漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

詩集の序文

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
リンクはフリーです。報告、承諾は無用です。
ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

擬魏太子鄴中集詩八首 幷序 謝靈運 六朝魏詩<77-#2>文選 雜擬 上 775 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2423

謝靈運 《擬魏太子鄴中集詩八首 幷序》 楚の嚢王の時には、太夫の宋玉・唐勒・景差らあり、漢の景帝の弟である梁の孝王のときには、鄒陽・枚乗・厳忌・司馬相如らがあり、かれら従遊の士は文にすぐれたが、その主君は文学がなかった。

2013年5月25日 同じ日の紀頌之5つのブログ
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩擬魏太子鄴中集詩八首 幷序 謝靈運 六朝魏詩<77-#2>文選 雜擬 上 775 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2423
●唐を代表する中唐の韓愈の儒家としての考えのよくわかる代表作の一つ
Ⅱ中唐詩・晩唐詩奉和虢州劉給事使君三堂新題二十一詠。花島 韓愈(韓退之) <127>Ⅱ中唐詩688 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2424
●杜甫の全作品1141首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"
Ⅲ杜甫詩1000詩集麗春 五言古詩 成都6-(1) 杜甫<468-#1>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2425 杜甫詩1000-468-#1-679/1500
●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている
Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集
●●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩
Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性罰赴邊上韋相公二首 其一 薛濤 唐五代詞・宋詩 薛濤-176-48-#38  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2427
 
 ■今週の人気記事(漢詩の5ブログ各部門)
 ■主要詩人の一覧・詩目次・ブログindex

『楚辞・九歌』東君 屈原詩<78-#1>505 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1332
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67664757.html
『楚辞』九辯 第九段―まとめ 宋玉  <00-#35> 664 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2304
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/archives/6471825.html
安世房中歌十七首(1) 唐山夫人 漢詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67710265.html
為焦仲卿妻作 序 漢詩<143>古詩源 巻三 女性詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67729401.html
於凊河見輓船士新婚別妻一首 曹丕(魏文帝) 魏詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67759129.html
朔風 (一章) 曹植 魏詩<25-#1>文選 雑詩 上  http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67780868.html
謝靈運詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/1901_shareiun000.html 謝靈運詩 六朝期の山水詩人。この人の詩は上品ですがすがしい男性的な深みのある詩である。後世に多大な影響を残している。
謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67474554.html
登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67502196.html
孟浩然の詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩 盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。

李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html
李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩 http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首

 

擬魏太子鄴中集詩八首 幷序 謝靈運 六朝魏詩<77-#2>文選 雜擬 上 775 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2423



擬魏太子鄴中集詩八首 幷序-#1
(魏の太子、曹丕の鄴の宮殿にいたとしての詩八首についてと並びに序文。)
建安末,余時在鄴宮,朝游夕燕,究歡愉之極。
建安の末ころ、私(太子の曹丕)は鄴宮に在り、朝に遊宴し、夕には宴席をひらき、歓楽なことを十分にたのしみつくしたものだ。
天下良辰美景,賞心樂事,四者難並。
いったい、天下の良き日、美しいひかりと景、親しい友、楽しいこと、この四つを一度に同時に満足できるようあわせもつことは難しいのだ。
今昆弟友朋,二三諸彥,共盡之矣。
したがって、われは今、弟や朋友諸君とともにこの四者のすべてを得ることができた。
古來此娛,書籍未見。
このような娯しみは、古くからいまだに書物には見えないものだ。
#2
何者?楚襄王時有宋玉、唐景,梁孝王時有鄒、枚、嚴、馬,遊者美矣,而其主不文;
なぜなら、楚の嚢王の時には、太夫の宋玉・唐勒・景差らあり、漢の景帝の弟である梁の孝王のときには、鄒陽・枚乗・厳忌・司馬相如らがあり、かれら従遊の士は文にすぐれたが、その主君は文学がなかった。
漢武帝徐樂諸才,備應對之能,
漢の武帝のとき、徐楽をはじめとして枚皐・東方朔らは文章応対の下臣の才は十分であった。
而雄猜多忌,豈獲晤言之適?
しかし武帝は剛強であり、かつ疑い深い性であり、したがって打ちとけて思う存分に話しあう楽しみを獲られなかった。
不誣方將,庶必賢於今日爾。
してみると、まあ、ほぼ、「われは、今日がまさっているのではないかと思う」、といっても、実際とちがっているのではないだろうか。
歲月如流,零落將盡,
ただ年月のたつのは水の流れるように速かなもので、わが友も亡くなってしまいそうである。
撰文懷人,感往增愴。其辭曰:
いま文をえらび集をつくり、その人を思い、それにつけても過ぎ去った日のことに心動かされて、悲しみいたむ情がいよいよ深い。その詩は次の通りいう。


