漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
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漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

五言律詩

盛唐詩 晚泊潯陽望廬山 孟浩然<39> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -346

盛唐詩 晚泊潯陽望廬山 孟浩然<39> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -346


卷160_51 「晚泊潯陽望廬山」孟浩然

晩泊潯陽望香爐峰
掛席幾千里,名山都未逢。
帆を上げて幾千里漂泊の旅をしているのだろう、この名山のことは都で聞いてはいたがまだ見てはいないのだ。
泊舟潯陽郭,始見香爐峰。
夕暮れてきたので船を潯陽の湊に停泊させる。するとどうだろう初めて香爐峰を見ることができたのだ。
嘗讀遠公傳,永懷塵外蹤。
この廬山にはあこがれて読んだ慧遠の仏教書や伝記にちなんだ土地である。わたしはこれまで長い間遠公の俗世を隠遁し「塵外」にしてその足跡を残されたことに思いをはせるのである。
東林精舍近,日暮但聞鐘。
その東林精舎近くに来ている。日暮れてくると黄昏(こうこん)の座禅をしてるのだろう、わたしはただひたすら「空」になって鐘の音を聞いている。

晩 潯陽に泊して香爐峰を望む
席を掛けて幾千里、名山 都て未だ逢はず。
舟を潯陽の郭に泊め、始めて香爐峰を見たり。
嘗て遠公の伝を読み、永く塵外の蹤を懐く。
東林精舎近く、日暮れて 但【た】だ 鐘を聞けり。

韓愈の地図00


現代語訳と訳註
(本文)
晩泊潯陽望香爐峰
掛席幾千里,名山都未逢。
泊舟潯陽郭,始見香爐峰。
嘗讀遠公傳,永懷塵外蹤。
東林精舍近,日暮但聞鐘。


(下し文) 晩 潯陽に泊して香爐峰を望む
席を掛けて幾千里、名山 都て未だ逢はず。
舟を潯陽の郭に泊め、始めて香爐峰を見たり。
嘗て遠公の伝を読み、永く塵外の蹤を懐く。
東林精舎近く、日暮れて 但【た】だ 鐘を聞けり。


(現代語訳)
帆を上げて幾千里漂泊の旅をしているのだろう、この名山のことは都で聞いてはいたがまだ見てはいないのだ。
夕暮れてきたので船を潯陽の湊に停泊させる。するとどうだろう初めて香爐峰を見ることができたのだ。
この廬山にはあこがれて読んだ慧遠の仏教書や伝記にちなんだ土地である。わたしはこれまで長い間遠公の俗世を隠遁し「塵外」にしてその足跡を残されたことに思いをはせるのである。
その東林精舎近くに来ている。日暮れてくると黄昏(こうこん)の座禅をしてるのだろう、わたしはただひたすら「空」になって鐘の音を聞いている。


(訳注)
掛席幾千里,名山都未逢。

帆を上げて幾千里漂泊の旅をしているのだろう、この名山のことは都で聞いてはいたがまだ見てはいないのだ。
○掛 帆をあげる。旅をいう。旅の基本は船である。席はむしろ。謝霊運『游赤石進帆海詩』「揚帆采石華、掛席拾海月。」(帆を揚げて石華を采り、席を掛げて海月を拾う。)仕官を諦めて会稽・天台・銭塘江に遊ぶのであるが襄陽から漢水を下り長江に入り潯陽に入ったことをしめす。この時、謝霊運の詩のイメージをもって詠う詩が多い。


泊舟潯陽郭,始見香爐峰。
夕暮れてきたので船を潯陽の湊に停泊させる。するとどうだろう はじめて香爐峰を見ることができたのだ。
潯陽 現在の江西省の揚子江岸九江市付近に置かれた郡と県の名称。この付近で揚子江は潯陽江とよばれ、白居易の「琵琶(びわ)行」に歌われた。 城郭。街。○香爐峰廬山 主峰で江西省最高峰。海抜1,474メートル。九江の南にそびえる名山。北は長江、東から南にかけては鄱陽湖と、三方が水にのぞみ、西は陸地に臨む。奇峰が多く天下の璧号いわれる。○香炉峰 廬山の西北の峰で、細長くて尖が円く、ちょうど香炉(香を焚く糞)に似ている。
廬山は断層の運動によって地塊が周囲からせりあがった断層地塊山地であり、その中に川や谷、湖沼、峰など多様な相貌をもつ。中国における第四紀の氷河が形成した地形の典型とも評され、この観点からジオパーク(世界地質公園)に指定されている。主峰の漢陽峰(大漢陽峰)は海抜が1,474メートルであるが、その周囲には多数の峰がそびえ、その間に渓谷、断崖絶壁、瀑布、洞窟など複雑な地形が生じている。
五老峰: 海抜1,436メートルの奇岩の峰。形が、五人の老人が座っているように見えることからきている。
漢陽峰: ピラミッド状の形をした廬山の主峰で江西省最高峰。海抜1,474メートル。
香炉峰: 白居易の詩の一節(「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」)や『枕草子』への引用などで知られる。
三畳泉: 落差155メートルの大きな滝。
龍首崖: 空中に突き出した崖。明代の寺院・天池寺の跡地に近い。
含鄱口: 五老峰と太乙峰の間の谷間。鄱陽湖に面しているため、湖からの水蒸気がここで霧となって峰々を覆い隠している。


嘗讀遠公傳,永懷塵外蹤。
この廬山にはあこがれて読んだ慧遠の仏教書や伝記にちなんだ土地である。わたしはこれまで長い間遠公の俗世を隠遁し「塵外」にしてその足跡を残されたことに思いをはせるのである。
遠公傳 慧遠(えおん、334年 - 416年)は、中国の東晋、廬山に住んだ高僧。隋代、浄影寺の慧遠と区別して廬山の慧遠とも呼ばれる。俗姓は賈氏。中国仏教界の中心的人物の一人である。『高僧伝』巻6「晋廬山釈慧遠伝」がある。


東林精舍近,日暮但聞鐘。
その東林精舎近くに来ている。日暮れてくると黄昏(こうこん)の読経をしてるのだろう、わたしはただひたすら「空」になって鐘の音を聞いている。
東林精舍 慧遠は46,7歳で西林寺から東林寺に移り、48歳の時に開祖となる。以来92歳で亡くなるまで、山を下りなかったということになっている。。
<虎渓三笑>儒教、仏教、道教の三人の賢者が話しに夢中のあまり、気がつくと思いも掛けないところまで来ていたという故事に基づいている。 中国浄土教の開祖で廬山(江西省にある山)の東林精舎の主、慧遠(えおん)法師は来客を見送る際は精舎の下の虎渓という谷川の手前で足を止めまだ虎渓を渡ったことがなかった。 ところがある日、詩人・陶淵明(とうえんめい)と道士の陸修静(りくしゅうせい)の二文人高士を見送った時には、話に夢中で虎渓を越えてしまい虎の吠える声を聞いて初めてそれと気づいた三人はここで大笑をしたという. ○【た】だ 1.ひとり、それだけ。もっぱら、ひたすら。しかし。いたずらに、むなしく。2.おおよそ。すべて。3.かたぬぐ。4.ほしいまま。5.たわむ。別には「空」と作る。その場合も仏教的な空として「空」として聞く、雑念を払って、、煩悩を討ち消す巣鐘の音をひたすら聞くだけということである。○
『夏日辮玉法師茅齋』
夏日茅齋裏,無風坐亦涼。竹林深筍穊,籐架引梢長。
燕覓巢窠處,蜂來造蜜房。物華皆可玩,花蕊四時芳。
(夏日 辮玉法師の茅齋にて)
夏日 茅齋の裏、風無けれども坐すれば亦た涼し。竹林深筍穊おお)く、籐架 梢を引きて長し。
燕は巢窠の處を覓め、蜂は蜜を造る房に來たる。物華 皆翫ぶべし、花蕊  四時 芳し。
四時 ・1年の四つの季節、春夏秋冬の総称。四季。・1か月中の四つの時。(かい)・(さく)・弦・望。・一日中の4回の読経の時。早晨(そうしん)(朝午前4時)・晡時(ほじ)(昼午前10時)・黄昏(こうこん)(夕方午後8時)・後夜(ごや)(夜午後8時)の座禅。ここでは一日中の4回の読経のとき。

盛唐詩 游鳳林寺西嶺 孟浩然<38> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -345

盛唐詩 游鳳林寺西嶺 孟浩然<38> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -345

(鳳林寺の西嶺に遊ぶ)
卷160_58 「游鳳林寺西嶺」孟浩然



游鳳林寺西嶺
共喜年華好,來游水石間。
長い冬が過ぎ共に春のうららかな日差しになったことを喜んでいる、自然の中に入り込むと清々しい水が岩間を流れている。
煙容開遠樹,春色滿幽山。
春の霞で覆われていた遠くの山の木樹までみえるほど霞が晴れてくる、すると、万物の芽吹く春景色の色か奥深い山にまでいっぱいに満ちているではないか。
壺酒朋情洽,琴歌野興閑。
壷の酒は友情を確かめるものであり、酒を酌み、杯を挙げようではないか。琴を弾き、歌を歌うことは、その音が野外の自然おなかに広がって興雅な気持ちにしてくれる。
莫愁歸路暝,招月伴人還。

とことん飲んだから帰り道は暗くなったけれどそれを愁うるものではない、月が出るまで呑んでいよう、そうすれば我々に月を付き添わせて一緒に帰れば良いではないか。


(鳳林寺の西嶺に遊ぶ)
共に年華【ねんか】の好【よ】きを喜び、来たりて遊ぶ水石の間。
煙容【えんよう】 遠樹を開き、春色 幽山に満つ。
壷酒 朋情 洽【ごう】し、琴歌 野興【やきょう】 閑なり。
愁う莫かれ 帰路の瞑【くら】きを、月を招き人を伴いて還らん。 
 

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現代語訳と訳註
(本文) 游鳳林寺西嶺
共喜年華好,來游水石間。
煙容開遠樹,春色滿幽山。
壺酒朋情洽,琴歌野興閑。
莫愁歸路暝,招月伴人還。


(下し文)
(鳳林寺の西嶺に遊ぶ)
共に年華【ねんか】の好【よ】きを喜び、来たりて遊ぶ水石の間。
煙容【えんよう】 遠樹を開き、春色 幽山に満つ。
壷酒 朋情 洽【ごう】し、琴歌 野興【やきょう】 閑なり。
愁う莫かれ 帰路の瞑【くら】きを、月を招き人を伴いて還らん。 


(現代語訳)
長い冬が過ぎ共に春のうららかな日差しになったことを喜んでいる、自然の中に入り込むと清々しい水が岩間を流れている。
春の霞で覆われていた遠くの山の木樹までみえるほど霞が晴れてくる、すると、万物の芽吹く春景色の色か奥深い山にまでいっぱいに満ちているではないか。
壷の酒は友情を確かめるものであり、酒を酌み、杯を挙げようではないか。琴を弾き、歌を歌うことは、その音が野外の自然おなかに広がって興雅な気持ちにしてくれる。
とことん飲んだから帰り道は暗くなったけれどそれを愁うるものではない、月が出るまで呑んでいよう、そうすれば我々に月を付き添わせて一緒に帰れば良いではないか。

木瓜00


(訳注)
共喜年華好,來游水石間。
 【首聯】
長い冬が過ぎ共に春のうららかな日差しになったことを喜んでいる、自然の中に入り込むと清々しい水が岩間を流れている。
年華 年月。春のひかり。青春のころ。寿命。


煙容開遠樹,春色滿幽山。 【頷聯】
春の霞で覆われていた遠くの山の木樹までみえるほど霞が晴れてくる、すると、万物の芽吹く春景色の色か奥深い山にまでいっぱいに満ちているではないか。
煙容 霞によって作り出された容貌。霞が雲海のように覆っている景色を連想させる。其れが晴れると、近くの林澗の水から木々、遠くの木樹まで春景色になっている。「煙容」によって強調されたのである。


壺酒朋情洽,琴歌野興閑。 【頸聯】
壷の酒は友情を確かめるものであり、酒を酌み杯を挙げようではないか、琴を弾き、歌を歌うことは、その音が野外の自然おなかに広がって興雅な気持ちにしてくれる。
 あう。かなう。つうじる。『詩経、大雅、江漢』「洽此四国。」(此の四国を洽う。)○ のどか。みやびやか。うるわしい。『文選、賈誼、鵬鳥賦』「貌甚閑暇。」(貌は甚だ閑暇。)―善曰く、閑暇は驚き恐れざるなり。-


莫愁歸路暝,招月伴人還。 【尾聯】
とことん飲んだから帰り道は暗くなったけれどそれを愁うるものではない、月が出るまで呑んでいよう、そうすれば我々に月を付き添わせて一緒に帰れば良いではないか。


万物との同化、万物の目ぶときを楽しむ風流、あるいは、道教の「道」の生き方、今この時を楽しむことを感じる詩で、李白の世界観と共通している。春、酒を題材にするとそうなるのであろうか。孟浩然の特徴である大パノラマは頷聯の「煙容」という語であろう。
 第ハ句の「月」は、まだ孟浩然の目の前には現れていない。夜が更けて滞り道が判らなくなったら、月を招いて我々を連れていってもらおう、というのである。
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盛唐詩 宿桐廬江寄廣陵舊遊 孟浩然<37> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -347

盛唐詩 宿桐廬江寄廣陵舊遊 孟浩然<37> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -347
宿桐廬江寄廣陵舊遊    孟浩然


宿桐廬江寄廣陵舊遊
桐建德(浙江省桐廬県の南)は、わたしの故郷とか寓居とするところではなく、昔出かけた廣陵の人ことを思い出して作る詩。
山暝聽猿愁,滄江急夜流。
建德附近の桐廬江一帯の山は暗くなって猿のもの悲しい鳴き声を聽きいってしまう、青々として深い銭塘江は流れが急で夜もその流れがわかる。
風鳴兩岸葉,月照一孤舟。
風は鳴り、兩岸が移動し、木の葉がゆれる。月は輝きを増し、ただ一人の旅人が孤舟にいる。
建德非吾土,維揚憶舊遊。
建德は、わたしの住まいとするところではない。維揚に昔出かけたときの人のことを思い出している。 
還將兩行涙,遙寄海西頭。

その時も泣いたが、なおまた、二筋の涙をながし、遙かに海西の青海湖のほとりのあなたの許(もと)に、この詩文を差しだそう。


桐廬江に宿して 廣陵の舊遊に寄す     
山 暝【くらく】して 猿愁を聽き,滄江【そうこう】 急ぎて夜に流る。
風は鳴る 兩岸の葉,月は照らす 一孤舟【しゅう】。
建德【けんとく】は 吾が土【と】に非ず,維揚【いよう】は 舊遊を憶ふ。
還【また】 兩行の涙を將【もっ】て,遙かに 海西【かいせい】の頭【ほとり】に寄す。


 現代語訳と訳註
(本文)
宿桐廬江寄廣陵舊遊
山暝聽猿愁,滄江急夜流。
風鳴兩岸葉,月照一孤舟。
建德非吾土,維揚憶舊遊。
還將兩行涙,遙寄海西頭。

(下し文)
桐廬江に宿して 廣陵の舊遊に寄す     
山 暝【くらく】して 猿愁を聽き,滄江【そうこう】 急ぎて夜に流る。
風は鳴る 兩岸の葉,月は照らす 一孤舟【しゅう】。
建德【けんとく】は 吾が土【と】に非ず,維揚【いよう】は 舊遊を憶ふ。
還【また】 兩行の涙を將【もっ】て,遙かに 海西【かいせい】の頭【ほとり】に寄す。


(現代語訳)
桐建德(浙江省桐廬県の南)は、わたしの故郷とか寓居とするところではなく、昔出かけた廣陵の人ことを思い出して作る詩。

建德附近の桐廬江一帯の山は暗くなって猿のもの悲しい鳴き声を聽きいってしまう、青々として深い銭塘江は流れが急で夜もその流れがわかる。
風は鳴り、兩岸が移動し、木の葉がゆれる。月は輝きを増し、ただ一人の旅人が孤舟にいる。
建德は、わたしの住まいとするところではない。維揚に昔出かけたときの人のことを思い出している。 
その時も泣いたが、なおまた、二筋の涙をながし、遙かに海西の青海湖のほとりのあなたの許(もと)に、この詩文を差しだそう。

(訳注)
宿桐廬江寄廣陵舊遊

建德(浙江省桐廬県の南)は、わたしの故郷とか寓居とするところではなく、昔出かけた廣陵の人ことを思い出して作る詩。


宿桐廬江寄廣陵舊遊
桐廬江沿い浙江省建德市に来て滞在していたが、旧友の居る広陵(江蘇省揚州市)を懐かしんで、揚州に手紙で詩を送った。731年長安での仕官活動が不調に終わった後、江浙(江淮)を旅したときの作品。
宿 宿泊する。泊まる。○桐廬江 桐江のこと。銭塘江の中流。現・浙江省桐廬県境。杭州の西南80キロメートルのところ。

宿建徳江 孟浩然 「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -329

 手紙で詩を贈る。○廣陵 江蘇省揚州市の旧名。「維揚」「海西頭」の指すところに同じ。○舊遊 古い交際。旧交。以前、共に遊んだことのある友だち。


山暝聽猿愁,滄江急夜流。 【首聯】
建德附近の桐廬江一帯の山は暗くなって猿のもの悲しい鳴き声を聽きいってしまう、青々として深い銭塘江は流れが急で夜もその流れがわかる。
 暗い。日が暮れる。○ 耳をすまして聞く。意識をもって、聞き耳を立てて聞く。ここは「聞」とするのもあるが、その場合は「聞こえてくる」の意。○猿愁 引き裂くように引っ張って鳴く。猿のもの悲しい鳴き声。○滄江 青い川。作者の今居るところの桐廬江を指す。○ 急な流れ。 ○夜流 夜にも流れる。夜であっても流れが見て取れるという意味自然の景色を詠ってもその中に動きのあることを表現する孟浩然の詩風である。。


風鳴兩岸葉,月照一孤舟。 【頷聯】
風は鳴り、兩岸が移動し、木の葉がゆれる。月は輝きを増し、ただ一人の旅人が孤舟にいる。
孤舟 ただ一つの舟。孤独な(人生の)旅人の形容。
秋浦歌十七首其二
秋浦猿夜愁。 黃山堪白頭。
清溪非隴水。 翻作斷腸流。
欲去不得去。 薄游成久游。
何年是歸日。 雨淚下孤舟。
前の聯から「山暝」「猿愁」「」「夜流」「風鳴」「兩岸」「葉」「月照」「一」などすべてが孤舟を強調するための語である。それでいてそれらすべてのものが動くのであり、その中に一層の小舟がいるのである。


建德非吾土,維揚憶舊遊。 【頸聯】
建德は、わたしの住まいとするところではない。維揚に昔出かけたときの人のことを思い出している。 
建德 現・浙江省建德市。○ …ではない。あらず。○吾土 わたしの居住するところ。○維揚 古代の揚州の発祥地で、江蘇省揚州市区の西部の地名。○ 思い出す。また、思う。覚える。


還將兩行涙,遙寄海西頭。 【尾聯】
その時も泣いたが、なおまた、二筋の涙をながし、遙かに海西の青海湖のほとりのあなたの許(もと)に、この詩文を差しだそう。  
なおまた。○將 …をもって。…を。○兩行涙 ふたならびの涙。二筋の涙。○遙寄 遥か遠くに手紙で詩を送る。○海西頭 唐時代、海西は「海西布」で知られるように青海湖を意味し、現在でもチベット族モンゴル族系を示す。
『黄河二首』其一「黄河北岸海西軍、推鼓鳴鐘天下聞。鐵馬長鳴不知數、胡人高鼻動成羣。」(黄河の北岸 海西の軍、鼓を推(う)ち鐘を鳴らして天下に聞ゆ。鐵馬 長鳴して數を知らず、胡人 高鼻にして動((ややも)すれば羣を成す。)―この詩では「海西」援軍を求めたウイグルの騎兵隊の軍をいう。―
黄河二首 其一 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 193

ここでは昔の友人がはるか遠き地に赴任したということとであろう。


五言律詩。【首聯】【頷聯】【頸聯】【尾聯】で構成。同じ四分割の絶句の起承転結の一線の曲折にはならない。中の【頷聯】【頸聯】については対句が絶対条件である。


 山は日か暮れて猿の悲しげな声か聞こえてくる。青黒い水を湛えた川の、夜の流れはますます急である。嵐が吹き、両岸の木々の葉をざわざわと鳴らす。空に懸かる月は、ひそやかに孤独な】岐の小舟を照らしている。建徳は我が故郷ではない、それゆえ寂しさがこみ上げてきて、揚州で別れた旧友を思わずにはいられない。我が頬を垂らす涙を川に託して、遥か青海湖の西にいる友へ思いを寄せるばかりだ。

盛唐詩 望洞庭湖贈張丞相 孟浩然<36> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -343

      
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 上代~隋南北朝・隋の詩人初唐・盛唐・中唐・晩唐 
   

2012年12月1日から連載開始
唐五代詞詩・宋詞詩

『菩薩蠻 一』温庭筠   花間集

   
盛唐詩 望洞庭湖贈張丞相 孟浩然<36> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -343


望洞庭湖贈張丞相
洞庭湖を望み、その情景を詩として張九齢丞相に贈る。
八月湖水平,涵虚混太淸。
仲秋、八月洞庭湖の湖水は平らかである。うつろな穴湖の窪みのおくまで水で涵(ひた)し、大空と水面は混じり合っている。
氣蒸雲夢澤,波撼岳陽城。
靄(もや)は、雲夢沢の大きな湿地帯、湖に湧き上がってきている。波は、岳陽城に打ち寄せて、揺るがせている。
欲濟無舟楫,端居恥聖明。
渡ろうとするが、舟とかじ、天子をたすける臣下の仕官するつてが無く、渡りたいが、つても無く、何事もしないでぼんやりと平生を過ごしているのは、聖明の天子様に恥じ入るばかりである。
坐觀垂釣者,徒有羨魚情。
坐って釣糸を垂れている者を見ていると、自分から釣られていく魚を羨む気持ち、それは仕官したいと願う気持ちが無闇に起こってくる。 


洞庭湖を望み 張丞相に贈る     
八月 湖水 平らかに,虚【きょ】を涵【ひた】して  太淸【たいせい】に混ず。
氣は蒸【む】す 雲夢【うんぼう】澤【たく】,波は撼【ゆる】がす 岳陽【がくよう】城。
濟【わた】らんと欲するに 舟楫【しゅうしふ】無く,端居して 聖明【せいめい】に恥づ。
坐して 釣を垂る者を 觀【み】るに,徒【いたづら】に 魚【うお】を羨【うらや】むの情 有り。



現代語訳と訳註
(本文)
望洞庭湖贈張丞相
八月湖水平,涵虚混太淸。
氣蒸雲夢澤,波撼岳陽城。
欲濟無舟楫,端居恥聖明。
坐觀垂釣者,徒有羨魚情。

(下し文) 洞庭湖を望み 張丞相に贈る     
八月 湖水 平らかに,虚【きょ】を涵【ひた】して  太淸【たいせい】に混ず。
氣は蒸【む】す 雲夢【うんぼう】澤【たく】,波は撼【ゆる】がす 岳陽【がくよう】城。
濟【わた】らんと欲するに 舟楫【しゅうしふ】無く,端居して 聖明【せいめい】に恥づ。
坐して 釣を垂る者を 觀【み】るに,徒【いたづら】に 魚【うお】を羨【うらや】むの情 有り。


(現代語訳)
洞庭湖を望み、その情景を詩として張九齢丞相に贈る。
仲秋、八月洞庭湖の湖水は平らかである。うつろな穴湖の窪みのおくまで水で涵(ひた)し、大空と水面は混じり合っている。
靄(もや)は、雲夢沢の大きな湿地帯、湖に湧き上がってきている。波は、岳陽城に打ち寄せて、揺るがせている。
渡ろうとするが、舟とかじ、天子をたすける臣下の仕官するつてが無く、渡りたいが、つても無く、何事もしないでぼんやりと平生を過ごしているのは、聖明の天子様に恥じ入るばかりである。
坐って釣糸を垂れている者を見ていると、自分から釣られていく魚を羨む気持ち、それは仕官したいと願う気持ちが無闇に起こってくる。 


(訳注)
望洞庭湖贈張丞相

洞庭湖を望み、その情景を詩して張九齢丞相に贈る。
洞庭湖 湖南省北東部にある中国最大の淡水湖。湘水(湘江)、沅水(沅江)などが流れ込んで長江に注ぐ。湖畔や湖中には岳陽楼や君山などがあり、瀟湘八景などの名勝に富む。
杜甫『登岳陽樓』
昔聞洞庭水,今上岳陽樓。呉楚東南坼,乾坤日夜浮。
親朋無一字,老病有孤舟。戎馬關山北,憑軒涕泗流。
張丞相 張九齢。或いは、張説。○丞相 天子を助けて政治を行う最高の官。宰相。総理大臣。相国。


八月湖水平,涵虚混太淸。
仲秋、八月洞庭湖の湖水は平らかである。うつろな穴湖の窪みのおくまで水で涵(ひた)し、大空と水面は混じり合っている。
八月 旧暦の中秋八月で、今の九月から十月。○湖水 洞庭湖の湖水。○涵虚 〔かんきょ〕澄み切った湖水。大地の窪み(虚(きょ))を涵(ひた)す澄んだ湖水。杜甫『登岳陽樓』「呉楚東南坼,乾坤日夜浮。」 ということ。)○太淸 大空。天空。


氣蒸雲夢澤,波撼岳陽城。
靄(もや)は、雲夢沢の大きな湿地帯、湖に湧き上がってきている。波は、岳陽城に打ち寄せて、揺るがせている。
氣蒸 霞(かすみ)や靄(もや)がわきあがる。○雲夢澤 〔うんぼうたく〕春秋・楚の国にあった大きな湖と大きな湿地帯。現・湖北省南部一帯。北限は安陸、南限は長江で、長江を夾んで洞庭湖・岳陽に近く、東は武漢、西は沙市一帯にあった、一辺100キロメートルほどで、洞庭湖の五、六倍ある広い湖沼。(北:安陸、南:岳陽、東:武漢、西は沙市。これで囲まれる内側が雲夢沢。また、長江北岸にあった沢を雲沢、南岸の夢沢、合わせて雲夢沢ともいう。○【かん】動かす。揺るがす。騒がす。○岳陽城 湖南省の北端の洞庭湖の東北に位置し、長江へ連なる水路の口にある岳陽の街。なお、その西門が岳陽楼。


欲濟無舟楫,端居恥聖明。
渡ろうとするが、舟とかじ、天子をたすける臣下の仕官するつてが無く、渡りたいが、つても無く、何事もしないでぼんやりと平生を過ごしているのは、聖明の天子様に恥じ入るばかりである。  
 …たい。…う。○ 渡る。○舟楫 天子の政治を助ける臣下の喩え。本来の意は、舟と楫(かじ)。ここは、前者の意。○端居 閑居。ふだん。平生。○ 自分の悪いところを認めてはじいる。○聖明 天子を呼ぶ尊称。天子の明徳。すぐれた聡明さ。


坐觀垂釣者,徒有羨魚情。
坐って釣糸を垂れている者を見ていると、自分から釣られていく魚を羨む気持ち、それは仕官したいと願う気持ちが無闇に起こってくる。 
坐觀 坐って観察する。よそ事のように見る。○垂釣者 釣り針を垂れて、釣りをしている者。ここでは、太公望を謂う。周・文王の賢臣・呂尚のこと。呂尚が渭水の岸で釣りをしていた時、文王が見いだし、「我が太公が待ち望んでいた人物だ」と喜び、太公望と呼んだ。武王を佐(たす)けて殷の紂王を滅ぼし、功によって斉に封じられた。『史記・齊太公世家』「呂尚蓋嘗窮困,年老矣,以漁釣奸周西伯。西伯將出獵,卜之,曰『所獲非龍非彲,非虎非羆;所獲霸王之輔』。於是周西伯獵,果遇太公於渭之陽,與語大説,曰:『自吾先君太公曰『當有聖人適周,周以興』。子真是邪?吾太公望子久矣。』故號之曰『太公望』,載與倶歸,立爲師。」とあり、晩唐・温庭筠の『渭上題三首』之三に「煙水何曾息世機,暫時相向亦依依。所嗟白首磻谿叟,一下漁舟更不歸。」○徒有 いたずらに起こってくる。むなしく起こってくる。漫然と起こってくる。○羨魚情 (釣られていく)魚を羨む気持ち。(何もしないで)仕官していく者を羨ましく思う気持ち。「太公望」については「姜太公釣魚」〔自発的に自分で罠にかかる(魚)=姜太公(呂尚)は真っ直ぐな針で魚を釣り、世を避けていた。従って、姜太公の針で釣られるものは自分から好んでかかったものである〕ということで、作者も釣られたい=仕官したいということを詠う。渭水で釣りをしていたところを文王が「これぞわが太公(祖父)が待ち望んでいた人物である」と。羨魚という語は『漢書・禮樂志』に「古人『淮南子』有言:臨淵羨魚,不如歸而結網。」とある。

盛唐詩 尋天台山 孟浩然<31> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -338

盛唐詩 尋天台山 孟浩然<31> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -338


☆前集巻上、勝蹟録巻一
★唐百、方外志巻27、全唐詩巻160、古今巻125
卷160_49 「尋天臺山」孟浩然


尋天台山
吾友太乙子,餐霞臥赤城。
太乙先生はわが友でもある。仙界のように霞を食らって赤城山(天台山)を住処としている。
欲尋華頂去,不憚惡溪名。
私も隠棲生活の最高峰の華頂峰を尋ねていこう。そこが、昔から、悪渓と呼ばれるところであるということは一向に構わないことである。
歇馬憑雲宿,揚帆截海行。
かくして雲に乗ったような奥深い所で馬を憩わせ、帆をあげて海を断ち切って渡っていく。
高高翠微裏,遙見石樑橫。
高く聳える山の中腹になかにある、それは遙かなところに石橋が滝のうえに横たわっているのが見える。

