漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
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どうぞよろしくお願いします。

李白に影響の詩 謝霊雲

入東道路詩 謝霊運(康楽) 詩<44#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩431 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1110

入東道路詩 謝霊運(康楽) 詩<44#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩431 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1110


謝霊運が懐かしい都を出て、再び隠遁のため故郷始寧に向かうときの感情を歌ったものである。朝早く旅立ちをするのが当時の習いであったが、ちょうど大風の吹いている日であった。それも、向かい風で歩きにくいものであった。しかし、出発の日は清明節、陽暦の四月五日または六日にあたるが、旅立つにはきわめて縁起のよい日であった。再び都に来たが、無念にも、再び故郷に隠遁しに帰る謝霊運の心情は、さぞかし感慨無量なものがあったと思う。


入東道路詩(東の道路に入るの詩)#1
整駕辭金門.命旅惟詰朝.
懷居顧歸雲.指塗泝行飆.
屬值清明節.榮華感和韶.
陵隰繁綠杞.墟囿粲紅桃.
#2
鷕鷕翬方雊.纖纖麥垂苗.
オスの雉の鳴き声はきょうきょうと今まさに啼いている。しょうしょうと麥は作物栽培の畑に植え付けた苗は育ち垂れている。
隱軫邑里密.緬邈江海遼.
春の盛りの村里は春の息吹がひそかに進んでいる。はるかに遠い江河と東海がはるかにある。
滿目皆古事.心賞貴所高.
目に見えるかぎりのものすべて皆故事にかかわるものだ。そして、それは心に賞賛するものでと音いことは高い志を持ち続けることである。
魯連謝千金.延州權去朝.
魯中連は千金をもってしても高節を守って誰にも仕えず、春秋時代の呉の季札は清廉賢哲を以って知られ朝、固辞して朝立ち去った。
行路既經見.願言寄吟謠.

人生の行路は既に、経験してわかってきた、、願うことなら、詩にして吟じたり、民用にして語り伝えたい。



(東の道路に入るの詩)
駕を整えて金門を辞す、旅を命ず惟【こ】れ 詰朝【きつちょう】。
居を懐かしみ帰る雲を顧みる、塗を指し飆【おおかぜ】に泝【さかのぼ】り 行く。
属【たまた】ま 清明【せいめい】の節に値【あ】う、栄華 感じて韶【しょう】に和す。
陵隰【りょうしつ】に繁れる緑の杞【き】、墟園【きょえん】に粲【さん】たる紅桃【こうとう】。
#2
鷕鷕【えいえい】として翬【きじ】は方に雊【な】く、纖纖【せんせん】として麦は苗に垂る。
隱軫【いんしん】として邑里は密、緬邈【めんばく】として江海 遼かなり。
満目 皆な古事、心の賞するは高き所を貴ぶ。
魯連【ろれん】は千金を謝し、延州は権【かり】に朝を去る。
行路 既に見を経たり、願わくは言 吟謡に寄せんことを。


現代語訳と訳註
(本文) #2

鷕鷕翬方雊.纖纖麥垂苗.
隱軫邑里密.緬邈江海遼.
滿目皆古事.心賞貴所高.
魯連謝千金.延州權去朝.
行路既經見.願言寄吟謠.


(下し文)#2
鷕鷕【えいえい】として翬【きじ】は方に雊【な】く、纖纖【せんせん】として麦は苗に垂る。
隱軫【いんしん】として邑里 密かに、緬邈【めんばく】として江海 遼かなり。
満目 皆な古事、心の賞するは高き所を貴ぶ。
魯連【ろれん】は千金を謝し、延州は権【かり】に朝を去る。
行路 既に見を経たり、願わくは言 吟謡に寄せんことを。
 

(現代語訳)#2
オスの雉の鳴き声はきょうきょうと今まさに啼いている。しょうしょうと麥は作物栽培の畑に植え付けた苗は育ち垂れている。
春の盛りの村里は春の息吹がひそかに進んでいる。はるかに遠い江河と東海がはるかにある。
目に見えるかぎりのものすべて皆故事にかかわるものだ。そして、それは心に賞賛するものでと音いことは高い志を持ち続けることである。
魯中連は千金をもってしても高節を守って誰にも仕えず、春秋時代の呉の季札は清廉賢哲を以って知られ朝、固辞して朝立ち去った。
人生の行路は既に、経験してわかってきた、、願うことなら、詩にして吟じたり、民用にして語り伝えたい。


(訳注)#2
鷕鷕翬方雊.纖纖麥垂苗.

鷕鷕【きょうきょう】として翬【きじ】は方に雊【な】く、纖纖【せんせん】として麦は苗に垂る。
オスの雉の鳴き声はきょうきょうと今まさに啼いている。しょうしょうと麥は作物栽培の畑に植え付けた苗は育ち垂れている。
鷕鷕 オスの雉の鳴き声のさま。・ 作物栽培や植林を行う場合に畑や林地に植えつける若い植物を苗


軫邑里密.緬邈江海遼.
隱軫【いんしん】として邑里 密かに、緬邈【めんばく】として江海 遼かなり。
春の盛りの村里は春の息吹がひそかに進んでいる。はるかに遠い江河と東海がはるかにある。
・隱 さかんなさま。・緬邈 1 はるかに遠い。「緬邈(めんばく)」 2 細く長い糸。


滿目皆古事.心賞貴所高.
満目 皆な古事、心の賞するは高き所を貴ぶ。
目に見えるかぎりのものすべて皆故事にかかわるものだ。そして、それは心に賞賛するものでと音いことは高い志を持ち続けることである。
満目 見わたすかぎり。目に見えるかぎり。


魯連謝千金.延州權去朝.
魯連【ろれん】は千金を謝し、延州は権【かり】に朝を去る。
魯中連は千金をもってしても高節を守って誰にも仕えず、春秋時代の呉の季札は清廉賢哲を以って知られ朝、固辞して朝立ち去った。
魯連 魯仲連(約西元前305年~西元前245年)戦国時代の斉の雄弁家。高節を守って誰にも仕えず、諸国を遊歴した。生没年未詳。魯連。・延州 季札(きさつ、生没年不詳)は、中国春秋時代の呉で活躍した政治家。姓は姫。呉の初代王寿夢の少子。清廉賢哲を以って知られ、延陵の季子として知られる。


行路既經見.願言寄吟謠.
行路 既に見を経たり、願わくは言 吟謡に寄せんことを。
人生の行路は既に、経験してわかってきた、、願うことなら、詩にして吟じたり、民用にして語り伝えたい。




延州權去朝.兄弟相続・末子相続の風習を儒教的な美談をいう。
春秋呉王寿夢は息子のうち賢人として名高い季札を跡継ぎとしたいと思ったが、季札は兄を差し置いて王位に即くことを拒み、野に下った。それでも諦め切れなかった寿夢は、死に際して季札に後を継がせるように遺言したので長子の諸樊は季札の元へ赴いて王位につくことを願ったが、季札はまたしてもこれを拒んだ。そこで季札以外の兄弟たちは相談して王位を兄弟で継承していくことにし、ひとまず諸樊が王位に即いた。
諸樊の死後、次子余祭は季札に即位を願ったが季札はこれを拒んだ。そこで余祭はせめて領内の一都市の治世を担当してもらうように望み、季札もこれを断りきれず延陵の地に封ぜられた。季札はこの地を見事に治め、この後季札は延陵の季子と呼ばれるようになる。
その後、三男余昧の死後、またしても使者が季札の元を訪れて王位に就くことを願ったが、季札はまたしてもこれを拒み、王位は結局余昧の子である僚[2]へと継承された。これを不服に思った諸樊の子の光が呉王僚を殺して闔閭として即位すると、呉は最盛期を迎えて春秋五覇の一国に数えられるまでになった。

入東道路詩 謝霊運(康楽) 詩<44#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩430 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1107

入東道路詩 謝霊運(康楽) 詩<44#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩430 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1107
(東の道路に入るの詩)


謝霊運の行動に対しては、始寧の田舎に隠遁していたのに、急に都に呼びよせられ、謝霊運は不満であっても、他からみれば高い位を与えられ、常に天子の宴会などでは詩文の才をもてはやされたことは、一方では快く思わなかった人も多くした。それは、諫言、讒言とされた。こうして、文帝のこの温かい思いやりも謝霊運には普通なら静かに故郷に帰って謹慎をしているべきであったが、暇はでき、金はある、食物も豊かであり、そのうえ、名酒のあるところで、毎日毎日、気ままな生活をした。そこで自己の不満をだれかれとなくぶちまけていたことが、都に届いた。謝霊運の反対派によい口実を与える結果になった。遠く都の建康まで、誇張されて伝えられた。ついに、御史中丞の樽隆の進言でその官位を退かねはならなくなったのは、428年元嘉五年、謝霊運四十四歳のときである。再任してからおよそ三年めのことであった。
この時、作った作に、「東の道路に入るの詩」がある。従游京口北固應詔詩は都に来た時の詩であるがこの詩と比較しても面白い。


入東道路詩 #1
都を出て東の始寧に向かう道路に入る。
整駕辭金門.命旅惟詰朝.
御車用の馬を整えて金馬門を辞して城郭を出る。この旅を命じられたのは昨日でこの朝、旅立てということであった。
懷居顧歸雲.指塗泝行飆.
都の居宅を懐かしみながら帰りに向かう雲を顧みた。道を目指していき始めると春の大風が向かい風となる。
屬值清明節.榮華感和韶.
時節は姓名節であり、旅立つには最適の時節である。春の宮廷の栄華を祝う詔楽の音楽はこの旅立に合わせてくれる感じである。
陵隰繁綠杞.墟囿粲紅桃.

丘や窪地の湿地などに緑のクコの木が広がり、村落の農地、庭園に赤く桃の花が咲き誇る。
#2
鷕鷕翬方雊.纖纖麥垂苗.
隱軫邑里密.緬邈江海遼.
滿目皆古事.心賞貴所高.
魯連謝千金.延州權去朝.
行路既經見.願言寄吟謠.


(東の道路に入るの詩)
駕を整えて金門を辞す、旅を命ず惟【こ】れ 詰朝【きつちょう】。
居を懐かしみ帰る雲を顧みる、塗を指し飆【おおかぜ】に泝【さかのぼ】り 行く。
属【たまた】ま 清明【せいめい】の節に値【あ】う、栄華 感じて韶【しょう】に和す。
陵隰【りょうしつ】に繁れる緑の杞【き】、墟園【きょえん】に粲【さん】たる紅桃【こうとう】。
#2
鷕鷕【えいえい】として翬【きじ】は方に雊【な】く、纖纖【せんせん】として麦は苗に垂る。
隱軫【いんしん】として邑里は密、緬邈【めんばく】として江海 遼かなり。
満目 皆な古事、心の賞するは高き所を貴ぶ。
魯連【ろれん】は千金を謝し、延州は権【かり】に朝を去る。
行路 既に見を経たり、願わくは言 吟謡に寄せんことを。


現代語訳と訳註
(本文)
#1
入東道路詩
整駕辭金門.命旅惟詰朝.
懷居顧歸雲.指塗泝行飆.
屬值清明節.榮華感和韶.
陵隰繁綠杞.墟囿粲紅桃.


(下し文)
(東の道路に入るの詩)
駕を整えて金門を辞す、旅を命ず惟【こ】れ 詰朝【きつちょう】。
居を懐かしみ帰る雲を顧みる、塗を指し飆【おおかぜ】に泝【さかのぼ】り 行く。
属【たまた】ま 清明【せいめい】の節に値【あ】う、栄華 感じて韶【しょう】に和す。
陵隰【りょうしつ】に繁れる緑の杞【き】、墟園【きょえん】に粲【さん】たる紅桃【こうとう】。


(現代語訳)
都を出て東の始寧に向かう道路に入る。
御車用の馬を整えて金馬門を辞して城郭を出る。この旅を命じられたのは昨日でこの朝、旅立てということであった。
都の居宅を懐かしみながら帰りに向かう雲を顧みた。道を目指していき始めると春の大風が向かい風となる。
時節は姓名節であり、旅立つには最適の時節である。春の宮廷の栄華を祝う詔楽の音楽はこの旅立に合わせてくれる感じである。
丘や窪地の湿地などに緑のクコの木が広がり、村落の農地、庭園に赤く桃の花が咲き誇る。


(訳注) #1
入東道路詩

(東の道路に入るの詩)
都を出て東の始寧に向かう道路に入る。


整駕辭金門.命旅惟詰朝.
駕を整えて金門を辞す、旅を命ず惟【こ】れ 詰朝【きつちょう】。
御車用の馬を整えて金馬門を辞して城郭を出る。この旅を命じられたのは昨日でこの朝、旅立てということであった。
金門 金馬門:漢代の未央宮(びおうきゅう)の門の一。側臣が出仕して下問を待つ所。金馬。金門。・詰朝 明日の明方、明旦。


懷居顧歸雲.指塗泝行飆.
居を懐かしみ帰る雲を顧みる、塗を指し飆【おおかぜ】に泝【さかのぼ】り 行く。
都の居宅を懐かしみながら帰りに向かう雲を顧みた。道を目指していき始めると春の大風が向かい風となる。


屬值清明節.榮華感和韶.
属【たまた】ま 清明【せいめい】の節に値【あ】う、栄華 感じて韶【しょう】に和す。
時節は姓名節であり、旅立つには最適の時節である。春の宮廷の栄華を祝う詔楽の音楽はこの旅立に合わせてくれる感じである。
清明節 、二十四節気の第5。三月節(旧暦2月後半 - 3月前半)。現在広まっている定気法では太陽黄経が15度のときで4月5日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から7/24年(約106.53日)後で4月7日ごろ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の穀雨前日までである。・韶(楽) 古来より中国の宮廷に伝わる音楽。その音はあるいは勇ましくあるいは寂しく溜息がもれるという。


