漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
リンクはフリーです。報告、承諾は無用です。
ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

陪・抒情詩

[峴山の詩] 陳子昂 峴山懷古 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -307

[峴山の詩] 陳子昂 峴山懷古 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -307
(孟浩然・張九齢・陳子昂・張説・李白「峴山」懐古について)


305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作   ⑧
316  〃   田園作元旦⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下層石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処
328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
*(番号の順でこのブログに掲載する)

  
張 説  667年 - 730年  陳子昴 661年 - 702年  張九齢 678年 - 740年
孟浩然 689年 - 740年  李 白  701年 - 762年


詩人名生年 - 歿年 概  要
陳子昴
(ちんすこう)
661年 - 702年六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とする詩を作り、盛唐の質実な詩の礎を築いた。
張九齢 (ちょうきゅうれい)678年 - 740年陳子昂の詩と並んで「神味超逸」の風があり、阮籍の「詠懐詩」の流れをくむ「感遇詩」12種の連作が有名。著作に『張曲江集』20巻がある。字は子寿。韶州曲江の人。幼少の頃、南方に流されてきた張説に才能を認められた。長安二年(702)、進士に及第した。左拾遺となり、玄宗の信任を得て左補闕・司勲員外郎を歴任。張説の腹心として活躍した。のちに中書舎人から工部侍郎・中書令(宰相)に至った。李林甫と衝突し、玄宗の信頼を失って荊州長史に左遷された。『曲江張先生集』。 
孟浩然     (もうこうねん)689年 - 740年盛唐の詩人。王維とともに「王孟」と並称され、山水自然派の詩人として知られるが、王維が自然の静的な面を客観的に歌うのに比して、より主観的に、自然を人間に親しいものとしてとらえる傾向を持つ。「春眠暁(あかつき)を覚えず」など、日本でも著名な作品が多い。襄陽出身。諱は浩、浩然は字。鹿門山に隠棲し、40才頃に進士に応じて落第し、王維との親交によって玄宗に謁見しながらも、「不才にして明主に棄てられ…」の句で官途を失い、郷里に隠棲した。襄陽長史に遷された張九齢の幕下に加わり、致仕後は江南を巡って王昌齢とも親交したが、まもなく襄陽で病死した。
 盛唐期にあって王維らとともに田園詩人群を形成し、王維とともに後の韋応物・柳宗元と併称される。ともに山水美を訴求しながら、王維の客観的・傍観的・静的態度と異なり、主観的・親近的・動的追及を旨とし、特に『春暁』は人口に膾炙している。
  白   (りはく)701年 - 762年中国最大の詩人の一人。西域で生まれ、綿州(四川省)で成長。字(あざな)は太白(たいはく)。号、青蓮居士。玄宗朝に一時仕えた以外、放浪の一生を送った。好んで酒・月・山を詠み、道教的幻想に富む作品を残した。詩聖杜甫に対して詩仙とも称される。「両人対酌して山花開く、一杯一杯又一杯」「白髪三千丈、愁いに縁(よ)りて個(かく)の似(ごと)く長し」など、人口に膾炙(かいしゃ)した句が多い。


峴山懷古 陳子昂
秣馬臨荒甸、登高覽舊都。
愛馬に秣をあたえ荒れ果てた耕作田を眺める。高い所にのぼって襄陽の旧い街を見入る。
猶悲墮淚碣、尚想臥龍圖。
どうしても仁徳をもってこの地を治めてくれた羊祜のために人々は涙を流して立てた堕涙碣の前に来ると哀しさがこみ上げる。それとこに近くにある、隆中において梁父吟を吟じながら農耕に励み、三顧の礼でむかえられ、読む人に涙を誘う忠君の「出師表」を書いた諸葛亮を思うのである。
城邑遙分楚、山川半入吳。
襄陽の城郭の街ははるかなさきでわかれて楚になる。山が続き、漢水が下って呉の国になる。
丘陵徒自出、賢聖幾凋枯。
恵まれた自然の丘陵があるのでいたずらに権力者は出現した。賢者、聖仁は次第に枯渇していった。
野樹蒼煙絕、津樓晚氣孤。
野山に青々とした木々が鬱蒼と立ち、春霞さえ断ち切った。船着き場にある高殿は日暮れになるとそこだけめだった。
誰知萬里客、懷古正踟躕。

誰が知るのであろうか、遠くはるかなところまでいる多くの住民のことを、古くから、本当の話、行ったり来たり、良かったり悪かったりというものなのだ。

馬を秣(まぐさ)し 荒甸(こうでん)に臨む、高きに登りて舊都を覽る。
猶(なお)悲しむ堕涙(だるい)の碣(けつ),尚(なお)想う臥竜(がりょう)の図。
城邑 遙か楚に分る、山川 半ば吳に入る。
丘陵 徒に自ら出ず、賢聖 幾に凋枯す。
野樹 蒼煙絕ち、津樓 晚氣に孤す。
誰か知る萬里客、懷古して正に踟躕(ちちゅう)せんとすを。


現代語訳と訳註
(本文)

峴山懷古 陳子昂
秣馬臨荒甸、登高覽舊都。
猶悲墮淚碣、尚想臥龍圖。
城邑遙分楚、山川半入吳。
丘陵徒自出、賢聖幾凋枯。
野樹蒼煙絕、津樓晚氣孤。
誰知萬里客、懷古正踟躕。

