漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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ずいぶん回復してきました。(12/10)
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漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

五言古詩

答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<63-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩466 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1215

答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<63-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩466 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1215


謝瞻 あざな・宣遠が、謝霊連からの「霖(ながあめ)を愁ふる詩」に答えた詩である。

答靈運
夕霽風氣涼,閒房有餘清。
夕方雨がはれて清涼感のある空気が流れる、しずかなわが官舎の室には雨後の清らかさが満ちている。
開軒滅華燭,月露皓已盈。
廊下の欄干のまどを開扉してきれいな台座のともし火を消すと、もう月露のいろは白く光って月の光に満ちあふれている。
獨夜無物役,寢者亦云寧。
こうした夜に一人で過ごすわたしは俗務にわずらわされることもない、そして、横に寝ているものにとっては心安らかというものだ。
忽獲愁霖唱,懷勞奏所成。
そうしているうち、いまあなたからの「愁霖の詩」を受けとったところ、そこにはあなたが苦労をいだいたなかで、わたしに示す厚い真心を述べてある。
嘆彼行旅艱,深茲眷言情。
すなわち雨のため、旅中の難儀さをなげく気持ちがわかるとともに、わたしに対する慈しみ深い言葉を感じ親しみ思うのだ。
伊余雖寡慰,殷憂暫為輕。
わたしは平生慰め楽しむことも少ないといいながらも、あなたの詩を読んで、心の深い憂いも暫しば軽くなったものだ。
牽率酬嘉藻,長揖愧吾生。

あなたからの便りに心引かれ、みごとな詩に答える、霊運殿の妙才に対してまことに愧ずかしく思うしだいです。


(靈運に答ふ)
夕に霽【は】れて風氣【ふうき】は涼しく,閒房【かんぼう】には餘清【よせい】有り。
軒を開きて華燭【かしょく】を滅【け】せば、月霧【げつろ】は皓【こう】として已に盈つ。
獨夜には物役【ぶつえき】無く、寢【い】ぬれば 亦云【ここ】に寧【やす】し。
#2
忽ち愁霖【しゅうりん】の唱を獲たるに、勞を懐【いだ】ぎて誠なる所を奏す。
彼の行旅【こうりょ】の艱を嘆き、茲【こ】の眷言【けんげん】の情を深くす。
伊れ余【われ】慰【なぐさみ】寡【すくな】しと雖も、殷憂【いんゆう】ぱ暫く為に輕し。
牽率【けんそつ】して嘉藻【かそう】に酬い、長揖【ちょういつ】しで吾生【ごせい】に愧づ。


現代語訳と訳註
(本文)

忽獲愁霖唱,懷勞奏所成。
嘆彼行旅艱,深茲眷言情。
伊余雖寡慰,殷憂暫為輕。
牽率酬嘉藻,長揖愧吾生。


(下し文) (靈運に答ふ)#2
忽ち愁霖【しゅうりん】の唱を獲たるに、勞を懐【いだ】ぎて誠なる所を奏す。
彼の行旅【こうりょ】の艱を嘆き、茲【こ】の眷言【けんげん】の情を深くす。
伊れ余【われ】慰【なぐさみ】寡【すくな】しと雖も、殷憂【いんゆう】ぱ暫く為に輕し。
牽率【けんそつ】して嘉藻【かそう】に酬い、長揖【ちょういつ】しで吾生【ごせい】に愧づ。


(現代語訳)
そうしているうち、いまあなたからの「愁霖の詩」を受けとったところ、そこにはあなたが苦労をいだいたなかで、わたしに示す厚い真心を述べてある。
すなわち雨のため、旅中の難儀さをなげく気持ちがわかるとともに、わたしに対する慈しみ深い言葉を感じ親しみ思うのだ。
わたしは平生慰め楽しむことも少ないといいながらも、あなたの詩を読んで、心の深い憂いも暫しば軽くなったものだ。
あなたからの便りに心引かれ、みごとな詩に答える、霊運殿の妙才に対してまことに愧ずかしく思うしだいです。


(訳注)
忽獲愁霖唱,懷勞奏所成。

そうしているうち、いまあなたからの「愁霖の詩」を受けとったところ、そこにはあなたが苦労をいだいたなかで、わたしに示す厚い真心を述べてある。
 進める。○ 誠と同じ。


嘆彼行旅艱,深茲眷言情。
すなわち雨のため、旅中の難儀さをなげく気持ちがわかるとともに、わたしに対する慈しみ深い言葉を感じ親しみ思うのだ。
眷言 『詩経‧小雅‧大東』 「睠言顧之 潸焉出涕。」(睠かえりみて我ここに之れを顧み、潸焉として涕を出す。)」など、用例が多い。


伊余雖寡慰,殷憂暫為輕。
わたしは平生慰め楽しむことも少ないといいながらも、あなたの詩を読んで、心の深い憂いも暫しば軽くなったものだ。
殷憂 今、邶風、柏舟篇「殷憂」とみえる。痛ましい、深いうれい。○牽率 ひきいる。


牽率酬嘉藻,長揖愧吾生。
あなたからの便りに心引かれ、みごとな詩に答える、霊運殿の妙才に対してまことに愧ずかしく思うしだいです。
長揖 揖は胸のあたりに手をあてて、あいさつする。長とは、その手で上から下へ撫で極めること。○吾生 ここは謝霊運をさす。

答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<63-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩464 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1209

答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<63-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩464 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1209


謝瞻 あざな・宣遠が、謝霊連からの「霖(ながあめ)を愁ふる詩」に答えた詩である。



答靈運
夕霽風氣涼,閒房有餘清。
夕方雨がはれて清涼感のある空気が流れる、しずかなわが官舎の室には雨後の清らかさが満ちている。
開軒滅華燭,月露皓已盈。
廊下の欄干のまどを開扉してきれいな台座のともし火を消すと、もう月露のいろは白く光って月の光に満ちあふれている。
獨夜無物役,寢者亦云寧。
こうした夜に一人で過ごすわたしは俗務にわずらわされることもない、そして、横に寝ているものにとっては心安らかというものだ。
忽獲愁霖唱,懷勞奏所成。
嘆彼行旅艱,深茲眷言情。
伊余雖寡慰,殷憂暫為輕。
牽率酬嘉藻,長揖愧吾生。


(靈運に答ふ)
夕に霽【は】れて風氣【ふうき】は涼しく,閒房【かんぼう】には餘清【よせい】有り。
軒を開きて華燭【かしょく】を滅【け】せば、月霧【げつろ】は皓【こう】として已に盈つ。
獨夜には物役【ぶつえき】無く、寢【い】ぬれば 亦云【ここ】に寧【やす】し。

#2
忽ち愁霖【しゅうりん】の唱を獲たるに、勞を懐【いだ】ぎて誠なる所を奏す。
彼の行旅【こうりょ】の艱を嘆き、茲【こ】の眷言【けんげん】の情を深くす。
伊れ余【われ】慰【なぐさみ】寡【すくな】しと雖も、殷憂【いんゆう】ぱ暫く為に輕し。
牽率【けんそつ】して嘉藻【かそう】に酬い、長揖【ちょういつ】しで吾生【ごせい】に愧づ。


現代語訳と訳註
(本文) 答靈運

夕霽風氣涼,閒房有餘清。
開軒滅華燭,月露皓已盈。
獨夜無物役,寢者亦云寧。


(下し文) (靈運に答ふ)
夕に霽【は】れて風氣【ふうき】は涼しく,閒房【かんぼう】には餘清【よせい】有り。
軒を開きて華燭【かしょく】を滅【け】せば、月霧【げつろ】は皓【こう】として已に盈つ。
獨夜には物役【ぶつえき】無く、寢【い】ぬれば 亦云【ここ】に寧【やす】し。


(現代語訳)
夕方雨がはれて清涼感のある空気が流れる、しずかなわが官舎の室には雨後の清らかさが満ちている。
廊下の欄干のまどを開扉してきれいな台座のともし火を消すと、もう月露のいろは白く光って月の光に満ちあふれている。
こうした夜に一人で過ごすわたしは俗務にわずらわされることもない、そして、横に寝ているものにとっては心安らかというものだ。


(訳注)
答靈運

謝宣遠(387-421)(宋) 謝瞻、字は宣遠、謝朗の孫で、陳郡陽夏(河南省太康付近)の人。幼いとき孤となり、叔母の劉氏に撫養せられた。六歳でよく文を作る。従奴の混、族弟の霊運とともに盛名があった。かつて「喜霽詩」を作り、霊運はこれを写し、混は誅(讃辞)を記したが、王弘は「三絶なり」と、はめ称した。初め桓偉の参軍、のち劉裕に仕えて従事中郎となる。文選に有る詩は
「九日従宋公戯馬台集送孔令詩」、「玉撫軍庾西陽集別時為予章太守庚被徴還東」、「張子房詩」、「答靈運」、「於安城答靈運」がある。
謝靈運(385-433)『愁霖詩』 に答えての詩である。


夕霽風氣涼,閒房有餘清。
夕方雨がはれて清涼感のある空気が流れる、しずかなわが官舎の室には雨後の清らかさが満ちている。
 #2の初句「愁霖」の語がみえるから、長雨がはれたことであろう。氣涼 雨が上がり、晴れてきて清涼感の空気が流れる。○閒房 太守の官舎のしずかなわが室。(1) ひま,空き時間. 消闲暇つぶしをする. (2) 本筋とかかわりがない,意味のない. 闲谈雑談する閒居の閒(門構えに月)は、間と一緒。(間は閒の俗字) で、実は閑も、間と同じ意味で使われることが多いのだった。 たとえば、閑話休題とも間話休題とも書く○餘清 雨後の清らかさ


開軒滅華燭,月露皓已盈。
廊下の欄干のまどを開扉してきれいな台座のともし火を消すと、もう月露のいろは白く光って月の光に満ちあふれている。
開軒 軒は横に長い窓、廊下の欄干のまどを開扉する。○燭 ろうそく。ここは、その火。華とは、ろうそくや、その台が美しいことをさす.


獨夜無物役,寢者亦云寧。
こうした夜に一人で過ごすわたしは俗務にわずらわされることもない、そして、横に寝ているものにとっては心安らかというものだ。
○物役 外物に使役されること。俗務-俗世間の雑用的なことに動かされること。○寢者 横に寝ているもの○云寧 心安らかというもの。


謝宣遠(387-421)
(宋) 謝瞻、字は宣遠、謝朗の孫で、陳郡陽夏(河南省太康付近)の人。幼いとき孤となり、叔母の劉氏に撫養せられた。六歳でよく文を作る。従奴の混、族弟の霊運とともに盛名があった。かつて「喜霽詩」を作り、霊運はこれを写し、混は誅(讃辞)を記したが、王弘は「三絶なり」と、はめ称した。初め桓偉の参軍、のち劉裕に仕えて従事中郎となる。時に弟の晦は右衛将軍として権遇は甚だ重く、賓客は輻輳してその門に至る。瞻は、かくの如き富貴権遇を門戸の福に非ずとし、「吾はこれを見るに忍びず」と言った。しかし、劉裕が宋王朝を始めるにあたり、晦はついに佐命の功を建てたので、瞻は益々憂えおそれ、たまたま疾を獲たが療(なお)そうとはせず、まもなく卒した。随志には、文集三巻。

謝朗
(生卒年不詳,376年前後在世) 字長度といい,小字は胡,南朝陳國陽夏の人,謝安の從子。晉孝武帝375年太元元年前後在世。体が弱く病気がちであった。


謝 安(しゃ あん、Xie Ān、320年 - 385年)は中国東晋の政治家。字は安石。陳郡陽夏(現河南省)の出身。桓温の簒奪の阻止、淝水の戦いの戦勝など東晋の危機を幾度と無く救った。謝裒の3男で謝奕、謝拠の弟、謝万、謝石、謝鉄の兄。謝尚の従弟。子に謝琰。
名族・陽夏謝氏に生まれ、大いに将来を期待されていたが、若い頃は出仕せずに王羲之と交流を深め、清談に耽った。360年、40歳で初めて仕官し、桓温の司馬となった。やがて桓温から離れて中央に戻り侍中、吏部尚書に就任した。
当時の桓温の勢力は東晋を覆い、桓温は簒奪の野望を見せていて、簡文帝の死後に即位した孝武帝からの禅譲を企てた。しかしこれに対して謝安は王坦之と共に強硬に反対し引き伸ばし工作を行った。結果、老齢の桓温は死亡、東晋は命脈を保つことになる。桓温の死後の373年に尚書僕射となり、東晋の政権を握る。
383年、華北を統一した前秦の苻堅は中国の統一を目指して百万と号する大軍を南下させてきた。謝安は朝廷より征討大都督に任ぜられ、弟の謝石・甥の謝玄らに軍を預けてこれを大破した。戦いが行われていた頃、謝安は落ち着いている素振りを周囲に見せるために、客と囲碁を打っていた。対局中に前線からの報告が来て、客がどうなったかを聞いたところ、「小僧たちが賊を破った」とだけ言って、特に喜びをみせなかった。客が帰った後、それまでの平然とした振りを捨てて、喜んで小躍りした。その時に下駄の歯をぶつけて折ってしまったが、それに気づかなかったという。
この功績により、陽夏謝氏は琅邪王氏と同格の最高の家格とされ、謝安は太保となった。更に謝安はこの勢いを駆って北伐を計画していたが、皇族の権力者司馬道子に止められる。司馬道子の反対は謝安の功績が大きくなりすぎたことを警戒してのことであり、謝安は中央を追い出されて広陵歩丘に鎮した。
385年、65歳で病死。死後、太傅の官と廬陵郡公の爵位が追贈された。子の謝琰と孫の謝混も引き続き東晋に仕えた。

初入南城 謝霊運(康楽) 詩<60>Ⅱ李白に影響を与えた詩455 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1182

初入南城 謝霊運(康楽) 詩<60>Ⅱ李白に影響を与えた詩455 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1182


432年元嘉九年48歳

広々とした鄱陽湖(彭蟸湖)を船で渡り、撫河をさかのぼって撫州から支流の姑川、つまり当時の臨川へと旅を続けた。やがて、やっと旅を重ねて霊運は臨川に無事に着任した。そのころの郡治は南城であった。ここに着いてほっとして作ったのが「初めて南城に入る」 の詩である。

初發入南城
弄波不輟手,玩景豈停目。
鄱陽湖を南下し撫河をさかのぼる舟は波かき分け進みを輟むことはない、そしてこの美しい景色、興を深める風景をどうして愛でるのを停めることが出来ようか。
雖未登雲峰,且以歡水宿。

しかし、自分には雲峰の大望があったがいまだに登ることも、叶うこともできてはいない、そういうことではあるけれど、今日は南城の水上旅宿に歓んで泊まることにしよう。

(初めて南城に入る)
波を弄【もてあそ】び 手を輟【や】めず,景を玩【もてあそ】び 豈 目を停【とど】めんや。
未だ雲峰【うんほう】に登らずと雖ども,且に以って水宿を歓ばんとす。

a謝霊運永嘉ルート

現代語訳と訳註
(本文)
初發入南城
弄波不輟手,玩景豈停目。
雖未登雲峰,且以歡水宿。


(下し文) (初めて南城に入る)
波を弄【もてあそ】び 手を輟【や】めず,景を玩【もてあそ】び 豈 目を停【とど】めんや。
未だ雲峰【うんほう】に登らずと雖ども,且に以って水宿を歓ばんとす。


(現代語訳)
鄱陽湖を南下し撫河をさかのぼる舟は波かき分け進みを輟むことはない、そしてこの美しい景色、興を深める風景をどうして愛でるのを停めることが出来ようか。
しかし、自分には雲峰の大望があったがいまだに登ることも、叶うこともできてはいない、そういうことではあるけれど、今日は南城の水上旅宿に歓んで泊まることにしよう。


(訳注)
初發入南城

・撫州、臨川 257年(太平2年)、臨川郡が設置された。南北朝時代梁は臨川郡の一部に巴山郡を設置した。589年(開皇9年)、臨川郡及び巴山郡に新に撫州を設置、洪州総管府の管轄とし、撫州の初見となった。
臨川 麻姑山の南城の李白『金陵江上遇蓬池隱者』「心愛名山游、身隨名山遠。羅浮麻姑台、此去或未返。」
謝靈運についての資料が残されているのは、史実ではすべて支配者側の者ばかりで隠遁していたものが謀反を企てたということで詮議されるというのも解せない点ではある。謝霊運の詩を系統的に見ているが、若い時にすこし切れやすかった詩人としか思えない。歳をとって、やるせなさを感じはするが、それ以上は感じない。李白の場合随所に野心を感じさせる内容の詩があるのとは違っている。


弄波不輟手,玩景豈停目。
波を弄【もてあそ】び 手を輟【や】めず,景を玩【もてあそ】び 豈 目を停【とど】めんや。
鄱陽湖を南下し撫河をさかのぼる舟は波かき分け進みを輟むことはない、そしてこの美しい景色、興を深める風景をどうして愛でるのを停めることが出来ようか。


雖未登雲峰,且以歡水宿。
未だ雲峰【うんほう】に登らずと雖ども,且に以って水宿を歓ばんとす。
しかし、自分には雲峰の大望があったがいまだに登ることも、叶うこともできてはいない、そういうことではあるけれど、今日は南城の水上旅宿に歓んで泊まることにしよう。

謝霊運と仏教との関係
謝霊運は廬山の慧遠を尋ねた時、遠師に心服して留まった。この時から仏教に造詣を深くし、慧厳・慧観と共に、法顕訳の『六巻涅槃経』と曇無讖訳の『北本涅槃経』を統合改訂し、南本『大般涅槃経』を完成させ、竺道生によって提唱された頓悟成仏(速やかに仏と成る事ができる)説を研究・検証した「弁宗論」などを著した。
また、彼は鳩摩羅什訳出の『金剛般若波羅蜜経』を注釈した『金剛般若経注』なども著している。なお同名の注釈書としては僧肇が撰著した同名の『金剛般若経注』が最初とされる。しかし僧肇撰の説には多くの疑問が提出されており、宋代の曇応の『金剛般若波羅蜜経采微』などには「謝霊運曰く」として多く引用され、僧肇の注釈書と類似点が多い。このことから近代に至っては、僧肇撰とされる「金剛般若経注」が実は謝霊運の著作である可能性が高いといわれている。彼の著作物に関してはいまだ充分に検証されたものではないため、今後これらを総合的に検証し直す必要性が望まれている。
もっとも謝霊運は、仏教への造詣はあったものの、その深い奥義を身をもって体現することがなく、往々にして不遜な態度があったと伝えられることから、仏教徒としての評価は決して高いものではない。吉田兼好の『徒然草』第108段に「謝霊運は、法華の筆受なりしかども、心常に風雲の思を観ぜしかば、恵遠、白蓮の交りを許さざりき」とあるように、慧遠の白蓮社に入ることが許されなかったといわれる[1]。

中国,江西省北部にある湖、鄱陽湖に流入する河川は。贛江(かんこう),撫江,信江,修水,鄱江などの川が流入する。南北両湖に分かれ,湖水は北の湖口を経て長江(揚子江)に注ぐ。面積3976km2,湖面の標高21mで中国最大の淡水湖である。古くは彭蠡(ほうれい),彭沢と呼ばれ,隋代以降に鄱陽湖と呼ばれる。都昌・呉城の間で湖面が狭くなり,このくびれた部分を境にして北湖と南湖に分かれる。南湖は江西省のほとんどの水系を集め,増水期には内陸まで浸水し最深部は十数mに達する。・・・

入彭蟸湖口 謝霊運(康楽) 詩<59-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩454 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1179

入彭蟸湖口 謝霊運(康楽) 詩<59-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩454 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1179

やがて、何日か宿をして後、臨川郡の入り口にある彭蟸湖、つまり、今の鄱陽湖に着いた。おそらく、郡の下役人の出迎えを受け、挨拶の言葉ぐらいはあったであろうが、謝靈運には、依然として不平と不満に満ちていた。この赴任には謝霊運を押さえつけるものであるから、彼の心はなんともいえぬものがあり、その感情を歌ったものが「入彭蟸湖口」(彭蟸湖口に入る) の一首である。『文選』の巻二十六の「行旅」の部に引用されている。


入彭蠡湖口  #1
客游倦水宿,風潮難具論。
旅ゆく人として船旅につかれて宿を取る、風の流れと長江の流れは自分にとってもそうであるがこうしてそのまま旅をするのがいいのか十分に論じつくすというのは難しい。
洲島驟回合,圻岸屢崩奔。
長江を下ると中州と島が時折り廻ったり戻ったり離れたり集まったりする、長江の流れも岸が折れたり、曲がったりしてしばしば崩れたり出入りが激しかったりして、私の人生のようだ。
乘月聽哀狖,浥露馥芳蓀。
月がのぼってくるとどこからか悲しい声の野猿が鳴いている、夜も更け露に潤う時刻になるとほんのりと菖蒲の花の香りがしてくる。
春晚綠野秀,岩高白雲屯。
春も終わりで木々も萌えるころで、緑が秀でるころであり、しげりも盛んになっている、見上げると岩場の高い所に白い雲が浮かんでいる。
千念集日夜,萬感盈朝昏。
思い返してみて千念(ちじ)の思いで念仏というのは、真昼か真夜中に集うもので、この全身全霊で感じ取るのは朝夕の念仏で満たされるのである。
#2
攀崖照石鏡,牽葉入松門。
崖を攀じ登ったら廬山の石壁・石鏡に日が照り輝いている。木葉をかき分けて白蓮社の松門を入っていく。
三江事多往,九派理空存。
彭蟸湖の口の三江は事が多くあって行く先は判らない。九江ではここに九つの流れが集まってきており地理はむなしくあるだけだ。(三江、九江で、三皇五帝の禹王の徳の施政事は過去の事であり、いまわ空しく地形としてあるだけだ。だから仏の助けが必要だ。)
露物吝珍怪,異人秘精魂。
道教的な神、仏は稀に見るめずらしい出来事というものは受け入れない。異教徒、異文化人は全身全霊を傾けて隠そうとするものだ。
金膏滅明光,水碧綴流溫。
卓抜された人物が光輝いていたのが陰っていくし、命の泉である水の中に有る水晶であっても穏やかな光沢を止めてあらわさないというようなものである。
徒作千里曲,弦絕念彌敦。
かくして、わたしは離別悲愁の「千里の曲」をかなでる、そして琴を弾くのを終わると念仏を唱えあつくひたすら念じるのである。


(彭蟸湖口に入る)#1
客遊して水宿【すいしゅく】に倦【う】み、風潮【ふうちょう】は具【つぶ】さに論じ難し。
洲島【しゅうとう】は驟【しばし】ば廻合【かしごう】し、折岸【きがん】は屡【しばし】ば崩奔【ほうほん】す。
月に乗じて哀狖【あいいう】を聴き、露に浥【うる】おいて芳蓀【ほうそん】馥【かんば】し。
春は晩れて緑野 秀で、巌 高くして白雲 屯【あつま】り。
千念【せんねん】は日夜に集まり、万感【ばんかん】朝昏【ちょうこん】に盈つ。
#2
崖に攀【よ】じて石鏡に照らし、葉を牽きつつ松門に入る。
三江は事多に往き,九派は理 空しく存す。
霊物は珍怪を宏【おし】み、異人は精魂を秘す。
金膏【きんこう】は明光を減し、水碧は流温【りゅうおん】を綴【や】む。
徒らに千里の曲を作すも、弦絶えて念い彌【いよい】よ敦【あつ】し。


現代語訳と訳註
(本文)
#2
攀崖照石鏡,牽葉入松門。三江事多往,九派理空存。
露物吝珍怪,異人秘精魂。金膏滅明光,水碧綴流溫。
徒作千里曲,弦絕念彌敦。


(下し文) #2
崖に攀【よ】じて石鏡に照らし、葉を牽きつつ松門に入る。
三江は事多に往き,九派は理 空しく存す。
霊物は珍怪を宏【おし】み、異人は精魂を秘す。
金膏【きんこう】は明光を減し、水碧は流温【りゅうおん】を綴【や】む。
徒らに千里の曲を作すも、弦絶えて念い彌【いよい】よ敦【あつ】し。


(現代語訳)
崖を攀じ登ったら廬山の石壁・石鏡に日が照り輝いている。木葉をかき分けて白蓮社の松門を入っていく。
彭蟸湖の口の三江は事が多くあって行く先は判らない。九江ではここに九つの流れが集まってきており地理はむなしくあるだけだ。(三江、九江で、三皇五帝の禹王の徳の施政事は過去の事であり、いまわ空しく地形としてあるだけだ。だから仏の助けが必要だ。)
道教的な神、仏は稀に見るめずらしい出来事というものは受け入れない。異教徒、異文化人は全身全霊を傾けて隠そうとするものだ。
卓抜された人物が光輝いていたのが陰っていくし、命の泉である水の中に有る水晶であっても穏やかな光沢を止めてあらわさないというようなものである。
かくして、わたしは離別悲愁の「千里の曲」をかなでる、そして琴を弾くのを終わると念仏を唱えあつくひたすら念じるのである。


(訳注)#2
攀崖照石鏡,牽葉入松門。
崖を攀じ登ったら廬山の石壁・石鏡に日が照り輝いている。木葉をかき分けて白蓮社の松門を入っていく。
石鏡 高僧慧遠は廬山に東林寺を建てた。慧遠は太元9年(384年)の来住以来、一生、山外に出ないと誓いを立てたとされ、そのことにちなんだ「虎渓三笑」の説話の舞台もこの山である。また慧遠は蓮池を造り、その池に生える白蓮にちなんだ「白蓮社」と呼ばれる念仏結社を結成したとされ、中国の浄土教の祖とされている。慧遠は中国化された仏教の開創者であり、仏教の中国化と、中国の仏教化という潮流を作りだした。
太平天国の乱で破壊される前、廬山は中国第一の仏教の聖地であり、全盛期には全山に寺廟は三百以上を数えた。
廬山、李白『廬山謠寄盧侍御虛舟』
我本楚狂人、狂歌笑孔丘。手持綠玉杖、朝別黃鶴樓。
五嶽尋仙不辭遠、一生好入名山遊。
廬山秀出南斗傍、屏風九疊雲錦張、影落明湖青黛光。
金闕前開二峰長、銀河倒掛三石梁 。
香爐瀑布遙相望、迴崖沓嶂凌蒼蒼。
翠影紅霞映朝日、鳥飛不到吳天長。
登高壯觀天地間、大江茫茫去不還 。
黃雲萬里動風色、白波九道流雪山 。
好為廬山謠、興因廬山發 。
閑窺石鏡清我心、謝公行處蒼苔沒 。
早服還丹無世情、琴心三疊道初成。
遙見仙人彩雲裡、手把芙蓉朝玉京。
先期汗漫九垓上、願接盧敖遊太清。
(廬山の廬侍御虚舟に謡い寄す)
我は本 楚の狂人、 鳳歌して孔丘を笑う。 手に緑の玉杖を持ち、朝に別る 黄鶴楼。
五嶽に仙を尋ぬるに遠きを辞さず、 一生 名山に入りて遊ぶを好む
廬山は秀で出ず 南斗の傍ら、 屛風九畳 雲錦張る、影は明湖に落ちて青黛光る。
金闕 前に開いて 二峰長し、銀河は倒に挂かる 三石梁。
香炉の瀑布 遥かに相望む、 迥崖沓嶂 凌として蒼蒼たり。
翠影紅霞 朝日に映じ、鳥は飛びて到らず 呉天の長きを。
高きに登りて壮観す 天地の間、大江は茫茫として去りて還らず。
黄雲 万里 風色を動かし、白波 九道 雪山に流る。
好みて廬山の謡を為し、興じて廬山に因りて発す。
閑に石鏡を窺えば我が心清らかなり、謝公の行処は蒼苔に没す。
早に還丹を服して世情無く、琴心 三畳 道初めて成る。
遥かに仙人を見る綵雲の裏、手に芙蓉を把って玉京に朝す。
先は期さん 汗漫と九垓の上に、 願わくは廬敖に接して太清に遊ばん


三江事多往,九派理空存。
彭蟸湖の口の三江は事が多くあって行く先は判らない。九江ではここに九つの流れが集まってきており地理はむなしくあるだけだ。(三江、九江で、三皇五帝の禹王の徳の施政事は過去の事であり、いまわ空しく地形としてあるだけだ。だから仏の助けが必要だ。)
三江 彭蟸の三江のこと。 湖北武昌の南江,江西九江の中江,江蘇鎮江の北江。 .『尚書、禹貢篇』に基づく場所指定。
九派 潯陽の九派のこと。 烏白江・好江・烏江・嘉靡江・吠江・源江・庫江・提江・菌江


靈物吝珍怪,異人秘精魂。
道教的な神、仏は稀に見るめずらしい出来事というものは受け入れない。異教徒、異文化人は全身全霊を傾けて隠そうとするものだ。
靈物 霊妙なもの。神秘的な力のあるもの。霊魂道教的な神をいい、物は仏をいう。・珍怪 めずらしいもの。貴重でめったに見られない宝物。稀に見るめずらしい出来事。
「霊物は珍怪をおしみ、異人は精魂を秘す」ような奇抜が欲しいという。 奇抜か、霊運は苦笑した。 詩はつねに不特定多数に向けた挨拶状であった。・精魂 力などを注ぐ(努力を)傾注する ・ (全身全霊を)傾けて ・ (意識を)集中させる。


金膏滅明光,水碧綴流溫。
卓抜された人物が光輝いていたのが陰っていくし、命の泉である水の中に有る水晶であっても穏やかな光沢を止めてあらわさないというようなものである。
金膏 卓抜された人物。道教の傳說中の仙藥。・水碧 水中のみどり。水晶のこと。泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。


徒作千里曲,弦絕念彌敦。
かくして、わたしは離別悲愁の「千里の曲」をかなでる、そして琴を弾くのを終わると念仏を唱えあつくひたすら念じるのである。
千里曲 屈原『楚辞、招魂、第二段』「増冰峨峨、飛雪千里些。」に基づく。琴曲:「郊廟歌辭」「燕射歌辭」「鼓吹歌辭」「橫吹曲辭」「相和歌辭」「淸商曲辭」「舞曲歌辭」「琴曲歌辭」「雜曲歌辭」「近代曲辭」「雜歌謠辭」などある。


入彭蟸湖口 謝霊運(康楽) 詩<53#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩452 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1173

入彭蟸湖口 謝霊運(康楽) 詩<53#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩452 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1173


やがて、何日か宿をして後、臨川郡の入り口にある彭蟸湖、つまり、今の鄱陽湖に着いた。おそらく、郡の下役人の出迎えを受け、挨拶の言葉ぐらいはあったであろうが、謝靈運には、依然として不平と不満に満ちていた。この赴任には謝霊運を押さえつけるものであるから、彼の心はなんともいえぬものがあり、その感情を歌ったものが「入彭蟸湖口」(彭蟸湖口に入る) の一首である。『文選』の巻二十六の「行旅」の部に引用されている。


入彭蠡湖口  #1
客游倦水宿,風潮難具論。
旅ゆく人として船旅につかれて宿を取る、風の流れと長江の流れは自分にとってもそうであるがこうしてそのまま旅をするのがいいのか十分に論じつくすというのは難しい。
洲島驟回合,圻岸屢崩奔。
長江を下ると中州と島が時折り廻ったり戻ったり離れたり集まったりする、長江の流れも岸が折れたり、曲がったりしてしばしば崩れたり出入りが激しかったりして、私の人生のようだ。
乘月聽哀狖,浥露馥芳蓀。
月がのぼってくるとどこからか悲しい声の野猿が鳴いている、夜も更け露に潤う時刻になるとほんのりと菖蒲の花の香りがしてくる。
春晚綠野秀,岩高白雲屯。
春も終わりで木々も萌えるころで、緑が秀でるころであり、しげりも盛んになっている、見上げると岩場の高い所に白い雲が浮かんでいる。
千念集日夜,萬感盈朝昏。
思い返してみて千念(ちじ)の思いで念仏というのは、真昼か真夜中に集うもので、この全身全霊で感じ取るのは朝夕の念仏で満たされるのである。
#2
攀崖照石鏡,牽葉入松門。三江事多往,九派理空存。
露物吝珍怪,異人秘精魂。金膏滅明光,水碧綴流溫。
徒作千里曲,弦絕念彌敦。


(彭蟸湖口に入る)#1
客遊して水宿【すいしゅく】に倦【う】み、風潮【ふうちょう】は具【つぶ】さに論じ難し。
洲島【しゅうとう】は驟【しばし】ば廻合【かしごう】し、折岸【きがん】は屡【しばし】ば崩奔【ほうほん】す。
月に乗じて哀狖【あいいう】を聴き、露に浥【うる】おいて芳蓀【ほうそん】馥【かんば】し。
春は晩れて緑野 秀で、巌 高くして白雲 屯【あつま】り。
千念【せんねん】は日夜に集まり、万感【ばんかん】朝昏【ちょうこん】に盈つ。

#2
崖に攀【よ】じて石鏡に照らし、葉を牽きつつ松門に入る。
三江は事多に往き,九派は理 空しく存す。
霊物は珍怪を宏【おし】み、異人は精魂を秘す。
金膏【きんこう】は明光を減し、水碧は流温【りゅうおん】を綴【や】む。
徒らに千里の曲を作すも、弦絶えて念い彌【いよい】よ敦【あつ】し

彭蟸の三江 北江・中江・南江
潯陽の九派 烏白江・好江・烏江・嘉靡江・吠江・源江・庫江・提江・菌江


現代語訳と訳註
(本文)
入彭蠡湖口  #1
客游倦水宿,風潮難具論。洲島驟回合,圻岸屢崩奔。
乘月聽哀狖,浥露馥芳蓀。春晚綠野秀,岩高白雲屯。
千念集日夜,萬感盈朝昏。


(下し文) (彭蟸湖口に入る)#1
客遊して水宿【すいしゅく】に倦【う】み、風潮【ふうちょう】は具【つぶ】さに論じ難し。
洲島【しゅうとう】は驟【しばし】ば廻合【かしごう】し、折岸【きがん】は屡【しばし】ば崩奔【ほうほん】す。
月に乗じて哀狖【あいいう】を聴き、露に浥【うる】おいて芳蓀【ほうそん】馥【かんば】し。
春は晩れて緑野 秀で、巌 高くして白雲 屯【あつま】り。
千念【せんねん】は日夜に集まり、万感【ばんかん】朝昏【ちょうこん】に盈つ。


(現代語訳)
旅ゆく人として船旅につかれて宿を取る、風の流れと長江の流れは自分にとってもそうであるがこうしてそのまま旅をするのがいいのか十分に論じつくすというのは難しい。
長江を下ると中州と島が時折り廻ったり戻ったり離れたり集まったりする、長江の流れも岸が折れたり、曲がったりしてしばしば崩れたり出入りが激しかったりして、私の人生のようだ。
月がのぼってくるとどこからか悲しい声の野猿が鳴いている、夜も更け露に潤う時刻になるとほんのりと菖蒲の花の香りがしてくる。
春も終わりで木々も萌えるころで、緑が秀でるころであり、しげりも盛んになっている、見上げると岩場の高い所に白い雲が浮かんでいる。
思い返してみて千念(ちじ)の思いで念仏というのは、真昼か真夜中に集うもので、この全身全霊で感じ取るのは朝夕の念仏で満たされるのである。


(訳注)
入彭蠡湖口
 
江西省北部、長江南岸にある湖。中国の淡水湖では最大。北緯29度00分、東経116度10分に位置する。贛江・撫河・信江・饒河(鄱江)・修水などの長江支流がここで流入する。湖の表面積は、季節により146km2から3,210km2まで変わり、長江の水流を調節する役目もしている。紀元前から記録されている湖で、彭蠡湖(澤)、あるいは彭澤とも呼ばれた。何度も洪水を起こし、そのために築いた堤防が湖の中に残っている。 孟浩然『彭蠡湖中望廬山』に「挂席候明発、渺漫平湖中」の表現があるが、更に溯れば謝霊運「遊赤石進航海」に「揚帆采石華、挂席拾海月(帆をあげて海草を採り、蓆を掲げて海月を採集に行く)」の句がある。
彭蠡湖中望廬山 孟浩然
太虛生月暈,舟子知天風。掛席候明發,眇漫平湖中。
中流見匡阜,勢壓九江雄。黤黕容霽色,崢嶸當曉空。
香爐初上日,瀑布噴成虹。久欲追尚子,況茲懷遠公。
我來限於役,未暇息微躬。淮海途將半,星霜歲欲窮。
寄言岩棲者,畢趣當來同。


客游倦水宿,風潮難具論。
旅ゆく人として船旅につかれて宿を取る、風の流れと長江の流れは自分にとってもそうであるがこうしてそのまま旅をするのがいいのか十分に論じつくすというのは難しい。
具論 つぶさに論じる。十分に論じつくす。


洲島驟回合,圻岸屢崩奔。
長江を下ると中州と島が時折り廻ったり戻ったり離れたり集まったりする、長江の流れも岸が折れたり、曲がったりしてしばしば崩れたり出入りが激しかったりして、私の人生のようだ。
洲島 長江の中州と島。このあたりでは長江の流れもゆるく大きな島や中州がある。・ 【うごつく・しばしば】「うこづく」動き揺れる。うごめく。・回合 廻ったり戻ったり離れたり集まったりする。・圻岸 岸が折れたり、曲がったりする。・崩奔 崩れたり出入りが激しかったりする。


乘月聽哀狖,浥露馥芳蓀。
月がのぼってくるとどこからか悲しい声の野猿が鳴いている、夜も更け露に潤う時刻になるとほんのりと菖蒲の花の香りがしてくる。
 ここでは、野猿。屈原『楚辞』「猨狖群嘯兮禽獸所居,至樂佚也。」で猨狖という言葉を用いた。猨は前述の猱蝯の蝯と同義であり、狖とともにテナガザル。・浥露 夜も更け露に潤う時刻になると。艶歌に使用される語である。・ 菖蒲。香草名。夜の娼婦の香水の香りという場合もある。


春晚綠野秀,岩高白雲屯。
春も終わりで木々も萌えるころで、緑が秀でるころであり、しげりも盛んになっている、見上げると岩場の高い所に白い雲が浮かんでいる。


千念集日夜,萬感盈朝昏。
思い返してみて千念(ちじ)の思いで念仏というのは、真昼か真夜中に集うもので、この全身全霊で感じ取るのは朝夕の念仏で満たされるのである。
千、萬念 浄土宗は極楽浄土には念仏を惟唱えること、貴賤・善悪の差別はないものとしておることに基づいている。

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<57-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩449 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1164

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<57-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩449 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1164


從斤竹澗越嶺溪行詩
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。
巌下雲方合。花上露猶泫。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。
#2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。
石の上に瓜先き立って岩から飛び出す滝の水を汲み、林の枝を引きよせて若葉を摘むのである。
#3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
しかしこの山水の美しきを観ては、人の心にひたすらに浄土に遣るために外物や余計な配慮を忘れ去ることである、浄土に遣ることだけを心に悟って心の悩みをもつことはないということがよく理解された。
そのうちに、楚評九歌の山鬼籍に「ここに人山の阿に有り、辞茅(まさきのかずら)薜茘を被【き】て、女蘿(ひかげのかずら)を帯にす」とある、あの祇園精舎とする山の阿に住む人を想い見て、その人のかずらの衣帯がまのあたりにあるようである。
握蘭勤徒結。折麻心莫展。
楚辞の詩人と同様に、私も蘭草を取っては贈るすべもなく、心をこめてただむだに結ぶだけであり、浄土に咲く大麻の花を折っても心はふさがって伸べることができない。
情用賞為美。事昧竟誰辨。
人間の情念は美しいものこそ浄土を為すべきものとして心から賞賛するのであり、この事の真理は蒙昧で未熟なものにとって誰がよく見わけることができよう。
觀此遺物慮。一悟得所遣。
谷川を過ぎてゆけばやがて急流を服を着たまま川を渡り、急傾斜に木を組んで造った桟道を登ってはるかな山の上に出る。
川渚屢徑複。乘流翫回轉。
川のなぎさをしばしば向こう岸に往ったりかえったりし、流れに随い下って川の廻転を楽しむのである。
蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
浮草が深い淵にただよい集まり、まこもやがまは清んだ浅瀬を蔽って生えている。
企石挹飛泉。攀林摘葉卷。


(斤竹澗より嶺を越えて溪行す。)
猿鳴いて誠に曙【あけぼの】を知り、谷幽にして光未だ顯【あら】われず。
巌下に雲 方【まさ】に合し、花上に露猶 泫【したた】る。
逶迤【いい】として隈隩【わいおう】に傍【そ】ひ、迢遞【ちょうてい】として陘峴【けいけん】を陟【のぼ】る。
#2
澗を過ぎて既に急を厲【わた】り、桟を登って亦 緬【めん】を陵【しの】ぐ。
川渚【せんしょ】は屡【しばし】ば 徑複【けいふく】し、流に乗じて回轉【かいてん】を翫【もてあそ】ぶ。
蘋萍【ひんべい】は沈深【ちんしん】に泛び、菰蒲【こほ】は清淺【せいせん】を冒【おお】えり。
石に企【つま】だてて 飛泉を挹【く】み、林を撃ちて葉巻【ようけん】を摘む。
#3
想見【そうけん】す山阿【さんあ】の人、薜蘿【へいら】眼に在るが若し。
蘭を握りて勤【ねんごろ】に徒【いたずら】に結び、麻【ま】を折りて心展【の】ぶる莫し。
情は賞して美と為すを用いて。事 昧【くら】くして竟に誰か辨せん。
此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。



現代語訳と訳註
(本文)
#3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
握蘭勤徒結。折麻心莫展。
情用賞為美。事昧竟誰辨。
觀此遺物慮。一悟得所遣。


(下し文)#3
想見【そうけん】す山阿【さんあ】の人、薜蘿【へいら】眼に在るが若し。
蘭を握りて勤【ねんごろ】に徒【いたずら】に結び、麻【ま】を折りて心展【の】ぶる莫し。
情は賞して美と為すを用いて。事 昧【くら】くして竟に誰か辨せん。
此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。


(現代語訳)
そのうちに、楚評九歌の山鬼籍に「ここに人山の阿に有り、辞茅(まさきのかずら)薜茘を被【き】て、女蘿(ひかげのかずら)を帯にす」とある、あの祇園精舎とする山の阿に住む人を想い見て、その人のかずらの衣帯がまのあたりにあるようである。
楚辞の詩人と同様に、私も蘭草を取っては贈るすべもなく、心をこめてただむだに結ぶだけであり、浄土に咲く大麻の花を折っても心はふさがって伸べることができない。
人間の情念は美しいものこそ浄土を為すべきものとして心から賞賛するのであり、この事の真理は蒙昧で未熟なものにとって誰がよく見わけることができよう。
しかしこの山水の美しきを観ては、人の心にひたすらに浄土に遣るために外物や余計な配慮を忘れ去ることである、浄土に遣ることだけを心に悟って心の悩みをもつことはないということがよく理解された。


(訳注) #3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
そのうちに、楚評九歌の山鬼籍に「ここに人山の阿に有り、辞茅(まさきのかずら)薜茘を被【き】て、女蘿(ひかげのかずら)を帯にす」とある、あの祇園精舎とする山の阿に住む人を想い見て、その人のかずらの衣帯がまのあたりにあるようである。
山阿人 祇園精舎で左土地を開く修行をしているひと。山の端に住む人。楚辞九歌山鬼篇に「若有人兮山之阿,被薜荔兮带女萝。」(ここに人山の阿に有りし薜茘を被り女蘿を帯にす)と。・薜羅 薜茘の衣、女蘿の帯。山鬼の衣帯。
楚辞九歌山鬼篇
若有人兮山之阿,被薜荔兮带女萝。既含睇兮又宜笑,子慕予兮善窈窕。
乘赤豹兮从文狸,辛夷车兮结桂旗。被石蘭兮带杜衡,折芳馨兮遗所思。
余處幽篁兮终不見天,路險難兮獨后来。表独立兮山之上,云容容兮而在下。
杳冥冥兮羌昼晦,东风飘兮神灵雨。留灵修兮憺忘归,岁既晏兮孰华予。
采三秀兮于山间,石磊磊兮葛蔓蔓。怨公子兮怅忘归,君思我兮不得閒。
山中人兮芳杜若,飲石泉兮陰松柏。君思我兮然疑作。
雷填填兮雨冥冥,猿啾啾兮狖夜鳴。風颯颯兮木萧萧,思公子兮徒離憂。


握蘭勤徒結。折麻心莫展。
楚辞の詩人と同様に、私も蘭草を取っては贈るすべもなく、心をこめてただむだに結ぶだけであり、浄土に咲く大麻の花を折っても心はふさがって伸べることができない。
握蘭 香ばしい蘭草を握る。山鬼篇に「被石蘭兮带杜衡,折芳馨兮遗所思。」(石蘭【せきらん】を被【き】て杜衡【とこう】を带【おび】とし,芳馨を折りて思ふ所に遣らん。)「棗拠の逸民賦に曰く、春蘭を握りて芳を遣ると」とある。・折麻 麻の白い花を折って離れている人に贈る。楚辞九歌大司命篇に「折疏麻兮瑶華、将以兮離居。」(疏麻の瑶華〈白玉のような花〉を折りて、将に離れ居るもの遣らんとす。)と。沈徳潜注に「此れ徒に勤に心を結ぶを云ふ」と。・心莫展 遣る人がないのでこころはふさがる。沈徳潜注に「友に贈らんと欲して由末きを言ふなり。上の二句を承けて看れは便ち明かなり」と。
楚辞九歌大司命篇
廣開兮天門,紛吾乘兮玄雲;
令飘风兮先驱,使涷雨兮洒尘;
君回翔兮以下,逾空桑兮从女;
纷总总兮九州,何寿夭兮在予;
高飞兮安翔,乘清气兮御陰陽;
吾与君兮齐速,导帝之兮九坑;
灵衣兮被被,玉佩兮陆离;
壹陰兮壹陽,衆莫知兮余所爲;
折疏麻兮瑶,将以遗兮离居;
老冉冉兮既极,不寢近兮愈疏;
乘龍兮轔轔,高騁兮冲天;
結桂枝兮延佇,羌愈思兮愁人;
愁人兮奈何,愿若今兮無虧;
固人命兮有当,孰離合兮何爲?