陵隰繁綠杞.墟囿粲紅桃.
陵隈【りょうわい】に繁れる緑の杞【き】、墟囿【きょゆう】に粲【さん】たる紅桃【こうとう】。
丘や窪地の湿地などに緑のクコの木が広がり、村落の農地、庭園に赤く桃の花が咲き誇る。
陵隰 山陵和低湿之地。陵隰相望。・綠杞 クコ・墟囿 おか、村落の農地。庭園の迹。墟は丘。囿は庭、庭園。御苑のような庭園。従遊京口北固應詔 #1
玉璽誡誠信、黄屋示崇高。事為名教用、道以神理超。
昔聞汾水遊、今見塵外鑣。鳴笳發春渚、税鑾登山椒。
張組眺倒景、列筵矚歸潮。遠巌映蘭薄、白日麗江皐。
原濕荑縁柳、墟囿散紅桃。皇心美陽澤、萬象咸光昭。
顧己枉維縶、撫志慙場苗。工拙各所宜、終以返林巣。
曾是縈舊想、覽物奏長謡。

斎中讀書 謝霊運<32>#1 詩集 409  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1044

斎中讀書 謝霊運<32>#1 詩集 409  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1044


斎中讀書
心を落ち着く郡府の書斎で読書する。
昔余遊京華、未嘗廢邱壑。
昔、私は帝都の文化、物量の華やかなところに遊んだ時でも、丘や谷のある山中に隠棲して優遊自適の生活をしたいという望みを棄てたことはない。
矧乃歸山川、心跡兩寂漠。
それなのに、まして山川の住居に帰ったのだからなおさらのことで、心も行為も両方ともに静かに澄み切って暮らしてしる。
虚館絶諍訟、空庭來鳥雀。
がらんとした公館には、喧嘩や訴訟などまったく絶え、人もいない庭には鳥や雀が遊びに来る。
臥疾豐暇豫、翰墨時間作。』

病に臥してからは、暇や楽しみがかえって多く心豊かになると、詩文、文章なども時を多くとって作ってみる。
懐抱觀古今、寢食展戯謔。
既笑沮溺苦、又哂子雲閣。
執戟亦以疲、耕稼豈云樂。
萬事難竝歓、達生幸可託。』

斎中に書を読む
昔、余【われ】京華【けいか】に遊べども、未だ嘗て邱堅【きゅうがく】を廢【す】てざりき。
矧【いわん】や乃ち山川に歸るをや、心跡【しんせき】兩【ふたつ】ながら寂漠【せきばく】たり。
虚館【きょかん】諍訟【そうしょう】絶え、空庭【くうてい】鳥雀【ちょうじゃく】來る。
疾に臥して暇豫【かよ】豐かに、翰墨【かんぼく】時に間【ま】ま作る。』

#2

懐抱【かいほう】に古今を觀て、寝食に戯謔【ぎぎゃく】を展【の】ぶ。
既に沮溺【そでき】の苦を笑ひ、又子雲の閣を哂【わら】ふ。
執戟【しつげき】も亦以に疲る。耕稼【こうか】壹云【ここ】に樂しまんや。
萬事竝【なら】びに歓び難し、達生【たっせい】幸に託す可し。


現代語訳と訳註
(本文)
斎中讀書
昔余遊京華、未嘗廢邱壑。
矧乃歸山川、心跡兩寂漠。
虚館絶諍訟、空庭來鳥雀。
臥疾豐暇豫、翰墨時間作。』

(下し文) 斎中に書を読む
昔、余【われ】京華【けいか】に遊べども、未だ嘗て邱堅【きゅうがく】を廢【す】てざりき。
矧【いわん】や乃ち山川に歸るをや、心跡【しんせき】兩【ふたつ】ながら寂漠【せきばく】たり。
虚館【きょかん】諍訟【そうしょう】絶え、空庭【くうてい】鳥雀【ちょうじゃく】來る。
疾に臥して暇豫【かよ】豐かに、翰墨【かんぼく】時に間【ま】ま作る。


(現代語訳)
心を落ち着く郡府の書斎で読書する。
昔、私は帝都の文化、物量の華やかなところに遊んだ時でも、丘や谷のある山中に隠棲して優遊自適の生活をしたいという望みを棄てたことはない。
それなのに、まして山川の住居に帰ったのだからなおさらのことで、心も行為も両方ともに静かに澄み切って暮らしてしる。
がらんとした公館には、喧嘩や訴訟などまったく絶え、人もいない庭には鳥や雀が遊びに来る。
病に臥してからは、暇や楽しみがかえって多く心豊かになると、詩文、文章なども時を多くとって作ってみる。


(訳注) 斎中讀書
心を落ち着く郡府の書斎で読書する。
 永嘉郡府の書斎。心を斎え静める室を斎という。


昔余遊京華、未嘗廢邱壑。
昔、私は帝都の文化、物量の華やかなところに遊んだ時でも、丘や谷のある山中に隠棲して優遊自適の生活をしたいという望みを棄てたことはない。
京華 帝都の文化、物量の華やかなところ。○邱壑 丘や谷。


矧乃歸山川、心跡兩寂漠。
それなのに、まして山川の住居に帰ったのだからなおさらのことで、心も行為も両方ともに静かに澄み切って暮らしてしる。
○心跡 心と身の行ない。○寂漠 静かに出来事もない無の境地にある。楚辞に「野寂漢として、其れ人無し」と。謝霊運の好きな言葉である。


虚館絶諍訟、空庭來鳥雀。
がらんとした公館には、喧嘩や訴訟などまったく絶え、人もいない庭には鳥や雀が遊びに来る。
○諍訟 喧嘩や訴訟。


臥疾豐暇豫、翰墨時間作。』
病に臥してからは、暇や楽しみがかえって多く心豊かになると、詩文、文章なども時を多くとって作ってみる。
暇豫 暇や楽しみ○翰墨 詩文、文章。

過白岸亭 謝靈運<24>#2 詩集394 紀頌之 漢詩ブログ997

過白岸亭 謝霊運 <24>#2 詩集394 紀頌之 漢詩ブログ997


霊運はこの春には、永嘉江をさかのぼり、楠渓の西南にあった白岸亨に遊んでいる。この事は永嘉から八十七里(50km)も離れたところにあり、岸辺の砂が、白砂でとても美しかった。ここで歌ったものに「過白岸亭」(白岸亭を過ぐ)がある。
a謝霊運永嘉ルート02

過白岸亭
拂衣遵沙垣。緩步入蓬屋。
近澗涓密石。遠山映疏木。
空翠難強名。漁釣易為曲。
援蘿臨青崖。春心自相屬。』
交交止栩黃。呦呦食萍鹿。
コウコウと飛び交っていたちいさな黄色カラ鶯がなつめの木に止まっている、ヨウヨウと啼いていた鹿が蓬を食べている。
傷彼人百哀。嘉爾承筐樂。
鳥でさえ、鹿でさえそうなのに人生に傷ついた人間にとって数えきれない哀しみがある、しかし幸いなことに浄土教との出会い樂経を承ることができたことにある。
榮悴迭去來。窮通成休慽。
官僚として栄えることと貶められ悩むことが互いにやって来た。痛快にしごとができること窮めることは悩みおそれることを成すことなのである。
未若長疏散。萬事恆抱朴。』

いまだに長期的に疎んじられ離れてそのままになっている。万事に対して常に隠棲したい気持ちを持ち続けることである。

(白岸亭を過ぐ)#1
衣を払い沙の垣に遵【したが】い、歩を緩【ゆる】くして蓬屋【ほうおく】に入る。
近くの澗【たに】や涓【ちいさいながれ】は石を密にし、遠くの山は疎【まば】らなる木に映【は】ゆ。
空翠は強いて名づけ難く、漁釣の曲を為し易し。
蘿【ら】を援【ひ】きて青き崖【きし】に臨み、春の心は自【おのず】から相い属【つら】なる。
#2
交交【こうこう】として栩【くぬぎ】に黄は止まり、呦呦【ようよう】として萍【よもぎ】を食らう鹿。
傷つきたる彼【か】の人 百哀し、嘉爾【さいわい】には筐楽【きょうらく】を承【う】く。
栄えと悴【なや】みとは迭【たが】いに去来し、窮と通とは休【よろこ】びと慽【うれ】いを成す。
未だ長き疎散に若【し】かず、万事 恒【つね】に朴を抱く。


現代語訳と訳註
(本文)

過白岸亭
拂衣遵沙垣。緩步入蓬屋。
近澗涓密石。遠山映疏木。
空翠難強名。漁釣易為曲。
援蘿臨青崖。春心自相屬。』

(下し文) #2
交交【こうこう】として栩【くぬぎ】に黄は止まり、呦呦【ようよう】として萍【よもぎ】を食らう鹿。
傷つきたる彼【か】の人 百哀し、嘉爾【さいわい】には筐楽【きょうらく】を承【う】く。
栄えと悴【なや】みとは迭【たが】いに去来し、窮と通とは休【よろこ】びと慽【うれ】いを成す。
未だ長き疎散に若【し】かず、万事 恒【つね】に朴を抱く。


(現代語訳)
コウコウと飛び交っていたちいさな黄色カラ鶯がなつめの木に止まっている、ヨウヨウと啼いていた鹿が蓬を食べている。
鳥でさえ、鹿でさえそうなのに人生に傷ついた人間にとって数えきれない哀しみがある、しかし幸いなことに浄土教との出会い樂経を承ることができたことにある。
官僚として栄えることと貶められ悩むことが互いにやって来た。痛快にしごとができること窮めることは悩みおそれることを成すことなのである。
いまだに長期的に疎んじられ離れてそのままになっている。万事に対して常に隠棲したい気持ちを持ち続けることである。


(訳注)
交交止栩黃。呦呦食萍鹿。

コウコウと飛び交っていたちいさな黄色カラ鶯がなつめの木に止まっている、ヨウヨウと啼いていた鹿が蓬を食べている。
交交 詩経、秦風『黄鳥』「交交黄鳥、止于棗。」(交交たる黄鳥、棗【なつめ】に止まる。)ちいさなカラ鶯がなつめの木に止まっている。―鳥でさえその生命を楽しんでいる。○呦呦 鹿の啼く声。悲しい声。『詩経小雅』「「呦呦鹿鳴、食野之萍。」(呦呦たる鹿鳴、野の萍を食う。)


傷彼人百哀。嘉爾承筐樂。
鳥でさえ、鹿でさえそうなのに人生に傷ついた人間にとって数えきれない哀しみがある、しかし幸いなことに浄土教との出会い樂経を承ることができたことにある。
筐樂 『詩経‧小雅‧鹿鳴』「我有嘉賓, 鼓瑟吹笙。 吹笙鼓簧, 承筐是將。」(我嘉賓有り,瑟を鼓し笙を吹く。笙を吹く簧を鼓ち,筐を承けて是將く。)承筐は賓客を歡迎する。ここでは六経の一つ樂経を承ることをいう。浄土教との出会いをいう。


榮悴迭去來。窮通成休慽。
官僚として栄えることと貶められ悩むことが互いにやって来た。痛快にしごとができること窮めることは悩みおそれることを成すことなのである。
榮悴 茂り栄えることと痩せ疲れること。栄枯盛衰。○窮通 困窮と栄達。貧困と立身出世。奥底まで通ずること。○ 悩み怕こと


未若長疏散。萬事恆抱朴。』
いまだに長期的に疎んじられ離れてそのままになっている。万事に対して常に隠棲したい気持ちを持ち続けることである。
疏散 疎んじられ離れる。○ わすれる○抱朴 生れながらの純朴な性格。『老子、十九』「見素抱朴、少私寡欲。」・朴:素朴。はなれる。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<10> 隴西行 詩集 369

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<10> 隴西行 詩集 369


隴西行 
昔在老子、至理成篇。
むかし、老子がいらっしゃいました。まことにもっともな道理をまとめられた。
柱小傾大、綆短絶泉。
能力の小さいものに大きな責任を持たせる時危険は増大する。井戸にある釣瓶が短ければ水をくむことに事欠く。
鳥之棲遊、林檀是閑。
鳥が棲み遊んでいるとしても檀の木で森ができているなら鳥は木が固くにおいのために棲むことができず静かなものであろう。
韶楽牢膳、豈伊攸便。
舜帝が作ったといわれる音楽を麗しく奏で、太牢の大御馳走があるならば、どうしてこれでくつろぎ安らぎのきもちにならずにおられようか。
胡爲乖枉、従表方圓。
どういうわけか無実の罪に貶められたとしても、天子の天と地の法則にはしたがわざるを得ないだろう。
耿耿僚志、慊慊丘園。
役所の仕事というもの官僚について心が安らかではない。思うところは不満なことが多い、できることなら、隠棲したいものだ。
善謌以詠、言理成篇。
そんなことで、気に入った詩歌でもって吟じていたい。真理をいうことによって詩篇を編成したいのだ。


(隴西行)
昔 老子在り、至理 篇を成す。
柱は小 傾は大、梗【つるべのなわ】は短く絶えたる泉に。
鳥は之れ棲み遊ぶ、林せる檀【せんだん】は是れ閑【しずか】。
韶【しょう】の楽は牢膳【ろうぜん】、豈伊【こ】れ便【くつろぎ】を攸【おさ】む。
胡【なん】すれぞ 乖枉【かいおう】を為せる、方円を表わすに従う。
耿耿【やすらか】なる僚志、慊慊【けんけん】たる丘園。
善く謌【うた】い以って詠ず、理を言いて篇を成す。



現代語訳と訳註
(本文)
  隴西行
昔在老子、至理成篇。
柱小傾大、綆短絶泉。
鳥之棲遊、林檀是閑。
韶楽牢膳、豈伊攸便。
胡爲乖枉、従表方圓。
耿耿僚志、慊慊丘園。
善謌以詠、言理成篇。

(下し文) (隴西行)
昔 老子在り、至理 篇を成す。
柱は小 傾は大、梗【つるべのなわ】は短く絶えたる泉に。
鳥は之れ棲み遊ぶ、林せる檀【せんだん】は是れ閑【しずか】。
韶【しょう】の楽は牢膳【ろうぜん】、豈伊【こ】れ便【くつろぎ】を攸【おさ】む。
胡【なん】すれぞ 乖枉【かいおう】を為せる、方円を表わすに従う。
耿耿【やすらか】なる僚志、慊慊【けんけん】たる丘園。
善く謌【うた】い以って詠ず、理を言いて篇を成す。

