おう)に隨う。
堤は縁る九里の郭、山は面す百の城樓。
自から躬耕の者を顧る,才 管樂の儔(ちゅう)に非らず。
君に聞く草澤を薦めるや,從って此れ 滄洲に泛ぶと。

宮島(1)


現代語訳と訳註
(本文) 輿黄侍御北津泛舟
津無蛟龍患,日夕常安流。
本欲避驄馬,何如同鹢舟。
豈伊今日幸,曾是昔年游。
莫奏琴中鶴,且隨波上鷗。
堤緣九里郭,山面百城樓。
自顧躬耕者,才非管樂儔。
聞君薦草澤,從此泛滄洲。


(下し文) 黄侍御と北津に舟を泛ぶ。
津 無くして蛟龍 患い,日夕して常に安(おだやか)に 流る。
本より驄馬 避んと欲す,何んぞ鹢舟 同うするが如し。
豈(ねがわく)ば 伊れ 今日 幸なれ,曾て是 昔年游ぶ。
琴に中りて鶴(かく)を奏ずる莫れ,且 波上の鷗(おう)に隨う。
堤は縁る九里の郭、山は面す百の城樓。
自から躬耕の者を顧る,才 管樂の儔(ちゅう)に非らず。
君に聞く草澤を薦めるや,從って此れ 滄洲に泛ぶと。


(現代語訳)
黄県令と北津の渡し場から舟を泛べる。
湧き出る水がなくて蛟龍が患ってくれている。だから、ひがな一日、漢水もずっと穏やかに流れてくれている。
はじめから、青白交じりの元気のいい馬での遊びを避けたいと思っている。どうしたことか鷁首のついた船での遊びをするというどちらも同じように避けたいところだ。
できることならこの遊びで今日の一日何事もなく幸せ過ごせたらいい。以前、ずっと昔のことであるがこの遊びをしたことがある。
琴を弾いてくれているのに自分詠う順番がも割ってこないでくれ、そうして、波間に浮かぶ鴎は詠わないから従っていく。
大堤は九里四方の郭に妓楼街がある。そこから峴山に向かって、樓閣の屋根が連なっている。
自分からこうして隠遁して一から畑を耕すことから始めているものであるから、文才はあっても管楽、音楽のたぐいは才能はないのである。
あなたに聞くのですがこのまま民間人を勧めますか、そうであれば、ここにいることこの中州に浮んでいることは隠遁して棲んでいるところということなのだ。

嚢陽一帯00

(訳注)
輿黄侍御北津泛舟

黄県令と北津の渡し場から舟を泛べる。
黄侍御 黄県令。○北津 襄陽の大堤側と対岸の樊城を結ぶ渡し場と思われる。地図を参考にしてみるとよく理解できる。漢水が大きく湾曲した上流部に大堤があり、そこから見た景色を詠っている。孟浩然の詩特有の時間の経過、視線の動きを感じさせる詩である。


津無蛟龍患,日夕常安流。
津 無くして蛟龍 患い,日夕して常に安(おだやか)に 流る。
湧き出る水がなくて蛟龍が患ってくれている。だから、ひがな一日、漢水もずっと穏やかに流れてくれている。

○津 船着き場。湧水。ここでは、、川の底から湧いてくる水の動きを意味する。蛟龍が騒いで起こるとされていた。○蛟竜 みずちと竜。蛇に似て足があり人を食うという。川の流れが乱流になることをいう動きのある表現に繋がっている。○病気になる。わずらわしいことがあって休む。○日夕 太陽が昇って夕暮れになるまで。一日中。ここでも日と夕と時間の経過を表す語がつかわれている。○常安流 常時、安定した流水である。王維の詩は静止画表現であるのに孟浩然は動画表現である。李白・杜甫は使い分けることが多い。

本欲避驄馬,何如同鹢舟。
本より驄馬 避んと欲す,何んぞ鹢舟 同うするが如し。
はじめから、青白交じりの元気のいい馬での遊びを避けたいと思っている。どうしたことか鷁首のついた船での遊びをするというどちらも同じように避けたいところだ。
驄馬 青白色の馬。○鷁舟 水難除けに鷁首を船首に飾っている船のこと。高貴なものがのる舟遊びをする舟。


豈伊今日幸,曾是昔年游。
豈(ねがわく)ば 伊れ 今日 幸なれ,曾て是 昔年游ぶ。
できることならこの遊びで今日の一日何事もなく幸せ過ごせたらいい。以前、ずっと昔のことであるがこの遊びをしたことがある。
 これ。人を指す。二人称。


莫奏琴中鶴,且隨波上鷗。
琴に中りて鶴を奏ずる莫れ,且 波上の鷗に隨う。
琴を弾いてくれているのに自分詠う順番がも割ってこないでくれ、そうして、波間に浮かぶ鴎は詠わないから従っていく。


堤緣九里郭,山面百城樓。
堤は縁る九里の郭、山は面す百の城樓。
大堤は九里四方の城郭の手前に妓楼街がある。そこから峴山に向かって、樓閣の屋根が連なっている。
 「大堤」のこと。ちなみに大堤は、唐代にあって、襄陽の城を西北から東南にめぐり流れる漢江ぞいを中心とする長大な堤防付近に栄えた「妓楼街」の名称でもある。李白「大堤曲」○九里郭 襄陽の城郭。


自顧躬耕者,才非管樂儔。
自から躬耕の者を顧る,才 管樂の儔(ちゅう)に非らず。
自分からこうして隠遁して一から畑を耕すことから始めているものであるから、文才はあっても管楽、音楽のたぐいは才能はないのである。
躬耕 天子が畑を耕す礼式のこと。この場合、能力のあるものが、一から畑を耕すことから始めるという意味である。この語は諸葛孔明がこの地で若いころ梁甫吟を唄って農耕をしたことを意味するものである。○ 友。類い。匹敵。


聞君薦草澤,從此泛滄洲。
君に聞く草澤を薦めるや,從って此れ 滄洲に泛ぶと。
あなたに聞くのですがこのまま民間人を勧めますか、そうであれば、ここにいることこの中州に浮んでいることは隠遁して棲んでいるところということなのだ。
草澤 草原や湿原。官僚にならない民間人。能力を持ちながら隠遁したもの。○滄洲 川が湾曲して中州になっているところ。隠者の住むところ。


輿黄侍御北津泛舟
津無蛟龍患,日夕常安流。
本欲避驄馬,何如同鹢舟。
豈伊今日幸,曾是昔年游。
莫奏琴中鶴,且隨波上鷗。
堤緣九里郭,山面百城樓。
自顧躬耕者,才非管樂儔。
聞君薦草澤,從此泛滄洲。


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金陵城西樓月下吟 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350- 212

金陵城西樓月下吟 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350- 212


金陵城西樓月下吟
金陵夜寂涼風發、獨上高樓望呉越。
金陵城は、しずかに夜が更けてゆく、夜も更けて涼やかな風が吹きはじめた、私はただ独り高楼に登るのである、はるか遠く呉越ちほうを思い望むのである。
白雲映水揺空城、白露垂珠滴秋月。
白雲は長江の水に映り、人気のない静かな城郭がその影を水面に揺らす、白露が真珠のように結すばれ、、澄み切った秋の月光に照らされて滴り落ちてくる。
月下沉吟久不歸、古来相接眼中稀。
こんな月光のもとに沈んだ低い声詩で吟じていると、ここから帰えられないでじっと立っているのだ。
古来、相い継ぐべき詩人は、私の眼中にほとんどいない。

解道澄江浄如練、令人長憶謝玄暉。

ああこの風景だ、「澄江、浄きこと練の如し」と詠っている、これこそよく表現しているものだ。この詩句は、この私に、かの謝玄暉を憶い慕わせ続けてくれるものだ。



金陵城の西楼 月下の吟
金陵 夜 寂として 涼風発り、独り高楼に上りて 呉越を望む。

白雲 水に映じて空城を揺り、白露 珠を垂れて秋月に滴る。

月下に沈吟して 久しく帰らず、古来 相い接ぐもの 眼中に稀なり。

()い解()たり、「澄江浄きこと練(ねりぎぬ)の如し」と、人をして 長く謝玄暉()を憶わ令む。






金陵城西樓月下吟 現代語訳と訳註 解説
(本文)

金陵夜寂涼風發、獨上高樓望呉越。
白雲映水揺空城、白露垂珠滴秋月。
月下沉吟久不歸、古来相接眼中稀。
解道澄江浄如練、令人長憶謝玄暉。

(下し文)
金陵 夜 寂として 涼風発り、独り高楼に上りて 呉越を望む。
白雲 水に映じて空城を揺り、白露 珠を垂れて秋月に滴る。
月下に沈吟して 久しく帰らず、古来 相い接ぐもの 眼中に稀なり。
道(い)い解(え)たり、「澄江浄きこと練(ねりぎぬ)の如し」と、人をして 長く謝玄暉(謝朓)を憶わ令む。

(現代語訳)
金陵城は、しずかに夜が更けてゆく、夜も更けて涼やかな風が吹きはじめた、私はただ独り高楼に登るのである、はるか遠く呉越ちほうを思い望むのである。
白雲は長江の水に映り、人気のない静かな城郭がその影を水面に揺らす、白露が真珠のように結すばれ、、澄み切った秋の月光に照らされて滴り落ちてくる。
こんな月光のもとに沈んだ低い声詩で吟じていると、ここから帰えられないでじっと立っているのだ。
古来、相い継ぐべき詩人は、私の眼中にほとんどいない。
ああこの風景だ、「澄江、浄きこと練の如し」と詠っている、これこそよく表現しているものだ。この詩句は、この私に、かの謝玄暉を憶い慕わせ続けてくれるものだ。


(訳註)

金陵城西樓月下吟
金陵のまちの西楼にて、月下の吟。
金陵 現在の南京市。六朝の古都。南朝の各朝の首都。金陵、建業、建、建康、南京。東の郊外にある紫金山(鍾山)を金陵山と呼ぶところから生まれた。-現在の南京市の雅名。李白は特にこの名を愛用している。○吟 詩歌の一体。


金陵夜寂涼風發、獨上高樓望呉越。
金陵城は、しずかに夜が更けてゆく、夜も更けて涼やかな風が吹きはじめた、私はただ独り高楼に登るのである、はるか遠く呉越ちほうを思い望むのである。
呉越 呉(江蘇省―宜城)と越(浙江省―会稽)の地方。金陵の東方に当たる。


白雲映水揺空城、白露垂珠滴秋月。
白雲は長江の水に映り、人気のない静かな城郭がその影を水面に揺らす、白露が真珠のように結ばれ、澄み切った秋の月光に照らされて滴り落ちてくる。


月下沉吟久不歸、古来相接眼中稀。
こんな月光のもとに沈んだ低い声詩で吟じていると、ここから帰えられないでじっと立っているのだ。
古来、相い継ぐべき詩人は、私の眼中にほとんどいない。

沈吟 声をおさえて吟ずる。「低吟」「微吟」。


解道澄江浄如練、令人長憶謝玄暉。
ああこの風景だ、「澄江、浄きこと練の如し」と詠っている、これこそよく表現しているものだ。この詩句は、この私に、かの謝玄暉を憶い慕わせ続けてくれるものだ。
解道 「能道」(能く這えり)と同じ。表現の巧みさを誉める言葉。○澄江浄如練 澄んだ長江は練のように浄らかだ。南朝時代の斉の謝桃「晩登三山還望京邑」(澄江静かなること練の如し)をさす。○玄暉-謝朓の字。李白は特に謝朓を敬愛し、すぐれた詩人として思慕する詩を数多く作っている。


○詩型 七言古詩
○韻字 発・越・月/帰・稀・暉

謝公亭 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350- 211

謝公亭 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350- 211


金陵から、その南にある宣城に李白の足は延びるが、金陵・宜城に至るまでの行動は、じつは明瞭にその足跡をたどることはできない。金陵は、李白の行動の中心的位置にある。したがって、作時の特定も難しい。朝廷の官吏の制服を着て、先人の詩の舞台を訪ね歩く生活を送っていた。
 rihakustep足跡

754天宝十三年には、宜城に遊んだことは間違いないとされている。宣城は金陵の南西に長江を登ったところにあり、この地は李白の思慕する六朝の斉の謝朓が太守をしていたところである。謝朓の遺跡を訪ねて、謝謝の追憶にふけりながら、ここでも多くの優れた作品を残している。