(天台山を尋ぬ)
吾が友太乙子、霞を飡ひて赤城に臥す。
華頂を尋ね去らんと欲す、悪谿の名を憚らずして。
馬を歇す雲に憑りし宿に、帆を揚げて海を截ちて行く。
高高たる翠微の裏、遙に見る石梁の橫たわるを。


現代語訳と訳註
(本文) 尋天台山
吾友太乙子,餐霞臥赤城。
欲尋華頂去,不憚惡溪名。
歇馬憑雲宿,揚帆截海行。
高高翠微裏,遙見石樑橫。


(下し文) (天台山を尋ぬ)
吾が友太乙子、霞を飡ひて赤城に臥す。
華頂を尋ね去らんと欲す、悪谿の名を憚らずして。
馬を歇す雲に憑りし宿に、帆を揚げて海を截ちて行く。
高高たる翠微の裏、遙に見る石梁の橫たわるを。


(現代語訳)
太乙先生はわが友でもある。仙界のように霞を食らって赤城山(天台山)を住処としている。
私も隠棲生活の最高峰の華頂峰を尋ねていこう。そこが、昔から、悪渓と呼ばれるところであるということは一向に構わないことである。
かくして雲に乗ったような奥深い所で馬を憩わせ、帆をあげて海を断ち切って渡っていく。
高く聳える山の中腹になかにある、それは遙かなところに石橋が滝のうえに横たわっているのが見える。

(訳注)
吾友太乙子,餐霞臥赤城。

太乙先生はわが友でもある。仙界のように霞を食らって赤城山(天台山)を住処としている。
餐霞 中国の道教において、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人、羽人、僊人ともするものが誤解されがちではあるがこの場合の霞とは朝日と夕日のことを指しており、逆に霧や本当の霞などは食べてはいけないものとされている。自然への同化をいうものである。


欲尋華頂去,不憚惡溪名。
私も隠棲生活の最高峰の華頂峰を尋ねていこう。そこが、昔から、悪渓と呼ばれるところであるということは一向に構わないことである。
惡溪 固有名詞ならば、浙江省の川。「元和郡県志」巻二六には、急流や瀬の連続であったので悪渓と呼ばれていたのを、隋の開皇中に「麗水」に改めたという。また「新唐書」地理志では、水怪が多いため悪渓と呼ばれていたが、段成式が善政を布いたところ、水怪が去った。そこで民は好渓と呼ぶようになったという。孔子が盗泉の名をはばかってその水を飲まなかったが、自分は天台山を思慕してやまないので、孔子とは異なって悪渓という名をはばからないのだ、ということである。儒者の行為、考え方を否定するというもの。


歇馬憑雲宿,揚帆截海行。
かくして雲に乗ったような奥深い所で馬を憩わせ、帆をあげて海を断ち切って渡っていく。
歇馬 馬を休ませる、あるいは休んでいる馬。庾信「帰田詩」に「樹陰逢歇馬、魚潭見酒船(木陰では休んでいる馬がおり、魚の潜む深い淵には酒を運ぶ船が見える)」とある。李白『奔亡道中五首』「歇馬傍春草、欲行遠道迷」(馬を歇(とど)めて春草(しゅんそう)に傍(そ)い、行かんと欲して遠道(えんどう)に迷う)○憑雲 謝恵連「雪賦」(「文選」巻一三)に「憑雲陞降、從風飄零(雲に乗って上下し、風に吹かれて漂い落ちる)」とある。○揚帆…謝霊運「遊赤意志進航海」に「揚帆采石華、挂席拾海月」とある。孫綽『遊天台山賦』に「赤城霞起以建標」とある。赤城山は赤土の砂礫が層をなしており、あたかも城壁の如くであるのでこの名がある。また唐徐霊府「天台山記」には「石色赩然如朝霞(その石が赤く輝いていて朝焼けのようである)」とあり、朝靄夕霞が漂い纏うのも、この山にまつわる慣用的表現である。


高高翠微裏,遙見石樑橫。
高く聳える山の中腹になかにある、それは遙かなところに石橋が滝のうえに横たわっているのが見える。
翠微 青い山々に靄が立ち込めているさま。山の八合目あたり。萌黄いろ。男女のことを示唆するばあいもある。○石樑 天台山の中腹にある石橋の下から流れ落ちる滝があることをいう。
『舟中曉望』
掛席東南望,青山水國遙。
舳艫爭利涉,來往接風潮。
問我今何去,天臺訪石橋。
坐看霞色曉,疑是赤城標。


■解説
五言律詩。
韻字 「城・名・行・横」


天台山に太乙子という道士を訪ねて。孟浩然が天台山を訪れたのは、この道士に会いに行くことも目的の一つであったのだろう。太一子については何も分かっていない。孟浩然の天台山訪問が、730年開元十八年頃で、司馬承禎が天台山を去ったのが727年同十五年である。司馬承禎門下の道士たちがまだたくさん残っている。そうした人々の中の一人に、孟浩然が接見したのである。既に親交があったものだ。この詩は天台山訪問を、全体的に振り返って書いたものであろう。

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 尋天台山
吾友太乙子,餐霞臥赤城。
欲尋華頂去,不憚惡溪名。
歇馬憑雲宿,揚帆截海行。
高高翠微裏,遙見石樑橫。


 (天台山を尋ぬ)
吾が友太乙子、霞を飡ひて赤城に臥す。
華頂を尋ね去らんと欲す、悪谿の名を憚らずして。
馬を歇す雲に憑りし宿に、帆を揚げて海を截ちて行く。
高高たる翠微の裏、遙に見る石梁の橫たわるを。

 舟中曉望
掛席東南望,青山水國遙。
舳艫爭利涉,來往接風潮。
問我今何去,天臺訪石橋。
坐看霞色曉,疑是赤城標。

(舟中にて曉に望む)
席を掛けて東南に望めば、青山 水國 遙かなり。
舳艫 利渉を爭ひ、來往 風潮に接す。
我に問ふ 今何くに去ると、天台に石橋を訪ねんとす。
坐く看る霞色の曉、疑ふらくは是れ赤城の標か。


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盛唐詩 寄天台道士 孟浩然<27> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -334

盛唐詩 寄天台道士 孟浩然<27> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -334


全唐詩巻 孟浩然集巻卷160_22 「寄天臺道士」

寄天臺道士
海上求仙客,三山望幾時。
始皇帝の命を受け徐福らが海上に神仙を求めて旅立った、その三神山を望んでから一体どれくらいの年月がたったのだろう。
焚香宿華頂,裛露采靈芝。
しかし、海上に神薬を求める道などなく、天台山において香を焚いて華頂峰に宿泊し自然と同化している。そして、露に潤いながら霊芝を摘み取るのである。
屢躡莓苔滑,將尋汗漫期。
しばしば、苔生した滑りやすい滝上の石橋を渡るのである。そして、広大無辺で計り知れないひろい神仙的世界で過ごす約束を果たしに行くのである。
倘因松子去,長與世人辭。

もしもそれがかなうなら、赤松子に連れて行ってもらって、この人間世界から永遠にお別れをすることできるということなのだ。


天臺の道士に寄せる
海上に仙客を求め、三山 望むこと幾時ぞ。
香を焚きて華頂に宿し、露に裛【うるお】いて靈芝を采る。
屢しば躡【ふ】む莓苔【ばいたい】の滑なるを、將に尋ねんとす汗漫の期。
儻し松子に因りて去らば、長く世人と辭せん。

keikoku00
 

現代語訳と訳註
(本文)
寄天臺道士
海上求仙客,三山望幾時。
焚香宿華頂,裛露采靈芝。
屢躡莓苔滑,將尋汗漫期。
倘因松子去,長與世人辭。


(下し文) 天臺の道士に寄せる
海上に仙客を求め、三山 望むこと幾時ぞ。
香を焚きて華頂に宿し、露に裛ひて靈芝を采る。
屢しば踐む莓苔の滑なるを、將に尋ねんとす汗漫の期。
儻し松子に因りて去らば、長く世人と辭せん。


(現代語訳)
始皇帝の命を受け徐福らが海上に神仙を求めて旅立った、その三神山を望んでから一体どれくらいの年月がたったのだろう。
しかし、海上に神薬を求める道などなく、天台山において香を焚いて華頂峰に宿泊し自然と同化している。そして、露に潤いながら霊芝を摘み取るのである。
しばしば、苔生した滑りやすい滝上の石橋を渡るのである。そして、広大無辺で計り知れないひろい神仙的世界で過ごす約束を果たしに行くのである。
もしもそれがかなうなら、赤松子に連れて行ってもらって、この人間世界から永遠にお別れをすることできるということなのだ。


(訳注)
海上求仙客,三山望幾時。
始皇帝の命を受け徐福らが海上に神仙、神薬を求めて旅立った、その三神山を望んでから一体どれくらいの年月がたったのだろう。
海上求僊客 「史記」秦始皇本紀などでいう、徐福らに海上の三神山を求めさせた話を踏まえるならば、孟浩然の時代から九百年以上前のこととなる。司馬遷の『史記』秦始皇本紀の二十八年(前二十九)の条によれば、徐福らは始皇帝に、海上に三神山〔蓬莱・方丈・瀛洲)があり、仙人が住んでいるので、童男童女を供に、不老不死の妙薬を求めに行きたいと上書した。始皇帝は二十年(前221年)に中国を統一し、あらゆる願望を満たしており、最後の望みは、自分を不老不死の身にすることだけであつた。そこで、徐福を遣わし、童男童女数千人をつけ、巨額の背高川をかけた。ところが九年後、徐福は薬を得ずに戻ってきた。そして、薬は見つけたが、大きな鮫に邪魔されてたどりつくことができない、と偽りの報告をしたという。


焚香宿華頂,裛露采靈芝。
しかし、海上に神薬を求める道などなく、天台山において香を焚いて華頂峰に宿泊し自然と同化している。そして、露に潤いながら霊芝を摘み取るのである。
裛露 陶淵明『飲酒二十首』から其七「秋菊有佳色、裛露掇其英。」(秋菊 佳色あり、露を裛みて其の英を掇り)秋の菊がきれいに色づいているので、露にぬれながら花びらをつみとる。


屢躡莓苔滑,將尋汗漫期。
しばしば、苔生した滑りやすい滝上の石橋を渡るのである。そして、広大無辺で計り知れないひろい神仙的世界で過ごす約束を果たしに行くのである。
 踏む。踏みつける。 履く。はきものを履く。 追う。あとをつける。従う。○莓苔 苔が群生しているさま。 ○汗漫 広大無辺で計り知れないこと。水面などが広々としてはてしないこと。また、そのさま。『淮南子』≪‧道應訓≫「吾與汗漫期於九垓之外。」とあり、淮南子に見える天界遊行・古代の宇宙観をいう。廬敖という存在が、遠遊して世界を経巡ったと誇ったところ、ある存在がそれをまだまだ小さいことだとして高誘注で「吾与汗漫、期于九垓之上。吾不可以久(私は汗漫と九天の上で逢う約束をしている。お前の相手をしている暇はない)」として雲の彼方へ消えていった、という説話を載せる。


倘因松子去,長與世人辭。
もしもそれがかなうなら、赤松子に連れて行ってもらって、この人間世界から永遠にお別れをすることできるということなのだ。
倘(儻)  もしも,仮に 倘有困难 なにか困難があれば。○赤松子 黄帝の八代前、神農の時代の雨師(雨の神、または雨乞い)。自分の体を焼いて仙人となった尸解仙とされ、後世では仙人の代名詞となり劉邦の家臣張良も彼について言及している。そこでは、赤松子と同一視され、黄色い石の化身と言われ、そのため黄石公と称される。張子房に太公望が記した兵法書を授けたとされるものだ。 



解説
五言律詩。
韻字  時・芝・期・辞。


始皇帝の神三山探訪説話や「淮南子」に見られる神仙説などをちりばめ、天台山の神仙的雰囲気を描いているが、孟浩然は、司馬承禎の影響を強く受け、「道禅合一」を特徴としたものを受け入れている。この詩は、呉筠に受け継がれた道教の寺観を尋ねてのものである。その後、呉筠は李白の朝廷へ招かれるのに尽力している。孟浩然と李白の人生観の共通性を感じる詩である。


司馬承禎(しば・しょうてい、643年 - 735年)は、唐の玄宗の時の著名な道士。茅山派・第12代宗師。

字を子微といい、天台山に住んでいた。721年に玄宗皇帝から宮中に迎え入れられ、帝に親しく法籙(道士としての資格)を授けた。天台山に桐柏観と王屋山に陽台観を、そして五嶽に真君祠を建立したのは承禎の進言によるという。737年に道士を諫議大夫という大役に任命し、741年には崇玄学という道教の学校を設置し、その卒業生が科挙の及第者と同等に官吏となれるようにしたなど、政治に道教が深く関わるようになったのは、玄宗に対する承禎の影響力を物語る。

陳子昂・李白・孟浩然・宋之問・王維・賀知章などと交遊があり、『坐忘論』・『天隠子』・『服気精義論』・『道体論』などを著した。彼の学識は老子・荘子に精通し、その思想は「道禅合一」を特徴とし、それまでの道教が煉丹・服薬・祈祷を中心としたものだったのを、修養を中心としたものへと転換した。こうした迷信・神秘からの脱却傾向は弟子の呉筠へと引き継がれた。
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盛唐詩 舟中曉望 孟浩然 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -332

盛唐詩 舟中曉望 孟浩然 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -332


卷160_90 「舟中曉望」孟浩然
☆前集巻上、許本巻一
★唐百、方外志巻二七、古今巻一二五、孟浩然集巻三

舟中曉望
掛席東南望,青山水國遙。
帆をあげて船を出し東南の方角を眺めれば青々とした山々や水郷が遙かかなたに横たわっている。
舳艫爭利涉,來往接風潮。
船は先を争うように順調に進んでいる。この往来では風や潮が一緒になって舟を進める。
問我今何去,天臺訪石橋。
わたしに「どこへ向かっていますか」と質問されたら、、「天台山へ行って、石橋の下から流れ落ちる滝を訪ねているのです」。
坐看霞色曉,疑是赤城標。
進みにしたがって、霞たなびく曉の中であのあかくかがやいている岩山が次第に見えてきた。これこそ、天台山の目印、赤城山ではないだろうか。(前から見たかったのだ)


(舟中にて曉に望む)
席を掛けて東南に望めば、青山水國遙かなり。
舳艫利渉を爭ひ、來往風潮に接す。
我に問ふ今何くに去ると、天台に石橋を訪ねんとす。
坐く看る霞色の曉、疑ふらくは是れ赤城の標か。

ishibashi00

現代語訳と訳註
(本文) 舟中曉望

掛席東南望,青山水國遙。
舳艫爭利涉,來往接風潮。
問我今何去,天臺訪石橋。
坐看霞色曉,疑是赤城標。

(下し文)
(舟中にて曉に望む)
席を掛けて東南に望めば、青山 水國 遙かなり。
舳艫 利渉を爭ひ、來往 風潮に接す。
我に問ふ 今何くに去ると、天台に石橋を訪ねんとす。
坐く看る霞色の曉、疑ふらくは是れ赤城の標か。

(現代語訳)
帆をあげて船を出し東南の方角を眺めれば青々とした山々や水郷が遙かかなたに横たわっている。
船は先を争うように順調に進んでいる。この往来では風や潮が一緒になって舟を進める。
わたしに「どこへ向かっていますか」と質問されたら、、「天台山へ行って、石橋の下から流れ落ちる滝を訪ねているのです」。
進みにしたがって、霞たなびく曉の中であのあかくかがやいている岩山が次第に見えてきた。これこそ、天台山の目印、赤城山ではないだろうか。(前から見たかったのだ)

宮島(5)


(訳注)
舟中曉望

曉望 赤城山は暁の語と併称されることが多い。


掛席東南望,青山水國遙。
帆をあげて船を出し東南の方角を眺めれば青々とした山々や水郷が遙かかなたに横たわっている。
挂席 帆を上げること。○青山 遠くに見える春の山。
孟浩然卷160_51 「晚泊潯陽望廬山」孟浩然
掛席幾千里,名山都未逢。泊舟潯陽郭,始見香爐峰。
嘗讀遠公傳,永懷塵外蹤。東林精舍近,日暮但聞鐘。
卷159_34 「彭蠡湖中望廬山」孟浩然
太虛生月暈,舟子知天風。掛席候明發,眇漫平湖中。
中流見匡阜,勢壓九江雄。黤黕容霽色,崢嶸當曉空。
香爐初上日,瀑布噴成虹。久欲追尚子,況茲懷遠公。
我來限於役,未暇息微躬。淮海途將半,星霜歲欲窮。
寄言岩棲者,畢趣當來同。
「彭蠡湖中望廬山」に「挂席候明発、渺漫平湖中」の表現があるが、更に溯れば謝霊運「遊赤石進航海」に「揚帆采石華、挂席拾海月(帆をあげて海草を採り、蓆を掲げて海月を採集に行く)」の句がある。


舳艫爭利涉,來往接風潮。
船は先を争うように順調に進んでいる。この往来では風や潮が一緒になって舟を進める。
舳艫 船の船首と船尾のせりあがっている部分。単に船といわないのは船の方向性と動きのある雰囲気を出すものである、○利渉 船が流れに沿って順調にすすむこと。利は素早い、理にかなったということ。渉は渡、進むこと。
卷159_48 「自潯陽泛舟經明海」孟浩然
大江分九流,淼淼成水鄉。舟子乘利涉,往來至潯陽。
因之泛五湖,流浪經三湘。觀濤壯枚發,吊屈痛沉湘。
魏闕心恒在,金門詔不忘。遙憐上林雁,冰泮也回翔。
孟浩然は「泛舟経湖海」に「舟子乗利渉、往来逗潯陽」、
卷160_98 「夜渡湘水(一作崔國輔詩)」孟浩然
客舟貪利涉,暗裏渡湘川。露氣聞芳杜,歌聲識採蓮。
榜人投岸火,漁子宿潭煙。行侶時相問,潯陽何處邊。
「夜渡湘水」に「客行貪利渉、夜裏渡湘川」などと頻用する。○風潮  風と潮。謝霊運「入彭蠡湖口」(「文選」巻二六)に「客遊倦水宿、風潮難具論(船旅の水上の宿りにも飽き、風や潮の困難さは詳しく論ずるまでもない)」とある。唐百などの如く「任風潮」ならば「風や潮に任せて行く」となる。


問我今何去,天臺訪石橋。
わたしは質問する、「どこへ向かっていますか」、「天台山へ行って、石橋の下から流れ落ちる滝を訪ねているのです」。
天台山(てんだいさん)は、中国浙江省中部の天台県の北方2kmにある霊山である。最高峰は華頂峰で標高1,138m。洞栢峰・仏隴峰・赤城峰・瀑布峰などの峰々が存在する。中国三大霊山の一つ。仏教との関係では、呉の赤烏中(238年 - 251年)に仏教寺院が建立された、という伝承がある。支遁や曇光、竺曇猷らの僧が、この山中に住した。また、後漢のころから道教の聖地ともされていた。石橋の下から流れ落ちる滝がある。


坐看霞色曉,疑是赤城標。
進みにしたがって、霞たなびく曉の中であのあかくかがやいている岩山が次第に見えてきた。これこそ、天台山の目印、赤城山ではないだろうか。(前から見たかったのだ)
霞色、赤城標 赤城山は赤土の砂礫が層をなしており、あたかも城壁のようであるのでこの名がついた。また、その石が赤く輝いていて朝焼けのようであるということで、朝靄夕霞が漂い纏うこの山にまつわる慣用的表現である。


解説
五言律詩。
韻字 遥・潮・橋・標。

東南方向、天台山へ向かう、まもなく赤城山に至ろうとしている船旅の途上を詠うものである。道教の本山のあるところ、長安では友人たちの話題になっていた景色である。赤城山はまさしく天台山の入り口に聳える特徴的な景観をなしている。この詩は、聞いており想像していた赤城山の景勝が、孟浩然特有の船の動きのなかで、目の前に現れようとしていることへの期待と、目の当たりにしての感動を動的に描いたものである。
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盛唐詩 與顏錢塘登障樓望潮作 孟浩然 「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -330


盛唐詩 與顏錢塘登障樓望潮作 孟浩然 「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -330


孟浩然は目で捉えたものをそのものの奥にある心のなかを詠うことはしない、事物の置かれている環境、事物そのものの動きを描く。随って事物を、自然界をできるだけ自然の動きの中で詠おうとしている。他の詩人にはない感覚である。『宿建徳江』(建徳の江に宿す)では同じ銭塘江の中流の人影もない荒野の岸辺に一夜を過ごしてものであった。
 この詩は、当時も仲秋に銭塘江の逆流を見物、観光が流行していた様子が描かれている。

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與顏錢塘登障樓望潮作(孟浩然 唐詩)

  百里聞雷震,鳴弦暫輟彈。
百里四方に雷のような音とあたりの空気を振動させる轟音が聞こえてくる。優雅に琴の弦を鳴らし、暫くして引くのをやめる。
  府中連騎出,江上待潮觀。
杭州の幕府からも急いで馬を連ねて飛び出して、銭塘江の上に特別な潮の動きがみられるのを待っている。
  照日秋雲迥,浮天渤澥寬。
太陽は燦々と照り輝いており、秋の雲は流れている。天に浮ぶほど垂直に立ち上がった壁の様な大波が河江いっぱいにひろがって逆流してきている。
  驚濤來似雪,一坐凛生寒。
その驚く様な大波のその頂には雪のようであり、まるで雪崩がおこったようにやってきて、ひとたびここに座って見ていると凛としてまさに寒さを感じてくるのである。


百里 雷聲震い、鳴弦 暫し弾くを輟(や)む。
府中 騎を連ねて出で、江上 潮を待ちて観る。
日に照らされて 秋雲逈かに、天を浮かべて 渤澥寛【ひろ】し。
驚濤 來たること雪の似【ごと】し、一坐 凛として寒を生ず。

 


現代語訳と訳註
(本文)

 百里聞雷震,鳴弦暫輟彈。
 府中連騎出,江上待潮觀。
 照日秋雲迥,浮天渤澥寬。
 驚濤來似雪,一坐凛生寒。


(下し文)
百里 雷聲震い、鳴弦 暫し弾くを輟(や)む。
府中 騎を連ねて出で、江上 潮を待ちて観る。
日に照らされて 秋雲逈かに、天を浮かべて 渤澥寛(ひろ)し。
驚濤 來たること雪の似(ごと)し、一坐 凛として寒を生ず。


(現代語訳)
百里四方に雷のような音とあたりの空気を振動させる轟音が聞こえてくる。優雅に琴の弦を鳴らし、暫くして引くのをやめる。
杭州の幕府からも急いで馬を連ねて飛び出して、銭塘江の上に特別な潮の動きがみられるのを待っている。
太陽は燦々と照り輝いており、秋の雲は流れている。天に浮ぶほど垂直に立ち上がった壁の様な大波が河江いっぱいにひろがって逆流してきている。
その驚く様な大波のその頂には雪のようであり、まるで雪崩がおこったようにやってきて、ひとたびここに座って見ていると凛としてまさに寒さを感じてくるのである。


(訳注)
 百里聞雷震,鳴弦暫輟彈。

百里四方に雷のような音とあたりの空気を振動させる轟音が聞こえてくる。優雅に琴の弦を鳴らし、暫くして引くのをやめる。
雷震 雷のような音とドルビーサラウンドのように空気を振動させて響きが伝わってくるさま。○鳴弦 遊興の名所でもあるこの地では琴はどこかで引かれている。○ 逆流現象の音を待っていた様子をあらわす語。○輟彈 引くのをやめる。ただやめるのではなく一斉にピタッと揃えて辞めること。・ 隊列の進行が瞬時に止まることをいう。


 府中連騎出,江上待潮觀。
杭州の幕府からも急いで馬を連ねて飛び出して、銭塘江の上に特別な潮の動きがみられるのを待っている。
府中 宮中に対して、政治を行う場所。律令制の州幕府所在地。


 照日秋雲迥,浮天渤澥寬。
太陽は燦々と照り輝いており、秋の雲は流れている。天に浮ぶほど垂直に立ち上がった壁の様な大波が河江いっぱいにひろがって逆流してきている。
渤澥  たちあがる、湧き上がる大波。・ とだえた流、並の低い部分をいう。湾。海の名。ここでは垂直に立ち上がった壁の様な大波が逆流してくることをいう。銭塘江の逆流を「渤澥」と表現しているのも孟浩然らしい動きのあるものである。


 驚濤來似雪,一坐凛生寒。
その驚く様な大波のその頂には雪のようであり、まるで雪崩がおこったようにやってきて、ひとたびここに座って見ていると凛としてまさに寒さを感じてくるのである。



解説
・銭塘江のラッパ状の河口と太陽や月の引力による満潮時によって起きる現象で、特に旧暦の8月18日に起きるものが「銭塘の秋涛」で知られている。潮の高さが歴史上9メートルもあったという。近年は3~5メートルの高さに安定している。潮が線を引き、唸りをたて、雷の音をして流れてくるため、「壮観無天下」(壮観天下なし)と称えられ、この詩では「驚濤來似雪」(驚濤 來たること雪の似【ごと】し“怒涛は雪崩のよう”)としている。

・潮を見る風習が唐の時代から始まり、宋の時代盛んになり、ずっと現在まで伝わっている。

・平穏な秋空の下、それとは対照的な銭塘潮が、正に怒濤となって押し寄せる様子と、それを見て圧倒される人々の緊張やざわつきが臨場感をともなって伝わってくる。一画面一画面が動的な描写であり、活動感に満ちたものとなっている。そして、今まで接写していた情景は急に鳥瞰図にかわるのが頸聯で、背景として、銭塘潮のダイナミズムを際立たせ、その中で、再度接写し「渤澥」と表現し、更に「寬」と鳥瞰図に戻る。遠→近→遠としている。

夏日辮玉法師茅齋 孟浩然 「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -327

夏日辮玉法師茅齋 孟浩然 「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -327


夏日辮玉法師茅齋  孟浩然
夏日茅齋裏,無風坐亦涼。
真夏のある日、茅齋の庵の中にいる。風は吹いていないに座禅をするとそれでまた涼しい。
竹林深筍穊,藤架引梢長。
竹林の奥の方に行くとたけのこが密集して生えている、そして籐の編み込みが木の梢の長いものを引っ張るように掛かっている。
燕覓巢窠處,蜂來造蜜房。
つばめは巣作りの場所を探し求めている、ミツバチは蜜房造りに花の蜜を求めて飛んでくる。
物華皆可玩,花蕊四時芳。

万物、花はすべて注目していくべきである、花の芯が一日中4回の座禅のときにほのかな香りを出してくれている。


(夏日 玉法師の茅齋に辮す)
夏日 茅齋の裏、風無けれども坐すれば亦た涼し。
竹林深筍穊(おお)く、籐架 梢を引きて長し。
鷲は巢窠の庭を覚め、蜂は蜜を造る房に來たる。
物華 皆翫ぶべし、花蕊 四時芳し。


現代語訳と訳註
(本文)
夏日辮玉法師茅齋
夏日茅齋裏,無風坐亦涼。
竹林深筍穊,籐架引梢長。
燕覓巢窠處,蜂來造蜜房。
物華皆可玩,花蕊四時芳。

 
(下し文) 夏日 辮玉法師の茅齋にて
夏日 茅齋の裏、風無けれども坐すれば亦た涼し。
竹林深筍穊おお)く、籐架 梢を引きて長し。
燕は巢窠の處を覓め、蜂は蜜を造る房に來たる。
物華 皆翫ぶべし、花蕊  四時 芳し。


(現代語訳)
真夏のある日、茅齋の庵の中にいる。風は吹いていないに座禅をするとそれでまた涼しい。
竹林の奥の方に行くとたけのこが密集して生えている、そして籐の編み込みが木の梢の長いものを引っ張るように掛かっている。
つばめは巣作りの場所を探し求めている、ミツバチは蜜房造りに花の蜜を求めて飛んでくる。
万物、花はすべて注目していくべきである、花の芯が一日中4回の座禅のときにほのかな香りを出してくれている。


(訳注)
夏日辮玉法師茅齋

真夏のある日瓣玉法師の齊庵で。


夏日茅齋裏,無風坐亦涼。
真夏のある日、茅齋の庵の中にいる。風は吹いていないに座禅をするとそれでまた涼しい。
夏日 真夏のある日。○茅齋 茅で作った庵。○ 部屋の中。○ 座禅を組む。


竹林深筍穊,籐架引梢長。
竹林の奥の方に行くとたけのこが密集して生えている、そして籐の編み込みが木の梢の長いものを引っ張るように掛かっている。
竹林 竹林。隠棲生活の常套語。○ おくぶかい。○筍概 たけのこが密集している。○籐架 籐を編んだものが~にかかっている。木の梢の長いものを引いている。


燕覓巢窠處,蜂來造蜜房。
つばめは巣作りの場所を探し求めている、ミツバチは蜜房造りに花の蜜を求めて飛んでくる。
 つばめ。○覓 もとめる。○巢窠 巣作り。○ 場所。○ みつはち。○蜜房 ミツの蜂の巣。


華皆可玩,花蕊四時芳。
万物、花はすべて注目していくべきである、花の芯が一日中4回の座禅のときにほのかな香りを出してくれている。
物華 万物と花華。○翫 物事の意義をよく考える。○花蕊 花のめしべ。 ○四時 ・1年の四つの季節、春夏秋冬の総称。四季。・1か月中の四つの時。晦(かい)・朔(さく)・弦・望。・一日中の4回の座禅の時。早晨(そうしん)(朝午前4時)・晡時(ほじ)(昼午前10時)・黄昏(こうこん)(夕方午後8時)・後夜(ごや)(夜午後8時)の座禅。ここでは一日中の4回の座禅のとき。○ 芳しい。ほのかな香りがすること。


孟浩然の自然を愛して毎日中止してみている。それは、花や木、水、川だけでなく、燕、ミツバチについても詠っているのである。そして特徴的なのは、場所の移動、時の移動、そして「深」、「穊」、「引」と本来静的に見ているものを活動的に表現している。活動的に表現することで非常に細やかなものに感じられてくるのである。澗南園の風景を感じさせるものである。ただ単に田園の生活を詠うというものではないのは間違いない。孟浩然の凄い作品というべきものである。

 bamb05176 夏日辮玉法師茅齋
夏日茅齋裏,無風坐亦涼。
竹林深筍穊,籐架引梢長。
燕覓巢窠處,蜂來造蜜房。
物華皆可玩,花蕊四時芳。
 夏日 辮玉法師の茅齋にて
夏日 茅齋の裏、風無けれども坐すれば亦た涼し。
竹林深筍穊おお)く、籐架 梢を引きて長し。
燕は巢窠の處を覓め、蜂は蜜を造る房に來たる。
物華 皆翫ぶべし、花蕊  四時 芳し。