(下し文)
馬を秣し荒甸に臨む、高きに登りて舊都を覽る。
猶(な)お悲しむ堕涙(だるい)の碣(けつ),尚(な)お想う臥竜(がりょう)の図。
城邑 遙か楚に分る、山川 半ば吳に入る。
丘陵 徒に自ら出ず、賢聖 幾に凋枯す。
野樹 蒼煙絕ち、津樓 晚氣に孤す。
誰か知る萬里客、懷古して正に踟躕(ちちゅう)せんとす。

(現代語訳)
愛馬に秣をあたえ荒れ果てた耕作田を眺める。高い所にのぼって襄陽の旧い街を見入る。
どうしても仁徳をもってこの地を治めてくれた羊祜のために人々は涙を流して立てた堕涙碣の前に来ると哀しさがこみ上げる。それとこに近くにある、隆中において梁父吟を吟じながら農耕に励み、三顧の礼でむかえられ、読む人に涙を誘う忠君の「出師表」を書いた諸葛亮を思うのである。
襄陽の城郭の街ははるかなさきでわかれて楚になる。山が続き、漢水が下って呉の国になる。
恵まれた自然の丘陵があるのでいたずらに権力者は出現した。賢者、聖仁は次第に枯渇していった。
野山に青々とした木々が鬱蒼と立ち、春霞さえ断ち切った。船着き場にある高殿は日暮れになるとそこだけめだった。
誰が知るのであろうか、遠くはるかなところまでいる多くの住民のことを、古くから、本当の話、行ったり来たり、良かったり悪かったりというものなのだ。

(訳注)
秣馬臨荒甸、登高覽舊都。
馬を秣し荒甸に臨む、高きに登りて舊都を覽る。
愛馬に秣をあたえ荒れ果てた耕作田を眺める。高い所にのぼって襄陽の旧い街を見入る。


猶悲墮淚碣、尚想臥龍圖。
猶(な)お悲しむ堕涙(だるい)の碣(けつ),尚(な)お想う臥竜(がりょう)の図。
どうしても仁徳をもってこの地を治めてくれた羊祜のために人々は涙を流して立てた堕涙碣の前に来ると哀しさがこみ上げる。それとこに近くにある、隆中において梁父吟を吟じながら農耕に励み、三顧の礼でむかえられ、読む人に涙を誘う忠君の「出師表」を書いた諸葛亮を思うのである。

墮淚碣 羊祜は字を叔子という。武帝(司馬炎)は呉討伐の志を立て、羊祜を都督荊州諸軍事とし、部隊を率いて南夏(中国南部)に進駐させた。学問所を開設して遠近を手懐け、はなはだ江漢(長江・漢水)流域の民心を手に入れた。呉の人々に対しては大いなる信義を示した。卒去したとき、南方の州の人々は市場に出かけた日に羊祜の死を知り、号泣しない者がなかった。市場を閉めたあとも、至るところで泣き声が挙がった。国境を守る呉の将兵たちもまた彼のために泣いた。その仁徳の広がりはこれほどであった。○臥龍圖 臥竜と同じ。建興5年(227年)、諸葛亮は北伐を決行する。北伐にあたり上奏した「出師表」は名文として有名であり、「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(『文章規範』の評語)と称賛された。諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで「梁父吟」を歌っていた。


城邑遙分楚、山川半入吳。
城邑 遙か楚に分る、山川 半ば吳に入る。
襄陽の城郭の街ははるかなさきでわかれて楚になる。山が続き、漢水が下って呉の国になる。
城邑 城壁にかこまれた町。転じて、人家の多い土地。都会。みやこ。


丘陵徒自出、賢聖幾凋枯。
丘陵 徒に自ら出ず、賢聖 幾に凋枯す。
恵まれた自然の丘陵があるのでいたずらに権力者は出現した。賢者、聖仁は次第に枯渇していった。


野樹蒼煙絕、津樓晚氣孤。
野樹 蒼煙絕ち、津樓 晚氣に孤す。
野山に青々とした木々が鬱蒼と立ち、春霞さえ断ち切った。船着き場にある高殿は日暮れになるとそこだけめだった


誰知萬里客、懷古正踟躕。
誰か知る萬里客、懷古して正に踟躕(ちちゅう)せんとす。
誰が知るのであろうか、遠くはるかなところまでいる多くの住民のことを、古くから、本当の話、行ったり来たり、良かったり悪かったりというものなのだ。
踟躕 クモが巣を作るときの、行ったり来たり。行きつ戻りつしている様子を表したものである



堕涙碑(だるいひ)とは晋の将軍羊祜を祀った碑である。
概要
荊州の都督として陸抗と対峙していた羊祜は、荊州の領民を労わるはおろか 相対していた呉の将兵にまで礼節を以て臨み敵味方問わずから尊崇を集めていた。 そんな羊祜も病を得、重篤の身となると後任に杜預を推挙して没したが、 彼の死を惜しんだ民により生前彼が好んだ峴山に碑が建立された。 その碑を見た者は皆在りし日の羊祜を偲んで涙を堕とすに及んだと言う。
墮淚碣 羊祜は字を叔子という。武帝(司馬炎)は呉討伐の志を立て、羊祜を都督荊州諸軍事とし、部隊を率いて南夏(中国南部)に進駐させた。学問所を開設して遠近を手懐け、はなはだ江漢(長江・漢水)流域の民心を手に入れた。呉の人々に対しては大いなる信義を示した。卒去したとき、南方の州の人々は市場に出かけた日に羊祜の死を知り、号泣しない者がなかった。市場を閉めたあとも、至るところで泣き声が挙がった。国境を守る呉の将兵たちもまた彼のために泣いた。その仁徳の広がりはこれほどであった。

