孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<4> 三月三日侍宴西池 詩 詩集 358
南朝宋謝靈運 三月三日侍宴西池 詩(三月三日侍して西池に宴す)
三月三日侍宴西池 詩
三月三日の西池「臨水の会」に参列しての詩
詳観記牒,鴻荒莫博。
詳しく調べてみたが、その記録に三月三日と特定されたものはない。大昔からこの日ということで伝えられたわけではないが、奇数日が重なっているので縁起のいいものなのでやり始めたのだろう。
降及雲鳥,日聖則天。
この日には雲竜や鳳凰が降りてくるに及び、聖心は天子の心に法則としている。
虞承唐命,周典商期。
虞(舜)王は唐(堯)王の命を承け、周というくには商という国の艱難を引き継いだ。
江之永美,皇心惟苔。
長江の流れはこれは永遠に美しい、天子のみこころは苔むすほどのうるおいを与えている
矧乃暮春,時物芳街。
ましてや春の盛りを過ぎているこの時、時も萬物、すべてが香しい香りに包まれる。
濫觴逶迤,周流蘭殿。
長江のような大河もその源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないものでうねっている。周の国の勢いは商の国を流し立派な宮殿とし今日の禊ぎとして流れた。
禧備朝容,楽関タ宴。
この例祭に、禊と水神を祭ることは備わっている、やがて夕方の宴に変わっていき音楽も終わってゆく。
(三月三日侍して西池に宴す)
詳しく記牒【きろく】を観るに、鴻荒【むかし】は伝うる莫【な】し。
降【くだ】りて雲と鳥とに及び、曰【い】わく聖は天に則ると。
虞【ぐ】は唐の命を承け、周は商の艱【かん】を襲う。
江は之れ永し、皇心 惟【こ】れ眷【いつく】しむ
矧【いわ】んや迺【すなわ】ち 暮春、時物芳衍【はびこ】り
濫觴【らんしょう】逶迤【ななめ】に、蘭殿に周流し。
礼は朝容に備わり、楽は夕宴に闋【や】む
宋国への転身
『宋書』の本伝によると、
(宋国の黄門侍郎に除せられ、相国の従事中郎、世子の左衛率に遊る。)
この時代これは謝霊運にとっては非常な変動をしめすものである。謝霊運がどうして、東晋から禅譲を受けて間もない劉裕に仕えるようになったか、その理由が示されたものはないが、詩文力は認められていたことから、王朝発足まもない劉裕から強い希望で迎えられたものであろう。劉裕に直接仕えたこと、『晋書』の「謝玄伝」には「元煕中〈419〉劉裕の世子の左衛率となる」と記されている。元煕は一年しかなく、すぐ永初〈420〉となる。謝霊運三十五歳のときに当たる。この時代の年齢としては決して若いことを期待されたというものではない。
別に、『宋書』の本伝では「輒【みだ】りに門生を殺して官を免ぜらる」と記されている。当時の権力者にはよくあったことであるが、「みだりに門生を殺す」ということは、どうみても感情の激しい部分を持った人格であったようだ。これはやがて自分も殺されるという遅命の兆しであったというのか、おそらく、そういう人物に書き上げられたものであろうと思う。歴史書はその時の権力者の都合で敗者はよく書かれるわけはない。いや、悪く書かれることは悪く書かないといけないほどの影響力があったとみるべきであろう。敗者謝霊運のことについては『宋書』の「王弘伝」には詳しく述べられている。すなわち、義煕十四年六月、劉裕が宋公となるや、王弘は尚書僕射となり、謝霊運の罪状をあばいているが、その文によると。
