漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
リンクはフリーです。報告、承諾は無用です。
ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

社会風刺

《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内> Ⅱ李白に影響を与えた詩1071 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3903

《楚辞 『九辯』》 宋玉 <案内> 『九辯』は楚の宋玉の作である。辯は変なであり、道徳をのべて以て君王の施政のあり方をのべる。九は陽の数、道の綱紀であると。宋玉は屈原の弟子である。師は忠義心あるも放逐せられた。故に『九辯』を作って其の志を述べた。

2014年3月17日の紀頌之5つのブログ
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内> Ⅱ李白に影響を与えた詩1071 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3903
孟浩然 詩 index李白詩index謝霊運 詩 index司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》揚雄 《 甘泉賦 》 ●諸葛亮(孔明)出師表
曹植(曹子建)詩 65首 index文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固)●古詩十九詩 無名氏(1)漁父辞 屈原『楚辞・九歌』東君 屈原《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>
●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 
Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
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《韓愈詩index-5[806年元和元年 39歳]江陵府参事軍・権知国子博士長安に帰る 50首の(2)25首》韓愈(韓退之) Ⅱ中唐詩 <984>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3904韓愈詩-韓愈詩index-5
・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首
index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首
index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など
孟郊張籍    
●杜甫の全作品1500首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"
Ⅲ杜甫詩1000詩集  LiveDoorブログこれからの杜甫詩 (15)765年永泰元年 杜甫54歳 正月幕府を辞す 63首 ふたたび成都 杜甫<684> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3905 杜甫詩1000-684-inDex-15/15003
杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首
杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首
●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている
Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2ブログ
      
●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集
Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoor《 『花間集』 このブログで花間集全詩、訳注解説します。(6)孫少監光憲(孫光憲【そんこうけん】)四十七首 》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3907
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魚玄機全詩●花間集(6)●花間集(7)●花間集(8)●花間集(9)●花間集(10)
温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻
毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻
魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻
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《楚辞 『九辯』》 宋玉 <案内> Ⅱ李白に影響を与えた詩1071 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3903


《楚辞 『九辯』》 宋玉 <案内>


     
  楚辞 『九辯』 宋玉  
     
  九章説も、九の数に合わせるために無理に分けたような所もあって、確かではないが、一応旧説に準じて、九段に分けて訳注する。九辯」は楚辞の中でもすぐれた代表作品である。  
    
  悲哉秋之為氣也!蕭瑟兮草木搖落而變衰,
憭慄兮若在遠行,登山臨水兮送將歸,
泬寥兮天高而氣清,寂寥兮收潦而水清,
悽增欷兮薄寒之中人,愴怳懭悢兮去故而就新,
坎廩兮貧士失職而志不平,廓落兮羇旅而無友生。
惆悵兮而私自憐。
  
  悲しいしいことよ、秋の気というものは! 風はさわさわと草木に吹きさびしく鳴っている。それにより、草木は葉を落とし、吹き散り、色を変わっておとろえる。  
  逝く秋には心がいたみ悲しむもので、それは遠い旅路で、山に登ったり、水辺に立ったりして、故郷に帰ろうとする人を送る時のこころにおもうことのようである。  
  秋の眺めはむなしく雲もない。大空は高くなり、空気は清々しいものとなる。秋の野はひっそりとしてくるし、物影もなくなるのだ。長雨で出来た道の溜り水も収まり引いて、秋の水は澄んでくるのだ。  
  心は痛み悲しんで、しだいにすすり泣くのである、はだ寒い秋の気は次第に人の身にしみる寒さになるのである。そうして、物悲しくうつろな心になり、気力もうちしおれ、住みなれた土地を去って見知らぬ国に行くことになるのである。  
  そのような境遇であれば心は楽しいものではなく、貧しい士太夫、その人は心中おだやかであるはずもない。ただ広々として寂しいのはその地も、こころもそうなのだ。その地を離れてこの旅の空に友達もいないのである。  
  心は恨み嘆いており、そしてひそかに自分を憐れに思うことであろう。  
    
  九辯 第一段ー#1 宋玉 <00-#1>  
  九辯 第一段ー#2 宋玉 <00-#2>  
  九辯 第二段-#1 宋玉  <00-#3>  
  九辯 第二段-#2 宋玉  <00-#4>  
  九辯 第三段-#1 宋玉 <00-#5>  
  九辯 第三段-#2 宋玉  <00-#6回目>  
  九辯 第三段-#3 宋玉  <00-#7回目>  
  九辯 第三段-#4 宋玉  <00-#8回目>  
  九辯 第四段-#1 宋玉  <00-#9回目>  
  九辯 第四段-#2 宋玉 <00-#10回目>  
  九辯 第五段-#1 宋玉  <00-#11>  
  九辯 第五段-#2 宋玉  <00-#12>  
  九辯 第五段-#3 宋玉  <00-#13>  
  九辯 第五段-#4 宋玉  <00-#14>  
  九辯 第五段-#5 宋玉  <00-#15>  
  九辯 第五段-#6 宋玉  <00-#16>  
  九辯 第六段-#1 宋玉  <00-#17>  
  九辯 第六段-#2 宋玉  <00-#18>  
  九辯 第一~ニ段(とおし) 宋玉  <00-#19>  
  九辯 第三段(とおし) 宋玉  <00-#20>  
  九辯 第四五段(とおし) 宋玉  <00-#21>  
  九辯 第七段-#1 宋玉  <00-#22>  
  九辯 第七段-#2 宋玉  <00-#23>  
  九辯 第八段-#1 宋玉  <00-#24>  
  九辯 第八段-#2 宋玉  <00-#25>  
  九辯 第六・七・八段 まとめ 宋玉  <00-#26>  
  九辯 第九段―#1 宋玉  <00-#27>  
  九辯 第九段―#2 宋玉  <00-#28>  
  九辯 第九段―#3 宋玉  <00-#29>  
  九辯 第九段―#4 宋玉  <00-#30>  
  九辯 第九段―#5 宋玉  <00-#31>  
  九辯 第九段―#6 宋玉  <00-#32>  
  九辯 第九段―#7 宋玉  <00-#33>  
  九辯 第九段―#8 宋玉  <00-#34>  
  九辯 第九段―まとめ 宋玉  <00-#35>  
     
     
 『九辯』は楚の宋玉の作である。辯は変なであり、道徳をのべて以て君王の施政のあり方をのべる。九は陽の数、道の綱紀であると。
宋玉は屈原の弟子である。師は忠義心あるも放逐せられた。故に『九辯』を作って其の志を述べた。
 
  
    
 宋玉は、戦国時代末期の文学者で、屈原の弟子とされる。屈原にならって主として辞賦作品を作っているが、その批判精神は受け継いではいない。主君の意向に沿った作品を作る宮廷作家の典型とされる。宋玉の作品は、《文選》には『風の賦』『高唐の賦』『神女の賦』『登徒子好色の賦』など,《楚辞》には『九弁』『招魂』などが収められる。ただ、彼の伝記に確実なよりどころがないこととあわせて,作品の来歴に多くの問題のあることが指摘されているが、旧説に合わせて紹介する。 
     
幻日環01

還至端駅前与高六別処 張説 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -308

還至端駅前与高六別処 張説 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -308


305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作   ⑧
316  〃   田園作元旦⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下層石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処
328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
*(番号の順でこのブログに掲載する)


盛唐時代の政治家で詩人でもあった張説(ちょうえつ)が詠んだものであるが、峴山を題材にしてはいないが、世の移ろいを詠うものとして、孟浩然・張九齢・陳子昂・張説と目線が同じであることでここに掲載する。李白の峴山懐古、襄陽曲四首、襄陽歌、大堤曲での李白の目線に触れたいと思う。
   

還至端駅前与高六別処 張説

還至端駅前与高六別処
また、端州駅に来たまえからの仲間である排行六番目の高戩とここで別れる。
旧館分江口、凄然望落暉。
かつて高戩と泊まったこの旅籠は北江と西江の合流地点付近にある。ふたりはものさびしく、いたましい気持ちで沈みゆく太陽を眺めている。
相逢伝旅食、臨別換征衣。
相手の高戩に長安に旅立つことをつたえる。別れにあたって互いの旅装を交換し合うことにするのだ。
昔記山川是、今傷人代非。 
昔から山河はとこしえに変わらない、普遍なものとして記録されている。しかし、今の傷付いた世は太宗の時代にはなかったのものだ。
往来皆此路、生死不同帰。

行きかう人は皆この路、それぞれの道を通るものだ。人が生まれたことと、人が死ぬということは同じところに帰るということはないのだ。


(還 端駅に至り 前与の高六と処で別る)
旧館 分江の口、凄然として落暉を望む。
相逢うて旅食を伝え、別れに臨んでは征衣を換う。
昔記せし山川は是なるも、今傷む人代の非なるを。
往来皆此の路なるに、生死帰るを同じうせず。

現代語訳と訳註
(本文)
還至端駅前与高六別処
旧館分江口、凄然望落暉。
相逢伝旅食、臨別換征衣。
昔記山川是、今傷人代非。 
往来皆此路、生死不同帰。(下し文)
(還 端駅に至り 前与高六と処で別る)
旧館 分江の口、凄然として落暉を望む。
相逢うて旅食を伝え、別れに臨んでは征衣を換う。
昔記せし山川は是なるも、今傷む人代の非なるを。
往来皆此の路なるに、生死帰るを同じうせず。


(現代語訳)
また、端州駅に来たまえからの仲間である排行六番目の高戩とここで別れる。
かつて高戩と泊まったこの旅籠は北江と西江の合流地点付近にある。ふたりはものさびしく、いたましい気持ちで沈みゆく太陽を眺めている。
相手の高戩に長安に旅立つことをつたえる。別れにあたって互いの旅装を交換し合うことにするのだ。
昔から山河はとこしえに変わらない、普遍なものとして記録されている。しかし、今の傷付いた世は太宗の時代にはなかったのものだ。
行きかう人は皆この路、それぞれの道を通るものだ。人が生まれたことと、人が死ぬということは同じところに帰るということはないのだ。


(訳注)
還至端駅前与高六別処

(還 端駅に至り 前与の高六と処で別る)
また、端州駅に来たまえからの仲間である排行六番目の高戩とここで別れる。
端溪(端州)駅 現在の広東省肇慶市(ざおちんし)高要県。端溪硯の名産地。
高六 … 高戩こうせん。張説と共に則武天に諫言をし、再三、流刑に処された。宰相魏元忠を高要尉へ左遷し、高戩、張説は嶺表へ流した。○ 排行六のこと。 同姓の親族の中で同世代の兄弟やいとこたちを、男子は男子、女子は女子で別々に年齢順に番号をつけて呼ぶこと。 一族ではない他人が排行で呼ぶことは、よほど親しいということ。科挙の同輩などの付き合いにより交際が深まったものが多い。


旧館分江口、凄然望落暉。
(旧館 分江の口、凄然として落暉を望む。)
かつて高戩と泊まったこの旅籠は北江と西江の合流地点付近にある。ふたりはものさびしく、いたましい気持ちで沈みゆく太陽を眺めている。
旧館 かつて高六と泊まった旅館。○分江 西江と北江とが合流する地点。 川筋が分かれるところ。
口 … 『全唐詩』では「日」に作り、「一作口」との注あり。○凄然 [1]寒く冷ややかなさま。[2]ものさびしく、いたましいさま。○落暉  沈む太陽。落日。


相逢傳旅食、臨別換征衣。
(相逢うて旅食を伝え、別れに臨んでは征衣を換う。)
相手の高戩に長安に旅立つことをつたえる。別れにあたって互いの旅装を交換し合うことにするのだ。
旅食 旅先での弁当。これから旅に出ること。征衣  旅ごろも。旅装。


昔記山川是、今傷人代非。
(昔は記(おぼゆ) 山川の是なるを、今は傷む 人代の非なるを。)
昔から山河はとこしえに変わらない、普遍なものとして記録されている。しかし、今の傷付いた世は太宗の時代にはなかったのものだ。
人代 人間の世界。世の中。代を使っているのは唐の太宗、李世民の諱を避けたため。高戩、張説は則武天により左遷され、戻され、また左遷された。その後、玄宗期には宰相になる。大宗は諫言を受け入れた。又、地方で仁徳のある官僚を中央に引き上げるシステムを構築した。則武天も当初は張説の還元を受け入れていた。


往来皆此路、生死不同帰。
(往来 皆此この路なるに、生死 帰えるを同じうせず。)
行きかう人は皆この路、それぞれの道を通るものだ。人が生まれたことと、人が死ぬということは同じところに帰るということはないのだ。


旧館分江口、凄然望落暉。
相逢伝旅食、臨別換征衣。
昔記山川是、今傷人代非。 
往来皆此路、生死不同帰。


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答友人贈烏紗帽 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -293

答友人贈烏紗帽 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -293


答友人贈烏紗帽
領得烏紗帽,全勝白接蘺。
山人不照鏡,稚子道相宜。


答友人贈烏紗帽 李白                           
烏紗帽を領得して、全く白接蘺(り)に勝(まさ)る。
山人 鏡に照らさざるも、稚子 相 宜(よろ)しと道(い)う。


 鳥紗帽たしかに受け取りました                         
 白接蘺よりずっといい                             
 鏡で見てみたわけじゃないけど                         
 子供は似合うと言ってます                           
李白
       ウィキペディア  李白像
 
現代語訳と訳註
(本文)
答友人贈烏紗帽
領得烏紗帽,全勝白接蘺。
山人不照鏡,稚子道相宜。


(下し文)
烏紗帽を領得して、全く白接蘺(り)に勝(まさ)る。
山人 鏡に照らさざるも、稚子 相 宜(よろ)しと道(い)う。


(現代語訳)
烏紗帽を届けてくれて確かに受け取りました。白い接羅の帽子よりすべてに勝っている。
山で隠遁すべき人間が街にいるこの私が鏡を見るまでのことはないのだ、山間ではないけれど子供たちはよく似合ってるといっている。


(訳注) 答友人贈烏紗帽
領得烏紗帽,全勝白接蘺。
烏紗帽を領得して、全く白接蘺(り)に勝(まさ)る。
烏紗帽を届けてくれて確かに受け取りました。白い接羅の帽子よりすべてに勝っている。
烏紗帽:絹で出来た礼装用の黒い帽子。
白接羅:白い接羅(せつり)。接羅は帽子の一種。昔、荊の地方長官だった山簡が被っていたことで有名。
山簡は竹林の七賢人である山濤の息子だが、それよりなにより酔ってこの白接蘺を前後反対に被り
町なかで馬に乗ったほどの「酔っぱらい」ぶりで名高い。              
「山公」と言えば酔っぱらいの代名詞であり、李白はしばしば自分をこの山簡に例えている。 

山公 山簡のこと。字は季倫。西晋時代の人。竹林の七賢の一人、山濤の子。公は一般に尊称であるが、ここでは、とくに尊敬と親しみの気特がこもっている。山簡、あざなは季倫。荊州の地方長官として嚢陽にいたとき、常に酔っぱらっては高陽の池にあそび(野酒)、酩酊したあげく、白い帽子をさかさに被り、馬にのって歩いた。それが評判となり、そのことをうたった歌までできた。話は「世説」にある。 ○高陽 嚢陽にある池の名。 ○白接蘺 接蘺は帽子。


山人不照鏡,稚子道相宜。
山人 鏡に照らさざるも、稚子 相 宜(よろ)しと道(い)う。
山で隠遁すべき人間が街にいるこの私が鏡を見るまでのことはないのだ、山間ではないけれど子供たちはよく似合ってるといっている。
○山人 山林で隠棲すべき隠者が世間に出て行くことを批判する意味を寓している。李白、杜甫などもある意味では職業的詩人であって、やはり山人の部類である。ここでは李白自身のことを指す。


     
 帽子01

帽子02
帽子03
 
  唐太宗戴幞頭 禮官戴幞頭 兩文人戴幞頭 
 帽子04
帽子05
帽子06
 
  長腳羅幞頭 翹腳幞頭 翹腳幞頭
 
    

   時代を遡ると、元代の雑劇に登場する山人は例外なくみな占い師であり、かつ自称ではなく他称である。また陸遊の〈新裁道帽示帽工〉(《劍南詩稿》卷39)では、「山人手段雖難及」と帽子作りの職人を山人と呼んでおり、《東京夢華録》巻 5 〈京瓦技芸〉等にみえる張山人は都会の寄席芸人であるなど、総じて山人とは「技術之士」(《太平廣記》巻72「張山人」)であったといえる。同じ現象は唐代にも見られる。宋初の《文苑英華》巻231「隠逸二・山人」に収める唐代の山人の詩の多くには売薬についての記述が見える。そもそも山人という語の出典は、南斉の孔稚圭「北山移文」(《文選》巻43)の「山人去兮曉猿驚」にあり、本来山林で隠棲すべき隠者が世間に出て行くことを批判する意味を寓している。いわゆる「終南の捷径」によって官途を求めた李泌のような人物もまた山人であったし、李白、杜甫などもある意味では職業的詩人であって、やはり山人の部類である。現に李白は「答友人贈烏紗帽」(《李白集校注》巻19)で「山人不照鏡、稚子道相宜」と自ら山人を称している

 
「山公」
李白と道教48襄陽歌 ⅰ

李白と道教(7)襄陽曲49から52

阮籍 詠懐詩 、 白眼視    嵆康 幽憤詩

秋浦歌十七首 其七 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集251350

秋浦歌十七首 其九 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 -253/350

秋浦歌十七首 其十一 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集-255/350


 烏紗帽00烏紗帽平巾幘(さく)帽00平巾幘(さく)帽

 
    

襄陽曲四首 李白
「あの儒教者の立派な人格者の晉の羊公でさえ、台石の亀の頭は、むざんに欠け落ちてしまって、苔だらけ。『涙を堕す碑』とよばれるのに、涙さえおとすことも出来ない。心も羊公のために、悲しむことさえ出来ない。
清々しい風、明月を眺め、その上、酒を飲むなら、これにまさることはない。」
どんなに笑われても、山公(山簡先生)のように生きたい。という李白であった。
 中国では、昔から、茶屋、居酒屋のようなにぎやかに人を集めた場所で、「三国志」、とか、「王昭君」、「西施」など節をつけ、唄いながら講談をした。襄陽は交通の要衝で、大きな歓楽街もあった。そこで詠われた詩の「襄陽楽」を題材にして李白が詠ったのだが、同じ内容の絶句四首がある。李白の考え方をよく表している。(再掲)

現代語訳と訳註

李白『襄陽曲四首其一』
(本文)

襄陽行樂處、歌舞白銅蹄。
江城回淥水、花月使人迷。


(下し文)
嚢陽 行楽の処、歌舞 白銅鞋
江城 淥水回(めぐ)り、花月 人をして迷わせる


(現代語訳)
嚢陽はたのしい行楽の場所だ。人びとは、古いわらべ歌の「白銅蹄」を歌ったり踊ったりする。
江にのぞむこのまちは、うつくしい水にとりまかれ、なまめかしい花と月とが、人の心をまよわせる。

(訳注)
○裏陽曲 六朝の栄の隋王寵が作ったといわれる「嚢陽楽」という歌謡に、「朝に嚢陽城を発し、暮に大隄の宿に至る。大隄の諸女児、花顛郡の目を驚かす」とある。嚢陽曲は、すなわち賽陽楽であり、李白のこの第一首の結句は、隋王誕の歌の結句と似ている。なお、李白の、次にあげた「大隄の曲」、および 前の「嚢陽の歌」を参照されたい。○襄陽 いまの湖北省襄陽県。漢水にのぞむ町。李白はこの地から遠からぬ安陸に、三十歳前後の頃、定住していた。また、李白の敬愛する先輩の詩人、孟浩然は、裏陽の旧家の出身であり、一度は杜甫に連れられ玄宗にお目通りしたが仕えず、この地の隠者として終った。・白銅蹄 六朝時代に襄陽に流行した童謡の題。 ○淥水 清らかな水。 ○花月 花と月と。風流なあそびをさそうもの。(売春の誘い込みも含むと考えればわかりやすい)


李白 襄陽曲四首 其二
(本文)

山公醉酒時。 酩酊高陽下。
頭上白接籬。 倒著還騎馬。


(下し文)

山公 酒に酔う時、酩酊し 高陽の下
頭上の 白接籬、倒しまに着けて還(また)馬に騎(のる)

(現代語訳)
山簡先生はいつもお酒に酔っている、酩酊してかならず高陽池のほとりでおりていた。
あたまの上には、白い帽子。それを逆さにかぶりながら、それでも馬をのりまわした。

(訳註)
○山公 山簡のこと。字は季倫。西晋時代の人。竹林の七賢の一人、山濤の子。公は一般に尊称であるが、ここでは、とくに尊敬と親しみの気特がこもっている。山簡、あざなは季倫。荊州の地方長官として嚢陽にいたとき、常に酔っぱらっては高陽の池にあそび(野酒)、酩酊したあげく、白い帽子をさかさに被り、馬にのって歩いた。それが評判となり、そのことをうたった歌までできた。話は「世説」にある。 ○高陽 嚢陽にある池の名。 ○白接離 接寵は帽子。



李白 襄陽曲四首 其三
(本文)

峴山臨漢江、水淥沙如雪。
上有墮淚碑、青苔久磨滅。

(下し文)
峴山 漢江に臨み、水は緑に 抄は雪の如し
上に堕涙の碑有り、青苔に 久しく磨滅す

(現代語訳)
峴山は漢江に臨んでそびえたつ、ながれる水は清く澄み、川辺の砂は雪の白さだ。
山上には「墮淚碑」が有り、 青苔におおわれたまま永いので磨滅したように彫刻が見えない。
(こんなに哀れに苔だらけになってしまっている。ここで泣けるのか)