『擬魏太子鄴中集詩八首 幷序』 現代語訳と訳註
kokage01(本文)
#2
楚襄王時有宋玉、唐景,梁孝王時有鄒、枚、嚴、馬,遊者美矣,而其主不文;
漢武帝徐樂諸才,備應對之能,
而雄猜多忌,豈獲晤言之適?
不誣方將,庶必賢於今日爾。
歲月如流,零落將盡,
撰文懷人,感往增愴。其辭曰:


(下し文) #2
何となれば?楚の襄王の時、宋玉・唐・景有り,梁の孝王の時、鄒、枚、嚴、馬有りて,遊ぶ者は美なり,而も其の主は文ならず;
漢の武帝のとき、徐樂らの諸才は,應對の能を備う,而るに雄猜 多忌なり,豈に晤言の適を獲んや?
方將に,庶はくば於今日を賢ると必すことを誣いざるのみ。
歲月は流るるが如く,零落して將に盡きんとし,
文を撰し人を懷い,往に感して愴みを增す。其の辭に曰く:


(現代語訳)
なぜなら、楚の嚢王の時には、太夫の宋玉・唐勒・景差らあり、漢の景帝の弟である梁の孝王のときには、鄒陽・枚乗・厳忌・司馬相如らがあり、かれら従遊の士は文にすぐれたが、その主君は文学がなかった。
漢の武帝のとき、徐楽をはじめとして枚皐・東方朔らは文章応対の下臣の才は十分であった。
しかし武帝は剛強であり、かつ疑い深い性であり、したがって打ちとけて思う存分に話しあう楽しみを獲られなかった。
してみると、まあ、ほぼ、「われは、今日がまさっているのではないかと思う」、といっても、実際とちがっているのではないだろうか。
ただ年月のたつのは水の流れるように速かなもので、わが友も亡くなってしまいそうである。
いま文をえらび集をつくり、その人を思い、それにつけても過ぎ去った日のことに心動かされて、悲しみいたむ情がいよいよ深い。その詩は次の通りいう。


(訳注) #2
何者?楚襄王時有宋玉、唐景,梁孝王時有鄒、枚、嚴、馬,遊者美矣,而其主不文;

なぜなら、楚の嚢王の時には、太夫の宋玉・唐勒・景差らあり、漢の景帝の弟である梁の孝王のときには、鄒陽・枚乗・厳忌・司馬相如らがあり、かれら従遊の士は文にすぐれたが、その主君は文学がなかった。
・楚襄王時有宋玉、唐景 「屈原既死之後,楚有宋玉、唐勒、景差之徒者,皆好辭而以賦見稱。」
司馬相如 ~B118 蜀郡成都の人。字は長卿。景帝の武騎常侍となったが、文学を好む梁孝王の食客に転じ、鄒陽・枚乗・荘忌らと交流した。


漢武帝徐樂諸才,備應對之能,
漢の武帝のとき、徐楽をはじめとして枚皐・東方朔らは文章応対の下臣の才は十分であった。


而雄猜多忌,豈獲晤言之適?
しかし武帝は剛強であり、かつ疑い深い性であり、したがって打ちとけて思う存分に話しあう楽しみを獲られなかった。


不誣方將,庶必賢於今日爾。
してみると、まあ、ほぼ、「われは、今日がまさっているのではないかと思う」、といっても、実際とちがっているのではないだろうか。
・不誣方將,庶必賢於今日爾。「誣」とは、実際とちがったことをいうこと。「不誣」を、「方将庶必賢於今日爾」の全体にかかるものと考え「われは、今日がまさっているのではないかと思う」との意とする。「方将」は、まさにまさに。「庶」は、近いこと。「必」はは、かたく期すること。


歲月如流,零落將盡,
ただ年月のたつのは水の流れるように速かなもので、わが友も亡くなってしまいそうである。
・零落將盡 徐幹・陳琳・王瑒・阮瑀・王粲の文才を評する。ちなみに、阮瑀は建安十七年(212年)ころ死し、徐幹・陳琳・王瑒・劉楨・王粲は、同二十二年217年に死んだ。