羊祜は山や川を愛し、いつも風景を楽しむために峴山へ行き、酒宴を開いて語り合ったり、詩を詠んだりして、ひねもす飽きることがなかった。あるとき感慨深げにため息を吐き、従事中郎鄒湛らの方へ振り返って「宇宙が誕生して、そしてこの山があり、賢明な名士が来訪してはこの山を登って遠望する。我や貴卿のような人は多かったんだろうなあ!しかし、みんな跡形もなく消えてしまった。悲しいことじゃないか。もし百年後でも知覚があるならば、霊魂になってこの山を登ってみたいものだ」と言った。鄒湛は言った。「公の恩徳は四海の頂点、道義は先哲を継承され、声望は立派でいらっしゃいます。必ずやこの山とともに語り継がれることでしょう。鄒湛ごとき弱輩者は、公のおっしゃる通りになるだけです。」

羊祜が卒去したのち、襄陽の百姓たちは羊祜が日ごろ楽しんでいた場所に石碑と廟所を建て、季節ごとに供物を捧げて祭った。その石碑を見れば涙を流さぬ者はなく、そのことから杜預は「堕涙碑」と名付けた。碑文は蜀の李安が書いたものである。李安は別名を李興といった。むかし荊州の諸葛亮旧宅に碣を書いたが、その文章も立派だったし、羊公(羊祜)が卒去したとき、その碑文も巧妙だった。当時の人々はようやくその才能に感服したのであった。

楊世安は記室・主簿の職務に当たることになり(?)、羊祜の石碑を読み終えると、長いため息を吐いて「大丈夫たる者、名声を樹立することを心がけねばなあ。吾は聡明でないが、自分だけが考えないわけにはいかないぞ」と言い、それからは政務に励み、職務では寛容さと簡略さを心がけた。荊州の人々は羊祜の名を避け、(「戸」が「祜」と同音なので)家屋はみな「門」と呼び、戸曹は「辞曹」と改称した。

司馬徽が蜀の諸葛亮(諸葛孔明)をたとえた言葉。


峴山懷古    陳子昂
秣馬臨荒甸 登高覽舊都
猶悲墮淚碣 尚想臥龍圖
城邑遙分楚 山川半入吳
丘陵徒自出 賢聖幾凋枯
野樹蒼煙絕 津樓晚氣孤
誰知萬里客 懷古正踟躕

blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首



800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/




唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))

李白詩INDEX02
日ごとのブログ目次

李商隠INDEX02
ブログ日ごとの目次

杜甫詩INDEX02
日ごとのブログ目次



「峴山の詩」孟浩然 与諸子登峴山 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -305

峴山懐古 峴山の詩  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -305


305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  
315  〃   田園作   
316  〃   田園作元旦
317  〃   南山下與老圃期種瓜
318  〃   夏日南亭懷辛大
319  〃   登鹿門山懐古 
320  〃   宿建徳江    
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 
323  〃   歳暮帰南山   
324  〃   登安陽城樓   
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下贛石  ⑲
327  〃   夏日辮玉法師茅齋      
328  〃   題長安主人壁
329  〃  
330  〃  
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処
328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
*(番号の順でこのブログに掲載する)

  
張 説 667年 - 730年
陳子昴661年 - 702年
張九齢678年 - 740年
孟浩然689年 - 740年
李 白 701年 - 762年


ほぼ同時期の詩人の同じ峴山をテーマをとらえてみた。詩人の性格が分かって面白い。

詩人名生年 - 歿年 概  要
陳子昴
(ちんすこう)
661年 - 702年六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とする詩を作り、盛唐の質実な詩の礎を築いた。
張九齢 (ちょうきゅうれい)678年 - 740年陳子昂の詩と並んで「神味超逸」の風があり、阮籍の「詠懐詩」の流れをくむ「感遇詩」12種の連作が有名。著作に『張曲江集』20巻がある。字は子寿。韶州曲江の人。幼少の頃、南方に流されてきた張説に才能を認められた。長安二年(702)、進士に及第した。左拾遺となり、玄宗の信任を得て左補闕・司勲員外郎を歴任。張説の腹心として活躍した。のちに中書舎人から工部侍郎・中書令(宰相)に至った。李林甫と衝突し、玄宗の信頼を失って荊州長史に左遷された。『曲江張先生集』。 
孟浩然     (もうこうねん)689年 - 740年盛唐の詩人。王維とともに「王孟」と並称され、山水自然派の詩人として知られるが、王維が自然の静的な面を客観的に歌うのに比して、より主観的に、自然を人間に親しいものとしてとらえる傾向を持つ。「春眠暁(あかつき)を覚えず」など、日本でも著名な作品が多い。襄陽出身。諱は浩、浩然は字。鹿門山に隠棲し、40才頃に進士に応じて落第し、王維との親交によって玄宗に謁見しながらも、「不才にして明主に棄てられ…」の句で官途を失い、郷里に隠棲した。襄陽長史に遷された張九齢の幕下に加わり、致仕後は江南を巡って王昌齢とも親交したが、まもなく襄陽で病死した。
 盛唐期にあって王維らとともに田園詩人群を形成し、王維とともに後の韋応物・柳宗元と併称される。ともに山水美を訴求しながら、王維の客観的・傍観的・静的態度と異なり、主観的・親近的・動的追及を旨とし、特に『春暁』は人口に膾炙している。
  白   (りはく)701年 - 762年中国最大の詩人の一人。西域で生まれ、綿州(四川省)で成長。字(あざな)は太白(たいはく)。号、青蓮居士。玄宗朝に一時仕えた以外、放浪の一生を送った。好んで酒・月・山を詠み、道教的幻想に富む作品を残した。詩聖杜甫に対して詩仙とも称される。「両人対酌して山花開く、一杯一杯又一杯」「白髪三千丈、愁いに縁(よ)りて個(かく)の似(ごと)く長し」など、人口に膾炙(かいしゃ)した句が多い。

