漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
リンクはフリーです。報告、承諾は無用です。
ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

李白に影響の詩 謝霊雲の隠棲・辞官

折楊柳行 その二 謝霊運(康楽) 詩<73-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩498 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1311

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李商隠詩李商隠/韓愈韓退之(韓愈)・柳宗元・李煜・王安石・蘇東坡
2011/7/11李商隠 1 錦瑟
2011/7/11 ~ 2012/1/11 まで毎日掲載 全約150首
2012/1/11唐宋詩 Ⅰ李商隠 187 行次西郊作一百韻  白文  現代語訳 (全文)




折楊柳行二首 その一
鬱鬱河邊樹,青青田野草,舍我故鄉客,將適萬里道,妻妾牽衣袂,抆淚沾懷抱,還拊幼童子,顧托兄與嫂,辭訣未及終,嚴駕一何早,負笮引文舟,飢渴常不飽,誰令爾貧賤,咨嗟何所道。

その二 #1
騷屑出穴風,揮霍見日雪,
もう、騒々しく風が吹くのは穴から出て吹いてくる。夏の日に攪乱するような病気の症状があったがすでに日々雪をみるような寒い時期になっている。
颼颼無乆搖,皎皎幾時潔,
しゅうしゅうと雨や風の音がかすかである紫雨が何も揺らすことはない静かに降っている。そうして何もなく広々としているさまいずれの時になれば讒言などない清らかな時代が来るのだろうか。
未覺泮春冰,巳復謝秋節,

春になっての氷が解け始めそれが半ばになるかどうかはまだわからない。と思っていたら、また、中秋節も去ってしまった。
騒屑【そうせつ】として穴より出ずる風、揮霍【きかく】して日ごと雪を見る。
颼颼【そうそう】として久しく揺らすこと無く、皎皎として幾時か潔からん。
未だ覚らず春氷を泮【と】くを、己に復た秋節を謝す。
#2
空對尺素遷,獨視寸陰滅,
詩歌を書いてはまた書くしかしそれがむなしい手紙でしかないのだ。そして、ただ一人このわずかにすぎていく時間を見るだけなのだ。
否桑未易繫,泰茅難重拔,
桑や梓の農耕作業をするために隠遁するということが出来ないでいるが易では天下無法の乱世が来る、泰は小往き大来るであり、蚕は茅の葉を棚にして飼う茅を抜くとその根が連なって抜けるように、多くの同士とともに積極的に活動すれば、吉というが難しい。
桑茅迭生運,語默寄前哲。

桑と茅は重要でたがいに運命を生じるものである。この別れの時において、言葉を語るのではなくて易経の考えでもって代えることにする。
空しく尺素【しゃくそ】の遷【うつ】るに対し、独り寸陰【すんいん】の滅するを視る。
否桑【ひそう】未だ繋け易からず、泰茅【たいぼう】重ねて抜け難し。
桑茅【そうぼう】迭【たが】いに生運し、語黙して前哲に寄す

折楊柳0002


現代語訳と訳註
(本文)

折楊柳行二首 その二
#2
空對尺素遷,獨視寸陰滅,
否桑未易繫,泰茅難重拔,
桑茅迭生運,語默寄前哲。


(下し文)
空しく尺素【しゃくそ】の遷【うつ】るに対し、独り寸陰【すんいん】の滅するを視る。
否桑【ひそう】未だ繋け易からず、泰茅【たいぼう】重ねて抜け難し。
桑茅【そうぼう】迭【たが】いに生運し、語黙して前哲に寄す。


(現代語訳)
詩歌を書いてはまた書くしかしそれがむなしい手紙でしかないのだ。そして、ただ一人このわずかにすぎていく時間を見るだけなのだ。
桑や梓の農耕作業をするために隠遁するということが出来ないでいるが易では天下無法の乱世が来る、泰は小往き大来るであり、蚕は茅の葉を棚にして飼う茅を抜くとその根が連なって抜けるように、多くの同士とともに積極的に活動すれば、吉というが難しい。

桑と茅は重要でたがいに運命を生じるものである。この別れの時において、言葉を語るのではなくて易経の考えでもって代えることにする。

(訳注)
空對尺素遷,獨視寸陰滅,

詩歌を書いてはまた書くしかしそれがむなしい手紙でしかないのだ。そして、ただ一人このわずかにすぎていく時間を見るだけなのだ。
尺素 一尺ほどの白絹。伝言文転じて一首の詩を意味する。・寸陰 僅かの時間。光陰矢の如し。


否桑未易繫,泰茅難重拔,
桑や梓の農耕作業をするために隠遁するということが出来ないでいるが易では天下無法の乱世が来る、泰は小往き大来るであり、蚕は茅の葉を棚にして飼う茅を抜くとその根が連なって抜けるように、多くの同士とともに積極的に活動すれば、吉というが難しい。
否桑 桑や梓の農耕作業をするために隠遁するということが出来ないこと。易の卦に託し繋ぐこと。(天地否) 天下無法の乱世が来るのは人災である。
泰茅 易経 泰は小往き大来る。天地交わるは泰なり。蚕は茅の葉を棚にして飼う。茅を抜くとその根が連なって抜けるように、多くの同士とともに積極的に活動すれば、吉という。


桑茅迭生運,語默寄前哲。
桑と茅は重要でたがいに運命を生じるものである。この別れの時において、言葉を語るのではなくて易経の考えでもって代えることにする。

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折楊柳行二首 その一
鬱鬱河邊樹,青青田野草,舍我故鄉客,將適萬里道,妻妾牽衣袂,抆淚沾懷抱,還拊幼童子,顧托兄與嫂,辭訣未及終,嚴駕一何早,負笮引文舟,飢渴常不飽,誰令爾貧賤,咨嗟何所道。

その二 #1
騷屑出穴風,揮霍見日雪,
もう、騒々しく風が吹くのは穴から出て吹いてくる。夏の日に攪乱するような病気の症状があったがすでに日々雪をみるような寒い時期になっている。
颼颼無乆搖,皎皎幾時潔,
しゅうしゅうと雨や風の音がかすかである紫雨が何も揺らすことはない静かに降っている。そうして何もなく広々としているさまいずれの時になれば讒言などない清らかな時代が来るのだろうか。
未覺泮春冰,巳復謝秋節,

春になっての氷が解け始めそれが半ばになるかどうかはまだわからない。と思っていたら、また、中秋節も去ってしまった。
騒屑【そうせつ】として穴より出ずる風、揮霍【きかく】して日ごと雪を見る。
颼颼【そうそう】として久しく揺らすこと無く、皎皎として幾時か潔からん。
未だ覚らず春氷を泮【と】くを、己に復た秋節を謝す。

#2
空對尺素遷,獨視寸陰滅,
否桑未易繫,泰茅難重拔,
桑茅迭生運,語默寄前哲。

youryuu05

 現代語訳と訳註
(本文)

折楊柳行二首 その二
騷屑出穴風,揮霍見日雪,颼颼無乆搖,皎皎幾時潔,未覺泮春冰,巳復謝秋節,


(下し文)
騒屑【そうせつ】として穴より出ずる風、揮霍【きかく】して日ごと雪を見る。
颼颼【そうそう】として久しく揺らすこと無く、皎皎として幾時か潔からん。
未だ覚らず春氷を泮【と】くを、己に復た秋節を謝す。


(現代語訳)
もう、騒々しく風が吹くのは穴から出て吹いてくる。夏の日に攪乱するような病気の症状があったがすでに日々雪をみるような寒い時期になっている。
しゅうしゅうと雨や風の音がかすかである紫雨が何も揺らすことはない静かに降っている。そうして何もなく広々としているさまいずれの時になれば讒言などない清らかな時代が来るのだろうか。
春になっての氷が解け始めそれが半ばになるかどうかはまだわからない。と思っていたら、また、中秋節も去ってしまった。


(訳注)
騷屑出穴風,揮霍見日雪,
もう、騒々しく風が吹くのは穴から出て吹いてくる。夏の日に攪乱するような病気の症状があったがすでに日々雪をみるような寒い時期になっている
騒屑 行ったり来たり、騒々しい風の音。紛擾のさま、四苦八苦している。杜甫『自京赴奉先縣詠懷五百字』「生常免租税、名不隸征伐。撫迹猶酸辛、平人固騒屑。」揮霍 揮霍撩乱;日射病や暑気あたり、江戸時代には夏に起こる激しい吐き気や下痢を伴う急性の病気をいった。「霍(カク)」=慌ただしく飛ぶ鳥の羽音。すみやか・ はやい。鶴。


颼颼無乆搖,皎皎幾時潔,
しゅうしゅうと雨や風の音がかすかである紫雨が何も揺らすことはない静かに降っている。そうして何もなく広々としているさまいずれの時になれば讒言などない清らかな時代が来るのだろうか。
・颼颼【そうそう】雨や風の音がかすかであるさま。しゅうしゅう。・皎皎【こうこう/皓皓】1 白く光り輝くさま。清らかなさま。2 何もなく広々としているさま。


未覺泮春冰,巳復謝秋節,
春になっての氷が解け始めそれが半ばになるかどうかはまだわからない。と思っていたら、また、中秋節も去ってしまった。
 分散する,分解する.・ さる。
秋節 旧暦8月15日の中秋節は、春節(旧正月)、元宵節、端午節とならぶ「中国の四大伝統祭り」と呼ばれている。この日の夜は一家団欒して、庭に供え物をならべ、月を拝んで月見をする。


折楊柳行 その一 謝霊運(康楽) 詩<72-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩496 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1305

折楊柳行 その一 謝霊運(康楽) 詩<72-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩496 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1305


折楊柳行二首 その一
鬱鬱河邊樹,青青田野草,舍我故鄉客,將適萬里道,妻妾牽衣袂,抆淚沾懷抱,還拊幼童子,顧托兄與嫂,辭訣未及終,嚴駕一何早,負笮引文舟,飢渴常不飽,誰令爾貧賤,咨嗟何所道。

騷屑出穴風,揮霍見日雪,颼颼無乆搖,皎皎幾時潔,未覺泮春冰,巳復謝秋節,空對尺素遷,獨視寸陰滅,否桑未易繫,泰茅難重拔,桑茅迭生運,語默寄前哲。


折楊柳行二首 その一
別れに楊柳を折って輪にして健康を祈る。
鬱鬱河邊樹,青青田野草,
草木がよく茂っていて大河の川辺のきもしげる田畑や野原もあおあおと草がしげる。
舍我故鄉客,將適萬里道,
わたしは故郷を棄てて旅路に立とうとしている。まさに万里の先までこの路を行こうとしているのだ。
妻妾牽衣袂,抆淚沾懷抱,
妻や妾妻はころも袂をひっぱり涙をかくしている、涙を拭き収めて懐は潤いでいっぱいになる。
還拊幼童子,顧托兄與嫂,
幼児と童子の手を引いて兄と兄嫁に留守の間を託して預ける。
辭訣未及終,嚴駕一何早,
別れの言葉がまだ終わっていないのに、一呼吸置く間もなく車が来たのだ。
負笮引文舟,飢渴常不飽,
竹で編んだ袋から筆を取り出して彩舟の飾りのように短冊に詩をしたためる。どんなときでも心から案じることは飽きることはない。
誰令爾貧賤,咨嗟何所道。

誰がお前たちを貧賤にしようというのか、ああ、これ以上何と言えばいいのだろうか。

(楊柳を折るの行 二首)その一
鬱鬱【うつうつ】たる河辺の柳、青青たる野田の草。
我を舎【す】つ故郷の客、将に万里の道を適【ゆ】かんとす。
妻妾【さいしょう】は衣袂【いべい】を牽【ひ】き、涙を抆【おさ】めつつ懐抱【ふところ】を沾【うる】おす。
還【かえ】って幼童の子を拊で、顧みて兄と嫂とに托す。
辞訣【じけつ】未だ終わるに及ばざるに、駕【くるま】を厳【ととの】えること一【いつ】に何ぞ早き。
笮【えびら】を負い文舟【ぶんしゅう】を引き、飢渇して常に飽かず。
誰か爾【なんじ】をして貧賤【ひんせん】ならしむ、咨嗟【ああ】何の道【い】う所ぞ。


現代語訳と訳註
(本文)
#2
還拊幼童子,顧托兄與嫂,辭訣未及終,嚴駕一何早,負笮引文舟,飢渴常不飽,誰令爾貧賤,咨嗟何所道。


(下し文)
還【かえ】って幼童の子を拊で、顧みて兄と嫂とに托す。
辞訣【じけつ】未だ終わるに及ばざるに、駕【くるま】を厳【ととの】えること一【いつ】に何ぞ早き。
笮【えびら】を負い文舟【もんしゅう】を引き、飢渇して常に飽かず。
誰か爾【なんじ】をして貧賤【ひんせん】ならしむ、咨嗟【ああ】何の道【い】う所ぞ。


(現代語訳)
幼児と童子の手を引いて兄と兄嫁に留守の間を託して預ける。
別れの言葉がまだ終わっていないのに、一呼吸置く間もなく車が来たのだ。
竹で編んだ袋から筆を取り出して彩舟の飾りのように短冊に詩をしたためる。どんなときでも心から案じることは飽きることはない。
誰がお前たちを貧賤にしようというのか、ああ、これ以上何と言えばいいのだろうか。



(訳注)
還拊幼童子,顧托兄與嫂,

幼児と童子の手を引いて兄と兄嫁に留守の間を託して預ける。


辭訣未及終,嚴駕一何早,
別れの言葉がまだ終わっていないのに、一呼吸置く間もなく車が来たのだ。


負笮引文舟,飢渴常不飽,
竹で編んだ袋から筆を取り出して彩舟の飾りのように短冊に詩をしたためる。どんなときでも心から案じることは飽きることはない。
・笮 せまい。竹で編んだ野地下。えびら。・文舟 あやぶね。
・渴 のどがからからだ.・渴 ~をいやす.切に,心底から渴念思い慕う,心から案じる.

誰令爾貧賤,咨嗟何所道。
誰がお前たちを貧賤にしようというのか、ああ、これ以上何と言えばいいのだろうか。

折楊柳行 その一 謝霊運(康楽) 詩<72-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩495 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1302

折楊柳行 その一 謝霊運(康楽) 詩<72-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩495 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1302


折楊柳行二首 その一
鬱鬱河邊樹,青青田野草,舍我故鄉客,將適萬里道,妻妾牽衣袂,抆淚沾懷抱,還拊幼童子,顧托兄與嫂,辭訣未及終,嚴駕一何早,負笮引文舟,飢渴常不飽,誰令爾貧賤,咨嗟何所道。
その二

騷屑出穴風,揮霍見日雪,颼颼無乆搖,皎皎幾時潔,未覺泮春冰,巳復謝秋節,空對尺素遷,獨視寸陰滅,否桑未易繫,泰茅難重拔,桑茅迭生運,語默寄前哲。

(楊柳を折るの行 二首)その一
鬱鬱【うつうつ】たる河辺の柳、青青たる野田の草。
我を舎【す】つ故郷の客、将に万里の道を適【ゆ】かんとす。
妻妾【さいしょう】は衣袂【いべい】を牽【ひ】き、涙を抆【おさ】めつつ懐抱【ふところ】を沾【うる】おす。
還【かえ】って幼童の子を拊で、顧みて兄と嫂とに托す。
辞訣【じけつ】未だ終わるに及ばざるに、駕【くるま】を厳【ととの】えること一【いつ】に何ぞ早き。
笮【えびら】を負い文舟【ぶんしゅう】を引き、飢渇して常に飽かず。
誰か爾【なんじ】をして貧賤【ひんせん】ならしむ、咨嗟【ああ】何の道【い】う所ぞ。

youryuu05

折楊柳行二首 その一
別れに楊柳を折って輪にして健康を祈る。
鬱鬱河邊樹,青青田野草。
草木がよく茂っていて大河の川辺のきもしげる田畑や野原もあおあおと草がしげる。
舍我故鄉客,將適萬里道。
わたしは故郷を棄てて旅路に立とうとしている。まさに万里の先までこの路を行こうとしているのだ。
妻妾牽衣袂,抆淚沾懷抱。

妻や妾妻はころも袂をひっぱり涙をかくしている、涙を拭き収めて懐は潤いでいっぱいになる。

(楊柳を折るの行 二首)その一
鬱鬱【うつうつ】たる河辺の柳、青青たる野田の草。
我を舎【す】つ故郷の客、将に万里の道を適【ゆ】かんとす。
妻妾【さいしょう】は衣袂【いべい】を牽【ひ】き、涙を抆【おさ】めつつ懐抱【ふところ】を沾【うる】おす。

折楊柳0002


現代語訳と訳註
(本文)
折楊柳行二首 その一
鬱鬱河邊樹,青青田野草。
舍我故鄉客,將適萬里道。
妻妾牽衣袂,抆淚沾懷抱。


(下し文)
(楊柳を折るの行 二首)その一
鬱鬱【うつうつ】たる河辺の柳、青青たる野田の草。
我を舎【す】つ故郷の客、将に万里の道を適【ゆ】かんとす。
妻妾【さいしょう】は衣袂【いべい】を牽【ひ】き、涙を抆【おさ】めつつ懐抱【ふところ】を沾【うる】おす。


(現代語訳)
別れに楊柳を折って輪にして健康を祈る。
草木がよく茂っていて大河の川辺のきもしげる田畑や野原もあおあおと草がしげる。
わたしは故郷を棄てて旅路に立とうとしている。まさに万里の先までこの路を行こうとしているのだ。
妻や妾妻はころも袂をひっぱり涙をかくしている、涙を拭き収めて懐は潤いでいっぱいになる。


(訳注)
折楊柳行二首 その一
別れに楊柳を折って輪にして健康を祈る。
詩題の「折楊柳」は、前漢の張騫が西域から持ち帰った音楽を素にして出来たものだが、この時の辞は、魏晉時代に亡失してしまっているという。晉代には兵事の労苦が陳べられるようになり、それが南朝の梁、陳に始まり唐代ではさらにひろがった。
『折楊柳』の曲調。別離の曲。離愁を覚えるということ。王翰の『涼州詞』「秦中花鳥已應闌,塞外風沙猶自寒。夜聽胡笳折楊柳,敎人意氣憶長安。」、李白に『春夜洛城聞笛』「誰家玉笛暗飛聲,散入春風滿洛城。此夜曲中聞折柳,何人不起故園情。」とある。


鬱鬱河邊樹,青青田野草。
草木がよく茂っていて大河の川辺のきもしげる田畑や野原もあおあおと草がしげる。
・鬱鬱【うつうつ】1 心の中に不安や心配があって思い沈むさま。2 草木がよく茂っているさま。