斉の謝朓464年 - 499は、当時五言詩の担い手であり、山水詩に優れ、朱の謝霊運と並び称せられ、霊運を大謝、桃を小謝という。その詩は清新さをもち、唐詩にも似たところがあって、李白・杜甫に好まれた。宜城の太守となり、江南の風景を歌い、亭を作って詩人花雲らと遊んだ。優れた詩人ではあるが、事件に坐して、下獄死亡した。三十六歳である。現存する詩は200首余り、その内容は代表作とされる山水詩のほか、花鳥風月や器物を詠じた詠物詩、友人・同僚との唱和・離別の詩、楽府詩などが大半を占める。竟陵八友のひとり。
[作品]
謝朓①玉階怨 ②王孫遊 ④同王主薄有所思 ⑤遊東田 ⑥金谷聚 


謝公亭 
謝公離別處。 風景每生愁。
謝公亭は いろんな別離がありそのためにある場所なのだ。辺りの風景は どんな別れに対してもいつも哀愁を感じさせているのだ
客散青天月。 山空碧水流。
ここの客は別離の人々、青い夜空に月が輝くその下で 散り散りになっていく。だれもいなくなった山あいのこの亭には 青い、青い水だけが流れているのだ。
池花春映日。 窗竹夜鳴秋。
池に目をやれば池の中に、池の辺に春の花が日の光を受けて色明るく映えている。亭の窓辺に見える竹林からは秋の夜風を受けてさらさらと鳴りわたっていく。
今古一相接。 長歌懷舊游。
この謝公亭は、今の様々な別れも過去あったさまざまな出来事もそれぞれ結び合わせてくれて一にしてしまうのだ。ここで緩やかな調べを歌いうとむかしの日の交遊、遭遇、出来事のかずかずが懐かしく思い起こされるのだ。




謝亭 離別の處、風景 (つね)に愁を生ず。

客は散ず 青天の月、山 空しくして碧水 流れる。

池花 春 日に映じ、窗竹 夜 秋に鳴る。

今古 ひとえに相接する、長歌して舊游を懷う。





謝公亭 現代語訳と訳註 解説
(本文)

謝公離別處。 風景每生愁。
客散青天月。 山空碧水流。
池花春映日。 窗竹夜鳴秋。
今古一相接。 長歌懷舊游。


(下し文)
謝亭 離別の處、 風景 每(つね)に愁を生ず。
客は散ず 青天の月、 山 空しくして碧水 流れる。
池花 春 日に映じ、 窗竹 夜 秋に鳴る。
今古 ひとえに相接する、長歌して舊游を懷う。

(現代語訳)
謝公亭は いろんな別離がありそのためにある場所なのだ。辺りの風景は どんな別れに対してもいつも哀愁を感じさせているのだ
ここの客は別離の人々、青い夜空に月が輝くその下で 散り散りになっていく。だれもいなくなった山あいのこの亭には 青い、青い水だけが流れているのだ。
池に目をやれば池の中に、池の辺に春の花が日の光を受けて色明るく映えている。亭の窓辺に見える竹林からは秋の夜風を受けてさらさらと鳴りわたっていく。
この謝公亭は、今の様々な別れも過去あったさまざまな出来事もそれぞれ結び合わせてくれて一にしてしまうのだ。ここで緩やかな調べを歌いうとむかしの日の交遊、遭遇、出来事のかずかずが懐かしく思い起こされるのだ。


(訳註)

謝亭離別處。 風景每生愁。
謝公亭は いろんな別離がありそのためにある場所なのだ。辺りの風景は どんな別れに対してもいつも哀愁を感じさせているのだ
謝公亭 安徽省宣城県の郊外にあった。李白の敬愛する六朝の詩人、謝朓むかし宜州の長官であったとき建てた。苑雲という人が湖南省零陵県の内史となって行ったとき、謝朓は出来たばかりの亭で送別し、詩を作っている。○風景 同じ景色も春夏秋冬、天候によって違うもの。○每生愁 どんな条件下であってもいつも哀愁を伴うところである。晴れの日は晴れの日の哀愁が、雨の日、風の日、木枯らし、真夏の炎天の日それぞれの別れを見ている風景。凄い句である。


客散青天月。 山空碧水流。
ここの客は別離の人々、青い夜空に月が輝くその下で 散り散りになっていく。だれもいなくなった山あいのこの亭には 青い、青い水だけが流れているのだ。
碧水 別れを終えた後の月明かりの中の澄み切った水を連想させる色である。意味慎重な泣別れであろうか。

池花春映日。 窗竹夜鳴秋。
池に目をやれば池の中に、池の辺に春の花が日の光を受けて色明るく映えている。亭の窓辺に見える竹林からは秋の夜風を受けてさらさらと鳴りわたっていく。
池花春映日 この句は若い人の別れを感じさせてくれる。○窗竹夜鳴秋 風流な別れだろうか。出征兵士を送っているのか。

今古一相接。 長歌懷舊游。
この謝公亭は、今の様々な別れも過去あったさまざまな出来事もそれぞれ結び合わせてくれて一にしてしまうのだ。ここで緩やかな調べを歌いうとむかしの日の交遊、遭遇、出来事のかずかずが懐かしく思い起こされるのだ。
舊游 謝朓の時代の交友のありさまを言う。苑雲との交流を意識している。


(解説)
「ここは友人の花雲が零陵郡(湖南省零陵県)に赴任しょうとして謝桃が送別の宴を張ったところである。美しい風景も、その離別のことを思えば、見ていると悲しみの情が湧いてくる」。いったい、謝霊運は、山水の美を客観的に眺めて歌った詩人であるが、謝眺は、同じ山水の美を歌っておりながら、その中に憂愁の情をからませて歌った詩人である。自然の風景に愁いを感ずる詩人であった。そのことを意識しながら、それをさらにさまざまな場面、舞台を思い起こさせ「風景は毎に愁いを生ずる」と歌ったのである。
次の二行は、亭付近の静かな美しい風景であり、その表現も、謝眺が風景の美しきを歌う詩に似ている。あえて似せているのかもしれない。さて、「古えのことを思い浮かべて浸っていると、謝跳の遊びが思い出され、歌を歌い続けて彼を懐かしく偲んでいる」という。

 李白は尊敬しある時はその詩を模倣もした謝朓ゆかりの亭に来た。昼間は多くの人がここで別れた。出征前のひと時を過ごしたのか。同じ景色を愛でても後にはその景色だけが残っている。別れの悲しみを月、清い水、花、窓辺を静かに詠っている。別れを悲しみだけで詠わない李白、自慢の形式である。


宮島(1)

謝亭 離別の處、 風景 每(つね)に愁を生ず。
客は散ず 青天の月、 山 空しくして碧水 流れる。
池花 春 日に映じ、 窗竹 夜 秋に鳴る。
今古 ひとえに相接する、長歌して舊游を懷う。

秋日登揚州西霊塔 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白350-205

秋日登揚州西霊塔 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白350-205 


秋日登揚州西霊塔 李白

宝塔凌蒼蒼、登攀覧四荒。
宝塔は 青々とした大空を凌駕するように立っている、登ってみれば  世界の果てまですべて見渡せる。
頂高元気合、標出海雲長。
宝塔の頂は高く聳えて森羅万象の基本となる「気」が集合しておるのだ、その先端は抜き出ており、海、雲より長いのだ。
万象分空界、三天接画梁。
宝塔の頂は高く聳えて森羅万象の基本となる「気」が集合しておるのだ、その先端は抜き出ており、海、雲より長いのだ。
水揺金刹影、日動火珠光。』
金色に輝くこの寶塔の影は池の水面に揺れ動く、太陽のかがやきは、 火の珠(たま)で輝き動いているのだ。
鳥払瓊簷度、霞連繡栱張。
赤玉で飾った軒端をかすめて鳥は飛びかう、夕焼けの空は、四方に張った幔幕の向こうに拡がっている。
目随征路断、心逐去帆揚。
宝塔から見る目は旅路の見える限りをみつめるのである、そして心は、去りゆく船の帆影を高めていてそれを追いかける。
露浩梧楸白、風催橘柚黄。
晩秋の桐や楸(ひさぎ)の実は、露を受けて白くなっている、風に吹かれて蜜柑は熟れ黄色に色付きゆれる。
玉毫如可見、於此照迷方。』

もしも玉毫の仏は一万八千世界を見とおせるという、そのちからで、いまここで迷える方向を照らしてほしい。


秋日登揚州西霊塔 李白 現代語訳と訳註、解説

(本文)
宝塔凌蒼蒼、登攀覧四荒。
頂高元気合、標出海雲長。
万象分空界、三天接画梁。
水揺金刹影、日動火珠光。』
鳥払瓊簷度、霞連繡栱張。
目随征路断、心逐去帆揚。
露浩梧楸白、風催橘柚黄。
玉毫如可見、於此照迷方。』

(下し文)


    
(下し文) 秋日 揚州の西霊塔に登る
宝塔(ほうとう)は蒼蒼(そうそう)を凌(しの)ぎ、登攀(とうはん)して四荒(しこう)を覧(み)る。
頂きは高くして元気(げんき)と合し、標(ひょう)は出でて海雲(かいうん)長し。
万象(ばんしょう)  空界(くうかい)を分(わか)ち、三天(さんてん)   画梁(がりょう)に接す。
水は金刹(こんせつ)の影を揺(うご)かし、日は火珠(かしゅ)の光を動かす。
鳥は瓊簷(けいえん)を払って度(わた)り、霞(か)は繡栱(しゅうきょう)に連なって張(は)る。
目は征路(せいろ)に随って断(た)え、心は去帆(きょはん)を逐(お)うて揚(あ)がる。
露浩(おお)しくて梧楸(ごしゅう)白く、風催(うなが)して橘柚(きつゆう)黄なり。
玉毫(ぎょくごう)  如(も)し見る可(べ)くんば、此(ここ)に於いて迷方(めいほう)を照らさん。

(現代語訳)
宝塔は 青々とした大空を凌駕するように立っている、登ってみれば  世界の果てまですべて見渡せる。
宝塔の頂は高く聳えて森羅万象の基本となる「気」が集合しておるのだ、その先端は抜き出ており、海、雲より長いのだ。
金色に輝くこの寶塔の影は池の水面に揺れ動く、太陽のかがやきは、 火の珠(たま)で輝き動いているのだ。
赤玉で飾った軒端をかすめて鳥は飛びかう、夕焼けの空は、四方に張った幔幕の向こうに拡がっている。
宝塔から見る目は旅路の見える限りをみつめるのである、そして心は、去りゆく船の帆影を高めていてそれを追いかける。
晩秋の桐や楸(ひさぎ)の実は、露を受けて白くなっている、風に吹かれて蜜柑は熟れ黄色に色付きゆれる。
もしも玉毫の仏は一万八千世界を見とおせるという、そのちからで、いまここで迷える方向を照らしてほしい。

(語訳と訳註)
宝塔凌蒼蒼、登攀覧四荒。
宝塔は 青々とした大空を凌駕するように立っている、登ってみれば  世界の果てまですべて見渡せる。
蒼蒼 大空が青々と広がっているさま。 ○登攀 上りあががること。 ○四荒 四方の果ての先には海があると考えられていた。天涯、など。


頂高元気合、標出海雲長。
宝塔の頂は高く聳えて森羅万象の基本となる「気」が集合しておるのだ、その先端は抜き出ており、海、雲より長いのだ。


万象分空界、三天接画梁。
すべての自然の現象というものは、空の界を分けている、天、地、人と日、月、星の三霊三界は、天の架け橋の梁に接している。


水揺金刹影、日動火珠光。
金色に輝くこの寶塔の影は池の水面に揺れ動く、太陽のかがやきは、 火の珠(たま)で輝き動いているのだ。
金刹 金色に輝くこの寶塔


鳥払瓊簷度、霞連繡栱張。
赤玉で飾った軒端をかすめて鳥は飛びかう、夕焼けの空は、四方に張った幔幕の向こうに拡がっている。
瓊簷 赤玉の彫刻で飾った軒端。○繡栱張 四方に張った幔幕。