<孟浩然>
与諸子登峴山
諸子と峴山に登る。
人事有代謝、往来成古今。
ここで見る人の世の営みというものは、次々と入れ替わりがあるものだ、栄枯盛衰は古代から今の時代へ時の移ろいを成しているのである。
江山留勝跡、我輩復登臨。
この襄陽の地、漢江と峴山があり、景勝の跡を多く残している。われら同輩はたびたび峴山に登り、この地を見渡すのである。
水落漁梁浅、天寒雲夢深。
季節が変わり、いま水嵩が減った川では、やなが浅く露になり、空は寒々としてはるかであり、梁父吟を唄って歩く、雲夢の沢は深く広がっている。
羊公碑尚在、読罷涙浩襟。

峴山に羊公の碑が今なお残っている、その碑文を読むうち涙がとめどなく流れ着物の襟を濡らしてしまい、その先を読むことができないのである。


人事に代謝あり、往来は古今を成す。
江山勝跡を留め、我が輩 また登臨す。
水落ちて魚梁浅く、天寒くして夢沢深し。
羊公の碑 なお在り、読を罷はず 一に襟をぬらす。


張九齢 登襄陽峴山
襄陽の峴山に登る
昔年亟攀践、征馬復来過。
信若山河舊、誰知歳月何。
蜀相吟安在、羊公碣已磨。
令圖尚寂寞、嘉會亦蹉跌。
宛宛攀城岸、悠悠漢水波。
逶迱春日逍、感寄客情多。
地本原林秀、朝来煙景和。
同心不同賞、留歎此巌阿。

昔年、亟(すみや)かに攀践し、
征馬、復た来り過ぐ
信(まこと)に山河の旧(ふる)きが若き
誰か知らん、歳月の何(いくば)くなるを
蜀相の吟、安くにか在る、羊公の碣、已に磨したり。
令図、尚ほ寂寞、嘉会、亦た蹉跌。
宛宛たり、攀城の岸、悠悠たり、漢水の波
逶迱(いた)として春日遠く、感は寄せて客情多し。
地、本と原林、秀で、朝来、煙景、和す
同心、賞を同にせず、留歎す、此の巌の阿(くま)に 

峴山懷古 陳子昂
秣馬臨荒甸、登高覽舊都。
猶悲墮淚碣、尚想臥龍圖。
城邑遙分楚、山川半入吳。
丘陵徒自出、賢聖幾凋枯。
野樹蒼煙絕、津樓晚氣孤。
誰知萬里客、懷古正踟躕。

馬を秣(まぐさ)し 荒甸(こうでん)に臨む、高きに登りて舊都を覽る。
猶(なお)悲しむ堕涙(だるい)の碣(けつ),尚(なお)想う臥竜(がりょう)の図。
城邑 遙か楚に分る、山川 半ば吳に入る。
丘陵 徒に自ら出ず、賢聖 幾に凋枯す。
野樹 蒼煙絕ち、津樓 晚氣に孤す。
誰か知る萬里客、懷古して正に踟躕(ちちゅう)せんとすを。

宮島(1)



与諸子登峴山 孟浩然
○孟浩然 盛唐の詩人。689-740。李白より11歳ほど年長の友人。襄陽陽(湖北省襄樊市)の出身。王維・葦応物・柳宗元と並んで、唐代の代表的な自然詩人とされる。○孟浩然は、近くの峴山に登り、そこに建てられていた羊公=羊祜の徳を称えた碑を見てこの世の無常に思いを致し、以下のように詠んだ。


現代語訳と訳註
(本文)
与諸子登峴山
人事有代謝、往来成古今。
江山留勝跡、我輩復登臨。
水落漁梁浅、天寒雲夢深。
羊公碑尚在、読罷涙浩襟。

(下し文) 諸子と峴山に登る
人事に代謝あり、往来は古今を成す。
江山勝跡を留め、我が輩 また登臨す。
水落ちて魚梁浅く、天寒くして夢沢深し。
羊公の碑 なお在り、読を罷はず 一に襟をぬらす。


(現代語訳)
諸子と峴山に登る。
ここで見る人の世の営みというものは、次々と入れ替わりがあるものだ、栄枯盛衰は古代から今の時代へ時の移ろいを成しているのである。
この襄陽の地、漢江と峴山があり、景勝の跡を多く残している。われら同輩はたびたび峴山に登り、この地を見渡すのである。
季節が変わり、いま水嵩が減った川では、やなが浅く露になり、空は寒々としてはるかであり、梁父吟を唄って歩く、雲夢の沢は深く広がっている。
峴山に羊公の碑が今なお残っている、その碑文を読むうち涙がとめどなく流れ着物の襟を濡らしてしまい、その先を読むことができないのである。 


(訳注)
与諸子登峴山

諸子と峴山に登る。
峴山 襄陽城の南十里にある。孫堅が襄陽を攻撃したとき、黄祖(あるいは呂公)はこの山に潜んで孫堅を射殺した。

人事有代謝、往来成古今。
ここで見る人の世の営みというものは、次々と入れ替わりがあるものだ、栄枯盛衰は古代から今の時代へ時の移ろいを成しているのである。
人事 人の世の営み。仕事、出来事、事件。○代謝 次々と入れ替わる。 ○往来 ここでは栄枯盛衰という意味。○古今 古代から今まで。

