漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
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ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
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漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

李白に影響の詩 謝霊雲の左遷

初入南城 謝霊運(康楽) 詩<60>Ⅱ李白に影響を与えた詩455 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1182

初入南城 謝霊運(康楽) 詩<60>Ⅱ李白に影響を与えた詩455 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1182


432年元嘉九年48歳

広々とした鄱陽湖(彭蟸湖)を船で渡り、撫河をさかのぼって撫州から支流の姑川、つまり当時の臨川へと旅を続けた。やがて、やっと旅を重ねて霊運は臨川に無事に着任した。そのころの郡治は南城であった。ここに着いてほっとして作ったのが「初めて南城に入る」 の詩である。

初發入南城
弄波不輟手,玩景豈停目。
鄱陽湖を南下し撫河をさかのぼる舟は波かき分け進みを輟むことはない、そしてこの美しい景色、興を深める風景をどうして愛でるのを停めることが出来ようか。
雖未登雲峰,且以歡水宿。

しかし、自分には雲峰の大望があったがいまだに登ることも、叶うこともできてはいない、そういうことではあるけれど、今日は南城の水上旅宿に歓んで泊まることにしよう。

(初めて南城に入る)
波を弄【もてあそ】び 手を輟【や】めず,景を玩【もてあそ】び 豈 目を停【とど】めんや。
未だ雲峰【うんほう】に登らずと雖ども,且に以って水宿を歓ばんとす。

a謝霊運永嘉ルート

現代語訳と訳註
(本文)
初發入南城
弄波不輟手,玩景豈停目。
雖未登雲峰,且以歡水宿。


(下し文) (初めて南城に入る)
波を弄【もてあそ】び 手を輟【や】めず,景を玩【もてあそ】び 豈 目を停【とど】めんや。
未だ雲峰【うんほう】に登らずと雖ども,且に以って水宿を歓ばんとす。


(現代語訳)
鄱陽湖を南下し撫河をさかのぼる舟は波かき分け進みを輟むことはない、そしてこの美しい景色、興を深める風景をどうして愛でるのを停めることが出来ようか。
しかし、自分には雲峰の大望があったがいまだに登ることも、叶うこともできてはいない、そういうことではあるけれど、今日は南城の水上旅宿に歓んで泊まることにしよう。


(訳注)
初發入南城

・撫州、臨川 257年(太平2年)、臨川郡が設置された。南北朝時代梁は臨川郡の一部に巴山郡を設置した。589年(開皇9年)、臨川郡及び巴山郡に新に撫州を設置、洪州総管府の管轄とし、撫州の初見となった。
臨川 麻姑山の南城の李白『金陵江上遇蓬池隱者』「心愛名山游、身隨名山遠。羅浮麻姑台、此去或未返。」
謝靈運についての資料が残されているのは、史実ではすべて支配者側の者ばかりで隠遁していたものが謀反を企てたということで詮議されるというのも解せない点ではある。謝霊運の詩を系統的に見ているが、若い時にすこし切れやすかった詩人としか思えない。歳をとって、やるせなさを感じはするが、それ以上は感じない。李白の場合随所に野心を感じさせる内容の詩があるのとは違っている。


弄波不輟手,玩景豈停目。
波を弄【もてあそ】び 手を輟【や】めず,景を玩【もてあそ】び 豈 目を停【とど】めんや。
鄱陽湖を南下し撫河をさかのぼる舟は波かき分け進みを輟むことはない、そしてこの美しい景色、興を深める風景をどうして愛でるのを停めることが出来ようか。


雖未登雲峰,且以歡水宿。
未だ雲峰【うんほう】に登らずと雖ども,且に以って水宿を歓ばんとす。
しかし、自分には雲峰の大望があったがいまだに登ることも、叶うこともできてはいない、そういうことではあるけれど、今日は南城の水上旅宿に歓んで泊まることにしよう。

謝霊運と仏教との関係
謝霊運は廬山の慧遠を尋ねた時、遠師に心服して留まった。この時から仏教に造詣を深くし、慧厳・慧観と共に、法顕訳の『六巻涅槃経』と曇無讖訳の『北本涅槃経』を統合改訂し、南本『大般涅槃経』を完成させ、竺道生によって提唱された頓悟成仏(速やかに仏と成る事ができる)説を研究・検証した「弁宗論」などを著した。
また、彼は鳩摩羅什訳出の『金剛般若波羅蜜経』を注釈した『金剛般若経注』なども著している。なお同名の注釈書としては僧肇が撰著した同名の『金剛般若経注』が最初とされる。しかし僧肇撰の説には多くの疑問が提出されており、宋代の曇応の『金剛般若波羅蜜経采微』などには「謝霊運曰く」として多く引用され、僧肇の注釈書と類似点が多い。このことから近代に至っては、僧肇撰とされる「金剛般若経注」が実は謝霊運の著作である可能性が高いといわれている。彼の著作物に関してはいまだ充分に検証されたものではないため、今後これらを総合的に検証し直す必要性が望まれている。
もっとも謝霊運は、仏教への造詣はあったものの、その深い奥義を身をもって体現することがなく、往々にして不遜な態度があったと伝えられることから、仏教徒としての評価は決して高いものではない。吉田兼好の『徒然草』第108段に「謝霊運は、法華の筆受なりしかども、心常に風雲の思を観ぜしかば、恵遠、白蓮の交りを許さざりき」とあるように、慧遠の白蓮社に入ることが許されなかったといわれる[1]。

中国,江西省北部にある湖、鄱陽湖に流入する河川は。贛江(かんこう),撫江,信江,修水,鄱江などの川が流入する。南北両湖に分かれ,湖水は北の湖口を経て長江(揚子江)に注ぐ。面積3976km2,湖面の標高21mで中国最大の淡水湖である。古くは彭蠡(ほうれい),彭沢と呼ばれ,隋代以降に鄱陽湖と呼ばれる。都昌・呉城の間で湖面が狭くなり,このくびれた部分を境にして北湖と南湖に分かれる。南湖は江西省のほとんどの水系を集め,増水期には内陸まで浸水し最深部は十数mに達する。・・・

初去郡 謝靈運<34>#4 詩集 415  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1062

初去郡 謝靈運<34>#4 詩集 415  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1062
文選巻二十六「行旅」(初めて郡を去る)

親しい友人や親戚などの切なる忠告をも振り切って職を辞し、故郷に帰ることとなったのは、423年景平元年、謝霊運39歳の秋であった。

謝霊運は賦やら詩を借りて、その複雑なる感情を歌っている。

賦では、「禄を辞する賦」を作っている。
辭祿賦 謝靈運「藝文類聚」巻三十六
詩では、その感慨を歌ったものに「初めて郡を去る」 の作があり、『文選』 の巻二十六の「行旅」の部に選ばれている。ここでは詩を4回に分割して見ていく。
其の4回目。


初去郡#1
彭薛裁知恥,貢公未遺榮。
或可優貪競,豈足稱達生?
伊余秉微尚,拙訥謝浮名。
廬園當棲巖,卑位代躬耕。」
#2
顧己雖自許,心跡猶未並。
無庸妨周任,有疾像長卿。
畢娶類尚子,薄遊似邴生。
恭承古人意,促裝反柴荊。」
#3
牽絲及元興,解龜在景平。
負心二十載,於今廢將迎。
理棹遄還期,遵渚騖脩坰。
溯溪終水涉,登嶺始山行。」
#4
野曠沙岸淨,天高秋月明。
野は広がり、砂の岸は続き水はどこまでも清い、そして、天は高く澄みわたり、秋の月は明るく照らしている。
憩石挹飛泉,攀林搴落英。
岩石の上で憩い多岐に飛び落ちる滝の水を立ち汲み取る、そして林の木々の枝を引き寄せて落ち始めた花房を取るのである。
戰勝臞者肥,止監流歸停。
韓非子にいう「戦いに勝つものは勝負の心配をしなくて良いからこえるものだ」と、また「明鏡止水」といわれるように考えをするということは流れを止めてでもじっくりと考えるのだ。流れる水も最後には泊まるのである。
即是羲唐化,獲我擊壤聲!」

すなわち三皇五帝の時代にその徳のある政治によって政治が無為なものとされるようになったことと、わたしにとって堯の時老人が土壌を撃って太平を謳歌した故事によりよく理解できるものとしたのである。(今の政治に徳がないために民が苦しんでいるのだ。)

#1
彭薛【ほうせつ】は裁【わず】かに恥を知り、貢公【こうこう】は未だ栄【えい】れを遺【わす】れず。
或いは貪競【たんけい】いて優【まさ】る可し、豈達生【たつせい】と称するに足らんや。
伊【こ】れ余【われ】に徽尚【びしょう】を秉【と】り、拙訥【せつとつ】にして浮名【ふめい】を謝せり
廬園【ろえん】をば棲巌【せいがん】に当たり、卑位【ひい】をは窮耕【きゅうこう】に代えたり。
#2
己れを顧みて自から許すと雖も、心跡【しんせき】は猶お未だ幷【あ】わず。
庸【よう】は無く周任【しゅうにん】を妨なう、
やま                   ちようけい  しばしようじ上    に
疾い有り 長卿【ちょうけい】に像【に】たり。
娶【しゅ】を畢【おわ】るは尚子【しょうし】に類【るい】し、薄遊するは 邴生【へいせい】に似たり。
恭【つつし】みて古人の意を承け、装を促し柴荊【さいけい】に返える。
#3
絲を牽けるは元興【げんこう】に及び、亀を解くは景平【けいへい】に在り。
心に負【そむ】くこと二十載、今に於いて将迎【しょうげい】を廢す。
棹【さお】を理めて還期を遄【かえ】し,渚に遵【したが】いて脩坰【しゅうけい】に騖【は】す。
溪【けい】を溯【さかのぼ】って終【つい】に水涉【すいしょう】し、嶺に登って始めて山行す。
#4
野は曠く沙岸【さがん】は浄く、天高くして秋月は明らかなり。
石に憩いて飛泉【ひせん】を挹【く】み、林に攀【よ】じ落英【らくえい】を搴【と】る。
戦い勝って臞者【くしゃ】は肥え、止【し】に鑑【かんが】みて流れは停に帰す。
是れ義唐【ぎとう】の化に即【つ】き、我 擊壤【げきじょう】の情を獲【え】たり。


現代語訳と訳註
(本文)
#4
野曠沙岸淨,天高秋月明。
憩石挹飛泉,攀林搴落英。
戰勝臞者肥,止監流歸停。
即是羲唐化,獲我擊壤聲!」


(下し文)#4
野は曠く沙岸【さがん】は浄く、天高くして秋月は明らかなり。
石に憩いて飛泉【ひせん】を挹【く】み、林に攀【よ】じ落英【らくえい】を搴【と】る。
戦い勝って臞者【くしゃ】は肥え、止【し】に鑑【かんが】みて流れは停に帰す。
是れ義唐【ぎとう】の化に即【つ】き、我 擊壤【げきじょう】の情を獲【え】たり。


(現代語訳)
野は広がり、砂の岸は続き水はどこまでも清い、そして、天は高く澄みわたり、秋の月は明るく照らしている。
岩石の上で憩い多岐に飛び落ちる滝の水を立ち汲み取る、そして林の木々の枝を引き寄せて落ち始めた花房を取るのである。
韓非子にいう「戦いに勝つものは勝負の心配をしなくて良いからこえるものだ」と、また「明鏡止水」といわれるように考えをするということは流れを止めてでもじっくりと考えるのだ。流れる水も最後には泊まるのである。
すなわち三皇五帝の時代にその徳のある政治によって政治が無為なものとされるようになったことと、わたしにとって堯の時老人が土壌を撃って太平を謳歌した故事によりよく理解できるものとしたのである。(今の政治に徳がないために民が苦しんでいるのだ。)


(訳注) #4
野曠沙岸淨,天高秋月明。
野は広がり、砂の岸は続き水はどこまでも清い、そして、天は高く澄みわたり、秋の月は明るく照らしている。


憩石挹飛泉,攀林搴落英。
岩石の上で憩い多岐に飛び落ちる滝の水を立ち汲み取る、そして林の木々の枝を引き寄せて落ち始めた花房を取るのである。


戰勝臞者肥,止監流歸停。
韓非子にいう「戦いに勝つものは勝負の心配をしなくて良いからこえるものだ」と、また「明鏡止水」といわれるように考えをするということは流れを止めてでもじっくりと考えるのだ。流れる水も最後には泊まるのである。
戰勝臞者肥 『韓非子、喻老』「子夏曰:「吾入見先王之義則榮之,出見富貴之樂又榮之,兩者戰於胸中,未知勝負,故臞。今先王之義勝,故肥。」(子夏曰く:吾入りて 先王の義を見れば 則ち之を榮とし,出でて富貴を見れば 之を樂とし又 之を榮とす,兩者胸中に於て戰ふ,未だ勝負を知らず,故に臞せたり。今先王の義を見て勝てり,故に肥えたり。)○止監流歸停 文子(人は流水に鑑(かんが)みること莫く、止水に鑑みる。 →明鏡止水)


即是羲唐化,獲我擊壤聲!」
すなわち三皇五帝の時代にその徳のある政治によって政治が無為なものとされるようになったことと、わたしにとって堯の時老人が土壌を撃って太平を謳歌した故事によりよく理解できるものとしたのである。(今の政治に徳がないために民が苦しんでいるのだ。)
羲唐化 三皇五帝のことで、伏義と唐堯とが無爲にして世を収めた時の天子の民に対する影響。○擊壤 堯の時老人が土壌を撃って太平を謳歌した故事。撃壤 〔撃壌歌の故事から〕 (1)地面をたたいて拍子をとること。平和な世の中を楽しむありさまをいう。 →鼓腹(こふく)撃壌 (2)中国の遊び。木靴に似た木を地面に立て、同じ形の別の木でねらいうつ。下駄打ち。○撃壤の壤には、中国古代の遊具であるとする説と、土壌のこととする説がある。遊具であるとすれば、この歌は遊びの歌ということになろうし、土壌であるとすれば、労働歌ということになるのだろうか。

初去郡 謝靈運<34>#3 詩集 414  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1059

初去郡 謝靈運<34>#3 詩集 414  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1059
文選巻二十六「行旅」(初めて郡を去る)

親しい友人や親戚などの切なる忠告をも振り切って職を辞し、故郷に帰ることとなったのは、423年景平元年、謝霊運39歳の秋であった。
謝霊運は賦やら詩を借りて、その複雑なる感情を歌っている。

賦では、「禄を辞する賦」を作っている。
辭祿賦 謝靈運「藝文類聚」巻三十六
詩では、その感慨を歌ったものに「初めて郡を去る」 の作があり、『文選』 の巻二十六の「行旅」の部に選ばれている。ここでは詩を4回に分割して見ていく。
其の3回目。

初去郡#1
彭薛裁知恥,貢公未遺榮。
或可優貪競,豈足稱達生?
伊余秉微尚,拙訥謝浮名。
廬園當棲巖,卑位代躬耕。」
#2
顧己雖自許,心跡猶未並。
無庸妨周任,有疾像長卿。
畢娶類尚子,薄遊似邴生。
恭承古人意,促裝反柴荊。」
#3
牽絲及元興,解龜在景平。
初めて官に仕えて印綬の紐を垂れ牽いたのは晉の安帝の元興年間になっていたが、腰の金亀の飾り物を解いて官を退くことしは景平元年になってである。
負心二十載,於今廢將迎。
私は退隠の志を持ちながら、それに背いて仕えること二十年、今はじめて荘子にいう心が外物に順って送迎するのをやめて、鏡がものにあって照らすような態度で接するようになった。
理棹遄還期,遵渚騖脩坰。
棹を整え舟を装いをして帰る準備を急いでして川の渚に沿って長い郊野に馬を馳せるのだ。
溯溪終水涉,登嶺始山行。」
谷川をさかのぼって竟に水を渡り、山の峰に登って初めて尾根伝いに山路を行く。
#4
野曠沙岸淨,天高秋月明。
憩石挹飛泉,攀林搴落英。
戰勝臞者肥,止監流歸停。
即是羲唐化,獲我擊壤聲!」


#1
彭薛【ほうせつ】は裁【わず】かに恥を知り、貢公【こうこう】は未だ栄【えい】れを遺【わす】れず。
或いは貪競【たんけい】いて優【まさ】る可し、豈達生【たつせい】と称するに足らんや。
伊【こ】れ余【われ】に徽尚【びしょう】を秉【と】り、拙訥【せつとつ】にして浮名【ふめい】を謝せり
廬園【ろえん】をば棲巌【せいがん】に当たり、卑位【ひい】をは窮耕【きゅうこう】に代えたり。
#2
己れを顧みて自から許すと雖も、心跡【しんせき】は猶お未だ幷【あ】わず。
庸【よう】は無く周任【しゅうにん】を妨なう、
やま                   ちようけい  しばしようじ上    に
疾い有り 長卿【ちょうけい】に像【に】たり。
娶【しゅ】を畢【おわ】るは尚子【しょうし】に類【るい】し、薄遊するは 邴生【へいせい】に似たり。
恭【つつし】みて古人の意を承け、装を促し柴荊【さいけい】に返える。
#3
絲を牽けるは元興【げんこう】に及び、亀を解くは景平【けいへい】に在り。
心に負【そむ】くこと二十載、今に於いて将迎【しょうげい】を廢す。
棹【さお】を理めて還期を遄【かえ】し,渚に遵【したが】いて脩坰【しゅうけい】に騖【は】す。
溪【けい】を溯【さかのぼ】って終【つい】に水涉【すいしょう】し、嶺に登って始めて山行す。

#4
野は曠く沙岸【さがん】は浄く、天高くして秋月は明らかなり。
石に憩いて飛泉【ひせん】を挹【く】み、林に攀【よ】じ落英【らくえい】を搴【と】る。
戦い勝って臞者【くしゃ】は肥え、止【し】に鑑【かんが】みて流れは停に帰す。
是れ義唐【ぎとう】の化に即【つ】き、我 擊壤【げきじょう】の情を獲【え】たり。


現代語訳と訳註
(本文)
#3
牽絲及元興,解龜在景平。
負心二十載,於今廢將迎。
理棹遄還期,遵渚騖脩坰。
溯溪終水涉,登嶺始山行。」


(下し文)#3
絲を牽けるは元興【げんこう】に及び、亀を解くは景平【けいへい】に在り。
心に負【そむ】くこと二十載、今に於いて将迎【しょうげい】を廢す。
棹【さお】を理めて還期を遄【かえ】し,渚に遵【したが】いて脩坰【しゅうけい】に騖【は】す。
溪【けい】を溯【さかのぼ】って終【つい】に水涉【すいしょう】し、嶺に登って始めて山行す。

 
(現代語訳)
初めて官に仕えて印綬の紐を垂れ牽いたのは晉の安帝の元興年間になっていたが、腰の金亀の飾り物を解いて官を退くことしは景平元年になってである。
私は退隠の志を持ちながら、それに背いて仕えること二十年、今はじめて荘子にいう心が外物に順って送迎するのをやめて、鏡がものにあって照らすような態度で接するようになった。
棹を整え舟を装いをして帰る準備を急いでして川の渚に沿って長い郊野に馬を馳せるのだ。
谷川をさかのぼって竟に水を渡り、山の峰に登って初めて尾根伝いに山路を行く。


(訳注) #3
牽絲及元興,解龜在景平。
初めて官に仕えて印綬の紐を垂れ牽いたのは晉の安帝の元興年間になっていたが、腰の金亀の飾り物を解いて官を退くことしは景平元年になってである。
牽糸 405年初めて仕えたこと。印綬の組み糸を垂れて牽く。○及元典 元興(晉の安帝の年号)改元の時になっていた。晋(晉、しん、265年 - 420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けている○解亀 腰の金色の飾り物を解いて辞職すること。○景平 宋の少帝423・424の年号。宋(そう、420年 - 479年)は、中国南北朝時代の南朝の王朝。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓から劉宋とも呼ばれる。420年に劉裕(高祖・武帝)が、東晋の恭帝から禅譲を受けて、王朝を開いた。東晋以来、貴族勢力が強かったものの、貴族勢力との妥協のもと政治を行なった。文帝の治世は元嘉の治と呼ばれ、国政は安定したが、文帝の治世の末期には北魏の侵攻に苦しむようになった。
 

負心二十載,於今廢將迎。
私は退隠の志を持ちながら、それに背いて仕えること二十年、今はじめて荘子にいう心が外物に順って送迎するのをやめて、鏡がものにあって照らすような態度で接するようになった。
負心 隠退の志にそむく。○将迎 荘子知北遊篇に「将【おく】る所有る無く、迎ふる所有る無し」と。“聖人は物の世界に身を置いて物を傷つけることがない。物を傷つけることがない聖人に対しては物の方でも傷つけようがないのである。そして、このように物を傷つけ己れを傷つけることのないものだけが他人と交わって無心に送り迎えすることができる“ということにもとづいている。


理棹遄還期,遵渚騖脩坰。
棹を整え舟を装いをして帰る準備を急いでして川の渚に沿って長い郊野に馬を馳せるのだ。
理棹 舟、棹を整える。○遄還期 帰る準備。○遵渚 川の渚に沿う。○騖脩坰 長い郊野。


溯溪終水涉,登嶺始山行。」
谷川をさかのぼって竟に水を渡り、山の峰に登って初めて尾根伝いに山路を行く。
溯溪 谷川をさかのぼる。○終水涉 竟に水を渡る。○登嶺始山行 山の峰に登って初めて尾根伝いに山路を行く。

初去郡 謝靈運<34>#2 詩集 413  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1056

初去郡 謝靈運<34>#2 詩集 413  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1056
文選巻二十六「行旅」(初めて郡を去る)


親しい友人や親戚などの切なる忠告をも振り切って職を辞し、故郷に帰ることとなったのは、423年景平元年、謝霊運39歳の秋であった。
謝霊運は賦やら詩を借りて、その複雑なる感情を歌っている。

賦では、「禄を辞する賦」を作っている。
辭祿賦 謝靈運「藝文類聚」巻三十六
詩では、その感慨を歌ったものに「初めて郡を去る」 の作があり、『文選』 の巻二十六の「行旅」の部に選ばれている。ここでは詩を4回に分割して見ていく。
其の2回目。



初去郡#1
彭薛裁知恥,貢公未遺榮。
或可優貪競,豈足稱達生?
伊余秉微尚,拙訥謝浮名。
廬園當棲巖,卑位代躬耕。」
#2
顧己雖自許,心跡猶未並。

このようにこれまでの自分のことを顧みて自ら許してはいるけれど、心に誓ったことと実際のおこないとやはり一致させていないのだ。
無庸妨周任,有疾像長卿。
私の力量は、論語にいう古の良史である周任に比べることのできるものがなく、疾病だけは司馬相加に似たものがある。
畢娶類尚子,薄遊似邴生。
「子供のために嫁を取ること」が終わったことは漢の尚長に似ているし、薄い禄を受けて官命をうけて故郷を出ることは邴丹に似ている。
恭承古人意,促裝反柴荊。」
つつしんで以上の古人の心を承けつぎ、急ぎ旅装をととのえて柴の門、荊の扉のわが家に返りたいものだ。
#3
牽絲及元興,解龜在景平。
負心二十載,於今廢將迎。
理棹遄還期,遵渚騖脩坰。
溯溪終水涉,登嶺始山行。」
#4
野曠沙岸淨,天高秋月明。
憩石挹飛泉,攀林搴落英。
戰勝臞者肥,止監流歸停。
即是羲唐化,獲我擊壤聲!」


(初めて郡を去る)#1
彭薛【ほうせつ】は裁【わず】かに恥を知り、貢公【こうこう】は未だ栄【えい】れを遺【わす】れず。
或いは貪競【たんけい】いて優【まさ】る可し、豈達生【たつせい】と称するに足らんや。
伊【こ】れ余【われ】に徽尚【びしょう】を秉【と】り、拙訥【せつとつ】にして浮名【ふめい】を謝せり
廬園【ろえん】をば棲巌【せいがん】に当たり、卑位【ひい】をは窮耕【きゅうこう】に代えたり。
#2
己れを顧みて自から許すと雖も、心跡【しんせき】は猶お未だ幷【あ】わず。
庸【よう】は無く周任【しゅうにん】を妨なう、疾い有り 長卿【ちょうけい】に像【に】たり。
娶【しゅ】を畢【おわ】るは尚子【しょうし】に類【るい】し、薄遊するは 邴生【へいせい】に似たり。
恭【つつし】みて古人の意を承け、装を促し柴荊【さいけい】に返える。
#3
絲を牽けるは元興【げんこう】に及び、亀を解くは景平【けいへい】に在り。
心に負【そむ】くこと二十載、今に於いて将迎【しょうげい】を廢す。
棹【さお】を理めて還期を遄【かえ】し,渚に遵【したが】いて脩坰【しゅうけい】に騖【は】す。
溪【けい】を溯【さかのぼ】って終【つい】に水涉【すいしょう】し、嶺に登って始めて山行す。
#4
野は曠く沙岸【さがん】は浄く、天高くして秋月は明らかなり。
石に憩いて飛泉【ひせん】を挹【く】み、林に攀【よ】じ落英【らくえい】を搴【と】る。
戦い勝って臞者【くしゃ】は肥え、止【し】に鑑【かんが】みて流れは停に帰す。
是れ義唐【ぎとう】の化に即【つ】き、我 擊壤【げきじょう】の情を獲【え】たり。


現代語訳と訳註
(本文)
#2
顧己雖自許,心跡猶未並。
無庸妨周任,有疾像長卿。
畢娶類尚子,薄遊似邴生。
恭承古人意,促裝反柴荊。」


(下し文)#2
己れを顧みて自から許すと雖も、心跡【しんせき】は猶お未だ幷【あ】わず。
庸【よう】は無く周任【しゅうにん】を妨なう、
やま                   ちようけい  しばしようじ上    に
疾い有り 長卿【ちょうけい】に像【に】たり。
娶【しゅ】を畢【おわ】るは尚子【しょうし】に類【るい】し、薄遊するは 邴生【へいせい】に似たり。
恭【つつし】みて古人の意を承け、装を促し柴荊【さいけい】に返える。

(現代語訳)
このようにこれまでの自分のことを顧みて自ら許してはいるけれど、心に誓ったことと実際のおこないとやはり一致させていないのだ。
私の力量は、論語にいう古の良史である周任に比べることのできるものがなく、疾病だけは司馬相加に似たものがある。
「子供のために嫁を取ること」が終わったことは漢の尚長に似ているし、薄い禄を受けて官命をうけて故郷を出ることは邴丹に似ている。
つつしんで以上の古人の心を承けつぎ、急ぎ旅装をととのえて柴の門、荊の扉のわが家に返りたいものだ。


(訳注) #2
顧己雖自許,心跡猶未並。
このようにこれまでの自分のことを顧みて自ら許してはいるけれど、心に誓ったことと実際のおこないとやはり一致させていないのだ。
心跡猶末井 心と行跡とは一致しない。

無庸妨周任,有疾像長卿。
私の力量は、論語にいう古の良史である周任に比べることのできるものがなく、疾病だけは司馬相加に似たものがある。
 力量、手柄。○周任 論語季氏篇「孔子曰、求、周任有言、曰、陳力就列、不能者止、危而不持、顛而不扶、則将焉用彼相矣、且爾言過矣、児虎出於甲、亀玉毀於櫝中、是誰之過与。」(孔子曰く、求よ、周任(しゅうにん)に言あり曰く、力を陳べて(のべて)列に就き、能わざれば止む(やむ)と。危うくして持せず、顛(くつがえ)って扶け(たすけ)ずんば、則ち将た(はた)焉んぞ(いずくんぞ)彼(か)の相(しょう)を用いん。且つ爾(なんじ)の言は過てり。虎・児(こじ)、甲より出で、亀玉(きぎょく)、櫝中に毀たれば(こぼたれば)、是れ誰の過ちぞや。)に「孔子曰く、求、周任言へる有りて曰く、力を陳べて列(官職)に就き、能はざれば止むと」とある。「周任古之良史也。」古の良史という。○像長卿 司馬長卿(相如)に似ている。漢書に「司馬長卿、消渇有疾、閑居不慕官爵」(司馬長卿に消渇の疾有り、閑居して官爵を慕はず)とある。相如は有る段階から官職や爵位にまるで興味を示さなくなり、病気と称して家で文君と共に気楽に暮らした。相如にはどもりと糖尿病の持病があった。


畢娶類尚子,薄遊似邴生。
「子供のために嫁を取ること」が終わったことは漢の尚長に似ているし、薄い禄を受けて官命をうけて故郷を出ることは邴丹に似ている。
尚子 尚長、字は子平。男女の子供が結婚した後は、家事に関係せず、死んだようにして暮らした(高士伝)。○薄遊 遊宦(役人生活)をなすことが薄い。薄禄に甘んじたこと。○邴生 漢書「邴丹曼容養志自修,為官不肯過六百石,輒自免去。」(邴生、名は丹、字は曼容、志を養い自ら修む。官と為りて敢えて六百石を過ぎず、輒ち免じて去ると。)


恭承古人意,促裝反柴荊。」
つつしんで以上の古人の心を承けつぎ、急ぎ旅装をととのえて柴の門、荊の扉のわが家に返りたいものだ。
促装 旅装を急ぎ着ける。

初去郡 謝靈運<34>#1 詩集 412  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ 1053

初去郡 謝靈運<34>#1 詩集 412  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ 1053
文選巻二十六「行旅」(初めて郡を去る)


永嘉を去る
『宋書』の本伝に次のように記されている。

郡に在り三周し、疾いと称して職を去る。従弟の晦【かい】・曜【よう】・弘徴【こうび】等並びに書を与えて之を止むるも従わず。


謝霊運は永嘉に着任してから熱心にその地方の政治に当たりつつ、また、心の寂しさを慰めるため、付近の名勝を訪ねているうちに、またたくまに一年は夢のごとく去ってしまった。この時代では格差が大きく小さな田舎町ではともに志を語り、学にいそしむ友もないことで、病を回復するまでこの地に留まる意欲はなかった。肝臓系の病気の場合、倦怠感でたまらなかったものである。謝霊運にとっては、一日も早く親戚や親しい友人のいる町に帰りたいと思うのであった。


一方で、永嘉にいるあいだ、中央政府の動向は謝霊運にとって少しも有利な方向にはならなかった。結局、親しい友人や親戚などの切なる忠告をも振り切って職を辞し、故郷に帰ることとなったのは、423年景平元年、謝霊運39歳の秋であった。

謝霊運は賦やら詩を借りて、その複雑なる感情を歌っている。

賦では、「禄を辞する賦」を作っている。
辭祿賦 謝靈運「藝文類聚」巻三十六
詩では、その感慨を歌ったものに「初めて郡を去る」 の作があり、『文選』 の巻二十六の「行旅」の部に選ばれている。ここでは詩を4回に分割して見ていく。


初去郡#1
初めて永嘉郡を去る。
彭薛裁知恥,貢公未遺榮。
漢の彭宣と薛広徳は宦官の王奔の専横に対し恥を知って朝を辞したが、貢禹は皇帝を信じて仕官の栄誉を忘れなかった。
或可優貪競,豈足稱達生?
或いは爵禄をむさぼり競うるよりは優っているであるべきだが、どうして人生の真実のありかたに通じるに足りるというのであろうか。
伊余秉微尚,拙訥謝浮名。
私はここでとるにたりない主義を守り、世なれをしていない口下手な身であるから、世間の根拠のない名誉を辞退したのだ。
廬園當棲巖,卑位代躬耕。」

私は廬や園を山林の巌穴の代わりとして住んだし、卑しい地位の太守の官に就任して自分で農耕する代わりとした。

#2
顧己雖自許,心跡猶未並。
無庸妨周任,有疾像長卿。
畢娶類尚子,薄遊似邴生。
恭承古人意,促裝反柴荊。」
#3
牽絲及元興,解龜在景平。
負心二十載,於今廢將迎。
理棹遄還期,遵渚騖脩坰。
溯溪終水涉,登嶺始山行。」
#4
野曠沙岸淨,天高秋月明。
憩石挹飛泉,攀林搴落英。
戰勝臞者肥,止監流歸停。
即是羲唐化,獲我擊壤聲!」


(初めて郡を去る)#1
彭薛【ほうせつ】は裁【わず】かに恥を知り、貢公【こうこう】は未だ栄【えい】れを遺【わす】れず。
或いは貪競【たんけい】いて優【まさ】る可し、豈達生【たつせい】と称するに足らんや。
伊【こ】れ余【われ】に徽尚【びしょう】を秉【と】り、拙訥【せつとつ】にして浮名【ふめい】を謝せり
廬園【ろえん】をば棲巌【せいがん】に当たり、卑位【ひい】をは窮耕【きゅうこう】に代えたり。
#2
己れを顧みて自から許すと雖も、心跡【しんせき】は猶お未だ幷【あ】わず。
庸【よう】は無く周任【しゅうにん】を妨なう、
やま                   ちようけい  しばしようじ上    に
疾い有り 長卿【ちょうけい】に像【に】たり。
娶【しゅ】を畢【おわ】るは尚子【しょうし】に類【るい】し、薄遊するは 邴生【へいせい】に似たり。
恭【つつし】みて古人の意を承け、装を促し柴荊【さいけい】に返える。
#3
絲を牽けるは元興【げんこう】に及び、亀を解くは景平【けいへい】に在り。
心に負【そむ】くこと二十載、今に於いて将迎【しょうげい】を廢す。
棹【さお】を理めて還期を遄【かえ】し,渚に遵【したが】いて脩坰【しゅうけい】に騖【は】す。
溪【けい】を溯【さかのぼ】って終【つい】に水涉【すいしょう】し、嶺に登って始めて山行す。
#4
野は曠く沙岸【さがん】は浄く、天高くして秋月は明らかなり。
石に憩いて飛泉【ひせん】を挹【く】み、林に攀【よ】じ落英【らくえい】を搴【と】る。
戦い勝って臞者【くしゃ】は肥え、止【し】に鑑【かんが】みて流れは停に帰す。
是れ義唐【ぎとう】の化に即【つ】き、我 擊壤【げきじょう】の情を獲【え】たり。


現代語訳と訳註
(本文)
#1
彭薛裁知恥,貢公未遺榮。
或可優貪競,豈足稱達生?
伊余秉微尚,拙訥謝浮名。
廬園當棲巖,卑位代躬耕。」


(下し文)#1
彭薛【ほうせつ】は裁【わず】かに恥を知り、貢公【こうこう】は未だ栄【えい】れを遺【わす】れず。
或いは貪競【たんけい】いて優【まさ】る可し、豈達生【たつせい】と称するに足らんや。
伊【こ】れ余【われ】に徽尚【びしょう】を秉【と】り、拙訥【せつとつ】にして浮名【ふめい】を謝せり
廬園【ろえん】をば棲巌【せいがん】に当たり、卑位【ひい】をは窮耕【きゅうこう】に代えたり。


(現代語訳)
初めて永嘉郡を去る。
漢の彭宣と薛広徳は宦官の王奔の専横に対し恥を知って朝を辞したが、貢禹は皇帝を信じて仕官の栄誉を忘れなかった。
或いは爵禄をむさぼり競うるよりは優っているであるべきだが、どうして人生の真実のありかたに通じるに足りるというのであろうか。
私はここでとるにたりない主義を守り、世なれをしていない口下手な身であるから、世間の根拠のない名誉を辞退したのだ。
私は廬や園を山林の巌穴の代わりとして住んだし、卑しい地位の太守の官に就任して自分で農耕する代わりとした。


 (訳注) 初去郡 #1
初めて永嘉郡を去る。
初去郡 謝霊運は永嘉郡の太守になって二年、疾と称して去り、姶寧に帰った。


彭薛裁知恥,貢公未遺榮。
漢の彭宣と薛広徳は宦官の王奔の専横に対し恥を知って朝を辞したが、貢禹は皇帝を信じて仕官の栄誉を忘れなかった。
彭薛 彭宣と薛広徳。漢の哀帝の時に、彭は大司空、薛は御史大夫となる。王奔の専横を恥じて辞職した。宦官の横行である。漢王朝は、一時皇帝の外戚、王奔(おうもう)に権力を奪われることをいう。○貢公 貢禹。宣帝の時に、河南の令、元帝の時に光禄大夫となった。親友王陽が登用されると、自分も挽推を期待して喜んだ。前漢のころ貢禹(こうう)の親友の王吉(おうきつ)が任官すると、貢禹は自分も任用される希望が出てきたと、冠のほこりを払って喜んだという故事。


或可優貪競,豈足稱達生?
或いは爵禄をむさぼり競うるよりは優っているであるべきだが、どうして人生の真実のありかたに通じるに足りるというのであろうか。
貪競 爵禄をむさぼり競う。○達生 生命の眞實のありかたに通ずる。莊子外篇達生十九


伊余秉微尚,拙訥謝浮名。
私はここでとるにたりない主義を守り、世なれをしていない口下手な身であるから、世間の根拠のない名誉を辞退したのだ。
秉微尚 わが取るに足りない主義を守る。尚は好みたっとぷこと。○拙訥 世なれず口下手。○謝浮名 根のない世間の評判を辞退する。


廬園當棲巖,卑位代躬耕。」
私は廬や園を山林の巌穴の代わりとして住んだし、卑しい地位の太守の官に就任して自分で農耕する代わりとした。
 いおり。○棲巖 住まいとする巌の洞窟。○卑位 卑しい地位の太守の官に就任したこと。

石門巌上宿 謝霊運<33> 詩集 411  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ 1050

石門巌上宿 謝霊運<33> 詩集 411  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ 1050
石門の巌上の宿


ある時、行楽に山に入った。崖の上の巌上にキャンプをした、そのとき歌った「石門の巌上の宿」という作品が残されている。謝霊運詩の良さのあらわれである『楚辞、九歌少司命篇』に基づいて作られていることである。



石門巌上宿
石門の巌の上で宿す。
朝搴苑中蘭、畏彼霜下歇。
朝に石門の苑の中で蘭の花をとりあげる、その花は霜のもと寒い中、枯れ尽きるのを心配するのだ。
瞑還雲際宿、弄此石上月。
夕暮れ暗くなってきたので雲の際にある石門山の高い所に宿する。ここの大岩の上に上がっている月と楽しく遊ぶのだ。
鳥鳴識夜棲、木落知風發。
山鳥は夜になって巣に戻り、啼いているのがわかる。それから、木々の落葉によって風のおこったのを知る。
異音同致聽、殊響倶清越。
いろんな違う音が同時に聞こえてくる、たまには清風にのっていろんな音がきこえて調子が高いのだ。
妙物莫爲賞、芳醑誰興伐。
私の作った興味ある変わった詩文に対して賞賛してくれる人はいない、それに香しい旨酒をだれと共に自慢できるというのか。
美人竟不來、陽阿徒晞髪。