目随征路断、心逐去帆揚。
宝塔から見る目は旅路の見える限りをみつめるのである、そして心は、去りゆく船の帆影を高めていてそれを追いかける。


露浩梧楸白、風催橘柚黄。
晩秋の桐や楸(ひさぎ)の実は、露を受けて白くなっている、風に吹かれて蜜柑は熟れ黄色に色付きゆれる。
梧楸白 桐や楸(ひさぎ)の実


玉毫如可見、於此照迷方。
もしも玉毫の仏は一万八千世界を見とおせるという、そのちからで、いまここで迷える方向を照らしてほしい。
照迷方 一万八千世界、迷えるものの行く末を照らすこと。

(解説)
・詩型 五言排律
・押韻 蒼、荒。長。梁。光。/張。揚。黄。方。


 揚州に向かっていた李白が、揚州に着いたころ、晩秋になっていた。揚州の「西霊塔」(せいれいとう)は、当時の塔のなかでは最も高いものであった。ここにきたものは必ず西霊塔に登った。

塔から夕焼けの空が「繡栱」(桝形)の向こうに拡がっているのを眺め、旅の行く末を思い、揚州の渡津(としん)を出てゆく船の帆影に胸の高まるのを覚えた。しかし、自然がおのずからその実りをもたらすように、自明のこととして自分の将来を見定めることはできません。
 「玉毫」は仏の額の巻き毛のことで、東方一万八千世界を照らすといいます。もしも未来が分かるというのなら、いまここで迷える方向を照らしてほしいと詩を結び、李白は東魯を旅立っては来たものの行くべき人生の方向が定まらず、心に迷いを生じていることを告白しています。

題江夏修静寺 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白197

題江夏修静寺 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白197


 李邕は盛唐の詩人としても注目すべき一人であるが、杜甫や李白と交際のあった点が特に注意を要する。彼は揚州の人であり、高宗の顕慶中に仕官してより硬骨の名を悉(ほしいま)まにし、そのため度々左遷され、多く地方官に任じた。義を重んじ、士を愛したため、その入京するや、士人は街路に聚って眺め、すずなりになったといふ。開元の終りに北海(山東省益都)の太守となったが、この時杜甫を招いてこれと詩を語ったことは、杜甫の「八哀詩」その他に見えている。

  陪李北海宴歴下亭  杜甫 20 
   同李太守登歷下古城員外新亭 杜甫 21
 「贈秘書監江夏の李公邕」八哀詩(5)四十二韻


 ここに至って文人を嫌う李林甫の憎しみを受け、受賄の罪に問はれて殺されたのである。朝廷側の記録では、彼はもともと細行を顧みいたちで至る所で賄賂を受け、遊猟をこととし、またその詩文によって得た金も数万に上ったとされている。杜甫の詩、特に八哀詩(5)四十二韻から見ると儒学者であったことから、李林甫への協力を完全に拒否したことにより、逆鱗に触れ、追い詰められたが、全くその姿勢を変えなかった、ということであろう。
李林甫や歴代の宰相に憎まれたのは主として、その士人に於ける人望に対する嫉妬であった (「旧唐書」190中「唐書」202)。李白もこの李邕と関係があり、既に 紀頌之の漢詩 李白188に「李邕ニ上ル」の詩があり、また「江夏ノ修静寺ニ題ス」といふ詩は後に江夏(武昌)の李邕の旧居に至っての作である。

題江夏修静寺(此寺是李北海旧宅)
我家北海宅 作寺南江濱
私が師と仰いだ李北海の旧宅がある、今、修静寺となっており、南に大河に面しており川洲のほとりにある。
空庭無玉樹 高殿坐幽人
庭園は空地にされ、立派な植木もなくなっている、座敷だったところで、隠遁者、修行者が座っている。
書帯留青草 琴堂冪素塵
日陰草が青々と生えている、琴を楽しんだ座敷は埃に覆われている。
平生種桃李 寂滅不成春

当時は、桃の木やナシの木が植えられ花が咲き誇ったように弟子たちも集まっていたものだが、寂寂としてすべて消え去って今は春なのに春の様相が全くないほど、弟子も出世したものがないのである。


我が家の北海の宅、寺となる南江の浜(ほとり)。
室庭 玉樹なく、高殿 幽人を坐せしむ。
書帯 青草を留め 、琴堂 素塵に冪(おほ)はる。
平生(へいぜい) 桃李を種えしが、寂滅して春をなさず。
 



題江夏修静寺(此寺是李北海旧宅) 訳註と解説

(本文)
我家北海宅 作寺南江濱
空庭無玉樹 高殿坐幽人
書帯留青草 琴堂冪素塵
平生種桃李 寂滅不成春

(下し文)
我が家の北海の宅、寺となる南江の浜(ほとり)。
室庭 玉樹なく、高殿 幽人を坐せしむ。
書帯 青草を留め 、琴堂 素塵に冪(おほ)はる。
平生(へいぜい) 桃李を種えしが、寂滅して春をなさず。 


私が師と仰いだ李北海の旧宅がある、今、修静寺となっており、南に大河に面しており川洲のほとりにある。
庭園は空地にされ、立派な植木もなくなっている、座敷だったところで、隠遁者、修行者が座っている。
日陰草が青々と生えている、琴を楽しんだ座敷は埃に覆われている。
当時は、桃の木やナシの木が植えられ花が咲き誇ったように弟子たちも集まっていたものだが、寂寂としてすべて消え去って今は春なのに春の様相が全くないほど、弟子も出世したものがないのである。




(語訳と注)


我家北海宅 作寺南江濱
私が師と仰いだ李北海の旧宅がある、今、修静寺となっており、南に大河に面しており川洲のほとりにある。
我家 私が師と仰いだ李北海。



空庭無玉樹 高殿坐幽人
庭園は空地にされ、立派な植木もなくなっている、座敷だったところで、隠遁者、修行者が座っている。
高殿 母屋の座敷。○幽人 世を避けている人。隠遁者、修行者。



書帯留青草 琴堂冪素塵
日陰草が青々と生えている、琴を楽しんだ座敷は埃に覆われている。
書帯 草の名。書帯草【山野草】ショタイソウ日陰で葉を長く伸ばして垂れ下がらせる.○青草 役人。官吏が着る上着。青々としたさま。 ○琴堂 琴を楽しんだ座敷。 ○(おお)はる。おおう、かぶせる(べき)



平生種桃李 寂滅不成春
当時は、桃の木やナシの木が植えられ花が咲き誇ったように弟子たちも集まっていたものだが、寂寂としてすべて消え去って今は春なのに春の様相が全くないほど、弟子も出世したものがないのである。
平生 当時。通常。最盛期。 ○桃李 どちらも希望を持つ花とし、書生、弟子、ういういしい芸妓などを指す。○寂滅 寂しくて何もないさま。弟子たちを沢山とりたてたが誰ひとり出世したものはないこと。


 李邕とその関係者は李林甫により徹底的に排除、粛清されたのだ
 朝廷は天宝年代になると、李林甫が牛耳った。やがて彼が752天宝十一載に死するや、楊貴妃の族兄揚国忠がこれに代って益々私党を樹て政権を壟断(ろうだん)したのである。この二人の共通点はがいづれも無学で猜疑心の強い、小人であったことだ。


 賞は論功のないものに与へられ、官には無能者が任ぜられた。746天宝五載、李林甫、陳希烈の二宰相傍に置いたのである。李林甫の無学で、猜疑心の小人なることは前述の如くであるが、陳希烈も安禄山の軍が長安に入城すると同時に降参し、宰相に任ぜられた無節操の徒であった。また玄宗は、また七載には宦官の高力士に驃騎大将軍の官を与へ、九載には安禄山を東平郡王に封じている。いづれも未曾有の待遇であるが、中でも蛮族の出身であり、戦功もない武将を皇族待遇としたことなど前代未聞のことであり、勢力の均衡を意図したものであったが逆に王朝の権威を失墜させることになってしまう。

 もう一つの重要な点は、長安に人口が集中し、食物の需給のバランスが取れなくなり、江南地方の穀物を運河によって供給されることに頼り切ったことである。つまり、運河を断たれたら長安は兵糧攻めに弱い都になってしまっていたのだ。現在の日本の食料自給率が40%程度だといわれているが、ある日突然、外国から食料が輸入できなくなったらどうするか、ということであり、安禄山が反乱を起こす前の数年間、食料倉庫の火災、日照り続き、755年は秋に60日間降り続いた長雨のため、穀物単価が数十倍になった。そこで、備蓄穀物を配給制で供給して、王朝の穀物倉庫に在庫がなくなっていた。


 ここで取り上げた詩は李邕の李林甫による弾圧のため死に追いやられ、弟子たちも粛清されたことを詠ったものであるが、詩の背景には、これらのことがあったのだ。

登單父陶少府半月台 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白191

登單父陶少府半月台 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白191

この詩は李白とも友人で杜甫も親しくしていた孔が病気に託して官をやめてかえり、これから江東の単父の方へでかえるのを送り、同時に李白におくるために此の詩を作った。

送孔巢父謝病歸游江東,兼呈李白 杜甫26
『南尋禹穴見李白,道甫問訊今何如。』
(南 禹穴を尋ねて李白を見ば、道え 甫 問訊す今何如と』)

孟諸沢の東北にあった宋州單父県単父(山東省単県)という街の東楼に上って酒宴に興じている。

秋猟孟諸夜帰置酒単父東楼観妓 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白182
また別に李白に同じ東樓において詠った「單父東樓秋夜送族弟沈之秦」がある。この東樓と今回取り上げる半月台は同じところであろう。孟諸沢の秋の山が海のようであるといい、思いを江南の会稽山、鏡湖へ馳せる。


登單父陶少府半月台
陶公有逸興,不與常人俱。
陶公は趣向に長ておられる、とても一般の文人官僚と一緒にされるものではない。
築台像半月,回向高城隅。
高楼の台地を半月の形に築きあげられた。廻って見たり、正面から見たりして高楼の隅々まで行った。
置酒望白雲,商飆起寒梧。
この半月型の台地に酒をもってきて大空の白雲を眺めていたい。秋の西風、吹き上げる大風、青桐はすっかり葉を落として立っている。
秋山入遠海,桑柘羅平蕪。
すっかり秋の気配の山というのははるか遠い海原に入っていくことだ。桑と山ぐわの葉があり、雑草がどこまでも被っているのだ
水色淥且明,令人思鏡湖。
水面にうつるのは清らかな緑色でありその上明るく輝いている。これは誰が見ても賀知章翁の鏡湖と見まごうはずである。
終當過江去,愛此暫踟躕。

しかしこうしてみていると江南を流浪してそうして長安方面にはもう帰りたくない、暫くはこの地を愛しているので、ここを離れるのにためらいがある。



陶公 逸興有り,常人 俱にあたわず。

築台 半月を像り,回りて向う高城の隅。

置酒 白雲に望む,商飆 寒くして梧を 起す。

秋山 遠海に入り、桑柘 平蕪に羅(つら)なる。 

水色 淥(ろく)かつ明 人をして鏡湖を思はしむ。

つひにまさに江を過ぎて去るべきも、ここを愛してしばらく踟躕(ちちゅう)す。





陶公有逸興,不與常人俱。
陶公は趣向に長ておられる、とても一般の文人官僚と一緒にされるものではない。



築台像半月,回向高城隅。
高楼の台地を半月の形に築きあげられた。廻って見たり、正面から見たりして高楼の隅々まで行った。

置酒望白雲,商飆起寒梧。
この半月型の台地に酒をもってきて大空の白雲を眺めていたい。秋の西風、吹き上げる大風、青桐はすっかり葉を落として立っている。
 あきかぜ、にしかぜ、星座のひとつ ○ひょう つむじかぜ、吹き上げる大風。 ○ あおぎり。落葉樹

 
秋山入遠海 桑柘羅平蕪
すっかり秋の気配の山というのははるか遠い海原に入っていくことだ。桑と山ぐわの葉があり、雑草がどこまでも被っているのだ
桑柘(そうしゃ)桑とやまぐは。○平蕪 平らかな雑草の茂った地。

水色淥且明 令人思鏡湖
水面にうつるのは清らかな緑色でありその上明るく輝いている。これは誰が見ても賀知章翁の鏡湖と見まごうはずである。
清らか。澄みきった水の緑を言う。 ○鏡湖 浙江省の紹興にある湖。李白が朝廷に上がって間もなく賀知章が官を辞して、天子から賜ったもの。