舍我故鄉客,將適萬里道。
わたしは故郷を棄てて旅路に立とうとしている。まさに万里の先までこの路を行こうとしているのだ。


妻妾牽衣袂,抆淚沾懷抱。
妻や妾妻はころも袂をひっぱり涙をかくしている、涙を拭き収めて懐は潤いでいっぱいになる。
衣袂 取り付けられ腕を覆う衣服の部分

苦寒行 謝霊運(康楽) 詩<70>Ⅱ李白に影響を与えた詩493 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1296

苦寒行 謝霊運(康楽) 詩<70>Ⅱ李白に影響を与えた詩493 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1296



寒行
嵗嵗層冰合,紛紛霰雪落。
ここ毎年、寒さが厳しく氷の層が何層にも重なって厚くなっている。雪も深深と積もりあられ、雹も落ちる。
浮陽减清暉,寒禽呌悲壑。
雲間に浮ぶ太陽はきれいに晴れたかがやきをなくしてきたし、山野で厳しい冬の中を生きている鳥でさえこの寒さのため谷で哀しく泣き叫んでいる。
饑爨煙不興,渴汲水枯涸。
飢饉は釜戸さえ煙をあげなくなってしまったし、井戸は水を汲めないほど枯渇し、木も枯れ、川の水も涸れた。

歳歳【さいさい】 層【そう】冰合【ひょうごう】し、紛紛として霰【あられ】や雪 落つ。
浮陽【ふよう】も清暉【せいき】を減じ、寒禽【かんきん】も悲しく壑【たに】に叫び。
飢えたる爨【かまど】の煙 興こらず、汲むこと渇き水も枯【か】れ涸【か】れぬ。



現代語訳と訳註
(本文)
苦寒行
嵗嵗層冰合,紛紛霰雪落。
浮陽减清暉,寒禽呌悲壑。
饑爨煙不興,渴汲水枯涸。


(下し文)
歳歳【さいさい】 層【そう】冰合【ひょうごう】し、紛紛として霰【あられ】や雪 落つ。
浮陽【ふよう】も清暉【せいき】を減じ、寒禽【かんきん】も悲しく壑【たに】に叫び。
飢えたる爨【かまど】の煙 興こらず、汲むこと渇き水も枯【か】れ涸【か】れぬ。


(現代語訳)
ここ毎年、寒さが厳しく氷の層が何層にも重なって厚くなっている。雪も深深と積もりあられ、雹も落ちる。
雲間に浮ぶ太陽はきれいに晴れたかがやきをなくしてきたし、山野で厳しい冬の中を生きている鳥でさえこの寒さのため谷で哀しく泣き叫んでいる。
飢饉は釜戸さえ煙をあげなくなってしまったし、井戸は水を汲めないほど枯渇し、木も枯れ、川の水も涸れた。


(訳注)
苦寒行
清調曲。この詩は飢饉の年の天候不順を歌い、そして、鳥も食物に困り、悲しげに鳴く。人間たちはもっと困り、かまどの煙も起きず、水さえ滴れてしまったと、実に悲惨な状態を巧みに歌っている。経験したことを詩にするのではなく、想像して歌ったものである。


嵗嵗層冰合,紛紛霰雪落。
ここ毎年、寒さが厳しく氷の層が何層にも重なって厚くなっている。雪も深深と積もりあられ、雹も落ちる。


浮陽减清暉,寒禽呌悲壑。
雲間に浮ぶ太陽はきれいに晴れたかがやきをなくしてきたし、山野で厳しい冬の中を生きている鳥でさえこの寒さのため谷で哀しく泣き叫んでいる。
寒禽【かんきん】 山野・川・海などで厳しい冬の中を生きている鳥。冬の鳥。

饑爨煙不興,渴汲水枯涸。
飢饉は釜戸さえ煙をあげなくなってしまったし、井戸は水を汲めないほど枯渇し、木も枯れ、川の水も涸れた。




苦寒行   魏 武帝
北上太行山,艱哉何巍巍!
羊腸阪詰屈,車輪為之摧。
樹木何蕭瑟,北風聲正悲!
熊羆對我蹲,虎豹夾路啼。
谿谷少人民,雪落何霏霏!
延頸長嘆息,遠行多所懷。
我心何怫鬱?思欲一東歸。
水深橋梁絕,中路正徘徊。
迷惑失故路,薄暮無宿棲。
行行日已遠,人馬同時饑。
擔囊行取薪,斧冰持作糜。
悲彼東山詩,悠悠令我哀。
北のかた太行山に上れば 艱き哉 何ぞ巍巍たる
羊腸の坂 詰屈し 車輪 之れが為に摧く
樹木 何ぞ蕭瑟たる 北風 声正に悲し
熊羆 我に対して蹲まり 虎豹 路を夾んで啼く
谿谷 人民少なく 雪落つること 何ぞ霏霏たる
頸を延ばして長歎息し 遠行して懐う所多し
我が心 何ぞ怫鬱たる 一たび東帰せんと思欲す
水深くして橋梁絶え 中路 正に徘徊す
迷惑して故路を失い 薄暮 宿棲無し
行き行きて日已に遠く 人馬 時を同じくして飢う
嚢を担い 行きて薪を取り 氷を斧りて持て糜を作る
彼の東山の詩を悲しみ 悠悠として我れを哀しましむ
北上して太行山脈を越えようと必死なのに、道は大変険しく山は高く聳え立っている。
羊腸坂は曲がりくねっていて、兵車の車輪も砕けかねない。
樹木がうらさびしげに立ちつくし、北風がぴゅうぴゅうと吹きつけている。
熊や羆が低く身構えて我々をうかがい、虎や豹が道の両側から吠えかかってくる。
山間のため住む人も稀で、雪はしんしんと降りしきる。
首を伸ばして遠くを眺めやれば思わず溜息がもれるし、遠征する身ともなれば思いは更に増すばかり。
心に言いしれぬ不安が溢れ、いっそのこと、一旦東に引き返そうかとも思ってしまう。
谷川の水が深いのに渡るべき橋もなく、途中あちこち道を探しまわった。
だが、さんざん迷った挙げ句に元来た道を見失い、夕暮になっても泊るべき宿さえない。
山中を行軍して既に日数を重ね、人も馬もともに飢えてしまった。
袋を担いで行って薪を取り、氷を断ち割ってきて粥を作り、辛うじて寒さと飢えを凌いでいる状態だ。
あの周公東征の労苦を称えた「東山」の詩を思い起こすと、心に一層深い哀しみが広がってゆく。


苦寒行    陸機 
北游幽朔城,涼野多險艱。
俯入穹谷底,仰陟高山盤。
凝冰結重澗,積雪被長巒。
陰雲興岩側,悲風鳴樹端。
不 白日景,但聞寒鳥喧。
猛虎憑林嘯,玄猿臨岸嘆。
夕宿喬木下,慘慘恆鮮歡。
渴飲堅冰漿,饑待零露餐。
離思固已久,寤寐莫與言。
劇哉行役人,慊慊恆苦寒。
 

苦寒行      謝霊運
嵗嵗層冰合,紛紛霰雪落。
浮陽减清暉,寒禽呌悲壑。
饑爨煙不興,渴汲水枯涸。
  又
樵蘇無夙飲,鑿冰煑朝飡。
悲矣採薇唱,苦哉有餘酸。
 
苦寒    韓愈
四時各平分,一氣不可兼。
隆寒奪春序,顓頊固不廉。
太昊弛維綱,畏避但守謙。
遂令黄泉下,萌牙夭句尖。」

草木不複抽,百味失苦甜。
凶飆攪宇宙,铓刃甚割砭。
日月雖雲尊,不能活烏蟾。
羲和送日出,恇怯頻窺覘。」

炎帝持祝融,呵噓不相炎。
而我當此時,恩光何由沾。
肌膚生鱗甲,衣被如刀鐮。
氣寒鼻莫嗅,血凍指不拈。」

濁醪沸入喉,口角如銜箝。
將持匕箸食,觸指如排簽。
侵鑪不覺暖,熾炭屢已添。
探湯無所益,何況纊與縑。」

虎豹僵穴中,蛟螭死幽潛。
熒惑喪纏次,六龍冰脱髯。
芒碭大包内,生類恐盡殲。
啾啾窗間雀,不知已微纖。
擧頭仰天鳴,所願晷刻淹。」

不如彈射死,卻得親炰燖。
鸞皇苟不存,爾固不在占。
其餘蠢動儔,俱死誰恩嫌。
伊我稱最靈,不能女覆苫。
悲哀激憤歎,五藏難安恬。」

中宵倚牆立,淫淚何漸漸。
天王哀無辜,惠我下顧瞻。
褰旒去耳纊,調和進梅鹽。
賢能日登禦,黜彼傲與憸。
生風吹死氣,豁達如褰簾。」

懸乳零落堕,晨光入前檐。
雪霜頓銷釋,土脈膏且黏。
豈徒蘭蕙榮,施及艾與蒹。
日萼行鑠鑠,風條坐襜襜。
天乎苟其能,吾死意亦厭。」

苦寒 韓愈<45>#1 Ⅱ韓退之(韓愈)詩320 紀頌之の漢詩ブログ 1039

歳暮 謝霊運(康楽) 詩<67>Ⅱ李白に影響を与えた詩489 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1284

歳暮 謝霊運(康楽) 詩<67>Ⅱ李白に影響を与えた詩489 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1284


歳 暮
殷憂不能寐,苦此夜難頹。
深い憂いのために眠ることができず、この歳暮は苦しみ、夜が長くても頽廃的になり難いのだ。
明月照積雪,朔風勁且哀。
月は明く一面に積もった雪を照らし、冬の北風は強く吹きそして哀しい音を立てている。
運往無淹物,年逝覺已催。
今年も時がめぐり過ぎゆくと、旧のままに久しく留まるものなどなにもなく、年が去り行くことがすでに私をせき立てているようにおもわれる。
(闕文)
(闕文とされていている。)


現代語訳と訳註
(本文)

歳 暮
殷憂不能寐,苦此夜難頹。
明月照積雪,朔風勁且哀。
運往無淹物,年逝覺已催。
(闕文)

(下し文) 歳 暮
殷憂【いんゆう】して寐【い】ぬる能はず、此の夜の頹【くず】し難きに苦【くるし】む。
明月【めいげつ】は積雪を照らし、朔風【さくふう】は勁【つよ】くして且哀し。
運 往【ゆ】いて掩【とど】まる物無く、年 逝【ゆ】いて己に催【もよお】すを覺ゆ。
(闕文)


(現代語訳)
深い憂いのために眠ることができず、この歳暮は苦しみ、夜が長くても頽廃的になり難いのだ。
月は明く一面に積もった雪を照らし、冬の北風は強く吹きそして哀しい音を立てている。
今年も時がめぐり過ぎゆくと、旧のままに久しく留まるものなどなにもなく、年が去り行くことがすでに私をせき立てているようにおもわれる。
(闕文で伝わらない)


(訳注)
歳 暮


殷憂不能寐,苦此夜難頹。
深い憂いのために眠ることができず、この歳暮は苦しみ、夜が長くても頽廃的になり難いのだ。
殷憂 憂愁の甚だしいもの。殷殷は憂えること。以下に基づく。
『詩経、邶風、(出門)』
出自北門、憂心殷殷。
終窭且貧、莫知我艱。
已焉哉。
天実為之,謂之何哉。
私は北門を出る、心中憂鬱で気が重い。貧しくて生活が行き詰っているのに、誰も私の辛さなやみはわからない。でも仕方がない。全ては天がなせるわざだ。どうあがいても変わらない。
・頽 くずす。頽廃的になる。


明月照積雪,朔風勁且哀。
月は明く一面に積もった雪を照らし、冬の北風は強く吹きそして哀しい音を立てている。
朔風 北風。朔は北。・勁 強い。


運往無淹物,年逝覺已催。
今年も時がめぐり過ぎゆくと、旧のままに久しく留まるものなどなにもなく、年が去り行くことがすでに私をせき立てているようにおもわれる。
・掩物 久しく留まるもの。・已催 すでにせき立てている。


謝霊運の年の暮とおなじ世界感を盛唐詩人 高適の有名な七言絶句『除夜作』である。
219 高適 こうせき 702頃~765

 旅の空、一人迎える大みそかの夜。
 詩人を孤独が襲う。


  除夜作 

 旅館寒燈獨不眠,客心何事轉悽然。


 故鄕今夜思千里,霜鬢明朝又一年。



寒々とした旅館のともしびのもと、一人過ごす眠れぬ除夜をすごす。ああ、本当にさみしい。
旅の寂しさは愈々増すばかり・・・・・・・・・・。
今夜は大晦日。
故郷の家族は、遠く旅に出ている私のことを思ってくれているだろう。
夜が明けると白髪頭の置いたこの身に、また一つ歳を重ねるのか・・・・。



 作者 高適は河南省開封市に祀られています。三賢祠と呼ばれるその杜は李白、杜甫、高適の三詩人が共に旅をした場所である。記念して建立されている。
 詩人高適は50歳で初めて詩に志し、たちまち大詩人の名声を得て、1篇を吟ずるごとに好事家の伝えるところとなった。吐蕃との戦いに従事したので辺塞詩も多く残されている。詩風は「高古豪壮」とされる。李林甫に忌まれて蜀に左遷されて?州を通ったときに李白・杜甫と会い、詩の味わいが高まった。
李林甫に捧げた詩も残されており、「好んで天下の治乱を談ずれども、事において切ならず」と評された。『高常侍集』8巻がある。

 
 霜鬢明朝又一年
 ああ、大晦日の夜が過ぎると、また一つ年を取ってしまう。年々頭の白髪も増えていく、白髪の数と同じだけ愁いが増えてゆくのか
 当時、「数え」で歳を計算する、新年を迎えると年を取るのだ。

旅館寒燈獨不眠,客心何事轉悽然。
故鄕今夜思千里,霜鬢明朝又一年。


 旅先で一人過ごす大晦日、故郷にいれば家族そろって団欒し、みんなで酒を酌み交わしていたことだ。

:故鄕 今夜  千里を 思う
自分が千里離れた故郷を偲ぶのではなく、故郷の家族が自分を思ってくれるだろうという中国人の発想の仕方である。中華思想と同じ発想法で、多くの詩人の詩に表れている。
 しかしそれが作者の孤独感を一層引き立て、望郷の念を掻き立てるのだ。

入華子岡是麻源第三谷 謝霊運(康楽) 詩<66-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩488 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1281

入華子岡是麻源第三谷 謝霊運(康楽) 詩<66-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩488 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1281


入華子崗是麻源第三穀
南州實炎德,桂樹淩寒山。
南方の地は暖かで山の桂の木は冬の寒さにもしぼむことなく青さを残している。
銅陵映碧潤,石磴瀉紅泉。
谷をゆけば銅鉱山は碧の谷川に映し、石段の坂には丹沙の中から、紅色の水が流れ出る。
既枉隱淪客,亦棲肥遯賢。
ここにはかって隱淪という世俗から隠れ住む人が来たし、同様に、肥遯の人も棲んだ。
險徑無測度,天路非術阡。
山道は険しくてその高さを測りしることができない、天にのぼる路のようで、それは常なみの道ではない。
遂登羣峯首,邈若升雲煙。
かくて、ついに群山中の最も高い華子崗に登と、はるか雲にのぼった思いがするのである。
(華子崗に入る、是れ麻源の第三谷なり)
南州は実に炎徳【えんとく】あり、桂樹【けいじゅ】は寒山を凌ぐ。
銅陵【どうりょう】は碧潤【へきかん】に映じ、石磴【せきとう】は紅泉【こうせん】を瀉【そそ】ぐ。
既に隱淪【いんりん】の客を枉【ま】げ、亦た肥遯【ひとん】の賢を棲【す】ましむ。
險徑【けんけい】は測度【そくたく】する無く、天路【てんろ】術阡【じゅつせん】に非ず。
遂に群峰【ぐんほう】の首【いただき】に登れば、邈【ばく】として雲煙【うんえん】に升【のぼ】るが若し。

#2
羽人絕髣髴,丹丘徒空筌。
今ここで、仙人、華子期の姿はおぼろげで見えず、ただ丹丘の仙人の住む山にはその跡が残り、魚のいないやなしろと同様であるばかりである。
圖牒複摩滅,碑版誰聞傳?
仙人の地図と系図といえばもはや擦り切れてなくなり、碑や版も誰が聞き伝えているというのか、それはないだろう。
莫辯百世後,安知千載前。
百世代の後の事はわかるものではないし、千年前の事などもどうしてわかろうか。
且申獨往意,乘月弄潺湲。
それで外物に左右されず、一人で行く心を伸ばそうとて、月下にさらさらと流れる水の音を聞いて楽しむのである。
恒充俄頃用,豈為古今然!
かくてしばらくの間、眼前の光景に心を楽しませることを常に思うことであるが、古今にわたる長久の事のために来たわけではないのである。

羽人【うじん】髣髴【ほうふつ】を絕ち,丹丘【たんきゅう】は徒【いたずら】に空筌【くうぜん】となる。
圖牒【とちょう】複た摩滅【まめつ】し,碑版【ひはん】誰か聞き傳えんや?
百世【ひゃくせい】の後を辯ずる莫し,安んぞ千載【せんさい】の前を知らん。
且つ獨往【どくおう】の意を申【の】べ,月に乘じて潺湲【せんかん】を弄【ろう】す。
恒【たうね】に俄頃【がけい】の用に充【あ】つ,豈に古今の然るを為さんや!


つまり、昔、華子期の住んでいた名勝を訪ね、その情景を詠じている。道なき山路を登り、脚下に雲を踏みしめてゆくと、そこにはすでに仙人の遺跡も消え失せてしまっていたと悲しげにいう。そして、私は「豊に古今の馬に 然せんや」という。つまり、昔のことを尊重し、今を否定するような仙人になるためではない、という。
臨川郡にいての霊運の行動について、『朱書』の本伝では、郡に在りて遊放すること永嘉に異ならず。
と簡単に記している。この記事から考えてみると、相変わらず、ストレス解消のため、あちこちの名勝を訪ねて歩くということは少しも変わらなかったらしい。
さて、やがて不幸な一生を送らねはならなかった霊運の残された作品のなかで、その制作年代の不明なものを、次にまとめてみることにしよう。



現代語訳と訳註
(本文)
#2
羽人絕髣髴,丹丘徒空筌。
圖牒複摩滅,碑版誰聞傳?
莫辯百世後,安知千載前。
且申獨往意,乘月弄潺湲。
恒充俄頃用,豈為古今然!