楚辞に私の慕うよい人はとうとう来ない。「夕宿兮帝郊、君誰須兮雲之際。與女遊兮九河、衝風至兮水揚波。與女沐兮咸池、晞女髮兮陽之阿。望美人兮未來、臨風怳兮浩歌。孔蓋兮翠旍、登九天兮撫彗星。」(夕に帝の郊【こう】に宿れば、君誰をか雲の際【はて】に須【ま】つ。女なんじと九河【きゅうか】に遊べば、衝風【しょうふう】至って水波を揚ぐ。女【なんじ】と咸池【かんち】に沐【もく】し、女【なんじ】の髪を陽【よう】の阿【あ】に晞【かわ】かさん。美人を望めどもいまだ来らず、風に臨【のぞ】んで怳【こう】として浩歌【こうか】す。)(少司命)とあるが、私も友人か来ないので、むなしく伝説の日の照る山の端で、ひとり髪を乾かすだけである。同じ心の友がいないのは寂しいことである。

(石門の巌上の宿)
朝に搴【と】る苑中の蘭、彼は畏る霜下に歇【つ】くるを。
瞑【くら】くして還る雲際の宿、此の石上の月を弄【もてあそ】ぶ。
鳥鳴きて夜 棲まうを識り、木 落ちて風の発するを知る。
異音 同じく聴を致し、殊なれる響き 俱に清越たり。
妙物 賞を為す莫く、芳【かおりよ】き醑【うまざけ】 誰と与にか伐【ほこ】らん。
美人 竟に來たらず、陽の阿【おか】にて徒【いたず】らに髪を晞【かわ】かす


現代語訳と訳註
(本文)
石門巌上宿
朝搴苑中蘭、畏彼霜下歇。
瞑還雲際宿、弄此石上月。
鳥鳴識夜棲、木落知風發。
異音同致聽、殊響倶清越。
妙物莫爲賞、芳醑誰興伐。
美人竟不來、陽阿徒晞髪。


(下し文)
(石門の巌上の宿)
朝に搴【と】る苑中の蘭、彼は畏る霜下に歇【つ】くるを。
瞑【くら】くして還る雲際の宿、此の石上の月を弄【もてあそ】ぶ。
鳥鳴きて夜 棲まうを識り、木 落ちて風の発するを知る。
異音 同じく聴を致し、殊なれる響き 俱に清越たり。
妙物 賞を為す莫く、芳【かおりよ】き醑【うまざけ】 誰と与にか伐【ほこ】らん。
美人 竟に來たらず、陽の阿【おか】にて徒【いたず】らに髪を晞【かわ】かす


(現代語訳)
石門の巌の上で宿す。
朝に石門の苑の中で蘭の花をとりあげる、その花は霜のもと寒い中、枯れ尽きるのを心配するのだ。
夕暮れ暗くなってきたので雲の際にある石門山の高い所に宿する。ここの大岩の上に上がっている月と楽しく遊ぶのだ。
山鳥は夜になって巣に戻り、啼いているのがわかる。それから、木々の落葉によって風のおこったのを知る。
いろんな違う音が同時に聞こえてくる、たまには清風にのっていろんな音がきこえて調子が高いのだ。
私の作った興味ある変わった詩文に対して賞賛してくれる人はいない、それに香しい旨酒をだれと共に自慢できるというのか。
楚辞に私の慕うよい人はとうとう来ない。「夕宿兮帝郊、君誰須兮雲之際。與女遊兮九河、衝風至兮水揚波。與女沐兮咸池、晞女髮兮陽之阿。望美人兮未來、臨風怳兮浩歌。孔蓋兮翠旍、登九天兮撫彗星。」(夕に帝の郊【こう】に宿れば、君誰をか雲の際【はて】に須【ま】つ。女なんじと九河【きゅうか】に遊べば、衝風【しょうふう】至って水波を揚ぐ。女【なんじ】と咸池【かんち】に沐【もく】し、女【なんじ】の髪を陽【よう】の阿【あ】に晞【かわ】かさん。美人を望めどもいまだ来らず、風に臨【のぞ】んで怳【こう】として浩歌【こうか】す。)(少司命)とあるが、私も友人か来ないので、むなしく伝説の日の照る山の端で、ひとり髪を乾かすだけである。同じ心の友がいないのは寂しいことである。


(訳注) 石門巌上宿
石門の巌の上で宿す。
石門 謝霊運が郡県令についていた永嘉近郊で、遊楽地として、温州郊外とされる。この詩は『楚辞、九歌少司命篇』に基づいて作られている。 


朝搴苑中蘭、畏彼霜下歇。
朝に石門の苑の中で蘭の花をとりあげる、その花は霜のもと寒い中、枯れ尽きるのを心配するのだ。
 取る。○ 枯れ尽きる。


瞑還雲際宿、弄此石上月。
夕暮れ暗くなってきたので雲の際にある石門山の高い所に宿する。ここの大岩の上に上がっている月と楽しく遊ぶのだ。
 暮れ。○ めでる。


鳥鳴識夜棲、木落知風發。
山鳥は夜になって巣に戻り、啼いているのがわかる。それから、木々の落葉によって風のおこったのを知る。
夜棲 夜樹上に宿ること。


異音同致聽、殊響倶清越。
いろんな違う音が同時に聞こえてくる、たまには清風にのっていろんな音がきこえて調子が高いのだ。
清越 清くて調子が高い。


妙物莫爲賞、芳醑誰興伐。
私の作った興味ある変わった詩文に対して賞賛してくれる人はいない、それに香しい旨酒をだれと共に自慢できるというのか。
妙物 すぐれた物。珍味嘉肴。○芳醑 香ばしい旨酒。○伐 ほこる。


美人竟不來、陽阿徒晞髪。
楚辞に私の慕うよい人はとうとう来ない。「夕宿兮帝郊、君誰須兮雲之際。與女遊兮九河、衝風至兮水揚波。與女沐兮咸池、晞女髮兮陽之阿。望美人兮未來、臨風怳兮浩歌。孔蓋兮翠旍、登九天兮撫彗星。」(夕に帝の郊【こう】に宿れば、君誰をか雲の際【はて】に須【ま】つ。女なんじと九河【きゅうか】に遊べば、衝風【しょうふう】至って水波を揚ぐ。女【なんじ】と咸池【かんち】に沐【もく】し、女【なんじ】の髪を陽【よう】の阿【あ】に晞【かわ】かさん。美人を望めどもいまだ来らず、風に臨【のぞ】んで怳【こう】として浩歌【こうか】す。)(少司命)とあるが、私も友人か来ないので、むなしく伝説の日の照る山の端で、ひとり髪を乾かすだけである。同じ心の友がいないのは寂しいことである。
美人 友人。慕わしい人。○陽阿徒晞髪 楚辞九歌少司命篇に「女【なんじ】咸池に浴し、女の髪を陽の阿に晞かさん美人を望めども未だ来らず。風に臨んで怳として浩歌す」と。陽阿は日の照る山の端の意味。九陽の丘。扶桑のほとりの伝説の地名。
楚辞 九歌少司命篇
秋蘭兮麋蕪、羅生兮堂下。
緑葉兮素枝、芳菲菲兮襲予。
夫人自有兮美子、蓀何以兮愁苦。
秋蘭兮青青、緑葉兮紫莖。
滿堂兮美人、忽獨與余兮目成。
入不言兮出不辭、乗回風兮載雲旗。
悲莫悲兮生別離、樂莫樂兮新相知。
荷衣兮蕙帶、儵而來兮忽而逝。
夕宿兮帝郊、君誰須兮雲之際。
與女遊兮九河、衝風至兮水揚波。
與女沐兮咸池、晞女髮兮陽之阿。
望美人兮未來、臨風怳兮浩歌。
孔蓋兮翠旍、登九天兮撫彗星。
竦長劔兮擁幼艾、蓀獨冝兮爲民正。

九歌少司命篇
秋蘭と麋蕪【びぶ】と、堂下に羅生す。
緑葉と素枝【そし】、芳【ほう】菲菲【ひひ】として予を襲おそう。
それ人にはおのずから美子【びし】あり、蓀【そん】何をもって愁苦【しゅうく】する。
秋蘭【しゅうらん】は青青せいせいたり、緑葉と紫茎【しけい】と、満堂【まんどう】の美人、たちまち独余と目成【もくせい】す。
入いるに言ものいわず、出ずるに辞せず、回風に乗りて雲旗を載つ。
悲しきは生別離【べつり】より悲しきはなく、楽しきは新相知【そうち】より楽しきはなし。
荷かの衣、蕙【けい】の帯、儵しゅくとして来り、忽として逝く。
夕に帝の郊【こう】に宿れば、君誰をか雲の際【はて】に須【ま】つ。
女なんじと九河【きゅうか】に遊べば、衝風【しょうふう】至って水波を揚ぐ。
女【なんじ】と咸池【かんち】に沐【もく】し、女【なんじ】の髪を陽【よう】の阿【あ】に晞【かわ】かさん。
美人を望めどもいまだ来らず、風に臨【のぞ】んで怳【こう】として浩歌【こうか】す。
孔蓋【こうがい】と翠旍【すいせい】と、九天【きゅうてん】に登って彗星【すいせい】を撫【ぶ】す。
長剣【ちょうけん】を竦【と】りて幼艾【ようがい】を擁【よう】す。
蓀【そん】独【ひと】り宜【よろ】しく民【たみ】の正たるべし。

斎中讀書 謝霊運<32>#2 詩集 410  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1047

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斎中讀書
昔余遊京華、未嘗廢邱壑。
矧乃歸山川、心跡兩寂漠。
虚館絶諍訟、空庭來鳥雀。
臥疾豐暇豫、翰墨時間作。』
懐抱觀古今、寢食展戯謔。
古今の事物を観察し、また自分がこれまでにたくわえた識見、思いを持つことで、寝食をする日常の茶飯事に、しばしば冗談などをとばしたりする。
既笑沮溺苦、又哂子雲閣。
書を読んだことの中で、先には周の長沮と桀溺が隠棲して農耕の苦しみを味わった儒者の愚かさを笑うのである。また今度は長く爵禄のために仕えた結果、禍を招いて天禄閣から身を投じた。漢の楊雄の愚かな忠義をあざ笑い、官僚にこだわって身を誤りたくないと思う。
執戟亦以疲、耕稼豈云樂。
忠議を持っている他方で、侍郎の役目から戟を握って宮廷に立ち疲れたことであろうし、儒者だからといっても耕したり種を蒔いたりずる農事はどうして楽しいと思おうか。
萬事難竝歓、達生幸可託。』
このようにすべての事がみな楽しみ難いものである、ただ静かに書を続んで、荘子のいうところの人生の真実によく通じで、無為自然に生きることに、自分自身をまかせることができるのは、私にとってまことに幸いなことであると思う。

斎中に書を読む
昔、余【われ】京華【けいか】に遊べども、未だ嘗て邱堅【きゅうがく】を廢【す】てざりき。
矧【いわん】や乃ち山川に歸るをや、心跡【しんせき】兩【ふたつ】ながら寂漠【せきばく】たり。
虚館【きょかん】諍訟【そうしょう】絶え、空庭【くうてい】鳥雀【ちょうじゃく】來る。
疾に臥して暇豫【かよ】豐かに、翰墨【かんぼく】時に間【ま】ま作る。
#2
懐抱【かいほう】に古今を觀て、寝食に戯謔【ぎぎゃく】を展【の】ぶ。
既に沮溺【そでき】の苦を笑ひ、又子雲の閣を哂【わら】ふ。
執戟【しつげき】も亦以に疲る。耕稼【こうか】壹云【ここ】に樂しまんや。
萬事竝【なら】びに歓び難し、達生【たっせい】幸に託す可し。


現代語訳と訳註
(本文)

懐抱觀古今、寢食展戯謔。
既笑沮溺苦、又哂子雲閣。
執戟亦以疲、耕稼豈云樂。
萬事難竝歓、達生幸可託。』


(下し文)#2
懐抱【かいほう】に古今を觀て、寝食に戯謔【ぎぎゃく】を展【の】ぶ。
既に沮溺【そでき】の苦を笑ひ、又子雲の閣を哂【わら】ふ。
執戟【しつげき】も亦以に疲る。耕稼【こうか】壹云【ここ】に樂しまんや。
萬事竝【なら】びに歓び難し、達生【たっせい】幸に託す可し。

(現代語訳)
古今の事物を観察し、また自分がこれまでにたくわえた識見、思いを持つことで、寝食をする日常の茶飯事に、しばしば冗談などをとばしたりする。
書を読んだことの中で、先には周の長沮と桀溺が隠棲して農耕の苦しみを味わった儒者の愚かさを笑うのである。また今度は長く爵禄のために仕えた結果、禍を招いて天禄閣から身を投じた。漢の楊雄の愚かな忠義をあざ笑い、官僚にこだわって身を誤りたくないと思う。
忠議を持っている他方で、侍郎の役目から戟を握って宮廷に立ち疲れたことであろうし、儒者だからといっても耕したり種を蒔いたりずる農事はどうして楽しいと思おうか。
このようにすべての事がみな楽しみ難いものである、ただ静かに書を続んで、荘子のいうところの人生の真実によく通じで、無為自然に生きることに、自分自身をまかせることができるのは、私にとってまことに幸いなことであると思う。


(訳注)
懐抱觀古今、寢食展戯謔。
古今の事物を観察し、また自分がこれまでにたくわえた識見、思いを持つことで、寝食をする日常の茶飯事に、しばしば冗談などをとばしたりする。
戯謔 戯れや戯言をいう。戯と謔。


既笑沮溺苦、又哂子雲閣。
書を読んだことの中で、先には周の長沮と桀溺が隠棲をさそって農耕の苦しみを味わった儒者の愚かさを笑うのである。また今度は長く爵禄のために仕えた結果、禍を招いて天禄閣から身を投じた。漢の楊雄の愚かな忠義をあざ笑い、官僚にこだわって身を誤りたくないと思う。
沮溺苦 『論語』「微子篇」孔子一行が南方を旅した際に出会った百姓の長沮と桀溺という人物が子路を捕まえて「世間を避ける我々のようにならないか」と言う。農耕の経験のない儒者があざけられたことをいう。○子雲閣 漢の楊雄は高官ではないが文人・学者で名をはせていた。王莽の乱で助言をしたことで、司直の手を逃れられぬと感じた揚雄は、天禄閣の上から投身自殺を図る。それは揚雄の一人合点で、結局大怪我はしたものの、生命に別状はなく、自殺未遂に終わった。しかし、このことは、都中に知れ渡るところとなった。当時流行った俗謡に言う「惟(こ)れ寂惟れ寞にして自ら閣より投じ、爰(ここ)に清爰に静にして符命を作る」(揚雄自身が作った「解嘲賦」の一節を捩っている)。


執戟亦以疲、耕稼豈云樂。
忠議を持っている他方で、侍郎の役目から戟を握って宮廷に立ち疲れたことであろうし、儒者だからといっても耕したり種を蒔いたりずる農事はどうして楽しいと思おうか。
執戟 侍郎の役目がら、戟を執って宮庭に立って護衛の任に当たった。○耕稼 耕したり種を蒔いたりずる農事。
*道家の盲目的思考性や儒者の教条的なことを謝霊運は揶揄している。


萬事難竝歓、達生幸可託。』
このようにすべての事がみな楽しみ難いものである、ただ静かに書を続んで、荘子のいうところの人生の真実によく通じで、無為自然に生きることに、自分自身をまかせることができるのは、私にとってまことに幸いなことであると思う。
萬事 他方から見ること、多面的に思考していくこと。○達生 莊子外篇達生十九を勉学すること。

登石門最高頂 謝霊運<31>#2 詩集 408  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1041

登石門最高頂 謝霊運<31>#2 詩集 408  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1041

また、『文選』の巻二十二には、「石門の最高頂に登る」が引用されている。

【名稱】登石門最高頂
【年代】南朝宋
【作者】謝靈運
【體裁】五言詩


登石門最高頂 #1
晨策尋絕壁,夕息在山棲。
疏峰抗高館,對嶺臨回溪。
長林羅戶穴,積石擁基階。
連岩覺路塞,密竹使徑迷。
來人忘新術,去子惑故蹊。』
#2
活活夕流駛,噭噭夜猿啼。
谷川の水は勢いよく音立てて夕べの流れは早く走る、騒いでいるのは夜の猿が啼いているのだ。
沈冥豈別理,守道自不攜。
心を深く瞑想していても、道理というものは、どうして別のものであるというのであろうか。その道理を大切に守って自分で離れたり、そむいたりしないようにしているのである
心契九秋榦,日玩三春荑。
心に九十日の秋の霜にも枯れぬ松柏の幹のような心の道を守ることを誓い、ここでの日々は春の三か月に咲く初花を愛で遊ぶのだ。
居常以待終,處順故安排。
平常の生活をしたままで一生を終ることができること、具象の変化に順応してことさらに心を安らかなる所に推し移っていくのである。
惜無同懷客,共登青雲梯。』

俗世を超越して仏の教えを修めようとする、私と同じ心の人がいないのが残念である。というのもこのような生きかたをして、ともに天にたなびく青雲の梯子を登りたいのだ。

(石門の最高頂に登る)#1
晨に策つきて絶壁を尋ね、夕に息いて山棲に在り。
峰を疎ちて高館を抗げ、嶺に対し廻れる渓に臨む
長き林は戸庭に羅なり、積み石は基階を擁す。
連なる巌に路の塞がるを覚え、密なる竹は径をして迷わしむ。
来たれる人は新しき術を忘れ、去る子は故蹊に惑う。』

#2
活活として夕の流は駛り、噭噭として夜猿 啼く。
沈冥 豈 理を別にせんや、道を守り自から携れず。
心に契る九秋の幹を、目は翫【よろこ】ぶ三春の荑【つばみ】。
常に居りて 以って終わりを待ち、順に処して故に安排【あんぱい】す。
惜しむらくは懐いを同じくする客の、共に青雲の梯に登る無きを。』


現代語訳と訳註
(本文)
#2
活活夕流駛,噭噭夜猿啼。
沈冥豈別理,守道自不攜。
心契九秋榦,日玩三春荑。
居常以待終,處順故安排。
惜無同懷客,共登青雲梯。』


(下し文) #2
活活として夕の流は駛り、噭噭として夜猿 啼く。
沈冥 豈 理を別にせんや、道を守り自から携れず。
心に契る九秋の幹を、目は翫【よろこ】ぶ三春の荑【つばみ】。
常に居りて 以って終わりを待ち、順に処して故に安排【あんぱい】す。
惜しむらくは懐いを同じくする客の、共に青雲の梯に登る無きを。』


(現代語訳)
谷川の水は勢いよく音立てて夕べの流れは早く走る、騒いでいるのは夜の猿が啼いているのだ。
心を深く瞑想していても、道理というものは、どうして別のものであるというのであろうか。その道理を大切に守って自分で離れたり、そむいたりしないようにしているのである
心に九十日の秋の霜にも枯れぬ松柏の幹のような心の道を守ることを誓い、ここでの日々は春の三か月に咲く初花を愛で遊ぶのだ。
平常の生活をしたままで一生を終ることができること、具象の変化に順応してことさらに心を安らかなる所に推し移っていくのである。
俗世を超越して仏の教えを修めようとする、私と同じ心の人がいないのが残念である。というのもこのような生きかたをして、ともに天にたなびく青雲の梯子を登りたいのだ。


(訳注)
活活夕流駛,噭噭夜猿啼。

谷川の水は勢いよく音立てて夕べの流れは早く走る、騒いでいるのは夜の猿が啼いているのだ。
活活 水の勢いよく流れる音。○ はやくはしる。○噭噭 声高く響く。


沈冥豈別理,守道自不攜。
心を深く瞑想していても、道理というものは、どうして別のものであるというのであろうか。その道理を大切に守って自分で離れたり、そむいたりしないようにしているのである。
沈冥 心を深く潜めて暗く閉じる。沈黙して心を外に表わさない。○豊別理 どうしてほかに道理があろうか。○不備 離れない。


心契九秋榦,日玩三春荑。
心に九十日の秋の霜にも枯れぬ松柏の幹のような心の道を守ることを誓い、ここでの日々は春の三か月に咲く初花を愛で遊ぶのだ。
九秋榦 九十日の秋の霜にも変わらぬ松柏の幹のように道心堅固であること。九秋【きゅうしゅう】1 秋の90日間のこと。2秋にちなむ9種の風物。秋山・秋境・秋城・秋樹・秋燕・秋蝶・秋琴・秋笛・秋塘。または、9種を一組にした秋の花。桂花(けいか)・芙蓉(ふよう)・秋海棠(しゅうかいどう).○ 日で潔しむ。○三春葵 春三か月の初花。葵はつばな。
 

居常以待終,處順故安排。
平常の生活をしたままで一生を終ることができること、具象の変化に順応してことさらに心を安らかなる所に推し移っていくのである。
思常 平常の生活に安んじている。○得終 妥当な終末をとげて、一生を終える。○処順 具象の変化に順って。○故安排 ことさらにこころを安らかに推し移る。荘子に「安排して去り化して、乃ち蓼(しずか)に入りて天と一なり」とある。排は推。移る。


惜無同懷客,共登青雲梯。』
俗世を超越して仏の教えを修めようとする、私と同じ心の人がいないのが残念である。というのもこのような生きかたをして、ともに天にたなびく青雲の梯子を登りたいのだ。
同慎 同じ心。○青雲梯 空高い青い雲の梯子。仙人が天に登るための階梯。

登石門最高頂 謝霊運<31>#1 詩集 407  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1038

登石門最高頂 謝霊運<31>#1 詩集 407  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1038

また、『文選』の巻二十二には、「石門の最高頂に登る」が引用されている。

【名稱】登石門最高頂
【年代】南朝宋
【作者】謝靈運
【體裁】五言詩


登石門最高頂 #1
石門山の最高の山頂に登る
晨策尋絕壁,夕息在山棲。
朝早く杖をつきながら絶壁の景色を尋ね、夕方になると山頂に住居して静かに休む。
疏峰抗高館,對嶺臨回溪。
峯を掘り削って高館を築き上げ、向こうの山の巌に面していてその前のすぐ下は廻り込んだ谷川を臨む。
長林羅戶穴,積石擁基階。
丈の高い林が門内の庭に並んでいて、積み重った石はきざはしの土台を抱きかかえている。
連岩覺路塞,密竹使徑迷。
岩が連なるので路を塞いで行き止まりのように思われ、竹は密に茂るので庭の小道を迷わせてしまう。
來人忘新術,去子惑故蹊。』

訪ねて来る人は今来た道がいつも新しく忘れてしまい、帰ってゆく人は自然に茂った庭には人跡も稀であるためもと来た山路に戸惑うのである。
#2
活活夕流駛,噭噭夜猿啼。
沈冥豈別理,守道自不攜。
心契九秋榦,日玩三春荑。
居常以待終,處順故安排。
惜無同懷客,共登青雲梯。』

(石門の最高頂に登る)#1
晨に策つきて絶壁を尋ね、夕に息いて山棲に在り。
峰を疎ちて高館を抗げ、嶺に対し廻れる渓に臨む
長き林は戸庭に羅なり、積み石は基階を擁す。
連なる巌に路の塞がるを覚え、密なる竹は径をして迷わしむ。
来たれる人は新しき術を忘れ、去る子は故蹊に惑う。』

#2
活活として夕の流は駛り、噭噭として夜猿 啼く。
沈冥 豈 理を別にせんや、道を守り自から携れず。
心に契る九秋の幹を、目は翫【よろこ】ぶ三春の荑【つばみ】。
常に居りて 以って終わりを待ち、順に処して故に安排【あんぱい】す。
惜しむらくは懐いを同じくする客の、共に青雲の梯に登る無きを。』


現代語訳と訳註
(本文)
登石門最高頂 #1
晨策尋絕壁,夕息在山棲。
疏峰抗高館,對嶺臨回溪。
長林羅戶穴,積石擁基階。
連岩覺路塞,密竹使徑迷。
來人忘新術,去子惑故蹊。』


(下し文) (石門の最高頂に登る)#1
晨に策つきて絶壁を尋ね、夕に息いて山棲に在り。
峰を疎ちて高館を抗げ、嶺に対し廻れる渓に臨む
長き林は戸庭に羅なり、積み石は基階を擁す。
連なる巌に路の塞がるを覚え、密なる竹は径をして迷わしむ。
来たれる人は新しき術を忘れ、去る子は故蹊に惑う。』


(現代語訳)
石門山の最高の山頂に登る
朝早く杖をつきながら絶壁の景色を尋ね、夕方になると山頂に住居して静かに休む。
峯を掘り削って高館を築き上げ、向こうの山の巌に面していてその前のすぐ下は廻り込んだ谷川を臨む。
丈の高い林が門内の庭に並んでいて、積み重った石はきざはしの土台を抱きかかえている。
岩が連なるので路を塞いで行き止まりのように思われ、竹は密に茂るので庭の小道を迷わせてしまう。
訪ねて来る人は今来た道がいつも新しく忘れてしまい、帰ってゆく人は自然に茂った庭には人跡も稀であるためもと来た山路に戸惑うのである。


(訳注)
登石門最高頂

石門山の最高の山頂に登る
石門 謝霊運遊名山志に「石門の潤は六処あり。石門は水を遡りて上り、兩山の口に入る。両辺は石壁、右辺の石巌、下は澗水に臨む」とある。浙江省嵊県の山名。


晨策尋絕壁,夕息在山棲。
朝早く杖をつきながら絶壁上の景色を尋ね、夕方になると山頂に住居して静かに休む。
晨策 朝早く杖をついて。


疏峰抗高館,對嶺臨回溪。
峯を掘り削って高館を築き上げ、向こうの山の巌に面していてその前のすぐ下は廻り込んだ谷川を臨む。
疏峯 山の峯を掘り削る。○抗高館 高いやかたを築き上げる。抗は挙げる。


長林羅戶穴,積石擁基階。
丈の高い林が門内の庭に並んでいて、積み重った石はきざはしの土台を抱きかかえている。
 並んでいる○戶穴 門内の庭。○積石 積み重った石。○擁 抱きかかえる。○基階 きざはしの土台。家の周りに基礎の外側は一段高くしているので階となる。それの基礎であるから2段になる。古代から遺跡で見られる階の基礎。


連岩覺路塞,密竹使徑迷。
岩が連なるので路を塞いで行き止まりのように思われ、竹は密に茂るので庭の小道を迷わせてしまう。


來人忘新術,去子惑故蹊。』
訪ねて来る人は今来た道がいつも新しく忘れてしまい、帰ってゆく人は自然に茂った庭には人跡も稀であるためもと来た山路に戸惑うのである。
新術 新しい山路。 ○故蹊 古いもとの山道。

《石門新營所住四面高山回溪石瀨修竹茂林》石門在永嘉 謝霊運<30>#3 詩集 406  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1035

《石門新營所住四面高山回溪石瀨修竹茂林》石門在永嘉 謝霊運<30>#3 詩集 406  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1035
(石門は永嘉に在り)
『文選』の巻三十の「雑詩」石門在永嘉
『石門新營所住四面高山回溪石濑茂林修竹』(石門に新たに住する所を営む。四面は高山、漢を廻らし、石瀬、傭竹、茂林)

《石門新營所住四面高山回溪石瀨修竹茂林》石門在永嘉 #1
躋険築幽居、披雲臥石門。
苔滑誰能歩、葛弱豈可捫。
嫋嫋秋風過、萋萋春草繁。
美人遊不遠、佳期何繇敦。』
#2
芳塵凝瑤席、清醑満金樽。
洞庭空波瀾、桂枝徒攀翻。
結念屬霽漢、孤景莫與諼。
俯濯石下潭、仰看條上猿。』
#3
早聞夕飈急、晩見朝日暾。
深い谷は朝早く夕方をおもわせるような急な突風が聞えているとおもうと、晩方、日が昇る朝日を思わせるようにみえる。
崖傾光難留、林深響易奔。
崖に傾け始めた太陽の光が降り注いで、光を遮ることがなくなると、林の木々の奥深く影響し、光は奔走しやすくなっている。
感往慮有復、理来情無存。
こころに感じるままに進んでゆくと思慮、憂慮することが次々に生じてくるのだ、物の道理、理性を以て来てみると不平不満の心情があるはずなのにないのである。
庶持乗日車、得以慰營魂。」
できることなら太陽を進行させる御車を持ちたいものだし、そうすれば慰められ、自分の思いを貫くことができるのだ。
匪爲衆人説、冀與智者論。』
世間の人々に対して言い訳をすることはしないが、願わくば智徳を積んだ人と議論を合わせたいものだ。

(石門は永嘉に在り)#1
険に躋【のぼ】りて幽居を築き、雲を披【ひら】きて石門に臥す。
苔は滑【なめ】らかにして誰か能く歩せん、葛は弱くして豈捫る可けんや。
嫋嫋【じょうじょう】と秋風が過ぎ、萋萋【せいせい】と春草も繁り。
美人は遊びて還らず、佳期は何に繇【よ】りてか敦【さだ】めん。
#2
芳塵【ほうじん】瑤席【ようせき】に凝【こ】もり、清醑【うまざけ】は金の樽に満つ。
洞庭は空しく波瀾し、桂の枝は徒らに攀翻【はんぱん】す。
念いを結び霽漢【しょうかん】に属【つ】け、弧景【こけい】与【とも】に 諼【わす】るる莫し。
俯【ふ】して石下の潭【ふち】に濯【そそ】ぎ、仰いで粂上の猿を看る。
#3
早【つと】に夕飈の急なるを聞き、晩に朝日の暾【かがや】くを見る
崖は傾き光は留【とど】め難し、林深くして響き 奔【はし】り易【やす】し。
感の往き慮【おも】い 復する有り、理の来たり情 存する無し。
庶【ねが】わくは乗日の事に持し、以って営魂を慰むるを待んことを。
衆人の為に説くに匪【あら】ず、冀【こいねが】わくは智者と論ぜん。


現代語訳と訳註
(本文) #3
早聞夕飈急、晩見朝日暾。
崖傾光難留、林深響易奔。
感往慮有復、理来情無存。
庶持乗日車、得以慰營魂。」
匪爲衆人説、冀與智者論。』


(下し文) #3
早【つと】に夕飈の急なるを聞き、晩に朝日の暾【かがや】くを見る
崖は傾き光は留【とど】め難し、林深くして響き 奔【はし】り易【やす】し。
感の往き慮【おも】い 復する有り、理の来たり情 存する無し。
庶【ねが】わくは乗日の事に持し、以って営魂を慰むるを待んことを。
衆人の為に説くに匪【あら】ず、冀【こいねが】わくは智者と論ぜん。


(現代語訳)
深い谷は朝早く夕方をおもわせるような急な突風が聞えているとおもうと、晩方、日が昇る朝日を思わせるようにみえる。
崖に傾け始めた太陽の光が降り注いで、光を遮ることがなくなると、林の木々の奥深く影響し、光は奔走しやすくなっている。
こころに感じるままに進んでゆくと思慮、憂慮することが次々に生じてくるのだ、物の道理、理性を以て来てみると不平不満の心情があるはずなのにないのである。
できることなら太陽を進行させる御車を持ちたいものだし、そうすれば慰められ、自分の思いを貫くことができるのだ。
世間の人々に対して言い訳をすることはしないが、願わくば智徳を積んだ人と議論を合わせたいものだ。


(訳注)《石門新營所住四面高山回溪石瀨修竹茂林》#3

早聞夕飈急、晩見朝日暾。
深い谷は朝早く夕方をおもわせるような急な突風が聞えているとおもうと、晩方、日が昇る朝日を思わせるようにみえる。
○飈 つむじかぜ。○朝暾【ちょうとん】朝日。朝陽。


崖傾光難留、林深響易奔。
崖に傾け始めた太陽の光が降り注いで、光を遮ることがなくなると、林の木々の奥深く影響し、光は奔走しやすくなっている。
崖傾光難留 日が真上の時には木の葉にさえぎられて見えなかったものが見えてくる。時には視点を変えてみることが必要だ。○林深響易奔 日が傾いてくると林の奥まで明るく照らす。


感往慮有復、理来情無存。
こころに感じるままに進んでゆくと思慮、憂慮することが次々に生じてくるのだ、物の道理、理性を以て来てみると不平不満の心情があるはずなのにないのである。
感往 こころに感じるままに進んでゆく。○慮有復 憂慮することが次々に生じてくる。○理来 物の道理、理性を以て来る。○情無存 不平不満の心情があるはずなのにない。

庶持乗日車、得以慰營魂。」
できることなら太陽を進行させる御車を持ちたいものだし、そうすれば慰められ、自分の思いを貫くことができるのだ。
庶持乗日車 できることなら太陽を進行させる御車を持ちたいもの。○慰營魂 慰められ、自分の思いを貫くことができる。

匪爲衆人説、冀與智者論。』
世間の人々に対して言い訳をすることはしないが、願わくば智徳を積んだ人と議論を合わせたいものだ。
匪爲衆人説 世間の人々に対して言い訳をすることはしない。○冀與智者論 願わくば智徳を積んだ人と議論を合わせたい

《石門新營所住四面高山回溪石瀨修竹茂林》石門在永嘉 謝霊運<30>#2 詩集 405  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1032

石門在永嘉 謝霊運<30>#2 詩集 405  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1032
(石門は永嘉に在り)
『文選』の巻三十の「雑詩」石門在永嘉
『文選』の巻三十の五言雑詩に『石門新營所住四面高山回溪石濑茂林修竹』(石門に新たに住する所を営む。四面は高山、漢を廻らし、石瀬、傭竹、茂林)

この石門とは、始寧より少しく南の浙江省嵊県の嘑山の南にある名勝という説と、永嘉にありとする説と、古来、二説ある。もしも、嵊県の石門とすると、少しく始寧より距離がある。遊楽地としては温州郊外の石門とみるほうが適当だとされる。
謝霊運の心には山水の美を賞でたいという気持はいっこうに消えず、名山を求めては旅を続け、詩を作ったらしい。それらのうちに名勝石門を主題にした作品群が残されている。


《石門新營所住四面高山回溪石瀨修竹茂林》石門在永嘉 #1
躋険築幽居、披雲臥石門。
苔滑誰能歩、葛弱豈可捫。
嫋嫋秋風過、萋萋春草繁。
美人遊不遠、佳期何繇敦。』
#2
芳塵凝瑤席、清醑満金樽。
においの良い塵は立派な玉飾りの御御座席に固まるものであり、清酒のうま酒は金の大盃に満たされるものだ。
洞庭空波瀾、桂枝徒攀翻。
洞庭湖には空しく大波が立っているし、桂樹の枝は無造作に上に向かって翻っている。
結念屬霽漢、孤景莫與諼。
思いを胸に結ぶ、すると空が晴れ渡ってきて、この気に入っている風景は忘れることはないようにしたい。
俯濯石下潭、仰看條上猿。』
身をかがめて下を向き川の流れをみる、大岩の下には淵があり、仰ぎ見て枝々が重なったうえに猿がいる。

#3
早聞夕飈急、晩見朝日暾。
崖傾光難留、林深響易奔。
感往慮有復、理来情無存。
庶持乗日車、得以慰營魂。」
匪爲衆人説、冀與智者論。』

(石門は永嘉に在り)#1
険に躋【のぼ】りて幽居を築き、雲を披【ひら】きて石門に臥す。
苔は滑【なめ】らかにして誰か能く歩せん、葛は弱くして豈捫る可けんや。
嫋嫋【じょうじょう】と秋風が過ぎ、萋萋【せいせい】と春草も繁り。
美人は遊びて還らず、佳期は何に繇【よ】りてか敦【さだ】めん。
#2
芳塵【ほうじん】瑤席【ようせき】に凝【こ】もり、清醑【うまざけ】は金の樽に満つ。
洞庭は空しく波瀾し、桂の枝は徒らに攀翻【はんぱん】す。
念いを結び霽漢【しょうかん】に属【つ】け、弧景【こけい】与【とも】に 諼【わす】るる莫し。
俯【ふ】して石下の潭【ふち】に濯【そそ】ぎ、仰いで粂上の猿を看る。

#3
早【つと】に夕飈の急なるを聞き、晩に朝日の暾【かがや】くを見る
崖は傾き光は留【とど】め難し、林深くして響き 奔【はし】り易【やす】し。
感の往き慮【おも】い 復する有り、理の来たり情 存する無し。
庶【ねが】わくは乗日の事に持し、以って営魂を慰むるを待んことを。
衆人の為に説くに匪【あら】ず、冀【こいねが】わくは智者と論ぜん。


現代語訳と訳註
(本文)
#2
芳塵凝瑤席、清醑満金樽。
洞庭空波瀾、桂枝徒攀翻。
結念屬霽漢、孤景莫與諼。
俯濯石下潭、仰看條上猿。』


(下し文) #2
芳塵【ほうじん】瑤席【ようせき】に凝【こ】もり、清醑【うまざけ】は金の樽に満つ。
洞庭は空しく波瀾し、桂の枝は徒らに攀翻【はんぱん】す。
念いを結び霽漢【しょうかん】に属【つ】け、弧景【こけい】与【とも】に 諼【わす】るる莫し。
俯【ふ】して石下の潭【ふち】に濯【そそ】ぎ、仰いで粂上の猿を看る。


(現代語訳)
においの良い塵は立派な玉飾りの御御座席に固まるものであり、清酒のうま酒は金の大盃に満たされるものだ。
洞庭湖には空しく大波が立っているし、桂樹の枝は無造作に上に向かって翻っている。
思いを胸に結ぶ、すると空が晴れ渡ってきて、この気に入っている風景は忘れることはないようにしたい。
身をかがめて下を向き川の流れをみる、大岩の下には淵があり、仰ぎ見て枝々が重なったうえに猿がいる。


(訳注) #2
芳塵凝瑤席、清醑満金樽。
においの良い塵は立派な玉飾りの御御座席に固まるものであり、清酒のうま酒は金の大盃に満たされるものだ。
芳塵 においのよいちり。塵の美称。○1 一所にかたまって動かない。こりかたまる。「凝血・凝結・凝固・凝集・凝然・凝滞」 2 じっと一点に集中する。「凝議・凝視」○瑤席 玉のむしろ。立派な席。天子の御座席。○清醑 清酒のうまざけ。