終當過江去 愛此暫踟躕
しかしこうしてみていると江南を流浪してそうして長安方面にはもう帰りたくない、暫くはこの地を愛しているので、ここを離れるのにためらいがある。
踟躕  ためらう。


○韻 興、、隅。/梧、蕪、湖。/去、

秋猟孟諸夜帰置酒単父東楼観妓 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白182

秋猟孟諸夜帰置酒単父東楼観妓 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白182


「寄李白」 任華 
権臣炉盛名
葦犬多吠撃
有数放君
却蹄隠冷感
高歌大笑出関去


「高歌大笑」して長安を去ったとはいえ、それは失意の悲しみと、前途への不安とが入り交じったものであろう。
李白が長安の都を去った744年天宝三年春から、安禄山の乱が勃発した755年天宝十四年に至る十年間が、李白の第二回目の遍歴時代になる。彼の44歳から55歳までの時代である。
この間の足跡は十分には分かりかねるとされながらおおむね次の通りとされる。「北のかた趨・魏・燕・晋に抵り、西のかた岐・邠州を渉り、商於を歴て、洛陽に至り、梁に游ぶこと最も久し、復た斉・魯に之き、南のかた推・泗に游び、再び呉に入り、転じて金陵に徒り、秋浦・尋陽に止まる。」(「李太白文集後序」)
その多くは梁すなわち汴州(開封)地方において費やしていることになる。


 天宝三年 744年、杜甫はこの年も洛陽に留まっている。そうして夏のころ、高力士らの讒言によって長安の宮廷を追放され、傷心を抱いて洛陽にやって来た李白と、はじめて会っている。
 時に李白は四十四歳、杜甫より十一歳の年長であり、すでにその文名は天下に高かった。まだ無名の存在である杜甫は、あこがれと尊敬の念をもって李白の話に耳を傾けたのである。そうして、李白の謫仙人というべき人物と新鮮な詩風に心ひかれるままにその跡を追った杜甫は、当時やはり不遇であった高適(時に四十四歳)とも出会い、三人で梁・宋(河南省の開封・商邦)の地に遊ぶ。「壮遊」と同じく晩年に襲州で作られた「遣懐」(懐いを遣る)また「昔遊」の中に、そのときの様子が次のように詠われている。

まず「遣懐」では、梁州でのことが、
遣懐 杜甫    
昔我遊宋中、惟梁孝王都。
名今陳留亜、劇則貝魏倶。
邑中九万家、高棟照通衢。
舟車半天下、主客多歓娯。
白刃讎不義、黄金傾有無。
殺人紅塵裏、報答在斯須。

憶与高李輩、論交入酒壚。
両公壮藻思、得我色敷腴。
気酣登吹台、懐古視平蕪。
芒碭雲一去、雁鶩空相呼。


昔我遊宋中、惟梁孝王都。
昔  宋州で遊んだことがある、梁の孝王が都としたところだ
名今陳留亜、劇則貝魏倶。
名は陳留につぐが、にぎわいは貝州や魏州にひとしい
邑中九万家、高棟照通衢。
城内には九万戸の家々、高い棟木が十字の街路につらなっている
舟車半天下、主客多歓娯。
舟や車は  天下の半ばを集め、土地の者も旅人も  共に楽しく暮らしている
白刃讎不義、黄金傾有無。
不義の者は白刃でこらしめ、黄金は有無にかかわらず使いつくす
殺人紅塵裏、報答在斯須。
街上で人を殺せば、すぐに報復を受けるのだ
憶与高李輩、論交入酒壚。
思い起こせば高適・李自らと、交わりを結んで酒店に入った。
両公壮藻思、得我色敷腴。
二人は文章への思いは盛んで、私という相手を得て、のびやかに談じていた。
気酣登吹台、懐古視平蕪。
酒が回って意気は上がり、吹台(開封の東南にある台)に登って、うち続く荒野を眺めわたしながら、この地にまつわる昔の出来事をしのんだ。
芒碭雲一去、雁鶩空相呼。
 芝山や楊山のあたりには(昔、秦の始皇帝の追及の手を逃れた漢の高祖がそこに隠れ、その間つねに立ち上っていたという)帝王の雲気はいまや去ってしまい、雁や鷲がむなしく鳴き交わしているだけであった


「昔遊」では
昔者与高李、晩登単父台。
寒蕪際碣石、万里風雲来。
桑柘葉如雨、飛藿共徘徊。
清霜大沢凍、禽獣有余哀
「その昔、高適・李白と、夕暮れに単父台に登った。寒々とした荒地は遠く瑞石のあたりまで続いており、万里の果てから風雲が吹きつけてきた。桑や柘の葉が雨のように飛散し、なかに豆の葉も吹き迷っていた。清らかな霜が降りて大沢は凍り、鳥獣は近づく狩猟の季節におびえていた」
と詠われている。


梁・宋での遊びののち、高適は南方楚の地に遊び、杜甫は李白に従って斉・魯に行くことにした。李白は兗州(山東省滋陽)の我が家に帰り、北海(山東省益都)の道士高天師のところへ出かけて道教のお札をもらうためであった。

この時、李白は次のように詠っている。

秋獵孟諸夜歸置酒單父東樓觀妓
傾暉速短炬。 走海無停川。
傾く夕陽は 燃えつきる炬火(たいまつ)よりも速く沈み、流れる川は 海へ向かって止まるを知らない
冀餐圓邱草。 欲以還頹年。
願うことは、円邱の不老不死の草をごちそうになりたい、老いる身にもとの若さをとりもどしたいとおもう。
此事不可得。 微生若浮煙。
こんなことは不可能であるということは分かっている、人の一生というものは流れる煙のようにはかない
駿發跨名駒。 雕弓控鳴弦。

速やかに名馬にまたがり出発しよう、彫刻の飾りのついた弓を引き絞って矢を放つのだ。
鷹豪魯草白。 狐兔多肥鮮。
寒さに草は白く枯れ、鷹は猛々しくなる、狐や兎は  肥えて元気がよい多くいる。
邀遮相馳逐。 遂出城東田。
待ち受け、囲い込んで追い立ていく、城の東の狩り場に出る
一掃四野空。 喧呼鞍馬前。
四方野原の獲物を取りつくし、馬を降りて収獲の歓声を挙げる
歸來獻所獲。 炮炙宜霜天。
城にもどって獲物を献上する、丸焼や串焼をする寒さにむいた料理にする
出舞兩美人。 飄搖若云仙。
やがて二人の芸妓がでて舞いはじめる、しなやかに風のように軽やかな姿は雲中の仙人のように包まれる。
留歡不知疲。 清曉方來旋。

疲れを忘れて歓楽しつづける、すがすがしい明け方になって家路についたのだ。


傾く夕陽は 燃えつきる炬火(たいまつ)よりも速く沈み、流れる川は 海へ向かって止まるを知らない
願うことは、円邱の不老不死の草をごちそうになりたい、老いる身にもとの若さをとりもどしたいとおもう。
こんなことは不可能であるということは分かっている、人の一生というものは流れる煙のようにはかない
速やかに名馬にまたがり出発しよう、彫刻の飾りのついた弓を引き絞って矢を放つのだ。
寒さに草は白く枯れ、鷹は猛々しくなる、狐や兎は  肥えて元気がよい多くいる。
待ち受け、囲い込んで追い立ていく、城の東の狩り場に出る
四方野原の獲物を取りつくし、馬を降りて収獲の歓声を挙げる
城にもどって獲物を献上する、丸焼や串焼をする寒さにむいた料理にする
やがて二人の芸妓がでて舞いはじめる、しなやかに風のように軽やかな姿は雲中の仙人のように包まれる。
疲れを忘れて歓楽しつづける、すがすがしい明け方になって家路についたのだ。



秋、孟諸に猟し、夜帰りて単父の東楼に置酒して妓を観る

傾暉(けいき)は短炬(たんきょ)よりも速(すみや)か、走海(そうかい)  停川(ていせん)無し
冀(こいねが)わくは円邱(えんきゅう)の草を餐(くら)って、以て頽年(たいねん)を還(かえ)さんと欲す
此の事  得(う)可からず、微生(びせい)は浮烟(ふえん)の若(ごと)し
駿発(しゅんはつ)して名駒(めいく)に跨(またが)り、雕弓(しゅうきゅう)鳴弦(めいげん)を控(ひか)う

鷹(よう)は豪(ごう)にして魯草(ろそう)白く、狐兎(こと)  肥鮮(ひせん)多し
邀遮(ようしゃ)して相(あい)馳逐(ちちく)し、遂に城東(じょうとう)の田(でん)に出づ
一掃して四野(しや)空(むな)しく、喧呼(けんこ)す  鞍馬(あんば)の前(まえ)
帰り来たって獲(と)る所を献じ、炮炙(ほうしゃ)  霜天(そうてん)に宜(よろ)し
出でて舞う両美人(りょうびじん)、飄颻(ひょうよう)として雲仙(うんせん)の若(ごと)し
留歓(りゅうかん)して疲れを知らず、清暁(せいぎょう)  方(まさ)に来旋(らいせん)す



傾暉速短炬。 走海無停川。
傾く夕陽は 燃えつきる炬火(たいまつ)よりも速く沈み、流れる川は 海へ向かって止まるを知らない
炬火 たいまつ。*水はその位置に留まらない 


冀餐圓邱草。 欲以還頹年。
願うことは、円邱の不老不死の草をごちそうになりたい、老いる身にもとの若さをとりもどしたいとおもう。
 願うことは    ○圓丘 先輩の道士、元丹邱、元圓をさしたもの。金丹

此事不可得。 微生若浮煙。
こんなことは不可能であるということは分かっている、人の一生というものは流れる煙のようにはかない


駿發跨名駒。 雕弓控鳴弦。
速やかに名馬にまたがり出発しよう、彫刻の飾りのついた弓を引き絞って矢を放つのだ。


鷹豪魯草白。 狐兔多肥鮮。
寒さに草は白く枯れ、鷹は猛々しくなる、狐や兎は  肥えて元気がよい多くいる。


邀遮相馳逐。 遂出城東田。
待ち受け、囲い込んで追い立ていく、城の東の狩り場に出る
邀遮 待ち受け、囲い込む。○東田 東の狩り場 謝朓の「遊東田」に基づいている。
謝朓「遊東田」
戚戚苦無踪、攜手共行樂。
尋雲陟纍榭、隨山望菌閣。
遠樹曖仟仟、生煙紛漠漠。
魚戲新荷動、鳥散餘花落。
不對芳春酒、還望青山郭。
(憂愁深く楽しみの無いのに苦しみ、友と手を携えて一緒に山野を行楽する。雲の高さを尋ねては幾重にも重なる高殿に登り、山道をたどっては美しい楼閣を遠くに眺める。遠くの木々はぼんやりとかすみつつ生い茂り、わき上がる靄は果てしなく広がっている。魚が戯れつつ泳ぐと 芽生えたばかりのハスの葉が動き、鳥が木から飛び立つと 春の名残の花は散り落ちる。芳しい春の酒には目もくれず。)


一掃四野空。 喧呼鞍馬前。
四方野原の獲物を取りつくし、馬を降りて収獲の歓声を挙げる
○四野 四つの方向の野原。


歸來獻所獲。 炮炙宜霜天。
城にもどって獲物を献上する、丸焼や串焼をする寒さにむいた料理にする


出舞兩美人。 飄搖若云仙。
やがて二人の芸妓がでて舞いはじめる、しなやかに風のように軽やかな姿は雲中の仙人のように包まれる。


留歡不知疲。 清曉方來旋。
疲れを忘れて歓楽しつづける、すがすがしい明け方になって家路についたのだ。

白鷺鷥 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白170 玄宗(3)

白鷺鷥 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白170


玄宗〈3〉
楊氏は元来その出自も明確ではない。父は四川省の小役人であった。蜀州司戸の楊玄淡の四女。兄に楊銛、姉に後の韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人がいる。幼いころに両親を失い、叔父の楊玄璬の家で育てられた。