(世子の左衛率、康楽県公の謝霊運 力人(カ士)の桂興其の嬖妾【そばめヘイショウ】に淫【おぼ】れしため、興を江の挨【ほとり】に殺し、屍を洪流【おおかわ】に棄つ。事は京畿に発【わか】り遐邇【おちこち】に播【つた】わり聞こゆ。宜しく重劾【じゅうがい】を加え、朝風を粛正すべし。案ずるに世子の左衛率康楽県公謝霊運は過【はなは】だご恩奨を蒙りヽ頻りに栄授を叨【かたじけな】くす。礼を聞き 禁を知ること日を為すこと已に久し。而るに、閫闈【かきね】を防閑すること能わずして、茲の紛穢【ふんわい】を致す。憲軌を顧みること罔【な】く、忿殺【ふんさつ】は自由なり。此にして治【ただ】す勿【な】くば、典刑将に替【す】たれんとす。請う事を以って霊運の居る所の官を免ぜしめ、上台は爵土を削り、大理(司法官)に収付して罪を治せしめんことを。)
と奏上したと記されている。この奏上文によって、謝霊運はただちに官職を免ぜられた。これは明らかに謝霊運の異常な出世を妬んで、わずかな失敗により、寝首をかかれたためであろう。
やがて、劉裕は元煕二年〈420〉六月に建康(今の南京)で即位し、国を宋とし、年号を永初と改めた。そして、曹からの王朝創設の例により、論功行賞を行なったが、『宋書』の武帝紀によると、
(晋氏の封爵は咸【ことごと】く運に随って改めよ。徳 徴官に参【まじ】わり、勲 蒼生【そうせい】を済うに至っては、人を愛し、樹を懐い、猶お或いは翦【ほろぼ】すこと勿かれ。異代に在りと雖ども、義は泯絶【ひんぜつ】すること無く、降殺の儀、一に前典に依れ。(中略)康楽公を即ち県侯に封ず可し。各おの五百戸。)
とある。すなわち、謝霊運はこの慶祝で、罪も減ぜられ、そのうえ、県侯に新しく封ぜられたのである。本当に貴公子としての傍若無人な振る舞いに問題があるようだと、救われはしまい。
『宋書』の本伝では、
(高祖命を受くるや公爵を降【くだ】して侯と為す。食邑五百戸。起こして散騎常侍と為し、太子左衛率に転ず。)
と記す。この王朝の禅譲が詩人の鋭い感情に大きな影響を与えた。同世代の、謝霊運より二十歳年長であった陶淵明のような下級の身分のものだと、晋王朝が亡びても、宋王朝の年号は用いなかったと『宋書』の「隠逸伝」に記されているけれど、それは当時の人間に影響力が及ばないものである。謝霊運の態度は影響力があるのである。陶淵明のごとく隠者を自称した小地主と、謝霊運のように名族の者との相違は現代では計り知れないほど違いのものであった。後世の儒者の見方からすれば謝霊運の行為は、二朝に仕えた人間としてあまり尊敬を受けないものであるが、それは時代の変化により評価は変わるものであり、時の権力者はその権力の維持のために利用するのか、切り捨てるのかを選択したのである。
謝霊運は、利用価値があったということなのだ。半分は、隠遁生活にあこがれを抱く謝霊運から見れば、これらのことは、重なる不幸ということになるであろう。おそらく、その心に煮えたぎるものを抱きながら二君に仕えたのである。その激動は詩人の心を大いに詩作へと走らせるはずであるが、不平不満を詩にすることはできない。それは、死を意味することであるからである。詩文による影響力のけた違いに大きい時代である。その感情をあらわに述べたら、その生命の危険は自分のみならず、謝氏の一族にも及ぶのである。
しかし、からくも命だけは救われ、県侯に封ぜられた。その気持を奏上したのが、『芸文類聚』巻五十一にある。
このような憤りに満ちていた霊運は、そのストレスのはけ口として、『宋書』の本伝に、
(廬陵王義真少くして文籍を好み、霊運と情款 常と異なる。)
といったほうに傾いていった。すなわち、「廬陵王義真」とは劉裕の次子で、『宋書』の「武三王伝」には「聡明にして文義を愛し、軽く動いて徳業なし」と、利ロではあるがはなはだしく軽率であったと記されている。時に義真は十四歳であり、霊運は三十六歳の油ののりきった年齢であった。
「義真伝」によると、
「陳郡の謝霊運、琅邪【ろうや】の顔延之、慧琳道人並びに周旋【まじわり】は常に異なる」とあり、
なお、義真の言葉として、