洞庭空波瀾、桂枝徒攀翻。
洞庭湖には空しく大波が立っているし、桂樹の枝は無造作に上に向かって翻っている。
○桂枝 桂樹の枝。○攀翻 上に向かって翻える


結念屬霽漢、孤景莫與諼。
思いを胸に結ぶ、すると空が晴れ渡ってきて、この気に入っている風景は忘れることはないようにしたい。
*故郷始寧への思い、隠棲したいと思うこと。半官半隠の生活。○霽漢 (天空)漢の国の空が晴れ渡る ○ うつわる、 わすれる、 かまびすしい、 いつわる。


俯濯石下潭、仰看條上猿。』
身をかがめて下を向き川の流れをみる、大岩の下には淵があり、仰ぎ見て枝々が重なったうえに猿がいる。
 うつむく。身をかがめて下を向く。○石下潭 巌の下の淵。○條上猿 枝々が重なったうえに猿がいる

《石門新營所住四面高山回溪石瀨修竹茂林》石門在永嘉 謝霊運<30>#1 詩集 404  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1029

石門在永嘉 謝霊運<30>#1 詩集 404  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1029
(石門は永嘉に在り)
『文選』の巻三十の「雑詩」石門在永嘉

『文選』の巻三十の五言雑詩に『石門新營所住四面高山回溪石濑茂林修竹』(石門に新たに住する所を営む。四面は高山、漢を廻らし、石瀬、傭竹、茂林)

この石門とは、始寧より少しく南の浙江省嵊県の嘑山の南にある名勝という説と、永嘉にありとする説と、古来、二説ある。もしも、嵊県の石門とすると、少しく始寧より距離がある。遊楽地としては温州郊外の石門とみるほうが適当だとされる。
謝霊運の心には山水の美を賞でたいという気持はいっこうに消えず、名山を求めては旅を続け、詩を作ったらしい。それらのうちに名勝石門を主題にした作品群が残されている。


《石門新營所住四面高山回溪石瀨修竹茂林》石門在永嘉 #1
躋険築幽居、披雲臥石門。
嶮しい道を登ったところに一軒家を別荘として建てた、雲におおわれたところ、石門のところに病の療養に伏せた。
苔滑誰能歩、葛弱豈可捫。
そこは苔むしたところで滑ってしまう、誰がそこで歩くことができようか、かずらも成長がぜい弱でどうしてつかむことができはしない。
嫋嫋秋風過、萋萋春草繁。
そこは夏にはそよそよと涼風が秋風のように吹いてくれ、春にはせいせいとした萌える春草が茂っている。
美人遊不遠、佳期何繇敦。』

こんな美しい景色の遊ぶところが遠くない場所にある。過ごしやすく心地良い時節にこんな遠くに送られた太守として、何の役割があるというのか。

#2
芳塵凝瑤席、清醑満金樽。
洞庭空波瀾、桂枝徒攀翻。
結念屬霽漢、孤景莫與諼。
俯濯石下潭、仰看條上猿。』
#3
早聞夕飈急、晩見朝日暾。
崖傾光難留、林深響易奔。
感往慮有復、理来情無存。
庶持乗日車、得以慰營魂。」
匪爲衆人説、冀與智者論。』

(石門は永嘉に在り)#1
険に躋【のぼ】りて幽居を築き、雲を披【ひら】きて石門に臥す。
苔は滑【なめ】らかにして誰か能く歩せん、葛は弱くして豈捫る可けんや。
嫋嫋【じょうじょう】と秋風が過ぎ、萋萋【せいせい】と春草も繁り。
美人は遊びて還らず、佳期は何に繇【よ】りてか敦【さだ】めん。
#2
芳塵【ほうじん】瑤席【ようせき】に凝【こ】もり、清醑【うまざけ】は金の樽に満つ。
洞庭は空しく波瀾し、桂の枝は徒らに攀翻【はんぱん】す。
念いを結び霽漢【しょうかん】に属【つ】け、弧景【こけい】与【とも】に 諼【わす】るる莫し。
俯【ふ】して石下の潭【ふち】に濯【そそ】ぎ、仰いで粂上の猿を看る。
#3
早【つと】に夕飈の急なるを聞き、晩に朝日の暾【かがや】くを見る
崖は傾き光は留【とど】め難し、林深くして響き 奔【はし】り易【やす】し。
感の往き慮【おも】い 復する有り、理の来たり情 存する無し。
庶【ねが】わくは乗日の事に持し、以って営魂を慰むるを待んことを。
衆人の為に説くに匪【あら】ず、冀【こいねが】わくは智者と論ぜん。


現代語訳と訳註
(本文)
石門在永嘉 #1
躋険築幽居、披雲臥石門。
苔滑誰能歩、葛弱豈可捫。
嫋嫋秋風過、萋萋春草繁。
美人遊不遠、佳期何繇敦。』


(下し文) (石門は永嘉に在り)#1
険に躋【のぼ】りて幽居を築き、雲を披【ひら】きて石門に臥す。
苔は滑【なめ】らかにして誰か能く歩せん、葛は弱くして豈捫る可けんや。
嫋嫋【じょうじょう】と秋風が過ぎ、萋萋【せいせい】と春草も繁り。
美人は遊びて還らず、佳期は何に繇【よ】りてか敦【さだ】めん。


(現代語訳)
嶮しい道を登ったところに一軒家を別荘として建てた、雲におおわれたところ、石門のところに病の療養に伏せた。
そこは苔むしたところで滑ってしまう、誰がそこで歩くことができようか、かずらも成長がぜい弱でどうしてつかむことができはしない。
そこは夏にはそよそよと涼風が秋風のように吹いてくれ、春にはせいせいとした萌える春草が茂っている。
こんな美しい景色の遊ぶところが遠くない場所にある。過ごしやすく心地良い時節にこんな遠くに送られた太守として、何の役割があるというのか。


(訳注)
躋険築幽居、披雲臥石門。

嶮しい道を登ったところに一軒家を別荘として建てた、雲におおわれたところ、石門のところに病の療養に伏せた。
躋険 嶮しい道を登る。


苔滑誰能歩、葛弱豈可捫。
そこは苔むしたところで滑ってしまう、誰がそこで歩くことができようか、かずらも成長がぜい弱でどうしてつかむことができはしない。
 もつ、とる。なでる。


嫋嫋秋風過、萋萋春草繁。
そこは夏にはそよそよと涼風が秋風のように吹いてくれ、春にはせいせいとした萌える春草が茂っている。
嫋嫋 1 風がそよそよと吹くさま。「薫風―として菜花黄波を揚ぐ」2 長くしなやかなさま。3 音声が細く長く、尾を引く.


美人遊不遠、佳期何繇敦。』
こんな美しい景色の遊ぶところが遠くない場所にある。過ごしやすく心地良い時節にこんな遠くに送られた太守として、何の役割があるというのか。
美人 美女。宮女の官名。きれいな芸妓。ここでは美しい景色を擬人化した表現。○佳期 こころよい季節。李白『大堤曲』「漢水臨襄陽。花開大堤暖。佳期大堤下。淚向南云滿。」 ○繇敦 遠くに送られた太守としての役割。 ・繇:①従う。②扶役。③謡う。④動く。揺れる。⑤うれえる。⑥よろこぶ。・敦:あつし・おさむ・たい・つとむ・つる・のぶ。

登上戌石鼓山 謝霊運<29>#2 詩集 403 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1026

登上戌石鼓山 謝霊運<29>#2 詩集 403 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1026
(上戌の石鼓山に登る)《謝康樂集〃雜詩》

永嘉から西の方、四十里(中国里)の上戊というところに石鼓山がある。ここには大きな石が向かいあって立っており、これをたたくと、互いに鳴響して妙音を発するという名勝であった。
特に物好きな霊運が、このことを聞けば、行ってみたくなるのは人情であった。そこで、ある日、謝霊運は供を連れて、また出かけていったが、そのときの作品が「登上戌石鼓山」(上戌の石鼓山に登る)である。


登上戌石鼓山#1
旅人心長久、憂憂自相接。
故郷路遥遠、川陸不可渉。
汨汨莫與娯、發春托登躡。
歓願既無竝、寂慮庶有協。』
#2
極目睞左闊、廻顧眺右狭。
この景色の中で、目を凝らしてひだりを脇見をしてみる、そうしてこんどは振り返ったり、めぐり見て右のすみっこのほうをながめている、興味はつきることはないのだ。(人生も同じではないか)
日沒澗增波、雲生嶺逾疊。
日没になって谷あいの流れが増して波が立っている、巌の奥から雲が生じて嶺の方上がっていき、いよいよ畳を敷いたように雲に覆われている
白芷競新苕、綠蘋齊初葉。
白い「よろい草」と新しく芽を出した「のうぜん葛」は春めくことを競い合っている、縁の萌える「でんじ草」はおなじ様に初葉なのだ。
摘芳芳靡諼、愉樂樂不變。
香しい芽を摘み取ると更に香しい香りに包まれ、この香りを忘れることはない、この景色、春めく自然に浸ってこんなに愉快で楽しいはずなのに心の奥から楽しいと変わることがないのだ。
佳期緬無像、騁望誰云愜。』
こんなによい時節美しいものを望めてもわたしの心をいつも占めている憂いは消え去らず、何の心配もなく眺めていくことをだれが快いといえるのか、何を見てもますますその憂いはつのるばかりである。

 
(上戌の石鼓山に登る)#1
旅人は心 長【ながく】久【かわら】ず、憂憂は自から相い接す。
故郷は路遥かに遠く、川陸は捗る可からず。
汨汨きて与に娯しむ莫れ、春に発し登り躡【ふ】むに托す。
願を歓ぶも既に並ぶ無し、慮を戚【うれ】い 庶【こいねが】わくは協 有らんことを。』
#2
目を極め睞するに左は闊く、廻顧し眺むれば右は狭し。
日は没し澗は波を増し、雲 生じ嶺 逾いよ畳たり。
白い芷【よろいぐさ】正は新しき苕【のうぜんかつら】と競い、縁なる蘋【でんじそう】は斉【ひと】しく初葉。
芳を摘み芳 諼【わす】るる靡【な】し、愉楽するも楽しみに變らず。
佳期【かき】は緬【おも】うに像無し、騁望【ていぼう】するに誰か愜しと云わん。』


現代語訳と訳註
(本文) #2
極目睞左闊、廻顧眺右狭。
日沒澗增波、雲生嶺逾疊。
白芷競新苕、綠蘋齊初葉。
摘芳芳靡諼、愉樂樂不變。
佳期緬無像、騁望誰云愜。』


(下し文) #2
目を極め睞するに左は闊く、廻顧し眺むれば右は狭し。
日は没し澗は波を増し、雲 生じ嶺 逾いよ畳たり。
白い芷【よろいぐさ】正は新しき苕【のうぜんかつら】と競い、縁なる蘋【でんじそう】は斉【ひと】しく初葉。
芳を摘み芳 諼るる靡し、愉楽するも楽しみ變らがず。
佳期は緬うに像無し、騁望するに誰か愜しと云わん。』


(現代語訳)
この景色の中で、目を凝らしてひだりを脇見をしてみる、そうしてこんどは振り返ったり、めぐり見て右のすみっこのほうをながめている、興味はつきることはないのだ。(人生も同じではないか)
日没になって谷あいの流れが増して波が立っている、巌の奥から雲が生じて嶺の方上がっていき、いよいよ畳を敷いたように雲に覆われている
白い「よろい草」と新しく芽を出した「のうぜん葛」は春めくことを競い合っている、縁の萌える「でんじ草」はおなじ様に初葉なのだ。
香しい芽を摘み取ると更に香しい香りに包まれ、この香りを忘れることはない、この景色、春めく自然に浸ってこんなに愉快で楽しいはずなのに心の奥から楽しいと変わることがないのだ。
こんなによい時節美しいものを望めてもわたしの心をいつも占めている憂いは消え去らず、何の心配もなく眺めていくことをだれが快いといえるのか、何を見てもますますその憂いはつのるばかりである。


(訳注) #2
極目睞左闊、廻顧眺右狭。

この景色の中で、目を凝らしてひだりを脇見をしてみる、そうしてこんどは振り返ったり、めぐり見て右のすみっこのほうをながめている、興味はつきることはないのだ。(人生も同じではないか)
 やぶにらみ。脇見をする。曹植『洛神賦』「明眸善睞。」(明眸【めいぼう】善く睞【らい】す。)顔の向きを変えないで瞳を動かして傍らを見ること。


日沒澗增波、雲生嶺逾疊。
日没になって谷あいの流れが増して波が立っている、巌の奥から雲が生じて嶺の方上がっていき、いよいよ畳を敷いたように雲に覆われている


白芷競新苕、綠蘋齊初葉。
白い「よろい草」と新しく芽を出した「のうぜん葛」は春めくことを競い合っている、縁の萌える「でんじ草」はおなじ様に初葉なのだ。
 よろい草。せり科。水中に生じ、香気がある。香草の根。○ のうぜん葛。えんどう。○ でんじ草。池や沼に自生する、多年生のしだ植物。


摘芳芳靡諼、愉樂樂不變。
香しい芽を摘み取ると更に香しい香りに包まれ、この香りを忘れることはない、この景色、春めく自然に浸ってこんなに愉快で楽しいはずなのに心の奥から楽しいと変わることがないのだ。
 わすれる。いつわる。あざむく。・諼草忘れ草、浮世の憂いを忘れること。


佳期緬無像、騁望誰云愜。』
こんなによい時節美しいものを望めてもわたしの心をいつも占めている憂いは消え去らず、何の心配もなく眺めていくことをだれが快いといえるのか、何を見てもますますその憂いはつのるばかりである。
佳期 よい時節。美人と逢う約束の日。○騁望 思うままに眺める。後漢書『馬融傳』「騁望千里、天與地莽」(千里を騁望し、天と地與莽す。)○ こころよい。したがう。

登上戌石鼓山 謝霊運<29>#1 詩集 402 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1023

登上戌石鼓山 謝霊運<29>#1 詩集 402 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1023
(上戌の石鼓山に登る)《謝康樂集〃雜詩》

永嘉から西の方、四十里(中国里)の上戊というところに石山がある。ここには大きな石が向かいあって立っており、これをたたくと、互いに鳴響して妙音を発するという名勝であった。
特に物好きな霊運が、このことを聞けば、行ってみたくなるのは人情であった。そこで、ある日、謝霊運は供を連れて、また出かけていったが、そのときの作品が「登上戌石鼓山」(上戌の石鼓山に登る)である。


登上戌石鼓山#1
旅人心長久、憂憂自相接。」
旅人の身になって自分の心では、随分長期にわたっているように感じている。先のことを思い悩み、今を苦しむことは、自然に自分の中で互いに接合していくのである。
故郷路遥遠、川陸不可渉。
あの故郷を隔てる道はこんなにもはるか遠くなっている。川の旅、陸の旅としたくはなかったことなのだ。
汨汨莫與娯、發春托登躡。
水が流れてやまない様子はこの地において共に楽しんでゆけるというものがいるわけではない。春になったからこうして出発してこの山に登り踏みしめてみるのである。
歓願既無竝、寂慮庶有協。』

故郷に帰ること、都に変えること、それがかなえられるということはないようだ。寂寞の思い悩みがあるのなら、故郷に帰れるという喜びも共にあるといい。

#2
極目睞左闊、廻顧眺右狭。
日沒澗增波、雲生嶺逾疊。
白芷競新苕、綠蘋齊初葉。」
摘芳芳靡諼、愉樂樂不變。
佳期緬無像、騁望誰云愜。』
 
(上戌の石鼓山に登る)#1
旅人は心 長【ながく】久【かわら】ず、憂憂は自から相い接す。
故郷は路遥かに遠く、川陸は捗る可からず。
汨汨きて与に娯しむ莫れ、春に発し登り躡【ふ】むに托す。
願を歓ぶも既に並ぶ無し、慮を戚【うれ】い 庶【こいねが】わくは協 有らんことを。』

#2
目を極め睞するに左は闊く、廻顧し眺むれば右は狭し。
日は没し澗は波を増し、雲 生じ嶺 逾いよ畳たり。
白い芷【よろいぐさ】正は新しき苕【のうぜんかつら】と競い、縁なる蘋【でんじそう】は斉【ひと】しく初葉。
芳を摘み芳 諼るる靡し、愉楽するも楽しみ變らがず。
佳期は緬うに像無し、騁望するに誰か愜しと云わん。』




現代語訳と訳註
(本文)
登上戌石鼓山#1
旅人心長久、憂憂自相接。
故郷路遥遠、川陸不可渉。
汨汨幕與娯、發春托登躡。
歓願既無竝、寂慮庶有協。』


(下し文) (上戌の石鼓山に登る)#1
旅人は心 長【ながく】久【かわら】ず、憂憂は自から相い接す。
故郷は路遥かに遠く、川陸は捗る可からず。
汨汨きて与に娯しむ莫れ、春に発し登り躡【ふ】むに托す。
願を歓ぶも既に並ぶ無し、慮を戚【うれ】い 庶【こいねが】わくは協 有らんことを。』


(現代語訳)
旅人の身になって自分の心では、随分長期にわたっているように感じている。先のことを思い悩み、今を苦しむことは、自然に自分の中で互いに接合していくのである。
あの故郷を隔てる道はこんなにもはるか遠くなっている。川の旅、陸の旅としたくはなかったことなのだ。
水が流れてやまない様子はこの地において共に楽しんでゆけるというものがいるわけではない。春になったからこうして出発してこの山に登り踏みしめてみるのである。
故郷に帰ること、都に変えること、それがかなえられるということはないようだ。寂寞の思い悩みがあるのなら、故郷に帰れるという喜びも共にあるといい。


(訳注) 登上戌石鼓山#1
旅人心長久、憂憂自相接。
旅人の身になって自分の心では、随分長期にわたっているように感じている。先のことを思い悩み、今を苦しむことは、自然に自分の中で互いに接合していくのである。
憂憂 先のことを思い悩むこと。苦しみ悩むこと。・憂は現在から未来にかけて心配すること。・今憂いで苦しむこと。そういう気持ちで過ごす日々が速く過ぎる様子をいう。


故郷路遥遠、川陸不可渉。
あの故郷を隔てる道はこんなにもはるか遠くなっている。川の旅、陸の旅としたくはなかったことなのだ。
 故郷を隔てる路。○遥遠 はるか遠く隔てること。再び、近ずくことができないことをいう。○川陸 永嘉にくる旅路のこと。


汨汨莫與娯、發春托登躡。
水が流れてやまない様子はこの地において共に楽しんでゆけるというものがいるわけではない。春になったからこうして出発してこの山に登り踏みしめてみるのである。
汨汨 水が流れてやまない様子。水が音を立てて流れゆく様子。自然の美しさの表現。○莫與娯 ここの景色を楽しんでいくことができる友人がいないとをいう。○發春 春の時節が到来し、興を起して出発したことをいう。○托登躡 風流をこの景色にかこつけて、山を登る、山道を踏みしめる。


歓願既無竝、寂慮庶有協。』
故郷に帰ること、都に変えること、それがかなえられるということはないようだ。寂寞の思い悩みがあるのなら、故郷に帰れるという喜びも共にあるといい。
既無竝 景色をめでることと故郷に帰ることとの二つの気持ちが並び立つことはない。○寂慮 寂寞の思い。心配の思い。○庶有協 二つの願いがかなうこと。

登江中孤嶼 謝靈運 <28> 詩集401 紀頌之 漢詩ブログ1020

登江中孤嶼 謝靈運 <28> 詩集401 紀頌之 漢詩ブログ1020

 かくて、時には広々とした臥江の下流、海との接点にあった孤嶼山にも、その風景を訪ねていったらしく、「江中の孤嶼に登る」の一首があり、『文選』の巻二十六の「行旅」の部にも選ばれている。
この詩は江南の景色もすべて見てまわり、江北の風物も見物、少しく退屈しているときに、江中の島の美しさを聞き、それっとばかり、供ぞろいして出かけていったときの作である。



登江中孤嶼
温州の南四里、永嘉江の中にある一つの嶼(鳥山峯が二つある。)にのぼる
江南捲歴覧、江北曠周旋。
永嘉江の南方を次々と見るのに飽きてしまうので、永嘉江の北を久しく歩き廻って、新しい眺めを思い求める。
懐新道轉迴、尋異景不延。
新しい景色を思い歩けば、道はいよいよ遠く廻り來る、珍しい景色を尋ねようとすれば日が早く沈む、日影はそれを待ってはくれない。
乱流趨正紀、弧嶼媚中川。
そこで乱れ流れる川をを横ぎって、正面の向岸に渡って行くと、島山がただ一つの山に見え、人を悦ばすような美しい姿で川の中にあった。
雲日相輝映、空水共澄鮮。
雲と太陽とが相い伴ばして輝き映えている、空と水とは共に明るく澄んでいた。
表靈物莫賞、蘊眞誰爲傅。
こうしてこの島は神秘な雰囲気を表わし、外界からかけ離れているので、何物がこれを誉めるということもないのだ、また山には仙人を奥深く包蔵していると思われるが、この絶対境では誰がそれを言い伝えることがあろうか。
想像崑山姿、緬邈區中縁。
この俗界を脱離した島山から私は崑崙山の島山の姿を想像している、狭い俗世界との関係がはるかに遠くなったように思われる。
始信安期術、得盡養生年。
そして私は仙人安期生の不老長生の術が、いきていくこで始めて信ずるのであった。それが生命を大切に担い養って、完全に天寿を生き尽くし得るものだということである。


江南の孤嶼に登る
江の南は歴覧するに倦み、江の北は曠【ひさ】しく周旋す。
新しきを懐【おも】いて道は転【うた】た迥【はる】かに、異【めずら】しきを尋ねて景【ひ】は延【なが】からず。
流れを乱【わた】りて正絶に趨【おもむ】けば、孤嶼は中川に媚【うるわ】し。
雲と日と 相輝き映え、空と水と 共に澄み鮮かなり。
霊を表すも物の賞【め】ずる莫く、真を蘊(つつ)むも誰か為に伝えん。
想像す 崑山の姿、緬邈【はるか】なり 区中の縁【けがれ】。
始めて信ず 安期の術の、養生の年を尽くすを得るを。


現代語訳と訳註
(本文)
登江中孤嶼
江南捲歴覧、江北曠周旋。
懐新道轉迴、尋異景不延。
乱流趨正紀、弧嶼媚中川。
雲日相輝映、空水共澄鮮。
表靈物莫賞、蘊眞誰爲傅。
想像崑山姿、緬邈區中縁。
始信安期術、得盡養生年。


(下し文) 江南の孤嶼に登る
江の南は歴覧するに倦み、江の北は曠【ひさ】しく周旋す。
新しきを懐【おも】いて道は転【うた】た迥【はる】かに、異【めずら】しきを尋ねて景【ひ】は延【なが】からず。
流れを乱【わた】りて正絶に趨【おもむ】けば、孤嶼は中川に媚【うるわ】し。
雲と日と 相輝き映え、空と水と 共に澄み鮮かなり。
霊を表すも物の賞【め】ずる莫く、真を蘊(つつ)むも誰か為に伝えん。
想像す 崑山の姿、緬邈【はるか】なり 区中の縁【けがれ】。
始めて信ず 安期の術の、養生の年を尽くすを得るを。


(現代語訳)
温州の南四里、永嘉江の中にある一つの嶼(島山峯が二つある。)にのぼる
永嘉江の南方を次々と見るのに飽きてしまうので、永嘉江の北を久しく歩き廻って、新しい眺めを思い求める。
新しい景色を思い歩けば、道はいよいよ遠く廻り來る、珍しい景色を尋ねようとすれば日が早く沈む、日影はそれを待ってはくれない。
そこで乱れ流れる川をを横ぎって、正面の向岸に渡って行くと、島山がただ一つの山に見え、人を悦ばすような美しい姿で川の中にあった。
雲と太陽とが相い伴ばして輝き映えている、空と水とは共に明るく澄んでいた。
こうしてこの島は神秘な雰囲気を表わし、外界からかけ離れているので、何物がこれを誉めるということもないのだ、また山には仙人を奥深く包蔵していると思われるが、この絶対境では誰がそれを言い伝えることがあろうか。
この俗界を脱離した島山から私は崑崙山の島山の姿を想像している、狭い俗世界との関係がはるかに遠くなったように思われる。
そして私は仙人安期生の不老長生の術が、いきていくこで始めて信ずるのであった。それが生命を大切に担い養って、完全に天寿を生き尽くし得るものだということである。


(訳注)
登江中孤嶼

温州の南四里、永嘉江の中にある一つの嶼(島山峯が二つある。)にのぼる


江南捲歴覧、江北曠周旋。
永嘉江の南方を次々と見るのに飽きてしまうので、永嘉江の北を久しく歩き廻って、新しい眺めを思い求める。
 久しく。空しく。○周旋 周り歩く。


懐新道轉迴、尋異景不延。
新しい景色を思い歩けば、道はいよいよ遠く廻り來る、珍しい景色を尋ねようとすれば日が早く沈む、日影はそれを待ってはくれない。
懐新道轉迴 「懐新道轉迴とは、新境を貪り尋ねて、其の道の退きを忘るるを謂ふなり。○尋異景不延 往き前みて奇を探れば、前に当る妙景、少くも遲延する能はずと謂ふなり。幽を尋ぬるに探き者はこの十字の字字咀味するに耐ふるを知る。」 ○不延 待たず。新しい景色、珍しい景色を眺めると、ついつい長くなり、日がしずむのが速くかんじて、見たりないことをいう。


乱流趨正紀、弧嶼媚中川。
そこで乱れ流れる川をを横ぎって、正面の向岸に渡って行くと、島山がただ一つの山に見え、人を悦ばすような美しい姿で川の中にあった。
乱流 流れを渡る。○正紀 流れを横切った正面の岸。乱流の二句は、「流を截って渡れば、忽ち孤嶼を得たるを謂ふ。余嘗て金焦に遊んで此の二句を誦し、愈々と其の妙を覚ゆ」とある。


雲日相輝映、空水共澄鮮。
雲と太陽とが相い伴ばして輝き映えている、空と水とは共に明るく澄んでいた。


表靈物莫賞、蘊眞誰爲傅。
こうしてこの島は神秘な雰囲気を表わし、外界からかけ離れているので、何物がこれを誉めるということもないのだ、また山には仙人を奥深く包蔵していると思われるが、この絶対境では誰がそれを言い伝えることがあろうか。
表霊 神霊の住む神秘なようすを表わす。○ 外界の物。○蘊眞 真人(仙人)を奥に包蔵する。○誰爲傅 人里離れているので誰も世に伝えない。


想像崑山姿、緬邈區中縁。
この俗界を脱離した島山から私は崑崙山の島山の姿を想像している、狭い俗世界との関係がはるかに遠くなったように思われる。
崑山 神仙の住むという崑崙山。中国古代の伝説上の山岳。崑崙山・崑崙丘・崑崙虚ともいう。中国の西方にあり、黄河の源で、玉を産出し、仙女の西王母がいるとされた。仙界とも呼ばれ、八仙がいるとされる。崑崙奴(こんろんど)とは、アフリカ系黒人に対しての呼び名であるが、伎楽の崑崙〔くろん〕面の名称も、そもそもは黒人のことをさした。○緬邈 はるかに遠いさま。○区中線 世間の俗縁。区中は狭い世間。
 

始信安期術、得盡養生年。
そして私は仙人安期生の不老長生の術が、いきていくこで始めて信ずるのであった。それが生命を大切に担い養って、完全に天寿を生き尽くし得るものだということである。
安期術 不老長生の術。列仙伝に「安期生は瑯邪阜郷の人。自ら千歳と言ふ」と。○安期 仙人の名。安期宅秦の墳邪の人で、学問を河上文人に受け、東海のほとりで薬を売っていた。当時の人は千歳公と呼んだ。始皇帝が山東に遊んだとき、三旦二晩ともに語った。金崗数千万を賜わったが、みな置いたまま立去り、「数十年のちに、われを蓬莱山のふもとにたずねよ」という置手紙をのこした。始皇はかれを海上にさがさせたが、使者は風波にあい引返した。漢の武帝の時、李少君という者が帝に報告した。「臣がかつて海上に遊んだとき、安期生を見た。かれは瓜のように大きいナツメを臣に食わせた、云云」武帝もまた、方士を海に派遣して安期生をさがさせたという。「列仙伝」や「史記」『三国志』「魏書」に登場する話。
古風五十九首 其七 李白 108/350


登江中孤嶼
江南捲歴覧、江北曠周旋。
懐新道轉迴、尋異景不延。
乱流趨正紀、弧嶼媚中川。
雲日相輝映、空水共澄鮮。
表靈物莫賞、蘊眞誰爲傅。
想像崑山姿、緬邈區中縁。
始信安期術、得盡養生年。

江南の孤嶼に登る詩。
江の南は歴覧するに倦み、江の北は曠【ひさ】しく周旋す。
新しきを懐【おも】いて道は転【うた】た迥【はる】かに、異【めずら】しきを尋ねて景【ひ】は延【なが】からず。
流れを乱【わた】りて正絶に趨【おもむ】けば、孤嶼は中川に媚【うるわ】し。
雲と日と 相輝き映え、空と水と 共に澄み鮮かなり。
霊を表すも物の賞【め】ずる莫く、真を蘊(つつ)むも誰か為に伝えん。
想像す 崑山の姿、緬邈【はるか】なり 区中の縁【けがれ】。
始めて信ず 安期の術の、養生の年を尽くすを得るを。


游赤石進帆海詩 謝霊運<27>#2 詩集 400 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1017

游赤石進帆海詩 謝霊運<27>#2 詩集 400 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1017


温州、永嘉に来て、時には足を遠くへ伸ばし、赤石にも遊んだ。赤石とは李書は『遊名山志』の「永寧・安国の二県の中路の東南は便ち走れ赤石にして、又た海に枕む」を引用して説明する。つまり、永寧は今の永嘉県、安回は安国のことで瑞安県とする。このとき作ったのが「赤石に遊び、進みて海に汎ぶ」の詩で、『文選』の巻二十二の 「遊覧」に選ばれている。


謝霊運『游赤石進帆海』詩
「揚帆采石華、掛席拾海月。」(帆を揚げて石華を采り、席を掛げて海月を拾う。)


遊赤石進帆海
作者:謝靈運 《昭明文選•卷二十二》


遊赤石進帆海
首夏猶清和,芳草亦未歇。
水宿淹晨暮,陰霞屢興沒。
周覽倦瀛壖,況乃陵窮髮。
川后時安流,天吳靜不發。』
揚帆采石華,挂席拾海月。
そこで私は帆をあげて船を進め、石についた華のような海草を采り、むしろ帆を揚げて舟を進め、海中の月のようなくらげを拾うのである。
溟漲無端倪,虛舟有超越。
底の暗い水のみなぎる海ははてしもない。その上を主役の乗っていない虚しい舟が自然遠くに漂い行くように、望みを捨てた私の舟路は液のまにまに、浮き世のかなたに遠く馳せて行くようである。
仲連輕齊組,子牟眷魏闕。
魯仲運は斉の卿相の印綬の組紐を物の数とも思わずに、海辺に去った廉潔の烈士であり、中山の公子牟は詹子に「身江海の上に在りても、心は訊問(城門の前にある左右の高い楼のようなもの)の下に居【お】かばいかん」といい、常に朝廷のことを忘れないのであった。
矜名道不足,適己物可忽。
それは、世間の名声(プライド)をほこることは、万象の根源である道、徳を充分に会得することはできないものであり、自己の志にかなう生きかたをしたなら、本来大切でない外物をおろそかにして忘れることができるのである。
請附任公言,終然謝天伐。』

孔子が陳で囲まれたとき、大公任が行って弔して「直木はまず伐られ、甘泉はまず枯渇【つ】きる、故に貴君は智徳のすぐれた人だから免れないのだ」といったことばに従って、ついには年若くて伐られる木の不幸をまぬがれたいものである。私は世の役に立たずとも、そのために自然の生命を全うしたいと切に願うのである。


(赤石に遊んで進んで海に泛ぶ)

首夏【しょか】猶お 清和にして,芳草も亦た 歇【や】まず。
水に宿り 晨暮【しんぼ】に淹【とど】まる,陰【かげ】る霞は 屢々 興こり沒しぬ。
周覽し 瀛壖【うみべ】に倦【う】む,況んや 乃ち窮髮【あれち】を陵るや。
川后【かわのかみ】は 時に流れを安んじ,天吳【わだつみのかみ】は靜にして 發せず。

帆を揚げて石華【ところてん】を采り、席を掛【かか】げて 海月【たいらぎかい】を拾う。
溟漲【みなみのうみ】は端倪【はじ】無きも,虛舟【かろきふね】は 超越する有り。
仲連【[魯]ちゅうれん】は齊組【せいそ】を輕んじ,子牟【[公]しぼう】は魏の闕を眷【した】い。
名に矜【ほこ】れば 道に足らず,己に適【かな】えば物も忽【わす】る可し。
請うらくは任公の言に附き,終然【つい】に天伐【はやくきられる】を謝【さ】らんことを。

keikoku00

現代語訳と訳註
(本文)#2

揚帆采石華,挂席拾海月。
溟漲無端倪,虛舟有超越。
仲連輕齊組,子牟眷魏闕。
矜名道不足,適己物可忽。
請附任公言,終然謝天伐。』


(下し文)#2
帆を揚げて石華【ところてん】を采り、席を掛【かか】げて 海月【たいらぎかい】を拾う。
溟漲【みなみのうみ】は端倪【はじ】無きも,虛舟【かろきふね】は 超越する有り。
仲連【[魯]ちゅうれん】は齊組【せいそ】を輕んじ,子牟【[公]しぼう】は魏の闕を眷【した】い。
名に矜【ほこ】れば 道に足らず,己に適【かな】えば物も忽【わす】る可し。
請うらくは任公の言に附き,終然【つい】に天伐【はやくきられる】を謝【さ】らんことを。


(現代語訳)
そこで私は帆をあげて船を進め、石についた華のような海草を采り、むしろ帆を揚げて舟を進め、海中の月のようなくらげを拾うのである。
底の暗い水のみなぎる海ははてしもない。その上を主役の乗っていない虚しい舟が自然遠くに漂い行くように、望みを捨てた私の舟路は液のまにまに、浮き世のかなたに遠く馳せて行くようである。
魯仲運は斉の卿相の印綬の組紐を物の数とも思わずに、海辺に去った廉潔の烈士であり、中山の公子牟は詹子に「身江海の上に在りても、心は訊問(城門の前にある左右の高い楼のようなもの)の下に居【お】かばいかん」といい、常に朝廷のことを忘れないのであった。
それは、世間の名声(プライド)をほこることは、万象の根源である道、徳を充分に会得することはできないものであり、自己の志にかなう生きかたをしたなら、本来大切でない外物をおろそかにして忘れることができるのである。
孔子が陳で囲まれたとき、大公任が行って弔して「直木はまず伐られ、甘泉はまず枯渇【つ】きる、故に貴君は智徳のすぐれた人だから免れないのだ」といったことばに従って、ついには年若くて伐られる木の不幸をまぬがれたいものである。私は世の役に立たずとも、そのために自然の生命を全うしたいと切に願うのである。


(訳注)
揚帆采石華,挂席拾海月。

そこで私は帆をあげて船を進め、石についた華のような海草を采り、むしろ帆を揚げて舟を進め、海中の月のようなくらげを拾うのである。
揚帆 帆をあげて船を進め。○石 海藻の名、ところてんの原料。珊瑚の名。いわ蘚。かき。石にさく花。○挂席 帆をあげる。席はむしろ。挂帆。○海月 海の中の月のようなくらげ。唐・孟浩然は謝霊運のこの詩に影響を受け次の詩を作っている。
晩泊潯陽望香爐峰』 孟浩然
掛席幾千里,名山都未逢。
泊舟潯陽郭,始見香爐峰。
嘗讀遠公傳,永懷塵外蹤。
東林精舍近,日暮但聞鐘。

(晩 潯陽に泊して香爐峰を望む)
席を掛けて幾千里、名山 都て未だ逢はず。
舟を潯陽の郭に泊め、始めて香爐峰を見たり。
嘗て遠公の伝を読み、永く塵外の蹤を懐く。
東林精舎近く、日暮れて 但【た】だ 鐘を聞けり。

●孟浩然の詩を詠んでいると時々、謝霊運を呼んでいたのかと間違えることがある。謝霊運の影響が最も大きかったのは、孟浩然であると筆者は感じている。それは、謝霊運の造語がよくつかわれていること。辞書を調べると。唐以前の詩人として謝霊運が圧倒的に多いこと。



溟漲無端倪,虛舟有超越。
底の暗い水のみなぎる海ははてしもない。その上を主役の乗っていない虚しい舟が自然遠くに漂い行くように、望みを捨てた私の舟路は液のまにまに、浮き世のかなたに遠く馳せて行くようである。
溟漲 底の暗い水のみなぎる海○端倪 きわ、はし、はじめからおわりまで。○虛舟 主役の乗っていない虚しい舟。


仲連輕齊組,子牟眷魏闕。
魯仲運は斉の卿相の印綬の組紐を物の数とも思わずに、海辺に去った廉潔の烈士であり、中山の公子牟は詹子に「身江海の上に在るも、心は魏闕(城門の前にある左右の高い楼のようなもの)の下に居【お】かばいかん」といい、常に朝廷のことを忘れないのであった。
仲連 『史記』の魯仲連伝の物語。魯仲連は、斉が柳城を攻めたときの功績により爵位を与えられようとした(卿相の印綬の組紐)が、それを避けて海上に隠れたという、○ 物の数とも思わず○齊組 齊の爵位。齊の卿相の印綬の組紐という表現がなされている。○子牟 魏の公子牟は江海のほとりにおりつつも、魏の宮廷のことを懐かしがったという『呂氏春秋』「中山の公子牟は詹子に謂って日く、身は江海の上に在るも、心は魏闕の下に居【お】かばいかんと」とある。の物語を引用している。○魏闕 魏の宮廷。闕は宮殿の門の左右傍にある潜り門。官僚が入る門のこと。『荘子』の大公任の故事を引いて、自分もこのように人生を送りたいとの顧望を述べる。


矜名道不足,適己物可忽。
それは、世間の名声(プライド)をほこることは、万象の根源である道、徳を充分に会得することはできないものであり、自己の志にかなう生きかたをしたなら、本来大切でない外物をおろそかにして忘れることができるのである。
矜名 世間の名声(プライド)をほこる。○道不足 万象の根源である道、徳を充分に会得することはできない。道教でいう「道」ではないから、道と徳とした。○適己 自己の志にかなう生きかたをする。○物可忽 本来大切でない外物をおろそかにして忘れる。