情用賞為美。事昧竟誰辨。
人間の情念は美しいものこそ浄土を為すべきものとして心から賞賛するのであり、この事の真理は蒙昧で未熟なものにとって誰がよく見わけることができよう。
 偽りのない心。・用賞為美 極楽浄土をもとめる心の賞賛をよいとする。・事昧 その事の真理は無知蒙昧にとって悟り難い。・竟誰辨 仏陀は分け隔てをしない。善人も悪人でも分け隔てなく極楽浄土にゆけること。


觀此遺物慮。一悟得所遣。
しかしこの山水の美しきを観ては、人の心にひたすらに浄土に遣るために外物や余計な配慮を忘れ去ることである、浄土に遣ることだけを心に悟って心の悩みをもつことはないということがよく理解された。
遣物慮 物欲の外物や内心のやましい心慮を忘れる。・一悟 浄土に遣ることだけを心に悟って。・ 悩みを去る。心をなぐさめる。煩悩を棄て極楽浄土へ遣ること。謝靈運にとって、天子のほかに仏陀がいるのであり、中華思想では判断できない思想がある。儒者道教者は、施政者の哲学の中に入っていて天子の徳が施されることを基本に論理が組み立てられる。謝靈運には、天子、皇帝より極楽浄土が基本であり、ましてや太守の発言行動に敬意を表することも尊重することもないのである。仏陀のもとにゆけるのか、極楽浄土へ行けるのかが最も重要な判断基準であるのだ。

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<57-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩448 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1161

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<57-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩448 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1161


從斤竹澗越嶺溪行詩
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。
巌下雲方合。花上露猶泫。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。
#2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。
石の上に瓜先き立って岩から飛び出す滝の水を汲み、林の枝を引きよせて若葉を摘むのである。
#3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
握蘭勤徒結。折麻心莫展。
情用賞為美。事昧竟誰辨。
觀此遺物慮。一悟得所遣。
谷川を過ぎてゆけばやがて急流を服を着たまま川を渡り、急傾斜に木を組んで造った桟道を登ってはるかな山の上に出る。
川渚屢徑複。乘流翫回轉。
川のなぎさをしばしば向こう岸に往ったりかえったりし、流れに随い下って川の廻転を楽しむのである。
蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
浮草が深い淵にただよい集まり、まこもやがまは清んだ浅瀬を蔽って生えている。
企石挹飛泉。攀林摘葉卷。


(斤竹澗より嶺を越えて溪行す。)
猿鳴いて誠に曙【あけぼの】を知り、谷幽にして光未だ顯【あら】われず。
巌下に雲 方【まさ】に合し、花上に露猶 泫【したた】る。
逶迤【いい】として隈隩【わいおう】に傍【そ】ひ、迢遞【ちょうてい】として陘峴【けいけん】を陟【のぼ】る。
#2
澗を過ぎて既に急を厲【わた】り、桟を登って亦 緬【めん】を陵【しの】ぐ。
川渚【せんしょ】は屡【しばし】ば 徑複【けいふく】し、流に乗じて回轉【かいてん】を翫【もてあそ】ぶ。
蘋萍【ひんべい】は沈深【ちんしん】に泛び、菰蒲【こほ】は清淺【せいせん】を冒【おお】えり。
石に企【つま】だてて 飛泉を挹【く】み、林を撃ちて葉巻【ようけん】を摘む。
#3
想見【そうけん】す山阿【さんあ】の人、薜蘿【へいら】眼に在るが若し。
蘭を握りて勤【ねんごろ】に徒【いたずら】に結び、麻【ま】を折りて心展【の】ぶる莫し。
情は賞して美と為すを用いて。事 昧【くら】くして竟に誰か辨せん。
此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。



現代語訳と訳註
(本文)
#2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。
川渚屢徑複。乘流翫回轉。
蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
企石挹飛泉。攀林摘葉卷。


(下し文)
澗を過ぎて既に急を厲【わた】り、桟を登って亦 緬【めん】を陵【しの】ぐ。
川渚【せんしょ】は屡【しばし】ば 徑複【けいふく】し、流に乗じて回轉【かいてん】を翫【もてあそ】ぶ。
蘋萍【ひんべい】は沈深【ちんしん】に泛び、菰蒲【こほ】は清淺【せいせん】を冒【おお】えり。
石に企【つま】だてて 飛泉を挹【く】み、林を撃ちて葉巻【ようけん】を摘む。


(現代語訳)
谷川を過ぎてゆけばやがて急流を服を着たまま川を渡り、急傾斜に木を組んで造った桟道を登ってはるかな山の上に出る。
川のなぎさをしばしば向こう岸に往ったりかえったりし、流れに随い下って川の廻転を楽しむのである。
浮草が深い淵にただよい集まり、まこもやがまは清んだ浅瀬を蔽って生えている。
石の上に瓜先き立って岩から飛び出す滝の水を汲み、林の枝を引きよせて若葉を摘むのである。


(訳注) #2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。

谷川を過ぎてゆけばやがて急流を服を着たまま川を渡り、急傾斜に木を組んで造った桟道を登ってはるかな山の上に出る。
 徒渉。詩経に「深ければ則ち厲る」と、毛伝に「衣を以て水を捗るを厲といふ」と。・登桟 かけはし路を登る。木を組んで急斜面に作った道を桟道という。・陵紬、はるかな山の上に出る。


川渚屢徑複。乘流翫回轉。
川のなぎさをしばしば向こう岸に往ったりかえったりし、流れに随い下って川の廻転を楽しむのである。
徑複 往来する。


蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
浮草が深い淵にただよい集まり、まこもやがまは清んだ浅瀬を蔽って生えている。
蘋萍 うきくさ。・沉深 深い淵。・孤荊 まこもやがま。水草。・ 蔽う。


企石挹飛泉。攀林摘葉卷。
石の上に瓜先き立って岩から飛び出す滝の水を汲み、林の枝を引きよせて若葉を摘むのである。
企石 石の上に爪先き立つ。企はつま立つ。・飛泉 滝水。・葉巻 まだ展びないわか葉。

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<51#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩446 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1155

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<51#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩446 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1155


 儒教者は謝靈運が理解できないようだ。多くの注釈で儒教者の感覚で間違った解釈をしている。仏教徒としての謝靈運ということ見ていくと違った意味となってくる。まず、ある注釈書に謝靈運にとって「自然の美しさ、山水の美しさは、気を紛らすことであり、精神的な苦しみを忘却するためであった」と「觀此遺物慮。一悟得所遣。」(此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。)この詩の最後の聯であり、結論としている。基本的な姿勢が儒教者の観念で捉えるからこのような了見の狭い解釈となったのだ。

この『從斤竹澗越嶺溪行詩』で、“斤竹潤から多くの嶺や谷を越えての旅で、猿声・谷・巌下の雲、花の上の露、遠き山川、潤、桟道、水草などの美しきを巧みに詠じ、結句で「此を観て物慮を遣れ一たび悟りて遣る所を得」と歌っている。これは霊運は美しい山水をみているあいだだけは心の憂いを忘れることができたという。すなわち、霊運が山水の美にあこがれたのは、常にその精神的な苦しみを忘却するためであった。ここで問題となるのは「物慮」である。これに対し、江家は物欲と塵慮であるというが、一般の人々より金持であり、生活に困らぬはずであった霊運ではあるが、さらにたくさんの金銭への欲望があったのかもしれぬ。そして、塵慮とは出世への欲望であったろうか。口では忘れたといっても、これは人間の本能である。いつも心の中には忘れることができなかった。これらは中国の知識人のみならず、人類の永遠の悩みでもある。”とあらわされている。儒教者の注釈を日本で、直訳しそのまま解説しているからで、実は全く違うことをいっているのである。自然の美しさは浄土ととらえているのである。念仏を唱えることで浄土にゆけるといっているのである。


從斤竹澗越嶺溪行詩
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。
巌下雲方合。花上露猶泫。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。
#2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。
川渚屢徑複。乘流翫回轉。
蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
企石挹飛泉。攀林摘葉卷。
#3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
握蘭勤徒結。折麻心莫展。
情用賞為美。事昧竟誰辨。
觀此遺物慮。一悟得所遣。


(斤竹澗より嶺を越えて溪行す。)
猿鳴いて誠に曙【あけぼの】を知り、谷幽にして光未だ顯【あら】われず。
巌下に雲 方【まさ】に合し、花上に露猶 泫【したた】る。
逶迤【いい】として隈隩【わいおう】に傍【そ】ひ、迢遞【ちょうてい】として陘峴【けいけん】を陟【のぼ】る。

#2
澗を過ぎて既に急を厲【わた】り、桟を登って亦 緬【めん】を陵【しの】ぐ。
川渚【せんしょ】は屡【しばし】ば 徑複【けいふく】し、流に乗じて回轉【かいてん】を翫【もてあそ】ぶ。
蘋萍【ひんべい】は沈深【ちんしん】に泛び、菰蒲【こほ】は清淺【せいせん】を冒【おお】えり。
石に企【つま】だてて 飛泉を挹【く】み、林を撃ちて葉巻【ようけん】を摘む。
#3
想見【そうけん】す山阿【さんあ】の人、薜蘿【へいら】眼に在るが若し。
蘭を握りて勤【ねんごろ】に徒【いたずら】に結び、麻【ま】を折りて心展【の】ぶる莫し。
情は賞して美と為すを用いて。事 昧【くら】くして竟に誰か辨せん。
此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。


現代語訳と訳註
(本文)

從斤竹澗越嶺溪行詩
猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
巌下雲方合。花上露猶泫。
逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。


(下し文)
斤竹澗より嶺を越えて溪行す。
猿鳴いて誠に曙【あけぼの】を知り、谷幽にして光未だ顯【あら】われず。
巌下に雲 方【まさ】に合し、花上に露猶 泫【したた】る。
逶迤【いい】として隈隩【わいおう】に傍【そ】ひ、迢遞【ちょうてい】として陘峴【けいけん】を陟【のぼ】る。


(現代語訳)
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。


(訳注)
從斤竹澗越嶺溪行詩
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
斤竹澗 温州府楽清県の東七十五里の谷川の名。・溪行 谷川ぞいに行く。


猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。


巌下雲方合。花上露猶泫。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
 したたる。


逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。
逶迤 うねうねとしたさま。・隈襖 山のくま。'隈, 山曲也。'隩, 隈也。 ・迢遞 造かに遠い。・陘峴 陸に連山の切れ目、峴は小さい嶺。

石室山詩 謝霊運(康楽) 詩<55-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩442 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1143

石室山詩 謝霊運(康楽) 詩<55-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩442 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1143


当時の役人にとって詩文能力というのは、名声を博すための絶対条件であった。また、同時に腕力についても一定程度は最低限の素養としても不可欠であった。謝霊運は、その両方を兼ね備え、その上当時もっとも重要であった出自家柄も申し分なかった。ただ、支配者層から見れば、浄土教に傾倒しており、言いなりにならなかったことが彼の人生を安定したものにしなかった要因であろうと思う。『宋書』『南書』などの記述は、支配者側を正当化するためのものでしかないので、謝霊運の側から見れば真反対であるということになる。謝霊運の詩80篇を見る限り精神構造がおかしいと思われるものは全くない。


石室山詩
石室のある山での詩
清旦索幽異。放舟越坰郊。
すがすがしい 朝に、静かな此の別荘を目指してやって來る、それから小舟をきしから解き放って郊外の離れたところを超えてゆく。
苺苺蘭渚急。藐藐苔嶺高。
野イチゴがたくさん実っている、蘭が咲き誇る渚は急流である。はるか遠くまで映しい苔が生え高い峰の上まで続いている。
石室冠林陬。飛泉發山椒。
山懐に巌の空洞になっている、石橋か、冠のように変わった場所がある、泉から湧き出す水が滝となって飛び散り山の頂から噴出している。
虛泛徑千載。崢嶸非一朝。
小舟をむなしく浮かべている千年も前からの道としている、この石室山は高く聳えているのはこの朝だけではない。

#2
鄉村絕聞見。樵蘇限風霄。微戎無遠覽。總笄羨升喬。
靈域久韜隱。如與心賞交。合歡不容言。摘芳弄寒條。


清旦【せいたん】に 幽異【ゆうい】を索【もと】めんとし、舟を放ちて坰郊【けいこう】を越す。
苺苺【ぼうぼう】として蘭のある渚は急にし、藐藐【ぼうぼう】しき苔のある嶺は高し。
石室は林陬【りんしゅ】に冠たり、飛泉【ひせん】は山椒【さんしゅく】に發す。
虛しく泛かび千載に徑る、崢嶸【そうこう】は一朝に非ず。
#2
鄉村【ごうそん】 聞見【ぶんけん】を絕ち、樵【きこり】と蘇【くさかり】は風霄【ふうせい】に限【はば】まる。
微戎【びじゅう】のため遠覽【えんらん】する無し、總笄【そうべん】より升 喬を羨みしも。
靈域【れいいき】久しく韜隱【とういん】し、如し與に心賞【しんしょう】の交わりせば。
合歡【ごうかん】言を容【い】れず、芳を摘み寒條【かんじょう】を弄【もてあそ】ぶ。


現代語訳と訳註
(本文)

清旦索幽異。放舟越坰郊。苺苺蘭渚急。藐藐苔嶺高。
石室冠林陬。飛泉發山椒。虛泛徑千載。崢嶸非一朝。


(下し文)
清旦【せいたん】に 幽異【ゆうい】を索【もと】めんとし、舟を放ちて坰郊【けいこう】を越す。
苺苺【ぼうぼう】として蘭のある渚は急にし、藐藐【ぼうぼう】しき苔のある嶺は高し。
石室は林陬【りんしゅ】に冠たり、飛泉【ひせん】は山椒【さんしゅく】に發す。
虛しく泛かび千載に徑る、崢嶸【そうこう】は一朝に非ず。


(現代語訳)
石室のある山での詩
すがすがしい 朝に、静かな此の別荘を目指してやって來る、それから小舟をきしから解き放って郊外の離れたところを超えてゆく。
野イチゴがたくさん実っている、蘭が咲き誇る渚は急流である。はるか遠くまで映しい苔が生え高い峰の上まで続いている。
山懐に巌の空洞になっている、石橋か、冠のように変わった場所がある、泉から湧き出す水が滝となって飛び散り山の頂から噴出している。
小舟をむなしく浮かべている千年も前からの道としている、この石室山は高く聳えているのはこの朝だけではない。


(訳注)
石室山詩

石室のある山での詩
石室山  爛柯(らんか)山、現衢州(くしゅう)市の東南13キロ。もと石室山・石橋山ともいう。いずれも山に石室・石橋があるための命名である。爛柯山の名は後述の爛柯の故事が流布した唐代に始まり、それ以後、山の通称となる。道教の方では七十二福地の一(唐末・杜光庭「洞天福地記」)であり、北宋・張君房『雲笈七籤(うんきゅうしちせん)』巻27には七十二福地第三十に爛柯山をあげる。主峰の海抜は約180メートル。東西2キロ、南北1・9キロ。仙霞嶺の余脈である。 従来、永嘉郡(浙江省温州市永嘉県)の楠渓のほとりの山を指しているという注釈があるが、浙江省の名勝地をくまなく歩いている謝霊運は蘭渓や金華の銭塘江の上流で訪れているのである。参考として盛唐 孟浩然『尋天台山』「吾友太乙子,餐霞臥赤城。欲尋華頂去,不憚惡溪名。歇馬憑雲宿,揚帆截海行。高高翠微裏,遙見石樑橫。」『舟中曉望』「掛席東南望,青山水國遙。舳艫爭利涉,來往接風潮。問我今何去,天臺訪石橋。坐看霞色曉,疑是赤城標。」『越中逢天臺太乙子』「仙穴逢羽人,停艫向前拜。問余涉風水,何處遠行邁。登陸尋天臺,順流下吳會。茲山夙所尚,安得問靈怪。上逼青天高,俯臨滄海大。雞鳴見日出,常覿仙人旆。往來赤城中,逍遙白雲外。莓苔異人間,瀑布當空界。福庭長自然,華頂舊稱最。永此從之游,何當濟所屆。」

唐代、爛柯山の詩跡化は急速に進んだ。中唐の孟郊「爛柯石」詩には、
仙界一日内,人間千載窮。
雙棋未遍局,萬物皆爲空。
樵客返歸路,斧柯爛從風。
唯馀石橋在,猶自凌丹虹。
仙界 一日の内、人間(じんかん)(人の世) 千歳窮(つ)く。
双棋未だ局を徧(あまね)くせざるに、万物 皆な空と為る。
樵客(しょうかく)返帰の路、斧の柯(え) 爛(くさ)りて風に従う。
唯だ余(あま)す 石橋在りて、猶自(なお) 丹虹凌(しの)ぐを。

(紅い虹が天空高くかかるよう)と歌われる。
石室00


清旦索幽異。放舟越坰郊。
すがすがしい 朝に、静かな此の別荘を目指してやって來る、それから小舟をきしから解き放って郊外の離れたところを超えてゆく。
清旦 すがすがしい 朝。  ・坰郊 都から遠く離れた地。国境に近接する地区。


苺苺蘭渚急。藐藐苔嶺高。
野イチゴがたくさん実っている、蘭が咲き誇る渚は急流である。はるか遠くまで映しい苔が生え高い峰の上まで続いている。
苺苺 野イチゴがたくさん実っているさま。・藐藐 ①美しいさま。②人の教えが耳に入らない。③はるかとおい、高く遠いさま。④盛んなさま。多いさま。


石室冠林陬。飛泉發山椒。
山懐に巌の空洞になっている、石橋か、冠のように変わった場所がある、泉から湧き出す水が滝となって飛び散り山の頂から噴出している。
石室 巌により空洞で石橋のようになっている。【写真参考】 ・ 石室がアーチを描いて冠状になっている。・林陬 やまのふもと。林の中の村里。林があり坂道の過度のあたり。・山椒 山のいただき。

ishibashi00
虛泛徑千載。崢嶸非一朝。
小舟をむなしく浮かべている千年も前からの道としている、この石室山は高く聳えているのはこの朝だけではない。
崢嶸 たかくそびえるさま。

入東道路詩 謝霊運(康楽) 詩<44#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩431 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1110

入東道路詩 謝霊運(康楽) 詩<44#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩431 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1110


謝霊運が懐かしい都を出て、再び隠遁のため故郷始寧に向かうときの感情を歌ったものである。朝早く旅立ちをするのが当時の習いであったが、ちょうど大風の吹いている日であった。それも、向かい風で歩きにくいものであった。しかし、出発の日は清明節、陽暦の四月五日または六日にあたるが、旅立つにはきわめて縁起のよい日であった。再び都に来たが、無念にも、再び故郷に隠遁しに帰る謝霊運の心情は、さぞかし感慨無量なものがあったと思う。


入東道路詩(東の道路に入るの詩)#1
整駕辭金門.命旅惟詰朝.
懷居顧歸雲.指塗泝行飆.
屬值清明節.榮華感和韶.
陵隰繁綠杞.墟囿粲紅桃.
#2
鷕鷕翬方雊.纖纖麥垂苗.
オスの雉の鳴き声はきょうきょうと今まさに啼いている。しょうしょうと麥は作物栽培の畑に植え付けた苗は育ち垂れている。
隱軫邑里密.緬邈江海遼.
春の盛りの村里は春の息吹がひそかに進んでいる。はるかに遠い江河と東海がはるかにある。
滿目皆古事.心賞貴所高.
目に見えるかぎりのものすべて皆故事にかかわるものだ。そして、それは心に賞賛するものでと音いことは高い志を持ち続けることである。
魯連謝千金.延州權去朝.
魯中連は千金をもってしても高節を守って誰にも仕えず、春秋時代の呉の季札は清廉賢哲を以って知られ朝、固辞して朝立ち去った。
行路既經見.願言寄吟謠.

人生の行路は既に、経験してわかってきた、、願うことなら、詩にして吟じたり、民用にして語り伝えたい。



(東の道路に入るの詩)
駕を整えて金門を辞す、旅を命ず惟【こ】れ 詰朝【きつちょう】。
居を懐かしみ帰る雲を顧みる、塗を指し飆【おおかぜ】に泝【さかのぼ】り 行く。
属【たまた】ま 清明【せいめい】の節に値【あ】う、栄華 感じて韶【しょう】に和す。
陵隰【りょうしつ】に繁れる緑の杞【き】、墟園【きょえん】に粲【さん】たる紅桃【こうとう】。
#2
鷕鷕【えいえい】として翬【きじ】は方に雊【な】く、纖纖【せんせん】として麦は苗に垂る。
隱軫【いんしん】として邑里は密、緬邈【めんばく】として江海 遼かなり。
満目 皆な古事、心の賞するは高き所を貴ぶ。
魯連【ろれん】は千金を謝し、延州は権【かり】に朝を去る。
行路 既に見を経たり、願わくは言 吟謡に寄せんことを。


現代語訳と訳註
(本文) #2

鷕鷕翬方雊.纖纖麥垂苗.
隱軫邑里密.緬邈江海遼.
滿目皆古事.心賞貴所高.
魯連謝千金.延州權去朝.
行路既經見.願言寄吟謠.


(下し文)#2
鷕鷕【えいえい】として翬【きじ】は方に雊【な】く、纖纖【せんせん】として麦は苗に垂る。
隱軫【いんしん】として邑里 密かに、緬邈【めんばく】として江海 遼かなり。
満目 皆な古事、心の賞するは高き所を貴ぶ。
魯連【ろれん】は千金を謝し、延州は権【かり】に朝を去る。
行路 既に見を経たり、願わくは言 吟謡に寄せんことを。
 

(現代語訳)#2
オスの雉の鳴き声はきょうきょうと今まさに啼いている。しょうしょうと麥は作物栽培の畑に植え付けた苗は育ち垂れている。
春の盛りの村里は春の息吹がひそかに進んでいる。はるかに遠い江河と東海がはるかにある。
目に見えるかぎりのものすべて皆故事にかかわるものだ。そして、それは心に賞賛するものでと音いことは高い志を持ち続けることである。
魯中連は千金をもってしても高節を守って誰にも仕えず、春秋時代の呉の季札は清廉賢哲を以って知られ朝、固辞して朝立ち去った。
人生の行路は既に、経験してわかってきた、、願うことなら、詩にして吟じたり、民用にして語り伝えたい。


(訳注)#2
鷕鷕翬方雊.纖纖麥垂苗.

鷕鷕【きょうきょう】として翬【きじ】は方に雊【な】く、纖纖【せんせん】として麦は苗に垂る。
オスの雉の鳴き声はきょうきょうと今まさに啼いている。しょうしょうと麥は作物栽培の畑に植え付けた苗は育ち垂れている。
鷕鷕 オスの雉の鳴き声のさま。・ 作物栽培や植林を行う場合に畑や林地に植えつける若い植物を苗


軫邑里密.緬邈江海遼.
隱軫【いんしん】として邑里 密かに、緬邈【めんばく】として江海 遼かなり。
春の盛りの村里は春の息吹がひそかに進んでいる。はるかに遠い江河と東海がはるかにある。
・隱 さかんなさま。・緬邈 1 はるかに遠い。「緬邈(めんばく)」 2 細く長い糸。


滿目皆古事.心賞貴所高.
満目 皆な古事、心の賞するは高き所を貴ぶ。
目に見えるかぎりのものすべて皆故事にかかわるものだ。そして、それは心に賞賛するものでと音いことは高い志を持ち続けることである。
満目 見わたすかぎり。目に見えるかぎり。


魯連謝千金.延州權去朝.
魯連【ろれん】は千金を謝し、延州は権【かり】に朝を去る。
魯中連は千金をもってしても高節を守って誰にも仕えず、春秋時代の呉の季札は清廉賢哲を以って知られ朝、固辞して朝立ち去った。
魯連 魯仲連(約西元前305年~西元前245年)戦国時代の斉の雄弁家。高節を守って誰にも仕えず、諸国を遊歴した。生没年未詳。魯連。・延州 季札(きさつ、生没年不詳)は、中国春秋時代の呉で活躍した政治家。姓は姫。呉の初代王寿夢の少子。清廉賢哲を以って知られ、延陵の季子として知られる。


行路既經見.願言寄吟謠.
行路 既に見を経たり、願わくは言 吟謡に寄せんことを。
人生の行路は既に、経験してわかってきた、、願うことなら、詩にして吟じたり、民用にして語り伝えたい。




延州權去朝.兄弟相続・末子相続の風習を儒教的な美談をいう。
春秋呉王寿夢は息子のうち賢人として名高い季札を跡継ぎとしたいと思ったが、季札は兄を差し置いて王位に即くことを拒み、野に下った。それでも諦め切れなかった寿夢は、死に際して季札に後を継がせるように遺言したので長子の諸樊は季札の元へ赴いて王位につくことを願ったが、季札はまたしてもこれを拒んだ。そこで季札以外の兄弟たちは相談して王位を兄弟で継承していくことにし、ひとまず諸樊が王位に即いた。
諸樊の死後、次子余祭は季札に即位を願ったが季札はこれを拒んだ。そこで余祭はせめて領内の一都市の治世を担当してもらうように望み、季札もこれを断りきれず延陵の地に封ぜられた。季札はこの地を見事に治め、この後季札は延陵の季子と呼ばれるようになる。
その後、三男余昧の死後、またしても使者が季札の元を訪れて王位に就くことを願ったが、季札はまたしてもこれを拒み、王位は結局余昧の子である僚[2]へと継承された。これを不服に思った諸樊の子の光が呉王僚を殺して闔閭として即位すると、呉は最盛期を迎えて春秋五覇の一国に数えられるまでになった。

入東道路詩 謝霊運(康楽) 詩<44#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩430 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1107

入東道路詩 謝霊運(康楽) 詩<44#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩430 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1107
(東の道路に入るの詩)


謝霊運の行動に対しては、始寧の田舎に隠遁していたのに、急に都に呼びよせられ、謝霊運は不満であっても、他からみれば高い位を与えられ、常に天子の宴会などでは詩文の才をもてはやされたことは、一方では快く思わなかった人も多くした。それは、諫言、讒言とされた。こうして、文帝のこの温かい思いやりも謝霊運には普通なら静かに故郷に帰って謹慎をしているべきであったが、暇はでき、金はある、食物も豊かであり、そのうえ、名酒のあるところで、毎日毎日、気ままな生活をした。そこで自己の不満をだれかれとなくぶちまけていたことが、都に届いた。謝霊運の反対派によい口実を与える結果になった。遠く都の建康まで、誇張されて伝えられた。ついに、御史中丞の樽隆の進言でその官位を退かねはならなくなったのは、428年元嘉五年、謝霊運四十四歳のときである。再任してからおよそ三年めのことであった。
この時、作った作に、「東の道路に入るの詩」がある。従游京口北固應詔詩は都に来た時の詩であるがこの詩と比較しても面白い。


入東道路詩 #1
都を出て東の始寧に向かう道路に入る。
整駕辭金門.命旅惟詰朝.
御車用の馬を整えて金馬門を辞して城郭を出る。この旅を命じられたのは昨日でこの朝、旅立てということであった。
懷居顧歸雲.指塗泝行飆.
都の居宅を懐かしみながら帰りに向かう雲を顧みた。道を目指していき始めると春の大風が向かい風となる。
屬值清明節.榮華感和韶.
時節は姓名節であり、旅立つには最適の時節である。春の宮廷の栄華を祝う詔楽の音楽はこの旅立に合わせてくれる感じである。
陵隰繁綠杞.墟囿粲紅桃.

丘や窪地の湿地などに緑のクコの木が広がり、村落の農地、庭園に赤く桃の花が咲き誇る。
#2
鷕鷕翬方雊.纖纖麥垂苗.
隱軫邑里密.緬邈江海遼.
滿目皆古事.心賞貴所高.
魯連謝千金.延州權去朝.
行路既經見.願言寄吟謠.


(東の道路に入るの詩)
駕を整えて金門を辞す、旅を命ず惟【こ】れ 詰朝【きつちょう】。
居を懐かしみ帰る雲を顧みる、塗を指し飆【おおかぜ】に泝【さかのぼ】り 行く。
属【たまた】ま 清明【せいめい】の節に値【あ】う、栄華 感じて韶【しょう】に和す。
陵隰【りょうしつ】に繁れる緑の杞【き】、墟園【きょえん】に粲【さん】たる紅桃【こうとう】。
#2
鷕鷕【えいえい】として翬【きじ】は方に雊【な】く、纖纖【せんせん】として麦は苗に垂る。
隱軫【いんしん】として邑里は密、緬邈【めんばく】として江海 遼かなり。
満目 皆な古事、心の賞するは高き所を貴ぶ。
魯連【ろれん】は千金を謝し、延州は権【かり】に朝を去る。
行路 既に見を経たり、願わくは言 吟謡に寄せんことを。


現代語訳と訳註
(本文)
#1
入東道路詩
整駕辭金門.命旅惟詰朝.
懷居顧歸雲.指塗泝行飆.
屬值清明節.榮華感和韶.
陵隰繁綠杞.墟囿粲紅桃.


(下し文)
(東の道路に入るの詩)
駕を整えて金門を辞す、旅を命ず惟【こ】れ 詰朝【きつちょう】。
居を懐かしみ帰る雲を顧みる、塗を指し飆【おおかぜ】に泝【さかのぼ】り 行く。
属【たまた】ま 清明【せいめい】の節に値【あ】う、栄華 感じて韶【しょう】に和す。
陵隰【りょうしつ】に繁れる緑の杞【き】、墟園【きょえん】に粲【さん】たる紅桃【こうとう】。


(現代語訳)
都を出て東の始寧に向かう道路に入る。
御車用の馬を整えて金馬門を辞して城郭を出る。この旅を命じられたのは昨日でこの朝、旅立てということであった。
都の居宅を懐かしみながら帰りに向かう雲を顧みた。道を目指していき始めると春の大風が向かい風となる。
時節は姓名節であり、旅立つには最適の時節である。春の宮廷の栄華を祝う詔楽の音楽はこの旅立に合わせてくれる感じである。
丘や窪地の湿地などに緑のクコの木が広がり、村落の農地、庭園に赤く桃の花が咲き誇る。


(訳注) #1
入東道路詩

(東の道路に入るの詩)
都を出て東の始寧に向かう道路に入る。


整駕辭金門.命旅惟詰朝.
駕を整えて金門を辞す、旅を命ず惟【こ】れ 詰朝【きつちょう】。
御車用の馬を整えて金馬門を辞して城郭を出る。この旅を命じられたのは昨日でこの朝、旅立てということであった。
金門 金馬門:漢代の未央宮(びおうきゅう)の門の一。側臣が出仕して下問を待つ所。金馬。金門。・詰朝 明日の明方、明旦。


懷居顧歸雲.指塗泝行飆.
居を懐かしみ帰る雲を顧みる、塗を指し飆【おおかぜ】に泝【さかのぼ】り 行く。
都の居宅を懐かしみながら帰りに向かう雲を顧みた。道を目指していき始めると春の大風が向かい風となる。


屬值清明節.榮華感和韶.
属【たまた】ま 清明【せいめい】の節に値【あ】う、栄華 感じて韶【しょう】に和す。
時節は姓名節であり、旅立つには最適の時節である。春の宮廷の栄華を祝う詔楽の音楽はこの旅立に合わせてくれる感じである。
清明節 、二十四節気の第5。三月節(旧暦2月後半 - 3月前半)。現在広まっている定気法では太陽黄経が15度のときで4月5日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から7/24年(約106.53日)後で4月7日ごろ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の穀雨前日までである。・韶(楽) 古来より中国の宮廷に伝わる音楽。その音はあるいは勇ましくあるいは寂しく溜息がもれるという。


陵隰繁綠杞.墟囿粲紅桃.
陵隈【りょうわい】に繁れる緑の杞【き】、墟囿【きょゆう】に粲【さん】たる紅桃【こうとう】。
丘や窪地の湿地などに緑のクコの木が広がり、村落の農地、庭園に赤く桃の花が咲き誇る。
陵隰 山陵和低湿之地。陵隰相望。・綠杞 クコ・墟囿 おか、村落の農地。庭園の迹。墟は丘。囿は庭、庭園。御苑のような庭園。従遊京口北固應詔 #1
玉璽誡誠信、黄屋示崇高。事為名教用、道以神理超。
昔聞汾水遊、今見塵外鑣。鳴笳發春渚、税鑾登山椒。
張組眺倒景、列筵矚歸潮。遠巌映蘭薄、白日麗江皐。
原濕荑縁柳、墟囿散紅桃。皇心美陽澤、萬象咸光昭。
顧己枉維縶、撫志慙場苗。工拙各所宜、終以返林巣。
曾是縈舊想、覽物奏長謡。

石壁精舎還湖中作 謝霊運(康楽) 詩<42#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩423 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1086

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石壁精舎還湖中作 謝霊運(康楽) 詩<42#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩423 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1086
(石壁精舎より湖中に還る作)


謝霊運は仏教の勉学と修行、その合間にあちこちと遊歩した。巫湖の南に南山、北に北山という山があったが、謝霊運はいつも石壁精舎の南山に居住し、南山から北山に向かおうとして、巫湖を経て、船中で眺めた美景を歌った秀作に、(石壁精舎より湖中に還る作)を作っている。これは『文選』の巻二十二の 「遊覧」に選ばれている。別に-『於南山往北山経湖中瞻眺』(南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり)―もある。


石壁精舍還湖中作詩
昏旦變氣候。山水含清暉。
午前中とくらべ夕がたになると気候が変わりってきた、(わたしの勉学修行に満足感があり)山も水も清々しい光を含んでいるようだ。
清暉能娛人。遊子憺忘歸。
その清らかな光彩は人をこころから楽しませることができ、旅ゆく人の心を和ませてたのしむため帰ることをわすれるのである。
出谷日尚早。入舟陽已微。
石壁精舎のある谷を出るときは日はまだ高かったが、船に乗るころには太陽はもう暗く微かになっていた。
林壑斂暝色。雲霞收夕霏。』
林や谷、山影に夕暮れの色が深くこめてきている、空は雲や夕霞に夕映えがはえていて、やまかげには夕靄がすっかり治まってしまっている。

#2
芰荷迭映蔚。蒲稗相因依。
舟の近くには菱と蓮と、たがいに色映えて繁り、岸辺には蒲(がま)と稗(ひえ)と.か寄り合って密生している。
披拂趨南徑。愉悅偃東扉。
覆われた小枝を拂って居室の南の小徑を小走りに歩き草をおしあけていき、私は心なごませわが家の東の窓辺に身を横たえるのである。
慮澹物自輕。意愜理無違。
私の心は静かにさっぱりしているので、煩わしい物情に惹かれることがないし、自然と物欲を軽視する考えであり、心を悩ますことがないのである。また私の心持ちは浄土を願うことだけなので、その浄土念仏の思想真理に違うことがないのである。
寄言攝生客。試用此道推。』

浄土念仏の思想真理により、物欲、自分の生命だけを大切に守ろうとする人々に言ってやりたいのだが、試みに浄土念仏の思想真理よって心安らぎ、物情・物欲に心惑わず、楽しんで浄土念仏の思想真理を唱えるだけでこころおちつくということを悟るようにしてみるのである。

(石壁精舎還湖中作。石壁精舎より湖中に還りて作る)
昏旦【こんたん】に気候【きこう】変じ、山水 清暉【せいき】を。
清暉 能く人を娯【たのし】ませ、游子【ゆうし】憺【やす】みて帰るを忘れる。
谷を出でて日尚はやく、舟に入りて陽已に微なり。
林壑【りんがく】瞑色【めいしょく】を斂【おさ】め、雲霞 夕霏【せきひ】を収む。」
#2
芰荷【きか】迭【たがい】に映蔚【えいい】し、蒲稗【ほはい】相い因【いん】依【い】す。
被払【ひふつ】して南径【なんけい】に趨【おもむ】き、愉悦【ゆえつ】して東扉【とうひ】に偃【ふ】す。
慮【おもい】澹【しずか】にして物自ら軽く、意 愜【かな】いて理 違【たが】う無し。
言を寄す摂生【せつせい】の客、試みに此処の道を用って推せ。」

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現代語訳と訳註
(本文)
#2
芰荷迭映蔚。蒲稗相因依。
披拂趨南徑。愉悅偃東扉。
慮澹物自輕。意愜理無違。
寄言攝生客。試用此道推。』


(下し文) #2
芰荷【きか】迭【たがい】に映蔚【えいい】し、蒲稗【ほはい】相い因【いん】依【い】す。
被払【ひふつ】して南径【なんけい】に趨【おもむ】き、愉悦【ゆえつ】して東扉【とうひ】に偃【ふ】す。
慮【おもい】澹【しずか】にして物自ら軽く、意 愜【かな】いて理 違【たが】う無し。
言を寄す摂生【せつせい】の客、試みに此処の道を用って推せ。」


(現代語訳)
舟の近くには菱と蓮と、たがいに色映えて繁り、岸辺には蒲(がま)と稗(ひえ)と.か寄り合って密生している。
覆われた小枝を拂って居室の南の小徑を小走りに歩き草をおしあけていき、私は心なごませわが家の東の窓辺に身を横たえるのである。
私の心は静かにさっぱりしているので、煩わしい物情に惹かれることがないし、自然と物欲を軽視する考えであり、心を悩ますことがないのである。また私の心持ちは浄土を願うことだけなので、その浄土念仏の思想真理に違うことがないのである。
浄土念仏の思想真理により、物欲、自分の生命だけを大切に守ろうとする人々に言ってやりたいのだが、試みに浄土念仏の思想真理よって心安らぎ、物情・物欲に心惑わず、楽しんで浄土念仏の思想真理を唱えるだけでこころおちつくということを悟るようにしてみるのである。


(訳注) #2
芰荷迭映蔚。蒲稗相因依。
舟の近くには菱と蓮と、たがいに色映えて繁り、岸辺には蒲(がま)と稗(ひえ)と.か寄り合って密生している。
芰荷 ひしとはす。○迭映蔚 たがいに色はえて茂っている。○満稗 がまとひえ。水草。○困依 寄りかかり合って生える。密生する。


披拂趨南徑。愉悅偃東扉。
覆われた小枝を拂って居室の南の小徑を小走りに歩き草をおしあけていき、私は心なごませわが家の東の窓辺に身を横たえるのである。
披払 小枝や草を推しわけ払う。○南径 家の南の小道。○東扉 家の東の扉の内。