 生まれながら玉環を持っていたのでその名がつけられたというものや、涙や汗が紅かったという伝説がある。また、広西省の庶民の出身であり、生まれた時に室内に芳香が充満しあまりに美しかったので楊玄淡に売られたという俗説もある。いずれにしても、当時の美人の条件をすべて持ち合わせていたことに間違いはないし、性的な満足を与えられる美人であったということだ。玄宗のなりふり構わない執着ぶりからも異常なほどだ。

 玄宗の子の寿王の妃となっていて、楊環といった。玄宗は驪山華清宮でこれを見そめて(740年)、離縁させ、息子から直接妻を奪う形になるのを避けるため、女道士とならせ、太真と呼んだ。実質は内縁関係にあったと言われる。後、高力士に命じて宮中にひそかに入れた。李白は742年に都に呼ばれ、744年追われているのである。内縁関係といっても誰もが分かるものであった。貴妃宮中入りの事情を、李白は知らぬわけではない。天子の命で「清平調詞」三章をみごとに作ったとはいえ、李白の内心は、楊貴妃に好意を寄せてうたいあげたものでいないとしかみれない。

haqro07

白鷺鷥
白鷺下秋水、孤飛如墜霜。
心閑且未去、濁立沙洲傍。


白鷺鷥
白鷺 秋水に下り、孤飛して 霜を墜すが如し。
心閑にして 且らく未だ去らず、独り立つ 沙洲の傍。

haqro04白鷺鷥



白鷺鷥 白鷺は白さぎ。鷥も白さぎ。白鷺と鷥は原則つがいとするか、群れを成している。詩に取り上げる場合、つがいが多い。秋雨に中州に降りてくる。水鳥である。

白鷺下秋水、孤飛如墜霜。
白さぎが秋雨の清らかな水に舞降りる。そのあとにただ一羽飛ぶさまは、霜が吹き飛んでいるようだ。
如墜粛 羽毛の白い形容。


心閑且未去、濁立沙洲傍。
心のんびりと、しばらく立ち去らず、ぽつんと砂の中洲のそばに立っている。

haqro05


王維
『輞川集』13 欒家瀬 
13 欒家瀬 
颯颯秋雨中、浅浅石溜瀉。
波跳自相濺、白鷺驚復下。

欒家瀬 (らんからい)
颯颯(さつさつ)たる秋雨(しゅうう)の中(うち)
浅浅(せんせん)として石溜(せきりゅう)に瀉ぐ
波は跳(おど)って自(おのずか)ら相い濺(そそ)ぎ
白鷺(はくろ)は驚きて復(ま)た下(くだ)れり

觀放白鷹 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白169 玄宗〈2〉

觀放白鷹 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白169


玄宗〈2〉
高力士は玄宗の皇太子時代から仕え、太平公主を倒すのに功があって、以後重要視され、ます.玄宗に甘言をもってうまくとり入り、厚い信任を得てほとんどの政務を任されるようになった。こうした高力士が宮中の権力を握る中にあっては、李白が存分に政治手腕などできる可能性も全くないものだった。

この高力士と、はじめはうまくとり入り、やがて玄宗の信任を得て、宰相の地位にまでのし上がったのが李林甫である。賢臣張九齢らのすべての反対勢力は朝廷より追われたし、殺されたのである。表は、李林甫の独裁政治、裏は高力氏という時代になったのである。 


736年開元二十四年11月張九齢を追放してから始まった。李林甫の反対派弾圧は徹底して行われたのである。また、府兵制度が崩壊し、地方の節度使が大きな勢力を持つのを恐れて、名もなき武官や、異民族出身者を任命した。その中の一人が、のちに反乱を起こした安禄山である。これらすべては初期唐王朝の蓄積の浪費するだけであり、玄宗の我儘の帰結であった。

天宝と改元された玄宗の後半生は、歓楽極まったものであった。そしてやがて哀情多い方向をたどることになる。その因をなすものは楊貴妃である。玄宗の後半生を狂わした女性でもある。李白は玄宗の歓楽の一部のために召されたのである。それも道教の関係者の伝手に頼ったものであった。





觀放白鷹
白鷹を放つ鷹狩りを見る。
八月邊風高、胡鷹白錦毛。
八月は秋の中ごろ,国境付近の岩山の上、ぬけるように晴れた空高く秋風が吹きわたっている。我われが鷹狩に使っているのは優秀な胡地産の鷹で、寒くなればなるほど錦もようの羽は銀白色にかがやいてくる。
孤飛一片雪、百里見秋毫。

ひとり飛びたったら、恰もひとひらの雪が空中に舞ったかのようである。山上から眺めると周囲百里にわたってどんな微細なものでも目に見えるほど、見晴らしがすばらしい。




白鷹を放つ鷹狩りを見る。
八月は秋の中ごろ,国境付近の岩山の上、ぬけるように晴れた空高く秋風が吹きわたっている。我われが鷹狩に使っているのは優秀な胡地産の鷹で、寒くなればなるほど錦もようの羽は銀白色にかがやいてくる。
ひとり飛びたったら、恰もひとひらの雪が空中に舞ったかのようである。山上から眺めると周囲百里にわたってどんな微細なものでも目に見えるほど、見晴らしがすばらしい。


白鷹を放つを観る
八月 辺風高し、胡鷹 白錦毛。
孤飛す一片の雪、百里 秋毫を見る。




觀放白鷹
白鷹を放つ鷹狩りを見る。
放鷹 たかを飛ばして小鳥をとること。鷹狩に白いたかを使う。



八月邊風高、胡鷹白錦毛
八月は秋の中ごろ,国境付近の岩山の上、ぬけるように晴れた空高く秋風が吹きわたっている。我われが鷹狩に使っているのは優秀な胡地産の鷹で、寒くなればなるほど錦もようの羽は銀白色にかがやいてくる。
八月 旧暦八月は、秋の中ごろ。○辺風 国境の風。○胡鷹 胡地に産する鷹。○錦毛 錦の美しいもようのある毛。

 

孤飛一片雪、百里見秋毫。
ひとり飛びたったら、恰もひとひらの雪が空中に舞ったかのようである。山上から眺めると周囲百里にわたってどんな微細なものでも目に見えるほど、見晴らしがすばらしい。
秋毫 毫は細い毛。動物の毛は秋に殊に細くなるので、きわめで微細なものを秋毫という。


 ○韻  高、毛、毫。


李白らしい着眼点が素晴らしい。異民族との国境付近の景色は、秋の深まりと共にモノトーン変わっていく。その中に接近してみれば錦に輝いているが、放って100里先でも雪の塊ほどに見えるという、100里も李白らしい。

高適の詩(2) 塞上聞吹笛  田家春望 (1)除夜作

高適の詩(2) 塞上聞吹笛  田家春望 (1)除夜作


 春ののどかさにつられ、城郭を出て田園の里にやってきた。朝廷では権力者李林甫を意識して、普通の付き合いができない。春を詠う。

田家春望
田園の家、春の眺め。
出門何所見、春色滿平蕪。
城門を出て、郊外へ行ったが、何も見るものがない、春の気配が、草原一面に満ちているだけである。
嘆かわしいことは、私を理解してくれる者がいないことだ。高陽の一酒徒となって悶々としている。
可歎無知己、高陽一酒徒
。          
 高適の詩は、春のけだるさを田園の景色に見るものがないということで強調します。春の気配が草原一面にあるが、理解してくれるものは誰もいない。賢人の集まりで酒を飲み交わすことにしよう。古来、権力者に対する、賢人は、酒を酌み交わして、談義した。 権力者のことを直接表現はできないのだ。


DCF00115
              
田園の家、春の眺め。
城門を出て、郊外へ行ったが、何も見るものがない、春の気配が、草原一面に満ちているだけである。
嘆かわしいことは、私を理解してくれる者がいないことだ。高陽の一酒徒となって悶々としている。

 高適の詩は、春のけだるさを田園の景色に見るものがないということで強調します。春の気配が草原一面にあるが、理解してくれるものは誰もいない。賢人の集まりで酒を飲み交わすことにしよう。古来、権力者に対する、賢人は、酒を酌み交わして、談義した。 権力者のことを直接表現はできないのだ。



門を出でて  何の見る所ぞ、春色  平蕪へいぶに 滿つ。
歎ず 可べし  知己ちき 無きを、高陽の一酒徒。




田家春望
田園の家、春の眺め。 ・田家 田園の家。 ・春望 春の眺め。春の風景。



出門何所見、春色滿平蕪。
城門を出て、郊外へ行ったが、何も見るものがない。春の気配が、草原一面に満ちているだけである。
出門 城門を出ることで、郊外へ行くの意。  ・何所見 何も見るべきものがない。 ・何所 なにも…ない。 ・所見 見るところ。見る事柄。 ・春色 春景色。春の気配。 ・平蕪 草原。平原。平野。



可歎無知己、高陽一酒徒。
嘆かわしいことは、私を理解してくれる者がいないことだ。 (天下に志があっても用いられることがなく、天下の壮士が酒に日を送っている、そのようなわたしは)高陽の一酒徒となって悶々としている。
可歎 なげかわしいことである。 ・知己 〔ちき〕知人。友人。自分の気持ちや考えをよく知っている人。自分をよく理解してくれる人。  ・高陽酒徒 飲み友達。酒飲み、の意。 太公望のことを意味する。そのいみでは、高陽は地名。いまの河南省杞県の西。陳留県に属した。酒徒は酒のみ。高陽の呑み助とは、漢の酈食其(れきいき)のことで、陳留県高陽郷の人である。読書を好んだ。

(酈生の生は、読書人に対する呼び方。)家が貧しくて、おちぶれ、仕事がなくて衣食に困った。県中の人がみな、かれを狂生と呼んだ。沛公(のちの漢の高祖)が軍をひきいて陳留の郊外を攻略したとき、沛公の旗本の騎士で、たまたま酈生と同じ村の青年がいた。その青年に会って酈生は言った。「おまえが沛公にお目通りしたらこのように申しあげろ。臣の村に、酈生という者がおります。年は六十あまり、身のたけ八尺、人びとはみな彼を狂生と呼んでいますが、彼みずからは、わたしは狂生ではないと、申しております、と。」騎士は酈生におしえられたとおりに言った。

沛公は高陽の宿舎まで来て、使を出して酈生を招いた。酈生が来て、入って謁見すると、沛公はちょうど、床几に足を投げ出して坐り、二人の女に足を洗わせていたが、そのままで酈生と面会した。酈生は部屋に入り、両手を組み合わせて会釈しただけで、ひざまずく拝礼はしなかった。そして言った。「足下は秦を助けて諸侯を攻めようとされるのか。それとも、諸侯をひきいて秦を破ろうとされるのか。」沛公は罵って言った。「小僧め。そもそも天下の者がみな、秦のために長い間くるしめられた。

だから諸侯が連合して秦を攻めている。それにどうして、秦を助けて諸侯を攻めるなどと申すのか。」酈生は言った。「徒党をあつめ、義兵をあわせて、必ず無道の秦を課しょうとされるなら、足を投げ出したまま年長者に面会するのはよろしくありません。」沛公は足を洗うのをやめ、起ち上って着物をつくろい、酈生を上座にまねいて、あやまった。酈生はそこでむかし戦国時代に、列国が南北または東西に結んで、強国に対抗したり同盟したりした、いわゆる六国の合縦連衡の話をした。

沛公は喜び鄭生に食をたまい、「では、どうした計略をたてるのか」ときいた。酈生は、強い秦をうちやぶるには、まず、天下の要害であり、交通の要処である保留を攻略すべきであると進言し、先導してそこを降伏させた。沛公は、酈生に広野君という号を与えた。酈生は遊説の士となり、馳せまわって諸侯の国に使した。漢の三年に、漢王(沛公)は酈生をつかわして斉王の田広に説かせ、酈生は、車の横木にもたれて安坐しながら、斉の七十余城を降服させた。酈生がはじめて沛公に謁見した時のことは、次のようにも伝わっている。酈生が会いに来たとき、沛公はちょうど足を洗っていたが、取次にきた門番に「どんな男か」とたずねた。「一見したところ、儒者のような身なりをしております」と門番がこたえた。

沛公は言った。「おれはいま天下を相手に仕事をしているのだ。儒者などに会う暇はない。」門番が出ていって、その旨をつたえると、酈生は目をいからし、剣の柄に手をかけ、門番をどなりつけた。「おれは高陽の酒徒だ。儒者などではない。」門番は腰をぬかして沛公に報告した。「客は天下の壮士です。」かくして酈生は沛公に謁見することができた。