(現代語訳)
むかし、老子がいらっしゃいました。まことにもっともな道理をまとめられた。
能力の小さいものに大きな責任を持たせる時危険は増大する。井戸にある釣瓶が短ければ水をくむことに事欠く。
鳥が棲み遊んでいるとしても檀の木で森ができているなら鳥は木が固くにおいのために棲むことができず静かなものであろう。
舜帝が作ったといわれる音楽を麗しく奏で、太牢の大御馳走があるならば、どうしてこれでくつろぎ安らぎのきもちにならずにおられようか。
どういうわけか無実の罪に貶められたとしても、天子の天と地の法則にはしたがわざるを得ないだろう。
役所の仕事というもの官僚について心が安らかではない。思うところは不満なことが多い、できることなら、隠棲したいものだ。
そんなことで、気に入った詩歌でもって吟じていたい。真理をいうことによって詩篇を編成したいのだ。


(訳注)
昔在老子、至理成篇。
むかし、老子がいらっしゃいました。まことにもっともな道理をまとめられた。
至理 まことにもっともな道理。至極 (しごく) の道理。


柱小傾大、綆短絶泉。
能力の小さいものに大きな責任を持たせる時危険は増大する。井戸にある釣瓶が短ければ水をくむことに事欠く。
柱小傾大 喻指能力小者承擔重任必出危險。


鳥之棲遊、林檀是閑。
鳥が棲み遊んでいるとしても檀の木で森ができているなら鳥は木が固くにおいのために棲むことができず静かなものであろう。
 固い木で、巣作りが難しく、エサになる虫が巣くっていない。


韶楽牢膳、豈伊攸便。
舜帝が作ったといわれる音楽を麗しく奏で、太牢の大御馳走があるならば、どうしてこれでくつろぎ安らぎのきもちにならずにおられようか。
牢膳:「以太牢為膳食」以って太牢 膳食と為す。太牢:まつりに牛・羊・豚の三性が備わること。大御馳走。『老子、二十』「衆人は熙熙として、如く享たるが太牢を如し春登るが臺に、」(衆人は熙熙として、太牢を享たるが如く、春臺に登るが如し。)


胡爲乖枉、従表方圓。
どういうわけか無実の罪に貶められたとしても、天子の天と地の法則にはしたがわざるを得ないだろう。
乖枉 そむきわかれる。乖そむく。よこしまな枉枉げる。まがった人。無実の罪。方円 天と地。『孟子、離婁上』「離婁之明、公輸子之功、不以規矩、不能成方円。孟子曰:規矩方円之至也。」(離婁之明、公輸子之功も、規矩を以ってせざれば方円を成す能はざる。孟子曰く規矩は方円之至り也。)


耿耿僚志、慊慊丘園。
役所の仕事というもの官僚について心が安らかではない。思うところは不満なことが多い、できることなら、隠棲したいものだ。
耿耿 光が明るく輝くさま。気にかかることがあって、心が安らかでないさま。○僚志 同僚。下役。志を同じくするもの。○慊慊 あきたらず思うさま。不満足なさま。○丘園 山野。小高い丘にある花畑。転じて、隠棲の場所をいう。


善謌以詠、言理成篇。
そんなことで、気に入った詩歌でもって吟じていたい。真理をいうことによって詩篇を編成したいのだ。



射霊運のこの詩は、老荘への煩斜の一つとして、楽府の「階西行」でる。実によく『老子』の哲理を簡にして要領よくとらえて歌っているのは、字句を老子を引用して構成され、よほど『老子』を熟読していたのであろうと思う。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<9> 述祖徳詩 二首(3)其二 #2 詩集 368

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<9> 述祖徳詩 二首(3)其二 #2 詩集 368


(3)述祖徳詩 二首 其二 #1
中原昔喪亂,喪亂豈解已。崩騰永嘉末,逼迫太元始。
河外無反正,江介有蹙圮。萬邦咸震懾,橫流賴君子。
拯溺由道情,龕暴資神理。」
#2
秦趙欣來蘇,燕魏遲文軌。
泰や趙の国では祖父が来て暴君を討てば、殷の湯王が来たように、民は生き返るであろうと喜び、燕や魏の民は周の文王の車が来るのを待ちこがれるように、祖父の救済を願った。
賢相謝世運,遠圖因事止。
このように天下を平定することに尽くしたけれども、徳すぐれた宰相謝安が世を去り、深遠な謀は事件のためにやめられた。
高揖七州外,拂衣五湖裏。
そうして、祖父は晋が支配した天下七州の外に、高く俗世をのがれて辞し去り、衣の座を払って瓦湖のほとりに潔く隠退した。
隨山疏濬潭,傍巖蓺枌梓。
そして山に随って深い潭を切り開き、大岩の傍に枌【にれ】や梓の木を植えて終焉の地とさだめたのだ。
遺情捨塵物,貞觀丘壑美。」
俗世の塵の世で役人として着た衣冠などの物を捨てさる、これらのことをすべて忘れてしまい、丘や谷の美しい景色を正しく眺め暮らしたのであった。


中原 昔 喪亂【そうらん】,喪亂豈解【と】け已【や】まんや。
永嘉の末に崩騰【ほうとう】し,太元の始に逼迫【ひょくはく】す。
河外【かがい】に反正無く,江介【こうかい】に蹙圮【しゅくひ】有り。
萬邦【ばんぽう】咸【みな】震【ふる】い懾【おそ】れ,橫流【おうりゅう】君子に賴【よ】る。
溺を拯【すく】うて道情に由り,暴に龕【か】ちて神理に資【と】る。」
秦趙【しんちょう】は来らば蘇【よみがえ】らんと欣【よろこ】び、燕魏【えんぎ】は文軌【ぶんき】を遲【ま】つ。
賢相【けんそう】世運【せいうん】謝【しゃ】し,遠圖【えんと】事に因【よ】りて止【や】む。
七州の外【ほか】に高揖【こういう】し,衣を五湖の裏【うち】に拂う。
山に隨って濬潭【しゅんたん】を疏【うが】ち,巖【いわお】に傍【そ】いて枌梓【ふんし】を蓺【う】う。
情を遺【わす】れて塵物【じんぶつ】を捨て,貞【ただ】しく丘壑【きゅうがく】の美を觀る。」


現代語訳と訳註
(本文)  述祖徳詩 二首
 其二 #2
秦趙欣來蘇,燕魏遲文軌。
賢相謝世運,遠圖因事止。
高揖七州外,拂衣五湖裏。
隨山疏濬潭,傍巖蓺枌梓。
遺情捨塵物,貞觀丘壑美。」


(下し文) #2
秦趙【しんちょう】は来らば蘇【よみがえ】らんと欣【よろこ】び、燕魏【えんぎ】は文軌【ぶんき】を遲【ま】つ。
賢相【けんそう】世運【せいうん】謝【しゃ】し,遠圖【えんと】事に因【よ】りて止【や】む。
七州の外【ほか】に高揖【こういう】し,衣を五湖の裏【うち】に拂う。
山に隨って濬潭【しゅんたん】を疏【うが】ち,巖【いわお】に傍【そ】いて枌梓【ふんし】を蓺【う】う。
情を遺【わす】れて塵物【じんぶつ】を捨て,貞【ただ】しく丘壑【きゅうがく】の美を觀る。」


(現代語訳)
泰や趙の国では祖父が来て暴君を討てば、殷の湯王が来たように、民は生き返るであろうと喜び、燕や魏の民は周の文王の車が来るのを待ちこがれるように、祖父の救済を願った。
このように天下を平定することに尽くしたけれども、徳すぐれた宰相謝安が世を去り、深遠な謀は事件のためにやめられた。
そうして、祖父は晋が支配した天下七州の外に、高く俗世をのがれて辞し去り、衣の座を払って瓦湖のほとりに潔く隠退した。
そして山に随って深い潭を切り開き、大岩の傍に枌【にれ】や梓の木を植えて終焉の地とさだめたのだ。
俗世の塵の世で役人として着た衣冠などの物を捨てさる、これらのことをすべて忘れてしまい、丘や谷の美しい景色を正しく眺め暮らしたのであった。

miyajima 681

(訳注)
秦趙欣來蘇,燕魏遲文軌。

泰や趙の国では祖父が来て暴君を討てば、殷の湯王が来たように、民は生き返るであろうと喜び、燕や魏の民は周の文王の車が来るのを待ちこがれるように、祖父の救済を願った。
○秦趙欣来蘇 秦や起の国では、祖父謝玄か来て暴君を討てぱ、生き返るであろうと欣ぶ。『書経仲虺之誥』「予が后を俟つ、后来らば其れ蘇らん」と。夏の民が殷の湯王を欣び迎えた語。○遲文軌 周の文王の車のわだちが及ぶのを待つ。文王か救済に来るのを待つ。


賢相謝世運,遠圖因事止。
このように天下を平定することに尽くしたけれども、徳すぐれた宰相謝安が世を去り、深遠な謀は事件のためにやめられた。
賢相 謝安李白『憶東山二首其二』「我今攜謝妓。 長嘯絕人群。欲報東山客。 開關掃白云。」(我 今 謝妓を攜え。 長嘯して 人群を絕つ。東山の客に報わんと欲っす。關を開いて 白云を掃く。)晉の時代の謝安は、あざなを安石といい、四十歳になるまで浙江省の東山という山にこもって、ゆうゆうと寝てくらし、朝廷のお召しに応じなかった。当時の人びとは寄ると彼のうわさをした。「安石が出てこないと、人民はどうなるんだ」。時期が来るまで、待っている賢者というものは、一喜一憂しない。敵を油断させる方法にも幾通りもある。ここに言う「芸妓を携えて」というのは、国外のみならず国内にも敵がおり、国を建てなおすにも相手の状況の分析を行い、時機が到来して立ち上がったのであるが、東山に白雲堂、明月堂のあとがあり、山上よりの眺めは絶景だという。薔薇洞というのは、かれが妓女をつれて宴をもよおした所といわれ、妓女と酒を飲んで時期を待っていたことを言う。謝安について李白『送裴十八図南歸嵩山其二』「謝公終一起、相與済蒼生。」とあり、送裴十八図南歸嵩山 其二 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白164。○謝世運 時世の進展から去る。世を去る。


高揖七州外,拂衣五湖裏。
そうして、祖父は晋が支配した天下七州の外に、高く俗世をのがれて辞し去り、衣の座を払って瓦湖のほとりに潔く隠退した。
七州 中国全土九州うち七州。○高揖 高く超越して俗世を謝絶する。揖は両手を胸に組んでする会釈。
払衣五湖裏 五湖は太瑚の別名。茫蟸 のように、太湖の中に衣の俗塵を振って帰隠する。


隨山疏濬潭,傍巖蓺枌梓。
そして山に随って深い潭を切り開き、大岩の傍に枌【にれ】や梓の木を植えて終焉の地とさだめたのだ。
濬潭 深い淵。○枌梓 にれとあずさ。墳墓に植える。


遺情捨塵物,貞觀丘壑美。
俗世の塵の世で役人として着た衣冠などの物を捨てさる、これらのことをすべて忘れてしまい、丘や谷の美しい景色を正しく眺め暮らしたのであった。
塵物 汚れた物。役人の衣冠等。○ 正。



このように具体的にその徳を歌う。この詩が謝霊運の何歳の作かは明らかでない。昭明太子は『文選』の巻十九の「述徳」にも名作として引用し、謝霊運の子孫と称する唐の詩僧皎然もその著『詩式』にこれを名吟の一つとして高く評価している。身分制度の身で社会が構成されていく時代にあり、こうした先祖の表現法の重要性は高まったはずで、手本とされるものになったのである。

この時代、どこで生まれたのか、どんな血族に生まれたかによって、人生は決められるのである。謝霊運は、この偉大な祖父を背負うのであるからスタート地点が、誰よりも良い所にある。よいものは、心の誇りであり、手本にするというより、先祖の築き上げたものを崩壊させなければ、絶対に失敗はないのである。謝霊運はちがった。祖父を凌ぐ働きがしたかったのである。そして、たぐいまれなその要素を備えていたということなのである。難をいえば、良すぎたのである。これが、政治家でなく、学問、詩文の部分だけなら、どんなに卓越していても、全く問題はないが、政治、権力、統治ということになるとバランス感覚がないといけない。いわゆる腹芸も必要になってくる。

恵まれた家に生まれ、抜群の才能を持っていることでうまくいかないのである。貴族の中に無能力の権力者が大半なのである。

この詩に見るように、家系、先祖の功績は、何かにつけて謝霊運に影響を与えた。謝霊運の母の家系も祖父が王羲之であった。女性の文盲率が九割を超える時代にあって、母が知識人であったことは、謝霊運の詩人としての能力は、両方の地を受けついだものであった。
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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<9> 述祖徳詩 二首(3)其二 詩集 367

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<9> 述祖徳詩 二首(3)其二 詩集 367

謝霊運にとって、祖父は偉大な人で、心の誇りであり、手本であった。子孫は、その偉大さに萎縮するか、これを凌ぐことを夢見るかであるが、はたして、謝霊運の行動から祖父を凌ぐ功績をあげたかったということである。


(3)述祖徳詩 二首 其二 #1
中原昔喪亂,喪亂豈解已。
天下の中央の地、洛陽地域は昔、戦乱と滅亡していたが、その戦乱と滅亡はどうして治まり、終わることがあったろうか。
崩騰永嘉末,逼迫太元始。
永嘉の年号の末に崩れ乱れ、太元の始めに北方異民族に押し迫られた。
河外無反正,江介有蹙圮。
黄河の南に、河南地方は正常に立ちかえることなく、長江の流域まで敵に迫られ、打ち破られた晉国かあった。
萬邦咸震懾,橫流賴君子。
あらゆる国、皆が震い恐れていて、天下は洪水の道なく溢れ流れるような禍を、成徳の人であるわか祖父のカによって免れようと願った。
拯溺由道情,龕暴資神理。」
祖父は世の禍乱に溺れる民を道理にかなった真実の心によって救い、乱暴な異民族の賊軍に打ち勝つのに、不可思議にもすぐれた条理を取り用いたのである