「志を得る日、霊運 延之を以って宰相と為し、慧琳を西豫州の都督と為さん」といったと記してあるのをみると、義真はクーデターを考えていたとして、つぶされたものと考えられる。詩文は表に出やすいものであり、妬みは影で動くものである。十四歳の子供とはいえ詩文のわかる聡明な次男はその標的にされたのである。謝霊運『廬陵王墓下作』は次に掲載する。
父劉裕の亡きあとは宋国を背負って国王になれる可能性もあった。反劉裕グループに巧みに利用されたものである。謝霊運がこのころ作ったらしいものに四言古詩「三月三日侍宴西池」(三月三日侍して西池に宴す)がある。この詩の制作年代は明らかでないが、前の年九月、十二月、そしてこの三月のこの詩、謝霊運の一生をみて、侍宴できる可能性はこのころの一年しかないのである。
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現代語訳と訳註
(本文) 三月三日侍宴西池 詩
詳観記牒,鴻荒莫博。
降及雲鳥,日聖則天。
虞承唐命,周襲商艱。
江之永矣,皇心惟眷。
矧乃暮春,時物芳衍。
濫觴逶迤,周流蘭殿。
禧備朝容,楽関タ宴。
(下し文) (三月三日侍して西池に宴す)
詳しく記牒【きろく】を観るに、鴻荒【むかし】は伝うる莫【な】し。
降【くだ】りて雲と鳥とに及び、曰【い】わく聖は天に則ると。
虞【ぐ】は唐の命を承け、周は商の艱【かん】を襲う。
江は之れ永し、皇心 惟【こ】れ眷【いつく】しむ。
矧【いわ】んや迺【すなわ】ち 暮春、時物 芳衍【はびこ】り。
濫觴【らんしょう】逶迤【ななめ】に、蘭殿に周流し。
礼は朝容に備わり、楽は夕宴に闋【や】む
(現代語訳)
三月三日の西池「臨水の会」に参列しての詩
詳しく調べてみたが、その記録に三月三日と特定されたものはない。大昔からこの日ということで伝えられたわけではないが、奇数日が重なっているので縁起のいいものなのでやり始めたのだろう。
この日には雲竜や鳳凰が降りてくるに及び、聖心は天子の心に法則としている。
虞(舜)王は唐(堯)王の命を承け、周というくには商という国の艱難を引き継いだ。
長江の流れはこれは永遠に美しい、天子のみこころは苔むすほどのうるおいを与えている
ましてや春の盛りを過ぎているこの時、時も萬物、すべてが香しい香りに包まれる。
長江のような大河もその源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないものでうねっている。周の国の勢いは商の国を流し立派な宮殿とし今日の禊ぎとして流れた。
この例祭に、禊と水神を祭ることは備わっている、やがて夕方の宴に変わっていき音楽も終わってゆく。
(訳注) 三月三日侍宴西池 詩
(三月三日侍して西池に宴す)
三月三日の西池「臨水の会」に参列しての詩
○三月三日 いわゆる行楽の季節である。謝霊運の時代をさかのぼること100年、三国時代の魏および西晋の襄陽の刺史であった山簡が、襄陽の高陽池で行楽を行った。字は季倫。父親は竹林の七賢の一人、山濤。別名「山翁」「山公」。李白『襄陽歌』『襄陽曲四首』『秋浦の詩十七首』また、漢の時代より前、古代から、3月最初の巳の日に行われていた伝統行事に「曲水の会」がある。水辺の大祓い行事として雪解け水が流れ始め、水量を増す川、池、湖、川が雪解けで水量を増す頃には、水辺の掃除をするというものである。渡水(着物の裾をちょっとだけ水に濡らす)、酒を川に流す、といったような形になって伝わっていくのである。また、棗や卵を川に投げ込んで神に捧げる風習もあったと記載されている。つまり、禊と水神を祭るということ。それが魏の時代に3月3日に行われるようになったとされるが、謝霊運の時代には書物での確認はできなかったのである。
