初入南城 謝霊運(康楽) 詩<60>Ⅱ李白に影響を与えた詩455 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1182
432年元嘉九年48歳
広々とした鄱陽湖(彭蟸湖)を船で渡り、撫河をさかのぼって撫州から支流の姑川、つまり当時の臨川へと旅を続けた。やがて、やっと旅を重ねて霊運は臨川に無事に着任した。そのころの郡治は南城であった。ここに着いてほっとして作ったのが「初めて南城に入る」 の詩である。
初發入南城
弄波不輟手,玩景豈停目。
鄱陽湖を南下し撫河をさかのぼる舟は波かき分け進みを輟むことはない、そしてこの美しい景色、興を深める風景をどうして愛でるのを停めることが出来ようか。
雖未登雲峰,且以歡水宿。
しかし、自分には雲峰の大望があったがいまだに登ることも、叶うこともできてはいない、そういうことではあるけれど、今日は南城の水上旅宿に歓んで泊まることにしよう。
(初めて南城に入る)
波を弄【もてあそ】び 手を輟【や】めず,景を玩【もてあそ】び 豈 目を停【とど】めんや。
未だ雲峰【うんほう】に登らずと雖ども,且に以って水宿を歓ばんとす。

現代語訳と訳註
(本文) 初發入南城
弄波不輟手,玩景豈停目。
雖未登雲峰,且以歡水宿。
(下し文) (初めて南城に入る)
波を弄【もてあそ】び 手を輟【や】めず,景を玩【もてあそ】び 豈 目を停【とど】めんや。
未だ雲峰【うんほう】に登らずと雖ども,且に以って水宿を歓ばんとす。
(現代語訳)
鄱陽湖を南下し撫河をさかのぼる舟は波かき分け進みを輟むことはない、そしてこの美しい景色、興を深める風景をどうして愛でるのを停めることが出来ようか。
しかし、自分には雲峰の大望があったがいまだに登ることも、叶うこともできてはいない、そういうことではあるけれど、今日は南城の水上旅宿に歓んで泊まることにしよう。
(訳注)
初發入南城
・撫州、臨川 257年(太平2年)、臨川郡が設置された。南北朝時代梁は臨川郡の一部に巴山郡を設置した。589年(開皇9年)、臨川郡及び巴山郡に新に撫州を設置、洪州総管府の管轄とし、撫州の初見となった。
臨川 麻姑山の南城の李白『金陵江上遇蓬池隱者』「心愛名山游、身隨名山遠。羅浮麻姑台、此去或未返。」
謝靈運についての資料が残されているのは、史実ではすべて支配者側の者ばかりで隠遁していたものが謀反を企てたということで詮議されるというのも解せない点ではある。謝霊運の詩を系統的に見ているが、若い時にすこし切れやすかった詩人としか思えない。歳をとって、やるせなさを感じはするが、それ以上は感じない。李白の場合随所に野心を感じさせる内容の詩があるのとは違っている。
弄波不輟手,玩景豈停目。
波を弄【もてあそ】び 手を輟【や】めず,景を玩【もてあそ】び 豈 目を停【とど】めんや。
鄱陽湖を南下し撫河をさかのぼる舟は波かき分け進みを輟むことはない、そしてこの美しい景色、興を深める風景をどうして愛でるのを停めることが出来ようか。
雖未登雲峰,且以歡水宿。
未だ雲峰【うんほう】に登らずと雖ども,且に以って水宿を歓ばんとす。
しかし、自分には雲峰の大望があったがいまだに登ることも、叶うこともできてはいない、そういうことではあるけれど、今日は南城の水上旅宿に歓んで泊まることにしよう。
謝霊運と仏教との関係
謝霊運は廬山の慧遠を尋ねた時、遠師に心服して留まった。この時から仏教に造詣を深くし、慧厳・慧観と共に、法顕訳の『六巻涅槃経』と曇無讖訳の『北本涅槃経』を統合改訂し、南本『大般涅槃経』を完成させ、竺道生によって提唱された頓悟成仏(速やかに仏と成る事ができる)説を研究・検証した「弁宗論」などを著した。
また、彼は鳩摩羅什訳出の『金剛般若波羅蜜経』を注釈した『金剛般若経注』なども著している。なお同名の注釈書としては僧肇が撰著した同名の『金剛般若経注』が最初とされる。しかし僧肇撰の説には多くの疑問が提出されており、宋代の曇応の『金剛般若波羅蜜経采微』などには「謝霊運曰く」として多く引用され、僧肇の注釈書と類似点が多い。このことから近代に至っては、僧肇撰とされる「金剛般若経注」が実は謝霊運の著作である可能性が高いといわれている。彼の著作物に関してはいまだ充分に検証されたものではないため、今後これらを総合的に検証し直す必要性が望まれている。
もっとも謝霊運は、仏教への造詣はあったものの、その深い奥義を身をもって体現することがなく、往々にして不遜な態度があったと伝えられることから、仏教徒としての評価は決して高いものではない。吉田兼好の『徒然草』第108段に「謝霊運は、法華の筆受なりしかども、心常に風雲の思を観ぜしかば、恵遠、白蓮の交りを許さざりき」とあるように、慧遠の白蓮社に入ることが許されなかったといわれる[1]。
中国,江西省北部にある湖、鄱陽湖に流入する河川は。贛江(かんこう),撫江,信江,修水,鄱江などの川が流入する。南北両湖に分かれ,湖水は北の湖口を経て長江(揚子江)に注ぐ。面積3976km2,湖面の標高21mで中国最大の淡水湖である。古くは彭蠡(ほうれい),彭沢と呼ばれ,隋代以降に鄱陽湖と呼ばれる。都昌・呉城の間で湖面が狭くなり,このくびれた部分を境にして北湖と南湖に分かれる。南湖は江西省のほとんどの水系を集め,増水期には内陸まで浸水し最深部は十数mに達する。・・・