(訳註)
○峴山 襄陽県の東南にある山で、漢水にのぞむ。唐代の名勝の地。○漢江 漢水とおなじ。長江の一番大きな支流。 ○堕涙碑 晋の羊祜は、荊州の都督(軍事長官)として襄陽のまちを治めて人望があった。かれは生前、峴に登って酒を飲み、詩を作つたが、かれが死ぬと、襄陽の人びとはその人となりを偲んで、山上に石碑を立てた。その碑をみる人は、かれを思い出して涙を堕さないではいられなかったので、堕涙碑と名づけられた。名づけ親は、羊祜の後任で荊州の都督となった杜預、(杜甫の遠い先祖にあたる)である。



李白 襄陽曲四首 其四
(本文)

且醉習家池。 莫看墮淚碑。
山公欲上馬。 笑殺襄陽兒。

(下し文)

且らく酔わん 習家の池、堕涙の碑を看る莫れ。
山公 馬に上らんと欲すれは、笑殺す 嚢陽の児。

 (現代語訳)
ともかく、習家池で酔いつぶれよう、墮淚碑になんか見てもしかたがない。
山公先生が馬に乗ろうとして、襄陽の子供たちが笑い転げてくれ。(その方がどんなにいいか)

(訳注)
○習家池 山簡がいつも酔っぱらった高陽池のこと。漢の習郁という人が、養魚のためにこの池をつくり、池のまわりの高い堤に竹などを植え、ハスやヒシで水面をおおい、以来、遊宴の名所となったと「世説」の注に見える。○笑殺 穀は調子を強める字。


 死んで世に名を残したって、苔むすだけだろう。それなら、一生どれだけ飲めるのかといっても、たかが知れている。人に笑われたって今を楽しむほうがいい。ここで、酒好きな李白の「酒」を論じるのではない。(酒については別のところで述べる予定。)


 子供についての考え方、に続いて、わらべ歌について、李白の考えを詠ったものだが、端的に言うと、峴山の羊祜、「堕涙碑」は儒教の精神を示している。それに対して、山簡を山公と山翁呼んでいるが、李白は自分のことをしばしばそう詠っている。竹林の七賢山濤の子の山簡、つまり、山簡先生と同じように自分もたとえ子供に笑われたって、酒を飲むほうがいいといっている。酒を飲むというのは現実社会、今生きていることを示すのである。(李白は山東で竹渓の六逸と称し遊ぶ)


 李白は、自分の道徳観を故事になぞらえて正当化する手法をとっている。しかも、わかりやすいわらべ歌を題材にしているのである。

 襄陽は、道教の宗派最大の聖地、武当山のおひざ元、門前町なのだ。ここでも道教の接点があるのだ。
(長安で寓居していた終南山も道教の本家地がある。元丹邱の関連でよく出てくる地名である。)
 しかし、のちに、この道教のつながりで、中央官僚、しかも皇帝が李白のために新しいポストを作って迎えられるのだから、「大作戦」成功を見るのである。

贈從弟南平太守之遙二首 其二 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -292

贈從弟南平太守之遙二首 其二 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -292

其二
東平與南平。 今古兩步兵。
東平と南平の二人、今も昔も軍隊の基本は歩兵戦略にあるものだ。
素心愛美酒。 不是顧專城。
純真な心でおいしいお酒を愛することが一番だ。このことはもっぱら城郭の中にいて戦のことは考えることはないということだ。
謫官桃源去。 尋花几處行。
謫仙人といわれたこの私は桃源の里を去ろうと思う。花を訪ねて歩くのでゆく当てのない旅をすることになろう。
秦人如舊識。 出戶笑相迎。

素直で純真な心を持った君たちは、私の過去の歴史を知ってくれたことは唐王朝のことを理解したものと思う。ここの扉から出ていったら今度会う時は互いに笑って迎え合おうではないか。

從弟の南平の太守之遙に贈る二首 其の二
東平と南平。 今は古(いにしえ) 兩の步兵。
素心 美酒を愛し。 是 專城を顧ず。
謫官 桃源を去り。花を尋ねて 几そ處行す。
秦人 舊きを識るが如し。 出戶 笑って相い迎う。


其二 現代語訳と訳註
(本文)

東平與南平。 今古兩步兵。
素心愛美酒。 不是顧專城。
謫官桃源去。 尋花几處行。
秦人如舊識。 出戶笑相迎。

(下し文)  其の二
東平と南平。 今も古(いにしえ) 兩の步兵。
素心 美酒を愛し。 是 專城を顧ず。
謫官 桃源を去り。花を尋ねて 几そ處行す。
秦人 舊きを識るが如し。 出戶 笑って相い迎う。

(現代語訳)
東平と南平の二人、今も昔も軍隊の基本は歩兵戦略にあるものだ。
純真な心でおいしいお酒を愛することが一番だ。このことはもっぱら城郭の中にいて戦のことは考えることはないということだ。
謫仙人といわれたこの私は桃源の里を去ろうと思う。花を訪ねて歩くのでゆく当てのない旅をすることになろう。
素直で純真な心を持った君たちは、私の過去の歴史を知ってくれたことは唐王朝のことを理解したものと思う。ここの扉から出ていったら今度会う時は互いに笑って迎え合おうではないか。


(訳注)
東平與南平。 今古兩步兵。
東平と南平。 今も古(いにしえ)も 兩の步兵。

東平と南平の二人、今も昔も軍隊の基本は歩兵戦略にあるものだ。
○今と昔、両方とも、東平と南平の両人、歩兵の戦略が戦の基本である。


素心愛美酒。 不是顧專城。
素心 美酒を愛し。 是 專城を顧ず。
純真な心でおいしいお酒を愛することが一番だ。このことはもっぱら城郭の中にいて戦のことは考えることはないということだ。
素心 純真な心。なのも染まっていない、損得でない心。○愛美酒 美人を伴って飲むお酒であるから、酒を愛し、美人を愛すという意味。○專城 叛乱軍という先の見えない勢力に対して加担をするなという意味。


謫官桃源去。 尋花几處行。
謫官 桃源を去り。花を尋ねて 几そ處行す。
謫仙人といわれたこの私は桃源の里を去ろうと思う。花を訪ねて歩くのでゆく当てのない旅をすることになろう。
謫官 元役人であったということ。役人を辞めた謫仙人。○桃源 隠遁生活の象徴。○尋花 美人を訪ね歩くということ。決まった幕下には入らないということ、謝安の「両手に妓女を携えて」の精神をいうものである。


秦人如舊識。 出戶笑相迎。
秦人 舊きを識るが如し。 出戶 笑って相い迎う。
素直で純真な心を持った君たちは、私の過去の歴史を知ってくれたことは唐王朝のことを理解したものと思う。ここの扉から出ていったら今度会う時は互いに笑って迎え合おうではないか。
miyajima 697


其一 #1
少年不得意。 落魄無安居。
愿隨任公子。 欲釣吞舟魚。
常時飲酒逐風景。壯心遂與功名疏。
蘭生谷底人不鋤。云在高山空卷舒。
漢家天子馳駟馬。赤車蜀道迎相如。
天門九重謁聖人。龍顏一解四海春。
#2
彤庭左右呼萬歲。拜賀明主收沉淪。
翰林秉筆回英眄。麟閣崢嶸誰可見。
承恩初入銀台門。著書獨在金鑾殿。
龍駒雕鐙白玉鞍。象床綺席黃金盤。
當時笑我微賤者。卻來請謁為交歡。
#3
一朝謝病游江海。 疇昔相知几人在。
前門長揖後門關。 今日結交明日改。
愛君山岳心不移。 隨君云霧迷所為。
夢得池塘生春草。 使我長價登樓詩。
別後遙傳臨海作。 可見羊何共和之。

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猛虎行 #2 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -277

猛虎行 #2 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -277

「猛虎行」は李白が溧陽(江蘇省常州市の南に位置する西湖の西端から50km位西に行ったあたり)にいるとき作った詩である。
この地で草書の名人張旭(杜甫「飲中人仙歌」にも出る)と遇って、酒を飲んで歓を尽くし、別れに際して作ったもので、亡国の感慨を歌ったものである。
4回に分けて掲載。その2回目
宮島(5)

#1 吟、琴/道、倒、草、城、寧。

朝作猛虎行。 暮作猛虎吟。
腸斷非關隴頭水。 淚下不為雍門琴。』
旌旗繽紛兩河道。 戰鼓驚山欲傾倒。
秦人半作燕地囚。 胡馬翻銜洛陽草。
一輸一失關下兵。 朝降夕叛幽薊城。
巨鰲未斬海水動。 魚龍奔走安得寧。』

#2 時、止、市/貧、臣、人/此、士/鱗、人』

頗似楚漢時。 翻覆無定止。
趙の将軍廉頗が楚との戦いで活躍したときは今の唐の時代と似ている。趙楚の戦いも形勢は変わりやすかった、攻めたり攻められたり、体制は流動的で態勢がきまったわけではない。
朝過博浪沙。 暮入淮陰市。』
張良は朝に鉄槌を投げて暗殺未遂をした博浪沙をすぎた。夕方にはもう韓信が漂母に出会った淮陰の街に着いていた。
張良未遇韓信貧。劉項存亡在兩臣。
張良は韓信が貧しかったうちには未だであっていない.劉邦と項羽は存亡をかけた両雄が鴻門の会を結べたのは張良と韓信の存在があったからだ。
暫到下邳受兵略。來投漂母作主人。」
張良は暫くして下邳では黄石公に平方の戦略を習って倒すことができたのである。韓信は川で漂泊をしているおばあさんに御馳走になりこれを主人とすることで立派な人として抜擢されたのだ。
賢哲棲棲古如此。今時亦棄青云士。
張良という賢人と韓信という哲人でさえあくせくしていたのも昔のことであるがここにいる、私と張旭の二人があくせくするのも当たり前だろう。今、こんな時世であるから、もう若い時に描いていた、天下国家を動かそうなんていう青雲の志い詩を持った指導者なんていらないのだろう。
有策不敢犯龍鱗。竄身南國避胡塵。
策略はいくらでもあるだから無理をして粛宗の龍と永王の鱗をどちらかということ時期ではないはずなのだ。自分らは張良のように身を竄して、湖南や浙江の南國に叛乱軍を避け、情勢をよく見ることにしていよう。
寶書玉劍挂高閣。金鞍駿馬散故人。』
( 玉一作長 )
今、叛乱軍によって、翰林院の大切な宝のような書物、受け継がれてきた輝く宝飾で飾られた剣、それらの価値のわからない奴ら間、高閣にただ置かれているだけで生かし切ることができないのだ。貴族以上の身分のものが付ける馬の鞍つけて、優れて走り抜ける馬に乗っていた長安時代の友人、官僚の友人たちは今はもういないのだ。

#3 客。石。擲。/ 奇。知。隨。

昨日方為宣城客。制鈴交通二千石。
有時六博快壯心。 繞床三匝呼一擲。
楚人每道張旭奇。 心藏風云世莫知。
三吳邦伯皆顧盼。  四海雄俠兩追隨。 ( 皆一作多 )
蕭曹曾作沛中吏。攀龍附鳳當有時。』

#4 春、人、塵、賓、親。

溧陽酒樓三月春。楊花茫茫愁殺人。
胡雛綠眼吹玉笛。吳歌白紵飛梁塵。
丈夫相見且為樂。槌牛撾鼓會眾賓。
我從此去釣東海。得魚笑寄情相親。


猛虎の行 ( 此の詩、蕭士に贇に云う、是れ偽作。 )
#1
朝に 猛虎の行を作す、暮に 猛虎吟を作す。
腸斷す 關に非らずして 隴頭の水。 淚下 為さずして 雍門の琴。』
旌旗 繽紛として 兩の河道。 戰鼓 山を驚かして 傾倒せんと欲っす。
秦人 半ば作すと 燕地の囚となる。 胡馬 銜を翻して 洛陽の草。
一輸 一失 關下の兵。 朝降 夕べに叛し 幽薊の城。
巨鰲は未だ海水を動して斬らず。 魚龍は 奔走 安ぞ寧を得る。』

#2
頗 似て楚漢の時。 翻 覆て定むる止るることなし。
朝 博 浪沙を過ぎ。 暮 淮陰の市に入る。
張良 未だ 韓信の貧に遇わず。劉項 存亡すること兩に臣在る。
暫く 下邳にて 兵略 受けて到る。來りて 漂母 主人と作して投ざるる。
賢哲 棲棲 古きこと此の如し。今時 亦 青云の士棄る。
策 有り 敢て龍鱗を犯さず。身を竄して 南國に 胡塵を避ける。
寶書 玉劍 高閣に挂る。金鞍 駿馬 故人は散る。』

#3
昨日 方に宣城の客と為し。制鈴 交通 二千石。
有時 六博 快壯の心。 床を繞らし 三匝 一擲を呼ぶ。
楚人 每道 張旭は奇なり。 心藏 風云 世に知る莫れ。
三吳 邦伯 皆盼を顧る。  四海 雄俠 兩に追隨す。 ( 皆一作多 )
蕭曹 曾て沛中の吏と作す。龍を攀げて 鳳に當に時に有りて附く。』-#3
#4
溧陽の酒楼に三月の春、楊花は茫茫たり、人を愁殺せしむ。
胡の雛(こども )緑の眼にて玉笛を吹き、呉歌の白紵(はくちょ)は梁の塵を飛ばす。
丈夫相い見えば且く楽しみを為せ、牛を槌(う)ち鼓を撾きて衆賓を会す。
我は此より去って東海に釣りせん、魚を得ば笑って寄せて情相親しまん。

猛虎の行 #2 現代語訳と訳註
(本文)#2

頗似楚漢時。 翻覆無定止。
朝過博浪沙。 暮入淮陰市。
張良未遇韓信貧。劉項存亡在兩臣。
暫到下邳受兵略。來投漂母作主人。
賢哲棲棲古如此。今時亦棄青云士。
有策不敢犯龍鱗。竄身南國避胡塵。
寶書玉劍挂高閣。金鞍駿馬散故人。』

(下し文)
頗 似て楚漢の時。 翻覆して定むる止むることなし。

朝に博浪の沙を過ぎる。 暮に淮陰の市に入る。
張良 未だ韓信の貧しきに遇わず。劉項存亡在兩臣。
暫く 下邳にて 兵略 受けて到る。來りて 漂母 主人と作して投ざるる。
賢哲 棲棲として 古きこと此くの如し。今時 亦た青云の士 棄る。
策 有りて 敢て龍鱗を犯さず。竄身 南國に胡塵を避く。
寶書 玉劍 高閣に挂かる。金鞍 駿馬 故人に散す。』

(現代語訳)#2
趙の将軍廉頗が楚との戦いで活躍したときは今の唐の時代と似ている。趙楚の戦いも形勢は変わりやすかった、攻めたり攻められたり、体制は流動的で態勢がきまったわけではない。
張良は朝に鉄槌を投げて暗殺未遂をした博浪沙をすぎた。夕方にはもう韓信が漂母に出会った淮陰の街に着いていた。
張良は韓信が貧しかったうちには未だであっていない.劉邦と項羽は存亡をかけた両雄が鴻門の会を結べたのは張良と韓信の存在があったからだ。
張良は暫くして下邳では黄石公に平方の戦略を習って倒すことができたのである。韓信は川で漂泊をしているおばあさんに御馳走になりこれを主人とすることで立派な人として抜擢されたのだ。
張良という賢人と韓信という哲人でさえあくせくしていたのも昔のことであるがここにいる、私と張旭の二人があくせくするのも当たり前だろう。今、こんな時世であるから、もう若い時に描いていた、天下国家を動かそうなんていう青雲の志い詩を持った指導者なんていらないのだろう。
策略はいくらでもあるだから無理をして粛宗の龍と永王の鱗をどちらかということ時期ではないはずなのだ。自分らは張良のように身を竄して、湖南や浙江の南國に叛乱軍を避け、情勢をよく見ることにしていよう。
今、叛乱軍によって、翰林院の大切な宝のような書物、受け継がれてきた輝く宝飾で飾られた剣、それらの価値のわからない奴ら間、高閣にただ置かれているだけで生かし切ることができないのだ。貴族以上の身分のものが付ける馬の鞍つけて、優れて走り抜ける馬に乗っていた長安時代の友人、官僚の友人たちは今はもういないのだ。


(訳注)#2
頗似楚漢時。 翻覆無定止。
趙の将軍廉頗が楚との戦いで活躍したときは今の唐の時代と似ている。趙楚の戦いも形勢は変わりやすかった、攻めたり攻められたり、体制は流動的で態勢がきまったわけではない。
廉頗(れんぱ、生没年不詳)は、中国戦国時代の趙の将軍。藺相如との関係が「刎頸の交わり」として有名。○翻覆 上に向けたり、下に向けること。変わりやすいこと。


朝過博浪沙。 暮入淮陰市。
張良は朝に鉄槌を投げて暗殺未遂をした博浪沙をすぎた。夕方にはもう韓信が漂母に出会った淮陰の街に着いていた。
博浪沙 いまの河南省原陽県(陽武)。開封の近くにある。李白『經下邳圯橋懷張子房』「椎秦博浪沙」
漢の高祖(鋸鰯の参謀として漢の帝国樹立に功績があり、斎何、韓信とともに、創業の表といわれている。のち、大名に封ぜられ、留侯と呼ばれた。張良の先祖は韓の人で、祖父も父も韓国の宰相をつとめた。
淮陰市 韓信が人生を変えた漂母と出会った街。


張良未遇韓信貧。劉項存亡在兩臣。
張良は韓信が貧しかったうちには未だであっていない.劉邦と項羽は存亡をかけた両雄が鴻門の会を結べたのは張良と韓信の存在があったからだ。
張良・韓信 張良・蕭何・韓信で漢の三傑。○劉項 秦軍を撃破した漢の劉邦、楚の項羽
鴻門の会 咸陽占領を巡る項羽と劉邦の咸陽城外での講和会議。懐王はかねて咸陽を陥落させた者を関中王とすると宣していたが、咸陽を開城させた劉邦は項羽の接近に対して関門を閉じ、一時は交戦となるところを張良・項伯の周旋で鴻門での和睦となった。会盟中、項羽の軍師の范増は劉邦暗殺を謀ったが、項伯・樊噲・張良の機転で果たせず、散会後に項羽を「豎子、ともに図るに足りず」と罵り、これが後の項羽と范増の不和の最初になったという。   

暫到下邳受兵略。來投漂母作主人。
張良は暫くして下邳では黄石公に平方の戦略を習って倒すことができたのである。韓信は川で漂泊をしているおばあさんに御馳走になりこれを主人とすることで立派な人として抜擢されたのだ。
○この聯は 注釈を参照。
經下邳圯橋懷張子房 李白-272

扶風豪士歌 安史の乱と李白(3215

淮陰書懷寄王宗成李白350-199

李白32 玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首 其二



賢哲棲棲古如此。今時亦棄青云士。
張良という賢人と韓信という哲人でさえあくせくしていたのも昔のことであるがここにいる、私と張旭の二人があくせくするのも当たり前だろう。今、こんな時世であるから、もう若い時に描いていた、天下国家を動かそうなんていう青雲の志い詩を持った指導者なんていらないのだろう。
○賢【賢哲】 (名・形動) [文]ナリ [1]賢人と哲人。[2]賢明で道理に通じていること。
棲棲 いそがしいさま。落ち着かないさま。あくせくする。○青云士
經亂後將避地剡中留贈崔宣城 李白-217-2

古風五十九首 其四十 李白198


有策不敢犯龍鱗。竄身南國避胡塵。
策略はいくらでもあるだから無理をして粛宗の龍と永王の鱗をどちらかということ時期ではないはずなのだ。自分らは張良のように身を竄して、湖南や浙江の南國に叛乱軍を避け、情勢をよく見ることにしていよう。
龍鱗 下句の胡塵が対句であるから、ここでは、唐王朝、天子を指す。李白は、玄宗から追放を受けた訳で、龍:玄宗と鱗:粛宗ともいえるが、のち、永王鄰の軍に参加することを考えると、兄弟仲があまり良くなかった:粛宗で、:永王璘というのが妥当であろうと思う。




寶書玉劍挂高閣。金鞍駿馬散故人。』
今、叛乱軍によって、翰林院の大切な宝のような書物、受け継がれてきた輝く宝飾で飾られた剣、それらの価値のわからない奴ら間、高閣にただ置かれているだけで生かし切ることができないのだ。貴族以上の身分のものが付ける馬の鞍つけて、優れて走り抜ける馬に乗っていた長安時代の友人、官僚の友人たちは今はもういないのだ。
寶書 翰林院の大切な宝のような書物。○挂高閣 朝廷内の高閣に置いている。それを生かし切ることができないことをいう。金鞍 貴族以上の身分のものが付ける馬の鞍。 ○駿馬 優れて走り抜ける馬。 ○故人 長安時代の友人、官僚の友人をいう。




○張子房 張良のこと。子房はそのあざな。漢の高祖(鋸鰯の参謀として漠の帝国樹立に功績があり、斎何、韓信とともに、創業の表といわれている。のち、大名に封ぜられ、留侯と呼ばれた。張良の先祖は韓の人で、祖父も父も韓国の宰相をつとめた。秦が韓を滅ぼした時、張良はまだ少年であったが、家財を投げ出して晴箸を求め、秦の始皇帝を警うと決意した。

家柄からして、韓のために仇を報いざるを得なかったのである。かれは捨海君という異民族の夏に力の強い男を芸してもらい、大きな鉄のハンマーをつくり、案の始皇帝が博浪汐という所に行幸したのを狙撃させた。狙いは外れて予備の車にあたった。始皇帝は大いに怒った。天下に犯人をもとめ、捜索は非常にきびしかった。張良は変名して下警身をかくしていた。ある日のこと、張良がぶらぶら散歩して下邸の土橋にさしかかると、一人のじいさんがそまつな着物をきて張良のそばに寄ってきた。