秦趙欣來蘇,燕魏遲文軌。
賢相謝世運,遠圖因事止。
高揖七州外,拂衣五湖裏。
隨山疏濬潭,傍巖蓺枌梓。
遺情捨塵物,貞觀丘壑美。」

中原 昔 喪亂【そうらん】,喪亂豈解【と】け已【や】まんや。
永嘉の末に崩騰【ほうとう】し,太元の始に逼迫【ひょくはく】す。
河外【かがい】に反正無く,江介【こうかい】に蹙圮【しゅくひ】有り。
萬邦【ばんぽう】咸【みな】震【ふる】い懾【おそ】れ,橫流【おうりゅう】君子に賴【よ】る。
溺を拯【すく】うて道情に由り,暴に龕【か】ちて神理に資【と】る。」
秦趙【しんちょう】は来らば蘇【よみがえ】らんと欣【よろこ】び、燕魏【えんぎ】は文軌【ぶんき】を遲【ま】つ。
賢相【けんそう】世運【せいうん】謝【しゃ】し,遠圖【えんと】事に因【よ】りて止【や】む。
七州の外【ほか】に高揖【こういう】し,衣を五湖の裏【うち】に拂う。
山に隨って濬潭【しゅんたん】を疏【うが】ち,巖【いわお】に傍【そ】いて枌梓【ふんし】を蓺【う】う。
情を遺【わす】れて塵物【じんぶつ】を捨て,貞【ただ】しく丘壑【きゅうがく】の美を觀る。」



現代語訳と訳註
(本文)
述祖徳詩
 二首 其二 #1
中原昔喪亂,喪亂豈解已。
崩騰永嘉末,逼迫太元始。
河外無反正,江介有蹙圮。
萬邦咸震懾,橫流賴君子。
拯溺由道情,龕暴資神理。」

(下し文)
中原 昔 喪亂【そうらん】,喪亂豈解【と】け已【や】まんや。
永嘉の末に崩騰【ほうとう】し,太元の始に逼迫【ひょくはく】す。
河外【かがい】に反正無く,江介【こうかい】に蹙圮【しゅくひ】有り。
萬邦【ばんぽう】咸【みな】震【ふる】い懾【おそ】れ,橫流【おうりゅう】君子に賴【よ】る。
溺を拯【すく】うて道情に由り,暴に龕【か】ちて神理に資【と】る。」

(現代語訳)
天下の中央の地、洛陽地域は昔、戦乱と滅亡していたが、その戦乱と滅亡はどうして治まり、終わることがあったろうか。
永嘉の年号の末に崩れ乱れ、太元の始めに北方異民族に押し迫られた。
黄河の南に、河南地方は正常に立ちかえることなく、長江の流域まで敵に迫られ、打ち破られた晉国かあった。
あらゆる国、皆が震い恐れていて、天下は洪水の道なく溢れ流れるような禍を、成徳の人であるわか祖父のカによって免れようと願った。
祖父は世の禍乱に溺れる民を道理にかなった真実の心によって救い、乱暴な異民族の賊軍に打ち勝つのに、不可思議にもすぐれた条理を取り用いたのである。


(訳注)
中原昔喪亂,喪亂豈解已。

天下の中央の地、洛陽地域は昔、戦乱と滅亡していたが、その戦乱と滅亡はどうして治まり、終わることがあったろうか。
中原 中華文化の発祥地である黄河中下流域にある平原のこと。狭義では春秋戦国時代に周の王都があった現在の河南省一帯を指していたが、後に漢民族の勢力拡大によって広く黄河中下流域を指すようになった。 ○喪亂 死亡と戦乱。土地を失い人民が離散すること。戦乱と滅亡。『詩経、小雅、常様』「喪亂既平、既安且寧。」(喪亂既に平ぎ、既に安く且つ寧し。)○解已 治まりやむこと。


崩騰永嘉末,逼迫太元始。
永嘉の年号の末に崩れ乱れ、太元の始めに北方異民族に押し迫られた。
崩騰 崩れ乱れる。○永嘉 西晋の懐帝の時の年号。307―313年○逼迫 北方(・西方)の異民族による侵略、戦乱。○太元 孝武帝の年号。東晉385-396の年

晋265-420

河外無反正,江介有蹙圮。
黄河の南に、河南地方は正常に立ちかえることなく、長江の流域まで敵に迫られ、打ち破られた晉国かあった。
河外 黄河の南、河南地方。○反正 たちかえる。○江介 長江の流域、介は界に同じ。楚辞に「江介の遺風をかなしむ。」と。○蹙圮。蹙は迫られる。圮は破れる。迫られ破られた国。ここでは晉国をいう。


萬邦咸震懾,橫流賴君子。
あらゆる国、皆が震い恐れていて、天下は洪水の道なく溢れ流れるような禍を、成徳の人であるわか祖父のカによって免れようと願った。
萬邦 あらゆる国。万国。『書経、堯典』「百姓昭明、協和萬邦。」(百姓昭明にして、萬邦を協和す。)橫流 ○君子 祖父を指す。


拯溺由道情,龕暴資神理。」
祖父は世の禍乱に溺れる民を道理にかなった真実の心によって救い、乱暴な異民族の賊軍に打ち勝つのに、不可思議にもすぐれた条理を取り用いたのである。
拯溺 溺乱に溺れ萱しむ民を救う。 ○道情 道は万象の奥にある良実の道。情は偽りない眞實の心。荘子に「道に情有り、信有り」と。○龕暴 異民族による侵略に打ち勝つ。○ よりどころ。たすける。もたらす。とる。もちいる。○神理 不思議な働きのある真理。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<8> 述祖徳詩 二首(2)其一#2 詩集 366

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<8> 述祖徳詩 二首(2)其一#2 詩集 366

(祖の徳を述べる詩 二首 其の一 の2回目)


(2)述祖徳詩 二首 其一#2

述祖徳詩 二首 其一#1
達人貴自我、高情蜀天雲。
兼抱済物性、而不纓垢氛。
段生藩魏國、展季救魯人。
弦高犒晋師、仲連却秦軍。
臨組乍不緤、對珪寧肯分。
#2
恵物辭所賞、勵志故絶人。
これら節義の士は、物に恩恵を施しても、それを賞められるのを辞退し、志をつとめはげんで、ことさらに衆人との関係を絶ったのである。
苕苕歴千載、遙遙播清塵。
その名は超然として遠く千年を歴【へ】て伝えられ、その人の清らかな行迹【ぎょうせき】の影響、感化は、はるかに広がり及んでいる。
清塵竟誰嗣、明哲垂經綸。
この清き行為のあとをいったい誰が受け継いでいるのであろうか。それは、わが祖父謝玄は明らかな智慧があって国を洽める才能を世に示しておいてくれた
委講輟道論、改服康世屯。
そして学問の講究を捨て、道理の議論をやめ、服を改めて武装して世の難儀を平穏なものにして行った。
屯難既云康、尊主隆斯民。
こうして世の危難はここに安寧なものになった。そこで祖父は君主を尊びこの国の人民を栄えさせたのであった。

#1
達人は自我を貴【たっと】び、高情【こうじょう】天雲に屬す。
兼ねて物を救うの性を抱き、而かも垢氛【こうふん】に纓【かか】らず。
段生【だんせい】は魏國に蕃【まがき】となり、展季【てんき】は魯人を救へり。
弦高【げんこう】は晉の師を犒【ねぎら】ひ、仲連【ちゅうれん】は秦の軍を却【しりぞ】く。
組に臨んで乍【たちま】ち緤【つな】がれず、珪【けい】に對して寧【なん】そ肯【あえ】て分【わか】たれん。
#2
物を恵【めぐ】んで賞する所を辭し、志【こころざし】を勵【つと】めて故【ことさら】に人に絶つ。
苕苕【ちょうちょう】として千載を歴【へ】、遙遙【ようよう】として清塵【せいじん】を播【し】く。
清塵【せいじん】竟に誰か嗣【つ】がん、明哲【めいてつ】経綸【けいりん】を垂【た】る。
講を委【い】して道論【どうろん】を輟【や】め、服を改めて世屯【せいちゅん】を康【やす】んず。
屯難【ちゅんなん】既に云【こと】に康【やす】し。主を尊【たっと】んで斯の民を隆【さかん】にす。


現代語訳と訳註
(本文)
(第一首#2)
恵物辭所賞、勵志故絶人。
苕苕歴千載、遙遙播清塵。
清塵竟誰嗣、明哲垂經綸。
委講輟道論、改服康世屯。
屯難既云康、尊主隆斯民。

(下し文) #2
物を恵【めぐ】んで賞する所を辭し、志【こころざし】を勵【つと】めて故【ことさら】に人に絶つ。
苕苕【ちょうちょう】として千載を歴【へ】、遙遙【ようよう】として清塵【せいじん】を播【し】く。
清塵【せいじん】竟に誰か嗣【つ】がん、明哲【めいてつ】経綸【けいりん】を垂【た】る。
講を委【い】して道論【どうろん】を輟【や】め、服を改めて世屯【せいちゅん】を康【やす】んず。
屯難【ちゅんなん】既に云【こと】に康【やす】し。主を尊【たっと】んで斯の民を隆【さかん】にす。


(現代語訳)
これら節義の士は、物に恩恵を施しても、それを賞められるのを辞退し、志をつとめはげんで、ことさらに衆人との関係を絶ったのである。
その名は超然として遠く千年を歴【へ】て伝えられ、その人の清らかな行迹【ぎょうせき】の影響、感化は、はるかに広がり及んでいる。
この清き行為のあとをいったい誰が受け継いでいるのであろうか。それは、わが祖父謝玄は明らかな智慧があって国を洽める才能を世に示しておいてくれた
そして学問の講究を捨て、道理の議論をやめ、服を改めて武装して世の難儀を平穏なものにして行った。
こうして世の危難はここに安寧なものになった。そこで祖父は君主を尊びこの国の人民を栄えさせたのであった。


訳注)#2
恵物辭所賞、勵志故絶人。

これら節義の士は、物に恩恵を施しても、それを賞められるのを辞退し、志をつとめはげんで、ことさらに衆人との関係を絶ったのである。
恵物 物に恩恵をあたえる○辭 辞退○所賞、そのことを賞せられるところ。○勵志 志をつとめはげむ。○ 知人、衆人○絶人 自分のために人との関係を絶つ。


苕苕歴千載、遙遙播清塵。
その名は超然として遠く千年を歴【へ】て伝えられ、その人の清らかな行迹【ぎょうせき】の影響、感化は、はるかに広がり及んでいる。
苕苕 高いさま。超然。○清座 清らかな行為。墜は(車の土埃)。影響感化。・明哲 明らかにさとい人。


清塵竟誰嗣、明哲垂經綸。
この清き行為のあとをいったい誰が受け継いでいるのであろうか。それは、わが祖父謝玄は明らかな智慧があって国を洽める才能を世に示しておいてくれた。
垂経綸 国を治める才能を世に示す。垂は示す。


委講綴道論、改服康世屯。
そして学問の講究を捨て、道理の議論をやめ、服を改めて武装して世の難儀を平穏なものにして行った。
委講 書物勉学のみを全てとする講義研究をすてる。○綴道論 道理についてのみの教条的な議論をやめる。実践の伴わない、掛け離れた「道」の実の議論を辞める。○改服 九品位、身分制度の確立、納税の公平性、府兵制の導入、などの様々な改革。○世屯 世運の滞り、国がうまく行かないこと。国難。


屯難既云康、尊主隆斯民。
こうして世の危難はここに安寧なものになった。そこで祖父は君主を尊びこの国の人民を栄えさせたのであった。 


このように具体的にその徳を歌う。この詩が謝霊運の何歳の作かは明らかでない。昭明太子は『文選』の巻十九の「述徳」にも名作として引用し、謝霊運の子孫と称する唐の詩僧皎然もその著『詩式』にこれを名吟の一つとして高く評価している。身分制度の身で社会が構成されていく時代にあり、こうした先祖の表現法の重要性は高まったはずで、手本とされるものになったのである。

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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<8> 述祖徳詩 二首(2)其一 詩集 365

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<8> 述祖徳詩 二首(2)其一 詩集 365
(謝霊運 祖の徳を述べる詩 二首 其の一 の1回目)

(2)述祖徳詩 二首 其一 


述祖徳詩 二首 其一#1
達人貴自我、高情蜀天雲。
物の道理に通じている人は物を軽んじ自分を大切にし、その高い心持は天空の雲に届き所属しているのだ。
兼抱済物性、而不纓垢氛。
それにあわせて万物を救済する心がありながら、世俗のけがれた空気にまとわれることがない。
段生藩魏國、展季救魯人。
段干木は魏の国を守る大垣根の役となり、柳下恵は魯の人々を救った。
弦高犒晋師、仲連却秦軍。
弦高は晉国へ行くと称する秦の軍に出会い、牛12頭差出し、慰労するといってこれを留めて、泰の来襲を鄭に知らせた。秦が趙を囲んだ時に、魏の使いが秦の昭王を尊んで帝と称するように趙に説いたが、魯仲連は責めてその使いを帰らせ、これを聞いた秦の車を十五里も退かせた。
臨組乍不緤、對珪寧肯分。

彼は印綬の組み紐の飾りを目の前に示された時でも、その官職か受けて、それで身をつながれて自由を失うようなことはなく、封爵の沙汰があり、そのしるしの珪角のある玉に面と向かいあっても、領地を分け与えられることをどうして承諾することがあったろうか。
#2
恵物辭所賞、勵志故絶人。
苕苕歴千載、遙遙播清塵。
清塵竟誰嗣、明哲垂經綸。
委講輟道論、改服康世屯。
屯難既云康、尊主隆斯民。

#1
達人は自我を貴【たっと】び、高情【こうじょう】天雲に屬す。
兼ねて物を救うの性を抱き、而かも垢氛【こうふん】に纓【かか】らず。
段生【だんせい】は魏國に蕃【まがき】となり、展季【てんき】は魯人を救へり。
弦高【げんこう】は晉の師を犒【ねぎら】ひ、仲連【ちゅうれん】は秦の軍を却【しりぞ】く。
組に臨んで乍【たちま】ち緤【つな】がれず、珪【けい】に對して寧【なん】そ肯【あえ】て分【わか】たれん。

#2
物を恵【めぐ】んで賞する所を辭し、志【こころざし】を勵【つと】めて故【ことさら】に人に絶つ。
苕苕【ちょうちょう】として千載を歴【へ】、遙遙【ようよう】として清塵【せいじん】を播【し】く。
清塵【せいじん】竟に誰か嗣【つ】がん、明哲【めいてつ】経綸【けいりん】を垂【た】る。
講を委【い】して道論【どうろん】を輟【や】め、服を改めて世屯【せいちゅん】を康【やす】んず。
屯難【ちゅんなん】既に云【こと】に康【やす】し。主を尊【たっと】んで斯の民を隆【さかん】にす。