撰文懷人,感往增愴。其辭曰:
いま文をえらび集をつくり、その人を思い、それにつけても過ぎ去った日のことに心動かされて、悲しみいたむ情がいよいよ深い。その詩は次の通りいう。
撰文 ここは、詩を撰定したこと。

擬魏太子鄴中集詩八首 幷序 謝靈運 六朝魏詩<77-#1> 774 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2418

謝靈運 擬魏太子鄴中集詩八首 幷序-#1
建安の末ころ、私(太子の曹丕)は鄴宮に在り、朝に遊宴し、夕には宴席をひらき、歓楽なことを十分にたのしみつくしたものだ。

2013年5月24日 同じ日の紀頌之5つのブログ
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩擬魏太子鄴中集詩八首 幷序 謝靈運 六朝魏詩<77-#1> 774 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2418
●唐を代表する中唐の韓愈の儒家としての考えのよくわかる代表作の一つ
Ⅱ中唐詩・晩唐詩奉和虢州劉給事使君三堂新題二十一詠。北湖 韓愈(韓退之) <126>Ⅱ中唐詩687 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2419
●杜甫の全作品1141首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"
Ⅲ杜甫詩1000詩集李司馬橋成,高使君自成都回 七言絶句 成都5-(42) 杜甫 <467>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2420 杜甫詩1000-467-678/1500
●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている
Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集
●●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩
Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性海棠溪 薛濤 唐五代詞・宋詩 薛濤-175-47-#37  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2422
 
 ■今週の人気記事(漢詩の5ブログ各部門)
 ■主要詩人の一覧・詩目次・ブログindex

『楚辞・九歌』東君 屈原詩<78-#1>505 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1332
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67664757.html
『楚辞』九辯 第九段―まとめ 宋玉  <00-#35> 664 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2304
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/archives/6471825.html
安世房中歌十七首(1) 唐山夫人 漢詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67710265.html
為焦仲卿妻作 序 漢詩<143>古詩源 巻三 女性詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67729401.html
於凊河見輓船士新婚別妻一首 曹丕(魏文帝) 魏詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67759129.html
朔風 (一章) 曹植 魏詩<25-#1>文選 雑詩 上  http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67780868.html
謝靈運詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/1901_shareiun000.html 謝靈運詩 六朝期の山水詩人。この人の詩は上品ですがすがしい男性的な深みのある詩である。後世に多大な影響を残している。
謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67474554.html
登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67502196.html
孟浩然の詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩 盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。

李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html
李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩 http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首

 

擬魏太子鄴中集詩八首 幷序 謝靈運 六朝魏詩<77-#1> 774 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2418


擬魏太子鄴中集詩八首 幷序-#1
(魏の太子、曹丕の鄴の宮殿にいたとしての詩八首についてと並びに序文。)
建安末,余時在鄴宮,
建安の末ころ、私(太子の曹丕)は鄴宮に在り、朝に遊宴し、
朝游夕燕,究歡愉之極。
夕には宴席をひらき、歓楽なことを十分にたのしみつくしたものだ。
天下良辰美景,賞心樂事,四者難並。
いったい、天下の良き日、美しいひかりと景、親しい友、楽しいこと、この四つを一度に同時に満足できるようあわせもつことは難しいのだ。
今昆弟友朋,二三諸彥,共盡之矣。
したがって、われは今、弟や朋友諸君とともにこの四者のすべてを得ることができた。
古來此娛,書籍未見。

このような娯しみは、古くからいまだに書物には見えないものだ。
#2
何者?楚襄王時有宋玉、唐景,梁孝王時有鄒、枚、嚴、馬,
遊者美矣,而其主不文;
漢武帝徐樂諸才,備應對之能,
而雄猜多忌,豈獲晤言之適?
不誣方將,庶必賢於今日爾。
歲月如流,零落將盡,
撰文懷人,感往增愴。其辭曰:
 
(魏の太子の鄴中集の詩に擬す 八首 幷びに序)-#1
建安の末,余は時に鄴宮に在り,朝に游び夕に燕し,歡愉の極を究む。
天下の良辰・美景,賞心・樂事,四者は並せ難し。
今、昆弟友朋,二三の諸彥と,共に之を盡せり。
古來、此の娛は,書籍未だ見えず。
詩人李白5x5#2
何となれば?楚の襄王の時、宋玉・唐・景有り,梁の孝王の時、鄒、枚、嚴、馬有りて,遊ぶ者は美なり,而も其の主は文ならず;
漢の武帝のとき、徐樂らの諸才は,應對の能を備う,而るに雄猜 多忌なり,豈に晤言の適を獲んや?
方將に,庶はくば於今日を賢ると必すことを誣いざるのみ。
歲月は流るるが如く,零落して將に盡きんとし,
文を撰し人を懷い,往に感して愴みを增す。其の辭に曰く:


『擬魏太子鄴中集詩八首 幷序』 現代語訳と訳註
(本文)
-#1
建安末,余時在鄴宮,朝游夕燕,究歡愉之極。
天下良辰美景,賞心樂事,四者難並。
今昆弟友朋,二三諸彥,共盡之矣。
古來此娛,書籍未見,何者?


(下し文)
(魏の太子の鄴中集の詩に擬す 八首 幷びに序)-#1
建安の末,余は時に鄴宮に在り,朝に游び夕に燕し,歡愉の極を究む。
天下の良辰・美景,賞心・樂事,四者は並せ難し。
今、昆弟友朋,二三の諸彥と,共に之を盡せり。
古來、此の娛は,書籍未だ見えず。


(現代語訳)
(魏の太子、曹丕の鄴の宮殿にいたとしての詩八首についてと並びに序文。)
建安の末ころ、私(太子の曹丕)は鄴宮に在り、朝に遊宴し、夕には宴席をひらき、歓楽なことを十分にたのしみつくしたものだ。
いったい、天下の良き日、美しいひかりと景、親しい友、楽しいこと、この四つを一度に同時に満足できるようあわせもつことは難しいのだ。
したがって、われは今、弟や朋友諸君とともにこの四者のすべてを得ることができた。
このような娯しみは、古くからいまだに書物には見えないものだ。


(訳注)
擬魏太子鄴中集詩八首
 幷序-#1
魏の太子、曹丕の鄴の宮殿にいたとしての詩八首についてと並びに序文。


建安末,余時在鄴宮,朝游夕燕,究歡愉之極。
建安の末ころ、私(太子の曹丕)は鄴宮に在り、朝に遊宴し、夕には宴席をひらき、歓楽なことを十分にたのしみつくしたものだ。
・建安 建安(けんあん)は、後漢の献帝(劉協)の治世に行われた3番目(永漢を除く)の元号。196年 - 220年。建安25年は3月に改元されて延康元年となった。ただし、蜀(蜀漢)では延康の正統性を認めず、建安を26年まで使った。魏の曹操は天子たる実力を持ちながらも後漢に仕えたが、後、その子の曹丕は後漢を倒して魏を建て、帝位につく。すなわちそれが魏の文帝である。


天下良辰美景,賞心樂事,四者難並。
いったい、天下の良き日、美しいひかりと景、親しい友、楽しいこと、この四つを一度に同時に満足できるようあわせもつことは難しいのだ。
・良辰 良き日とは、上に明君あり、下に賢臣あって、よくおさまった時代のことをいう。
・楽事 宴をひらく、ともに遊戯・談論し、詩文を作る、などの楽しみをさす。太子曹丕、弟の平原侯曹植、および彼らをめぐる文人の作に、そのことが見える。


今昆弟友朋,二三諸彥,共盡之矣。
したがって、われは今、弟や朋友諸君とともにこの四者のすべてを得ることができた。
・昆弟 兄弟。ここでは弟の曹植、あざな子建をさす。「昆」は兄。
・友朋 次の詩覧える王粂以→の友をさす。
・二三諸彦 「二三」とは、論語の諸第に見える「二三子」(諸弟子学たち)の意であろう。「彦」とは、美士、徳行すぐれた男子。


古來此娛,書籍未見。
このような娯しみは、古くからいまだに書物には見えないものだ。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<7>  述祖徳詩 二首(1)序 詩集 364

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<7>  述祖徳詩 二首(1)序 詩集 364

(祖の徳を述べる詩 二首 序文 )

述祖徳詩 二首(1)序
謝霊運の先祖は『南史、謝霊運傳』「謝霊運は安西将軍奕の曾孫にして、方明の従子なり」と記されいる。「奕の曾孫」つまりひまごに当たり、「方明の従子」とは彼の甥に当たることになる。この奕については『晋書』の四十九に略伝があり、当時、政治家として活躍していた人で、経済的にも、知識的にもすぐれた要素をもっていた。当時の社会の最も重要な血縁、門閥について謝霊運は最も恵まれていた。そして、誇り高い人であった。