請附任公言,終然謝夭伐。』
孔子が陳で囲まれたとき、大公任が行って弔して「直木はまず伐られ、甘泉はまず枯渇【つ】きる、故に貴君は智徳のすぐれた人だから免れないのだ」といったことばに従って、ついには年若くて伐られる木の不幸をまぬがれたいものである。私は世の役に立たずとも、そのために自然の生命を全うしたいと切に願うのである。
請附 ことばに従って○任公言 名誉欲を離れて静かに人生を送るべきだという『荘子』の大公任の故事を引用。孔子が陳で囲まれたとき、大公任が行って弔して「直木はまず伐られ、甘泉はまず枯渇【つ】きる、故に貴君は智徳のすぐれた人だから免れないのだ」といった。自分もこのように人生を送りたいとの願望を述べる。○終然 ついには~を切に願う。○ 免れる。○夭伐 年若くて伐られる木。

游赤石進帆海詩 謝靈運<27>#1 詩集 399 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1014

游赤石進帆海詩 謝霊運27#1 詩集 399 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1014


温州、永嘉に来て、時には足を遠くへ伸ばし、赤石にも遊んだ。赤石とは李書は『遊名山志』の「永寧・安国の二県の中路の東南は便ち走れ赤石にして、又た海に枕む」を引用して説明する。つまり、永寧は今の永嘉県、安回は安国のことで瑞安県とする。このとき作ったのが「赤石に遊び、進みて海に汎ぶ」の詩で、『文選』の巻二十二の 「遊覧」に選ばれている。


謝霊運『游赤石進帆海』詩
「揚帆采石華、掛席拾海月。」(帆を揚げて石華を采り、席を掛げて海月を拾う。)


遊赤石進帆海
作者:謝靈運 《昭明文選•卷二十二》


遊赤石進帆海
首夏猶清和,芳草亦未歇。
夏の初め、まだなお春のように気はのどかな時節である、芳しい草はまたいまだやまず花咲いている。
水宿淹晨暮,陰霞屢興沒。
水辺の舟に宿って朝夕を久しく過ごしていると、暗い雲気がしばしば興っては消えてゆく。
周覽倦瀛壖,況乃陵窮髮。
あまねく海岸の景色に見飽きてしまった。まして昔の人が北海の北の不毛の地をふみ越えて行った時はなおさらであったと思う。
川后時安流,天吳靜不發。』

川の神、河伯は今の時に安らかに川を流れさせ、海の神、天呉は静かにして現われない。
揚帆采石華,挂席拾海月。
溟漲無端倪,虛舟有超越。
仲連輕齊組,子牟眷魏闕。
矜名道不足,適己物可忽。
請附任公言,終然謝天伐。』

(赤石に遊んで進んで海に泛ぶ)
首夏【しょか】猶お 清和にして,芳草も亦た 歇【や】まず。
水に宿り 晨暮【しんぼ】に淹【とど】まる,陰【かげ】る霞は 屢々 興こり沒しぬ。
周覽し 瀛壖【うみべ】に倦【う】む,況んや 乃ち窮髮【あれち】を陵るや。
川后【かわのかみ】は 時に流れを安んじ,天吳【わだつみのかみ】は靜にして 發せず。

帆を揚げて石華【ところてん】を采り、席を掛【かか】げて 海月【たいらぎかい】を拾う。
溟漲【みなみのうみ】は端倪【はじ】無きも,虛舟【かろきふね】は 超越する有り。
仲連【[魯]ちゅうれん】は齊組【せいそ】を輕んじ,子牟【[公]しぼう】は魏の闕を眷【した】い。
名に矜【ほこ】れば 道に足らず,己に適【かな】えば物も忽【わす】る可し。
請うらくは任公の言に附き,終然【つい】に天伐【はやくきられる】を謝【さ】らんことを。



現代語訳と訳註
(本文)
遊赤石進帆海
首夏猶清和,芳草亦未歇。
水宿淹晨暮,陰霞屢興沒。
周覽倦瀛壖,況乃陵窮髮。
川后時安流,天吳靜不發。』


(下し文) (赤石に遊んで進んで海に泛ぶ)
首夏【しょか】猶お 清和にして,芳草も亦た 歇【や】まず。
水に宿り 晨暮【しんぼ】に淹【とど】まる,陰【かげ】る霞は 屢々 興こり沒しぬ。
周覽し 瀛壖【うみべ】に倦【う】む,況んや 乃ち窮髮【あれち】を陵るや。
川后【かわのかみ】は 時に流れを安んじ,天吳【わだつみのかみ】は靜にして 發せず。


(現代語訳)
夏の初め、まだなお春のように気はのどかな時節である、芳しい草はまたいまだやまず花咲いている。
水辺の舟に宿って朝夕を久しく過ごしていると、暗い雲気がしばしば興っては消えてゆく。
あまねく海岸の景色に見飽きてしまった。まして昔の人が北海の北の不毛の地をふみ越えて行った時はなおさらであったと思う。
川の神、河伯は今の時に安らかに川を流れさせ、海の神、天呉は静かにして現われない。


(訳注)
遊赤石進帆海
赤石  永寧・妄固二県の中路の東南は、便ち走れ赤石なり。また海に臨む。 ○帆 帆は帆を揚げ浮かぶ。赤石に旅をし、水辺に宿をとって、その夕景を詠じ、さらに、「帆を揚げて石華を採り 席に掛けて海月を拾う」と歌う。


首夏猶清和,芳草亦未歇。
夏の初め、まだなお春のように気はのどかな時節である、芳しい草はまたいまだやまず花咲いている。
首夏 しょか ○清和 きよくなごやか。のどか。世の中が良く治まっていること。初夏の気候の形容。


水宿淹晨暮,陰霞屢興沒。
水辺の舟に宿って朝夕を久しく過ごしていると、暗い雲気がしばしば興っては消えてゆく。
水宿 水辺の舟に宿す。○晨暮 朝夕。○陰霞 暗い雲気。○興沒 暗い雲気。


周覽倦瀛壖,況乃陵窮髮。
あまねく海岸の景色に見飽きてしまった。まして昔の人が北海の北の不毛の地をふみ越えて行った時はなおさらであったと思う。
周覽 周り回って観覧する。○瀛壖 海岸の景色。○況乃 いわんや、なおさら。○陵窮髮 北海の北の不毛の地。


川后時安流,天吳靜不發。』
川の神、河伯は今の時に安らかに川を流れさせ、海の神、天呉は静かにして現われない。
川后 川の神。河伯。曹植『洛神賦』「屏翳収風、川后静波。」(屏翳風を収め、川后波を静む。)○天吳 海の神、人の顔をし、八首、八足、八尾をしている。

遊南亭 謝靈運 <26>#2 詩集398 紀頌之 漢詩ブログ1011

遊南亭 謝霊運 <26>#2 詩集398 紀頌之 漢詩ブログ1011

孤独な霊運はその事に腰を下ろして四方の景を眺めつつ、来し方のこと、都のことを思い出し、左遷された今を悲しみ、早く故郷の会稽に帰り、自然の美しきを楽しみたいと思いつつ歌ったのが「南亭に遊ぶ」で、この作は『文選』の巻二十二の「遊覧」に選ばれている。


遊南亭
時竟夕澄霽。雲歸日西馳。
密林含余清。遠峰隱半規。
久痗昏墊苦。旅館眺郊歧。
澤蘭漸被徑。芙蓉始發池。』
未厭青春好。已觀朱明移。
万物の息吹、木々の芽生える春の好い季節、気候をまだ、まだ飽きてもいないのに、もうすでに日の朱き、明るく輝く夏に移りゆくのを見る。
慼慼感物嘆。星星白髮垂。
そうすると私は物悲しくなって風物に感じて嘆いてしまう、きらきらと光って白髪が垂れ下がっているのに気が付く。
藥餌情所止。衰疾忽在斯。
老衰と疾病がたちまちこのようにやって来たのは薬や食物はわが気持ちから止めてしまったからだ。
逝將候秋水。息景偃舊崖。
これから秋の増水の時を待って流れに随って帰えり行き、わが身の影を休息させるために始寧の故郷の崖の家に身を横たえようと思う。
我志誰與亮。賞心惟良知。』

私の志は誰が明らかに知ってくれることだろうか。自然の実を写る心の人こそ良い知友である。これからは私は風月をめでて暮らしたいと思う。


南亭遊
時も竟【お】わりて夕【ゆうべ】は澄み霽【は】れ、雲は帰り日は西に馳【は】す。
密林 余清【よせい】を含み、遠峰は 半規【はんき】を隠す。
久しく昏墊【こんてん】の苦に痗【なや】みしも、旅館にて郊岐【こうき】を眺む。
沢の蘭は漸【ようや】く径【こみち】を被い、芙蓉は始めて池に発す。
未だ青青の好を厭【あ】かざるに、己に朱明【しゅめい】の移れるを覩【み】る。
戚戚【せきせき】として物に感じて嘆き、星星【せいせい】として白髪 垂【た】る。
薬餌【やくじ】は情の止【や】む所、衰疾【すいしつ】 忽ち斯【ここ】に在り。
逝【ゆき】て将に秋水を侯【ま】ち、景を息【やす】 めて旧崖に偃【ふ】さんとす。
我が志 誰と与にか亮【あき】らかにせん。賞心【しょうしん】惟【こ】れ 良知なり。

 #2 現代語訳と訳註
(本文)#2

未厭青春好。已觀朱明移。
慼慼感物嘆。星星白髮垂。
藥餌情所止。衰疾忽在斯。
逝將候秋水。息景偃舊崖。
我志誰與亮。賞心惟良知。』


(下し文)
未だ青青の好を厭【あ】かざるに、己に朱明【しゅめい】の移れるを覩【み】る。
戚戚【せきせき】として物に感じて嘆き、星星【せいせい】として白髪 垂【た】る。
薬餌【やくじ】は情の止【や】む所、衰疾【すいしつ】 忽ち斯【ここ】に在り。
逝【ゆき】て将に秋水を侯【ま】ち、景を息【やす】 めて旧崖に偃【ふ】さんとす。
我が志 誰と与にか亮【あき】らかにせん。賞心【しょうしん】惟【こ】れ 良知なり。


(現代語訳)
万物の息吹、木々の芽生える春の好い季節、気候をまだ、まだ飽きてもいないのに、もうすでに日の朱き、明るく輝く夏に移りゆくのを見る。
そうすると私は物悲しくなって風物に感じて嘆いてしまう、きらきらと光って白髪が垂れ下がっているのに気が付く。
老衰と疾病がたちまちこのようにやって来たのは薬や食物はわが気持ちから止めてしまったからだ。
これから秋の増水の時を待って流れに随って帰えり行き、わが身の影を休息させるために始寧の故郷の崖の家に身を横たえようと思う。
私の志は誰が明らかに知ってくれることだろうか。自然の実を写る心の人こそ良い知友である。これからは私は風月をめでて暮らしたいと思う。


(訳注)
未厭青春好。已觀朱明移。

万物の息吹、木々の芽生える春の好い季節、気候をまだ、まだ飽きてもいないのに、もうすでに日の朱き、明るく輝く夏に移りゆくのを見る。
青春 五行思想で青、春、東を青とする。春霞の青い山々。万物の息吹、木々の芽生える春の季節。○朱明 夏のこと。『爾雅、釈天』に「夏を朱明と為す」と。五行思想で南方、夏の色を朱とする。


慼慼感物嘆。星星白髮垂。
そうすると私は物悲しくなって風物に感じて嘆いてしまう、きらきらと光って白髪が垂れ下がっているのに気が付く。
戚戚 憂え悲しむ。○星星 点々と白髪の交じるさま。


藥餌情所止。衰疾忽在斯。
老衰と疾病がたちまちこのようにやって来たのは薬や食物はわが気持ちから止めてしまったからだ。
○倒句でよむ。


逝將候秋水。息景偃舊崖。
これから秋の増水の時を待って流れに随って帰えり行き、わが身の影を休息させるために始寧の故郷の崖の家に身を横たえようと思う。
秋水 秋の増水。○息景 景は影と同じ。わが身の影。文選、張銑注に「形影を旧居の山崖に息む」と。○ 身を横たえ○舊崖 始寧のf故郷の崖の家


我志誰與亮。賞心惟良知。』
私の志は誰が明らかに知ってくれることだろうか。自然の実を写る心の人こそ良い知友である。これからは私は風月をめでて暮らしたいと思う。
誰與亮 輿は「歟」~だろうか。誰か亮かなるだろうか。亮は明、信。○賞心 自然の風光を賞でる心。○惟良知 自然の美を知り、俗事を脱れる心のある人こそわが良友である。

遊南亭 謝靈運 <26>#1 詩集397 紀頌之 漢詩ブログ1008

遊南亭 謝霊運 <26>#1 詩集397 紀頌之 漢詩ブログ1008

孤独な霊運はその事に腰を下ろして四方の景を眺めつつ、来し方のこと、都のことを思い出し、左遷された今を悲しみ、早く故郷の会稽に帰り、自然の美しきを楽しみたいと思いつつ歌ったのが「南亭に遊ぶ」で、この作は『文選』の巻二十二の「遊覧」に選ばれている。


遊南亭
南亭に遊ぶ。
時竟夕澄霽。雲歸日西馳。
日暮れの時も終わるころ、夕方の気は澄みわたり、そして空は晴れる。雲は山に帰り、日は西に馳せて行く。
密林含余清。遠峰隱半規。
奥深く繁った林はありあまる涼しさを含み、遠山の峯は半円形の夕日を隠してしまった。
久痗昏墊苦。旅館眺郊歧。
久しく暗い雨の日が続き、洪水の苦しみ、なやんでいた私は、南亭の旅館で郊外の分かれ道を眺めている。
澤蘭漸被徑。芙蓉始發池。』

沢の蘭草はやや小道を被って茂り、蓮の花ははじめて池の中でいま開いたところである。

未厭青春好。已觀朱明移。
慼慼感物嘆。星星白髮垂。
藥餌情所止。衰疾忽在斯。
逝將候秋水。息景偃舊崖。
我志誰與亮。賞心惟良知。』


時も竟【お】わりて夕【ゆうべ】は澄み霽【は】れ、雲は帰り日は西に馳【は】す。
密林 余清【よせい】を含み、遠峰は 半規【はんき】を隠す。
久しく昏墊【こんてん】の苦に痗【なや】みしも、旅館にて郊岐【こうき】を眺む。
沢の蘭は漸【ようや】く径【こみち】を被い、芙蓉は始めて池に発す。

未だ青青の好を厭【あ】かざるに、己に朱明【しゅめい】の移れるを覩【み】る。
戚戚【せきせき】として物に感じて嘆き、星星【せいせい】として白髪 垂【た】る。
薬餌【やくじ】は情の止【や】む所、衰疾【すいしつ】 忽ち斯【ここ】に在り。
逝【ゆき】て将に秋水を侯【ま】ち、景を息【やす】 めて旧崖に偃【ふ】さんとす。
我が志 誰と与にか亮【あき】らかにせん。賞心【しょうしん】惟【こ】れ 良知なり。


現代語訳と訳註
(本文)

時竟夕澄霽。雲歸日西馳。
密林含余清。遠峰隱半規。
久痗昏墊苦。旅館眺郊歧。
澤蘭漸被徑。芙蓉始發池。』


(下し文)
時も竟【お】わりて夕【ゆうべ】は澄み霽【は】れ、雲は帰り日は西に馳【は】す。
密林 余清【よせい】を含み、遠峰は 半規【はんき】を隠す。
久しく昏墊【こんてん】の苦に痗【なや】みしも、旅館にて郊岐【こうき】を眺む。
沢の蘭は漸【ようや】く径【こみち】を被い、芙蓉は始めて池に発す。


(現代語訳)
南亭に遊ぶ。
日暮れの時も終わるころ、夕方の気は澄みわたり、そして空は晴れる。雲は山に帰り、日は西に馳せて行く。
奥深く繁った林はありあまる涼しさを含み、遠山の峯は半円形の夕日を隠してしまった。
久しく暗い雨の日が続き、洪水の苦しみ、なやんでいた私は、南亭の旅館で郊外の分かれ道を眺めている。
沢の蘭草はやや小道を被って茂り、蓮の花ははじめて池の中でいま開いたところである。


(訳注)#1
遊南亭
南亭に遊ぶ
南亭 永嘉郡の南亭


時竟夕澄霽。雲歸日西馳。
日暮れの時も終わるころ、夕方の気は澄みわたり、そして空は晴れる。雲は山に帰り、日は西に馳せて行く。
時竟 暫くの時が終わって。あるいは、時雨止む、ここでは、日暮れの時おわり、一日を尽くすとする。


密林含余清。遠峰隱半規。
奥深く繁った林はありあまる涼しさを含み、遠山の峯は半円形の夕日を隠してしまった。
密林 奥深く繁った林。○半規 沈みかけ半ば隠れた太陽。


久痗昏墊苦。旅館眺郊歧。
久しく暗い雨の日が続き、洪水の苦しみ、なやんでいた私は、南亭の旅館で郊外の分かれ道を眺めている。
 なやむ。○昏墊 暗く曇り水があふれる。長雨と洪水。○郊歧 城郭郊外の分かれ道(分岐点)。


澤蘭漸被徑。芙蓉始發池。』
沢の蘭草はやや小道を被って茂り、蓮の花ははじめて池の中でいま開いたところである。
沢蘭 沢畔の蘭草。楚辞招魂に「皐蘭径【こみち】を蔽【おお】ひ、斯の路漸【ひた】る。」と。○芙蓉 連の花。楚辞、招魂に「芙蓉始めて発【ひら】いて、芰荷を雑【まじ】ふ」と。

登池上樓 #2 謝靈運<25>#2  詩集 396 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1005

登池上樓 #2 謝霊運<25>#2  詩集 396 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1005

 

登池上樓#1
潛虯媚幽姿,飛鴻響遠音。
薄霄愧雲浮,棲川怍淵沉。
進德智所拙,退耕力不任。」
徇祿反窮海,臥痾對空林。
衾枕昧節候,褰開暫窺臨。
傾耳聆波瀾,舉目眺嶇嶔。』
#2
初景革緒風,新陽改故陰。
初春の景色は去年の秋冬の名残の風を改めている、新しい日の光が照り、去年の冬の名残りの陰気はすっかり改まっている。
池塘生春草,園柳變鳴禽。」
池の堤防にびっしり春の草が生えている、庭園の柳の梢に鳴いている小鳥たちも冬のものと違って聞こえてくる。
祁祁傷豳歌,萋萋感楚吟。
春の日あしはのどかにあるとした『詩経』の豳歌に心を痛め、さわさわとした草の茂りに『楚辞、招隠士』の「王孫遊びて帰らず、春草生じて萋萋たり。」ということに感動するのである。
索居易永久,離群難處心。
友と離れて病床につき一人引きこもってれば永久になりやすのだ、群から離れたら心を落ち着けることは難しい。
持操豈獨古,無悶徵在今。』

それでも志を持ち続ける節操として守り続けるのは一人古人だけだろうか、今の世に隠棲してよをのがれることができるなら、「無悶」の徴候は今ここに実証としてあるということなのだ。


(池の上の楼に登る)
潜【ひそ】める虻【みずち】は幽【ゆう】なる姿を媚【よろこ】び、飛ぶ鴻【おおとり】は遠き音を響かす。
空に留まりて雲に浮かぶを愧【は】じ、川に沈みて淵に沈むを怍【は】ず。
徳を進【みがか】んとするも智の拙なる所、耕を退かんとするに力任【た】えず。
禄に徇【したが】いて窮【さいは】ての海に及び、痾【あ】に臥し空林に対す。
衾【ねや】の枕とは節候【じせつ】に昧【くら】く、褰【かか】げて開きて暫く窺【うかが】い臨む。』
耳を傾けて波瀾を聆【き】き、目を挙げて嶇【たかき】嶔【そびえ】を眺むるのみ。
#2
初景【はつはる】は緒風を革【あらた】め、新陽は故き蔭【ふゆ】を改む。
池の塘【つつみ】は春の草生じ、園の柳に鳴く禽【とり】も変りぬ。
祁祁【ひとおお】きに豳【ひん】の歌に傷【いた】み、萋萋【せいせい】たる楚吟【そぎん】に感ず。
索居【ひとりい】は永久なり易く、群れを離れては心を處【しょ】し難し。
操を持するは豈ひとり古【いにしえ】のみ成らんや、悶【うれ】い無きの徵【しる】しは今に在り。


現代語訳と訳註
(本文)
#2
初景革緒風,新陽改故陰。
池塘生春草,園柳變鳴禽。」
祁祁傷豳歌,萋萋感楚吟。
索居易永久,離群難處心。
持操豈獨古,無悶徵在今。』


(下し文) #2
初景【はつはる】は緒風を革【あらた】め、新陽は故き蔭【ふゆ】を改む。
池の塘【つつみ】は春の草生じ、園の柳に鳴く禽【とり】も変りぬ。
祁祁【ひとおお】きに豳【ひん】の歌に傷【いた】み、萋萋【せいせい】たる楚吟【そぎん】に感ず。
索居【ひとりい】は永久なり易く、群れを離れては心を處【しょ】し難し。
操を持するは豈ひとり古【いにしえ】のみ成らんや、悶【うれ】い無きの徵【しる】しは今に在り。


(現代語訳)
初春の景色は去年の秋冬の名残の風を改めている、新しい日の光が照り、去年の冬の名残りの陰気はすっかり改まっている。
池の堤防にびっしり春の草が生えている、庭園の柳の梢に鳴いている小鳥たちも冬のものと違って聞こえてくる。
春の日あしはのどかにあるとした『詩経』の豳歌に心を痛め、さわさわとした草の茂りに『楚辞、招隠士』の「王孫遊びて帰らず、春草生じて萋萋たり。」ということに感動するのである。
友と離れて病床につき一人引きこもってれば永久になりやすのだ、群から離れたら心を落ち着けることは難しい。
それでも志を持ち続ける節操として守り続けるのは一人古人だけだろうか、今の世に隠棲してよをのがれることができるなら、「無悶」の徴候は今ここに実証としてあるということなのだ。


(訳注)
初景革緒風,新陽改故陰。

初春の景色は去年の秋冬の名残の風を改めている、新しい日の光が照り、去年の冬の名残りの陰気はすっかり改まっている。
初景 初春の景色。○緒風 秋冬の風の名残をいう。『楚辞』「九章」の「渉江」に、「乗鄂渚而反顧兮、欵秋冬之緒風。」(鄂渚に乗りて反顧すれば、ああ、秋冬の緒風なり。)とある。○革 あらたまる。革命、改革。「天地陰陽、不革而成。」『易経、革』「上六、君子豹変、小人革面」(上六、君子は豹変し、小人は面を革む。)四季の移り変わりのように自然と直ってゆくことを言う。年が改まり、去年の秋冬の風が初春の景色へと変わってゆくように、何かが新しく、正しく改革されてゆく。それは下から登ってきた陽気が去年の陰気に取って代わられてゆくからである。易では下の陽気が上昇し、陰気と入れ替わってゆくことで春が来る。初春は泰(上が坤で下が乾の卦)で表し、地面の上は去年から残る秋冬の風の陰気が「緒風」として残っているが、地面には既に陽気が登ってきて、春が来たのが感じられる。


池塘生春草,園柳變鳴禽。」
池の堤防にびっしり春の草が生えている、庭園の柳の梢に鳴いている小鳥たちも冬のものと違って聞こえてくる。
池塘生春草 南史に謝霊運は夢に族弟謝蕙連を見てこの名句を得たという。


祁祁傷豳歌,萋萋感楚吟。
春の日あしはのどかにあるとした『詩経』の豳歌に心を痛め、さわさわとした草の茂りに『楚辞、招隠士』の「王孫遊びて帰らず、春草生じて萋萋たり。」ということに感動するのである。
祁祁傷豳歌 『詩経、豳風【ひんのくにのうた】』「春日遅遅、采蔞祁祁。」(春の日は遅々として、蔞【よもぎ】采【と】るものは祁祁たり。)“春の日あしはのどかにある、白よもぎを摘む人もおびただしい。” ○萋萋感楚吟 楚辞招隠士篇に「王孫遊びて帰らず、春草生じて萋萋たり。」とあるのに心を動かす。萋萋は草の茂るさま。


索居易永久,離群難處心。
友と離れて病床につき一人引きこもってれば永久になりやすのだ、群から離れたら心を落ち着けることは難しい。
索居 友と離れて住む。 ○難処心 心を安んじ難い。


持操豈獨古,無悶徵在今。』
それでも志を持ち続ける節操として守り続けるのは一人古人だけだろうか、今の世に隠棲してよをのがれることができるなら、「無悶」の徴候は今ここに実証としてあるということなのだ。
持操豈獨古 荘子斉物論に「罔両(影の外にある輪郭)影を責めて曰く、我には子坐せり、今は子起てり、何ぞ其れ持操無きや」と。古だけであろうか。持操は今でもある志を持ち続ける。○無悶 易の乾の卦に「世を遯るれぱ悶無し」と。 ○徴在今 今も実証がある。自分で実証しよう。

登池上樓 #1 謝靈運<25>#1  詩集 395 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1002

登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  詩集 395 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1002

 

登池上樓#1
潛虯媚幽姿,飛鴻響遠音。
淵深く潜むみずちの龍の奥ゆかしい姿は心惹かれ麗しいものである、空高く飛ぶ大きな雁は遥か遠くからそのなく声を響かして聞えてくる。(俗世を超越し、隠棲した人は一人物静かに生き、奥ゆかしく美しい。)
薄霄愧雲浮,棲川怍淵沉。
しかし、私は空高く上がっても浮雲のうえにでることはできない心の萎縮を愧じるのである、かといって川に棲み淵の底のその奥に身を潜めることもできないことは、この身も切られるくらいの慚に思うのだ。
進德智所拙,退耕力不任。」
徳を積み修行をして立派な人として官僚の上に立つほど智徳、慈悲が稚拙である、そうかといって引退して畑を耕して暮らすにはそれに耐えるだけの体力がないのである。(隠棲することは自然への同化である。道教でなくても仏教の修行も死と隣り合わせであるからそれに耐えうる体力がない。持病を持っていた)
徇祿反窮海,臥痾對空林。
官を辞せずにやむをえず俸禄を求めてこんな最果ての見知らぬ海辺のまちに来ている、その上、厄介な病気のことを考えると志で棲みたいと思っていたひと気のない林を眺めるしかないのである。
衾枕昧節候,褰開暫窺臨。
そして、寝床にいたため節季行事もすることができないため季節感がわからなくなっている、簾の裾を開けてはしばらく外を覗き見るのである。
傾耳聆波瀾,舉目眺嶇嶔。』
寝床から耳をすますと大きな波の連なるのを聞くのである、目を挙げて険しく聳えてのしかかってくるかのような山を眺めるのである。

#2
初景革緒風,新陽改故陰。
池塘生春草,園柳變鳴禽。」
祁祁傷豳歌,萋萋感楚吟。
索居易永久,離群難處心。
持操豈獨古,無悶徵在今。』


(池の上の楼に登る)
潜【ひそ】める虻【みずち】は幽【ゆう】なる姿を媚【よろこ】び、飛ぶ鴻【おおとり】は遠き音を響かす。
空に留まりて雲に浮かぶを愧【は】じ、川に沈みて淵に沈むを怍【は】ず。
徳を進【みがか】んとするも智の拙なる所、耕を退かんとするに力任【た】えず。
禄に徇【したが】いて窮【さいは】ての海に及び、痾【あ】に臥し空林に対す。
衾【ねや】の枕とは節候【じせつ】に昧【くら】く、褰【かか】げて開きて暫く窺【うかが】い臨む。』
耳を傾けて波瀾を聆【き】き、目を挙げて嶇【たかき】嶔【そびえ】を眺むるのみ。

#2
初景【はつはる】は緒風を革【あらた】め、新陽は故き蔭【ふゆ】を改む。
池の塘【つつみ】は春の草生じ、園の柳に鳴く禽【とり】も変りぬ。
祁祁【ひとおお】きに豳【ひん】の歌に傷【いた】み、萋萋【せいせい】たる楚吟【そぎん】に感ず。
索居【ひとりい】は永久なり易く、群れを離れては心を處【しょ】し難し。
操を持するは豈ひとり古【いにしえ】のみ成らんや、悶【うれ】い無きの徵【しる】しは今に在り。


現代語訳と訳註
(本文)
登池上樓#1
潛虯媚幽姿,飛鴻響遠音。
薄霄愧雲浮,棲川怍淵沉。
進德智所拙,退耕力不任。」
徇祿反窮海,臥痾對空林。
衾枕昧節候,褰開暫窺臨。
傾耳聆波瀾,舉目眺嶇嶔。』


(下し文) (池の上の楼に登る)#1
潜【ひそ】める虻【みずち】は幽【ゆう】なる姿を媚【よろこ】び、飛ぶ鴻【おおとり】は遠き音を響かす。
空に留まりて雲に浮かぶを愧【は】じ、川に沈みて淵に沈むを怍【は】ず。
徳を進【みがか】んとするも智の拙なる所、耕を退かんとするに力任【た】えず。
禄に徇【したが】いて窮【さいは】ての海に及び、痾【あ】に臥し空林に対す。
衾【ねや】の枕とは節候【じせつ】に昧【くら】く、褰【かか】げて開きて暫く窺【うかが】い臨む。』
耳を傾けて波瀾を聆【き】き、目を挙げて嶇【たかき】嶔【そびえ】を眺むるのみ。


(現代語訳)
淵深く潜むみずちの龍の奥ゆかしい姿は心惹かれ麗しいものである、空高く飛ぶ大きな雁は遥か遠くからそのなく声を響かして聞えてくる。(俗世を超越し、隠棲した人は一人物静かに生き、奥ゆかしく美しい。)
しかし、私は空高く上がっても浮雲のうえにでることはできない心の萎縮を愧じるのである、かといって川に棲み淵の底のその奥に身を潜めることもできないことは、この身も切られるくらいの慚に思うのだ。
徳を積み修行をして立派な人として官僚の上に立つほど智徳、慈悲が稚拙である、そうかといって引退して畑を耕して暮らすにはそれに耐えるだけの体力がないのである。(隠棲することは自然への同化である。道教でなくても仏教の修行も死と隣り合わせであるからそれに耐えうる体力がない。持病を持っていた)
官を辞せずにやむをえず俸禄を求めてこんな最果ての見知らぬ海辺のまちに来ている、その上、厄介な病気のことを考えると志で棲みたいと思っていたひと気のない林を眺めるしかないのである。
そして、寝床にいたため節季行事もすることができないため季節感がわからなくなっている、簾の裾を開けてはしばらく外を覗き見るのである。
寝床から耳をすますと大きな波の連なるのを聞くのである、目を挙げて険しく聳えてのしかかってくるかのような山を眺めるのである。


(訳注)
登池上樓

○池上楼 池のほとりの楼である。『温州府志』によると、東山書院の近傍に池上楼の建物が示されている。それがこの詩の当時あったかどうかは不明である。


潛虯媚幽姿,飛鴻響遠音。
淵深く潜むみずちの龍の奥ゆかしい姿は心惹かれ麗しいものである、空高く飛ぶ大きな雁は遥か遠くからそのなく声を響かして聞えてくる。(俗世を超越し、隠棲した人は一人物静かに生き、奥ゆかしく美しい。)
潛虯 ①ひそみ隠れているみずち。無名指の別名。・虯竜の子で角があるもの虬。蛟 角がない。龍でなく虯は謝霊運が龍は天子を示すため、その子である蛟とした。しかし、詩は以下の易経に基づいている。『易経』の冒頭の「乾為天」に、「潛龍勿用。(潛龍用いるなかれ。)」とあり、孔子の文言に、「文言曰く、潛龍勿用、何謂也。子曰、龍徳而隠者也。不易乎世、不成乎名、遯世无悶、不見是而无悶。楽則行之、憂則違之。確乎其不可抜、潛龍也。」(文言に曰く初九に、潛龍用いること勿。何の謂ひぞなり。子曰く、龍徳ありて隠れたる者なり。世に易かえず、名を成さず、世を遯のがれて悶うれうることなく、是ぜとせられずして悶うれうることなし。楽しめばこれを行ない、憂うればこれを違さる。確乎かっことしてそれ抜くべからざるは、潛龍せんりゅうなり。)とある。○ こころひかれる○幽姿 隠遁者。奥深く身を隠した姿、幽居の奥ゆかしい人柄。○ 大きい雁。○遠音 遠くの空で啼く声。俗世を超越した人を喩える。


薄霄愧雲浮,棲川怍淵沉。
しかし、私は空高く上がっても浮雲のうえにでることはできない心の萎縮を愧じるのである、かといって川に棲み淵の底のその奥に身を潜めることもできないことは、この身も切られるくらいの慚に思うのだ。
薄霄 晴れ渡った空。晴天。雨雲の向こうに隠れた遥かな晴天。苗代に苗が生えるところから来た字で、薄っすらと生えるところから薄いという意味と、びっしりと生えるという意味がある。○ 心が萎縮して丸く固まること。行為に対する愧じ。「塊」と同系。恥は心が柔らかくなること。怍は慚、心が切られる様な感じ。矜持に対する慚ということ。


進德智所拙,退耕力不任。」
徳を積み修行をして立派な人として官僚の上に立つほど智徳、慈悲が稚拙である、そうかといって引退して畑を耕して暮らすにはそれに耐えるだけの体力がないのである。(隠棲することは自然への同化である。道教でなくても仏教の修行も死と隣り合わせであるからそれに耐えうる体力がない。持病を持っていた)
進德智所拙 徳を積み修行をして立派な人として官僚の上に立つほどの智徳、慈悲が稚拙。・進德(徳に進む)は『易経、乾為天』「君子進德修業。忠信、所以進德也。」(君子は徳に進み業を修む。忠信は徳に進む所以なり。)とある。○退 官を辞する。引退。隠棲。○耕 耕作すること。○力不任 耐えるだけの体力がない。任は備わっていること。


徇祿反窮海,臥痾對空林。
官を辞せずにやむをえず俸禄を求めてこんな最果ての見知らぬ海辺のまちに来ている、その上、厄介な病気のことを考えると志で棲みたいと思っていたひと気のない林を眺めるしかないのである。
徇祿 官を辞せずにやむをえず俸禄を求め○ 来ている○窮海 最果ての見知らぬ海辺。○臥痾 重病。糖尿病ではないか?○空林 人の気配のない林。役所にいれば大勢の役人に囲まれ、山野を調査する時には大勢の従者を従えていた。山遊びの際も都でするものと比べれば貧層であることをいうのであろう。


衾枕昧節候,褰開暫窺臨。』
そして、寝床にいたため節季行事もすることができないため季節感がわからなくなっている、簾の裾を開けてはしばらく外を覗き見るのである。
衾枕 寝る時にかぶる夜着。衾と枕とで寝床のこと。○節候 季節・時候のこと。病気で長いこと寝床にいたために、季節の移り変わりの行事に参加していないことをいう。最低でも二十四節季あるわけで、官僚として欠かせないものである。○ 袴のことだが、ここでは簾の裾のこと。○穴からのぞくこと。○


傾耳聆波瀾,舉目眺嶇嶔。
寝床から耳をすますと大きな波の連なるのを聞くのである、目を挙げて険しく聳えてのしかかってくるかのような山を眺めるのである。
傾耳 『礼記、孔子閒居』「傾耳而聽之。」(耳を傾け而して之を聽く。)○ (耳を澄ましたうえに、)耳を澄まして聞くこと。○波瀾 波頭の連なる様で、漣と同系の言葉だが、漣よりは大きな波を表す○嶇嶔 嶔嶇とも言う。険しくてのしかかってくるかのような山のことを言う。

過白岸亭 謝靈運 <24>#1 詩集393 紀頌之 漢詩ブログ994

過白岸亭 謝霊運 謝霊運 <24>#1 詩集393 紀頌之 漢詩ブログ994


霊運はこの春には、永嘉江をさかのぼり、楠渓の西南にあった白岸亨に遊んでいる。この事は永嘉から八十七里(50km)も離れたところにあり、岸辺の砂が、白砂でとても美しかった。ここで歌ったものに「過白岸亭」(白岸亭を過ぐ)がある。

過白岸亭
拂衣遵沙垣。緩步入蓬屋。
衣服の佇まいを直して白岸亭の砂地の垣沿いを歩く。そぞろ歩くのをゆっくりにして蓬で葺いた亭屋に入っていく。
近澗涓密石。遠山映疏木。
近くには澗川が石ばかりの間をながれている、はるかとおくのやまに向かってまばらな木々の林が日に映えている。
空翠難強名。漁釣易為曲。
亭の周りはしたたるような緑色であるが強いて名前が付けられるのも難しいようだ、魚釣りをすると魚曲を唄いたくなる。
援蘿臨青崖。春心自相屬。』
蔓伝いに青く繁った崖を望んでいる。春の心情はそれらの自然に互いに馴染んでいる。

交交止栩黃。呦呦食萍鹿。
傷彼人百哀。嘉爾承筐樂。
榮悴迭去來。窮通成休慽。
未若長疏散。萬事恆抱朴。』

(白岸亭を過ぐ)#1
衣を払い沙の垣に遵【したが】い、歩を緩【ゆる】くして蓬屋【ほうおく】に入る。
近くの澗【たに】や涓【ちいさいながれ】は石を密にし、遠くの山は疎【まば】らなる木に映【は】ゆ。
空翠は強いて名づけ難く、漁釣の曲を為し易し。
蘿【ら】を援【ひ】きて青き崖【きし】に臨み、春の心は自【おのず】から相い属【つら】なる。

#2
交交【こうこう】として栩【くぬぎ】に黄は止まり、呦呦【ようよう】として萍【よもぎ】を食らう鹿。
傷つきたる彼【か】の人 百哀し、嘉爾【さいわい】には筐楽【きょうらく】を承【う】く。
栄えと悴【なや】みとは迭【たが】いに去来し、窮と通とは休【よろこ】びと慽【うれ】いを成す。
未だ長き疎散に若【し】かず、万事 恒【つね】に朴を抱く。

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現代語訳と訳註
(本文)

拂衣遵沙垣。緩步入蓬屋。
近澗涓密石。遠山映疏木。
空翠難強名。漁釣易為曲。
援蘿臨青崖。春心自相屬。』


(下し文)
衣を払い抄の垣に遵【したが】い、歩を緩【ゆる】くして蓬屋【ほうおく】に入る。
近くの澗【たに】や涓【ちいさいながれ】は石を密にし、遠くの山は疎【まば】らなる木に映【は】ゆ。
空翠は強いて名づけ難く、漁釣の曲を為し易し。
蘿【ら】を援【ひ】きて青き崖【きし】に臨み、春の心は自【おのず】から相い属【つら】なる。