 


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孟浩然 留別王侍御維)李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -324


留別王侍御維 孟浩然
王維侍御に詩を書き残して別れ行く。 
寂寂竟何待,朝朝空自歸。
ひっそりとして何のおとさた進展もなく、この上何を待っていたらよいというのか。 毎朝いつも、むなしく自分から決着をつけて決断して帰ることにする。
欲尋芳草去,惜與故人違。
この上は、芳(かぐわ)しい草の咲くところや薬草を尋ねて隠棲したしようと去る。残念なことだが、古くからの友人の王維君と別れることとなる。
當路誰相假,知音世所稀。
重要な地位についている者の誰に頼っていこうかとしても王維君あなたぐらいのものしかいない。真実の理解者は、世に稀(まれ)なものということだ。 
祗應守索寞,還掩故園扉。
ただ、こうなったら、隠遁者の侘(わ)び・寂(さ)びの気持ちを固守していくのだ。なおまた、故郷の隠棲居所のトビラを閉ざして浮き世との交渉を断とうとおもっている。



王侍御維に留別す     
寂寂(せきせき)  竟つひに何をか待たん,朝朝(てうてう)  空しく自(みづ)から歸る。
芳草(はうさう)を  尋(たづね)んと欲ほっして去り,惜をしむらくは  故人と違たがふ。
當路(たう ろ)  誰(たれ)か 相(あひ)假(かり)ん,知音(ち いん)  世に稀(まれ)なる所。
祗(ただ)應(まさ)に  索寞(さくばく)を守り,還(また)  故園の扉を掩(おほふ)べし。



現代語訳と訳註
(本文) 留別王侍御維

寂寂竟何待,朝朝空自歸。
欲尋芳草去,惜與故人違。
當路誰相假,知音世所稀。
祗應守索寞,還掩故園扉。


(下し文) 王侍御維に留別す     
寂寂せきせき  竟つひに何をか待たん,朝朝てうてう  空しく自みづから歸る。
芳草はうさうを  尋たづねんと欲ほっして去り,惜をしむらくは  故人と違たがふ。
當路たう ろ  誰たれか 相あひ假かりん,知音ち いん  世に稀まれなる所。
祗ただ應まさに  索寞さくばくを守り,還また  故園の扉を掩おほふべし。


(現代語訳)
王維侍御に詩を書き残して別れ行く。 
ひっそりとして何のおとさた進展もなく、この上何を待っていたらよいというのか。 毎朝いつも、むなしく自分から決着をつけて決断して帰ることにする。
この上は、芳(かぐわ)しい草の咲くところや薬草を尋ねて隠棲したしようと去る。残念なことだが、古くからの友人の王維君と別れることとなる。
重要な地位についている者の誰に頼っていこうかとしても王維君あなたぐらいのものしかいない。真実の理解者は、世に稀(まれ)なものということだ。 
ただ、こうなったら、隠遁者の侘(わ)び・寂(さ)びの気持ちを固守していくのだ。なおまた、故郷の隠棲居所のトビラを閉ざして浮き世との交渉を断とうとおもっている。


(訳注)
留別王侍御維

王維侍御に詩を書き残して別れ行く。 
○就職活動で挫折して、不本意なまま郷里に帰っていく時の詩になろう。 
留別 旅立つ人が詩を書き残して別れる。とどまる人へのいとまごいの詩を作る。「送別」の対義語。○王侍御維 侍御の官位にある王維。〔姓+官職+名〕と表現する。王維侍御。 ○侍御 天子の側に仕える官。


寂寂竟何待、朝朝空自歸。
ひっそりとして何のおとさた進展もなく、この上何を待っていたらよいというのか。 毎朝いつも、むなしく自分から決着をつけて決断して帰ることにする。
寂寂 ひっそりとして寂しい。 ○竟 ついに。とうとう。 ○ 何をか。反問、反語の語気。 ○ まつ。待機する。○朝朝 毎朝。朝朝には白居易の『長恨歌』に「聖主朝朝暮暮情」楚の襄王が巫山で夢に神女と契った時、神女は朝は巫山の雲となり夕べには雨になるといった故事がある。宋玉『高唐賦』によると、楚の襄王と宋玉が雲夢の台に遊び、高唐の観を望んだところ、雲気(雲というよりも濃い水蒸気のガスに近いもの)があったので、宋玉は「朝雲」と言った。襄王がそのわけを尋ねると、宋玉は「昔者先王嘗游高唐,怠而晝寢,夢見一婦人…去而辭曰:妾在巫山之陽,高丘之阻,旦爲朝雲,暮爲行雨,朝朝暮暮,陽臺之下。」と答えた。「巫山之夢」に基づく。○ いたずらに。むなしく。○自歸 自分で結末をつける。自分から諦めて帰る意で、決意して帰ること。


欲尋芳草去、惜與故人違。
この上は、芳(かぐわ)しい草の咲くところや薬草を尋ねて隠棲したしようと去る。残念なことだが、古くからの友人の王維君と別れることとなる。
欲 …たい。…う。 ○尋 訪問する。たずねる。○芳草 よいかおりのする草。春の草。薬草を摘みとる。○…去:…を訪問しに行く。○ 残念な(ことには)。惜しい(ことには)。 ○ …と。○故人 古くからの友だち。旧友。ここでは、王維を指す。 ○ 離れる。遠ざかる。去る。


當路誰相假、知音世所稀
重要な地位についている者の誰に頼っていこうかとしても王維君あなたぐらいのものしかいない。真実の理解者は、世に稀(まれ)なものということだ。 
當路 重要な地位についている者。要路にいる者。 ○ …ていく。○ 借りる。よる。請う。○知音 知己。自分の琴の演奏の良さを理解していくれる親友のこと。伯牙は琴を能くしたが、鍾子期はその琴の音によって、伯牙の心を見抜いたという。転じて自分を理解してくれる知人。 ○- …(とする)ところ。動詞などに附いて、名詞化するする働きをする。○ まれ(だ)。


祗應守索寞、還掩故園扉。
ただ、こうなったら、隠遁者の侘(わ)び・寂(さ)びの気持ちを固守していくのだ。なおまた、故郷の隠棲居所のトビラを閉ざして浮き世との交渉を断とうとおもっている。
○祗應 ただ…だけだろう。ただまさに。ちょうど…だろう。=只應。○ 只(ただ)。○ 当然…であろう。まさに…べし。○ 固持する。○索寞 失意のさま。もの寂しいさま。○ また。なおもまた。 ・掩 閉じる。 ・故園 故郷。現・湖北省襄陽の鹿門山。 ○ とびら。開き戸。ここでは柴扉のことで、粗末な隠居所の扉の意になる。 ○ …扉 トビラを閉ざして(浮き世との交渉を断つ)。
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孟浩然 歲暮歸故園(歳暮帰南山)  李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -323

孟浩然 歲暮歸故園(歳暮帰南山)  李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -323


歳暮帰南山(北闕休上書)


卷160_87  歲暮歸故園


「歲暮歸南山(一題作歸故園作)」孟浩然
年の暮れに南山へ帰る(年がせまってきた澗南園に帰るのに王維の故園によって行こう。)
北闕休上書,南山歸敝廬。
年の暮れになるのを機会に藍田の輞川荘に暫く休暇をいただくために天子に休暇届を出した。私もしばらくいて、南山の澗南園に帰ろうと思う。
不才明主棄,多病故人疏。
どうせ自分には才能がなく、せっかくの天子からもすでに見限られており、その上最近は病気がちであり、引っ込み思案になって旧友とも疎遠になっている。(わたしには詩文の才能がある。天子から見放されようが友達と疎遠になろうがこの詩才をいかしてやっていく。)
白髮催年老,青陽逼歲除。
もうすでに白髪の方が増えてしまって寄る年波、老いてきて真っ白になるのだろう。のどかな春の陽気は大晦日が迫っているのだから間もなくなのだ。
永懷愁不寐,松月夜窗虛。

横になって長い時間、反省をしている、思いがめぐって寂しい気持ちになって眠れない。松の木のを超えて月明かりが窓から入ってくるこの庵には明るすぎて帰って空虚なものになってしまう。 


北闕 書を上つるを休め、南山 敞廬しょうろに帰る。
不才 明主棄て、多病 故人疎なり。
白髪 年老を催し、青陽 歳除に逼る。
永懐 愁いて寐いねられず、松月 夜牕そう虚し。


現代語訳と訳註
(本文)

北闕休上書,南山歸敝廬。
不才明主棄,多病故人疏。
白髮催年老,青陽逼歲除。
永懷愁不寐,松月夜窗虛。


(下し文)
北闕 書を上つるを休め、南山 敞廬しょうろに帰る。
不才 明主棄て、多病 故人疎なり。
白髪 年老を催し、青陽 歳除に逼る。
永懐 愁いて寐いねられず、松月 夜牕そう虚し。


(現代語訳)
年の暮れに南山へ帰る(年がせまってきた澗南園に帰るのに王維の故園によって行こう。)
年の暮れになるのを機会に藍田の輞川荘に暫く休暇をいただくために天子に休暇届を出した。私もしばらくいて、南山の澗南園に帰ろうと思う。
どうせ自分には才能がなく、せっかくの天子からもすでに見限られており、その上最近は病気がちであり、引っ込み思案になって旧友とも疎遠になっている。(わたしには詩文の才能がある。天子から見放されようが友達と疎遠になろうがこの詩才をいかしてやっていく。)
もうすでに白髪の方が増えてしまって寄る年波、老いてきて真っ白になるのだろう。のどかな春の陽気は大晦日が迫っているのだから間もなくなのだ。
横になって長い時間、反省をしている、思いがめぐって寂しい気持ちになって眠れない。松の木のを超えて月明かりが窓から入ってくるこの庵には明るすぎて帰って空虚なものになってしまう。


(訳注)
歳暮帰南山「故園」 孟浩然
年の暮れに南山へ帰る
年がせまってきた澗南園に帰るのに王維の故園によって行こう。
最初の2句目に南山とあるため澗南園の隠棲の関係者と考えるが、詩の内容からすれば、「故園」に変える方が理解しやすい。つまり、王維の別業に帰ることと考えられる。実際には王維に対して、別れを告げるため、王維の別業を意識させて、自分の故郷の澗南園に帰るということを言っている。孟浩然は浪人中だから。


北闕休上書,南山歸敝廬。
年の暮れになるのを機会に藍田の輞川荘に暫く休暇をいただくために天子に休暇届を出した。私もしばらくいて、南山の澗南園に帰ろうと思う。
北闕 大明宮の北門。上奏謁見をする人の出入りする所。 禁中。大明宮の中で丹砂の庭鬼があるとこで謁見するが紫宸殿は真ん中あたりに位置するが、大明宮そのものは長安城の北にあり南に向いてたてられていた。休暇の上申書をねがいでる。それ相応な地位のもので、もちろん孟浩然ではない。王維であろう。○北闕 得家書 得家書 #2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 182「北闕妖氛滿,西郊白露初。」(北闕妖気満つ、西郊白露の初)、官僚でない孟浩然が上奏文を出して休みを取ることはない。王維が休みを取ったのだろう。
休上書 休暇届。○南山 王維にとっては、終南山、藍田野輞川荘、王後年にとって、鹿門山の南の澗南園青山の見える○敝廬 『夏日南亭懷辛大』「散發乘夕涼,開軒臥閑敞。」『田園作』「弊廬隔塵喧」『澗南園即時貽皎上人』「弊廬在郭外,素產惟田園。」襄陽の孟浩然の農園を示している。


不才明主棄,多病故人疏。
どうせ自分には才能がなく、せっかくの天子からもすでに見限られており、その上最近は病気がちであり、引っ込み思案になって旧友とも疎遠になっている。(わたしには詩文の才能がある。天子から見放されようが友達と疎遠になろうがこの詩才をいかしてやっていく。)
明主 天子。粛宗皇帝、757年杜甫が粛兆区の折に掃海したとき、皇帝を侮辱するととれる分を差し出した。○ 採用されない。○故人 沢山の詩人たちが友人としていた。○ 疎遠になること。中国人がこういうことを言うことは自虐的に言っているのではなく、反対の意味のことを言うのである。


白髮催年老,青陽逼歲除。
もうすでに白髪の方が増えてしまって寄る年波、老いてきて真っ白になるのだろう。のどかな春の陽気は大晦日が迫っているのだから間もなくなのだ。
白髮 白髪交じりの頭は二毛とか斑という表現。ここは白髪の方が多い状況であろう。○催年老 寄る年波によってもよおした。○青陽 五行思想で青は春、東をあらわす。 ○歲除 大みそか。除夜。「霜鬢明朝又一年。」ということ。


永懷愁不寐,松月夜窗虛。
横になって長い時間、反省をしている、思いがめぐって寂しい気持ちになって眠れない。松の木のを超えて月明かりが窓から入ってくるこの庵には明るすぎて帰って空虚なものになってしまう。
永懷 長い時間かけておもうこと。○愁不寐 今までのことを思い悩んで、愁は寂しいこと、反省するという場合のうれい。○松月 松は男性としての希望、月は情勢を示し、男女間の寂しさを感じ取らせる。○夜窗 月の光が入ってくる窓である。通常は閨をいう。○ 隠棲をする住居に月明かりははって明るすぎるために逆に旧居になる。友なし、女なし、ごちそうなし、あるのは反省があるばかり。


この頃孟浩然は何をやってもうまく行かず、悲観的な発想をしていたのだ。いわゆるマイナス思考だ。
しかし、これが詩人としての才能の栄養素になるのである。詩人には貧乏であり、挫折が肥やしになる。何事もうまくいく詩人は全くいない。



これに対して王維は次のように詠っている。


 bamb05176
 送孟六帰襄陽  王維

杜門不欲出、久与世情疎。
以此為長策、勧君帰旧盧。
酔歌田舎酒、笑読古人書。
好是一生事、無労献子虚。


門を杜して出ずるを欲せず、久しく世情と疎なり
此を以って長策と為し、君に勧めて旧盧に帰らしむ
酔うて歌う田舎の酒、笑って読む古人の書
好し是れ一生の事、労する無れ子虚を献ずるを


王維は親友である孟浩然を慮って語りかける。孟浩然も科挙に合格せず、故郷に戻ることになるが、王維との別離を深く悲しむのである。心通じ合う者同士の心遣いが読み取れる作品である。
 人は夢破れた時、その傷心を癒すのは、帰心を誘う故郷の山河なのであろうか。それとも徹底した悲しみを受け入れて、其処から生まれ来る真の生命の覚悟なのであろうか。


田家元日 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -316

田家元日 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -316


卷160_104 「田家元日」孟浩然


田家元日
昨夜鬥回北,今朝歲起東。
昨夜、北の星が北に回ってきて、そうしてこの朝、新しい年が生まれ起きてくる。
我年已強仕,無祿尚憂農。
我年 已に強仕なるに、禄無くして尚を農を憂ふ。わたしも年を重ね元気ではたらける、俸禄はないことは農作物の出来いかんが憂いの種なのだ。
桑野就耕父,荷鋤隨牧童。
桑畑や田野でおやじさんと一緒に野良仕事をし、鋤を担いで牧童のあとをついて行く。
田家占氣候,共說此年豐。

こうした、農家というものは気候を占う、一緒になって今年の豊作を願って主張し合うのだ。


昨夜 斗北に回り、今朝 歳 東に起つ。
我年 已に強仕なるに、禄無くして尚を農を憂ふ。
桑野 父 耕に就き、鋤を荷いて牧童に隨う。
田家 気候を占い、共に説く 此の年の豊を。
嚢陽一帯00

現代語訳と訳註
(本文)

昨夜鬥回北,今朝歲起東。
我年已強仕,無祿尚憂農。
桑野就耕父,荷鋤隨牧童。
田家占氣候,共說此年豐。

(下し文)
昨夜 斗北に回り、今朝 歳 東に起つ。
我年 已に強仕なるに、禄無くして尚を農を憂ふ。
桑野 父 耕に就き、鋤を荷いて牧童に隨う。
田家 気候を占い、共に説く 此の年の豊を。

(現代語訳)
昨夜、北の星が北に回ってきて、そうしてこの朝、新しい年が生まれ起きてくる。
我年 已に強仕なるに、禄無くして尚を農を憂ふ。
わたしも年を重ね元気ではたらける、俸禄はないことは農作物の出来いかんが憂いの種なのだ。
桑畑や田野でおやじさんと一緒に野良仕事をし、鋤を担いで牧童のあとをついて行く。
こうした、農家というものは気候を占う、一緒になって今年の豊作を願って主張し合うのだ。

安陸・南陽・嚢陽 李白00

(訳注)
昨夜鬥回北,今朝歲起東。

昨夜 斗北に回り、今朝 歳 東に起つ。
昨夜、北の星が北に回ってきて、そうしてこの朝、新しい年が生まれ起きてくる。
○斗 中國における六つ星により形成される星座。天廟を指す。玄武の蛇身。北極星を含む星座。太陽は西側の天涯に落ち、地の底を抜けて、東から生まれるというのが天体感であり、それを象徴する北の星をいう。悪気を消すことを意味する。斗(牛宿 女宿 虚宿 危宿 室宿 壁宿)


我年已強仕,無祿尚憂農。
我年 已に強仕なるに、禄無くして尚を農を憂ふ。
わたしも年を重ね元気ではたらける、俸禄はないことは農作物の出来いかんが憂いの種なのだ。

強仕 強く元気のいいさま。働き盛り。○無祿 士官していないので俸禄がないこと。○憂農 今後の農作物の出来について心配をすること。

桑野就耕父,荷鋤隨牧童。
桑野 父 耕に就き、鋤を荷いて牧童に隨う。

桑畑や田野でおやじさんと一緒に野良仕事をし、鋤を担いで牧童のあとをついて行く。
桑野 桑畑や田野畑。○耕父 おやじさんと一緒に野良仕事をすること。 


田家占氣候,共說此年豐。
田家 気候を占い、共に説く 此の年の豊を。

こうした、農家というものは気候を占う、一緒になって今年の豊作を願って主張し合うのだ。


305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府 ⑥
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作   ⑧
316  〃   田園作元旦⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下層石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処
328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
*(番号の順でこのブログに掲載する)



詩人名生年 - 歿年 概  要
陳子昴
(ちんすこう)
661年 - 702年六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とする詩を作り、盛唐の質実な詩の礎を築いた。
張九齢 (ちょうきゅうれい)678年 - 740年陳子昂の詩と並んで「神味超逸」の風があり、阮籍の「詠懐詩」の流れをくむ「感遇詩」12種の連作が有名。著作に『張曲江集』20巻がある。字は子寿。韶州曲江の人。幼少の頃、南方に流されてきた張説に才能を認められた。長安二年(702)、進士に及第した。左拾遺となり、玄宗の信任を得て左補闕・司勲員外郎を歴任。張説の腹心として活躍した。のちに中書舎人から工部侍郎・中書令(宰相)に至った。李林甫と衝突し、玄宗の信頼を失って荊州長史に左遷された。『曲江張先生集』。
孟浩然 (もうこうねん)689年 - 740年盛唐の詩人。王維とともに「王孟」と並称され、山水自然派の詩人として知られるが、王維が自然の静的な面を客観的に歌うのに比して、より主観的に、自然を人間に親しいものとしてとらえる傾向を持つ。「春眠暁(あかつき)を覚えず」など、日本でも著名な作品が多い。襄陽出身。諱は浩、浩然は字。鹿門山に隠棲し、40才頃に進士に応じて落第し、王維との親交によって玄宗に謁見しながらも、「不才にして明主に棄てられ…」の句で官途を失い、郷里に隠棲した。襄陽長史に遷された張九齢の幕下に加わり、致仕後は江南を巡って王昌齢とも親交したが、まもなく襄陽で病死した。
 盛唐期にあって王維らとともに田園詩人群を形成し、王維とともに後の韋応物・柳宗元と併称される。ともに山水美を訴求しながら、王維の客観的・傍観的・静的態度と異なり、主観的・親近的・動的追及を旨とし、特に『春暁』は人口に膾炙している。
白   (りはく)701年 - 762年中国最大の詩人の一人。西域で生まれ、綿州(四川省)で成長。字(あざな)は太白(たいはく)。号、青蓮居士。玄宗朝に一時仕えた以外、放浪の一生を送った。好んで酒・月・山を詠み、道教的幻想に富む作品を残した。詩聖杜甫に対して詩仙とも称される。「両人対酌して山花開く、一杯一杯又一杯」「白髪三千丈、愁いに縁(よ)りて個(かく)の似(ごと)く長し」など、人口に膾炙(かいしゃ)した句が多い。

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澗南園即時貽皎上入  孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -314

澗南園即時貽皎上入  孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -314


 孟浩然の郷里・襄陽における作品を示す。襄陽は、孟浩然がその生涯の多くの時間を過ごし、彼の一風の形成の場となったことはいうまでもない。

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処

305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作   ⑧
316  〃   田園作元旦⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下贛石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
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卷160_24 「澗南即事,貽皎上人」孟浩然

澗南園即時貽皎上人
襄陽の私の澗南の農園で即興で貽皎上人に詠った詩。
弊廬在郭外,素產惟田園。
わたしの粗末な庵は襄陽城の郊外にあり、先祖から受け継いだ土地においてを田ばたで作物をつくっているのだ。
左右林野曠,不聞朝市喧。
左右見渡して、林野、田畑が広がっているし、襄陽城での朝市の喧噪は全く聞こえてこない。
釣竿垂北澗,樵唱入南軒。
釣り竿は北側の漢水に灌ぐ谷川にたれるのである。その場所から南の高く上がった山の中に入っていくと樵が木挽き歌をうたっている。
書取幽棲事,將尋靜者論。

こうして一人静かな隠棲をしていることの風興な事を詩に書きとめる、随ってもっぱらの楽しみはお上人の様な静清なお方と論を交合わせるため訪ねてくださることなのだ。


澗南園で即時にて貽皎上人に。
弊廬 郭外に在り、素より惟だ田園に產とす。
左右 林野 曠く、朝市の喧しきを聞かず。
釣竿 北澗に垂れ、樵唱 南軒に入る。
幽棲の事を書取して、還た静者の言を尋ねん。


詩題に見える「澗南園」は、孟浩然の郷里襄陽における住まいである。それは襄州襄陽県の県城の東南方、峴山を漢水を挟んで鹿門山が位置し、漢水、鹿門山の南までを江村としている。また襄陽県は「漢代以降、南北(華北と華南の勢力か激突する地点であり、南北を結ぶ交通の要衝として経済的に重視された重要地点であった。そして、漢江の水運を利用した物資の集散地たる商港として、南朝以来繁栄し、遊楽の都市であった。大堤がそれである。地図に示す通り、襄陽城と漢水の間に一詩北征から流れてきた漢水が大きく南に大きく湾曲したところであったため、堤の長い場所であった。


現代語訳と訳註
(本文) 澗南園即時貽皎上人
弊廬在郭外,素產惟田園。
左右林野曠,不聞朝市喧。
釣竿垂北澗,樵唱入南軒。
書取幽棲事,將尋靜者論。


(下し文) 澗南園で即時にて貽皎上人に。
弊廬 郭外に在り、素產 惟田園あり。
左右 林野 曠く、朝市の喧しきを聞かず。
釣竿 北澗に垂れ、樵唱 南軒に入る。
幽棲の事を書取して、還た静者の言を尋ねん


(現代語訳)
襄陽の私の澗南の農園で即興で貽皎上人に詠った詩。
わたしの粗末な庵は襄陽城の郊外にあり、先祖から受け継いだ土地においてを田ばたで作物をつくっているのだ。
左右見渡して、林野、田畑が広がっているし、襄陽城での朝市の喧噪は全く聞こえてこない。
釣り竿は北側の漢水に灌ぐ谷川にたれるのである。その場所から南の高く上がった山の中に入っていくと樵が木挽き歌をうたっている。
こうして一人静かな隠棲をしていることの風興な事を詩に書きとめる、随ってもっぱらの楽しみはお上人の様な静清なお方と論を交合わせるため訪ねてくださることなのだ


(訳注)
澗南園即時貽皎上人

襄陽の私の澗南の農園で即興で貽皎上人に詠った詩。
澗南園 漢水の南。谷川の傍に畑を持っていた。孟浩然の郷里襄陽における住まいである。それは襄州襄陽県の県城の東南方、峴山を漢水を挟んで鹿門山が位置し、漢水、鹿門山の南までを江村としている。○即時 その場で即興で詠った詩。○上人 仏教における高僧への敬称。修行を積み、智徳を備えた高僧に対して用いられる。

弊廬在郭外,素產惟田園。
弊廬 郭外に在り、素より惟だ田園に產とす。
わたしの粗末な庵は襄陽城の郊外にあり、先祖から受け継いだ土地においてを田ばたで作物をつくっているのだ。
弊廬 隠遁しているあばら家の庵。○郭外 襄陽城の郊外○素產 先祖からうけついだもの。土地をいう。・ 生産する。作物を作る。生産して経営する。○田園 前の「産」と園で従僕がいて小作させていたことがわかる。しかし、大規模なものではない。


左右林野曠,不聞朝市喧。
左右 林野 曠く、朝市の喧しきを聞かず。
左右見渡して、林野、田畑が広がっているし、襄陽城での朝市の喧噪は全く聞こえてこない。
左右 辺りを見回してみていること。○林野 森と原っぱ、田畑がひろがっている。○朝市 襄陽城の市場。朝の位置には大勢が集まる。○ 朝市の喧噪。襄陽は当時かなりの都市であった。


釣竿垂北澗,樵唱入南軒。
釣竿 北澗に垂れ、樵唱 南軒に入る。
釣り竿は北側の漢水に灌ぐ谷川にたれるのである。その場所から南の高く上がった山の中に入っていくと樵が木挽き歌をうたっている。
釣竿 釣りをする。隠遁者は散歩することを含む。○北澗 漢水は孟浩然の家の北の方に流れており、その漢水に聞か向きに流れ灌ぎこむきこむ谷川のこと。○樵唱 木こりが木挽き歌を唄うこと。○ 山の中に入っていく。○南軒 南に向けて高く上がること。軒は欄干、家の軒、久という意味とここでは、誘われて高く上がっていくことをいう。。


書取幽棲事,將尋靜者論。
幽棲の事を書取して、還た静者の言を尋ねん。
こうして一人静かな隠棲をしていることの風興な事を詩に書きとめる、随ってもっぱらの楽しみはお上人の様な静清なお方と論を交合わせるため訪ねてくださることなのだ
○書取 書き留める。詩を作ること。○幽棲 一人で隠遁生活をしていること。○ 仕事。事件。ここでは、山水の風流な興味を抱いたことをいう。○將 まさに。もって、ここでは自分の楽しみになることに導く意味を持つ。○尋 こちらから行くことをいうのであるが、ここでは来訪されること。○靜者 静清なお方。清廉なひと。○ 論議、哲学、詩を論ずることなどを指す。


解説
 この孟浩然の詩「澗南即事,貽皎上人」においてまず、注目するのは、この襄陽県城という大きく繁華な都市の描かれ方である。「郭」「朝市喧」として描写された県城か、それぞれ「外」「不聞」という字句か示すように、詩人との場所的に距離を置いた存在として描かれていることがあげられる。「喧」から隔絶したことを強調すること、孟浩然が大きな町影響下にない隠遁をしていることを強調したいのである。
 そして、その静かな景色は、朝から始まり、やがて昼には北の谷川に釣り糸を垂れ、そして、木挽き歌を聴くため南の山の中に入っていく。こんな生活をしてることを理解できるのは、清廉な人だけだろう。
 「出世欲や、物欲のある人には到底理解できないことであろう」と詩を締める。この詩も風景、心理を動的にとらえているのである。

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過故人莊 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -311

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305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作    ⑧
316  〃   田家元旦  ⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下贛石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処
328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
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詩人名生年 - 歿年 概  要
陳子昴
(ちんすこう)
661年 - 702年六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とする詩を作り、盛唐の質実な詩の礎を築いた。
張九齢 (ちょうきゅうれい)678年 - 740年陳子昂の詩と並んで「神味超逸」の風があり、阮籍の「詠懐詩」の流れをくむ「感遇詩」12種の連作が有名。著作に『張曲江集』20巻がある。字は子寿。韶州曲江の人。幼少の頃、南方に流されてきた張説に才能を認められた。長安二年(702)、進士に及第した。左拾遺となり、玄宗の信任を得て左補闕・司勲員外郎を歴任。張説の腹心として活躍した。のちに中書舎人から工部侍郎・中書令(宰相)に至った。李林甫と衝突し、玄宗の信頼を失って荊州長史に左遷された。『曲江張先生集』。
孟浩然 (もうこうねん)689年 - 740年盛唐の詩人。王維とともに「王孟」と並称され、山水自然派の詩人として知られるが、王維が自然の静的な面を客観的に歌うのに比して、より主観的に、自然を人間に親しいものとしてとらえる傾向を持つ。「春眠暁(あかつき)を覚えず」など、日本でも著名な作品が多い。襄陽出身。諱は浩、浩然は字。鹿門山に隠棲し、40才頃に進士に応じて落第し、王維との親交によって玄宗に謁見しながらも、「不才にして明主に棄てられ…」の句で官途を失い、郷里に隠棲した。襄陽長史に遷された張九齢の幕下に加わり、致仕後は江南を巡って王昌齢とも親交したが、まもなく襄陽で病死した。
 盛唐期にあって王維らとともに田園詩人群を形成し、王維とともに後の韋応物・柳宗元と併称される。ともに山水美を訴求しながら、王維の客観的・傍観的・静的態度と異なり、主観的・親近的・動的追及を旨とし、特に『春暁』は人口に膾炙している。
白   (りはく)701年 - 762年中国最大の詩人の一人。西域で生まれ、綿州(四川省)で成長。字(あざな)は太白(たいはく)。号、青蓮居士。玄宗朝に一時仕えた以外、放浪の一生を送った。好んで酒・月・山を詠み、道教的幻想に富む作品を残した。詩聖杜甫に対して詩仙とも称される。「両人対酌して山花開く、一杯一杯又一杯」「白髪三千丈、愁いに縁(よ)りて個(かく)の似(ごと)く長し」など、人口に膾炙(かいしゃ)した句が多い。