沈約は『宋書』の本伝で、「祖の玄は晋の車騎将軍」と、その祖父より筆を起こしている。「車騎将軍」とは、各地に反乱があったとき、その征伐を司る将軍で、漢の文帝がこの役を定めて以後あったものである。この玄の伝記については『晋書』の本伝に詳しい。特に「少くして薪悟、従兄の期と供に叔父安の器重する所と為る」と記されているのをみると、非常に頭脳明噺であったらしい。

謝霊運はよほど、この祖父、玄について自慢であったらしく、「山居賦」の自注でも、また、「祖徳を述ぶる詩」でも、その徳をたたえてはばからない。

沈約(しんやく)441年 - 513年 南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。

述祖徳詩 二首
序曰、太元中、王父龕定淮南。
序にいう。晋の太元(376-396)という年号の間に、祖父謝玄は淮水の南、淝水の戦いに前秦の苻堅に勝って乱を定めた。
負荷世業、尊主隆人。
世々伝えられた仕事として治世の任を引きうけて、君主を尊び人民をさかえさせた。
逮賢相徂謝、君子道消、
しかし徳のすぐれた宰相が死に去り、君主の正しい道が衰えるようになって、
拂衣蕃岳、考ト東山、
諸侯としての任地、会楷の山に衣を振って塵を払い、去って志を潔くして隠居し、亀の甲を焼いてうらないを考え住まいを東山に定めて、
事同樂生之時、志期范蟸之擧。
昔楽毅が燕の昭王のために斉の七十余城か攻め落としたと同じ事栗をしながら、志は越王句践のために呉を滅した後は、五湖に舟を浮かべて行くえをくらまし、優遊自適の生活をした范蠡のような行ないをしたいと願ったのである。

序に曰く、大元中(376-396)王父 准南【わいなん】を龕【かち】定め、世業を負荷【うけつ】ぎ、主を尊び人を隆んにせり。賢相【けんそう】徂【ゆ】き謝【しゃ】して、君子の道消ゆるに逮【およ】ぶ。衣を蕃岳【ばんがく】に払い、ト【ぼく】を東山に考へ。事は楽生の時に同じくし、【こころざし】は范蟸【はんれい】の擧に期す。

miyajima 709330


現代語訳と訳註
(本文)
述祖徳詩 二首
序曰、
太元中、王父龕定淮南。
負荷世業、尊主隆人。
逮賢相徂謝、君子道消、
拂衣蕃岳、考ト東山、
事同樂生之時、志期范蟸之擧。


(下し文)
序に曰く、大元中(376-396)王父 准南【わいなん】を龕【かち】定め、世業を負荷【うけつ】ぎ、主を尊び人を隆んにせり。賢相【けんそう】徂【ゆ】き謝【しゃ】して、君子の道消ゆるに逮【およ】ぶ。衣を蕃岳【ばんがく】に払い、ト【ぼく】を東山に考へ。事は楽生の時に同じくし、【こころざし】は范蟸【はんれい】の擧に期す。


(現代語訳)
序にいう。晋の太元(376-396)という年号の間に、祖父謝玄は淮水の南、淝水の戦いに前秦の苻堅に勝って乱を定めた。
世々伝えられた仕事として治世の任を引きうけて、君主を尊び人民をさかえさせた。
しかし徳のすぐれた宰相が死に去り、君主の正しい道が衰えるようになって、
諸侯としての任地、会楷の山に衣を振って塵を払い、去って志を潔くして隠居し、亀の甲を焼いてうらないを考え住まいを東山に定めて、
昔楽毅が燕の昭王のために斉の七十余城か攻め落としたと同じ事栗をしながら、志は越王句践のために呉を滅した後は、五湖に舟を浮かべて行くえをくらまし、優遊自適の生活をした范蠡のような行ないをしたいと願ったのである。


(訳注)
序曰、太元中、王父龕定淮南。

序に曰く、大元中(376-396)王父 准南【わいなん】を龕【かち】定め、
序にいう。晋の太元(376-396)という年号の間に、祖父謝玄は淮水の南、淝水の戦いに前秦の苻堅に勝って乱を定めた。
○述祖徳 祖父謝玄の徳か述べる詩。○太元 東晋の武帝の年号(376-396)。 ○王父 租父。父の亡父。王は尊称。 ○ 勝つの意味。○淮南 淮水がの南。淝水の戦(383)。