慮澹物自輕。意愜理無違。
私の心は静かにさっぱりしているので、煩わしい物情に惹かれることがないし、自然と物欲を軽視する考えであり、心を悩ますことがないのである。また私の心持ちは浄土を願うことだけなので、その浄土念仏の思想真理に違うことがないのである。
○澹 淡。静かになごやかにさっぱりしている。○物自転 無欲であることで物欲を重んじない。○意愜 心持が快適である。念仏を唱えることで憂いが無くなり満足感を得る。○理無違 浄土念仏の真理にたがえることはない。


寄言攝生客。試用此道推。』
浄土念仏の思想真理により、物欲、自分の生命だけを大切に守ろうとする人々に言ってやりたいのだが、試みに浄土念仏の思想真理よって心安らぎ、物情・物欲に心惑わず、楽しんで浄土念仏の思想真理を唱えるだけでこころおちつくということを悟るようにしてみるのである。



(解説)
 謝霊運(385年(太元10年) - 433年(元嘉10年))は中国の東晋・南朝宋代を生きた詩人・官僚。陳郡陽夏(河南省太康)の人。爵位から謝康楽とも言われる。六朝期を代表する詩人で山水を詠じた詩が名高く、山水詩の祖とされる。

 河南省で、江南大族の出身であり、名将だった謝玄が祖父である。406年、20歳の時に皇帝に仕えたものの、謀反の疑いをかけられ、広州に流刑とされた後、その地でも疑いをかけられ、処刑の上、死体を市中にさらし者にされた。

謝霊運の浄土宗的な詩は、道教儒教に嫌気がしていた人民の喝采を得ていた。浄土教は為政者を必要としないしそうであり、謝霊運は危険分子とされたのである。そして、為政者に対し歯に衣着せぬ言動は、邪魔であった。多くの歴史書は為政者によって書かれる。謝霊運に残っているのは為政者が許せる範囲の詩文でしかない。気ままとかお坊ちゃんとかいうのは為政者の見方である。詩の一つ一つ見ていくと、世に伝えられている謝霊運像は間違いであるようにしか見えない。

石壁精舎還湖中作 謝霊運(康楽) 詩<42#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩422 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1083

石壁精舎還湖中作 謝霊運(康楽) 詩<42#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩422 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1083

(石壁精舎より湖中に還る作)


謝霊運は仏教の勉学と修行、その合間にあちこちと遊歩した。巫湖の南に南山、北に北山という山があったが、謝霊運はいつも石壁精舎の南山に居住し、南山から北山に向かおうとして、巫湖を経て、船中で眺めた美景を歌った秀作に、(石壁精舎より湖中に還る作)を作っている。これは『文選』の巻二十二の 「遊覧」に選ばれている。別に-『於南山往北山経湖中瞻眺』(南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり)―もある。



石壁精舍還湖中作詩
南の山の石壁精舍から北山の住まいへ帰る巫湖の中に船から見ての作詩。
昏旦變氣候。山水含清暉。
午前中とくらべ夕がたになると気候が変わりってきた、(わたしの勉学修行に満足感があり)山も水も清々しい光を含んでいるようだ。
清暉能娛人。遊子憺忘歸。
その清らかな光彩は人をこころから楽しませることができ、旅ゆく人の心を和ませてたのしむため帰ることをわすれるのである。
出谷日尚早。入舟陽已微。
石壁精舎のある谷を出るときは日はまだ高かったが、船に乗るころには太陽はもう暗く微かになっていた。
林壑斂暝色。雲霞收夕霏。』
林や谷、山影に夕暮れの色が深くこめてきている、空は雲や夕霞に夕映えがはえていて、やまかげには夕靄がすっかり治まってしまっている。

#2
芰荷迭映蔚。蒲稗相因依。
披拂趨南徑。愉悅偃東扉。
慮澹物自輕。意愜理無違。
寄言攝生客。試用此道推。』


(石壁精舎還湖中作。石壁精舎より湖中に還りて作る)
昏旦【こんたん】に気候【きこう】変じ、山水 清暉【せいき】を。
清暉 能く人を娯【たのし】ませ、游子【ゆうし】憺【やす】みて帰るを忘れる。
谷を出でて日尚はやく、舟に入りて陽已に微なり。
林壑【りんがく】瞑色【めいしょく】を斂【おさ】め、雲霞 夕霏【せきひ】を収む。」

#2
芰荷【きか】迭【たがい】に映蔚【えいい】し、蒲稗【ほはい】相い因【いん】依【い】す。
被払【ひふつ】して南径【なんけい】に趨【おもむ】き、愉悦【ゆえつ】して東扉【とうひ】に偃【ふ】す。
慮【おもい】澹【しずか】にして物自ら軽く、意 愜【かな】いて理 違【たが】う無し。
言を寄す摂生【せつせい】の客、試みに此処の道を用って推せ。」


現代語訳と訳註
(本文) 石壁精舍還湖中作詩

昏旦變氣候。山水含清暉。
清暉能娛人。遊子憺忘歸。
出谷日尚早。入舟陽已微。
林壑斂暝色。雲霞收夕霏。』


(下し文)
(石壁精舎還湖中作。石壁精舎より湖中に還りて作る)
昏旦【こんたん】に気候【きこう】変じ、山水 清暉【せいき】を。
清暉 能く人を娯【たのし】ませ、游子【ゆうし】憺【やす】みて帰るを忘れる。
谷を出でて日尚はやく、舟に入りて陽已に微なり。
林壑【りんがく】瞑色【めいしょく】を斂【おさ】め、雲霞 夕霏【せきひ】を収む。」


(現代語訳)
南の山の石壁精舍から北山の住まいへ帰る巫湖の中に船から見ての作詩。
午前中とくらべ夕がたになると気候が変わりってきた、(わたしの勉学修行に満足感があり)山も水も清々しい光を含んでいるようだ。
その清らかな光彩は人をこころから楽しませることができ、旅ゆく人の心を和ませてたのしむため帰ることをわすれるのである。
石壁精舎のある谷を出るときは日はまだ高かったが、船に乗るころには太陽はもう暗く微かになっていた。
林や谷、山影に夕暮れの色が深くこめてきている、空は雲や夕霞に夕映えがはえていて、やまかげには夕靄がすっかり治まってしまっている。

鳥居(3)

(訳注)
石壁精舍還湖中作詩

南の山の石壁精舍から北山の住まいへ帰る巫湖の中に船から見ての作詩。
石壁精舎 「精舎は今の読書斎走れなり」と。心をやすめて棲む所を精舎という。○湖中 謝霊運遊名山志に「巫湖は三面悉く高山水渚にのぞみ、山の渓澗凡そ五処。南の第一谷は今も在り。所謂石壁精舎なり」とある。
故郷の会稽の巫湖の中から見上げ眺めた風景。湖の南北の山に仏教修行館や謝霊運の居所があり、南山から北山に行く途中の作。
紹興中部の山会平原 (山陰―会稽平原) は, もともと沼沢地. であった。現在, 水郷風景が広がっている
会稽の曹娥なる女子は、その父が巫覡であったが、五月五日、(父は)神を迎えるため長江の大波に逆らって溺死した。紹興市東浦鎮。古い景観を残す水郷地帯。


昏旦變氣候。山水含清暉。
午前中とくらべ夕がたになると気候が変わりってきた、(わたしの勉学修行に満足感があり)山も水も清々しい光を含んでいるようだ


清暉能娛人。遊子憺忘歸。
その清らかな光彩は人をこころから楽しませることができ、旅ゆく人の心を和ませてたのしむため帰ることをわすれるのである。
 心をなごませて楽しむことができる。


谷日尚早。入舟陽已微。
石壁精舎のある谷を出るときは日はまだ高かったが、船に乗るころには太陽はもう暗く微かになっていた。
 口光。○林璧 林や谷の蔭。○赦瞑色 夕暮れの色を深くこめる。


林壑斂暝色。雲霞收夕霏。』
林や谷、山影に夕暮れの色が深くこめてきている、空は雲や夕霞に夕映えがはえていて、やまかげには夕靄がすっかり治まってしまっている。
雲霞 夕やけ雲。○夕霏 夕靄。

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立石壁招提精舎 謝霊運(康楽) 詩<41#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩421 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1080

立石壁招提精舎 謝霊運(康楽) 詩<41#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩421 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1080
(石壁に招提精舎を立つ)

浄土教に厚く帰依していた謝霊運は浮き世の無常を強く感じ、衆生済度をも兼ねて仏寺を建立した。それを詠じたものに、「石壁に招提精舎を立つ」の作がある。この精舎については諸説あるが読書斎であり、慧遠にいたく帰依し、浄土教を信じていたので、謝霊運の仏教修行の場であった。


石壁立招提精舍詩
四城有頓躓。三世無極已。
浮歡昧眼前。沉照貫終始。
壯齡緩前期。頹年迫暮齒。
揮霍夢幻頃。飄忽風電起。
#2
良緣迨未謝。時逝不可俟。
天子との良縁はまだなく未だに心許せることにはなることがない。そうしている間に時は過ぎ去ってゆきやがてこの身が塵となっていくには忍びない。
敬擬靈鷲山。尚想祗洹軌。
ここを靈鷲山として霊山浄土の修行の場としたい、そしてその上祗洹精舎と位置付けたいのだ。
絕溜飛庭前。高林映窗裏。
この場所では、とどめ置くことはしないので精神統一の場から飛び立つこともある。高い林の上から窓辺に映る日常を見ることである。
禪室棲空觀。講宇析妙理。

心静かに修行しているこの空間を見て棲むことである、宇宙を講じてその真理を悟ることができる。

(石壁に招提精舎を立つ)
四城に頓瞑【とんめい】有り、三世【さんせい】は無極【はてなき】のみ。
浮きたる歓びは眼前を昧【くら】くし、沈照【ちんしょう】して終始を貫く。
壮齢【そうれい】 前期に緩【ゆる】く、頹年【たいねん】 暮歯【ろうじん】に迫り、揮霍【はや】きこと夢・幻【まぼろし】の頃、飄忽【ひょうこつ】に風電【ふうでん】 起こり。
#2
良縁【りょうえん】 未だ謝せざるに迨【いた】る、時は逝【ゆ】き挨つ可からず。
敬みて靈鷲山【りょうじゅせん】に擬し、尚お想う 祗洹【ぎおん】の軌。
絶溜【ぜつりゅう】 飛庭【ひてい】の前、高き林 窗裏【そうり】に映じ。
禅室【ぜんしつ】にて空観【くうかん】を棲【すま】し、講字【こくじ】にて妙理【みょうり】を析【わ】かつ。

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現代語訳と訳註
(本文)
#2
良緣迨未謝。時逝不可俟。
敬擬靈鷲山。尚想祗洹軌。
絕溜飛庭前。高林映窗裏。
禪室棲空觀。講宇析妙理。


(下し文) #2
良縁【りょうえん】 未だ謝せざるに迨【いた】る、時は逝【ゆ】き挨つ可からず。
敬みて靈鷲山【りょうじゅせん】に擬し、尚お想う 祗洹【ぎおん】の軌。
絶溜【ぜつりゅう】 飛庭【ひてい】の前、高き林 窗裏【そうり】に映じ。
禅室【ぜんしつ】にて空観【くうかん】を棲【すま】し、講字【こくじ】にて妙理【みょうり】を析【わ】かつ。


(現代語訳)
天子との良縁はまだなく未だに心許せることにはなることがない。そうしている間に時は過ぎ去ってゆきやがてこの身が塵となっていくには忍びない。
ここを靈鷲山として霊山浄土の修行の場としたい、そしてその上祗洹精舎と位置付けたいのだ。
この場所では、とどめ置くことはしないので精神統一の場から飛び立つこともある。高い林の上から窓辺に映る日常を見ることである。
心静かに修行しているこの空間を見て棲むことである、宇宙を講じてその真理を悟ることができる。


(訳注) #2
良緣迨未謝。時逝不可俟。
天子との良縁はまだなく未だに心許せることにはなることがない。そうしている間に時は過ぎ去ってゆきやがてこの身が塵となっていくには忍びない。


敬擬靈鷲山。尚想祗洹軌。
ここを靈鷲山として霊山浄土の修行の場としたい、そしてその上祗洹精舎と位置付けたいのだ。
霊鷲山【りょうじゅせん】インドのビハール州のほぼ中央に位置する山。釈迦仏が無量寿経や法華経を説いたとされる山として知られる。霊山浄土(りょうぜんじょうど) とされる。霊山会上ともいう。もし世界が毀損しても未来永劫、釈迦仏がここに常住して法を説くことを意味する。○祗洹 祇園精舎 祇樹給孤独園精舎は、中インドのシュラーヴァスティー(舎衛城)にあった寺院で、釈迦が説法を行ったとされる場所。天竺五精舎(釈迦在世にあった五つの寺院)の一つ。


絕溜飛庭前。高林映窗裏。
この場所では、とどめ置くことはしないので精神統一の場から飛び立つこともある。高い林の上から窓辺に映る日常を見ることである。
絕溜 とどめ置くことを拒絶する。○飛庭前 修行の場寄り飛び立つ。客観的に見ること。○高林 たかいはやし。○映窗裏 窓辺に映る。


禪室棲空觀。講宇析妙理。
心静かに修行しているこの空間を見て棲むことである、宇宙を講じてその真理を悟ることができる。
禪室 官を辞して初めて味わえる浄土宗の修行三昧の日々、心をやすめて棲むところであったものである。○棲空觀 この空間を見て棲むこと。○講宇 宇宙を講じること。○妙理 真理を悟ること。


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仏教へのあこがれは早くから憤っていたが、この詩では謝霊運は人生が無常で、夢・幻のようなもので、今、若いといっても、やがて老人となり、死が訪れる。そこで、その悩みから解脱するために、祇園精舎、仏寺を作り、霊山浄土を唱え、専心に仏教三昧の生活を送りたいという。役人生活をやめた現在、仏教専一にすることができるようになった。
謝霊運の温州永嘉での毎日は、自分の身が次第に塵となっていくような無力感でどうしようもなかったのであろう。こうして、故郷に帰り、石壁精舎を建立しやっと精神的に落ち着いたのである。この差霊運の心境をよく陶淵明と比較されるがかなり違っている。

立石壁招提精舎 謝霊運(康楽) 詩<41#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩420 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1077

立石壁招提精舎 謝霊運(康楽) 詩<41#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩420 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1077
(石壁に招提精舎を立つ)

浄土教に厚く帰依していた謝霊運は浮き世の無常を強く感じ、衆生済度をも兼ねて仏寺を建立した。それを詠じたものに、「石壁に招提精舎を立つ」の作がある。この精舎についてはしょせつあるが読書斎であり、慧遠にいたく帰依し、浄土教を信じていたので、謝霊運の仏教修行の場であった。


石壁立招提精舍詩
石壁という場所で、招提=修行場、書斎のような建物を建てての詩。
四城有頓躓。三世無極已。
城郭の四方にはもっぱらつまずくことがあるものだ、過去、現在、未来にわたってきわめることはないものだ。
浮歡昧眼前。沉照貫終始。
浮ついている歓びは目の前にあることでさえ見えないことがある、暗く沈んだり明るく照らされたりしてはじめから終わりまで貫くことである。
壯齡緩前期。頹年迫暮齒。
壮年の歳になることは人生の前半期であり緩やかに過ごすものであるが、人生の老年期には晩年にせまるのである。
揮霍夢幻頃。飄忽風電起。

ぱっとどびちり振り払うことは夢まぼろしという時もあるし、突然掻かき曇って風や雷がおこることもある。

#2
良緣迨未謝。時逝不可俟。
敬擬靈鷲山。尚想祗洹軌。
絕溜飛庭前。高林映窗裏。
禪室棲空觀。講宇析妙理。


(石壁に招提精舎を立つ)
四城に頓瞑【とんめい】有り、三世【さんせい】は無極【はてなき】のみ。
浮きたる歓びは眼前を昧【くら】くし、沈照【ちんしょう】して終始を貫く。
壮齢【そうれい】 前期に緩【ゆる】く、頹年【たいねん】 暮歯【ろうじん】に迫り、揮霍【はや】きこと夢・幻【まぼろし】の頃、飄忽【ひょうこつ】に風電【ふうでん】 起こり。

#2
良縁【りょうえん】 未だ謝せざるに迨【いた】る、時は逝【ゆ】き挨つ可からず。
敬みて靈鷲山【りょうじゅせん】に擬し、尚お想う 祗洹【ぎおん】の軌。
絶溜【ぜつりゅう】 飛庭【ひてい】の前、高き林 窗裏【そうり】に映じ。
禅室【ぜんしつ】にて空観【くうかん】を棲【すま】し、講字【こくじ】にて妙理【みょうり】を析【わ】かつ。


現代語訳と訳註
(本文)

石壁立招提精舍詩
四城有頓躓。三世無極已。
浮歡昧眼前。沉照貫終始。
壯齡緩前期。頹年迫暮齒。
揮霍夢幻頃。飄忽風電起。


(下し文)
四城に頓躓【とんち】有り、三世【さんせい】は無極【はてなき】のみ。
浮きたる歓びは眼前を昧【くら】くし、沈照【ちんしょう】して終始を貫く。
壮齢【そうれい】 前期に緩【ゆる】く、頹年【たいねん】 暮歯【ろうじん】に迫り、揮霍【はや】きこと夢・幻【まぼろし】の頃、飄忽【ひょうこつ】に風電【ふうでん】 起こり。


(現代語訳)
石壁という場所で、招提=修行場、書斎のような建物を建てての詩。
城郭の四方にはもっぱらつまずくことがあるものだ、過去、現在、未来にわたってきわめることはないものだ。
浮ついている歓びは目の前にあることでさえ見えないことがある、暗く沈んだり明るく照らされたりしてはじめから終わりまで貫くことである。
壮年の歳になることは人生の前半期であり緩やかに過ごすものであるが、人生の老年期には晩年にせまるのである。


(訳注)
石壁立招提精舍詩
石壁という場所で、招提=修行場、書斎のような建物を建てる。
官を辞して初めて味わえる浄土宗の修行三昧の日々、心をやすめて棲むところであったものである。
石壁 崖下のような場所。石壁という場所、地名。○ 建立したのである。○招提 修行場、書斎のような建物。○精舍 心をやすめて棲むところであったもの。


四城有頓躓。三世無極已。
城郭の四方にはもっぱらつまずくことがあるものだ、過去、現在、未来にわたってきわめることはないものだ。
四城 城郭の四方。○頓躓 頓1 いちずなさま。ひたすら。2 完全にその状態であるさま。3 向こう見ずなさま。また、強引で粗暴なさま。躓【ち】つまずくこと。また、失敗すること。○三世 過去、現在、未来。


浮歡昧眼前。沉照貫終始。
浮ついている歓びは目の前にあることでさえ見えないことがある、暗く沈んだり明るく照らされたりしてはじめから終わりまで貫くことである。
浮歡 浮ついている歓び。○昧眼前 目の前にあることでさえ見えないこと。○沉照 暗く沈んだり明るく照らされたりすること。○貫終始 はじめから終わりまで貫くこと。


壯齡緩前期。頹年迫暮齒。
壮年の歳になることは人生の前半期であり緩やかに過ごすものであるが、人生の老年期には晩年にせまるのである。
暮歯【ぼし】老年。晩年。


揮霍夢幻頃。飄忽風電起。
ぱっとどびちり振り払うことは夢まぼろしという時もあるし、突然掻かき曇って風や雷がおこることもある。
揮霍 ぱっとどびちり振り払うこと。○飄忽 突然掻かき曇る。○風電起 風や雷がおこること。

夜宿石門詩 謝霊運(康楽) 詩<39#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩421 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1080

夜宿石門詩 謝霊運(康楽) 詩<39#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩421 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1080


夜宿石門詩
朝搴苑中蘭,畏彼霜下歇。
暝還雲際宿,弄此石上月。
鳥鳴識夜棲,木落知風發。」
異音同至听,殊響俱清越。
ちがった音がともに聞こえて来て、殊なつた響きかどれも皆清々しくて平常の域を越えてくる。
妙物莫為賞,芳醑誰與伐。
すぐれた物といって我がために誉めてくれる人がなく、芳しい酒は誰に自慢できるというのか。
美人竟不來,陽阿徒晞發。」

楚辞に私の慕うよい人はとうとう来ない。「夕宿兮帝郊、君誰須兮雲之際。與女遊兮九河、衝風至兮水揚波。與女沐兮咸池、晞女髮兮陽之阿。望美人兮未來、臨風怳兮浩歌。孔蓋兮翠旍、登九天兮撫彗星。」(夕に帝の郊【こう】に宿れば、君誰をか雲の際【はて】に須【ま】つ。女なんじと九河【きゅうか】に遊べば、衝風【しょうふう】至って水波を揚ぐ。女【なんじ】と咸池【かんち】に沐【もく】し、女【なんじ】の髪を陽【よう】の阿【あ】に晞【かわ】かさん。美人を望めどもいまだ来らず、風に臨【のぞ】んで怳【こう】として浩歌【こうか】す。)(少司命)とあるが、私も友人か来ないので、むなしく伝説の日の照る山の端で、ひとり髪を乾かすだけである。同じ心の友がいないのは寂しいことである。

(夜石門に宿る詩)
朝に苑中の蘭を搴【と】り、彼の霜下に歇【つ】くるを畏【おそ】る。
瞑【めい】に雲際【うんさい】の宿に還【かえ】り、此の石上の月を弄【もてあそ】ぶ。
鳥鳴いて夜棲むを識り、木落ちて風の發【おこ】るを知る。
異音【いおん】同じく听【せき】を致し、殊なれる響き 俱に清越たり。妙物 賞を為す莫く、芳【かおりよ】き醑【うまざけ】 誰と与にか伐【ほこ】らん。
美人 竟に來たらず、陽の阿【おか】にて徒【いたず】らに髪を晞【かわ】かす


現代語訳と訳註
(本文)

異音同至听,殊響俱清越。
妙物莫為賞,芳醑誰與伐。
美人竟不來,陽阿徒晞發。」


(下し文)
異音同じく寵に至り、殊響供に清越なり。
妙物も馬に賞する莫し。芳醇誰にか伐らん。
美人寛に来らず、陽阿に徒に髪を怖かすのみ。


(現代語訳)
ちがった音がともに聞こえて来て、殊なつた響きかどれも皆清々しくて平常の域を越えてくる。
すぐれた物といって我がために誉めてくれる人がなく、芳しい酒は誰に自慢できるというのか。
楚辞に私の慕うよい人はとうとう来ない。「夕宿兮帝郊、君誰須兮雲之際。與女遊兮九河、衝風至兮水揚波。與女沐兮咸池、晞女髮兮陽之阿。望美人兮未來、臨風怳兮浩歌。孔蓋兮翠旍、登九天兮撫彗星。」(夕に帝の郊【こう】に宿れば、君誰をか雲の際【はて】に須【ま】つ。女なんじと九河【きゅうか】に遊べば、衝風【しょうふう】至って水波を揚ぐ。女【なんじ】と咸池【かんち】に沐【もく】し、女【なんじ】の髪を陽【よう】の阿【あ】に晞【かわ】かさん。美人を望めどもいまだ来らず、風に臨【のぞ】んで怳【こう】として浩歌【こうか】す。)(少司命)とあるが、私も友人か来ないので、むなしく伝説の日の照る山の端で、ひとり髪を乾かすだけである。同じ心の友がいないのは寂しいことである。

(訳注)
異音同至听,殊響俱清越。
ちがった音がともに聞こえて来て、殊なつた響きかどれも皆清々しくて平常の域を越えてくる。
清越 清くて調子が高い。清々しさが平常の域を越えてくる。


妙物莫為賞,芳醑誰與伐。
私の作った興味ある変わった詩文に対して賞賛してくれる人はいない、それに香しい旨酒をだれと共に自慢できるというのか。
妙物 すぐれた物。たえなるもの。○芳醑 香ばしい酒。○伐 ほこる。


美人竟不來,陽阿徒晞發。」
楚辞に私の慕うよい人はとうとう来ない。「夕宿兮帝郊、君誰須兮雲之際。與女遊兮九河、衝風至兮水揚波。與女沐兮咸池、晞女髮兮陽之阿。望美人兮未來、臨風怳兮浩歌。孔蓋兮翠旍、登九天兮撫彗星。」(夕に帝の郊【こう】に宿れば、君誰をか雲の際【はて】に須【ま】つ。女なんじと九河【きゅうか】に遊べば、衝風【しょうふう】至って水波を揚ぐ。女【なんじ】と咸池【かんち】に沐【もく】し、女【なんじ】の髪を陽【よう】の阿【あ】に晞【かわ】かさん。美人を望めどもいまだ来らず、風に臨【のぞ】んで怳【こう】として浩歌【こうか】す。)(少司命)とあるが、私も友人か来ないので、むなしく伝説の日の照る山の端で、ひとり髪を乾かすだけである。同じ心の友がいないのは寂しいことである。
美人 美しい女性。佳人。芸妓のこと。○陽阿徒晞發 楚辞九歌少司命篇「「夕宿兮帝郊、君誰須兮雲之際。與女遊兮九河、衝風至兮水揚波。與女沐兮咸池、晞女髮兮陽之阿。望美人兮未來、臨風怳兮浩歌。孔蓋兮翠旍、登九天兮撫彗星。」(夕に帝の郊【こう】に宿れば、君誰をか雲の際【はて】に須【ま】つ。女なんじと九河【きゅうか】に遊べば、衝風【しょうふう】至って水波を揚ぐ。女【なんじ】と咸池【かんち】に沐【もく】し、女【なんじ】の髪を陽【よう】の阿【あ】に晞【かわ】かさん。美人を望めどもいまだ来らず、風に臨【のぞ】んで怳【こう】として浩歌【こうか】す。)と。陽阿は日の照る山の端の意味。九陽の丘。扶桑のほとりの伝説の地名。

夜宿石門詩 謝霊運(康楽) 詩<39#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩420 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1077

夜宿石門詩 謝霊運(康楽) 詩<39#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩420 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1077



故郷始寧における謝霊運の日常生活はというに、たとえは、始寧の別荘の南に楼があり、そこで漢の謝安の故事、朝廷の誘いに乗らず始寧の芸妓を携えて遊んだことにならい、芸妓を待っていたが来なかったときの感情を歌ったものである。

南樓中望所遲客
杳杳日西頹,漫漫長路迫。
登樓為誰思?臨江遲來客。
與我別所期,期在三五夕。
圓景早已滿,佳人猶未適。
即事怨睽攜,感物方淒戚。』
孟夏非長夜,晦明如歲隔。
瑤華未堪折,蘭苕已屢摘。
路阻莫贈問,雲何慰離析?
搔首訪行人,引領冀良覿。』
(南樓の中にて遅つ所の客を望む)
杳杳【きょうきょう】として日は西に頹【くず】れ、漫漫として長き路は迫【せま】れり。
楼に登り 誰の為かと思う、江に臨み釆たる客を遅【ま】つ。
我と別れしとき期する所あり、期は三五の夕に在り。
円景【まるきつき】は早く己に満ちしに、佳人は殊に末だ適【いた】らず。
事に即【つ】きて睽【そむ】き攜【はな】れるを怨み、物に感じて方【まさ】に淒【いたみ】戚【うれ】う。
孟夏【もうか】は長き夜に非ざるも、晦明【かいめい】は歳の隔つるが如し。
瑤華【あさのはな】は未だ折るに堪えざれど、蘭苕【らんしょう】 己に屢【しばし】ば摘【つ】む。
路阻【へだ】たりて贈問【ぞうもん】する莫ければ、云何【いか】んぞ離析【りせき】を慰めん。
首を掻いて行人に訪ね、領【うなじ】を引いて良き覿【み】んことを冀【ねが】う。


送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈
攜妓東山去。 春光半道催。
遙看若桃李。 雙入鏡中開。
 姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り
妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。
遙(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。


夜宿石門詩
ある夜石門に宿す時の詩。
朝搴苑中蘭,畏彼霜下歇。
朝になって庭園の中に咲く蘭の花を取る、それは秋の霜の下に枯れ尽きるのを心配するからなのだ。
暝還雲際宿,弄此石上月。
夕暮れになって引返し、高い所の雲のはての石門山に宿する、この山の石の上に登ってくる月を愛で楽しむのである。
鳥鳴識夜棲,木落知風發。」
鳥の鳴く声に彼等が夜、この林にやどっていることを認識し、木の葉の落ちるのをみて風の発する方向がわかる。
異音同至听,殊響俱清越。
妙物莫為賞,芳醑誰與伐。
美人竟不來,陽阿徒晞發。」

(夜石門に宿る詩)
朝に苑中の蘭を搴【と】り、彼の霜下に歇【つ】くるを畏【おそ】る。
瞑【めい】に雲際【うんさい】の宿に還【かえ】り、此の石上の月を弄【もてあそ】ぶ。
鳥鳴いて夜棲むを識り、木落ちて風の發【おこ】るを知る。
異音【いおん】同じく听【せき】を致し、殊なれる響き 俱に清越たり。
妙物 賞を為す莫く、芳【かおりよ】き醑【うまざけ】 誰と与にか伐【ほこ】らん。美人 竟に來たらず、陽の阿【おか】にて徒【いたず】らに髪を晞【かわ】かす



現代語訳と訳註
(本文)
夜宿石門詩
朝搴苑中蘭,畏彼霜下歇。
暝還雲際宿,弄此石上月。
鳥鳴識夜棲,木落知風發。」


(下し文)
朝に苑中の蘭を奉り、彼の霜下に駄くるを畏る。
瞑に雲際の宿に還り、此の石上の月を弄す。
鳥鳴いて夜棲むを識り、木落ちて凧の葬るを知る。


(現代語訳)
ある夜石門に宿す時の詩。
朝になって庭園の中に咲く蘭の花を取る、それは秋の霜の下に枯れ尽きるのを心配するからなのだ。
夕暮れになって引返し、高い所の雲のはての石門山に宿する、この山の石の上に登ってくる月を愛で楽しむのである。
鳥の鳴く声に彼等が夜、この林にやどっていることを認識し、木の葉の落ちるのをみて風の発する方向がわかる。


(訳注)
夜宿石門詩
ある夜石門に宿す時の詩。
石門 浙江省会稽道、始寧より少し南の浙江省嵊県の嘑山の南にある名勝にある里。謝霊運の別荘がある。


搴苑中蘭,畏彼霜下歇。
朝になって庭園の中に咲く蘭の花を取る、それは秋の霜の下に枯れ尽きるのを心配するからなのだ。
○搴 取る。○ 枯れ尽きる。


暝還雲際宿,弄此石上月。
夕暮れになって引返し、高い所の雲のはての石門山に宿する、この山の石の上に登ってくる月を愛で楽しむのである。
 暮れ。・めでる。


鳥鳴識夜棲,木落知風發。」
鳥の鳴く声に彼等が夜、この林にやどっていることを認識し、木の葉の落ちるのをみて風の発する方向がわかる。
。○夜棲 夜、巣に戻って樹上に宿ること

南樓中望所遅客 謝霊運(康楽) 詩<38#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩419 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1074

南樓中望所遅客 謝霊運(康楽) 詩<38#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩419 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1074
(南樓の中にて遅つ所の客を望む)


南樓中望所遅客
故郷始寧における謝霊運の日常生活はというに、たとえは、始寧の別荘の南に楼があり、そこで漢の謝安の故事、朝廷の誘いに乗らず始寧の芸妓を携えて遊んだことにならい、芸妓を待っていたが来なかったときの感情を歌ったものである。
『文選』の巻三十の雑詩に引用されている「南樓の中にて遅つ所の客を望む」の作がある。


南樓中望所遲客
杳杳日西頹,漫漫長路迫。
登樓為誰思?臨江遲來客。
與我別所期,期在三五夕。
圓景早已滿,佳人猶未適。
即事怨睽攜,感物方淒戚。』
孟夏非長夜,晦明如歲隔。
初夏になると長い夜ではなくなり、日が長いものである、夜明けは早く夜が来るのが遅くなる年を取るのに隔たりを感じるものである。
瑤華未堪折,蘭苕已屢摘。
崑崙山に咲く玉のように美しい花はいまだに折れることはぜったいにないものであるが、蘭の花に豌豆の鶴が巻き付けばそれはしばしば摘み取ってしまうものであろう。
路阻莫贈問,雲何慰離析?
ここに來る道が嶮しいのか、邪魔が入ったのか、いろいろ疑問を考えることはやめよう、慰めここを離れていこうとういのになんというのか、言いようはないであろう。
搔首訪行人,引領冀良覿。』
自分の首を掻きながら前を通っていく人を訪れた、「うなじを引いてこちらを見てくれませんか」といってみるのだ。


(南樓の中にて遅つ所の客を望む)
杳杳【きょうきょう】として日は西に頹【くず】れ、漫漫として長き路は迫【せま】れり。
楼に登り 誰の為かと思う、江に臨み釆たる客を遅【ま】つ。
我と別れしとき期する所あり、期は三五の夕に在り。
円景【まるきつき】は早く己に満ちしに、佳人は殊に末だ適【いた】らず。
事に即【つ】きて睽【そむ】き攜【はな】れるを怨み、物に感じて方【まさ】に淒【いたみ】戚【うれ】う。
孟夏【もうか】は長き夜に非ざるも、晦明【かいめい】は歳の隔つるが如し。
瑤華【あさのはな】は未だ折るに堪えざれど、蘭苕【らんしょう】 己に屢【しばし】ば摘【つ】む。
路阻【へだ】たりて贈問【ぞうもん】する莫ければ、云何【いか】んぞ離析【りせき】を慰めん。
首を掻いて行人に訪ね、領【うなじ】を引いて良き覿【み】んことを冀【ねが】う

DCF00199

現代語訳と訳註
(本文)

孟夏非長夜,晦明如歲隔。
瑤華未堪折,蘭苕已屢摘。
路阻莫贈問,雲何慰離析?
搔首訪行人,引領冀良覿。』


(下し文)
孟夏【もうか】は長き夜に非ざるも、晦明【かいめい】は歳の隔つるが如し。
瑤華【あさのはな】は未だ折るに堪えざれど、蘭苕【らんしょう】 己に屢【しばし】ば摘【つ】む。
路阻【へだ】たりて贈問【ぞうもん】する莫ければ、云何【いか】んぞ離析【りせき】を慰めん。
首を掻いて行人に訪ね、領【うなじ】を引いて良き覿【み】んことを冀【ねが】う。


(現代語訳)
初夏になると長い夜ではなくなり、日が長いものである、夜明けは早く夜が来るのが遅くなる年を取るのに隔たりを感じるものである。
崑崙山に咲く玉のように美しい花はいまだに折れることはぜったいにないものであるが、蘭の花に豌豆の鶴が巻き付けばそれはしばしば摘み取ってしまうものであろう。
ここに來る道が嶮しいのか、邪魔が入ったのか、いろいろ疑問を考えることはやめよう、慰めここを離れていこうとういのになんというのか、言いようはないであろう。
自分の首を掻きながら前を通っていく人を訪れた、「うなじを引いてこちらを見てくれませんか」といってみるのだ。


(訳注)
孟夏非長夜,晦明如歲隔。

初夏になると長い夜ではなくなり、日が長いものである、夜明けは早く夜が来るのが遅くなる年を取るのに隔たりを感じるものである。
○孟夏 夏の初め。初夏。また、陰暦4月の異称。「孟」は初めの意。○晦明 晦明とは暗いと明るいで、夜と昼のこと。夜が長いのは歳を早くとり(日が早い)、昼が長いのは歳を取りにくい(日が遅い)。満月も早く見えなくなってしまうことをいう。


瑤華未堪折,蘭苕已屢摘。
崑崙山に咲く玉のように美しい花はいまだに折れることはぜったいにないものであるが、蘭の花に豌豆の鶴が巻き付けばそれはしばしば摘み取ってしまうものであろう。
○「神仙に通じる崑崙山にある理想郷の中腹大地」を指し、『瑤華』とは「玉のように美しい花」を指す言葉。○気にった美人は何かあっても許そうと思うが、その美人に邪魔をする輩は排除しよう。


路阻莫贈問,雲何慰離析?
ここに來る道が嶮しいのか、邪魔が入ったのか、いろいろ疑問を考えることはやめよう、慰めここを離れていこうとういのになんというのか、言いようはないであろう。
路阻 地形が険しい。「険阻」 2 遮り止める。はばむ。「阻害・阻隔・阻止○


搔首訪行人,引領冀良覿。』
自分の首を掻きながら前を通っていく人を訪れた、「うなじを引いてこちらを見てくれませんか」といってみるのだ。

南樓中望所遅客 謝霊運(康楽) 詩<38#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩418 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1071

南樓中望所遅客 謝霊運(康楽) 詩<38#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩418 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1071

(南樓の中にて遅つ所の客を望む)


南樓中望所遅客
故郷始寧における謝霊運の日常生活はというに、たとえは、始寧の別荘の南に楼があり、そこで漢の謝安の故事、朝廷の誘いに乗らず始寧の芸妓を携えて遊んだことにならい、芸妓を待っていたが来なかったときの感情を歌ったものである。
『文選』の巻三十の雑詩に引用されている「南樓の中にて遅つ所の客を望む」の作がある。


南樓中望所遲客
南の高殿の中でこちらに来る客が通り過ぎる場所でなかなか来ない客を待っている。
杳杳日西頹,漫漫長路迫。
日が西に沈みかけ辺りはだんだん薄暗くなってくる、長い一本道には広々として見渡しがよく、宵闇が迫ってくる。
登樓為誰思?臨江遲來客。
高楼に登るのは誰のために登るのだろうか? 大江の流れを眺めることは待っている客がなかなか来ないためである。
與我別所期,期在三五夕。
彼の人と私が逢う約束をしたのは別の場所であった。そしてその約束の日が来て十五夜の夜なのだ。
圓景早已滿,佳人猶未適。
真丸くなった月は早くも既にあがってしまう。芸妓を携え東山で過ごした謝安の故事を思い美人を待っているのだがまだ会えずにいるのだ。
即事怨睽攜,感物方淒戚。』

こんな故事にならって待っているのに攜相手にそむかれては怒りの気持ちになってしまう。いろんなことに感情を以て来たけれどこんなに辛くやりきれないものなのだろうか。
孟夏非長夜,晦明如歲隔。
瑤華未堪折,蘭苕已屢摘。
路阻莫贈問,雲何慰離析?
搔首訪行人,引領冀良覿。』

(南樓の中にて遅つ所の客を望む)
杳杳【きょうきょう】として日は西に頹【くず】れ、漫漫として長き路は迫【せま】れり。
楼に登り 誰の為かと思う、江に臨み釆たる客を遅【ま】つ。
我と別れしとき期する所あり、期は三五の夕に在り。
円景【まるきつき】は早く己に満ちしに、佳人は殊に末だ適【いた】らず。
事に即【つ】きて睽【そむ】き攜【はな】れるを怨み、物に感じて方【まさ】に淒【いたみ】戚【うれ】う。
孟夏【もうか】は長き夜に非ざるも、晦明【かいめい】は歳の隔つるが如し。
瑤華【あさのはな】は未だ折るに堪えざれど、蘭苕【らんしょう】 己に屢【しばし】ば摘【つ】む。
路阻【へだ】たりて贈問【ぞうもん】する莫ければ、云何【いか】んぞ離析【りせき】を慰めん。
首を掻いて行人に訪ね、領【うなじ】を引いて良き覿【み】んことを冀【ねが】う。
a謝霊運永嘉ルート02

現代語訳と訳註
(本文)
南樓中望所遲客
杳杳日西頹,漫漫長路迫。
登樓為誰思?臨江遲來客。
與我別所期,期在三五夕。
圓景早已滿,佳人猶未適。
即事怨睽攜,感物方淒戚。』

(下し文)
 杳杳【きょうきょう】として日は西に頹【くず】れ、漫漫として長き路は迫【せま】れり。
楼に登り 誰の為かと思う、江に臨み釆たる客を遅【ま】つ。
我と別れしとき期する所あり、期は三五の夕に在り。
円景【まるきつき】は早く己に満ちしに、佳人は殊に末だ適【いた】らず。
事に即【つ】きて睽【そむ】き攜【はな】れるを怨み、物に感じて方【まさ】に淒【いたみ】戚【うれ】う。


(現代語訳)
南の高殿の中でこちらに来る客が通り過ぎる場所でなかなか来ない客を待っている。
日が西に沈みかけ辺りはだんだん薄暗くなってくる、長い一本道には広々として見渡しがよく、宵闇が迫ってくる。
高楼に登るのは誰のために登るのだろうか? 大江の流れを眺めることは待っている客がなかなか来ないためである。
彼の人と私が逢う約束をしたのは別の場所であった。そしてその約束の日が来て十五夜の夜なのだ。
真丸くなった月は早くも既にあがってしまう。芸妓を携え東山で過ごした謝安の故事を思い美人を待っているのだがまだ会えずにいるのだ。
こんな故事にならって待っているのに攜相手にそむかれては怒りの気持ちになってしまう。いろんなことに感情を以て来たけれどこんなに辛くやりきれないものなのだろうか。


(訳注)
南樓中望所遲客

南の高殿の中でこちらに来る客が通り過ぎる場所でなかなか来ない客を待っている。
遲客 約束の時間に来ない客。約束をすっぽかされたもの。
送姪良携二妓赴会稽戯有此贈  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -287


杳杳日西頹,漫漫長路迫。
日が西に沈みかけ辺りはだんだん薄暗くなってくる、長い一本道には広々として見渡しがよく、宵闇が迫ってくる。
○杳杳 ほのかなさま。くらいさま。また、はるかなさま。○漫漫 広々と果てしないさま。
 

登樓為誰思?臨江遲來客。
高楼に登るのは誰のために登るのだろうか? 大江の流れを眺めることは待っている客がなかなか来ないためである。


與我別所期,期在三五夕。
彼の人と私が逢う約束をしたのは別の場所であった。そしてその約束の日が来て十五夜の夜なのだ。
 逢引の日のこと。佳期。○三五夕 十五夜の夜。月が昇り始める前から見るのが基本であるから、月がの場流前が約束の時である。


圓景早已滿,佳人猶未適。
真丸くなった月は早くも既にあがってしまう。芸妓を携え東山で過ごした謝安の故事を思い美人を待っているのだがまだ会えずにいるのだ。
佳人【かじん】 美しい女性。美人。芸妓のこと。