卷160_85 「過故人莊」孟浩然

過故人莊
古い友人の邑里へ行く。
故人具雞黍,邀我至田家。
古い友人が、鶏(ニワトリ)と黍(きび)の料理でわたし心からもてなしをしてくれる準備している。わたしはその友人の農家に招いてくれたので行ったのだ。
綠樹村邊合,青山郭外斜。
緑の樹々が、村の周囲に繁り合わさっている。はるかとおくに青く春の峴山が、襄陽城郭の外側、向こうの方に斜めに見えている。 
開筵面場圃,把酒話桑麻。
穀類を乾燥させる庭に面したところに筵をひろげて、酒盃をとって、桑や麻の故事、商山芝であるとか、東陵の瓜のことなど、人の「道」の事を話題にするのだ。
待到重陽日,還來就菊花。
今度は、九月九日の重陽の節句を待って、菊花を愛で、菊花酒を飲みたいとおもうので、また友人の家を訪れるのだ。

故人の莊に過ぎる     
故人 鷄黍(けいしょ)を 具(そろ)へ、我を邀(むか)へて 田家(でんか)に 至らしむ。
綠樹 村邊(そんぺん)に 合(がっ)し、青き山 郭外(かくがい)に 斜めなり。
筵(むしろ)を開きて 場圃(じょうほ)に 面し、酒を把(とり)て 桑麻(そうま) を 話す。
重陽(ちょうよう)の日を 待ち到り、還(また)來(きた)りて 菊花(きくか)に就(つ)かん。

tanbo955



現代語訳と訳註
(本文) 過故人莊

故人具雞黍,邀我至田家。
綠樹村邊合,青山郭外斜。
開筵面場圃,把酒話桑麻。
待到重陽日,還來就菊花。

(下し文)
故人の莊に過ぎる     
故人 鷄黍(けいしょ)を 具(そろ)へ、我を邀(むか)へて 田家(でんか)に 至らしむ。
綠樹 村邊(そんぺん)に 合(がっ)し、青き山 郭外(かくがい)に 斜めなり。
筵(むしろ)を開きて 場圃(じょうほ)に 面し、酒を把(とり)て 桑麻(そうま) を 話す。
重陽(ちょうよう)の日を 待ち到り、還(また)來(きた)りて 菊花(きくか)に就(つ)かん。

(現代語訳)
古い友人の邑里へ行く。
古い友人が、鶏(ニワトリ)と黍(きび)の料理でわたし心からもてなしをしてくれる準備している。わたしはその友人の農家に招いてくれたので行ったのだ。
緑の樹々が、村の周囲に繁り合わさっている。はるかとおくに青く春の峴山が、襄陽城郭の外側、向こうの方に斜めに見えている。 
穀類を乾燥させる庭に面したところに筵をひろげて、酒盃をとって、桑や麻の故事、商山芝であるとか、東陵の瓜のことなど、人の「道」の事を話題にするのだ。
今度は、九月九日の重陽の節句を待って、菊花を愛で、菊花酒を飲みたいとおもうので、また友人の家を訪れるのだ。


(訳注)
過故人莊

古い友人の邑里へ行く。
陶淵明(陶潛)の
『歸園田居』五首其二
野外罕人事,窮巷寡輪鞅。白日掩荊扉,虚室絶塵想。
時復墟曲中,披草共來往。相見無雜言,但道桑麻長。
桑麻日已長,我土日已廣。常恐霜霰至,零落同草莽。
卷159_46 「田園作」孟浩然
弊廬隔塵喧,惟先養恬素。卜鄰近三徑,植果盈千樹。
粵余任推遷,三十猶未遇。書劍時將晚,丘園日已暮。
晨興自多懷,晝坐常寡悟。沖天羨鴻鵠,爭食羞雞鶩。
望斷金馬門,勞歌采樵路。鄉曲無知己,朝端乏親故。
誰能為揚雄,一薦甘泉賦。
故人 昔からの友人。古いなじみ。 古い友人。○ 邑里。いなか。街の郊外の田園にかこまれた数軒の家が固まったようなところ

故人具雞黍,邀我至田家。
古い友人が、鶏(ニワトリ)と黍(きび)の料理でわたし心からもてなしをしてくれる準備している。わたしはその友人の農家に招いてくれたので行ったのだ。
 そろえる。支度をする。準備をする。○鷄黍〔けいしょ〕ニワトリを殺し、きび飯をたいてもてなすこと。転じて、人を心からもてなすこと。 ○邀 〔えう〕まねく。呼ぶ。迎える。 ○ 行き着く。くる。 ○田家 〔でんか〕いなか家。農家。

綠樹村邊合,青山郭外斜。
緑の樹々が、村の周囲に繁り合わさっている。はるかとおくに青く春の峴山が、襄陽城郭の外側、向こうの方に斜めに見えている。 
村邊 村の周り。村はずれ。 ○合 合わさる。いっしょにする。ひとまとめにする。
郭外 襄陽城郭の外側、向こう側。孟浩然の自然を動的に表現、遠近法的表現する。また、青は五行思想で春を意味する。孟浩然は、春の季語として、青山を使っている。『峴山餞房琯、崔宗之』『登安陽城樓』『舟中曉望』『送友人之京』などに見える。城郭の向こうに小高い山、春の峴山を遙かに望むことを意味する。そびえる山には斜めという表現をしない。この「青き山」は次の「桑麻」の語にかかり、邵平などの故事に繋がっていく。


開筵面場圃,把酒話桑麻。
穀類を乾燥させる庭に面したところに筵をひろげて、酒盃をとって、桑や麻の故事、商山芝であるとか、東陵の瓜のことなど、人の「道」の事を話題にするのだ。
開筵 酒宴の筵を開く意。 ○ 面する。向かう。 ○場圃 〔じょうほ〕農家の前の穀物を干す広場。家の前の穀物干し場。○把酒 酒器、酒盃を持つ。 ○ 話す。後出・陶潛の『歸園田居』其二でいえば「道」。○桑麻 〔そうま〕桑(くわ)と麻(あさ)。商山芝、とか、東陵の瓜、など故事について、話をすること。桑は絹、麻は麻布を意味し、穀物以外に農事の基本であり、貨幣と同じ扱いであったもの。ここでは、人の「道」の話をすることである。前の聯での青山もこの句の桑麻にかかっている。この句までは春の時期の話である。次に秋に移っていく。
「古風」 第九首李白109
喜晴 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 157

待到重陽日,還來就菊花。
今度は、九月九日の重陽の節句を待って、菊花を愛で、菊花酒を飲みたいとおもうので、また友人の家を訪れるのだ。
待到- …になるのを待って。 ○重陽 陰暦九月九日。九は陽の数の極みで、九が重なるから重陽という。この日、高い所に登り、家族を思い、菊酒を飲んで厄災を祓う慣わし。菊の節供。この日、茱萸(しゅゆ、朝鮮呉茱萸を神の毛に挿しておく。 ○ また。 ○ つく。近づく。 ○菊花 重陽の日に吉祥を呼ぶとされて、珍重される花。




広陵の人、邵平は、秦の時代に東陵侯であったが、秦が漢に破れると、平民となり、青門の門外で瓜畑を経営した。瓜はおいしく、当時の人びとはこれを東陵の瓜 押とよんだ。

○商山芝 商山は長安の東商商州にある山の名、漢の高祖の時四人の老人があり秦の乱をさけでその山に隠れ芝を採ってくらした。中国秦代末期、乱世を避けて陝西(せんせい)省商山に入った東園公・綺里季・夏黄公・里(ろくり)先生の四人の隠士。みな鬚眉(しゅび)が皓白(こうはく)の老人であったのでいう。○往者 さきには、これも昔時をさす。○東門瓜 漢の初め、卲平というものが長安の城の東門外で五色の瓜を作って売っていた、彼はもと秦の東陵侯であったという。

李白『古風其九』「青門種瓜人。 舊日東陵侯。」 ・種瓜人 広陵の人、邵平は、秦の時代に東陵侯であったが、秦が漢に破れると、平民となり、青門の門外で瓜畑を経営した。瓜はおいしく、当時の人びとはこれを東陵の瓜 押とよんだ。
東陵の瓜 召平は、広陵の人である。世襲の秦の東陵侯であった。秦末期、陳渉呉広に呼応して東陵の街を斬り従えようとしたが失敗した。後すぐに陳渉が敗死し、秦軍の脅威に脅かされた。長江の対岸の項梁勢力に目をつけ、陳渉の使者に成り済まし項梁を楚の上柱国に任命すると偽り、項梁を秦討伐に引きずり出した。後しばらくしてあっさり引退し平民となり、瓜を作って悠々と暮らしていた。貧困ではあったが苦にする様子も無く、実った瓜を近所の農夫に分けたりしていた。その瓜は特別旨かったので人々は『東陵瓜』と呼んだ。召平は、かつて秦政府から東陵侯の爵位を貰っていたからである。後、彼は漢丞相の蕭何の相談役となり、適切な助言・計略を蕭何に与えた。蕭何は、何度も彼のあばら家を訪ねたという。蕭何が蒲団の上で死ねたのも彼のおかげである。

喜晴  杜甫
皇天久不雨,既雨晴亦佳。出郭眺四郊,蕭蕭增春華。
青熒陵陂麥,窈窕桃李花。春夏各有實,我饑豈無涯。』
干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。甘澤不猶愈,且耕今未賒。
丈夫則帶甲,婦女終在家。力難及黍稷,得種菜與麻。』
千載商山芝,往者東門瓜。其人骨已朽,此道誰疵瑕?
英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。顧慚味所適,回手白日斜。
漢陰有鹿門,滄海有靈查。焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』

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還至端駅前与高六別処 張説 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -308

還至端駅前与高六別処 張説 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -308


305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作   ⑧
316  〃   田園作元旦⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下層石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処
328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
*(番号の順でこのブログに掲載する)


盛唐時代の政治家で詩人でもあった張説(ちょうえつ)が詠んだものであるが、峴山を題材にしてはいないが、世の移ろいを詠うものとして、孟浩然・張九齢・陳子昂・張説と目線が同じであることでここに掲載する。李白の峴山懐古、襄陽曲四首、襄陽歌、大堤曲での李白の目線に触れたいと思う。
   

還至端駅前与高六別処 張説

還至端駅前与高六別処
また、端州駅に来たまえからの仲間である排行六番目の高戩とここで別れる。
旧館分江口、凄然望落暉。
かつて高戩と泊まったこの旅籠は北江と西江の合流地点付近にある。ふたりはものさびしく、いたましい気持ちで沈みゆく太陽を眺めている。
相逢伝旅食、臨別換征衣。
相手の高戩に長安に旅立つことをつたえる。別れにあたって互いの旅装を交換し合うことにするのだ。
昔記山川是、今傷人代非。 
昔から山河はとこしえに変わらない、普遍なものとして記録されている。しかし、今の傷付いた世は太宗の時代にはなかったのものだ。
往来皆此路、生死不同帰。

行きかう人は皆この路、それぞれの道を通るものだ。人が生まれたことと、人が死ぬということは同じところに帰るということはないのだ。


(還 端駅に至り 前与の高六と処で別る)
旧館 分江の口、凄然として落暉を望む。
相逢うて旅食を伝え、別れに臨んでは征衣を換う。
昔記せし山川は是なるも、今傷む人代の非なるを。
往来皆此の路なるに、生死帰るを同じうせず。

現代語訳と訳註
(本文)
還至端駅前与高六別処
旧館分江口、凄然望落暉。
相逢伝旅食、臨別換征衣。
昔記山川是、今傷人代非。 
往来皆此路、生死不同帰。(下し文)
(還 端駅に至り 前与高六と処で別る)
旧館 分江の口、凄然として落暉を望む。
相逢うて旅食を伝え、別れに臨んでは征衣を換う。
昔記せし山川は是なるも、今傷む人代の非なるを。
往来皆此の路なるに、生死帰るを同じうせず。


(現代語訳)
また、端州駅に来たまえからの仲間である排行六番目の高戩とここで別れる。
かつて高戩と泊まったこの旅籠は北江と西江の合流地点付近にある。ふたりはものさびしく、いたましい気持ちで沈みゆく太陽を眺めている。
相手の高戩に長安に旅立つことをつたえる。別れにあたって互いの旅装を交換し合うことにするのだ。
昔から山河はとこしえに変わらない、普遍なものとして記録されている。しかし、今の傷付いた世は太宗の時代にはなかったのものだ。
行きかう人は皆この路、それぞれの道を通るものだ。人が生まれたことと、人が死ぬということは同じところに帰るということはないのだ。


(訳注)
還至端駅前与高六別処

(還 端駅に至り 前与の高六と処で別る)
また、端州駅に来たまえからの仲間である排行六番目の高戩とここで別れる。
端溪(端州)駅 現在の広東省肇慶市(ざおちんし)高要県。端溪硯の名産地。
高六 … 高戩こうせん。張説と共に則武天に諫言をし、再三、流刑に処された。宰相魏元忠を高要尉へ左遷し、高戩、張説は嶺表へ流した。○ 排行六のこと。 同姓の親族の中で同世代の兄弟やいとこたちを、男子は男子、女子は女子で別々に年齢順に番号をつけて呼ぶこと。 一族ではない他人が排行で呼ぶことは、よほど親しいということ。科挙の同輩などの付き合いにより交際が深まったものが多い。


旧館分江口、凄然望落暉。
(旧館 分江の口、凄然として落暉を望む。)
かつて高戩と泊まったこの旅籠は北江と西江の合流地点付近にある。ふたりはものさびしく、いたましい気持ちで沈みゆく太陽を眺めている。
旧館 かつて高六と泊まった旅館。○分江 西江と北江とが合流する地点。 川筋が分かれるところ。
口 … 『全唐詩』では「日」に作り、「一作口」との注あり。○凄然 [1]寒く冷ややかなさま。[2]ものさびしく、いたましいさま。○落暉  沈む太陽。落日。


相逢傳旅食、臨別換征衣。
(相逢うて旅食を伝え、別れに臨んでは征衣を換う。)
相手の高戩に長安に旅立つことをつたえる。別れにあたって互いの旅装を交換し合うことにするのだ。
旅食 旅先での弁当。これから旅に出ること。征衣  旅ごろも。旅装。


昔記山川是、今傷人代非。
(昔は記(おぼゆ) 山川の是なるを、今は傷む 人代の非なるを。)
昔から山河はとこしえに変わらない、普遍なものとして記録されている。しかし、今の傷付いた世は太宗の時代にはなかったのものだ。
人代 人間の世界。世の中。代を使っているのは唐の太宗、李世民の諱を避けたため。高戩、張説は則武天により左遷され、戻され、また左遷された。その後、玄宗期には宰相になる。大宗は諫言を受け入れた。又、地方で仁徳のある官僚を中央に引き上げるシステムを構築した。則武天も当初は張説の還元を受け入れていた。


往来皆此路、生死不同帰。
(往来 皆此この路なるに、生死 帰えるを同じうせず。)
行きかう人は皆この路、それぞれの道を通るものだ。人が生まれたことと、人が死ぬということは同じところに帰るということはないのだ。


旧館分江口、凄然望落暉。
相逢伝旅食、臨別換征衣。
昔記山川是、今傷人代非。 
往来皆此路、生死不同帰。


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望九華山贈青陽韋仲堪 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -299

望九華山贈青陽韋仲堪 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -299



望九華山贈青陽韋仲堪
「九華山を望み、青陽県令の韋仲堪に贈る」

昔在九江上、遥望九華峰 。
一昔まえもここ九の大きな流れが集まる長江のほとりで眺めていたものだ、そして、この隠遁の山である九華山を遥かに望みやったこともあった。
天河挂緑水、秀出九芙蓉 。
銀河が緑水の屏風の瀑布となって崖にかかり、そこに九つの芙蓉のごとき峰々がすばらしく抜きん出ているのである。
我欲一揮手、誰人可相従 。
私は、手を振って、俗世にさよならしようと思っているのだが、いったい誰がわたしに付き従ってくれるだろうか。
君為東道主、於此臥雲松 。
東道の主たる青陽県令の韋仲堪君が案内役になってくれるというから、私はこの山で雲と松の間に寝っころがるとしよう。

〔九華山を望み青陽の韋仲堪に贈る〕
昔 九江の上に在り、遥かに九華の峰を望む。
天河 緑水を挂け、秀出す 九芙蓉。
我 ひとたび手を揮(ふる)はんと欲す、誰人か相ひ従ふべき?
君は東道の主為り、此に於いて雲松に臥せん。


現代語訳と訳註
(本文)

昔在九江上、遥望九華峰 。
天河挂緑水、秀出九芙蓉 。
我欲一揮手、誰人可相従 。
君為東道主、於此臥雲松 。

(下し文)
昔 九江の上に在り、遥かに九華の峰を望む。
天河 緑水を挂け、秀出す 九芙蓉。
我 ひとたび手を揮(ふる)はんと欲す、誰人か相ひ従ふべき?
君は東道の主為り、此に於いて雲松に臥せん。


(現代語訳)
「九華山を望み、青陽県令の韋仲堪に贈る」
一昔まえもここ九の大きな流れが集まる長江のほとりで眺めていたものだ、そして、この隠遁の山である九華山を遥かに望みやったこともあった。
銀河が緑水の屏風の瀑布となって崖にかかり、そこに九つの芙蓉のごとき峰々がすばらしく抜きん出ているのである。
私は、手を振って、俗世にさよならしようと思っているのだが、いったい誰がわたしに付き従ってくれるだろうか。
東道の主たる青陽県令の韋仲堪君が案内役になってくれるというから、私はこの山で雲と松の間に寝っころがるとしよう。


(訳注)
望九華山贈青陽韋仲堪

「九華山を望み、青陽県令の韋仲堪に贈る」

昔在九江上、遥望九華峰 。
昔 九江の上に在り、遥かに九華の峰を望む。
一昔まえもここ九の大きな流れが集まる長江のほとりで眺めていたものだ、そして、この隠遁の山である九華山を遥かに望みやったこともあった。
九江 長江中流右岸にある水陸交通の要地。長江と鄱陽湖への入口に当たる。○九華峰 九華山は、安徽省青陽県西南に位置する連峰(主峰の十王峰は1342m)で、いわゆる景勝の地「皖南」を代表する名山として、そしてまた、峨眉山、五台山、普陀山と並んで中国仏教四大聖地の一つでもある。この山は、唐代の前半に至るまでは、九子山という名称であった。李白のこの詩で命名されたようである。


天河挂緑水、秀出九芙蓉 。
天河 緑水を挂け、秀出す 九芙蓉。
銀河が緑水の屏風の瀑布となって崖にかかり、そこに九つの芙蓉のごとき峰々がすばらしく抜きん出ているのである。
天河 天の河、銀河。○九芙蓉 蓮の花、蕾を山頂に頂く山々。
望廬山瀑布水二首其一#2とまとめ 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -228

贈王判官時余歸隱居廬山屏風疊 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350-229



我欲一揮手、誰人可相従 。
我 ひとたび手を揮(ふる)はんと欲す、誰人か相ひ従ふべき?
私は、手を振って、俗世にさよならしようと思っているのだが、いったい誰がわたしに付き従ってくれるだろうか。
○ここまで出た名勝の地は道教の聖地を意味するもので隠遁することを意味している。


君為東道主、於此臥雲松 。
君は東道の主為り、此に於いて雲松に臥せん。
東道の主たる青陽県令の韋仲堪君が案内役になってくれるというから、私はこの山で雲と松の間に寝っころがるとしよう。
東道 浙江、会稽の海岸地方をいう。○雲松 隠遁を意味するが、別の意味では芸妓も意味する。謝安の「芸妓を携えて」の地方である。

憶東山二首其一 李白 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -269

送姪良携二妓赴会稽戯有此贈  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -287


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贈從弟南平太守之遙二首 其二 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -292

贈從弟南平太守之遙二首 其二 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -292

其二
東平與南平。 今古兩步兵。
東平と南平の二人、今も昔も軍隊の基本は歩兵戦略にあるものだ。
素心愛美酒。 不是顧專城。
純真な心でおいしいお酒を愛することが一番だ。このことはもっぱら城郭の中にいて戦のことは考えることはないということだ。
謫官桃源去。 尋花几處行。
謫仙人といわれたこの私は桃源の里を去ろうと思う。花を訪ねて歩くのでゆく当てのない旅をすることになろう。
秦人如舊識。 出戶笑相迎。

素直で純真な心を持った君たちは、私の過去の歴史を知ってくれたことは唐王朝のことを理解したものと思う。ここの扉から出ていったら今度会う時は互いに笑って迎え合おうではないか。

從弟の南平の太守之遙に贈る二首 其の二
東平と南平。 今は古(いにしえ) 兩の步兵。
素心 美酒を愛し。 是 專城を顧ず。
謫官 桃源を去り。花を尋ねて 几そ處行す。
秦人 舊きを識るが如し。 出戶 笑って相い迎う。


其二 現代語訳と訳註
(本文)

東平與南平。 今古兩步兵。
素心愛美酒。 不是顧專城。
謫官桃源去。 尋花几處行。
秦人如舊識。 出戶笑相迎。

(下し文)  其の二
東平と南平。 今も古(いにしえ) 兩の步兵。
素心 美酒を愛し。 是 專城を顧ず。
謫官 桃源を去り。花を尋ねて 几そ處行す。
秦人 舊きを識るが如し。 出戶 笑って相い迎う。

(現代語訳)
東平と南平の二人、今も昔も軍隊の基本は歩兵戦略にあるものだ。
純真な心でおいしいお酒を愛することが一番だ。このことはもっぱら城郭の中にいて戦のことは考えることはないということだ。
謫仙人といわれたこの私は桃源の里を去ろうと思う。花を訪ねて歩くのでゆく当てのない旅をすることになろう。
素直で純真な心を持った君たちは、私の過去の歴史を知ってくれたことは唐王朝のことを理解したものと思う。ここの扉から出ていったら今度会う時は互いに笑って迎え合おうではないか。


(訳注)
東平與南平。 今古兩步兵。
東平と南平。 今も古(いにしえ)も 兩の步兵。

東平と南平の二人、今も昔も軍隊の基本は歩兵戦略にあるものだ。
○今と昔、両方とも、東平と南平の両人、歩兵の戦略が戦の基本である。


素心愛美酒。 不是顧專城。
素心 美酒を愛し。 是 專城を顧ず。
純真な心でおいしいお酒を愛することが一番だ。このことはもっぱら城郭の中にいて戦のことは考えることはないということだ。
素心 純真な心。なのも染まっていない、損得でない心。○愛美酒 美人を伴って飲むお酒であるから、酒を愛し、美人を愛すという意味。○專城 叛乱軍という先の見えない勢力に対して加担をするなという意味。


謫官桃源去。 尋花几處行。
謫官 桃源を去り。花を尋ねて 几そ處行す。
謫仙人といわれたこの私は桃源の里を去ろうと思う。花を訪ねて歩くのでゆく当てのない旅をすることになろう。
謫官 元役人であったということ。役人を辞めた謫仙人。○桃源 隠遁生活の象徴。○尋花 美人を訪ね歩くということ。決まった幕下には入らないということ、謝安の「両手に妓女を携えて」の精神をいうものである。


秦人如舊識。 出戶笑相迎。
秦人 舊きを識るが如し。 出戶 笑って相い迎う。
素直で純真な心を持った君たちは、私の過去の歴史を知ってくれたことは唐王朝のことを理解したものと思う。ここの扉から出ていったら今度会う時は互いに笑って迎え合おうではないか。
miyajima 697


其一 #1
少年不得意。 落魄無安居。
愿隨任公子。 欲釣吞舟魚。
常時飲酒逐風景。壯心遂與功名疏。
蘭生谷底人不鋤。云在高山空卷舒。
漢家天子馳駟馬。赤車蜀道迎相如。
天門九重謁聖人。龍顏一解四海春。
#2
彤庭左右呼萬歲。拜賀明主收沉淪。
翰林秉筆回英眄。麟閣崢嶸誰可見。
承恩初入銀台門。著書獨在金鑾殿。
龍駒雕鐙白玉鞍。象床綺席黃金盤。
當時笑我微賤者。卻來請謁為交歡。
#3
一朝謝病游江海。 疇昔相知几人在。
前門長揖後門關。 今日結交明日改。
愛君山岳心不移。 隨君云霧迷所為。
夢得池塘生春草。 使我長價登樓詩。
別後遙傳臨海作。 可見羊何共和之。

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金陵聽韓侍御吹笛 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -282

金陵聽韓侍御吹笛 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -282

李白の心は揺れ動いていた。都は叛乱軍によって、略奪はほしいまま、残忍な行為がまかり通っていたのだ。駆けつけて、なんとかしたくても、地方の県令、州知事みんな様子見をしている。どちらかを支持することを鮮明にすると、危険である。態勢を分析し、その後に態度を決めるというのが叛乱後の世情であった。

 李白は敵仙人として、叛乱軍にも知られていたから、隠れながらの様子見をせざるを得なかった。永王軍に参加をして初めて、力強い詩、立場を明確にした詩を作るのである。酒の席に招待してくれたことへのお礼の詩であろう。

金陵聽韓侍御吹笛
韓公吹玉笛、倜儻流英音。
韓公殿は宮廷音楽の玉のような笛を吹いた。志が大きく、人にすぐれ、独立自由なお方である、さすがに美しい音色は誰の耳に心地よく流れている。
風吹繞鐘山、萬壑皆龍吟。 
その音色は、吹いてきた風に乗って、金陵山を廻っている。多くの谷、奥深いたににまで、三龍の歌が吟じられ響き渡っていく。
王子停鳳管、師襄掩瑤琴。
王朝門閥貴族の王子が鳳笙を吹くのをやめ、魯国の琴の名演奏家、師襄でさえも瑤琴を布で覆い隠していまうほどの音色なのである。
余韻渡江去、天涯安可尋。
 
その音色の余韻は、長江の流れを渡り消えていく、人の人生もこの音色のようであり響いて余韻を残すということであろう。少し気楽になってまた尋ねることにしようと思う。

金陵 韓侍御吹笛を聽く
韓公 玉笛を吹く、倜儻(てきとう) 英音 流る。
風吹 鐘山を繞る、 萬壑 皆 龍を吟ず。
王子 鳳管を停む、 師襄 瑤琴を掩く。
余韻 江を渡り去る、 天涯 安ぞ尋むべし。


宮島(1)

金陵聽韓侍御吹笛 現代語訳と訳註
(本文)

韓公吹玉笛、倜儻流英音。
風吹繞鐘山、萬壑皆龍吟。
王子停鳳管、師襄掩瑤琴。
余韻渡江去、天涯安可尋。

(下し文)
公 玉笛を吹く、倜儻(てきとう) 英音 流る。
風吹 鐘山を繞る、 萬壑 皆 龍を吟ず。
王子 鳳管を停む、 師襄 瑤琴を掩く。
余韻 渡江して去る、 天涯 安じて尋るべし。

(現代語訳)
韓公殿は宮廷音楽の玉のような笛を吹いた。志が大きく、人にすぐれ、独立自由なお方である、さすがに美しい音色は誰の耳に心地よく流れている。
 その音色は、吹いてきた風に乗って、金陵山を廻っている。多くの谷、奥深いたににまで、三龍の歌が吟じられ響き渡っていく。
王朝門閥貴族の王子が鳳笙を吹くのをやめ、魯国の琴の名演奏家、師襄でさえも瑤琴を布で覆い隠していまうほどの音色なのである。
その音色の余韻は、長江の流れを渡り消えていく、人の人生もこの音色のようであり響いて余韻を残すということであろう。少し気楽になってまた尋ねることにしようと思う。

(訳注)
韓公吹玉笛。 倜儻流英音。

韓公殿は宮廷音楽の玉のような笛を吹いた。志が大きく、人にすぐれ、独立自由なお方である、さすがに美しい音色は誰の耳に心地よく流れている。
玉笛 きれいに輝いている笛。漢の王朝で作曲された宮廷音楽という意味。○倜儻 志が大きく、人にすぐれ、独立自由であること。○英音 美しい音色。・英:はなぶさ。特に実をつけない花。 優れている、美しい。叡および穎の代用字としても用いる。


風吹繞鐘山。 萬壑皆龍吟。
その音色は、吹いてきた風に乗って、金陵山を廻っている。多くの谷、奥深いたににまで、三龍の歌が吟じられ響き渡っていく。
鐘山 金陵の東の郊外にある紫金山(鍾山)を金陵山と呼ぶところから生まれた。-現在の南京市の雅名。李白は特にこの名を愛用している。金陵 現在の南京市。六朝の古都。南朝の各朝の首都。金陵、建業、建、建康、南京。戦国時代の楚の威王が金を埋めて王気を鎮めたことによる。○龍吟 呉と楚と秦の三国がここ金陵の地で戦ったことを「三龍紛戦争」ということで詠う。


王子停鳳管。 師襄掩瑤琴。
王朝門閥貴族の王子が鳳笙を吹くのをやめ、魯国の琴の名演奏家、師襄でさえも瑤琴を布で覆い隠していまうほどの音色である。
鳳管 笙笛のこと。管楽器の一。匏(ほう)の上に17本の長短の竹管を環状に 立てたもので、竹管の根元に簧(した)、下方側面に指孔がある。 匏の側面の吹き口から吹いたり吸ったりして鳴らす。 笙の笛。鳳笙(ほうしょう)。 ○師襄 魯国の琴の名演奏家、師襄のこと。


余韻渡江去。 天涯安可尋。
その音色の余韻は、長江の流れを渡り消えていく、人の人生もこの音色のようであり響いて余韻を残すということであろう。少し気楽になってまた尋ねることにしようと思う。