負荷世業、尊主隆人。
世業を負荷【うけつ】ぎ、主を尊び人を隆んにせり。
世々伝えられた仕事として治世の任を引きうけて、君主を尊び人民をさかえさせた。
負荷 任を引きうける。○隆人 人民を栄えさせる。 


逮賢相徂謝、君子道消、
賢相【けんそう】徂【ゆ】き謝【しゃ】して、君子の道消ゆるに逮【およ】ぶ。
しかし徳のすぐれた宰相が死に去り、君主の正しい道が衰えるようになって、
道消 『易経、天地否』「小人道長、君子道消」(小人は道長じ、君子は道消するなり)」とあり、君子の道が消えることをいう。これに基づいている。


拂衣蕃岳、考ト東山
衣を蕃岳【ばんがく】に払い、ト【ぼく】を東山に考へ。
諸侯としての任地、会楷の山に衣を振って塵を払い、去って志を潔くして隠居し、亀の甲を焼いてうらないを考え住まいを東山に定めて、

払衣 衣の俗塵を払い故郷に帰り隠居すること。 ○蕃岳 藩岳、潘岳(はんがく) 247年 - 300年西晋時代の文人。字は安仁。中牟(河南省)の人。陸機と並んで西晋時代を代表する文人。また友人の夏侯湛と「連璧」と称されるほど、類稀な美貌の持ち主としても知られている。 『世説新語』によると、潘岳が弾き弓を持って洛陽の道を歩くと、彼に出会った女性はみな手を取り合って彼を取り囲み、彼が車に乗って出かけると、女性達が果物を投げ入れ、帰る頃には車いっぱいになっていたという。潘岳の作る文章は修辞を凝らした繊細かつ美しいもので、特に死を悼む哀傷の詩文を得意とした。 愛妻の死を嘆く名作「悼亡」詩は以降の詩人に大きな影響を与えた。"諸侯。藩屏。ここでは次句の東山に対して任地の山岳、会稽山の意味も兼ねる。○考ト 亀の甲を焼いて割れ目で古凶を考えて、居を定める。卜居のこと。○東山 始寧の東山。会稽郡上虞県にある。謝安が隠居していたところ。
李白は謝安を詠う詩が多くある。
李白『送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈』
「攜妓東山去。 春光半道催。
遙看若桃李。 雙入鏡中開。」
( 姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り。妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。遙(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。)
李白『憶東山二首其二』
「我今攜謝妓。 長嘯絕人群。
欲報東山客。 開關掃白云。」
(我 今 謝妓を攜え。 長嘯して 人群を絕つ。 東山の客に報わんと欲っす。關を開いて 白云を掃く。) 

事同樂生之時、志期范蟸之擧。
事は楽生の時に同じくし、【こころざし】は范蟸【はんれい】の擧に期す。
昔楽毅が燕の昭王のために斉の七十余城か攻め落としたと同じ事栗をしながら、志は越王句践のために呉を滅した後は、五湖に舟を浮かべて行くえをくらまし、優遊自適の生活をした范蠡のような行ないをしたいと願ったのである。
楽生 楽毅。楽 毅(がく き、生没年不明)は、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。楽毅の先祖は魏の文侯に仕えた楽羊であり、楽羊は文侯の命令により中山国(燕と斉と趙が接する所にあった小国。現在の河北省保定市の周辺。)を滅ぼし、その功により中山の首都霊寿に封じられた。子孫はそのまま霊寿に住み着き、その後復興された中山国に仕えたようである。その縁から楽毅も中山国に仕えていたとも言われているが、彼の前歴は今でも明らかになっていない。燕の昭工の卿、紀元前284年に趙・楚・韓・魏・燕五国の兵を率いて斉を伐ち、斉の七十余城を下した。 ○范蟸【はんれい】越玉句践を助げて呉を滅した(前473年)。後范蟸は五湖(太湖)に浮かんで越を去り野に隠れ、名を鴟夷子皮と変えて産を成し、自ら陶の朱公と号した。
hinode0200

blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首

800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/




唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))350
李白詩INDEX02
李商隠INDEX02
杜甫詩INDEX02

メッセージ

名前
メール
本文
記事検索
livedoor 天気
プロフィール

紀 頌之

Twitter プロフィール
メッセージ

名前
メール
本文
カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
記事検索
  • ライブドアブログ