いきなり、自分の靴を橋の下におとし、張良の顔をみて言った。「小僧、おりで靴を警て来い」張良はびっくりした。殴ってやろうかと思ったが、年よりだから、がまんして→りてゆき靴を拾った。じいさんは言った。「わしにはかせろ」張良は是や靴を拾った以上仕方がない。誓まずいて、はかせてやった。じいさんは足で受け、笑って立ち去った。張良があっけにとられて後姿を見送っていると、しばらくして引きかえしてきたじいさんが言った。

「小僧、警がいのある奴だ。音のち、明け方にわしと此所で会晋」張良は怪しみながらも「はい」と答えた。音たって夜明けに張良が行くと、じいさんは先に来ている。そして怒って言う。「老人と約束七で遅れるとは何事だー・」去りながら言った。「音のち、朝早く会おう」こんどは妄鶏がなくころ張良は行った。じいさんはやっぱ。先に来ていた。また怒って言う。「おくれるとは何事だー三富のち、もっと早く来い」張良、こんどこそはと、夜中にもならないうちに行った。しばらくするとじいさんがやってきて、はじめてニ…コした。「こうこなくちゃいかん」-警書を菅出して言った。「これを読めば、王者の師となれる。十年のち、出掌る。

十三年のち、小僧はわしを済北の穀城山のふきに見つけるであろう、黄石がつま。わしなんだ」言い至ると、さっと姿晶した。夜が明けてその書をよく見ると、太公望の兵書であった。張良はふしぎに思い、いつ登れを詞読した。

やがて高祖が兵をあげる主柄豊てたが、十三年のち、高祖に従って済北を過ぎたとき、張良ははたして黄色
の石を見つけたので、警できてそれをまつったということであった。



淮陰書懷寄王宗成 李白
暝投淮陰宿。 欣得漂母迎。』
日暮れに淮陰に着き、宿をとることができました。幸いにも韓信の故事の 漂母のような方が迎えてくれたのです
○漂母 史記、韓信の故事。淮陰にいたころ貧乏だった。人の家に居候ばかりして、嫌われていた。ある日、綿晒しに来たおばあさんが、釣りをしていた韓信を植えている様子を見て、食事をとらせた。綿晒しが終わるまで、数十日食事をさせてくれた。漂は綿をさらすこと。

予為楚壯士。 不是魯諸生。
私は楚の雄壮な武士であります、けっして魯の孔子の里の儒家思想の人間ではないのです。
○楚壯士 楚の国は勇壮な武士をたくさん出している。○魯諸生 山東省魯の孔子の里。

玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首
飢從漂母食。閑綴羽陵簡。
●后稷(こうしょく)は、伝説上の周王朝の姫姓の祖先。中国の農業の神として信仰されている。
●漂母 韓 信(かん しん、生未詳 - 紀元前196年)は、貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活に終始していた。こんな有様であったため、淮陰の者はみな韓信を見下していた。とある亭長の家に居候していたが、嫌気がした亭長とその妻は韓信に食事を出さなくなった。いよいよ当てのなくなった韓信は、数日間何も食べないで放浪し、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる有様であった。韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたが可哀想だからしてあげただけのこと。御礼なんて望んでいない」といわれた。老女が真綿を晒す老女であったことから、漂母という。
●丹徒の布衣者と一斛いっこくの檳榔びんろう
 劉 穆之(りゅう ぼくし、360年 - 417年)は、中国五胡十六国時代の東晋末期に劉裕(宋の武帝)に仕えた政治家のことさす。若く貧しかった頃は、妻の兄である江氏の家に食事を乞いに行っては、しばしば辱められ、妻にも行くのを止められたが、これを恥としなかった。後に劉穆之は江氏の祝いの宴会に赴き、食後の消化に檳榔を求めたが、江氏の兄弟に「いつも腹を空かしているのにそんなものがいるのか」とからかわれた。妻は髪を切った金で兄弟に代わり劉穆之に食事を出したが、これ以後、劉穆之の身繕いをしなくなった。後に劉穆之は丹陽尹となると、妻の兄弟を呼び寄せようとした。妻が泣いて劉穆之に謝ると、劉穆之は「もともと怨んでもいないのだから、心配することもない」といい、食事で満腹になると金の盆に盛った1斛の檳榔を彼らに進めたという。

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猛虎行 #1 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -276

猛虎行 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -276
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猛虎行-張旭と飲む

「君に尊敬の念を抱きつつ御馳走になって君のために歌をうたうわけである。自分はまだ志を得ない漢の張良のようなもの、仙人の赤松の跡を逐って上昇するほど、脱俗的の気分にはなっていない。」
張良は下郡の杷橋のもとで黄石公から兵法を授けられ、その後、漢の高祖に仕えて出世して留侯にまでなった。「その黄石公に比すべき人のみ、わが気持ちが分かってくれるものだ」と歌う。最後の句は、李白の希望を述べ、わが心を知ってくれる黄石公のごとき人が出てほしい。そして、再び活躍する場を与えてはしいという。前途に対しての希望はまだまだ消えてはいない。ぞく叛乱軍の侵入の悲惨を歌いながら、それに刺激されて任侠心が勃然とよみがえってきたのであろうか。

洛陽には洛水が流れている。「その辺りは胡兵たる賊軍がいずこにも走りまわっている。戦いのために、野草が血塗られている。財狼に比すべき賊軍は、みな衣冠束帯をつけて役人となり、横暴を極めている」。「流血は野草を塗らし、財狼のもの尽く冠の樫をす」には、安禄山の配下の者が、にわか官僚となって、横暴な振舞いをしていることに対する李白の憤りがこめられている。

凡そ生死の場に損入する遊侠者の悪い部面として賭博行為がつきまとう.したがって司馬遷が遊侠者の性格を述べるに当り,正義に外れる場合のあり得る事を前提とした意中にはこのような行為も入るわけである.
李白「梁園吟」には組分けして滑を賭け遊び暮したことが彼の実際経験としで述べられているが,より切実感を盛った描写としては「猛虎行」がある.これは楽府体の詩であるが辞中の言菜では,溧陽で張旭に留別するに際し作ったものとされている.この中には  李白が安禄山の乱を避けて宣城に至り,この地の太守と親交があったことを語り,また時には自ら  六博をなして賭博的享楽中にその壮心を慰めた様子も詠われている.李白がこのような放浪の旅をしきりに痛快にできたのは,尋常一様の士として、過去の作品の軌を異にするものである.詩の注釈に蕭士賛はこの詩を李白のではないと凝っている。

李白の詩は、論理の流れが滑らかで、使われている語が幾様にも掛けことばとされている。それでいても論理の錯誤はない。立て板に水が流れるような詩であることが一番で、押韻のために無駄な語を使用しない。 しかし、この詩は一貫性がない。論理性もしっかりしていない。この詩は倫理的でないことに尽きる。
だからといって李白のものではないとは言えない。いや、李白の詩、全体的な作品から見て、もう一つの大きな時期的なもの、政情不安、治安も不安な時期であったことが、この詩にさせたものであるようにおもえるのである。
儒教的な視点で李白の詩は語れない。遊侠的実践を好ましくないものとして位置づけ、遊侠・任侠は不正義につながるという儒教者の教条主義的な見方では理解できないのかもしれない。

蕭士賛は論理が通っていない偽物といい
「猛虎行」蕭士賛曰,按此詩似非太自之作,用事既無倫理.徒爾辟鴬狂誕之辞,首尾不相應,詠絡不相貫串 語意斐率.悲欺失拠,必是他人詩,竄入集中,歳久難別. 
王琦は時期的に合致、飲んだ席でのことであり、本物という。
李太白文集韓註巻六 「猛虎行」琦夜是詩当天宝十五載之春,太白与張旭相遇於溧陽,而太白又将遨遊東越,与張旭宴別而作也. 


「函谷関が堅固であることが天子のいる長安を支えることになるし、天下の運命は潼関を守る総司令官の哥舒翰にかかっている。ところが、長き仗を持った唐の軍隊三十万もおりながら、戦い敗れて、関門を開いて賊軍安禄山を潼関より入れてしまった。情けないことだ。一挙に長安は占領され、役にたたぬ公卿たちは犬羊のごとく追いまわされ、なすところを知らず。忠義の者は塩辛や塩漬けにされてしまった。賊軍の横暴略奪は悲惨を極めた」と、当時の乱離の様を追憶している。杜甫もしきりに安禄山の乱を歌い、その悲惨さを多く歌っているが、詩人ならずとも、当時の人々に特に衝撃は大きかった。
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「行次西郊作一百韻」について李商隠の詩150 -147はじめに

李商隠 148 北徵と行次西郊作一百韻について

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150-149

「猛虎行」は李白が溧陽(江蘇省常州市の南に位置する西湖の西端から50km位西に行ったあたり)にいるとき作った詩である。
この地で草書の名人張旭(杜甫「飲中人仙歌」にも出る)と遇って、酒を飲んで歓を尽くし、別れに際して作ったもので、亡国の感慨を歌ったものである。
4回に分けて掲載。

猛虎行 ( 此詩蕭士贇云是偽作 )
猛虎のうた ( 此の詩は、蕭士贇が言うに李白の作ではない偽作である。)
#1 吟、琴/道、倒、草、城、寧。

朝作猛虎行。 暮作猛虎吟。
朝に猛虎の歌を作って、日暮れに猛虎の歌を吟じている。
腸斷非關隴頭水。 淚下不為雍門琴。』
腹立たしくて腸がちぎれんばかりに怒りがわいてくる関中には天子はいなくて隴山の奥に行ってしまって水が流れてくるばかり。今はただ涙が流れて止まらない、雍城で大敗しその門前で寂しく琴音が響く。
旌旗繽紛兩河道。 戰鼓驚山欲傾倒。
今や叛乱軍の軍旗が風に翻っている渭水、洛水の両岸を抑えられてしまった。戦いの際に打ち鳴らされる太鼓は吹きの山々に轟き、これを倒してもらいたいのだ。
秦人半作燕地囚。 胡馬翻銜洛陽草。
しかし、長安にいた臣下の者たちは、叛乱軍に進んで虜になってしまった。その捕虜たちの奸臣たちは叛乱軍の馬たちに託して洛陽に送られたのだ。
一輸一失關下兵。 朝降夕叛幽薊城。
ひとたび輸送され、ひとたび消失して関中の兵は叛乱軍に下ったのだ。明日に降参した者たちは、ゆうべには幽州の薊の城郭から叛乱は始まったのだ。
巨鰲未斬海水動。 魚龍奔走安得寧。』

安禄山の叛乱以来そのオオガメは大海原切り開いて出てくることはない。大魚と龍も大暴れしてどうしてそのままおとなしくしておられるものか。

#2 時、止、市/貧、臣、人/此、士/鱗、人』

頗似楚漢時。 翻覆無定止。
朝過博浪沙。 暮入淮陰市。』
張良未遇韓信貧。劉項存亡在兩臣。
暫到下邳受兵略。來投漂母作主人。」
賢哲棲棲古如此。今時亦棄青云士。
有策不敢犯龍鱗。竄身南國避胡塵。
寶書玉劍挂高閣。金鞍駿馬散故人。』 ( 玉一作長 )

#3 客。石。擲。/ 奇。知。隨。

昨日方為宣城客。制鈴交通二千石。
有時六博快壯心。繞床三匝呼一擲。
楚人每道張旭奇。心藏風云世莫知。
三吳邦伯皆顧盼。四海雄俠兩追隨。 ( 皆一作多 )
蕭曹曾作沛中吏。攀龍附鳳當有時。』

#4 春、人、塵、賓、親。

溧陽酒樓三月春。楊花茫茫愁殺人。
胡雛綠眼吹玉笛。吳歌白紵飛梁塵。
丈夫相見且為樂。槌牛撾鼓會眾賓。
我從此去釣東海。得魚笑寄情相親。

猛虎の行 (注 此の詩、蕭士贇に云う、是れ偽作。 )
#1
朝に 猛虎の行を作す、暮に 猛虎吟を作す。
腸斷す 關に非らずして 隴頭の水。 淚下 為さずして 雍門の琴。』
旌旗 繽紛として 兩の河道。 戰鼓 山を驚かして 傾倒せんと欲っす。
秦人 半ば作すと 燕地の囚となる。 胡馬 銜を翻して 洛陽の草。
一輸 一失 關下の兵。 朝降 夕べに叛し 幽薊の城。
巨鰲は未だ海水を動して斬らず。 魚龍は 奔走 安ぞ寧を得る。』
#2
頗 似て楚漢の時。 翻 覆て定むる止るることなし。
朝 博 浪沙を過ぎ。 暮 淮陰の市に入る。
張良 未だ 韓信の貧に遇わず。劉項 存亡すること兩に臣在る。
暫く 下邳にて 兵略 受けて到る。來りて 漂母 主人と作して投ざるる。
賢哲 棲棲 古きこと此の如し。今時 亦 青云の士棄る。
策 有り 敢て龍鱗を犯さず。身を竄して 南國に 胡塵を避ける。
寶書 玉劍 高閣に挂る。金鞍 駿馬 故人は散る。』
#3
昨日 方に宣城の客と為し。制鈴 交通 二千石。
有時 六博 快壯の心。 床を繞らし 三匝 一擲を呼ぶ。
楚人 每道 張旭は奇なり。 心藏 風云 世に知る莫れ。
三吳 邦伯 皆盼を顧る。  四海 雄俠 兩に追隨す。 ( 皆一作多 )
蕭曹 曾て沛中の吏と作す。龍を攀げて 鳳に當に時に有りて附く。』-#3
#4
溧陽の酒楼に三月の春、楊花は茫茫れて人を愁殺せしむ。
胡の雛緑の眼にて玉笛を吹き、呉歌の白紵(はくちょ)は梁の塵を飛ばす。
丈夫相い見えば且く楽しみを為せ、牛を槌ち鼓を樋きて衆賓を会す。
我は此より去って東海に釣りせん、魚を得ば笑って寄せて情相親しまん。


杜甫乱前後の図003鳳翔渭水は秦州から右側に流れ長安を過ぎて、潼関で黄河と合流する。合流して黄河は東流(右に)して洛陽方面から来た洛水と合流する。 


猛虎行 現代語訳と訳註
(本文) #1

猛虎行 ( 此詩蕭士贇云是偽作 )
朝作猛虎行。 暮作猛虎吟。
腸斷非關隴頭水。 淚下不為雍門琴。』
旌旗繽紛兩河道。 戰鼓驚山欲傾倒。
秦人半作燕地囚。 胡馬翻銜洛陽草。
一輸一失關下兵。 朝降夕叛幽薊城。
巨鰲未斬海水動。 魚龍奔走安得寧。』

(下し文)
猛虎の行  ( 此の詩、蕭士贇は云う、是れ偽作。 )
朝に 猛虎の行を作し、暮に 猛虎吟を作す。
腸斷す 關に非らずして 隴頭の水。 淚下 為さずして 雍門の琴。』
旌旗 繽紛として 兩の河道。 戰鼓 山を驚かして 傾倒せんと欲っす。
秦人 半ば作すと 燕地の囚となる。 胡馬 銜を翻して 洛陽の草。
一輸 一失 關下の兵。 朝降 夕べに叛し 幽薊の城。
巨鰲は未だ海水を動して斬らず。 魚龍は 奔走 安ぞ寧を得る。』

(現代語訳)
猛虎のうた ( 此の詩は、蕭士贇が言うに李白の作ではない偽作である。)
朝に猛虎の歌を作って、日暮れに猛虎の歌を吟じている。
腹立たしくて腸がちぎれんばかりに怒りがわいてくる関中には天子はいなくて隴山の奥に行ってしまって水が流れてくるばかり。今はただ涙が流れて止まらない、雍城で大敗しその門前で寂しく琴音が響く。
今や叛乱軍の軍旗が風に翻っている渭水、洛水の両岸を抑えられてしまった。戦いの際に打ち鳴らされる太鼓は吹きの山々に轟き、これを倒してもらいたいのだ。
しかし、長安にいた臣下の者たちは、叛乱軍に進んで虜になってしまった。その捕虜たちの奸臣たちは叛乱軍の馬たちに託して洛陽に送られたのだ。
ひとたび輸送され、ひとたび消失して関中の兵は叛乱軍に下ったのだ。明日に降参した者たちは、ゆうべには幽州の薊の城郭から叛乱は始まったのだ。

安禄山の叛乱以来そのオオガメは大海原切り開いて出てくることはない。大魚と龍も大暴れしてどうしてそのままおとなしくしておられるものか。

(訳注)
猛虎行 ( 此詩蕭士贇云是偽作 )

猛虎のうた ( 此の詩は、蕭士贇が言うに李白の作ではない偽作である。)
猛虎 安禄山の叛乱、叛乱軍の残虐で略奪をほしいままにしたことを踏まえていう。○蕭士 草書を完成させた立派な人。○ 美しい草書 ○偽作 陸機作のものの贋作ということにしてイメージを借りた。

猛虎行 陸機  Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -274


朝作猛虎行。 暮作猛虎吟。
朝に猛虎の歌を作って、日暮れに猛虎の歌を吟じている。
○猛虎 自分の意に副わない敵対する側を指すもの。ここでは、反乱軍安禄山の軍が、勝手気ままな治政を行い、各地で略奪をほしいままに繰り返した。唐王朝の貞観の治により、地方の隅々まで、潤っていたものが、官僚取立て制度のシステムの崩壊から、税負担が大きくなり、唐王朝に対する不満があり、安禄山もその不満を受けて当初は支持をされていた。ところが、その軍は、胡の帽子をかぶり、野党、盗賊の群れであった。民衆の支持はたちまち離れた。李白は、陸機の「猛虎行」の雰囲気を借りて歌ったものである。


腸斷非關隴頭水。 淚下不為雍門琴。』
腹立たしくて腸がちぎれんばかりに怒りがわいてくる関中には天子はいなくて隴山の奥に行ってしまって水が流れてくるばかり。今はただ涙が流れて止まらない、雍城で大敗しその門前で寂しく琴音が響く。
○雍門 756年雍丘の戦いにおいて唐王朝軍が大敗している。○


旌旗繽紛兩河道。 戰鼓驚山欲傾倒。
今や叛乱軍の軍旗が風に翻っている渭水、洛水の両岸を抑えられてしまった。戦いの際に打ち鳴らされる太鼓は吹きの山々に轟き、これを倒してもらいたいのだ。
旌旗 反乱軍の軍旗。○繽紛 ひらひらと風に翻っているさま。○兩河道 黄河の分水、渭水は長安を西に上流を流域とする川と洛陽も黄河の分水の洛水にそっている。この時両都市を反乱軍が抑えていた。 ○戰鼓 戦いの陣列を整える陣太鼓。○驚山 太鼓の音が山に轟いて、そこに住む人間にとって脅威であった。


秦人半作燕地囚。 胡馬翻銜洛陽草。
しかし、長安にいた臣下の者たちは、叛乱軍に進んで虜になってしまった。その捕虜たちの奸臣たちは叛乱軍の馬たちに託して洛陽に送られたのだ。
秦人 長安、洛陽の朝廷の官僚、臣下。○半作 官僚として王朝軍の筋を通さないこと。○燕地囚 反乱軍の捕虜となること。 ○胡馬 反乱軍の軍馬。○翻銜 馬の轡の向きを変える。ここでは西に向かう馬を東に帰ることで、反乱軍の本拠地洛陽に向かうことを示す。○洛陽草 洛陽で捕虜として仕えること。

一輸一失關下兵。 朝降夕叛幽薊城。
ひとたび輸送され、ひとたび消失して関中の兵は叛乱軍に下ったのだ。明日に降参した者たちは、ゆうべには幽州の薊の城郭から叛乱は始まったのだ。
幽薊 反乱軍が決起したところを示す。:幽州。・薊:古代中国の都市。春秋戦国時代には、燕の都が置かれた。現在の北京市。


巨鰲未斬海水動。 魚龍奔走安得寧。』
安禄山の叛乱以来そのオオガメは大海原切り開いて出てくることはない。大魚と龍も大暴れしてどうしてそのままおとなしくしておられるものか。
巨鰲 オオガメ  李白『懷仙歌』 懷仙歌 李白 111
「堯舜之事不足驚。 自余囂囂直可輕。
 巨鰲莫戴三山去。 我欲蓬萊頂上行。」
(尭舜の事は驚くに足らず自余のものの囂囂(きょうきょう)たるは直だ軽んず可し。巨鰲は三山を戴きつつ去ること莫かれ、我は蓬莱の頂上に行かんと欲す)
儒教を国のおしえ覇道として堯帝と舜帝のやったことなど私にとっては驚くべきことではない、まして私に嘆いたり、心配してうるさいものはただ値打ちのない軽んじられるものなのだ
ただ大亀いる、仙人の住む三山をはるか先に背負っていってしまってはいけない、私はこれから蓬萊山の頂上に行こうと思っている。

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經下邳圯橋懷張子房 #2 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -273

經下邳圯橋懷張子房 #2 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -273


經下邳圯橋懷張子房    
子房未虎嘯、破產不為家。
滄海得壯士、椎秦博浪沙。』
報韓雖不成、天地皆振動。
潛匿游下邳、豈曰非智勇。』-#1
我來圯橋上、懷古欽英風。
わたしは子房が黄石公にであった下邳の土橋の上に来ていた、故事を思い、その英雄の風貌をうやまうものなのだ。
惟見碧流水、曾無黃石公。
そこにはただ目の前には苔むした青々とした水の流れがあるだけで、かの黃石公はもとより姿を現わすはずがないのだ。
嘆息此人去、蕭條徐泗空。』
#2
張良がこの世からいなくなってから、徐州と泗州とよばれる下邳の地方一帯が急にひっそりしてしまった、それに今この乱れた世に誰も出ないのかと思うと、ためいきが出てくるのだ。