現代語訳と訳註
(本文) 述祖徳詩 二首 其一
#1
達人貴自我、高情蜀天雲。
兼抱済物性、而不纓垢氛。
段生藩魏國、展季救魯人。
弦高犒晉師、仲連却秦軍。
臨組乍不緤、對珪寧肯分。

(下し文) #1
達人は自我を貴【たっと】び、高情【こうじょう】天雲に屬す。
兼ねて物を救うの性を抱き、而かも垢氛【こうふん】に纓【かか】らず。
段生【だんせい】は魏國に蕃【まがき】となり、展季【てんき】は魯人を救へり。
弦高【げんこう】は晉の師を犒【ねぎら】ひ、仲連【ちゅうれん】は秦の軍を却【しりぞ】く。
組に臨んで乍【たちま】ち緤【つな】がれず、珪【けい】に對して寧【なん】そ肯【あえ】て分【わか】たれん。


(現代語訳)
物の道理に通じている人は物を軽んじ自分を大切にし、その高い心持は天空の雲に届き所属しているのだ。
それにあわせて万物を救済する心がありながら、世俗のけがれた空気にまとわれることがない。
段干木は魏の国を守る大垣根の役となり、柳下恵は魯の人々を救った。
弦高は晉国へ行くと称する秦の軍に出会い、牛12頭差出し、慰労するといってこれを留めて、泰の来襲を鄭に知らせた。秦が趙を囲んだ時に、魏の使いが秦の昭王を尊んで帝と称するように趙に説いたが、魯仲連は責めてその使いを帰らせ、これを聞いた秦の車を十五里も退かせた。
彼は印綬の組み紐の飾りを目の前に示された時でも、その官職か受けて、それで身をつながれて自由を失うようなことはなく、封爵の沙汰があり、そのしるしの珪角のある玉に面と向かいあっても、領地を分け与えられることをどうして承諾することがあったろうか。


(訳注)
達人貴自我、高情屬天雲。

物の道理に通じている人は物を軽んじ自分を大切にし、その高い心持は天空の雲に届き所属しているのだ。


兼抱済物性、而不纓垢氛。
それにあわせて万物を救済する心がありながら、世俗のけがれた空気にまとわれることがない。
垢氛【こうふん】 俗の汚れた空気、俗気。 


段生蕃魏國、展季救魯人。
段干木は魏の国を守る大垣根の役となり、柳下恵は魯の人々を救った。
段生 段干木。戦国魏の賢者。生没年不明。段干は魏の地名で,それを姓とした。田子方,呉起らとともに,孔門十哲の一人子夏に師事したが,同門の諸士と異なり仕官を好まず,仕官を勧めに訪れた魏の文侯(在位,前445‐前396)を避けて牆(かきね)を乗り越えて逃れたという逸話がある。文侯は終始その賢者なる徳をたたえ,彼の住む村の門前を通り過ぎる際には必ず車上に身を伏せて敬意を表したという。一説に,彼は仲買を生業としていた,ともある。○ まがき。藩に同じ。魏国を守る大垣根。・展季 柳下恵。柳下恵の用語解説 - 中国、周代の魯(ろ)の賢者。本名、展禽。字(あざな)は季。柳下に住み、恵と諡(おくりな)されたことによる名。魯の大夫・裁判官となり、直道を守って君に仕えたことで知られる。生没年未詳。


弦高犒晋師、仲連却秦軍。
弦高は晉国へ行くと称する秦の軍に出会い、牛12頭差出し、慰労するといってこれを留めて、泰の来襲を鄭に知らせた。秦が趙を囲んだ時に、魏の使いが秦の昭王を尊んで帝と称するように趙に説いたが、魯仲連は責めてその使いを帰らせ、これを聞いた秦の車を十五里も退かせた。
弦高 春秋の鄭の商人。道で来襲する秦兵に遭遇、詐りねぎらって、急を鄭に知らせて備えさせた(左伝逍公三十三年)。 春秋鄭國商人弦高。 秦師將侵鄭, 適高入周經商, 遇秦師於滑。 高以牛十二, 謂奉鄭君之命犒師。 秦師以為鄭國有備, 滅滑而還。 事見《左傳‧僖公三十三年。○仲連 魯仲連。戦国時代の斉の雄弁家。高節を守って誰にも仕えず、諸国を遊歴した。生没年未詳。魯連。秦が趙を囲んだ時、魏の使いが秦の昭王を尊んで帝と称するように趙に説いた。仲連時に趙にいて、使いを責めて帰し、秦軍をして恐れて十五里退かせた。田単が斉の王に申し上げて爵を賜わろうとしたが、仲連は海辺の地に逃がれた。戦国時代の斉の国の人で、義侠の士として有名である。伝記は「史記」の列伝に見える。つね日ごろ、人とはちがった大志を抱き、仕官せず職にもつかなかった。たまたま趙の国に遊んでいた時、紀元前二四七年、秦の軍隊が趙の邯鄲(いまの河北省にある)を包囲した。魯仲連は、秦に降伏することに断乎反対して、題の平原君を助けた。同時に、魏の国の王子信陵君もまた、兵を率いて秦を攻撃したので、秦は退却し、趙は救われた。郡部の包囲が解かれたのち、平原君は魯仲連に領地を与えようとした。魯仲連は辞退した。平原君はそこで千金をおくろうとした。魯仲連は笑って言った。「天下に貴ばれる士たる者は、人のために患を排し、難をとき、紛乱を解して、しかも何も受取らないものです。もしも報酬を受取るなら、それは商人です。」何も受け取らないで立去り、生涯ふたたび現われなかった。李白『古風五十九首 其十』


臨組乍不緤、對珪寧肯分。
彼は印綬の組み紐の飾りを目の前に示された時でも、その官職か受けて、それで身をつながれて自由を失うようなことはなく、封爵の沙汰があり、そのしるしの珪角のある玉に面と向かいあっても、領地を分け与えられることをどうして承諾することがあったろうか。
臨組 官職の印綬のくみひもを目前に見る。○乍不練 そんな時でもその組紐につながれない。官職に束縛されない。○対珪 珪(角ある玉)印に面しても。珪は爵封の印章。○寧肯分 どうして封土を分ち賜うのを受けようか。


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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<7>  述祖徳詩 二首(1)序 詩集 364

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<7>  述祖徳詩 二首(1)序 詩集 364

(祖の徳を述べる詩 二首 序文 )

述祖徳詩 二首(1)序
謝霊運の先祖は『南史、謝霊運傳』「謝霊運は安西将軍奕の曾孫にして、方明の従子なり」と記されいる。「奕の曾孫」つまりひまごに当たり、「方明の従子」とは彼の甥に当たることになる。この奕については『晋書』の四十九に略伝があり、当時、政治家として活躍していた人で、経済的にも、知識的にもすぐれた要素をもっていた。当時の社会の最も重要な血縁、門閥について謝霊運は最も恵まれていた。そして、誇り高い人であった。


沈約は『宋書』の本伝で、「祖の玄は晋の車騎将軍」と、その祖父より筆を起こしている。「車騎将軍」とは、各地に反乱があったとき、その征伐を司る将軍で、漢の文帝がこの役を定めて以後あったものである。この玄の伝記については『晋書』の本伝に詳しい。特に「少くして薪悟、従兄の期と供に叔父安の器重する所と為る」と記されているのをみると、非常に頭脳明噺であったらしい。

謝霊運はよほど、この祖父、玄について自慢であったらしく、「山居賦」の自注でも、また、「祖徳を述ぶる詩」でも、その徳をたたえてはばからない。

沈約(しんやく)441年 - 513年 南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。

述祖徳詩 二首
序曰、太元中、王父龕定淮南。
序にいう。晋の太元(376-396)という年号の間に、祖父謝玄は淮水の南、淝水の戦いに前秦の苻堅に勝って乱を定めた。
負荷世業、尊主隆人。
世々伝えられた仕事として治世の任を引きうけて、君主を尊び人民をさかえさせた。
逮賢相徂謝、君子道消、
しかし徳のすぐれた宰相が死に去り、君主の正しい道が衰えるようになって、
拂衣蕃岳、考ト東山、
諸侯としての任地、会楷の山に衣を振って塵を払い、去って志を潔くして隠居し、亀の甲を焼いてうらないを考え住まいを東山に定めて、
事同樂生之時、志期范蟸之擧。
昔楽毅が燕の昭王のために斉の七十余城か攻め落としたと同じ事栗をしながら、志は越王句践のために呉を滅した後は、五湖に舟を浮かべて行くえをくらまし、優遊自適の生活をした范蠡のような行ないをしたいと願ったのである。

序に曰く、大元中(376-396)王父 准南【わいなん】を龕【かち】定め、世業を負荷【うけつ】ぎ、主を尊び人を隆んにせり。賢相【けんそう】徂【ゆ】き謝【しゃ】して、君子の道消ゆるに逮【およ】ぶ。衣を蕃岳【ばんがく】に払い、ト【ぼく】を東山に考へ。事は楽生の時に同じくし、【こころざし】は范蟸【はんれい】の擧に期す。

miyajima 709330


現代語訳と訳註
(本文)
述祖徳詩 二首
序曰、
太元中、王父龕定淮南。
負荷世業、尊主隆人。
逮賢相徂謝、君子道消、
拂衣蕃岳、考ト東山、
事同樂生之時、志期范蟸之擧。


(下し文)
序に曰く、大元中(376-396)王父 准南【わいなん】を龕【かち】定め、世業を負荷【うけつ】ぎ、主を尊び人を隆んにせり。賢相【けんそう】徂【ゆ】き謝【しゃ】して、君子の道消ゆるに逮【およ】ぶ。衣を蕃岳【ばんがく】に払い、ト【ぼく】を東山に考へ。事は楽生の時に同じくし、【こころざし】は范蟸【はんれい】の擧に期す。


(現代語訳)
序にいう。晋の太元(376-396)という年号の間に、祖父謝玄は淮水の南、淝水の戦いに前秦の苻堅に勝って乱を定めた。
世々伝えられた仕事として治世の任を引きうけて、君主を尊び人民をさかえさせた。
しかし徳のすぐれた宰相が死に去り、君主の正しい道が衰えるようになって、
諸侯としての任地、会楷の山に衣を振って塵を払い、去って志を潔くして隠居し、亀の甲を焼いてうらないを考え住まいを東山に定めて、
昔楽毅が燕の昭王のために斉の七十余城か攻め落としたと同じ事栗をしながら、志は越王句践のために呉を滅した後は、五湖に舟を浮かべて行くえをくらまし、優遊自適の生活をした范蠡のような行ないをしたいと願ったのである。


(訳注)
序曰、太元中、王父龕定淮南。

序に曰く、大元中(376-396)王父 准南【わいなん】を龕【かち】定め、
序にいう。晋の太元(376-396)という年号の間に、祖父謝玄は淮水の南、淝水の戦いに前秦の苻堅に勝って乱を定めた。
○述祖徳 祖父謝玄の徳か述べる詩。○太元 東晋の武帝の年号(376-396)。 ○王父 租父。父の亡父。王は尊称。 ○ 勝つの意味。○淮南 淮水がの南。淝水の戦(383)。


負荷世業、尊主隆人。
世業を負荷【うけつ】ぎ、主を尊び人を隆んにせり。
世々伝えられた仕事として治世の任を引きうけて、君主を尊び人民をさかえさせた。
負荷 任を引きうける。○隆人 人民を栄えさせる。 


逮賢相徂謝、君子道消、
賢相【けんそう】徂【ゆ】き謝【しゃ】して、君子の道消ゆるに逮【およ】ぶ。
しかし徳のすぐれた宰相が死に去り、君主の正しい道が衰えるようになって、
道消 『易経、天地否』「小人道長、君子道消」(小人は道長じ、君子は道消するなり)」とあり、君子の道が消えることをいう。これに基づいている。


拂衣蕃岳、考ト東山
衣を蕃岳【ばんがく】に払い、ト【ぼく】を東山に考へ。
諸侯としての任地、会楷の山に衣を振って塵を払い、去って志を潔くして隠居し、亀の甲を焼いてうらないを考え住まいを東山に定めて、

払衣 衣の俗塵を払い故郷に帰り隠居すること。 ○蕃岳 藩岳、潘岳(はんがく) 247年 - 300年西晋時代の文人。字は安仁。中牟(河南省)の人。陸機と並んで西晋時代を代表する文人。また友人の夏侯湛と「連璧」と称されるほど、類稀な美貌の持ち主としても知られている。 『世説新語』によると、潘岳が弾き弓を持って洛陽の道を歩くと、彼に出会った女性はみな手を取り合って彼を取り囲み、彼が車に乗って出かけると、女性達が果物を投げ入れ、帰る頃には車いっぱいになっていたという。潘岳の作る文章は修辞を凝らした繊細かつ美しいもので、特に死を悼む哀傷の詩文を得意とした。 愛妻の死を嘆く名作「悼亡」詩は以降の詩人に大きな影響を与えた。"諸侯。藩屏。ここでは次句の東山に対して任地の山岳、会稽山の意味も兼ねる。○考ト 亀の甲を焼いて割れ目で古凶を考えて、居を定める。卜居のこと。○東山 始寧の東山。会稽郡上虞県にある。謝安が隠居していたところ。
李白は謝安を詠う詩が多くある。
李白『送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈』
「攜妓東山去。 春光半道催。
遙看若桃李。 雙入鏡中開。」
( 姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り。妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。遙(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。)
李白『憶東山二首其二』
「我今攜謝妓。 長嘯絕人群。
欲報東山客。 開關掃白云。」
(我 今 謝妓を攜え。 長嘯して 人群を絕つ。 東山の客に報わんと欲っす。關を開いて 白云を掃く。) 

