東陽溪中贈答二首その(2) 謝霊運(康楽) 詩<40#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩423 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1086
東陽溪中贈答二首
一 可憐誰家婦。緣流洗素足。
明月在雲間。迢迢不可得。
二 可憐誰家郎。緣流乘素舸。
但問情若為。月就雲中墮。
東陽溪中贈答二首 その(2)
可憐誰家郎。緣流乘素舸。
そこにいいおとこがいるがどこの家の若者だ、清らかな流れに一人で白い小舟に乗っている。
但問情若為。月就雲中墮。
越王勾践が船に乗ってここを通過した時と同じように質問する「情をなせるだろうか?」と、月に喩えていうとそれは雲の中に落ちていくというものだ。
憐れむ 可【べ】し 誰【た】が家の 郎【ろう】ぞ,淥流【ろくりゅう】に 素舸【こぶね】に 乘る。
但 問う 情 若為【いか】にと,月は雲中に就いて墮【お】つ。
現代語訳と訳註
(本文)
東陽溪中贈答二首 その(2)
可憐誰家郎。緣流乘素舸。
但問情若為。月就雲中墮。
(下し文)
憐れむ 可【べ】し 誰【た】が家の 郎【ろう】ぞ,淥流【ろくりゅう】に 素舸【こぶね】に 乘る。
但 問う 情 若為【いか】にと,月は雲中に就いて墮【お】つ。
(現代語訳)
そこにいいおとこがいるがどこの家の若者だ、清らかな流れに一人で白い小舟に乗っている。
越王勾践が船に乗ってここを通過した時と同じように質問する「情をなせるだろうか?」と、月に喩えていうとそれは雲の中に落ちていくというものだ。
(訳注)
(二)可憐誰家郎 (可憐なり誰が家の郎おとこ)
可憐誰家郎、淥流乗素舸。
そこにいいおとこがいるがどこの家の若者だ、清らかな流れに一人で白い小舟に乗っている。
○可憐 若々しくていい男。 ○誰家 どの家系。 ○郎 若い男。○淥流:谷川の流れに沿って。 ○素舸 白木の舟。 ○素:白い。
但問情若爲、月就雲中堕。
越王勾践が船に乗ってここを通過した時と同じように質問する「情をなせるだろうか?」と、月に喩えていうとそれは雲の中に落ちていくというものだ。
西施ものがたり
本名は施夷光。中国では西子ともいう。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(現在の諸曁市)生まれだと言われている。
現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施>>>西施と呼ばれるようになった。
紀元前5世紀、越王勾践(こうせん)が、呉王夫差(ふさ)に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は谷川で洗濯をしている姿を見出されてたといわれている。
この時の越の献上は黒檀の柱200本と美女50人といわれている。黒檀は、硬くて、耐久性のある良材で、高級家具や仏壇、高級品に使用される。比重が大きく、水に入れると沈む。
呉にとってこの献上の良材は、宮殿の造営に向かわせた。豪奢な宮殿造営は国家財政を弱体化させることになる。宮殿は、五層の建造物で、姑蘇台(こそだい)と命名された。
次は美女軍団が呉の国王を狂わせた。
十八史略には、西施のきわめて美しかったこと、彼女にまつわるエピソードが記されている。西施は、呉王 夫差の寵姫となったが、あるとき胸の病となり、故郷の村に帰ってきた。西施は、痛む胸を手でおさえ、苦しみに眉をひそめて歩いた。それがかえって色香を引出し、村人の目を引いた。そのときに村に評判の醜女がいて、西施のまねた行動をした。それは、異様な姿に映り、かえって村人に嫌われた。これを「西施捧心」と表され、実もないのに真似をしても無駄なことだということだが、日本では、「これだけやっていますが、自分の力だけでなく、真似をしただけですよ」という謙遜の意味に使用されることが多い。
このようにまれな美しさをそなえた西施は、呉王 夫差を虜(とりこ)にした。夫差は、西施のために八景を築き、その中でともに遊んだ。それぞれの風景の中には、所々に、席がもうけられ、優雅な宴(うたげ)がもよおされた。夏には、西施とともに船を浮かべ、西施が水浴すると、呉王 夫差は、その美しい肢体に見入った。こうして、夫差は悦楽の世界にひたり、政治も軍事も、そして民さえ忘れてしまい、傾国が始まったのである。
越の策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
呉が滅びた後の生涯は不明だが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。
その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになった。また、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もある。