下邳(かひ)の圯橋(いきょう)を經て張子房を懷う
子房 未だ虎 嘯せざり、產を破って 家を為さず。
滄海に 壯士を得て、秦を椎(つい)す 博浪沙。
韓に報じて 成らずと雖も、天地 皆 振動せり。
潜匿(せんとく)して 下邳(かひ)に遊ぶ、豈 智勇(ちゆう)に 非ずと 曰わんや。』-#1
我 圯橋(いきょう)の上に來り、古(いにしえ)を懐うて、英風を欽(しと)う。
唯だ見る 碧流(へきりゅう)の水、曾て無し 黄石(こうせき)公(こう)。
嘆息す 此の人去りて、蕭條(しょうじょう)徐泗(じょし)の空しきを。』-#2




經下邳圯橋懷張子房 現代語訳と訳註
(本文)
#2
我來圯橋上、懷古欽英風。
惟見碧流水、曾無黃石公。
嘆息此人去、蕭條徐泗空。』


(下し文) -#2
我 圯橋(いきょう)の上に來り、古(いにしえ)を懐うて、英風を欽(しと)う。
唯だ見る 碧流(へきりゅう)の水、曾て無し 黄石(こうせき)公(こう)。
嘆息す 此の人去りて、蕭條(しょうじょう)徐泗(じょし)の空しきを。』


(現代語訳)
わたしは子房が黄石公にであった下邳の土橋の上に来ていた、故事を思い、その英雄の風貌をうやまうものなのだ。
そこにはただ目の前には苔むした青々とした水の流れがあるだけで、かの黃石公はもとより姿を現わすはずがないのだ。
張良がこの世からいなくなってから、徐州と泗州とよばれる下邳の地方一帯が急にひっそりしてしまった、それに今この乱れた世に誰も出ないのかと思うと、ためいきが出てくるのだ。



(訳注)
我來圯橋上、懷古欽英風。

わたしは子房が黄石公にであった下邳の土橋の上に来ていた、故事を思い、その英雄の風貌をうやまうものなのだ。
圯橋:いきょう 土橋。○ うやまう。つつしむ。


惟見碧流水、曾無黃石公。
そこにはただ目の前には苔むした青々とした水の流れがあるだけで、かの黃石公はもとより姿を現わすはずがないのだ。
曾無 「曾」は「無」を強調する字。○英風 英雄の風貌。


嘆息此人去、蕭條徐泗空。』#2
張良がこの世からいなくなってから、徐州と泗州とよばれる下邳の地方一帯が急にひっそりしてしまった、それに今この乱れた世に誰も出ないのかと思うと、ためいきが出てくるのだ。
徐泗 徐州と泗州。いまの江薪省徐州から安徽省池原にいたる一帯の地方。下邸はこの地方にある。


 この頃この詩の言う「扶風」:鳳翔に粛宗皇帝は行在所(仮の朝廷)を置いていた。西から東の長安を攻め入る体制を整えていた。
 安禄山を秦の始皇帝に見立て、張良、韓信などの英雄の出現を李白自身、永王璘に求めたのであろうか。張旭らとの清談をする中ではもっと露骨な議論があったのであろうが、洛陽、長安を攻め落とすのはなかなか難しい状況であったのであろう。


「扶風豪士歌」 李白
洛陽三月飛胡沙。 洛陽城中人怨嗟。
天津流水波赤血。 白骨相撐如亂麻。
(洛陽 三月に胡沙飛び、洛陽城中 人は怨み嗟く
天津の流水は波も赤血なり、白骨相い培(つちかえ)えて乱るる麻の如し)

撫長劍。一揚眉。 清水白石何離離。
脫吾帽。向君笑。 飲君酒。為君吟。
張良未逐赤松去。 橋邊黃石知我心。』
(長劍を撫るい。一(ひとたび)眉を揚る。 清水白石 何ぞ離れ離れになるぞ。
吾が帽を脱ぎて君に向かって笑い。君の酒を飲み君が為に吟ず。
張良は末だ赤松を逐いて去らず、橋辺の黄石のみ我が心を知る)

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經下邳圯橋懷張子房 #1 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -272

 

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經下邳圯橋懷張子房 #1 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -272


安禄山の叛乱が起こって以来、南方地方を転々としている李白であるが、友人と酒を酌み交わすときに決まって、酔うと李白は韓信,張良の気分に浸ったようだ。既に掲載した「扶風豪士歌」扶風豪士歌 安史の乱と李白(3) Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350- 215こののち掲載予定の「猛虎行」題名が面白い猛虎(叛乱軍)に立ち向かう任侠の士としてうたうもの(李白が作ったのではないという説もある)、そしてここに挙げる「經下邳圯橋懷張子房」である。


經下邳圯橋懷張子房    
子房未虎嘯、破產不為家。
下邳という地方の圯橋を通りかかってここの出身の張子房を懷(おも)いおこすのである。
滄海得壯士、椎秦博浪沙。』
張子房はまだ獲物を決めかねた虎がほえているだけで、仇を取ろうとしなかった、それは財産を売り払ってでも家の再興をなしえることをしなかったのだ。
報韓雖不成、天地皆振動。
しかし、無鉄砲にも、蒼海君から屈強な若者を譲り得て、博浪抄で秦の始皇帝の行列に鉄椎を投げつけさせた。
韓のためにくわだてた復讐は不成功におわったが、天も地も皆、なりひびくほどの喝采を受けたのだ。

潛匿游下邳、豈曰非智勇。』-#1

そのため、始皇帝は犯人を捕まえるため、大捜査を繰り広げたので、張子房はひそかに下邳の村に潜伏し勉強したのだ、そしてこれを智略と勇気を備えることといわずにおれようか。

我來圯橋上、懷古欽英風。
惟見碧流水、曾無黃石公。
嘆息此人去、蕭條徐泗空。』#2

下邳(かひ)の圯橋(いきょう)を經て張子房を懷う
子房 未だ虎 嘯せざり、產を破って 家を為さず。
滄海に 壯士を得て、秦を椎(つい)す 博浪沙。
韓に報じて 成らずと雖も、天地 皆 振動せり。
潜匿(せんとく)して 下邳(かひ)に遊ぶ、豈 智勇(ちゆう)に 非ずと 曰わんや。』-#1

我 圯橋(いきょう)の上に來り、古(いにしえ)を懐うて、英風を欽(しと)う。
唯だ見る 碧流(へきりゅう)の水、曾て無し 黄石(こうせき)公(こう)。
嘆息す 此の人去りて、蕭條(しょうじょう)徐泗(じょし)の空しきを。』-#2



經下邳圯橋懷張子房 現代語訳と訳註
(本文) 經下邳圯橋懷張子房 -#1

子房未虎嘯、破產不為家。
滄海得壯士、椎秦博浪沙。』
報韓雖不成、天地皆振動。
潛匿游下邳、豈曰非智勇。』


(下し文) 下邳の圯橋を經て張子房を懷う-#1
子房 未だ虎 嘯せざり、產を破って 家を為さず。
滄海に 壯士を得て、秦を椎(つい)す 博浪沙。
韓に報じて 成らずと雖も、天地 皆 振動せり。
潜匿(せんとく)して 下邳(かひ)に遊ぶ、豈 智勇(ちゆう)に 非ずと 曰わんや。』


(現代語訳)
下邳という地方の圯橋を通りかかってここの出身の張子房を懷(おも)いおこすのである。
張子房はまだ獲物を決めかねた虎がほえているだけで、仇を取ろうとしなかった、それは財産を売り払ってでも家の再興をなしえることをしなかったのだ。
しかし、教えを乞うてから、蒼海君から屈強な若者を譲り得て、博浪抄で秦の始皇帝の行列に鉄椎を投げつけさせた。
韓のためにくわだてた復讐は不成功におわったが、天も地も皆、なりひびくほどの喝采を受けたのだ。
そのため、始皇帝は犯人を捕まえるため、大捜査を繰り広げたので、張子房はひそかに下邳の村に潜伏し勉強したのだ、そしてこれを智略と勇気を備えることといわずにおれようか。


(訳注)
經下邳圯橋懷張子房

下邳という地方の圯橋を通りかかってここの出身の張子房を懷(おも)いおこすのである。
下邳:かひ いまの江蘇省北端の邳県の東にある。○圯橋:いきょう 土橋。○張子房 張良(ちょうりょう、生年未詳― 紀元前186年)は、秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留(江蘇省徐州市沛県の東南)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。漢の高祖(鋸鰯の参謀として漢の帝国樹立に功績があり、斎何、韓信とともに、創業の表といわれている。のち、大名に封ぜられ、留侯と呼ばれた。張良の先祖は韓の人で、祖父も父も韓国の宰相をつとめた。

(この詩の背景としての逸話のまとめ)
・秦が韓を滅ぼした時、張良はまだ少年であったが、家財を投げ出して暗殺者を求め、秦の始皇帝を襲うと決意した。
・家柄からして、韓のために仇を報いざるを得なかったのである。
・かれは滄海君という異民族の酋長に力強い男を世話してもらう。
・大きなハンマーを作り、秦の始皇帝を博浪沙というところに行幸していたのを狙撃させた。
・狙いは外れて予備の車にあたった。
・始皇帝は大いに怒った。天下に犯人をもとめ、捜索は非常にきびしかった。

・張良は変名して下邳に身をかくしていた。ある日のこと、張良がぶらぶら散歩して下邸の土橋にさしかかると、一人のじいさんがそまつな着物をきて張良のそばに寄ってきた。
・いきなり、自分の靴を橋の下におとし、張良の顔をみて言った。「小僧、靴をとってきてくれ!」張良はびっくりした。
・殴ってやろうかと思ったが、年よりだから、がまんして降りていき靴を拾った。
・じいさんは言った。「わしにはかせろ」張良は是や靴を拾った以上仕方がない。膝まずいて、はかせてやった。
・じいさんは足で受け、笑って立ち去った。張良があっけにとられて後姿を見送っていると、しばらくして引きかえしてきたじいさんが言った。「小僧、教えがいのある奴だ。五日のち、明け方にわしと此所で会おう」
・張良は怪しみながらも「はい」と答えた。五日たって夜明けに張良が行くと、じいさんは先に来ている。
・そして怒って言う。「老人と約束してで遅れるとは何事だ!#!」去りながら言った。
・「五日のち、朝早く会おう」こんどは番鶏がなくころ張良は行った。じいさんはやっぱ。先に来ていた。・また怒って言う。「おくれるとは何事だ!」「五日のち、もっと早く来い」と。
・張良、こんどこそはと、夜中にもならないうちに行った。しばらくするとじいさんがやってきて、はじめてニコニコした。「こうこなくちゃいかん」
・一篇の書をとり出して言った。「これを読めば、王者の師となれる。十年のち、出世る。十三年のち、小僧はわしを済北の穀城山のふもとに見つけるであろう、黄石がつまりわしなんだ」言いおわると、さっと姿をけした。
・夜が明けてその書をよく見ると、太公望の兵書であった。張良はふしぎに思ったが、毎日これを通読した。やがて高祖が兵をあげると手柄を立てたのだ。
・十三年のち、高祖に従って済北を過ぎたとき、張良ははたして黄色の石を見つけたので、とってきてそれをまつったということである。


子房未虎嘯、破產不為家。
張子房はまだ獲物を決めかねた虎がほえているだけで、仇を取ろうとしなかった、それは財産を売り払ってでも家の再興をなしえることをしなかったのだ。
子房 張良。○虎嘯 虎がうそぶく、仕留める獲物を特定しないで空吼えをしていること。義臣が聖主にあって出世し天下に羽振。をきかせること。別に秦の始皇帝が天下に横暴を繰り返した。ここでは、安禄山を暗示させている。○破產 資産を売り払うこと。

滄海得壯士、椎秦博浪沙。』
しかし、無鉄砲にも、蒼海君から屈強な若者を譲り得て、博浪抄で秦の始皇帝の行列に鉄椎を投げつけさせた。
滄海 滄海君。異民族の酋長。○壯士  ○椎 椎(ハンマー)を投げつける。○ 秦の始皇帝。○博浪沙 いまの河南省原陽県(陽武)。開封の近くにある。

報韓雖不成、天地皆振動。
韓のためにくわだてた復讐は不成功におわったが、天も地も皆、なりひびくほどの喝采を受けたのだ。
○報韓 秦に敗れた韓の敵討ち。○天地皆振動 秦の始皇帝の徹底した統治に嫌気を持っていた人々、天下に離散した韓の関係者たちの喝采を浴びたこと。


潛匿游下邳、豈曰非智勇。』
そのため、始皇帝は犯人を捕まえるため、大捜査を繰り広げたので、張子房はひそかに下邳の村に潜伏し勉強したのだ、そしてこれを智略と勇気を備えることといわずにおれようか。
潛匿 ひそかに潜伏しかくれる。○游 勉強する。○智勇 智略と勇気を備えること。
張良が下邳に潜伏していることと、、李白、張旭らが逃避しているのを重ねている。

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古朗月行 #2 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 265/350

古朗月行 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 265/350
頌春00

#1
小時不識月、呼作白玉盤。
又疑瑤台鏡、飛在青云端。
仙人垂兩足、桂樹何團團。
白兔搗藥成、問言與誰餐。
#2
蟾蜍蝕圓影、大明夜已殘。
だが、月の中にはヒキガエルがすんでいて、月のまるい影を食べている。月明かりが大きく照らさている夜があり、欠けてしまって夜の明りがのこる。
羿昔落九烏、天人清且安。
大むかし十個の太陽があっって、日が定まらず困っていたので、弓の名手の羿が、九羽のカラスを射落すことによって、天は清らかに、人びとは安らかになった。
陰精此淪惑、去去不足觀。
天道には、陰と陽があり、陰の象徴である月の梧桐から追い出され后妃を殺し、沈みきって蜀まで迷い逃げた。叛乱軍は衰えるところなく時は、しだいに都を見るかげもないものにして行った。
憂來其如何、淒愴摧心肝。
この先行きに対し、憂いのおこるのをどうしたらよいのであろう。この国のことを考えるにつけ、いたみかなしみがとめどなく、わたしの心をこなごなにする。

#1
小時(しょうじ)月を識(し)らず、呼んで白玉(はくぎよく)の盤(はち)と作(な)す。
又た疑ふ瑤台(ようだい)の鏡、飛んで碧雲(へきうん)の端に在るかと。
又た疑う 瑶台の鏡、飛んで青雲の端に在るかと。
仙人 両足を垂る、桂樹 何ぞ団団たる。
白兔 薬を搗いて成る、問うて言う 誰に与えて餐(さん)せしむるかと。

2 

蟾蜍(せんじょ)は 円影を蝕し、大明 夜已に残く。

羿(げい)は昔 九鳥を落とし、天人 清く且つ安し。

陰精(いんせい) 此に淪惑(りんわく)、去去 観るに足らず。

憂 來りて 其れ如何、悽愴(せいそう) 心肝を摧(くだ)く。


tsuki001



#2 現代語訳と訳註
(本文) #2

蟾蜍蝕圓影、大明夜已殘。
羿昔落九烏、天人清且安。
陰精此淪惑、去去不足觀。
憂來其如何、淒愴摧心肝。


(下し文) #2 
蟾蜍(せんじょ)は 円影を蝕し、大明 夜已に残く。
羿(げい)は昔 九鳥を落とし、天人 清く且つ安し。
陰精(いんせい) 此に淪惑(りんわく)、去去 観るに足らず。
憂 來りて 其れ如何、悽愴(せいそう) 心肝を摧(くだ)く。

(現代語訳)
だが、月の中にはヒキガエルがすんでいて、月のまるい影を食べている。月明かりが大きく照らさている夜があり、欠けてしまって夜の明りがのこる。
大むかし十個の太陽があっって、日が定まらず困っていたので、弓の名手の羿が、九羽のカラスを射落すことによって、天は清らかに、人びとは安らかになった。
天道には、陰と陽があり、陰の象徴である月の梧桐から追い出され后妃を殺し、沈みきって蜀まで迷い逃げた。叛乱軍は衰えるところなく時は、しだいに都を見るかげもないものにして行った。
この先行きに対し、憂いのおこるのをどうしたらよいのであろう。この国のことを考えるにつけ、いたみかなしみがとめどなく、わたしの心をこなごなにする。


(訳注)
蟾蜍蝕圓影、大明夜已殘。

だが、月の中にはヒキガエルがすんでいて、月のまるい影を食べている。月明かりが大きく照らさている夜があり、欠けてしまって夜の明りがのこる。
蟾蜍 月の中にすむヒキガエル。これに食われて月が欠けるという。○大明 月のこと。○ 不完全になる。月かける夜が残る。

羿昔落九烏、天人清且安。
大むかし十個の太陽があっって、日が定まらず困っていたので、弓の名手の羿が、九羽のカラスを射落すことによって、天は清らかに、人びとは安らかになった。
羿昔落九烏 「准南子」に見える話。大むかし、堯帝の時代に、天上に十個の太陽が出現して、地上の草木がみな焼けて枯れてしまった。堯帝は弓の名手の羿に命じて、穹を放ち太陽を退治させ、九つの太陽を射落した。太陽の中には一羽ずつの烏がすんでいたが、九羽の鳥がみな射られて死んだ。残ったのが三本足の八咫烏である。

陰精此淪惑、去去不足觀。
天道には、陰と陽があり、陰の象徴である月の梧桐から追い出され后妃を殺し、沈みきって蜀まで迷い逃げた。叛乱軍は衰えるところなく時は、しだいに都を見るかげもないものにして行った。
陰精 漢の張衡の「霊憲」に「月は陰精の宗」とある。ここでは、陰精はすなわち月。ここでの月は玄宗皇帝を示す。月の梧桐を追い出された鳳凰夫婦のことを言う。○淪惑 しすみ、まどう。○去去 やすむことなく進行するさま。


憂來其如何、淒愴摧心肝。
この先行きに対し、憂いのおこるのをどうしたらよいのであろう。この国のことを考えるにつけ、いたみかなしみがとめどなく、わたしの心をこなごなにする。
淒愴 いたみかなしむ。○心肝 こころ。くわしくいえば、心臓と肝臓。

 



解説 と このブログについて
hinode00

 太陽がかつて十個あったという神話は、殷王朝も共有していた(干支の「十干」や暦の「旬」に今も残る。この前後・相互関係は極めて複雑かつ微妙で、要するに不明である)。三本足のカラスは「八咫烏」(やたがらす)として有名である。



 月のウサギは道教の神・西王母(せいおうぼ)の神話に属しているが、西方の仙界・崑崙山(こんろんさん)に棲むその西王母に従うものにウサギがいる。ウサギは、上下対称で中央部を持って搗(つ)く杵(きね)でもって、餅ではなく不死の薬草を練って作る。


 以上の諸神話は習合し、定式化されたのは、数千年前であろう。それが時代に合わせて微調整され現代に至っているのである。現代も古代もそれほどのちがいはないのかもしれない。

太陽にはカラスが棲み(あるいは太陽の神使であり)、月(太陰)にはウサギが棲んで杵を搗くということになった。これを実証してくれたのが、楚とその先行文明を色濃く残した地・湖南省長沙市から出た、漢代の馬王堆(まおうたい)遺跡の帛画(はくが:絹衣に描かれた絵)である。そこには扶桑に宿る十個の太陽とカラス、それに三日月にウサギが描かれている。ところが、月にはより大きくヒキガエルが描かれ、しかもカラスは二本足であったのだ。


 十日の父、天を懲(こ)らしめよとだけ命じたのに、羿はわが子を射殺してしまった。英雄羿とその妻・嫦娥(じょうが)は天界を追放される。それでも不老不死を願う二人は崑崙山に西王母を訪ね、ウサギが煎じた例の妙薬を二人分もらった。


 ところが、嫦娥は勝手にその仙薬を一人で飲んでしまう。効果はてきめんで、たちまち仙界の月に嫦娥は昇る。しかしその報いかどうか、嫦娥の姿は月で蟾蜍(せんじょ:ヒキガエル)に変わってしまった。
月が天界で地上が俗界、また天界にいた神女が天の罰を受けて一度地上に墜ち、その後許されて月へ昇天するというのは、そう、ご存知「かぐや姫」の元型である。


 月には桂の樹木がうっそうと茂っていた。梧桐の葉に棲むとされるつがいの鳳凰は玄宗皇帝と楊貴妃に喩えられて詩に登場する。宮殿は一般のものが見られないものであり、贅の限りを尽くしたものはこのようのものでないということで、神格化につなげたものである。身分社会における神格化と、叛乱のできないほとのギリギリの貧困で留めることは、王朝の維持存続に不可欠のものであったのだ。
これらの伝説は王朝の宮廷の神格化のために作られたものといって過言ではない。それが、道教の神仙思想、陰陽道、などと結びつき伝説だけが、一人歩きした。科学力のない時代において、超常現象と伝説は神格化に必要不可欠のものであった。


 皇帝の死にたいし、新年号に改め、3年の喪に伏すことは数千年前から行われていることなのである。これを不思議なものとしないために、どの時代、どの王朝にも神話、伝説が必要であった。

 詩人がこうした神話、伝説を使う場合、そのほとんどが王朝の批判に使っている。表立って言えないことを神話の部隊の不可思議なものとして詠ったのである。李白の古風五十九首を全体を通してみると間違いなく批判している。一つ一つでは見えないものがとおしてみると見えるのである。それは、李白だけではなく、杜甫、王維、白居易、韓愈、李商隠・・・・それぞれの方向性に違いはあっても、王朝批判をしている。


 日本では、詩の一部分を切り取り、それをその時の都合に合わせて解釈して行くことがほとんどの詩の読み方であった。古詩の一部分を絶句のように、あるいは律詩のように一部分を切り取って都合よく紹介されているのはほとんどである。長詩を読まないとその詩人の性格がわからない。長詩にはその詩人の性格がすべて出ている。そしてそうした長詩の幾つかを重ね合わすといろんな人生が見えてくるのである。