(下し文) #2
羽人【うじん】髣髴【ほうふつ】を絕ち,丹丘【たんきゅう】は徒【いたずら】に空筌【くうぜん】となる。
圖牒【とちょう】複た摩滅【まめつ】し,碑版【ひはん】誰か聞き傳えんや?
百世【ひゃくせい】の後を辯ずる莫し,安んぞ千載【せんさい】の前を知らん。
且つ獨往【どくおう】の意を申【の】べ,月に乘じて潺湲【せんかん】を弄【ろう】す。
恒【たうね】に俄頃【がけい】の用に充【あ】つ,豈に古今の然るを為さんや!


(現代語訳)
今ここで、仙人、華子期の姿はおぼろげで見えず、ただ丹丘の仙人の住む山にはその跡が残り、魚のいないやなしろと同様であるばかりである。
仙人の地図と系図といえばもはや擦り切れてなくなり、碑や版も誰が聞き伝えているというのか、それはないだろう。
百世代の後の事はわかるものではないし、千年前の事などもどうしてわかろうか。
それで外物に左右されず、一人で行く心を伸ばそうとて、月下にさらさらと流れる水の音を聞いて楽しむのである。
かくてしばらくの間、眼前の光景に心を楽しませることを常に思うことであるが、古今にわたる長久の事のために来たわけではないのである。


(訳注) #2
羽人絕髣髴,丹丘徒空筌。
今ここで、仙人、華子期の姿はおぼろげで見えず、ただ丹丘の仙人の住む山にはその跡が残り、魚のいないやなしろと同様であるばかりである。
羽人 仙人。ここは華子期さす。 『楚辞』遠遊に「仍羽人於丹邱兮、留不死之旧郷(飛僊に従って常明のところに行き、神僊のいます不死の郷に留まる)」とある。天台山に隠棲する人をいうに基づく。あるいは、孫綽『遊天台山賦』に「仍羽人於丹丘、尋不死之福庭」とある。福を生じるもとの庭。道教では不老を自然に同化するということで死を回避する。自然に帰ることでもある。○髣髴 おぼろげなこと。○丹丘 仙人の住む山。○ やな、魚をとらえる竹製の器。


圖牒複摩滅,碑版誰聞傳?
仙人の地図と系図といえばもはや擦り切れてなくなり、碑や版も誰が聞き伝えているというのか、それはないだろう。
○圖 地図と系図。○碑 金や石に刻きんだ文字。ここでは、囲牒とともに仙家の記録。

莫辯百世後,安知千載前。
百世代の後の事はわかるものではないし、千年前の事などもどうしてわかろうか。
百世後 百世代の後の事。○千載前 千年前の事。


且申獨往意,乘月弄潺湲。
それで外物に左右されず、一人で行く心を伸ばそうとて、月下にさらさらと流れる水のおとをきいて楽しむのである。
獨往 ただ一人で行く。外物に左右されず、一人で行く。『荘子、在宥』「出入六合、遊乎九州、獨往獨來。是謂獨有。」


恒充俄頃用,豈為古今然!
かくてしばらくの間、眼前の光景に心を楽しませることを常に思うことであるが、古今にわたる長久の事のために来たわけではないのである。
○充 当てる、術える。○ やくだてる。

入華子岡是麻源第三谷 謝霊運(康楽) 詩<66-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩487 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1278

入華子岡是麻源第三谷 謝霊運(康楽) 詩<66-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩487 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1278



入華子崗是麻源第三穀五言
南州實炎德,桂樹淩寒山。
南方の地は暖かで山の桂の木は冬の寒さにもしぼむことなく青さを残している。
銅陵映碧潤,石磴瀉紅泉。
谷をゆけば銅鉱山は碧の谷川に映し、石段の坂には丹沙の中から、紅色の水が流れ出る。
既枉隱淪客,亦棲肥遯賢。
ここにはかって隱淪という世俗から隠れ住む人が来たし、同様に、肥遯の人も棲んだ。
險徑無測度,天路非術阡。
山道は険しくてその高さを測りしることができない、天にのぼる路のようで、それは常なみの道ではない。
遂登羣峯首,邈若升雲煙。
かくて、ついに群山中の最も高い華子崗に登と、はるか雲にのぼった思いがするのである。
(華子崗に入る、是れ麻源の第三谷なり)
南州は実に炎徳【えんとく】あり、桂樹【けいじゅ】は寒山を凌ぐ。
銅陵【どうりょう】は碧潤【へきかん】に映じ、石磴【せきとう】は紅泉【こうせん】を瀉【そそ】ぐ。
既に隱淪【いんりん】の客を枉【ま】げ、亦た肥遯【ひとん】の賢を棲【す】ましむ。
險徑【けんけい】は測度【そくたく】する無く、天路【てんろ】術阡【じゅつせん】に非ず。
遂に群峰【ぐんほう】の首【いただき】に登れば、邈【ばく】として雲煙【うんえん】に升【のぼ】るが若し。

#2
羽人絕髣髴,丹丘徒空筌。圖牒複摩滅,碑版誰聞傳?
莫辯百世後,安知千載前。且申獨往意,乘月弄潺湲。
恒充俄頃用,豈為古今然!


臨川に着いた宝達は、型のごとく、下役人の出迎えを受け、何日かは歓迎の宴会が続いたことであろう。役人としてやるべき仕事はあったかもしれぬが、心にはちきれんほどの不満をもっていた霊運は、そのうえ、永嘉の時代のごとく、理想に燃える若さもなくなってい、政治に夢はもてなくなっていた。ただ残っていたのは、相変わらず名勝を訪ねて賞でるということのみであった。おそらく、臨川付近の名勝はあちこち見て歩き、いくつかの詩作はしたであろうが、今は『文選』の巻二十六の「行旅」の部に「華子崗に入る。走れ麻原の第三谷」の詩が残っているのみである。この「華子崗」とは、臨川から撫江をさらに一五キロ以上さかのぼった、今の建昌の南城県にあり、昔、商山の四皓の一人であった用里生の弟子の華子期が住んでいたところといわれる。また、「麻源」とは後世、孫の手の原形の手をもって知られる麻姑仙人がいたところと伝えられる。李白『西嶽雲臺歌送丹邱子』「明星玉女備灑掃、麻姑搔背指爪輕。」にみられる。神仙伝「麻姑」に基づく。


現代語訳と訳註
(本文)
入華子崗是麻源第三穀五言
南州實炎德,桂樹淩寒山。銅陵映碧潤,石磴瀉紅泉。
既枉隱淪客,亦棲肥遯賢。險徑無測度,天路非術阡。
遂登羣峯首,邈若升雲煙。


(下し文)
(華子崗に入る、是れ麻源の第三谷なり)
南州は実に炎徳【えんとく】あり、桂樹【けいじゅ】は寒山を凌ぐ。
銅陵【どうりょう】は碧潤【へきかん】に映じ、石磴【せきとう】は紅泉【こうせん】を瀉【そそ】ぐ。
既に隱淪【いんりん】の客を枉【ま】げ、亦た肥遯【ひとん】の賢を棲【す】ましむ。
險徑【けんけい】は測度【そくたく】する無く、天路【てんろ】術阡【じゅつせん】に非ず。
遂に群峰【ぐんほう】の首【いただき】に登れば、邈【ばく】として雲煙【うんえん】に升【のぼ】るが若し。


(現代語訳)
南方の地は暖かで山の桂の木は冬の寒さにもしぼむことなく青さを残している。
谷をゆけば銅鉱山は碧の谷川に映し、石段の坂には丹沙の中から、紅色の水が流れ出る。
ここにはかって隱淪という世俗から隠れ住む人が来たし、同様に、肥遯の人も棲んだ。
山道は険しくてその高さを測りしることができない、天にのぼる路のようで、それは常なみの道ではない。
かくて、ついに群山中の最も高い華子崗に登と、はるか雲にのぼった思いがするのである。


(訳注)
入華子崗是麻源第三穀五言

文選巻二十六、行旅(上)218謝靈運の山居の図によれば、「商山の四皓のひとりであるところの甪里」の弟子なる華子期がこの山頂にいたと言い伝えられ、それで華子崗という。そこの風景をみて所感をのべたのである。
商山は長安の東南商州にある山の名、漢の高祖の時四人の老人があり秦の乱をさけでその山に隠れ芝を採ってくらした。中国秦代末期、乱世を避けて陝西(せんせい)省商山に入った東園公・綺里季・夏黄公・里(ろくり)先生の四人の隠士。みな鬚眉(しゅび)が皓白(こうはく)の老人であったのでいう。


南州實炎德,桂樹淩寒山。
南方の地は暖かで山の桂の木は冬の寒さにもしぼむことなく青さを残している。


銅陵映碧潤,石磴瀉紅泉。
谷をゆけば銅鉱山は碧の谷川に映し、石段の坂には丹沙の中から、紅色の水が流れ出る。
 石の段。○紅泉 丹沙の中から、水が流れ出るので、色は紅。


既枉隱淪客,亦棲肥遯賢。
ここにはかって隱淪という世俗から隠れ住む人が来たし、同様に、肥遯の人も棲んだ。
 曲、まげる。○隱淪 世俗から隠れ住む。○ 止、久しくとどまる。ただし、この詩では、枉げると棲は同意に用いたのであろう。○肥遯 世をのがれかくれるという意味。肥は飛。隱淪と肥遯は、独往の意をふくむ。○ すぐれた人、高士の意味。「客」字も、そのような高士をさす。


險徑無測度,天路非術阡。
山道は険しくてその高さを測りしることができない、天にのぼる路のようで、それは常なみの道ではない。

登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。 謝霊運(康楽) 詩<65-#4>Ⅱ李白に影響を与えた詩486 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1275

登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。 謝霊運(康楽) 詩<65-#4>Ⅱ李白に影響を与えた詩486 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1275



登臨海嶠、發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。
臨海の高く鋭い山を登るために、疆中を出立するときに作る。この詩はその時従弟の謝蕙連にあたえ、羊璿之、何長瑜、筍蕹らには示したもので四友共にこの詩を唱和したものである。
(臨海嶠に登らんとて、初め彊中を寄せしとき作る。從弟惠連に与え 羊何に見して共に之に和せしむ。)
その1
杪秋臨遠山,山遠行不近。
晩秋になって遠い臨海山を尋ねようとするが、その山への路をすすむにはとても近くはない
與子別山阿,含酸赴脩畛。
君と山の隈までいって別れようということであったが、寂しくなる、悲しみの情をいだきつつ田畑の中の長い路を行った。
中流袂就判,欲去情不忍。
そして中流で君と袂を分かちおえる、たち去ろうとおもうのであるが別れたくない情にたえられない。
顧望脰未悁,汀曲舟已隱。
ふりかえっては君を望み、首すじがまだ疲れず名残りもつきないうちに、早くも君の舟は岸の曲りかどで隠れてしまった。
杪秋に遠山を尋ねんとす、山遠くして行くに近からず。
子と山阿に別れ、酸を含みて脩畛に赴く。
中流にて袂は判に就き、去らんと欲して情忍びず。
顧望して脰は未だ悁れざるに、汀曲に舟は己に隱る。

その2
隱汀絕望舟,驚棹逐驚流。
君の舟は岸の曲りに望むのに絶たれて隠れてしまい、わたしは棹を早めて波たつ流れを追いかけ進む。
欲抑一生歡,并奔千里遊。
これまでどおり君と共に楽しみたい心をおさえ、と同時に君とともに千里の遠きに行きたいのに、それはできないことなのだ。
日落當棲薄,繫纜臨江樓。
日は落ち、暗くなり舟を泊める時になったので、ともづなを臨江樓のほとりにつないだ。
豈惟夕情歛,憶爾共淹留。
夕方の色がおさまり晩になったというばかりでなく、君を憶う心も更に深いので、それらのためにこの江楼に留ったのである。
汀【てい】に隱れて望舟【ぼうしゅう】を絕ち,棹【さお】を驚【は】せて驚流【けいりゅう】を逐う。
一生の歡【かん】を抑んと欲す,并【なら】びに千里の遊に奔らんと。
日落ちて當【まさ】に棲薄【せいはく】すべし,纜【ともずな】を繫ぐ臨江樓。
豈惟だ夕情の歛むらんや,爾【なんじ】を憶いて共に淹留【えんりゅう】す。

その3
淹留昔時歡,復增今日歎。
この楼(臨江樓)にとどまっていると、かつて君と歓び遊んだことを思いだし、するとまた今日の離別の悲しさは更に増してくる。
茲情已分慮,况乃協悲端。
この哀しい情はわたしの思慮をかき乱し分裂する上に、ましてや時あたかも悲しさをそそる秋である。
秋泉鳴北澗,哀猿響南巒。
北の谷川には水の音が鳴り、南の連なった山々には猿の声が哀しげにひびいている。
戚戚新別心,悽悽久念攢。
憂いに満ち満ちた君と別れたばかりの心であり、胸にあつまり迫るのは往時を思う念が悲しくも起こるからである。
掩留【えんりゅう】するに昔時【せきじ】の歓のために、復た今日の歎【たん】を檜す。
茲【こ】の情は己に慮【おもんばかり】を分つ、況んや乃【すなわ】ち悲端【ひたん】に協【かな】えるをや。
秋泉【しゅうせん】は北澗【ほくかん】に鳴り、哀猿【あいえん】は南巒【なんらん】に響く。
戚戚【せきせき】たり新に別るるの心、悽悽【せいせい】として久念【きゅうねん】攢【あつ】まる。

その4
攢念攻別心,旦發清溪陰。
臨江楼にいると思う念があつまり、ここを別離しようとする心を攻めたてられるのである、明朝こそは清溪の南を出発することにしょう。
暝投剡中宿,明登天姥岑。
そして明日の夕刻には剡中にいって宿り、更にその翌朝は剡中の天姥山(臨海嶠)に登ろうと思う。
高高入雲霓,還期那可尋。
そして高い高い雲に分け入ったとしたら、帰りには尋遠山によると約束していたがその時期はいつになるかわからない。
倘遇浮丘公,長絕子徽音。
あるいは、もし、山中で浮丘公のような仙人にあうようなことがあったならは、王子喬がそのまま山にとどまったように永久に君のおたよりを貰えぬことになるだろう。 
攢念【さんねん】は別心を攻め,旦【あした】に清溪【せいけい】の陰を發す。
暝【ゆうべ】に剡中【せんちゅう】の宿に投じ,明【あした】に天姥【てんろう】の岑【みね】に登る。
高高【こうこう】として雲霓【うんけい】に入り,還期【かんき】は那ぞ尋ぬ可きや。
倘【も】し浮丘公【ふきゅうこう】に遇えば,長く子の徽音【きいん】を絕たん。


現代語訳と訳註
(本文) その4
攢念攻別心,旦發清溪陰。暝投剡中宿,明登天姥岑。
高高入雲霓,還期那可尋。倘遇浮丘公,長絕子徽音。


(下し文) その4
攢念【さんねん】は別心を攻め,旦【あした】に清溪【せいけい】の陰を發す。
暝【ゆうべ】に剡中【せんちゅう】の宿に投じ,明【あした】に天姥【てんろう】の岑【みね】に登る。
高高【こうこう】として雲霓【うんけい】に入り,還期【かんき】は那ぞ尋ぬ可きや。
倘【も】し浮丘公【ふきゅうこう】に遇えば,長く子の徽音【きいん】を絕たん。


(現代語訳)(その四)
臨江楼にいると思う念があつまり、ここを別離しようとする心を攻めたてられるのである、明朝こそは清溪の南を出発することにしょう。
そして明日の夕刻には剡中にいって宿り、更にその翌朝は剡中の天姥山(臨海嶠)に登ろうと思う。
そして高い高い雲に分け入ったとしたら、帰りには尋遠山によると約束していたがその時期はいつになるかわからない。
あるいは、もし、山中で浮丘公のような仙人にあうようなことがあったならは、王子喬がそのまま山にとどまったように永久に君のおたよりを貰えぬことになるだろう。 


(訳注) その4
攢念攻別心,旦發清溪陰。
臨江楼にいると思う念があつまり、ここを別離しようとする心を攻めたてられるのである、明朝こそは清溪の南を出発することにしょう。
・攢 あつまる。葬らないで棺に土をかけること。うがつ。


暝投剡中宿,明登天姥岑。
そして明日の夕刻には剡中にいって宿り、更にその翌朝は剡中の天姥山(臨海嶠)に登ろうと思う。
剡中 浙江省嵊県。・天姥 山の名。浙江省新昌県の南部にある、主峰「撥雲尖」は標高817m。『太平寰宇記』(江南道八「越州、剡県」所引)の『後呉録』によれば、この山に登ると天姥(天上の老女)の歌う声が聞こえる、と伝えられる。


高高入雲霓,還期那可尋。
そして高い高い雲に分け入ったとしたら、帰りには尋遠山によると約束していたがその時期はいつになるかわからない。
・還期 帰る時期の約束。その1 
杪秋臨遠山,山遠行不近。
與子別山阿,含酸赴脩畛。
中流袂就判,欲去情不忍
顧望脰未悁,汀曲舟已隱。


倘遇浮丘公,長絕子徽音。
あるいは、もし、山中で浮丘公のような仙人にあうようなことがあったならは、王子喬がそのまま山にとどまったように永久に君のおたよりを貰えぬことになるだろう。 
/・浮斤公 列仙伝に「王子喬は好んで笠を吹く。道人の浮丘公は接して以て嵩山にのぼる」。周の霊王の太子。笙を吹くことを好み、とりわけ鳳凰の鳴き声を出すことが得意だった。王子喬がある時、河南省の伊水と洛水を漫遊した時に、浮丘公という道士に出逢った。王子喬は、その道士について嵩山に登っていった。そこにいること三十余年、浮丘公の指導の下、仙人になった。その後、王子喬は白い鶴に乗って、飛び去った、という『列仙傳』に出てくる故事中の人物。○微音 りっぱななたより。

登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。 謝霊運(康楽) 詩<65-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩485 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1272

登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。 謝霊運(康楽) 詩<65-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩485 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1272