(現代語訳)
衣服の佇まいを直して白岸亭の砂地の垣沿いを歩く。そぞろ歩くのをゆっくりにして蓬で葺いた亭屋に入っていく。
近くには澗川が石ばかりの間をながれている、はるかとおくのやまに向かってまばらな木々の林が日に映えている。
亭の周りはしたたるような緑色であるが強いて名前が付けられるのも難しいようだ、魚釣りをすると魚曲を唄いたくなる。
蔓伝いに青く繁った崖を望んでいる。春の心情はそれらの自然に互いに馴染んでいる。


(訳注)
拂衣遵沙垣。緩步入蓬屋。

衣服の佇まいを直して白岸亭の砂地の垣沿いを歩く。そぞろ歩くのをゆっくりにして蓬で葺いた亭屋に入っていく。
拂衣 衣服の佇まいを直す。○沙垣 砂地の垣。○蓬屋 蓬で葺いた亭屋


近澗涓密石。遠山映疏木。
近くには澗川が石ばかりの間をながれている、はるかとおくのやまに向かってまばらな木々の林が日に映えている。
 谷川。山簡の小川。○ 小さいながれ


空翠難強名。漁釣易為曲。
亭の周りはしたたるような緑色であるが強いて名前が付けられるのも難しいようだ、魚釣りをすると魚曲を歌を唄いたくなる
空翠 したたるような緑色。そびえる木立の緑色。


援蘿臨青崖。春心自相屬。』
蔓伝いに青く繁った崖を望んでいる。春の心情はそれらの自然に互いに馴染んでいる。
青崖 青く繁った崖。

過瞿渓山飯僧 #2 謝靈運<23>  詩集 392 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ992

過瞿渓山飯僧 #2 謝霊運<23>  詩集 392 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ992
(瞿渓山を過ぎ、僧に飯せしむ)

このような心の苦しみから脱するためにか、それとも仏への供養のためか、霊運は永嘉から西南へ五十里(中国里)にあった埋漢の出口にあった寺を訪ね、そこの僧侶たちに食事を喜捨している。そのとき作ったのが「瞿渓山を過ぎ、僧に飯せしむ」である。



過瞿渓山飯僧 #1
迎旭凌絶嶝、暎泫歸漵浦。
鑚燧断山木、揜岸墐石戸。
結架非丹甍、籍田資宿莽。
同游息心客、曖然若可睹。』
#2
清霽颺浮煙、空林響法鼓。
清々しい青空に紫煙が湧き上がっていく、誰もいない木樹の間にお経を唱え法華鼓が響き渡っている。
忘懐狎鷗鰍、攝生馴兕虎。
心の中の思いをすべて祓い去り、かもめやはやのように自然の気持ちになれてくる。生きるということに専念していき我儘な子供や野獣の虎も手懐けることになるのである。
望嶺眷靈鷲、延心念浄土。
高峰を臨み見れば、釈迦が晩年、説法をした霊鷲山をみるのである、そしてこころを広くのばしてゆくと欣求浄土に思いは馳せるのである。
若乘四等観、永抜三界苦。』

血統の親疎によって分けられた親族関係によって、仏門には入れない、生死を繰り返しながら輪廻する三界の苦を受けているようである。

#1
旭【ひ】のいずるを迎えて絶嶝【ぜっとう】を凌ぎ、泫【なが】れに暎【えい】じつつ漵浦【じょほ】に帰る。
燧【ひうち】を鑚【き】りて山木を断ち、岸を揜【とざ】して石戸を墐【ぬり】とす。
架を結ぶに丹【あか】き甍【いらか】にあらず、田を籍【か】り宿莽【しゅくもう】に資【よ】らんとするも。
同じく遊びし心客【しんきゃく】のところに息【いこ】う、曖然【あいぜん】して睹【み】る可きが若し。
#2
清き霽【そら】に浮煙 颺【あ】がり、空林【くうりん】に法鼓 響く。
懐【おも】いを忘れ鴎や鰷【はや】に狎【なれ】る、生を摂して兕や虎を馴らす。
嶺を望んで霊鷲【りょうじゅう】を眷、心を延ばして浄土を念【おも】う。
四等観に乗じて、永く三界の苦を抜くが若し。



現代語訳と訳註
(本文) #2

清霽颺浮煙、空林響法鼓。
忘懐狎鷗鰍、攝生馴兕虎。
望嶺眷靈鷲、延心念浄土。
若乘四等観、永抜三界苦。』


(下し文) #2
清き霽【そら】に浮煙 颺【あ】がり、空林【くうりん】に法鼓 響く。
懐【おも】いを忘れ鴎や鰷【はや】に狎【なれ】る、生を摂して兕や虎を馴らす。
嶺を望んで霊鷲【りょうじゅう】を眷、心を延ばして浄土を念【おも】う。
四等観に乗じて、永く三界の苦を抜くが若し。


(現代語訳)
清々しい青空に紫煙が湧き上がっていく、誰もいない木樹の間にお経を唱え法華鼓が響き渡っている。
心の中の思いをすべて祓い去り、かもめやはやのように自然の気持ちになれてくる。生きるということに専念していき我儘な子供や野獣の虎も手懐けることになるのである。
高峰を臨み見れば、釈迦が晩年、説法をした霊鷲山をみるのである、そしてこころを広くのばしてゆくと欣求浄土に思いは馳せるのである。
血統の親疎によって分けられた親族関係によって、仏門には入れない、生死を繰り返しながら輪廻する三界の苦を受けているようである。


(訳注)
清霽颺浮煙、空林響法鼓。
清き霽【そら】に浮煙 颺【あ】がり、空林【くうりん】に法鼓 響く。
清々しい青空に紫煙が湧き上がっていく、誰もいない木樹の間にお経を唱え法華鼓が響き渡っている。


忘懐狎鷗鰍、攝生馴兕虎。
懐【おも】いを忘れ鴎や鰷【はや】に狎【なれ】る、生を摂して兕や虎を馴らす。
心の中の思いをすべて祓い去り、かもめやはやのように自然の気持ちになれてくる。生きるということに専念していき我儘な子供や野獣の虎も手懐けることになるのである。
 ・(節度なく)接近する ・ 取り入る ・ (~に)にじり寄る ・ すり寄る ・ 媚びる ・ 尻尾をふる ・ なれなれしい(態度) ・ (~に)べったりの(関係) ・ なれ合う.○鷗鰍 


望嶺眷靈鷲、延心念浄土。
嶺を望んで霊鷲【りょうじゅう】を眷、心を延ばして浄土を念【おも】う。
高峰を臨み見れば、釈迦が晩年、説法をした霊鷲山をみるのである、そしてこころを広くのばしてゆくと欣求浄土に思いは馳せるのである。
霊鷲 釈迦が晩年、説法をした霊鷲山(りょうじゅせん)のこと。○浄土 欣求浄土


若乘四等観、永抜三界苦。』
四等観に乗じて、永く三界の苦を抜くが若し。
血統の親疎によって分けられた親族関係によって、仏門には入れない、生死を繰り返しながら輪廻する三界の苦を受けているようである。
四等観 血統の親疎によって分けられた親族関係によるもの。○三界 、欲界・色界・無色界の三つの総称。三有ともいう。凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたもの。なお、仏陀はこの三界での輪廻から解脱している。「三界は安きことなく、なお、火宅のごとし」というのは、迷いと苦しみのこの世界を、燃えさかる家にたとえたもの。
「三界に家なし」とは、この世界が安住の地でないことを意味し、後には女性の不安定な地位を表す諺になった。


過瞿渓山飯僧 #1 謝靈運<23>  詩集 391 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ989

過瞿渓山飯僧 #1 謝靈運<23>  詩集 391 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ989
(瞿渓山を過ぎ、僧に飯せしむ)

このような心の苦しみから脱するためにか、それとも仏への供養のためか、霊運は永嘉から西南へ五十里(中国里)にあった埋漢の出口にあった寺を訪ね、そこの僧侶たちに食事を喜捨している。そのとき作ったのが「瞿渓山を過ぎ、僧に飯せしむ」である。



過瞿渓山飯僧 #1謝霊運
瞿渓の山を過て僧侶が食事をする
迎旭凌絶嶝、暎泫歸漵浦。
朝日がのぼるところ 急峻な山は天を凌いでいる、川の流れに影を映して漵浦の船着き場に帰ってきた。
鑚燧断山木、揜岸墐石戸。
火打ち石で火を起こし、山の木を切って集める川べりの場所を覆いいしでとびらをつくり塗り固めた。
結架非丹甍、籍田資宿莽。
梁を掛けて赤い瓦で屋根をつくるのではない、田の草を刈って、屋根を覆うにくさのたすけをかりたのである。
同游息心客、曖然若可睹。』

一緒に遊びに来た仏門の修行者とここで過ごす、ぼんやりした様子は修行をするときのようである。

#2
清霽颺浮煙、空林響法鼓。
忘懐狎鷗鰍、攝生馴兕虎。
望嶺眷靈鷲、延心念浄土。
若乘四等観、永抜三界苦。』

#1
旭【ひ】のいずるを迎えて絶嶝【ぜっとう】を凌ぎ、泫【なが】れに暎【えい】じつつ漵浦【じょほ】に帰る。
燧【ひうち】を鑚【き】りて山木を断ち、岸を揜【とざ】して石戸を墐【ぬり】とす。
架を結ぶに丹【あか】き甍【いらか】にあらず、田を籍【か】り宿莽【しゅくもう】に資【よ】らんとするも。
同じく遊びし心客【しんきゃく】のところに息【いこ】う、曖然【あいぜん】して睹【み】る可きが若し。
#2
清き霽【そら】に浮煙 颺【あ】がり、空林【くうりん】に法鼓 響く。
懐【おも】いを忘れ鴎や鰷【はや】に狎【なれ】る、生を摂して兕や虎を馴らす。
嶺を望んで霊鷲【りょうじゅう】を眷、心を延ばして浄土を念【おも】う。
四等観に乗じて、永く三界の苦を抜くが若し。


現代語訳と訳註
(本文)
過瞿渓山飯僧 #1
迎旭凌絶嶝、暎泫歸漵浦。
鑚燧断山木、揜岸墐石戸。
結架非丹甍、籍田資宿莽。
同游息心客、曖然若可睹。』

(下し文) #1
旭【ひ】のいずるを迎えて絶嶝【ぜっとう】を凌ぎ、泫【なが】れに暎【えい】じつつ漵浦【じょほ】に帰る。
燧【ひうち】を鑚【き】りて山木を断ち、岸を揜【とざ】して石戸を墐【みち】とす。
架を結ぶに丹【あか】き甍【いらか】にあらず、田を籍【か】り宿莽【しゅくもう】に資【よ】らんとするも。
同じく遊びし心客【しんきゃく】のところに息【いこ】う、曖然【あいぜん】して睹【み】る可きが若し。


(現代語訳)
瞿渓の山を過て僧侶が食事をする
朝日がのぼるところ 急峻な山は天を凌いでいる、川の流れに影を映して漵浦の船着き場に帰ってきた。
火打ち石で火を起こし、山の木を切って集める川べりの場所を覆いいしでとびらをつくり塗り固めた。
梁を掛けて赤い瓦で屋根をつくるのではない、田の草を刈って、屋根を覆うにくさのたすけをかりたのである。
一緒に遊びに来た仏門の修行者とここで過ごす、ぼんやりした様子は修行をするときのようである。


(訳注) #1
過瞿渓山飯僧
瞿渓の山を過て僧侶が食事をする
瞿渓山 温州市甌海瞿渓にある山の名。


迎旭凌絶嶝、暎泫歸漵浦。
旭【ひ】のいずるを迎えて絶嶝【ぜっとう】を凌ぎ、泫【なが】れに暎【えい】じつつ漵浦【じょほ】に帰る。
朝日がのぼるところ 急峻な山は天を凌いでいる、川の流れに影を映して漵浦の船着き場に帰ってきた。
漵浦 漵は水浦。浦は支流が本流に合流する地点。入り江。陶淵明の桃源郷のちかくに漵浦県(じょほ-けん)、湖南省懐化市に位置する県がある。 長江の支流で、洞庭湖へ注ぐ沅江が流れている地点である。


鑚燧断山木、揜岸墐石戸。
燧【ひうち】を鑚【き】りて山木を断ち、岸を揜【とざ】して石戸を墐【ぬり】とす。
火打ち石で火を起こし、山の木を切って集める川べりの場所を覆いいしでとびらをつくり塗り固めた。
鑚燧 木や石を切り盛りして火を起こすこと。『論語、陽貨』「舊穀既沒、新穀既升、鑚燧改火。」(舊穀既に沒きて、新穀既に升り、燧を鑚りて火を改む。)管子「鑚燧を生ず火を、以て熱す葷臊。」(燧を鑚りて火を生ず、以て葷臊を熱す。)○ おおう。うばう。おそう。とる。○ 塗り固めて炉をつくる。○


結架非丹甍、籍田資宿莽。
架を結ぶに丹【あか】き甍【いらか】にあらず、田を籍【か】り宿莽【しゅくもう】に資【よ】らんとするも。
梁を掛けて赤い瓦で屋根をつくるのではない、田の草を刈って、屋根を覆うにくさのたすけをかりたのである。
宿莽 草むらで宿する。


同游息心客、曖然若可睹。』
同じく遊びし心客【しんきゃく】のところに息【いこ】う、曖然【あいぜん】して睹【み】る可きが若し。
一緒に遊びに来た仏門の修行者とここで過ごす、ぼんやりした様子は修行をするときのようである。
心客 沙門 古代インドにおける修行者。出家し、托鉢生活を送った人。出家して仏門に入った修行者、僧侶に使われる。○曖然【あいぜん】-はっきりしないさま。ぼんやりしたさま。

郡東山望凕海 謝靈運<22> 詩集 390

郡東山望凕海 謝霊運 <22> 詩集 390
(郡の東山にて凕海を望む)


 霊運は、永嘉に着任した翌年、つまり少帝の景平元年〈413〉彼は三十九歳の春を、放郷を遠く離れたはるかな南の空で迎えた。都に帰りたいという気持はますます濃厚になったが、政治情勢は必ずしも、霊運には有利にならなかった。そうした悲しみのなかで、その退屈しのぎに、永嘉郡の東北にある東山、すなわち海壇山に遊びに行ったとき、山から望みつつ、その感情を歌ったのが「郡の東山にて凕海を望む」の作である。



郡東山望凕海
郡の東山にて凕海を望む
開春献初歳、白日出悠悠。
年が明けて春が来た、年の初めにこの詩を作っている、太陽は登り、既に上に上がって悠悠と照らしている。
蕩志將愉樂、瞰海庶忘憂。
自分のこころざしについてはひとまずそのままとしてこの山遊びをゆっくりと楽しんでいる、そうすると海を眺めていると今までのもろもろの心配事も忘れるのである。
策馬歩蘭皋、緤控息椒丘。
馬に鞭を打って小高い丘の上の蘭の花が咲き馬を進める、そして、馬をつなぎ止めてハジカミのある少し休んでいる。
采蕙遵大薄、搴若履長洲。
香のある草を取る荒れた草むらが大切にしたい、春の若草の萌え時においぐさをとって、中州の砂浜を歩く。
白花皜陽林、紫茝嘩春流。
白い花がいっぱいで陽だまりの林は白くまぶしい。紫色のよろい草は春の装いの流れの中で輝いている。
非徒不弭忘、覧物情彌遒。
だからといって、志を忘れたわけではない。この春の景色を見て心情はますます強くなってくるのを大切にしたい。
萱蘇始無慰、寂寞終可求。

憂いの多い世にあってわすれなぐさは、はじめてなぐさめられられるものではない、心が満たされずにもの寂しいいのであるがついにこころざしを求めていかないといけない。


(郡の東山にて凕海を望む)
春 開けて 初歳を献ずるに、白日 出でて悠悠たり。
志を蕩【ほしい】ままにして将に愉楽【ゆうがく】しまんとし、海を瞰【なが】めて庶【もろ】もろの憂いを忘る。
馬に策【むち】うちて蘭のある皋【おか】を歩み、緤控【ちょうくう】椒【はじかみ】のある丘に息【いこ】う。
蕙【においぐさ】を采り大薄を遵び、若を搴り長き洲を履む。
白花は陽林に皜【しろ】く、紫の茝【よろいぐさ】は春の流れに嘩【かがや】く。
徒らに志を弭れざるにあらず、物を覧て情 弥いよ遒【つよ】し。
萱蘇【わすれぐさ】 始めて慰むなし、寂寞 終に求む可し。


現代語訳と訳註
(本文) 郡東山望凕海

開春献初歳、白日出悠悠。
蕩志將愉樂、瞰海庶忘憂。
策馬歩蘭皋、緤控息椒丘。
采蕙遵大薄、搴若履長洲。
白花皜陽林、紫茝嘩春流。
非徒不弭忘、覧物情彌遒。
萱蘇始無慰、寂寞終可求。


(下し文)
開春 初歳を献ずるに、白日 出でて悠悠たり。
志を蕩ままにして将に愉楽しまんとし、海を瞰めて庶もろの憂いを忘る。
馬に策【むち】うちて蘭のある皋を歩し、緤控めて椒のある丘に息う。
蕙【においぐさ】を采り大薄を遵び、若を搴り長き洲を履む。
白花は陽林に皜【しろ】く、紫の茝【よろいぐさ】は春の流れに嘩【かがや】く。
徒らに志を弭れざるにあらず、物を覧て情 弥いよ遒【つよ】し。
萱蘇【わすれぐさ】 始めて慰むなし、寂寞 終に求む可し。


(現代語訳)
郡の東山にて凕海を望む
年が明けて春が来た、年の初めにこの詩を作っている、太陽は登り、既に上に上がって悠悠と照らしている。
自分のこころざしについてはひとまずそのままとしてこの山遊びをゆっくりと楽しんでいる、そうすると海を眺めていると今までのもろもろの心配事も忘れるのである。
馬に鞭を打って小高い丘の上の蘭の花が咲き馬を進める、そして、馬をつなぎ止めてハジカミのある少し休んでいる。
香のある草を取る荒れた草むらが大切にしたい、春の若草の萌え時においぐさをとって、中州の砂浜を歩く。
白い花がいっぱいで陽だまりの林は白くまぶしい。紫色のよろい草は春の装いの流れの中で輝いている。
だからといって、志を忘れたわけではない。この春の景色を見て心情はますます強くなってくるのを大切にしたい。
憂いの多い世にあってわすれなぐさは、はじめてなぐさめられられるものではない、心が満たされずにもの寂しいいのであるがついにこころざしを求めていかないといけない。
宮島(5)

(訳注)
郡東山望凕海

郡の東山にて凕海を望む
永嘉郡の東山(海壇山)で凕海を望んでみる


開春献初歳、白日出悠悠。
春 開けて 初歳を献ずるに、白日 出でて悠悠たり。
年が明けて春が来た、年の初めにこの詩を作っている、太陽は登り、既に上に上がって悠悠と照らしている。


蕩志將愉樂、瞰海庶忘憂。
志を蕩【ほしい】ままにして将に愉楽【ゆうがく】しまんとし、海を瞰【なが】めて庶【もろ】もろの憂いを忘る。
自分のこころざしについてはひとまずそのままとしてこの山遊びをゆっくりと楽しんでいる、そうすると海を眺めていると今までのもろもろの心配事も忘れるのである


策馬歩蘭皋、緤控息椒丘。
馬に策【むち】うちて蘭のある皋【おか】を歩み、緤控【ちょうくう】椒【はじかみ】のある丘に息【いこ】う。
馬に鞭を打って小高い丘の上の蘭の花が咲き馬を進める、そして、馬をつなぎ止めてハジカミのある少し休んでいる。
蘭皋 蘭の咲き誇る丘。○緤控 馬をつなぎとめる。○椒丘 はじかみの繁った丘。


采蕙遵大薄、搴若履長洲。
采蕙【さいけい】大薄を遵び、搴若【さいじゃく】長き洲を履【ふ】む。
香のある草を取る荒れた草むらが大切にしたい、春の若草の萌え時においぐさをとって、中州の砂浜を歩く。
采蕙 かおりぐさをとる。○大薄 荒れたすすきのはら。おおきな草むら。○搴若 若草の萌え時においぐさをとる。


白花皜陽林、紫茝嘩春流。
白花は陽林に皜【しろ】く、紫の茝【よろいぐさ】は春の流れに嘩【かがや】く。
白い花がいっぱいで陽だまりの林は白くまぶしい。紫色のよろい草は春の装いの流れの中で輝いている。
皜陽林 しろいはなに日が射して明るい状態をいう。


非徒不弭忘、覧物情彌遒。
徒らに志を弭れざるにあらず、物を覧て情 弥いよ遒【つよ】し。
だからといって、志を忘れたわけではない。この春の景色を見て心情はますます強くなってくるのを大切にしたい。


萱蘇始無慰、寂寞終可求。
萱蘇【わすれぐさ】 始めて慰むなし、寂寞 終に求む可し。
憂いの多い世にあってわすれなぐさは、はじめてなぐさめられられるものではない、心が満たされずにもの寂しいいのであるがついにこころざしを求めていかないといけない。
萱蘇【けんそ】 忘憂草。わすれなくさ。○寂寞 1 ひっそりとして寂しいさま。2 心が満たされずにもの寂しいさま。


多くの心の苦しみをもった霊運は、波静かな青い大きな海を眺めて、はじめて心の静かさを取りもどし、海のごとく心は大きくなければならぬことを悟った。そして、蘭の植えてある尉を歩み、はじかみのある丘で一息しつつ、物思いにふけったのだ。
清浄な山のけはいを実によく歌っている。そして、結句で「萱蘇 姶めて慰むなし、寂寞 終に求む可し」と、その悲しき心を静かに歌う。


 このような心の苦しみから脱するためにか、それとも仏への供養のためか、霊運は永嘉から西南へ五十里(中国里)にあった積渓の出口にあった寺を訪ね、そこの僧侶たちに食事を喜捨している。そのとき作ったのが「琶渓山を過ぎ、僧に飯せしむ」である。

遊嶺門山  #2 謝霊運<21>  詩集 389

遊嶺門山  #2 謝霊運<21>  詩集 389

この冬は嶺門山にも遊び、詩を作っている。この嶺門山は、永嘉から南30kmほどにある瑞安県にあるという。諸道具、寝具などすべてそろえ、お付の人々を連れての旅であるから、その往復には相当の日数がかかるのである。謝霊運は永嘉を中心に名山を求めて、北に、南に旅をしている。「嶺門山に遊ぶ」の詩もそのひとつである。

遊嶺門山
西京誰修政?龔汲稱良吏。
君子豈定所,清塵慮不嗣。
早莅建德鄉,民懷虞芮意。
海岸常寥寥,空館盈清思。
協以上冬月,晨遊肆所喜。』
千圻邈不同,萬嶺狀皆異。
千とある船着き場も漠然として同じなものはなく、万とある山々の峰は一つとして同じものはないのである。
威摧三山峭,瀄汩兩江駛。
ここにある隠棲して修行をする三山は、どこも嶮しい所である。そして二つの流れのはやい川から水の流れる音が伝わってくるのである。
漁舟豈安流,樵拾謝西芘。
漁船はどうして安全に流れていくのであろうか。漁師というものは西に日が落ちて吊り上げ捕獲するからである。
人生誰雲樂?貴不屈所志。』

人生はどうして楽なことだと誰が言うのか、大切なことは、どういうことが生じても志を枉げない不屈の精神を持つことである

(嶺門山に遊ぶ)#1
西京にては誰か政を修める、龏汲【きょうきゅう】は良吏と称せらる。
君子は 豈 所を定めんや、清塵【せいじん】が嗣【つ】がざるを慮【おもんばか】る。
早くも莅【のぞ】む建徳の郷、民は虞芮【ぐぜい】の意【こっころ】を懐【なつ】かしむ。
海岸は常に寥寥として、 空館は清き思いに盈【み】つ。
協【あ】わするに以ってす上冬【さむ】き月、晨【あした】の遊びは喜ぶ所を肆【ほしい】ままにす。
#2
千圻【せんせき】は邈【かたち】 同じからず、万嶺は状 皆な異なる。
威摧【そび】ゆる三山は峭【けわ】しく、瀄汩【しついつ】は両つの江に駛【はや】し。
漁舟は 壹 流れに安んぜんや、樵は西芘【にしかげ】に謝【お】つるを拾う。
人生誰か楽と云う、志す所に屈せざるを貴ぶ。


現代語訳と訳註
 遊嶺門山(本文)

千圻邈不同,萬嶺狀皆異。
威摧三山峭,瀄汩兩江駛。
漁舟豈安流,樵拾謝西芘。
人生誰雲樂?貴不屈所志。』

(下し文)#2
千圻【せんせき】は邈【かたち】 同じからず、万嶺は状 皆な異なる。
威摧【そび】ゆる三山は峭【けわ】しく、瀄汩【しついつ】は両つの江に駛【はや】し。
漁舟は 壹 流れに安んぜんや、樵は西芘【にしかげ】に謝【お】つるを拾う。
人生誰か楽と云う、志す所に屈せざるを貴ぶ。


(現代語訳)
千とある船着き場も漠然として同じなものはなく、万とある山々の峰は一つとして同じものはないのである。
ここにある隠棲して修行をする三山は、どこも嶮しい所である。そして二つの流れのはやい川から水の流れる音が伝わってくるのである。
漁船はどうして安全に流れていくのであろうか。漁師というものは西に日が落ちて吊り上げ捕獲するからである。
人生はどうして楽なことだと誰が言うのか、大切なことは、どういうことが生じても志を枉げない不屈の精神を持つことである


(訳注)
千圻邈不同,萬嶺狀皆異。
千圻【せんせき】は邈【かたち】 同じからず、万嶺は状 皆な異なる。

千とある船着き場も漠然として同じなものはなく、万とある山々の峰は一つとして同じものはないのである。
千圻 多くあるへり、きし。船着き場。『富春渚詩』 「宵濟漁浦潭。旦及富春郭。定山緬雲霧。赤亭無淹薄。溯流觸驚急。臨圻阻參錯。亮乏伯昏分。險過呂梁壑。」(宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。)わたしは夕方、漁浦の渡し場から船出した。夜どおし船旅をして、明け方、富春の街に着いた。分水嶺の定山はまだまだ雲霧の向こうで遙かに遠い、富陽の花街の赤亭に泊まることはしない。流れは急でそれをさかのぼる巌にせっそく接触したり、驚くような目に何度もあう、船を接岸できそうな岸へ寄せようとするのだが水流の出入りによってなかなか寄せられない。私はあきらかに物に動じないことという心構えにはとぼしいものである、嶮しいといっても黄河随一の難関、呂梁幕府のある谷ほどのものではないので経過していく。
 はるか。ばくぜんとしたもの○萬嶺 沢山ある山の峰。○狀皆異 その形状は皆変わっている。


威摧三山峭,瀄汩兩江駛。
威摧【そび】ゆる三山は峭【けわ】しく、瀄汩【そび】は両つの江に駛【はや】し。
ここにある隠棲して修行をする三山は、どこも嶮しい所である。そして二つの流れのはやい川から水の流れる音が伝わってくるのである。
威摧 威光をもってはばむ。○三山 太平山、天台山、方石山。本来三山と云えば、蓬萊、方丈、瀛州の三山である。○瀄汩 瀄汩は水の流れる音、水流の早いことを示す形容。 汩はおさめる。とおす。ながれる。○兩江駛 二つの川の流れが速いこと言う。


漁舟豈安流,樵拾謝西芘
漁舟は 豈 流れに安んぜんや、樵は西芘【にしかげ】に謝【お】つるを拾う。 
漁船はどうして安全に流れていくのであろうか。漁師というものは西に日が落ちて吊り上げ捕獲するからである。
○漁舟 漁船○安流 安全に流れ○樵拾 漁師が獲物を集める。○西芘 西に山があり日が落ちるころ日陰になる、猟師の姿が魚にわかりにくい。


人生誰雲樂?貴不屈所志。』
人生誰か楽と云う、志す所に屈せざるを貴ぶ。
人生はどうして楽なことだと誰が言うのか、大切なことは、どういうことが生じても志を枉げない不屈の精神を持つことである。

 自然を詠うかのポーズをとり、体制批判を詠っているのである。態度が鮮明になってくることは隠棲の気持ちがいよいよ強くなってきた表れであろう。


古来より、山遊びというのは、高級官僚には優雅な遊びととらえられていた。すべての生活用品を準備し、荷車、輿、など行列を仕立てて山に入った。戸張で仕切り、優雅に遊んだのである。
 この詩では聖人が治政をするものである。今の世誰がそれにあたるというのか、権力闘争に明け暮れ、民の安寧することがないではないか。

遊嶺門山  #1 謝霊運<21>  詩集 388

遊嶺門山  #1 謝霊運<21>  詩集 388
(嶺門山に遊ぶの詩)


この冬は嶺門山にも遊び、詩を作っている。この嶺門山は、永嘉から南30kmほどにある瑞安県にあるという。諸道具、寝具などすべてそろえ、お付の人々を連れての旅であるから、その往復には相当の日数がかかるのである。謝霊運は永嘉を中心に名山を求めて、北に、南に旅をしている。「嶺門山に遊ぶ」の詩もそのひとつである。

遊嶺門山
西京誰修政?龔汲稱良吏。
西の帝都において、誰が治政をするというのか、龔汲は提供したり汲みあげたり理想の政治を行った優良な官僚と称せられる。
君子豈定所,清塵慮不嗣。
君子はどうして思いを押し付けはしないから爭わないのであろうか、立派な遺風というものは後世に受け継いでいけないようではと心配する。
早莅建德鄉,民懷虞芮意。
そういうことで心に早くきめて理想郷に行きたいと思う。民の間では譲り合う心を思い続けることである。
海岸常寥寥,空館盈清思。
隠棲したら)寒い冬には海にはさびしい音が常のことである。ひと気のない館には清々しい思いが満ち溢れている。
協以上冬月,晨遊肆所喜。』
(こうした冬の景色が一緒になっている。明日にはこうした山遊びを心行くまでしてよろこびたいと思う。
千圻邈不同,萬嶺狀皆異。
威摧三山峭,瀄汩兩江駛。
漁舟豈安流,樵拾謝西芘。
人生誰雲樂?貴不屈所志。』


(嶺門山に遊ぶ)#1
西京にては誰か政を修める、龏汲【きょうきゅう】は良吏と称せらる。
君子は 豈 所を定めんや、清塵【せいじん】が嗣【つ】がざるを慮【おもんばか】る。
早くも莅【のぞ】む建徳の郷、民は虞芮【ぐぜい】の意【こっころ】を懐【なつ】かしむ。
海岸は常に寥寥として、 空館は清き思いに盈【み】つ。
協【あ】わするに以ってす上冬【さむ】き月、晨【あした】の遊びは喜ぶ所を肆【ほしい】ままにす。

#2
千圻【せんせき】は邈【かたち】 同じからず、万嶺は状 皆な異なる。
威摧【そび】ゆる三山は峭【けわ】しく、瀄汩【そび】は両つの江に駛【はや】し。
漁商は 壹 流れに安んぜんや、樵は西芘【にしかげ】に謝【お】つるを拾う。
人生誰か楽と云う、志す所に屈せざるを貴ぶ。


現代語訳と訳註
(本文) 遊嶺門山

西京誰修政?龔汲稱良吏。
君子豈定所,清塵慮不嗣。
早莅建德鄉,民懷虞芮意。
海岸常寥寥,空館盈清思。
協以上冬月,晨遊肆所喜。』


(下し文) #1
西京にては誰か政を修める、龏汲【きょうきゅう】は良吏と称せらる。
君子は 豈 所を定めんや、清塵【せいじん】が嗣【つ】がざるを慮【おもんばか】る。
早くも莅【のぞ】む建徳の郷、民は虞芮【ぐぜい】の意【こっころ】を懐【なつ】かしむ。
海岸は常に寥寥として、 空館は清き思いに盈【み】つ。
協【あ】わするに以ってす上冬【さむ】き月、晨【あした】の遊びは喜ぶ所を肆【ほしい】ままにす。


(現代語訳)
西の帝都において、誰が治政をするというのか、龔汲は提供したり汲みあげたり理想の政治を行った優良な官僚と称せられる。
君子はどうして思いを押し付けはしないから爭わないのであろうか、立派な遺風というものは後世に受け継いでいけないようではと心配する。
そういうことで心に早くきめて理想郷に行きたいと思う。民の間では譲り合う心を思い続けることである。
(隠棲したら)寒い冬には海にはさびしい音が常のことである。ひと気のない館には清々しい思いが満ち溢れている。
こうした冬の景色が一緒になっている。明日にはこうした山遊びを心行くまでしてよろこびたいと思う。

(訳注) #1
西京誰修政?龔汲稱良吏。
西京にては誰か政を修める、龏汲【きょうきゅう】は良吏と称せらる。
西の帝都において、誰が治政をするというのか、龔汲は提供したり汲みあげたり理想の政治を行った優良な官僚と称せられる。
龔汲 供給する。ささげる。たてまつりくみ取る。漢の龔汲のこと 『漢書 龔汲傳』に渤海の太守となった 龔汲は理想の政治を行った。○ 称せらる。 ○良吏 優良な官僚。


君子豈定所,清塵慮不嗣。
君子は 豈 所を定めんや、清塵【せいじん】が嗣【つ】がざるを慮【おもんばか】る。
君子はどうして思いを押し付けはしないから爭わないのであろうか、立派な遺風というものは後世に受け継いでいけないようではと心配する。
君子 論語「子曰く君子は爭うところなし。」○清塵 顕貴の人の車馬の行列。立派な遺風。


早莅建德鄉,民懷虞芮意。
早くも莅【のぞ】む建徳の郷、民は虞芮【ぐぜい】の意【こっころ】を懐【なつ】かしむ。
そういうことで心に早くきめて理想郷に行きたいと思う。民の間では譲り合う心を思い続けることである。
 その場に行く。○建德鄉 有徳の人がいるという国。荘子『山木』「南越有邑焉、名爲建徳国。」(南越に邑あり、名付けて建徳の国という。)○虞芮意 譲り合う心。


海岸常寥寥,空館盈清思。
海岸は常に寥寥として、空館は清き思いに盈【み】つ。
(隠棲したら)寒い冬には海にはさびしい音が常のことである。ひと気のない館には清々しい思いが満ち溢れている。


協以上冬月,晨遊肆所喜。』
協【あ】わするに以ってす上冬【さむ】き月、晨【あした】の遊びは喜ぶ所を肆【ほしい】ままにす。
こうした冬の景色が一緒になっている。明日にはこうした山遊びを心行くまでしてよろこびたいと思う。

登永嘉緑嶂山詩 #2 謝霊運 <20> 詩集 387

登永嘉緑嶂山詩 #2 謝霊運 <20> 詩集 387
(永嘉の緑嶂山に登る)


 謝霊運の山水文学は、永嘉に郡守をしていた時代と、会稽に帰隠していたわずかのあいだに、ほとんどのものが作られている。それは、両地とも山水の美に恵まれていたこと、時間がゆったりしていたからである。左遷中というのは半隠であり、会稽では隠遁中であって、自然美に打たれて歌となったものであろう。謝霊運は、技巧をこらす詩人で、おそらく何度も読み返し、修正して作詩したものと思われるからである。
 やがて、秋も過ぎて、冬のころであろうか、永嘉の北にそびえる緑嶂山に登ったとき、「永嘉の緑嶂山に登る」の作がある。


登永嘉緑嶂山詩 #1
裏糧杖軽策、懐遲上幽室。
行源逕轉遠、距陸情未畢。
澹瀲結寒姿、団欒潤霜質。
澗委水屡迷、林迥巌愈密。
眷西謂初月、顧東疑落日。』
#2
踐夕奄昏曙、蔽翳皆周悉。
夕暮れの道を歩いているのにたちまち夜明けのようであり、山が深くてすべてが完仝に被い隠されがげになっていた。
蠱上貴不事、履二美貞吉。
易の蠱【こ】の卦【か】の上九(陽)の爻【こう】には、「王侯に事へず、その事を高尚にす」と、君に仕えないのを貴しとし、履の卦の九二の爻の辞には「履む道坦坦(平らか)たり、幽人(隠者)「貞なれば吉」と、心が正しく堅くて吉であることをりっぱであるとしている。
幽人常坦歩、高尚邈難匹。
世を避けて隠康する人は常に平坦な道を歩むものであり、その気高い行動は、はるかに遠くて比べることは難しい。
頥阿竟何端、寂寂寄抱一。
頥と阿との返事のわずかな違いが結局何のはじめとしてあらわしているのであろうか。とはいっても煩雑な詮索はやめて、私はただ静かにして声もなく、老子のただ一つの真埋を抱き守る身をしばしばこの世に寄せるだけなのである。
恬如既已交、繕性自此出。』

私はもはや荘于のいう平然自得の心と、他方人の生まれ持った物事を知り覚る働きとが、互いに養い育て合えるようである。人間の本原の性を治め正すこともここから出てくると荘子は教えているのである。


(永嘉の緑嶂山に登る)

糧【かて】の裏【つつ】んで軽き策を杖として、遅きを懐うて幽室に上る。
源に行かんとし、逕【みち】は転【うた】た遠く、陸に距【いた】りて情 いまだ畢わらず。
澹瀲【たんれん】寒姿を結び、団欒は霜質より潤い。
澗の委【まがり】は水 屡しば迷い、林迥【はる】かにして、巌 愈【いよ】いよ密なり。
西を眷【かえり】みて初月と謂い、東を顧みて落日かと疑えり。
践夕 昏曙を奄【とど】む、蔽われたる翳【かげ】は皆な周悉【しゅうしつ】。
蠱上【こじょう】の事とせざるを貴しとし、履二に貞吉を美とす。
幽人は常に坦歩し、高尚なるは邈【ばく】として 匹【たぐい】し難し。
頥【い】阿【あ】 竟に何の端、寂寂【せきせき】として抱一を寄さん。
恬【てん】として既に已に交わるが如し、性を繕【おさ】めて此より出ず。

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現代語訳と訳註
(本文)
登永嘉緑嶂山詩 #2
踐夕奄昏曙、蔽翳皆周悉。
蠱上貴不事、履二美貞吉。
幽人常坦歩、高尚邈難匹。
頥阿竟何端、寂寂寄抱一。
恬如既已交、繕性自此出。』