 身分社会であること、どこで讒言されるかわからない時代である。詩人はその網をすり抜けて現代に遺産として残してくれたのである。

 このブログでは、できるだけその時の状況、政治体制などを考慮し、詩に書かれてあることの深い意味を紹介しようと思っている。そのため、一般的に本に書かれていることと違う解釈になっていること多いのである。これも、毎日少しずつ紹介しているので、論文の様な訳にはいかないが、李白350首特集はそれ全体で李白の研究論文ということかもしれない。



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古朗月行 #1 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 264/350

 
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古朗月行 #1 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 264/350

古朗月行#1
爺さんが月をみて歌う。
小時不識月、呼作白玉盤。
小さい時分、月のことを何であるか知らなかった。白い玉のお皿、お盆と呼んでいた。
又疑瑤台鏡、飛在青云端。
そしてまた、十二層の楼台すむ仙女の使う鏡と間違って思っていた、それに鏡が空を飛んで青い雲の端にひっかかっているのかと思っていた。
仙人垂兩足、桂樹何團團。
よく見ると、仙人が両足を垂らしているようにもみえた。桂の樹木が何と奥の奥までこんもりと茂っているのだ。
白兔搗藥成、問言與誰餐。
白うさぎは仙薬を搗いて作りあげるのだが、「いったいだれに食べさすの。」などとたずねたものだ。
#2
蟾蜍蝕圓影、大明夜已殘。
羿昔落九烏、天人清且安。
陰精此淪惑、去去不足觀。
憂來其如何、淒愴摧心肝。

1

小時(しょうじ)月を識(し)らず、呼んで白玉(はくぎよく)の盤(はち)と作(な)す。

又た疑ふ瑤台(ようだい)の鏡、飛んで碧雲(へきうん)の端に在るかと。

又た疑う 瑶台の鏡、飛んで青雲の端に在るかと。

仙人 両足を垂る、桂樹 何ぞ団団たる。

白兔 薬を搗いて成る、問うて言う 誰に与えて餐(さん)せしむるかと。


#2
蟾蜍(せんじょ)は 円影を蝕し、大明 夜已に残く。
羿(げい)は昔 九鳥を落とし、天人 清く且つ安し。
陰精(いんせい) 此に淪惑(りんわく)、去去 観るに足らず。
憂 來りて 其れ如何、悽愴(せいそう) 心肝を摧(くだ)く。

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古朗月行 現代語訳と訳註
(本文)#1

小時不識月、呼作白玉盤。
又疑瑤台鏡、飛在青云端。
仙人垂兩足、桂樹何團團。
白兔搗藥成、問言與誰餐。

(下し文) #1
小時(しょうじ)月を識(し)らず、呼んで白玉(はくぎよく)の盤(はち)と作(な)す。
又た疑ふ瑤台(ようだい)の鏡、飛んで碧雲(へきうん)の端に在るかと。
又た疑う 瑶台の鏡、飛んで青雲の端に在るかと。
仙人 両足を垂る、桂樹 何ぞ団団たる。
白兔 薬を搗いて成る、問うて言う 誰に与えて餐(さん)せしむるかと。


(現代語訳)
爺さんが月をみて歌う。
小さい時分、月のことを何であるか知らなかった。白い玉のお皿、お盆と呼んでいた。
そしてまた、十二層の楼台すむ仙女の使う鏡と間違って思っていた、それに鏡が空を飛んで青い雲の端にひっかかっているのかと思っていた。
よく見ると、仙人が両足を垂らしているようにもみえた。桂の樹木が何と奥の奥までこんもりと茂っているのだ。
白うさぎは仙薬を搗いて作りあげるのだが、「いったいだれに食べさすの。」などとたずねたものだ。


(訳注)
古朗月行 

爺さんが月をみて歌う
○飽照の楽府に「代朗月行」というのがある。


小時不識月、呼作白玉盤。
小さい時分、月のことを何であるか知らなかった。白い玉のお皿、お盆と呼んでいた。


又疑瑤台鏡、飛在青云端。
そしてまた、十二層の楼台すむ仙女の使う鏡と間違って思っていた、それに鏡が空を飛んで青い雲の端にひっかかっているのかと思っていた。
瑤台 仙女の居所。十二層の楼台。十二は道教の聖数に由来する。ここでは謝朓の「玉階怨」「清平調詞其一」


仙人垂兩足、桂樹何團團。
よく見ると、仙人が両足を垂らしているようにもみえた。桂の樹木が何と真ん丸で奥の奥までこんもりと茂っているのだ。
仙人垂両足 中国の古代神話によると、月世界には仙人がすみ、桂の樹が生えている。毎月中ごろになると、仙人の両足が見えはじめ、月がしだいにまるくなるにつれ、桂の樹がはっきりと見えてくる。○団団 丸いまるいさま。


白兔搗藥成、問言與誰餐。
白うさぎは仙薬を搗いて作りあげるのだが、「いったいだれに食べさすの。」などとたずねたものだ。
白兎搗藥 中国古代神話によると、月世界では白いうさぎがいつも仙薬をついている。中國の月の神話は、多様である。陰陽思想、五行思想、道教思想にそれぞれ幾通りもある。ほとんどが、その時期の王朝のことを比喩するものであるから、それぞれの時代で少しずつ変化し、付け加えられたものである。


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登邯鄲洪波台置酒観発兵 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 263/350

登邯鄲洪波台置酒観発兵 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 263/350
(邯鄲の洪波台に登り置酒して兵を発するを観る)

李白の行動を752年春まで戻る。場所は、広平・邯鄲に遊んでいる。李林甫は病気がちになり、権力移譲が安禄山、楊国忠、哥舒翰の方向へ、始まっていたのだ。安禄山のもとには、当時の王朝に不満をもつ者が集結し始め始めたのだ。李白もある程度の期待をもって安禄山に接近したということであろう。
         

登邯鄲洪波台置酒觀發兵

我把兩赤羽。 來游燕趙間。
各地から、ここに集まっているが、私は、赤羽根矢など武具を携えてここに来た。安禄山の治める燕趙の地方に旅して来て、いろんなことを経験している。
天狼正可射。 感激無時閑。
南で、楊国忠の軍が大敗したが、天下の敵は北方の異民族であり、まさにいま、この異民族を討つべきときなのだ。この地に来て、わたしの胸は高鳴り、敵に向かう気持ちは最高潮に達していて、 心は片時もやすまらないのだ。
觀兵洪波台。 倚劍望玉關。
天下は不安定な時期であり、洪波の司令部から出陣していく徴兵された兵隊の行進を見ている、剣や弓矢でもって西域の戦いに向けて玉門関に向かうのであろう。
請纓不系越。 且向燕然山。
漢の終軍(しゅうぐん)は何度も北方民族への使者となる詩、纓(冠を着けるための永い紐)を請うて南越王を縛り上げてくると言って出掛けたが、越を従えることはできなかった。いまは北のかた敵の本陣である燕然山に向かうときである。
風引龍虎旗。 歌鐘昔追攀。
風は天子から将軍を任じられたこと示す龍虎の旗をなびかせ行進する。鳴る鐘の音(ね)に、昔のこと、天子から下命を受けたことなどを次々に想い出す。
擊筑落高月。 投壺破愁顏。
筑を鳴らしてうたうときは月が昇り月の沈むときまで酒を酌み交わすものだ。投壺の勝負を競うときは昔の愁いも何もかも打ち破ってどよめきおお笑いをするものだ。
遙知百戰勝。 定掃鬼方還。

西域で高仙之が敗れ、安禄山は、南詔を討って大敗し、大食国を討って大敗したが、これからはわが軍はきっと百戦連勝してくれるはずである、そして、異民族の軍を打ち破って、平らげて凱旋してくれるであろう。


(邯鄲の洪波台に登り置酒して兵を発するを観る)

我 両(ふたつ)の赤羽(せきう)を把(と)り、燕趙(えんちょう)の間(かん)に来遊す。
天狼(てんろう)  正(まさ)に射る可く、感激 時に閑(かん)なる無し。
兵を洪波台(こうはだい)に観(み)んとし、剣を倚(あわ)せて玉関(ぎょくかん)に望む
纓(えい)を請(こ)うて越(えつ)を繋(つな)がず、且(しばら)く燕然山(えんぜんざん)に向かう。
風は龍虎の旗を引き、歌鐘(かしょう)は昔を追攀(ついはん)す。
撃筑(げきちく) 高くある月 )落としむ、投壺(とうこ) 愁顔(しゅうがん)を破る。
遥かに知る  百戦を勝つを、鬼方(きほう)を定掃(ていそう)して還(かえ)らんとす。

邯冉唐宋時代の地図00邯鄲かんたん

登邯鄲洪波台置酒觀發兵 現代語訳と訳註
(本文)

我把兩赤羽。 來游燕趙間。
天狼正可射。 感激無時閑。
觀兵洪波台。 倚劍望玉關。
請纓不系越。 且向燕然山。
風引龍虎旗。 歌鐘昔追攀。
擊筑落高月。 投壺破愁顏。
遙知百戰勝。 定掃鬼方還。

(下し文)
我 両(ふたつ)の赤羽(せきう)を把(と)り、燕趙(えんちょう)の間(かん)に来遊す。
天狼(てんろう)  正(まさ)に射る可く、感激 時に閑(かん)なる無し。
兵を洪波台(こうはだい)に観(み)んとし、剣を倚(あわ)せて玉関(ぎょくかん)に望む
纓(えい)を請(こ)うて越(えつ)を繋(つな)がず、且(しばら)く燕然山(えんぜんざん)に向かう。
風は龍虎の旗を引き、歌鐘(かしょう)は昔を追攀(ついはん)す。
撃筑(げきちく) 高くある月 )落としむ、投壺(とうこ) 愁顔(しゅうがん)を破る。
遥かに知る  百戦を勝つを、鬼方(きほう)を定掃(ていそう)して還(かえ)らんとす。

(現代語訳)
各地から、ここに集まっているが、私は、赤羽根矢など武具を携えてここに来た。安禄山の治める燕趙の地方に旅して来て、いろんなことを経験している。
南で、楊国忠の軍が大敗したが、天下の敵は北方の異民族であり、まさにいま、この異民族を討つべきときなのだ。この地に来て、わたしの胸は高鳴り、敵に向かう気持ちは最高潮に達していて、 心は片時もやすまらないのだ。
天下は不安定な時期であり、洪波の司令部から出陣していく徴兵された兵隊の行進を見ている、剣や弓矢でもって西域の戦いに向けて玉門関に向かうのであろう。
漢の終軍(しゅうぐん)は何度も北方民族への使者となる詩、纓(冠を着けるための永い紐)を請うて南越王を縛り上げてくると言って出掛けたが、越を従えることはできなかった。いまは北のかた敵の本陣である燕然山に向かうときである。
風は天子から将軍を任じられたこと示す龍虎の旗をなびかせ行進する。鳴る鐘の音(ね)に、昔のこと、天子から下命を受けたことなどを次々に想い出す。
筑を鳴らしてうたうときは月が昇り月の沈むときまで酒を酌み交わすものだ。投壺の勝負を競うときは昔の愁いも何もかも打ち破ってどよめきおお笑いをするものだ。
西域で高仙之が敗れ、安禄山は、南詔を討って大敗し、大食国を討って大敗したが、これからはわが軍はきっと百戦連勝してくれるはずである、そして、異民族の軍を打ち破って、平らげて凱旋してくれるであろう。


(訳注)
我把兩赤羽。 來游燕趙間。

各地から、ここに集まっているが、私は、赤羽根矢など武具を携えてここに来た。安禄山の治める燕趙の地方に旅して来て、いろんなことを経験している。
兩赤羽 二本の赤羽根の矢。戦いに参加できる武器を携えていたことを言う。安禄山軍に参加するつもりであった。 ○來游 着ていて経験しているさま。現在進行形。○燕趙 春秋十二列国で北京から遼東半島にかけを示す国で、北京を都とした。趙(ちょう)は、戦国時代に存在した国(紀元前403年 - 紀元前228年)で、戦国七雄の一つに数えられる。国姓は趙。首府は邯鄲。


天狼正可射。 感激無時閑。
南で、楊国忠の軍が大敗したが、天下の敵は北方の異民族であり、まさにいま、この異民族を討つべきときなのだ。この地に来て、わたしの胸は高鳴り、敵に向かう気持ちは最高潮に達していて、 心は片時もやすまらないのだ。
天狼 朝廷内は、大きくいえば、三分されていた。李林甫が病死して以後、安禄山と楊国忠が雌雄を決して対峙していて、どっちつかず、時代に流されるグループであった。戦いも、王朝内部で一触即発を抱えながら、北方へは安禄山、南方へ楊国忠、第三グループが西域を担当していたが。北方の安禄山に一番の生き王があったのだ。ここでは以上のことを踏まえて、天敵の胡、異民族ということを表現している。


觀兵洪波台。 倚劍望玉關。
天下は不安定な時期であり、洪波の司令部から出陣していく徴兵された兵隊の行進を見ている、剣や弓矢でもって西域の戦いに向けて玉門関に向かうのであろう。
洪波台 邯鄲の東平郡成安城にあった軍司令部で、その地域の行政も兼ねて行うところ。徴兵されたものが集結して、ここから北方辺境守備、玉門関に向かうこともあったのだろう。この時西域の局地戦が激しくなっていた。ただ、李白は洪波(おおなみ)。洪濤(こうとう)。をよく使っている。同時期の 『西嶽雲臺歌送丹邱子』「巨靈咆哮擘兩山、洪波噴箭射東海。」 (黄河の神は雄叫びをあげて両山を引き裂く、荒れ狂う波は飛沫を挙げながら東海へ。』) 『梁園吟』「洪波浩盪迷舊國,路遠西歸安可得。」(ふり返って、阮籍どのの「蓬池の詠懐詩」を憶いおこし、それに因んで「清らかな池に大波が立つ」と吟詠する。)と時代の不安定を詠う場合に使っている。
 2)李白と道教 李白46西岳云台歌送丹邱子

李白42 梁園吟



請纓不系越。 且向燕然山。
漢の終軍(しゅうぐん)は何度も北方民族への使者となる詩、纓(冠を着けるための永い紐)を請うて南越王を縛り上げてくると言って出掛けたが、越を従えることはできなかった。いまは北のかた敵の本陣である燕然山に向かうときである。
請纓不系越 漢の終軍は匈奴に使者を出すという話を聞くと、自ら使者となることを願い出た。武帝は彼を諫大夫とした。その後、南越が漢と和親を結ぶと、武帝は終軍を南越に遣わし、王に長安への入朝を勧めさせようとした。終軍は「長い紐をいただければ南越王をつないで連れてきましょう」と言った。終軍は南越王を説得し、王は国を挙げて漢に従うこととしたが、南越の宰相である呂嘉は降伏を欲せず、挙兵して王や漢の使者を殺し、終軍も死んだ(元鼎5年(紀元前112年))。
燕然山 漢の武帝の時代、李広利弐師将軍が戦は勝利していたが、孤立した。その時、味方を信じ切れず、燕然山まで退却し大敗をした。「燕然山之恥」といわれ、以来その場所が異民族の本拠地、象徴的な場所として使われる。


風引龍虎旗。 歌鐘昔追攀。
風は天子から将軍を任じられたこと示す龍虎の旗をなびかせ行進する。鳴る鐘の音(ね)に、昔のこと、天子から下命を受けたことなどを次々に想い出す。
龍虎旗 天子から将軍を任じられたこと示す旗。竜虎将軍の旗。○追攀 ついはん 追は招く、攀はあがる、で朝廷に召されたこと言うのであるが、前句で下命を受けた旗であるから、李白自身の天子からの命を受けたことを示すものである。


擊筑落高月。 投壺破愁顏。
筑を鳴らしてうたうときは月が昇り月の沈むときまで酒を酌み交わすものだ。投壺の勝負を競うときは昔の愁いも何もかも打ち破ってどよめきおお笑いをするものだ。
撃筑 ・ 楽器の一種。形は琴に似ていて、左手で首をおさえ、右手で竹を持ち、たたいて鳴らす。李白『醉後贈從甥高鎮』「欲邀擊筑悲歌飲、正值傾家無酒錢。」 故事に云う「筑を撃ちならし悲歌慷慨する」悲壮歌を歌う時は仲間をむかえて酒を飲みたいものだが、ちょうどいま、家計は傾き、酒を買う銭も無いのが正直なところだ。・撃筑悲歌 筑は、中国古代の楽器。形は琴に似ていて、竹尺で綾を撃ち鳴らす。戦国時代の燕の国の侠客、荊軻は、酒がすきで、かれの友だちである犬殺しや高漸離という筑の名手と、毎日、燕の市中で酒を飲んだ。酔いがまわると、高漸離が筑を撃ち、荊封がそれにあわせて悲壮な歌をうたった。いっしょに慷慨して泣き、傍に人がいないかのようにふるまった。話は、「史記」刺客列伝に見える。

醉後贈從甥高鎮  李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白350-206


投壺(とうこ). 太鼓の胴の形をした壺(つぼ)へ矢を投げ入れ、勝負を争う遊び。 つぼうちとも呼ばれる。投扇興のルーツと言われる二人対戦の遊び。 中国周の時代には既にあり、 四書五経の一つ「礼記(らいき)」には、紀元前500年頃に遊ばれたことが記載されている。


遙知百戰勝。 定掃鬼方還。
西域で高仙之が敗れ、安禄山は、南詔を討って大敗し、大食国を討って大敗したが、これからはわが軍はきっと百戦連勝してくれるはずである、そして、異民族の軍を打ち破って、平らげて凱旋してくれるであろう。
遙知 この時、外敵とやる気なしのようにどこもかしこも大敗している。国内の権力闘争に勢力が向けられていて、外敵に兵を向けられていなかったのである。国内の政治をしっかりして、王朝の国力を向上させるというものはいなくなって、奸臣が朝廷に蔓延していた。李白の正義感、任侠の気持ちが安禄山とどくということは全くなかった。


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秋浦歌十七首 其十七 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 261/350

 
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秋浦歌十七首 其十七 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 261/350

しばらく滞在した秋浦、村人たちは李白が叛乱軍を征伐に行く水軍に参画するのに別れを惜しんでくれただ。


秋浦歌十七首其十七

波一地。了了語聲聞。

闇與山僧別。低頭禮白云。



      

秋浦の歌十七首 其の十七

(ちょうは) 一歩(いっぽ)の地なり、了了(りょうりょう)なり 語声(ごせい)聞こゆ。
(やみ)
(たす) 山僧(さんそう) 別れ、頭(こうべ)を低()れて白雲に礼(れい)す。




秋浦歌十七首 其十七 現代語訳と訳註
(本文) 其十七

祧波一步地。 了了語聲聞。
闇與山僧別。 低頭禮白云。


(下し文) 其の十七
祧波(ちょうは) 一歩(いっぽ)の地なり、了了(りょうりょう)なり 語声(ごせい)聞こゆ。
闇(やみ)に 與(たす)く 山僧(さんそう) 別れ、頭(こうべ)を低(た)れて白雲に礼(れい)す。


(現代語訳)
王朝は波のように代々受け継がれていくものであるがそれはひとたび歩き始めたその地の始まるものである。このたびの戦は大義がはっきりとしており天下世間の人々から語句、声援が聞こえてくるのである。
暗闇に紛れてわたしは村人と別れを告げたのだ。そして、結をあらにして天子の入り法に向かって深々と頭を下げ礼を取ったのだ。


(訳注)
祧波一步地。 了了語聲聞。

王朝は波のように代々受け継がれていくものであるがそれはひとたび歩き始めたその地の始まるものである。このたびの戦は大義がはっきりとしており天下世間の人々から語句、声援が聞こえてくるのである。
祧波 代々受け継がれていく傾向というもの。・ ちゅう(1) 先代の跡を継ぐ. (2) 遠い祖先を祭る廟。・ 水面が揺れて生じる起伏。傾向。走って逃げる。眼遣い。○了了 はっきり。(形動タリ)物事がはっきりわかるさま。あきらかなさま。 「霊知本性ひとり了了として鎮常なり/正法眼蔵」

闇與山僧別。 低頭禮白云。
暗闇に紛れてわたしは村人と別れを告げたのだ。そして、結をあらにして天子の入り法に向かって深々と頭を下げ礼を取ったのだ。
 昼間は叛乱軍の兵士が居るので、夜の行動を示す。黙って。○ 与えられる。たすける。やる。○山僧 山にいる僧侶という意味もあるが、通常僧侶が自分を謙遜して使うもので、「拙僧」という意味である。お坊さんに向かって、「拙僧」とは言わない。李白が僧侶と別れたという解釈はおかしい。したがって、謫仙人といわれた風体の李白が自分自身のことを謙遜の言葉として「山僧」という表現をして村人に別れを告げたのである。○白雲 天帝。ここでは、玄宗のこと。


(解説)新説「秋浦の歌」終わりにあたって。***********
 この詩においても解釈が難解のため、従来、語句の写し間違いということにして、無理やり抒情詩を作り上げられてきた。

 「祧波」の「祧」(ちょう)を桃(とう)に、「波」(は)を陂(ひ)にかってに修正し、無理やり地名にする。

 一歩地を小さな土地としている。

 この秋浦の歌は詩経にイメージを借りて、戦に出る前の軍師の李白がその気持ちを詠いあげるというものである。通常、了了という語は天から、霊からのお告げもの様なものがはっきりに聞こえたことを言う。

 「了了語聲聞」 ここでは長い間重税に不満を持っていて、一時は叛乱軍に心情的に味方していた世間が、とんでもない異民族の叛乱であったと気が付き、世論は討伐に味方するように変わってきたので、李白に頑張ってくれという声援を送ったのははっきり聞こえてきたというものである。