この詩は、臨海山に登るべく、彊中を出発した時の作。




登臨海嶠、發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。
臨海の高く鋭い山を登るために、疆中を出立するときに作る。この詩はその時従弟の謝蕙連にあたえ、羊璿之、何長瑜、筍蕹らには示したもので四友共にこの詩を唱和したものである。
(臨海嶠に登らんとて、初め彊中を寄せしとき作る。從弟惠連に与え 羊何に見して共に之に和せしむ。)
その1
杪秋臨遠山,山遠行不近。
晩秋になって遠い臨海山を尋ねようとするが、その山への路をすすむにはとても近くはない
與子別山阿,含酸赴脩畛。
君と山の隈までいって別れようということであったが、寂しくなる、悲しみの情をいだきつつ田畑の中の長い路を行った。
中流袂就判,欲去情不忍。
そして中流で君と袂を分かちおえる、たち去ろうとおもうのであるが別れたくない情にたえられない。
顧望脰未悁,汀曲舟已隱。
ふりかえっては君を望み、首すじがまだ疲れず名残りもつきないうちに、早くも君の舟は岸の曲りかどで隠れてしまった。
杪秋に遠山を尋ねんとす、山遠くして行くに近からず。
子と山阿に別れ、酸を含みて脩畛に赴く。
中流にて袂は判に就き、去らんと欲して情忍びず。
顧望して脰は未だ悁れざるに、汀曲に舟は己に隱る。

その2
隱汀絕望舟,驚棹逐驚流。
君の舟は岸の曲りに望むのに絶たれて隠れてしまい、わたしは棹を早めて波たつ流れを追いかけ進む。
欲抑一生歡,并奔千里遊。
これまでどおり君と共に楽しみたい心をおさえ、と同時に君とともに千里の遠きに行きたいのに、それはできないことなのだ。
日落當棲薄,繫纜臨江樓。
日は落ち、暗くなり舟を泊める時になったので、ともづなを臨江樓のほとりにつないだ。
豈惟夕情歛,憶爾共淹留。
夕方の色がおさまり晩になったというばかりでなく、君を憶う心も更に深いので、それらのためにこの江楼に留ったのである。
汀【てい】に隱れて望舟【ぼうしゅう】を絕ち,棹【さお】を驚【は】せて驚流【けいりゅう】を逐う。
一生の歡【かん】を抑んと欲す,并【なら】びに千里の遊に奔らんと。
日落ちて當【まさ】に棲薄【せいはく】すべし,纜【ともずな】を繫ぐ臨江樓。
豈惟だ夕情の歛むらんや,爾【なんじ】を憶いて共に淹留【えんりゅう】す。

その3
淹留昔時歡,復增今日歎。
この楼(臨江樓)にとどまっていると、かつて君と歓び遊んだことを思いだし、するとまた今日の離別の悲しさは更に増してくる。
茲情已分慮,况乃協悲端。
この哀しい情はわたしの思慮をかき乱し分裂する上に、ましてや時あたかも悲しさをそそる秋である。
秋泉鳴北澗,哀猿響南巒。
北の谷川には水の音が鳴り、南の連なった山々には猿の声が哀しげにひびいている。
戚新別心,悽悽久念攢。

憂いに満ち満ちた君と別れたばかりの心であり、胸にあつまり迫るのは往時を思う念が悲しくも起こるからである。
掩留【えんりゅう】するに昔時【せきじ】の歓のために、復た今日の歎【たん】を檜す。
茲【こ】の情は己に慮【おもんばかり】を分つ、況んや乃【すなわ】ち悲端【ひたん】に協【かな】えるをや。
秋泉【しゅうせん】は北澗【ほくかん】に鳴り、哀猿【あいえん】は南巒【なんらん】に響く。
戚戚【せきせき】たり新に別るるの心、悽悽【せいせい】として久念【きゅうねん】攢【あつ】まる。

その4
攢念攻別心,旦發清溪陰。暝投剡中宿,明登天姥岑。
高高入雲霓,還期那可尋。倘遇浮丘公,長絕子徽音。



keikoku00

現代語訳と訳註
(本文)
その3
淹留昔時歡,復增今日歎。茲情已分慮,况乃協悲端。
秋泉鳴北澗,哀猿響南巒。戚戚新別心,悽悽久念攢。


(下し文) その3
掩留【えんりゅう】するに昔時【せきじ】の歓のために、復た今日の歎【たん】を檜す。
茲【こ】の情は己に慮【おもんばかり】を分つ、況んや乃【すなわ】ち悲端【ひたん】に協【かな】えるをや。
秋泉【しゅうせん】は北澗【ほくかん】に鳴り、哀猿【あいえん】は南巒【なんらん】に響く。
戚戚【せきせき】たり新に別るるの心、悽悽【せいせい】として久念【きゅうねん】攢【あつ】まる。


(現代語訳)
この楼(臨江樓)にとどまっていると、かつて君と歓び遊んだことを思いだし、するとまた今日の離別の悲しさは更に増してくる。
この哀しい情はわたしの思慮をかき乱し分裂する上に、ましてや時あたかも悲しさをそそる秋である。
北の谷川には水の音が鳴り、南の連なった山々には猿の声が哀しげにひびいている。
憂いに満ち満ちた君と別れたばかりの心であり、胸にあつまり迫るのは往時を思う念が悲しくも起こるからである。


(訳注) その3
淹留昔時歡,復增今日歎。
この楼(臨江樓)にとどまっていると、かつて君と歓び遊んだことを思いだし、するとまた今日の離別の悲しさは更に増してくる。

 
茲情已分慮,况乃協悲端。
この哀しい情はわたしの思慮をかき乱し分裂する上に、ましてや時あたかも悲しさをそそる秋である。
悲端 哀しい心ばえ。秋のこと。宋玉『楚辞、九辯』に、「悲しいかな秋の気たるや」。


秋泉鳴北澗,哀猿響南巒。
北の谷川には水の音が鳴り、南の連なった山々には猿の声が哀しげにひびいている。
 山の形の長く狭いもの。連なった山々。


戚戚新別心,悽悽久念攢。
憂いに満ち満ちた君と別れたばかりの心であり、胸にあつまり迫るのは往時を思う念が悲しくも起こるからである。
新別 あらたに別れる。今しがた別れたばかりの、の意味。○久念 旧畔のおもい。

登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。 謝霊運(康楽) 詩<65-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩484 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1269

登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。 謝霊運(康楽) 詩<65-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩484 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1269


この詩は、臨海山に登るべく、彊中を出発した時の作。


登臨海嶠、發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。
臨海の高く鋭い山を登るために、疆中を出立するときに作る。この詩はその時従弟の謝蕙連にあたえ、羊璿之、何長瑜、筍蕹らには示したもので四友共にこの詩を唱和したものである。
(臨海嶠に登らんとて、初め彊中を寄せしとき作る。從弟惠連に与え 羊何に見して共に之に和せしむ。)
その1
杪秋臨遠山,山遠行不近。
晩秋になって遠い臨海山を尋ねようとするが、その山への路をすすむにはとても近くはない
與子別山阿,含酸赴脩畛。
君と山の隈までいって別れようということであったが、寂しくなる、悲しみの情をいだきつつ田畑の中の長い路を行った。
中流袂就判,欲去情不忍。
そして中流で君と袂を分かちおえる、たち去ろうとおもうのであるが別れたくない情にたえられない。
顧望脰未悁,汀曲舟已隱。

ふりかえっては君を望み、首すじがまだ疲れず名残りもつきないうちに、早くも君の舟は岸の曲りかどで隠れてしまった。
杪秋に遠山を尋ねんとす、山遠くして行くに近からず。
子と山阿に別れ、酸を含みて脩畛に赴く。
中流にて袂は判に就き、去らんと欲して情忍びず。
顧望して脰は未だ悁れざるに、汀曲に舟は己に隱る。
その2
隱汀絕望舟,驚棹逐驚流。
君の舟は岸の曲りに望むのに絶たれて隠れてしまい、わたしは棹を早めて波たつ流れを追いかけ進む。
欲抑一生歡,并奔千里遊。
これまでどおり君と共に楽しみたい心をおさえ、と同時に君とともに千里の遠きに行きたいのに、それはできないことなのだ。
日落當棲薄,繫纜臨江樓。
日は落ち、暗くなり舟を泊める時になったので、ともづなを臨江樓のほとりにつないだ。
豈惟夕情歛,憶爾共淹留。

夕方の色がおさまり晩になったというばかりでなく、君を憶う心も更に深いので、それらのためにこの江楼に留ったのである。
汀【てい】に隱れて望舟【ぼうしゅう】を絕ち,棹【さお】を驚【は】せて驚流【けいりゅう】を逐う。
一生の歡【かん】を抑んと欲す,并【なら】びに千里の遊に奔らんと。
日落ちて當【まさ】に棲薄【せいはく】すべし,纜【ともずな】を繫ぐ臨江樓。
豈惟だ夕情の歛むらんや,爾【なんじ】を憶いて共に淹留【えんりゅう】す。
a謝霊運永嘉ルート02

その3
淹留昔時歡,復增今日歎。茲情已分慮,况乃協悲端。
秋泉鳴北澗,哀猿響南巒。戚戚新別心,悽悽久念攢。
その4
攢念攻別心,旦發清溪陰。暝投剡中宿,明登天姥岑。
高高入雲霓,還期那可尋。倘遇浮丘公,長絕子徽音。



現代語訳と訳註
(本文) その2

隱汀絕望舟,驚棹逐驚流。
欲抑一生歡,并奔千里遊。
日落當棲薄,繫纜臨江樓。
豈惟夕情歛,憶爾共淹留。


(下し文)
汀【てい】に隱れて望舟【ぼうしゅう】を絕ち,棹【さお】を驚【は】せて驚流【けいりゅう】を逐う。
一生の歡【かん】を抑んと欲す,并【なら】びに千里の遊に奔らんと。
日落ちて當【まさ】に棲薄【せいはく】すべし,纜【ともずな】を繫ぐ臨江樓。
豈惟だ夕情の歛むらんや,爾【なんじ】を憶いて共に淹留【えんりゅう】す。


(現代語訳) (その二)
君の舟は岸の曲りに望むのに絶たれて隠れてしまい、わたしは棹を早めて波たつ流れを追いかけ進む。
これまでどおり君と共に楽しみたい心をおさえ、と同時に君とともに千里の遠きに行きたいのに、それはできないことなのだ。
日は落ち、暗くなり舟を泊める時になったので、ともづなを臨江樓のほとりにつないだ。
夕方の色がおさまり晩になったというばかりでなく、君を憶う心も更に深いので、それらのためにこの江楼に留ったのである。


(訳注) #2
隱汀絕望舟,驚棹逐驚流。
君の舟は岸の曲りに望むのに絶たれて隠れてしまい、わたしは棹を早めて波たつ流れを追いかけ進む。


欲抑一生歡,并奔千里遊。
これまでどおり君と共に楽しみたい心をおさえ、と同時に君とともに千里の遠きに行きたいのに、それはできないことなのだ。
一生之歓 列子に、公孫朝の言「一生の歓を尽くし、当年の楽しみを窮めんと欲す」。謝悪運は、それと反対である。「抑歡」は遠く別れることに、「奔遊」は、離別の悲しさが増すことにかかる。


日落當棲薄,繫纜臨江樓。
日は落ち、暗くなり舟を泊める時になったので、ともづなを臨江樓のほとりにつないだ。
棲薄 二字とも、とまる、泊。


豈惟夕情歛,憶爾共淹留。
夕方の色がおさまり晩になったというばかりでなく、君を憶う心も更に深いので、それらのためにこの江楼に留ったのである。
 おさまる。収斂。やむ。○共沌留 「夕情斂」と「憶爾」のふたつのことにとどまる。

登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。 謝霊運(康楽) 詩<66-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩475 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1242

登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。 謝霊運(康楽) 詩<66-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩475 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1242
  文選447
この詩は、臨海山に登るべく、彊中を出発した時の作。


登臨海嶠、發疆中作、與從弟惠連、可見羊何共和之。

臨海の高く鋭い山を登るために、疆中を出立するときに作る。この詩はその時従弟の謝蕙連にあたえ、羊璿之、何長瑜、筍蕹らには示したもので四友共にこの詩を唱和したものである。
その1

杪秋臨遠山,山遠行不近。
晩秋になって遠い臨海山を尋ねようとするが、その山への路をすすむにはとても近くはない
與子別山阿,含酸赴脩畛。
君と山の隈までいって別れようということであったが、寂しくなる、悲しみの情をいだきつつ田畑の中の長い路を行った。
中流袂就判,欲去情不忍。
そして中流で君と袂を分かちおえる、たち去ろうとおもうのであるが別れたくない情にたえられない。
顧望脰未悁,汀曲舟已隱。

ふりかえっては君を望み、首すじがまだ疲れず名残りもつきないうちに、早くも君の舟は岸の曲りかどで隠れてしまった。

keikoku00

その2
隱汀絕望舟,驚棹逐驚流。欲抑一生歡,并奔千里遊。
日落當棲薄,繫纜臨江樓。豈惟夕情歛,憶爾共淹留。
その3
淹留昔時歡,復增今日歎。茲情已分慮,况乃協悲端。
秋泉鳴北澗,哀猿響南巒。戚戚新別心,悽悽久念攢。
その4
攢念攻別心,旦發清溪陰。暝投剡中宿,明登天姥岑。
高高入雲霓,還期那可尋。倘遇浮丘公,長絕子徽音。

宮島(5)

現代語訳と訳註
(本文)

登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。
杪秋臨遠山,山遠行不近。
與子別山阿,含酸赴脩畛。
中流袂就判,欲去情不忍。
顧望脰未悁,汀曲舟已隱。

(下し文)
(臨海嶠に登らんとて、初め彊中を寄せしとき作る。從弟惠連に与え 羊何に見して共に之に和せしむ。)
杪秋に遠山を尋ねんとす、山遠くして行くに近からず。
子と山阿に別れ、酸を含みて脩畛に赴く。
中流にて袂は判に就き、去らんと欲して情忍びず。
顧望して脰は未だ悁れざるに、汀曲に舟は己に隱る。


(現代語訳)
臨海の高く鋭い山を登るために、疆中を出立するときに作る。この詩はその時従弟の謝蕙連にあたえ、羊璿之、何長瑜、筍蕹らには示したもので四友共にこの詩を唱和したものである。
晩秋になって遠い臨海山を尋ねようとするが、その山への路をすすむにはとても近くはない
君と山の隈までいって別れようということであったが、寂しくなる、悲しみの情をいだきつつ田畑の中の長い路を行った。
そして中流で君と袂を分かちおえる、たち去ろうとおもうのであるが別れたくない情にたえられない。
ふりかえっては君を望み、首すじがまだ疲れず名残りもつきないうちに、早くも君の舟は岸の曲りかどで隠れてしまった。


(訳注)
登臨海嶠、發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。
臨海の高く鋭い山を登るために、疆中を出立するときに作る。この詩はその時従弟の謝蕙連にあたえ、羊璿之、何長瑜、筍蕹らには示したもので四友共にこの詩を唱和したものである。
臨海嶠 臨海の高く鋭い山・嶠 高く鋭い山。・疆中 ・羊何
四友沈約の宋書の謝霊伝には「謝霊運は東に帰ってから、謝恵連や、東海の何長瑜、頴川の筍蕹、太山の羊璿之と文章をもって会し、共に山沢の遊びをなした。時人は、これを四友といった」ことが見える。又これらのことを詠ったものに李白『翰林讀書言懷呈集賢諸學士』がある。
翰林讀書言懷呈集賢諸學士
晨趨紫禁中。 夕待金門詔。
觀書散遺帙。 探古窮至妙。
片言苟會心。 掩卷忽而笑。
青蠅易相點。 白雪難同調。
本是疏散人。 屢貽褊促誚。
云天屬清朗。 林壑憶游眺。
或時清風來。 閑倚檐下嘯。
嚴光桐廬溪。 謝客臨海嶠。
功成謝人間。 從此一投釣。

林讀書言懷呈集賢諸學士 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白176 と玄宗(8


孟浩然『將適天臺、留別臨安李主簿』孟浩然が、天台山へ向かう途上、浙江の臨安県で知人に別れた留別の詩である。孟浩然は謝霊運『登臨海嶠、初發疆中作』とほぼ同じルートで天台山へ向かっている。これは、謝霊運の詩に基づき詩作したものである。
將適天臺,留別臨安李主簿
枳棘君尚棲,匏瓜吾豈系。
念離當夏首,漂泊指炎裔。
江海非墮游,田園失歸計。
定山既早發,漁浦亦宵濟。
泛泛隨波瀾,行行任艫枻。
故林日已遠,群木坐成翳。
羽人在丹丘,吾亦從此逝。孟浩然の官界への深い失望感が表され、天台山はイメージとしてうたっているので、具体性、動的な観察表現は全くない。ゆったりと波にまかせて進んだ先にあること、木陰をなす川筋の先にあることなど、天台山への道のりが、快適な自然の中にあること、すべてがイメージだけのものである。

盛唐詩 將適天臺,留別臨安李主簿 孟浩然26 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -333


杪秋臨遠山,山遠行不近。
晩秋になって遠い臨海山を尋ねようとするが、その山への路をすすむにはとても近くはない。
杪秋 晩秋。杪:木の梢。木の末端部をいうことから、杪秋、杪冬とつかう。

與子別山阿,含酸赴脩畛。
君と山の隈までいって別れようということであったが、寂しくなる、悲しみの情をいだきつつ田畑の中の長い路を行った。
脩畛 五臣江本にしたがって「珍」を「瞼」とした。田畑の中の長い道。


中流袂就判,欲去情不忍。
そして中流で君と袂を分かちおえる、たち去ろうとおもうのであるが別れたくない情にたえられない。
就判 就:つく、おえる。判:別れる、離れる。

顧望脰未悁,汀曲舟已隱。
ふりかえっては君を望み、首すじがまだ疲れず名残りもつきないうちに、早くも君の舟は岸の曲りかどで隠れてしまった。
:くびすじ、うなじ。:腹を立てる。なやむ。あせる。名残の思い。

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#5>Ⅱ李白に影響を与えた詩464 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1209

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#5>Ⅱ李白に影響を与えた詩464 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1209


還舊園作見顏范二中書 謝靈運

#1
辭滿豈多秩,謝病不待年。
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
偶與張邴合,久欲還東山。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
聖靈昔回眷,微尚不及宣。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。
何意沖飆激,烈火縱炎烟。
ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。
(旧園に還りて作り、顔范二中書に見す)#1
満をのぞまず辞す 豈 秩【ちつ】多くありとや、病と謝するに年を待たず。
偶【たまた】ま張邴【ちょうへい】と合い、久しく東山に還らんと欲す。
聖靈【せいれい】は昔 廻眷【かいけん】せしも、微尚【びしょう】は宣【の】ぶるに及ばず。
何ぞ意【おも】はん沖飆【ちゅうひょう】激し、烈火【れっか】は炎烟【えんえん】を縦【ほしいまま】にせんとは。