江山留勝跡、我輩復登臨。
この襄陽の地、漢江と峴山があり、景勝の跡を多く残している。われら同輩はたびたび峴山に登り、この地を見渡すのである。
江山 漢江と峴山。○勝跡 三国志の舞台。・関羽水淹七軍の地。・樊城。・魚梁洲。・襄陽城。・解佩渚。・沈碑潭。・諸葛亮故居。・万山。・望楚山。古檀渓。襄水。峴山。・墮淚碑。峴首亭。・羊杜祠。・習家池(高揚)。・鹿門山。鹿門寺。「襄陽」「襄中」「峴山」「峴首」「刑襄」「堕涙碑」「羊公石」「山公楼」「習家池」「高陽池」「大堤」「鹿門」「洞湖」などある。


水落漁梁浅、天寒雲夢深。
季節が変わり、いま水嵩が減った川では、やなが浅く露になり、空は寒々としてはるかであり、梁父吟を唄って歩く、雲夢の沢は深く広がっている。
水落 世の移ろいを意識をさせるもので、季節が変わったことをいう。○漁梁浅 やなが浅く露になることをいう。峴山のふもとの漢水では鯿魚が捕れ、脂がのって旨い。むかし捕獲を禁止したとき槎頭で水を仕切ったことがあったので、「槎頭鯿」と呼ばれる。 ○雲夢 雲夢の沢(うんぼうのたく)湖北省の湿地帯。関羽水淹七軍の地 湿原はひろがっている。諸葛亮、十六歳の時、叔父が殺されてからは、襄陽北西の隆中で晴耕雨読の日を送りながら、襄陽士人、後漢では一流の名門である崔州平、徐庶、遊学仲間の石韜、孟建、らと交わる。
○峴山から南に八百歩、西に坂道を下って百歩のところに習家の養魚池がある。漢の侍中であった習郁が范蠡の『養魚法』に倣ったもので、中には釣り用の台が一つ設けられている。(習郁は)臨終のとき「我を養魚池の近くに埋葬してくれ」と息子に遺言した。池の傍らに高い堤があり、ずらっと竹や長楸が植えられ、芙蓉が水面を覆っている。これこそ酒宴の名所であろう。山季倫(山簡)はこの地で遊ぶたび、泥酔せずに帰ることはなく、いつも「これは我にとっての高陽池なのだ」と言っていた。


羊公碑尚在、読罷涙浩襟。
峴山に羊公の碑が今なお残っている、その碑文を読むうち涙がとめどなく流れ着物の襟を濡らしてしまい、その先を読むことができないのである。 
羊公 荊州の都督として陸抗と対峙していた羊祜は、荊州の領民を労わるはおろか 相対していた呉の将兵にまで礼節を以て臨み敵味方問わずから尊崇を集めていた。 そんな羊祜も病を得、重篤の身となると後任に杜預を推挙して没した。○ 羊祜が病死、死を惜しんだ民により生前彼が好んだ峴山に碑が建立された。 その碑を見た者は皆在りし日の羊祜を偲んで涙を堕とすに及んだ。墮淚碣という。○涙浩襟 ここを訪れる人は、なみだをながすのをとめられない。作者も抜群のロケーションを表現しているのである。


blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首



800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/



唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))

李白詩INDEX02
日ごとのブログ目次

李商隠INDEX02
ブログ日ごとの目次

杜甫詩INDEX02
日ごとのブログ目次


江上吟  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -288

江上吟  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -288



江上吟
長江の船の上での歌。 
木蘭之枻沙棠舟,玉簫金管坐兩頭。
長江に浮べる船は、木蘭のすばらしい櫂は欠かせず、沙棠の美事な舟というものだ。きれいに飾った立派な簫の笛に立派な笛の奏者を前後の舳先(へさき)に坐らせるのだ。 
美酒尊中置千斛,載妓隨波任去留。
船上での宴はまずは美酒、大きめの盃を用意し、酒龜には千斛のたくさんの美酒を用意する。そして妓女を舟に乗せて、波のままに流れにまかせ、去ることも、とどまることも、自然の流れに任せるものなのだ。
仙人有待乘黄鶴,海客無心隨白鴎。
風流を興じる仙人というものは黄鶴に乗るまでの間でも興を有するもので、その後、空を飛んでいく。この船に乗っている漁師は無心であるものだ、だから白い鴎を従わせられるのだ。 
屈平詞賦懸日月,楚王臺榭空山丘。
愛国の人、屈原の詩は、太陽や月を天に輝いて仰いでいるのだ。屈原の君王であった楚王の楼閣を覧古される山や丘に空しく残っているというだけだ。
興酣落筆搖五嶽,詩成笑傲凌滄洲。
風流な興がたけなわになるにつれて、詩を作り出されてくる、その勢いは、国の霊山として崇拝される五嶽をも揺るがすものである。その詩が出来上がって傲然と笑うにしたがえば、その境地は仙境の滄洲の仙人をも凌ぐものなのだ。
功名富貴若長在,漢水亦應西北流。