そして王朝の宮中では、「臨水の会」、「曲水の会」と形を変えていく。水辺で行う春の禊祓い祭事が陽気さそわれ、酒宴となった。唐の時代には帷を張り巡らせて、行われるようになる。
詳観記牒,鴻荒莫博。
(詳しく記牒【きろく】を観るに、鴻荒【むかし】は伝うる莫【な】し。)
詳しく調べてみたが、その記録に三月三日と特定されたものはない。大昔からこの日ということで伝えられたわけではないが、奇数日が重なっているので縁起のいいものなのでやり始めたのだろう。
○鴻荒 大昔。太古。
降及雲鳥,日聖則天。
(降【くだ】りて雲と鳥とに及び、曰【い】わく聖は天に則ると。)
この日には雲竜や鳳凰が降りてくるに及び、聖心は天子の心に法則としている。
虞承唐命,周襲商艱。
(虞【ぐ】は唐の命を承け、周は商の艱【かん】を襲う。)
虞(舜)王は唐(堯)王の命を承け、周というくには商という国の艱難を引き継いだ。
○虞唐 中国の伝説上の聖天子である陶唐氏(尭(ぎょう))と有虞氏(舜(しゅん))を併せてよぶ名。また、その二人の治めた時代。○衍 余分にあまる。余計な。「衍字・衍文」 2 延び広がる。押し広げる。○商は、紀元前1100年頃に、西の諸侯であった、武王こと、姫発率いる周に滅ぼされます。有名な小説「封神演義」の舞台で、周の軍師・太公望(呂望 異民族の羌族の出身)などが活躍します。三皇五帝、聖人として黄帝・堯・舜。
江之永美,皇心惟眷。
(江は之れ永し、皇心 惟【こ】れ眷【いつく】しむ。)
長江の流れはこれは永遠に美しい、天子のみこころは苔むすほどのうるおいを与えている
矧乃暮春,時物芳衍。
(矧【いわ】んや迺【すなわ】ち 暮春、時物芳衍【はびこ】り)
ましてや春の盛りを過ぎているこの時、時も萬物、すべてが香しい香りに包まれる。
濫觴逶迤,周流蘭殿。
(濫觴【らんしょう】逶迤【ななめ】に、蘭殿に周流し。)
長江のような大河もその源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないものでうねっている。周の国の勢いは商の国を流し立派な宮殿とし今日の禊ぎとして流れた。
○濫觴 《揚子江のような大河も源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないという「荀子」子道にみえる孔子の言葉から》物事の起こり。始まり。起源。○逶迤 (道路,山脈,河川が)うねうねと続く,曲がりくねった。
禮備朝容,楽闋タ宴。
(礼は朝容に備わり、楽は夕宴に闋【や】む)
この例祭に、禊と水神を祭ることは備わっている、やがて夕方の宴に変わっていき音楽も終わってゆく。
この詩は、詩経のような古風な四言古詩で、宴会の楽しさを荘厳に賛えるものである。
『宋書』の本伝では、
高祖長安を伐つ。騏騎将軍道憐 居守し、版して諮議参軍と為す。中書侍郎に転ず。
とある。『宋書』の「武帝紀」によると、義煕十二年〈416〉二月、のちの宋の高祖、すなわち、太尉劉裕は後秦の姚私討伐を謀ることとなり、建康を八月に出発。その留守部隊となった霊運は諮議参軍の役に就いた。この役はすべて庶務的な仕事を相談することである。やがて、これから中書侍郎へと転じたが、これは宮廷の文書をつかさどるのであった。すなわち、霊運は劉裕に随って武功をたてることはできなかった。ただ、「武帝紀」によると、騏騎将軍道憐が留守したのは義煕十一年正月に司馬休之を討つために都を出発したときのことである。当時は中軍将軍であって硫騎将軍ではなかった。高祖は、417年義煕十三年四月に洛陽に、九月には長安に進んで、これを平定、翌年に都に帰ってきた。ところが、謝霊運を陰に陽にかばってくれた宋国の初代の天子劉裕も永初三年〈422〉三月には病いを得、五月にはついに死亡してしまった。