#2
焚玉發崑峰,餘燎遂見遷。
かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
投沙理既迫,如邛原亦愆。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
長與懽愛別,永絶平生緣。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。
#2
玉を焚くこと崑峰【こんぽう】より發し、餘燎【よりょう】に遂に遷さるを見る。
沙に投じて理は既に迫り、邛【きょう】に如【ゆ】きて 願 亦【たちまち】愆【あやま】つ。
長く懽愛【かんあい】と別れ、永く平生の緣を絶つ。
舟を千仞【せんじん】の壑【たに】に浮べ、轡【たずな】を萬尋【ばんじん】の巔【いただき】に揔【と】る。
#3
流沫不足險,石林豈為艱。
この流れに比べると、論語でいうかの呂梁さえも険しいとするには足らず、この山に比べると、かの石林山もどうして難所と言えようか、艱険なことは呂梁や石林以上である。
閩中安可處,日夜念歸旋。
永嘉は都を遠くはなれた閩中の地という場所であり、何でそこに落ちついておられようか、昼も夜も会稽に帰りたいと望んでいた。
事躓兩如直,心愜三避賢。
己に世の治乱にかかわらず論語でいう史魚と遽伯玉の二人の直道を守るものほどのものであるがつまずき失敗し、左遷の憂きめをみたが、心は孫叔敖の三度退けられても悔いぬごとき賢に満足している。
託身青雲上,棲岩挹飛泉。
会稽の荘園では、青雲のかかる山の高きに身を寄せ、いわおのほとりに住んで谷川の水をすくいとって飲むという日常であった。
#3
流沫【りゅうまつ】も險とするに足らず、石林【せきりん】も豈【あに】艱【かん】と為さんや。
閩中【びんちゅう】には安んぞ處【お】る可けん、日夜に歸旋【きせん】を念【おも】う。
事は兩如【りょうじょ】の直に躓【つまづ】けるも、心は三避の賢に愜【あきた】る。
身を青雲の上に託し、巌【いわお】に棲みて飛泉【ひせん】を挹【く】む。

#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅。
424年文帝即位し、426年には盛明の徳をもって暗い陰湿な徐羨之らの横暴を粛清したのである、そして正美の道をもって難儀な状態を鎮め落ち着いた世にした。
殊方咸成貸,微物豫采甄。
それで遠い国々までも皆、徳の恩恵をうけて国が栄えたのであるし、微細でとるに足らないわたしごときをおとりあげになり、恩命に接したのである。
感深操不固,質弱易版纏。
わたしはこれに深く感じいって隠退の志は堅いということでなく、気も弱くて恩命に引かれ易いままに秘書監の職についた。(426年秘書監となる。秘閣の書を整理し、『晋書』を作る。)。
曾是反昔園,語往實款然。
かくて官についたものの今や会稽の先祖伝来の荘園にもどり、過ぎし日の事など語ることができて打ち解けて。真心から人に接することが実にうれしい。
#4
盛明【せいめい】は氛昏【ふんこん】を蕩【あら】ひ、貞休【ていきゅう】は屯邅【ちゅうてん】を康んず。
殊方【しゅほう】は咸【みな】貸【めぐみ】に成り、微物【びぶつ】も采甄【さいけん】に豫【あずか】る。
感は深くして操は固からず、質は弱くして版纏【はんてん】し易し。
曾ち是れ昔園【せきえん】に反り,語往を語りて實に款然【かんぜん】たり。

#5
曩基即先築,故池不更穿。
修業ための家屋、別荘は以前すでに建築している、池はもとからあり、この上さらに掘ることはいらないのである。
果木有舊行,壤石無遠延。
果樹はもとのままに立ち並び、土や石も近くにあるから遠方から持ち運ぶ必要はない。
雖非休憩地,聊取永日閒。
この先祖からの荘園は真に休憩すべき地ではないにしても、まあ昼を長く引きのばして楽しむといわれる、その永日ののどかな心を養いたい。
衛生自有經,息陰謝所牽。
生を守り命を全うするには自ずから方法かあるもので、日向で影ができるのが嫌で日の当らぬ影の所に休み、俗務に引きわずらわされぬようにしたい。
夫子照清素,探懷授往篇。
顔・范の二君はわが胸の中から本当の心を探りとっているので、わが胸のうちを述べたこの詩を差しあげる。
#5
曩基【のうき】即ち先に築けり,故池【こち】は更に穿たず。
果木【かぼく】舊行【きゅうこう】有り,壤石【じょうせき】は遠延【えんえん】無し。
休憩の地に非ず雖ども,聊【いささ】か永日【えいじつ】の閒を取る。
生を衛【まも】るには自ら經【つね】有り,陰に息いて牽く所のものを謝せん。
夫子【ふうし】は清素【せいそ】を照【あきら】かにす,懷【ふところ】に探りて往篇【おうへん】授【さづ】く。

demen07

現代語訳と訳註
(本文)
#5
曩基即先築,故池不更穿。果木有舊行,壤石無遠延。
雖非休憩地,聊取永日閒。衛生自有經,息陰謝所牽。
夫子照清素,探懷授往篇。


(下し文) #5
曩基【のうき】即ち先に築けり,故池【こち】は更に穿たず。
果木【かぼく】舊行【きゅうこう】有り,壤石【じょうせき】は遠延【えんえん】無し。
休憩の地に非ず雖ども,聊【いささ】か永日【えいじつ】の閒を取る。
生を衛【まも】るには自ら經【つね】有り,陰に息いて牽く所のものを謝せん。
夫子【ふうし】は清素【せいそ】を照【あきら】かにす,懷【ふところ】に探りて往篇【おうへん】授【さづ】く。


(現代語訳)
修業ための家屋、別荘は以前すでに建築している、池はもとからあり、この上さらに掘ることはいらないのである。
果樹はもとのままに立ち並び、土や石も近くにあるから遠方から持ち運ぶ必要はない。
この先祖からの荘園は真に休憩すべき地ではないにしても、まあ昼を長く引きのばして楽しむといわれる、その永日ののどかな心を養いたい。
生を守り命を全うするには自ずから方法かあるもので、日向で影ができるのが嫌で日の当らぬ影の所に休み、俗務に引きわずらわされぬようにしたい。
顔・范の二君はわが胸の中から本当の心を探りとっているので、わが胸のうちを述べたこの詩を差しあげる。


(訳注)#5
曩基即先築,故池不更穿。

修業ための家屋、別荘は以前すでに建築している、池はもとからあり、この上さらに掘ることはいらないのである。
 昔、以前。○ 土台。ここは家屋のこと。浄土教による学問修業の場、別荘や寺もたてている。


果木有舊行,壤石無遠延。
果樹はもとのままに立ち並び、土や石も近くにあるから遠方から持ち運ぶ必要はない。


雖非休憩地,聊取永日閒。
この先祖からの荘園は真に休憩すべき地ではないにしても、まあ昼を長く引きのばして楽しむといわれる、その永日ののどかな心を養いたい。
永日 のどかな春の日。春の日長。一日中。日を長くする。『詩経、唐風、山有樞』「且以喜楽、且以永日」(且つ以て喜楽し、且つ以て日を永うせん。)琴を引いて愉快にやれば楽しくもあり、一日のんびりと暮らせる。―ということでこの詩に基づいている。
 

衛生自有經,息陰謝所牽。
生を守り命を全うするには自ずから方法かあるもので、日向で影ができるのが嫌で日の当らぬかげの所に休み、俗務に引きわずらわされぬようにしたい。
衛生 生命を守り全うする。健康を保ち、病気の予防、治療をはかること。『荘子、庚桑楚』「 南榮趎曰:“里人有病,里人問之,病者能言其病,然其病病者猶未病也。若趎之聞大道,譬猶飲藥以加病也,趎願聞衛生之經而已矣。”老子曰:“衛生之經,能抱一乎?能勿失乎?能無卜筮而知吉凶乎?能止乎?能已乎?」南栄趎曰く、願はくは生を衛るの經を聞かんのみと。老子日く、生を衛るの経は、能く一を抱かんかな。能く失ふ勿からんかな。能く物と委蛇して其の波に同じくするは、是れ生を衛るの経なり」。・経とは道、方法。○息陰 荘子に「人、影を畏れ迩を悪み、之を去りて走るものあり。足を挙ぐること愈々しばしばすれば、迹ほ愈々疾ければ影は身を離れず」ということから、影がうつるのをやめたいならば、走り動くことをやめて、日光の当らぬ所に居ればよい。そこならば影は生ぜぬ」といった。○謝 しりぞけことわる。


夫子照清素,探懷授往篇。
顔・范の二君はわが胸の中から本当の心を探りとっているので、わが胸のうちを述べたこの詩を差しあげる。
探懷 胸の中から情素(ほんとの心)を探りとる。○往篇 当方から寄せる詩。先方から寄こすものを来詩という。顔延之(延年)  和謝監靈運  詩<61-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩456 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1185謝靈運の酬従弟恵運にも用例がある。

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#4>Ⅱ李白に影響を与えた詩463 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1206

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#4>Ⅱ李白に影響を与えた詩463 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1206


還舊園作見顏范二中書 謝靈運

#1
辭滿豈多秩,謝病不待年。
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
偶與張邴合,久欲還東山。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
聖靈昔回眷,微尚不及宣。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。
何意沖飆激,烈火縱炎烟。
ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。
(旧園に還りて作り、顔范二中書に見す)#1
満をのぞまず辞す 豈 秩【ちつ】多くありとや、病と謝するに年を待たず。
偶【たまた】ま張邴【ちょうへい】と合い、久しく東山に還らんと欲す。
聖靈【せいれい】は昔 廻眷【かいけん】せしも、微尚【びしょう】は宣【の】ぶるに及ばず。
何ぞ意【おも】はん沖飆【ちゅうひょう】激し、烈火【れっか】は炎烟【えんえん】を縦【ほしいまま】にせんとは。

#2
焚玉發崑峰,餘燎遂見遷。
かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
投沙理既迫,如邛原亦愆。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
長與懽愛別,永絶平生緣。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。
#2
玉を焚くこと崑峰【こんぽう】より發し、餘燎【よりょう】に遂に遷さるを見る。
沙に投じて理は既に迫り、邛【きょう】に如【ゆ】きて 願 亦【たちまち】愆【あやま】つ。
長く懽愛【かんあい】と別れ、永く平生の緣を絶つ。
舟を千仞【せんじん】の壑【たに】に浮べ、轡【たずな】を萬尋【ばんじん】の巔【いただき】に揔【と】る。
#3
流沫不足險,石林豈為艱。
この流れに比べると、論語でいうかの呂梁さえも険しいとするには足らず、この山に比べると、かの石林山もどうして難所と言えようか、艱険なことは呂梁や石林以上である。
閩中安可處,日夜念歸旋。
永嘉は都を遠くはなれた閩中の地という場所であり、何でそこに落ちついておられようか、昼も夜も会稽に帰りたいと望んでいた。
事躓兩如直,心愜三避賢。
己に世の治乱にかかわらず論語でいう史魚と遽伯玉の二人の直道を守るものほどのものであるがつまずき失敗し、左遷の憂きめをみたが、心は孫叔敖の三度退けられても悔いぬごとき賢に満足している。
託身青雲上,棲岩挹飛泉。
会稽の荘園では、青雲のかかる山の高きに身を寄せ、いわおのほとりに住んで谷川の水をすくいとって飲むという日常であった。
#3
流沫【りゅうまつ】も險とするに足らず、石林【せきりん】も豈【あに】艱【かん】と為さんや。
閩中【びんちゅう】には安んぞ處【お】る可けん、日夜に歸旋【きせん】を念【おも】う。
事は兩如【りょうじょ】の直に躓【つまづ】けるも、心は三避の賢に愜【あきた】る。
身を青雲の上に託し、巌【いわお】に棲みて飛泉【ひせん】を挹【く】む。

#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅。
424年文帝即位し、426年には盛明の徳をもって暗い陰湿な徐羨之らの横暴を粛清したのである、そして正美の道をもって難儀な状態を鎮め落ち着いた世にした。
殊方咸成貸,微物豫采甄。
それで遠い国々までも皆、徳の恩恵をうけて国が栄えたのであるし、微細でとるに足らないわたしごときをおとりあげになり、恩命に接したのである。
感深操不固,質弱易版纏。
わたしはこれに深く感じいって隠退の志は堅いということでなく、気も弱くて恩命に引かれ易いままに秘書監の職についた。(426年秘書監となる。秘閣の書を整理し、『晋書』を作る。)。
曾是反昔園,語往實款然。

かくて官についたものの今や会稽の先祖伝来の荘園にもどり、過ぎし日の事など語ることができて打ち解けて。真心から人に接することが実にうれしい。
#4
盛明【せいめい】は氛昏【ふんこん】を蕩【あら】ひ、貞休【ていきゅう】は屯邅【ちゅうてん】を康んず。
殊方【しゅほう】は咸【みな】貸【めぐみ】に成り、微物【びぶつ】も采甄【さいけん】に豫【あずか】る。
感は深くして操は固からず、質は弱くして版纏【はんてん】し易し。
曾ち是れ昔園【せきえん】に反り,語往を語りて實に款然【かんぜん】たり。
#5
曩基即先築,故池不更穿。
果木有舊行,壤石無遠延。
雖非休憩地,聊取永日閒。
衛生自有經,息陰謝所牽。
夫子照清素,探懷授往篇。
#5
曩基【のうき】即ち先に築けり,故池【こち】は更に穿たず。
果木【かぼく】舊行【きゅうこう】有り,壤石【じょうせき】は遠延【えんえん】無し。
休憩の地に非ず雖ども,聊【いささ】か永日【えいじつ】の閒を取る。
生を衛【まも】るには自ら經【つね】有り,陰に息いて牽く所のものを謝せん。
夫子【ふうし】は清素【せいそ】を照【あきら】かにす,懷【ふところ】に探りて往篇【おうへん】授【さづ】く。


現代語訳と訳註
(本文)
#4
#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅。殊方咸成貸,微物豫采甄。
感深操不固,質弱易版纏。曾是反昔園,語往實款然。


(下し文) #4
盛明【せいめい】は氛昏【ふんこん】を蕩【あら】ひ、貞休【ていきゅう】は屯邅【ちゅうてん】を康んず。
殊方【しゅほう】は咸【みな】貸【めぐみ】に成り、微物【びぶつ】も采甄【さいけん】に豫【あずか】る。
感は深くして操は固からず、質は弱くして版纏【はんてん】し易し。
曾ち是れ昔園【せきえん】に反り,語往を語りて實に款然【かんぜん】たり。


(現代語訳)
424年文帝即位し、426年には盛明の徳をもって暗い陰湿な徐羨之らの横暴を粛清したのである、そして正美の道をもって難儀な状態を鎮め落ち着いた世にした。
それで遠い国々までも皆、徳の恩恵をうけて国が栄えたのであるし、微細でとるに足らないわたしごときをおとりあげになり、恩命に接したのである。
わたしはこれに深く感じいって隠退の志は堅いということでなく、気も弱くて恩命に引かれ易いままに秘書監の職についた。(426年秘書監となる。秘閣の書を整理し、『晋書』を作る。)。
かくて官についたものの今や会稽の先祖伝来の荘園にもどり、過ぎし日の事など語ることができて打ち解けて。真心から人に接することが実にうれしい。


(訳注)#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅

424年文帝即位し、426年には盛明の徳をもって暗い陰湿な徐羨之らの横暴を粛清したのである、そして正美の道をもって難儀な状態を鎮め落ち着いた世にした。
○盛明 少帝422年 - 424年文帝(ぶんてい)は南朝宋の第3代皇帝。皇帝を廃されて殺された少帝(劉義符)の弟に当たる。即位以前は宜都王の地位にあった。424年、兄の義符が不行跡を理由に廃されて殺されると、代わって即位することとなった。即位後は、兄を廃して殺した罪で徐羨之らの重臣を次々と粛清した。(426年に徐羨之らの専横を嫌った文帝により、少帝殺害の罪を問われ、自殺を命じる。)その一方で貴族を重用し、学問を奨励して国子学を復興する。謝靈運は、426年"秘書監となる。秘閣の書を整理し、『晋書』を作る。このような経緯から、文帝の治世において学問・仏教などの文化が盛んになり、范曄が『後漢書』を完成させたりと、宋は全盛期を迎えることになった。このため、文帝の治世は元嘉の治と呼ばれている。○氛昏 422~426年までの徐羨之・傅亮らの専横。顔延之は422年左遷されている。○貞休 正義をもって純徳の道を進むこと。○屯邅 二字とも、一か所にたむろして行き悩んで進まぬこと。ここでは、それまでの皇帝が短年で変わっており、文帝になり安定したことをいう。


殊方咸成貸,微物豫采甄。
それで遠い国々までも皆、徳の恩恵をうけて国が栄えたのであるし、微細でとるに足らないわたしごときをおとりあげになり、恩命に接したのである。(426年秘書監となる。秘閣の書を整理し、『晋書』を作る。)。
殊方 方法を異にする。方向を変えること。○成貸 老子の「それただ道は善く貸し且つ成す」に本づく。『老子:徳経:同異第四十一』
上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以爲道。故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若纇。上徳若谷、大白若辱、廣徳若不足。建徳若偸、質眞若渝。大方無隅。大器晩成。大音希聲。大象無形。道隱無名。夫唯道、善貸且成。○ 参す。あづかり加わる。


感深操不固,質弱易版纏。
わたしはこれに深く感じいって隠退の志は堅いということでなく、気も弱くて恩命に引かれ易いままに秘書監の職についた。
○板纏 牽引の意、ひく。


曾是反昔園,語往實款然。
かくて官についたものの今や会稽の先祖伝来の荘園にもどり、過ぎし日の事など語ることができて打ち解けて。真心から人に接することが実にうれしい。
曾是 かくて~したものの今や~。○款然 打ち解けて。真心から人に接するさま。

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩462 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1203

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩462 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1203


#1
辭滿豈多秩,謝病不待年。
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
偶與張邴合,久欲還東山。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
聖靈昔回眷,微尚不及宣。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。
何意沖飆激,烈火縱炎烟。
ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。
(旧園に還りて作り、顔范二中書に見す)#1
満をのぞまず辞す 豈 秩【ちつ】多くありとや、病と謝するに年を待たず。
偶【たまた】ま張邴【ちょうへい】と合い、久しく東山に還らんと欲す。
聖靈【せいれい】は昔 廻眷【かいけん】せしも、微尚【びしょう】は宣【の】ぶるに及ばず。
何ぞ意【おも】はん沖飆【ちゅうひょう】激し、烈火【れっか】は炎烟【えんえん】を縦【ほしいまま】にせんとは。