 蛇足ではあるが、この時期、100年から20,30年前までは地方長官が地方の人民に対して手厚い行政を行い、人徳のあるのもほど中央に政府の高官になり仕組みであった。これを私利私欲の藩鎭、地方長官のシステムに変えていったのが李林甫からで、755年ごろになると、重税に耐えかねて逃村、難民が激増したのである。不平不満は人民の中に渦巻いたのである。そこに反乱の手が上がったのである、不平不満の人民が一時的に応援を向けたのである。ところが反乱軍は盗賊の叛乱であった。国の意見は二分され、一方では、これまでの政府批判があるものの、討伐を願う声が次第に大きくなっていった。


 お寺のお坊さんに別れる側の人間が「山僧」という語は用いない、身分制の厳格な時代、中国の文化としても等対してさげすんだ言い方をする場合は、敵の場合だけではなかろうか。

 白雲についても白い雲か、天帝にしか使わないものである。唐王朝は、古代から血脈が受け継が手てきた王朝であって、これが、異民族の混血のものに穢されてはいけないのだ。

 秋浦の歌十七首とひとまとめにしての最後の歌が抒情のみの意味しかないというのはどうしても解せない。儒教的な解釈では、見えないのかもしれない。


通常の解釈(愚訳)を紹介する。

桃陂は  ほんの小さな土地
村人の話し声もはっきり聞こえる
山寺の僧と黙って別れ
白雲寺に向かって頭をさげる

これでは、(桃陂という小さな土地で村人にこそこそ噂をされて出ていかないといけなくなった。世話になったくそ坊主に別れも告げず飛び出した。しかし暫く言って頭だけは下げた。)こんな意味の詩がいい詩であるといえるのか、不思議である。

 新説「秋浦の歌」ということになるのかもしれない。このような解釈は今まで全くないと思うが、しかし、この方が、李白の詩らしい解釈ではなかろうか。李白は一語、一句、単純な読み方をしない。いくつもの意味に掛け合わせたり、故事をふんだんに使う詩人である。この秋浦の歌のみ単純な解釈が通説になっているのはなぜなのか。長い間疑問を持っていたもののひとつである。


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秋浦歌十七首 其十六 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集260/350

秋浦歌十七首 其十六 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集260/350

秋浦歌十七首其十六
秋浦田舍翁。 采魚水中宿。
妻子張白鷴。 結罝映深竹。

 

秋浦の歌 十七首 其の十六

秋浦の田舎翁(でんしゃおう)、魚(うお)を采()りて水中に宿す。

妻子は白(はくかん)に張(ちょう)し、結(けつしょ)  深竹(しんちく)に映ず。




DCF00199




秋浦歌十七首 其十六 現代語訳と訳註
(本文) 其十六
秋浦田舍翁。 采魚水中宿。
妻子張白鷴。 結罝映深竹。


(下し文) 其の十六
秋浦の田舎翁(でんしゃおう)、魚(うお)を采(と)りて水中に宿す。
妻子は白鷴(はくかん)に張(ちょう)し、結罝(けつしょ)  深竹(しんちく)に映ず。


(現代語訳)
詩経で周公の叛乱軍征伐のように私も召喚されているけれど、ここ秋浦に留まっているもう初老の田舎爺なのだ、魚を取るように東征して平定しようと出発の準備で真冬にここに留まっているのである。
出征の夫のいない家を守っているここの妻子は、兵士の嫌がる雨、その雨の好きな白鷴を網にかけて捕えようとしている、竹林の奥の方にはっきりとわかるけれど網をしかけているのだ。


(訳注)
秋浦田舍翁。 采魚水中宿。

詩経で周公の叛乱軍征伐のように私も召喚されているけれど、ここ秋浦に留まっているもう初老の田舎爺なのだ、魚を取るように東征して平定しようと出発の準備で真冬にここに留まっているのである。
田舍翁 李白のこと。秋浦に留まっている自分のことを転句の出征兵士の妻子と対比させて表現するものである。○水中宿 五行思想から真冬の河川という意味と川の中ほどにという意味を含む。・宿 詩経の東山、周公が殷の残党を征伐すべく東方に軍を進める。又、同じ詩経の九罭(こあみ)魚を取る網のことを詠いつつ、中央朝廷が周公を呼び戻す時、その地のものがその帰還を惜しむということ。しばらくその地に宿したということに基づく。

妻子張白鷴。 結罝映深竹。
出征の夫のいない家を守っているここの妻子は、兵士の嫌がる雨、その雨の好きな白鷴を網にかけて捕えようとしている、竹林の奥の方にはっきりとわかるけれど網をしかけているのだ。
 鳥を捕える網を張ること。〇白鷴 鶴に似た雨の好きな鳥。江南に産する雉の一種。白い色で、背には細かい黒い紋があって、飼畜できるという。その羽の姿は刀の白刃にも例えられる。詩経『東山』に「鷴鳴于垤、婦歎于室」夫のいない家を守る妻子は部屋の中にいるということに基づいている。○ 鳥や獣を捕える網。ここは、妻子の心意気を言い、出征するものへ檄を飛ばす意味であろう。詩経 『兔罝』
 

解説

李白は詩経のイメージを借りて詠っている。以下に示す解釈は一般的なものだがこれでは、ただ抒情的に解釈するだけで全く意味不明である。
一般の愚訳
秋浦のいなかのじいさんは、魚をとって川の上で夜をあかす。
妻子たちは白いきじを捕ろうとする。網をはっているのが、竹林の奥にくっきりと見える。

55moon

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秋浦歌十七首 其十五 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集259/350

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秋浦歌十七首其十五

其十五

白發三千丈。 愁似個長。

不知明鏡里。 何處得秋霜。


DCF00199

秋浦の歌 十七首 其の十五

白髪  三千丈、愁いに縁()って  箇(かく)の似(ごと)く長し。

知らず  明鏡(めいきょう)の裏(うち)、何(いず)れの処にか秋霜(しゅうそう)を得たる。

56moon

秋浦歌十七首 其十五 現代語訳と訳註
(本文) 其十五

白發三千丈。 緣愁似個長。
不知明鏡里。 何處得秋霜。


(下し文) 其の十五
白髪  三千丈、愁いに縁(よ)って  箇(かく)の似(ごと)く長し。
知らず  明鏡(めいきょう)の裏(うち)、何(いず)れの処にか秋霜(しゅうそう)を得たる。


(現代語訳)
白髪が三千丈にもなった!
いろんな愁がつもりつもっている、この白髪の白さと長さは愁いの多さと長さが同じなのだ。
月明りのあかるい鏡の中の私の頭へ、いったい何処から秋の霜がふってきたのか、わたしにはさっぱりわからない


(訳注) 其十五
白發三千丈。 緣愁似個長。

白髪が三千丈にもなった!
いろんな愁がつもりつもっている、この白髪の白さと長さは愁いの多さと長さが同じなのだ。
○この詩は唐詩選に見える。○個長 箇のながさ。

不知明鏡里。 何處得秋霜。
月明りのあかるい鏡の中の私の頭へ、いったい何処から秋の霜がふってきたのか、わたしにはさっぱりわからない


 「白髪三千丈」の詩は、秋浦歌十七首中の代表作としてしばしば取り上げられる作品で、唐詩選の中でも目を引く秀作である。
 この詩は李白が老いたことを感嘆しているような解釈もあるが、この詩のテーマは愁いなのである。唐王朝の中には私利私欲の奸臣だらけで、奢侈と大敗で天下の道理が正道でなくなってきた。欲のあるものが国を操り、賢人は隠遁していく。天子が聖人を引き上げていくことが全くなくなってしまった。その結果、安禄山の叛乱を引き起こしてしまった。


 水軍参加で、誰もが思うことはもう少し若ければと思うものである。青雲の志は若い自分の表現である。表現は歳を重ねて抜群である。心に秘めたものをさりげなくいっているのである。それをいやまだまだこれからだという表現をしないで、自分の心は前を向いてこれから戦に向かう、鏡の中の自分の頭を見ると凍えた川を進んでいく間に霜がのっただけなのだ。その十四句を受けているのである。



 

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秋浦歌十七首 其十四 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集258/350

秋浦歌十七首 其十四 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 258/350
安禄山の叛乱に対し、冬にかけて洛陽に攻め上ろうということを詠ったものである。表向きの意味は、村の銅の精練作業とだぶらせている。


秋浦歌十七首其十四

爐火照天地。紅星亂紫煙。

赧郎明月夜。歌曲動寒川。





秋浦の歌十七首 其の十四

炉火(ろか)  天地を照らし、紅星(こうせい)  紫烟(しえん)を乱す。

赧郎(たんろう)  明月の夜、歌曲(かきょく)  寒川(かんせん)を動かす。


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秋浦歌十七首 其十四現代語訳と訳註
(本文) 其十四
爐火照天地。 紅星亂紫煙。
赧郎明月夜。 歌曲動寒川。


(下し文) 其の十四
炉火(ろか)  天地を照らし、紅星(こうせい)  紫烟(しえん)を乱す。
赧郎(たんろう)  明月の夜、歌曲(かきょく)  寒川(かんせん)を動かす。


(現代語訳)
都や各地で烽火が夜空を焦がした、ここ秋浦の街では精錬所の溶鉱炉が赤々と燃える。大空に火星が不思議なきらめきを示し不吉な予感である。しばらくしたら安禄山が反乱を起こし、しばらくして天子の宮殿を攻め落としたそうだとわかった。
安禄山は洛陽で滅んだ周の赧王のようにまもなく滅びる運命をもっている、永王軍に参加した心配しおそれ顔の男が月に明るく照らされる静かな夜だ。ここに集結した永王水軍の兵たちは戦に向かう歌を唄って、凍えそうな川を進んでいく。


(訳注)其十四
爐火照天地。 紅星亂紫煙。

都や各地で烽火が夜空を焦がした、ここ秋浦の街では精錬所の溶鉱炉が赤々と燃える。大空に火星が不思議なきらめきを示し不吉な予感である。安禄山が反乱を起こし、しばらくして天子の宮殿を攻め落としたそうだとわかった。
○炉火 秋浦は唐代には銀と銅の産地であった。それらの原鉱をとかす熔鉱炉の火。ということと、都や各地で烽火があがること挿す。○紅星 五行思想では火星を示し、熒惑守心(熒惑心を守る)といい、不吉の前兆とされた。「心」とは、アンタレスが所属する星官(中国の星座)心宿のこと。


五行
五色青(緑)玄(黒)
五方西
五時土用
節句人日上巳端午七夕重陽
五星歳星(木星)螢惑(火星)填星(土星)太白(金星)辰星(水星)

宣城のことを紅星と表現したとも考えられる。そうすると秋浦の近くで烽火があり夜空を焦がしてもおかしくない。○紫煙 天子の宮殿の厳かな香による霞。天子の宮殿。


赧郎明月夜。 歌曲動寒川。
安禄山は洛陽で滅んだ周の赧王のようにまもなく滅びる運命をもっている、永王軍に参加した心配しおそれ顔の男が月に明るく照らされる静かな夜だ。ここに集結した永王水軍の兵たちは戦に向かう歌を唄って、凍えそうな川を進んでいく。
○赧郎 心配し畏れながらの表情を顔に浮かべる男。 ・ 心配しおそれる。赧は周朝の第37代の王最後の王を示し、洛陽で最後の王であった。
赧王(たんおう)は、周朝の第37代の王最後の王。慎靚王の子。在位期間は59年であり、周朝における最長在位の君主であった。在位中は周王室の影響力はわずかに王畿(現在の洛陽附近)に限定されるようになっていた。李白はこのことを「安禄山畏れるに足らず」とかんがえた。


愚訳(この訳では語句の働きが全くないこのような詩は子供の時でもない。物語性もない。)
炉の焔は  天地を焦がし
煙のなかで 火花がはじける
明月の夜に 火に照らされる男たち
その歌声が 冷たい川に轟きわたる

其十四
爐火照天地。 紅星亂紫煙。
赧郎明月夜。 歌曲動寒川。



解説
通常の解釈をしたのでは、面白くもなんともない愚作になってしまう。李白が、この秋浦の歌の時だけ、普通の歌人のようになってしまったのだろうか。20年も若い時の詩と同次元の解釈をしたのではおかしい。李白が永王鄰の幕下に入るまでの約2年杭州から九江、廬山の間を行き来している。756年12月永王軍に参加しているその間安全な連絡方法はこの秋浦の歌であるとしたら非常に興味深い詩がたくさん出てくる。このブログはその可能性を追求している。通常、李白の詩の中での秋浦の歌十七首は其十五の「白髪三千丈」とつけた詩みたいに其一、其二が紹介される程度である。其四から其十四までは、関連性が尻切れトンボのように解釈され、ぐさくあつかいがほとんだている。この詩は全体を756年の秋に作ったものか、加筆をされたものである。十三、十四は驚くような意味に展開したのである。


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秋浦歌十七首 其十三 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 -257/350

秋浦歌十七首 其十三 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 -257/350


秋浦歌十七首其十三
淥水淨素月、月明白鷺飛。
郎聽采菱女、一道夜歌歸。

 
       

秋浦の歌 十七首 其の十三

(ろくすい) 素月(そげつ)(きよ)らかに、

月明らかにして白鷺(はくろ)飛ぶ。

(ろう)は聴く  菱(ひし)を採()る女、

一道(いちどう)  夜に歌いて帰る。


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秋浦歌十七首其十三 現代語訳と訳註
(本文) 其十三

淥水淨素月。 月明白鷺飛。
郎聽采菱女。 一道夜歌歸。


(下し文) 其の十三
淥水(ろくすい)  素月(そげつ)浄(きよ)らかに、月明らかにして白鷺(はくろ)飛ぶ。
郎(ろう)は聴く  菱(ひし)を採(と)る女、一道(いちどう)  夜に歌いて帰る。


(現代語訳)
この平天湖すみきった水面に白く輝く月の影を映してさらに清らかにしてくれる。月明かりは真昼のように照らすので白鷺は飛んでいる。
こんな美しい光景の中に叛乱軍の慰安婦が大勢いるのだ、明るいから少しは恥ずかしさはないのか、なんの臆面もなく一本道で道すがら、一緒に唄いながら歩いている。(しかし白鷺は永王軍をしめし、藩鎭諸侯も永王軍にすり寄る。)


(訳注)
淥水淨素月、月明白鷺飛。

この平天湖すみきった水面に白く輝く月の影を映してさらに清らかにしてくれる。月明かりは真昼のように照らすので白鷺は飛んでいる。
淥水 すみきった水。平天湖をしめす。其十二参照。○素月 しろい月。

淥水=白 素=白 月=白 、月=白 明=白 白鷺=白 ここで一句に3つの白、聯で6つの白を挿入している。まず起句から、淥水は透明な水昼は緑に見え、夜は黒で、月明かりで白ある。素月は霜月で澄み切ったもの、汚れていないものをいう、それをさらに清らかにする。そういう景色とはどんな景色なのか?承句の白鷺は常識的にはつがいもしくは複数でいるもの。そうであればたくさんの白があることになる。しかし、白鷺が夜飛ぶのか?飛ばない。これも不思議な光景である。


郎聽采菱女。 一道夜歌歸。
こんな美しい光景の中に叛乱軍の慰安婦が大勢いるのだ、明るいから少しは恥ずかしさはないのか、なんの臆面もなく一本道で道すがら、一緒に唄いながら歩いている。(しかし白鷺は永王軍で藩鎭諸侯も永王軍にすり寄る。)
 男。ここでは叛乱軍の兵士。○採菱 菱の実(食用)をつみとる。慰安婦を示す。〇一道 ひとすじの遺。あるいは「みちすがら」という意味? 

 転句において男女が出る、この時代の菱摘みは食料用のはず、そして、沼地である。水に浮いて育ち、水面一面に葉が敷き詰められたような景色である。李白の『蘇台覧古』『越女詞』『淥水曲』などと違っている。結句では道すがら詠って帰るのである。

絶句として、起承転結、李白は、まず、景色の面白さをうたい、清らかなものがさらに清らかであう一転、採菱女と男が道で詠いながら帰っていく景色のギャップを詠ったのだ、夜飛ぶはずのない白鷺が飛び、月が明るいと男女は何もできないはずが堂々と歩くという、この詩は李白の詩の面白さだけなのだろうか、次々と疑問が湧き出てくるのである。ここまで疑問を持っているのは文献を探してもなかなか見つからない。

 秋浦の歌十七首全体不思議なものが多いのであるが、作時を756年秋に設定すると詩における不可解な点はすべて謎は解けた。

 ここでも、李白は安禄山に協力する潘鎮の兵士からマークされていたのだろう。したがって、異民族の文か。漢民族ではしないこと、中国人の奥ゆかしさがなく、平気でやれる民族性を秋浦のうつくしい自然の中に不思議な出来事があると詩の中に織り込んだと考える。


李白『蘇台覧古』では菱歌と月の表現が見える
旧苑荒台楊柳新、菱歌清唱不勝春。
只今惟有西江月、曾照呉王宮裏人。


李白が中国四大美人の一人と呼ばれる西施をうたっているが俗説では絶世の美女である彼女にも一点欠点があったともいわれており、それは大根足であったとされ、常にすその長い衣が欠かせなかったといわれている。逆に四大美女としての画題となると、彼女が川で足を出して洗濯をする姿に見とれて魚達は泳ぐのを忘れてしまったという俗説から「沈魚美人」と称された。それを踏まえて、越女詞の天真爛漫な純真な美しさをうたった。

越女詞其一 李白
長干吳兒女,眉目豔新月。
屐上足如霜,不着鴉頭襪。
長干の呉の娘は、眉目麗しく星や月にも勝る
木靴の足は霜の如く、真白き素足の美しさ

越女詞 五首 其四
東陽素足女,會稽素舸郎。
相看月未墮,白地斷肝腸。
東陽生まれの素足の女と、会稽の白木の舟の船頭とが顔を見あわせている。
月が沈まないので、わけもなくせつない思いにくれている。
○東陽 いまの浙江省東陽県。会稽山脈の南方にある。○素足女 この地方は美人の多い子で有名。素足の女は、楚の国の王を籠絡した女性西施が其ふっくらとした艶的の魅力により語の句に警告させその出発殿のすあしのおんなであった。○会稽 いまの浙江省紹興。会稽山脈の北端にある。○素舸 白木の舟。○郎 若い男。〇白地 口語の「平白地」の略。わけもなく、いわれなく。○肝腸 きもとはらわた


淥水曲          
淥水明秋日、南湖採白蘋。
荷花嬌欲語、愁殺蕩舟人。
(下し文) 
淥水曲(りょくすいきょく)
淥水秋日(しゅうじつ)に明らかに
南湖  白蘋(はくひん)を採る
荷花(かか)  嬌(きょう)として語らんと欲す
愁殺(しゅうさつ)す舟を蕩(うご)かすの人
淥水は、澄んだ川や湖。詩の趣旨は「採蓮曲」と同じ。「白蘋」は水草の名。四葉菜、田字草ともいう。根は水底から生え、葉は水面に浮き、五月ごろ白い花が咲く。白蘋摘みがはじまるころには、蓮の花も咲いている。「南湖」という湖は江南のどこかにあるもので特定はげきないようだ。「愁殺」の殺はこれ以上なというような助詞として用いられている。前の句に「荷花:蓮の花があでやかで艶めかしく物言いたげ」な思いに対して、「船を動かす娘たちのこれ以上耐えられない思い」を対比させている。


 以上みたように、男女を詠いつつもどこかに、気恥ずかしさ、奥ゆかしさを感じさせるものである。
 しかし秋浦の歌十三の男女には、秋浦の美しい自然の景色の中で何の臆面もなくそれに及ぶような雰囲気はどこかに違和感を生じるものであり、異民族の風習ということにはなりはしないか。


其十三
淥水淨素月。 月明白鷺飛。
郎聽采菱女。 一道夜歌歸。
すみきった水にきよらかに、しろい月が浮ぶ。月明りのなかを、白さぎが飛ぶ。
男はじっと聞いている。菱採り女の歌声に聴きほれて
夜道をいっしょに  歌って帰る


秋浦歌十七首 其十二 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 -256/350

秋浦歌十七首 注目すべき秋浦の歌
李白が秋浦を歌うなかで、人生二度目の転換期、自分の人生について深く顧みている詩集である。


秋浦歌十七首 其十二 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 -256/350





秋浦歌十七首其十二

水如一匹練。此地即平天。

耐可乘明月。看花上酒船。

 



秋浦の歌十七首 其の十二

水は一匹の練(れん)の如し、

此の地 即ち 平天(へいてん)なり。

()く  明月に乗じて、

花を看るには 酒船(しゅせん)に上る可し。

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秋浦歌十七首 其十二 現代語訳と訳註
(本文)  其十二

水如一匹練。 此地即平天。
耐可乘明月。 看花上酒船。



(下し文) 其の十二
水は一匹の練(れん)の如し、此の地  即ち 平天(へいてん)なり。
耐(よ)く  明月に乗じて、花を看るには  酒船(しゅせん)に上る可し。

 (現代語訳)
永王軍により、蜀からこの地、すなわち平天湖あたりまで平定されたので、長江は、ゆっくりとはるか遠くまで流れゆく水面一疋の練り絹のように穏やかである。
戦いを進めて長安奪還するには今夜の明月にのっていくことべきであろう、そうすれば花のさくころには都で花見ができるだろう、そして攻め入った戦艦は酒の宴の船になることだろう。


(訳注)
水如一匹練。 此地即平天。
永王軍により、蜀からこの地、すなわち平天湖あたりまで平定されたので、長江は、ゆっくりとはるか遠くまで流れゆく水面一疋の練り絹のように穏やかである。
 織物二反を単位として数えることば。○ ねりぎぬ。灰汁などで煮てやわらかくした絹。白く光沢がある。○平天 天に平らかに連なっているという意味と、平天湖という湖をしめす。この湖は池州の西南3kmほどのところにあり、斉山の麓にあって清渓に通じていたのではないだろうか。