李白が江南で書いた同じイメージを持つ歌がある。
聽胡人吹笛 李白 ・参考

(本文)
胡人吹玉笛。 一半是秦聲。
十月吳山曉。 梅花落敬亭。
愁聞出塞曲。 淚滿逐臣纓。
卻望長安道。 空懷戀主情。

(下し文)
胡人(こじん)  玉笛(ぎょくてき)を吹く、一半は是(こ)れ秦声(しんせい)。
十月  呉山(ござん)の暁(あかつき)、梅花  敬亭(けいてい)に落つ。
愁えて出塞(しゅっさい)の曲を聞けば、涙は逐臣(ちくしん)の纓(えい)に満つ。
却(かえ)って長安の道を望み、空しく主(しゅ)を恋うるの情を懐(いだ)く。

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金郷迭韋八之西京 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -268

金郷迭韋八之西京 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -268

頌春00

金郷送韋八之西京
山東省滋陽県兗州金郷で長安に旅立つ韋八君を送る歌。
客自長安来、還辟長安去。
旅人の君は、長安から来たのだが、また旅人となって、あの大変な長安へ帰ってゆくのである。
狂風吹我心、西桂成陽樹。
長安に向かってくる風は狂おしいものでわたしの心を吹きとばし、西の方へはこんで長安の都をずっと見てきた木の枝にひっかけてしまうだろう。
此情不可道、此別何時遇。
思うことが多くて、この気持は言うことができないくらいなのだ、だから、大変なところへ行く君と別れるということになるがいつ又逢えることになるのだろうか。
望望不見君、連山起煙霧。

不安で、不安で仕方がない、眺めてみても、どんなに眺めたとしても君の姿は見えないのだ、あれだけ聳え、連なる山山に、靄がたちこめているのだ。


金郷にて韋八の西京に之くを送る
客は長安より来り、還た長安に帰り去る。
狂風 我が心を吹いて、酉のかた咸陽の樹に桂く。
此の情 道う可からず、此の別れ 何れの時か遇わん。
望み望めども 君を見ず、連山 煙霧を起す。


金郷送韋八之西京 現代語訳と訳註
(本文)
金郷迭韋八之西京
客自長安来、還辟長安去。
狂風吹我心、西桂成陽樹。
此情不可道、此別何時遇。
望望不見君、連山起煙霧。


(下し文) 金郷にて韋八の西京に之くを送る
客は長安より来り、還た長安に帰り去る。
狂風 我が心を吹いて、酉のかた咸陽の樹に桂く。
此の情 道う可からず、此の別れ 何れの時か遇わん。
望み望めども 君を見ず、連山 煙霧を起す。

(現代語訳)
山東省滋陽県兗州金郷で長安に旅立つ韋八君を送る歌。
旅人の君は、長安から来たのだが、また旅人となって、あの大変な長安へ帰ってゆくのである。
長安に向かってくる風は狂おしいものでわたしの心を吹きとばし、西の方へはこんで長安の都をずっと見てきた木の枝にひっかけてしまうだろう。
思うことが多くて、この気持は言うことができないくらいなのだ、だから、大変なところへ行く君と別れるということになるがいつ又逢えることになるのだろうか。
不安で、不安で仕方がない、眺めてみても、どんなに眺めたとしても君の姿は見えないのだ、あれだけ聳え、連なる山山に、靄がたちこめているのだ。


(訳注)
金郷迭韋八之西京

山東省滋陽県兗州金郷で長安に旅立つ韋八君を送る歌。
金郷 いまの山東省滋陽県(兗州)の近くにあった町の名。○韋八 この人のことはわからない。八は八郎。○西京 西の都、長安(いまの陝西省西安)のこと。東の都、洛陽に対する呼び方。特に、兩都が叛乱軍によって占拠されており、西の鳳翔から、長安にそして洛陽を奪回したことから、特に安史の乱の時期には西京というような表現が多く使われた。運河を使い、黄河を登るルートは叛乱軍の中を通るため、持物が強奪されるだけでなく、命も危ぶまれた。したがって長江の支流漢江を最上流に上り、山越えをするルートでいったのだ。


客自長安来、還辟長安去
旅人の君は、長安から来たのだが、また旅人となって、あの大変な長安へ帰ってゆくのである。
 旅人。韋八をさす。○長安来 反乱軍のことをうまく表現したもので、“行きはよいよい、帰りは恐い” を表現している。


風吹我心、西桂咸陽樹
長安に向かってくる風は狂おしいものでわたしの心を吹きとばし、西の方へはこんで長安の都をずっと見てきた木の枝にひっかけてしまうだろう。
狂風 李白の朝廷を追われたことを思い出して、朝廷内の冷ややかな目を強風というのか、安禄山の叛乱軍が、強奪、略奪をほしいままに行い、旧朝廷の人間たちは震え上がっていたことを示すもので、どちらも李白にとっていやなものでしかないのである。○咸陽 長安の渭水をへだてた対岸にあり、秦の時代の首都であるが、ここでは首都という意味で長安そのものをさす。詩人は、古い時代の地名を好んで使う。李白は秦樹という表現で長安の街を秦の昔からずっと見てきた樹という意味で使っている。


此情不可道、此別何時遇
思うことが多くて、この気持は言うことができないくらいなのだ、だから、大変なところへ行く君と別れるということになるがいつ又逢えることになるのだろうか。
此情 李白は長安の思いが言い表せないほどこみあげてくるものがあるのだ。それを強調するため次の句がある。○此別 ただでさえ大変なところへ帰るのに、今は、叛乱軍により、どうなることやら心配で仕方がないのだ。


望望不見君、連山起煙霧
不安で、不安で仕方がない、眺めてみても、どんなに眺めたとしても君の姿は見えないのだ、あれだけ聳え、連なる山山に、靄がたちこめているのだ。
望望不見君 望むというのは、景色であり、希望であり、はっきりしているものに使われる語デアるが、ここでは、まったく正反対の不安な状況を歌うものである。○連山起煙霧 連山も連なってはっきりしたものであるはずのものであるが、それが煙霧にかかっている。この時代、山東省は安禄山の拠点であり、黄河流域はまともな状態ではなかったのであろう。



(解説)
○詩型 五言律詩

○押韻 去、樹、遇、霧。


 都長安へ戻っていく旅人を送った詩。「狂風」は,詩人の心を掻きむしるような物狂おしい風である。金郷から遥か遠くの咸陽まで吹き通す強風であると同時に,「狂」字は,詩人の心の強い昂揚を表す。都に対する恋情・懐念が触発され,居ても立ってもいられない思いで心乱れる詩人の姿そのものとして描かれている。
 横江の白波が逆巻いて渡れない。狂ったように吹き荒れる強風が船頭たちを悩ませる。李白が自らの険難な前途を寓した詩として読めば,ここでもまた「狂風」は単なる自然現象としての烈風ではなく,詩人を取り巻く状況の困難,あるいは安禄山の乱が勃発した当時の政治的風波を象徴するものである。

横江西望阻西秦、漢水東連揚子津。
白浪如山那可渡、狂風愁殺峭帆人。
横江 西に望めば西秦と阻たり、
漢水 東に連なる揚子の津。
白浪 山の如し 那ぞ渡るべけんや、
狂風 愁殺す 峭帆の人 
(李白「横江詞六首」其三)



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謝公亭 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350- 211

謝公亭 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350- 211


金陵から、その南にある宣城に李白の足は延びるが、金陵・宜城に至るまでの行動は、じつは明瞭にその足跡をたどることはできない。金陵は、李白の行動の中心的位置にある。したがって、作時の特定も難しい。朝廷の官吏の制服を着て、先人の詩の舞台を訪ね歩く生活を送っていた。
 rihakustep足跡

754天宝十三年には、宜城に遊んだことは間違いないとされている。宣城は金陵の南西に長江を登ったところにあり、この地は李白の思慕する六朝の斉の謝朓が太守をしていたところである。謝朓の遺跡を訪ねて、謝謝の追憶にふけりながら、ここでも多くの優れた作品を残している。

斉の謝朓464年 - 499は、当時五言詩の担い手であり、山水詩に優れ、朱の謝霊運と並び称せられ、霊運を大謝、桃を小謝という。その詩は清新さをもち、唐詩にも似たところがあって、李白・杜甫に好まれた。宜城の太守となり、江南の風景を歌い、亭を作って詩人花雲らと遊んだ。優れた詩人ではあるが、事件に坐して、下獄死亡した。三十六歳である。現存する詩は200首余り、その内容は代表作とされる山水詩のほか、花鳥風月や器物を詠じた詠物詩、友人・同僚との唱和・離別の詩、楽府詩などが大半を占める。竟陵八友のひとり。
[作品]
謝朓①玉階怨 ②王孫遊 ④同王主薄有所思 ⑤遊東田 ⑥金谷聚 


謝公亭 
謝公離別處。 風景每生愁。
謝公亭は いろんな別離がありそのためにある場所なのだ。辺りの風景は どんな別れに対してもいつも哀愁を感じさせているのだ
客散青天月。 山空碧水流。
ここの客は別離の人々、青い夜空に月が輝くその下で 散り散りになっていく。だれもいなくなった山あいのこの亭には 青い、青い水だけが流れているのだ。
池花春映日。 窗竹夜鳴秋。
池に目をやれば池の中に、池の辺に春の花が日の光を受けて色明るく映えている。亭の窓辺に見える竹林からは秋の夜風を受けてさらさらと鳴りわたっていく。
今古一相接。 長歌懷舊游。
この謝公亭は、今の様々な別れも過去あったさまざまな出来事もそれぞれ結び合わせてくれて一にしてしまうのだ。ここで緩やかな調べを歌いうとむかしの日の交遊、遭遇、出来事のかずかずが懐かしく思い起こされるのだ。




謝亭 離別の處、風景 (つね)に愁を生ず。

客は散ず 青天の月、山 空しくして碧水 流れる。

池花 春 日に映じ、窗竹 夜 秋に鳴る。

今古 ひとえに相接する、長歌して舊游を懷う。





謝公亭 現代語訳と訳註 解説
(本文)

謝公離別處。 風景每生愁。
客散青天月。 山空碧水流。
池花春映日。 窗竹夜鳴秋。
今古一相接。 長歌懷舊游。


(下し文)
謝亭 離別の處、 風景 每(つね)に愁を生ず。
客は散ず 青天の月、 山 空しくして碧水 流れる。
池花 春 日に映じ、 窗竹 夜 秋に鳴る。
今古 ひとえに相接する、長歌して舊游を懷う。

(現代語訳)
謝公亭は いろんな別離がありそのためにある場所なのだ。辺りの風景は どんな別れに対してもいつも哀愁を感じさせているのだ
ここの客は別離の人々、青い夜空に月が輝くその下で 散り散りになっていく。だれもいなくなった山あいのこの亭には 青い、青い水だけが流れているのだ。
池に目をやれば池の中に、池の辺に春の花が日の光を受けて色明るく映えている。亭の窓辺に見える竹林からは秋の夜風を受けてさらさらと鳴りわたっていく。
この謝公亭は、今の様々な別れも過去あったさまざまな出来事もそれぞれ結び合わせてくれて一にしてしまうのだ。ここで緩やかな調べを歌いうとむかしの日の交遊、遭遇、出来事のかずかずが懐かしく思い起こされるのだ。


(訳註)

謝亭離別處。 風景每生愁。
謝公亭は いろんな別離がありそのためにある場所なのだ。辺りの風景は どんな別れに対してもいつも哀愁を感じさせているのだ
謝公亭 安徽省宣城県の郊外にあった。李白の敬愛する六朝の詩人、謝朓むかし宜州の長官であったとき建てた。苑雲という人が湖南省零陵県の内史となって行ったとき、謝朓は出来たばかりの亭で送別し、詩を作っている。○風景 同じ景色も春夏秋冬、天候によって違うもの。○每生愁 どんな条件下であってもいつも哀愁を伴うところである。晴れの日は晴れの日の哀愁が、雨の日、風の日、木枯らし、真夏の炎天の日それぞれの別れを見ている風景。凄い句である。


客散青天月。 山空碧水流。
ここの客は別離の人々、青い夜空に月が輝くその下で 散り散りになっていく。だれもいなくなった山あいのこの亭には 青い、青い水だけが流れているのだ。
碧水 別れを終えた後の月明かりの中の澄み切った水を連想させる色である。意味慎重な泣別れであろうか。

池花春映日。 窗竹夜鳴秋。
池に目をやれば池の中に、池の辺に春の花が日の光を受けて色明るく映えている。亭の窓辺に見える竹林からは秋の夜風を受けてさらさらと鳴りわたっていく。
池花春映日 この句は若い人の別れを感じさせてくれる。○窗竹夜鳴秋 風流な別れだろうか。出征兵士を送っているのか。

今古一相接。 長歌懷舊游。
この謝公亭は、今の様々な別れも過去あったさまざまな出来事もそれぞれ結び合わせてくれて一にしてしまうのだ。ここで緩やかな調べを歌いうとむかしの日の交遊、遭遇、出来事のかずかずが懐かしく思い起こされるのだ。
舊游 謝朓の時代の交友のありさまを言う。苑雲との交流を意識している。


(解説)
「ここは友人の花雲が零陵郡(湖南省零陵県)に赴任しょうとして謝桃が送別の宴を張ったところである。美しい風景も、その離別のことを思えば、見ていると悲しみの情が湧いてくる」。いったい、謝霊運は、山水の美を客観的に眺めて歌った詩人であるが、謝眺は、同じ山水の美を歌っておりながら、その中に憂愁の情をからませて歌った詩人である。自然の風景に愁いを感ずる詩人であった。そのことを意識しながら、それをさらにさまざまな場面、舞台を思い起こさせ「風景は毎に愁いを生ずる」と歌ったのである。
次の二行は、亭付近の静かな美しい風景であり、その表現も、謝眺が風景の美しきを歌う詩に似ている。あえて似せているのかもしれない。さて、「古えのことを思い浮かべて浸っていると、謝跳の遊びが思い出され、歌を歌い続けて彼を懐かしく偲んでいる」という。

 李白は尊敬しある時はその詩を模倣もした謝朓ゆかりの亭に来た。昼間は多くの人がここで別れた。出征前のひと時を過ごしたのか。同じ景色を愛でても後にはその景色だけが残っている。別れの悲しみを月、清い水、花、窓辺を静かに詠っている。別れを悲しみだけで詠わない李白、自慢の形式である。


宮島(1)

謝亭 離別の處、 風景 每(つね)に愁を生ず。
客は散ず 青天の月、 山 空しくして碧水 流れる。
池花 春 日に映じ、 窗竹 夜 秋に鳴る。
今古 ひとえに相接する、長歌して舊游を懷う。

江夏別宋之悌 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白350- 201

江夏別宋之悌 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白350- 201


江夏別宋之悌

江夏で宋之悌に別れる。
楚水清若空、遙將碧海通。
楚の国を流れる長江は、清らかに澄みきっているその上大空のようでもありその境がない。遥かに遠くまで続き東海の碧の大海原へと通じている。
人分千里外、興在一盃中。
人と人とは、千里のかなたに分かれてしまうのに、お互いの趣向にたいする思いというものは、この一杯の盃の中にこそ在るというものだ。
谷鳥吟晴日、江猿嘯晩風。
渓谷の鳥は、晴れあがった日の光をあびて鳴きひびきわたる、長江に迫る岸辺の巌上の猿は、夕暮れの風の乗せて哀しい声で鳴きつづける。
平生不下涙、於此泣無窮。

日頃は涙を流したことのない私だが、ああ、いまここでは、泣けて、泣けて限りないほど泣けてくるのだ。

江夏にて宋之悌に別る

楚水 清きこと空しきが若く、遥かに碧海と通ず。

人は千里の外に分れ、興は一盃の中に在り。

谷鳥 晴日に吟じ、江猿 晩風に嘯く。

平生は涙を下さざるに、此に於て泣くこと窮りなし



江夏別宋之悌 現代語訳と訳註 解説
(本文)
楚水清若空、遙將碧海通。
人分千里外、興在一盃中。
谷鳥吟晴日、江猿嘯晩風。
平生不下涙、於此泣無窮。

(下し文)
楚水 清きこと空しきが若く、遥かに碧海と通ず。
人は千里の外に分れ、興は一盃の中に在り。
谷鳥 晴日に吟じ、江猿 晩風に嘯く。
平生は涙を下さざるに、此に於て泣くこと窮りなし。

(現代語訳)
江夏で宋之悌に別れる。
楚の国を流れる長江は、清らかに澄みきっているその上大空のようでもありその境がない。遥かに遠くまで続き東海の碧の大海原へと通じている。
人と人とは、千里のかなたに分かれてしまうのに、お互いの趣向にたいする思いというものは、この一杯の盃の中にこそ在るというものだ。
渓谷の鳥は、晴れあがった日の光をあびて鳴きひびきわたる、長江に迫る岸辺の巌上の猿は、夕暮れの風の乗せて哀しい声で鳴きつづける。
日頃は涙を流したことのない私だが、ああ、いまここでは、泣けて、泣けて限りないほど泣けてくるのだ。


(訳註)
江夏別宋之悌
江夏で宋之悌に別れる。
江夏-現在の湖北省武漢市武昌。d-5
rihakustep足跡

 

○宋之悌-初唐の詩人宋之問の末弟。

楚水清若空、遙將碧海通。
楚の国を流れる長江は、清らかに澄みきっているその上大空のようでもありその境がない。遥かに遠くまで続き東海の碧の大海原へと通じている。
楚水 楚(湖南・湖北)の地方を流れる長江。


人分千里外、興在一盃中。
人と人とは、千里のかなたに分かれてしまうのに、お互いの趣向にたいする思いというものは、この一杯の盃の中にこそ在るというものだ。
興 詩についての興趣、心情。

谷鳥吟晴日、江猿嘯晩風。
渓谷の鳥は、晴れあがった日の光をあびて鳴きひびきわたる、長江に迫る岸辺の巌上の猿は、夕暮れの風の乗せて哀しい声で鳴きつづける。

平生不下涙、於此泣無窮。
日頃は涙を流したことのない私だが、ああ、いまここでは、泣けて、泣けて限りないほど泣けてくるのだ。


○韻字 空、通、中、風、窮。


735年、開元二十三年の作と考証されているが、詩の雰囲気がその頃のものと違うと思うので、外していた。何となく、朝廷を追われて以降、第二次放浪記の雰囲気の詩のように感じるのだ。

題江夏修静寺 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白197

題江夏修静寺 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白197


 李邕は盛唐の詩人としても注目すべき一人であるが、杜甫や李白と交際のあった点が特に注意を要する。彼は揚州の人であり、高宗の顕慶中に仕官してより硬骨の名を悉(ほしいま)まにし、そのため度々左遷され、多く地方官に任じた。義を重んじ、士を愛したため、その入京するや、士人は街路に聚って眺め、すずなりになったといふ。開元の終りに北海(山東省益都)の太守となったが、この時杜甫を招いてこれと詩を語ったことは、杜甫の「八哀詩」その他に見えている。

  陪李北海宴歴下亭  杜甫 20 
   同李太守登歷下古城員外新亭 杜甫 21
 「贈秘書監江夏の李公邕」八哀詩(5)四十二韻


 ここに至って文人を嫌う李林甫の憎しみを受け、受賄の罪に問はれて殺されたのである。朝廷側の記録では、彼はもともと細行を顧みいたちで至る所で賄賂を受け、遊猟をこととし、またその詩文によって得た金も数万に上ったとされている。杜甫の詩、特に八哀詩(5)四十二韻から見ると儒学者であったことから、李林甫への協力を完全に拒否したことにより、逆鱗に触れ、追い詰められたが、全くその姿勢を変えなかった、ということであろう。
李林甫や歴代の宰相に憎まれたのは主として、その士人に於ける人望に対する嫉妬であった (「旧唐書」190中「唐書」202)。李白もこの李邕と関係があり、既に 紀頌之の漢詩 李白188に「李邕ニ上ル」の詩があり、また「江夏ノ修静寺ニ題ス」といふ詩は後に江夏(武昌)の李邕の旧居に至っての作である。

題江夏修静寺(此寺是李北海旧宅)
我家北海宅 作寺南江濱
私が師と仰いだ李北海の旧宅がある、今、修静寺となっており、南に大河に面しており川洲のほとりにある。
空庭無玉樹 高殿坐幽人
庭園は空地にされ、立派な植木もなくなっている、座敷だったところで、隠遁者、修行者が座っている。
書帯留青草 琴堂冪素塵
日陰草が青々と生えている、琴を楽しんだ座敷は埃に覆われている。
平生種桃李 寂滅不成春

当時は、桃の木やナシの木が植えられ花が咲き誇ったように弟子たちも集まっていたものだが、寂寂としてすべて消え去って今は春なのに春の様相が全くないほど、弟子も出世したものがないのである。


我が家の北海の宅、寺となる南江の浜(ほとり)。
室庭 玉樹なく、高殿 幽人を坐せしむ。
書帯 青草を留め 、琴堂 素塵に冪(おほ)はる。
平生(へいぜい) 桃李を種えしが、寂滅して春をなさず。
 



題江夏修静寺(此寺是李北海旧宅) 訳註と解説

(本文)
我家北海宅 作寺南江濱
空庭無玉樹 高殿坐幽人
書帯留青草 琴堂冪素塵
平生種桃李 寂滅不成春

(下し文)
我が家の北海の宅、寺となる南江の浜(ほとり)。
室庭 玉樹なく、高殿 幽人を坐せしむ。
書帯 青草を留め 、琴堂 素塵に冪(おほ)はる。
平生(へいぜい) 桃李を種えしが、寂滅して春をなさず。 


私が師と仰いだ李北海の旧宅がある、今、修静寺となっており、南に大河に面しており川洲のほとりにある。
庭園は空地にされ、立派な植木もなくなっている、座敷だったところで、隠遁者、修行者が座っている。
日陰草が青々と生えている、琴を楽しんだ座敷は埃に覆われている。
当時は、桃の木やナシの木が植えられ花が咲き誇ったように弟子たちも集まっていたものだが、寂寂としてすべて消え去って今は春なのに春の様相が全くないほど、弟子も出世したものがないのである。




(語訳と注)


我家北海宅 作寺南江濱
私が師と仰いだ李北海の旧宅がある、今、修静寺となっており、南に大河に面しており川洲のほとりにある。
我家 私が師と仰いだ李北海。



空庭無玉樹 高殿坐幽人
庭園は空地にされ、立派な植木もなくなっている、座敷だったところで、隠遁者、修行者が座っている。
高殿 母屋の座敷。○幽人 世を避けている人。隠遁者、修行者。



書帯留青草 琴堂冪素塵
日陰草が青々と生えている、琴を楽しんだ座敷は埃に覆われている。
書帯 草の名。書帯草【山野草】ショタイソウ日陰で葉を長く伸ばして垂れ下がらせる.○青草 役人。官吏が着る上着。青々としたさま。 ○琴堂 琴を楽しんだ座敷。 ○(おお)はる。おおう、かぶせる(べき)



平生種桃李 寂滅不成春
当時は、桃の木やナシの木が植えられ花が咲き誇ったように弟子たちも集まっていたものだが、寂寂としてすべて消え去って今は春なのに春の様相が全くないほど、弟子も出世したものがないのである。
平生 当時。通常。最盛期。 ○桃李 どちらも希望を持つ花とし、書生、弟子、ういういしい芸妓などを指す。○寂滅 寂しくて何もないさま。弟子たちを沢山とりたてたが誰ひとり出世したものはないこと。


 李邕とその関係者は李林甫により徹底的に排除、粛清されたのだ
 朝廷は天宝年代になると、李林甫が牛耳った。やがて彼が752天宝十一載に死するや、楊貴妃の族兄揚国忠がこれに代って益々私党を樹て政権を壟断(ろうだん)したのである。この二人の共通点はがいづれも無学で猜疑心の強い、小人であったことだ。


 賞は論功のないものに与へられ、官には無能者が任ぜられた。746天宝五載、李林甫、陳希烈の二宰相傍に置いたのである。李林甫の無学で、猜疑心の小人なることは前述の如くであるが、陳希烈も安禄山の軍が長安に入城すると同時に降参し、宰相に任ぜられた無節操の徒であった。また玄宗は、また七載には宦官の高力士に驃騎大将軍の官を与へ、九載には安禄山を東平郡王に封じている。いづれも未曾有の待遇であるが、中でも蛮族の出身であり、戦功もない武将を皇族待遇としたことなど前代未聞のことであり、勢力の均衡を意図したものであったが逆に王朝の権威を失墜させることになってしまう。

 もう一つの重要な点は、長安に人口が集中し、食物の需給のバランスが取れなくなり、江南地方の穀物を運河によって供給されることに頼り切ったことである。つまり、運河を断たれたら長安は兵糧攻めに弱い都になってしまっていたのだ。現在の日本の食料自給率が40%程度だといわれているが、ある日突然、外国から食料が輸入できなくなったらどうするか、ということであり、安禄山が反乱を起こす前の数年間、食料倉庫の火災、日照り続き、755年は秋に60日間降り続いた長雨のため、穀物単価が数十倍になった。そこで、備蓄穀物を配給制で供給して、王朝の穀物倉庫に在庫がなくなっていた。


 ここで取り上げた詩は李邕の李林甫による弾圧のため死に追いやられ、弟子たちも粛清されたことを詠ったものであるが、詩の背景には、これらのことがあったのだ。

沙邱城下寄杜甫 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白190

沙邱城下寄杜甫  李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白190


沙邱城下寄杜甫  李白

「さて、お互いに飛蓬のごとくあてどなく遠く去ってゆく身である。まずは十分飲もうではないか」。
再び遇えることもない将来を予想したような詩であるが、事実、二人は再び遇うことはなかった。
李白と杜甫と直接交わって遊んだのは、一年ほどの短期間で、東魯・梁園あたりを遊び歩いていた。
心を許した杜甫に対する惜別の情を表わしている。
彼らは別れて以後、お互いを思う友情はいつまでも続いて、杜甫はその後長安にあって、しばしば李白を憶う詩を作っている。李白がのち夜郎に流されたとき、杜甫は秦州(天水)におり、「李白を夢む」二首を作っている。
一方、李白のほうも杜甫のことを思い、沙邱で、「沙郎城下にて、杜甫に寄す」がある。


沙邱城下寄杜甫

我来竟何事、高臥沙邱城。
わたしはここへやって来たが、結局何をしに来たのだろう。沙邱の城郭にいるがで話の分かる人がいないので昼寝で高枕をしている。
城邊有古樹、日夕連秋聾。
城郭のはずれには、年を食った妓女がたくさんいて、ひるも夜もないほどひっきりなしに秋の聲で泣き続けているのだ。
魯酒不可醉、齊歌空復情。
君がいないと魯の国のうすい酒には酔えないし、斉の国の歌には、ただむなしく気持がかき立てられるだけなのだ。
思君若汶水、浩蕩寄南征。
君のことを思い出すと、あの汶水の流れのように、ひろびろとただようだけなのだ、南に向って流れる水に託してこの手紙をとどけてもらおう。


我来たる竟に何事ぞ、沙郎城に高臥す。

城辺に古樹有り、日夕 秋声を連なる。

魯酒は酔う可からず、斉歌は空しく復た情あり。

君を思うことの若く、浩蕩として南征に寄す。



沙邱城下寄杜甫 訳註と解説


(本文)
我来竟何事、高臥沙邱城。
城邊有古樹、日夕連秋聾。
魯酒不可醉、齊歌空復情。
思君若汶水、浩蕩寄南征。

(下し文) 
我来たる竟に何事ぞ、沙郎城に高臥す。
城辺に古樹有り、日夕 秋声を連なる。
魯酒は酔う可からず、斉歌は空しく復た情あり。
君を思うこと汶水の若く、浩蕩として南征に寄す。
 
(現代語訳)

わたしはここへやって来たが、結局何をしに来たのだろう。沙邱の城郭にいるがで話の分かる人がいないので昼寝で高枕をしている。
城郭のはずれには、年を食った妓女がたくさんいて、ひるも夜もないほどひっきりなしに秋の聲で泣き続けているのだ。
君がいないと魯の国のうすい酒には酔えないし、斉の国の歌には、ただむなしく気持がかき立てられるだけなのだ。
君のことを思い出すと、あの汶水の流れのように、ひろびろとただようだけなのだ、南に向って流れる水に託してこの手紙をとどけてもらおう。


 
(解説)

○詩型 五言律詩
○押韻 城、聲、情、征。

沙邱城 山東省の西端に近い臨清県のとり西にあったという。○杜甫 (712-770年)李白と並び称せられる大詩人。李白より11歳年少。
 

我来竟何事、高臥沙邱城。
わたしはここへやって来たが、結局何をしに来たのだろう。沙邱の城郭にいるがで話の分かる人がいないので昼寝で高枕をしている。
○高臥 世俗を低くみて高枕すること。

城邊有古樹、日夕連秋聾。
城郭のはずれには、年を食った妓女がたくさんいて、ひるも夜もないほどひっきりなしに秋の聲で泣き続けているのだ。
城邊 街の真ん中にある場合もあるが、その場合は旅人を中心とした旅籠、城邊にあるのは芸妓を基本として舞、,踊り、歌のできるものの歓楽地であった。



魯酒不可醉、齊歌空復情。
君がいないと魯の国のうすい酒には酔えないし、斉の国の歌には、ただむなしく気持がかき立てられるだけなのだ
魯酒 魯酒薄くして郡部囲まるという語あり(「荘子」・脾俵篇)。うすい酒を意味している。ここは李白は論じ合って酒を飲み酔うことを言うので杜甫のいないことの雰囲気をあらわしている。次の句の斉歌も杜甫のいないということを考え合わせるとよくわかる。○斉歌 春秋時代の魯の国と斉の国とは、今の山東省にあった。



思君若汶水、浩蕩寄南征。
君のことを思い出すと、あの汶水の流れのように、ひろびろとただようだけなのだ、南に向って流れる水に託してこの手紙をとどけてもらおう。
汶水 山東省、泰山の南の辺を流れている川。地図に示すように泗水は泰山の南を西に流れ、南流して大運河に合流するが、汶水は西流していて南流はしていない。大運河で南に行くことになる。○浩蕩 水がひろびろとただようようすをいう。○南征 南の方にゆく。



(解説)

○詩型 五言律詩
○押韻 城、聾、情、征。


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「沙邱城」は、今のどの辺かまだ判明していない。詩中、汶水が出てくるから、その近くであろう。ただ、山東の掖県に沙邱城があったといわれる。また、泗水は南流して大運河に流入するが、汶水は清流して黄河に流入する。もっとも、その後、だいうんがにはいれば、「南征」できるが、杜甫はこの時洛陽から長安に登っている。少し杜甫を見下していたのかもしれない。