事同樂生之時、志期范蟸之擧。
事は楽生の時に同じくし、【こころざし】は范蟸【はんれい】の擧に期す。
昔楽毅が燕の昭王のために斉の七十余城か攻め落としたと同じ事栗をしながら、志は越王句践のために呉を滅した後は、五湖に舟を浮かべて行くえをくらまし、優遊自適の生活をした范蠡のような行ないをしたいと願ったのである。
楽生 楽毅。楽 毅(がく き、生没年不明)は、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。楽毅の先祖は魏の文侯に仕えた楽羊であり、楽羊は文侯の命令により中山国(燕と斉と趙が接する所にあった小国。現在の河北省保定市の周辺。)を滅ぼし、その功により中山の首都霊寿に封じられた。子孫はそのまま霊寿に住み着き、その後復興された中山国に仕えたようである。その縁から楽毅も中山国に仕えていたとも言われているが、彼の前歴は今でも明らかになっていない。燕の昭工の卿、紀元前284年に趙・楚・韓・魏・燕五国の兵を率いて斉を伐ち、斉の七十余城を下した。 ○范蟸【はんれい】越玉句践を助げて呉を滅した(前473年)。後范蟸は五湖(太湖)に浮かんで越を去り野に隠れ、名を鴟夷子皮と変えて産を成し、自ら陶の朱公と号した。
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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<6>  従遊京口北固應詔 #2 詩集 362

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<6>  従遊京口北固應詔 #2 詩集 362

従遊京口北固應詔 #1
玉璽誡誠信、黄屋示崇高。事為名教用、道以神理超。
昔聞汾水遊、今見塵外鑣。鳴笳發春渚、税鑾登山椒。
張組眺倒景、列筵矚歸潮。
#2
遠巌映蘭薄、白日麗江皐。
遠い岩は蘭の繁みに映え、輝く日光は大川の岸にうららかに射している。
原濕荑縁柳、墟囿散紅桃。
低くひろがった湿原と草原に緑の柳が芽ぶいている、御苑のような庭園跡には紅の挑がちらほらと咲いている。
皇心美陽澤、萬象咸光昭。
天子は御心に春の陽気の恵みゆたかなのを愛でられ、万物のすがたはことごとく光り輝いている。
顧己枉維縶、撫志慙場苗。
私自身を顧みるにその任ではないのに枉げて用いられて官職に繋がれている、辞任したい志が抑えてなだめながらも、『詩経、小雅、白駒篇』にある白い駒が、農場の苗を喰らって繋がれているように、賢者でもない私が俸禄をはむのがはずかしい。
工拙各所宜、終以返林巣。
ひとは事を処するのに上手と下手があるもので、各々に適する所があるのである。私の決めていることは、究極の道は世俗と離れた山林のすまいに帰りたい。
曾是縈舊想、覽物奏長謡。
さればこそ、まえまえから隠棲したいと思っていることが心にまとわりついてはなれず、ここの佳気漂う万物を覧ると声を長くしてこの詩を謡って天子に申しあげるのである。


(京口の北固【ほくこ】に従遊【じゅうゆう】す、詔に應ず)
玉璽【ぎょくじ】もて誠信【せいしん】を誡【いまし】め、黄屋【こうおく】もて崇高【すいこう】を示す。
事は名教【めいきょう】の為に用ひ、道は神理【しんり】を以て超ゆ。
昔は汾水【ふんすい】の遊を聞ぎ、今は塵外【じんがい】の鑣【ひょう】を見る。
茄を鳴らして春渚【しゅんしょ】を發し、鑾を税【と】いて山椒【さんしょう】に登る。
組を張りて倒景【とうえい】を眺め、筵を列ねて歸潮【きちょう】を矚【み】る。

遠巌【えんがん】は蘭薄【らんはく】に映【えい】じ、白日は江皐【えこう】に麗【うるわ】し。
原濕【げんしゅう】に緑柳【りょくりゅう】荑【きざ】し、墟囿【きょゆう】に紅桃【こうとう】散ず。
皇心【こうしん】陽澤【ようたく】を美とし、萬象【ばんしょう】咸【みな】光昭【こうしょう】す。
己を顧みるに維縶【いちゅう】を枉【ま】げ、志を撫して場苗【じょうびょう】に慙【は】づ。
工拙【こうせつ】は各々宜しき所、終【つい】に以て林巣【りんそう】に返らん。
曾ち是【ここ】に旧想【きゅうそう】に縈【まと】はれ、物を覧て長謡を奏す


謝霊運 285―433、陳郡(河所)陽夏の人。謝玄の孫。晋の時に祖父康楽公の封か襲【つ】いだか、宋に仕えて侯に降された。後に侍中となったが、性質は傲慢、所遇に不満で、それを慰めるために山水に遊んだ。元嘉十年に罪を得て広州比消死し、市にさらされた。年四十九。霊運の詩はやや細工が過ぎるが、山水を写してすぐれている。当時笛一流の詩人で、陶淵明と並び陶謝と称される。

従遊京口北固應詔

現代語訳と訳註
(本文) 
#2
遠巌映蘭薄、白日麗江皐。
原濕荑縁柳、墟囿散紅桃。
皇心美陽澤、萬象咸光昭。
顧己枉維縶、撫志慙場苗。
工拙各所宜、終以返林巣。
曾是縈舊想、覽物奏長謡。

(下し文) #2
遠巌【えんがん】は蘭薄【らんはく】に映【えい】じ、白日は江皐【えこう】に麗【うるわ】し。
原濕【げんしゅう】に緑柳【りょくりゅう】荑【きざ】し、墟囿【きょゆう】に紅桃【こうとう】散ず。
皇心【こうしん】陽澤【ようたく】を美とし、萬象【ばんしょう】咸【みな】光昭【こうしょう】す。
己を顧みるに維縶【いちゅう】を枉【ま】げ、志を撫して場苗【じょうびょう】に慙【は】づ。
工拙【こうせつ】は各々宜しき所、終【つい】に以て林巣【りんそう】に返らん。
曾ち是【ここ】に旧想【きゅうそう】に縈【まと】はれ、物を覧て長謡を奏す。

(現代語訳)
遠い岩は蘭の繁みに映え、輝く日光は大川の岸にうららかに射している。
低くひろがった湿原と草原に緑の柳が芽ぶいている、御苑のような庭園跡には紅の挑がちらほらと咲いている。
天子は御心に春の陽気の恵みゆたかなのを愛でられ、万物のすがたはことごとく光り輝いている。
私自身を顧みるにその任ではないのに枉げて用いられて官職に繋がれている、辞任したい志が抑えてなだめながらも、『詩経、小雅、白駒篇』にある白い駒が、農場の苗を喰らって繋がれているように、賢者でもない私が俸禄をはむのがはずかしい。
ひとは事を処するのに上手と下手があるもので、各々に適する所があるのである。私の決めていることは、究極の道は世俗と離れた山林のすまいに帰りたい。
さればこそ、まえまえから隠棲したいと思っていることが心にまとわりついてはなれず、ここの佳気漂う万物を覧ると声を長くしてこの詩を謡って天子に申しあげるのである。



(訳注)#2
遠巌映蘭薄、白日麗江皐。
遠い岩は蘭の繁みに映え、輝く日光は大川の岸にうららかに射している。
蘭薄 蘭の叢。蘭の花が薄暗く繁みとなっている。○江皐 江岸。 


原濕荑縁柳、墟囿散紅桃。
低くひろがった湿原と草原に緑の柳が芽ぶいている、御苑のような庭園跡には紅の挑がちらほらと咲いている。
 きざす。つぼみが芽吹く。墟囿 庭園の迹。墟は丘。は庭、庭園。御苑のような庭園。


皇心美陽澤、萬象咸光昭。
天子は御心に春の陽気の恵みゆたかなのを愛でられ、万物のすがたはことごとく光り輝いている。
皇心 天子は御心。 ○萬象 万物のかたち。宇宙に存在する、ありとあらゆるもの。


顧己枉維縶、撫志慙場苗。
私自身を顧みるにその任ではないのに枉げて用いられて官職に繋がれている、辞任したい志が抑えてなだめながらも、『詩経、小雅、白駒篇』にある白い駒が、農場の苗を喰らって繋がれているように、賢者でもない私が俸禄をはむのがはずかしい。
枉維繋 「維繋」二宇とも繋ぐ。官位に引き繋ぐことを枉げてする。その任でもないのに別の官職に用いられ、留められることの意。○撫志 平素の志をおさえなだめて。○慙場苗 馬が農場の苗を食うように官禄をはむのを慙じる。『詩経、小雅、白駒篇』に「皎皎たる白馬、我が場苗を食まば、之か繋ぎ之を維【つな】ぎて、以て今朝を永うせん」と。白馬がわが畑の苗を食ってくれるならば、繋いで今朝だかでも永く止めておきたい。賢人の留まるのを願う詩。二君にまみえることを恥じてみせる。
『詩経、小雅、白駒篇』
大夫刺宣王也.
皎皎白駒.食我場苗.縶之維之.以永今朝.所謂伊人.於焉逍遙。
皎皎白駒.食我場藿.縶之維之.以永今夕.所謂伊人.於焉嘉客。
皎皎白駒.賁然來思.爾公爾侯.逸豫無期.慎爾優游.勉爾遁思。
皎皎白駒.在彼空谷.生芻一束.其人如玉.毋金玉爾音.而有遐心。


工拙各所宜、終以返林巣。
ひとは事を処するのに上手と下手があるもので、各々に適する所があるのである。私の決めていることは、究極の道は世俗と離れた山林のすまいに帰りたい。
工拙 上手と下手。巧拙。○返林巣 山林の居に帰りたい。


曾是縈舊想、覽物奏長謡。
さればこそ、まえまえから隠棲したいと思っていることが心にまとわりついてはなれず、ここの佳気漂う万物を覧ると声を長くしてこの詩を謡って天子に申しあげるのである。
 纏と同じ。めぐる。○舊想 まえまえから隠棲したいと思っていること。


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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<6>  従遊京口北固應詔 #1 詩集 362

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<6> 従遊京口北固應詔 #1 詩集 362
(京口の北固【ほくこ】に従遊【じゅうゆう】す、詔に應ず)

418年34歳の作 内容から判断すると「三月三日侍宴西池 詩」と同じころの作であろう。前の年九月、十二月、そしてこの三月のこの詩、謝霊運の一生をみて、劉裕に従遊できる可能性はこのころの一年しかないのである。


従遊京口北固應詔 #1
高祖劉裕に従って京口(丹徒県)の北固山に遊んで、詔に答えて作った詩。
玉璽誡誠信、黄屋示崇高。
天子は佳気の白玉の印をもって人民に誠心誠意と信頼あり約束を守ることを誡め教えられる、天中の黄の練絹の笠蓋を車にかざしては身分崇高で貴いことを示される。
事為名教用、道以神理超。
世を治める基本原則としてこれらの事は世の道徳上の教化のために用いられている、王が国を治められる筋道は、ふしぎな神の力のある道理をもって、はるか遠くこの世にすぐれて存在する。
昔聞汾水遊、今見塵外鑣。
昔は堯帝が汾水の北、藐姑射【ほこや】の山に遊んで四人の仙人と遊んだことを聞いているが、今は天子が塵界を離れ、浮世から離れたこの山に清遊される馬のくつわを目の当たりに見るのである。
鳴笳發春渚、税鑾登山椒。
従者は胡笳の笛を鳴らして行列の先導をして春の猪を出発し、鴬の聲に似た響きの鈴を懸けた御車を止め、山頂に登られる。
張組眺倒景、列筵矚歸潮。
色糸の組紐の飾りある幕を張り、山の上で日月の光が下から射し、影が倒【さかさ】に映る天空を眺め、宴席を敷き列ねて海に帰りゆく潮を見るのである。

#2
遠巌映蘭薄、白日麗江皐。原濕荑縁柳、墟囿散紅桃。
皇心美陽澤、萬象咸光昭。顧己枉維縶、撫志慙場苗。
工拙各所宜、終以返林巣。曾是縈舊想、覽物奏長謡。


(京口の北固【ほくこ】に従遊【じゅうゆう】す、詔に應ず)#1
玉璽【ぎょくじ】もて誠信【せいしん】を誡【いまし】め、黄屋【こうおく】もて崇高【すいこう】を示す。
事は名教【めいきょう】の為に用ひ、道は神理【しんり】を以て超ゆ。
昔は汾水【ふんすい】の遊を聞ぎ、今は塵外【じんがい】の鑣【ひょう】を見る。
茄を鳴らして春渚【しゅんしょ】を發し、鑾を税【と】いて山椒【さんしょう】に登る。
組を張りて倒景【とうえい】を眺め、筵を列ねて歸潮【きちょう】を矚【み】る。

#2
遠巌【えんがん】は蘭薄【らんはく】に映【えい】じ、白日は江皐【えこう】に麗【うるわ】し。
原濕【げんしゅう】に緑柳【りょくりゅう】荑【きざ】し、墟囿【きょゆう】に紅桃【こうとう】散ず。
皇心【こうしん】陽澤【ようたく】を美とし、萬象【ばんしょう】咸【みな】光昭【こうしょう】す。
己を顧みるに維縶【いちゅう】を枉【ま】げ、志を撫して場苗【じょうびょう】に慙【は】づ。
工拙【こうせつ】は各々宜しき所、終【つい】に以て林巣【りんそう】に返らん。
曾ち是【ここ】に旧想【きゅうそう】に縈【まと】はれ、物を覧て長謡を奏す。


謝霊運(385-433)は、その文名は存命中においてははなはだしく著名で、彼が一詩を作ると、都じゅうにただちに知られ、人々の口から口へと愛唱されたと、彼の死後八年たって生まれた宋の沈約(441-513)は、生々しい伝承を、尊敬をこめて『朱書』の本伝に生き生きと記載している。のちに伝記文学の代表的なものとして、『文選』に選ばれ、多くの後世の知識人に愛読された。彼の生涯が奇に満ち、不幸の連続であったこが、恵まれた家柄であったことと悲運な障害というギャップにこそ偉大な文学の生まれた要素である。当時の権力者、支配者にとって、謝霊運の詩文の影響力の大きさは扱いにくいものであった。それだけに謝霊運の評価を下げることに懸命であった。

宮島(3)

現代語訳と訳註
(本文)
従遊京口北固應詔 #1
玉璽誡誠信、黄屋示崇高。
事為名教用、道以神理超。
昔聞汾水遊、今見塵外鑣。
鳴笳發春渚、税鑾登山椒。
張組眺倒景、列筵矚歸潮。