耐可乘明月。 看花上酒船。
戦いを進めて長安奪還するには今夜の明月にのっていくことべきであろう、そうすれば花のさくころには都で花見ができるだろう、そして攻め入った戦艦は酒の宴の船になることだろう。
耐可 当時の口語。「能可」「寧可」とおなじ。むしろ……すべし。長江に映る明月にのる、つまり船団に乗り込み攻め入ったらよいのではないか。長江の支配権は永王銀が抑えたのだ夏から秋にかけ、安禄山討伐の募集をかけて集結してきた諸侯により、数万の軍団になったのである。


(解説)
長江にあった叛乱軍を詩題に追い詰め、蜀から金陵あたりまで、永王軍が一気に抑えた。実際には、玄宗皇帝が長江中流域の荊州、江陵から金陵付近の潘鎮諸公が永王軍に集結して恭順をあらわしたため闘う前で、平定されていったのである。
 粛宗は北の霊武から南下して長安洛陽を奪還する。永王は水路、蜀から東征し、金陵から北上して運河を都まで攻め入ること、この作戦を詩にしたものではないだろうか。李白は、この詩の段階ではまだ永王軍に参加しているわけではないので、漠然とした様子を詠ったのである。



通常の解釈
川の水はちょうど一疋のねりぎぬのように、良くのびて、白く光っている。ここは天に平らかに連なっている。
いっそのこと、明月にのぼって、花をながめ酒の船にのりたいものだ。
(多くの本、WEBでも大方上のような解釈である、これは大きなパズルの一個を取り出して、そのなかにあがかれているものだけを見ているから、意味不明になる。この秋浦の歌十七首、こじつけか意味不明の解釈ばかりである。)



 

秋浦歌十七首 其十一 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集-255/350

秋浦歌十七首 注目すべき秋浦の歌
李白が秋浦を歌うなかで、人生二度目の転換期、自分の人生について深く顧みている詩集である。


秋浦歌十七首 其十一 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集-255/350



秋浦歌十七首其十一

邏人橫鳥道、江祖出魚梁。

水急客舟疾、山花拂面香。

 


 


秋浦の歌十七首 其の十一

邏人(らじん)  鳥道(ちょうどう)に横たわり、

江祖(こうそ)  魚梁(ぎょりょう)に出()ず。

水急にして客舟(かくしゅう)(はや)く、

山花(さんか) 面(おもて)を払って香(かんば)し。
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秋浦歌十七首 其十一 現代語訳と訳註
(本文) 其十一
邏人橫鳥道、江祖出魚梁。
水急客舟疾、山花拂面香。


(下し文) 其の十一
邏人(らじん)  鳥道(ちょうどう)に横たわり、江祖(こうそ)  魚梁(ぎょりょう)に出(い)ず。
水急にして客舟(かくしゅう)疾(はや)く、山花(さんか)  面(おもて)を払って香(かんば)し。


(現代語訳)
叛乱軍の憲兵は鳥道と呼ばれるようなところまで検門している。雄々しく流れる長江にヤナ猟のように出没して検問している。
水の流れの急なうちに旅人は船を疾風のように走らせるのだ。憲兵たちは山椒の様なものを顔に付け香を放っていた。


(訳注)
邏人橫鳥道、江祖出魚梁。

叛乱軍の憲兵は鳥道と呼ばれるようなところまで検門している。雄々しく流れる長江にヤナ猟のように出没して検問している。
邏人(らじん)  安禄山の叛乱軍の憲兵・邏 見まわる。巡察する。「邏卒/警邏・巡邏 羅叉とする訳本がある「人」が「叉」の写し間違いだという、そして無理やり羅叉石としている。それは間違い。○鳥道 大空の鳥のとぶ道。○魚梁 やな。川で魚をとる仕掛け。川での検問。反乱軍の検問は盗賊のような検問だったという。


水急客舟疾、山花拂面香。
水の流れの急なうちに旅人は船を疾風のように走らせるのだ。憲兵たちは山椒の様なものを顔に付け香を放っていた。
山花 木の実の山椒のこと。刺激臭のある木の実を指すから、やはり元来中国語の輸入されたもの。昔の日本人もまさか山椒魚が魚で無い事はわかっていた




ここまでの秋浦の歌其五から其十一 五言古詩として見ていくと物語性が出てくる。
秋浦多白猿。超騰若飛雪。
牽引條上兒。飲弄水中月。」
愁作秋浦客。強看秋浦花。
山川如剡縣。風日似長沙。」
醉上山公馬。寒歌寧戚牛。
空吟白石爛。淚滿黑貂裘。」
秋浦千重嶺。水車嶺最奇。
天傾欲墮石。水拂寄生枝。」
江祖一片石。青天掃畫屏。
題詩留萬古。綠字錦苔生。」
千千石楠樹。萬萬女貞林。
山山白鷺滿。澗澗白猿吟。
君莫向秋浦。猿聲碎客心。」
邏人橫鳥道。江祖出魚梁。
水急客舟疾。山花拂面香。」

#5
秋浦のこんなところ伝説の盗賊白猿みたいなものが多くいる、突然大暴れをして略奪していく、それは雪が舞っているかのように襲っているのだ。
木の枝の上から子猿を引っぱるように、女こともを連れ去っていく、持って行った酒を喰らって、月影に美女相手にしてじゃれついている。ひどい秋になったものだ。
#6
国の危機に対して愁をいだきながら旅人となって秋浦に来た、そこに尋ねてきてくれた人がいる。二人は話し合い秋浦の花を見たのである。
山と川のように立ち上がり行動する、隠遁していた剡県地方から立ち上がった謝霊運、王羲之。風と日の光のように悔しい思いを胸に秘めて命を絶った屈原の長沙での生き方を選ぶべきなのか。どちらにするか思案している。
#7
酔った時には、山簡のように馬に乗ってふざけてみるのは賢人であることを示している。寒い時には、甯戚のように、牛の角をたたいて貧乏をうたうと名君が見出してくれるかもしれない。
しかし、「白い石があざやかなりー」と歌ってみても、自分を用いてくれる度量の君王がいない。蘇秦のようにボロボロになった黒貂の皮ごろもに、涙がいっぱいになる。

#8
秋浦にきてからはるかに連なる峰の道よりいろんな異民族の部隊が出た。水軍と兵車を要した永王の軍が最も期待されるのだ。
天下はこのため不穏になり、王朝も転覆させようとして反乱を起こし、唐王朝は傾いた。永王の軍でもって、天下を揺るがす叛乱軍を追っ払っていくのだ。
#9
その石は大空に届くかのように大きな画屏風のようであっても、長江の流れは昔も今も大きな河川として流れていることは天の理であり、変わることのないものだ、どんなにりっぱな人格者といわれても一片の石は石なのだ。
石に詩をかきつけて万古に留めようとするのだが、字が緑色になり錦の苔が生えてしまう。
(ここで其七の「醉上山公馬、寒歌甯戚牛。 空吟白石爛、淚滿黑貂裘。」
とつながってくるのである。山公のように普段は飲んだくれていてもここはやるときなのだ)

派手な色をした千本のシャクナゲが植えられてそれが千か所続いている。地味だが守り抜く万本のネズミモチの木が植えられ、それが万か所続いているという。
#10
山は連綿と続き白鷺があふれている、谷という谷にまでここ秋浦には安禄山叛乱軍の異民族の兵士の白猿が民謡を吟じているのだ。
永王の君はこの秋浦に向かってきてはいけない、野蛮な猿がせっかくの旅心を砕いてしまうことだろう。

叛乱軍の憲兵は鳥道と呼ばれるようなところまで検門している。雄々しく流れる長江に箭な量のように出没して検問している。
水の流れの急なうちに旅人は船を疾風のように走らせるのだ。憲兵たちは山椒の様なものを顔に付け香を放っていた。
#11
叛乱軍の憲兵は鳥道と呼ばれるようなところまで検門している。雄々しく流れる長江にヤナ猟のように出没して検問している。
水の流れの急なうちに旅人は船を疾風のように走らせるのだ。憲兵たちは山椒の様なものを顔に付け香を放っていた。



秋浦の歌 其十二につづく。



秋浦歌十七首 其十 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集-254/350

秋浦歌十七首 注目すべき秋浦の歌
李白が秋浦を歌うなかで、人生二度目の転換期、自分の人生について深く顧みている詩集である。

秋浦歌十七首 其十 李白
Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集-254/350



秋浦歌十七首其三

千千石楠樹。萬萬女貞林。

山山白鷺滿。澗澗白猿吟。

君莫向秋浦。猿聲碎客心。

 





秋浦の歌十七首 其の十

千千たり 石楠(せきなん)の樹(じゅ)

万万たり 女貞(じょてい)の林(りん)

山山に白鷺(はくろ)満ち、

澗澗(かんかん)に白猿(はくえん)吟ず。

君 秋浦に向く莫(なか)れ、 

猿声(えんせい)  客心を砕かん。



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秋浦歌十七首 其十 現代語訳と訳註
(本文) 其三
千千石楠樹。 萬萬女貞林。
山山白鷺滿。 澗澗白猿吟。
君莫向秋浦。 猿聲碎客心。


(下し文) 其の十
千千たり  石楠(せきなん)の樹(じゅ)、万万たり  女貞(じょてい)の林(りん)。
山山に白鷺(はくろ)満ち、澗澗(かんかん)に白猿(はくえん)吟ず。
君  秋浦に向く莫(なか)れ、猿声(えんせい)  客心を砕かん。

(現代語訳)
派手な色をした千本のシャクナゲが植えられてそれが千か所続いている。地味だが守り抜く万本のネズミモチの木が植えられ、それが万か所続いているという。
山は連綿と続き白鷺があふれている、谷という谷にまでここ秋浦には安禄山叛乱軍の異民族の兵士の白猿が民謡を吟じているのだ。
永王の君はこの秋浦に向かってきてはいけない、野蛮な猿がせっかくの旅心を砕いてしまうことだろう。


(訳注)
千千石楠樹。 萬萬女貞林。
派手な色をした千本のシャクナゲが植えられてそれが千か所続いている。地味だが守り抜く万本のネズミモチの木が植えられ、それが万か所続いているという。
石楠 しゃくなげ。北半球の亜寒帯から熱帯山地までのきわめて広い範囲に分布し、南限は赤道を越えて南半球のニューギニア・オーストラリアに達する。特にヒマラヤ周辺には非常に多くの種が分布する。野生状態でも変種が数多く、また園芸植物としても数多くの品種がある。そのため、種類数は定義によって大きく異なるが、おそらく数百種類はあると思われる。いずれも派手で大きな花に特徴がある。花の色は白あるいは赤系統が多いが、黄色の場合もある。つつじ科の花である。石楠花の花ことば:威厳、警戒、危険、荘厳シャクナゲは葉にロードトキシンなどのケイレン毒を含む有毒植物である。摂取すると吐き気や下痢、呼吸困難を引き起こすことがある。葉に利尿・強壮の効果があるとして茶の代わりに飲む習慣を持つ人が多く存在するが、これはシャクナゲに「石南花」という字が当てられているため、これを漢方薬の「石南」と同一のもの(この2つに関連性はない)と勘違いしたためであり、シャクナゲにこのような薬効は存在しない。
シャクナゲは常緑広葉樹にもかかわらず寒冷地にまで分布している。○女貞 ねずみもち。中国のある皇帝がこの樹の実を煎じ飲んでいたところ、強精・強壮作用が強く、皇后を日々愛していたため皇后は十分満足し、皇帝に永遠の貞淑を誓ったという。この木が満々と生えている光景は逃げ隠れる場所のように感じる。花言葉は「先導」「先見」「慈愛」


山山白鷺滿。 澗澗白猿吟。
山は連綿と続き白鷺があふれている、谷という谷にまでここ秋浦には安禄山叛乱軍の異民族の兵士の白猿が民謡を吟じているのだ。
 川のある谷間。


君莫向秋浦。 猿聲碎客心。
永王の君はこの秋浦に向かってきてはいけない、野蛮な猿がせっかくの旅心を砕いてしまうことだろう。


754年に秋から756年秋まで、約2年間、李白の行動は、金陵、宣城、剡中、会稽、廬山、屏風畳、などを転々としている。この詩の秋浦の歌は756年秋の作と見れば、内容もすべてが納得できるものとして位置づけされる。李白は永王の水軍が長江の中流域において、その戦力を増強しているのを理解していた。永王は玄宗の16番目の子供である。756年6末7月初かけて荊州の長官程度だったものを玄宗が蜀に逃避する際立ち寄って、山南、江西、嶺南、黔中の四道の節度使を命じている。このため、永王は、江陵において、将士数万を募った。ここに数万の兵力が集結していくのである。李白はこのことを秋浦の歌其十で詠ったのだ。李白が永王の軍に加わるのは12月である。


 


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秋浦歌十七首 其九 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 -253/350

秋浦歌十七首 注目すべき秋浦の歌
李白が秋浦を歌うなかで、人生二度目の転換期、自分の人生について深く顧みている詩集である。
秋浦歌十七首 其九 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 -253/350


秋浦歌十七首其九

江祖一片石、青天掃畫屏。
題詩留萬古、 綠字錦苔生。
 
      
秋浦の歌 十七首 其の九
江祖(こうそ) 一片の石、青天(せいてん)  画屏(がへい)を掃(はら)う。
詩を題して万古(ばんこ)に留(とど)むれば、緑字(りょくじ) 錦苔(きんたい)を生ぜん。
宮島(1)


秋浦歌十七首 其九 現代語訳と訳註
(本文) 其九

江祖一片石。 青天掃畫屏。
題詩留萬古。 綠字錦苔生。


(下し文) 其の九
江祖(こうそ) 一片の石、青天(せいてん)  画屏(がへい)を掃(はら)う。
詩を題して万古(ばんこ)に留(とど)むれば、緑字(りょくじ) 錦苔(きんたい)を生ぜん。


(現代語訳)
その石は大空に届くかのように大きな画屏風のようであっても、長江の流れは昔も今も大きな河川として流れていることは天の理であり、変わることのないものだ、どんなにりっぱな人格者といわれても一片の石は石なのだ。

石に詩をかきつけて万古に留めようとするのだが、字が緑色になり錦の苔が生えてしまう。(ここで其七の「醉上山公馬、寒歌甯戚牛。
空吟白石爛、淚滿黑貂裘。」
とつながってくるのである。)

(訳注)
江祖一片石、青天掃畫屏。

その石は大空に届くかのように大きな画屏風のようであっても、長江の流れは昔も今も大きな河川として流れていることは天の理であり、変わることのないものだ、どんなにりっぱな人格者といわれても一片の石は石なのだ。
○江祖 秋浦の町の西南にある。大きな石が水際に突立ち、その高さ数丈、江祖石と名づける、といのが従来の解釈であるが、襄陽歌の「襄王雲雨今安在、江水東流猿夜聲。」江水東流という思想のことを示す語である。古来より川の流れは流れ去るもので、歳月等の時間で一度去って再び帰らないものである。・東流:東に向かって流れる。東流するのは中国の川の通常の姿であり、天理でもある。古来、時間の推移を謂う。○一片石 李白『襄陽歌』「君不見晉朝羊公一片石、龜頭剥落生莓苔。」(君は見ないか。あの立派な人格者の晋の羊公でさえ、いまは一かけらの石じゃないか。台石の亀の頭は、むざんに欠け落ちてしまって、苔が生えるじゃないか。) ・君不見:諸君、見たことがありませんか。詩をみている人に対する呼びかけ。樂府体に使われる。「君不聞」もある。そこで詩のリズムが大きく変化する。 ・晉朝羊公一片石: 晉朝 (西)晋。265年~419年。三国の魏に代わり、265年権臣司馬炎が建てた国。280年、呉を併せて天下を統一したが、八王の乱で、匈奴の劉曜らによって316年に滅ぼされた。 ・羊公 呉と闘った西晋の名将・羊のこと。山を愛し、善政をしたため、羊の没後、民衆は羊が愛した山を望むところに石碑を築いた。 ・一片石 羊の石碑。前出の堕涙碑(紫字部分)のこと。 ・龜頭:石碑の土台の亀の頭。石碑の土台部分は亀のような形をして、甲羅に碑を背負っている形になっている。あの亀のような動物は想像上のもので贔屓〔ひいき〕という。 ・剥落:剥げ落ちる。 ・莓苔:〔ばい〕こけ。○画屏 画にかいたびようぶ。


題詩留萬古。 綠字錦苔生。
石に詩をかきつけて万古に留めようとするのだが、字が緑色になり錦の苔が生えてしまう。(ここで其七の「醉上山公馬、寒歌甯戚牛。
空吟白石爛、淚滿黑貂裘。」
とつながってくるのである。)
○題詩 石に詩をかきつけること。○萬古 これからさきのこと。遠い将来から今を見るという表現。 ○綠字 苔によって緑色になる。詩碑ができた時だけであとは誰も管理するものがいなくて放置されることを言う。○錦 皮肉表現で詩碑ができた当初は金か漆で文字を塗るが、誰もいなくて苔の錦となる。○苔生 苔、草木に覆われるさまをいう。
 これも襄陽曲其四に「涙亦不能爲之墮、心亦不能爲之哀。」
「涙を堕す碑」とよばれるのに、涙さえおとすことも出来ない。心もかれのために、かなしむことが出来ない。
・亦:…もまた。・不能:…ことはできない。・爲:…のために。 ・之:(古びてしまった)羊の堕涙碑。・墮:(涙を)落とす。・哀:哀しむ。
襄陽曲其四
且醉習家池。 莫看墮淚碑。
山公欲上馬。 笑殺襄陽兒。


(解説)
 李白は儒教者のように見た目からの人格者というものに少しの憧れをもっていなくて、山簡のように子供に笑われていてもしっかりとして清談をしていた。学問をどんなにしていてもそれを表に出さず、いざという時には必ず役に立てられるものだ。いい君主に出会って登用された時は役割を立派に果たす。若い時に夢を抱いて述べることは誰でもするが、秋浦歌其四「猿聲催白發。 長短盡成絲。」とあるように55,56歳の白髪になって云うにはそれなりの理由、すなわち、永王の軍にはせ参じること決意したに他ならない。

秋浦歌十七首 其八 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集252/350


秋浦歌十七首 注目すべき秋浦の歌
李白が秋浦を歌うなかで、人生二度目の転換期、自分の人生について深く顧みている詩集である。
秋浦歌十七首 其八 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集252/350



秋浦歌十七首其八
 

秋浦千重嶺、水車嶺最奇。

天傾欲墮石、水拂寄生枝。



秋浦の歌 十七首 其の八

秋浦 千重(せんちょう)の嶺(みね)

水車 嶺(みね)は最も奇なり

天傾いて石を堕(おと)さんと欲し

水は 寄生(きせい)の枝(えだ)を払う


現代的下し文
千重にも連なる秋浦の峰
なかでも水車嶺は その嶺は特別いいのだ
天は傾いて 岩が落ちてくるかと見え
水は宿り木の枝を払って流れてゆく
(通常の解釈はこの読みのとおりである)

DCF00213


紀 頌之の異訳
秋浦歌十七首其八 現代語訳と訳註
(本文)

秋浦千重嶺。 水車嶺最奇。
天傾欲墮石。 水拂寄生枝。

(下し文) 其の八
秋浦 千重(せんちょう) 嶺(みね)、水車  嶺最 奇なり。
天 堕石を欲して傾く、水は 寄生枝を払わん。


(現代語訳)
秋浦にきてからはるかに連なる峰の道よりいろんな異民族の部隊が出た。水軍と兵車を要した永王の軍が最も期待されるのだ。
天下はこのため不穏になり、王朝も転覆させようとして反乱を起こし、唐王朝は傾いた。永王の軍でもって、天下を揺るがす叛乱軍を追っ払っていくのだ。


(訳注)

秋浦千重嶺。 水車嶺最奇。
秋浦にきてからはるかに連なる峰の道よりいろんな異民族の部隊が出た。水軍と兵車を要した永王の軍が最も期待されるのだ。
千重嶺 千の数ほど山道が重なる。○水車 浙江省 杭州 桐廬県 水車嶺、というのが通説であるが、水車嶺と秋浦と間に黄山があり、200km以上離れており、場所的に無理があるということ、水車はこの山ではなく水軍と兵車というように考えられる。○嶺最奇 山脈として最もすてきなものである


天傾欲墮石。 水拂寄生枝。
天下はこのため不穏になり、王朝も転覆させようとして反乱を起こし、唐王朝は傾いた。永王の軍でもって、天下を揺るがす叛乱軍を追っ払っていくのだ。
 天下。唐国家。○ 傾国。○墮石 安禄山の叛乱。○ 永王の水軍。○寄生枝 反乱軍に抑えられた領地を示す。


秋浦の水辺には山が迫っていて、幾重にも連なる峰が見える。なかでも水車嶺は岩が倒れかかってくるように聳えており、その横を岩に寄生している木の枝を払うようにして水が流れていると詠う。李白は小舟で川を下っていることになる。
通上の解釈では、突然、愁いも故事もなくなり、抒情詩に変わることになる。それに加え何ら関係のない、一度も李白の詩に登場していない水車嶺という場所が出てくるのである。特に七首の詩がおかしくなってしまう。私の訳を通して読んでみたら李白の心の動きがよくわかる。振り返って、秋浦の歌十七首のそれぞれの語をみてみよう。
其 一 秋浦 長秋 人愁 客愁 大樓。
 長安 江水流  江水 淚 揚州。
  