風流を興じるものにとって、名誉や財産、地位というものが、もし永遠に存在するというのならば、漢水の流れが逆流して、西北方向に流れるということをいうことになるのだ。
             

江上吟
木蘭(もくらん)の枻(かい) 沙棠(さとう)の舟,
玉簫(ぎょくしょう) 金管(きんかん)  兩頭(りょうとう)に 坐(ざ)す。
美酒 尊中(そんちゅう)千斛(せんこく)を置き,妓を載せて波に 隨ひて去留(きょりゅう)に 任(まか)す。
仙人 待つ有りて 黄鶴(こうかく)に 乘り,海客(かいきゃく)心 無くして 白鴎(はくおう) 隨(したが)ふ。
屈平(くっぺい)の詞賦(しふ)は 日月(じつげつ)を 懸(か)くるも,楚王(そおう)の臺榭(だいしゃ)は 山丘(さんきゅう)に 空し。
興(きょう)酣(たけなは)にして 筆(ふで)を 落とせば  五嶽を 搖(うご)かし,詩 成りて 笑傲(しょうごう)すれば  滄洲(そうしゅう)を 凌(しの)ぐ。
功名(こうみょう)富貴(ふうき) 若(も)し 長(とこしな)へに在(あ)らば,漢水(かんすい)も亦(ま)た 應(まさ)に 西北に 流るべし。

55moon


江上吟 現代語訳と訳註
(本文)

木蘭之枻沙棠舟,玉簫金管坐兩頭。
美酒尊中置千斛,載妓隨波任去留。
仙人有待乘黄鶴,海客無心隨白鴎。
屈平詞賦懸日月,楚王臺榭空山丘。
興酣落筆搖五嶽,詩成笑傲凌滄洲。
功名富貴若長在,漢水亦應西北流。


(下し文)
木蘭(もくらん)の枻(かい) 沙棠(さとう)の舟,
玉簫(ぎょくしょう) 金管(きんかん)  兩頭(りょうとう)に 坐(ざ)す。
美酒 尊中(そんちゅう)千斛(せんこく)を置き,妓を載せて波に 隨ひて去留(きょりゅう)に 任(まか)す。
仙人 待つ有りて 黄鶴(こうかく)に 乘り,海客(かいきゃく)心 無くして 白鴎(はくおう) 隨(したが)ふ。
屈平(くっぺい)の詞賦(しふ)は 日月(じつげつ)を 懸(か)くるも,楚王(そおう)の臺榭(だいしゃ)は 山丘(さんきゅう)に 空し。
興(きょう)酣(たけなは)にして 筆(ふで)を 落とせば  五嶽を 搖(うご)かし,詩 成りて 笑傲(しょうごう)すれば  滄洲(そうしゅう)を 凌(しの)ぐ。
功名(こうみょう)富貴(ふうき) 若(も)し 長(とこしな)へに在(あ)らば,漢水(かんすい)も亦(ま)た 應(まさ)に 西北に 流るべし。

(現代語訳)
長江の船の上での歌。              
長江に浮べる船は、木蘭のすばらしい櫂は欠かせず、沙棠の美事な舟というものだ。きれいに飾った立派な簫の笛に立派な笛の奏者を前後の舳先(へさき)に坐らせるのだ。 
船上での宴はまずは美酒、大きめの盃を用意し、酒龜には千斛のたくさんの美酒を用意する。そして妓女を舟に乗せて、波のままに流れにまかせ、去ることも、とどまることも、自然の流れに任せるものなのだ。
風流を興じる仙人というものは黄鶴に乗るまでの間でも興を有するもので、その後、空を飛んでいく。この船に乗っている漁師は無心であるものだ、だから白い鴎を従わせられるのだ。 
愛国の人、屈原の詩は、太陽や月を天に輝いて仰いでいるのだ。屈原の君王であった楚王の楼閣を覧古される山や丘に空しく残っているというだけだ。
風流な興がたけなわになるにつれて、詩を作り出されてくる、その勢いは、国の霊山として崇拝される五嶽をも揺るがすものである。その詩が出来上がって傲然と笑うにしたがえば、その境地は仙境の滄洲の仙人をも凌ぐものなのだ。

風流を興じるものにとって、名誉や財産、地位というものが、もし永遠に存在するというのならば、漢水の流れが逆流して、西北方向に流れるということをいうことになるのだ。
宮島(1)

(訳注)
江上吟

長江の船の上での歌。
○漢水が長江に流入する武漢地域での作であるが、李白の「金陵の江上にて蓬池隠者に遇う」と内容的に同じ時期とした。


木蘭之枻沙棠舟,玉簫金管坐兩頭。
木蘭(もくらん)の枻(かい) 沙棠(さとう)の舟,玉簫(ぎょくしょう) 金管(きんかん)  兩頭(りょうとう)に 坐(ざ)す。
長江に浮べる船は、木蘭のすばらしい櫂は欠かせず、沙棠の美事な舟というものだ。きれいに飾った立派な簫の笛に立派な笛の奏者を前後の舳先(へさき)に坐らせるのだ。 
木蘭〔もくらん〕モクレン。アララギ。香木の舟。蘭は美称で、実際に木蘭(モクレン)でできた舟とは限らない。舟を表す一種の詞語。 中国の民間伝説の女主人公。老病の父に代わり男装して出征。十数年の奮戦の後,恩賞を得て女性の姿に戻って帰郷する。北中国の民間歌謡が伝承され,釈智匠の《古今楽録》に収める《木蘭詩(辞)》がある。○ …の。節奏のために使う。・ 〔えい〕舟のかい(櫂)のこと。「鼓」はここでは揺らすこと。かいを漕いで、舟を出した。屈原の漁父の辞に「漁父、莞爾として笑み、枻を鼓して去る」とある。 泛泛 ( はんはん ). ゆらゆらと浮かんでいる様子。○沙棠 〔さとう〕棠(やまなし)に似た木。こりんご。果樹の一種。材は、舟を造るのに用いる。 ○玉簫 立派なしょうのふえ。立派な管楽器。 ○金管 立派な管楽器。 ○ すわる。 ○兩頭 前後の舳先(へさき)。
 