即事怨睽攜,感物方淒戚。』
こんな故事にならって待っているのに攜える相手にそむかれては怒りの気持ちになってしまう。いろんなことに感情を以て来たけれどこんなに辛くやりきれないものなのだろうか。
○晋の謝安(字は安石)が始寧(会稽紹興市の東の上虞県の西南)に隠居して朝廷のお召しに応じなかったのは「東山高臥」といって有名な講である。山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。○携 佳人=美人=芸妓を携える。謝安の故事をふまえる。
李白『憶東山二首其二 李白 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -270

于南山往北山経湖中瞻眺 謝霊運<37>#2 詩集 417  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1068

于南山往北山経湖中瞻眺 謝霊運<37>#2 詩集 417  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1068
謝霊運はその退屈しのぎに、相変わらずあちこちと遊び歩いていたらしい。巫湖の南に南山、北に北山という山があったが、霊運はいつも南山に居住し、常に湖を船で渡っては遵造していた。かつて、南山から北山に行かんとして、船中で眺めた美景を歌ったものに、「南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり」を作っている。これは『文選』の巻二十二の 「遊覧」に選ばれている。




于南山往北山經湖中瞻眺
朝旦發陽崖,景落憩陰峯。
舍舟眺迥渚,停策倚茂松。 
側徑既窈窕,環洲亦玲瓏。
俛視喬木杪,仰聆大壑灇。 
石橫水分流,林密蹊絕蹤。』
解作竟何感,升長皆豐容。
天地の陰陽の気の結び目が解けて活動をはじめて春雷がおこり、結局何の物を感じ動かしたかわからぬが、陽気が立ち万物は生長して皆盛んに繁っているのである。
初篁苞綠籜,新蒲含紫茸。
初生の若竹は緑の皮に包まれ、新しい蒲の花は紫の毛房を含んで咲いている。
海鷗戲春岸,天雞弄和風。 
海カモメは春のおだやかな岸にたわむれており、金鷄鳥は春のなごやかな風に遊んでいる。
撫化心無厭,覽物眷彌重。
万物の化身、芽吹き、成長を撫でるように愛する私の心は飽くことを知らないが、春の物すべて見るに値する美しいものなのだ。だから愛でかえりみることがいよいよ重なってくるのである。
不惜去人遠,但恨莫與同。 
去って行く人が遠ざかるのを惜しみはしないけれど、ただ、わたしと共にこの地で同じ思いで遊ぶ人がいないのが残念である。
孤遊非情歎,賞廢理誰通?』
しかし、ただひとりここに遊ぶのが私の心からの歎きではないことは確かだ、この景色を観賞する美の心を捨てるというのであるなら、誰が真理に通ずることができるであろうか。それを私は惜しむのである。


(南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり)
朝旦【ちょうたん】に陽崖【ようがい】(南山)を発し、景【ひ】落ちて陰峰【いんぽう】(北山)に憩う。
舟を舎てて迥渚【かいしょ】を眺め、策【つえ】を停【とど】めて茂れる松に倚る。
側徑【そくけい】既に窃窕【ようちょう】、環洲も亦た玲瓏【れいろう】なり。
俛して喬木【きょうぼく】の杪【こずえ】を視、仰ぎて大壑の灇【そそ】ぐを聆く。
石は横たわりて水 流れを分かち、林は密にして蹊【みち】は蹤【あと】を絶つ。』
解作【かいさく】は竟に何をか感ぜしむる、升長【しょうちょう】皆な豐容【ぼうよう】たり。
初篁【しょこう】は綠籜【りょくたく】に苞まれ,新蒲は紫茸【しじょう】を含む。
海鴎【かいおう】は春岸に戯れ、天雞【てんけい】は風に和して 弄【もてあそ】ぶ。
化を撫して心 厭【あ】く無く、物を覧て眷【けん】彌【いよい】よ重なる。
惜しまず去る人の遠きを、但だ恨む与【とも】に同【とも】にする莫きを。
孤遊【こゆう】は情の歎ずるに非ず、賞すること廃れば理誰か通ぜん?』

keikoku00

現代語訳と訳註
(本文)

解作竟何感,升長皆豐容。
初篁苞綠籜,新蒲含紫茸。
海鷗戲春岸,天雞弄和風。 
撫化心無厭,覽物眷彌重。
不惜去人遠,但恨莫與同。 
孤遊非情歎,賞廢理誰通?』

(下し文)
解作【かいさく】は竟に何をか感ぜしむる、升長【しょうちょう】皆な豐容【ぼうよう】たり。
初篁【しょこう】は綠籜【りょくたく】に苞まれ,新蒲は紫茸【しじょう】を含む。
海鴎【かいおう】は春岸に戯れ、天雞【てんけい】は風に和して 弄【もてあそ】ぶ。
化を撫して心 厭【あ】く無く、物を覧て眷【けん】彌【いよい】よ重なる。
惜しまず去る人の遠きを、但だ恨む与【とも】に同【とも】にする莫きを。
孤遊【こゆう】は情の歎ずるに非ず、賞すること廃れば理誰か通ぜん?』


(現代語訳)
天地の陰陽の気の結び目が解けて活動をはじめて春雷がおこり、結局何の物を感じ動かしたかわからぬが、陽気が立ち万物は生長して皆盛んに繁っているのである。
初生の若竹は緑の皮に包まれ、新しい蒲の花は紫の毛房を含んで咲いている。
海カモメは春のおだやかな岸にたわむれており、金鷄鳥は春のなごやかな風に遊んでいる。
万物の化身、芽吹き、成長を撫でるように愛する私の心は飽くことを知らないが、春の物すべて見るに値する美しいものなのだ。だから愛でかえりみることがいよいよ重なってくるのである。
去って行く人が遠ざかるのを惜しみはしないけれど、ただ、わたしと共にこの地で同じ思いで遊ぶ人がいないのが残念である。
しかし、ただひとりここに遊ぶのが私の心からの歎きではないことは確かだ、この景色を観賞する美の心を捨てるというのであるなら、誰が真理に通ずることができるであろうか。それを私は惜しむのである。


(訳注)
解作竟何感,升長皆豐容。

天地の陰陽の気の結び目が解けて活動をはじめて春雷がおこり、結局何の物を感じ動かしたかわからぬが、陽気が立ち万物は生長して皆盛んに繁っているのである。
解作 天地の陰陽の気が結び目が解けて活動をはじめること。易の解の卦に「天地解而雷雨作、雷雨作而百花草木皆甲坼。」天地が解け雷雨が作(おこ)り、雷雨が作り百花草木が皆、甲坼(種子の殻を破って発芽)する。○升長 草木の生長すること。易経の升の卦「升、元亨。用見大人。勿恤南征吉。彖曰、柔以時升、巽而順、剛中而應、是以大亨。用見大人、勿恤、有慶也。南征吉、志行也。象曰、地中生木、升。君子以順徳、積小以高大。」<升(しょう)は、元(おお)いに亨(とお)る。もって大人(たいじん)を見る。恤(うれ)うるなかれ。南征(なんせい)すれば吉(きつ)なり。彖(たん)に曰く、柔(じゅう)、時をもって升(のぼ)り、巽(そん)にして順(じゅん)、剛(ごう)中にして応ず、ここをもって大いに亨(とお)るなり。もって大人(たいじん)を見る、恤(うれ)うるなかれとは、慶びあるなり。南征(なんせい)すれば吉(きつ)なりとは、志(こころざし)行なわるるなり。象に曰く、地中に木を生ずるは升(しょう)なり。君子もって徳に順(したが)い、小を積みてもって高大(こうだい)なり。>


初篁苞綠籜,新蒲含紫茸。
初生の若竹は緑の皮に包まれ、新しい蒲の花は紫の毛房を含んで咲いている。
初篁 初生の若竹藪。初生の叢竹。○苞綠籜 みどりの竹の皮に包まれる。○紫茸 むらさきの毛房。


海鷗戲春岸,天雞弄和風。 
海カモメは春のおだやかな岸にたわむれており、金鷄鳥は春のなごやかな風に遊んでいる。


撫化心無厭,覽物眷彌重。
万物の化身、芽吹き、成長を撫でるように愛する私の心は飽くことを知らないが、春の物すべて見るに値する美しいものなのだ。だから愛でかえりみることがいよいよ重なってくるのである。


不惜去人遠,但恨莫與同。 
去って行く人が遠ざかるのを惜しみはしないけれど、ただ、わたしと共にこの地で同じ思いで遊ぶ人がいないのが残念である


孤遊非情歎,賞廢理誰通?』
しかし、ただひとりここに遊ぶのが私の心からの歎きではないことは確かだ、この景色を観賞する美の心を捨てるというのであるなら、誰が真理に通ずることができるであろうか。それを私は惜しむのである。
孤遊 ただひとりここに遊ぶ。○情歎 私の心からの歎き。○賞廢 の景色を観賞する美の心を捨てるというのであるなら○ 真実の道理。美しいものを見て過ごすこと、欲得利害や名誉、塵界の出来事かけ離れた穏やかな生活にこそ心理があるというのであろう。政治の第一線に残りたいということとこうした美や風流に対するあこがれは一致するものではない。晋が西晋にそして東晉にそして宋に禅譲され、徳の政治は完全に消滅していった。体調を崩したのは政治に対して強烈な嫌気であり、謝霊運の体の中からも自家中毒のように拒絶反応が出たものであった。この故郷での隠棲生活以降、謝霊運の山水詩人らしい側面が強調されるのである。


demen07

于南山往北山経湖中瞻眺 謝霊運<37>#1 詩集 416  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1065

于南山往北山経湖中瞻眺 謝霊運<37>#1 詩集 416  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1065
(南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり)

謝霊運はその退屈しのぎに、相変わらずあちこちと遊び歩いていたらしい。巫湖の南に南山、北に北山という山があったが、霊運はいつも南山に居住し、常に湖を船で渡っては遵造していた。かつて、南山から北山に行かんとして、船中で眺めた美景を歌ったものに、「南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり」を作っている。これは『文選』の巻二十二の 「遊覧」に選ばれている。


于南山往北山經湖中瞻眺
故郷の会稽の南山の仏教修行館から北山の別荘に行く途中巫湖の中から見上げ眺めた風景。
朝旦發陽崖,景落憩陰峯。
夜が明け朝のうちに南の日向の崖を出発して、夕陽が西におちる頃、北の日蔭の峯に着いて休む。
舍舟眺迥渚,停策倚茂松。 
次いで、舟を乗り捨てて陸行すると、遠ざかる方で廻っているなぎさを眺める。そして杖をとどめて茂った松に倚りかかる。
側徑既窈窕,環洲亦玲瓏。
側に寄った狭い小道は遠くうねり曲がり、川水めぐる中洲もまた夕日に明るく輝いている。
俛視喬木杪,仰聆大壑灇。 
目を俛せたあと高い木のこずえを見あげ、仰ぎみると大きな谷川の水のそそぐ音がきこえてくる。
石橫水分流,林密蹊絕蹤。』

巌は川の中に横たわって流れを二つに分け、林は密に茂って山道には人の足あともまったく見えない。

解作竟何感,升長皆豐容。
初篁苞綠籜,新蒲含紫茸。
海鷗戲春岸,天雞弄和風。 
撫化心無厭,覽物眷彌重。
不惜去人遠,但恨莫與同。 
孤遊非情歎,賞廢理誰通?』


(南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり)#1
朝旦【ちょうたん】に陽崖【ようがい】(南山)を発し、景【ひ】落ちて陰峰【いんぽう】(北山)に憩う。
舟を舎てて迥渚【かいしょ】を眺め、策【つえ】を停【とど】めて茂れる松に倚る。
側徑【そくけい】既に窃窕【ようちょう】、環洲も亦た玲瓏【れいろう】なり。
俛して喬木【きょうぼく】の杪【こずえ】を視、仰ぎて大壑の灇【そそ】ぐを聆く。
石は横たわりて水 流れを分かち、林は密にして蹊【みち】は蹤【あと】を絶つ。』

#2
解作【かいさく】は竟に何をか感ぜしむる、升長【しょうちょう】皆な豐容【ぼうよう】たり。
初篁【しょこう】は綠籜【りょくたく】に苞まれ,新蒲は紫茸【しじょう】を含む。
海鴎【かいおう】は春岸に戯れ、天雞【てんけい】は風に和して 弄【もてあそ】ぶ。
化を撫して心 厭【あ】く無く、物を覧て眷【けん】彌【いよい】よ重なる。
惜しまず去る人の遠きを、但だ恨む与【とも】に同【とも】にする莫きを。
孤遊【こゆう】は情の歎ずるに非ず、賞すること廃れば理誰か通ぜん?』

a謝霊運永嘉ルート02

現代語訳と訳註
(本文)

于南山往北山經湖中瞻眺
朝旦發陽崖,景落憩陰峯。
舍舟眺迥渚,停策倚茂松。 
側徑既窈窕,環洲亦玲瓏。
俛視喬木杪,仰聆大壑灇。 
石橫水分流,林密蹊絕蹤。』


(下し文) (南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり)
朝旦【ちょうたん】に陽崖【ようがい】(南山)を発し、景【ひ】落ちて陰峰【いんぽう】(北山)に憩う。
舟を舎てて迥渚【かいしょ】を眺め、策【つえ】を停【とど】めて茂れる松に倚る。
側徑【そくけい】既に窃窕【ようちょう】、環洲も亦た玲瓏【れいろう】なり。
俛して喬木【きょうぼく】の杪【こずえ】を視、仰ぎて大壑の灇【そそ】ぐを聆く。
石は横たわりて水 流れを分かち、林は密にして蹊【みち】は蹤【あと】を絶つ。』


(現代語訳)
故郷の会稽の南山の仏教修行館から北山の別荘に行く途中巫湖の中から見上げ眺めた風景。
夜が明け朝のうちに南の日向の崖を出発して、夕陽が西におちる頃、北の日蔭の峯に着いて休む。
次いで、舟を乗り捨てて陸行すると、遠ざかる方で廻っているなぎさを眺める。そして杖をとどめて茂った松に倚りかかる。
側に寄った狭い小道は遠くうねり曲がり、川水めぐる中洲もまた夕日に明るく輝いている。
目を俛せたあと高い木のこずえを見あげ、仰ぎみると大きな谷川の水のそそぐ音がきこえてくる。
巌は川の中に横たわって流れを二つに分け、林は密に茂って山道には人の足あともまったく見えない。

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(訳注)
于南山往北山經湖中瞻眺

故郷の会稽の南山の仏教修行館から北山の別荘に行く途中巫湖の中から見上げ眺めた風景。
経湖中階跳 故郷の会稽の巫湖の中から見上げ眺めた風景。湖の南北の山に仏教修行館や謝霊運の居所があり、南山から北山に行く途中の作。紹興中部の山会平原 (山陰―会稽平原) は, もともと沼沢地. であった。現在, 水郷風景が広がっている.会稽の曹娥なる女子は、その父が巫覡であったが、五月五日、(父は)神を迎えるため長江の大波に逆らって溺死した。紹興市東浦鎮。古い景観を残す水郷地帯。


朝旦發陽崖,景落憩陰峯。
夜が明け朝のうちに南の日向の崖を出発して、夕陽が西におちる頃、北の日蔭の峯に着いて休む。
陽崖 宿の崖。山の南を陽という。


舍舟眺迥渚,停策倚茂松。 
次いで、舟を乗り捨てて陸行すると、遠ざかる方で廻っているなぎさを眺める。そして杖をとどめて茂った松に倚りかかる。
迥渚 曲がったなぎさ。


側徑既窈窕,環洲亦玲瓏。
側に寄った狭い小道は遠くうねり曲がり、川水めぐる中洲もまた夕日に明るく輝いている。
側径 側に寄った狭い小路。○窈窕 遠くうねり続く。○環洲 水流めぐる中島。・玲瓏 明るく揮く。


俛視喬木杪,仰聆大壑灇。 
目を俛せたあと高い木のこずえを見あげ、仰ぎみると大きな谷川の水のそそぐ音がきこえてくる。
 水の音。○ 聴く。○大壑灇 大きな谷川の水のそそぐ音


石橫水分流,林密蹊絕蹤。』
巌は川の中に横たわって流れを二つに分け、林は密に茂って山道には人の足あともまったく見えない。
 足あと。

斎中讀書 謝霊運<32>#1 詩集 409  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1044

斎中讀書 謝霊運<32>#1 詩集 409  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1044


斎中讀書
心を落ち着く郡府の書斎で読書する。
昔余遊京華、未嘗廢邱壑。
昔、私は帝都の文化、物量の華やかなところに遊んだ時でも、丘や谷のある山中に隠棲して優遊自適の生活をしたいという望みを棄てたことはない。
矧乃歸山川、心跡兩寂漠。
それなのに、まして山川の住居に帰ったのだからなおさらのことで、心も行為も両方ともに静かに澄み切って暮らしてしる。
虚館絶諍訟、空庭來鳥雀。
がらんとした公館には、喧嘩や訴訟などまったく絶え、人もいない庭には鳥や雀が遊びに来る。
臥疾豐暇豫、翰墨時間作。』

病に臥してからは、暇や楽しみがかえって多く心豊かになると、詩文、文章なども時を多くとって作ってみる。
懐抱觀古今、寢食展戯謔。
既笑沮溺苦、又哂子雲閣。
執戟亦以疲、耕稼豈云樂。
萬事難竝歓、達生幸可託。』

斎中に書を読む
昔、余【われ】京華【けいか】に遊べども、未だ嘗て邱堅【きゅうがく】を廢【す】てざりき。
矧【いわん】や乃ち山川に歸るをや、心跡【しんせき】兩【ふたつ】ながら寂漠【せきばく】たり。
虚館【きょかん】諍訟【そうしょう】絶え、空庭【くうてい】鳥雀【ちょうじゃく】來る。
疾に臥して暇豫【かよ】豐かに、翰墨【かんぼく】時に間【ま】ま作る。』

#2

懐抱【かいほう】に古今を觀て、寝食に戯謔【ぎぎゃく】を展【の】ぶ。
既に沮溺【そでき】の苦を笑ひ、又子雲の閣を哂【わら】ふ。
執戟【しつげき】も亦以に疲る。耕稼【こうか】壹云【ここ】に樂しまんや。
萬事竝【なら】びに歓び難し、達生【たっせい】幸に託す可し。


現代語訳と訳註
(本文)
斎中讀書
昔余遊京華、未嘗廢邱壑。
矧乃歸山川、心跡兩寂漠。
虚館絶諍訟、空庭來鳥雀。
臥疾豐暇豫、翰墨時間作。』

(下し文) 斎中に書を読む
昔、余【われ】京華【けいか】に遊べども、未だ嘗て邱堅【きゅうがく】を廢【す】てざりき。
矧【いわん】や乃ち山川に歸るをや、心跡【しんせき】兩【ふたつ】ながら寂漠【せきばく】たり。
虚館【きょかん】諍訟【そうしょう】絶え、空庭【くうてい】鳥雀【ちょうじゃく】來る。
疾に臥して暇豫【かよ】豐かに、翰墨【かんぼく】時に間【ま】ま作る。


(現代語訳)
心を落ち着く郡府の書斎で読書する。
昔、私は帝都の文化、物量の華やかなところに遊んだ時でも、丘や谷のある山中に隠棲して優遊自適の生活をしたいという望みを棄てたことはない。
それなのに、まして山川の住居に帰ったのだからなおさらのことで、心も行為も両方ともに静かに澄み切って暮らしてしる。
がらんとした公館には、喧嘩や訴訟などまったく絶え、人もいない庭には鳥や雀が遊びに来る。
病に臥してからは、暇や楽しみがかえって多く心豊かになると、詩文、文章なども時を多くとって作ってみる。


(訳注) 斎中讀書
心を落ち着く郡府の書斎で読書する。
 永嘉郡府の書斎。心を斎え静める室を斎という。


昔余遊京華、未嘗廢邱壑。
昔、私は帝都の文化、物量の華やかなところに遊んだ時でも、丘や谷のある山中に隠棲して優遊自適の生活をしたいという望みを棄てたことはない。
京華 帝都の文化、物量の華やかなところ。○邱壑 丘や谷。


矧乃歸山川、心跡兩寂漠。
それなのに、まして山川の住居に帰ったのだからなおさらのことで、心も行為も両方ともに静かに澄み切って暮らしてしる。
○心跡 心と身の行ない。○寂漠 静かに出来事もない無の境地にある。楚辞に「野寂漢として、其れ人無し」と。謝霊運の好きな言葉である。


虚館絶諍訟、空庭來鳥雀。
がらんとした公館には、喧嘩や訴訟などまったく絶え、人もいない庭には鳥や雀が遊びに来る。
○諍訟 喧嘩や訴訟。


臥疾豐暇豫、翰墨時間作。』
病に臥してからは、暇や楽しみがかえって多く心豊かになると、詩文、文章なども時を多くとって作ってみる。
暇豫 暇や楽しみ○翰墨 詩文、文章。

登江中孤嶼 謝靈運 <28> 詩集401 紀頌之 漢詩ブログ1020

登江中孤嶼 謝靈運 <28> 詩集401 紀頌之 漢詩ブログ1020

 かくて、時には広々とした臥江の下流、海との接点にあった孤嶼山にも、その風景を訪ねていったらしく、「江中の孤嶼に登る」の一首があり、『文選』の巻二十六の「行旅」の部にも選ばれている。
この詩は江南の景色もすべて見てまわり、江北の風物も見物、少しく退屈しているときに、江中の島の美しさを聞き、それっとばかり、供ぞろいして出かけていったときの作である。



登江中孤嶼
温州の南四里、永嘉江の中にある一つの嶼(鳥山峯が二つある。)にのぼる
江南捲歴覧、江北曠周旋。
永嘉江の南方を次々と見るのに飽きてしまうので、永嘉江の北を久しく歩き廻って、新しい眺めを思い求める。
懐新道轉迴、尋異景不延。
新しい景色を思い歩けば、道はいよいよ遠く廻り來る、珍しい景色を尋ねようとすれば日が早く沈む、日影はそれを待ってはくれない。
乱流趨正紀、弧嶼媚中川。
そこで乱れ流れる川をを横ぎって、正面の向岸に渡って行くと、島山がただ一つの山に見え、人を悦ばすような美しい姿で川の中にあった。
雲日相輝映、空水共澄鮮。
雲と太陽とが相い伴ばして輝き映えている、空と水とは共に明るく澄んでいた。
表靈物莫賞、蘊眞誰爲傅。
こうしてこの島は神秘な雰囲気を表わし、外界からかけ離れているので、何物がこれを誉めるということもないのだ、また山には仙人を奥深く包蔵していると思われるが、この絶対境では誰がそれを言い伝えることがあろうか。
想像崑山姿、緬邈區中縁。
この俗界を脱離した島山から私は崑崙山の島山の姿を想像している、狭い俗世界との関係がはるかに遠くなったように思われる。
始信安期術、得盡養生年。
そして私は仙人安期生の不老長生の術が、いきていくこで始めて信ずるのであった。それが生命を大切に担い養って、完全に天寿を生き尽くし得るものだということである。


江南の孤嶼に登る
江の南は歴覧するに倦み、江の北は曠【ひさ】しく周旋す。
新しきを懐【おも】いて道は転【うた】た迥【はる】かに、異【めずら】しきを尋ねて景【ひ】は延【なが】からず。
流れを乱【わた】りて正絶に趨【おもむ】けば、孤嶼は中川に媚【うるわ】し。
雲と日と 相輝き映え、空と水と 共に澄み鮮かなり。
霊を表すも物の賞【め】ずる莫く、真を蘊(つつ)むも誰か為に伝えん。
想像す 崑山の姿、緬邈【はるか】なり 区中の縁【けがれ】。
始めて信ず 安期の術の、養生の年を尽くすを得るを。


現代語訳と訳註
(本文)
登江中孤嶼
江南捲歴覧、江北曠周旋。
懐新道轉迴、尋異景不延。
乱流趨正紀、弧嶼媚中川。
雲日相輝映、空水共澄鮮。
表靈物莫賞、蘊眞誰爲傅。
想像崑山姿、緬邈區中縁。
始信安期術、得盡養生年。


(下し文) 江南の孤嶼に登る
江の南は歴覧するに倦み、江の北は曠【ひさ】しく周旋す。
新しきを懐【おも】いて道は転【うた】た迥【はる】かに、異【めずら】しきを尋ねて景【ひ】は延【なが】からず。
流れを乱【わた】りて正絶に趨【おもむ】けば、孤嶼は中川に媚【うるわ】し。
雲と日と 相輝き映え、空と水と 共に澄み鮮かなり。
霊を表すも物の賞【め】ずる莫く、真を蘊(つつ)むも誰か為に伝えん。
想像す 崑山の姿、緬邈【はるか】なり 区中の縁【けがれ】。
始めて信ず 安期の術の、養生の年を尽くすを得るを。


(現代語訳)
温州の南四里、永嘉江の中にある一つの嶼(島山峯が二つある。)にのぼる
永嘉江の南方を次々と見るのに飽きてしまうので、永嘉江の北を久しく歩き廻って、新しい眺めを思い求める。
新しい景色を思い歩けば、道はいよいよ遠く廻り來る、珍しい景色を尋ねようとすれば日が早く沈む、日影はそれを待ってはくれない。
そこで乱れ流れる川をを横ぎって、正面の向岸に渡って行くと、島山がただ一つの山に見え、人を悦ばすような美しい姿で川の中にあった。
雲と太陽とが相い伴ばして輝き映えている、空と水とは共に明るく澄んでいた。
こうしてこの島は神秘な雰囲気を表わし、外界からかけ離れているので、何物がこれを誉めるということもないのだ、また山には仙人を奥深く包蔵していると思われるが、この絶対境では誰がそれを言い伝えることがあろうか。
この俗界を脱離した島山から私は崑崙山の島山の姿を想像している、狭い俗世界との関係がはるかに遠くなったように思われる。
そして私は仙人安期生の不老長生の術が、いきていくこで始めて信ずるのであった。それが生命を大切に担い養って、完全に天寿を生き尽くし得るものだということである。


(訳注)
登江中孤嶼

温州の南四里、永嘉江の中にある一つの嶼(島山峯が二つある。)にのぼる


江南捲歴覧、江北曠周旋。
永嘉江の南方を次々と見るのに飽きてしまうので、永嘉江の北を久しく歩き廻って、新しい眺めを思い求める。
 久しく。空しく。○周旋 周り歩く。


懐新道轉迴、尋異景不延。
新しい景色を思い歩けば、道はいよいよ遠く廻り來る、珍しい景色を尋ねようとすれば日が早く沈む、日影はそれを待ってはくれない。
懐新道轉迴 「懐新道轉迴とは、新境を貪り尋ねて、其の道の退きを忘るるを謂ふなり。○尋異景不延 往き前みて奇を探れば、前に当る妙景、少くも遲延する能はずと謂ふなり。幽を尋ぬるに探き者はこの十字の字字咀味するに耐ふるを知る。」 ○不延 待たず。新しい景色、珍しい景色を眺めると、ついつい長くなり、日がしずむのが速くかんじて、見たりないことをいう。


乱流趨正紀、弧嶼媚中川。
そこで乱れ流れる川をを横ぎって、正面の向岸に渡って行くと、島山がただ一つの山に見え、人を悦ばすような美しい姿で川の中にあった。
乱流 流れを渡る。○正紀 流れを横切った正面の岸。乱流の二句は、「流を截って渡れば、忽ち孤嶼を得たるを謂ふ。余嘗て金焦に遊んで此の二句を誦し、愈々と其の妙を覚ゆ」とある。


雲日相輝映、空水共澄鮮。
雲と太陽とが相い伴ばして輝き映えている、空と水とは共に明るく澄んでいた。


表靈物莫賞、蘊眞誰爲傅。
こうしてこの島は神秘な雰囲気を表わし、外界からかけ離れているので、何物がこれを誉めるということもないのだ、また山には仙人を奥深く包蔵していると思われるが、この絶対境では誰がそれを言い伝えることがあろうか。
表霊 神霊の住む神秘なようすを表わす。○ 外界の物。○蘊眞 真人(仙人)を奥に包蔵する。○誰爲傅 人里離れているので誰も世に伝えない。


想像崑山姿、緬邈區中縁。
この俗界を脱離した島山から私は崑崙山の島山の姿を想像している、狭い俗世界との関係がはるかに遠くなったように思われる。
崑山 神仙の住むという崑崙山。中国古代の伝説上の山岳。崑崙山・崑崙丘・崑崙虚ともいう。中国の西方にあり、黄河の源で、玉を産出し、仙女の西王母がいるとされた。仙界とも呼ばれ、八仙がいるとされる。崑崙奴(こんろんど)とは、アフリカ系黒人に対しての呼び名であるが、伎楽の崑崙〔くろん〕面の名称も、そもそもは黒人のことをさした。○緬邈 はるかに遠いさま。○区中線 世間の俗縁。区中は狭い世間。
 

始信安期術、得盡養生年。
そして私は仙人安期生の不老長生の術が、いきていくこで始めて信ずるのであった。それが生命を大切に担い養って、完全に天寿を生き尽くし得るものだということである。
安期術 不老長生の術。列仙伝に「安期生は瑯邪阜郷の人。自ら千歳と言ふ」と。○安期 仙人の名。安期宅秦の墳邪の人で、学問を河上文人に受け、東海のほとりで薬を売っていた。当時の人は千歳公と呼んだ。始皇帝が山東に遊んだとき、三旦二晩ともに語った。金崗数千万を賜わったが、みな置いたまま立去り、「数十年のちに、われを蓬莱山のふもとにたずねよ」という置手紙をのこした。始皇はかれを海上にさがさせたが、使者は風波にあい引返した。漢の武帝の時、李少君という者が帝に報告した。「臣がかつて海上に遊んだとき、安期生を見た。かれは瓜のように大きいナツメを臣に食わせた、云云」武帝もまた、方士を海に派遣して安期生をさがさせたという。「列仙伝」や「史記」『三国志』「魏書」に登場する話。
古風五十九首 其七 李白 108/350


登江中孤嶼
江南捲歴覧、江北曠周旋。
懐新道轉迴、尋異景不延。
乱流趨正紀、弧嶼媚中川。
雲日相輝映、空水共澄鮮。
表靈物莫賞、蘊眞誰爲傅。
想像崑山姿、緬邈區中縁。
始信安期術、得盡養生年。

江南の孤嶼に登る詩。
江の南は歴覧するに倦み、江の北は曠【ひさ】しく周旋す。
新しきを懐【おも】いて道は転【うた】た迥【はる】かに、異【めずら】しきを尋ねて景【ひ】は延【なが】からず。
流れを乱【わた】りて正絶に趨【おもむ】けば、孤嶼は中川に媚【うるわ】し。
雲と日と 相輝き映え、空と水と 共に澄み鮮かなり。
霊を表すも物の賞【め】ずる莫く、真を蘊(つつ)むも誰か為に伝えん。
想像す 崑山の姿、緬邈【はるか】なり 区中の縁【けがれ】。
始めて信ず 安期の術の、養生の年を尽くすを得るを。


游赤石進帆海詩 謝霊運<27>#2 詩集 400 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1017

游赤石進帆海詩 謝霊運<27>#2 詩集 400 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1017


温州、永嘉に来て、時には足を遠くへ伸ばし、赤石にも遊んだ。赤石とは李書は『遊名山志』の「永寧・安国の二県の中路の東南は便ち走れ赤石にして、又た海に枕む」を引用して説明する。つまり、永寧は今の永嘉県、安回は安国のことで瑞安県とする。このとき作ったのが「赤石に遊び、進みて海に汎ぶ」の詩で、『文選』の巻二十二の 「遊覧」に選ばれている。


謝霊運『游赤石進帆海』詩
「揚帆采石華、掛席拾海月。」(帆を揚げて石華を采り、席を掛げて海月を拾う。)


遊赤石進帆海
作者:謝靈運 《昭明文選•卷二十二》


遊赤石進帆海
首夏猶清和,芳草亦未歇。
水宿淹晨暮,陰霞屢興沒。
周覽倦瀛壖,況乃陵窮髮。
川后時安流,天吳靜不發。』
揚帆采石華,挂席拾海月。
そこで私は帆をあげて船を進め、石についた華のような海草を采り、むしろ帆を揚げて舟を進め、海中の月のようなくらげを拾うのである。
溟漲無端倪,虛舟有超越。
底の暗い水のみなぎる海ははてしもない。その上を主役の乗っていない虚しい舟が自然遠くに漂い行くように、望みを捨てた私の舟路は液のまにまに、浮き世のかなたに遠く馳せて行くようである。
仲連輕齊組,子牟眷魏闕。
魯仲運は斉の卿相の印綬の組紐を物の数とも思わずに、海辺に去った廉潔の烈士であり、中山の公子牟は詹子に「身江海の上に在りても、心は訊問(城門の前にある左右の高い楼のようなもの)の下に居【お】かばいかん」といい、常に朝廷のことを忘れないのであった。
矜名道不足,適己物可忽。
それは、世間の名声(プライド)をほこることは、万象の根源である道、徳を充分に会得することはできないものであり、自己の志にかなう生きかたをしたなら、本来大切でない外物をおろそかにして忘れることができるのである。
請附任公言,終然謝天伐。』

孔子が陳で囲まれたとき、大公任が行って弔して「直木はまず伐られ、甘泉はまず枯渇【つ】きる、故に貴君は智徳のすぐれた人だから免れないのだ」といったことばに従って、ついには年若くて伐られる木の不幸をまぬがれたいものである。私は世の役に立たずとも、そのために自然の生命を全うしたいと切に願うのである。


(赤石に遊んで進んで海に泛ぶ)

首夏【しょか】猶お 清和にして,芳草も亦た 歇【や】まず。
水に宿り 晨暮【しんぼ】に淹【とど】まる,陰【かげ】る霞は 屢々 興こり沒しぬ。
周覽し 瀛壖【うみべ】に倦【う】む,況んや 乃ち窮髮【あれち】を陵るや。
川后【かわのかみ】は 時に流れを安んじ,天吳【わだつみのかみ】は靜にして 發せず。

帆を揚げて石華【ところてん】を采り、席を掛【かか】げて 海月【たいらぎかい】を拾う。
溟漲【みなみのうみ】は端倪【はじ】無きも,虛舟【かろきふね】は 超越する有り。
仲連【[魯]ちゅうれん】は齊組【せいそ】を輕んじ,子牟【[公]しぼう】は魏の闕を眷【した】い。
名に矜【ほこ】れば 道に足らず,己に適【かな】えば物も忽【わす】る可し。
請うらくは任公の言に附き,終然【つい】に天伐【はやくきられる】を謝【さ】らんことを。

keikoku00

現代語訳と訳註
(本文)#2

揚帆采石華,挂席拾海月。
溟漲無端倪,虛舟有超越。
仲連輕齊組,子牟眷魏闕。
矜名道不足,適己物可忽。
請附任公言,終然謝天伐。』


(下し文)#2
帆を揚げて石華【ところてん】を采り、席を掛【かか】げて 海月【たいらぎかい】を拾う。
溟漲【みなみのうみ】は端倪【はじ】無きも,虛舟【かろきふね】は 超越する有り。
仲連【[魯]ちゅうれん】は齊組【せいそ】を輕んじ,子牟【[公]しぼう】は魏の闕を眷【した】い。
名に矜【ほこ】れば 道に足らず,己に適【かな】えば物も忽【わす】る可し。
請うらくは任公の言に附き,終然【つい】に天伐【はやくきられる】を謝【さ】らんことを。


(現代語訳)
そこで私は帆をあげて船を進め、石についた華のような海草を采り、むしろ帆を揚げて舟を進め、海中の月のようなくらげを拾うのである。
底の暗い水のみなぎる海ははてしもない。その上を主役の乗っていない虚しい舟が自然遠くに漂い行くように、望みを捨てた私の舟路は液のまにまに、浮き世のかなたに遠く馳せて行くようである。
魯仲運は斉の卿相の印綬の組紐を物の数とも思わずに、海辺に去った廉潔の烈士であり、中山の公子牟は詹子に「身江海の上に在りても、心は訊問(城門の前にある左右の高い楼のようなもの)の下に居【お】かばいかん」といい、常に朝廷のことを忘れないのであった。
それは、世間の名声(プライド)をほこることは、万象の根源である道、徳を充分に会得することはできないものであり、自己の志にかなう生きかたをしたなら、本来大切でない外物をおろそかにして忘れることができるのである。
孔子が陳で囲まれたとき、大公任が行って弔して「直木はまず伐られ、甘泉はまず枯渇【つ】きる、故に貴君は智徳のすぐれた人だから免れないのだ」といったことばに従って、ついには年若くて伐られる木の不幸をまぬがれたいものである。私は世の役に立たずとも、そのために自然の生命を全うしたいと切に願うのである。


(訳注)
揚帆采石華,挂席拾海月。

そこで私は帆をあげて船を進め、石についた華のような海草を采り、むしろ帆を揚げて舟を進め、海中の月のようなくらげを拾うのである。
揚帆 帆をあげて船を進め。○石 海藻の名、ところてんの原料。珊瑚の名。いわ蘚。かき。石にさく花。○挂席 帆をあげる。席はむしろ。挂帆。○海月 海の中の月のようなくらげ。唐・孟浩然は謝霊運のこの詩に影響を受け次の詩を作っている。
晩泊潯陽望香爐峰』 孟浩然
掛席幾千里,名山都未逢。
泊舟潯陽郭,始見香爐峰。
嘗讀遠公傳,永懷塵外蹤。
東林精舍近,日暮但聞鐘。

(晩 潯陽に泊して香爐峰を望む)
席を掛けて幾千里、名山 都て未だ逢はず。
舟を潯陽の郭に泊め、始めて香爐峰を見たり。
嘗て遠公の伝を読み、永く塵外の蹤を懐く。
東林精舎近く、日暮れて 但【た】だ 鐘を聞けり。

●孟浩然の詩を詠んでいると時々、謝霊運を呼んでいたのかと間違えることがある。謝霊運の影響が最も大きかったのは、孟浩然であると筆者は感じている。それは、謝霊運の造語がよくつかわれていること。辞書を調べると。唐以前の詩人として謝霊運が圧倒的に多いこと。



溟漲無端倪,虛舟有超越。
底の暗い水のみなぎる海ははてしもない。その上を主役の乗っていない虚しい舟が自然遠くに漂い行くように、望みを捨てた私の舟路は液のまにまに、浮き世のかなたに遠く馳せて行くようである。
溟漲 底の暗い水のみなぎる海○端倪 きわ、はし、はじめからおわりまで。○虛舟 主役の乗っていない虚しい舟。


仲連輕齊組,子牟眷魏闕。
魯仲運は斉の卿相の印綬の組紐を物の数とも思わずに、海辺に去った廉潔の烈士であり、中山の公子牟は詹子に「身江海の上に在るも、心は魏闕(城門の前にある左右の高い楼のようなもの)の下に居【お】かばいかん」といい、常に朝廷のことを忘れないのであった。
仲連 『史記』の魯仲連伝の物語。魯仲連は、斉が柳城を攻めたときの功績により爵位を与えられようとした(卿相の印綬の組紐)が、それを避けて海上に隠れたという、○ 物の数とも思わず○齊組 齊の爵位。齊の卿相の印綬の組紐という表現がなされている。○子牟 魏の公子牟は江海のほとりにおりつつも、魏の宮廷のことを懐かしがったという『呂氏春秋』「中山の公子牟は詹子に謂って日く、身は江海の上に在るも、心は魏闕の下に居【お】かばいかんと」とある。の物語を引用している。○魏闕 魏の宮廷。闕は宮殿の門の左右傍にある潜り門。官僚が入る門のこと。『荘子』の大公任の故事を引いて、自分もこのように人生を送りたいとの顧望を述べる。


矜名道不足,適己物可忽。
それは、世間の名声(プライド)をほこることは、万象の根源である道、徳を充分に会得することはできないものであり、自己の志にかなう生きかたをしたなら、本来大切でない外物をおろそかにして忘れることができるのである。
矜名 世間の名声(プライド)をほこる。○道不足 万象の根源である道、徳を充分に会得することはできない。道教でいう「道」ではないから、道と徳とした。○適己 自己の志にかなう生きかたをする。○物可忽 本来大切でない外物をおろそかにして忘れる。


請附任公言,終然謝夭伐。』
孔子が陳で囲まれたとき、大公任が行って弔して「直木はまず伐られ、甘泉はまず枯渇【つ】きる、故に貴君は智徳のすぐれた人だから免れないのだ」といったことばに従って、ついには年若くて伐られる木の不幸をまぬがれたいものである。私は世の役に立たずとも、そのために自然の生命を全うしたいと切に願うのである。
請附 ことばに従って○任公言 名誉欲を離れて静かに人生を送るべきだという『荘子』の大公任の故事を引用。孔子が陳で囲まれたとき、大公任が行って弔して「直木はまず伐られ、甘泉はまず枯渇【つ】きる、故に貴君は智徳のすぐれた人だから免れないのだ」といった。自分もこのように人生を送りたいとの願望を述べる。○終然 ついには~を切に願う。○ 免れる。○夭伐 年若くて伐られる木。

游赤石進帆海詩 謝靈運<27>#1 詩集 399 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1014

游赤石進帆海詩 謝霊運27#1 詩集 399 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1014


温州、永嘉に来て、時には足を遠くへ伸ばし、赤石にも遊んだ。赤石とは李書は『遊名山志』の「永寧・安国の二県の中路の東南は便ち走れ赤石にして、又た海に枕む」を引用して説明する。つまり、永寧は今の永嘉県、安回は安国のことで瑞安県とする。このとき作ったのが「赤石に遊び、進みて海に汎ぶ」の詩で、『文選』の巻二十二の 「遊覧」に選ばれている。


謝霊運『游赤石進帆海』詩
「揚帆采石華、掛席拾海月。」(帆を揚げて石華を采り、席を掛げて海月を拾う。)


遊赤石進帆海
作者:謝靈運 《昭明文選•卷二十二》


遊赤石進帆海
首夏猶清和,芳草亦未歇。
夏の初め、まだなお春のように気はのどかな時節である、芳しい草はまたいまだやまず花咲いている。
水宿淹晨暮,陰霞屢興沒。
水辺の舟に宿って朝夕を久しく過ごしていると、暗い雲気がしばしば興っては消えてゆく。
周覽倦瀛壖,況乃陵窮髮。
あまねく海岸の景色に見飽きてしまった。まして昔の人が北海の北の不毛の地をふみ越えて行った時はなおさらであったと思う。
川后時安流,天吳靜不發。』

