孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 會吟行#3 詩集 354
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生まれつき政治家として培養され、育てられたため、期待され、その自覚も強く、自分は恵まれた身でありながら、いかに庶民のために献身するかという温かさもけっして忘れてはいない江南の山水詩人であった。
唐になると、山水詩人といわれた孟浩然(689―740)、王維(699-759)に、情熱の詩人李白(701-762)に、愛国の詩人杜甫(712-770)に愛され、消化されて、それぞれに大きな影を静かに落としている。特に孟浩然、李白は、強く霊運文学を意識し、これに大きな目標をおいていたらしいことは、注目せねばならないことだ。
謝霊運(しゃれいうん、385―433)
會吟行 謝霊運
六引緩清唱、三調佇繁音。列筵皆静寂、咸共聆會吟。」
會吟自有初、請従文明敷。敷績壺冀始、刊木至江汜。
列宿柄天文、負海横地理。』
連峯競千仭、背流各百里。滮池漑粳稲、軽雲曖松杞。
兩京愧佳麗、三都豈能似。層臺指中天、飛燕躍廣途、鷁首戯清沚。』
肆呈窈窕容、路曜嬌娟子。
市場、店は嫋やかな様子を現わし、路には美しき娘たちが楽しげに歩いている。
自乗彌世代、賢達不可紀。
この地の風習、文化はおのずから世代のすみずにひろがっている、優れた人材は時空を超えているのである。
勾践善廢興、越叟識行止。
春秋の勾践は廃位してからこの地の風興を喜びよくした、越叟は旅をするのをやめこの山から釣りをして多くの食材をここの民に与え認識された。
范蟸出江湖、栴福入城市。
春秋の范蟸は江川、湖から出て越王に仕えた。栴福は会稽の城郭に入り、市場を繁栄させた。
東方就旅逸、梁鴻去桑梓。
前漢の東方朔は朝隠の中で会稽によく旅行に来ていた、後漢の梁鴻は隠遁して桑や梓の農耕作業をするために行った。
牽綴書士風、辭殫意未己。』
こうしたこの地の士太夫の風紀は書物に書きつづられてきた、官を辞することはもう出し尽くしたが私のこの地で過ごしたいという決意というのはやむことはない。
六引は清らかなる唱【うた】を緩【ゆる】くし、三調は繁なる音を佇【とど】む
筵に列する皆な静寂にして、咸【あまね】し 共に会の吟を聆【き】け。
会の吟には自から初めに有り、請う文明 従り敷【の】べん。」
績を敷くくこと壺【こ】冀【き】より始まれり、木を刊【か】りて江氾【こうし】に至れり。
列宿は天文 を柄【あき】らかにし、海を負うて地理横【よこ】たう。』
連なれる峰は千便【せんじん】を競い、背【そむ】き流れるは各おの百里。
破【なが】れる池は梗【うるち】と稲とに漑【そそ】ぎ、軽き雲は松と杷【おうち】とに唆【くら】し。
両京も佳麗【かれい】に悦【は】ず、三都豈に能く似んや。
層【かさ】なる台は中天より指【うつく】しく、飛燕【ひえん】は広き途【みち】に躍【おど】り、鶴首【げきしゅ】は清き沚【なぎさ】に戯る。』
肆【しつ】は窃充【おだやか】な容【すがた】を呈【あら】わし、路は婚姻【なまめか】しき子を曜【かが】やかす。
自乗 世代を弥【わた】り、賢達(の人)紀【しる】す可からず。
勾践【こうせん】は廃興を善【よ】くし、越叟【えつそう】は行くと止【とど】まるを識り。
范蟸【はんれい】は江湖に出で、栴福は城市に入り。
東方は旅逸【たび】に就き、梁鴻【りょうこう】は桑梓【ふるさと】を去れり。
牽綴【つづ】って士風を害す、辞 殫【つ】くるも意 未だ己まず。』
現代語訳と訳註
(本文)
肆呈窈窕容、路曜嬌娟子。
自乗彌世代、賢達不可紀。
勾践善廢興、越叟識行止。
范蟸出江湖、栴福入城市。
東方就旅逸、梁鴻去桑梓。
牽綴書士風、辭殫意未己。』
(下し文)
肆【しつ】は窃充【おだやか】な容【すがた】を呈【あら】わし、路は婚姻【なまめか】しき子を曜【かが】やかす。
自乗 世代を弥【わた】り、賢達(の人)紀【しる】す可からず。