美酒尊中置千斛,載妓隨波任去留。
美酒 尊中(そんちゅう)千斛(せんこく)を置き,妓を載せて波に 隨ひて去留(きょりゅう)に 任(まか)す。
船上での宴はまずは美酒、大きめの盃を用意し、酒龜には千斛のたくさんの美酒を用意する。そして妓女を舟に乗せて、波のままに流れにまかせ、去ることも、とどまることも、自然の流れに任せるものなのだ。
美酒 うまい酒。贅沢な酒。王維の王維 少年行「新豐美酒斗十千,咸陽遊侠多少年。相逢意氣爲君飮,繋馬高樓垂柳邊。」や、王翰の『涼州詞』その一首に「葡萄美酒夜光杯,欲飮琵琶馬上催。醉臥沙場君莫笑,古來征戰幾人回。」や。李白の李白56客中行 李白57夜下征虜亭 李白58春怨 李白59陌上贈美人に「蘭陵美酒鬱金香,玉碗盛來琥珀光。但使主人能醉客,不知何處是他鄕。」 とある。 ○尊中 酒器の中に。=樽中。 ○千斛 極めて多量を謂う。 ○ 〔こく〕桝(ます)。口が小さく底が広く四角になった升。容量の単位。一斛=一石(こく)=十斗=59.44リットル(唐代)。○載妓 妓女を(舟に)乗せる。 ○隨波 波のままに。流れのままに。 ○去留 去ると留まると。自然のなりゆき。


仙人有待乘黄鶴,海客無心隨白鴎。
仙人 待つ有りて 黄鶴(こうかく)に 乘り,海客(かいきゃく)心 無くして 白鴎(はくおう) 隨(したが)ふ。
風流を興じる仙人というものは黄鶴に乗るまでの間でも興を有するもので、その後、空を飛んでいく。この船に乗っている漁師は無心であるものだ、だから白い鴎を従わせられるのだ。 
仙人 不老不死の術を得た人。人界を離れて山中に住み、変幻自在の術を得た人。 ○有待 …を待っていて。は風流を興じる気持ちがあるということ。 ○黄鶴 仙人の乗る黄色い仙鶴。なお、黄鶴樓は湖北省武昌(現・武漢)の西南の蛇山北黄鵠(長江右岸)ににある楼の名。老人が酒代の代わりに店の壁に黄鶴を描き、やがてその黄鶴にまたがって白雲に乗って去っていった伝説上の仙人を指す。李白の黄鶴について次のような詩がある。
黄鶴楼送孟浩然之広陵  李白15
蜀道難 李白
古風五十九首 其十五 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白152
送儲邕之武昌 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白174 と玄宗(7)
登金陵鳳凰臺 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350- 210
贈王判官時余歸隱居廬山屏風疊 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -232
秋浦歌十七首 其六  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集250/350海客 海辺の人。『列子』で謂う海上之人。「海辺の人で、カモメがすきな者がいて、毎朝海辺へ行って、カモメと遊んでいた。集まってくるカモメの数は百に止まらなかった。そこで、その者の父親が、『わたしは、カモメがお前に付き随って遊んでいるという噂を聞いているが、お前、そのカモメを取ってこい。わたしがあそんでやろう』と言った。そこで、息子は翌朝海辺へ行って(言われたとおりに捕まえようとしたが)カモメは降りては来なかった。」『列子・黄帝篇』「海上之人有好鴎鳥者,毎旦之海上,從鴎鳥游。鴎鳥之至者,百住而不止。其父曰:『吾聞鴎鳥皆從汝游,汝取來,吾玩之。』明日之海上,鴎鳥舞而不下也。」とある。 ○無心 心中に何もとらわれた心がないこと。ここでは、漁師の人がカモメを捕まえる気がないときは、カモメと戯れられたことを指す。次の句の屈原の話し相手が漁師である。この句が次の句を呼び込んでいくものである。○ したがう。○白鴎 白いカモメ。前出『列子・黄帝篇』に出てくる人の心を読むカモメ。


屈平詞賦懸日月,楚王臺榭空山丘。
屈平(くっぺい)の詞賦(しふ)は 日月(じつげつ)を 懸(か)くるも,楚王(そおう)の臺榭(だいしゃ)は 山丘(さんきゅう)に 空し。
愛国の人、屈原の詩は、太陽や月を天に輝いて仰いでいるのだ。屈原の君王であった楚王の楼閣を覧古される山や丘に空しく残っているというだけだ。
屈平 楚・屈原のこと。『楚辭』『漁父の辞』の一部の作者。楚の国を憂いて汨羅に身を投じた王族の政治家。詩人。 ○詞賦 屈原の『楚辭』を指す。屈原の強烈な愛国の情から選出したのが『楚辞』で、その中でも代表作とされる『離騒』は後世の愛国の士から愛された。
なお、『漁父辞』の冒頭「屈原 既に放たれて」から洟垂れ小僧のことを屈原ということがあったようである。 ・懸 つりさげる。かかげる。かける。 ・日月 太陽と月。○楚王 春秋戦国時代の楚の王。古代の南部中国の帝王。靈王、襄王、懷王、莊王などか。