(下し文) (京口の北固【ほくこ】に従遊【じゅうゆう】す、詔に應ず)#1
玉璽【ぎょくじ】もて誠信【せいしん】を誡【いまし】め、黄屋【こうおく】もて崇高【すいこう】を示す。
事は名教【めいきょう】の為に用ひ、道は神理【しんり】を以て超ゆ。
昔は汾水【ふんすい】の遊を聞ぎ、今は塵外【じんがい】の鑣【ひょう】を見る。
茄を鳴らして春渚【しゅんしょ】を發し、鑾を税【と】いて山椒【さんしょう】に登る。
組を張りて倒景【とうえい】を眺め、筵を列ねて歸潮【きちょう】を矚【み】る。


(現代語訳)
高祖劉裕に従って京口(丹徒県)の北固山に遊んで、詔に答えて作った詩。
天子は佳気の白玉の印をもって人民に誠心誠意と信頼あり約束を守ることを誡め教えられる、天中の黄の練絹の笠蓋を車にかざしては身分崇高で貴いことを示される。
世を治める基本原則としてこれらの事は世の道徳上の教化のために用いられている、王が国を治められる筋道は、ふしぎな神の力のある道理をもって、はるか遠くこの世にすぐれて存在する。
昔は堯帝が汾水の北、藐姑射【ほこや】の山に遊んで四人の仙人と遊んだことを聞いているが、今は天子が塵界を離れ、浮世から離れたこの山に清遊される馬のくつわを目の当たりに見るのである。
従者は胡笳の笛を鳴らして行列の先導をして春の猪を出発し、鴬の聲に似た響きの鈴を懸けた御車を止め、山頂に登られる。
色糸の組紐の飾りある幕を張り、山の上で日月の光が下から射し、影が倒【さかさ】に映る天空を眺め、宴席を敷き列ねて海に帰りゆく潮を見るのである。

従遊京口北固應詔

(訳注)
従遊京口北固應詔 

(従遊京口の北固に従遊す、應詔に應ず)
高祖劉裕に従って京口(丹徒県)の北固に遊んで、詔に答えて作った詩。
従遊 宋の高祖劉裕に従って遊ぶ。・京口 江蘇省丹徒県。 ・北固 山名。丹徒県の北一里。長江に入り、三面水に臨む。 ・應詔 詔に答えた作。
 

玉璽誡誠信、黄屋示崇高。
天子は佳気の白玉の印をもって人民に誠心誠意と信頼あり約束を守ることを誡め教えられる、天中の黄の練絹の笠蓋を車にかざしては身分崇高で貴いことを示される。
玉璽 天子の佳気白玉の印。○誡誠信 人を戒しめて誠実と信頼ならしめる。○黄屋 黄色の練絹の傘をかけた、天子の車。


事為名教用、道以神理超。
世を治める基本原則としてこれらの事は世の道徳上の教化のために用いられている、王が国を治められる筋道は、ふしぎな神の力のある道理をもって、はるか遠くこの世にすぐれて存在する。
事為名教用 ・事為は世を治める基本原則をしめす。・名教は、名分と教化の二事は、道徳教化のために行なう.○道以神理超 王が国を治められる筋道は、ふしぎな神の力のある道理をもって、はるか遠くこの世にすぐれて存在する。 
 

昔聞汾水遊、今見塵外鑣。
昔は堯帝が汾水の北、藐姑射【ほこや】の山に遊んで四人の仙人と遊んだことを聞いているが、今は天子が塵界を離れ、浮世から離れたこの山に清遊される馬のくつわを目の当たりに見るのである。
汾水遊 堯帝は汾水の陽【北】、藐姑射【ほこや】の山に遊んで、四人の仙人会った『荘子誼辺遊篇』。汾水は山西省の黄河の支流。○塵外鑣 塵界を離れた清遊、武帝の行幸を指す。鑣は銜(くつわ)。馬車に乗って遊行すること。


鳴笳發春渚、税鑾登山椒。
従者は胡笳の笛を鳴らして行列の先導をして春の猪を出発し、鴬の聲に似た響きの鈴を懸けた御車を止め、山頂に登られる。
 蘆の葉を巻いた笛。後には木で作る。晋以後は天予の行列にも用いた。もと胡人が吹いたので、胡笳という。李白『春夜洛城聞笛』 ○税鑾 鴬の形で、響きもその鳥の声に似た鈴のついた車、鑾輿【らんよ】、すなわち天子の車を休息する。・は解く。放つ。○山椒 山頂。淑は丘。 


張組眺倒景、列筵矚歸潮。
色糸の組紐の飾りある幕を張り、山の上で日月の光が下から射し、影が倒【さかさ】に映る天空を眺め、宴席を敷き列ねて海に帰りゆく潮を見るのである。
張組 組みひもの飾りのある幕を張る。○倒景 倒影に同じ。極めて高い空に日月の光が下からさして、影がさかさに映ること。水面に映る山の倒影とも解する。○帰潮 退潮。 

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<5> 廬陵王墓下作 #3 詩集 361

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<5> 廬陵王墓下作 #3 詩集 361

 貴族文化とも称される南朝文化は、老荘思想が哲学的に特化した玄学と、華美な修辞と対句を特徴とする四六駢儷体をその代表的なものとし、陶淵明・謝霊運らの中国を代表する文化人を輩出した。『文心雕竜』『詩品』『文選』などの評論書も編集され、韻律や修辞の追究は、後代に律詩や絶句の近体詩を成立させた。 又た南北朝ともに仏教が隆盛し、北魏では太武帝の廃仏はあったものの曇曜の再興運動や雲崗・竜門石窟の開削、曇鸞の浄土教創始などがあり、南朝でも格義仏教の盛行や梁武帝の信仰などが知られるが、北朝に於いては護国宗教、南朝に於いてもその哲学性やサンスクリット語の発音・建築様式などの異国情緒が喜ばれた側面が強い。

廬陵王墓下作
曉月發雲陽,落日次朱方。含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
眷言懷君子,沈痛結中腸。道消結憤懣,運開申悲涼。
#2
神期恆若在,德音初不忘。徂謝易永久,松柏森已行。
延州協心許,楚老惜蘭芳。解劍竟何及,撫墳徒自傷。
#3
平生疑若人,通蔽互相妨。
かつては季札や楚老の剣を捧げたり墓を撫でたりするような行いというものは、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからない。
理感深情慟,定非識所將。
理に通じているからこそ、理を感じ、理不尽なことに情は深く痛む。それは知識の支配するところのものではない。(理と識とは違う。)
脆促良可哀,夭枉特兼常。
生きる肉体のもろさは本当に悲しいものである、まして無実の罪で若くして殺されたというのであれば尋常の二倍の悲しみとなる。
一隨往化滅,安用空名揚?
ひとたび死んで、この世を去ってしまえば、何に生まれ変わろうともう戻ってこないことには変わりない。名前だけが残っても帰ってくるわけではない。
舉聲泣已灑,長歎不成章。

声を上げて、涙は既にとめどなく流れ落ち、あとは長くため息をつくばかりで、この詩も一章として完結することはない。(最初の船に乗って御陵を眺めて涙を流すことにもどるので章が終わらないというのである。)

(廬陵王の墓下の作)
暁月【ぎょうげつ】に雲陽【うんよう】を發【た】ち、 落日【らくじつ】に朱方【しゅほう】に次【やど】る。
悽【いたみ】を含んで廣川【こうせん】に泛【うか】び、涙を灑【そそ】ぎて連岡【れんこう】を眺【み】る
眷【かえり】みて言【ここ】に君子を懷い、沈痛は中腸【ちゅうちょう】を切【き】る。
道消【みちき】えて慣懣【ふんまん】を結び、運開いて悲涼【ひりょう】を申【の】ぶ。
#2
神期【しんき】は恆【つね】に在るが若【ごと】く、徳音【とくいん】は初【はじめ】より忘れられず。
徂謝【そしゃ】して永久なり易く、松柏【しょうはく】は森【しん】として已【もっ】て行【つら】なる。
延州【えんしゅう】は心許【しんきょ】に協【かな】い、楚老【そろう】は蘭芳【らんぽう】を惜しむ。
劒を解くも竟【つい】に何ぞ及ばん、墳【つか】を撫【ぶ】して徒【いたず】らに自ら傷む。
#3
平生疑う若【かくのごと】き人を疑えり、通【つう】蔽【へい】互に相 妨【さまた】ぐることを。
理もて感ずるは深く情は慟【いた】む、識【しき】の將【おこ】なう所に非ずと定めぬ。
脆促【ぜいそく】は良【まこと】に哀【かな】しむ可し、 夭枉【ようおう】は特に常を兼ぬ。
一【ひと】たび往化【おうか】に随って滅ぶ、安んぞ用いん空名【くうめい】の揚【あが】るを。
声を挙げて泣【なみだ】已【すで】に灑ぎ【そそ】、長歎【ちょうたん】して章を成さず。


doteiko012

現代語訳と訳註
(本文)

平生疑若人,通蔽互相妨。
理感深情慟,定非識所將。
脆促良可哀,夭枉特兼常。
一隨往化滅,安用空名揚?
舉聲泣已灑,長歎不成章。

(下し文) #3
平生疑う若【かくのごと】き人を疑えり、通【つう】蔽【へい】互に相 妨【さまた】ぐることを。
理もて感ずるは深く情は慟【いた】む、識【しき】の將【おこ】なう所に非ずと定めぬ。
脆促【ぜいそく】は良【まこと】に哀【かな】しむ可し、 夭枉【ようおう】は特に常を兼ぬ。
一【ひと】たび往化【おうか】に随って滅ぶ、安んぞ用いん空名【くうめい】の揚【あが】るを。
声を挙げて泣【なみだ】已【すで】に灑ぎ【そそ】、長歎【ちょうたん】して章を成さず。


(現代語訳)
かつては季札や楚老の剣を捧げたり墓を撫でたりするような行いというものは、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからない。
理に通じているからこそ、理を感じ、理不尽なことに情は深く痛む。それは知識の支配するところのものではない。(理と識とは違う。)
生きる肉体のもろさは本当に悲しいものである、まして無実の罪で若くして殺されたというのであれば尋常の二倍の悲しみとなる。
ひとたび死んで、この世を去ってしまえば、何に生まれ変わろうともう戻ってこないことには変わりない。名前だけが残っても帰ってくるわけではない。
声を上げて、涙は既にとめどなく流れ落ち、あとは長くため息をつくばかりで、この詩も一章として完結することはない。(最初の船に乗って御陵を眺めて涙を流すことにもどるので章が終わらないというのである。)


(訳注)
平生疑若人,通蔽互相妨。

かつては季札や楚老の剣を捧げたり墓を撫でたりするような行いというものは、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからない。
平生 日ごろ、かつては。○通蔽 理に通じているということ。蔽は理が通じていないこと。○互相妨 理性と感情が互いに反することで、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからなかったという意味。


理感深情慟,定非識所將。
理に通じているからこそ、理を感じ、理不尽なことに情は深く痛む。それは知識の支配するところのものではない。(理と識とは違う。)
 筋道、条理。○ 痛と同じで、心を上下に突き抜けるほど激しく動かされること。○ 知識、認識。


脆促良可哀,夭枉特兼常。
生きる肉体のもろさは本当に悲しいものである、まして無実の罪で若くして殺されたというのであれば尋常の二倍の悲しみとなる。
○脆 もろい、こわれやすい。盧陵王のことを指す。○ 足を縮めることから、短くする、せかす、うながすとなる。「脆促【ぜいそく】」は生きる肉体の脆さをさらに促すこと。○夭枉 夭折とおなじ。若くして死ぬこと。天命を全うしないでころされること。『後漢書、蔡邕傳』「夭夭是加。」〔注〕〔上の夭はまさに天に作るにあたり、下の夭は殺す也。〕枉は曲げるという所から、道理をゆがめた、罪を押し付けられた無実の死を表す。○兼常 通常の二倍ということ。
 

一隨往化滅,安用空名揚?
ひとたび死んで、この世を去ってしまえば、何に生まれ変わろうともう戻ってこないことには変わりない。名前だけが残っても帰ってくるわけではない。
往化 往はまた、行く、逝くという意味で、死を表し、仏教では、往生するという。化は『荘子』「已化而生、又化而死。(すでに化して生まれ、また化して死す。)」とあるように、死んで転生することをいう。その転生が滅することとなる。


舉聲泣已灑,長歎不成章。
声を上げて、涙は既にとめどなく流れ落ち、あとは長くため息をつくばかりで、この詩も一章として完結することはない。(最初の船に乗って御陵を眺めて涙を流すことにもどるので章が終わらないというのである。)




haru008


劉義真 406~424
 廬陵王。武帝の次男。『宋書』では「聡明にして文義を愛すれど、軽佻にして徳なし」と評された。東晋末の劉裕の北伐後は関中鎮守に残され、翌418年には内訌と夏軍の来攻で長安を失陥した。劉裕の即位で廬陵王とされ、後に南豫州刺史に叙されたが、夙に帝位への志向が強く、篤交した謝霊運・顔延之・慧林らに即位後の顕官を保証していたことで徐羨之ら託孤六傅に忌まれ、少帝廃黜後の混乱を避けるために少帝に先立って殺された。

少帝 404?~422~424
 第二代君主。諱は義苻。武帝の長子。膂力に勝れて騎射を善くし、音律も解したという。不行跡を理由に徐羨之・檀道済ら託孤の重臣に廃弑され、常陽王と追尊された。


文帝 407~424~453
 第三代君主、太祖。諱は義隆。武帝の第3子。少帝の実弟。少帝が廃されると宜都王から迎立された。徐羨之ら託孤の宿臣を粛清する一方で王曇首・殷景仁ら文人貴族を挙用し、又た従来の経学偏重の官学制を改めて儒・玄・史・文の四学館を建てて学術を奨励し、442年には国子学を復興させた。その治世では文芸・仏教も盛んで、元嘉暦を作成した何承天の他、朝野に謝霊運・陶潜、黒衣宰相と称された僧慧琳などがあり、“元嘉の治”と称される盛世を実現した。南朝仏教は既に貴族社会との癒着が著しく、435年には僧尼の綱紀粛正が行なわれ、同時に寺院建立にも公許が必要とされた。
 当時、北魏は華北統一と柔然対策を急務とし、宋も林邑遠征など南方経略と国内安定を優先させ、河南・淮北の四鎮を争った後は大規模な会戦はなく、約20年間に淮南の開発が飛躍的に進展した。450年に北伐に失敗して“瓜歩の難”を惹起し、淮南を失っただけでなく建康の国子学が廃止されるなど国力に甚大な影響を及ぼし、文帝自身もまもなく巫蠱の露見を懼れる太子劭に殺された。