勾践【こうせん】は廃興を善【よ】くし、越叟【えつそう】は行くと止【とど】まるを識り。
范蟸【はんれい】は江湖に出で、栴福は城市に入り。
東方は旅逸【たび】に就き、梁鴻【りょうこう】は桑梓【ふるさと】を去れり。
牽綴【つづ】って士風を害す、辞 殫【つ】くるも意 未だ己まず。』
(現代語訳)
市場、店は嫋やかな様子を現わし、路には美しき娘たちが楽しげに歩いている。
この地の風習、文化はおのずから世代のすみずにひろがっている、優れた人材は時空を超えているのである。
春秋の勾践は廃位してからこの地の風興を喜びよくした、越叟は旅をするのをやめこの山から釣りをして多くの食材をここの民に与え認識された。
春秋の范蟸は江川、湖から出て越王に仕えた。栴福は会稽の城郭に入り、市場を繁栄させた。
前漢の東方朔は朝隠の中で会稽によく旅行に来ていた、後漢の梁鴻は隠遁して桑や梓の農耕作業をするために行った。
こうしたこの地の士太夫の風紀は書物に書きつづられてきた、官を辞することはもう出し尽くしたが私のこの地で過ごしたいという決意というのはやむことはない。
(訳注)
肆肆呈窈窕容、路曜嬌娟子。
市場、店は嫋やかな様子を現わし、路には美しき娘たちが楽しげに歩いている。
○肆 店。市。『周禮、天官、内宰』「正其肆、陳其貨賄。」(其の肆を正し、其の貨賄を陳す。)○窈窕【ようちょう】美しくしとやかなさま。上品で奥ゆかしいさま。○嬌娟 なまめかしい。うつくしい。たのしそう。
自乗彌世代、賢達不可紀。
この地の風習、文化はおのずから世代のすみずにひろがっている、優れた人材は時空を超えているのである。
○彌 あまねし。広く端まで行きわたっている。すみずみまで行きわたっているさま。○賢達 各方面に優れた人々。
勾践善廢興、越叟識行止。
春秋の勾践は廃位してからこの地の風興を喜びよくした、越叟は旅をするのをやめこの山から釣りをして多くの食材をここの民に与え認識された。
○勾践【こうせん】? - 紀元前465年は、中国春秋時代後期の越の王。范蠡の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉を滅ぼした。春秋五覇の一人に数えられることもある。句践とも表記される。○越叟『荘子』任公子にある。○任公子 子明は会稽山の山頂から沖に届くくらいの竿を作り、餌も去勢牛五十頭ほど用意し、一年かけて釣り上げた。それを村人に食べ物を配った。『荘子』任公子にある。 常時飲酒逐風景。壯心遂與功名疏。
范蟸出江湖、栴福入城市。
集住の范蟸は江川、湖から出て越王に仕えた。栴福は会稽の城郭に入り、市場を繁栄させた。
○范蟸(はんれい)春秋時代末期、越の人。呉越同舟の故事が出来た時代の人物、越王勾践に仕え、呉を滅ぼした後、すべてを投げ出し、他国に名を変えて、商売を始め、大金持ちになるという人物である。
東方就旅逸、梁鴻去桑梓。
前漢の東方朔は朝隠の中で会稽によく旅行に来ていた、後漢の梁鴻は隠遁して桑や梓の農耕作業をするために行った。
○東方 東方朔前154‐前93年。中国,前漢時代の文学者。字は曼倩。滑稽と弁舌とで武帝に侍した,御伽衆(おとぎしゆう)的な人物。うだつの上がらぬ彼を嘲笑した人々に答えて〈答客難〉を書く。彼は,自分は山林に世を避けるのではなく朝廷にあって隠遁しているのだと主張する。この〈朝隠(ちよういん)〉の思想は六朝人の関心をあつめ,例えば彼の生き方をたたえる夏侯湛〈東方朔画賛〉には王羲之の書がのこることで有名である。○梁鴻は、後漢の梁鴻は字を伯鸞といい、扶風平陵の人。勉学に励み、博学多才で立派な人格だった。そのため、多くの人が自分の娘を嫁にして欲しいと望んだが、彼は受け入れなかった。 同じ県に孟光という、醜い容貌ながら、よい品性を持った女性がいた。
牽綴書士風、辭殫意未己。
こうしたこの地の士太夫の風紀は書物に書きつづられてきた、官を辞することはもう出し尽くしたが私のこの地で過ごしたいという決意というのはやむことはない。