『梁甫吟』 李白
「君不見 高陽酒徒起草中。 長揖山東隆准公。」と見える。




塞上聞吹笛
雪淨胡天牧馬還,月明羌笛戍樓閒。
雪が清らかなえびすの地で、牧馬からもどってくる、月は明らかで、西方異民族(チベツト系)の吹く笛の音が、物見櫓の間から聞こえてきた。
借問梅花何處落,風吹一夜滿關山。

少しお訊ねしますこの「梅花」の笛の音はどこから聞こえてくるのだろうか、風が吹いてきて、一晩中、この関所となる山に満ちてしまった。


雪が清らかなえびすの地で、牧馬からもどってくる、月は明らかで、西方異民族(チベツト系)の吹く笛の音が、物見櫓の間から聞こえてきた。
少しお訊ねしますこの「梅花」の笛の音はどこから聞こえてくるのだろうか、風が吹いてきて、一晩中、この関所となる山に満ちてしまった。





塞上にて 吹笛を聞く  
雪 淨(きよ)く 胡天( こ てん)  牧馬(ぼくば)  還(かへ)れば,
月 明るく 羌笛(きゃうてき)  戍樓(じゅろう)に閒(あひだ)す。
借問(しゃもん)す 梅花  何(いづ)れの處よりか 落つる,
風 吹きて 一夜(いち や )  關山(くゎんざん)に 滿つ。



塞上聞吹笛
国境附近で笛を吹いているのを耳にした


雪淨胡天牧馬還、月明羌笛戍樓閒。
雪が清らかなえびすの地で、牧馬からもどってくると。(晴天で満月に近い時なので)月は明らかで、西方異民族(チベツト系)の吹く笛の音が、物見櫓の間から聞こえてきた。
 *この句は「雪淨く 胡天 馬を牧して還れば」とも読めるが、この聯「雪淨胡天牧馬還,月明羌笛戍樓閒。」は対句であり、でき得る限り、読み下しもそのようにしたい。 ・:きよらかである。 ・胡天:(西方の)えびすの地の空。(西方の)えびすの地。 ・牧馬:(漢民族側の官牧が飼養している馬。或いは、異民族が飼い養っている馬。 ・:(出かけていったものが)もどる。(出かけていったものが)かえる。 ・羌笛:青海地方にいた西方異民族(チベツト系)の吹く笛。 ・:あいだをおく。物があってへだてる。間。



借問梅花何處落、風吹一夜滿關山。
少しお訊ねしますこの「梅花」の笛の音はどこから聞こえてくるのだろうか。風が吹いてきて、一晩中、この関所となる山に満ちてしまった。
 ・借問:〔しゃもん、しゃくもん〕訊ねる。試みに問う。ちょっと質問する。かりに訊ねる。 ・梅花:「春を告げる梅の花」という意味と笛曲の名を兼ねている。 ・何處:どこ。いずこ。 ・:散る。落ちる。 ・關山:関所となるべき要害の山。また、ふるさとの四方をとりまく山。故郷。

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高適の詩 除夜作  塞上聞吹笛  田家春望 (1)

高適の詩 除夜作  塞上聞吹笛  田家春望 (1)
219 高適 こうせき 702頃~765
渤海(ぼっかい)(山東省)の人。字(あざな)は達夫(たっぷ)。辺境の風物を歌った詩にすぐれた作が多い。こうてき。
辺塞の離情を多くよむ。50歳で初めて詩に志し、たちまち大詩人の名声を得て、1篇を吟ずるごとに好事家の伝えるところとなった。吐蕃との戦いに従事したので辺塞詩も多い。詩風は「高古豪壮」とされる。李林甫に忌まれて蜀に左遷されて?州を通ったときに李白・杜甫と会い、悲歌慷慨したことがある。しかし、その李林甫に捧げた詩も残されており、「好んで天下の治乱を談ずれども、事において切ならず」と評された。『高常侍集』8巻がある。
 高適 除夜作  塞上聞吹笛  田家春望 



 旅の空、一人迎える大みそかの夜。
 詩人を孤独が襲います。


除夜作 

旅館寒燈獨不眠,客心何事轉悽然。
寒々とした旅館のともしびのもと、一人過ごす眠れぬ除夜をすごす。ああ、本当にさみしい。
旅の寂しさは愈々増すばかり・・・・・・・・・・。

故鄕今夜思千里,霜鬢明朝又一年。

今夜は大晦日。
故郷の家族は、遠く旅に出ている私のことを思ってくれているだろう。
夜が明けると白髪頭の置いたこの身に、また一つ歳を重ねるのか・・・・。


寒々とした旅館のともしびのもと、一人過ごす眠れぬ除夜をすごす。ああ、本当にさみしい。
旅の寂しさは愈々増すばかり・・・・・・・・・・。
今夜は大晦日。
故郷の家族は、遠く旅に出ている私のことを思ってくれているだろう。
夜が明けると白髪頭の置いたこの身に、また一つ歳を重ねるのか・・・・。



 作者 高適は河南省開封市に祀られています。三賢祠と呼ばれるその杜は李白、杜甫、高適の三詩人が共に旅をした場所である。記念して建立されている。
 詩人高適は50歳で初めて詩に志し、たちまち大詩人の名声を得て、1篇を吟ずるごとに好事家の伝えるところとなった。吐蕃との戦いに従事したので辺塞詩も多く残されている。詩風は「高古豪壮」とされる。李林甫に忌まれて蜀に左遷されて?州を通ったときに李白・杜甫と会い、詩の味わいが高まった。
李林甫に捧げた詩も残されており、「好んで天下の治乱を談ずれども、事において切ならず」と評された。『高常侍集』8巻がある。

 
霜鬢明朝又一年
 ああ、大晦日の夜が過ぎると、また一つ年を取ってしまう。年々頭の白髪も増えていく、白髪の数と同じだけ愁いが増えてゆくのか
 当時、「数え」で歳をけいさんしますから、新年を迎えると年を取ります。

旅館寒燈獨不眠,客心何事轉悽然。
故鄕今夜思千里,霜鬢明朝又一年。


 旅先で一人過ごす大晦日、故郷にいれば家族そろって団欒し、みんなで酒を酌み交わしていたことでしょう。

:故鄕 今夜  千里を 思う
自分が千里離れた故郷を偲ぶのではなく、故郷の家族が自分を思ってくれるだろうという中国人の発想の仕方です。中華思想と同じ発想法で、多くの詩人の詩に表れています。
 しかしそれが作者の孤独感を一層引き立て、望郷の念を掻き立てるのです。


賀知章の詩(2)

回鄕偶書 其二
帰郷したおり、たまたまできたもの。その2
離別家鄕歳月多,近來人事半消磨。
故郷を離れてから歳月は多く(経った)、近頃は、俗世界の人間関係に、半ばうんざりしてきて消耗している。
唯有門前鏡湖水,春風不改舊時波。

ただ、(郷里の家の)門前の鏡湖の水(面)だけは、春風に、昔と変わることなく波を立てている。


帰郷したおり、たまたまできたもの。その2
故郷を離れてから歳月は多く(経った)、近頃は、俗世界の人間関係に、半ばうんざりしてきて消耗している。
ただ、(郷里の家の)門前の鏡湖の水(面)だけは、春風に、昔と変わることなく波を立てている。




其の二
家鄕を離別して歳月多く,近來人事に半ば消磨す。
唯だ門前に鏡湖の水有りて,春風改めず舊時の波を。



離別家郷歳月多、近來人事半消磨。
故郷を離れてから歳月は多く(経った)。近頃は、俗世界の人間関係に、半ばうんざりしてきて消耗している。  
離別:人と別れる。別離する。 ・家郷:故郷。郷里。 ・歳月:年月。

・近:近頃。このごろ。・人事:俗事。人の世の出来事。人間社会の事件。(自然界のことがらに対して)人間に関することがら。 ・:なかば。 ・消磨:〔しょうま〕磨(す)り減ること。磨(す)れてなくなること。磨滅



唯有門前鏡湖水、春風不改舊時波。
ただ、(郷里の家の)門前の鏡湖の水(面)だけは。春風に、昔と変わることなく波を立てている。 
 ・唯有:ただ…だけがある。 ・門前:門の前。門の向かい側。・春風:春の風の意。ここでは、前出「人事」に対して、「鏡湖水」とともに、不変の大自然の営みの意で使われている。 ・不改:改まることがない。変わらない。 ・舊時:昔の時。 ・:小波。ここでは、鏡湖の波のことになる。

 賀知章は玄宗皇帝から鏡湖を賜わった。長く宮仕えをしたご褒美である。


鏡湖

浙江省紹興県の南。鑑湖、長湖、太湖、慶湖ともいう。開元中に秘書監賀知章に鏡湖溪一曲を賜う。賀監湖。宋代に田地となる。

 安徽省の撫湖市には有名な鏡湖があるが、別のもの。


気候

 気候は四季がはっきりとしていて、日照が長くて、亜熱帯季節風気候に属する。昔から「魚米の里、絹織物の国、観光の名地、礼儀の邦」といわれている。年平均気温が15.3-17.9℃で、霜が降らない期間に270日230―に達して、年平均降水量が1000―1900ミリである。水資源は充足していて、地表水年間総量が900億あまり立方メートルである。


浙江省 立地
浙江省は南東部沿海地域、長江デルタ以南に位置し、北緯の27○12′~31○31′と東経の118○00′~123○00′間に介在しておる。東は東海に瀕して、南に福建、西に江西、安徽両省、北に中国で最も大きい都市の上海および江蘇と隣接する。

 山は雁蕩山、雪竇山、天目山、天台山、仙都山などの名山があり、湖は杭州西湖、紹興東湖、嘉興南湖、寧波東銭湖、海鹽南北湖などの有名な湖、それに、中国の最も大きい人工湖の―杭州千島湖があり、川は銭塘江、欧江、楠渓江などの有名な川がある。京杭大運河は浙江北部を通り越して、杭州で銭塘江に流れる。


杭州の対岸にある(蕭山市)紹興市と、その東南東の四明山の間の地にあるのが妥当。
 故郷を離れて、長い年月がたつので世の中のことも変わってしまうし、故郷も変わっているのか。いや、町の門の前の鏡湖の水だけは、春風に吹かれて昔のままだ。
長く故郷を離れた賀知章を鏡湖だけは昔と変わらぬ姿で迎えてくれました。

 郷愁が、安らぐ落ち着いた景色が賀知章をつつみます。都てやり残したものがない素敵な人生を送ったものだけが感じる故郷での時間だった。

賀知章は間もなく85歳で亡くなります。懸命に生き抜いた一生でした。


 其の一
   離別家鄕歳月多,近來人事半消磨。
   唯有門前鏡湖水,春風不改舊時波。

   少小家を離れ老大にして回かえる、鄕音きょうおん改まる無く鬢毛摧すたる
   兒じ童相い見て相い識しらず,笑ひて問う「客 何いづれの處ところ從より來(きた)る」と?