#2
焚玉發崑峰,餘燎遂見遷。
かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
投沙理既迫,如邛原亦愆。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
長與懽愛別,永絶平生緣。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。
#2
玉を焚くこと崑峰【こんぽう】より發し、餘燎【よりょう】に遂に遷さるを見る。
沙に投じて理は既に迫り、邛【きょう】に如【ゆ】きて 願 亦【たちまち】愆【あやま】つ。
長く懽愛【かんあい】と別れ、永く平生の緣を絶つ。
舟を千仞【せんじん】の壑【たに】に浮べ、轡【たずな】を萬尋【ばんじん】の巔【いただき】に揔【と】る。
#3
流沫不足險,石林豈為艱。
この流れに比べると、論語でいうかの呂梁さえも険しいとするには足らず、この山に比べると、かの石林山もどうして難所と言えようか、艱険なことは呂梁や石林以上である。
閩中安可處,日夜念歸旋。
永嘉は都を遠くはなれた閩中の地という場所であり、何でそこに落ちついておられようか、昼も夜も会稽に帰りたいと望んでいた。
事躓兩如直,心愜三避賢。
己に世の治乱にかかわらず論語でいう史魚と遽伯玉の二人の直道を守るものほどのものであるがつまずき失敗し、左遷の憂きめをみたが、心は孫叔敖の三度退けられても悔いぬごとき賢に満足している。
託身青雲上,棲岩挹飛泉。
会稽の荘園では、青雲のかかる山の高きに身を寄せ、いわおのほとりに住んで谷川の水をすくいとって飲むという日常であった。
#3
流沫【りゅうまつ】も險とするに足らず、石林【せきりん】も豈【あに】艱【かん】と為さんや。
閩中【びんちゅう】には安んぞ處【お】る可けん、日夜に歸旋【きせん】を念【おも】う。
事は兩如【りょうじょ】の直に躓【つまづ】けるも、心は三避の賢に愜【あきた】る。
身を青雲の上に託し、巌【いわお】に棲みて飛泉【ひせん】を挹【く】む。

#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅。殊方咸成貸,微物豫采甄。
感深操不固,質弱易版纏。曾是反昔園,語往實款然。
#5
曩基即先築,故池不更穿。果木有舊行,壤石無遠延。
雖非休憩地,聊取永日閒。衛生自有經,息陰謝所牽。
夫子照清素,探懷授往篇。

#4
盛明【せいめい】は氛昏【ふんこん】を蕩【あら】ひ、貞休【ていきゅう】は屯邅【ちゅうてん】を康んず。
殊方【しゅほう】は咸【みな】貸【めぐみ】に成り、微物【びぶつ】も采甄【さいけん】に豫【あずか】る。
感は深くして操は固からず、質は弱くして版纏【はんてん】し易し。
曾ち是れ昔園【せきえん】に反り,語往を語りて實に款然【かんぜん】たり。
#5
曩基【のうき】即ち先に築けり,故池【こち】は更に穿たず。
果木【かぼく】舊行【きゅうこう】有り,壤石【じょうせき】は遠延【えんえん】無し。
休憩の地に非ず雖ども,聊【いささ】か永日【えいじつ】の閒を取る。
生を衛【まも】るには自ら經【つね】有り,陰に息いて牽く所のものを謝せん。
夫子【ふうし】は清素【せいそ】を照【あきら】かにす,懷【ふところ】に探りて往篇【おうへん】授【さづ】く。


現代語訳と訳註
(本文)
#3
流沫不足險,石林豈為艱。閩中安可處,日夜念歸旋。
事躓兩如直,心愜三避賢。託身青雲上,棲岩挹飛泉。

(下し文) #3
流沫【りゅうまつ】も險とするに足らず、石林【せきりん】も豈【あに】艱【かん】と為さんや。
閩中【びんちゅう】には安んぞ處【お】る可けん、日夜に歸旋【きせん】を念【おも】う。
事は兩如【りょうじょ】の直に躓【つまづ】けるも、心は三避の賢に愜【あきた】る。
身を青雲の上に託し、巌【いわお】に棲みて飛泉【ひせん】を挹【く】む。

(現代語訳)
この流れに比べると、論語でいうかの呂梁さえも険しいとするには足らず、この山に比べると、かの石林山もどうして難所と言えようか、艱険なことは呂梁や石林以上である。
永嘉は都を遠くはなれた閩中の地という場所であり、何でそこに落ちついておられようか、昼も夜も会稽に帰りたいと望んでいた。
己に世の治乱にかかわらず論語でいう史魚と遽伯玉の二人の直道を守るものほどのものであるがつまずき失敗し、左遷の憂きめをみたが、心は孫叔敖の三度退けられても悔いぬごとき賢に満足している。
会稽の荘園では、青雲のかかる山の高きに身を寄せ、いわおのほとりに住んで谷川の水をすくいとって飲むという日常であった。


(訳注)#3
流沫不足險,石林豈為艱。

この流れに比べると、論語でいうかの呂梁さえも険しいとするには足らず、この山に比べると、かの石林山もどうして難所と言えようか、艱険なことは呂梁や石林以上である。
流沫 急流に立つあわ。列子「孔子從而問之, 曰: 「 呂梁懸水三十仞, 流沫三十里, 黿鼉魚鱉所不能游, 向吾見子道之. 以為有苦而欲」孔子は呂梁を観る。懸水四十仭、流沫三十里。東嶺(誓)魚順讐管も泳ぐははざる所なり」。
孔子が呂梁(ろりょう・急流を石堤でせき止めたところ)に遊んだとき、そこには三十尋(ひろ・約1・5メートル)もの滝がかかっていて、水しぶきを上げる流れは四十里も続き、魚類でさえ泳ぐ事のできないところだったが、一人の男がそこで泳いでいるのが眼に入った。孔子は悩み事で自殺しようとしていると思い、弟子をやって岸辺から助けようとした。ところが男は数百歩の先で水から上がると、髪を振り乱したまま歌を唄って歩いて、堤のあたりをぶらついた。
 孔子は男に尋ねた「私はあなたを化け物かと思いましたが、よく見ると人間でした。お尋ねしたいが、水中を泳ぐのに何か特別な方法があるのですか」。
 男は答えた「ありません。私は慣れたところから始めて、本性のままに成長し、運命のままに出来上がっているのです。水の中では渦巻きに身を任せて一緒に深く入り、湧き水に身を任せて一緒に出てくる。水のあり方についていくだけで、自分の勝手な心を加えないのです。私が水中を上手く泳げるのはそのためです」。
 孔子はいった「慣れたところから始まって、本性のままに成長し、運命のままに出来上がったといわれたが、それはどういうことですか」
 男はいう「私がこうした丘陵地に生まれ、安住しているという事が慣れた所です。こうした水の流れとともに育って、その流れに安心しているというのが本性(もちまえ)です。自分が何故そんなに上手く泳げるのか、そんな事は分からずにいて、そうあるというのが、運命(さだめ)なのです)」。  


閩中安可處,日夜念歸旋。
永嘉は都を遠くはなれた閩中の地という場所であり、何でそこに落ちついておられようか、昼も夜も会稽に帰りたいと望んでいた。
 中国五代十国時代に現在の福建省を中心に存在した国。十国の一つであるが、ここではその国のことではなくその地方のことをいう。


事躓兩如直,心愜三避賢。
己に世の治乱にかかわらず論語でいう史魚と遽伯玉の二人の直道を守るものほどのものであるがつまずき失敗し、左遷の憂きめをみたが、心は孫叔敖の三度退けられても悔いぬごとき賢に満足している。
○両如直 論語の衛霊公篇に「子曰、直哉史魚、邦有道如矢、邦無道如矢、君子哉遽伯玉、邦有道則仕、邦無道則可巻而懐之。」(子曰わく、直(ちょく)なるかな史魚(しぎょ)。邦(くに)に道有るにも矢の如(ごと)く、邦に道無きも矢の如し。君子なるかな遽伯玉(きょはくぎょく)。邦に道有れば則(すなわ)ち仕(つか)え、邦に道無ければ則ち巻きてこれを懐(ふところ)にすべし。)廉直の人である史魚と君子である遽伯玉を評価したもの。史魚は国家の秩序関係なく懸命に働く。遽伯玉は秩序がとられていないときはその才能を発揮せずしまいこんだことを君子と評価した。〇三避 史記に「孫叔敖は楚に相たり、三たび相を去りたれども悔いず、その己が罪にあらざるを知ればなり」。○ すぐれた道、かしこさ。


託身青雲上,棲岩挹飛泉。
会稽の荘園では、青雲のかかる山の高きに身を寄せ、いわおのほとりに住んで谷川の水をすくいとって飲むという日常であった。
託身青雲上,棲岩挹飛泉 永嘉太守をやめて、会稽の旧園に暫くいた時のこという。

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩461 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1200

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩461 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1200

還舊園作見顏范二中書 謝靈運
五言

#1
辭滿豈多秩,謝病不待年。
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
偶與張邴合,久欲還東山。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
聖靈昔回眷,微尚不及宣。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。
何意沖飆激,烈火縱炎烟。

ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。
#2
焚玉發崑峰,餘燎遂見遷。
かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
投沙理既迫,如邛原亦愆。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
長與懽愛別,永絶平生緣。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。
#3
流沫不足險,石林豈為艱。閩中安可處,日夜念歸旋。
事躓兩如直,心愜三避賢。託身青雲上,棲岩挹飛泉。
#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅。殊方咸成貸,微物豫采甄。
感深操不固,質弱易版纏。曾是反昔園,語往實款然。
#5
曩基即先築,故池不更穿。果木有舊行,壤石無遠延。
雖非休憩地,聊取永日閒。衛生自有經,息陰謝所牽。
夫子照清素,探懷授往篇。

(旧園に還りて作り、顔范二中書に見す)#1
満をのぞまず辞す 豈 秩【ちつ】多くありとや、病と謝するに年を待たず。
偶【たまた】ま張邴【ちょうへい】と合い、久しく東山に還らんと欲す。
聖靈【せいれい】は昔 廻眷【かいけん】せしも、微尚【びしょう】は宣【の】ぶるに及ばず。
何ぞ意【おも】はん沖飆【ちゅうひょう】激し、烈火【れっか】は炎烟【えんえん】を縦【ほしいまま】にせんとは。
#2
玉を焚くこと崑峰【こんぽう】より發し、餘燎【よりょう】に遂に遷さるを見る。
沙に投じて理は既に迫り、邛【きょう】に如【ゆ】きて 願 亦【たちまち】愆【あやま】つ。
長く懽愛【かんあい】と別れ、永く平生の緣を絶つ。
舟を千仞【せんじん】の壑【たに】に浮べ、轡【たずな】を萬尋【ばんじん】の巔【いただき】に揔【と】る。

#3
流沫【りゅうまつ】も險とするに足らず、石林【せきりん】も豈【あに】艱【かん】と為さんや。
閩中【びんちゅう】には安んぞ處【お】る可けん、日夜に歸旋【きせん】を念【おも】う。
事は兩如【りょうじょ】の直に躓【つまづ】けるも、心は三避の賢に愜【あきた】る。
身を青雲の上に託し、巌【いわお】に棲みて飛泉【ひせん】を挹【く】む。
#4
盛明【せいめい】は氛昏【ふんこん】を蕩【あら】ひ、貞休【ていきゅう】は屯邅【ちゅうてん】を康んず。
殊方【しゅほう】は咸【みな】貸【めぐみ】に成り、微物【びぶつ】も采甄【さいけん】に豫【あずか】る。
感は深くして操は固からず、質は弱くして版纏【はんてん】し易し。
曾ち是れ昔園【せきえん】に反り,語往を語りて實に款然【かんぜん】たり。
#5
曩基【のうき】即ち先に築けり,故池【こち】は更に穿たず。
果木【かぼく】舊行【きゅうこう】有り,壤石【じょうせき】は遠延【えんえん】無し。
休憩の地に非ず雖ども,聊【いささ】か永日【えいじつ】の閒を取る。
生を衛【まも】るには自ら經【つね】有り,陰に息いて牽く所のものを謝せん。
夫子【ふうし】は清素【せいそ】を照【あきら】かにす,懷【ふところ】に探りて往篇【おうへん】授【さづ】く。


現代語訳と訳註
(本文)
#2
焚玉發昆峰,餘燎遂見遷。投沙理既迫,如邛原亦愆。
長與懽愛別,永絶平生緣。浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。


(下し文)#2
玉を焚くこと昆峰【こんぽう】より發し、餘燎【よりょう】に遂に遷さるを見る。
沙に投じて理は既に迫り、邛【きょう】に如【ゆ】きて 願 亦【たちまち】愆【あやま】つ。
長く懽愛【かんあい】と別れ、永く平生の緣を絶つ。
舟を千仞【せんじん】の壑【たに】に浮べ、轡【たずな】を萬尋【ばんじん】の巔【いただき】に揔【と】る。


(現代語訳)
かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。


(訳注)#2
焚玉發崑峰,餘燎遂見遷。

かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
○焚玉 尚書の胤征篇に、「祝融司夏,萬物焦爍,火炎昆崗,玉石俱焚,爾無與焉。天吏逸德烈于猛火。」火の崑崗と炎えさかるや、玉も石も俱に焚かる。天吏の逸徳は猛火よりも烈し」。○崑峰 棟両端の金幣、屋根上の宝珠は崑崗が中国随一の金銀の産地であることに由来し、金塊を現している。○余燎 余火。もえ広がる火の余り。宋書に、「少帝は位につく、権は大臣に在り、靈運は異同を構扇し、執政を非毀す。司徒の徐羨之が患ひ、出して永嘉の太守となす」。霊運は時に盧陵王の司馬となっていたのである。


投沙理既迫,如邛原亦愆。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
投沙 身を長沙に投ず。長沙にゆくこと。漢書に、「賈誼は謫せられて長沙に居る。長沙は卑濕なれは、自ら傷悼し、おもへらく、壽ながきを得ざらんと」。・賈誼 漢の孝文帝劉恒(紀元前202-157年)に仕えた文人賈誼(紀元前201―169年)のこと。洛陽の人。諸吉家の説に通じ、二十歳で博士となった。一年後、太中大夫すなわち内閣建議官となり、法律の改革にのりだして寵任されたが、若輩にして高官についたことを重臣たちに嫉まれ、長沙王の傅に左遷された。のち呼び戻され、孝文帝の鬼神の事に関する質問に答え、弁説して夜にまで及び、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられる。その後、孝文帝の少子である梁の懐王の傅となり、まもなく三十三歳を以て死んだ。屈原を弔う文及び鵩(みみずく)の賦が有名。賈誼が長沙にいた時、「目鳥 其の承塵に集まる」。目鳥はふくろうに似た鳥というが、詩文のなかのみにあらわれ、その家の主人の死を予兆する不吉な鳥とされる。賈誼はその出現におびえ、「鵩鳥の賦」(『文選』巻一三)を著した。○理迫 運命がさしせまる。「理は法官なり」という。それは、徐羨之らに厳しく監視されて、さし迫った立場に置かれた、というもの。○如邛 漢書に「卓文君は司馬相如に謂って曰く、しばらく臨邛にゆきて昆弟に従ひて仮貸せば、なお以て生を為すに足らん。何ぞ自ら苦しむこと此くのごときに至らん、と。相加ときに臨邛にゆく」。○ あやまつ、たがう、失。


長與懽愛別,永絶平生緣。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
長與懽愛 長らく親愛の情で親交を深めていた付き合いをいう。詩を贈った相手の名前ではないが貰った相手にはすぐわかる表現である。顔延之と范泰である。・顔延之(ガンエンシ)384~456
瑯邪の人。字は延年。諡は憲子。顔含の曽孫。御史中丞、秘書監などを経て金紫光禄大夫になった。 当時延之と謝霊運とは詩才をもって有名で、西晋の潘岳、陸機以来の文士といわれていた。 延之は貴族としては第2流であるが、その言動には当時の貴族のもつ特性が顕著に現われている。
范泰【ハンタイ】355~428 南陽・順陽の人。字は伯倫。諡は宣侯。〈後漢書〉の著者范曄の父。 晋の太学博士として任官、父范寧の遂郷侯の爵をついだ。 のち宋の武帝と文帝に仕え、侍中となり、国子祭酒・領江夏王師であった。 晩年には仏教に傾倒した。謝靈運と親交があった。 文章にすぐれ、いくつかの上奏文は正史に載せられている。 文集20巻のほか、古今の善言を集めた24編があったが、全て現在に伝わっていない。
范曄(ハンヨウ)398~445
字は蔚宗。順陽・山陰の人。父范泰は宋の車騎将軍。 范曄は家をでて従伯范弘之の家を継ぎ武興県五等侯を襲封。 経史にひろくわたり、文章・隷書・音律にひいでた。 晋末に彭城王劉義康の冠軍参軍となり、宋に入っては荊州別駕従事まですすみ、父の死をもって退いた。 のち征南将軍檀道済の司馬となったが、脚疾を理由に従軍をがえんじないことなどがあり、不覊の行為が多かったが、累遷して尚書吏部郎となった。 これよりさき、424〔元嘉元〕年、彭城太妃が没し、その葬祭のとき、故僚の集まっているときに、彼は弟の范広義の家で酒を飲み、窓を開いて挽歌を聞きながら楽をかなでた。 そのため、彭城王の怒りをかい、宣城太守に左遷された。しかしその志をえぬ間に、彼は諸家の〈後漢書〉をつづり、一家の作をなした。 范曄は完成をみぬまま没した。 439〔元嘉16〕年、母の死で退いた范曄は、ふたたび仕えて左衛将軍太子せん事にまだいたったが、家庭は修まらず、門地が高いわりに朝廷の優遇を得ず、同じく不平の徒、魯の孔熙先とむすび、彭城王の擁立をはかったが、事がもれて棄市の刑に処された。


浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。
○仞 一仞は八尺、また七尺、もしくは四尺。○尋 八尺。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 永初三年七月十六日之郡初発都 詩集 370

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 永初三年七月十六日之郡初発都 #2 詩集 371

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 鄰里相送至方山 詩集 373

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 永初三年七月十六日之郡初発都 #3 詩集 372

過始寧墅 謝霊運 #1 詩集 374

過始寧墅 謝霊運 #2 詩集 375

富春渚<14> #1 謝霊運 376

富春渚 #2 謝霊運<14> 詩集 377

初往新安桐盧口 謝霊運<15>  詩集 378

七里瀬 #1 謝霊運<16> 詩集 376

七里瀬 #2 謝霊運<16> 詩集 377

晚出西射堂 #1 謝霊運<17>  詩集 381

晚出西射堂 #2謝霊運<17>  詩集 382 #2

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩460 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1197

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩460 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1197