(下し文)#2
践夕 昏曙を奄【とど】む、蔽われたる翳【かげ】は皆な周悉【しゅうしつ】。
蠱上【こじょう】の事とせざるを貴しとし、履二に貞吉を美とす。
幽人は常に坦歩し、高尚なるは邈【ばく】として 匹【たぐい】し難し。
頥【い】阿【あ】 竟に何の端、寂寂【せきせき】として抱一を寄さん。
恬【てん】として既に已に交わるが如し、性を繕【おさ】めて此より出ず。

(現代語訳)
夕暮れの道を歩いているのにたちまち夜明けのようであり、山が深くてすべてが完仝に被い隠されがげになっていた。
易の蠱【こ】の卦【か】の上九(陽)の爻【こう】には、「王侯に事へず、その事を高尚にす」と、君に仕えないのを貴しとし、履の卦の九二の爻の辞には「履む道坦坦(平らか)たり、幽人(隠者)「貞なれば吉」と、心が正しく堅くて吉であることをりっぱであるとしている。
世を避けて隠康する人は常に平坦な道を歩むものであり、その気高い行動は、はるかに遠くて比べることは難しい。
頥と阿との返事のわずかな違いが結局何のはじめとしてあらわしているのであろうか。とはいっても煩雑な詮索はやめて、私はただ静かにして声もなく、老子のただ一つの真埋を抱き守る身をしばしばこの世に寄せるだけなのである。
私はもはや荘于のいう平然自得の心と、他方人の生まれ持った物事を知り覚る働きとが、互いに養い育て合えるようである。人間の本原の性を治め正すこともここから出てくると荘子は教えているのである。


(訳注)
踐夕奄昏曙、蔽翳皆周悉。
夕暮れの道を歩いているのにたちまち夜明けのようであり、山が深くてすべてが完仝に被い隠されがげになっていた。
踐夕夕暮れの道を歩いている。○昏曙 夜明けのような薄暗さ。○蔽翳 山が深く被われている。○周悉 完全である。


蠱上貴不事、履二美貞吉。
易の蠱【こ】の卦【か】の上九(陽)の爻【こう】には、「王侯に事へず、その事を高尚にす」と、君に仕えないのを貴しとし、履の卦の九二の爻の辞には「履む道坦坦(平らか)たり、幽人(隠者)「貞なれば吉」と、心が正しく堅くて吉であることをりっぱであるとしている。
蠱上 易の蠱【こ】の卦【か】の上九(陽)の爻【こう】の辞。○貴不事 君に仕えないのを貴しとする。○履二 易の履の卦の九二の爻【こう】の辞。○ りっぱである。○貞吉 貞であれば吉である。


幽人常坦歩、高尚邈難匹。
世を避けて隠康する人は常に平坦な道を歩むものであり、その気高い行動は、はるかに遠くて比べることは難しい。
幽人 世を避けて隠康する人。○常坦歩 常に平坦な道を歩むもの。○高尚 気高い行動。○ はるかに遠く。○難匹 比べることは難しい。


頥阿竟何端、寂寂寄抱一。
頥と阿との返事のわずかな違いが結局何のはじめとしてあらわしているのであろうか。とはいっても煩雑な詮索はやめて、私はただ静かにして声もなく、老子のただ一つの真埋を抱き守る身をしばしばこの世に寄せるだけなのである。
頥阿 「唯阿」に同じ。老子第二十章に「唯と阿と相去ること幾何ぞ」と。唯阿は返答の声。○抱一 老子のいう唯一の道(真理)を抱ぎ守る。老子第十章に「営魄を載せて一を抱き、能く離るる無からんか」と。


恬如既已交、繕性自此出。』
私はもはや荘于のいう平然自得の心と、他方人の生まれ持った物事を知り覚る働きとが、互いに養い育て合えるようである。人間の本原の性を治め正すこともここから出てくると荘子は教えているのである。
恬如 しずか。心が落ち着いてあっさりしている。『荘子、繕性』「以恬養知。」(恬を以て知を養う ○繕性 人の生まれ持った本原の性を治め正すこと。荘子繕性篇に「知と恬と交々相養ひて、和理其の性より出づ。夫れ徳は和なり。道は理なり」と。知覚と自然の平心とが相互に働いて、人間の本性が出る。○自此出 ここより出てくる。


登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386

登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386
(永嘉の緑嶂山に登る)


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  謝霊運の山水文学は、永嘉に郡守をしていた時代と、会稽に帰隠していたわずかのあいだに、ほとんどのものが作られている。それは、両地とも山水の美に恵まれていたこと、時間がゆったりしていたからである。左遷中というのは半隠であり、会稽では隠遁中であって、自然美に打たれて歌となったものであろう。謝霊運は、技巧をこらす詩人で、おそらく何度も読み返し、修正して作詩したものと思われるからである。
  やがて、秋も過ぎて、冬のころであろうか、永嘉の北にそびえる緑嶂山に登ったとき、「永嘉の緑嶂山に登る」の作がある

登永嘉緑嶂山詩 #1
永嘉の緑の屏風のような山に登る時の詩。
裏糧杖軽策、懐遲上幽室。
旅の食糧を包み、軽い杖をついて、坂道がきつく足の遅いのを思いつつ、山の隠棲の室に上ってゆく。
行源逕轉遠、距陸情未畢。
その山にある水源に行くには道が甚だ遠く、高原に着いても去り難い情は尽きない。
澹瀲結寒姿、団欒潤霜質。
谷川の浪打ち際は水深の浅い所から凍っていく。円く茂った竹は霜に湛える性質の光沢がある。
澗委水屡迷、林迥巌愈密。
谷川は曲がって水はしばしば行く手を迷わす、林ははるかにひろがって、岩がますます密になった。
眷西謂初月、顧東疑落日。』

谷が深く暗いので、西をかえりみては夕日を月の出かと思い、東をふり返っては月の出を落日かと疑った。
#2
踐夕奄昏曙、蔽翳皆周悉。
蠱上貴不事、履二美貞吉。
幽人常坦歩、高尚邈難匹。
頥阿竟何端、寂寂寄抱一。
恬如既已交、繕性自此出。』

(永嘉の緑嶂山に登る)
糧【かて】の裏【つつ】んで軽き策を杖として、遅きを懐うて幽室に上る。
源に行かんとし、逕【みち】は転【うた】た遠く、陸に距【いた】りて情 いまだ畢わらず。
澹瀲【たんれん】寒姿を結び、団欒は霜質より潤い。
澗の委【まがり】は水 屡しば迷い、林迥【はる】かにして、巌 愈【いよ】いよ密なり。
西を眷【かえり】みて初月と謂い、東を顧みて落日かと疑えり。』

#2
践夕 昏曙を奄【とど】む、蔽われたる翳【かげ】は皆な周悉【しゅうしつ】。
蠱上【こじょう】の事とせざるを貴しとし、履二に貞吉を美とす。
幽人は常に坦歩し、高尚なるは邈【ばく】として 匹【たぐい】し難し。
頥【い】阿【あ】 竟に何の端、寂寂【せきせき】として抱一を寄さん。
恬【てん】として既に已に交わるが如し、性を繕【おさ】めて此より出ず。』

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  天気の良い日、東に月がのぼるのを見て、翻って西の方の夕日を見て、自然を面白く趣きをもって詠っている。同時刻のものを月と夕日にてあらわし、山水については、早朝からの時間の経過をあらわしている。山水詩人として、半隠棲のような生活をしていたのであろう。永嘉に赴任してから、山水描写が確立していったようだ。

現代語訳と訳註
(本文)
登永嘉緑嶂山詩 #1
裏糧杖軽策、懐遲上幽室。
行源逕轉遠、距陸情未畢。
澹瀲結寒姿、団欒潤霜質。
澗委水屡迷、林迥巌愈密。
眷西謂初月、顧東疑落日。』


(下し文) (永嘉の緑嶂山に登る)#1
糧【かて】の裏【つつ】んで軽き策を杖として、遅きを懐うて幽室に上る。
源に行かんとし、逕【みち】は転【うた】た遠く、陸に距【いた】りて情 いまだ畢わらず。
澹瀲【たんれん】寒姿を結び、団欒は霜質より潤い。
澗の委【まがり】は水 屡しば迷い、林迥【はる】かにして、巌 愈【いよ】いよ密なり。
西を眷【かえり】みて初月と謂い、東を顧みて落日かと疑えり。』


(現代語訳)
永嘉の緑の屏風のような山に登る時の詩。
旅の食糧を包み、軽い杖をついて、坂道がきつく足の遅いのを思いつつ、山の隠棲の室に上ってゆく。
その山にある水源に行くには道が甚だ遠く、高原に着いても去り難い情は尽きない。
谷川の浪打ち際は水深の浅い所から凍っていく。円く茂った竹は霜に湛える性質の光沢がある。
谷川は曲がって水はしばしば行く手を迷わす、林ははるかにひろがって、岩がますます密になった。
谷が深く暗いので、西をかえりみては夕日を月の出かと思い、東をふり返っては月の出を落日かと疑った。


(訳注)#1
登永嘉緑嶂山詩
永嘉の緑の屏風のような山に登る時の詩。
緑嶂山 みどりの屏風のような山。


裏糧杖軽策、懐遲上幽室。
旅の食糧を包み、軽い杖をついて、坂道がきつく足の遅いのを思いつつ、山の隠棲の室に上ってゆく。
裏糧 旅の食料をつつんで。○軽策 杖を軽く使ってついて歩く。○懐遲 歩みの遅く進まないことを思う。○幽室 塵芥をはなれた隠棲の場所。


行源逕轉遠、距陸情未畢。
その山にある水源に行くには道が甚だ遠く、高原に着いても去り難い情は尽きない。
行源 水源に行きつく。○ こみち。○轉遠 はなはだ遠い。○距陸 高原に到着する。○未畢 おわることはない。


澹瀲結寒姿、団欒潤霜質。
谷川の浪打ち際は水深の浅い所から凍っていく。円く茂った竹は霜に湛える性質の光沢がある。
澹瀲 しずか、やすらか。風や波によってゆったりと動くさま。『 荘子逍遥遊、其神凝、注』澹然而不待。〈釈文〉澹然恬静也。○ なみ。すいめん。波打ち際。水の溢れるさま。○寒姿 浪打ち際、水深の浅い所から凍っていく。○団欒 竹の茂みがまるく葉繁っている。○ うるおう。光沢がある。○霜質 霜に耐えうる性質。


澗委水屡迷、林迥巌愈密。
谷川は曲がって水はしばしば行く手を迷わす、林ははるかにひろがって、岩がますます密になった。
 谷川。谷間の小川。○ 曲がる。○林迥 林がこちらからもこうに見かって広がっている。○愈密 いよいよ、ますます密になる。上流になっていくほど岩石が多くなる。


眷西謂初月、顧東疑落日。』
谷が深く暗いので、西をかえりみては夕日を月の出かと思い、東をふり返っては月の出を落日かと疑った。
眷西 西の方を見る。落日のある方向。○謂初月 月が出たのかという。○顧東 東の方から月がのぼる。○疑落日 夕日と見まちがえる。
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種桑 謝霊運<19>  詩集 385

種桑 謝霊運<19>  詩集 385


すなおち、この田舎はいろいろと生活への条件が悪く、物の産出も少なく、人民ははな
はだしく貧乏になりやすいため、凶災の年にはその生命すら全うしがたく、そのうえ、知能も低い。それゆえ、一生懸命、政治に励み、物の豊かになれるように努力したいという。この詩のうちで、鄭白の渠とは鄭渠と白渠の朧漑により人民は衣食が満ち足りたという後漢の班固の「西都賦」を意識して歌う。いかにも地方の政治家として真剣に取り組んでいる姿が浮かぶ。
 また、産業の指導にも熱心に当たったようで、それを物語るものとして、「種桑」の詩が伝えられている。この詩が、いつ、どこで作られたかは不明であるが、政治家謝霊運の一面を語る資料として挙げてみる。

種桑
詩人陳條柯、亦有美攘剔。
(植え方)詩人は枝を揃えて並べていく、あるいはまた、枝を選定して美しくするものだ。
前修爲誰故、後事資紡績。
(加工)昔この作業を修業した人は誰のためにしたのであろうか、木が成長した後に、紡績を助けるためにしたのである。
媿微富敎益、浮陽騖嘉日。
(生産性)少しずつでも富となっていくように利益が増えるよう植え方を教えてきたことは大したことではなく、ほんの少し恥ずかしいと思う。日当たりについては、よろしい日々を重ねることである。
蓺桑迨閒隙、疏欄發近郛、長行達廣場。
(手入)桑の木はその間隔を整えることである、粗くていいので、城郭の近くから手すりを設置しなかにいれない、長く広場所まで達するものにするのである。
曠流始毖泉、湎塗猶跬跡。
(灌漑の水)遠くから流れ込むささやかな泉から始まり。なお流れていきその足跡を残して筋を残して沈み込んでいく。
俾比將長成、慰我海外役。
(土地を守る)これらのことをこれからとこしえに成功するためには、「我々は海外での役割、戦いをすることで慰められるものである」ということをしめしておくことなのだ。



桑を種える。
詩人は(桑の)條柯【じょうか】を陳【なら】べるに、また攘【はら】い剔【き】って美しくする有り。
前修は誰の故に為す、後の事は紡績に資るのみ。
媿微【きび】は富の教え益ますなり、浮陽は嘉日を騖【はせ】る
桑を蓺えて間隙に迨【およ】ぶ、疎らな欄は近くの郛に発し、長行して広場に達す。
曠【とお】き流れも毖泉【ひせん】に始まり、湎塗【めんと】 猶 跬跡【けいせき】のごとし。
此 長成し、「我を慰むるに海外の役」をもって俾めん

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現代語訳と訳註
(本文) 
種桑
詩人陳條柯、亦有美攘剔。
前修爲誰故、後事資紡績。
媿微富敎益、浮陽騖嘉日。
蓺桑迨閒隙、疏欄發近郛、長行達廣場。
曠流始毖泉、湎塗猶跬跡。
俾比將長成、慰我海外役。


(下し文)
桑を種える。
詩人は(桑の)條柯【じょうか】を陳【なら】べるに、また攘【はら】い剔【き】って美しくする有り。
前修は誰の故に為す、後の事は紡績に資るのみ。
媿微【きび】は富の教え益ますなり、浮陽は嘉目を騖【はせ】る
桑を蓺えて間隙に迨【およ】ぶ、疎らな欄は近くの郛に発し、長行して広場に達す。
曠【とお】き流れも毖泉【ひせん】に始まり、湎塗【めんと】 猶 跬跡【けいせき】のごとし。
此 長成し、「我を慰むるに海外の役」をもって俾めん。

(現代語訳)
(植え方)詩人は枝を揃えて並べていく、あるいはまた、枝を選定して美しくするものだ。
(加工)昔この作業を修業した人は誰のためにしたのであろうか、木が成長した後に、紡績を助けるためにしたのである。
(生産性)少しずつでも富となっていくように利益が増えるよう植え方を教えてきたことは大したことではなく、ほんの少し恥ずかしいと思う。日当たりについては、よろしい日々を重ねることである。
(手入)桑の木はその間隔を整えることである、粗くていいので、城郭の近くから手すりを設置しなかにいれない、長く広場所まで達するものにするのである。
(灌漑の水)遠くから流れ込むささやかな泉から始まり。なお流れていきその足跡を残して筋を残して沈み込んでいく。
(土地を守る)これらのことをこれからとこしえに成功するためには、「我々は海外での役割、戦いをすることで慰められるものである」ということをしめしておくことなのだ。


(訳注)
詩人陳條柯、亦有美攘剔。

(植え方)詩人は枝を揃えて並べていく、あるいはまた、枝を選定して美しくするものだ。


前修爲誰故、後事資紡績。
(加工)昔この作業を修業した人は誰のためにしたのであろうか、木が成長した後に、紡績を助けるためにしたのである。


媿微富敎益、浮陽騖嘉日。
(生産性)少しずつでも富となっていくように利益が増えるよう植え方を教えてきたことは大したことではなく、ほんの少し恥ずかしいと思う。日当たりについては、よろしい日々を重ねることである。
媿微 ほんの少し、恥ずかしいと思う。○浮陽 水上に浮かび日光に近づくこと。日光。


蓺桑迨閒隙、疏欄發近郛、長行達廣場。
(手入)桑の木はその間隔を整えることである、粗くていいので、城郭の近くから手すりを設置しなかにいれない、長く広場所まで達するものにするのである。


曠流始毖泉、湎塗猶跬跡。
(灌漑の水)遠くから流れ込むささやかな泉から始まり。なお流れていきその足跡を残して筋を残して沈み込んでいく。
曠流 遥かな遠いさま。○毖泉 『詩経』毖泉篇「毖彼泉水、亦流于淇」(毖【ささや】かなる彼の泉の水も、亦た淇のかわに流【そそ】ぐなり。)大意は泲(せい)・禰(でい)という土地は衛という国から嫁入りした時に経由したところであるという。また干(かん)・言(げん)は衛に里帰りをするならばその地を経由するのである。この2章の語意はもともと同じであるが、その解釈は異なっている。そして干(かん)・言(げん)を衛に里帰りをする時の経由地であるとするならば、「車を旋(かえ)す」は特に適切でないと思われる。「諸姫(しょき)は姪娣(ていてつ)を謂う。姪娣の中に乃ち諸姑伯姊あり」とは、意味が通らない。○ しずみ、のめりこむ。塗 ぬりふさぐ。すじみちとする。○跬跡 かたあしのあと。


俾比將長成、慰我海外役。
(土地を守る)これらのことをこれからとこしえに成功するためには、「我々は辺境の土地での役割、仕事、戦いをすることでまもられ、慰められるものである」ということをしめしておくことなのだ。
 しめる。せしめる。○長成、とこしえにうまくいくように。○海外役 辺境の土地での役割、仕事。


この詩は、治政者として謝霊運が懸命に人民の致治を考え、実践したことを示す。都から離れていても、国を富国強兵で、継続性のあるものにするには、その生産基盤をしっかりとし、生産性を高めなければいけないとしている。そしてそれを末代まで継続する必要があるということで、農耕法をしにしている。根っからの政治家であった。人民のための謝霊運のまじめな努力と一方では、美しい山水の詩人である。この地方で抜群の指示を受けたのも理解できることである。
しかし出るくぎは打たれるというものである謝霊運の仁徳の政治実践は権力者によっては目障りなものとして映るかもしれない。

白石巌下径行田詩 #2 謝霊運<18>  詩集 384

白石巌下径行田詩 #2 謝霊運<18>  詩集 384
白石巌下径行田詩謝霊運(白石巌下行田を経ふ)

「白石巌」とは永嘉郡楽成県の西30里(17km)にある白石山のことである。


白石巖下徑行田詩
小邑居易貧。災年民無生。
知淺懼不周。愛深憂在情。」
舊業橫海外。蕪穢積頹齡。
饑饉不可久。甘心務經營。
千頃帶遠堤。萬裏瀉長汀。』
洲流涓澮合。連統塍埒幷。
中州のある川の流れ、小さい小川が集まっている。連続した筋のように堤防が合わさっている。
雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
いまは戦国楚の国の頽廃化のようなことにはなっていないが、あれはてた楚宮の宮殿にまた草木の芽が萌えてきている。
雖非鄭白渠。每歲望東京。
鄭白の渠によってもたらされた生活がゆとりあるものということは言えないけれど、毎年、都に向かって希望しているのである。
天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』

天の鏡が、もし一つしかないものとしたら、おそらく、わずかな真心を示すことだろう。


(白石巌下行田を経ふ)
小邑【しょうゆう】の居は貧なり易く、災いの年には民 生くるなし。
知は浅く周【あまね】からざることを懼【おそ】る、愛は深く 憂いは情に在り。
旧業は海の外に横たわり、蕪穢【ぶあい】 頹齢【たいれい】を積む。
饑饉【ききん】 久しくす可からず、甘心 経営に務む。
千頃【せんけい】 遠き堤を帯び、万里 長汀【ちょうてい】に潟【そそ】ぐ。
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
天鑑 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。


現代語訳と訳註
(本文) #2

洲流涓澮合。連統塍埒幷。
雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
雖非鄭白渠。每歲望東京。
天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』

(下し文)#2
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
天鑒 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。

(現代語訳)#2
中州のある川の流れ、小さい小川が集まっている。連続した筋のように堤防が合わさっている。
いまは戦国楚の国の頽廃化のようなことにはなっていないが、あれはてた楚宮の宮殿にまた草木の芽が萌えてきている。
鄭白の渠によってもたらされた生活がゆとりあるものということは言えないけれど、毎年、都に向かって希望しているのである。
天の鏡が、もし一つしかないものとしたら、おそらく、わずかな真心を示すことだろう。


(訳注)#2
洲流涓澮合。連統塍埒幷。
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
中州のある川の流れ、小さい小川が集まっている。連続した筋のように堤防が合わさっている。
涓澮 ちいさいながれ。小さいものの形容。合。連統 連続した筋.○塍埒 堤防。塍はあぜ、埒はつつみ。


雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
いまは戦国楚の国の頽廃化のようなことにはなっていないが、あれはてた楚宮の宮殿にまた草木の芽が萌えてきている。
荒闕【こうけつ】かって宮殿のあった宮城の門の左右の横にある台が荒れ果てている。○黎萌【れいぼう】。芽吹く前のつぼみの黒い部分。芽吹いていることをいう。


雖非鄭白渠。每歲望東京。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
鄭白の渠によってもたらされた生活がゆとりあるものということは言えないけれど、毎年、都に向かって希望しているのである。
鄭白の渠 中国で、韓の鄭国と趙の白公の灌漑工事により、人々の生活が豊かになったという故事から、生活に不自由がないたとえ。


天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』
天鑒 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。
天の鏡が、もし一つしかないものとしたら、おそらく、わずかな真心を示すことだろう。
天鑒 鑒は人の姿や物の形を映し見る道具。古くは青銅・白銅・鉄などの表面に水銀に錫(すず)をまぜたものを塗って磨いて作った。形は方円・八つ花形などがある。現在のものは、ガラス板の裏面に水銀を塗ってある。○來茲[読み]まさに~すべし;応(應)~ [意味]おそらく(きっと)~だろう。○微誠 わずかな真心。


この田舎はいろいろと生活への条件が悪く、物の産出も少なく、人民ははなはだしく貧乏になりやすいため、凶災の年にはその生命すら全うしがたく、そのうえ、知能も低い。それゆえ、一生懸命、政治に励み、物の豊かになれるように努力したいという。この詩のうちで、「鄭白の渠」とは鄭渠と白渠の灌漑により人民は衣食が満ち足りるようになったという後漢の班固の「西都賦」を意識して歌っているのだ。謝霊運が地方の政治家として真剣に取り組んでいる姿が浮かんでくる。

 また、産業の指導にも熱心に当たったようで、それを物語るものとして、「種桑」の詩が伝えられている。地方の政治家謝霊運の一面を語る資料としてつぎに挙げてみる。

白石巌下径行田詩 #1 謝霊運<18>  詩集 383

白石巌下径行田詩 #1 謝霊運<18>  詩集 383
白石巌下径行田詩謝霊運(白石巌下行田を経ふ)

秋に左遷という謝霊運にとっては何倍もの悲哀を強く感じるものであった。故郷を遠く離れ、知る人もな句、そして、隠棲したい気持ちを持っている謝霊運にとって、放郷への回顧ははなはだしく強かった。それに加え、悲しみからくる食欲不振、混然としたものから生じた白髪をみて、いっそうの寂しさを感じさせたのである。
この気も狂わんばかりの悲しみを、わずかに救ってくれるものは琴を弾ずることであった。この琴を弾ずることは、当時のイソテリの等しく行なうストレス解消法であった。そして、満ちあふれるばかりの美しい山や川を心ゆくまで観賞することも、さらに心の憂いを消すのに大きな功、があった。
 郡守として永嘉に着任した謝霊運は、まだ治者として誇りもあり、その意識も強烈であった。治者としての自覚が強かったのを物語る資料として、「白石巖下徑行田詩」(白石巌下行田を経ふ)の作がある。この「白石巌」とは永嘉郡楽成県の西30里(17km)にある白石山のことである。


白石巖下徑行田詩
白石山の岩石のもとの田んぼに行きすぎるときの詩
小邑居易貧。災年民無生。
ここの小さな村里では住むには貧しくなりやすい、災害の歳には村人は生きていけないのだ。
知淺懼不周。愛深憂在情。」
学問、知識はあさくそれが邑全体でなければよいのだが、人の触れ合い、愛情は深く情を以て心配している。
舊業橫海外。蕪穢積頹齡。
古くからの生業は海に出て行っている、賤しいことばかりしていて応募れていっているのだ。
饑饉不可久。甘心務經營。
飢饉のようなことは久しくあってはならない、何にも考えないで為すがままに生活を営んでいる。
千頃帶遠堤。萬裏瀉長汀。』
大地は広く遠い所に堤が帯のように横たわっており、万里の長く続く波打ち際は続いている。

洲流涓澮合。連統塍埒幷。
雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
雖非鄭白渠。每歲望東京。
天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』

(白石巌下行田を経ふ)
小邑【しょうゆう】の居は貧なり易く、災いの年には民 生くるなし。
知は浅く周【あまね】からざることを懼【おそ】る、愛は深く 憂いは情に在り。
旧業は海の外に横たわり、蕪穢【ぶあい】 頹齢【たいれい】を積む。
饑饉【ききん】 久しくす可からず、甘心 経営に務む。
千頃【せんけい】 遠き堤を帯び、万里 長汀【ちょうてい】に潟【そそ】ぐ。
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
天鑑 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。


現代語訳と訳註
(本文) 白石巖下徑行田詩 #1
小邑居易貧。災年民無生。
知淺懼不周。愛深憂在情。」
舊業橫海外。蕪穢積頹齡。
饑饉不可久。甘心務經營。
千頃帶遠堤。萬裏瀉長汀。』

(下し文)
(白石巌下行田を経ふ)
小邑【しょうゆう】の居は貧なり易く、災いの年には民 生くるなし。
知は浅く周【あまね】からざることを懼【おそ】る、愛は深く 憂いは情に在り。
旧業は海の外に横たわり、蕪穢【ぶあい】 頹齢【たいれい】を積む。
饑饉【ききん】 久しくす可からず、甘心 経営に務む。


(現代語訳)
白石山の岩石のもとの田んぼに行きすぎるときの詩
ここの小さな村里では住むには貧しくなりやすい、災害の歳には村人は生きていけないのだ。
学問、知識はあさくそれが邑全体でなければよいのだが、人の触れ合い、愛情は深く情を以て心配している。
古くからの生業は海に出て行っている、賤しいことばかりしていて応募れていっているのだ。
飢饉のようなことは久しくあってはならない、何にも考えないで為すがままに生活を営んでいる。
大地は広く遠い所に堤が帯のように横たわっており、万里の長く続く波打ち際は続いている。


(訳注)
白石巖下徑行田詩

(白石巌下行田を経ふ)
白石山の岩石のもとの田んぼに行きすぎるときの詩


小邑居易貧。災年民無生。
小邑【しょうゆう】の居は貧なり易く、災いの年には民 生くるなし。
ここの小さな村里では住むには貧しくなりやすい、災害の歳には村人は生きていけないのだ。
小邑【しょうゆう】小さい村里。


知淺懼不周。愛深憂在情。」
知は浅く周【あまね】からざることを懼【おそ】る、愛は深く 憂いは情に在り。
学問、知識はあさくそれが邑全体でなければよいのだが、人の触れ合い、愛情は深く情を以て心配している。


舊業橫海外。蕪穢積頹齡。
旧業は海の外に横たわり、蕪【あれ】と穢【けがれ】 頹齢【たいれい】を積む。

古くからの生業は海に出て行っている、賤しいことばかりしていて応募れていっているのだ。
○蕪穢 土地が荒れて雑草が生い茂る。転じて賤しいこと。○頹齡 老年。ものが廃れ衰えるように、老いぼれる年齢。


饑饉不可久。甘心務經營。
饑饉【ききん】 久しくす可からず、甘心 経営に務む。
飢饉のようなことは久しくあってはならない、何にも考えないで為すがままに生活を営んでいる。


千頃帶遠堤。萬裏瀉長汀。』
千頃【せんけい】 遠き堤を帯び、万里 長汀【ちょうてい】に潟【そそ】ぐ。
大地は広く遠い所に堤が帯のように横たわっており、万里の長く続く波打ち際は続いている。
千頃 田畑の広いことの形容。○長汀 長い渚。長く続く波打ち際。

晚出西射堂 #2謝霊運<17>  詩集 382 #2

晚出西射堂 #2謝霊運<17>  詩集 382 #2
晩出西射堂詩 謝霊運(晩に西射堂を出ず)


 謝霊運はかくて桐江をさかのぼり、蘭江に入り、蘭鈴を経て、その支流の娶江に入り、金華に至りて下船。それから陸路を駕で山越えして麗水に至り、ここから再び船にて甌江を下り、永嘉に至った。


(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)都建康を出発して1か月かけて永嘉に到着する。


 さて、旅路はるかに南の永嘉の郡守に着任した霊運は、その土地の豪族や部下から盛大な出迎えを受け、かつ儀礼的な歓迎の宴会に日々を送ったことと思う。が、そのときには詩人である霊運はいくつかの詩も創作したことであろうけれど、今は伝わっていない。
 永嘉に落ち着いた霊運は、仮住まいとして、永嘉郡の西南の射堂に住いした。
射堂とは弓を射る建物を意味するが、それに付属する建物に住んでいたのである。
そこから美しい山を望んで歌ったものが「晩に西射堂を出ず」の一首である。


晚出西射堂 謝靈運
《昭明文選•卷二十二》

晚出西射堂
步出西城門,遙望城西岑。
連鄣疊巘崿,青翠杳深沈。
曉霜楓葉丹,夕曛嵐氣陰。
節往慼不淺,感來念已深。』
羈雌戀舊侶,迷鳥懷故林。
旅の客人はメス鳥のようなもので長く一緒になっている伴侶を恋しく思う、行く先のない迷い鳥は生れ育った古巣の林を懐かしむ。
含情尚勞愛,如何離賞心?
それに情を含んでいるとすればなおさらねぎらい愛おしむものだ、それなのにどうして科の景色を鑑賞する気持ち、隠棲したい気持ちをすてさることができようか。
撫鏡華緇鬢,攬帶緩促衿。
鏡を磨きなおしてみてみると黒々としていた髪の毛に白髪が花が咲いたようだ。食欲減退のせいか帯が緩んで襟を整えるのもゆるみが出てきた。
安排徒空言,幽獨賴鳴琴。』

ただ気ままに程よく詩を詠い、空言をならべている、一人で過ごすわび住いには琴を弾き鳴らすことだけが頼りである。

(晩に西射堂を出ず)
歩して出で城門に西す、遙かに城の西の岑【みね】を望む。
連なれる障【しきり】は巘崿【けんがく】を畳み、青翠【せいすい】は沓【かさ】なりて深沈【しんしん】たり。
暁霜【あかつきのしも】に楓葉【ふうよう】は丹【あか】く、夕の曛【かげり】に嵐気【らんき】は陰【くも】れり。
節は往きて慼【うれ】いは浅からず、感は来たりて念い已に深し。
 
羈雌【きし】は旧き侶【とも】を恋い、迷鳥は故【もと】の林を懐う。
情を含んで尚お勞【ねぎ】らい愛【いとおし】み、
如何んぞ 賞する心を離れんや。
鏡を撫【と】れば緇【くろ】き鬢【かみ】も華【しろ】く、帯を攬【と】れば促【し】まれる衿も緩【ゆる】し。
安排【あんぱい】 徒【いたず】らに空言【そらごと】をいい、幽独【ゆうどく】 鳴琴【めいきん】に頼るのみ。


現代語訳と訳註
(本文)#2

羈雌戀舊侶,迷鳥懷故林。
含情尚勞愛,如何離賞心?
撫鏡華緇鬢,攬帶緩促衿。
安排徒空言,幽獨賴鳴琴。』

(下し文)#2
羈雌【きし】は旧き侶【とも】を恋い、迷鳥は故【もと】の林を懐う。
情を含んで尚お勞【ねぎ】らい愛【いとおし】み、
如何んぞ 賞する心を離れんや。
鏡を撫【と】れば緇【くろ】き鬢【かみ】も華【しろ】く、帯を攬【と】れば促【し】まれる衿も緩【ゆる】し。
安排【あんぱい】 徒【いたず】らに空言【そらごと】をいい、幽独【ゆうどく】 鳴琴【めいきん】に頼るのみ。


(現代語訳)#2
旅の客人はメス鳥のようなもので長く一緒になっている伴侶を恋しく思う、行く先のない迷い鳥は生れ育った古巣の林を懐かしむ。
それに情を含んでいるとすればなおさらねぎらい愛おしむものだ、それなのにどうして科の景色を鑑賞する気持ち、隠棲したい気持ちをすてさることができようか。
鏡を磨きなおしてみてみると黒々としていた髪の毛に白髪が花が咲いたようだ。食欲減退のせいか帯が緩んで襟を整えるのもゆるみが出てきた。
ただ気ままに程よく詩を詠い、空言をならべている、一人で過ごすわび住いには琴を弾き鳴らすことだけが頼りである。


(訳注)#2
羈雌戀舊侶,迷鳥懷故林。

旅の客人はメス鳥のようなもので長く一緒になっている伴侶を恋しく思う、行く先のない迷い鳥は生れ育った古巣の林を懐かしむ。
羈雌 旅の客人はメス鳥


含情尚勞愛,如何離賞心
それに情を含んでいるとすればなおさらねぎらい愛おしむものだ、それなのにどうして科の景色を鑑賞する気持ち、隠棲したい気持ちをすてさることができようか。


撫鏡華緇鬢,攬帶緩促衿。
鏡を磨きなおしてみてみると黒々としていた髪の毛に白髪が花が咲いたようだ。食欲減退のせいか帯が緩んで襟を整えるのもゆるみが出てきた。
撫鏡 なでる。とる。みがく。みる。文選、宋玉『神女賦序』「於是撫心定氣。」○攬帶 帯が動く。食欲がなく痩せたことで帯が締まらない。


安排徒空言,幽獨賴鳴琴。』
ただ気ままに程よく詩を詠い、空言をならべている、一人で過ごすわび住いには琴を弾き鳴らすことだけが頼りである。
安排【あんぱい】あるがままに安んじる。具合よく並べる。程よく加減する。


切々として、永嘉城外の秋景を巧みに歌う。特に、秋はとかく物思いに沈むとは、宋玉以降「悲愁」という感覚が歌われた。夏の終わりに、葉が色づき落ち始めるが、同じ時期に、辺境に兵士を送り、男女の別れがあった。秋は、渡り鳥もわたってゆき、空しさを歌うようになった。謝霊運は、左遷で南に来たのだ。

晚出西射堂 #1 謝霊運<17>  詩集 381

晚出西射堂 #1 謝霊運<17>  詩集 381
晩出西射堂詩 謝霊運(晩に西射堂を出ず)


 謝霊運はかくて桐江をさかのぼり、蘭江に入り、蘭鈴を経て、その支流の娶江に入り、金華に至りて下船。それから陸路を駕で山越えして麗水に至り、ここから再び船にて甌江を下り、永嘉に至った。
(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)都建康を出発して1か月かけて永嘉に到着する。

 さて、旅路はるかに南の永嘉の郡守に着任した霊運は、その土地の豪族や部下から盛大な出迎えを受け、かつ儀礼的な歓迎の宴会に日々を送ったことと思う。が、そのときには詩人である霊運はいくつかの詩も創作したことであろうけれど、今は伝わっていない。
 永嘉に落ち着いた霊運は、仮住まいとして、永嘉郡の西南の射堂に住いした。
射堂とは弓を射る建物を意味するが、それに付属する建物に住んでいたのである。
そこから美しい山を望んで歌ったものが「晩に西射堂を出ず」の一首である。

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晚出西射堂 謝靈運
《昭明文選•卷二十二》


晚出西射堂
步出西城門,遙望城西岑。
徒歩で家を出て永嘉の城門へ西にむかった。城郭の西の向こうに峻険な嶺を眺めている
連鄣疊巘崿,青翠杳深沈。
連峰を遮る崖は畳のようにかさなっている、山の緑は茂り重なってうっそうとしている。
曉霜楓葉丹,夕曛嵐氣陰。
早朝の霜には楓の葉は赤く色づいている、夕暮れ黄昏時山影の景色は暗くなる。
節往慼不淺,感來念已深。』

秋の季節は深まっていくと悲愁により涙を流すことはない、ただ、隠棲して谷あいの農村に住みたいと思う気持ちはさらに深くなっていく。
#2
羈雌戀舊侶,迷鳥懷故林。
含情尚勞愛,如何離賞心?
撫鏡華緇鬢,攬帶緩促衿。
安排徒空言,幽獨賴鳴琴。』

(晩に西射堂を出ず)
歩して出で城門に西す、遙かに城の西の岑【みね】を望む。
連なれる障【しきり】は巘崿【けんがく】を畳み、青翠【せいすい】は沓【かさ】なりて深沈【しんしん】たり。
暁霜【あかつきのしも】に楓葉【ふうよう】は丹【あか】く、夕の曛【かげり】に嵐気【らんき】は陰【くも】れり。
節は往きて慼【うれ】いは浅からず、感は来たりて念い已に深し。
#2 
羈雌【きし】は旧き侶【とも】を恋い、迷鳥は故【もと】の林を懐う。
情を含んで尚お勞【ねぎ】らい愛【いとおし】み、
如何んぞ 賞する心を離れんや。
鏡を撫【と】れば緇【くろ】き鬢【かみ】も華【しろ】く、帯を攬【と】れば促【し】まれる衿も緩【ゆる】し。
安排【あんぱい】 徒【いたず】らに空言【そらごと】をいい、幽独【ゆうどく】 鳴琴【めいきん】に頼るのみ。


現代語訳と訳註
(本文)
#1

晚出西射堂
步出西城門,遙望城西岑。
連鄣疊巘崿,青翠杳深沈。
曉霜楓葉丹,夕曛嵐氣陰。
節往慼不淺,感來念已深。』

(下し文) #1
歩して出で城門に西す、遙かに城の西の岑【みね】を望む。
連なれる障【しきり】は巘崿【けんがく】を畳み、青翠【せいすい】は沓【かさ】なりて深沈【しんしん】たり。
暁霜【あかつきのしも】に楓葉【ふうよう】は丹【あか】く、夕の曛【かげり】に嵐気【らんき】は陰【くも】れり。
節は往きて慼【うれ】いは浅からず、感は来たりて念い已に深し。