廬陵王墓下作 #1
曉月發雲陽,落日次朱方。含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
眷言懷君子,沈痛結中腸。道消結憤懣,運開申悲涼。
#2
神期恆若在,德音初不忘。徂謝易永久,松柏森已行。
延州協心許,楚老惜蘭芳。解劍竟何及,撫墳徒自傷。
#3
平生疑若人,通蔽互相妨。理感深情慟,定非識所將。
脆促良可哀,夭枉特兼常。一隨往化滅,安用空名揚?
舉聲泣已灑,長歎不成章。


暁月【ぎょうげつ】に雲陽【うんよう】を發【た】ち、 落日【らくじつ】に朱方【しゅほう】に次【やど】る。
悽【いたみ】を含んで廣川【こうせん】に泛【うか】び、涙を灑【そそ】ぎて連岡【れんこう】を眺【み】る
眷【かえり】みて言【ここ】に君子を懷い、沈痛は中腸【ちゅうちょう】を切【き】る。
道消【みちき】えて慣懣【ふんまん】を結び、運開いて悲涼【ひりょう】を申【の】ぶ。
神期【しんき】は恆【つね】に在るが若【ごと】く、徳音【とくいん】は初【はじめ】より忘れられず。
徂謝【そしゃ】して永久なり易く、松柏【しょうはく】は森【しん】として已【もっ】て行【つら】なる。

延州【えんしゅう】は心許【しんきょ】に協【かな】い、楚老【そろう】は蘭芳【らんぽう】を惜しむ。
劒を解くも竟【つい】に何ぞ及ばん、墳【つか】を撫【ぶ】して徒【いたず】らに自ら傷む。
平生疑う若【かくのごと】き人を疑えり、通【つう】蔽【へい】互に相 妨【さまた】ぐることを。
理もて感ずるは深く情は慟【いた】む、識【しき】の將【おこ】なう所に非ずと定めぬ。
脆促【ぜいそく】は良【まこと】に哀【かな】しむ可し、 夭枉【ようおう】は特に常を兼ぬ。
一【ひと】たび往化【おうか】に随って滅ぶ、安んぞ用いん空名【くうめい】の揚【あが】るを。
声を挙げて泣【なみだ】已【すで】に灑ぎ【そそ】、長歎【ちょうたん】して章を成さず。

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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<5> 廬陵王墓下作 #2 詩集 360

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<5> 廬陵王墓下作 #2 詩集 360


 南北朝時代の特色とされる貴族制度は南朝と北朝とでは背景や運用が異なり、西晋から続く南朝の貴族制度は九品官人制によって強化され、社会身分の階層化と固定化が進行したが、北防の必要から、貴族の支持を得た寒門武人による易姓革命が肯定された。このため皇帝権力の安定には貴族勢力の協力が不可欠となり、貴族勢力には一種の治外法権が生じ、貴族の家門の興廃と王朝の興亡とは必ずしも連動しなかった。貴族・豪族は多くの佃客・衣食客・部曲を擁する大土地所有者でもあり、広大な山林水沢の利を独占して荘園を経営したが、荘園の閉鎖的な自給性は貨幣経済を停滞させ、貴族や商人による貨幣退蔵と山沢封固は、自営農の没落と商人層の抬頭を促進させた。

 歴朝天子の寒門・寒人重用は、門地二品に偏重した貴族主義に対する一種の抵抗でもあった。、梁武帝の官制改革もその一環に数えられるが、実効まではいかなかった。南朝の貴族社会は侯景の乱と承聖の江陵陥落でほぼ壊滅し、湖北・四川の喪失と併せて南朝の没落は決定的となっていく。


廬陵王墓下作
曉月發雲陽,落日次朱方。含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
眷言懷君子,沈痛結中腸。道消結憤懣,運開申悲涼。
#2
神期恆若在,德音初不忘。
神の意志はいつもこのような結果をもたらすものであり、君子の仁徳は変わるものではないのでとても忘れられるものではない。
徂謝易永久,松柏森已行。
盧陵王はこの世を去られたが、世を去られてしまえばあっという間に永遠の時が流れ去ってしまうものであり、墓に植えた松や柏は森となってしげるのである。
延州協心許,楚老惜蘭芳。
寿夢の末子、季札は心を許す家臣徐君のように多くのすぐれた家臣をもっていた、楚の老人、龔勝の忠君は蘭芳の美徳としておしまれた。(ここでいう家臣は謝霊運、自らや顔延之を指している。)
解劍竟何及,撫墳徒自傷。
しかし季札のように剣を解いて捧げたからといってどうなるわけでもなく、楚老のようにただいたずらに墳墓を撫でても自分の心を痛めるだけのことだ。かつては季札や楚老の剣を捧げたり墓を撫でたりするような行いというものは、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからない。

平生疑若人,通蔽互相妨。理感深情慟,定非識所將。
脆促良可哀,夭枉特兼常。一隨往化滅,安用空名揚?
舉聲泣已灑,長歎不成章。

(廬陵王の墓下の作)
暁月【ぎょうげつ】に雲陽【うんよう】を發【た】ち、 落日【らくじつ】に朱方【しゅほう】に次【やど】る。
悽【いたみ】を含んで廣川【こうせん】に泛【うか】び、涙を灑【そそ】ぎて連岡【れんこう】を眺【み】る
眷【かえり】みて言【ここ】に君子を懷い、沈痛は中腸【ちゅうちょう】を切【き】る。
道消【みちき】えて慣懣【ふんまん】を結び、運開いて悲涼【ひりょう】を申【の】ぶ。
#2
神期【しんき】は恆【つね】に在るが若【ごと】く、徳音【とくいん】は初【はじめ】より忘れられず。
徂謝【そしゃ】して永久なり易く、松柏【しょうはく】は森【しん】として已【もっ】て行【つら】なる。

延州【えんしゅう】は心許【しんきょ】に協【かな】い、楚老【そろう】は蘭芳【らんぽう】を惜しむ。
劒を解くも竟【つい】に何ぞ及ばん、墳【つか】を撫【ぶ】して徒【いたず】らに自ら傷む。

#3
平生疑う若【かくのごと】き人を疑えり、通【つう】蔽【へい】互に相 妨【さまた】ぐることを。
理もて感ずるは深く情は慟【いた】む、識【しき】の將【おこ】なう所に非ずと定めぬ。
脆促【ぜいそく】は良【まこと】に哀【かな】しむ可し、 夭枉【ようおう】は特に常を兼ぬ。
一【ひと】たび往化【おうか】に随って滅ぶ、安んぞ用いん空名【くうめい】の揚【あが】るを。
声を挙げて泣【なみだ】已【すで】に灑ぎ【そそ】、長歎【ちょうたん】して章を成さず。

demen07


現代語訳と訳註
(本文)#2

神期恆若在,德音初不忘。
徂謝易永久,松柏森已行。
延州協心許,楚老惜蘭芳。
解劍竟何及,撫墳徒自傷。

(下し文)#2
神期【しんき】は恆【つね】に在るが若【ごと】く、徳音【とくいん】は初【はじめ】より忘れられず。
徂謝【そしゃ】して永久なり易く、松柏【しょうはく】は森【しん】として已【もっ】て行【つら】なる。

延州【えんしゅう】は心許【しんきょ】に協【かな】い、楚老【そろう】は蘭芳【らんぽう】を惜しむ。
劒を解くも竟【つい】に何ぞ及ばん、墳【つか】を撫【ぶ】して徒【いたず】らに自ら傷む。


(現代語訳)#2
神の意志はいつもこのような結果をもたらすものであり、君子の仁徳は変わるものではないのでとても忘れられるものではない。
盧陵王はこの世を去られたが、世を去られてしまえばあっという間に永遠の時が流れ去ってしまうものであり、墓に植えた松や柏は森となってしげるのである。
寿夢の末子、季札は心を許す家臣徐君のように多くのすぐれた家臣をもっていた、楚の老人、龔勝の忠君は蘭芳の美徳としておしまれた。(ここでいう家臣は謝霊運、自らや顔延之を指している。)
しかし季札のように剣を解いて捧げたからといってどうなるわけでもなく、楚老のようにただいたずらに墳墓を撫でても自分の心を痛めるだけのことだ。
かつては季札や楚老の剣を捧げたり墓を撫でたりするような行いというものは、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからない。


李白の足跡55

(訳注)#2
神期恆若在,德音初不忘。
神の意志はいつもこのような結果をもたらすものであり、君子の仁徳は変わるものではないのでとても忘れられるものではない。
神期 神の心、神の意志。廬陵王の御霊。○ 『易経』「雷風恆」にある。天地自然は変転を繰り返しながらも、その根本は変わらない。廬陵王は運命に翻弄されてしまったが、王の価値は不易であり、その徳のある人の言葉(徳音)はもとより忘れられない。謝霊運は、廬陵王に掛けていたのである。


徂謝易永久,松柏森已行。
盧陵王はこの世を去られたが、世を去られてしまえばあっという間に永遠の時が流れ去ってしまうものであり、墓に植えた松や柏は森となってしげるのである。
徂謝 徂、謝、どちらも去ってゆく、逝くという意味がある。世を去ってしまえば、徂は歩みを重ねてゆくことで、あの世へ行くことや、世代を重ねてゆくことをいう。謝は弓の弦を緩めることで、緊張を解くところから「あやまる」「ことわる」「礼を言う」という意味にもなる一方、生命がなくなるという意味で死ぬ、萎むという意味をも持つ。○ ヒノキ、コノテガシワ、栢などの常緑樹をいう。陵墓には木を植え、庭園のようにする習慣があり、天子は松、諸侯は柏、大夫はおおち、庶人は楊柳を植えた。長安の五陵などがある。李白、雜言古詩『王昭君』「漢家秦地月、流影照明妃。一上玉関道、天涯去不帰。漢月還従東海出、明妃西嫁無来日。燕支長寒雪作花、娥眉憔悴没胡沙。生乏黄金枉図画、死留青塚使人嗟。」にみえる「青塚」が松柏である。

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重經昭陵 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 230


 漢の仲長統の『昌言』には、「古之葬者、松柏梧桐以識墳也(古の葬は、松柏梧桐を以て墳を識るなり。)」」とある。『文選』の古詩の「去るものは日々に疎く」の詩にある「松柏催為薪(松柏くだかれて薪と為る)」一般には、長寿で貞節を象徴する常緑の松柏も、伐って薪にされている、と解釈され、死者がいかに早く忘れ去られてゆくかを詠んだもので、墓所に植えられた松柏も伐られて薪になる。王朝が続けば、管理者が入るので、薪にはならないが、王朝が滅べば薪になる。杜甫の「北征紀行」の詩に出て來るものである。



延州協心許,楚老惜蘭芳。
寿夢の末子、季札は心を許す家臣徐君のように多くのすぐれた家臣をもっていた、楚の老人、龔勝の忠君は蘭芳の美徳としておしまれた。(ここでいう家臣は謝霊運、自らや顔延之を指している。)
延州 春秋戦国時代の呉の王、寿夢の末子、季札のことで、延陵の季子と呼ばれている。寿夢は季札に王位を継がせようとするのだが、季札はこれを頑なに固辞しつづけた。○ 多くのものが一つに合わさる所から、一致する、かなうという意味になる。「叶」も同じで、十人の口(意見)があることをいう。○心許 心許せる全幅の信頼を持つ家臣。○楚老 楚老は、『漢書』に記されている、龔勝【きょうしょう】という前漢末の忠臣の死を嘆いた老人のこと。○蘭芳 蘭のか詳しい香り。転じて、美徳のたとえ。



解劍竟何及,撫墳徒自傷。
しかし季札のように剣を解いて捧げたからといってどうなるわけでもなく、楚老のようにただいたずらに墳墓を撫でても自分の心を痛めるだけのことだ。
○解劍 季札は徐王が死んで後に欲しがっていた剣を徐陵の松にかざした故事を踏まえる。○撫墳徒自傷 前漢末の忠臣龔勝が天子が死んでもなお嘆いたことに基づく。



《参考》この時代の人。
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劉裕 356~420~422
 高祖、武帝。彭城(江蘇省徐州市)出身。字は徳興。寒門出身の北府軍人で、孫恩鎮圧で認められ、桓玄討滅を主導して北府軍を掌握した。410年に南燕を滅ぼして斉魯を回復し、嶺南の盧循を鎮圧して武威を示す一方で、尚書僕射謝混・江州刺史劉毅ら反対派を粛清して大権を掌握した。417年に後秦を滅ぼして洛陽・長安を回復すると、翌年には世論の支持を背景に相国・宋公となり、安帝を殺して恭帝を立てると宋王に進み、420年に禅譲を行なって宋朝を樹立した。
 刁氏・虞氏などの京畿の大荘園を没収して貧民に分配し、又た僑郡僑県の併省や、土断法の全国的な実施で財政を好転させ、短期間で宋朝の基盤を確立した。土断法の徹底や質倹の率先などは、東晋朝廷の奢侈放縦や過度の名族偏重の体制に批判的な輿論の主潮に配慮したものだったが、即位直後には名族の白籍化を認めるなど僑姓との妥協を余儀なくされ、北府・西府など軍府の統帥を宗室に限定することで、簒奪の防止を図った。


徐羨之 364~426
 東海郡郯県(山東省郯城)の出身。字は宗文。劉裕の幕僚として信任され、416年の北伐では建康に鎮し、尚書僕射に進んで劉裕の禅譲を準備した。禅譲後は司空・録尚書事・揚州刺史とされ、劉裕の死後は託孤六傅の筆頭として傅亮らとともに少帝を後見したが、424年に不行跡を理由に傅亮らと少帝を廃弑して文帝を迎立し、司徒に昇った。後に専権を忌まれ、弑逆を理由に自殺を命じられた。


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