429年 文帝 元嘉6年45歳。
(旧園に還りて作り、顔范二中書に見す)

会稽の始寧県に先祖からの故郷の荘園にかえってから、顔延之太守ならびに范泰中書侍郎におくったものである。


還舊園作見顏范二中書 謝靈運

#1
辭滿豈多秩,謝病不待年。
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
偶與張邴合,久欲還東山。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
聖靈昔回眷,微尚不及宣。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。
何意沖飆激,烈火縱炎烟。
ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。
#2
焚玉發昆峰,餘燎遂見遷。投沙理既迫,如邛原亦愆。
長與懽愛別,永絶平生緣。浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。
#3
流沫不足險,石林豈為艱。閩中安可處,日夜念歸旋。
事躓兩如直,心愜三避賢。託身青雲上,棲岩挹飛泉。
#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅。殊方咸成貸,微物豫采甄。
感深操不固,質弱易版纏。曾是反昔園,語往實款然。
#5
曩基即先築,故池不更穿。果木有舊行,壤石無遠延。
雖非休憩地,聊取永日閒。衛生自有經,息陰謝所牽。
夫子照清素,探懷授往篇。

(旧園に還りて作り、顔范二中書に見す)#1
満をのぞまず辞す 豈 秩【ちつ】多くありとや、病と謝するに年を待たず。
偶【たまた】ま張邴【ちょうへい】と合い、久しく東山に還らんと欲す。
聖靈【せいれい】は昔 廻眷【かいけん】せしも、微尚【びしょう】は宣【の】ぶるに及ばず。
何ぞ意【おも】はん沖飆【ちゅうひょう】激し、烈火【れっか】は炎烟【えんえん】を縦【ほしいまま】にせんとは。

#2
玉を焚くこと昆峰【こんぽう】より發し、餘燎【よりょう】に遂に遷さるを見る。
沙に投じて理は既に迫り、邛【きょう】に如【ゆ】きて 願 亦【たちまち】愆【あやま】つ。
長く懽愛【かんあい】と別れ、永く平生の緣を絶つ。
舟を千仞【せんじん】の壑【たに】に浮べ、轡【たずな】を萬尋【ばんじん】の巔【いただき】に揔【と】る。
#3
流沫【りゅうまつ】も險とするに足らず、石林【せきりん】も豈【あに】艱【かん】と為さんや。
閩中【びんちゅう】には安んぞ處【お】る可けん、日夜に歸旋【きせん】を念【おも】う。
事は兩如【りょうじょ】の直に躓【つまづ】けるも、心は三避の賢に愜【あきた】る。
身を青雲の上に託し、巌【いわお】に棲みて飛泉【ひせん】を挹【く】む。
#4
盛明【せいめい】は氛昏【ふんこん】を蕩【あら】ひ、貞休【ていきゅう】は屯邅【ちゅうてん】を康んず。
殊方【しゅほう】は咸【みな】貸【めぐみ】に成り、微物【びぶつ】も采甄【さいけん】に豫【あずか】る。
感は深くして操は固からず、質は弱くして版纏【はんてん】し易し。
曾ち是れ昔園【せきえん】に反り,語往を語りて實に款然【かんぜん】たり。
#5
曩基【のうき】即ち先に築けり,故池【こち】は更に穿たず。
果木【かぼく】舊行【きゅうこう】有り,壤石【じょうせき】は遠延【えんえん】無し。
休憩の地に非ず雖ども,聊【いささ】か永日【えいじつ】の閒を取る。
生を衛【まも】るには自ら經【つね】有り,陰に息いて牽く所のものを謝せん。
夫子【ふうし】は清素【せいそ】を照【あきら】かにす,懷【ふところ】に探りて往篇【おうへん】授【さづ】く。


現代語訳と訳註
(本文)
#1
辭滿豈多秩,謝病不待年。偶與張邴合,久欲還東山。
聖靈昔回眷,微尚不及宣。何意沖飆激,烈火縱炎烟。


(下し文)#1
満をのぞまず辞す 豈 秩【ちつ】多くありとや、病と謝するに年を待たず。
偶【たまた】ま張邴【ちょうへい】と合い、久しく東山に還らんと欲す。
聖靈【せいれい】は昔 廻眷【かいけん】せしも、微尚【びしょう】は宣【の】ぶるに及ばず。
何ぞ意【おも】はん沖飆【ちゅうひょう】激し、烈火【れっか】は炎烟【えんえん】を縦【ほしいまま】にせんとは。


(現代語訳)
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。
ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。


(訳注) #1
辭滿豈多秩,謝病不待年。
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
滿 滿ち足る。ここは在官のこと。官を満了する。○豈多秩 「秩を多とせんや」(秩ありて満つることを望まず、辞す)。


偶與張邴合,久欲還東山。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
張邴 張長公と邴丹曼容のこと。・:張長公 漢の張摯、字は長公、官吏となったが、世間と合はないとてやめられたのち終身仕へなかった。漢の張釈之の子。
陶淵明『飲酒、其十二』
長公曾一仕、壯節忽失時。
杜門不復出、終身與世辭。
仲理歸大澤、高風始在茲。
一往便當已、何爲復狐疑。
去去當奚道、世俗久相欺。
擺落悠悠談、請從余所之。
長公曾て一たび仕(つか)えしも、壮節にして忽ち時を失う。
門を杜(と)じて復(ま)た出でず、終身 世と辞す。
仲理 大沢(だいたく)に帰りて、高風 始めて茲(こ)こに在り。
一たび往かば便(すなわ)ち当(まさ)に已むべし、(なん)為(す)れぞ復た狐疑する。
去り去りて当(まさ)に奚(なに)をか道(い)う可けん、世俗は久しく相い欺(あざむ)けり。
悠悠の談を擺(はら)い落とし、請(こ)う 余が之(ゆ)く所に従わん。

前漢の張長公は一度官途についたが、まだ壮年だというのにすぐに失脚した。それからは門を閉ざして外に出ず、終生仕えようとしなかった。後漢の楊仲理は大きな池のそばに隠居して、あの高尚な学風がそこで養われたのだ。さっさと隠退しよう、何をためらうことがあろうか。どんどん歩いて行こう、何もいうことはない、世間はずっと昔からお互いだましあいの世界。世俗のいい加減なうわさなどはらいすてて、さあ我が道を行くのだ。
○長公 前漢の張摯。『史記』巻一百二「張釈之伝」に「釈之(せきし)卒す。其の子を張摯(ちょうし)と曰う、字は長公。官は大夫に至るも、免ぜらる。当世に容(い)らるるを取ること能(あた)わざるを以て、故に終身仕(つか)えず」とある。○仲理 後漢の楊倫。『後漢書』巻一百九上「楊倫伝」に「楊倫、字は仲理。……少(わか)くして諸生と為り、司徒丁鴻に師事して古文尚書を習い、郡の文学掾(えん)と為るも、更(あらた)められて数将を歴(ふ)。志(こころざし)時に乖(そむ)き、人間(じんかん)の事を能(よ)くせざるを以て、遂に職を去り、復た州郡の命に応じず。大沢中に講授して、弟子千余人に至る」とある。○狐疑 『離騒』に「心猶(ゆう)豫(よ)して狐疑す、自ら適(ゆ)かんと欲するに而も可ならず」とある、屈原が美女に求婚しようとするのにぐずぐずしている表現を意識し、ここは、そのように閑居に踏み切れずにいる自分を叱咤激励している。○去去當奚道 曹植「雜詩六首」其一(『文選』巻二十九)「去(ゆ)き去きて復た道(い)う莫れ、沈憂は人をして老いしむ」を意識し、官界への未練を断ち切れと自らに言いきかせている。○悠悠談 悠悠は、とりとめもない、けじめがないの意。「悠悠の談」は、世間での自分に対する風評のたぐい。そんなものは気にせずに我が道を行けと、これも自分を励ましている。
 これは、官界から離脱し、閑居に入ろうとしつつも、官界への未練があってぐずぐずしている自分に決断をせまり、叱咤激励する詩である。
李白『單父東樓秋夜送族弟沈之秦』
爾從咸陽來。 問我何勞苦。
沐猴而冠不足言。 身騎土牛滯東魯。』
沈弟欲行凝弟留。 孤飛一雁秦云秋。
坐來黃葉落四五。 北斗已挂西城樓。』
絲桐感人弦亦絕。 滿堂送君皆惜別。
卷帘見月清興來。 疑是山陰夜中雪。』
明日斗酒別。 惆悵清路塵。
遙望長安日。 不見長安人。
長安宮闕九天上。 此地曾經為近臣。』
一朝復一朝。 發白心不改。
屈原憔悴滯江潭。 亭伯流離放遼海。』
折翮翻飛隨轉蓬。 聞弦墜虛下霜空。
聖朝久棄青云士。 他日誰憐張長公。』
青云士 学徳高き賢人。 ○張長公 漢の張摯、字は長公、官吏となったが、世間と合はないとてやめられたのち終身仕へなかった。漢の張釈之の子。
謝靈運『初去郡』
顧己雖自許,心跡猶未並。
無庸妨周任,有疾像長卿。
畢娶類尚子,薄遊似邴生
恭承古人意,促裝反柴荊。
○尚子 尚長、字は子平。男女の子供が結婚した後は、家事に関係せず、死んだようにして暮らした(高士伝)。○薄遊 遊宦(役人生活)をなすことが薄い。薄禄に甘んじたこと。○邴生 漢書「邴丹曼容養志自修,為官不肯過六百石,輒自免去。」(邴生、名は丹、字は曼容、志を養い自ら修む。官と為りて敢えて六百石を過ぎず、輒ち免じて去ると。)

初去郡 謝靈運<34>#2 詩集 413  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1056

東山 浙江省上虞県の西南にあり、会稽(紹興)からいうと東の山であり、名勝地。晋の太傅であった謝安がむかしここに隠居して、なかなか朝廷の招きに応じなかったので有名。山上には謝安の建てた白雲堂、明月堂のあとがあり、山上よりの眺めは絶景だという。薔薇洞というのは、かれが妓女をつれて宴をもよおした所と伝えられている。


聖靈昔回眷,微尚不及宣。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。


何意沖飆激,烈火縱炎烟。
ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。
 突風。竜巻き。また、一般に風。つむじかぜ. 渦を巻きながら激しく舞い上がる風。大風。徐羨之らの乱を比喩する表現。

入彭蟸湖口 謝霊運(康楽) 詩<59-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩454 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1179

入彭蟸湖口 謝霊運(康楽) 詩<59-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩454 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1179

やがて、何日か宿をして後、臨川郡の入り口にある彭蟸湖、つまり、今の鄱陽湖に着いた。おそらく、郡の下役人の出迎えを受け、挨拶の言葉ぐらいはあったであろうが、謝靈運には、依然として不平と不満に満ちていた。この赴任には謝霊運を押さえつけるものであるから、彼の心はなんともいえぬものがあり、その感情を歌ったものが「入彭蟸湖口」(彭蟸湖口に入る) の一首である。『文選』の巻二十六の「行旅」の部に引用されている。


入彭蠡湖口  #1
客游倦水宿,風潮難具論。
旅ゆく人として船旅につかれて宿を取る、風の流れと長江の流れは自分にとってもそうであるがこうしてそのまま旅をするのがいいのか十分に論じつくすというのは難しい。
洲島驟回合,圻岸屢崩奔。
長江を下ると中州と島が時折り廻ったり戻ったり離れたり集まったりする、長江の流れも岸が折れたり、曲がったりしてしばしば崩れたり出入りが激しかったりして、私の人生のようだ。
乘月聽哀狖,浥露馥芳蓀。
月がのぼってくるとどこからか悲しい声の野猿が鳴いている、夜も更け露に潤う時刻になるとほんのりと菖蒲の花の香りがしてくる。
春晚綠野秀,岩高白雲屯。
春も終わりで木々も萌えるころで、緑が秀でるころであり、しげりも盛んになっている、見上げると岩場の高い所に白い雲が浮かんでいる。
千念集日夜,萬感盈朝昏。
思い返してみて千念(ちじ)の思いで念仏というのは、真昼か真夜中に集うもので、この全身全霊で感じ取るのは朝夕の念仏で満たされるのである。
#2
攀崖照石鏡,牽葉入松門。
崖を攀じ登ったら廬山の石壁・石鏡に日が照り輝いている。木葉をかき分けて白蓮社の松門を入っていく。
三江事多往,九派理空存。
彭蟸湖の口の三江は事が多くあって行く先は判らない。九江ではここに九つの流れが集まってきており地理はむなしくあるだけだ。(三江、九江で、三皇五帝の禹王の徳の施政事は過去の事であり、いまわ空しく地形としてあるだけだ。だから仏の助けが必要だ。)
露物吝珍怪,異人秘精魂。
道教的な神、仏は稀に見るめずらしい出来事というものは受け入れない。異教徒、異文化人は全身全霊を傾けて隠そうとするものだ。
金膏滅明光,水碧綴流溫。
卓抜された人物が光輝いていたのが陰っていくし、命の泉である水の中に有る水晶であっても穏やかな光沢を止めてあらわさないというようなものである。
徒作千里曲,弦絕念彌敦。
かくして、わたしは離別悲愁の「千里の曲」をかなでる、そして琴を弾くのを終わると念仏を唱えあつくひたすら念じるのである。


(彭蟸湖口に入る)#1
客遊して水宿【すいしゅく】に倦【う】み、風潮【ふうちょう】は具【つぶ】さに論じ難し。
洲島【しゅうとう】は驟【しばし】ば廻合【かしごう】し、折岸【きがん】は屡【しばし】ば崩奔【ほうほん】す。
月に乗じて哀狖【あいいう】を聴き、露に浥【うる】おいて芳蓀【ほうそん】馥【かんば】し。
春は晩れて緑野 秀で、巌 高くして白雲 屯【あつま】り。
千念【せんねん】は日夜に集まり、万感【ばんかん】朝昏【ちょうこん】に盈つ。
#2
崖に攀【よ】じて石鏡に照らし、葉を牽きつつ松門に入る。
三江は事多に往き,九派は理 空しく存す。
霊物は珍怪を宏【おし】み、異人は精魂を秘す。
金膏【きんこう】は明光を減し、水碧は流温【りゅうおん】を綴【や】む。
徒らに千里の曲を作すも、弦絶えて念い彌【いよい】よ敦【あつ】し。


現代語訳と訳註
(本文)
#2
攀崖照石鏡,牽葉入松門。三江事多往,九派理空存。
露物吝珍怪,異人秘精魂。金膏滅明光,水碧綴流溫。
徒作千里曲,弦絕念彌敦。


(下し文) #2
崖に攀【よ】じて石鏡に照らし、葉を牽きつつ松門に入る。
三江は事多に往き,九派は理 空しく存す。
霊物は珍怪を宏【おし】み、異人は精魂を秘す。
金膏【きんこう】は明光を減し、水碧は流温【りゅうおん】を綴【や】む。
徒らに千里の曲を作すも、弦絶えて念い彌【いよい】よ敦【あつ】し。


(現代語訳)
崖を攀じ登ったら廬山の石壁・石鏡に日が照り輝いている。木葉をかき分けて白蓮社の松門を入っていく。
彭蟸湖の口の三江は事が多くあって行く先は判らない。九江ではここに九つの流れが集まってきており地理はむなしくあるだけだ。(三江、九江で、三皇五帝の禹王の徳の施政事は過去の事であり、いまわ空しく地形としてあるだけだ。だから仏の助けが必要だ。)
道教的な神、仏は稀に見るめずらしい出来事というものは受け入れない。異教徒、異文化人は全身全霊を傾けて隠そうとするものだ。
卓抜された人物が光輝いていたのが陰っていくし、命の泉である水の中に有る水晶であっても穏やかな光沢を止めてあらわさないというようなものである。
かくして、わたしは離別悲愁の「千里の曲」をかなでる、そして琴を弾くのを終わると念仏を唱えあつくひたすら念じるのである。


(訳注)#2
攀崖照石鏡,牽葉入松門。
崖を攀じ登ったら廬山の石壁・石鏡に日が照り輝いている。木葉をかき分けて白蓮社の松門を入っていく。
石鏡 高僧慧遠は廬山に東林寺を建てた。慧遠は太元9年(384年)の来住以来、一生、山外に出ないと誓いを立てたとされ、そのことにちなんだ「虎渓三笑」の説話の舞台もこの山である。また慧遠は蓮池を造り、その池に生える白蓮にちなんだ「白蓮社」と呼ばれる念仏結社を結成したとされ、中国の浄土教の祖とされている。慧遠は中国化された仏教の開創者であり、仏教の中国化と、中国の仏教化という潮流を作りだした。
太平天国の乱で破壊される前、廬山は中国第一の仏教の聖地であり、全盛期には全山に寺廟は三百以上を数えた。
廬山、李白『廬山謠寄盧侍御虛舟』
我本楚狂人、狂歌笑孔丘。手持綠玉杖、朝別黃鶴樓。
五嶽尋仙不辭遠、一生好入名山遊。
廬山秀出南斗傍、屏風九疊雲錦張、影落明湖青黛光。
金闕前開二峰長、銀河倒掛三石梁 。
香爐瀑布遙相望、迴崖沓嶂凌蒼蒼。
翠影紅霞映朝日、鳥飛不到吳天長。
登高壯觀天地間、大江茫茫去不還 。
黃雲萬里動風色、白波九道流雪山 。
好為廬山謠、興因廬山發 。
閑窺石鏡清我心、謝公行處蒼苔沒 。
早服還丹無世情、琴心三疊道初成。
遙見仙人彩雲裡、手把芙蓉朝玉京。
先期汗漫九垓上、願接盧敖遊太清。
(廬山の廬侍御虚舟に謡い寄す)
我は本 楚の狂人、 鳳歌して孔丘を笑う。 手に緑の玉杖を持ち、朝に別る 黄鶴楼。
五嶽に仙を尋ぬるに遠きを辞さず、 一生 名山に入りて遊ぶを好む
廬山は秀で出ず 南斗の傍ら、 屛風九畳 雲錦張る、影は明湖に落ちて青黛光る。
金闕 前に開いて 二峰長し、銀河は倒に挂かる 三石梁。
香炉の瀑布 遥かに相望む、 迥崖沓嶂 凌として蒼蒼たり。
翠影紅霞 朝日に映じ、鳥は飛びて到らず 呉天の長きを。
高きに登りて壮観す 天地の間、大江は茫茫として去りて還らず。
黄雲 万里 風色を動かし、白波 九道 雪山に流る。
好みて廬山の謡を為し、興じて廬山に因りて発す。
閑に石鏡を窺えば我が心清らかなり、謝公の行処は蒼苔に没す。
早に還丹を服して世情無く、琴心 三畳 道初めて成る。
遥かに仙人を見る綵雲の裏、手に芙蓉を把って玉京に朝す。
先は期さん 汗漫と九垓の上に、 願わくは廬敖に接して太清に遊ばん