(現代語訳)
徒歩で家を出て永嘉の城門へ西にむかった。城郭の西の向こうに峻険な嶺を眺めている
連峰を遮る崖は畳のようにかさなっている、山の緑は茂り重なってうっそうとしている。
早朝の霜には楓の葉は赤く色づいている、夕暮れ黄昏時山影の景色は暗くなる。
秋の季節は深まっていくと悲愁により涙を流すことはない、ただ、隠棲して谷あいの農村に住みたいと思う気持ちはさらに深くなっていく。

(訳注)
晚出西射堂

日暮れになって永嘉の西にある射堂を出る。
射堂 弓場。弓を射る建物を意味する。それに付属する建物に住んでいたのであろう。現在その場所に西山寺があるので、寺にある建物ではないか。


步出西城門,遙望城西岑。
徒歩で家を出て永嘉の城門へ西にむかった。城郭の西の向こうに峻険な嶺を眺めている
西 西にする。西に向かう。城門を出て西にむかう。東には太平洋が広がり、半隠遁者の気分になっている謝霊運は、西の方角に興味をひかれたのであろう。この地は温州蜜柑の産地である。○城西岑 城郭の西の向こうにとがった山を見る。


連鄣疊巘崿,青翠杳深沈。
連峰を遮る崖は畳のようにかさなっている、山の緑は茂り重なってうっそうとしている。
巘崿【けんがく】がけ。崖の別名。・巘は大山から別れた小山。○ たたむ。ちじむ。かさなる。詩の作品で重ねて前の韻を用いること。この詩の前半八句にはこれを意識している。「門、岑。崿、沈。丹、陰。淺,深。西、西。」とまさしく畳んでいる。


曉霜楓葉丹,夕曛嵐氣陰。
早朝の霜には楓の葉は赤く色づいている、夕暮れ黄昏時山影の景色は暗くなる。
曉霜楓葉丹 温州は緯度が28度で、陰暦八月の初旬に明け方の霜があるだろうか、山の高い所であっても紅葉するというのは疑いたくなるところである。いずれにしても対句を意識しての詩人的表現である。

節往慼不淺,感來念已深。』
秋の季節は深まっていくと悲愁により涙を流すことはない、ただ、隠棲して谷あいの農村に住みたいと思う気持ちはさらに深くなっていく。
慼不淺 慼は秋の愁い、左遷のみの愁いにより涙を流すことはない。○感來 隠棲して谷あいの農村に住みたいと思いがくる。

七里瀬 #2 謝霊運<16> 詩集 377

七里瀬 #2 謝霊運<16> 377


 この桐廬の付近の厳陵山の西には有名なる七里瀬の険があった。ここは両巌が約七里(中国里)にわたって、高い山がそびえ、その間に激洸が岩をtむという。日本でいえば天竜峡のそれである。上下する船にとっては非常に危険な場所であって、船をあやつる船頭も、乗客も、すこしも気の安まらざるものがあった。それだけに、景色も美しく、印象に強い場所でもあった。特に、生まれてはじめてここを通過した霊運にとっては、いかばかりであったろうか。心に重い憂いをいだきながらも、その美にいたく心を打たれたらしく、ここで「七里瀬」と題する詩を残しており、『文選』の巻二十六の「行旅」に引用されている。

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七里瀨 #1
羈心積秋晨,晨積展遊眺。
孤客傷逝湍,徒旅苦奔峭。
石淺水潺湲,日落山照曜。
荒林紛沃若,哀禽相叫嘯。
#2
遭物悼遷斥,存期得要妙。
この時節の風物に遭って、官を左遷され、しりぞけられている身を傷ましくおもっている、だからかねての望みの隠棲の心を大事に持ち続け、道理の大切な不可思議な働きを会得するのである。
既秉上皇心,豈屑末代誚。
既に上古の三皇五帝の素朴純粋な精神をしっかりと持っているのだから、どうして末の代の人々のそしりなどを顧みることがあろうか。
目睹嚴子瀨,想屬任公釣。
私は目のあたり後漢の厳光が隠棲して釣を垂れた厳陵瀬の上流であるこの早瀬を見ている、昔、任公子が東海の大魚か釣ってこの浙江以東、蒼梧以北の地の人々がその魚肉に飽いたと荘子にあるが、その大道を以て民を養ったことを喩えた釣の話に想いをかけて慕うのである。
誰謂古今殊,異代可同調。

誰が古と今とは違うというのか。時代がちがっても隠棲して道を求める清潔の士とみさおを同じくすることはできるものである。
#1
羈心【きしん】は秋晨【しゅうしん】に積り、晨に積りて遊眺【ゆうちょう】を展ばさんとす。
孤客は逝湍【せいたん】を傷み、徒旅は奔峭【ほんしょう】に苦しむ。
石浅くして水は潺湲【せんたん】たり、日落ちて山は照曜【しょうよう】す。
荒林【こうりん】紛として沃若【ようじゃく】たり、哀禽【あいきん】相い 叫嘯【きょうしょう】す。
#2
物に遭いて遷斥を悼【いた】み、期を存し要妙【ようにょう】を得たり。
既に上皇の心を秉【と】り、豈 末代の誚【そし】りを屑【いさぎよし】とせんや。
目のあたり厳子が瀬【らい】を睹【み】て、想いは任公の釣に属【ぞく】す。
誰か謂う古今【きんこ】殊【こと】なると、異代【いだい】も調べを同じくす可し。

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現代語訳と訳註
(本文)
#2
遭物悼遷斥,存期得要妙。
既秉上皇心,豈屑末代誚。
目睹嚴子瀨,想屬任公釣。
誰謂古今殊,異代可同調。

(下し文)#2
物に遭いて遷斥を悼【いた】み、期を存し要妙【ようにょう】を得たり。
既に上皇の心を秉【と】り、豈 末代の誚【そし】りを屑【いさぎよし】とせんや。
目のあたり厳子が瀬【らい】を睹【み】て、想いは任公の釣に属【ぞく】す。
誰か謂う古今【きんこ】殊【こと】なると、異代【いだい】も調べを同じくす可し。


(現代語訳)
この時節の風物に遭って、官を左遷され、しりぞけられている身を傷ましくおもっている、だからかねての望みの隠棲の心を大事に持ち続け、道理の大切な不可思議な働きを会得するのである。
既に上古の三皇五帝の素朴純粋な精神をしっかりと持っているのだから、どうして末の代の人々のそしりなどを顧みることがあろうか。
私は目のあたり後漢の厳光が隠棲して釣を垂れた厳陵瀬の上流であるこの早瀬を見ている、昔、任公子が東海の大魚か釣ってこの浙江以東、蒼梧以北の地の人々がその魚肉に飽いたと荘子にあるが、その大道を以て民を養ったことを喩えた釣の話に想いをかけて慕うのである。
誰が古と今とは違うというのか。時代がちがっても隠棲して道を求める清潔の士とみさおを同じくすることはできるものである。


(訳注)
遭物悼遷斥,存期得要妙。

この時節の風物に遭って、官を左遷され、しりぞけられている身を傷ましくおもっている、だからかねての望みの隠棲の心を大事に持ち続け、道理の大切な不可思議な働きを会得するのである。
遭物 時節の風物に遭って。 ○悼遷斥 官を遷し退けられたことを傷み悲しむ。○存期 かねての期望を忘れずに。隠退の望みを保つ。○得要妙 道の緊要玄妙な処を会得する。道理の大切な不可思議な働きを会得する。


既秉上皇心,豈屑末代誚。
既に上上古の三皇五帝の素朴純粋な精神をしっかりと持っているのだから、どうして末の代の人々のそしりなどを顧みることがあろうか。
上皇心 上古の三皇五帝の素朴な心。詩譜序の疏に「上皇とは伏羲を謂ふ。三皇の般も先なる者」とある。三皇は神、五帝は聖人としての性格を持つとされた皇帝をいう。○ 顧る。


目睹嚴子瀨,想屬任公釣。
私は目のあたり後漢の厳光が隠棲して釣を垂れた厳陵瀬の上流であるこの早瀬を見ている、昔、任公子が東海の大魚か釣ってこの浙江以東、蒼梧以北の地の人々がその魚肉に飽いたと荘子にあるが、その大道を以て民を養ったことを喩えた釣の話に想いをかけて慕うのである。
嚴子瀨 後漢書に「厳光、字は子陵、木姓は荘、明帝の降を避けて、姓を政と改む。光武(帝)諌大夫に拝せんと欲するも受けず。乃ち富春山に耕釣せり」と。富春山を厳陵山といい、七里瀬を厳子瀬というのはこれによる。○任公釣 『荘子』任公子「愿隨任公子。欲釣吞舟魚。」任公子の故事。子明は会稽山の山頂から沖に届くくらいの竿を作り、餌も去勢牛五十頭ほど用意し、一年かけて釣り上げた。それを村人に食べ物を配った。浙江以東、蒼梧以北の民はこの魚に飽いたという。大道を以て衆を救う比喩。


誰謂古今殊,異代可同調。
誰が古と今とは違うというのか。時代がちがっても隠棲して道を求める清潔の士とみさおを同じくすることはできるものである。
同調 みさおを同じくする。調とは、生きかた。


a謝霊運永嘉ルート02

 謝霊運はかくて桐江をさかのぼり、蘭江に入り、蘭鈴を経て、その支流の娶江に入り、金華に至りて下船。それから陸路を駕で山越えして麗水に至り、ここから再び船にて甌江を下り、永嘉に至った。
(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽桐盧→建徳→壽昌→蘭渓金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)都建康を出発して1か月かけて永嘉に到着する。

七里瀬 #1 謝霊運<16> 詩集 376

七里瀬 #1 謝霊運<16> 詩集 376


 この桐廬の付近の厳陵山の西には有名なる七里瀬の険があった。ここは両巌が約七里(中国里)にわたって、高い山がそびえ、その間に激洸が岩をtむという。日本でいえば天竜峡のそれである。上下する船にとっては非常に危険な場所であって、船をあやつる船頭も、乗客も、すこしも気の安まらざるものがあった。それだけに、景色も美しく、印象に強い場所でもあった。特に、生まれてはじめてここを通過した霊運にとっては、いかばかりであったろうか。心に重い憂いをいだきながらも、その美にいたく心を打たれたらしく、ここで「七里瀬」と題する詩を残しており、『文選』の巻二十六の「行旅」に引用されている。

(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)


七里瀨 #1
嚴陵山の西の七里灘
羈心積秋晨,晨積展遊眺。
旅情は秋の朝目覚めると心に積もるものであり、朝に愁いが積もっているとそぞろに眺めを遠く故郷にはせる。
孤客傷逝湍,徒旅苦奔峭。
孤独な旅人の私は、論語の于罕篇に見える「逝く川の早瀬の過ぎて返らぬ」のを見てすぎゆく時を悲しみ、旅人達は峭しい路に苦しむのであった。
石淺水潺湲,日落山照曜。
石の多い浅瀬に水音が響いている、日が落ちかかると山が照りかがやいている。
荒林紛沃若,哀禽相叫嘯。

荒れて寂しい林は入りみだれて茂っている、物悲しい鳥の声が叫び鳴き歌い競い合っている。

#2
遭物悼遷斥,存期得要妙。
既秉上皇心,豈屑末代誚。
目睹嚴子瀨,想屬任公釣。
誰謂古今殊,異代可同調。

#1
羈心【きしん】は秋晨【しゅうしん】に積り、晨に積りて遊眺【ゆうちょう】を展ばさんとす。
孤客は逝湍【せいたん】を傷み、徒旅は奔峭【ほんしょう】に苦しむ。
石浅くして水は潺湲【せんたん】たり、日落ちて山は照曜【しょうよう】す。
荒林【こうりん】紛として沃若【ようじゃく】たり、哀禽【あいきん】相い 叫嘯【きょうしょう】す。

#2
物に遭いて遷斥を悼【いた】み、期を存し要妙【ようにょう】を得たり。
既に上皇の心を秉【と】り、豈 末代の誚【そし】りを屑【いさぎよし】とせんや。
目のあたり厳子が瀬【らい】を睹【み】て、想いは任公の釣に属【ぞく】す。
誰か謂う古今【きんこ】殊【こと】なると、異代【いだい】も調べを同じくす可し。


現代語訳と訳註
(本文)
七里瀨 #1
羈心積秋晨,晨積展遊眺。
孤客傷逝湍,徒旅苦奔峭。
石淺水潺湲,日落山照曜。
荒林紛沃若,哀禽相叫嘯。


(下し文) #1
羈心【きしん】は秋晨【しゅうしん】に積り、晨に積りて遊眺【ゆうちょう】を展ばさんとす。
孤客は逝湍【せいたん】を傷み、徒旅は奔峭【ほんしょう】に苦しむ。
石浅くして水は潺湲【せんたん】たり、日落ちて山は照曜【しょうよう】す。
荒林【こうりん】紛として沃若【ようじゃく】たり、哀禽【あいきん】相い 叫嘯【きょうしょう】す。


(現代語訳)
嚴陵山の西の七里灘
旅情は秋の朝目覚めると心に積もるものであり、朝に愁いが積もっているとそぞろに眺めを遠く故郷にはせる。
孤独な旅人の私は、論語の于罕篇に見える「逝く川の早瀬の過ぎて返らぬ」のを見てすぎゆく時を悲しみ、旅人達は峭しい路に苦しむのであった。
石の多い浅瀬に水音が響いている、日が落ちかかると山が照りかがやいている。
荒れて寂しい林は入りみだれて茂っている、物悲しい鳥の声が叫び鳴き歌い競い合っている。


(訳注)七里瀨
七里瀬 一名七里灘。浙江省桐廬県、嚴陵山の西にあり、水流矢の如く、諺に、風有れば七里、風無ければ七十里と。舟を挽き上る困難をいう。


羈心積秋晨,晨積展遊眺。
旅情は秋の朝目覚めると心に積もるものであり、朝に愁いが積もっているとそぞろに眺めを遠く故郷にはせる。
羈心 旅情。 


孤客傷逝湍,徒旅苦奔峭。
孤独な旅人の私は、論語の于罕篇に見える「逝く川の早瀬の過ぎて返らぬ」のを見てすぎゆく時を悲しみ、旅人達は峭しい路に苦しむのであった。
傷逝湍 逝く水を悲しむ。湍は急流。論語于罕篇に「子在川上曰、逝者如斯夫。不舍晝夜。」(子川上に在りて曰く、逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎かず)と。川の流れと時の推移とはよく対比させられる。○徒旅 旅人なかま。徒は人数。 


石淺水潺湲,日落山照曜。
石の多い浅瀬に水音が響いている、日が落ちかかると山が照りかがやいている。
潺湲 水流の音。


荒林紛沃若,哀禽相叫嘯。
荒れて寂しい林は入りみだれて茂っている、物悲しい鳥の声が叫び鳴き歌い競い合っている。
紛沃若 入りみだれて茂っている。沃若は茂盛のさま。 

初往新安桐盧口 謝霊運<15>  詩集 378

初往新安桐盧口 謝霊運<15>  詩集 378

422年謝霊運38歳 船旅をつづけ、桐渓水を通過の際の詩。


(初めて新安の桐盧口に往く)

船旅を続けつつ、銭塘江をさかのぼること富陽から南西約五〇キロ、北西より流れ来る桐江、桐渓水との合流点に桐盧県がある。この近くに来てほっとしたのか、一首が口ずさまれている。それが「初めて新安の桐盧口に往く」の詩である。


初往新安桐盧口
初めて新安の桐盧口に往く。
絺綌雖凄其、授衣尚未至。
少し寒くなってきて、出発したときの服装が薄い葛の服であったので少し気になる。といっても冬用の着物にするというほどにはまだなっていない。
感節自己深、懐古亦云思。
季節の変わりにはいろんなことが浮かんでくる。行く秋を思うことは昔の人が詩に歌っているし、自分も同じように思うことなのだ。
不有千里棹、孰申百代意。
一気に千里進んでくれる舟棹などありはしないし、(この景色をみると)百の世代に受け継がれていく心を語ることもできはしない。
遠協尚子心、遙得許生計。
遠い昔の後漢の隠者、向長のことは私の助けになることだし、許詢のように隠遁してはかりごとをして過ごすということもあるかもしれない。
既及冷風善、又即秋水駛。
もうすっかり風が冷たくなってきて心地いいものだ。また同じように水の流れも秋を感じさせるものとなっている。
江山共開曠、雲日相照媚。
銭塘江の山々は色づき始めて広がってきている。雲や太陽の輝きはこれらのことに同調している。
景夕羣物清、封玩咸可憙。
夕方の景色はモノトーンになって万物を清らかなものにしてゆく、この自然の事象にもてあそばれることは誰も皆よろこぶべきことなのだ。

(初めて新安の桐盧口に往く)
絺綌【ちげき】は凄其【せいき】と雄ども、衣を授けしに尚お未だ至らず。
節に感じて自から己に探し、古えを懐い 亦た思いを云う。
千里の棹 有らずんば、孰【たれ】か百代の意を申べん。
遠く尚子の心に協【かな】い、遙かに許生の計を得たり。
既に冷風の善なるに及び、又た秋水の駛するに即す。
江山 共に曠を開き、雲日は相い照らして媚ぶ。
景夕 群物 清し、玩に対し咸【み】な憙ぶ可し。


現代語訳と訳註
(本文)

初往新安桐盧口
絺綌雖凄其、授衣尚未至。
感節自己深、懐古亦云思。
不有千里棹、孰申百代意。
遠協尚子心、遙得許生計。
既及冷風善、又即秋水駛。
江山共開曠、雲日相照媚。
景夕羣物清、封玩咸可憙。


(下し文)
(初めて新安の桐盧口に往く)
絺綌【ちげき】は凄其【せいき】と雄ども、衣を授けしに尚お未だ至らず。
節に感じて自から己に探し、古えを懐い 亦た思いを云う。
千里の棹 有らずんば、孰【たれ】か百代の意を申べん。
遠く尚子の心に協【かな】い、遙かに許生の計を得たり。
既に冷風の善なるに及び、又た秋水の駛するに即す。
江山 共に曠を開き、雲日は相い照らして媚ぶ。
景夕 群物 清し、玩に対し咸【み】な憙ぶ可し。


(現代語訳)
初めて新安の桐盧口に往く。
少し寒くなってきて、出発したときの服装が薄い葛の服であったので少し気になる。といっても冬用の着物にするというほどにはまだなっていない。
季節の変わりにはいろんなことが浮かんでくる。行く秋を思うことは昔の人が詩に歌っているし、自分も同じように思うことなのだ。
一気に千里進んでくれる舟棹などありはしないし、(この景色をみると)百の世代に受け継がれていく心を語ることもできはしない。
遠い昔の後漢の隠者、向長のことは私の助けになることだし、許詢のように隠遁してはかりごとをして過ごすということもあるかもしれない。
もうすっかり風が冷たくなってきて心地いいものだ。また同じように水の流れも秋を感じさせるものとなっている。
銭塘江の山々は色づき始めて広がってきている。雲や太陽の輝きはこれらのことに同調している。
夕方の景色はモノトーンになって万物を清らかなものにしてゆく、この自然の事象にもてあそばれることは誰も皆よろこぶべきことなのだ。


(訳注)
初往新安桐盧口

初めて新安の桐盧口に往く
銭塘江をさかのぼること富陽から南西約五〇キロ、北西より流れ来る桐江、桐渓水との合流点に桐盧県がある。ここの渡し場で泊まったのである。


絺綌雖凄其、授衣尚未至。
少し寒くなってきて、出発したときの服装が薄い葛の服であったので少し気になる。といっても冬用の着物にするというほどにはまだなっていない。
絺綌(チゲキ)を作る。 細糸とあら糸の葛布。 縫為絶國衣 縫ひて絶国の衣となし。薄い葛の服。○凄其 さむい。ひややか。すごい。其は語調を整えるための助辞。訓音ではよまないことがおおい。


感節自己深、懐古亦云思。
季節の変わりにはいろんなことが浮かんでくる。行く秋を思うことは昔の人が詩に歌っているし、自分も同じように思うことなのだ。


不有千里棹、孰申百代意。
一気に千里進んでくれる舟棹などありはしないし、(この景色をみると)百の世代に受け継がれていく心を語ることもできはしない
○千里棹 千里ひとかきの棹。○ 誰。○百代意 代々受け継ぐ一族の家訓・志。


遠協尚子心、遙得許生計。
遠い昔の後漢の隠者、向長のことは私の助けになることだし、許詢のように隠遁してはかりごとをして過ごすということもあるかもしれない。
○尚子 後漢の隠者、向長のこと。前漢末・後漢初の他人から食物を分けてもらいようやっと食いつなぎそれでも働かず好きな本を読んでいる生活をしていた人物。人の地位はおろか、生死まで見通す神眼を持っていたと言われる隠者。○許生 許詢のこと。 字は玄度。河間高陽(河北省保定市)の人。魏の中領軍許允の玄孫。父の許帰が司馬睿に従って南渡し、会稽内史とされて山陰に居した。外祖父の華軼は魏の華歆の曾孫で、西晋の江州刺史とされていたが、元帝への帰順を拒んで殺された。 許詢は会稽に隠棲して許徴士と称され、孫綽・支遁・謝安・王羲之らと親交して司馬昱とも交流があり、風情簡素・高情遠致と評された。清談・玄言詩の名手として孫綽と並称され、その五言詩は簡文帝に「時人に妙絶す」と絶賛されたが、玄言詩の域を出なかったことで後世の評も“道家に傾く”と概ね辛く、逆説的に当時の玄学の盛行を示している。『詩品』下。


既及冷風善、又即秋水駛。
もうすっかり風が冷たくなってきて心地いいものだ。また同じように水の流れも秋を感じさせるものとなっている。
秋水駛 はやくながれる。急流。


江山共開曠、雲日相照媚。
銭塘江の山々は色づき始めて広がってきている。雲や太陽の輝きはこれらのことに同調している。
 銭塘江。○ こびる。随う。同調する。


景夕羣物清、封玩咸可憙。
夕方の景色はモノトーンになって万物を清らかなものにしてゆく、この自然の事象にもてあそばれることは誰も皆よろこぶべきことなのだ。
景夕 夕方の景色。○羣物清 万物を清らかなものにしてゆく○封玩咸可憙 この自然の事象にもてあそばれることは誰も皆よろこぶべきことなのだ。

富春渚 #2 謝霊運<14> 詩集 377

富春渚 #2 謝霊運<14> 詩集 377


故郷の始寧で充分に精神的に、肉体的に休息した霊運は、未知の土地永嘉へと気重く出発する。永嘉に至るには海沿いに行くことも可能ではあるが、当時としては陸路を行くのがより安全であった。おそらく、永嘉から杭州に出て、富春へと旅をしたのであろう。喜寿は今の桐江のほとりにある富陽であるこの旅とてもけっして安楽な船旅ではなく、危険を冒してのものであったと、詩人は強調する巻二十六の「行旅」に引用される「富春の渚」の詩である。


(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)

a謝霊運永嘉ルート02

富春渚詩
#1
宵濟漁浦潭。旦及富春郭。
定山緬雲霧。赤亭無淹薄。
溯流觸驚急。臨圻阻參錯。
亮乏伯昏分。險過呂梁壑。
#2
洊至宜便習。兼山貴止托。
水があちこちから集まってくるこの場所は船の扱いを熟練することになる。そして山が連なっているので、ここからは船をおりて歩いていくことになる。
平生協幽期。淪躓困微弱。
いつもは、心ひそかに期してかなえたいと思っている、しかし途中でつまづき止めてしまう心の弱さを持っていることに困っている。
久露干祿請。始果遠遊諾。
長い間、官職に仕えて俸禄を受けることをしている、このたび初めて遠い彼の地に赴任することを承諾したのである。
宿心漸申寫。萬事俱零落。
かねてよりこころにおもっていることがしばらくのあいだ、鬱積したものが払われて心が伸びやかになるようにおもえる。まあすべてのことが草木が枯れ落ちるようになってしまうというのだろう。
懷抱既昭曠。外物徒龍蠖。

心に思い描くのは明らかで広いことなのだ、もう、自分の名誉や、名刹というものに対して、これから伸ばしていこうなんて思わず、縮んでいていいのである。

富春の渚#1
宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。
定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。
流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。
亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。
#2
洊りに至るは便習に宜しく、兼れる山には止託を貴ぶ。
平生 幽期を協げんとするも、淪躓けて微弱に困しめり。
久しく禄を干むるの請に露わせるに、始めて遠遊の諾を果たす。
宿心 漸く申ばし写しえて、万事 供に零落れぬ。
懐抱は既に昭曠として、外物は徒らに龍蠖【りょうかく】せり。

富春渚
現代語訳と訳註
(本文)  #2
洊至宜便習。兼山貴止托。
平生協幽期。淪躓困微弱。
久露干祿請。始果遠遊諾。
宿心漸申寫。萬事俱零落。
懷抱既昭曠。外物徒龍蠖。

(下し文) #2
洊りに至るは便習に宜しく、兼れる山には止託を貴ぶ。
平生 幽期を協げんとするも、淪躓けて微弱に困しめり。
久しく禄を干むるの請に露わせるに、始めて遠遊の諾を果たす。
宿心 漸く申ばし写しえて、万事 供に零落れぬ。
懐抱は既に昭曠として、外物は徒らに龍蠖【りょうかく】せり。


(現代語訳)
水があちこちから集まってくるこの場所は船の扱いを熟練することになる。そして山が連なっているので、ここからは船をおりて歩いていくことになる。
いつもは、心ひそかに期してかなえたいと思っている、しかし途中でつまづき止めてしまう心の弱さを持っていることに困っている。
長い間、官職に仕えて俸禄を受けることをしている、このたび初めて遠い彼の地に赴任することを承諾したのである。
かねてよりこころにおもっていることがしばらくのあいだ、鬱積したものが払われて心が伸びやかになるようにおもえる。まあすべてのことが草木が枯れ落ちるようになってしまうというのだろう。
心に思い描くのは明らかで広いことなのだ、もう、自分の名誉や、名刹というものに対して、これから伸ばしていこうなんて思わず、縮んでいていいのである。


(訳注)
洊至宜便習。兼山貴止托。

洊りに至るは便習に宜しく、兼れる山には止託を貴ぶ。
水があちこちから集まってくるこの場所は船の扱いを熟練することになる。そして山が連なっているので、ここからは船をおりて歩いていくことになる。
洊至 水があちこちから集まってくること。洊は仍なり。水の相よりていたり、かねて山嶮ありという。別の意味として、しきりに至る(災害・事件などが)つぎつぎにおこる。○便習 なれる。熟練する。○兼山 山が連なり、船で行けない。分水嶺。○止托 船に、船頭に託すことを止める。


平生協幽期。淪躓困微弱。
平生 幽期を協げんとするも、淪躓けて微弱に困しめり。
いつもは、心ひそかに期してかなえたいと思っている、しかし途中でつまづき止めてしまう心の弱さを持っていることに困っている。
幽期 心ひそかに期すること。淪躓 淪はさざなみ、しずむ、おちいる、ひきこむ。はつまずく、たおれる、さわる、しくじる。とどまる。


久露干祿請。始果遠遊諾。
久しく禄を干【もと】むるの請に露わせるに、始めて遠遊の諾を果たす。
長い間、官職に仕えて俸禄を受けることをしている、このたび初めて遠い彼の地に赴任することを承諾したのである。


宿心漸申寫。萬事俱零落。
宿心 漸く申ばし写しえて、万事 供に零落れぬ。
かねてよりこころにおもっていることがしばらくのあいだ、鬱積したものが払われて心が伸びやかになるようにおもえる。まあすべてのことが草木が枯れ落ちるようになってしまうというのだろう。
宿心 かねてよりこころにおもっていること。○申寫 鬱積したものが払われて心が伸びやかになること。○零落 おちぶれること。草木が枯れ落ちること。


懷抱既昭曠。外物徒龍蠖。
懐抱は既に昭曠として、外物は徒らに龍蠖【りょうかく】せり。
心に思い描くのは明らかで広いことなのだ、もう、自分の名誉や、名刹というものに対して、これから伸ばしていこうなんて思わず、縮んでいていいのである。
懷抱 懐に抱く。見識。思い考えること。○昭曠 あきらかでひろい。○外物 富貴名刹。○龍蠖 龍と尺取虫。伸び様としてちぢこまること。
ishibashi00

富春渚 #1 謝霊運<14> 詩集 376

富春渚 #1 謝霊運<14> 376

故郷の始寧で充分に精神的に、肉体的に休息した霊運は、未知の土地永嘉へと気重く出発する。永嘉に至るには海沿いに行くことも可能ではあるが、当時としては陸路を行くのがより安全であった。おそらく、永嘉から杭州に出て、富春へと旅をしたのであろう。喜寿は今の桐江のほとりにある富陽であるこの旅とてもけっして安楽な船旅ではなく、危険を冒してのものであったと、詩人は強調する巻二十六の「行旅」に引用される「富春の渚」の詩である。

(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)
 
富春渚詩 #1
宵濟漁浦潭。旦及富春郭。
わたしは夕方、漁浦の渡し場から船出した。夜どおし船旅をして、明け方、富春の街に着いた。
定山緬雲霧。赤亭無淹薄。
分水嶺の定山はまだまだ雲霧の向こうで遙かに遠い、富陽の花街の赤亭に泊まることはしない。
溯流觸驚急。臨圻阻參錯。
流れは急でそれをさかのぼる巌にせっそく接触したり、驚くような目に何度もあう、船を接岸できそうな岸へ寄せようとするのだが水流の出入りによってなかなか寄せられない。
亮乏伯昏分。險過呂梁壑。

私はあきらかに物に動じないことという心構えにはとぼしいものである、嶮しいといっても黄河随一の難関、呂梁幕府のある谷ほどのものではないので経過していく。

#2
洊至宜便習。兼山貴止托。
平生協幽期。淪躓困微弱。
久露干祿請。始果遠遊諾。
宿心漸申寫。萬事俱零落。
懷抱既昭曠。外物徒龍蠖。

富春の渚#1
宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。
定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。
流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。
亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。

#2
洊りに至るは便習に宜しく、兼れる山には止託を貴ぶ。
平生 幽期を協げんとするも、淪躓けて微弱に困しめり。
久しく禄を干むるの請に露わせるに、始めて遠遊の諾を果たす。
宿心 漸く申ばし写しえて、万事 供に零落れぬ。
懐抱は既に昭曠として、外物は徒らに龍蠖【りょうかく】せり。

富春渚
現代語訳と訳註 #1
(本文)
富春渚詩
#1
宵濟漁浦潭。旦及富春郭。
定山緬雲霧。赤亭無淹薄。
溯流觸驚急。臨圻阻參錯。
亮乏伯昏分。險過呂梁壑。


(下し文) 富春の渚#1
宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。
定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。
流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。
亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。


(現代語訳)
わたしは夕方、漁浦の渡し場から船出した。夜どおし船旅をして、明け方、富春の街に着いた。
分水嶺の定山はまだまだ雲霧の向こうで遙かに遠い、富陽の花街の赤亭に泊まることはしない。
流れは急でそれをさかのぼる巌にせっそく接触したり、驚くような目に何度もあう、船を接岸できそうな岸へ寄せようとするのだが水流の出入りによってなかなか寄せられない。
私はあきらかに物に動じないことという心構えにはとぼしいものである、嶮しいといっても黄河随一の難関、呂梁幕府のある谷ほどのものではないので経過していく。


(訳注)
富春渚
 
銭塘江の河口より40~50km上流の街。前221年、秦朝は現在の富陽、建徳、桐廬を含む地域に富春県を設置した。9年(始建国元年)、新朝を建てた王莽により誅歳県と改称されたが、後漢になると再び富春県に戻されている。225年(黄武4年)、呉は富春県の一部に建徳県、新昌県を、翌年には新登県を設置している。394年(太元19年)、東晋は簡文帝の生母宣太后の諱が鄭阿春であったことより、同字を避けるべく富陽県と改称している。

(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)
a謝霊運永嘉ルート02

宵濟漁浦潭。旦及富春郭。
宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。
わたしは夕方、漁浦の渡し場から船出した。夜どおし船旅をして、明け方、富春の街に着いた。


定山緬雲霧。赤亭無淹薄。
定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。
分水嶺の定山はまだまだ雲霧の向こうで遙かに遠い、富陽の花街の赤亭に泊まることはしない。
定山 浙江省温州に入る際の当面の目標の分水嶺の山


溯流觸驚急。臨圻阻參錯。
流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。
流れは急でそれをさかのぼる巌にせっそく接触したり、驚くような目に何度もあう、船を接岸できそうな岸へ寄せようとするのだが水流の出入りによってなかなか寄せられない。
 へり、きし。碕は曲岸頭なりと。碕は圻と通ず。


亮乏伯昏分。險過呂梁壑。
亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。
私はあきらかに物に動じないことという心構えにはとぼしいものである、嶮しいといっても黄河随一の難関、呂梁幕府のある谷ほどのものではないので経過していく。

過始寧墅 謝霊運<13> #2 詩集 375

過始寧墅 謝霊運<13> #2 詩集 375
(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)

近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場までおくりだしてくれた。
謝霊運は建康から船に乗り、無量の感慨にふけりつつ、みなれた長江を下り、永嘉への道からすこしく離れた故郷の始牢に、しばしの別れを告げるために立ち寄った。ここは、前述のごとく、霊運の生まれた土地であり、父祖を葬った地であり、名族謝氏の棍拠地であった。今、寂しく流されてゆく者にとっては、盛んであった昔を思い、感慨無量のものがあったことであろう。
その気持を歌ったのが『過始寧墅』(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)で、『文選』の巻二十六の「行旅」に撰ばれてる。38歳


過始寧墅
#1
束髪懷耿介、逐物遂推遷。違志似如昨、二紀及玆年。
 緇磷謝清曠、疲薾慙貞堅。拙疾相倚薄、還得静者便。
 剖竹守滄海、枉帆過舊山。
#2
山行窮登頓、水渉盡洄沿。
山路というものは、登り降りの限りをきわめめかくごして行くものだ、大川を渡るということは、その流れの上り下り川のかがりくねりを知りつく行くものである。
巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
巌は険しく、嶺は幾重にも繁って重なり、川の中洲を回りめぐって長くなぎさは続いている。
白雲抱幽石、緑篠媚清漣。
白雲は物さびて静かな石を抱いているようであり、緑の篠竹が清らかな漣に媚びるように揺れなびいている。まことに美しい景色である。
葺宇臨迴江、築観基曾巓。
私の別荘は、曲がりこんだ川の入り江に臨んで屋根を葺き、重なる山の頂を土台として見晴らしの楼台を築き、眺望を楽しむによい建物である。
揮手告郷曲、三載期歸旋。
しかし今は赴任の途中であるため、まもなく近所の里人に手をあげて別れを告げ、三年たてば帰って来ると約束したのである。
且爲樹枌檟、無令孤願言。
とりあえず私のために、枌(にれ)と檟(ひさぎ)の木を墳墓に樹えて、私のやがてこの地に帰って生涯を終えたいという願いにそむかないで、必ずかなえさせてほしいのである。

(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)
束髪【そくはつ】より耿介【こうかい】を懐【いだ】けるも、物を逐【お】い遂に推し遷【うつ】る。
志に違うこと昨の如きに似たるも、二紀【にき】茲【こ】の年に及ぶ。
緇磷【しりん】は清曠【せいこう】を謝【しゃ】し、疲薾【ひでつ】てて貞堅【ていけん】に慙【は】ず。
拙と疾と相い倚薄【いはく】して、還【かえ】って静者の便を得たり。
竹を剖【さ】いて滄海に守たり、帆を枉げて旧山を過【よぎ】る。

山行し 登頓【とうとん】を窮め、水渉【すいしょう】は洄沿【かいえん】を尽くせり。
巌【いわお】は峭【けわ】しく嶺は稠疊【ちゅうじゅう】し、洲【しま】は縈【めぐ】りて渚は連綿たり。
白き雲は幽石【ゆうせき】を抱き、縁篠【りょくじょう】清漣【せいれん】に媚【こび】びたり。
字【う】を葺【ふ】き廻江【かいこう】に臨み、観【かん】を築き曾巓【そうてん】に基づく。
手を揮い郷曲【きょうきょく】に告げ、三載にして帰旋【きせん】を期す。
且く為に枌檟【ふんか】とを樹えよ、願言【がんげん】に孤【そむ】か令むる無かれ。


(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)


現代語訳と訳註
(本文) #2
山行窮登頓、水渉盡洄沿。
巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
白雲抱幽石、緑篠媚清漣。
葺宇臨迴江、築観基曾巓。
揮手告郷曲、三載期歸旋。
且爲樹枌檟、無令孤願言。


(下し文) (始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)
山行し 登頓【とうとん】を窮め、水渉【すいしょう】は洄沿【かいえん】を尽くせり。
巌【いわお】は峭【けわ】しく嶺は稠疊【ちゅうじゅう】し、洲【しま】は縈【めぐ】りて渚は連綿たり。
白き雲は幽石【ゆうせき】を抱き、縁篠【りょくじょう】清漣【せいれん】に媚【こび】びたり。
字【う】を葺【ふ】き廻江【かいこう】に臨み、観【かん】を築き曾巓【そうてん】に基づく。
手を揮い郷曲【きょうきょく】に告げ、三載にして帰旋【きせん】を期す。
且く為に枌檟【ふんか】とを樹えよ、願言【がんげん】に孤【そむ】か令むる無かれ。



(現代語訳)
山路というものは、登り降りの限りをきわめめかくごして行くものだ、大川を渡るということは、その流れの上り下り川のかがりくねりを知りつく行くものである。
巌は険しく、嶺は幾重にも繁って重なり、川の中洲を回りめぐって長くなぎさは続いている。
白雲は物さびて静かな石を抱いているようであり、緑の篠竹が清らかな漣に媚びるように揺れなびいている。まことに美しい景色である。
私の別荘は、曲がりこんだ川の入り江に臨んで屋根を葺き、重なる山の頂を土台として見晴らしの楼台を築き、眺望を楽しむによい建物である。
しかし今は赴任の途中であるため、まもなく近所の里人に手をあげて別れを告げ、三年たてば帰って来ると約束したのである。
とりあえず私のために、枌(にれ)と檟(ひさぎ)の木を墳墓に樹えて、私のやがてこの地に帰って生涯を終えたいという願いにそむかないで、必ずかなえさせてほしいのである。

宮島(5)

(訳注)#2
山行窮登頓、水渉盡洄沿。
山路というものは、登り降りの限りをきわめめかくごして行くものだ、大川を渡るということは、その流れの上り下り川のかがりくねりを知りつく行くものである。
登頓 登り降り。○削沿 さかのぼるを駆、順い下るを沿という。沈徳潜はいう「登頓回沿は山水に遊ぶに老れたる者に非ずんば知らず」と。
 

巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
巌は険しく、嶺は幾重にも繁って重なり、川の中洲を回りめぐって長くなぎさは続いている。
巌峭 巌はそそりたち険しい。○稠疊 しげくかさなる。


白雲抱幽石、緑篠媚清漣。
白雲は物さびて静かな石を抱いているようであり、緑の篠竹が清らかな漣に媚びるように揺れなびいている。まことに美しい景色である。
 ささ。小竹。 ○清漣 清らかなさざなみ。 


葺宇臨迴江、築観基曾巓。
私の別荘は、曲がりこんだ川の入り江に臨んで屋根を葺き、重なる山の頂を土台として見晴らしの楼台を築き、眺望を楽しむによい建物である。
葺宇 家の屋根を葺く。○築観 見晴らしのきく高殿を築く。○基層轍 重なる高嶺を土台にする。


揮手告郷曲、三載期歸旋。
しかし今は赴任の途中であるため、まもなく近所の里人に手をあげて別れを告げ、三年たてば帰って来ると約束したのである。
揮手。てを挙げ。○郷曲 片田舎。曲はかたよったところ。近所の里人。三載 足かけ三年。○期歸旋 帰ってくるとい約束。

且爲樹枌檟、無令孤願言。
とりあえず私のために、枌(にれ)と檟(ひさぎ)の木を墳墓に樹えて、私のやがてこの地に帰って生涯を終えたいという願いにそむかないで、必ずかなえさせてほしいのである。
○樹枌檟 枌(にれ・白楡:『詩経』「楡白枌」)と檟(ひさぎ)両方とも覆い被さるように茂る。墳墓を守るという意味。「始め季孫己のために六檟を東門の外に樹う」と。檟は自ら棺と為らんと欲するなり」と。○孤朗言 願いにそむく。孤はそむく。言は肋字。 




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巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
白雲抱幽石、緑篠媚清漣。

永嘉に行く前に寸暇を得て故郷に立ち寄ったときの美しきを感慨をこめて歌う。すなわち、登った山、過ぎた川、遠くに望んだ山、見た水辺、空に浮かぶ雲、川辺の篠、進かなる民家、まさに平和につつまれた風景であり、一幅の絵のようである。この部分が後世、謝霊運の山水詩といわれるものである。しかし洒落運はこの詩において、この部分がその主体としたのではない。謝霊運の湧き出ずる感情を歌うための添えものであるからいいのである。この美しい故郷に、三年したら帰って来るよ、とその句末で歌っている。

故郷の始寧で充分に精神的に、肉体的に休息した謝霊運は、未知の土地永嘉へと気重く出発する。永嘉に至るには海沿いに行くことも可能ではあるが、当時としては陸路を行くのがより安全であった。おそらく、永嘉から杭州に出て、富春へと旅をしたのであろう。喜寿は今の桐江のほとりにある富陽『富春渚』である。

過始寧墅 謝霊運<13> #1 詩集 374

過始寧墅 謝霊運<13> #1 詩集 374

近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場までおくりだしてくれた。
謝霊運は建康から船に乗り、無量の感慨にふけりつつ、みなれた長江を下り、永嘉への道からすこしく離れた故郷の始牢に、しばしの別れを告げるために立ち寄った。ここは、前述のごとく、霊運の生まれた土地であり、父祖を葬った地であり、名族謝氏の棍拠地であった。今、寂しく流されてゆく者にとっては、盛んであった昔を思い、感慨無量のものがあったことであろう。
その気持を歌ったのが『過始寧墅』(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)で、『文選』の巻二十六の「行旅」に撰ばれてる。38歳

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過始寧墅#1
束髪懷耿介、逐物遂推遷。
髪を結い元服して朝廷に仕える身となって以來、潔白で堅い節操を守ってきたつもりであった、自分以外の物に引かれてしまうとか、物事にかこつけて引き延ばしてしまうということで過ぎてしまった。
違志似如昨、二紀及玆年。
心ならずも、このような生活に入ったのは、つい昨日のように思えるのに、二十四年も過ぎてこの年になった。
緇磷謝清曠、疲薾慙貞堅。
本性の白い色も黒く染まり、堅い石も磨り減って薄くなるように、私の心が俗事のために汚れて磨り切れてしまったことを、清らかにむなしく広い心の人物に対して謝まり、また疲れ切って心も弱くなってしまったことを、己がみさおを正しく堅く守っている人に対して慙じるのである。
拙疾相倚薄、還得静者便。
それでも世渡りの下手なことと病気とが相寄り一緒になって、閑職に任ぜられたことが、かえってそのために静かに人間の本性を求めるための方使を得るという結果になったのである。 
剖竹守滄海、枉帆過舊山。

竹の割符を剖き与えられ、海岸の地方の永嘉の太守に任ぜられて赴任する途中で、舟の帆の行く手を枉げて、私は故郷に立ち寄ることにした。


#2
 山行窮登頓、水渉盡洄沿。
 巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
 白雲抱幽石、緑篠媚清漣。
 葺宇臨迴江、築観基曾巓。
 揮手告郷曲、三載期歸旋。
 且爲樹枌檟、無令孤願言。

(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)
束髪【そくはつ】より耿介【こうかい】を懐【いだ】けるも、物を逐【お】い遂に推し遷【うつ】る。
志に違うこと昨の如きに似たるも、二紀【にき】茲【こ】の年に及ぶ。
緇磷【しりん】は清曠【せいこう】を謝【しゃ】し、疲薾【ひでつ】てて貞堅【ていけん】に慙【は】ず。
拙と疾と相い倚薄【いはく】して、還【かえ】って静者の便を得たり。
竹を剖【さ】いて滄海に守たり、帆を枉げて旧山を過【よぎ】る。

山行し 登頓【とうとん】を窮め、水渉【すいしょう】は洄沿【かいえん】を尽くせり。
巌【いわお】は峭【けわ】しく嶺は稠疊【ちゅうじゅう】し、洲【しま】は縈【めぐ】りて渚は連綿たり。
白き雲は幽石【ゆうせき】を抱き、縁篠【りょくじょう】清漣【せいれん】に媚【こび】びたり。
字【う】を葺【ふ】き廻江【かいこう】に臨み、観【かん】を築き曾巓【そうてん】に基づく。
手を揮い郷曲【きょうきょく】に告げ、三載にして帰旋【きせん】を期す。
且く為に枌檟【ふんか】とを樹えよ、願言【がんげん】に孤【そむ】か令むる無かれ。

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過始寧墅
現代語訳と訳註
(本文)
#1
束髪懷耿介、逐物遂推遷。
違志似如昨、二紀及玆年。
緇磷謝清曠、疲薾慙貞堅。
拙疾相倚薄、還得静者便。
剖竹守滄海、枉帆過舊山。


(下し文)
(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)
束髪【そくはつ】より耿介【こうかい】を懐【いだ】けるも、物を逐【お】い遂に推し遷【うつ】る。
志に違うこと昨の如きに似たるも、二紀【にき】茲【こ】の年に及ぶ。
緇磷【しりん】は清曠【せいこう】を謝【しゃ】し、疲薾【ひでつ】てて貞堅【ていけん】に慙【は】ず。
拙と疾と相い倚薄【いはく】して、還【かえ】って静者の便を得たり。
竹を剖【さ】いて滄海に守たり、帆を枉げて旧山を過【よぎ】る。


(現代語訳)
髪を結い元服して朝廷に仕える身となって以來、潔白で堅い節操を守ってきたつもりであった、自分以外の物に引かれてしまうとか、物事にかこつけて引き延ばしてしまうということで過ぎてしまった。
心ならずも、このような生活に入ったのは、つい昨日のように思えるのに、二十四年も過ぎてこの年になった。
本性の白い色も黒く染まり、堅い石も磨り減って薄くなるように、私の心が俗事のために汚れて磨り切れてしまったことを、清らかにむなしく広い心の人物に対して謝まり、また疲れ切って心も弱くなってしまったことを、己がみさおを正しく堅く守っている人に対して慙じるのである。
それでも世渡りの下手なことと病気とが相寄り一緒になって、閑職に任ぜられたことが、かえってそのために静かに人間の本性を求めるための方使を得るという結果になったのである。 
竹の割符を剖き与えられ、海岸の地方の永嘉の太守に任ぜられて赴任する途中で、舟の帆の行く手を枉げて、私は故郷に立ち寄ることにした。


(訳注)
過始寧墅 
#1
過姶寧墅 浙江省上虞県の別墅に立ち寄る。謝霊運の父祖の墓や故宅がある。墅は田野の中の居所。別業。


束髪懷耿介、逐物遂推遷。
髪を結い元服して朝廷に仕える身となって以來、潔白で堅い節操を守ってきたつもりであった、自分以外の物に引かれてしまうとか、物事にかこつけて引き延ばしてしまうということで過ぎてしまった。
束髪 髪を結い元服して朝廷に仕える。成人。 ○耿介 ①かたく志を守ること。 ②徳が光り輝いて偉大なさま。 裏表なく節燥の固いこと。○逐物 自分以外の物に引かれる。志を枉げることがない。○推遷 物事にかこつけて引き延ばす。推し遷る。38歳の時の作


違志似如昨、二紀及玆年。
心ならずも、このような生活に入ったのは、つい昨日のように思えるのに、二十四年も過ぎてこの年になった。
違志 平素の志にそむく。○二紀二十四年。一紀は十二年。二十歳で成人して24歳を単純にプラスすると44歳になるが、二回目の紀を迎えている。詩的表現では一紀12年、38歳-20歳-12歳=6歳 一紀12年の半分を超えていれば二紀と表現する。


緇磷謝清曠、疲薾慙貞堅。
本性の白い色も黒く染まり、堅い石も磨り減って薄くなるように、私の心が俗事のために汚れて磨り切れてしまったことを、清らかにむなしく広い心の人物に対して謝まり、また疲れ切って心も弱くなってしまったことを、己がみさおを正しく堅く守っている人に対して慙じるのである。
緇磷【しりん】 黒くなることと、薄くなること。世俗のためにその節操を誤ること。『諭語、陽賈』「ふ曰堅乎、磨而不磷。不曰白乎、涅而不緇。」(堅きを曰はずや、磨すれども磷【うすろ】がざる。白きを曰はずや、涅すれども緇【くろ】まざる。)と。○謝清啖 心が清く物にこだわらず広くむなしい人に、謝まり、中し訳なく思う。○疲薾【ひでつ】 疲れ切って心も弱くなったこと。○貞堅【ていけん】 みさおを正しく堅く守る人。


拙疾相倚薄、還得静者便。
それでも世渡りの下手なことと病気とが相寄り一緒になって、閑職に任ぜられたことが、かえってそのために静かに人間の本性を求めるための方使を得るという結果になったのである。 
拙疾椙倚薄 役人としての世渡りが下手なのと病気とが相寄り一緒になり、閑職にある。薄はくっつく。 


剖竹守滄海、枉帆過舊山。
竹の割符を剖き与えられ、海岸の地方の永嘉の太守に任ぜられて赴任する途中で、舟の帆の行く手を枉げて、私は故郷に立ち寄ることにした。
剖竹 郡守どなること。漢の制度では、竹の節を割って片方を使いに持たせて証拠とした。○滄海 永嘉郡、海に臨む地方。自分が隠棲したいと思っているところ。○柱帆 舟路をまげる。○過旧山 故郷に立ち寄る。 

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<12> 鄰里相送至方山 詩集 373

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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<12> 鄰里相送至方山 詩集 373

(鄰里相【あい】送って方山【ほうざん】に至る)

鄰里相送至方山
近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場に至る。
祗役出皇邑,相期憩甌越。
わたしは遠国を守る役目をつつしみ帝都建業を出て、甌越の永嘉郡に行って休息しようと心にきめていた。
解纜及流潮,懷舊不能發。
船の艫綱を解いて、長江の流れる潮に及んでも、旧知の人々を懐って出発することができない。
析析就衰林,皎皎明秋月。
木樹の間をサアッと吹き鳴る風が枯れた林をとおりぬけ、こうこうと白く輝いて秋の月が明るくてらす。
含情易為盈,遇物難可歇。
別離の悲しい心の内を口には出さないが胸に一杯になりやすくなっている、この風物に遇っては言わずにやめることは出来にくい。
積痾謝生慮,寡欲罕所闕。
積る病気のためにとか、生存のためとかいって、こいねがう気持ちをも捨てている、もともと欲望はもとからないので、不足を覚えることはほとんどない。
資此永幽棲,豈伊年歲別。
これを力にして永久に世を捨てて静かに隠居しようと思う。どうしてまた会うこともあろうというのに、これが千歳の長い別れであろうか。
各勉日新志,音塵慰寂蔑。
各人日々に新たに進歩するように道に努めて志し、時には音信をして、寂しく孤独な私を尉さめて欲しい。


(鄰里相【あい】送って方山【ほうざん】に至る)
役を祗【つつ】みて皇邑【こういう】を出で、相い期して甌越【おうrつ】に憩【いこ】う。
濃を解いて流れる潮に及ばんとするも、旧を懐いて発する能わず。
析折【せきせき】として衰林【すいりん】に就【つ】き、皎皎【こうこう】として秋月【しゅうげつ】明かなり。
情を含んで盈つるを為し易く、物に遇いて歇む可きこと難し。
積疴【せきあ】もて生慮【せいりょ】を謝【しゃ】し、寡欲【かよく】闕【か】くる所 罕【まれ】なり。
此に資【よ】りて永く幽棲【ゆうせい】せん、豈に伊【こ】れ年歳の別れならんや。
各々日新の志に勉【つと】め、音塵【おんじん】寂蔑【せきべつ】を慰めよ。



現代語訳と訳註
(本文)

祗役出皇邑,相期憩甌越。
解纜及流潮,懷舊不能發。
析析就衰林,皎皎明秋月。
含情易為盈,遇物難可歇。
積痾謝生慮,寡欲罕所闕。
資此永幽棲,豈伊年歲別。
各勉日新志,音塵慰寂蔑。

(下し文) (鄰里相【あい】送って方山【ほうざん】に至る)

役を祗【つつ】みて皇邑【こういう】を出で、相い期して甌越【おうrつ】に憩【いこ】う。
濃を解いて流れる潮に及ばんとするも、旧を懐いて発する能わず。
析折【せきせき】として衰林【すいりん】に就【つ】き、皎皎【こうこう】として秋月【しゅうげつ】明かなり。
情を含んで盈つるを為し易く、物に遇いて歇む可きこと難し。
積疴【せきあ】もて生慮【せいりょ】を謝【しゃ】し、寡欲【かよく】闕【か】くる所 罕【まれ】なり。
此に資【よ】りて永く幽棲【ゆうせい】せん、豈に伊【こ】れ年歳の別れならんや。
各々日新の志に勉【つと】め、音塵【おんじん】寂蔑【せきべつ】を慰めよ。


(現代語訳)
近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場に至る。
わたしは遠国を守る役目をつつしみ帝都建業を出て、甌越の永嘉郡に行って休息しようと心にきめていた。
船の艫綱を解いて、長江の流れる潮に及んでも、旧知の人々を懐って出発することができない。
木樹の間をサアッと吹き鳴る風が枯れた林をとおりぬけ、こうこうと白く輝いて秋の月が明るくてらす。
別離の悲しい心の内を口には出さないが胸に一杯になりやすくなっている、この風物に遇っては言わずにやめることは出来にくい。
積る病気のためにとか、生存のためとかいって、こいねがう気持ちをも捨てている、もともと欲望はもとからないので、不足を覚えることはほとんどない。
これを力にして永久に世を捨てて静かに隠居しようと思う。どうしてまた会うこともあろうというのに、これが千歳の長い別れであろうか。
各人日々に新たに進歩するように道に努めて志し、時には音信をして、寂しく孤独な私を尉さめて欲しい。


(訳注)
鄰里相送至方山

近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場に至る。
方山 江蘇省江寧県東五十里 (87km) 。280年(太康元年)、西晋により秣陵県より分割設置された臨江県を前身とする。翌年江寧県と改称された。 ○鄰里相送 近所の人が自分を送る。


祗役出皇邑,相期憩甌越。
わたしは遠国を守る役目をつつしみ帝都建業を出て、甌越の永嘉郡に行って休息しようと心にきめていた。
祗役 役をつつしむ。遠国を守る役目を大切に思う。○皇邑 帝都建業。(後、南京)○相期 心にきめる。 ○甌越 永嘉郡。古の東越の都。越の別名。 


解纜及流潮,懷舊不能發。
船の艫綱を解いて、長江の流れる潮に及んでも、旧知の人々を懐って出発することができない。


析析就衰林,皎皎明秋月。
木樹の間をサアッと吹き鳴る風が枯れた林をとおりぬけ、こうこうと白く輝いて秋の月が明るくてらす。
析析 風が木を吹く音。○皎皎 白く輝くさま。


含情易為盈,遇物難可歇。
別離の悲しい心の内を口には出さないが胸に一杯になりやすくなっている、この風物に遇っては言わずにやめることは出来にくい。
含情 別れの心情を口に出さず心に思う。


積痾謝生慮,寡欲罕所闕。
積る病気のためにとか、生存のためとかいって、こいねがう気持ちをも捨てている、もともと欲望はもとからないので、不足を覚えることはほとんどない。
○叙絢 久しい病気。 ○謝生慮 生存のための顧慮。○所闘 不満足なこと。 


資此永幽棲,豈伊年歲別。
これを力にして永久に世を捨てて静かに隠居しようと思う。どうしてまた会うこともあろうというのに、これが千歳の長い別れであろうか。
千歳別 千歳の長い別れ。


各勉日新志,音塵慰寂蔑。
各人日々に新たに進歩するように道に努めて志し、時には音信をして、寂しく孤独な私を尉さめて欲しい。
日新志 日々に徳を新たに修養する志。周易に「日々に其の徳を新たにす」と。
音塵 音信。消息。 ○寂蔑 寂しい孤独。蔑は無。一に「寂滅」に作る。


この詩は、悲しげに別れの歌を歌う。孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 永初三年七月十六日之郡初発都 詩集 370、晩夏には都を出発しようと準備をしていたが、なかなか去りがたく、ぐずぐずしているうちに秋となってしまったが、それでも別れがたいと、別離の情を実に巧みに歌う。そして、「積痾」とは持病のことで、謝霊運は若いときからあまりじょうぶではなかったことをいう。それゆえ、すでに長生きのできないことを意識していたらしい。
しかし、欲望も少ないので、心に不満も少ないと唱うのは、彼の行為からみると、他人にははなはだしく理解しがたい。心のの奥底に隠棲の気持ちを持ちつづけることが、野心、謙信さの薄さを感じさせ、当時の高級官僚に理解のできないことであったのであろう。

単に、金持の気ままなわがままな謝霊運という説もあるが、そうではないとおもっている。ここにも彼に不幸を生じさせた原因の一つがあったと思う。何年いっていなければならないかもしれぬ永嘉での生活の寂しさと不安を、悲しげに親友たちに告げている。永嘉は瘴癘の地なのである。そして、この悲しみを慰めるために手紙ぐらいはください、と結んでいる。が、謝霊運の左遷されてゆく苦しさ、悲しさを、実に巧みに歌っている。中国の知識人はこのようなことを多く経験しているのである。上が変われば、それまでのものはすべて左遷されるものである。
門閥貴族政治には明日には左遷というものがついて回った。しかし謝霊運は詩文にすることで多くの人々に理解をされたのである。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<11> 永初三年七月十六日之郡初発都 #3 詩集 372

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<11> 永初三年七月十六日之郡初発都 #3 詩集 372
422年38歳
(永初三年七月十六日郡に之かんとし、初めて都を発す)

永初三年七月十六日之郡初発都#3
生幸休明世、親蒙英達顧。
さいわいに太平の時代に生まれた、盧陵王という英雄に親しく使えることができた。
空班趙氏璧、徒乖魏王瓠。
空しく趙氏の持っていた「和氏の璧」とよばれる宝玉を、秦の昭王が十五の城を連ねて交換したいと申し出たということがあったし、ただいたずらに「魏王の瓠」をつまらぬものだとしたがそうではなくもっと工夫を凝らさないといけないのだ。
従来漸二紀、姶得傍歸路。
そんなことがありながらも、24年経過してきた、初めて故郷に帰るということができることになったのだ。
將窮山海迹、永絶賞心唔。

そして、隠棲して山や海に遊ぶことををまさに極めたいとおもってるし、長く心にある隠遁にあこがれる気持ちはなくなることはない。

#3
幸いに休明【たいへい】の世に生まれ、親しく英達の顧を蒙り。
空しく趙氏の璧に班せしに、徒らに魏王の瓠【こ】に乖【そむ】くこととなれり。
従り来たりて漸【ようや】く二紀にして、始めて帰路に傍【そ】うを得たり。
将に山海の泣【あと】を窮めんとし
永く賞心【こころにかなう】隨【むか】うを絶たんとす。



永初三年七月十六日之郡初発都 現代語訳と訳註
(本文) #3

生幸休明世、親蒙英達顧。
空班趙氏璧、徒乖魏王瓠。
従来漸二紀、姶得傍歸路。
將窮山海迹、永絶賞心唔。


(下し文) #3
幸いに休明【たいへい】の世に生まれ、親しく英達の顧を蒙り。
空しく趙氏の璧に班せしに、徒らに魏王の瓠【こ】に乖【そむ】くこととなれり。
従り来たりて漸【ようや】く二紀にして、始めて帰路に傍【そ】うを得たり。
将に山海の泣【あと】を窮めんとし
永く賞心【こころにかなう】隨【むか】うを絶たんとす。


(現代語訳)
さいわいに太平の時代に生まれた、盧陵王という英雄に親しく使えることができた。
空しく趙氏の持っていた「和氏の璧」とよばれる宝玉を、秦の昭王が十五の城を連ねて交換したいと申し出たということがあったし、ただいたずらに「魏王の瓠」をつまらぬものだとしたがそうではなくもっと工夫を凝らさないといけないのだ。
そんなことがありながらも、24年経過してきた、初めて故郷に帰るということができることになったのだ。
そして、隠棲して山や海に遊ぶことををまさに極めたいとおもってるし、長く心にある隠遁にあこがれる気持ちはなくなることはない。


(訳注)
生幸休明世、親蒙英達顧。
幸いに休明【たいへい】の世に生まれ、親しく英達の顧を蒙り。
さいわいに太平の時代に生まれた、盧陵王という英雄に親しく使えることができた。


空班趙氏璧、徒乖魏王瓠。
空しく趙氏の璧に班せしに、徒らに魏王の瓠【こ】に乖【そむ】くこととなれり。
空しく趙氏の持っていた「和氏の璧」とよばれる宝玉を、秦の昭王が十五の城を連ねて交換したいと申し出たということがあったし、ただいたずらに「魏王の瓠」をつまらぬものだとしたがそうではなくもっと工夫を凝らさないといけないのだ
趙氏  趙の恵文王。在位前298~前266。○ 連城璧のこと。趙の恵文王の持っていた「和氏の璧」とよばれる宝玉を、秦の昭王が十五の城を連ねて交換したいと申し出たという故事。『史記』廉頗藺相如列伝に見える。○魏王瓠 荘子『逍遥遊第一』「惠子謂莊子曰: 魏王貽我大瓠之種,我樹之成而實五石。」(恵子、荘子に謂いて曰く、魏王、我に大瓠の種を貽る。
 我之を樹うるに成りて五石を実る。以て水漿を盛れば、其の堅きこと自ら挙ぐる能わず。之を剖きて以て瓢と為さば、則ち瓠落して容る所無し。)
恵子が親友の荘子(荘周)に言う。「魏王が僕に『ひょうたんの種』をくれた。僕がこれを植えたら、成長して『五石も入るでっかいひょうたん』が実った。でも、その『ひょうたん』は水を入れても堅くないから中身が漏れ、持ち上げたら壊れてしまう。『ひょうたん』を切って『ひしゃく』にしてもボロボロに欠け、多くの水は汲めない。素晴らしい『大きなひょうたん』でも役に立たなかった。だから、打ち砕いた」とし、最後には、水を入れることばかり考えないで、水に浮べば浮き輪として役立つものだ、という教えである。


従来漸二紀、姶得傍歸路。
従り来たりて漸【ようや】く二紀にして、始めて帰路に傍【そ】うを得たり。
そんなことがありながらも、24年経過してきた、初めて故郷に帰るということができることになったのだ。


將窮山海迹、永絶賞心唔。
将に山海の泣【あと】を窮めんとし、永く賞心【こころにかなう】隨【むか】うを絶たんとす
そして、隠棲して山や海に遊ぶことををまさに極めたいとおもってるし、長く心にある隠遁にあこがれる気持ちはなくなることはない

韓愈の地図00


その心情は左遷の不幸を嘆きつつも、未知の地でこれから山水の美をのみ求めて、大いに人生を楽しもうという希望を述べている。謝霊運は山水詩を詠うことによって人々の心をとらえ、後世に影響を残すことになった。謝霊運、詩人がこの大きな精神的苦痛からの逃避を山水の美に求めたのは、人生における苦を浄土に求めた慧遠の教えにきわめてかなうものであった。しかし、その不幸のなかでも、盟主盧陵王への思慕が強調されていることは注目すべきである。
 謝霊運がいよいよ都を出発するにあたり、左遭であるから、感情の鋭い霊運は見送りの人々の心の冷たさを強く感じた。

名族謝氏ともなれば、こんな不幸の場合でも、盛大な見送りがあったそのときのお別れパーティーで謝霊運が作った詩が、『文選』の巻二十の「祖餞」に引用されている「鄰里相送至方山」(隣里のひと相い送りて方山に至る)の詩である。「方山」とは江蘇省の江寧にあって湖の渡し場のあったところである。


○方山 江蘇省江寧県東五十里 (87km) 。江寧区(こうねい-く)は中華人民共和国江蘇省南京市に位置する市轄区。280年(太康元年)、西晋により秣陵県より分割設置された臨江県を前身とする。翌年江寧県と改称された。
唐代になると620年(武徳8年)に帰化県、625年(武徳8年)に金陵県、626年(武徳9年)に白下県、635年(貞観9年)に江寧県、761年(上元2年)に上元県と改称されている。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<11> 永初三年七月十六日之郡初発都 #2 詩集 371

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<11> 永初三年七月十六日之郡初発都 #2 詩集 371
422年38歳
(永初三年七月十六日郡に之かんとし、初めて都を発す)

永初三年七月十六日之郡初発都#2
如何懐土心、持此謝遠度。
どんなにこの国の土地のことを心の中で思っていることか、この気持ちをもってこのたびの遠地へ旅立つことを許されたい。
李牧愧長袖、郤克慙躧歩。
戦国時代の李牧は守ることばかりで、ちょうど手が短いのに長い袖を笑われた、戦国時代の晉の郤克は和平の会談で足の悪いことを笑いものにされた。
良時不見遺、醜状不成悪。
平穏な時代であれば、誰も問題にしないし見もしないものだ、醜いことは悪いことにつながりはしない。
曰余亦支離、依方早有慕。
此の日、この時、ここでお別れする、自分の向う目標の隠遁への道にとにかく慕う気持ちは続いている
#2
如何んぞ土を懐う心、此を持して遠き度【たび】を謝【や】めたく。
李牧【りぼく】は長袖を愧【は】じ、郤克【げきこく】は躧歩【あしのはこび】に慙【は】ず。
良時には遺て見れず、醜状も悪を成さず。
曰【ここ】に余も亦た支離【や】せて、方【みち】に依り早く慕う有り。


現代語訳と訳註
(本文) #2

如何懐土心、持此謝遠度。
李牧愧長袖、郤克慙躧歩。
良時不見遺、醜状不成悪。
曰余亦支離、依方早有慕。


(下し文) #2
如何んぞ土を懐う心、此を持して遠き度【たび】を謝【や】めたく。
李牧【りぼく】は長袖を愧【は】じ、郤克【げきこく】は躧歩【あしのはこび】に慙【は】ず。
良時には遺て見れず、醜状も悪を成さず。
曰【ここ】に余も亦た支離【や】せて、方【みち】に依り早く慕う有り。


(現代語訳)
どんなにこの国の土地のことを心の中で思っていることか、この気持ちをもってこのたびの遠地へ旅立つことを許されたい。
戦国時代の李牧は守ることばかりで、ちょうど手が短いのに長い袖を笑われた、戦国時代の晉の郤克は和平の会談で足の悪いことを笑いものにされた。
平穏な時代であれば、誰も問題にしないし見もしないものだ、醜いことは悪いことにつながりはしない。
此の日、この時、ここでお別れする、自分の向う目標の隠遁への道にとにかく慕う気持ちは続いている。


(訳注)
如何懐土心、持此謝遠度。
如何んぞ土を懐う心、此を持して遠き度【たび】を謝【や】めたく。
どんなにこの国の土地のことを心の中で思っていることか、この気持ちをもってこのたびの遠地へ旅立つことを許されたい。平穏な時代であれば、誰も問題にしないし見もしないものだ、醜いことは悪いことにつながりはしない。


李牧愧長袖、郤克慙躧歩。
李牧【りぼく】は長袖を愧【は】じ、郤克【げきこく】は躧歩【あしのはこび】に慙【は】ず。
戦国時代の李牧は守ることばかりで、ちょうど手が短いのに長い袖を笑われた、戦国時代の晉の郤克は和平の会談で足の悪いことを笑いものにされた。
李 牧(り ぼく、生年不明 - 紀元前229年)は中国春秋戦国時代の趙国の武将。『史記』"廉頗蘭相如列伝"において司馬遷は李牧を、「守戦の名将」と位置づけている。匈奴の執拗な攻撃に対しては、徹底的な防衛・篭城の戦法を取ることで、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備していた。しかし、そのやり方が匈奴だけでなく趙兵にさえも臆病者であると思われてしまうこととなる。 趙王さえも李牧のやり方を不満に思い責めたが、李牧はこれを改めなかったので任を解かれてしまった。
郤克 春秋時代の晋の政治家、将軍。紀元前592年の春に郤克は、斉に断道(山西省)で行われる諸侯会議への参加を求めるために外交の使者として赴いたが、斉(頃公)とその母の蕭同叔子に自分の怪異な風貌を笑われるという大恥辱を受けてしまう。


良時不見遺、醜状不成悪。
良時には遺て見れず、醜状も悪を成さず。
平穏な時代であれば、誰も問題にしないし見もしないものだ、醜いことは悪いことにつながりはしない。


曰余亦支離、依方早有慕。
曰【ここ】に余も亦た支離【や】せて、方【みち】に依り早く慕う有り。
此の日、この時、ここでお別れする、自分の向う目標の隠遁への道にとにかく慕う気持ちは続いている。

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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<11> 永初三年七月十六日之郡初発都 詩集 370

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<11> 永初三年七月十六日之郡初発都 #1 詩集 370
422年38歳
(永初三年七月十六日郡に之かんとし、初めて都を発す)


永嘉の太守
 このような状態であったので『宋書』の本伝によると、

出でて永嘉の太守と為る。郡に名山水有り。霊運の愛好する所。

守に出でて既に志を得ず。遂に意を肆ままにして遊遨し、諸県を偏歴し、動もすれば旬朔を瞳ゆ。民間の聴訟復た懐いに関せず。

至る所綴ち詩詠を為り以って其の意を数す。


至る所綴ち詩詠を為り以って其の意を数す。

と記されている。つまり、永嘉の太守にされたのは彼の軽率なる行動に対する処罰であって、華やかな中央官庁から、地方官庁への左遷であった。時に、親友の顔延之も遠く広西の始安(今の桂林)の太守に流されている。この永嘉郡とは現在の浙江省の温州地帯で、謝霊運の育った会稽の真南にあたり、直線で約250kmも離れた土地である。その中心が温州で、甌江の下流の南岸に発達した町である。海までも約三〇キロで、気侯も温暖で、日本では温州蜜柑の故郷として知られている。したがって、植物もよく繁茂した美しい町であった。『温州府志』によれば、付近には相当高い山も多く、いろいろと名勝や山水にはなはだしく恵まれたところであった。
a謝霊運011
 
 謝霊運が左遷されて都の建康を出たのは、『文選』の巻二十六の「行旅」に引用された彼の詩によると、413年永初三年、霊運三十八歳の七月十六日であった。これは劉裕つまり宋の武帝の葬儀のあった七月八日から八日目のことである。おそらく、追われるごとく、秋の初めに都を去って行かねばならぬ謝霊運にとっては、寂しさも加えて、心はさぞかし煮えたつものがあったろう。
特に、謝霊運は当時の中国ではもう若くもなく、希望に燃えた青春は過ぎ、老齢であった。そのうえの左遷、精神的に相当がっくりしていたであろう。その悲しみ、苦しみを歌ったのが、「永初三年七月十六日之郡初発」(永初三年七月十六日郡に之かんとし、初めて都を発す)の詩である。


永初三年七月十六日之郡初発#1
述職期闌暑、理棹變金素。
朝廷での仕事に区切りをつけるのは夏の終りの時であった。出発の準備を整えるのはもう秋になっていた。
秋岸澄夕陰、火旻團朝露。
出発の渡し場には秋が訪れ、日が短くなり、すぐに火が暮れ、吹く風も涼やかなものになってきた。
辛苦誰爲情、遊子値頽暮。
旅にでるのはつらく苦しいもので誰にわかってもらえるのだろう。この歳になって旅人になるなんてもっと老けてゆくのが堪えるものになるだろう。
愛似莊詩昔、久敬曾存故。

他人の類似したものに愛することは荘子の時代におもわれることであった、長く敬長することについては曾子の故事にならうものである。
#2
如何懐土心、持此謝遠度。
李牧愧長袖、郤克慙躧歩。
良時不見遺、醜状不成悪。
曰余亦支離、依方早有慕。
#3
生幸休明世、親蒙英達顧。
空班趙氏璧、徒乖魏王瓠。
従来漸二紀、姶得傍歸路。
將窮山海迹、永絶賞心唔。

(永初三年七月十六日郡に之かんとし、初めて都を発す)
#1
述職【つとめ】は闌暑【なつのおわり】を期せしに、棹を理【ととの】え金素【あき】に変われり。
秋の岸は夕陰に澄み、火旻【かびん】に朝露 団【まど】かなり。
辛苦誰か情を為さん、遊子も頽暮【としより】に値【な】れり。
似を愛せし荘の昔を念うがごと、久しきが敬われるのは曾の放を存【した】うがごとし。

#2
如何んぞ土を懐う心、此を持して遠き度【たび】を謝【や】めたく。
李牧【りぼく】は長袖を愧【は】じ、郤克【げきこく】は躧歩【あしのはこび】に慙【は】ず。
良時には遺て見れず、醜状も悪を成さず。
曰【ここ】に余も亦た支離【や】せて、方【みち】に依り早く慕う有り。
#3
幸いに休明【たいへい】の世に生まれ、親しく英達の顧を蒙り。
空しく趙氏の璧に班せしに、徒らに魏王の瓠【こ】に乖【そむ】くこととなれり。
従り来たりて漸【ようや】く二紀にして、始めて帰路に傍【そ】うを得たり。
将に山海の泣【あと】を窮めんとし
永く賞心【こころにかなう】隨【むか】うを絶たんとす


永初三年七月十六日之郡初発
現代語訳と訳註

(本文) #1
述職期闌暑、理棹變金素。
秋岸澄夕陰、火旻團朝露。
辛苦誰爲情、遊子値頽暮。
愛似莊詩昔、久敬曾存故。


(下し文)#1
述職【つとめ】は闌暑【なつのおわり】を期せしに、棹を理【ととの】え金素【あき】に変われり。
秋の岸は夕陰に澄み、火旻【かびん】に朝露 団【まど】かなり。
辛苦誰か情を為さん、遊子も頽暮【としより】に値【な】れり。
似を愛せし荘の昔を念うがごと、久しきが敬われるのは曾の放を存【した】うがごとし。


(現代語訳)#1
朝廷での仕事に区切りをつけるのは夏の終りの時であった。出発の準備を整えるのはもう秋になっていた。
出発の渡し場には秋が訪れ、日が短くなり、すぐに火が暮れ、吹く風も涼やかなものになってきた。
旅にでるのはつらく苦しいもので誰にわかってもらえるのだろう。この歳になって旅人になるなんてもっと老けてゆくのが堪えるものになるだろう。
他人の類似したものに愛することは荘子の時代におもわれることであった、長く敬長することについては曾子の故事にならうものである。


(訳注)
永初三年七月十六日之郡初発
述職期闌暑、理棹變金素。
(述職【つとめ】は闌暑【なつのおわり】を期せしに、棹を理【ととの】え金素【あき】に変われり。)
朝廷での仕事に区切りをつけるのは夏の終りの時であった。出発の準備を整えるのはもう秋になっていた。


秋岸澄夕陰、火旻團朝露。
(秋の岸は夕陰に澄み、火旻【かびん】に朝露 団【まど】かなり。)
出発の渡し場には秋が訪れ、日が短くなり、すぐに火が暮れ、吹く風も涼やかなものになってきた。


辛苦誰爲情、遊子値頽暮。
(辛苦誰か情を為さん、遊子も頽暮【としより】に値【な】れり。)
旅にでるのはつらく苦しいもので誰にわかってもらえるのだろう。この歳になって旅人になるなんてもっと老けてゆくのが堪えるものになるだろう。


愛似莊詩昔、久敬曾存故。
(似を愛せし荘の昔を念うがごと、久しきが敬われるのは曾の放を存【した】うがごとし。)
他人の類似したものに愛することは荘子の時代におもわれることであった、長く敬長することについては曾子の故事にならうものである。
愛似 孟子『盡心下』「孔子く悪似而非者。」(孔子曰く似て而して非なる者を悪む。)○ 敬長 孟子『盡心上』「親親仁也。敬長羲也。」(親を親しむるは仁なり。長を敬するは羲なり。)○曾子(そう し 紀元前506年 - ?)は、孔子の弟子で、儒教黎明期の重要人物である。諱は参(しん)。字は子與(しよ)。父は曾皙、子に曾申。十三経の一つ『孝経』は、曽子の門人が孔子の言動をしるしたと称されるものである。「曾参、人を殺す」と言う言葉の中に姿を残している。この話は「ある時に曾参の親類が人を殺し、誰かが誤って曾参の母に『曾参が人を殺した』と報告した。母は曾参のことを深く信じていたのでこれを信用しなかったが、二度・三度と報告が来ると終いにはこれを信じて大慌てしたと言う。」『戦国策』に載っている説話で、あまりに信じがたい嘘であっても何度も言われると人は信じてしまうと言う意味の言葉だが、このような説話に使われる事は逆に曾参の人柄と母との間の深い信頼関係が当時の人にとって常識であったと言うことを示している。

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