李白8  蘇台覧古
李白9  越中覧古
 ○臺榭 うてな。高台の上の御殿。楼閣。 ○山丘 山と丘。物の多いさま。墳墓。重いことの形容。


興酣落筆搖五嶽,詩成笑傲凌滄洲。
興(きょう)酣(たけなは)にして 筆(ふで)を 落とせば  五嶽を 搖(うご)かし,詩 成りて 笑傲(しょうごう)すれば  滄洲(そうしゅう)を 凌(しの)ぐ。
風流な興がたけなわになるにつれて、詩を作り出されてくる、その勢いは、国の霊山として崇拝される五嶽をも揺るがすものである。その詩が出来上がって傲然と笑うにしたがえば、その境地は仙境の滄洲の仙人をも凌ぐものなのだ。
 風流にたのしいこと。悦ぶこと。心に趣(おもむ)きを感じる。おもしろみ。興味。興趣。 ・ 物事の真っ盛り。酒宴のさなか。たけなわ。○落筆 筆をおろす。書き始める。 ○五嶽 五つの霊山。
•東岳泰山(山東省泰安市泰山区)標高1,545m。
•南岳衡山(湖南省衡陽市衡山県)標高1,298m。
•中岳嵩山(河南省鄭州市登封市)標高1,440m。
•西岳華山(陝西省渭南市華陰市)標高2,160m。
•北岳恒山(山西省大同市渾源県)標高2,016,m。 
詩成 詩ができあがる。詩(が)なる。 ○笑傲 〔しょうごう〕あざわらっていばる。○滄洲 仙人の住むところ。滄浪洲。


功名富貴若長在,漢水亦應西北流。
功名(こうみょう)富貴(ふうき) 若(も)し 長(とこしな)へに在(あ)らば,漢水(かんすい)も亦(ま)た 應(まさ)に 西北に 流るべし。
風流を興じるものにとって、名誉や財産、地位というものが、もし永遠に存在するというのならば、漢水の流れが逆流して、西北方向に流れるということをいうことになるのだ。
功名 てがら。手柄を立て名をあげること。 ○富貴 金持ちで身分が高い。 ○長在 いつまでもある。永遠に存在する。李白の古風五十九首 其十一 李白:Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白140に「黄河走東溟,白日落西海。逝川與流光,飄忽不相待。春容捨我去,秋髮已衰改。人生非寒松,年貌豈長在。吾當乘雲,吸景駐光彩。」とある。 ○漢水 梁州(現・陝西省)の方から東南方向に向かって流れ、襄陽(現・湖北省)を経て、漢陽で長江に注ぎ込む大河。 ○ …もまた。 ・ きっと…だろう。 ○西北流 漢水が逆流するということ。漢水は、東南方向に向かって流れている。

blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首



800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。

唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))
李白詩INDEX02
李商隠INDEX02
杜甫詩INDEX02

陪従祖済南太守泛鵲山湖 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白350- 202

陪従祖済南太守泛鵲山湖 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白350- 202



陪従祖済南太守泛鵲山湖

水入北湖去、舟従南浦囘。

鵲山から来る川が湖の北に流れ込んでいる。わたしの乗った舟は、湖南がわ川の合流点の浦のあたりをまわってから引きかえしてきた。
遙看鵲山傳、却似送人来。

狩猟を終えてはるかに目をやると、舟の位置の移動につれて鵲山が次々に位置をかえ、山がわれわれ人を送ってくれているように思われる


従祖済南の太守に陪し、鵲山湖に泛ぶ

水は北湖に入って去り、舟は南浦より回る。

遙かに看る 鵲山の転ずるを、却って人を送り来るに似たり。



陪従祖済南太守泛鵲山湖 現代語訳と訳註、解説

(本文)
陪従祖済南太守泛鵲山湖
水入北湖去、舟従南浦囘。
遙看鵲山傳、却似送人来。

(下し文)
従祖済南の太守に陪し、鵲山湖に泛ぶ
水は北湖に入って去り、舟は南浦より回る。
遙かに看る 鵲山の転ずるを、却って人を送り来るに似たり。

(現代語訳)
鵲山から来る川が湖の北に流れ込んでいる。わたしの乗った舟は、湖南がわ川の合流点の浦のあたりをまわってから引きかえしてきた。
狩猟を終えてはるかに目をやると、舟の位置の移動につれて鵲山が次々に位置をかえ、山がわれわれ人を送ってくれているように思われる。


(訳註)
陪従祖済南太守泛鵲山湖

従祖 祖父の兄弟。○済南 いまの山東省済南市。○太守 郡の長官。○鵲山湖 山東省済南市歴城区、とされているが鵲山確認できない。山の南に湖があるというが現在地は確認できていない。この詩は、舟遊びではなく、鳧猟をしたものであろう。

李白 済南

水入北湖去、舟従南浦囘。
鵲山から来る川が湖の北に流れ込んでいる。わたしの乗った舟は、湖南がわ川の合流点の浦のあたりをまわってから引きかえしてきた。
 湖に流れ込む川であるが。このあたりは北に黄河があるので、小さな川は北流している。○南浦 鵲山湖の南にある。川が流入するあたりに鴨がいる。


遙看鵲山傳、却似送人来。
狩猟を終えてはるかに目をやると、舟の位置の移動につれて鵲山が次々に位置をかえ、山がわれわれ人を送ってくれているように思われる。
 本来書き付けたものを次に伝えるという意味なので、伝えるにしたがって遠ざかるというイメージで捉える。


 


(解説)
山東省済南市歴城区のあたりで通ったものである。幽州からの帰りに立ち寄ったのか、行く前かは不明であるが。以前、杜甫と狩りをして歩いたのはもっと南の方である。
山東省済南市に大明湖と東湖というのがあって位置関係からして、唐時代この湖がつながっていてもおかしくない感じがする。黄河流域の下流地方であるから、おそらく湿地であったのではないか。詩の雰囲気は理解できる。

プロフィール

紀 頌之

Twitter プロフィール
メッセージ

名前
メール
本文
記事検索
最新記事(画像付)
メッセージ

名前
メール
本文
カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
最新記事(画像付)
記事検索
  • ライブドアブログ