其 二 秋浦 猿 夜愁  黃山 白頭
 清溪 隴水 斷腸 薄游 久游。
 雨淚 孤舟
  
其 三 秋浦 錦駝鳥
 山雞 淥水
  
其 四 兩鬢 秋浦 一朝 
 猿聲 白發 長短 成絲。
  
其 五 秋浦 白猿 飛雪
 上兒 水中月。
  
其 六 愁 秋浦客 秋浦花
 山川 剡縣 風日 長沙
  
其 七 山公馬 寧戚牛。
 白石爛 淚 黑貂裘
  
其 八 秋浦 千重嶺  水車 嶺最奇。
 天傾 墮石 水 寄生枝。



其六
愁作秋浦客。 強看秋浦花。
山川如剡縣。 風日似長沙。

(下し文)
愁えて秋浦の客と作(な)り、強(し)いて秋浦の花を看(み)る。
山川(さんせん)は  剡県(せんけん)の如く、風日(ふうじつ)は  長沙(ちょうさ)に似るに。

(現代語訳)
国の危機に対して愁をいだきながら旅人となって秋浦に来た、そこに尋ねてきてくれた人がいる。二人は話し合い秋浦の花を見たのである。
山と川のように立ち上がり行動する、隠遁していた剡県地方から立ち上がった。風と日の光のように悔しい思いを胸に秘めて命を絶った屈原の長沙での生き方を選ぶべきなのか。どちらにするか思案している。


其七
醉上山公馬、寒歌甯戚牛。
空吟白石爛、淚滿黑貂裘。

(下し文) 其の七
酔うて上る  山公(さんこう)の馬、寒歌(かんか)するは  寧戚(ねいせき)の牛。
空しく白石爛(はくせきらん)を吟ずれば、泪は満つ  黒貂(こくちょう)の裘(かわごろも)。

(現代語訳)
酔った時には、山簡のように馬に乗ってふざけてみるのは賢人であることを示している。寒い時には、甯戚のように、牛の角をたたいて貧乏をうたうと名君が見出してくれるかもしれない。
しかし、「白い石があざやかなりー」と歌ってみても、自分を用いてくれる度量の君王がいない。蘇秦のようにボロボロになった黒貂の皮ごろもに、涙がいっぱいになる。

秋浦歌十七首 其七 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集251/350

秋浦歌十七首 注目すべき秋浦の歌
李白が秋浦を歌うなかで、人生二度目の転換期、自分の人生について深く顧みている詩集である。

秋浦歌十七首 其七 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集251/350


秋浦歌十七首 其七
醉上山公馬、寒歌甯戚牛。
空吟白石爛、淚滿黑貂裘。


秋浦の歌十七首 其の七

酔うて上る 山公(さんこう)の馬

寒歌(かんか)するは  寧戚(ねいせき)の牛

空しく白石爛(はくせきらん)を吟ずれば

泪は満つ 黒貂(こくちょう)の裘(かわごろも)

李白の足跡5


秋浦歌十七首 其七 現代語訳と訳註
(本文)
其七
醉上山公馬、寒歌甯戚牛。
空吟白石爛、淚滿黑貂裘。
 

(下し文) 其の七
酔うて上る  山公(さんこう)の馬、寒歌(かんか)するは  寧戚(ねいせき)の牛。
空しく白石爛(はくせきらん)を吟ずれば、泪は満つ  黒貂(こくちょう)の裘(かわごろも)。


(現代語訳)
酔った時には、山簡のように馬に乗ってふざけてみるのは賢人であることを示している。寒い時には、甯戚のように、牛の角をたたいて貧乏をうたうと名君が見出してくれるかもしれない。
しかし、「白い石があざやかなりー」と歌ってみても、自分を用いてくれる度量の君王がいない。蘇秦のようにボロボロになった黒貂の皮ごろもに、涙がいっぱいになる。


(訳注)
醉上山公馬。 寒歌甯戚牛。
酔った時には、山簡のように馬に乗ってふざけてみるのは賢人であることを示している。寒い時には、甯戚のように、牛の角をたたいて貧乏をうたうと名君が見出してくれるかもしれない。
山公 西晋の山簡のこと。荊州の知事として湖北省の荊州の地方長官として嚢陽にいたとき、常に酔っぱらっては高陽の池にあそび(野酒)、酩酊したあげく、白い帽子をさかさに被り、馬にのって歩いた。それが評判となり、そのことをうたった歌までできた。山簡は泥酔しているのではなく、この時、談義はしているのである。竹林の七賢人の山濤の子であり、山簡はそのような儒教的・既成の倫理観を捨て, 外聞を気にせず, 己に正直にして自由にふるまった。李白が山簡を詠い讃える重要な点である。李白は儒教的価値観に徹底的に嫌気を示している。山簡を象徴的に詠うのである。○甯戚 春秋時代の斉の国の人。生活に困っていた時に、牛の角を叩きながら「牛を飯う歌」をうたって、自分の貧窮と希望とをのべた斉の桓公がそれを聞いて大臣にしたという。道教でいう名君を示す。

空吟白石爛。 淚滿黑貂裘。
しかし、「白い石があざやかなりー」と歌ってみても、自分を用いてくれる度量の君王がいない。蘇秦のようにボロボロになった黒貂の皮ごろもに、涙がいっぱいになる。
白石爛 寧戚の歌の中の文句。白い石がぴかぴか光る。爛1 ただれる。くさる。やわらかくなってくずれる。「爛熟/糜爛(びらん)・腐爛」 2 あふれんばかりに光り輝く。あざやか。「爛然・爛漫・爛爛/絢爛(けんらん)・燦爛(さんらん)」 ○黑貂裘 黒いてん(いたち科の動物)の皮ごろも。戦国時代の論客、蘇秦が、秦の王にまみえて自分の説を進言したが、十回進言して用いられず、その時、蘇秦は非常に困窮して黑貂裘皮ごろもはボロボロだし、黄金百斤はなくなっていた。「戦国策」に見える話の故事を用いる。
名君といわれた桓公の故事を例にとっているのだが、李白はその桓公の背後に魯仲連の存在なくして語れないものであること、李白は、永王鄰のもとに走ることを示唆した詩ではなかろうか。


 
 其の七の詩に「秋浦」という言葉を使わなくて、山簡、甯戚、蘇秦を用いることで、自らの決意をあらわしたかった。したがって、場所と時を示す「秋浦」を使う必要がなかったのだ。李白は、他のどんな詩人より山公(山簡)を例に用いた。「山公馬」というのが特に好んだ。
 李白は、儒教に嫌気がしていたことについては多く詠っている。

寧戚牛というのは春秋斉の桓公時代の説話で、斉に仕えたいと思った寧戚が、斉都臨淄の城門外にたどりついて野宿をした。すると、桓公が門から出てきた。そこで寧戚は連れていた牛に飼い葉をやりながら牛の角をたたいて歌をうたった。その歌が「白石爛」で、それを聞いた桓公は寧戚を上卿に取り立てたという。桓公は名君といわれた。それだけの眼力があったということであるが、太公望の故事と並べて語られる。李白は、嘗て太公望のようにして朝廷に迎えられたしかし、朝廷を追放されたので、こんどは、寧戚を例にとったのだ。
 李白は空しく「白石爛」を吟ずるのだが、名君に認められることもなく「泪は満つ 黒貂の裘」と詠う。 

李白50 襄陽曲四首
其二
山公醉酒時。 酩酊高陽下。
頭上白接籬。 倒著還騎馬。

山簡先生はいつもお酒に酔っている、酩酊してかならず高陽池のほとりでおりていた。
あたまの上には、白い帽子。それを逆さにかぶりながら、それでも馬をのりまわした。

○山公 山簡のこと。字は季倫。西晋時代の人。竹林の七賢の一人、山濤の子。公は一般に尊称であるが、ここでは、とくに尊敬と親しみの気特がこもっている。山簡、あざなは季倫。荊州の地方長官として嚢陽にいたとき、常に酔っぱらっては高陽の池にあそび(野酒)、酩酊したあげく、白い帽子をさかさに被り、馬にのって歩いた。それが評判となり、そのことをうたった歌までできた。話は「世説」にある。 ○高陽 嚢陽にある池の名。 ○白接離 接寵は帽子。

山公 酒に酔う時、酩酊し 高陽の下
頭上の 白接籬、倒しまに着けて還(また)馬に騎(のる)

詠懐詩  阮籍
夜中不能寐、起坐弾鳴琴。
薄帷鑒明月、清風吹我襟。
孤鴻號外野、朔鳥鳴北林。
徘徊将何見、憂思独傷心。

酒を飲む場所が、酒場でなく野酒、竹林なのは老荘思想の「山林に世塵を避ける」ということの実践である。お酒を飲みながら、老子、荘子、または王弼の「周易注」などを教科書にして、活発な論議(清談、玄談)をしていた。談義のカムフラージュのためである。
この思想は、子供にからかわれても酒を飲むほうがよい。峴山の「涙堕碑」か、山公かとの選択(李白襄陽曲四首)につながっていく

 仙人思想は、隠遁を意味するわけであるが、宗教につてすべての宗教上のすべてのこと、すべての行事等も、皇帝の許可が必要であった。一揆、叛乱の防止のためであるが、逆に、宗教は国家運営に協力方向に舵を切っていったのである。その結果道教は、不老長寿の丸薬、回春薬を皇帝に提供し、古苦境にまで発展したのである。老荘思想の道教への取り込みにより道教内で老境思想は矛盾しないものであった。

秋浦歌十七首 其六  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集250/350


秋浦歌十七首 注目すべき秋浦の歌
李白が秋浦を歌うなかで、人生二度目の転換期、自分の人生について深く顧みている詩集である。

秋浦歌十七首 其六  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集250/350

李白の詩の中でまともに解釈されていない詩のひとつである。さらっと読んで行ってもすぐ解釈できるが、何か引っかかる詩なのである。裏の裏の意味があるのか、暗号なのか、不思議な詩なのである。



其六
愁作秋浦客。 強看秋浦花。
山川如剡縣。 風日似長沙。


愁えて秋浦の客と作()り、強()いて秋浦の花を看()る。

山川(さんせん)は  (せんけん)の如く、風日(ふうじつ)は 長沙(ちょうさ)に似るに。




秋浦歌十七首 其六 現代語訳と訳註
(本文) 其六

愁作秋浦客。 強看秋浦花。
山川如剡縣。 風日似長沙。


(下し文)
愁えて秋浦の客と作(な)り、強(し)いて秋浦の花を看(み)る。
山川(さんせん)は  剡県(せんけん)の如く、風日(ふうじつ)は  長沙(ちょうさ)に似るに。


(現代語訳)
国の危機に対して愁をいだきながら旅人となって秋浦に来た、そこに尋ねてきてくれた人がいる。二人は話し合い秋浦の花を見たのである。
山と川のように立ち上がり行動する、隠遁していた剡県地方から立ち上がった。風と日の光のように悔しい思いを胸に秘めて命を絶った屈原の長沙での生き方を選ぶべきなのか。どちらにするか思案している。



(訳注)
愁作秋浦客。 強看秋浦花。

国の危機に対して愁をいだきながら旅人となって秋浦に来た、そこに尋ねてきてくれた人がいる。二人は話し合い秋浦の花を見たのである。
 初句はじめに使うことは珍しい。安史の乱はすべての人にとっての愁いである。秋浦を上句と下句に使って強調している。○秋浦花 強いてみる花とは、李白にとって、美人である。あるいは女よりもっといいこと。

  愁 作 秋浦 客 = 愁秋浦・・・・作秋浦・・・・秋浦客
  強 看 秋浦 花。= 強秋浦・・・・看秋浦・・・・秋浦花


秋浦について:
① 安徽省貴地県。唐代には池州と呼ばれた。銭塘江の最上流にある。しかし長江にもすぐいける。
② 長沙と剡渓の中間に位置する。
③ 隠遁という意味でなく敵から逃避し、隠れたのではないかと思うところ。
④ 安禄山の叛乱を示唆する語。(秋:秋、浦:謀叛)



山川如剡縣。 風日似長沙。
山と川のように立ち上がり行動する、隠遁していた剡県地方から立ち上がった。風と日の光のように悔しい思いを胸に秘めて命を絶った屈原の長沙での生き方を選ぶべきなのか。どちらにするか思案している。
剡縣 浙江省剡県。町の南に剡渓があり、両岸の景色がうつくしく、六朝時代にはことに人びとに愛貸された。謝霊運、王羲之に李白自身を映したのであろう。
長沙 唐時代の長沙郡をさす。帯湘、洞庭などの名勝がすべて郡内にある。同時に長沙は、屈原を連想させる。



1 秋浦歌十七首 其六 について

 李白は自分の書いた詩を違った形で詠いあげるということが多い。その視点からこの詩を見ると、この詩に近いイメージの詩は、「贈王判官時余歸隱居廬山屏風疊」ということになる。この形をとることによって、詩に味わい深さを増すのである。

贈王判官時余歸隱居廬山屏風疊 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -229


贈王判官時余歸隱居廬山屏風疊
昔別黃鶴樓、蹉跎淮海秋。
俱飄零落葉、各散洞庭流。』
中年不相見、蹭蹬游吳越。
何處我思君、天台綠蘿月。』
會稽風月好、卻繞剡溪回。
云山海上出、人物鏡中來。
一度浙江北、十年醉楚台。
荊門倒屈宋、梁苑傾鄒枚。』
むかし黄鶴楼に別れ、蹉跎(さた)たり 淮海(わいかい)の 秋。
ともに零落の葉を飄(ひ るがへ)し、おのおの洞庭の流に散ず。』
中年あい見(まみ)えず、蹭蹬(そうとう) 呉越に遊ぶ。
何の処かわれ君を思う、天台 緑蘿(りょくら)の月。』
会稽 風月好し、かえって剡溪(えんけい)を繞(めぐ)って廻(かへ)る。
雲山 海上に出で、人物 鏡中に来る。
ひとたび 浙江を度(わたり)て 北し、十年 楚台に酔う。
荊門に屈宋を倒し、梁苑には鄒枚を傾く。』

昔、君と別れの酒を酌み交わしたのは黄鶴楼だった、なかなか別れがたく、ぐずぐず過ごした淮海の秋がとても懐かしい。
お互いに放浪の身で、枯葉のように疲れ切っていた、 だけど 各々分散する洞庭の流のようにわかれたのだ。』
暫くの間、お互い音信不通であったのだ、これといった目標がないままに江南地方で遊んだ。
それでもどこにいても私は君のことを考えていた、緑の蔦のおい茂る天台山に登って月影をあおぎながら。』
会稽地方はさわやかな風、すばらしい月が印象的なところだ。 中でも剡溪の辺りは。気に入ったので何回も廻りまわった。


2.秋浦歌十七首 其六 について 

 一般的な解釈は次のとおりである。
 この詩には「秋浦」が二回も出てきて、しかも対句になっている。転結句は複雑な感情を五言絶句という短い詩形に押し込めているので、すこし分かりにくい。

秋浦の山川風日が剡県や長沙のように美しく似ているのに、それを愁えてみる、強いてみるというように心から楽しめない感情を述べている。なぜなら、それは剡県や長沙を訪れたころはまだ若く希望に燃えていたので、虚心坦懐に風物に没入できたのに、いまはそうでないと言っていると解するべきである。


 このうえのような解釈では、①なぜ愁いなのか、何に対して愁いなのか。②なぜ強いるのか、なぜ強いたのか。③秋浦の花とはなんなのか。
「愁えてみる、強いてみるというように心から楽しめない感情を述べている。なぜなら、それは剡県や長沙を訪れたころはまだ若く希望に燃えていたので、虚心坦懐に風物に没入できたのに、いまはそうでない」
初めの2句の説明、解釈にはなっていない。

結論をいうと
① 愁いは国へのの愁いということである。李白は長安での宮廷内のみならずかなり知れ渡った「謫仙人」であった。だから、叛乱軍に掴まると危ない。国のために何かおこしたいが何もできない。それを「憂い」ているのだ。
② 強いたのは、尋ね人があったのだ。李白はもう第一線には立てないと自覚していた。情報を伝えに来て、花は咲かせないかもしれないが「看る」ことはできるかもしれない。
③ 秋浦の客は李白自身と来客であった。
その話し合いの中でで生まれた共通の決意。それが「花」なのだ。

 転結の句は李白の大好きな剡渓の景色、と同時に謝霊運、王之義は、隠遁していても、国の存亡の時その地から立ち上がった。長沙地方の風光明美と同時に、愁いをもって汨羅に身を投げた屈原の行動。秋浦の花は剡渓から立ち上がることを示すのである。



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秋浦歌十七首 其五 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集249/350

秋浦歌十七首 注目すべき秋浦の歌
李白が秋浦を歌うなかで、人生二度目の転換期、自分の人生について深く顧みている詩集である。


秋浦歌十七首 其五 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集249/350



秋浦歌十七首其五
秋浦多白猿、超騰若飛雪。
牽引條上兒、飲弄水中月。


      

秋浦の歌 十七首 其の五
秋浦  白猿(はくえん)多く、超騰(ちょうとう)すること飛雪(ひせつ)の若(ごと)し。
条上(じょうじょう)の児(こ)を牽引(けんいんし)し、飲みて弄(もてあそ)ぶ  水中(すいちゅう)の月。


nat0022

現代語訳と訳註
(本文) 其五

秋浦多白猿、超騰若飛雪。
牽引條上兒、飲弄水中月。


(下し文) 秋浦歌十七首 其五      

秋浦の歌 十七首 其の五
秋浦  白猿(はくえん)多く、超騰(ちょうとう)すること飛雪(ひせつ)の若(ごと)し。
条上(じょうじょう)の児(こ)を牽引(けんいんし)し、飲みて弄(もてあそ)ぶ  水中(すいちゅう)の月。


(現代語訳)
秋浦のこんなところ伝説の盗賊白猿みたいなものが多くいる、突然大暴れをして略奪していく、それは雪が舞っているかのように襲っているのだ。


(訳注)
秋浦多白猿、超騰若飛雪。
秋浦のこんなところ伝説の盗賊白猿みたいなものが多くいる、突然大暴れをして略奪していく、それは雪が舞っているかのように襲っているのだ。
白猿 白猿伝説。六朝の梁の時代のこと。平南将軍の藺欽(りんきん)が南方遠征に派遣された時に、別将の欧陽紇(おうようこつ)も同様に南方の長楽の地を占領し、異民族の居住地を次々に平定していった。ところで彼には美人の妻がおり、白猿神のさらわれたことに関する故事、伝説にもとづくもので、安禄山に参画した盗賊に近い者たちという意味であろう。○超騰 とびはねる。突然大暴れをして略奪していく。


牽引條上兒、飲弄水中月。
木の枝の上から子猿を引っぱるように、女こともを連れ去っていく、持って行ったさけを喰らって、月影に美女相手にしてじゃれついている。なんて秋になったのだ。
牽引 引っぱる。○水中月 水に映るの月影。月は女性、水に映すほどの美人の女性。



(この詩の理解のために。)
通常の訳はつぎのとおり、
いま、秋浦には白い猿がたくさんいる。とんだりはねたりしている様子は、飛ぶ雪のようにみえる。
木の枝の上から子猿を引っぱってきて、谷川で水を飲みながら、水中の月影にじゃれている。

であるが、これではなぜ、白猿についてみれば意味不明になる。安禄山の兵士は、黄色隊、白隊、茶隊、帽子や、お面をつけていたという記述は多く残されている。  

杜甫「悲陳陶 杜甫 700- 152


また、白猿について、参考として読んでみると、李白のこの詩はこの伝説に基づいているのである。
六朝時代からある怪奇伝説「白猿伝説」六朝の梁の時代のこと。平南将軍の藺欽(りんきん)や別将の欧陽紇は南方の長楽の地を占領し、異民族の居住地を次々に平定していった。そのとき美人の妻を遠征に帯同していた。ある明け方に一陣の怪風が吹いたかと思うと、その時には妻は既にさらわれていた。

欧陽紇は血眼になって方々へ妻を捜し回り、数ヶ月後に岩窟の入り口が見つかった。その岩窟の門の前で、女たちが歌い合ったり笑い合ったりしていた。この岩窟は白猿神の住処であり、女たちはみな彼にさらわれて来たのだ。欧陽紇の妻もやはり同じように白猿神にさらわれたのであった。彼は岩窟に忍び込んで妻との再会を果たした。白猿神は不思議な力を持っていて、正面から戦いを挑めば百人がかりでも倒せない。


白い衣をまとい、美しいあごひげを伸ばした男が、杖をついて女たち従えながらやって来た。これこそが白猿神の変化した姿である。彼は犬が走り回っているのを見つけると、立所に捕まえてその肉を引き裂き、ムシャムシャと食べ始めた。満腹になると今度は女たちに酒を勧められる。数斗飲んだ所でふらふらになると、やはり女たちが介添えをして岩窟へと去って行った。そこで彼は部下と共に武器を手にとって入ってみると、正体を現した。

白猿神
が寝台に手足を縛られ、ジタバタともがいていた。欧陽紇と部下がその体を剣で斬りつけても、鉄か岩を打っているように傷ひとつ付かない。しかしヘソの下を刺すと、血が一気に吹き出てきた。白猿神は、「わしはお前にではなく、天に殺されたのだ。それにお前の妻はわしの子を身籠もっておる。だがその子を殺すでないぞ。偉大な君主に出会って一族を繁栄させるであろうからな!」と捨てぜりふを残して絶命した。

欧陽紇は白猿神の宝物を積み込み、女たちを引き連れて帰って行った。そして女たちをそれぞれ里に帰してやった。一年後に彼の妻は男の子を出産したが、その容貌はかの白猿神にそっくりであった。これが欧陽詢(おうようじゅん)である。その後欧陽紇は陳の武帝(陳覇先)に誅殺された。欧陽詢は父の友人・江総に匿われて難を逃れた。彼は成人してから書道家・学者として有名となり、隋に仕えた。また友人の李淵が唐王朝を立てると今度は唐に降り、高祖・太宗の二代に仕えた。

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