「自分がこの山東の地に来たのは、何のためか。毎日、沙邱城の地で何もせずに暮らしているばかりである」。君と別れてからは、何もすることもなく寂しいという。
「城郭のはずれには、年を食った妓女がたくさんいて、ひるも夜もないほどひっきりなしに秋の聲で泣き続けているのだ。」。君がおれば、ここで飲んでたのしむことができるだろうが、今は君がいないから一人で飲んでもつまらない。「この地方の魯の酒を飲んでも酔えない」。魯の酒は薄いといわれているが、とくにそのことを意識しているわけではなく、地酒ということであろう。「この地方の斉の歌も聞いても、ただむなしく情がかき立てられるばかりである」。酒を飲んでも、歌を聞いても、君がおらないとつまらない。
「近くを流れる汶水の流れのごとく、いつまでも君のことが思われる。はるかかなたに流れゆく汶水の流れに託して、わが思いを君に寄せたい」。杜甫を思う友情を現わす詩であって、寂しく一人酒を飲んでいる李白の姿が想像される。

李白の仙道を求め、自由を愛し、何ものにも拘束されない豪放の性格は、価値観の違いを大いに感じたものであった。

李白は、すべての事物が詩の材料である。杜甫について残された詩が少ないということは、杜甫のまじめな正義感の強い人間に対してどこまで魅力的に感じられたかというと、疑問は残る。

互いに、その詩に影響されることは全くないのである。
杜甫も李白の性格に影響されることなく、その性格のままに、自分の考える詩の道を歩き、李白のような奔放な詩は作らなかった。
お互いの個性を認めて、高く評価して称賛するにとどまるのである。

杜甫は李白の詩をきわめて高く評価して称賛している。『春日憶李白』「白の詩はかなうものが無い」とか、李白の詩の作り方は『不見』「すばやくて千首の詩ができる」とか、『寄李十二白二十韻』「筆を下ろせば風雨を驚かすほど、詩ができると鬼神を泣かせるほど」といっているほどである。


魯郡東石門送杜二甫 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白189

魯郡東石門送杜二甫 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白189



魯郡東石門送杜二甫  李白

 李白と杜甫は中国が生んだ最も偉大な詩人である。
 この二人は李白が11歳年長だったことを考慮に入れても、ほぼ同時代人であった。そこから李杜と並び称されるようにもなるが、これは単に同時代人としての併称であることを超えて、中国4000年の文学の真髄を表したものなのである。

 この二人が生きたのは8世紀の前半、盛唐と称される時代である。唐王朝が誕生して約100年、盤石であった律令体制にほころびが出始めた時期である。則天武后による逸脱、や王朝の権力闘争の陰で、柱であった均田制と府兵制、拡張しすぎた領土、王朝の維持に節度使制により、解決されるが、これが、国を大きく揺るがせる叛乱の大極元年(712)玄宗が皇位について、未曾有の繁栄を謳歌する。李白はよきにつけ悪しきに付けこの時代の雰囲気を体現して、1000首余りに上る膨大な詩を残した。

李杜の作風にはおのずから相違がある。その相違はまた中国文学の持つ二つの特質をある意味で表現したものだともいえる。杜甫の作風は堅実で繊細、しかも社会の動きにも敏感で、民衆の苦悩に同情するあまり時に社会批判的な傾向を帯びる。

それに対して李白の作風は豪放磊落という言葉に集約される。調子はリズミカルで内容は細事に拘泥せず、天真爛漫な気持ちを歌ったものが多い。社会の動きに時に目を配ることはあっても、人民の苦悩に同情するところはほとんどない。こんなこともあって、現代中国では杜甫に比較して評価が低くなってもいるが、その作風が中国文学の大きな流れのひとつを体現していることは間違いない。

李白の出自については長らく、四川省出身の漢民族だという説が有力であった。しかし前世紀の半ば以降緻密な研究が重ねられた結果、李白の一族は四川省土着のものではないということが明らかになった。彼の父とその祖先は西域を根拠としてシルクロードの貿易に従事する人たちだったらしい。その一家が李白の生まれた頃に蜀(四川省)にやってきた。そして李白が5歳の頃に、現在の四川省江油市あたりに定住した。もしかしたら、李白は漢民族ではなく、西域の血を引いていた可能性がある。


 唐の時代には、偉大な文学者はほとんどすべて官僚であった。官僚にならずに終わった人も、生涯のある時期、官僚を目指して進士の試験を受けるのが当たり前であった。ところが李白には自らこの試験を受けようとした形跡がない。彼は生涯を無衣の人として過ごすのであり、放浪に明け暮れた人生を送った。また人生の節々で色々な人と出会い、宮殿の端に列するようなこともあったが、その折の李白は文人としては敬意を評されても、一人の人間として高い尊敬を受けたとは思えない。これらのことが彼の出自と関係していることは大いに考えられる。

  遣懐(昔我遊宋中) 杜甫15大暦3年76857歳夔州

贈李白 杜甫16(李白と旅する)天宝3載74433
贈李白 杜甫17 (李白と旅する) 33

  昔遊 杜甫19(李白と旅する)大暦3年76857歳夔州
與李十二白同尋范十隱居 天宝4載74534

冬日億李白
春日憶李白 天宝5載 746 35

送孔巢父謝病歸游江東,兼呈李白35

飲中八仙歌 杜甫28   35  

10/15現在杜甫755年頃ブログ進行中 この後六首 掲載予定
秦州**********************乾元2年759年48歳
⑧五言古詩夢李白二首其の一  
⑨五言古詩夢李白二首其の二
⑩五言律詩天末懷李白
⑪五言古詩寄李十二白二十韻
成都・浣花渓**************上元2年761年50歳
⑫五言古詩 不見  
菱州**********************大暦3年768年57歳
⑬五言古詩 昔游 
⑭五言古詩 遣懷
⑮五言古詩 壯游
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李白と杜甫の別れ
 李白と杜甫の交友が始まって、何日も何日も二人は酒を酌み交わす日々が続いたが、二人の生活は一年足らずで終わることとなる。ある時、杜甫が仕官のため魯郡を離れて都に出たいと打ち明け時、李白はその無念さを酒で紛らわした詩「石門にて杜二甫を送る」がある。
これより李白と杜甫との交誼は親密度を加え、しばしば詩文を論じあうことがあった。また、二人して当時の文学の大先輩であり、もはや七十歳に近い李邕を済南に訪ねている。李邕はこのとき、北海の太守であった。李邕は『文選』に注した李善の子であって、父の注の補いもしている文選学者でもある。杜甫が後年、李邕の知遇を得たのは、このときの縁であり、杜甫が『文選』を学ぶようになったのも、この李邕のおかげである。

上李邕 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白188

746年天宝5載35歳

その年の夏、李邕が済州(済南)にやって来たので、杜甫は李邕に従い、済州の駅亭にある歴下亭や、済州城の北方にある鵲山亭での宴遊に加わって、当代の文壇のあれこれについて談じた。話は祖父審言にも及び、李邕は審言の詩の美しきを賛えた。杜甫は祖父の存在を、どんなに誇りに思ったことであろう。
 秋になって、杜甫は兗州に李白を訪ねた。李白は兗州に程近い任城(済寧)に家を構えており、二人の子供をそこに置いていた。杜甫は、すでに高天師のところから帰っていた李白と、東方にある蒙山に登って、董錬師、元逸人という道士を訪ねたり、城北に范十隠居を訪問したりしている。

杜甫③「李十二と同に花十隠居を尋ぬ」詩を見ると、李白の詩の佳句は、六朝梁の詩人、陰鐘に似ていると評している。陰鐙は、自然の美しきを歌うことが多いから、その点が似ているといっているのかもしれない。また、二人は兄弟のごとき親しさをもち、「酔うて眠るに秋には被を共にき、手を携えて日ごとに行を同にす」と歌っている。
與李十二白同尋范十隱居 杜甫
李侯有佳句,往往似陰鏗
余亦東蒙客,憐君如弟兄。
醉眠秋共被,攜手日同行。
更想幽期處,還尋北郭生。
・・・・・・・・

李白と杜甫は、このあとまもなく山東の曲阜近くの石門の地で別れることになる。杜甫は官職を求め希望を抱いて長安の都に行くためであり、李白も新しい遍歴の旅に上ることになったからである。石門の地で手を別って以来、終生再び遇うことはなかった。李白は杜甫に対して送別の詩「魯郡の東 石門にて、杜二甫を送る」を作っている。



魯郡東石門送杜二甫
酔別復幾日、登臨徧池臺。
別れを惜しんで酒に酔うことを、もう幾日くりかえしたことであろう。高い所に登って見晴らすために、池や展望台は、ことごとく廻り歩いた。
何言石門路、重有金樽開。
ああ、いつの日に、石門の路でふたたび、黄金の酒樽を開けることか。
秋波落泗水、海色明徂徠。
秋のさざ波は満水の泗水の川面に落ち、東海のはてまで澄みきった秋の色に、徂徠山は明るい。
飛蓬各自遠、且尽林中盃。

風に飛ぶ蓬根無し草のように、遠くはなればなれになってしまうぼくたち、今はともかく、手の中にある杯を飲みほそう!

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魯郡東石門送杜二甫 訳註と解説

(本文)
魯郡東石門送杜二甫
酔別復幾日、登臨徧池臺。
何言石門路、重有金樽開。
秋波落泗水、海色明徂徠。
飛蓬各自遠、且尽林中盃。

(下し文) 魯郡の東 石門にて杜二甫を送る

(現代語訳)

酔別(すいべつ)()た幾日(いくにち)ぞ、登臨(とうりん)池台(ちだい)(あまね)し。

何ぞ言わん石門(せきもん)の路(みち)、重ねて金樽(きんそん)の開く有らんと。

秋波(しゅうは)泗水(しすい)に落ち、海色(かいしょく) 徂徠(そらい)に明かなり。

飛蓬(ひほう)各自(かくじ)遠し、且(しばら)く林中(りんちゅう)の盃(はい)を尽くさん。

別れを惜しんで酒に酔うことを、もう幾日くりかえしたことであろう。高い所に登って見晴らすために、池や展望台は、ことごとく廻り歩いた。
ああ、いつの日に、石門の路でふたたび、黄金の酒樽を開けることか。
秋のさざ波は満水の泗水の川面に落ち、東海のはてまで澄みきった秋の色に、徂徠山は明るい。
風に飛ぶ蓬根無し草のように、遠くはなればなれになってしまうぼくたち、今はともかく、手の中にある杯を飲みほそう!


魯郡東石門送杜二甫
○魯郡 いまの山東省兗州市。○石門 いまの山東省曲阜県の東北、泗水の岸にあった。○杜二甫 まん中の二は、杜甫が一族の中で上から二番目の男子であることを示す。



酔別復幾日、登臨徧池臺。
別れを惜しんで酒に酔うことを、もう幾日くりかえしたことであろう。高い所に登って見晴らすために、池や展望台は、ことごとく廻り歩いた。
酔別 別れの酒に酔う。○登臨 登山臨水。



何言石門路、重有金樽開
ああ、いつの日に、石門の路でふたたび、黄金の酒樽を開けることか。
何言 「言」が日であったり、時であるばあいもある。 ○金樽 口の広い酒器、盃より大きい。



秋波落泗水、海色明徂徠。
秋のさざ波は満水の泗水の川面に落ち、東海のはてまで澄みきった秋の色に、徂徠山は明るい。
洒水 山東省を流れる川。大運河に流れ込む。黄河の支流。兗州を流れる。○徂徠 山東省奉安県の東南にある山。北に見る泰山に対する山として有名。



飛蓬各自遠、且尽林中盃。
風に飛ぶ蓬根無し草のように、遠くはなればなれになってしまうぼくたち、今はともかく、手の中にある杯を飲みほそう!
飛蓬 風に飛ぶ蓬根無し草。寒山、李賀にみえる。杜甫は「飄蓬」をよくつかう。根はないが、芯はしっかりした場合に使う。ただの風来坊には使わない。


(解説)
冒頭「酔別幾日ぞ」とは、よほど名残り惜しかったことだろう。続いて と詠んでいる。山東省滋陽県の辺りを「魯郡」という。李白は、ここの滋陽県の辺に家族を置いていた。東魯とか兗州と呼んでいたところである。た。当時、李白はこの二つを往来し、「石門」は曲阜の近くにある山である。
それとは別に、汁州の梁園(開封)に再婚の妻を置いていまた、ここを中心に各地方を遍歴していたと推定される。この詩、李白の家族の住む近くで遊んで別れることになった。作られた年代は、黄氏は、天宝三年八七四四)、四十四歳のとき、唐氏は、それよりのちの四十六歳とするが、洛陽で杜甫と会って、それからのことであるから、唐氏の説が当たっているかもしれない。
「いっしょに飲んで別れて幾日たったであろうか。きみとあらゆる名所の池や台に遊びまわった。この石門の地で別れたらもう再び飲んで遊びまわることはないかもしれない」。
「秋のけはいの中に酒水が低く流れている」。「泗水」は石門山付近を流れる。「遠くの海水の色が輝き、近くの徂徠山が明るく見えている」。「徂徠」山は、曲卓の近くにある。東の海ははるかで遠いが、秋波と対句にするためにあえていったもの。「秋波」 は秋の薄雲がなびくさまをいうか。

同王昌齡送族弟襄歸桂陽 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白179

同王昌齡送族弟襄歸桂陽 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白179


 漢の成帝の寵した飛燕皇后のことは、事実はともかくとして、この頃の人士には、記述については非常に簡単ではあったが正史である『漢書』に、優れた容姿を表現する記述がある。
その出生は卑賤であり、幼少時に長安にたどり着き、号を飛燕とし歌舞の研鑽を積み、その美貌が成帝の目にとまり後宮に迎えられた。後宮では成帝の寵愛を受け、更に妹の趙合徳を昭儀として入宮されることも実現している。成帝は趙飛燕を皇后とすることを計画する。太后の強い反対を受けるが前18年12月に許皇后を廃立し、前16年に遂に立皇后が実現した。前7年、成帝が崩御すると事態が一変する。成帝が急死したことよりその死因に疑問の声が上がり、妹の趙合徳が自殺に追い込まれている。こうした危機を迎えた趙飛燕であるが、自ら子がなかったため哀帝の即位を支持、これにより哀帝が即位すると皇太后としての地位が与えられた。しかし前1年に哀帝が崩御し平帝が即位すると支持基盤を失った

王莽により宗室を乱したと断罪され皇太后から孝成皇后へ降格が行われ、更に庶人に落とされ間もなく自殺した。

六朝時代の作なる小説「飛燕外伝」を通じてよく知られていたのである。この「飛燕外伝」に見える飛燕皇后は、宮中に入る前にすでに鳥を射る者と通じ、立后後も多くの者と姦通している。唐時代に、朝廷内のものがこの小説を知らぬはずはない。李白が朝廷に上がった段階では、楊貴妃ではなく女道士としての太真としていた。玄宗の息子の寿王の王妃であったものを奪い取ったものであることも周知のことであった。朝廷内における地位としては確立していない段階ではあったが、趙飛燕は痩身体型、楊太真は細身、グラマラスな体系であった。
これを以て貴妃に比したのは、李白にとって慎重を欠いたというだけなのか、どんな意図があったのか。

李白の詩の特徴の一は、巧みに故事をとらえて、現在の事柄と連関させる方法である。そのため現実は浪曼化され、美化される。抽象化、誇張ということもありうる。

当然、写実から遠ざかることもある。詩とは、本来そうしたものである。

歌が善く、舞を善くし、君王の寵愛はくらべるものもなく、肌膚こまやかに、姿態楚々たる美人ということを詠いあげ、曖昧模糊に表現することで、美を表出したのである。傾国などの表現とはまったくちがったものであった。

しかし、李白は早い時期に云っておくべきこと、すなわち正論があった。それは、玄宗にこんな女、それ以上のめり込むべきでない趙飛燕の末期におけるものは悲劇そのものである。それを教訓として一線を画して対処されるべきといいたかったのだ。それを聞き入れられたとしたら、朝廷は安禄山の乱を生むことはなかったし、李白ももっと生かされたであろう。楊貴妃に問題があることは誰もが分かっていたが、問題点を指摘するものより、それを自己のためにうまく利用できるかということしかなかったのである。
その正論は、「浮云蔽紫闥。 白日難回光。」(古風三十七)朝廷内、内も外も上も下も、暗雲が垂れ込め」発言する場発揮することはなかった。
榮華東流水。 萬事皆波瀾。
白日掩徂輝。 浮云無定端。
梧桐巢燕雀。 枳棘棲鴛鸞。 (古風三十九)
また、梧桐にしか止まらない猜疑心の塊のような小人、枳殻ととげばかりでもって邪魔をする者たちばかりであった。詩を完全に評価、詩人として評価してくれた賀知章は李白が入朝して間もなく引退して鏡湖周辺をご褒美に賜り故郷に帰っていった。李白の飛び出た杭にいち早く気が付き老い先短い命を故郷で過ごしたいと思うのは当然のことだったのだ。

 かくて李林甫の率いる官僚と高力氏の率いる宦官の巣窟の宮廷との双方から攻撃を受けた詩人は、長安を去るよりほかなかった。

 

同王昌齡送族弟襄歸桂陽  

秦地見碧草、楚謠對清樽。 
唐の都長安の地において君は青々と凛とした草のようである、これから帰る湖南の地には古くからの民謡があり、聖人の飲む清酒の樽があるのだ。
把酒爾何思、鷓鴣啼南園。
清酒をくみ上げ君は何を思い語るのであろうか、そこの地方の野山、庭園ににたくさんいる鷓鴣が啼くように普通のことを言っていてはいけない。
予欲羅浮隱、猶懷明主恩。
自分は蓬莱山中の一峰に隠遁したとしても、天の明主の御恩は思い続けるであろう。
躊躇紫宮戀、孤負滄洲言。
 
いろんなことがあっても、ここ天子の宮をこいしているからなかなか決めかねているのだ、ひとり神仙のすむ滄浪洲へ行くという言葉を言い出せないのだ。


 

唐の都長安の地において君は青々と凛とした草のようである、これから帰る湖南の地には古くからの民謡があり、聖人の飲む清酒の樽があるのだ。

清酒をくみ上げ君は何を思い語るのであろうか、そこの地方の野山、庭園ににたくさんいる鷓鴣が啼くように普通のことを言っていてはいけない。

自分は蓬莱山中の一峰に隠遁したとしても、天の明主の御恩は思い続けるであろう。

いろんなことがあっても、ここ天子の宮をこいしているからなかなか決めかねているのだ、ひとり神仙のすむ滄浪洲へ行くという言葉を言い出せないのだ。

 

 

 


王昌齢と同じく族弟襄が桂陽に帰るを送る
秦地 碧草を見、楚謡 清樽に対す。 
酒を把(と)ってなんぢ何をか思ふ、鷓鴣(シャコ)  南園に啼く。 
予は羅浮に隠れんと欲すれども、なほ明主の恩を懐(おも)ふ。
紫宮の恋に躊躇し、ひとり滄洲の言に負く
 

 

 

 

 

秦地見碧草、楚謠對清樽。 

唐の都長安の地において君は青々と凛とした草のようである、これから帰る湖南の地には古くからの民謡があり、聖人の飲む清酒の樽があるのだ。

碧草 李白は碧という語をよく使う。ここでは若草のこれから伸びようとするものへの表現である。○ 襄の赴く桂陽(湖南省)は昔の楚の地。

 


把酒爾何思、鷓鴣啼南園。

清酒をくみ上げ君は何を思い語るのであろうか、そこの地方の野山、庭園ににたくさんいる鷓鴣が啼くように普通のことを言っていてはいけない。

鷓鴣(シャコ)南方に多い鳥。 なくから生け捕られ、食用にされる。○ 清と濁とある。濁り酒は賢人、すなわち酒を飲みながら政治批判をすることをいうが、ここでは、ことさら清といっている。自分が政治的批判をして懲りたことを顕わしている

 


予欲羅浮隱、猶懷明主恩。

自分は蓬莱山中の一峰に隠遁したとしても、天の明主の御恩は思い続けるであろう。

○羅浮 蓬莱山中の一峰。

 


躊躇紫宮戀、孤負滄洲言。
 

いろんなことがあっても、ここ天子の宮をこいしているからなかなか決めかねているのだ、ひとり神仙のすむ滄浪洲へ行くという言葉を言い出せないのだ。

紫宮 紫微に同じく天子の宮。○滄洲 神仙のすむ滄浪洲へ行くという言葉を言い出せないのだ。

 

 

玄宗の恩を思い、宮廷を恋しくは思いながらも、彼は帝に暇を乞うた。

 玄宗はさすがにその才を惜んで慰撫した。しかし、辞意の決意の堅さを知り、金を賜って許した。君臣の間柄に他の不純なもののまじらなかったことが、李白にとってせめてもの慰めであった。

送裴十八図南歸嵩山 其二 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白165

 
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送裴十八図南歸嵩山 其二 李白:Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白165



送裴十八図南歸嵩山 其二
君思穎水綠、忽復歸嵩岑。
君は頴水のあの澄み切った緑色を思い出し、急に嵩山の高峰にまた帰ろうとしている。
歸時莫洗耳、爲我洗其心。
帰った時を境に、耳を洗うようなことはしないでくれ、わたしのために、心を洗うことをしてくれないか。
洗心得眞情、洗耳徒買名。
心を洗うことができたら、真理、情実のすがたをつかむことが出来よう。かの許由のように耳を洗って、名前が売れるだけでつまらないものだ。
謝公終一起、相與済蒼生。

晉の時代の謝安石が、ついに起ちあがって活躍した、その時は君とともに天下の人民を救うためやろうではないか。



君は頴水のあの澄み切った緑色を思い出し、急に嵩山の高峰にまた帰ろうとしている。
帰った時を境に、耳を洗うようなことはしないでくれ、わたしのために、心を洗うことをしてくれないか。
心を洗うことができたら、真理、情実のすがたをつかむことが出来よう。かの許由のように耳を洗って、名前が売れるだけでつまらないものだ。
晉の時代の謝安石が、ついに起ちあがって活躍した、その時は君とともに天下の人民を救うためやろうではないか。


裴十八図南の嵩山に帰るを送る 其の二
君は穎水(えいすい)の綠なるを思い、忽ち復た 嵩岑に帰る
帰る時 耳を洗う莫れ、我が為に 其の心を洗え。
心を洗わば 真情を得ん、耳を洗わば 徒らに名を買うのみ。
謝公 終(つい)に一たび起ちて、相与に 蒼生を済わん。

toujidaimap216




君思穎水綠、忽復歸嵩岑。
君は頴水のあの澄み切った緑色を思い出し、急に嵩山の高峰にまた帰ろうとしている。
嵩岑 嵩山のみね。岑はとがった山の状態。



歸時莫洗耳、爲我洗其心。
帰った時を境に、耳を洗うようなことはしないでくれ、わたしのために、心を洗うことをしてくれないか。
洗耳 大昔、堯の時代の許由という高潔の士は、堯から天子の位をゆずろうと相談をもちかけられたとき、それを受けつけなかったばかりか、穎水の北にゆき隠居した。堯が又、かれを招いて九州の長(当時全国を九つの州に分けていた)にしようとした時、かれはこういぅ話をきくと耳が汚れると言って、すぐさま穎水の川の水で耳を洗った。



洗心得眞情、洗耳徒買名。
心を洗うことができたら、真理、情実のすがたをつかむことが出来よう。かの許由のように耳を洗って、名前が売れるだけでつまらないものだ。
真情 真実のすがた。



謝公終一起、相與済蒼生。
晉の時代の謝安石が、ついに起ちあがって活躍した、その時は君とともに天下の人民を救うためやろうではないか。
謝公 晉の時代の謝安は、あざなを安石といい、四十歳になるまで浙江省の東山という山にこもって、ゆうゆうと寝てくらし、朝廷のお召しに応じなかった。当時の人びとは寄ると彼のうわさをした。「安石が出てこないと、人民はどうなるんだ」。謝安(しゃ あん320年 - 385年)は中国東晋の政治家。字は安石。陳郡陽夏(現河南省)の出身。桓温の簒奪の阻止、淝水の戦いの戦勝など東晋の危機を幾度と無く救った。
383年、華北を統一した前秦の苻堅は中国の統一を目指して百万と号する大軍を南下させてきた。謝安は朝廷より征討大都督に任ぜられ、弟の謝石・甥の謝玄らに軍を預けてこれを大破した。戦いが行われていた頃、謝安は落ち着いている素振りを周囲に見せるために、客と囲碁を打っていた。対局中に前線からの報告が来て、客がどうなったかを聞いたところ、「小僧たちが賊を破った」とだけ言って、特に喜びをみせなかった。客が帰った後、それまでの平然とした振りを捨てて、喜んで小躍りした。その時に下駄の歯をぶつけて折ってしまったが、それに気づかなかったという。○蒼生 あおひとぐさ。人民。庶民。天下の民事。


○韻 岑、心/名、生。


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宮中行樂詞八首其八 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白149

宮中行樂詞八首其八 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白149


宮中行樂詞八首 其八
水綠南薰殿。 花紅北闕樓。
水ゆたかに、みどりしたたる南薰殿。花は咲きほこり、紅に萌え聳えるような北闕楼。
鶯歌聞太液。 鳳吹繞瀛洲。
うぐいすの歌ごえは、大液池から聞こえてくる。鳳凰の簫の音は、蓬莱山を越え瀛洲の島を廻っている。
素女鳴珠佩。 天人弄彩毬。
宮中の素女は、身に佩びた真珠の飾りを鳴らしながら走りまわり、天の乙女は、美しい鞠を蹴ってたわむれている。
今朝風日好。 宜入未央游。
けさは、風も、日の光もすばらしい。こんな日こそ、未央宮に入って遊ぶことがふさわしい。


水ゆたかに、みどりしたたる南薰殿。花は咲きほこり、紅に萌え聳えるような北闕楼。
うぐいすの歌ごえは、大液池から聞こえてくる。鳳凰の簫の音は、蓬莱山を越え瀛洲の島を廻っている。
宮中の素女は、身に佩びた真珠の飾りを鳴らしながら走りまわり、天の乙女は、美しい鞠を蹴ってたわむれている。
けさは、風も、日の光もすばらしい。こんな日こそ、未央宮に入って遊ぶことがふさわしい。



宮中行楽詞 其の八
水は綠なり 南薫殿、花は紅なり 北闕楼。
鶯歌 太液に聞こえ、鳳吹 瀛洲を繞る。
素女は 珠佩を鳴らし、天人は 彩毬を弄す。
今朝 風日好し、宜しく未央に入りて遊ぶべし。




水綠南薰殿。 花紅北闕樓。
水ゆたかに、みどりしたたる南薰殿。花は咲きほこり、紅に萌え聳えるような北闕楼。
○南薫殿・北闕樓 いずれも唐代の長安の宮殿の名。北の見張り台のある楼閣。左右に石の高さ15メートル以上石壁がありその上に大きな宮殿のような楼閣が聳えるように建っていた玄武殿と玄武門をさす。



鶯歌聞太液。 鳳吹繞瀛洲。
うぐいすの歌ごえは、大液池から聞こえてくる。鳳凰の笙の音は、蓬莱山を越え瀛洲の島を廻っている。
太液 池の名。漢の太液池は漢の武帝が作った。池の南に建章宮という大宮殿を建て、池の中には高さ二十余丈の漸台というものを建て、長さ三文の石の鯨を刻んだ。また、池に三つの島をつくり、はるか東海にあって仙人が住むと信じられた瀛洲・蓬莱・方丈の象徴とした。漢の成帝はこの池に舟をうかべ、愛姫趙飛燕をのせて遊びたわむれた。唐代においても、漢代のそれをまねて、蓬莱殿の北に太液池をつくり、池の中の島を蓬莱山とよんだという。○鳳吹 笙(しょうのふえ)のこと。鳳のかたちをしている。○瀛洲 仙島の一つ。別に蓬莱、方丈がある。



素女鳴珠佩。 天人弄彩毬。
宮中の素女は、身に佩びた真珠の飾りを鳴らしながら走りまわり、天の乙女は、美しい鞠を蹴ってたわむれている。
素女 仙女の名。瑟(琴に似た楽器)をひくのが上手といわれる。○珠佩 真珠のおびもの。礼服の装飾で、玉を貫いた糸を数本つないで腰から靴の先まで垂れ、歩くとき鳴るようにしたもの。宮中に入るものすべてのものがつけていた。階級によって音が違った。○天人 仙女。天上にすむ美女。天の乙女。○彩毬 美しい模様の鞠。



今朝風日好。 宜入未央游。
けさは、風も、日の光もすばらしい。こんな日こそ、未央宮に入って遊ぶことがふさわしい。
未央 漢の皇居の正殿の名。中国、漢代に造られた宮殿。高祖劉邦(りゅうほう)が長安の竜首山上に造営したもの。唐代には宮廷の内に入った。

宮中行樂詞八首其七 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白148

宮中行樂詞八首其七 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白148

高貴な階級ほどエロティックな詩を喜んだ。「玉台新詠集」などその典型で、詠み人は皇帝、その親族、、高級官僚である。ここでいう行楽とは、冬は奥座敷の閨の牀で行った性交を屋外でするという意味を含んでいる。それを前提におかないと宮中行楽詞は意味不明の句が出てくる。この詩の舞台には儒教的生活は存在しないのである。




宮中行樂詞八首 其七
寒雪梅中盡、春風柳上歸。
つめたい雪は梅の花のなかで消えてなくなった、香しい春風のような女は柳の木のような男の腕の中にに帰ってきた。
宮鶯嬌欲醉、簷燕語還飛。
宮中のうぐいすの役割の宮妓は、ほんのりと酔いごこち愛らしくなる。のきばのつばめの役割の宮女は、また飛んで行ったり帰ったりして言葉を伝えている。
遲日明歌席、新花艷舞衣。
待っているとなかなか日が暮れない春の日が、歌の席が明るいままである。新らしい歌い手が花と咲き、舞姫の衣はいっそうなまめかしい。
晚來移綵仗、行樂泥光輝。