 其の二

   離別家鄕歳月多,近來人事半消磨。
   唯有門前鏡湖水,春風不改舊時波。

   家鄕を離別して歳月多く,近來人事に半ば消磨す。
   唯だ門前に鏡湖の水有りて,春風改めず舊時の波を。



賀知章の詩
題:袁氏別業 
主人不相識、偶坐爲林泉。
莫謾愁沽酒、嚢中自有錢。

袁氏の別荘の詩を作る。
別荘の主人とは顔見知りではないが、(こうして)向かい合って坐っている(次第となったのは、)庭園の植え込みや池のせいである。
あなどりなさるな、酒を買って(もてなすことを)思い悩むのは、財布の中に、自分でお金を持っている。



袁氏の別業に題す       
主人  相(あ)ひ識(し)らず,偶坐(ぐうざ)  林泉(りんせん)の爲(ため)なり。
謾(まん)に 酒(さけ)を 沽(か)ふを 愁ふること 莫かれ,?中(のうちゅう) 自ら錢(せん) 有り。

賀知章の詩  (1) 

賀知章の詩  (1) 
賀知章 がしちょう 盛唐の詩人。
生れ:659年(顯慶四年)
没年:744年(天寶三年)
字名:季真。
出身:浙江の四明山に取った四明狂客と号する。越州永興(現・浙江省蕭山県)の人。
・則天武后の代に進士に及第して、国子監、秘書監などになった。
王維、日本の遣唐使、阿倍仲麻呂らとも仕事をしている。


回鄕偶書 二首
 書家。詩人として有名であるが、狂草で有名な張旭と交わり、草書も得意としていた。酒を好み、酒席で感興の趣くままに詩文を作り、紙のあるに任せて大書したことから、杜甫の詩『飲中八仙歌』では八仙の筆頭に挙げられている。

飲中八仙歌 杜甫28「飲中八仙歌」杜甫 先頭の聯に

   知章騎馬似乘船,眼花落井水底眠。

  賀知章が酔うと馬にのってはいるが船にのっているようにゆらゆらして
  いる。或るときは酔うて目先きがちらついて、誤って井の中に落ちこん
  で水底に眠ったりする。


 李白とも交友があった。743年玄宗皇帝に李白を紹介して、仕官させている。(もっとも賀知章だけの推薦ではなかったが)
744年正月、辞職し、なつかしい故郷、中国酒で有名な紹興(浙江省)に帰ります。賀知章80歳になってからことです。
この作品は、帰郷後に書かれた賀知章の性格を表した心温まる作品です。この二首は一対のものだ。



回鄕偶書 其の一
少小離家老大回、鄕音無改鬢毛摧。
わかいときにふるさとを離れて、歳をとってから帰ってきた。句中の対になっている。 故郷のなまりは改まることなく、そのままだが、鬢の毛は(変化があり)少なくなった。 
兒童相見不相識、笑問客從何處來?

こどもは出会っても、顔見知りでないので。 笑いながら「お客さんは、どこからやってきたのですか」と問いかけてきた。

わかいときにふるさとを離れて、歳をとってから帰ってきた。句中の対になっている。 故郷のなまりは改まることなく、そのままだが、鬢の毛は(変化があり)少なくなった。 
こどもは出会っても、顔見知りでないので。 笑いながら「お客さんは、どこからやってきたのですか」と問いかけてきた。


回鄕 偶書 其の一
少小家を離れ老大にして回かえる、鄕音きょうおん改まる無く鬢毛摧すたる
兒じ童相い見て相い識しらず,笑ひて問う「客 何いづれの處ところ從より來(きた)る」と?


回郷偶書
帰郷したおり、たまたまできたもの。
 ・回鄕:ふるさとへ帰る。帰郷。 ・:かえる。 ・偶書:偶成。たまたま書く。


少小離家老大回、鄕音無改鬢毛摧
わかいときにふるさとを離れて、歳をとってから帰ってきた。句中の対になっている。 故郷のなまりは改まることなく、そのままだが、鬢の毛は(変化があり)少なくなった。 
少小:わかいとき。 ・:わかい。 ・小:ちいさい。 ・離家:ふるさとを離れる。 ・:家郷、故郷。 ・老大:歳をとってから。少小の逆。 ・:歳がいく。大:おおきくなって。 ・:帰る。。

鄕音:故郷のなまり。 ・:なまり。発音。 ・無改:改まることがない。変化がない。そのまま。「改」の否定形は「不改」だが、「改めない、改めようとしない」といった意志の否定になる。ここでの「無改」は「改まるところがない、改まらない、変わることがない」といった意味になる。 ・鬢毛:鬢の毛。頭の両脇の部分の髪。 ・摧:だんだんと疎らになる。少しずつ減ってゆく。「摧」を「衰」とするのもある。、髪の毛や落ち葉等が一本又一本と少しずつ減っていくことを意味する。

兒童相見不相識、笑問客從何處來。
こどもは出会っても、顔見知りでないので。 笑いながら「お客さんは、どこからやってきたのですか」と問いかけてきた。
兒童:こども。わらべ。作者よりずっと年下の子ども。 ・相見:会う。見てきて。眺めてきて。 ・相:動作が対象に及ぶ様子を表現する。 ・不相識:顔見知りでない。知らない。

 ・笑問:笑いながら問いかけて。 ・:旅の人。よそから来た人をいう。 ・:…より。 ・何處:どこ。いづこ。いづれのところ。


 作者賀知章は今も故郷浙江省紹興市「賀秘監詞」に祀られている。唐の初唐の終わりから盛唐の中ごろまで朝廷の要職を歴任した。

 賀知章は80歳を過ぎて引退した。懐かしい故郷だが、なにしろ50年ぶり、村の子供たちはだれかわからないので、「お客さん」と呼んだ。
 『ああ、すっかりよそ者になってしまったのだなあ』としみじみ詠う。

古風五十九首 其十九 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白153

古風五十九首 其十九 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白153

古風五十九首 其一 李白150

古風五十九首 其三 李白106
古風五十九首 其五 李白107
古風五十九首 其六 李白120

古風五十九首 其七 李白108
古風五十九首 其八 李白117
古風五十九首 第九 李白109
古風五十九首 其十  李白126

古風五十九首 其十一 李白 140
古風五十九首 其十二 李白 141
古風五十九首 其十四 李白151
古風五十九首 其十五 李白152

古風五十九首 第十八 李白110
古風五十九首 其十九李白153
古風五十九首 其二十三 李白113 



古風五十九首 其十九
西岳蓮花山。 迢迢見明星。
西嶽の蓮花山にのぼってゆくと、はるかかなたに明星の仙女や西玉母が見える。
素手把芙蓉。 虛步躡太清。
まっしろな手に蓮の花をもち、足をおよがすようにうごかしで大空をあるいた。
霓裳曳廣帶。 飄拂升天行。
虹の裾と長い広帯をほうき星のような筋をつけて、風をきって昇天してゆく。
邀我登云台。 高揖衛叔卿。
わたしをまねいてくれ雲台の上につれて行ってくれ、そこで衛叔卿にあいさつさせた。
恍恍與之去。 駕鴻凌紫冥。
夢見心地で仙人とともに、鴻にまたがり、はてしない大空の上へとんでいったのだ。
俯視洛陽川。 茫茫走胡兵。
洛陽のあたりや黄河のあたり、地上を見おろすと、みわたすかぎり胡兵が走りまわっている。
流血涂野草。 豺狼盡冠纓。
流された血は野の草にまみれている。山犬や狼の輩がみな冠をかむっているのだ。


西嶽の蓮花山にのぼってゆくと、はるかかなたに明星の仙女や西玉母が見える。
まっしろな手に蓮の花をもち、足をおよがすようにうごかしで大空をあるいた。
虹の裾と長い広帯をほうき星のような筋をつけて、風をきって昇天してゆく。
わたしをまねいてくれ雲台の上につれて行ってくれ、そこで衛叔卿にあいさつさせた。
夢見心地で仙人とともに、鴻にまたがり、はてしない大空の上へとんでいったのだ。
洛陽のあたりや黄河のあたり、地上を見おろすと、みわたすかぎり胡兵が走りまわっている。
流された血は野の草にまみれている。山犬や狼の輩がみな冠をかむっているのだ。


古風 其の十九
西のかた蓮花山に上れば、迢迢として 明星を見る。
素手 芙蓉を把り、虚歩して 太晴を躡む。
霓裳 広帯を曳き、諷払 天に昇り行く。
我を邀えて雲台に登り、高く揖す 衛叔卿。
恍恍として 之と与に去り、鴻に駕して紫冥を凌ぐ
俯して洛陽川を視れば、茫茫として胡兵走る。
流血 野草に涂まみれ。 豺狼盡々冠纓。



西岳蓮花山。 迢迢見明星。
西嶽の蓮花山にのぼってゆくと、はるかかなたに明星の仙女や西玉母が見える。
○蓮花山 華山の最高峰。華山は西嶽ともいい、嵩山(中嶽・河南)、泰山(東嶽・山東)、衡山(南嶽・湖南)、恒山(北嶽・山西)とともに五嶽の一つにかぞえられ、中国大陸の西方をつかさどる山の神とされている。陝西省と山西省の境、黄河の曲り角にある。蓮花山の頂には池があり、千枚の花びらのある蓮の花を生じ、それをのむと羽がはえて自由に空をとぶ仙人になれるという。
 ○迢迢 はるかなさま。李白「長相思」につかう。○明星 もと華山にすんでいた明星の玉女という女の仙人。



素手把芙蓉。 虛步躡太清。
まっしろな手に蓮の花をもち、足をおよがすようにうごかしで大空をあるいた。
○素手 しろい手。○芙蓉 蓮の異名。○虚歩 空中歩行。○太清 大空。



霓裳曳廣帶。 飄拂升天行。
虹の裾と長い広帯をほうき星のような筋をつけて、風をきって昇天してゆく。
○霓裳 虹の裾。○諷払 ひらりひらり。裳と長い広帯をほうき星のような筋をつけて、風を切って飛行する形容。



邀我登云台。 高揖衛叔卿。
わたしをまねいてくれ雲台の上につれて行ってくれ、そこで衛叔卿にあいさつさせた。
○雲台 崋山の東北にそびえる峰。○高揖 手を高くあげる敬礼。○衛叔卿 中叫という所の人で、雲母をのんで仙人になった。漢の武帝は仙道を好んだ。武帝が殿上に閑居していると、突然、一人の男が雲の車にのり、白い鹿にその車をひかせて天からおりて来た。仙道を好む武帝に厚遇されると思い来たのだった。童子のような顔色で、羽の衣をき、星の冠をかむっていた。武帝は誰かとたずねると、「わたしは中山の衛叔卿だ。」と答えた。皇帝は「中山の人ならば、朕の臣じゃ。近う寄れ、苦しゅうないぞ。」邸重な礼で迎えられると期待していた衛叔卿は失望し、黙然としてこたえず、たちまち所在をくらましてしまったという。



恍恍與之去。 駕鴻凌紫冥。
夢見心地で仙人とともに、鴻にまたがり、はてしない大空の上へとんでいったのだ。
○恍恍 うっとり、夢見心地。○鴻 雁の一種。大きな鳥。○繋冥 天。



俯視洛陽川。 茫茫走胡兵。
洛陽のあたりや黄河のあたり、地上を見おろすと、みわたすかぎり胡兵が走りまわっている。
○俯視 見下ろす。高いところから下を見下ろす。○洛陽川 河南省の洛陽のあたりの平地。川は、河川以外にその平地をさすことがある。○茫茫 ひろびろと広大なさま。○胡兵 えびすの兵。安禄山の反乱軍。玄宗の天宝十四戟(七五五年)十一月、叛旗をひるがえした安禄山の大軍は、いまの北京から出発して長安に向い、破竹の勢いで各地を席捲し、同年十二月には、はやくも東都洛陽を陥落した。



流血涂野草。 豺狼盡冠纓。
流された血は野の草にまみれている。山犬や狼の輩がみな冠をかむっているのだ。
○豺狼 山犬と狼。○冠浬 かんむりのひも。

杜甫 6 兗州城楼

杜甫 6 兗州城楼
開元25年 737年 26歳

五言律詩。河南・山東に放浪生活を送っていたころ、兗州都督府司馬の官にあった父の杜閑を訪れた折の詩。

chinatohosantomap
登兗州城楼
東郡趨庭日、南楼縦目初。
浮雲連海岱、平野入青徐。
孤嶂秦碑在、荒城魯殿余。
従来多古意、臨眺独躊厨。

東郡ここ兗州の地で父の教えを奉じている日にあって、州城の南楼で眺めをほしいままにしたその初めのときだ空に浮かぶ雲は海や泰山のかなたにまでつらなり、平野は青州や徐州の方まで入りこんでいた。
ひとりそばだつ屏風山には秦の始皇帝の石碑が今なお残っており、荒れはてた町には魯王の宮殿がそのあとをとどめているのだ。
これまで古をなつかしむ気持ちの多かったわたしは、城楼に登り立って四方を眺めながらただひとりたち去りかねているのだ。

(下し文)兗州の城楼に登る
東郡  庭に趨(は)する日、南楼  目を縦(ほしい)ままにする初め
浮雲は 海岱に連なり、平野は 青徐に入る
孤峰には秦碑在り、荒城には魯殿余る
従来 古意多し、臨眺して独り躊厨す