川の神、河伯は今の時に安らかに川を流れさせ、海の神、天呉は静かにして現われない。
揚帆采石華,挂席拾海月。
溟漲無端倪,虛舟有超越。
仲連輕齊組,子牟眷魏闕。
矜名道不足,適己物可忽。
請附任公言,終然謝天伐。』

(赤石に遊んで進んで海に泛ぶ)
首夏【しょか】猶お 清和にして,芳草も亦た 歇【や】まず。
水に宿り 晨暮【しんぼ】に淹【とど】まる,陰【かげ】る霞は 屢々 興こり沒しぬ。
周覽し 瀛壖【うみべ】に倦【う】む,況んや 乃ち窮髮【あれち】を陵るや。
川后【かわのかみ】は 時に流れを安んじ,天吳【わだつみのかみ】は靜にして 發せず。

帆を揚げて石華【ところてん】を采り、席を掛【かか】げて 海月【たいらぎかい】を拾う。
溟漲【みなみのうみ】は端倪【はじ】無きも,虛舟【かろきふね】は 超越する有り。
仲連【[魯]ちゅうれん】は齊組【せいそ】を輕んじ,子牟【[公]しぼう】は魏の闕を眷【した】い。
名に矜【ほこ】れば 道に足らず,己に適【かな】えば物も忽【わす】る可し。
請うらくは任公の言に附き,終然【つい】に天伐【はやくきられる】を謝【さ】らんことを。



現代語訳と訳註
(本文)
遊赤石進帆海
首夏猶清和,芳草亦未歇。
水宿淹晨暮,陰霞屢興沒。
周覽倦瀛壖,況乃陵窮髮。
川后時安流,天吳靜不發。』


(下し文) (赤石に遊んで進んで海に泛ぶ)
首夏【しょか】猶お 清和にして,芳草も亦た 歇【や】まず。
水に宿り 晨暮【しんぼ】に淹【とど】まる,陰【かげ】る霞は 屢々 興こり沒しぬ。
周覽し 瀛壖【うみべ】に倦【う】む,況んや 乃ち窮髮【あれち】を陵るや。
川后【かわのかみ】は 時に流れを安んじ,天吳【わだつみのかみ】は靜にして 發せず。


(現代語訳)
夏の初め、まだなお春のように気はのどかな時節である、芳しい草はまたいまだやまず花咲いている。
水辺の舟に宿って朝夕を久しく過ごしていると、暗い雲気がしばしば興っては消えてゆく。
あまねく海岸の景色に見飽きてしまった。まして昔の人が北海の北の不毛の地をふみ越えて行った時はなおさらであったと思う。
川の神、河伯は今の時に安らかに川を流れさせ、海の神、天呉は静かにして現われない。


(訳注)
遊赤石進帆海
赤石  永寧・妄固二県の中路の東南は、便ち走れ赤石なり。また海に臨む。 ○帆 帆は帆を揚げ浮かぶ。赤石に旅をし、水辺に宿をとって、その夕景を詠じ、さらに、「帆を揚げて石華を採り 席に掛けて海月を拾う」と歌う。


首夏猶清和,芳草亦未歇。
夏の初め、まだなお春のように気はのどかな時節である、芳しい草はまたいまだやまず花咲いている。
首夏 しょか ○清和 きよくなごやか。のどか。世の中が良く治まっていること。初夏の気候の形容。


水宿淹晨暮,陰霞屢興沒。
水辺の舟に宿って朝夕を久しく過ごしていると、暗い雲気がしばしば興っては消えてゆく。
水宿 水辺の舟に宿す。○晨暮 朝夕。○陰霞 暗い雲気。○興沒 暗い雲気。


周覽倦瀛壖,況乃陵窮髮。
あまねく海岸の景色に見飽きてしまった。まして昔の人が北海の北の不毛の地をふみ越えて行った時はなおさらであったと思う。
周覽 周り回って観覧する。○瀛壖 海岸の景色。○況乃 いわんや、なおさら。○陵窮髮 北海の北の不毛の地。


川后時安流,天吳靜不發。』
川の神、河伯は今の時に安らかに川を流れさせ、海の神、天呉は静かにして現われない。
川后 川の神。河伯。曹植『洛神賦』「屏翳収風、川后静波。」(屏翳風を収め、川后波を静む。)○天吳 海の神、人の顔をし、八首、八足、八尾をしている。

遊南亭 謝靈運 <26>#2 詩集398 紀頌之 漢詩ブログ1011

遊南亭 謝霊運 <26>#2 詩集398 紀頌之 漢詩ブログ1011

孤独な霊運はその事に腰を下ろして四方の景を眺めつつ、来し方のこと、都のことを思い出し、左遷された今を悲しみ、早く故郷の会稽に帰り、自然の美しきを楽しみたいと思いつつ歌ったのが「南亭に遊ぶ」で、この作は『文選』の巻二十二の「遊覧」に選ばれている。


遊南亭
時竟夕澄霽。雲歸日西馳。
密林含余清。遠峰隱半規。
久痗昏墊苦。旅館眺郊歧。
澤蘭漸被徑。芙蓉始發池。』
未厭青春好。已觀朱明移。
万物の息吹、木々の芽生える春の好い季節、気候をまだ、まだ飽きてもいないのに、もうすでに日の朱き、明るく輝く夏に移りゆくのを見る。
慼慼感物嘆。星星白髮垂。
そうすると私は物悲しくなって風物に感じて嘆いてしまう、きらきらと光って白髪が垂れ下がっているのに気が付く。
藥餌情所止。衰疾忽在斯。
老衰と疾病がたちまちこのようにやって来たのは薬や食物はわが気持ちから止めてしまったからだ。
逝將候秋水。息景偃舊崖。
これから秋の増水の時を待って流れに随って帰えり行き、わが身の影を休息させるために始寧の故郷の崖の家に身を横たえようと思う。
我志誰與亮。賞心惟良知。』

私の志は誰が明らかに知ってくれることだろうか。自然の実を写る心の人こそ良い知友である。これからは私は風月をめでて暮らしたいと思う。


南亭遊
時も竟【お】わりて夕【ゆうべ】は澄み霽【は】れ、雲は帰り日は西に馳【は】す。
密林 余清【よせい】を含み、遠峰は 半規【はんき】を隠す。
久しく昏墊【こんてん】の苦に痗【なや】みしも、旅館にて郊岐【こうき】を眺む。
沢の蘭は漸【ようや】く径【こみち】を被い、芙蓉は始めて池に発す。
未だ青青の好を厭【あ】かざるに、己に朱明【しゅめい】の移れるを覩【み】る。
戚戚【せきせき】として物に感じて嘆き、星星【せいせい】として白髪 垂【た】る。
薬餌【やくじ】は情の止【や】む所、衰疾【すいしつ】 忽ち斯【ここ】に在り。
逝【ゆき】て将に秋水を侯【ま】ち、景を息【やす】 めて旧崖に偃【ふ】さんとす。
我が志 誰と与にか亮【あき】らかにせん。賞心【しょうしん】惟【こ】れ 良知なり。

 #2 現代語訳と訳註
(本文)#2

未厭青春好。已觀朱明移。
慼慼感物嘆。星星白髮垂。
藥餌情所止。衰疾忽在斯。
逝將候秋水。息景偃舊崖。
我志誰與亮。賞心惟良知。』


(下し文)
未だ青青の好を厭【あ】かざるに、己に朱明【しゅめい】の移れるを覩【み】る。
戚戚【せきせき】として物に感じて嘆き、星星【せいせい】として白髪 垂【た】る。
薬餌【やくじ】は情の止【や】む所、衰疾【すいしつ】 忽ち斯【ここ】に在り。
逝【ゆき】て将に秋水を侯【ま】ち、景を息【やす】 めて旧崖に偃【ふ】さんとす。
我が志 誰と与にか亮【あき】らかにせん。賞心【しょうしん】惟【こ】れ 良知なり。


(現代語訳)
万物の息吹、木々の芽生える春の好い季節、気候をまだ、まだ飽きてもいないのに、もうすでに日の朱き、明るく輝く夏に移りゆくのを見る。
そうすると私は物悲しくなって風物に感じて嘆いてしまう、きらきらと光って白髪が垂れ下がっているのに気が付く。
老衰と疾病がたちまちこのようにやって来たのは薬や食物はわが気持ちから止めてしまったからだ。
これから秋の増水の時を待って流れに随って帰えり行き、わが身の影を休息させるために始寧の故郷の崖の家に身を横たえようと思う。
私の志は誰が明らかに知ってくれることだろうか。自然の実を写る心の人こそ良い知友である。これからは私は風月をめでて暮らしたいと思う。


(訳注)
未厭青春好。已觀朱明移。

万物の息吹、木々の芽生える春の好い季節、気候をまだ、まだ飽きてもいないのに、もうすでに日の朱き、明るく輝く夏に移りゆくのを見る。
青春 五行思想で青、春、東を青とする。春霞の青い山々。万物の息吹、木々の芽生える春の季節。○朱明 夏のこと。『爾雅、釈天』に「夏を朱明と為す」と。五行思想で南方、夏の色を朱とする。


慼慼感物嘆。星星白髮垂。
そうすると私は物悲しくなって風物に感じて嘆いてしまう、きらきらと光って白髪が垂れ下がっているのに気が付く。
戚戚 憂え悲しむ。○星星 点々と白髪の交じるさま。


藥餌情所止。衰疾忽在斯。
老衰と疾病がたちまちこのようにやって来たのは薬や食物はわが気持ちから止めてしまったからだ。
○倒句でよむ。


逝將候秋水。息景偃舊崖。
これから秋の増水の時を待って流れに随って帰えり行き、わが身の影を休息させるために始寧の故郷の崖の家に身を横たえようと思う。
秋水 秋の増水。○息景 景は影と同じ。わが身の影。文選、張銑注に「形影を旧居の山崖に息む」と。○ 身を横たえ○舊崖 始寧のf故郷の崖の家


我志誰與亮。賞心惟良知。』
私の志は誰が明らかに知ってくれることだろうか。自然の実を写る心の人こそ良い知友である。これからは私は風月をめでて暮らしたいと思う。
誰與亮 輿は「歟」~だろうか。誰か亮かなるだろうか。亮は明、信。○賞心 自然の風光を賞でる心。○惟良知 自然の美を知り、俗事を脱れる心のある人こそわが良友である。

遊南亭 謝靈運 <26>#1 詩集397 紀頌之 漢詩ブログ1008

遊南亭 謝霊運 <26>#1 詩集397 紀頌之 漢詩ブログ1008

孤独な霊運はその事に腰を下ろして四方の景を眺めつつ、来し方のこと、都のことを思い出し、左遷された今を悲しみ、早く故郷の会稽に帰り、自然の美しきを楽しみたいと思いつつ歌ったのが「南亭に遊ぶ」で、この作は『文選』の巻二十二の「遊覧」に選ばれている。


遊南亭
南亭に遊ぶ。
時竟夕澄霽。雲歸日西馳。
日暮れの時も終わるころ、夕方の気は澄みわたり、そして空は晴れる。雲は山に帰り、日は西に馳せて行く。
密林含余清。遠峰隱半規。
奥深く繁った林はありあまる涼しさを含み、遠山の峯は半円形の夕日を隠してしまった。
久痗昏墊苦。旅館眺郊歧。
久しく暗い雨の日が続き、洪水の苦しみ、なやんでいた私は、南亭の旅館で郊外の分かれ道を眺めている。
澤蘭漸被徑。芙蓉始發池。』

沢の蘭草はやや小道を被って茂り、蓮の花ははじめて池の中でいま開いたところである。

未厭青春好。已觀朱明移。
慼慼感物嘆。星星白髮垂。
藥餌情所止。衰疾忽在斯。
逝將候秋水。息景偃舊崖。
我志誰與亮。賞心惟良知。』


時も竟【お】わりて夕【ゆうべ】は澄み霽【は】れ、雲は帰り日は西に馳【は】す。
密林 余清【よせい】を含み、遠峰は 半規【はんき】を隠す。
久しく昏墊【こんてん】の苦に痗【なや】みしも、旅館にて郊岐【こうき】を眺む。
沢の蘭は漸【ようや】く径【こみち】を被い、芙蓉は始めて池に発す。

未だ青青の好を厭【あ】かざるに、己に朱明【しゅめい】の移れるを覩【み】る。
戚戚【せきせき】として物に感じて嘆き、星星【せいせい】として白髪 垂【た】る。
薬餌【やくじ】は情の止【や】む所、衰疾【すいしつ】 忽ち斯【ここ】に在り。
逝【ゆき】て将に秋水を侯【ま】ち、景を息【やす】 めて旧崖に偃【ふ】さんとす。
我が志 誰と与にか亮【あき】らかにせん。賞心【しょうしん】惟【こ】れ 良知なり。


現代語訳と訳註
(本文)

時竟夕澄霽。雲歸日西馳。
密林含余清。遠峰隱半規。
久痗昏墊苦。旅館眺郊歧。
澤蘭漸被徑。芙蓉始發池。』


(下し文)
時も竟【お】わりて夕【ゆうべ】は澄み霽【は】れ、雲は帰り日は西に馳【は】す。
密林 余清【よせい】を含み、遠峰は 半規【はんき】を隠す。
久しく昏墊【こんてん】の苦に痗【なや】みしも、旅館にて郊岐【こうき】を眺む。
沢の蘭は漸【ようや】く径【こみち】を被い、芙蓉は始めて池に発す。


(現代語訳)
南亭に遊ぶ。
日暮れの時も終わるころ、夕方の気は澄みわたり、そして空は晴れる。雲は山に帰り、日は西に馳せて行く。
奥深く繁った林はありあまる涼しさを含み、遠山の峯は半円形の夕日を隠してしまった。
久しく暗い雨の日が続き、洪水の苦しみ、なやんでいた私は、南亭の旅館で郊外の分かれ道を眺めている。
沢の蘭草はやや小道を被って茂り、蓮の花ははじめて池の中でいま開いたところである。


(訳注)#1
遊南亭
南亭に遊ぶ
南亭 永嘉郡の南亭


時竟夕澄霽。雲歸日西馳。
日暮れの時も終わるころ、夕方の気は澄みわたり、そして空は晴れる。雲は山に帰り、日は西に馳せて行く。
時竟 暫くの時が終わって。あるいは、時雨止む、ここでは、日暮れの時おわり、一日を尽くすとする。


密林含余清。遠峰隱半規。
奥深く繁った林はありあまる涼しさを含み、遠山の峯は半円形の夕日を隠してしまった。
密林 奥深く繁った林。○半規 沈みかけ半ば隠れた太陽。


久痗昏墊苦。旅館眺郊歧。
久しく暗い雨の日が続き、洪水の苦しみ、なやんでいた私は、南亭の旅館で郊外の分かれ道を眺めている。
 なやむ。○昏墊 暗く曇り水があふれる。長雨と洪水。○郊歧 城郭郊外の分かれ道(分岐点)。


澤蘭漸被徑。芙蓉始發池。』
沢の蘭草はやや小道を被って茂り、蓮の花ははじめて池の中でいま開いたところである。
沢蘭 沢畔の蘭草。楚辞招魂に「皐蘭径【こみち】を蔽【おお】ひ、斯の路漸【ひた】る。」と。○芙蓉 連の花。楚辞、招魂に「芙蓉始めて発【ひら】いて、芰荷を雑【まじ】ふ」と。

登池上樓 #2 謝靈運<25>#2  詩集 396 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1005

登池上樓 #2 謝霊運<25>#2  詩集 396 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1005

 

登池上樓#1
潛虯媚幽姿,飛鴻響遠音。
薄霄愧雲浮,棲川怍淵沉。
進德智所拙,退耕力不任。」
徇祿反窮海,臥痾對空林。
衾枕昧節候,褰開暫窺臨。
傾耳聆波瀾,舉目眺嶇嶔。』
#2
初景革緒風,新陽改故陰。
初春の景色は去年の秋冬の名残の風を改めている、新しい日の光が照り、去年の冬の名残りの陰気はすっかり改まっている。
池塘生春草,園柳變鳴禽。」
池の堤防にびっしり春の草が生えている、庭園の柳の梢に鳴いている小鳥たちも冬のものと違って聞こえてくる。
祁祁傷豳歌,萋萋感楚吟。
春の日あしはのどかにあるとした『詩経』の豳歌に心を痛め、さわさわとした草の茂りに『楚辞、招隠士』の「王孫遊びて帰らず、春草生じて萋萋たり。」ということに感動するのである。
索居易永久,離群難處心。
友と離れて病床につき一人引きこもってれば永久になりやすのだ、群から離れたら心を落ち着けることは難しい。
持操豈獨古,無悶徵在今。』

それでも志を持ち続ける節操として守り続けるのは一人古人だけだろうか、今の世に隠棲してよをのがれることができるなら、「無悶」の徴候は今ここに実証としてあるということなのだ。


(池の上の楼に登る)
潜【ひそ】める虻【みずち】は幽【ゆう】なる姿を媚【よろこ】び、飛ぶ鴻【おおとり】は遠き音を響かす。
空に留まりて雲に浮かぶを愧【は】じ、川に沈みて淵に沈むを怍【は】ず。
徳を進【みがか】んとするも智の拙なる所、耕を退かんとするに力任【た】えず。
禄に徇【したが】いて窮【さいは】ての海に及び、痾【あ】に臥し空林に対す。
衾【ねや】の枕とは節候【じせつ】に昧【くら】く、褰【かか】げて開きて暫く窺【うかが】い臨む。』
耳を傾けて波瀾を聆【き】き、目を挙げて嶇【たかき】嶔【そびえ】を眺むるのみ。
#2
初景【はつはる】は緒風を革【あらた】め、新陽は故き蔭【ふゆ】を改む。
池の塘【つつみ】は春の草生じ、園の柳に鳴く禽【とり】も変りぬ。
祁祁【ひとおお】きに豳【ひん】の歌に傷【いた】み、萋萋【せいせい】たる楚吟【そぎん】に感ず。
索居【ひとりい】は永久なり易く、群れを離れては心を處【しょ】し難し。
操を持するは豈ひとり古【いにしえ】のみ成らんや、悶【うれ】い無きの徵【しる】しは今に在り。


現代語訳と訳註
(本文)
#2
初景革緒風,新陽改故陰。
池塘生春草,園柳變鳴禽。」
祁祁傷豳歌,萋萋感楚吟。
索居易永久,離群難處心。
持操豈獨古,無悶徵在今。』


(下し文) #2
初景【はつはる】は緒風を革【あらた】め、新陽は故き蔭【ふゆ】を改む。
池の塘【つつみ】は春の草生じ、園の柳に鳴く禽【とり】も変りぬ。
祁祁【ひとおお】きに豳【ひん】の歌に傷【いた】み、萋萋【せいせい】たる楚吟【そぎん】に感ず。
索居【ひとりい】は永久なり易く、群れを離れては心を處【しょ】し難し。
操を持するは豈ひとり古【いにしえ】のみ成らんや、悶【うれ】い無きの徵【しる】しは今に在り。


(現代語訳)
初春の景色は去年の秋冬の名残の風を改めている、新しい日の光が照り、去年の冬の名残りの陰気はすっかり改まっている。
池の堤防にびっしり春の草が生えている、庭園の柳の梢に鳴いている小鳥たちも冬のものと違って聞こえてくる。
春の日あしはのどかにあるとした『詩経』の豳歌に心を痛め、さわさわとした草の茂りに『楚辞、招隠士』の「王孫遊びて帰らず、春草生じて萋萋たり。」ということに感動するのである。
友と離れて病床につき一人引きこもってれば永久になりやすのだ、群から離れたら心を落ち着けることは難しい。
それでも志を持ち続ける節操として守り続けるのは一人古人だけだろうか、今の世に隠棲してよをのがれることができるなら、「無悶」の徴候は今ここに実証としてあるということなのだ。


(訳注)
初景革緒風,新陽改故陰。

初春の景色は去年の秋冬の名残の風を改めている、新しい日の光が照り、去年の冬の名残りの陰気はすっかり改まっている。
初景 初春の景色。○緒風 秋冬の風の名残をいう。『楚辞』「九章」の「渉江」に、「乗鄂渚而反顧兮、欵秋冬之緒風。」(鄂渚に乗りて反顧すれば、ああ、秋冬の緒風なり。)とある。○革 あらたまる。革命、改革。「天地陰陽、不革而成。」『易経、革』「上六、君子豹変、小人革面」(上六、君子は豹変し、小人は面を革む。)四季の移り変わりのように自然と直ってゆくことを言う。年が改まり、去年の秋冬の風が初春の景色へと変わってゆくように、何かが新しく、正しく改革されてゆく。それは下から登ってきた陽気が去年の陰気に取って代わられてゆくからである。易では下の陽気が上昇し、陰気と入れ替わってゆくことで春が来る。初春は泰(上が坤で下が乾の卦)で表し、地面の上は去年から残る秋冬の風の陰気が「緒風」として残っているが、地面には既に陽気が登ってきて、春が来たのが感じられる。


池塘生春草,園柳變鳴禽。」
池の堤防にびっしり春の草が生えている、庭園の柳の梢に鳴いている小鳥たちも冬のものと違って聞こえてくる。
池塘生春草 南史に謝霊運は夢に族弟謝蕙連を見てこの名句を得たという。


祁祁傷豳歌,萋萋感楚吟。
春の日あしはのどかにあるとした『詩経』の豳歌に心を痛め、さわさわとした草の茂りに『楚辞、招隠士』の「王孫遊びて帰らず、春草生じて萋萋たり。」ということに感動するのである。
祁祁傷豳歌 『詩経、豳風【ひんのくにのうた】』「春日遅遅、采蔞祁祁。」(春の日は遅々として、蔞【よもぎ】采【と】るものは祁祁たり。)“春の日あしはのどかにある、白よもぎを摘む人もおびただしい。” ○萋萋感楚吟 楚辞招隠士篇に「王孫遊びて帰らず、春草生じて萋萋たり。」とあるのに心を動かす。萋萋は草の茂るさま。


索居易永久,離群難處心。
友と離れて病床につき一人引きこもってれば永久になりやすのだ、群から離れたら心を落ち着けることは難しい。
索居 友と離れて住む。 ○難処心 心を安んじ難い。


持操豈獨古,無悶徵在今。』
それでも志を持ち続ける節操として守り続けるのは一人古人だけだろうか、今の世に隠棲してよをのがれることができるなら、「無悶」の徴候は今ここに実証としてあるということなのだ。
持操豈獨古 荘子斉物論に「罔両(影の外にある輪郭)影を責めて曰く、我には子坐せり、今は子起てり、何ぞ其れ持操無きや」と。古だけであろうか。持操は今でもある志を持ち続ける。○無悶 易の乾の卦に「世を遯るれぱ悶無し」と。 ○徴在今 今も実証がある。自分で実証しよう。

登池上樓 #1 謝靈運<25>#1  詩集 395 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1002

登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  詩集 395 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1002

 

登池上樓#1
潛虯媚幽姿,飛鴻響遠音。
淵深く潜むみずちの龍の奥ゆかしい姿は心惹かれ麗しいものである、空高く飛ぶ大きな雁は遥か遠くからそのなく声を響かして聞えてくる。(俗世を超越し、隠棲した人は一人物静かに生き、奥ゆかしく美しい。)
薄霄愧雲浮,棲川怍淵沉。
しかし、私は空高く上がっても浮雲のうえにでることはできない心の萎縮を愧じるのである、かといって川に棲み淵の底のその奥に身を潜めることもできないことは、この身も切られるくらいの慚に思うのだ。
進德智所拙,退耕力不任。」
徳を積み修行をして立派な人として官僚の上に立つほど智徳、慈悲が稚拙である、そうかといって引退して畑を耕して暮らすにはそれに耐えるだけの体力がないのである。(隠棲することは自然への同化である。道教でなくても仏教の修行も死と隣り合わせであるからそれに耐えうる体力がない。持病を持っていた)
徇祿反窮海,臥痾對空林。
官を辞せずにやむをえず俸禄を求めてこんな最果ての見知らぬ海辺のまちに来ている、その上、厄介な病気のことを考えると志で棲みたいと思っていたひと気のない林を眺めるしかないのである。
衾枕昧節候,褰開暫窺臨。
そして、寝床にいたため節季行事もすることができないため季節感がわからなくなっている、簾の裾を開けてはしばらく外を覗き見るのである。
傾耳聆波瀾,舉目眺嶇嶔。』
寝床から耳をすますと大きな波の連なるのを聞くのである、目を挙げて険しく聳えてのしかかってくるかのような山を眺めるのである。

#2
初景革緒風,新陽改故陰。
池塘生春草,園柳變鳴禽。」
祁祁傷豳歌,萋萋感楚吟。
索居易永久,離群難處心。
持操豈獨古,無悶徵在今。』


(池の上の楼に登る)
潜【ひそ】める虻【みずち】は幽【ゆう】なる姿を媚【よろこ】び、飛ぶ鴻【おおとり】は遠き音を響かす。
空に留まりて雲に浮かぶを愧【は】じ、川に沈みて淵に沈むを怍【は】ず。
徳を進【みがか】んとするも智の拙なる所、耕を退かんとするに力任【た】えず。
禄に徇【したが】いて窮【さいは】ての海に及び、痾【あ】に臥し空林に対す。
衾【ねや】の枕とは節候【じせつ】に昧【くら】く、褰【かか】げて開きて暫く窺【うかが】い臨む。』
耳を傾けて波瀾を聆【き】き、目を挙げて嶇【たかき】嶔【そびえ】を眺むるのみ。

#2
初景【はつはる】は緒風を革【あらた】め、新陽は故き蔭【ふゆ】を改む。
池の塘【つつみ】は春の草生じ、園の柳に鳴く禽【とり】も変りぬ。
祁祁【ひとおお】きに豳【ひん】の歌に傷【いた】み、萋萋【せいせい】たる楚吟【そぎん】に感ず。
索居【ひとりい】は永久なり易く、群れを離れては心を處【しょ】し難し。
操を持するは豈ひとり古【いにしえ】のみ成らんや、悶【うれ】い無きの徵【しる】しは今に在り。


現代語訳と訳註
(本文)
登池上樓#1
潛虯媚幽姿,飛鴻響遠音。
薄霄愧雲浮,棲川怍淵沉。
進德智所拙,退耕力不任。」
徇祿反窮海,臥痾對空林。
衾枕昧節候,褰開暫窺臨。
傾耳聆波瀾,舉目眺嶇嶔。』


(下し文) (池の上の楼に登る)#1
潜【ひそ】める虻【みずち】は幽【ゆう】なる姿を媚【よろこ】び、飛ぶ鴻【おおとり】は遠き音を響かす。
空に留まりて雲に浮かぶを愧【は】じ、川に沈みて淵に沈むを怍【は】ず。
徳を進【みがか】んとするも智の拙なる所、耕を退かんとするに力任【た】えず。
禄に徇【したが】いて窮【さいは】ての海に及び、痾【あ】に臥し空林に対す。
衾【ねや】の枕とは節候【じせつ】に昧【くら】く、褰【かか】げて開きて暫く窺【うかが】い臨む。』
耳を傾けて波瀾を聆【き】き、目を挙げて嶇【たかき】嶔【そびえ】を眺むるのみ。


(現代語訳)
淵深く潜むみずちの龍の奥ゆかしい姿は心惹かれ麗しいものである、空高く飛ぶ大きな雁は遥か遠くからそのなく声を響かして聞えてくる。(俗世を超越し、隠棲した人は一人物静かに生き、奥ゆかしく美しい。)
しかし、私は空高く上がっても浮雲のうえにでることはできない心の萎縮を愧じるのである、かといって川に棲み淵の底のその奥に身を潜めることもできないことは、この身も切られるくらいの慚に思うのだ。
徳を積み修行をして立派な人として官僚の上に立つほど智徳、慈悲が稚拙である、そうかといって引退して畑を耕して暮らすにはそれに耐えるだけの体力がないのである。(隠棲することは自然への同化である。道教でなくても仏教の修行も死と隣り合わせであるからそれに耐えうる体力がない。持病を持っていた)
官を辞せずにやむをえず俸禄を求めてこんな最果ての見知らぬ海辺のまちに来ている、その上、厄介な病気のことを考えると志で棲みたいと思っていたひと気のない林を眺めるしかないのである。
そして、寝床にいたため節季行事もすることができないため季節感がわからなくなっている、簾の裾を開けてはしばらく外を覗き見るのである。
寝床から耳をすますと大きな波の連なるのを聞くのである、目を挙げて険しく聳えてのしかかってくるかのような山を眺めるのである。


(訳注)
登池上樓

○池上楼 池のほとりの楼である。『温州府志』によると、東山書院の近傍に池上楼の建物が示されている。それがこの詩の当時あったかどうかは不明である。


潛虯媚幽姿,飛鴻響遠音。
淵深く潜むみずちの龍の奥ゆかしい姿は心惹かれ麗しいものである、空高く飛ぶ大きな雁は遥か遠くからそのなく声を響かして聞えてくる。(俗世を超越し、隠棲した人は一人物静かに生き、奥ゆかしく美しい。)
潛虯 ①ひそみ隠れているみずち。無名指の別名。・虯竜の子で角があるもの虬。蛟 角がない。龍でなく虯は謝霊運が龍は天子を示すため、その子である蛟とした。しかし、詩は以下の易経に基づいている。『易経』の冒頭の「乾為天」に、「潛龍勿用。(潛龍用いるなかれ。)」とあり、孔子の文言に、「文言曰く、潛龍勿用、何謂也。子曰、龍徳而隠者也。不易乎世、不成乎名、遯世无悶、不見是而无悶。楽則行之、憂則違之。確乎其不可抜、潛龍也。」(文言に曰く初九に、潛龍用いること勿。何の謂ひぞなり。子曰く、龍徳ありて隠れたる者なり。世に易かえず、名を成さず、世を遯のがれて悶うれうることなく、是ぜとせられずして悶うれうることなし。楽しめばこれを行ない、憂うればこれを違さる。確乎かっことしてそれ抜くべからざるは、潛龍せんりゅうなり。)とある。○ こころひかれる○幽姿 隠遁者。奥深く身を隠した姿、幽居の奥ゆかしい人柄。○ 大きい雁。○遠音 遠くの空で啼く声。俗世を超越した人を喩える。


薄霄愧雲浮,棲川怍淵沉。
しかし、私は空高く上がっても浮雲のうえにでることはできない心の萎縮を愧じるのである、かといって川に棲み淵の底のその奥に身を潜めることもできないことは、この身も切られるくらいの慚に思うのだ。
薄霄 晴れ渡った空。晴天。雨雲の向こうに隠れた遥かな晴天。苗代に苗が生えるところから来た字で、薄っすらと生えるところから薄いという意味と、びっしりと生えるという意味がある。○ 心が萎縮して丸く固まること。行為に対する愧じ。「塊」と同系。恥は心が柔らかくなること。怍は慚、心が切られる様な感じ。矜持に対する慚ということ。


進德智所拙,退耕力不任。」
徳を積み修行をして立派な人として官僚の上に立つほど智徳、慈悲が稚拙である、そうかといって引退して畑を耕して暮らすにはそれに耐えるだけの体力がないのである。(隠棲することは自然への同化である。道教でなくても仏教の修行も死と隣り合わせであるからそれに耐えうる体力がない。持病を持っていた)
進德智所拙 徳を積み修行をして立派な人として官僚の上に立つほどの智徳、慈悲が稚拙。・進德(徳に進む)は『易経、乾為天』「君子進德修業。忠信、所以進德也。」(君子は徳に進み業を修む。忠信は徳に進む所以なり。)とある。○退 官を辞する。引退。隠棲。○耕 耕作すること。○力不任 耐えるだけの体力がない。任は備わっていること。


徇祿反窮海,臥痾對空林。
官を辞せずにやむをえず俸禄を求めてこんな最果ての見知らぬ海辺のまちに来ている、その上、厄介な病気のことを考えると志で棲みたいと思っていたひと気のない林を眺めるしかないのである。
徇祿 官を辞せずにやむをえず俸禄を求め○ 来ている○窮海 最果ての見知らぬ海辺。○臥痾 重病。糖尿病ではないか?○空林 人の気配のない林。役所にいれば大勢の役人に囲まれ、山野を調査する時には大勢の従者を従えていた。山遊びの際も都でするものと比べれば貧層であることをいうのであろう。


衾枕昧節候,褰開暫窺臨。』
そして、寝床にいたため節季行事もすることができないため季節感がわからなくなっている、簾の裾を開けてはしばらく外を覗き見るのである。
衾枕 寝る時にかぶる夜着。衾と枕とで寝床のこと。○節候 季節・時候のこと。病気で長いこと寝床にいたために、季節の移り変わりの行事に参加していないことをいう。最低でも二十四節季あるわけで、官僚として欠かせないものである。○ 袴のことだが、ここでは簾の裾のこと。○穴からのぞくこと。○


傾耳聆波瀾,舉目眺嶇嶔。
寝床から耳をすますと大きな波の連なるのを聞くのである、目を挙げて険しく聳えてのしかかってくるかのような山を眺めるのである。
傾耳 『礼記、孔子閒居』「傾耳而聽之。」(耳を傾け而して之を聽く。)○ (耳を澄ましたうえに、)耳を澄まして聞くこと。○波瀾 波頭の連なる様で、漣と同系の言葉だが、漣よりは大きな波を表す○嶇嶔 嶔嶇とも言う。険しくてのしかかってくるかのような山のことを言う。

過白岸亭 謝靈運<24>#2 詩集394 紀頌之 漢詩ブログ997

過白岸亭 謝霊運 <24>#2 詩集394 紀頌之 漢詩ブログ997


霊運はこの春には、永嘉江をさかのぼり、楠渓の西南にあった白岸亨に遊んでいる。この事は永嘉から八十七里(50km)も離れたところにあり、岸辺の砂が、白砂でとても美しかった。ここで歌ったものに「過白岸亭」(白岸亭を過ぐ)がある。
a謝霊運永嘉ルート02

過白岸亭
拂衣遵沙垣。緩步入蓬屋。
近澗涓密石。遠山映疏木。
空翠難強名。漁釣易為曲。
援蘿臨青崖。春心自相屬。』
交交止栩黃。呦呦食萍鹿。
コウコウと飛び交っていたちいさな黄色カラ鶯がなつめの木に止まっている、ヨウヨウと啼いていた鹿が蓬を食べている。
傷彼人百哀。嘉爾承筐樂。
鳥でさえ、鹿でさえそうなのに人生に傷ついた人間にとって数えきれない哀しみがある、しかし幸いなことに浄土教との出会い樂経を承ることができたことにある。
榮悴迭去來。窮通成休慽。
官僚として栄えることと貶められ悩むことが互いにやって来た。痛快にしごとができること窮めることは悩みおそれることを成すことなのである。
未若長疏散。萬事恆抱朴。』

いまだに長期的に疎んじられ離れてそのままになっている。万事に対して常に隠棲したい気持ちを持ち続けることである。

(白岸亭を過ぐ)#1
衣を払い沙の垣に遵【したが】い、歩を緩【ゆる】くして蓬屋【ほうおく】に入る。
近くの澗【たに】や涓【ちいさいながれ】は石を密にし、遠くの山は疎【まば】らなる木に映【は】ゆ。
空翠は強いて名づけ難く、漁釣の曲を為し易し。
蘿【ら】を援【ひ】きて青き崖【きし】に臨み、春の心は自【おのず】から相い属【つら】なる。
#2
交交【こうこう】として栩【くぬぎ】に黄は止まり、呦呦【ようよう】として萍【よもぎ】を食らう鹿。
傷つきたる彼【か】の人 百哀し、嘉爾【さいわい】には筐楽【きょうらく】を承【う】く。
栄えと悴【なや】みとは迭【たが】いに去来し、窮と通とは休【よろこ】びと慽【うれ】いを成す。
未だ長き疎散に若【し】かず、万事 恒【つね】に朴を抱く。


現代語訳と訳註
(本文)

過白岸亭
拂衣遵沙垣。緩步入蓬屋。
近澗涓密石。遠山映疏木。
空翠難強名。漁釣易為曲。
援蘿臨青崖。春心自相屬。』

(下し文) #2
交交【こうこう】として栩【くぬぎ】に黄は止まり、呦呦【ようよう】として萍【よもぎ】を食らう鹿。
傷つきたる彼【か】の人 百哀し、嘉爾【さいわい】には筐楽【きょうらく】を承【う】く。
栄えと悴【なや】みとは迭【たが】いに去来し、窮と通とは休【よろこ】びと慽【うれ】いを成す。
未だ長き疎散に若【し】かず、万事 恒【つね】に朴を抱く。


(現代語訳)
コウコウと飛び交っていたちいさな黄色カラ鶯がなつめの木に止まっている、ヨウヨウと啼いていた鹿が蓬を食べている。
鳥でさえ、鹿でさえそうなのに人生に傷ついた人間にとって数えきれない哀しみがある、しかし幸いなことに浄土教との出会い樂経を承ることができたことにある。
官僚として栄えることと貶められ悩むことが互いにやって来た。痛快にしごとができること窮めることは悩みおそれることを成すことなのである。
いまだに長期的に疎んじられ離れてそのままになっている。万事に対して常に隠棲したい気持ちを持ち続けることである。


(訳注)
交交止栩黃。呦呦食萍鹿。

コウコウと飛び交っていたちいさな黄色カラ鶯がなつめの木に止まっている、ヨウヨウと啼いていた鹿が蓬を食べている。
交交 詩経、秦風『黄鳥』「交交黄鳥、止于棗。」(交交たる黄鳥、棗【なつめ】に止まる。)ちいさなカラ鶯がなつめの木に止まっている。―鳥でさえその生命を楽しんでいる。○呦呦 鹿の啼く声。悲しい声。『詩経小雅』「「呦呦鹿鳴、食野之萍。」(呦呦たる鹿鳴、野の萍を食う。)


傷彼人百哀。嘉爾承筐樂。
鳥でさえ、鹿でさえそうなのに人生に傷ついた人間にとって数えきれない哀しみがある、しかし幸いなことに浄土教との出会い樂経を承ることができたことにある。
筐樂 『詩経‧小雅‧鹿鳴』「我有嘉賓, 鼓瑟吹笙。 吹笙鼓簧, 承筐是將。」(我嘉賓有り,瑟を鼓し笙を吹く。笙を吹く簧を鼓ち,筐を承けて是將く。)承筐は賓客を歡迎する。ここでは六経の一つ樂経を承ることをいう。浄土教との出会いをいう。


榮悴迭去來。窮通成休慽。
官僚として栄えることと貶められ悩むことが互いにやって来た。痛快にしごとができること窮めることは悩みおそれることを成すことなのである。
榮悴 茂り栄えることと痩せ疲れること。栄枯盛衰。○窮通 困窮と栄達。貧困と立身出世。奥底まで通ずること。○ 悩み怕こと


未若長疏散。萬事恆抱朴。』
いまだに長期的に疎んじられ離れてそのままになっている。万事に対して常に隠棲したい気持ちを持ち続けることである。
疏散 疎んじられ離れる。○ わすれる○抱朴 生れながらの純朴な性格。『老子、十九』「見素抱朴、少私寡欲。」・朴:素朴。はなれる。

過白岸亭 謝靈運 <24>#1 詩集393 紀頌之 漢詩ブログ994

過白岸亭 謝霊運 謝霊運 <24>#1 詩集393 紀頌之 漢詩ブログ994


霊運はこの春には、永嘉江をさかのぼり、楠渓の西南にあった白岸亨に遊んでいる。この事は永嘉から八十七里(50km)も離れたところにあり、岸辺の砂が、白砂でとても美しかった。ここで歌ったものに「過白岸亭」(白岸亭を過ぐ)がある。

過白岸亭
拂衣遵沙垣。緩步入蓬屋。
衣服の佇まいを直して白岸亭の砂地の垣沿いを歩く。そぞろ歩くのをゆっくりにして蓬で葺いた亭屋に入っていく。
近澗涓密石。遠山映疏木。
近くには澗川が石ばかりの間をながれている、はるかとおくのやまに向かってまばらな木々の林が日に映えている。
空翠難強名。漁釣易為曲。
亭の周りはしたたるような緑色であるが強いて名前が付けられるのも難しいようだ、魚釣りをすると魚曲を唄いたくなる。
援蘿臨青崖。春心自相屬。』
蔓伝いに青く繁った崖を望んでいる。春の心情はそれらの自然に互いに馴染んでいる。

交交止栩黃。呦呦食萍鹿。
傷彼人百哀。嘉爾承筐樂。
榮悴迭去來。窮通成休慽。
未若長疏散。萬事恆抱朴。』

(白岸亭を過ぐ)#1
衣を払い沙の垣に遵【したが】い、歩を緩【ゆる】くして蓬屋【ほうおく】に入る。
近くの澗【たに】や涓【ちいさいながれ】は石を密にし、遠くの山は疎【まば】らなる木に映【は】ゆ。
空翠は強いて名づけ難く、漁釣の曲を為し易し。
蘿【ら】を援【ひ】きて青き崖【きし】に臨み、春の心は自【おのず】から相い属【つら】なる。

#2
交交【こうこう】として栩【くぬぎ】に黄は止まり、呦呦【ようよう】として萍【よもぎ】を食らう鹿。
傷つきたる彼【か】の人 百哀し、嘉爾【さいわい】には筐楽【きょうらく】を承【う】く。
栄えと悴【なや】みとは迭【たが】いに去来し、窮と通とは休【よろこ】びと慽【うれ】いを成す。
未だ長き疎散に若【し】かず、万事 恒【つね】に朴を抱く。

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現代語訳と訳註
(本文)

拂衣遵沙垣。緩步入蓬屋。
近澗涓密石。遠山映疏木。
空翠難強名。漁釣易為曲。
援蘿臨青崖。春心自相屬。』


(下し文)
衣を払い抄の垣に遵【したが】い、歩を緩【ゆる】くして蓬屋【ほうおく】に入る。
近くの澗【たに】や涓【ちいさいながれ】は石を密にし、遠くの山は疎【まば】らなる木に映【は】ゆ。
空翠は強いて名づけ難く、漁釣の曲を為し易し。
蘿【ら】を援【ひ】きて青き崖【きし】に臨み、春の心は自【おのず】から相い属【つら】なる。


(現代語訳)
衣服の佇まいを直して白岸亭の砂地の垣沿いを歩く。そぞろ歩くのをゆっくりにして蓬で葺いた亭屋に入っていく。
近くには澗川が石ばかりの間をながれている、はるかとおくのやまに向かってまばらな木々の林が日に映えている。
亭の周りはしたたるような緑色であるが強いて名前が付けられるのも難しいようだ、魚釣りをすると魚曲を唄いたくなる。
蔓伝いに青く繁った崖を望んでいる。春の心情はそれらの自然に互いに馴染んでいる。


