對雪獻從兄虞城宰  李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白186


 李白は任城に「魯の一婦人」という女性を置いており、この女性は李白の三人目の内妻になる。李白と杜甫は任城の家に立ち寄ってから斉州に行ったと思われるが、斉州に着くと李白は道士になる修行をはじめ、道籙(どうろく)を受けるのだが、これには謝礼を必要とした。その金も玄宗の御下賜金で賄われた。この時、李白は道教にすがる思いもあったのではないだろうか。
 杜甫は道士になる気はないので、斉州の司馬として赴任していた李之芳(りしほう)のもとに身を寄せた。
李之芳のもとにいたとき、たまたま隣の青州(山東省益都県)の刺史李邕(りよう)が訪ねてきて、杜甫はこの著名な老文学者と知り合いになる。
 道士になった李白は任城の「魯の一婦人」のもとにもどって冬から翌天宝四載(745)の春過ぎまで一緒に過ごしている。夏のはじめに杜甫が斉州から訪ねてきて、二人は連れ立って任城一帯で遊ぶ。


しかし、李白の周辺は、都追放が人との付き合いに影響していたようだ。かく人情は軽薄にしてつねに反覆するものであることを歌い、世の風の冷酷さを李白はしみじみ感じている。また一方、生活はしだいに窮乏を告げてきた。長安を去るとき、天子から何ほどかの御下賜金があったはずであるが、もはや使い果たしている。
食糧のなかったことを、この貧しさに耐えかねて、従兄とする皓に訴えざるをえなかった。「雪に対して従兄の虞城の宰に献ず」はこの時の気持ちを詠っている。

對雪獻從兄虞城宰
昨夜梁園裏。 弟寒兄不知。
ほんの昨夜まで、朝廷(魏の宮廷の梁園)で大官を相手にしていた自分が、まだ名もなき頃義兄といって付き合っていた、たかだか県知事のところへ逗留するとは、人情にも、懐にも寒さを感じておる弟の自分のことは義兄としてわかってはいないだろう。
庭前看玉樹。 腸斷憶連枝。

朝起きて庭を見ると雪が降り積もって、ちょっと前まで宮廷で看ていた宝玉石で飾った木樹を見られた。腸の絶えるいろんな思いがあるがここは兄弟ということの意味を憶い起してほしい。


對雪獻從兄虞城宰の訳註と解説

(本文)
昨夜梁園裏。 弟寒兄不知。
庭前看玉樹。 腸斷憶連枝。

(下し文)

昨夜梁園の裏(うち)、弟寒けれども兄は知らざらん。

庭前に玉樹を見、腸は断えて連枝を憶ふ。


ほんの昨夜まで、朝廷(魏の宮廷の梁園)で大官を相手にしていた自分が、まだ名もなき頃義兄といって付き合っていた、たかだか県知事のところへ逗留するとは、人情にも、懐にも寒さを感じておる弟の自分のことは義兄としてわかってはいないだろう。
朝起きて庭を見ると雪が降り積もって、ちょっと前まで宮廷で看ていた宝玉石で飾った木樹を見られた。腸の絶えるいろんな思いがあるがここは兄弟ということの意味を憶い起してほしい。

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對雪獻從兄虞城宰
從兄 裏陽の少府をやっていた皓であり、この時、虞城(河南省虞城県)の宰(地方長官)となっている。 ○虞城 虞城は今の河南省の東境で、山東省の単父(ゼンポ)の隣県になる。



昨夜梁園裏 弟寒兄不知
ほんの昨夜まで、朝廷(魏の宮廷の梁園)で大官であった自分が、名もなき頃義兄といってつきあっていた、たかだか県知事ところへ逗留するとは、人情にも、懐にも寒さを感じておる弟の自分のことは義兄としてわかってはいないだろう。
昨夜 昨日の夜。と同時にほんの昨日まで、とういうことをかけている。○梁園 梁園とは前漢の文帝の子梁孝王が築いた庭園。詩にある平臺(宮廷)は梁園にあり、また阮籍は梁園付近の蓬池に遊んだ。李白はそうした史実を引用しながら、過去の栄華と今日の歓楽をかんじさせる。ここでは、漢の宮廷、つまり唐の宮廷の大官であったことを示す。

庭前看玉樹 腸斷憶連枝
朝起きて庭を見ると雪が降り積もって、ちょっと前まで宮廷で看ていた宝玉石で飾った木樹を見られた。腸の絶えるいろんな思いがあるがここは兄弟ということの意味を憶い起してほしい。

庭前 この邸宅の庭ということと宮廷を意味する。○玉樹 雪で宝石、白玉製かと思はせる木。
腸斷 腸が断えるできごとと情交が満たされない思い。○連枝 兄弟と男女の結びつき。兄弟はたかが県令と鼻をくくっていたが援助してもらいたいということ。と同時に男女間のことを表現して、照れ隠しをしたのだ。それくらい困窮していたのだろう。

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 この詩の相手は真の従兄ではなく、李白が同族よばわりして、李氏なら必ず用ひるにせ従兄の、天宝四載からここの県令であった李錫(リセキ)である。このとき救ってもらった礼か、李白には「虞城県令李公去思頌碑」といふ頌徳文もあって、このころの文人の生活も、中々なみ大抵でなかったことを思わせる。県令といふのは県知事には相違なく、いまの日本の知事さんたちと同じくいばったものかもしれないが、昨日までの大官相手がたかだか県令相手とまでなり下ったのである。しかも李白は貧を衒(てら)うことはない。ここまで困窮している場合でも大言壮語するのである。