東郡趨庭日、南楼縦目初。
東郡ここ兗州の地で父の教えを奉じている日にあって、州城の南楼で眺めをほしいままにしたその初めのときだ。
東郡 秦のときの郡名で、兗州はその郡に属していた。○趨庭 庭さきを走りまわる。 『論語』季氏篇に、孔子の子の鯉が「庭を趨って」過ぎたとき、父の孔子が呼びとめて「詩」と「礼」とつまり、詩経と書経を学ぶようにさとしたとあるのにもとづき、子供が父の教えを受けることをいう。この『論語』のことばを使用するのは、兗州のすぐ東に孔子の故郷である曲阜があることによる。この後、望嶽を作るも孔子にあやかる。○南楼 兗州楼の南門の楼。○縦目 ほしいままに見渡す。

浮雲連海岱、平野入青徐。
空に浮かぶ雲は海や泰山のかなたにまでつらなり、平野は青州や徐州の方まで入りこんでいた。
○海岱 東の海と東北にそびえる泰山のこと。○青徐 青州と徐州。ともに太古の九州の一つで、青州は兗州の北、徐州は兗州の南にひろがる地域をいう。『書経』萬貢篇に「海岱は唯れ青州」とある。

孤嶂秦碑在、荒城魯殿余。
ひとりそばだつ屏風山には秦の始皇帝の石碑が今なお残っており、荒れはてた町には魯王の宮殿がそのあとをとどめている。
孤嶂 兗州の東南数十キロにある嘩山をいう。○秦碑 紀元前三世紀のころ、秦の始皇帝が巡幸の記念として建てた石碑。○荒城 ?州のすぐ東にある曲阜をさす。○魯殿 紀元前二世紀、漢の景帝の息子、魯の共王が建てた霊光殿をいう。

従来多古意、臨眺独躊厨。
これまで古をなつかしむ気持ちの多かったわたしは、城楼に登り立って四方を眺めながらただひとりたち去りかねているのだ。
臨眺 高い所に登って遠くをながめる。○躊厨 躊躇。行くことをためらう。

○韻字 初・徐・余・厨。

杜甫は『登兗州城楼』と題した詩を書き兗州城の南楼からの眺めをうたっている。当時の兗州城は戦乱で荒廃し現存しないが、南楼の跡の崩れたレンガが積み重なってできた丘は少陵台と呼ばれ今も兗州の県城内の北寄りに位置する。

兗州市は、昔から「東文、西武、北岱、南湖」と呼ばれてきた
(東に孔子ゆかりの「三孔」を仰ぎ,西に水滸伝ゆかりの「梁山泊」があり、北には「泰山」がそびえ、南には「微山湖」を望むため)
また、「杜甫」ゆかりの地である少陵台もこの市にる。
少陵台

少陵台は杜甫ゆかりの地である。この詩の5・6年後杜甫は李白と兗州で会い、終生の友誼を交わした。

李白43 杜陵絶句

李白43 杜陵絶句

五言絶句 杜陵絶句

  南登杜陵上、 北望五陵間。
  秋水明落日、 流光滅遠山。

 

南のかた杜陵の上に登り、北のかた五陵の間を望む

秋水 落日明らかに、流光 遠山滅す


長安城の南杜陵の上に登り、そこから北のかた五陵の間を望む、川の流れに落日が反映し、流れ行くその光は遠い山々の間に消えていく

choan9ryo赤枠は長安の城郭
この墓陵群は中国のピラミットといわれている。


杜陵とは前漢の宣帝の陵墓で長安の(城郭の右下)東南にある。小高い丘の上にあり、見晴らしが良いところだ。五陵は長安の北東から北西にかけて、渭水の横門橋わたって東から陽陵(景帝)、長陵(高祖)、安陵(恵帝)、平陵(昭帝)、茂陵(武帝)と咸陽原にある。杜陵からの距離は、30km~50km。
○韻 間、山。

五陵原という皇帝の陵墓区で、西から茂陵、平陵、昭陵、延陵、渭陵義陵、安陵、長陵、陽陵の9つが並んでいる。このうち長陵は高祖・劉邦の陵、茂陵は武帝の陵。ほとんどの皇帝陵に皇后陵が併設されており、有名な呂后の様に皇后の地位が高かったことの現れと言われてる。皇帝が西、皇后が東。延陵の場合、右上(東北)にやや規模の小さな皇后陵が見える。また東端にある陽陵は周囲が発掘されて兵馬俑が出土、博物館として公開されている。


  南登杜陵上、 北望五陵間。
  秋水明落日、 流光滅遠山。

南のかた杜陵の上に登り、北のかた五陵の間を望む

秋水 落日明らかに、流光 遠山滅す

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望天門山  李白 6

望天門山 李白 6

 江陵を発った李白と呉指南は、長江を下って岳州(湖南省岳陽市)に着く。岳州の州治は岳陽にあり、南に洞庭湖が広がっている。唐代の洞庭湖は現在の六倍もの広さがあったので、まるで海だ。二人は夏のあいだ湖岸の各地を舟でめぐり歩く。洞庭湖に南から流れこむ湘水を遡って、上流の瀟湘(しょうしょう)の地へも行った。

望天門山          

天門中断楚江開、碧水東流至北回。
天門山を割って楚江はひらけ、紺碧の水は東へ流れ  北へ向かって曲がる
両岸青山相対出、孤帆一片日返来。

両岸の山が   相対してそば立つなか、帆舟がぽつり  かなたの天から進んできた


天門山を割って楚江はひらけ
紺碧の水は東へ流れ  北へ向かって曲がる
両岸の山が   相対してそば立つなか
帆舟がぽつり  かなたの天から進んできた


 夏の終わりに、呉指南が湖上で急死。李白は旅の友を失い悲しみに打ちひしがれる。友の遺体を湖畔に埋葬して旅を続ける。岳陽を出て長江を下ると、やがて鄂州(湖北省武漢市武昌区)に着く。鄂州の江夏県城は大きな街だ。ここで暫く体を休めたあと、江州(江西省九江市)へ向かった。江州の州治は尋陽(じんよう)で、南に名勝廬山(ろざん)がある。
 長江は江州から東北へ流れを転じて、やがて江淮(こうわい)の大平原へと流れ出てゆく。天門山を過ぎるところから長江は真北へ流れ、やがてゆるやかに東へ移ってゆく。北へ向きを変えた長江の東岸に博望山、西側に梁山が向かい合い、山の緑が印象的であった。それを割るようにして長江は楚地から呉地へと流れてゆく。
 この詩を詠った時の李白は、帆舟が一艘、天の彼方から進むように、水平線のあたりからこちらに向かって近づいてくる。李白はそれを自分の舟の上で見ながら詠っている。


韻は、開、回、来。

望天門山
天門中断楚江開、碧水東流至北回。
両岸青山相対出、孤帆一片日返来。


(下し文)天門山を望む
天門(てんもん)  中断して楚江(そこう)開き
碧水(へきすい)  東流して北に至りて回(めぐ)る
両岸の青山(せいざん)  相対して出で
孤帆(こはん)  一片  日返(にっぺん)より来(きた)る

渡荊門送別 李白 5

渡荊門送別 李白 5

 湖北地方に出た李白らが、足をとどめたのは江陵(湖北省沙市市)だ。江陵は荊州(けいしゅう)の州治のある県で、唐代には中隔城壁が設けられ、南北両城に区分された大城である。大都督府の使府も置かれ、軍事的にも重要な都市であった。李白と呉指南は江陵で冬を越し、地元の知識人と交流して翌年の春までを過ごす。


李白 5 
渡荊門送別       

荊門を渡って送別す
渡遠荊門外、来従楚国遊。
遠く荊門に外までやってきた、はるばると楚の国へ旅をする
山随平野尽、江入大荒流。
平野が広がるにつれ  山は消え去り、広大な天地の間へと  江は流れてゆく
月下飛天鏡、雲生結海楼。
月が傾けば  天空の鏡が飛ぶかとみえ、雲が湧くと   蜃気楼が出現したようだ
仍憐故郷水、万里送行舟。

だがしかし   しみじみと心に沁みる舟の旅、故郷の水が  万里のかなたへ送るのだ



荊門を渡って送別す
遠く荊門に外までやってきた、はるばると楚の国へ旅をする
平野が広がるにつれ  山は消え去り、広大な天地の間へと  江は流れてゆく
月が傾けば  天空の鏡が飛ぶかとみえ、雲が湧くと   蜃気楼が出現したようだ
だがしかし   しみじみと心に沁みる舟の旅、故郷の水が  万里のかなたへ送るのだ


 李白は江陵で当時の道教教団、最高指導者の司馬承禎(しばしょうてい)と会っている。司馬承禎は玄宗皇帝から幾度も宮中に召され、法籙(ほうろく・道教の免許)を授けるほどに信頼された人物だ。司馬承禎は南岳衡山(こうざん)での祭儀に参加するため湖南に行く途中で、江陵にさしかかったのだった。すでに高齢に達していた司馬承禎に李白は詩を呈し、道教について教えを乞うた。司馬承禎が李白を「仙風道骨あり、神とともに八極の表に遊ぶべし」と褒めた。
725年 開元十三年の春三月、二十五歳の李白と呉指南は江陵に別れを告げ、「楚国の遊」に旅立ちます。詩は江陵を去るに当たって知友に残した作品で、留別の詩。
 李白は眼前に広がる楚地の広大な天地に意欲をみなぎらせ、同時に「仍(な)お憐れむ 故郷の水 万里 行舟を送るを」と感傷もにじませる。


韻は、遊、流、楼、舟。

渡荊門送別       
渡遠荊門外、来従楚国遊。
山随平野尽、江入大荒流。
月下飛天鏡、雲生結海楼。
仍憐故郷水、万里送行舟。


(下し文)渡荊門送別 李白 5
渡ること遠し荊門(けいもん)の外
来りて従う  楚国(そこく)の遊(ゆう)
山は平野に随いて尽き
江(かわ)は大荒(たいこう)に入りて流る
月は下りて  天鏡(てんきょう)飛び
雲は生じて  海楼(かいろう)を結ぶ
仍お憐れむ  故郷の水
万里  行舟(こうしゅう)を送るを


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李白の詩 連載中 7/25現在 100首

2011・6・30 3000首掲載
漢文委員会 ホームページ それぞれ個性があります。
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李商隠の女詞特集ブログ連載中
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 李白の漢詩特集 連載中
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秋下荊門 李白 4

秋下荊門 李白 4
七言絶句
 李白たちの舟は、長江三峡の急流を無事に下って荊門に着くことができた。あたりははや晩秋の気配。「荊門」は山の名で、長江の南岸、宜都(湖北省枝城市)の西北にある。対岸の虎牙山と対しており、昔は楚の西の関門といった趣き。蜀の東方、湖北・湖南地方への出口ということになる。

秋下荊門
霜落荊門江樹空、布帆無恙挂秋風。
霜は荊門に降り岸辺の樹々も葉が落ちた、帆に事はなく 秋風をはらんで立っている
此行不為鱸魚鱠、自愛名山入剡中。


こんどの旅は 鱸魚のなますのためではない、名山を愛し  剡渓の奥へ分け入るのだ

霜は荊門に降り岸辺の樹々も葉が落ちた
帆に事はなく 秋風をはらんで立っている
こんどの旅は 鱸魚のなますのためではない
名山を愛し  剡渓の奥へ分け入るのだ


 李白はここで、ひとつの決意を口にしている。これからの旅は名高い寺を訪ねて勉強をし、東の果て「剡中」(浙江省嵊県)まで分け入るのだと意気込んだ。剡中は剡渓の流れる地で、六朝の時代から文人墨客の閑居・風雅の地として有名であった。そうしたところを訪ねて有名人と交わりたいのが李白のおもいであった。

韻は、空、風、中。

秋下荊門
霜落荊門江樹空、布帆無恙挂秋風。
此行不為鱸魚鱠、自愛名山入剡中。


(下し文)秋 荊門を下る
霜は荊門(けいもん)に落ちて江樹(こうじゅ)空(むな)し
布帆(ふはん) 恙(つつが)無く  秋風に挂(か)く
此の行(こう)  鱸魚(ろぎょ)の鱠(なます)の為ならず
自ら名山を愛して剡中(せんちゅう)に入る


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