(訳注)
拂衣遵沙垣。緩步入蓬屋。

衣服の佇まいを直して白岸亭の砂地の垣沿いを歩く。そぞろ歩くのをゆっくりにして蓬で葺いた亭屋に入っていく。
拂衣 衣服の佇まいを直す。○沙垣 砂地の垣。○蓬屋 蓬で葺いた亭屋


近澗涓密石。遠山映疏木。
近くには澗川が石ばかりの間をながれている、はるかとおくのやまに向かってまばらな木々の林が日に映えている。
 谷川。山簡の小川。○ 小さいながれ


空翠難強名。漁釣易為曲。
亭の周りはしたたるような緑色であるが強いて名前が付けられるのも難しいようだ、魚釣りをすると魚曲を歌を唄いたくなる
空翠 したたるような緑色。そびえる木立の緑色。


援蘿臨青崖。春心自相屬。』
蔓伝いに青く繁った崖を望んでいる。春の心情はそれらの自然に互いに馴染んでいる。
青崖 青く繁った崖。

過瞿渓山飯僧 #2 謝靈運<23>  詩集 392 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ992

過瞿渓山飯僧 #2 謝霊運<23>  詩集 392 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ992
(瞿渓山を過ぎ、僧に飯せしむ)

このような心の苦しみから脱するためにか、それとも仏への供養のためか、霊運は永嘉から西南へ五十里(中国里)にあった埋漢の出口にあった寺を訪ね、そこの僧侶たちに食事を喜捨している。そのとき作ったのが「瞿渓山を過ぎ、僧に飯せしむ」である。



過瞿渓山飯僧 #1
迎旭凌絶嶝、暎泫歸漵浦。
鑚燧断山木、揜岸墐石戸。
結架非丹甍、籍田資宿莽。
同游息心客、曖然若可睹。』
#2
清霽颺浮煙、空林響法鼓。
清々しい青空に紫煙が湧き上がっていく、誰もいない木樹の間にお経を唱え法華鼓が響き渡っている。
忘懐狎鷗鰍、攝生馴兕虎。
心の中の思いをすべて祓い去り、かもめやはやのように自然の気持ちになれてくる。生きるということに専念していき我儘な子供や野獣の虎も手懐けることになるのである。
望嶺眷靈鷲、延心念浄土。
高峰を臨み見れば、釈迦が晩年、説法をした霊鷲山をみるのである、そしてこころを広くのばしてゆくと欣求浄土に思いは馳せるのである。
若乘四等観、永抜三界苦。』

血統の親疎によって分けられた親族関係によって、仏門には入れない、生死を繰り返しながら輪廻する三界の苦を受けているようである。

#1
旭【ひ】のいずるを迎えて絶嶝【ぜっとう】を凌ぎ、泫【なが】れに暎【えい】じつつ漵浦【じょほ】に帰る。
燧【ひうち】を鑚【き】りて山木を断ち、岸を揜【とざ】して石戸を墐【ぬり】とす。
架を結ぶに丹【あか】き甍【いらか】にあらず、田を籍【か】り宿莽【しゅくもう】に資【よ】らんとするも。
同じく遊びし心客【しんきゃく】のところに息【いこ】う、曖然【あいぜん】して睹【み】る可きが若し。
#2
清き霽【そら】に浮煙 颺【あ】がり、空林【くうりん】に法鼓 響く。
懐【おも】いを忘れ鴎や鰷【はや】に狎【なれ】る、生を摂して兕や虎を馴らす。
嶺を望んで霊鷲【りょうじゅう】を眷、心を延ばして浄土を念【おも】う。
四等観に乗じて、永く三界の苦を抜くが若し。



現代語訳と訳註
(本文) #2

清霽颺浮煙、空林響法鼓。
忘懐狎鷗鰍、攝生馴兕虎。
望嶺眷靈鷲、延心念浄土。
若乘四等観、永抜三界苦。』


(下し文) #2
清き霽【そら】に浮煙 颺【あ】がり、空林【くうりん】に法鼓 響く。
懐【おも】いを忘れ鴎や鰷【はや】に狎【なれ】る、生を摂して兕や虎を馴らす。
嶺を望んで霊鷲【りょうじゅう】を眷、心を延ばして浄土を念【おも】う。
四等観に乗じて、永く三界の苦を抜くが若し。


(現代語訳)
清々しい青空に紫煙が湧き上がっていく、誰もいない木樹の間にお経を唱え法華鼓が響き渡っている。
心の中の思いをすべて祓い去り、かもめやはやのように自然の気持ちになれてくる。生きるということに専念していき我儘な子供や野獣の虎も手懐けることになるのである。
高峰を臨み見れば、釈迦が晩年、説法をした霊鷲山をみるのである、そしてこころを広くのばしてゆくと欣求浄土に思いは馳せるのである。
血統の親疎によって分けられた親族関係によって、仏門には入れない、生死を繰り返しながら輪廻する三界の苦を受けているようである。


(訳注)
清霽颺浮煙、空林響法鼓。
清き霽【そら】に浮煙 颺【あ】がり、空林【くうりん】に法鼓 響く。
清々しい青空に紫煙が湧き上がっていく、誰もいない木樹の間にお経を唱え法華鼓が響き渡っている。


忘懐狎鷗鰍、攝生馴兕虎。
懐【おも】いを忘れ鴎や鰷【はや】に狎【なれ】る、生を摂して兕や虎を馴らす。
心の中の思いをすべて祓い去り、かもめやはやのように自然の気持ちになれてくる。生きるということに専念していき我儘な子供や野獣の虎も手懐けることになるのである。
 ・(節度なく)接近する ・ 取り入る ・ (~に)にじり寄る ・ すり寄る ・ 媚びる ・ 尻尾をふる ・ なれなれしい(態度) ・ (~に)べったりの(関係) ・ なれ合う.○鷗鰍 


望嶺眷靈鷲、延心念浄土。
嶺を望んで霊鷲【りょうじゅう】を眷、心を延ばして浄土を念【おも】う。
高峰を臨み見れば、釈迦が晩年、説法をした霊鷲山をみるのである、そしてこころを広くのばしてゆくと欣求浄土に思いは馳せるのである。
霊鷲 釈迦が晩年、説法をした霊鷲山(りょうじゅせん)のこと。○浄土 欣求浄土


若乘四等観、永抜三界苦。』
四等観に乗じて、永く三界の苦を抜くが若し。
血統の親疎によって分けられた親族関係によって、仏門には入れない、生死を繰り返しながら輪廻する三界の苦を受けているようである。
四等観 血統の親疎によって分けられた親族関係によるもの。○三界 、欲界・色界・無色界の三つの総称。三有ともいう。凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたもの。なお、仏陀はこの三界での輪廻から解脱している。「三界は安きことなく、なお、火宅のごとし」というのは、迷いと苦しみのこの世界を、燃えさかる家にたとえたもの。
「三界に家なし」とは、この世界が安住の地でないことを意味し、後には女性の不安定な地位を表す諺になった。


過瞿渓山飯僧 #1 謝靈運<23>  詩集 391 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ989

過瞿渓山飯僧 #1 謝靈運<23>  詩集 391 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ989
(瞿渓山を過ぎ、僧に飯せしむ)

このような心の苦しみから脱するためにか、それとも仏への供養のためか、霊運は永嘉から西南へ五十里(中国里)にあった埋漢の出口にあった寺を訪ね、そこの僧侶たちに食事を喜捨している。そのとき作ったのが「瞿渓山を過ぎ、僧に飯せしむ」である。



過瞿渓山飯僧 #1謝霊運
瞿渓の山を過て僧侶が食事をする
迎旭凌絶嶝、暎泫歸漵浦。
朝日がのぼるところ 急峻な山は天を凌いでいる、川の流れに影を映して漵浦の船着き場に帰ってきた。
鑚燧断山木、揜岸墐石戸。
火打ち石で火を起こし、山の木を切って集める川べりの場所を覆いいしでとびらをつくり塗り固めた。
結架非丹甍、籍田資宿莽。
梁を掛けて赤い瓦で屋根をつくるのではない、田の草を刈って、屋根を覆うにくさのたすけをかりたのである。
同游息心客、曖然若可睹。』

一緒に遊びに来た仏門の修行者とここで過ごす、ぼんやりした様子は修行をするときのようである。

#2
清霽颺浮煙、空林響法鼓。
忘懐狎鷗鰍、攝生馴兕虎。
望嶺眷靈鷲、延心念浄土。
若乘四等観、永抜三界苦。』

#1
旭【ひ】のいずるを迎えて絶嶝【ぜっとう】を凌ぎ、泫【なが】れに暎【えい】じつつ漵浦【じょほ】に帰る。
燧【ひうち】を鑚【き】りて山木を断ち、岸を揜【とざ】して石戸を墐【ぬり】とす。
架を結ぶに丹【あか】き甍【いらか】にあらず、田を籍【か】り宿莽【しゅくもう】に資【よ】らんとするも。
同じく遊びし心客【しんきゃく】のところに息【いこ】う、曖然【あいぜん】して睹【み】る可きが若し。
#2
清き霽【そら】に浮煙 颺【あ】がり、空林【くうりん】に法鼓 響く。
懐【おも】いを忘れ鴎や鰷【はや】に狎【なれ】る、生を摂して兕や虎を馴らす。
嶺を望んで霊鷲【りょうじゅう】を眷、心を延ばして浄土を念【おも】う。
四等観に乗じて、永く三界の苦を抜くが若し。


現代語訳と訳註
(本文)
過瞿渓山飯僧 #1
迎旭凌絶嶝、暎泫歸漵浦。
鑚燧断山木、揜岸墐石戸。
結架非丹甍、籍田資宿莽。
同游息心客、曖然若可睹。』

(下し文) #1
旭【ひ】のいずるを迎えて絶嶝【ぜっとう】を凌ぎ、泫【なが】れに暎【えい】じつつ漵浦【じょほ】に帰る。
燧【ひうち】を鑚【き】りて山木を断ち、岸を揜【とざ】して石戸を墐【みち】とす。
架を結ぶに丹【あか】き甍【いらか】にあらず、田を籍【か】り宿莽【しゅくもう】に資【よ】らんとするも。
同じく遊びし心客【しんきゃく】のところに息【いこ】う、曖然【あいぜん】して睹【み】る可きが若し。


(現代語訳)
瞿渓の山を過て僧侶が食事をする
朝日がのぼるところ 急峻な山は天を凌いでいる、川の流れに影を映して漵浦の船着き場に帰ってきた。
火打ち石で火を起こし、山の木を切って集める川べりの場所を覆いいしでとびらをつくり塗り固めた。
梁を掛けて赤い瓦で屋根をつくるのではない、田の草を刈って、屋根を覆うにくさのたすけをかりたのである。
一緒に遊びに来た仏門の修行者とここで過ごす、ぼんやりした様子は修行をするときのようである。


(訳注) #1
過瞿渓山飯僧
瞿渓の山を過て僧侶が食事をする
瞿渓山 温州市甌海瞿渓にある山の名。


迎旭凌絶嶝、暎泫歸漵浦。
旭【ひ】のいずるを迎えて絶嶝【ぜっとう】を凌ぎ、泫【なが】れに暎【えい】じつつ漵浦【じょほ】に帰る。
朝日がのぼるところ 急峻な山は天を凌いでいる、川の流れに影を映して漵浦の船着き場に帰ってきた。
漵浦 漵は水浦。浦は支流が本流に合流する地点。入り江。陶淵明の桃源郷のちかくに漵浦県(じょほ-けん)、湖南省懐化市に位置する県がある。 長江の支流で、洞庭湖へ注ぐ沅江が流れている地点である。


鑚燧断山木、揜岸墐石戸。
燧【ひうち】を鑚【き】りて山木を断ち、岸を揜【とざ】して石戸を墐【ぬり】とす。
火打ち石で火を起こし、山の木を切って集める川べりの場所を覆いいしでとびらをつくり塗り固めた。
鑚燧 木や石を切り盛りして火を起こすこと。『論語、陽貨』「舊穀既沒、新穀既升、鑚燧改火。」(舊穀既に沒きて、新穀既に升り、燧を鑚りて火を改む。)管子「鑚燧を生ず火を、以て熱す葷臊。」(燧を鑚りて火を生ず、以て葷臊を熱す。)○ おおう。うばう。おそう。とる。○ 塗り固めて炉をつくる。○


結架非丹甍、籍田資宿莽。
架を結ぶに丹【あか】き甍【いらか】にあらず、田を籍【か】り宿莽【しゅくもう】に資【よ】らんとするも。
梁を掛けて赤い瓦で屋根をつくるのではない、田の草を刈って、屋根を覆うにくさのたすけをかりたのである。
宿莽 草むらで宿する。


同游息心客、曖然若可睹。』
同じく遊びし心客【しんきゃく】のところに息【いこ】う、曖然【あいぜん】して睹【み】る可きが若し。
一緒に遊びに来た仏門の修行者とここで過ごす、ぼんやりした様子は修行をするときのようである。
心客 沙門 古代インドにおける修行者。出家し、托鉢生活を送った人。出家して仏門に入った修行者、僧侶に使われる。○曖然【あいぜん】-はっきりしないさま。ぼんやりしたさま。

郡東山望凕海 謝靈運<22> 詩集 390

郡東山望凕海 謝霊運 <22> 詩集 390
(郡の東山にて凕海を望む)


 霊運は、永嘉に着任した翌年、つまり少帝の景平元年〈413〉彼は三十九歳の春を、放郷を遠く離れたはるかな南の空で迎えた。都に帰りたいという気持はますます濃厚になったが、政治情勢は必ずしも、霊運には有利にならなかった。そうした悲しみのなかで、その退屈しのぎに、永嘉郡の東北にある東山、すなわち海壇山に遊びに行ったとき、山から望みつつ、その感情を歌ったのが「郡の東山にて凕海を望む」の作である。



郡東山望凕海
郡の東山にて凕海を望む
開春献初歳、白日出悠悠。
年が明けて春が来た、年の初めにこの詩を作っている、太陽は登り、既に上に上がって悠悠と照らしている。
蕩志將愉樂、瞰海庶忘憂。
自分のこころざしについてはひとまずそのままとしてこの山遊びをゆっくりと楽しんでいる、そうすると海を眺めていると今までのもろもろの心配事も忘れるのである。
策馬歩蘭皋、緤控息椒丘。
馬に鞭を打って小高い丘の上の蘭の花が咲き馬を進める、そして、馬をつなぎ止めてハジカミのある少し休んでいる。
采蕙遵大薄、搴若履長洲。
香のある草を取る荒れた草むらが大切にしたい、春の若草の萌え時においぐさをとって、中州の砂浜を歩く。
白花皜陽林、紫茝嘩春流。
白い花がいっぱいで陽だまりの林は白くまぶしい。紫色のよろい草は春の装いの流れの中で輝いている。
非徒不弭忘、覧物情彌遒。
だからといって、志を忘れたわけではない。この春の景色を見て心情はますます強くなってくるのを大切にしたい。
萱蘇始無慰、寂寞終可求。

憂いの多い世にあってわすれなぐさは、はじめてなぐさめられられるものではない、心が満たされずにもの寂しいいのであるがついにこころざしを求めていかないといけない。


(郡の東山にて凕海を望む)
春 開けて 初歳を献ずるに、白日 出でて悠悠たり。
志を蕩【ほしい】ままにして将に愉楽【ゆうがく】しまんとし、海を瞰【なが】めて庶【もろ】もろの憂いを忘る。
馬に策【むち】うちて蘭のある皋【おか】を歩み、緤控【ちょうくう】椒【はじかみ】のある丘に息【いこ】う。
蕙【においぐさ】を采り大薄を遵び、若を搴り長き洲を履む。
白花は陽林に皜【しろ】く、紫の茝【よろいぐさ】は春の流れに嘩【かがや】く。
徒らに志を弭れざるにあらず、物を覧て情 弥いよ遒【つよ】し。
萱蘇【わすれぐさ】 始めて慰むなし、寂寞 終に求む可し。


現代語訳と訳註
(本文) 郡東山望凕海

開春献初歳、白日出悠悠。
蕩志將愉樂、瞰海庶忘憂。
策馬歩蘭皋、緤控息椒丘。
采蕙遵大薄、搴若履長洲。
白花皜陽林、紫茝嘩春流。
非徒不弭忘、覧物情彌遒。
萱蘇始無慰、寂寞終可求。


(下し文)
開春 初歳を献ずるに、白日 出でて悠悠たり。
志を蕩ままにして将に愉楽しまんとし、海を瞰めて庶もろの憂いを忘る。
馬に策【むち】うちて蘭のある皋を歩し、緤控めて椒のある丘に息う。
蕙【においぐさ】を采り大薄を遵び、若を搴り長き洲を履む。
白花は陽林に皜【しろ】く、紫の茝【よろいぐさ】は春の流れに嘩【かがや】く。
徒らに志を弭れざるにあらず、物を覧て情 弥いよ遒【つよ】し。
萱蘇【わすれぐさ】 始めて慰むなし、寂寞 終に求む可し。


(現代語訳)
郡の東山にて凕海を望む
年が明けて春が来た、年の初めにこの詩を作っている、太陽は登り、既に上に上がって悠悠と照らしている。
自分のこころざしについてはひとまずそのままとしてこの山遊びをゆっくりと楽しんでいる、そうすると海を眺めていると今までのもろもろの心配事も忘れるのである。
馬に鞭を打って小高い丘の上の蘭の花が咲き馬を進める、そして、馬をつなぎ止めてハジカミのある少し休んでいる。
香のある草を取る荒れた草むらが大切にしたい、春の若草の萌え時においぐさをとって、中州の砂浜を歩く。
白い花がいっぱいで陽だまりの林は白くまぶしい。紫色のよろい草は春の装いの流れの中で輝いている。
だからといって、志を忘れたわけではない。この春の景色を見て心情はますます強くなってくるのを大切にしたい。
憂いの多い世にあってわすれなぐさは、はじめてなぐさめられられるものではない、心が満たされずにもの寂しいいのであるがついにこころざしを求めていかないといけない。
宮島(5)

(訳注)
郡東山望凕海

郡の東山にて凕海を望む
永嘉郡の東山(海壇山)で凕海を望んでみる


開春献初歳、白日出悠悠。
春 開けて 初歳を献ずるに、白日 出でて悠悠たり。
年が明けて春が来た、年の初めにこの詩を作っている、太陽は登り、既に上に上がって悠悠と照らしている。


蕩志將愉樂、瞰海庶忘憂。
志を蕩【ほしい】ままにして将に愉楽【ゆうがく】しまんとし、海を瞰【なが】めて庶【もろ】もろの憂いを忘る。
自分のこころざしについてはひとまずそのままとしてこの山遊びをゆっくりと楽しんでいる、そうすると海を眺めていると今までのもろもろの心配事も忘れるのである


策馬歩蘭皋、緤控息椒丘。
馬に策【むち】うちて蘭のある皋【おか】を歩み、緤控【ちょうくう】椒【はじかみ】のある丘に息【いこ】う。
馬に鞭を打って小高い丘の上の蘭の花が咲き馬を進める、そして、馬をつなぎ止めてハジカミのある少し休んでいる。
蘭皋 蘭の咲き誇る丘。○緤控 馬をつなぎとめる。○椒丘 はじかみの繁った丘。


采蕙遵大薄、搴若履長洲。
采蕙【さいけい】大薄を遵び、搴若【さいじゃく】長き洲を履【ふ】む。
香のある草を取る荒れた草むらが大切にしたい、春の若草の萌え時においぐさをとって、中州の砂浜を歩く。
采蕙 かおりぐさをとる。○大薄 荒れたすすきのはら。おおきな草むら。○搴若 若草の萌え時においぐさをとる。


白花皜陽林、紫茝嘩春流。
白花は陽林に皜【しろ】く、紫の茝【よろいぐさ】は春の流れに嘩【かがや】く。
白い花がいっぱいで陽だまりの林は白くまぶしい。紫色のよろい草は春の装いの流れの中で輝いている。
皜陽林 しろいはなに日が射して明るい状態をいう。


非徒不弭忘、覧物情彌遒。
徒らに志を弭れざるにあらず、物を覧て情 弥いよ遒【つよ】し。
だからといって、志を忘れたわけではない。この春の景色を見て心情はますます強くなってくるのを大切にしたい。


萱蘇始無慰、寂寞終可求。
萱蘇【わすれぐさ】 始めて慰むなし、寂寞 終に求む可し。
憂いの多い世にあってわすれなぐさは、はじめてなぐさめられられるものではない、心が満たされずにもの寂しいいのであるがついにこころざしを求めていかないといけない。
萱蘇【けんそ】 忘憂草。わすれなくさ。○寂寞 1 ひっそりとして寂しいさま。2 心が満たされずにもの寂しいさま。


多くの心の苦しみをもった霊運は、波静かな青い大きな海を眺めて、はじめて心の静かさを取りもどし、海のごとく心は大きくなければならぬことを悟った。そして、蘭の植えてある尉を歩み、はじかみのある丘で一息しつつ、物思いにふけったのだ。
清浄な山のけはいを実によく歌っている。そして、結句で「萱蘇 姶めて慰むなし、寂寞 終に求む可し」と、その悲しき心を静かに歌う。


 このような心の苦しみから脱するためにか、それとも仏への供養のためか、霊運は永嘉から西南へ五十里(中国里)にあった積渓の出口にあった寺を訪ね、そこの僧侶たちに食事を喜捨している。そのとき作ったのが「琶渓山を過ぎ、僧に飯せしむ」である。

遊嶺門山  #2 謝霊運<21>  詩集 389

遊嶺門山  #2 謝霊運<21>  詩集 389

この冬は嶺門山にも遊び、詩を作っている。この嶺門山は、永嘉から南30kmほどにある瑞安県にあるという。諸道具、寝具などすべてそろえ、お付の人々を連れての旅であるから、その往復には相当の日数がかかるのである。謝霊運は永嘉を中心に名山を求めて、北に、南に旅をしている。「嶺門山に遊ぶ」の詩もそのひとつである。

遊嶺門山
西京誰修政?龔汲稱良吏。
君子豈定所,清塵慮不嗣。
早莅建德鄉,民懷虞芮意。
海岸常寥寥,空館盈清思。
協以上冬月,晨遊肆所喜。』
千圻邈不同,萬嶺狀皆異。
千とある船着き場も漠然として同じなものはなく、万とある山々の峰は一つとして同じものはないのである。
威摧三山峭,瀄汩兩江駛。
ここにある隠棲して修行をする三山は、どこも嶮しい所である。そして二つの流れのはやい川から水の流れる音が伝わってくるのである。
漁舟豈安流,樵拾謝西芘。
漁船はどうして安全に流れていくのであろうか。漁師というものは西に日が落ちて吊り上げ捕獲するからである。
人生誰雲樂?貴不屈所志。』

人生はどうして楽なことだと誰が言うのか、大切なことは、どういうことが生じても志を枉げない不屈の精神を持つことである

(嶺門山に遊ぶ)#1
西京にては誰か政を修める、龏汲【きょうきゅう】は良吏と称せらる。
君子は 豈 所を定めんや、清塵【せいじん】が嗣【つ】がざるを慮【おもんばか】る。
早くも莅【のぞ】む建徳の郷、民は虞芮【ぐぜい】の意【こっころ】を懐【なつ】かしむ。
海岸は常に寥寥として、 空館は清き思いに盈【み】つ。
協【あ】わするに以ってす上冬【さむ】き月、晨【あした】の遊びは喜ぶ所を肆【ほしい】ままにす。
#2
千圻【せんせき】は邈【かたち】 同じからず、万嶺は状 皆な異なる。
威摧【そび】ゆる三山は峭【けわ】しく、瀄汩【しついつ】は両つの江に駛【はや】し。
漁舟は 壹 流れに安んぜんや、樵は西芘【にしかげ】に謝【お】つるを拾う。
人生誰か楽と云う、志す所に屈せざるを貴ぶ。


現代語訳と訳註
 遊嶺門山(本文)

千圻邈不同,萬嶺狀皆異。
威摧三山峭,瀄汩兩江駛。
漁舟豈安流,樵拾謝西芘。
人生誰雲樂?貴不屈所志。』

(下し文)#2
千圻【せんせき】は邈【かたち】 同じからず、万嶺は状 皆な異なる。
威摧【そび】ゆる三山は峭【けわ】しく、瀄汩【しついつ】は両つの江に駛【はや】し。
漁舟は 壹 流れに安んぜんや、樵は西芘【にしかげ】に謝【お】つるを拾う。
人生誰か楽と云う、志す所に屈せざるを貴ぶ。


(現代語訳)
千とある船着き場も漠然として同じなものはなく、万とある山々の峰は一つとして同じものはないのである。
ここにある隠棲して修行をする三山は、どこも嶮しい所である。そして二つの流れのはやい川から水の流れる音が伝わってくるのである。
漁船はどうして安全に流れていくのであろうか。漁師というものは西に日が落ちて吊り上げ捕獲するからである。
人生はどうして楽なことだと誰が言うのか、大切なことは、どういうことが生じても志を枉げない不屈の精神を持つことである


(訳注)
千圻邈不同,萬嶺狀皆異。
千圻【せんせき】は邈【かたち】 同じからず、万嶺は状 皆な異なる。

千とある船着き場も漠然として同じなものはなく、万とある山々の峰は一つとして同じものはないのである。
千圻 多くあるへり、きし。船着き場。『富春渚詩』 「宵濟漁浦潭。旦及富春郭。定山緬雲霧。赤亭無淹薄。溯流觸驚急。臨圻阻參錯。亮乏伯昏分。險過呂梁壑。」(宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。)わたしは夕方、漁浦の渡し場から船出した。夜どおし船旅をして、明け方、富春の街に着いた。分水嶺の定山はまだまだ雲霧の向こうで遙かに遠い、富陽の花街の赤亭に泊まることはしない。流れは急でそれをさかのぼる巌にせっそく接触したり、驚くような目に何度もあう、船を接岸できそうな岸へ寄せようとするのだが水流の出入りによってなかなか寄せられない。私はあきらかに物に動じないことという心構えにはとぼしいものである、嶮しいといっても黄河随一の難関、呂梁幕府のある谷ほどのものではないので経過していく。
 はるか。ばくぜんとしたもの○萬嶺 沢山ある山の峰。○狀皆異 その形状は皆変わっている。


威摧三山峭,瀄汩兩江駛。
威摧【そび】ゆる三山は峭【けわ】しく、瀄汩【そび】は両つの江に駛【はや】し。
ここにある隠棲して修行をする三山は、どこも嶮しい所である。そして二つの流れのはやい川から水の流れる音が伝わってくるのである。
威摧 威光をもってはばむ。○三山 太平山、天台山、方石山。本来三山と云えば、蓬萊、方丈、瀛州の三山である。○瀄汩 瀄汩は水の流れる音、水流の早いことを示す形容。 汩はおさめる。とおす。ながれる。○兩江駛 二つの川の流れが速いこと言う。


漁舟豈安流,樵拾謝西芘
漁舟は 豈 流れに安んぜんや、樵は西芘【にしかげ】に謝【お】つるを拾う。 
漁船はどうして安全に流れていくのであろうか。漁師というものは西に日が落ちて吊り上げ捕獲するからである。
○漁舟 漁船○安流 安全に流れ○樵拾 漁師が獲物を集める。○西芘 西に山があり日が落ちるころ日陰になる、猟師の姿が魚にわかりにくい。


人生誰雲樂?貴不屈所志。』
人生誰か楽と云う、志す所に屈せざるを貴ぶ。
人生はどうして楽なことだと誰が言うのか、大切なことは、どういうことが生じても志を枉げない不屈の精神を持つことである。

 自然を詠うかのポーズをとり、体制批判を詠っているのである。態度が鮮明になってくることは隠棲の気持ちがいよいよ強くなってきた表れであろう。


古来より、山遊びというのは、高級官僚には優雅な遊びととらえられていた。すべての生活用品を準備し、荷車、輿、など行列を仕立てて山に入った。戸張で仕切り、優雅に遊んだのである。
 この詩では聖人が治政をするものである。今の世誰がそれにあたるというのか、権力闘争に明け暮れ、民の安寧することがないではないか。

遊嶺門山  #1 謝霊運<21>  詩集 388

遊嶺門山  #1 謝霊運<21>  詩集 388
(嶺門山に遊ぶの詩)


この冬は嶺門山にも遊び、詩を作っている。この嶺門山は、永嘉から南30kmほどにある瑞安県にあるという。諸道具、寝具などすべてそろえ、お付の人々を連れての旅であるから、その往復には相当の日数がかかるのである。謝霊運は永嘉を中心に名山を求めて、北に、南に旅をしている。「嶺門山に遊ぶ」の詩もそのひとつである。

遊嶺門山
西京誰修政?龔汲稱良吏。
西の帝都において、誰が治政をするというのか、龔汲は提供したり汲みあげたり理想の政治を行った優良な官僚と称せられる。
君子豈定所,清塵慮不嗣。
君子はどうして思いを押し付けはしないから爭わないのであろうか、立派な遺風というものは後世に受け継いでいけないようではと心配する。
早莅建德鄉,民懷虞芮意。
そういうことで心に早くきめて理想郷に行きたいと思う。民の間では譲り合う心を思い続けることである。
海岸常寥寥,空館盈清思。
隠棲したら)寒い冬には海にはさびしい音が常のことである。ひと気のない館には清々しい思いが満ち溢れている。
協以上冬月,晨遊肆所喜。』
(こうした冬の景色が一緒になっている。明日にはこうした山遊びを心行くまでしてよろこびたいと思う。
千圻邈不同,萬嶺狀皆異。
威摧三山峭,瀄汩兩江駛。
漁舟豈安流,樵拾謝西芘。
人生誰雲樂?貴不屈所志。』


(嶺門山に遊ぶ)#1
西京にては誰か政を修める、龏汲【きょうきゅう】は良吏と称せらる。
君子は 豈 所を定めんや、清塵【せいじん】が嗣【つ】がざるを慮【おもんばか】る。
早くも莅【のぞ】む建徳の郷、民は虞芮【ぐぜい】の意【こっころ】を懐【なつ】かしむ。
海岸は常に寥寥として、 空館は清き思いに盈【み】つ。
協【あ】わするに以ってす上冬【さむ】き月、晨【あした】の遊びは喜ぶ所を肆【ほしい】ままにす。

#2
千圻【せんせき】は邈【かたち】 同じからず、万嶺は状 皆な異なる。
威摧【そび】ゆる三山は峭【けわ】しく、瀄汩【そび】は両つの江に駛【はや】し。
漁商は 壹 流れに安んぜんや、樵は西芘【にしかげ】に謝【お】つるを拾う。
人生誰か楽と云う、志す所に屈せざるを貴ぶ。


現代語訳と訳註
(本文) 遊嶺門山

西京誰修政?龔汲稱良吏。
君子豈定所,清塵慮不嗣。
早莅建德鄉,民懷虞芮意。
海岸常寥寥,空館盈清思。
協以上冬月,晨遊肆所喜。』


(下し文) #1
西京にては誰か政を修める、龏汲【きょうきゅう】は良吏と称せらる。
君子は 豈 所を定めんや、清塵【せいじん】が嗣【つ】がざるを慮【おもんばか】る。
早くも莅【のぞ】む建徳の郷、民は虞芮【ぐぜい】の意【こっころ】を懐【なつ】かしむ。
海岸は常に寥寥として、 空館は清き思いに盈【み】つ。
協【あ】わするに以ってす上冬【さむ】き月、晨【あした】の遊びは喜ぶ所を肆【ほしい】ままにす。


(現代語訳)
西の帝都において、誰が治政をするというのか、龔汲は提供したり汲みあげたり理想の政治を行った優良な官僚と称せられる。
君子はどうして思いを押し付けはしないから爭わないのであろうか、立派な遺風というものは後世に受け継いでいけないようではと心配する。
そういうことで心に早くきめて理想郷に行きたいと思う。民の間では譲り合う心を思い続けることである。
(隠棲したら)寒い冬には海にはさびしい音が常のことである。ひと気のない館には清々しい思いが満ち溢れている。
こうした冬の景色が一緒になっている。明日にはこうした山遊びを心行くまでしてよろこびたいと思う。

(訳注) #1
西京誰修政?龔汲稱良吏。
西京にては誰か政を修める、龏汲【きょうきゅう】は良吏と称せらる。
西の帝都において、誰が治政をするというのか、龔汲は提供したり汲みあげたり理想の政治を行った優良な官僚と称せられる。
龔汲 供給する。ささげる。たてまつりくみ取る。漢の龔汲のこと 『漢書 龔汲傳』に渤海の太守となった 龔汲は理想の政治を行った。○ 称せらる。 ○良吏 優良な官僚。


君子豈定所,清塵慮不嗣。
君子は 豈 所を定めんや、清塵【せいじん】が嗣【つ】がざるを慮【おもんばか】る。
君子はどうして思いを押し付けはしないから爭わないのであろうか、立派な遺風というものは後世に受け継いでいけないようではと心配する。
君子 論語「子曰く君子は爭うところなし。」○清塵 顕貴の人の車馬の行列。立派な遺風。


早莅建德鄉,民懷虞芮意。
早くも莅【のぞ】む建徳の郷、民は虞芮【ぐぜい】の意【こっころ】を懐【なつ】かしむ。
そういうことで心に早くきめて理想郷に行きたいと思う。民の間では譲り合う心を思い続けることである。
 その場に行く。○建德鄉 有徳の人がいるという国。荘子『山木』「南越有邑焉、名爲建徳国。」(南越に邑あり、名付けて建徳の国という。)○虞芮意 譲り合う心。


海岸常寥寥,空館盈清思。
海岸は常に寥寥として、空館は清き思いに盈【み】つ。
(隠棲したら)寒い冬には海にはさびしい音が常のことである。ひと気のない館には清々しい思いが満ち溢れている。


協以上冬月,晨遊肆所喜。』
協【あ】わするに以ってす上冬【さむ】き月、晨【あした】の遊びは喜ぶ所を肆【ほしい】ままにす。
こうした冬の景色が一緒になっている。明日にはこうした山遊びを心行くまでしてよろこびたいと思う。

登永嘉緑嶂山詩 #2 謝霊運 <20> 詩集 387

登永嘉緑嶂山詩 #2 謝霊運 <20> 詩集 387
(永嘉の緑嶂山に登る)


 謝霊運の山水文学は、永嘉に郡守をしていた時代と、会稽に帰隠していたわずかのあいだに、ほとんどのものが作られている。それは、両地とも山水の美に恵まれていたこと、時間がゆったりしていたからである。左遷中というのは半隠であり、会稽では隠遁中であって、自然美に打たれて歌となったものであろう。謝霊運は、技巧をこらす詩人で、おそらく何度も読み返し、修正して作詩したものと思われるからである。
 やがて、秋も過ぎて、冬のころであろうか、永嘉の北にそびえる緑嶂山に登ったとき、「永嘉の緑嶂山に登る」の作がある。


登永嘉緑嶂山詩 #1
裏糧杖軽策、懐遲上幽室。
行源逕轉遠、距陸情未畢。
澹瀲結寒姿、団欒潤霜質。
澗委水屡迷、林迥巌愈密。
眷西謂初月、顧東疑落日。』
#2
踐夕奄昏曙、蔽翳皆周悉。
夕暮れの道を歩いているのにたちまち夜明けのようであり、山が深くてすべてが完仝に被い隠されがげになっていた。
蠱上貴不事、履二美貞吉。
易の蠱【こ】の卦【か】の上九(陽)の爻【こう】には、「王侯に事へず、その事を高尚にす」と、君に仕えないのを貴しとし、履の卦の九二の爻の辞には「履む道坦坦(平らか)たり、幽人(隠者)「貞なれば吉」と、心が正しく堅くて吉であることをりっぱであるとしている。
幽人常坦歩、高尚邈難匹。
世を避けて隠康する人は常に平坦な道を歩むものであり、その気高い行動は、はるかに遠くて比べることは難しい。
頥阿竟何端、寂寂寄抱一。
頥と阿との返事のわずかな違いが結局何のはじめとしてあらわしているのであろうか。とはいっても煩雑な詮索はやめて、私はただ静かにして声もなく、老子のただ一つの真埋を抱き守る身をしばしばこの世に寄せるだけなのである。
恬如既已交、繕性自此出。』

私はもはや荘于のいう平然自得の心と、他方人の生まれ持った物事を知り覚る働きとが、互いに養い育て合えるようである。人間の本原の性を治め正すこともここから出てくると荘子は教えているのである。


(永嘉の緑嶂山に登る)

糧【かて】の裏【つつ】んで軽き策を杖として、遅きを懐うて幽室に上る。
源に行かんとし、逕【みち】は転【うた】た遠く、陸に距【いた】りて情 いまだ畢わらず。
澹瀲【たんれん】寒姿を結び、団欒は霜質より潤い。
澗の委【まがり】は水 屡しば迷い、林迥【はる】かにして、巌 愈【いよ】いよ密なり。
西を眷【かえり】みて初月と謂い、東を顧みて落日かと疑えり。
践夕 昏曙を奄【とど】む、蔽われたる翳【かげ】は皆な周悉【しゅうしつ】。
蠱上【こじょう】の事とせざるを貴しとし、履二に貞吉を美とす。
幽人は常に坦歩し、高尚なるは邈【ばく】として 匹【たぐい】し難し。
頥【い】阿【あ】 竟に何の端、寂寂【せきせき】として抱一を寄さん。
恬【てん】として既に已に交わるが如し、性を繕【おさ】めて此より出ず。

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現代語訳と訳註
(本文)
登永嘉緑嶂山詩 #2
踐夕奄昏曙、蔽翳皆周悉。
蠱上貴不事、履二美貞吉。
幽人常坦歩、高尚邈難匹。
頥阿竟何端、寂寂寄抱一。
恬如既已交、繕性自此出。』

(下し文)#2
践夕 昏曙を奄【とど】む、蔽われたる翳【かげ】は皆な周悉【しゅうしつ】。
蠱上【こじょう】の事とせざるを貴しとし、履二に貞吉を美とす。
幽人は常に坦歩し、高尚なるは邈【ばく】として 匹【たぐい】し難し。
頥【い】阿【あ】 竟に何の端、寂寂【せきせき】として抱一を寄さん。
恬【てん】として既に已に交わるが如し、性を繕【おさ】めて此より出ず。

(現代語訳)
夕暮れの道を歩いているのにたちまち夜明けのようであり、山が深くてすべてが完仝に被い隠されがげになっていた。
易の蠱【こ】の卦【か】の上九(陽)の爻【こう】には、「王侯に事へず、その事を高尚にす」と、君に仕えないのを貴しとし、履の卦の九二の爻の辞には「履む道坦坦(平らか)たり、幽人(隠者)「貞なれば吉」と、心が正しく堅くて吉であることをりっぱであるとしている。
世を避けて隠康する人は常に平坦な道を歩むものであり、その気高い行動は、はるかに遠くて比べることは難しい。
頥と阿との返事のわずかな違いが結局何のはじめとしてあらわしているのであろうか。とはいっても煩雑な詮索はやめて、私はただ静かにして声もなく、老子のただ一つの真埋を抱き守る身をしばしばこの世に寄せるだけなのである。
私はもはや荘于のいう平然自得の心と、他方人の生まれ持った物事を知り覚る働きとが、互いに養い育て合えるようである。人間の本原の性を治め正すこともここから出てくると荘子は教えているのである。


(訳注)
踐夕奄昏曙、蔽翳皆周悉。
夕暮れの道を歩いているのにたちまち夜明けのようであり、山が深くてすべてが完仝に被い隠されがげになっていた。
踐夕夕暮れの道を歩いている。○昏曙 夜明けのような薄暗さ。○蔽翳 山が深く被われている。○周悉 完全である。


蠱上貴不事、履二美貞吉。
易の蠱【こ】の卦【か】の上九(陽)の爻【こう】には、「王侯に事へず、その事を高尚にす」と、君に仕えないのを貴しとし、履の卦の九二の爻の辞には「履む道坦坦(平らか)たり、幽人(隠者)「貞なれば吉」と、心が正しく堅くて吉であることをりっぱであるとしている。
蠱上 易の蠱【こ】の卦【か】の上九(陽)の爻【こう】の辞。○貴不事 君に仕えないのを貴しとする。○履二 易の履の卦の九二の爻【こう】の辞。○ りっぱである。○貞吉 貞であれば吉である。


幽人常坦歩、高尚邈難匹。
世を避けて隠康する人は常に平坦な道を歩むものであり、その気高い行動は、はるかに遠くて比べることは難しい。
幽人 世を避けて隠康する人。○常坦歩 常に平坦な道を歩むもの。○高尚 気高い行動。○ はるかに遠く。○難匹 比べることは難しい。


頥阿竟何端、寂寂寄抱一。
頥と阿との返事のわずかな違いが結局何のはじめとしてあらわしているのであろうか。とはいっても煩雑な詮索はやめて、私はただ静かにして声もなく、老子のただ一つの真埋を抱き守る身をしばしばこの世に寄せるだけなのである。
頥阿 「唯阿」に同じ。老子第二十章に「唯と阿と相去ること幾何ぞ」と。唯阿は返答の声。○抱一 老子のいう唯一の道(真理)を抱ぎ守る。老子第十章に「営魄を載せて一を抱き、能く離るる無からんか」と。


恬如既已交、繕性自此出。』
私はもはや荘于のいう平然自得の心と、他方人の生まれ持った物事を知り覚る働きとが、互いに養い育て合えるようである。人間の本原の性を治め正すこともここから出てくると荘子は教えているのである。
恬如 しずか。心が落ち着いてあっさりしている。『荘子、繕性』「以恬養知。」(恬を以て知を養う ○繕性 人の生まれ持った本原の性を治め正すこと。荘子繕性篇に「知と恬と交々相養ひて、和理其の性より出づ。夫れ徳は和なり。道は理なり」と。知覚と自然の平心とが相互に働いて、人間の本性が出る。○自此出 ここより出てくる。


登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386

登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386
(永嘉の緑嶂山に登る)