日暮れになると、着飾った衛兵を移動する、野外で行なわれる楽しいことは光り輝きをやわらかくしている



つめたい雪は梅の花のなかで消えてなくなった、香しい春風のような女は柳の木のような男の腕の中にに帰ってきた。
宮中のうぐいすの役割の宮妓は、ほんのりと酔いごこち愛らしくなる。のきばのつばめの役割の宮女は、また飛んで行ったり帰ったりして言葉を伝えている。
待っているとなかなか日が暮れない春の日が、歌の席が明るいままである。新らしい歌い手が花と咲き、舞姫の衣はいっそうなまめかしい。
日暮れになると、着飾った衛兵を移動する、野外で行なわれる楽しいことは光り輝きをやわらかくしている。


宮中行楽詞 其の七
寒雪 梅中に尽き、春風 柳上に帰る。
宮鶯 嬌として酔わんと欲し、簷檐燕 語って還た飛ぶ。
遅日 歌席明らかに、新花 舞衣 艶なり。
晩来 綵仗を移し、行楽 光輝に泥かし。



寒雪梅中盡、春風柳上歸。
つめたい雪は梅の花のなかで消えてなくなった、香しい春風のような女は柳の木のような男の腕の中にに帰ってきた。

宮鶯嬌欲醉、簷燕語還飛。
宮中のうぐいすの役割の宮妓は、ほんのりと酔いごこち愛らしくなる。のきばのつばめの役割の宮女は、また飛んで行ったり帰ったりして言葉を伝えている。
簷燕 のきばのつばめ。

遲日明歌席、新花艷舞衣。
待っているとなかなか日が暮れない春の日が、歌の席が明るいままである。新らしい歌い手が花と咲き、舞姫の衣はいっそうなまめかしい。
遲日 日が長くなる春。なかなか日が暮れない。「詩経」の豳風(ひんふう)に「七月ふみづき」
七月流火  九月授衣  春日載陽  有鳴倉庚  
女執深筐  遵彼微行  爰求柔桑  春日遅遅
采蘩祁祁  女心傷悲  殆及公子同歸
一緒になりたい待っている女心を詠っている。
歌席 音楽の演奏会。

晚來移綵仗、行樂泥光輝。
日暮れになると、着飾った衛兵を移動する、野外で行なわれる楽しいことは光り輝きをやわらかくしている。
晩来 夕方。○綵仗 唐の制度では、宮殿の下の衛兵を仗という。綵は、着飾ってはなやかなという形容、飾り物が華麗である場合に使用する。別のテキストでは彩としている。この場合は色のあでやかさの場合が多い。○行楽泥光輝 野外において性的行為をする光景を詠っている。光と影が交錯していること。景色を泥はやわらかくする。

宮中行樂詞八首其六 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白147

宮中行樂詞八首其六 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白147


宮中行樂詞八首 其六
今日明光里。 還須結伴游。
今日の日の明るいうちの明光殿のなかのことである、また、たくさんの美女たちがあつまって遊んでいる。
春風開紫殿。 天樂下珠樓。
宮女たちのかぐわしい春風が紫殿に充満している、天上にふさわしい音楽が真珠の楼閣におりてくる。
艷舞全知巧。 嬌歌半欲羞。
なまめかしい姿の舞姫は、すべての技巧を知りつくし踊る、かわいいしぐさの歌姫は、すこしばかり恥ずかしそうにさそっている。
更憐花月夜。 宮女笑藏鉤。

北斎の憐のような琴や踊りの上手い宮女や月のような宮女たちの夜が楽しい、宮女たちが蔵鉤のあそびになって笑いころげているのである。


今日の日の明るいうちの明光殿のなかのことである、また、たくさんの美女たちがあつまって遊んでいる。
宮女たちのかぐわしい春風が紫殿に充満している、天上にふさわしい音楽が真珠の楼閣におりてくる。
なまめかしい姿の舞姫は、すべての技巧を知りつくし踊る、かわいいしぐさの歌姫は、すこしばかり恥ずかしそうにさそっている。
北斎の憐のような琴や踊りの上手い宮女や月のような宮女たちの夜が楽しい、宮女たちが蔵鉤のあそびになって笑いころげているのである。



宮中行楽詞 共の六
今日 明光の裏、還た須らく伴を結んで遊ぶべし。
春風 紫殿を開き、天樂 珠樓に下る。
艷舞 全く巧を知る。 嬌歌 半ば羞じんと欲す。
更に憐れむ 花月の夜、 宮女 笑って藏鉤するを。



今日明光里。 還須結伴游。
今日の日の明るいうちの明光殿のなかのことである、また、たくさんの美女たちがあつまって遊んでいる。
明光 漢代の宮殿の名。「三輔黄図」という宮苑のことを書いた本に「武帝、仙を求め、明光宮を起し、燕趙の美女二千人を発して之に充たす」とある。



春風開紫殿。 天樂下珠樓。
宮女たちのかぐわしい春風が紫殿に充満している、天上にふさわしい音楽が真珠の楼閣におりてくる。
紫殿 唐の大明宮にもある。「三輔黄図」にはまた「漢の武帝、紫殿を起す」とある。漢の武帝が神仙の道を信じ、道士たちにすすめられて、大規模な建造物をたくさん建てたことは、吉川幸次郎「漢の武帝」(岩波新書)にくわしい。玄宗も同じように道教のために寄進している。



艷舞全知巧。 嬌歌半欲羞。
なまめかしい姿の舞姫は、すべての技巧を知りつくし踊る、かわいいしぐさの歌姫は、すこしばかり恥ずかしそうにさそっている。



更憐花月夜。 宮女笑藏鉤。
北斎の憐のような琴や踊りの上手い宮女や月のような宮女たちの夜が楽しい、宮女たちが蔵鉤のあそびになって笑いころげているのである。
憐花 北斉の後主高給が寵愛した馮淑妃の名。燐は同音の蓮とも書かれる。もとは穆皇后の侍女であったが、聡明で琵琶、歌舞に巧みなのが気に入られて穆皇后への寵愛がおとろえ、後宮に入った。○蔵鉤 遊戯の一種。魏の邯鄲淳の「芸経」によると、じいさん、ばあさん、こどもたちがこの遊戯をしていたという三組にわかれ、一つの鈎を手の中ににぎってかくしているのを、他の組のものが当て、たがいに当てあって勝敗をきそう。漢の武帝の鈎弋夫人は、幼少のころ、手をにぎったまま開かなかった。武帝がその拳にさわると、ふしぎと閲いたが、手の中に玉の釣をにぎっていた。蔵鈎の遊戯は鈎弋夫人の話から起ったといわれている。
これをもとに宮妓たちの間では送鉤という遊びをしていた。二組の遊びで、艶めかしい遊びに変化したようだ。


宮中行樂詞八首其五 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白146

宮中行樂詞八首其五 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白146



宮中行樂詞八首 其五
繡戶香風暖。 紗窗曙色新。
きれいな飾りのある扉には、香しい春風が吹いて暖かくなった。うす絹をはった窓には、あけぼのの光が鮮やかで清新な明るさだ。
宮花爭笑日。 池草暗生春。
宮妓たちが微笑み、花々が競って咲き誇る春の日。池のほとりの草も、いつのまにか、春のいのちをもやしはじめる。
綠樹聞歌鳥。 青樓見舞人。
綠の木の間からは、歌う鳥の声がきこえ、昔、名君がすごした青い楼閣の上には、舞う美人の姿がみえる。
昭陽桃李月。 羅綺自相親。
趙飛燕が愛された昭陽殿では、桃花や李花のような美人が月の寝室で待つ、うす絹やあや絹の宮妓は互いに愛しあっている。


きれいな飾りのある扉には、香しい春風が吹いて暖かくなった。うす絹をはった窓には、あけぼのの光が鮮やかで清新な明るさだ。
宮妓たちが微笑み、花々が競って咲き誇る春の日。池のほとりの草も、いつのまにか、春のいのちをもやしはじめる。
綠の木の間からは、歌う鳥の声がきこえ、昔、名君がすごした青い楼閣の上には、舞う美人の姿がみえる。
趙飛燕が愛された昭陽殿では、桃花や李花のような美人が月の寝室で待つ、うす絹やあや絹の宮妓は互いに愛しあっている。


宮中行楽詞 其の五
繍戸 香風暖かに、紗窓 曙色新たなり。
宮花 争って日に笑い、池草 暗に春を生ず。
綠樹には 歌鳥を聞き、青楼には 舞人を見る。
昭陽 桃李の月、羅綺を白のずから相親しむ



繡戶香風暖。 紗窗曙色新。
きれいな飾りのある扉には、香しい春風が吹いて暖かくなった。うす絹をはった窓には、あけぼのの光が鮮やかで清新な明るさだ。
繍戸 きらびやかに飾りたてた扉。宮中の女の部屋をさす。〇紗窗 薄絹を張った窓。○曙色 あけぼのの光。



宮花爭笑日。 池草暗生春。
宮妓たちが微笑み、花々が競って咲き誇る春の日。池のほとりの草も、いつのまにか、春のいのちをもやしはじめる。
宮花争笑日 「劉子新論」に「春の葩は日を含みで笑うが似く、秋の葉は露に泫おいて泣くが如し」とある。宮妓たちが微笑み、花々が競って咲き誇る春の日。○弛草幡生春 南宋、謝霊運の長詩「登池上楼閣」
・・・・・・
初景革緒風、新陽改故陰。
池塘春草生、園柳変鳴禽。
・・・・・・
「池塘春草生じ、園柳鳴禽に変ず」から。
池のほとり(堤)に芽吹きがある、春が来た
同じKanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 李白「灞陵行送別」
上有無花之古樹、下有傷心之春草。とある。同じように使用している。



綠樹聞歌鳥。 青樓見舞人。
綠の木の間からは、歌う鳥の声がきこえ、昔、名君がすごした青い楼閣の上には、舞う美人の姿がみえる。
青楼 「南史」に、斉の武帝は、興光楼上に青い漆をぬり、世人これを青楼とよんだ、とある。
武帝(ぶてい、440年 - 493年)は、斉の第2代皇帝。姓は蕭、諱は賾。高帝蕭道成の長子。 父の死で即位する。即位後は国力増強に力を注ぎ、大規模な検地を実施した。あまりに厳しい検地であったため、逆に農民の反発を招くこととなってしまったこともあったが、反乱自体は微弱なものに過ぎず、検地は結果的に大成功したという。また戸籍を整理したり、貴族の利権を削減して皇帝権力の強化に務めるなどの政治手腕を見せた。このため、武帝は南朝における名君の一人として讃えられている。



昭陽桃李月。 羅綺自相親。
趙飛燕が愛された昭陽殿では、桃花や李花のような美人が月の寝室で待つ、うす絹やあや絹の宮妓は互いに愛しあっている。
昭陽 趙飛燕の宮殿の名。○羅綺 うすぎぬとあやぎぬと。○羅綺自相親 羅綺をつけた人びと(官女)がたがいに親しみあうという意味。



  李白の詩は儒教手解釈では理解できない。当時は身分の高い人たち中でこそ、下ネタをうまく詠いこむことが洒落であった。解釈書、漢詩紹介の本に欠如しているのは、あるいは、意味不明とされている。洒落として解釈しないとりかいできないのだ。解釈は詩人の主張する通りに理解しないといけない。そうでないと、つまらない詩のままで終わる。このブログでは、詩人はエロチックな表現によって体制批判をしていることが多い。この「宮中行樂詞八首其五」は間違いなく艶情詩なのだ。
後宮は、天界、、仙界、極楽を具現化したものであり、それを利用し、その世界を詠うものである。 
唐朝 大明宮01

宮中行樂詞八首其四 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白145

宮中行樂詞八首其四 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白145
宮中行樂詞八首 其四 李白145


宮中行樂詞八首 其四
玉樹春歸日。金宮樂事多。
宮中の威厳のある立派な木々に春がもどってくる日々、黄金の宮では春の楽しい行事が多くなってくる。
後庭朝未入。輕輦夜相過。
奥の御殿、ここへは天子が朝は入って行かれることはない。軽い手くるま、夜の訪れに伴い、これにのってお通りになる。
笑出花間語。嬌來竹下歌。
ほほえみは花を咲かせ、歓びの声は花の間の話からおこる、可愛がられる時が来た、蝋燭の光、簾の下の歌のような声にあふれた
莫教明月去。留著醉嫦蛾。

あの美しい月のような美人を帰らせてはいけない。引きとどめておいて、月の精の嫦娥を酔わせるのだ。



宮中の威厳のある立派な木々に春がもどってくる日々、黄金の宮では春の楽しい行事が多くなってくる。
奥の御殿、ここへは天子が朝は入って行かれることはない。軽い手くるま、夜の訪れに伴い、これにのってお通りになる。
ほほえみは花を咲かせ、歓びの声は花の間の話からおこる、可愛がられる時が来た、蝋燭の光、簾の下の歌のような声にあふれた
あの美しい月のような美人を帰らせてはいけない。引きとどめておいて、月の精の嫦娥を酔わせるのだ。

 
宮中行楽詞 其の四
玉樹 春帰る日、金宮 楽事多し
後庭 朝に未だ入らず、輕輦 夜 相過ぐ。
笑いは花間の語に出で、嬌は燭下の歌に来る。
明月をして去らしむる莫れ、留著して 嫦蛾を酔わしめん



玉樹春歸日。金宮樂事多。
宮中の威厳のある立派な木々に春がもどってくる日々、黄金の宮では春の楽しい行事が多くなってくる。
玉樹 りっばな木。○金宮 こがね作りの宮殿。



後庭朝未入。輕輦夜相過。
奥の御殿、ここへは天子が朝は入って行かれることはない。軽い手くるま、夜の訪れに伴い、これにのってお通りになる。
後庭 後宮。宮中の奥御殿○朝 朝は、日の出に朝礼が行われ、列を整えて礼をする。その後、天下の政事、諸事をおこなう。○輕輦 手車の呼び方を変えている。「其一」・歩輩 手車。人がひく車。人力車。「其二」・雕輦 彫刻をほどこした手くるま。宮中において天子のみが使用する車で宮中を象徴するものとしてとらえている。



笑出花間語。嬌來竹下歌。
ほほえみは花を咲かせ、歓びの声は花の間の話からおこる、可愛がられる時が来た、蝋燭の光、簾の下の歌のような声にあふれた。
花間 宮女の話し声。花は宮女。○ 美しい。艶めかしい。声や色合いが美しい。可愛がる。○竹下歌 紙のない時代は紙の代わりに用いた。蝋燭のもとで竹に書き物をする。また、竹の簾のもと、閨を意味しそこでの男女の情交の際の声を歌で示した。



莫教明月去。留著醉嫦蛾。
あの美しい月のような美人を帰らせてはいけない。引きとどめておいて、月の精の嫦娥を酔わせるのだ。
留著 とめておく。○嫦蛾 。古代の神話中の女性。努という弓の名人の妻であったが、夫が酎欝が(仙女)からもらってきた不死の薬。宮中では、不死薬は媚薬でもあり、精力増強剤とされていた。それを、夫のるすの問にぬすんでのんだため、体が地上をはなれて月にむかってすっとび、それいらい、月の精となった。月の世界で、「女の盛りに、一人で、待っている女性」という意味でつかわれる。魯迅の「故事新編」の中の「奔月」は、この話がもとになっている。

紀頌之漢詩ブログ 李白 97 把酒問月  
白兔搗藥秋復春,嫦娥孤棲與誰鄰。

嫦娥 李商隠
雲母屏風燭影深、長河漸落暁星沈。
嫦娥應悔倫塞薬、碧海青天夜夜心。


紀頌之漢詩ブログ 李商隠 嫦娥
1. 道教の影響 2. 芸妓について 3. 李商隠 12 嫦娥

宮中行樂詞八首其三 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 李白144

宮中行樂詞八首其三 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 李白144



宮中行樂詞八首 其三
盧橘為秦樹、蒲桃出漢宮。
枇杷はもともと湘南の果物、それが今や秦の地方の木になった、ぶどうもまた、この漢の宮殿の中でできる。
煙花宜落日、絲管醉春風。
春霞と咲きほこる花に、落ちかかる日のひかりがその場所にうまい具合にあたっている。音楽が、うきうきと酔いごこちで、春風にのって流れている。
笛奏龍吟水、蕭鳴鳳下空。
笛をかなでると、竜が水の中で鳴きだしてくる、簫をふくと、鳳が空からまいおりてくる。
君王多樂事、還與萬方同。
国の天子には、楽しい行事がたくさんおありでしょう、やはり、天下のこと、万事に楽しまれることでありましょう。



枇杷はもともと湘南の果物、それが今や秦の地方の木になった、ぶどうもまた、この漢の宮殿の中でできる。
春霞と咲きほこる花に、落ちかかる日のひかりがその場所にうまい具合にあたっている。音楽が、うきうきと酔いごこちで、春風にのって流れている。
笛をかなでると、竜が水の中で鳴きだしてくる、簫をふくと、鳳が空からまいおりてくる。
国の天子には、楽しい行事がたくさんおありでしょう、やはり、天下のこと、万事に楽しまれることでありましょう。


宮中行楽詞 其の三
盧橘は 秦樹と為り、 蒲桃は漢宮より出づ。
煙花 落日に宜しく、 絲管 春風に醉う。
笛奏 龍 水に鳴き、 蕭吟 鳳 空より下る。
君王 樂事多く、 還た 萬方と同じくする。

 


盧橘為秦樹、 蒲桃出漢宮。
枇杷はもともと湘南の果物、それが今や秦の地方の木になった、ぶどうもまた、この漢の宮殿の中でできる。
盧橘 果樹、枇杷の別名。もと南方の植物。戴叔倫の「湘南即事」に「盧橘花開楓菓哀」とあるのもそれがもとは南方の風物であることを示したもの。○ 長安の地方。Kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 李商隠37「寄令狐郎中」では
嵩雲秦樹久離居、雙鯉迢迢一紙書。
休問梁園舊賓客、茂陵秋雨病相如。
秦樹は長安を長い時代見ていた樹という意味に使っている。
蒲桃 葡萄。ぶどう。ペルシャ原産で、西域を通って中国に入ったのは、漢の武帝のときである。



煙花宜落日、絲管醉春風。
春霞と咲きほこる花に、落ちかかる日のひかりがその場所にうまい具合にあたっている。音楽が、うきうきと酔いごこちで、春風にのって流れている。
煙花 かすみと花。○絲管 弦楽器と管楽器。つまり、音楽。

 

笛奏龍鳴水、蕭吟鳳下空。
笛をかなでると、竜が水の中で鳴きだしてくる、簫をふくと、鳳が空からまいおりてくる。
節奏竜鳴水 漢の馬融の「笛の賦」によれば、西方の異民族である羌の人が、竹を伐っていると、竜があらわれて水中で鳴いた。すぐに竜は見えなくなったが、羌人が、きり出した竹でつくった笛を吹くと、竜のなき声と似ていたという。竜は、空想の動物である。○蕭吟鳳下空 簫は管楽器の一種。「列仙伝」に、蕭史という人が、上手に簫を吹いた。すると鳳凰がとんで来て、その家の屋根に止まった、とある。鳳凰もまた、空想の動物である。鳳がおす、凰がめす。



君王多樂事、還與萬方同。
国の天子には、楽しい行事がたくさんおありでしょう、やはり、天下のこと、万事に楽しまれることでありましょう。
万方 万国と同じ。天下、万事のこと。

宮中行樂詞八首 其二 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白143

宮中行樂詞八首 其二 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白143



宮中行樂詞八首 其二
柳色黃金嫩、梨花白雪香。
芽をふき出したばかりの柳の色は、黄金のようにかがやき、しかも見るからにやわらかく若い(玄宗皇帝)。梨の花は、まっ白な雪のよう、しかも、よい香をはなっている(楊太真)。
玉樓巢翡翠、珠殿鎖鴛鴦。
宝玉でかざりたてた楼閣には、うつくしい羽根をもつかわせみの巣がある。真珠をちりばめた御殿には、夫婦仲むつまじいおしどりが、とじこもりの場所である。
選妓隨雕輦、徵歌出洞房。
天子はすぐれた宮妓の者をえらばれ、手ぐるまのあとについて歩くよう命じられる。また、歌手をよびよせて、奥の部屋にいたものに出て来るよう命じられる。
宮中誰第一、飛燕在昭陽。

宮中において美人といえば、誰が第一だろうか。飛燕だ、宮中のはなやいだ昭陽殿に在られるのだ。



芽をふき出したばかりの柳の色は、黄金のようにかがやき、しかも見るからにやわらかく若い(玄宗皇帝)。梨の花は、まっ白な雪のよう、しかも、よい香をはなっている(楊太真)。
宝玉でかざりたてた楼閣には、うつくしい羽根をもつかわせみの巣がある。真珠をちりばめた御殿には、夫婦仲むつまじいおしどりが、とじこもりの場所である。
天子はすぐれた宮妓の者をえらばれ、手ぐるまのあとについて歩くよう命じられる。また、歌手をよびよせて、奥の部屋にいたものに出て来るよう命じられる。
宮中において美人といえば、誰が第一だろうか。飛燕だ、宮中のはなやいだ昭陽殿に在られるのだ。


宮中行楽詞 其の二
柳色(りゅうしょく)  黄金にして嫩(やわら)か、梨花(りか)  白雪(はくせつ)にして香(かんば)し。
玉楼(ぎょくろう)には翡翠(ひすい)巣くい、珠殿(しゅでん)には鴛鴦(えんおう)を鎖(とざ)す。
妓(ぎ)を選んで雕輦(ちょうれん)に随わしめ、歌を徴(め)して洞房(どうぼう)を出(い)でしむ。
宮中(きゅうちゅう)  誰か第一なる、飛燕(ひえん)  昭陽(しょうよう)に在り。

 

柳色黃金嫩、梨花白雪香。
芽をふき出したばかりの柳の色は、黄金のようにかがやき、しかも見るからにやわらかく若い(玄宗皇帝)。梨の花は、まっ白な雪のよう、しかも、よい香をはなっている(楊太真)。
柳色 男性を示唆する柳で玄宗。楊は女性を示す。○ 物がまだ新しく、若くて、弱い状態。○梨花 女性を示唆する、楊太真(貴楊妃)。



玉樓巢翡翠、珠殿鎖鴛鴦。
宝玉でかざりたてた楼閣には、うつくしい羽根をもつかわせみの巣がある。真珠をちりばめた御殿には、夫婦仲むつまじいおしどりが、とじこもりの場所である。
○玉楼 宝玉でかざり立てた楼閣。○翡翠 かわせみ。うつくしい羽根の鳥。○珠殿 真珠をちりばめた御殿。○鴛鴦 おしどり。おす(鴛)と、めす(鴦)と仲むつまじい鳥。

 

選妓隨雕輦、徵歌出洞房。
天子はすぐれた宮妓の者をえらばれ、手ぐるまのあとについて歩くよう命じられる。また、歌手をよびよせて、奥の部屋にいたものに出て来るよう命じられる。
 宮妓、種種の妓芸を演じて人をたのしませる俳優のこと。○雕輦 彫刻をほどこした手ぐるま。〇洞房 奥ぶかい部屋。



宮中誰第一、飛燕在昭陽。
宮中において美人といえば、誰が第一だろうか。飛燕だ、宮中のはなやいだ昭陽殿に在られるのだ。
○飛燕 漢の成帝の愛姫、超飛燕。もとは長安の生れで身分は低かったが、歌や舞がうまく、やせ型の美人で、その軽やかな舞はツバメが飛ぶようであったから、飛燕とよばれた。ある時、おしのびで遊びに出た成帝の目にとまり、その妹とともに宮中に召され、帝の寵愛を一身にあつめた。十余年、彼女は日夜、帝を誘惑したので、しまいに帝は精根つきはてで崩御した。晩年、彼女は不遇となり、さいごには自殺した。彼女は漢代随一の美女とされている。また、やせた美人の代表は漢の趙飛燕、ふとった美人の代表は唐の楊貴妃とされているが、唐詩において趙飛燕をうたうとき、多くの易合、玄宗の後宮における第一人者、楊貴妃そのひとを暗に指す。もっともこの時期は楊太真で、李白が都を追われた後、楊貴妃となる。○昭陽 趙飛燕がすんでいた宮殿の名。

宮中行樂詞八首其一  李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白142

宮中行樂詞八首其一 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白143


宮中行楽詞 其一
小小生金屋、盈盈在紫微。
小さい子供のときから、黄金で飾った家でそだてられ、みずみずしいうつくしさで天子の御殿に住んでいる。
山花插寶髻、石竹繡羅衣。
なでしこの花一輪を、宝で飾った髪のもとどりに挿しはさみ、セキチクの模様のうすぎぬの上衣に刺繍してある。
每出深宮里、常隨步輦歸。
奥の御殿の中から出るごとに、いつも手車のあとについて歩いてゆく。
只愁歌舞散、化作彩云飛。
すこし心配になることがある。美女たちが歌をうたい舞いおわってしまったら、そのまま美しい色の雲となって、飛んでゆくのではないかと。


五重塔(1)


小さい子供のときから、黄金で飾った家でそだてられ、みずみずしいうつくしさで天子の御殿に住んでいる。
なでしこの花一輪を、宝で飾った髪のもとどりに挿しはさみ、セキチクの模様のうすぎぬの上衣に刺繍してある。
奥の御殿の中から出るごとに、いつも手車のあとについて歩いてゆく。
すこし心配になることがある。美女たちが歌をうたい舞いおわってしまったら、そのまま美しい色の雲となって、飛んでゆくのではないかと。



宮中行楽詞一其の一
小小にして 金屋に生れ、盈盈として 紫微に在り。
山花 宝撃に挿しはさみ、石竹 羅衣を繡う。
深宮の裏每び出ず、常に歩を肇めて歸るに従う。
只だ愁う 歌舞の散じては、化して綜雲と作りて飛ばんことを



宮中行楽詞 宮中における行楽の歌。李白は数え年で四十二歳から四十四歳まで、足かけ三年の間、宮廷詩人として玄宗に仕えた。この宮中行楽詞八首と、つぎの晴平調詞三首とは、李白の生涯における最も上り詰めた時期の作品である。唐代の逸話集である孟棨の「本事詩」には、次のような話がある。

 玄宗皇帝があるとき、宮中での行楽のおり、側近の高力士にむかって言った。「こんなに良い季節、うるわしい景色を前にしながら、単に歌手の歌をきいてたのしむだけでは物足りぬ。天才の詩人が来て、この行楽を詩にうたえば、後の世までも誇りかがやかすことであろう」と。そこで、李白が召されたのだ。李白はちょうど皇帝の兄の寧王にまねかれて酒をのみ、泥酔していたが、天子の前にまかり出ても、ぐったりとなっていた。玄宗は、この奔放な詩人に、律詩を十首つくるよう命じた。五言律詩は、対句が基本、最も定型的な詩形である。李白はあまり得意としない詩形であった。玄宗は知っていて、酔っているので命じたのである。そし二、三人の側近に命じて、李白を抱きおこさせ、墨をすらせ、筆にたっぷり警ふくませて李白に持たせ、朱の糸で罫をひいた絹幅を李白の前に張らせた。李白は筆とると、少しもためらわず、十篇の詩を、たちまち書きあげた。しかも、完璧なもので、筆跡もしっかりし、律詩の規則も整っていた。現在は八首のこっている。


小小生金屋、盈盈在紫微。
小さい子供のときから、黄金で飾った家でそだてられ、みずみずしいうつくしさで天子の御殿に住んでいる。
小小 年のおさないこと。○金屋 漢の武帝の故事。鷺は幼少のころ、いとこにあたる阿矯(のちの陳皇后)を見そめ、「もし阿舵をお嫁さんにもらえるなら、慧づくりの家(金星)の中へ入れてあげる」と言った。吉川幸次郎「漠の武帝」(岩波誓)にくわしい物語がある。○盈盈 みずみずしくうつくしいさま。古詩十九首の第二首に「盈盈たり楼上の女」という句がある。○紫微 がんらいは草の名。紫微殿があるため皇居にたとえる。



山花插寶髻、石竹繡羅衣。
なでしこの花一輪を、宝で飾った髪のもとどりに挿しはさみ、セキチクの模様のうすぎぬの上衣に刺繍してある。
寶髻 髻はもとどり、髪を頂に束ねた所。宝で飾りたてたもとどり。○石竹 草の名。和名セキチク。別称からなでしこ。葉は細く、花は紅・自または琶音ごろ開く。中国原産であって、唐代の人もこの花の模様を刺繍して、衣裳の飾りとした。○羅衣 うすぎねのうわぎ。



每出深宮里、常隨步輦歸。
奥の御殿の中から出るごとに、いつも手車のあとについて歩いてゆく。
歩輩 手車。人がひく車。人力車。



只愁歌舞散、化作彩云飛。
すこし心配になることがある。美女たちが歌をうたい舞いおわってしまったら、そのまま美しい色の雲となって、飛んでゆくのではないかと。
彩云 いろどり模様の美しい雲。



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對酒憶賀監二首 其二 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白135

對酒憶賀監二首 其二  李白135  賀知章の思い出(2) 



對酒憶賀監二首 其二
狂客歸四明。 山陰道士迎。
奇抜な振る舞いをする王羲之の再来といわれる文人が四明山に帰ったときには、山陰地方の道士全員で出迎えた。
敕賜鏡湖水。 為君台沼榮。
官を辞しての帰郷に際して天子から鏡湖の地帯を賜わったが、君のおかげで、この地域の人々、高台や沼、湖も栄誉を受けて、これから繁栄するのだ。
人亡余故宅。 空有荷花生。
人はなくなってしまったら、古い屋敷が残るのだ、そして賜った鏡湖にはむなしくハスの花が咲きほこる。
念此杳如夢。 淒然傷我情。

これまでのいろんなことを思いだすと、すべてが夢のように消え去ってしまう、よき理解者であっただけにすさまじいものさびしさがわたしのこころをかなしくさせるのだ。


奇抜な振る舞いをする王羲之の再来といわれる文人が四明山に帰ったときには、山陰地方の道士全員で出迎えた。
官を辞しての帰郷に際して天子から鏡湖の地帯を賜わったが、君のおかげで、この地域の人々、高台や沼、湖も栄誉を受けて、これから繁栄するのだ。
人はなくなってしまったら、古い屋敷が残るのだ、そして賜った鏡湖にはむなしくハスの花が咲きほこる。