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  謝霊運の山水文学は、永嘉に郡守をしていた時代と、会稽に帰隠していたわずかのあいだに、ほとんどのものが作られている。それは、両地とも山水の美に恵まれていたこと、時間がゆったりしていたからである。左遷中というのは半隠であり、会稽では隠遁中であって、自然美に打たれて歌となったものであろう。謝霊運は、技巧をこらす詩人で、おそらく何度も読み返し、修正して作詩したものと思われるからである。
  やがて、秋も過ぎて、冬のころであろうか、永嘉の北にそびえる緑嶂山に登ったとき、「永嘉の緑嶂山に登る」の作がある

登永嘉緑嶂山詩 #1
永嘉の緑の屏風のような山に登る時の詩。
裏糧杖軽策、懐遲上幽室。
旅の食糧を包み、軽い杖をついて、坂道がきつく足の遅いのを思いつつ、山の隠棲の室に上ってゆく。
行源逕轉遠、距陸情未畢。
その山にある水源に行くには道が甚だ遠く、高原に着いても去り難い情は尽きない。
澹瀲結寒姿、団欒潤霜質。
谷川の浪打ち際は水深の浅い所から凍っていく。円く茂った竹は霜に湛える性質の光沢がある。
澗委水屡迷、林迥巌愈密。
谷川は曲がって水はしばしば行く手を迷わす、林ははるかにひろがって、岩がますます密になった。
眷西謂初月、顧東疑落日。』

谷が深く暗いので、西をかえりみては夕日を月の出かと思い、東をふり返っては月の出を落日かと疑った。
#2
踐夕奄昏曙、蔽翳皆周悉。
蠱上貴不事、履二美貞吉。
幽人常坦歩、高尚邈難匹。
頥阿竟何端、寂寂寄抱一。
恬如既已交、繕性自此出。』

(永嘉の緑嶂山に登る)
糧【かて】の裏【つつ】んで軽き策を杖として、遅きを懐うて幽室に上る。
源に行かんとし、逕【みち】は転【うた】た遠く、陸に距【いた】りて情 いまだ畢わらず。
澹瀲【たんれん】寒姿を結び、団欒は霜質より潤い。
澗の委【まがり】は水 屡しば迷い、林迥【はる】かにして、巌 愈【いよ】いよ密なり。
西を眷【かえり】みて初月と謂い、東を顧みて落日かと疑えり。』

#2
践夕 昏曙を奄【とど】む、蔽われたる翳【かげ】は皆な周悉【しゅうしつ】。
蠱上【こじょう】の事とせざるを貴しとし、履二に貞吉を美とす。
幽人は常に坦歩し、高尚なるは邈【ばく】として 匹【たぐい】し難し。
頥【い】阿【あ】 竟に何の端、寂寂【せきせき】として抱一を寄さん。
恬【てん】として既に已に交わるが如し、性を繕【おさ】めて此より出ず。』

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  天気の良い日、東に月がのぼるのを見て、翻って西の方の夕日を見て、自然を面白く趣きをもって詠っている。同時刻のものを月と夕日にてあらわし、山水については、早朝からの時間の経過をあらわしている。山水詩人として、半隠棲のような生活をしていたのであろう。永嘉に赴任してから、山水描写が確立していったようだ。

現代語訳と訳註
(本文)
登永嘉緑嶂山詩 #1
裏糧杖軽策、懐遲上幽室。
行源逕轉遠、距陸情未畢。
澹瀲結寒姿、団欒潤霜質。
澗委水屡迷、林迥巌愈密。
眷西謂初月、顧東疑落日。』


(下し文) (永嘉の緑嶂山に登る)#1
糧【かて】の裏【つつ】んで軽き策を杖として、遅きを懐うて幽室に上る。
源に行かんとし、逕【みち】は転【うた】た遠く、陸に距【いた】りて情 いまだ畢わらず。
澹瀲【たんれん】寒姿を結び、団欒は霜質より潤い。
澗の委【まがり】は水 屡しば迷い、林迥【はる】かにして、巌 愈【いよ】いよ密なり。
西を眷【かえり】みて初月と謂い、東を顧みて落日かと疑えり。』


(現代語訳)
永嘉の緑の屏風のような山に登る時の詩。
旅の食糧を包み、軽い杖をついて、坂道がきつく足の遅いのを思いつつ、山の隠棲の室に上ってゆく。
その山にある水源に行くには道が甚だ遠く、高原に着いても去り難い情は尽きない。
谷川の浪打ち際は水深の浅い所から凍っていく。円く茂った竹は霜に湛える性質の光沢がある。
谷川は曲がって水はしばしば行く手を迷わす、林ははるかにひろがって、岩がますます密になった。
谷が深く暗いので、西をかえりみては夕日を月の出かと思い、東をふり返っては月の出を落日かと疑った。


(訳注)#1
登永嘉緑嶂山詩
永嘉の緑の屏風のような山に登る時の詩。
緑嶂山 みどりの屏風のような山。


裏糧杖軽策、懐遲上幽室。
旅の食糧を包み、軽い杖をついて、坂道がきつく足の遅いのを思いつつ、山の隠棲の室に上ってゆく。
裏糧 旅の食料をつつんで。○軽策 杖を軽く使ってついて歩く。○懐遲 歩みの遅く進まないことを思う。○幽室 塵芥をはなれた隠棲の場所。


行源逕轉遠、距陸情未畢。
その山にある水源に行くには道が甚だ遠く、高原に着いても去り難い情は尽きない。
行源 水源に行きつく。○ こみち。○轉遠 はなはだ遠い。○距陸 高原に到着する。○未畢 おわることはない。


澹瀲結寒姿、団欒潤霜質。
谷川の浪打ち際は水深の浅い所から凍っていく。円く茂った竹は霜に湛える性質の光沢がある。
澹瀲 しずか、やすらか。風や波によってゆったりと動くさま。『 荘子逍遥遊、其神凝、注』澹然而不待。〈釈文〉澹然恬静也。○ なみ。すいめん。波打ち際。水の溢れるさま。○寒姿 浪打ち際、水深の浅い所から凍っていく。○団欒 竹の茂みがまるく葉繁っている。○ うるおう。光沢がある。○霜質 霜に耐えうる性質。


澗委水屡迷、林迥巌愈密。
谷川は曲がって水はしばしば行く手を迷わす、林ははるかにひろがって、岩がますます密になった。
 谷川。谷間の小川。○ 曲がる。○林迥 林がこちらからもこうに見かって広がっている。○愈密 いよいよ、ますます密になる。上流になっていくほど岩石が多くなる。


眷西謂初月、顧東疑落日。』
谷が深く暗いので、西をかえりみては夕日を月の出かと思い、東をふり返っては月の出を落日かと疑った。
眷西 西の方を見る。落日のある方向。○謂初月 月が出たのかという。○顧東 東の方から月がのぼる。○疑落日 夕日と見まちがえる。
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白石巌下径行田詩 #2 謝霊運<18>  詩集 384

白石巌下径行田詩 #2 謝霊運<18>  詩集 384
白石巌下径行田詩謝霊運(白石巌下行田を経ふ)

「白石巌」とは永嘉郡楽成県の西30里(17km)にある白石山のことである。


白石巖下徑行田詩
小邑居易貧。災年民無生。
知淺懼不周。愛深憂在情。」
舊業橫海外。蕪穢積頹齡。
饑饉不可久。甘心務經營。
千頃帶遠堤。萬裏瀉長汀。』
洲流涓澮合。連統塍埒幷。
中州のある川の流れ、小さい小川が集まっている。連続した筋のように堤防が合わさっている。
雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
いまは戦国楚の国の頽廃化のようなことにはなっていないが、あれはてた楚宮の宮殿にまた草木の芽が萌えてきている。
雖非鄭白渠。每歲望東京。
鄭白の渠によってもたらされた生活がゆとりあるものということは言えないけれど、毎年、都に向かって希望しているのである。
天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』

天の鏡が、もし一つしかないものとしたら、おそらく、わずかな真心を示すことだろう。


(白石巌下行田を経ふ)
小邑【しょうゆう】の居は貧なり易く、災いの年には民 生くるなし。
知は浅く周【あまね】からざることを懼【おそ】る、愛は深く 憂いは情に在り。
旧業は海の外に横たわり、蕪穢【ぶあい】 頹齢【たいれい】を積む。
饑饉【ききん】 久しくす可からず、甘心 経営に務む。
千頃【せんけい】 遠き堤を帯び、万里 長汀【ちょうてい】に潟【そそ】ぐ。
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
天鑑 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。


現代語訳と訳註
(本文) #2

洲流涓澮合。連統塍埒幷。
雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
雖非鄭白渠。每歲望東京。
天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』

(下し文)#2
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
天鑒 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。

(現代語訳)#2
中州のある川の流れ、小さい小川が集まっている。連続した筋のように堤防が合わさっている。
いまは戦国楚の国の頽廃化のようなことにはなっていないが、あれはてた楚宮の宮殿にまた草木の芽が萌えてきている。
鄭白の渠によってもたらされた生活がゆとりあるものということは言えないけれど、毎年、都に向かって希望しているのである。
天の鏡が、もし一つしかないものとしたら、おそらく、わずかな真心を示すことだろう。


(訳注)#2
洲流涓澮合。連統塍埒幷。
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
中州のある川の流れ、小さい小川が集まっている。連続した筋のように堤防が合わさっている。
涓澮 ちいさいながれ。小さいものの形容。合。連統 連続した筋.○塍埒 堤防。塍はあぜ、埒はつつみ。


雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
いまは戦国楚の国の頽廃化のようなことにはなっていないが、あれはてた楚宮の宮殿にまた草木の芽が萌えてきている。
荒闕【こうけつ】かって宮殿のあった宮城の門の左右の横にある台が荒れ果てている。○黎萌【れいぼう】。芽吹く前のつぼみの黒い部分。芽吹いていることをいう。


雖非鄭白渠。每歲望東京。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
鄭白の渠によってもたらされた生活がゆとりあるものということは言えないけれど、毎年、都に向かって希望しているのである。
鄭白の渠 中国で、韓の鄭国と趙の白公の灌漑工事により、人々の生活が豊かになったという故事から、生活に不自由がないたとえ。


天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』
天鑒 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。
天の鏡が、もし一つしかないものとしたら、おそらく、わずかな真心を示すことだろう。
天鑒 鑒は人の姿や物の形を映し見る道具。古くは青銅・白銅・鉄などの表面に水銀に錫(すず)をまぜたものを塗って磨いて作った。形は方円・八つ花形などがある。現在のものは、ガラス板の裏面に水銀を塗ってある。○來茲[読み]まさに~すべし;応(應)~ [意味]おそらく(きっと)~だろう。○微誠 わずかな真心。


この田舎はいろいろと生活への条件が悪く、物の産出も少なく、人民ははなはだしく貧乏になりやすいため、凶災の年にはその生命すら全うしがたく、そのうえ、知能も低い。それゆえ、一生懸命、政治に励み、物の豊かになれるように努力したいという。この詩のうちで、「鄭白の渠」とは鄭渠と白渠の灌漑により人民は衣食が満ち足りるようになったという後漢の班固の「西都賦」を意識して歌っているのだ。謝霊運が地方の政治家として真剣に取り組んでいる姿が浮かんでくる。

 また、産業の指導にも熱心に当たったようで、それを物語るものとして、「種桑」の詩が伝えられている。地方の政治家謝霊運の一面を語る資料としてつぎに挙げてみる。

白石巌下径行田詩 #1 謝霊運<18>  詩集 383

白石巌下径行田詩 #1 謝霊運<18>  詩集 383
白石巌下径行田詩謝霊運(白石巌下行田を経ふ)

秋に左遷という謝霊運にとっては何倍もの悲哀を強く感じるものであった。故郷を遠く離れ、知る人もな句、そして、隠棲したい気持ちを持っている謝霊運にとって、放郷への回顧ははなはだしく強かった。それに加え、悲しみからくる食欲不振、混然としたものから生じた白髪をみて、いっそうの寂しさを感じさせたのである。
この気も狂わんばかりの悲しみを、わずかに救ってくれるものは琴を弾ずることであった。この琴を弾ずることは、当時のイソテリの等しく行なうストレス解消法であった。そして、満ちあふれるばかりの美しい山や川を心ゆくまで観賞することも、さらに心の憂いを消すのに大きな功、があった。
 郡守として永嘉に着任した謝霊運は、まだ治者として誇りもあり、その意識も強烈であった。治者としての自覚が強かったのを物語る資料として、「白石巖下徑行田詩」(白石巌下行田を経ふ)の作がある。この「白石巌」とは永嘉郡楽成県の西30里(17km)にある白石山のことである。


白石巖下徑行田詩
白石山の岩石のもとの田んぼに行きすぎるときの詩
小邑居易貧。災年民無生。
ここの小さな村里では住むには貧しくなりやすい、災害の歳には村人は生きていけないのだ。
知淺懼不周。愛深憂在情。」
学問、知識はあさくそれが邑全体でなければよいのだが、人の触れ合い、愛情は深く情を以て心配している。
舊業橫海外。蕪穢積頹齡。
古くからの生業は海に出て行っている、賤しいことばかりしていて応募れていっているのだ。
饑饉不可久。甘心務經營。
飢饉のようなことは久しくあってはならない、何にも考えないで為すがままに生活を営んでいる。
千頃帶遠堤。萬裏瀉長汀。』
大地は広く遠い所に堤が帯のように横たわっており、万里の長く続く波打ち際は続いている。

洲流涓澮合。連統塍埒幷。
雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
雖非鄭白渠。每歲望東京。
天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』

(白石巌下行田を経ふ)
小邑【しょうゆう】の居は貧なり易く、災いの年には民 生くるなし。
知は浅く周【あまね】からざることを懼【おそ】る、愛は深く 憂いは情に在り。
旧業は海の外に横たわり、蕪穢【ぶあい】 頹齢【たいれい】を積む。
饑饉【ききん】 久しくす可からず、甘心 経営に務む。
千頃【せんけい】 遠き堤を帯び、万里 長汀【ちょうてい】に潟【そそ】ぐ。
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
天鑑 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。


現代語訳と訳註
(本文) 白石巖下徑行田詩 #1
小邑居易貧。災年民無生。
知淺懼不周。愛深憂在情。」
舊業橫海外。蕪穢積頹齡。
饑饉不可久。甘心務經營。
千頃帶遠堤。萬裏瀉長汀。』

(下し文)
(白石巌下行田を経ふ)
小邑【しょうゆう】の居は貧なり易く、災いの年には民 生くるなし。
知は浅く周【あまね】からざることを懼【おそ】る、愛は深く 憂いは情に在り。
旧業は海の外に横たわり、蕪穢【ぶあい】 頹齢【たいれい】を積む。
饑饉【ききん】 久しくす可からず、甘心 経営に務む。


(現代語訳)
白石山の岩石のもとの田んぼに行きすぎるときの詩
ここの小さな村里では住むには貧しくなりやすい、災害の歳には村人は生きていけないのだ。
学問、知識はあさくそれが邑全体でなければよいのだが、人の触れ合い、愛情は深く情を以て心配している。
古くからの生業は海に出て行っている、賤しいことばかりしていて応募れていっているのだ。
飢饉のようなことは久しくあってはならない、何にも考えないで為すがままに生活を営んでいる。
大地は広く遠い所に堤が帯のように横たわっており、万里の長く続く波打ち際は続いている。


(訳注)
白石巖下徑行田詩

(白石巌下行田を経ふ)
白石山の岩石のもとの田んぼに行きすぎるときの詩


小邑居易貧。災年民無生。
小邑【しょうゆう】の居は貧なり易く、災いの年には民 生くるなし。
ここの小さな村里では住むには貧しくなりやすい、災害の歳には村人は生きていけないのだ。
小邑【しょうゆう】小さい村里。


知淺懼不周。愛深憂在情。」
知は浅く周【あまね】からざることを懼【おそ】る、愛は深く 憂いは情に在り。
学問、知識はあさくそれが邑全体でなければよいのだが、人の触れ合い、愛情は深く情を以て心配している。


舊業橫海外。蕪穢積頹齡。
旧業は海の外に横たわり、蕪【あれ】と穢【けがれ】 頹齢【たいれい】を積む。

古くからの生業は海に出て行っている、賤しいことばかりしていて応募れていっているのだ。
○蕪穢 土地が荒れて雑草が生い茂る。転じて賤しいこと。○頹齡 老年。ものが廃れ衰えるように、老いぼれる年齢。


饑饉不可久。甘心務經營。
饑饉【ききん】 久しくす可からず、甘心 経営に務む。
飢饉のようなことは久しくあってはならない、何にも考えないで為すがままに生活を営んでいる。


千頃帶遠堤。萬裏瀉長汀。』
千頃【せんけい】 遠き堤を帯び、万里 長汀【ちょうてい】に潟【そそ】ぐ。
大地は広く遠い所に堤が帯のように横たわっており、万里の長く続く波打ち際は続いている。
千頃 田畑の広いことの形容。○長汀 長い渚。長く続く波打ち際。

晚出西射堂 #2謝霊運<17>  詩集 382 #2

晚出西射堂 #2謝霊運<17>  詩集 382 #2
晩出西射堂詩 謝霊運(晩に西射堂を出ず)


 謝霊運はかくて桐江をさかのぼり、蘭江に入り、蘭鈴を経て、その支流の娶江に入り、金華に至りて下船。それから陸路を駕で山越えして麗水に至り、ここから再び船にて甌江を下り、永嘉に至った。


(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)都建康を出発して1か月かけて永嘉に到着する。


 さて、旅路はるかに南の永嘉の郡守に着任した霊運は、その土地の豪族や部下から盛大な出迎えを受け、かつ儀礼的な歓迎の宴会に日々を送ったことと思う。が、そのときには詩人である霊運はいくつかの詩も創作したことであろうけれど、今は伝わっていない。
 永嘉に落ち着いた霊運は、仮住まいとして、永嘉郡の西南の射堂に住いした。
射堂とは弓を射る建物を意味するが、それに付属する建物に住んでいたのである。
そこから美しい山を望んで歌ったものが「晩に西射堂を出ず」の一首である。


晚出西射堂 謝靈運
《昭明文選•卷二十二》

晚出西射堂
步出西城門,遙望城西岑。
連鄣疊巘崿,青翠杳深沈。
曉霜楓葉丹,夕曛嵐氣陰。
節往慼不淺,感來念已深。』
羈雌戀舊侶,迷鳥懷故林。
旅の客人はメス鳥のようなもので長く一緒になっている伴侶を恋しく思う、行く先のない迷い鳥は生れ育った古巣の林を懐かしむ。
含情尚勞愛,如何離賞心?
それに情を含んでいるとすればなおさらねぎらい愛おしむものだ、それなのにどうして科の景色を鑑賞する気持ち、隠棲したい気持ちをすてさることができようか。
撫鏡華緇鬢,攬帶緩促衿。
鏡を磨きなおしてみてみると黒々としていた髪の毛に白髪が花が咲いたようだ。食欲減退のせいか帯が緩んで襟を整えるのもゆるみが出てきた。
安排徒空言,幽獨賴鳴琴。』

ただ気ままに程よく詩を詠い、空言をならべている、一人で過ごすわび住いには琴を弾き鳴らすことだけが頼りである。

(晩に西射堂を出ず)
歩して出で城門に西す、遙かに城の西の岑【みね】を望む。
連なれる障【しきり】は巘崿【けんがく】を畳み、青翠【せいすい】は沓【かさ】なりて深沈【しんしん】たり。
暁霜【あかつきのしも】に楓葉【ふうよう】は丹【あか】く、夕の曛【かげり】に嵐気【らんき】は陰【くも】れり。
節は往きて慼【うれ】いは浅からず、感は来たりて念い已に深し。
 
羈雌【きし】は旧き侶【とも】を恋い、迷鳥は故【もと】の林を懐う。
情を含んで尚お勞【ねぎ】らい愛【いとおし】み、
如何んぞ 賞する心を離れんや。
鏡を撫【と】れば緇【くろ】き鬢【かみ】も華【しろ】く、帯を攬【と】れば促【し】まれる衿も緩【ゆる】し。
安排【あんぱい】 徒【いたず】らに空言【そらごと】をいい、幽独【ゆうどく】 鳴琴【めいきん】に頼るのみ。


現代語訳と訳註
(本文)#2

羈雌戀舊侶,迷鳥懷故林。
含情尚勞愛,如何離賞心?
撫鏡華緇鬢,攬帶緩促衿。
安排徒空言,幽獨賴鳴琴。』

(下し文)#2
羈雌【きし】は旧き侶【とも】を恋い、迷鳥は故【もと】の林を懐う。
情を含んで尚お勞【ねぎ】らい愛【いとおし】み、
如何んぞ 賞する心を離れんや。
鏡を撫【と】れば緇【くろ】き鬢【かみ】も華【しろ】く、帯を攬【と】れば促【し】まれる衿も緩【ゆる】し。
安排【あんぱい】 徒【いたず】らに空言【そらごと】をいい、幽独【ゆうどく】 鳴琴【めいきん】に頼るのみ。


(現代語訳)#2
旅の客人はメス鳥のようなもので長く一緒になっている伴侶を恋しく思う、行く先のない迷い鳥は生れ育った古巣の林を懐かしむ。
それに情を含んでいるとすればなおさらねぎらい愛おしむものだ、それなのにどうして科の景色を鑑賞する気持ち、隠棲したい気持ちをすてさることができようか。
鏡を磨きなおしてみてみると黒々としていた髪の毛に白髪が花が咲いたようだ。食欲減退のせいか帯が緩んで襟を整えるのもゆるみが出てきた。
ただ気ままに程よく詩を詠い、空言をならべている、一人で過ごすわび住いには琴を弾き鳴らすことだけが頼りである。


(訳注)#2
羈雌戀舊侶,迷鳥懷故林。

旅の客人はメス鳥のようなもので長く一緒になっている伴侶を恋しく思う、行く先のない迷い鳥は生れ育った古巣の林を懐かしむ。
羈雌 旅の客人はメス鳥


含情尚勞愛,如何離賞心
それに情を含んでいるとすればなおさらねぎらい愛おしむものだ、それなのにどうして科の景色を鑑賞する気持ち、隠棲したい気持ちをすてさることができようか。


撫鏡華緇鬢,攬帶緩促衿。
鏡を磨きなおしてみてみると黒々としていた髪の毛に白髪が花が咲いたようだ。食欲減退のせいか帯が緩んで襟を整えるのもゆるみが出てきた。
撫鏡 なでる。とる。みがく。みる。文選、宋玉『神女賦序』「於是撫心定氣。」○攬帶 帯が動く。食欲がなく痩せたことで帯が締まらない。


安排徒空言,幽獨賴鳴琴。』
ただ気ままに程よく詩を詠い、空言をならべている、一人で過ごすわび住いには琴を弾き鳴らすことだけが頼りである。
安排【あんぱい】あるがままに安んじる。具合よく並べる。程よく加減する。


切々として、永嘉城外の秋景を巧みに歌う。特に、秋はとかく物思いに沈むとは、宋玉以降「悲愁」という感覚が歌われた。夏の終わりに、葉が色づき落ち始めるが、同じ時期に、辺境に兵士を送り、男女の別れがあった。秋は、渡り鳥もわたってゆき、空しさを歌うようになった。謝霊運は、左遷で南に来たのだ。

晚出西射堂 #1 謝霊運<17>  詩集 381

晚出西射堂 #1 謝霊運<17>  詩集 381
晩出西射堂詩 謝霊運(晩に西射堂を出ず)


 謝霊運はかくて桐江をさかのぼり、蘭江に入り、蘭鈴を経て、その支流の娶江に入り、金華に至りて下船。それから陸路を駕で山越えして麗水に至り、ここから再び船にて甌江を下り、永嘉に至った。
(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)都建康を出発して1か月かけて永嘉に到着する。

 さて、旅路はるかに南の永嘉の郡守に着任した霊運は、その土地の豪族や部下から盛大な出迎えを受け、かつ儀礼的な歓迎の宴会に日々を送ったことと思う。が、そのときには詩人である霊運はいくつかの詩も創作したことであろうけれど、今は伝わっていない。
 永嘉に落ち着いた霊運は、仮住まいとして、永嘉郡の西南の射堂に住いした。
射堂とは弓を射る建物を意味するが、それに付属する建物に住んでいたのである。
そこから美しい山を望んで歌ったものが「晩に西射堂を出ず」の一首である。

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晚出西射堂 謝靈運
《昭明文選•卷二十二》


晚出西射堂
步出西城門,遙望城西岑。
徒歩で家を出て永嘉の城門へ西にむかった。城郭の西の向こうに峻険な嶺を眺めている
連鄣疊巘崿,青翠杳深沈。
連峰を遮る崖は畳のようにかさなっている、山の緑は茂り重なってうっそうとしている。
曉霜楓葉丹,夕曛嵐氣陰。
早朝の霜には楓の葉は赤く色づいている、夕暮れ黄昏時山影の景色は暗くなる。
節往慼不淺,感來念已深。』

秋の季節は深まっていくと悲愁により涙を流すことはない、ただ、隠棲して谷あいの農村に住みたいと思う気持ちはさらに深くなっていく。
#2
羈雌戀舊侶,迷鳥懷故林。
含情尚勞愛,如何離賞心?
撫鏡華緇鬢,攬帶緩促衿。
安排徒空言,幽獨賴鳴琴。』

(晩に西射堂を出ず)
歩して出で城門に西す、遙かに城の西の岑【みね】を望む。
連なれる障【しきり】は巘崿【けんがく】を畳み、青翠【せいすい】は沓【かさ】なりて深沈【しんしん】たり。
暁霜【あかつきのしも】に楓葉【ふうよう】は丹【あか】く、夕の曛【かげり】に嵐気【らんき】は陰【くも】れり。
節は往きて慼【うれ】いは浅からず、感は来たりて念い已に深し。
#2 
羈雌【きし】は旧き侶【とも】を恋い、迷鳥は故【もと】の林を懐う。
情を含んで尚お勞【ねぎ】らい愛【いとおし】み、
如何んぞ 賞する心を離れんや。
鏡を撫【と】れば緇【くろ】き鬢【かみ】も華【しろ】く、帯を攬【と】れば促【し】まれる衿も緩【ゆる】し。
安排【あんぱい】 徒【いたず】らに空言【そらごと】をいい、幽独【ゆうどく】 鳴琴【めいきん】に頼るのみ。


現代語訳と訳註
(本文)
#1

晚出西射堂
步出西城門,遙望城西岑。
連鄣疊巘崿,青翠杳深沈。
曉霜楓葉丹,夕曛嵐氣陰。
節往慼不淺,感來念已深。』

(下し文) #1
歩して出で城門に西す、遙かに城の西の岑【みね】を望む。
連なれる障【しきり】は巘崿【けんがく】を畳み、青翠【せいすい】は沓【かさ】なりて深沈【しんしん】たり。
暁霜【あかつきのしも】に楓葉【ふうよう】は丹【あか】く、夕の曛【かげり】に嵐気【らんき】は陰【くも】れり。
節は往きて慼【うれ】いは浅からず、感は来たりて念い已に深し。


(現代語訳)
徒歩で家を出て永嘉の城門へ西にむかった。城郭の西の向こうに峻険な嶺を眺めている
連峰を遮る崖は畳のようにかさなっている、山の緑は茂り重なってうっそうとしている。
早朝の霜には楓の葉は赤く色づいている、夕暮れ黄昏時山影の景色は暗くなる。
秋の季節は深まっていくと悲愁により涙を流すことはない、ただ、隠棲して谷あいの農村に住みたいと思う気持ちはさらに深くなっていく。

(訳注)
晚出西射堂

日暮れになって永嘉の西にある射堂を出る。
射堂 弓場。弓を射る建物を意味する。それに付属する建物に住んでいたのであろう。現在その場所に西山寺があるので、寺にある建物ではないか。


步出西城門,遙望城西岑。
徒歩で家を出て永嘉の城門へ西にむかった。城郭の西の向こうに峻険な嶺を眺めている
西 西にする。西に向かう。城門を出て西にむかう。東には太平洋が広がり、半隠遁者の気分になっている謝霊運は、西の方角に興味をひかれたのであろう。この地は温州蜜柑の産地である。○城西岑 城郭の西の向こうにとがった山を見る。


連鄣疊巘崿,青翠杳深沈。
連峰を遮る崖は畳のようにかさなっている、山の緑は茂り重なってうっそうとしている。
巘崿【けんがく】がけ。崖の別名。・巘は大山から別れた小山。○ たたむ。ちじむ。かさなる。詩の作品で重ねて前の韻を用いること。この詩の前半八句にはこれを意識している。「門、岑。崿、沈。丹、陰。淺,深。西、西。」とまさしく畳んでいる。


曉霜楓葉丹,夕曛嵐氣陰。
早朝の霜には楓の葉は赤く色づいている、夕暮れ黄昏時山影の景色は暗くなる。
曉霜楓葉丹 温州は緯度が28度で、陰暦八月の初旬に明け方の霜があるだろうか、山の高い所であっても紅葉するというのは疑いたくなるところである。いずれにしても対句を意識しての詩人的表現である。

節往慼不淺,感來念已深。』
秋の季節は深まっていくと悲愁により涙を流すことはない、ただ、隠棲して谷あいの農村に住みたいと思う気持ちはさらに深くなっていく。
慼不淺 慼は秋の愁い、左遷のみの愁いにより涙を流すことはない。○感來 隠棲して谷あいの農村に住みたいと思いがくる。

七里瀬 #2 謝霊運<16> 詩集 377

七里瀬 #2 謝霊運<16> 377


 この桐廬の付近の厳陵山の西には有名なる七里瀬の険があった。ここは両巌が約七里(中国里)にわたって、高い山がそびえ、その間に激洸が岩をtむという。日本でいえば天竜峡のそれである。上下する船にとっては非常に危険な場所であって、船をあやつる船頭も、乗客も、すこしも気の安まらざるものがあった。それだけに、景色も美しく、印象に強い場所でもあった。特に、生まれてはじめてここを通過した霊運にとっては、いかばかりであったろうか。心に重い憂いをいだきながらも、その美にいたく心を打たれたらしく、ここで「七里瀬」と題する詩を残しており、『文選』の巻二十六の「行旅」に引用されている。

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七里瀨 #1
羈心積秋晨,晨積展遊眺。
孤客傷逝湍,徒旅苦奔峭。
石淺水潺湲,日落山照曜。
荒林紛沃若,哀禽相叫嘯。
#2
遭物悼遷斥,存期得要妙。
この時節の風物に遭って、官を左遷され、しりぞけられている身を傷ましくおもっている、だからかねての望みの隠棲の心を大事に持ち続け、道理の大切な不可思議な働きを会得するのである。
既秉上皇心,豈屑末代誚。
既に上古の三皇五帝の素朴純粋な精神をしっかりと持っているのだから、どうして末の代の人々のそしりなどを顧みることがあろうか。
目睹嚴子瀨,想屬任公釣。
私は目のあたり後漢の厳光が隠棲して釣を垂れた厳陵瀬の上流であるこの早瀬を見ている、昔、任公子が東海の大魚か釣ってこの浙江以東、蒼梧以北の地の人々がその魚肉に飽いたと荘子にあるが、その大道を以て民を養ったことを喩えた釣の話に想いをかけて慕うのである。
誰謂古今殊,異代可同調。

誰が古と今とは違うというのか。時代がちがっても隠棲して道を求める清潔の士とみさおを同じくすることはできるものである。
#1
羈心【きしん】は秋晨【しゅうしん】に積り、晨に積りて遊眺【ゆうちょう】を展ばさんとす。
孤客は逝湍【せいたん】を傷み、徒旅は奔峭【ほんしょう】に苦しむ。
石浅くして水は潺湲【せんたん】たり、日落ちて山は照曜【しょうよう】す。
荒林【こうりん】紛として沃若【ようじゃく】たり、哀禽【あいきん】相い 叫嘯【きょうしょう】す。
#2
物に遭いて遷斥を悼【いた】み、期を存し要妙【ようにょう】を得たり。
既に上皇の心を秉【と】り、豈 末代の誚【そし】りを屑【いさぎよし】とせんや。
目のあたり厳子が瀬【らい】を睹【み】て、想いは任公の釣に属【ぞく】す。
誰か謂う古今【きんこ】殊【こと】なると、異代【いだい】も調べを同じくす可し。

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現代語訳と訳註
(本文)
#2
遭物悼遷斥,存期得要妙。
既秉上皇心,豈屑末代誚。
目睹嚴子瀨,想屬任公釣。
誰謂古今殊,異代可同調。

(下し文)#2
物に遭いて遷斥を悼【いた】み、期を存し要妙【ようにょう】を得たり。
既に上皇の心を秉【と】り、豈 末代の誚【そし】りを屑【いさぎよし】とせんや。
目のあたり厳子が瀬【らい】を睹【み】て、想いは任公の釣に属【ぞく】す。
誰か謂う古今【きんこ】殊【こと】なると、異代【いだい】も調べを同じくす可し。


(現代語訳)
この時節の風物に遭って、官を左遷され、しりぞけられている身を傷ましくおもっている、だからかねての望みの隠棲の心を大事に持ち続け、道理の大切な不可思議な働きを会得するのである。
既に上古の三皇五帝の素朴純粋な精神をしっかりと持っているのだから、どうして末の代の人々のそしりなどを顧みることがあろうか。
私は目のあたり後漢の厳光が隠棲して釣を垂れた厳陵瀬の上流であるこの早瀬を見ている、昔、任公子が東海の大魚か釣ってこの浙江以東、蒼梧以北の地の人々がその魚肉に飽いたと荘子にあるが、その大道を以て民を養ったことを喩えた釣の話に想いをかけて慕うのである。
誰が古と今とは違うというのか。時代がちがっても隠棲して道を求める清潔の士とみさおを同じくすることはできるものである。


(訳注)
遭物悼遷斥,存期得要妙。

この時節の風物に遭って、官を左遷され、しりぞけられている身を傷ましくおもっている、だからかねての望みの隠棲の心を大事に持ち続け、道理の大切な不可思議な働きを会得するのである。
遭物 時節の風物に遭って。 ○悼遷斥 官を遷し退けられたことを傷み悲しむ。○存期 かねての期望を忘れずに。隠退の望みを保つ。○得要妙 道の緊要玄妙な処を会得する。道理の大切な不可思議な働きを会得する。


既秉上皇心,豈屑末代誚。
既に上上古の三皇五帝の素朴純粋な精神をしっかりと持っているのだから、どうして末の代の人々のそしりなどを顧みることがあろうか。
上皇心 上古の三皇五帝の素朴な心。詩譜序の疏に「上皇とは伏羲を謂ふ。三皇の般も先なる者」とある。三皇は神、五帝は聖人としての性格を持つとされた皇帝をいう。○ 顧る。


目睹嚴子瀨,想屬任公釣。
私は目のあたり後漢の厳光が隠棲して釣を垂れた厳陵瀬の上流であるこの早瀬を見ている、昔、任公子が東海の大魚か釣ってこの浙江以東、蒼梧以北の地の人々がその魚肉に飽いたと荘子にあるが、その大道を以て民を養ったことを喩えた釣の話に想いをかけて慕うのである。
嚴子瀨 後漢書に「厳光、字は子陵、木姓は荘、明帝の降を避けて、姓を政と改む。光武(帝)諌大夫に拝せんと欲するも受けず。乃ち富春山に耕釣せり」と。富春山を厳陵山といい、七里瀬を厳子瀬というのはこれによる。○任公釣 『荘子』任公子「愿隨任公子。欲釣吞舟魚。」任公子の故事。子明は会稽山の山頂から沖に届くくらいの竿を作り、餌も去勢牛五十頭ほど用意し、一年かけて釣り上げた。それを村人に食べ物を配った。浙江以東、蒼梧以北の民はこの魚に飽いたという。大道を以て衆を救う比喩。


誰謂古今殊,異代可同調。
誰が古と今とは違うというのか。時代がちがっても隠棲して道を求める清潔の士とみさおを同じくすることはできるものである。
同調 みさおを同じくする。調とは、生きかた。


a謝霊運永嘉ルート02

 謝霊運はかくて桐江をさかのぼり、蘭江に入り、蘭鈴を経て、その支流の娶江に入り、金華に至りて下船。それから陸路を駕で山越えして麗水に至り、ここから再び船にて甌江を下り、永嘉に至った。
(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽桐盧→建徳→壽昌→蘭渓金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)都建康を出発して1か月かけて永嘉に到着する。

七里瀬 #1 謝霊運<16> 詩集 376

七里瀬 #1 謝霊運<16> 詩集 376


 この桐廬の付近の厳陵山の西には有名なる七里瀬の険があった。ここは両巌が約七里(中国里)にわたって、高い山がそびえ、その間に激洸が岩をtむという。日本でいえば天竜峡のそれである。上下する船にとっては非常に危険な場所であって、船をあやつる船頭も、乗客も、すこしも気の安まらざるものがあった。それだけに、景色も美しく、印象に強い場所でもあった。特に、生まれてはじめてここを通過した霊運にとっては、いかばかりであったろうか。心に重い憂いをいだきながらも、その美にいたく心を打たれたらしく、ここで「七里瀬」と題する詩を残しており、『文選』の巻二十六の「行旅」に引用されている。

(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)


七里瀨 #1
嚴陵山の西の七里灘
羈心積秋晨,晨積展遊眺。
旅情は秋の朝目覚めると心に積もるものであり、朝に愁いが積もっているとそぞろに眺めを遠く故郷にはせる。
孤客傷逝湍,徒旅苦奔峭。
孤独な旅人の私は、論語の于罕篇に見える「逝く川の早瀬の過ぎて返らぬ」のを見てすぎゆく時を悲しみ、旅人達は峭しい路に苦しむのであった。
石淺水潺湲,日落山照曜。
石の多い浅瀬に水音が響いている、日が落ちかかると山が照りかがやいている。
荒林紛沃若,哀禽相叫嘯。

荒れて寂しい林は入りみだれて茂っている、物悲しい鳥の声が叫び鳴き歌い競い合っている。

#2
遭物悼遷斥,存期得要妙。
既秉上皇心,豈屑末代誚。
目睹嚴子瀨,想屬任公釣。
誰謂古今殊,異代可同調。

#1
羈心【きしん】は秋晨【しゅうしん】に積り、晨に積りて遊眺【ゆうちょう】を展ばさんとす。
孤客は逝湍【せいたん】を傷み、徒旅は奔峭【ほんしょう】に苦しむ。
石浅くして水は潺湲【せんたん】たり、日落ちて山は照曜【しょうよう】す。
荒林【こうりん】紛として沃若【ようじゃく】たり、哀禽【あいきん】相い 叫嘯【きょうしょう】す。

#2
物に遭いて遷斥を悼【いた】み、期を存し要妙【ようにょう】を得たり。
既に上皇の心を秉【と】り、豈 末代の誚【そし】りを屑【いさぎよし】とせんや。
目のあたり厳子が瀬【らい】を睹【み】て、想いは任公の釣に属【ぞく】す。
誰か謂う古今【きんこ】殊【こと】なると、異代【いだい】も調べを同じくす可し。


現代語訳と訳註
(本文)
七里瀨 #1
羈心積秋晨,晨積展遊眺。
孤客傷逝湍,徒旅苦奔峭。
石淺水潺湲,日落山照曜。
荒林紛沃若,哀禽相叫嘯。


(下し文) #1
羈心【きしん】は秋晨【しゅうしん】に積り、晨に積りて遊眺【ゆうちょう】を展ばさんとす。
孤客は逝湍【せいたん】を傷み、徒旅は奔峭【ほんしょう】に苦しむ。
石浅くして水は潺湲【せんたん】たり、日落ちて山は照曜【しょうよう】す。
荒林【こうりん】紛として沃若【ようじゃく】たり、哀禽【あいきん】相い 叫嘯【きょうしょう】す。


(現代語訳)
嚴陵山の西の七里灘
旅情は秋の朝目覚めると心に積もるものであり、朝に愁いが積もっているとそぞろに眺めを遠く故郷にはせる。
孤独な旅人の私は、論語の于罕篇に見える「逝く川の早瀬の過ぎて返らぬ」のを見てすぎゆく時を悲しみ、旅人達は峭しい路に苦しむのであった。
石の多い浅瀬に水音が響いている、日が落ちかかると山が照りかがやいている。
荒れて寂しい林は入りみだれて茂っている、物悲しい鳥の声が叫び鳴き歌い競い合っている。


(訳注)七里瀨
七里瀬 一名七里灘。浙江省桐廬県、嚴陵山の西にあり、水流矢の如く、諺に、風有れば七里、風無ければ七十里と。舟を挽き上る困難をいう。


羈心積秋晨,晨積展遊眺。
旅情は秋の朝目覚めると心に積もるものであり、朝に愁いが積もっているとそぞろに眺めを遠く故郷にはせる。
羈心 旅情。 


孤客傷逝湍,徒旅苦奔峭。
孤独な旅人の私は、論語の于罕篇に見える「逝く川の早瀬の過ぎて返らぬ」のを見てすぎゆく時を悲しみ、旅人達は峭しい路に苦しむのであった。
傷逝湍 逝く水を悲しむ。湍は急流。論語于罕篇に「子在川上曰、逝者如斯夫。不舍晝夜。」(子川上に在りて曰く、逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎かず)と。川の流れと時の推移とはよく対比させられる。○徒旅 旅人なかま。徒は人数。 


石淺水潺湲,日落山照曜。
石の多い浅瀬に水音が響いている、日が落ちかかると山が照りかがやいている。
潺湲 水流の音。


荒林紛沃若,哀禽相叫嘯。
荒れて寂しい林は入りみだれて茂っている、物悲しい鳥の声が叫び鳴き歌い競い合っている。
紛沃若 入りみだれて茂っている。沃若は茂盛のさま。 

初往新安桐盧口 謝霊運<15>  詩集 378

初往新安桐盧口 謝霊運<15>  詩集 378

422年謝霊運38歳 船旅をつづけ、桐渓水を通過の際の詩。


(初めて新安の桐盧口に往く)

船旅を続けつつ、銭塘江をさかのぼること富陽から南西約五〇キロ、北西より流れ来る桐江、桐渓水との合流点に桐盧県がある。この近くに来てほっとしたのか、一首が口ずさまれている。それが「初めて新安の桐盧口に往く」の詩である。


初往新安桐盧口
初めて新安の桐盧口に往く。
絺綌雖凄其、授衣尚未至。
少し寒くなってきて、出発したときの服装が薄い葛の服であったので少し気になる。といっても冬用の着物にするというほどにはまだなっていない。
感節自己深、懐古亦云思。
季節の変わりにはいろんなことが浮かんでくる。行く秋を思うことは昔の人が詩に歌っているし、自分も同じように思うことなのだ。
不有千里棹、孰申百代意。
一気に千里進んでくれる舟棹などありはしないし、(この景色をみると)百の世代に受け継がれていく心を語ることもできはしない。
遠協尚子心、遙得許生計。
遠い昔の後漢の隠者、向長のことは私の助けになることだし、許詢のように隠遁してはかりごとをして過ごすということもあるかもしれない。
既及冷風善、又即秋水駛。
もうすっかり風が冷たくなってきて心地いいものだ。また同じように水の流れも秋を感じさせるものとなっている。
江山共開曠、雲日相照媚。
銭塘江の山々は色づき始めて広がってきている。雲や太陽の輝きはこれらのことに同調している。
景夕羣物清、封玩咸可憙。
夕方の景色はモノトーンになって万物を清らかなものにしてゆく、この自然の事象にもてあそばれることは誰も皆よろこぶべきことなのだ。

(初めて新安の桐盧口に往く)
絺綌【ちげき】は凄其【せいき】と雄ども、衣を授けしに尚お未だ至らず。
節に感じて自から己に探し、古えを懐い 亦た思いを云う。
千里の棹 有らずんば、孰【たれ】か百代の意を申べん。
遠く尚子の心に協【かな】い、遙かに許生の計を得たり。
既に冷風の善なるに及び、又た秋水の駛するに即す。
江山 共に曠を開き、雲日は相い照らして媚ぶ。
景夕 群物 清し、玩に対し咸【み】な憙ぶ可し。


現代語訳と訳註
(本文)

初往新安桐盧口
絺綌雖凄其、授衣尚未至。
感節自己深、懐古亦云思。
不有千里棹、孰申百代意。
遠協尚子心、遙得許生計。
既及冷風善、又即秋水駛。
江山共開曠、雲日相照媚。
景夕羣物清、封玩咸可憙。


(下し文)
(初めて新安の桐盧口に往く)
絺綌【ちげき】は凄其【せいき】と雄ども、衣を授けしに尚お未だ至らず。
節に感じて自から己に探し、古えを懐い 亦た思いを云う。
千里の棹 有らずんば、孰【たれ】か百代の意を申べん。
遠く尚子の心に協【かな】い、遙かに許生の計を得たり。
既に冷風の善なるに及び、又た秋水の駛するに即す。
江山 共に曠を開き、雲日は相い照らして媚ぶ。
景夕 群物 清し、玩に対し咸【み】な憙ぶ可し。


(現代語訳)
初めて新安の桐盧口に往く。
少し寒くなってきて、出発したときの服装が薄い葛の服であったので少し気になる。といっても冬用の着物にするというほどにはまだなっていない。
季節の変わりにはいろんなことが浮かんでくる。行く秋を思うことは昔の人が詩に歌っているし、自分も同じように思うことなのだ。
一気に千里進んでくれる舟棹などありはしないし、(この景色をみると)百の世代に受け継がれていく心を語ることもできはしない。
遠い昔の後漢の隠者、向長のことは私の助けになることだし、許詢のように隠遁してはかりごとをして過ごすということもあるかもしれない。
もうすっかり風が冷たくなってきて心地いいものだ。また同じように水の流れも秋を感じさせるものとなっている。
銭塘江の山々は色づき始めて広がってきている。雲や太陽の輝きはこれらのことに同調している。
夕方の景色はモノトーンになって万物を清らかなものにしてゆく、この自然の事象にもてあそばれることは誰も皆よろこぶべきことなのだ。


(訳注)
初往新安桐盧口

初めて新安の桐盧口に往く
銭塘江をさかのぼること富陽から南西約五〇キロ、北西より流れ来る桐江、桐渓水との合流点に桐盧県がある。ここの渡し場で泊まったのである。


絺綌雖凄其、授衣尚未至。
少し寒くなってきて、出発したときの服装が薄い葛の服であったので少し気になる。といっても冬用の着物にするというほどにはまだなっていない。
絺綌(チゲキ)を作る。 細糸とあら糸の葛布。 縫為絶國衣 縫ひて絶国の衣となし。薄い葛の服。○凄其 さむい。ひややか。すごい。其は語調を整えるための助辞。訓音ではよまないことがおおい。


感節自己深、懐古亦云思。
季節の変わりにはいろんなことが浮かんでくる。行く秋を思うことは昔の人が詩に歌っているし、自分も同じように思うことなのだ。


不有千里棹、孰申百代意。
一気に千里進んでくれる舟棹などありはしないし、(この景色をみると)百の世代に受け継がれていく心を語ることもできはしない
○千里棹 千里ひとかきの棹。○ 誰。○百代意 代々受け継ぐ一族の家訓・志。


遠協尚子心、遙得許生計。
遠い昔の後漢の隠者、向長のことは私の助けになることだし、許詢のように隠遁してはかりごとをして過ごすということもあるかもしれない。
○尚子 後漢の隠者、向長のこと。前漢末・後漢初の他人から食物を分けてもらいようやっと食いつなぎそれでも働かず好きな本を読んでいる生活をしていた人物。人の地位はおろか、生死まで見通す神眼を持っていたと言われる隠者。○許生 許詢のこと。 字は玄度。河間高陽(河北省保定市)の人。魏の中領軍許允の玄孫。父の許帰が司馬睿に従って南渡し、会稽内史とされて山陰に居した。外祖父の華軼は魏の華歆の曾孫で、西晋の江州刺史とされていたが、元帝への帰順を拒んで殺された。 許詢は会稽に隠棲して許徴士と称され、孫綽・支遁・謝安・王羲之らと親交して司馬昱とも交流があり、風情簡素・高情遠致と評された。清談・玄言詩の名手として孫綽と並称され、その五言詩は簡文帝に「時人に妙絶す」と絶賛されたが、玄言詩の域を出なかったことで後世の評も“道家に傾く”と概ね辛く、逆説的に当時の玄学の盛行を示している。『詩品』下。


既及冷風善、又即秋水駛。
もうすっかり風が冷たくなってきて心地いいものだ。また同じように水の流れも秋を感じさせるものとなっている。
秋水駛 はやくながれる。急流。


江山共開曠、雲日相照媚。
銭塘江の山々は色づき始めて広がってきている。雲や太陽の輝きはこれらのことに同調している。
 銭塘江。○ こびる。随う。同調する。


景夕羣物清、封玩咸可憙。
夕方の景色はモノトーンになって万物を清らかなものにしてゆく、この自然の事象にもてあそばれることは誰も皆よろこぶべきことなのだ。
景夕 夕方の景色。○羣物清 万物を清らかなものにしてゆく○封玩咸可憙 この自然の事象にもてあそばれることは誰も皆よろこぶべきことなのだ。

富春渚 #2 謝霊運<14> 詩集 377

富春渚 #2 謝霊運<14> 詩集 377


故郷の始寧で充分に精神的に、肉体的に休息した霊運は、未知の土地永嘉へと気重く出発する。永嘉に至るには海沿いに行くことも可能ではあるが、当時としては陸路を行くのがより安全であった。おそらく、永嘉から杭州に出て、富春へと旅をしたのであろう。喜寿は今の桐江のほとりにある富陽であるこの旅とてもけっして安楽な船旅ではなく、危険を冒してのものであったと、詩人は強調する巻二十六の「行旅」に引用される「富春の渚」の詩である。


(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)

a謝霊運永嘉ルート02

富春渚詩
#1
宵濟漁浦潭。旦及富春郭。
定山緬雲霧。赤亭無淹薄。
溯流觸驚急。臨圻阻參錯。
亮乏伯昏分。險過呂梁壑。
#2
洊至宜便習。兼山貴止托。
水があちこちから集まってくるこの場所は船の扱いを熟練することになる。そして山が連なっているので、ここからは船をおりて歩いていくことになる。
平生協幽期。淪躓困微弱。
いつもは、心ひそかに期してかなえたいと思っている、しかし途中でつまづき止めてしまう心の弱さを持っていることに困っている。
久露干祿請。始果遠遊諾。
長い間、官職に仕えて俸禄を受けることをしている、このたび初めて遠い彼の地に赴任することを承諾したのである。
宿心漸申寫。萬事俱零落。
かねてよりこころにおもっていることがしばらくのあいだ、鬱積したものが払われて心が伸びやかになるようにおもえる。まあすべてのことが草木が枯れ落ちるようになってしまうというのだろう。
懷抱既昭曠。外物徒龍蠖。

心に思い描くのは明らかで広いことなのだ、もう、自分の名誉や、名刹というものに対して、これから伸ばしていこうなんて思わず、縮んでいていいのである。

富春の渚#1
宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。
定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。
流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。
亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。
#2
洊りに至るは便習に宜しく、兼れる山には止託を貴ぶ。
平生 幽期を協げんとするも、淪躓けて微弱に困しめり。
久しく禄を干むるの請に露わせるに、始めて遠遊の諾を果たす。
宿心 漸く申ばし写しえて、万事 供に零落れぬ。
懐抱は既に昭曠として、外物は徒らに龍蠖【りょうかく】せり。

富春渚
現代語訳と訳註
(本文)  #2
洊至宜便習。兼山貴止托。
平生協幽期。淪躓困微弱。
久露干祿請。始果遠遊諾。
宿心漸申寫。萬事俱零落。
懷抱既昭曠。外物徒龍蠖。

(下し文) #2
洊りに至るは便習に宜しく、兼れる山には止託を貴ぶ。
平生 幽期を協げんとするも、淪躓けて微弱に困しめり。
久しく禄を干むるの請に露わせるに、始めて遠遊の諾を果たす。
宿心 漸く申ばし写しえて、万事 供に零落れぬ。
懐抱は既に昭曠として、外物は徒らに龍蠖【りょうかく】せり。


(現代語訳)
水があちこちから集まってくるこの場所は船の扱いを熟練することになる。そして山が連なっているので、ここからは船をおりて歩いていくことになる。
いつもは、心ひそかに期してかなえたいと思っている、しかし途中でつまづき止めてしまう心の弱さを持っていることに困っている。
長い間、官職に仕えて俸禄を受けることをしている、このたび初めて遠い彼の地に赴任することを承諾したのである。
かねてよりこころにおもっていることがしばらくのあいだ、鬱積したものが払われて心が伸びやかになるようにおもえる。まあすべてのことが草木が枯れ落ちるようになってしまうというのだろう。
心に思い描くのは明らかで広いことなのだ、もう、自分の名誉や、名刹というものに対して、これから伸ばしていこうなんて思わず、縮んでいていいのである。


(訳注)
洊至宜便習。兼山貴止托。

洊りに至るは便習に宜しく、兼れる山には止託を貴ぶ。
水があちこちから集まってくるこの場所は船の扱いを熟練することになる。そして山が連なっているので、ここからは船をおりて歩いていくことになる。
洊至 水があちこちから集まってくること。洊は仍なり。水の相よりていたり、かねて山嶮ありという。別の意味として、しきりに至る(災害・事件などが)つぎつぎにおこる。○便習 なれる。熟練する。○兼山 山が連なり、船で行けない。分水嶺。○止托 船に、船頭に託すことを止める。


平生協幽期。淪躓困微弱。
平生 幽期を協げんとするも、淪躓けて微弱に困しめり。
いつもは、心ひそかに期してかなえたいと思っている、しかし途中でつまづき止めてしまう心の弱さを持っていることに困っている。
幽期 心ひそかに期すること。淪躓 淪はさざなみ、しずむ、おちいる、ひきこむ。はつまずく、たおれる、さわる、しくじる。とどまる。


久露干祿請。始果遠遊諾。
久しく禄を干【もと】むるの請に露わせるに、始めて遠遊の諾を果たす。
長い間、官職に仕えて俸禄を受けることをしている、このたび初めて遠い彼の地に赴任することを承諾したのである。


宿心漸申寫。萬事俱零落。
宿心 漸く申ばし写しえて、万事 供に零落れぬ。
かねてよりこころにおもっていることがしばらくのあいだ、鬱積したものが払われて心が伸びやかになるようにおもえる。まあすべてのことが草木が枯れ落ちるようになってしまうというのだろう。
宿心 かねてよりこころにおもっていること。○申寫 鬱積したものが払われて心が伸びやかになること。○零落 おちぶれること。草木が枯れ落ちること。


懷抱既昭曠。外物徒龍蠖。
懐抱は既に昭曠として、外物は徒らに龍蠖【りょうかく】せり。
心に思い描くのは明らかで広いことなのだ、もう、自分の名誉や、名刹というものに対して、これから伸ばしていこうなんて思わず、縮んでいていいのである。
懷抱 懐に抱く。見識。思い考えること。○昭曠 あきらかでひろい。○外物 富貴名刹。○龍蠖 龍と尺取虫。伸び様としてちぢこまること。
ishibashi00

富春渚 #1 謝霊運<14> 詩集 376

富春渚 #1 謝霊運<14> 376

故郷の始寧で充分に精神的に、肉体的に休息した霊運は、未知の土地永嘉へと気重く出発する。永嘉に至るには海沿いに行くことも可能ではあるが、当時としては陸路を行くのがより安全であった。おそらく、永嘉から杭州に出て、富春へと旅をしたのであろう。喜寿は今の桐江のほとりにある富陽であるこの旅とてもけっして安楽な船旅ではなく、危険を冒してのものであったと、詩人は強調する巻二十六の「行旅」に引用される「富春の渚」の詩である。

(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)
 
富春渚詩 #1
宵濟漁浦潭。旦及富春郭。
わたしは夕方、漁浦の渡し場から船出した。夜どおし船旅をして、明け方、富春の街に着いた。
定山緬雲霧。赤亭無淹薄。
分水嶺の定山はまだまだ雲霧の向こうで遙かに遠い、富陽の花街の赤亭に泊まることはしない。
溯流觸驚急。臨圻阻參錯。
流れは急でそれをさかのぼる巌にせっそく接触したり、驚くような目に何度もあう、船を接岸できそうな岸へ寄せようとするのだが水流の出入りによってなかなか寄せられない。
亮乏伯昏分。險過呂梁壑。

私はあきらかに物に動じないことという心構えにはとぼしいものである、嶮しいといっても黄河随一の難関、呂梁幕府のある谷ほどのものではないので経過していく。

#2
洊至宜便習。兼山貴止托。
平生協幽期。淪躓困微弱。
久露干祿請。始果遠遊諾。
宿心漸申寫。萬事俱零落。
懷抱既昭曠。外物徒龍蠖。

富春の渚#1
宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。
定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。
流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。
亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。

#2
洊りに至るは便習に宜しく、兼れる山には止託を貴ぶ。
平生 幽期を協げんとするも、淪躓けて微弱に困しめり。
久しく禄を干むるの請に露わせるに、始めて遠遊の諾を果たす。
宿心 漸く申ばし写しえて、万事 供に零落れぬ。
懐抱は既に昭曠として、外物は徒らに龍蠖【りょうかく】せり。

富春渚
現代語訳と訳註 #1
(本文)
富春渚詩
#1
宵濟漁浦潭。旦及富春郭。
定山緬雲霧。赤亭無淹薄。
溯流觸驚急。臨圻阻參錯。
亮乏伯昏分。險過呂梁壑。


(下し文) 富春の渚#1
宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。
定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。
流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。
亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。


(現代語訳)
わたしは夕方、漁浦の渡し場から船出した。夜どおし船旅をして、明け方、富春の街に着いた。
分水嶺の定山はまだまだ雲霧の向こうで遙かに遠い、富陽の花街の赤亭に泊まることはしない。
流れは急でそれをさかのぼる巌にせっそく接触したり、驚くような目に何度もあう、船を接岸できそうな岸へ寄せようとするのだが水流の出入りによってなかなか寄せられない。
私はあきらかに物に動じないことという心構えにはとぼしいものである、嶮しいといっても黄河随一の難関、呂梁幕府のある谷ほどのものではないので経過していく。


(訳注)
富春渚
 
銭塘江の河口より40~50km上流の街。前221年、秦朝は現在の富陽、建徳、桐廬を含む地域に富春県を設置した。9年(始建国元年)、新朝を建てた王莽により誅歳県と改称されたが、後漢になると再び富春県に戻されている。225年(黄武4年)、呉は富春県の一部に建徳県、新昌県を、翌年には新登県を設置している。394年(太元19年)、東晋は簡文帝の生母宣太后の諱が鄭阿春であったことより、同字を避けるべく富陽県と改称している。

(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)
a謝霊運永嘉ルート02

宵濟漁浦潭。旦及富春郭。
宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。
わたしは夕方、漁浦の渡し場から船出した。夜どおし船旅をして、明け方、富春の街に着いた。


定山緬雲霧。赤亭無淹薄。
定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。
分水嶺の定山はまだまだ雲霧の向こうで遙かに遠い、富陽の花街の赤亭に泊まることはしない。
定山 浙江省温州に入る際の当面の目標の分水嶺の山


溯流觸驚急。臨圻阻參錯。
流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。
流れは急でそれをさかのぼる巌にせっそく接触したり、驚くような目に何度もあう、船を接岸できそうな岸へ寄せようとするのだが水流の出入りによってなかなか寄せられない。
 へり、きし。碕は曲岸頭なりと。碕は圻と通ず。


亮乏伯昏分。險過呂梁壑。
亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。
私はあきらかに物に動じないことという心構えにはとぼしいものである、嶮しいといっても黄河随一の難関、呂梁幕府のある谷ほどのものではないので経過していく。

過始寧墅 謝霊運<13> #2 詩集 375

過始寧墅 謝霊運<13> #2 詩集 375
(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)

近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場までおくりだしてくれた。
謝霊運は建康から船に乗り、無量の感慨にふけりつつ、みなれた長江を下り、永嘉への道からすこしく離れた故郷の始牢に、しばしの別れを告げるために立ち寄った。ここは、前述のごとく、霊運の生まれた土地であり、父祖を葬った地であり、名族謝氏の棍拠地であった。今、寂しく流されてゆく者にとっては、盛んであった昔を思い、感慨無量のものがあったことであろう。
その気持を歌ったのが『過始寧墅』(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)で、『文選』の巻二十六の「行旅」に撰ばれてる。38歳


過始寧墅
#1
束髪懷耿介、逐物遂推遷。違志似如昨、二紀及玆年。
 緇磷謝清曠、疲薾慙貞堅。拙疾相倚薄、還得静者便。
 剖竹守滄海、枉帆過舊山。
#2
山行窮登頓、水渉盡洄沿。
山路というものは、登り降りの限りをきわめめかくごして行くものだ、大川を渡るということは、その流れの上り下り川のかがりくねりを知りつく行くものである。
巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
巌は険しく、嶺は幾重にも繁って重なり、川の中洲を回りめぐって長くなぎさは続いている。
白雲抱幽石、緑篠媚清漣。
白雲は物さびて静かな石を抱いているようであり、緑の篠竹が清らかな漣に媚びるように揺れなびいている。まことに美しい景色である。
葺宇臨迴江、築観基曾巓。
私の別荘は、曲がりこんだ川の入り江に臨んで屋根を葺き、重なる山の頂を土台として見晴らしの楼台を築き、眺望を楽しむによい建物である。
揮手告郷曲、三載期歸旋。
しかし今は赴任の途中であるため、まもなく近所の里人に手をあげて別れを告げ、三年たてば帰って来ると約束したのである。
且爲樹枌檟、無令孤願言。
とりあえず私のために、枌(にれ)と檟(ひさぎ)の木を墳墓に樹えて、私のやがてこの地に帰って生涯を終えたいという願いにそむかないで、必ずかなえさせてほしいのである。

(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)
束髪【そくはつ】より耿介【こうかい】を懐【いだ】けるも、物を逐【お】い遂に推し遷【うつ】る。
志に違うこと昨の如きに似たるも、二紀【にき】茲【こ】の年に及ぶ。
緇磷【しりん】は清曠【せいこう】を謝【しゃ】し、疲薾【ひでつ】てて貞堅【ていけん】に慙【は】ず。
拙と疾と相い倚薄【いはく】して、還【かえ】って静者の便を得たり。
竹を剖【さ】いて滄海に守たり、帆を枉げて旧山を過【よぎ】る。

山行し 登頓【とうとん】を窮め、水渉【すいしょう】は洄沿【かいえん】を尽くせり。
巌【いわお】は峭【けわ】しく嶺は稠疊【ちゅうじゅう】し、洲【しま】は縈【めぐ】りて渚は連綿たり。
白き雲は幽石【ゆうせき】を抱き、縁篠【りょくじょう】清漣【せいれん】に媚【こび】びたり。
字【う】を葺【ふ】き廻江【かいこう】に臨み、観【かん】を築き曾巓【そうてん】に基づく。
手を揮い郷曲【きょうきょく】に告げ、三載にして帰旋【きせん】を期す。
且く為に枌檟【ふんか】とを樹えよ、願言【がんげん】に孤【そむ】か令むる無かれ。


(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)


現代語訳と訳註
(本文) #2
山行窮登頓、水渉盡洄沿。
巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
白雲抱幽石、緑篠媚清漣。
葺宇臨迴江、築観基曾巓。
揮手告郷曲、三載期歸旋。
且爲樹枌檟、無令孤願言。


(下し文) (始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)
山行し 登頓【とうとん】を窮め、水渉【すいしょう】は洄沿【かいえん】を尽くせり。
巌【いわお】は峭【けわ】しく嶺は稠疊【ちゅうじゅう】し、洲【しま】は縈【めぐ】りて渚は連綿たり。
白き雲は幽石【ゆうせき】を抱き、縁篠【りょくじょう】清漣【せいれん】に媚【こび】びたり。
字【う】を葺【ふ】き廻江【かいこう】に臨み、観【かん】を築き曾巓【そうてん】に基づく。
手を揮い郷曲【きょうきょく】に告げ、三載にして帰旋【きせん】を期す。
且く為に枌檟【ふんか】とを樹えよ、願言【がんげん】に孤【そむ】か令むる無かれ。



(現代語訳)
山路というものは、登り降りの限りをきわめめかくごして行くものだ、大川を渡るということは、その流れの上り下り川のかがりくねりを知りつく行くものである。
巌は険しく、嶺は幾重にも繁って重なり、川の中洲を回りめぐって長くなぎさは続いている。
白雲は物さびて静かな石を抱いているようであり、緑の篠竹が清らかな漣に媚びるように揺れなびいている。まことに美しい景色である。
私の別荘は、曲がりこんだ川の入り江に臨んで屋根を葺き、重なる山の頂を土台として見晴らしの楼台を築き、眺望を楽しむによい建物である。
しかし今は赴任の途中であるため、まもなく近所の里人に手をあげて別れを告げ、三年たてば帰って来ると約束したのである。
とりあえず私のために、枌(にれ)と檟(ひさぎ)の木を墳墓に樹えて、私のやがてこの地に帰って生涯を終えたいという願いにそむかないで、必ずかなえさせてほしいのである。

宮島(5)

(訳注)#2
山行窮登頓、水渉盡洄沿。
山路というものは、登り降りの限りをきわめめかくごして行くものだ、大川を渡るということは、その流れの上り下り川のかがりくねりを知りつく行くものである。
登頓 登り降り。○削沿 さかのぼるを駆、順い下るを沿という。沈徳潜はいう「登頓回沿は山水に遊ぶに老れたる者に非ずんば知らず」と。
 

巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
巌は険しく、嶺は幾重にも繁って重なり、川の中洲を回りめぐって長くなぎさは続いている。
巌峭 巌はそそりたち険しい。○稠疊 しげくかさなる。


白雲抱幽石、緑篠媚清漣。
白雲は物さびて静かな石を抱いているようであり、緑の篠竹が清らかな漣に媚びるように揺れなびいている。まことに美しい景色である。
 ささ。小竹。 ○清漣 清らかなさざなみ。 


葺宇臨迴江、築観基曾巓。
私の別荘は、曲がりこんだ川の入り江に臨んで屋根を葺き、重なる山の頂を土台として見晴らしの楼台を築き、眺望を楽しむによい建物である。
葺宇 家の屋根を葺く。○築観 見晴らしのきく高殿を築く。○基層轍 重なる高嶺を土台にする。


揮手告郷曲、三載期歸旋。
しかし今は赴任の途中であるため、まもなく近所の里人に手をあげて別れを告げ、三年たてば帰って来ると約束したのである。
揮手。てを挙げ。○郷曲 片田舎。曲はかたよったところ。近所の里人。三載 足かけ三年。○期歸旋 帰ってくるとい約束。

且爲樹枌檟、無令孤願言。
とりあえず私のために、枌(にれ)と檟(ひさぎ)の木を墳墓に樹えて、私のやがてこの地に帰って生涯を終えたいという願いにそむかないで、必ずかなえさせてほしいのである。
○樹枌檟 枌(にれ・白楡:『詩経』「楡白枌」)と檟(ひさぎ)両方とも覆い被さるように茂る。墳墓を守るという意味。「始め季孫己のために六檟を東門の外に樹う」と。檟は自ら棺と為らんと欲するなり」と。○孤朗言 願いにそむく。孤はそむく。言は肋字。 




minamo008

巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
白雲抱幽石、緑篠媚清漣。

永嘉に行く前に寸暇を得て故郷に立ち寄ったときの美しきを感慨をこめて歌う。すなわち、登った山、過ぎた川、遠くに望んだ山、見た水辺、空に浮かぶ雲、川辺の篠、進かなる民家、まさに平和につつまれた風景であり、一幅の絵のようである。この部分が後世、謝霊運の山水詩といわれるものである。しかし洒落運はこの詩において、この部分がその主体としたのではない。謝霊運の湧き出ずる感情を歌うための添えものであるからいいのである。この美しい故郷に、三年したら帰って来るよ、とその句末で歌っている。

故郷の始寧で充分に精神的に、肉体的に休息した謝霊運は、未知の土地永嘉へと気重く出発する。永嘉に至るには海沿いに行くことも可能ではあるが、当時としては陸路を行くのがより安全であった。おそらく、永嘉から杭州に出て、富春へと旅をしたのであろう。喜寿は今の桐江のほとりにある富陽『富春渚』である。

過始寧墅 謝霊運<13> #1 詩集 374

過始寧墅 謝霊運<13> #1 詩集 374

近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場までおくりだしてくれた。
謝霊運は建康から船に乗り、無量の感慨にふけりつつ、みなれた長江を下り、永嘉への道からすこしく離れた故郷の始牢に、しばしの別れを告げるために立ち寄った。ここは、前述のごとく、霊運の生まれた土地であり、父祖を葬った地であり、名族謝氏の棍拠地であった。今、寂しく流されてゆく者にとっては、盛んであった昔を思い、感慨無量のものがあったことであろう。
その気持を歌ったのが『過始寧墅』(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)で、『文選』の巻二十六の「行旅」に撰ばれてる。38歳

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過始寧墅#1
束髪懷耿介、逐物遂推遷。
髪を結い元服して朝廷に仕える身となって以來、潔白で堅い節操を守ってきたつもりであった、自分以外の物に引かれてしまうとか、物事にかこつけて引き延ばしてしまうということで過ぎてしまった。
違志似如昨、二紀及玆年。
心ならずも、このような生活に入ったのは、つい昨日のように思えるのに、二十四年も過ぎてこの年になった。
緇磷謝清曠、疲薾慙貞堅。
本性の白い色も黒く染まり、堅い石も磨り減って薄くなるように、私の心が俗事のために汚れて磨り切れてしまったことを、清らかにむなしく広い心の人物に対して謝まり、また疲れ切って心も弱くなってしまったことを、己がみさおを正しく堅く守っている人に対して慙じるのである。
拙疾相倚薄、還得静者便。
それでも世渡りの下手なことと病気とが相寄り一緒になって、閑職に任ぜられたことが、かえってそのために静かに人間の本性を求めるための方使を得るという結果になったのである。 
剖竹守滄海、枉帆過舊山。

竹の割符を剖き与えられ、海岸の地方の永嘉の太守に任ぜられて赴任する途中で、舟の帆の行く手を枉げて、私は故郷に立ち寄ることにした。


#2
 山行窮登頓、水渉盡洄沿。
 巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
 白雲抱幽石、緑篠媚清漣。
 葺宇臨迴江、築観基曾巓。
 揮手告郷曲、三載期歸旋。
 且爲樹枌檟、無令孤願言。

(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)
束髪【そくはつ】より耿介【こうかい】を懐【いだ】けるも、物を逐【お】い遂に推し遷【うつ】る。
志に違うこと昨の如きに似たるも、二紀【にき】茲【こ】の年に及ぶ。
緇磷【しりん】は清曠【せいこう】を謝【しゃ】し、疲薾【ひでつ】てて貞堅【ていけん】に慙【は】ず。
拙と疾と相い倚薄【いはく】して、還【かえ】って静者の便を得たり。
竹を剖【さ】いて滄海に守たり、帆を枉げて旧山を過【よぎ】る。

山行し 登頓【とうとん】を窮め、水渉【すいしょう】は洄沿【かいえん】を尽くせり。
巌【いわお】は峭【けわ】しく嶺は稠疊【ちゅうじゅう】し、洲【しま】は縈【めぐ】りて渚は連綿たり。
白き雲は幽石【ゆうせき】を抱き、縁篠【りょくじょう】清漣【せいれん】に媚【こび】びたり。
字【う】を葺【ふ】き廻江【かいこう】に臨み、観【かん】を築き曾巓【そうてん】に基づく。
手を揮い郷曲【きょうきょく】に告げ、三載にして帰旋【きせん】を期す。
且く為に枌檟【ふんか】とを樹えよ、願言【がんげん】に孤【そむ】か令むる無かれ。

keikoku00

過始寧墅
現代語訳と訳註
(本文)
#1
束髪懷耿介、逐物遂推遷。
違志似如昨、二紀及玆年。
緇磷謝清曠、疲薾慙貞堅。
拙疾相倚薄、還得静者便。
剖竹守滄海、枉帆過舊山。


(下し文)
(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)
束髪【そくはつ】より耿介【こうかい】を懐【いだ】けるも、物を逐【お】い遂に推し遷【うつ】る。
志に違うこと昨の如きに似たるも、二紀【にき】茲【こ】の年に及ぶ。
緇磷【しりん】は清曠【せいこう】を謝【しゃ】し、疲薾【ひでつ】てて貞堅【ていけん】に慙【は】ず。
拙と疾と相い倚薄【いはく】して、還【かえ】って静者の便を得たり。
竹を剖【さ】いて滄海に守たり、帆を枉げて旧山を過【よぎ】る。


(現代語訳)
髪を結い元服して朝廷に仕える身となって以來、潔白で堅い節操を守ってきたつもりであった、自分以外の物に引かれてしまうとか、物事にかこつけて引き延ばしてしまうということで過ぎてしまった。
心ならずも、このような生活に入ったのは、つい昨日のように思えるのに、二十四年も過ぎてこの年になった。
本性の白い色も黒く染まり、堅い石も磨り減って薄くなるように、私の心が俗事のために汚れて磨り切れてしまったことを、清らかにむなしく広い心の人物に対して謝まり、また疲れ切って心も弱くなってしまったことを、己がみさおを正しく堅く守っている人に対して慙じるのである。
それでも世渡りの下手なことと病気とが相寄り一緒になって、閑職に任ぜられたことが、かえってそのために静かに人間の本性を求めるための方使を得るという結果になったのである。 
竹の割符を剖き与えられ、海岸の地方の永嘉の太守に任ぜられて赴任する途中で、舟の帆の行く手を枉げて、私は故郷に立ち寄ることにした。


(訳注)
過始寧墅 
#1
過姶寧墅 浙江省上虞県の別墅に立ち寄る。謝霊運の父祖の墓や故宅がある。墅は田野の中の居所。別業。


束髪懷耿介、逐物遂推遷。
髪を結い元服して朝廷に仕える身となって以來、潔白で堅い節操を守ってきたつもりであった、自分以外の物に引かれてしまうとか、物事にかこつけて引き延ばしてしまうということで過ぎてしまった。
束髪 髪を結い元服して朝廷に仕える。成人。 ○耿介 ①かたく志を守ること。 ②徳が光り輝いて偉大なさま。 裏表なく節燥の固いこと。○逐物 自分以外の物に引かれる。志を枉げることがない。○推遷 物事にかこつけて引き延ばす。推し遷る。38歳の時の作


違志似如昨、二紀及玆年。
心ならずも、このような生活に入ったのは、つい昨日のように思えるのに、二十四年も過ぎてこの年になった。
違志 平素の志にそむく。○二紀二十四年。一紀は十二年。二十歳で成人して24歳を単純にプラスすると44歳になるが、二回目の紀を迎えている。詩的表現では一紀12年、38歳-20歳-12歳=6歳 一紀12年の半分を超えていれば二紀と表現する。


緇磷謝清曠、疲薾慙貞堅。
本性の白い色も黒く染まり、堅い石も磨り減って薄くなるように、私の心が俗事のために汚れて磨り切れてしまったことを、清らかにむなしく広い心の人物に対して謝まり、また疲れ切って心も弱くなってしまったことを、己がみさおを正しく堅く守っている人に対して慙じるのである。
緇磷【しりん】 黒くなることと、薄くなること。世俗のためにその節操を誤ること。『諭語、陽賈』「ふ曰堅乎、磨而不磷。不曰白乎、涅而不緇。」(堅きを曰はずや、磨すれども磷【うすろ】がざる。白きを曰はずや、涅すれども緇【くろ】まざる。)と。○謝清啖 心が清く物にこだわらず広くむなしい人に、謝まり、中し訳なく思う。○疲薾【ひでつ】 疲れ切って心も弱くなったこと。○貞堅【ていけん】 みさおを正しく堅く守る人。


拙疾相倚薄、還得静者便。
それでも世渡りの下手なことと病気とが相寄り一緒になって、閑職に任ぜられたことが、かえってそのために静かに人間の本性を求めるための方使を得るという結果になったのである。 
拙疾椙倚薄 役人としての世渡りが下手なのと病気とが相寄り一緒になり、閑職にある。薄はくっつく。 


剖竹守滄海、枉帆過舊山。
竹の割符を剖き与えられ、海岸の地方の永嘉の太守に任ぜられて赴任する途中で、舟の帆の行く手を枉げて、私は故郷に立ち寄ることにした。
剖竹 郡守どなること。漢の制度では、竹の節を割って片方を使いに持たせて証拠とした。○滄海 永嘉郡、海に臨む地方。自分が隠棲したいと思っているところ。○柱帆 舟路をまげる。○過旧山 故郷に立ち寄る。 

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<12> 鄰里相送至方山 詩集 373

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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<12> 鄰里相送至方山 詩集 373

(鄰里相【あい】送って方山【ほうざん】に至る)

鄰里相送至方山
近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場に至る。
祗役出皇邑,相期憩甌越。
わたしは遠国を守る役目をつつしみ帝都建業を出て、甌越の永嘉郡に行って休息しようと心にきめていた。
解纜及流潮,懷舊不能發。
船の艫綱を解いて、長江の流れる潮に及んでも、旧知の人々を懐って出発することができない。
析析就衰林,皎皎明秋月。
木樹の間をサアッと吹き鳴る風が枯れた林をとおりぬけ、こうこうと白く輝いて秋の月が明るくてらす。
含情易為盈,遇物難可歇。
別離の悲しい心の内を口には出さないが胸に一杯になりやすくなっている、この風物に遇っては言わずにやめることは出来にくい。
積痾謝生慮,寡欲罕所闕。
積る病気のためにとか、生存のためとかいって、こいねがう気持ちをも捨てている、もともと欲望はもとからないので、不足を覚えることはほとんどない。
資此永幽棲,豈伊年歲別。
これを力にして永久に世を捨てて静かに隠居しようと思う。どうしてまた会うこともあろうというのに、これが千歳の長い別れであろうか。
各勉日新志,音塵慰寂蔑。
各人日々に新たに進歩するように道に努めて志し、時には音信をして、寂しく孤独な私を尉さめて欲しい。


(鄰里相【あい】送って方山【ほうざん】に至る)
役を祗【つつ】みて皇邑【こういう】を出で、相い期して甌越【おうrつ】に憩【いこ】う。
濃を解いて流れる潮に及ばんとするも、旧を懐いて発する能わず。
析折【せきせき】として衰林【すいりん】に就【つ】き、皎皎【こうこう】として秋月【しゅうげつ】明かなり。
情を含んで盈つるを為し易く、物に遇いて歇む可きこと難し。
積疴【せきあ】もて生慮【せいりょ】を謝【しゃ】し、寡欲【かよく】闕【か】くる所 罕【まれ】なり。
此に資【よ】りて永く幽棲【ゆうせい】せん、豈に伊【こ】れ年歳の別れならんや。
各々日新の志に勉【つと】め、音塵【おんじん】寂蔑【せきべつ】を慰めよ。



現代語訳と訳註
(本文)

祗役出皇邑,相期憩甌越。
解纜及流潮,懷舊不能發。
析析就衰林,皎皎明秋月。
含情易為盈,遇物難可歇。
積痾謝生慮,寡欲罕所闕。
資此永幽棲,豈伊年歲別。
各勉日新志,音塵慰寂蔑。

(下し文) (鄰里相【あい】送って方山【ほうざん】に至る)

役を祗【つつ】みて皇邑【こういう】を出で、相い期して甌越【おうrつ】に憩【いこ】う。
濃を解いて流れる潮に及ばんとするも、旧を懐いて発する能わず。
析折【せきせき】として衰林【すいりん】に就【つ】き、皎皎【こうこう】として秋月【しゅうげつ】明かなり。
情を含んで盈つるを為し易く、物に遇いて歇む可きこと難し。
積疴【せきあ】もて生慮【せいりょ】を謝【しゃ】し、寡欲【かよく】闕【か】くる所 罕【まれ】なり。
此に資【よ】りて永く幽棲【ゆうせい】せん、豈に伊【こ】れ年歳の別れならんや。
各々日新の志に勉【つと】め、音塵【おんじん】寂蔑【せきべつ】を慰めよ。


(現代語訳)
近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場に至る。
わたしは遠国を守る役目をつつしみ帝都建業を出て、甌越の永嘉郡に行って休息しようと心にきめていた。
船の艫綱を解いて、長江の流れる潮に及んでも、旧知の人々を懐って出発することができない。
木樹の間をサアッと吹き鳴る風が枯れた林をとおりぬけ、こうこうと白く輝いて秋の月が明るくてらす。
別離の悲しい心の内を口には出さないが胸に一杯になりやすくなっている、この風物に遇っては言わずにやめることは出来にくい。
積る病気のためにとか、生存のためとかいって、こいねがう気持ちをも捨てている、もともと欲望はもとからないので、不足を覚えることはほとんどない。
これを力にして永久に世を捨てて静かに隠居しようと思う。どうしてまた会うこともあろうというのに、これが千歳の長い別れであろうか。
各人日々に新たに進歩するように道に努めて志し、時には音信をして、寂しく孤独な私を尉さめて欲しい。


(訳注)
鄰里相送至方山

近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場に至る。
方山 江蘇省江寧県東五十里 (87km) 。280年(太康元年)、西晋により秣陵県より分割設置された臨江県を前身とする。翌年江寧県と改称された。 ○鄰里相送 近所の人が自分を送る。


祗役出皇邑,相期憩甌越。
わたしは遠国を守る役目をつつしみ帝都建業を出て、甌越の永嘉郡に行って休息しようと心にきめていた。
祗役 役をつつしむ。遠国を守る役目を大切に思う。○皇邑 帝都建業。(後、南京)○相期 心にきめる。 ○甌越 永嘉郡。古の東越の都。越の別名。 


解纜及流潮,懷舊不能發。
船の艫綱を解いて、長江の流れる潮に及んでも、旧知の人々を懐って出発することができない。


析析就衰林,皎皎明秋月。
木樹の間をサアッと吹き鳴る風が枯れた林をとおりぬけ、こうこうと白く輝いて秋の月が明るくてらす。
析析 風が木を吹く音。○皎皎 白く輝くさま。


含情易為盈,遇物難可歇。
別離の悲しい心の内を口には出さないが胸に一杯になりやすくなっている、この風物に遇っては言わずにやめることは出来にくい。
含情 別れの心情を口に出さず心に思う。


積痾謝生慮,寡欲罕所闕。
積る病気のためにとか、生存のためとかいって、こいねがう気持ちをも捨てている、もともと欲望はもとからないので、不足を覚えることはほとんどない。
○叙絢 久しい病気。 ○謝生慮 生存のための顧慮。○所闘 不満足なこと。 


資此永幽棲,豈伊年歲別。
これを力にして永久に世を捨てて静かに隠居しようと思う。どうしてまた会うこともあろうというのに、これが千歳の長い別れであろうか。
千歳別 千歳の長い別れ。


各勉日新志,音塵慰寂蔑。
各人日々に新たに進歩するように道に努めて志し、時には音信をして、寂しく孤独な私を尉さめて欲しい。
日新志 日々に徳を新たに修養する志。周易に「日々に其の徳を新たにす」と。
音塵 音信。消息。 ○寂蔑 寂しい孤独。蔑は無。一に「寂滅」に作る。


この詩は、悲しげに別れの歌を歌う。孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 永初三年七月十六日之郡初発都 詩集 370、晩夏には都を出発しようと準備をしていたが、なかなか去りがたく、ぐずぐずしているうちに秋となってしまったが、それでも別れがたいと、別離の情を実に巧みに歌う。そして、「積痾」とは持病のことで、謝霊運は若いときからあまりじょうぶではなかったことをいう。それゆえ、すでに長生きのできないことを意識していたらしい。
しかし、欲望も少ないので、心に不満も少ないと唱うのは、彼の行為からみると、他人にははなはだしく理解しがたい。心のの奥底に隠棲の気持ちを持ちつづけることが、野心、謙信さの薄さを感じさせ、当時の高級官僚に理解のできないことであったのであろう。

単に、金持の気ままなわがままな謝霊運という説もあるが、そうではないとおもっている。ここにも彼に不幸を生じさせた原因の一つがあったと思う。何年いっていなければならないかもしれぬ永嘉での生活の寂しさと不安を、悲しげに親友たちに告げている。永嘉は瘴癘の地なのである。そして、この悲しみを慰めるために手紙ぐらいはください、と結んでいる。が、謝霊運の左遷されてゆく苦しさ、悲しさを、実に巧みに歌っている。中国の知識人はこのようなことを多く経験しているのである。上が変われば、それまでのものはすべて左遷されるものである。
門閥貴族政治には明日には左遷というものがついて回った。しかし謝霊運は詩文にすることで多くの人々に理解をされたのである。

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