これまでのいろんなことを思いだすと、すべてが夢のように消え去ってしまう、よき理解者であっただけにすさまじいものさびしさがわたしのこころをかなしくさせるのだ。



酒に対して賀監を憶う 其の二
狂客 四明に帰れば
山陰の遺士迎う
勅 して賜う 鏡湖の水
君が為に 台沼栄ゆ
人亡びて 故宅を余し
空しく荷花の生ずる有り
此を念えば 香として夢の如く
凄然として我が情を傷ましむ


 賀知章 回鄕偶書二首



狂客歸四明、山陰道士迎。
奇抜な振る舞いをする王羲之の再来といわれる文人が四明山に帰ったときには、山陰地方の道士全員で出迎えた。
狂客:奇抜な振る舞いをする文人。また、軽はずみな人。常軌を逸した人。狂草で有名な張旭と交わり、草書も得意としていた。酒を好み、酒席で感興の趣くままに詩文を作り、紙のあるに任せて大書したことから、杜甫の詩『飲中八仙歌』では八仙の筆頭に挙げられている賀知章の自号は「四明狂客」で、ここでは彼を指す。・四明  四明山1017m。浙江にある山の名。杭州市、蕭山市の東南100kmの所にある。近くに会稽山がある。道教の盛んな地方である。「賀監」「賀公」どれも、賀知章のこと。 賀知章 回鄕偶書二首
 ・賀知章:659年~744年(天寶三年)盛唐の詩人。越州永興(現・浙江省蕭山県)の人。字は季真。則天武后の代に進士に及第して、国子監、秘書監などになった
。○山陰 晋の書家 王羲之(中国最高の書家)は当時から非常に有名だったので、その書はなかなか手に入れるのが困難であった。山陰(いまの浙江省紹興県)にいた一人の道士は、王羲之が白い鵞鳥を好んで飼うことを知り、一群の鵞をおくって「黄庭経」を書かせた。その故事をふまえで、この詩では山陰の故郷に帰る賀知章を、王義之になぞらえている。

敕賜鏡湖水、為君台沼榮。
官を辞しての帰郷に際して天子から鏡湖の地帯を賜わったが、君のおかげで、この地域の人々、高台や沼、湖も栄誉を受けて、これから繁栄するのだ。
鏡湖 山陰にある湖。天宝二年、賀知章は年老いたため、官をやめ郷里に帰りたいと奏上したところ、玄宗は詔して、鏡湖剡川の地帯を賜わり、鄭重に送別した。〇台沼 高台や沼。



人亡余故宅、空有荷花生。
人はなくなってしまったら、古い屋敷が残るのだ、そして賜った鏡湖にはむなしくハスの花が咲きほこる。
荷花 ハスの花。


念此杳如夢、淒然傷我情。
これまでのいろんなことを思いだすと、すべてが夢のように消え去ってしまう、よき理解者であっただけにすさまじいものさびしさがわたしのこころをかなしくさせるのだ。
 はるか。○淒然 すさまじい。ものさびしいさま。


五言律詩
韻  明、迎。水、榮。宅、生。夢、情。

対酒憶賀監 二首 并序 其一 李白

対酒憶賀監 二首 并序 其一 :李白 賀知章の思い出(1) 133-134 



對酒憶賀監併序         
太子賓客賀公、
於長安紫極宮一見余、呼余為謫仙人。        
老子を祀る玄元廟(げんげんびょう)に宿をとっていただき、秘書監の賀知章とあう、長安紫極宮で私を一目見るや呼ばれたのが「謫仙人」と号された。
因解金亀換酒為楽、
没後対酒、悵然有懐而作是詩。

ここにかかる金子を金細工の亀によって賄われた、亡くなられた後酒に向かう、恨み嘆き、思い出すことがありこのを作る、


酒に対して賀監を憶ふ序を併す
太子賓客なりし賀公、長安の紫極宮にて一度余を見るや、余を呼びて謫(たく)仙人と為す。
因って金亀を解き酒に換えて楽しみを為し、没後 酒に対するに、悵然として懐い有り、而して是の詩を作る。



太子賓客賀公、於長安紫極宮一見余、呼余為謫仙人。
老子を祀る玄元廟(げんげんびょう)に宿をとっていただき、秘書監の賀知章とあう、長安紫極宮で私を一目見るや呼ばれたのが「謫仙人」と号された。
賀監 秘書外警号していた賀知事のこと。詩人賀知章、あざなは季真、会稽の永興(いまの漸江省蔚山県西)の人である。気の大きい明るい人で話がうまかった。かれを盲見ないと心が貧しくなるという人もいた。官吏の試験に合棉して、玄宗の時には太子の賓客という役にな。、また秘書監の役にもなった。しかし晩年には苦く羽目をはずし、色町に遊び、自分から四明狂客、または租書外監と号した。李白が初めて長安に来たとき、かれを玄宗に推薦したのは、この人であったと伝えられる。天宝二年、老齢のゆえに役人をやめ、郷里にかえって道士になった。○紫極宮 老子をまつる廟。○謫仙人 天上から人間世界に流された仙人。



因解金亀換酒為楽、没後対酒、悵然有懐而作是詩。
ここにかかる金子を金細工の亀によって賄われた、亡くなられた後酒に向かう、恨み嘆き、思い出すことがありこのを作る、
金亀 腰につけた飾りの勲章。○悵然 恨み嘆くさま。悼むのではなく、恨んで詩を作っている。


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李白は老子を祀る玄元廟(げんげんびょう)に宿を取っている。道教の知人、詩人の秘書監(従三品)の賀知章(がちしょう)の指示で泊まったようだ。賀知章は八十四歳である。
賀知章は李白が差し出した詩を読んで「此の詩、以て鬼神を哭せしむべし」と称賛し、李白を「謫仙人」(たくせんにん)と言って褒めたという。「謫仙人」とは天上から地上にたまたま流されてきた仙人という意味であって、道教では最大の褒め言葉である。


對酒憶賀監 李白
其一
四明有狂客,風流賀季真。
浙江の四明山には、奇特な振る舞いをする文人がいる。 賀知章は詩歌を作って書を書いて、世俗から離れていた。
長安一相見,呼我謫仙人。
長安でちょっと見かけた。 わたしを「謫仙人」と呼んでいた。
昔好杯中物,今爲松下塵。
この賀知章、昔は、酒を好んだものだった。今は死んで、松の木の下の塵土となってしまっている。 
金龜換酒處,卻憶涙沾巾。

有りがたいことに黄金のカメの飾りを酒に換えて接待してくれたところがある。そこへ来ると思わず知らず、涙が出て布巾を湿らせたものだ。 


浙江の四明山には、奇特な振る舞いをする文人がいる。 
賀知章は詩歌を作って書を書いて、世俗から離れていた。
長安でちょっと見かけた。 わたしを「謫仙人」と呼んでいた。
この賀知章、昔は、酒を好んだものだった。今は死んで、松の木の下の塵土となってしまっている。 
有りがたいことに黄金のカメの飾りを酒に換えて接待してくれたところがある。そこへ来ると思わず知らず、涙が出て布巾を湿らせたものだ。


酒に對して 賀監を 憶ふ
四明に 狂客有り,風流の賀季真。
長安に 一たび相ひ見(まみ)え,我を謫仙人と呼ぶ。
昔は 杯中の物を好むれど,今は松下の塵と爲る。
金龜酒に換へし處,卻(かへっ)て憶(おも)ひ涙巾を沾(うるほ)す。
四明山にキチガイがいた。畏人の賀季兵だ。長安ではじめて出会ったとき、わたしを見るなり「訴仙
人」と呼んだ。



四明有狂客、風流賀季真。
浙江の四明山には、奇抜な振る舞いをする文人がいる。 
賀知章は詩歌を作って書を書いて、世俗から離れていた。
四明  四明山1017m。浙江にある山の名。杭州市、蕭山市の東南100kmの所にある。近くに会稽山がある。「賀監」「賀公」どれも、賀知章のこと。 賀知章 回鄕偶書二首
 ・賀知章:659年~744年(天寶三年)盛唐の詩人。越州永興(現・浙江省蕭山県)の人。字は季真。則天武后の代に進士に及第して、国子監、秘書監などになった。・狂客:奇抜な振る舞いをする文人。また、軽はずみな人。常軌を逸した人。狂草で有名な張旭と交わり、草書も得意としていた。酒を好み、酒席で感興の趣くままに詩文を作り、紙のあるに任せて大書したことから、杜甫の詩『飲中八仙歌』では八仙の筆頭に挙げられている賀知章の自号は「四明狂客」で、ここでは彼を指す。 ・賀季真:賀知章を字で呼ぶ。親しい友人からの呼びかけになる。
 

長安一相見、呼我謫仙人。
長安でちょっと見かけた。 わたしを「謫仙人」と呼んでいた。
長安 唐の都。 ・一相見 ちょっと見かけた。・呼我 わたしを呼ぶのに。 ・謫仙人 〔たくせんにん〕天上界から人間の世界に追放されてきた仙人。神仙にたとえられるような非凡な才能をもった人。道教からの評価、詩人としても最大の評価といえる。李白の詩才をほめて使っている。

昔好杯中物、今爲松下塵。
この賀知章、昔は、酒を好んだものだった。今は死んで、松の木の下の塵土となってしまっている。 
 このむ。 ・杯中物 酒を指す。・爲  …となる。 ・松下塵 松の木の下の塵土。死んで土に帰ったことをいう。松柏は、死者を偲んで墓場に植えられる樹木。この場合の色は青、音は蕭蕭がともなうことが多い。



金龜換酒處、卻憶涙沾巾。
有りがたいことに黄金のカメの飾りを酒に換えて接待してくれたところがある。そこへ来ると思わず知らず、涙が出て布巾を湿らせたものだ。 
 
金龜 黄金のカメの飾り。序文にある「因解金龜換酒爲樂」こと。 ・換酒 酒に交換する。 ・ ところ。・卻憶 (想い出そうといういう気がなくとも、意志に反して)想い出されてきて。 ・ なみだ。 ・ うるおす。ぬらす。しめらす。 ・ 布巾。

溫泉侍從歸逢故人 :李白

溫泉侍從歸逢故人 :李白130 都長安(翰林院供奉)

李白は宮廷に召され、高官からも厚遇され、絶頂を迎えている。漢の武帝の時、楊雄もかなり年を取ってから朝廷に上がり、寵愛されている。楊雄を自分に重ねていたのだろう。国政にも参画していい助言をしたいものと考えていたようだ。しかし、玄宗は、必ずしも国政に李白を参与させるという意図を最初からもってはいない。李白の優れた詩才を愛して、文人としての才能を重要視しただけなのである。華やかな宮廷生活に興趣を添える人として李白を迎えたようである。玄宗の関心は楊貴妃にあり、国政にかかる事務までも任せきる状況であった。



溫泉侍從歸逢故人
漢帝長楊苑。 夸胡羽獵歸。
漢の武帝は長楊苑で狩猟をなされた。猛々しい獣や鳥の狩りを持ち帰った。
子云叨侍從。 獻賦有光輝。
お供をした楊雄は畏れ多く申し上げ、羽獵などの賦を献上したところたいそうおほめにあずかった。
激賞搖天筆。 承恩賜御衣。
激賞され、御自ら筆をとられ、恩を受けて、御衣冠を賜れ、以後寵愛を受けた。
逢君奏明主。 他日共翻飛。

賢明な君主である唐の国の皇帝に合うことができた、過去の日は過ぎた話、ともに大空に翻り飛び立とう。



漢の武帝は長楊苑で狩猟をなされた。猛々しい獣や鳥の狩りを持ち帰った。
お供をした楊雄は畏れ多く申し上げ、羽獵などの賦を献上したところたいそうおほめにあずかった。
激賞され、御自ら筆をとられ、恩を受けて、御衣冠を賜れ、以後寵愛を受けた。
賢明な君主である唐の国の皇帝に合うことができた、過去の日は過ぎた話、ともに大空に翻り飛び立とう。


溫泉に侍從して歸って故人に逢う。
漢帝 長楊苑、夸胡 羽獵し 歸る。
子云 侍從せりは叨し。賦を獻じ 光輝有り。
激賞して 天筆が搖る。恩を承けて 御衣を賜る。
君逢う 奏の明主。 他日 共に翻飛せん。



漢帝長楊苑、夸胡羽獵歸。
漢の武帝は長楊苑で狩猟をなされた。猛々しい獣や鳥の狩りを持ち帰った。
漢帝 漢の武帝。 ○夸胡 おごるけもの ○羽獵 鳥類の狩猟。楊雄の賦にあるのでそれを示す。


子云叨侍從、獻賦有光輝。
お供をした楊雄は畏れ多く申し上げ、羽獵などの賦を献上したところたいそうおほめにあずかった。
子雲 漢の文人。揚雄、あざなは子雲。前漢の末期、紀元前一世紀、蜀(四川)の成都の人。学問だけが好きで、それ以外の欲望は全くなく、財産もあまりなかったが満足していた。ドモリで議論ができなかったので、よく読書し、沈思黙考した。成帝の時、承明宮に召されて、甘泉、河東、長楊、羽猟の四つの賦を奏上した。かれの著書はすべて古典の模倣で、「易」に似せて「太玄経」を作り、「論語に似せて「法言」を作った。かれは晩年、ある事件の巻き添えで、疑われて逮捕されようとしたとき、天禄閣という建物の中で書物調べに没頭していたので、驚きあわてて閣上から飛び降りて、あやうく死にかけた。 ○ むさぼる。身分不相応。恐れ多い。 ○侍從 君主のおそばに同行する。
 

激賞搖天筆、承恩賜御衣。
激賞され、御自ら筆をとられ、恩を受けて、御衣冠を賜れ、以後寵愛を受けた。
御衣 冠位。この詩は、古風其八にと同様の内容なのでブログ紀頌之の漢詩参照


逢君奏明主。 他日共翻飛。
賢明な君主である唐の国の皇帝に合うことができた、過去の日は過ぎた話、ともに大空に翻り飛び立とう。
奏明主 秦の名君である玄宗皇帝を指す。○他日 きのうまでのこと。これから先の日。いつか。




参考
揚 雄(よう ゆう、紀元前53年(宣帝の甘露元年) - 18年(王莽の天鳳五年))は、中国前漢時代末期の文人、学者。現在の四川省に当たる蜀郡成都の人。字は子雲。また楊雄とも表記する。
 
蜀の地に在った若いころは、郷土の先輩司馬相如の影響から辞賦作りに没頭していたが、30歳を過ぎたとき上京する。前漢最末期の都長安で、何とか伝手を頼って官途にありつくと、同僚に王莽、劉歆らの顔があった。郷里では博覧強記を誇った揚雄も、京洛の地で自らの夜郎自大ぶりを悟り、成帝の勅許を得て3年間勉学のために休職すると、その成果を踏まえ「甘泉賦」「長揚賦」「羽猟賦」などを次々とものし、辞賦作家としての名声をほしいままにした。
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侍従遊宿温泉宮作 :李白

侍従遊宿温泉宮作 李白128  都長安(翰林院供奉)  
五言律詩

 宮廷に入った李白は絶頂であったようだ。この詩はその様子をよく表している。天子に続いての席に座った李白は、初めが良すぎたともいえる。

侍従遊宿温泉宮作

羽林十二将、羅列応星文。 
宮廷護衛の将軍は羽林の十二将、星宿(せいしゅく)の各御門に応じて連なって配置についている。
霜仗懸秋月 霓旌巻夜雲。
儀仗の刃は霜のように白く秋月の光に冴えている、天子の旗は 夜空の雲を巻いてひるがえる
厳更千戸蕭 清楽九天聞。
刻を告げる太鼓の音に。 千戸の家は静まりかえり、優雅な楽のしらべが  宮廷の奥から聞こえてくる。
日出瞻佳気 叢叢繞聖君。

やがて朝日が昇るとめでたい香気がただよいはじめる、役人が朝礼にたくさん集まって聖天子の前にせいれつした。


宮廷護衛の将軍は羽林の十二将、星宿(せいしゅく)の各御門に応じて連なって配置についている。
儀仗の刃は霜のように白く秋月の光に冴えている、天子の旗は 夜空の雲を巻いてひるがえる
刻を告げる太鼓の音に。 千戸の家は静まりかえり、優雅な楽のしらべが  宮廷の奥から聞こえてくる。
やがて朝日が昇るとめでたい香気がただよいはじめる、役人が朝礼にたくさん集まって聖天子の前にせいれつした。



羽林(うりん)の十二将、羅列(られつ)して星文(せいもん)に応ず。
霜仗(そうじょう)  秋月(しゅうげつ)を懸(か)け、霓旌(げいせい)  夜雲(やうん)を巻く。
厳更(げんこう)  千戸蕭(つつし)み、清楽(せいがく)  九天(きゅうてん)に聞こゆ。
日出でて佳気(かき)を瞻(み)る、叢叢(そうそう)として聖君を繞(めぐ)る。



羽林十二将、羅列応星文。 
宮廷護衛の将軍は羽林の十二将、星宿(せいしゅく)の各御門に応じて連なって配置についている。
羽林 羽林大将軍、親衛大将軍、虎牙大将軍といった唐名で呼ぶこともあり、左近衛大将・右近衛大将をそれぞれ「左大将」・「右大将」と省略した呼び方もある○十二将 大将左右1名、中将:左右1~4名親衛中郎将、親衛将軍、羽林将軍、少将:左右2~4名羽林郎将、親衛郎将、羽林中郎将 ○羅列 連なり並ぶこと。 ○応星文 12の星座でよんだ門のこと。宮廷の門を守備する軍隊の配置。
 唐朝 大明宮01
 
霜仗懸秋月 霓旌巻夜雲。
儀仗の刃は霜のように白く秋月の光に冴えている、天子の旗は 夜空の雲を巻いてひるがえる
霜仗 守備兵の儀仗の刃が霜のように白く鋭く  ○霓旌 天子の旗 


厳更千戸蕭 清楽九天聞。

刻を告げる太鼓の音に。 千戸の家は静まりかえり,優雅な楽のしらべが  宮廷の奥から聞こえてくる。
厳更 五更:日没から日の出までを五に分けた時間の単位。 ○千戸 千戸の家。すべての家。○ 太鼓の音。○清楽 優雅な楽のしらべ。 ○九天 天を九に分け、その真ん中に天子、皇帝がいる。宮廷のこと。九重も宮廷。天文学、地理、山、九であらわした。縁起のいい数字とされた。


日出瞻佳気 叢叢繞聖君。

やがて朝日が昇るとめでたい香気がただよいはじめる、役人が朝礼にたくさん集まって聖天子の前にせいれつした。
日出 朝日が昇る ○ あおぎみる。日が昇ると朝礼がある。 ○佳気 めでたい香気。○叢叢 役人がたくさん集まっている様子。 ○ 朝礼で整列。○聖君 天子。

贈銭徴君少陽 李白114

贈銭徴君少陽 李白114
古風 其二十三 に「夜夜當秉燭」とあった。
「秉燭唯須飲」(燭を秉って唯須らく飲べし。) 
李白の竹渓の六逸であった友の呉筠も銭少陽と前後して朝廷に上がっている。資料にあるわけではないが銭少陽も李白の仕官に手助けをしたかもしれない。明るい性格の李白らしい相手の気持ちをよく汲んだ贈る言葉である。

贈銭徴君少陽
白玉一盃酒、緑楊三月時。
白い玉の杯にいっぱいの酒。線したたる柳のうつくしい三月の季節。
春風餘幾日、兩鬢各成絲。
春風がふく日は、もうあと幾日のこっているだろうか。左右のビンの毛は、糸のように衰えてしまった
秉燭唯須飲、投竿也未遲。
ともし火をかかげて、ただ飲むにかぎる。しかし、これから竿を投げすてて太公望のように活躍するのも、まだまだ、おそくはない。
如逢渭川獵、猶可帝王師。
もしも、渭川で猟をした文王のような人にあえるならば、やはり、帝王の軍師となれることであろう。

白い玉の杯にいっぱいの酒。線したたる柳のうつくしい三月の季節。
春風がふく日は、もうあと幾日のこっているだろうか。左右のビンの毛は、糸のように衰えてしまった
ともし火をかかげて、ただ飲むにかぎる。しかし、これから竿を投げすてて太公望のように活躍するのも、まだまだ、おそくはない。
もしも、渭川で猟をした文王のような人にあえるならば、やはり、帝王の軍師となれることであろう。

(下し文)

白玉 一盃の酒、緑楊 三月の時。
春風 幾日をか余す、兩鬢(りょうびん) 各々 絲を成す
燭を秉(と)って唯須らく飲むべし、竿を投ずること 也(ま)た 未だ遅から じ
如(も)し 渭川の獵に逢わば、猶 帝王の師たるべし。


贈銭徴君少陽
せんちょう くんしょう ようにおくる。
銭徴君少陽 銭少陽という人のくわしい事跡は、わからない。徴君というのは、天子の特別の命令で朝廷に召
された人。

白玉一盃酒、緑楊三月時。
白い玉の杯にいっぱいの酒。綠したたる柳のうつくしい三月の季節。

春風餘幾日、兩鬢各成絲。
春風がふく日は、もうあと幾日のこっているだろうか。左右のビンの毛は、糸のように衰えてしまった

秉燭唯須飲、投竿也未遲
ともし火をかかげて、ただ飲むにかぎる。しかし、これから竿を投げすてて太公望のように活躍するのも、まだまだ、おそくはない。
○秉燭 古詩に「昼は短かく、夜の長きを苦しむ。何ぞ燭を秉って遊ばざる」とある。ともし火を手にとる。○投竿 釣竿を投げすてて漁師の境涯を去る。以下、太公望の故事をふまえる。

如逢渭川獵、猶可帝王師。
もしも、渭川で猟をした文王のような人にあえるならば、やはり、帝王の軍師となれることであろう。
渭川獵 渭川獵、黄河の支流で、長安の北を流れる川。周の文王は、渭水の北に猟をしたとき、そこで釣をしていた呂尚にめぐりあい、かねがね望んでいた人物なので太公望と名づけ、連れて帰って軍師として尊んだ。太公望は、この時すでに八十歳の老人であったが、この詩の銭少陽もまた、八十何歳になっていたので、太公望になぞらえたということである。

杜甫 6 兗州城楼

杜甫 6 兗州城楼
開元25年 737年 26歳

五言律詩。河南・山東に放浪生活を送っていたころ、兗州都督府司馬の官にあった父の杜閑を訪れた折の詩。

chinatohosantomap
登兗州城楼
東郡趨庭日、南楼縦目初。
浮雲連海岱、平野入青徐。
孤嶂秦碑在、荒城魯殿余。
従来多古意、臨眺独躊厨。

東郡ここ兗州の地で父の教えを奉じている日にあって、州城の南楼で眺めをほしいままにしたその初めのときだ空に浮かぶ雲は海や泰山のかなたにまでつらなり、平野は青州や徐州の方まで入りこんでいた。
ひとりそばだつ屏風山には秦の始皇帝の石碑が今なお残っており、荒れはてた町には魯王の宮殿がそのあとをとどめているのだ。
これまで古をなつかしむ気持ちの多かったわたしは、城楼に登り立って四方を眺めながらただひとりたち去りかねているのだ。

(下し文)兗州の城楼に登る
東郡  庭に趨(は)する日、南楼  目を縦(ほしい)ままにする初め
浮雲は 海岱に連なり、平野は 青徐に入る
孤峰には秦碑在り、荒城には魯殿余る
従来 古意多し、臨眺して独り躊厨す


東郡趨庭日、南楼縦目初。
東郡ここ兗州の地で父の教えを奉じている日にあって、州城の南楼で眺めをほしいままにしたその初めのときだ。
東郡 秦のときの郡名で、兗州はその郡に属していた。○趨庭 庭さきを走りまわる。 『論語』季氏篇に、孔子の子の鯉が「庭を趨って」過ぎたとき、父の孔子が呼びとめて「詩」と「礼」とつまり、詩経と書経を学ぶようにさとしたとあるのにもとづき、子供が父の教えを受けることをいう。この『論語』のことばを使用するのは、兗州のすぐ東に孔子の故郷である曲阜があることによる。この後、望嶽を作るも孔子にあやかる。○南楼 兗州楼の南門の楼。○縦目 ほしいままに見渡す。

浮雲連海岱、平野入青徐。
空に浮かぶ雲は海や泰山のかなたにまでつらなり、平野は青州や徐州の方まで入りこんでいた。
○海岱 東の海と東北にそびえる泰山のこと。○青徐 青州と徐州。ともに太古の九州の一つで、青州は兗州の北、徐州は兗州の南にひろがる地域をいう。『書経』萬貢篇に「海岱は唯れ青州」とある。

孤嶂秦碑在、荒城魯殿余。
ひとりそばだつ屏風山には秦の始皇帝の石碑が今なお残っており、荒れはてた町には魯王の宮殿がそのあとをとどめている。
孤嶂 兗州の東南数十キロにある嘩山をいう。○秦碑 紀元前三世紀のころ、秦の始皇帝が巡幸の記念として建てた石碑。○荒城 ?州のすぐ東にある曲阜をさす。○魯殿 紀元前二世紀、漢の景帝の息子、魯の共王が建てた霊光殿をいう。

従来多古意、臨眺独躊厨。
これまで古をなつかしむ気持ちの多かったわたしは、城楼に登り立って四方を眺めながらただひとりたち去りかねているのだ。
臨眺 高い所に登って遠くをながめる。○躊厨 躊躇。行くことをためらう。

○韻字 初・徐・余・厨。

杜甫は『登兗州城楼』と題した詩を書き兗州城の南楼からの眺めをうたっている。当時の兗州城は戦乱で荒廃し現存しないが、南楼の跡の崩れたレンガが積み重なってできた丘は少陵台と呼ばれ今も兗州の県城内の北寄りに位置する。

兗州市は、昔から「東文、西武、北岱、南湖」と呼ばれてきた
(東に孔子ゆかりの「三孔」を仰ぎ,西に水滸伝ゆかりの「梁山泊」があり、北には「泰山」がそびえ、南には「微山湖」を望むため)
また、「杜甫」ゆかりの地である少陵台もこの市にる。
少陵台

少陵台は杜甫ゆかりの地である。この詩の5・6年後杜甫は李白と兗州で会い、終生の友誼を交わした。

贈孟浩然 李白14

贈孟浩然  李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -14 
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 病気が治った李白は、安陸にいる孟浩然に会いにいき、師と仰ぐようになる。李白は、古い城郭都市の安陸で孟浩然に詩を贈っている。


贈孟浩然         

吾愛孟夫子、風流天下聞。
紅顔棄軒冕、白首臥松雲。
酔月頻中聖、迷花不事君。
高山安可仰、従此揖清芬。

孟浩然に贈る
私の愛する孟先生,先生の風流は 天下に聞こえている。
若くして高官になる志を棄て、白髪になるまで松雲に臥しておられる。
月に酔って聖にあたったといわれる、花を迷うのは君主に仕えないことだ。
高山はどうして仰ぐことができようか。ここから清らかな香りを拝します

吾は愛す孟夫子(もうふうし)、風流(ふうりゅう)は天下に聞こゆ。
紅顔(こうがん)  軒冕(けんめん)を棄て、首(はくしゅ)  松雲(しょううん)に臥(ふ)す。
月に酔いて頻(しき)りに聖(せい)に中(あた)り、に迷いて君に事(つか)えず。
高山(こうざん)  安(いずく)んぞ仰ぐ可けんや、此(ここ)より清芬(せいふん)を揖(ゆう)す
嚢陽一帯00


現代語訳と訳註
(本文)
 贈孟浩然         
吾愛孟夫子、風流天下聞。
紅顔棄軒冕、白首臥松雲。
酔月頻中聖、迷花不事君。
高山安可仰、従此揖清芬。

(下し文)
吾は愛す孟夫子(もうふうし)、風流(ふうりゅう)は天下に聞こゆ。
紅顔(こうがん)  軒冕(けんめん)を棄て、首(はくしゅ)  松雲(しょううん)に臥(ふ)す。
月に酔いて頻(しき)りに聖(せい)に中(あた)り、に迷いて君に事(つか)えず。
高山(こうざん)  安(いずく)んぞ仰ぐ可けんや、此(ここ)より清芬(せいふん)を揖(ゆう)す

(現代語訳)
私の敬愛する孟先生、先生の風流は隠遁されていても 天下に聞こえています。
若くして高官になる志を棄て、白髪になるまで 松雲の間に臥しておられる。
月下に酒を飲んで 聖にあたったと答え、君主に仕えずに  花を眺めておられる。
高山は近寄りがたいので、私はここから  清らかな香りを拝しています。

(訳注)
吾愛孟夫子、風流天下聞。

吾は愛す孟夫子(もうふうし)、風流(ふうりゅう)は天下に聞こゆ。
私の敬愛する孟先生、先生の風流は隠遁されていても 天下に聞こえています。

紅顔棄軒冕、白首臥松雲。
紅顔(こうがん)  軒冕(けんめん)を棄て、首(はくしゅ)  松雲(しょううん)に臥(ふ)す。
若くして高官になる志を棄て、白髪になるまで 松雲の間に臥しておられる。
軒冕 古代中国で、大夫(たいふ)以上の人の乗る車と、かぶる冠。 高位高官。また、その人。

酔月頻中聖、迷花不事君。
月に酔いて頻(しき)りに聖(せい)に中(あた)り、に迷いて君に事(つか)えず。
月下に酒を飲んで 聖にあたったと答え、君主に仕えずに  花を眺めておられる。
 天使に使えること。朝廷での仕事。

高山安可仰、従此揖清芬。
高山(こうざん)  安(いずく)んぞ仰ぐ可けんや、此(ここ)より清芬(せいふん)を揖(ゆう)す
高山は近寄りがたいので、私はここから  清らかな香りを拝しています。
清芬 盛んににおうさま。本来はよい香りにいうが、悪臭にもいう。「花の香りが―と漂う」「酒気を―とさせる」 
DCF00117



 孟浩然は三十八歳であり、李白は二十六歳であった。隠遁している憧れの孟浩然を「白首」と言った。孟浩然は、襄陽の近郊の鹿門山に別業(別荘)を営んでいた。

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