三江事多往,九派理空存。
彭蟸湖の口の三江は事が多くあって行く先は判らない。九江ではここに九つの流れが集まってきており地理はむなしくあるだけだ。(三江、九江で、三皇五帝の禹王の徳の施政事は過去の事であり、いまわ空しく地形としてあるだけだ。だから仏の助けが必要だ。)
三江 彭蟸の三江のこと。 湖北武昌の南江,江西九江の中江,江蘇鎮江の北江。 .『尚書、禹貢篇』に基づく場所指定。
九派 潯陽の九派のこと。 烏白江・好江・烏江・嘉靡江・吠江・源江・庫江・提江・菌江


靈物吝珍怪,異人秘精魂。
道教的な神、仏は稀に見るめずらしい出来事というものは受け入れない。異教徒、異文化人は全身全霊を傾けて隠そうとするものだ。
靈物 霊妙なもの。神秘的な力のあるもの。霊魂道教的な神をいい、物は仏をいう。・珍怪 めずらしいもの。貴重でめったに見られない宝物。稀に見るめずらしい出来事。
「霊物は珍怪をおしみ、異人は精魂を秘す」ような奇抜が欲しいという。 奇抜か、霊運は苦笑した。 詩はつねに不特定多数に向けた挨拶状であった。・精魂 力などを注ぐ(努力を)傾注する ・ (全身全霊を)傾けて ・ (意識を)集中させる。


金膏滅明光,水碧綴流溫。
卓抜された人物が光輝いていたのが陰っていくし、命の泉である水の中に有る水晶であっても穏やかな光沢を止めてあらわさないというようなものである。
金膏 卓抜された人物。道教の傳說中の仙藥。・水碧 水中のみどり。水晶のこと。泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。


徒作千里曲,弦絕念彌敦。
かくして、わたしは離別悲愁の「千里の曲」をかなでる、そして琴を弾くのを終わると念仏を唱えあつくひたすら念じるのである。
千里曲 屈原『楚辞、招魂、第二段』「増冰峨峨、飛雪千里些。」に基づく。琴曲:「郊廟歌辭」「燕射歌辭」「鼓吹歌辭」「橫吹曲辭」「相和歌辭」「淸商曲辭」「舞曲歌辭」「琴曲歌辭」「雜曲歌辭」「近代曲辭」「雜歌謠辭」などある。


入彭蟸湖口 謝霊運(康楽) 詩<53#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩452 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1173

入彭蟸湖口 謝霊運(康楽) 詩<53#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩452 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1173


やがて、何日か宿をして後、臨川郡の入り口にある彭蟸湖、つまり、今の鄱陽湖に着いた。おそらく、郡の下役人の出迎えを受け、挨拶の言葉ぐらいはあったであろうが、謝靈運には、依然として不平と不満に満ちていた。この赴任には謝霊運を押さえつけるものであるから、彼の心はなんともいえぬものがあり、その感情を歌ったものが「入彭蟸湖口」(彭蟸湖口に入る) の一首である。『文選』の巻二十六の「行旅」の部に引用されている。


入彭蠡湖口  #1
客游倦水宿,風潮難具論。
旅ゆく人として船旅につかれて宿を取る、風の流れと長江の流れは自分にとってもそうであるがこうしてそのまま旅をするのがいいのか十分に論じつくすというのは難しい。
洲島驟回合,圻岸屢崩奔。
長江を下ると中州と島が時折り廻ったり戻ったり離れたり集まったりする、長江の流れも岸が折れたり、曲がったりしてしばしば崩れたり出入りが激しかったりして、私の人生のようだ。
乘月聽哀狖,浥露馥芳蓀。
月がのぼってくるとどこからか悲しい声の野猿が鳴いている、夜も更け露に潤う時刻になるとほんのりと菖蒲の花の香りがしてくる。
春晚綠野秀,岩高白雲屯。
春も終わりで木々も萌えるころで、緑が秀でるころであり、しげりも盛んになっている、見上げると岩場の高い所に白い雲が浮かんでいる。
千念集日夜,萬感盈朝昏。
思い返してみて千念(ちじ)の思いで念仏というのは、真昼か真夜中に集うもので、この全身全霊で感じ取るのは朝夕の念仏で満たされるのである。
#2
攀崖照石鏡,牽葉入松門。三江事多往,九派理空存。
露物吝珍怪,異人秘精魂。金膏滅明光,水碧綴流溫。
徒作千里曲,弦絕念彌敦。


(彭蟸湖口に入る)#1
客遊して水宿【すいしゅく】に倦【う】み、風潮【ふうちょう】は具【つぶ】さに論じ難し。
洲島【しゅうとう】は驟【しばし】ば廻合【かしごう】し、折岸【きがん】は屡【しばし】ば崩奔【ほうほん】す。
月に乗じて哀狖【あいいう】を聴き、露に浥【うる】おいて芳蓀【ほうそん】馥【かんば】し。
春は晩れて緑野 秀で、巌 高くして白雲 屯【あつま】り。
千念【せんねん】は日夜に集まり、万感【ばんかん】朝昏【ちょうこん】に盈つ。

#2
崖に攀【よ】じて石鏡に照らし、葉を牽きつつ松門に入る。
三江は事多に往き,九派は理 空しく存す。
霊物は珍怪を宏【おし】み、異人は精魂を秘す。
金膏【きんこう】は明光を減し、水碧は流温【りゅうおん】を綴【や】む。
徒らに千里の曲を作すも、弦絶えて念い彌【いよい】よ敦【あつ】し

彭蟸の三江 北江・中江・南江
潯陽の九派 烏白江・好江・烏江・嘉靡江・吠江・源江・庫江・提江・菌江


現代語訳と訳註
(本文)
入彭蠡湖口  #1
客游倦水宿,風潮難具論。洲島驟回合,圻岸屢崩奔。
乘月聽哀狖,浥露馥芳蓀。春晚綠野秀,岩高白雲屯。
千念集日夜,萬感盈朝昏。


(下し文) (彭蟸湖口に入る)#1
客遊して水宿【すいしゅく】に倦【う】み、風潮【ふうちょう】は具【つぶ】さに論じ難し。
洲島【しゅうとう】は驟【しばし】ば廻合【かしごう】し、折岸【きがん】は屡【しばし】ば崩奔【ほうほん】す。
月に乗じて哀狖【あいいう】を聴き、露に浥【うる】おいて芳蓀【ほうそん】馥【かんば】し。
春は晩れて緑野 秀で、巌 高くして白雲 屯【あつま】り。
千念【せんねん】は日夜に集まり、万感【ばんかん】朝昏【ちょうこん】に盈つ。


(現代語訳)
旅ゆく人として船旅につかれて宿を取る、風の流れと長江の流れは自分にとってもそうであるがこうしてそのまま旅をするのがいいのか十分に論じつくすというのは難しい。
長江を下ると中州と島が時折り廻ったり戻ったり離れたり集まったりする、長江の流れも岸が折れたり、曲がったりしてしばしば崩れたり出入りが激しかったりして、私の人生のようだ。
月がのぼってくるとどこからか悲しい声の野猿が鳴いている、夜も更け露に潤う時刻になるとほんのりと菖蒲の花の香りがしてくる。
春も終わりで木々も萌えるころで、緑が秀でるころであり、しげりも盛んになっている、見上げると岩場の高い所に白い雲が浮かんでいる。
思い返してみて千念(ちじ)の思いで念仏というのは、真昼か真夜中に集うもので、この全身全霊で感じ取るのは朝夕の念仏で満たされるのである。


(訳注)
入彭蠡湖口
 
江西省北部、長江南岸にある湖。中国の淡水湖では最大。北緯29度00分、東経116度10分に位置する。贛江・撫河・信江・饒河(鄱江)・修水などの長江支流がここで流入する。湖の表面積は、季節により146km2から3,210km2まで変わり、長江の水流を調節する役目もしている。紀元前から記録されている湖で、彭蠡湖(澤)、あるいは彭澤とも呼ばれた。何度も洪水を起こし、そのために築いた堤防が湖の中に残っている。 孟浩然『彭蠡湖中望廬山』に「挂席候明発、渺漫平湖中」の表現があるが、更に溯れば謝霊運「遊赤石進航海」に「揚帆采石華、挂席拾海月(帆をあげて海草を採り、蓆を掲げて海月を採集に行く)」の句がある。
彭蠡湖中望廬山 孟浩然
太虛生月暈,舟子知天風。掛席候明發,眇漫平湖中。
中流見匡阜,勢壓九江雄。黤黕容霽色,崢嶸當曉空。
香爐初上日,瀑布噴成虹。久欲追尚子,況茲懷遠公。
我來限於役,未暇息微躬。淮海途將半,星霜歲欲窮。
寄言岩棲者,畢趣當來同。


客游倦水宿,風潮難具論。
旅ゆく人として船旅につかれて宿を取る、風の流れと長江の流れは自分にとってもそうであるがこうしてそのまま旅をするのがいいのか十分に論じつくすというのは難しい。
具論 つぶさに論じる。十分に論じつくす。


洲島驟回合,圻岸屢崩奔。
長江を下ると中州と島が時折り廻ったり戻ったり離れたり集まったりする、長江の流れも岸が折れたり、曲がったりしてしばしば崩れたり出入りが激しかったりして、私の人生のようだ。
洲島 長江の中州と島。このあたりでは長江の流れもゆるく大きな島や中州がある。・ 【うごつく・しばしば】「うこづく」動き揺れる。うごめく。・回合 廻ったり戻ったり離れたり集まったりする。・圻岸 岸が折れたり、曲がったりする。・崩奔 崩れたり出入りが激しかったりする。


乘月聽哀狖,浥露馥芳蓀。
月がのぼってくるとどこからか悲しい声の野猿が鳴いている、夜も更け露に潤う時刻になるとほんのりと菖蒲の花の香りがしてくる。
 ここでは、野猿。屈原『楚辞』「猨狖群嘯兮禽獸所居,至樂佚也。」で猨狖という言葉を用いた。猨は前述の猱蝯の蝯と同義であり、狖とともにテナガザル。・浥露 夜も更け露に潤う時刻になると。艶歌に使用される語である。・ 菖蒲。香草名。夜の娼婦の香水の香りという場合もある。


春晚綠野秀,岩高白雲屯。
春も終わりで木々も萌えるころで、緑が秀でるころであり、しげりも盛んになっている、見上げると岩場の高い所に白い雲が浮かんでいる。


千念集日夜,萬感盈朝昏。
思い返してみて千念(ちじ)の思いで念仏というのは、真昼か真夜中に集うもので、この全身全霊で感じ取るのは朝夕の念仏で満たされるのである。
千、萬念 浄土宗は極楽浄土には念仏を惟唱えること、貴賤・善悪の差別はないものとしておることに基づいている。

道路憶山中 謝霊運(康楽) 詩<58-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩452 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1173

道路憶山中 謝霊運(康楽) 詩<58-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩452 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1173


臨川郡に行く途中、遠ざかりゆく始寧の故居を思い、その過去の生活を追憶しつつ、その感情を歌った。「道路憶山中」(道路にて山中を憶う) 詩は、『文選』の巻二十六の「行旅」 の部に選ばれているものである。


道路憶山中
采菱調易急,江南歌不緩。
楚人の歌曲の「採菱曲」の調べで歩くと早歩きになりやすいし、「江南曲」だと歌はゆるやかにはならない。
楚人心昔絕,越客腸今斷。
楚人の宋玉の心というのは昔に讒言によって絶たれてしまった、越客の屈原の腸も今私の断腸の思いも屈原が強烈な愛国の情から出た詩を生み出したように、私はこの自然を極楽浄土、祇園精舎として詩を描くのだ。
斷絕雖殊念,俱為歸慮款。
屈原の国を思う心と私の極楽浄土へのおもい、断絶は念いをそれぞれ殊にするというものだが、一緒なのは供に故郷に帰りたいという思いが強いということである。
#2
存鄉爾思積,憶山我憤懣。
故郷を思う気持ちはうず高く積み重なってしまった、先祖の謝安の東山を思えば、私の心は我慢できないし、腹に据えかねるのだ。
追尋棲息時,偃臥任縱誕。
始寧で隠棲の時を昔を思い起してみると、体が思うに任せず、わがままでしまりがないことをし続けていたのだ。
得性非外求,自已為誰纂?
この性格になったのはだれか外部から影響を受けたというものではない。すべてこの身から出たものであり、誰の為に集めてそろえるといったものであろうか。
不怨秋夕長,常苦夏日短。
愁いに秋の夕の長いことを怨んでみてもしかたがないし、「一切皆苦」と常に夏に日ごとに短かくなっていく、生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされるのだ。
#3
濯流激浮湍,息陰倚密竿。
人生は浮き沈みの多い流れで急流は激しいし、そして木陰にて休み、始寧での隠棲生活がそれだった、そしてひっそりとした竹の林に寄りかかるのは自分を支えてくれる仏教者たちであった。
懷故叵新歡,含悲忘春暖。
しかしこうして旅する今となって、故郷の山を懐うので新しい歓びは得られはしないし、悲しみを抱いていては喜ぶべき春の暖かさをわすれる。
淒淒明月吹,惻惻廣陵散。
それで、凄淒と胸ふさがる懐いで「明月の曲」を吹き、身にしみて感ずる「廣陵散」の琴曲をかなでる。
殷勤訴危柱,慷慨命促管!
この憂いを晴らす,心をこめて琴柱に訴える、笛の音が急にして怒り嘆きを命じるのである。

道路にて山中を憶う
菱を采る調べは急になり易く、江南の歌は緩ならず。
楚人の心は昔から絕ち,越客【えつかく】の腸は今に斷つ。
斷絕【だんぜつ】は念いを殊にすと雖も,俱為【とも】に歸慮【きりょ】に款【たた】かれぬ。
#2
鄉を存【おも】い爾【しか】い思いは積めり,山を憶い我は憤懣【ふんまん】す。
棲息の時 追尋するに,偃臥【えんが】して縱誕【しょうたん】を任【ほしい】ままにせり。
性を得る外に求むるに非らず,自から已むのみにて誰の為にか纂【つ】がん?
秋の夕の長きを怨みず,常に夏の日の短きに苦しむ。
#3
濯流【とうりゅう】浮湍【ふたん】に激しくし,陰に息【いこ】いて密【しげり】の竿【たけ】に倚る。
故【むかし】を懷い新しき歡【よろこ】びは叵【しがた】く,悲しを含み春の暖かなるを忘る。
淒淒として明月を吹き,惻惻として廣陵を散【ひ】く。
殷勤【いんぎん】 危柱【きちゅう】に訴え,慷慨【こうがい】 促管【そくかん】を命ず!


現代語訳と訳註
(本文)
#3
濯流激浮湍,息陰倚密竿。
懷故叵新歡,含悲忘春暖。
淒淒明月吹,惻惻廣陵散。
殷勤訴危柱,慷慨命促管!


(下し文) #3
濯流【とうりゅう】浮湍【ふたん】に激しくし,陰に息【いこ】いて密【しげり】の竿【たけ】に倚る。
故【むかし】を懷い新しき歡【よろこ】びは叵【しがた】く,悲しを含み春の暖かなるを忘る。
淒淒として明月を吹き,惻惻として廣陵を散【ひ】く。
殷勤【いんぎん】 危柱【きちゅう】に訴え,慷慨【こうがい】 促管【そくかん】を命ず!


(現代語訳)
人生は浮き沈みの多い流れで急流は激しいし、そして木陰にて休み、始寧での隠棲生活がそれだった、そしてひっそりとした竹の林に寄りかかるのは自分を支えてくれる仏教者たちであった。
しかしこうして旅する今となって、故郷の山を懐うので新しい歓びは得られはしないし、悲しみを抱いていては喜ぶべき春の暖かさをわすれる。
それで、凄淒と胸ふさがる懐いで「明月の曲」を吹き、身にしみて感ずる「廣陵散」の琴曲をかなでる。
この憂いを晴らす,心をこめて琴柱に訴える、笛の音が急にして怒り嘆きを命じるのである。


(訳注) #3
濯流激浮湍,息陰倚密竿。

人生は浮き沈みの多い流れで急流は激しいし、そして木陰にて休み、始寧での隠棲生活がそれだった、そしてひっそりとした竹の林に寄りかかるのは自分を支えてくれる仏教者たちであった。
濯流【とうりゅう】 浮き沈みの多い流れ。・浮湍【ふたん】急流。
息陰 木陰にて休む。ここでは始寧での隠棲生活をいう。・密竿 竹の林。ここでは自分を支えてくれる仏教者をさすもの。


懷故叵新歡,含悲忘春暖
しかしこうして旅する今となって、故郷の山を懐うので新しい歓びは得られはしないし、悲しみを抱いていては喜ぶべき春の暖かさをわすれる。
・叵 …し難い,…できない叵耐我慢ならない.


淒淒明月吹,惻惻廣陵散。
それで、凄淒と胸ふさがる懐いで「明月の曲」を吹き、身にしみて感ずる「廣陵散」の琴曲をかなでる。
凄淒 (1) 寒い,冷え冷えする.(2) もの寂しい,うらさびれた.悲しい,胸ふさがる.・惻惻 . 惻 惻(そくそく). 悲しみ、悼むさま。身にしみて感ずること。・明月 明月の曲 古典音楽、越劇(浙江省の地方劇:女性のみで演じられる京劇に次いで人気のある華東の伝統劇の中の曲。)漢の謝安(字は安石)が始寧(会稽紹興市の東の上虞県の西南)に隠居して朝廷のお召しに応じなかったのは「東山高臥」といって有名な講である。山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。○・廣陵散 漢代の大型琴曲。別名「廣陵止息」。安徽省壽縣境內の民間樂曲。琴、箏、笙、築等の樂器で演奏,現存するもっとも古い琴曲である。


殷勤訴危柱,慷慨命促管!
この憂いを晴らす,心をこめて琴柱に訴える、笛の音が急にして怒り嘆きを命じるのである。
殷勤 ねんごろな,心のこもった、心からもてなす.・危柱 琴の音が高いことをいう。柱はことじ。・慷慨【こうがい】1 世間の悪しき風潮や社会の不正などを、怒り嘆くこと。「社会の矛盾を―する」「悲憤―」2 意気が盛んなこと。・促管 笛の音が急なこと。


道路憶山中 謝霊運(康楽) 詩<58-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩451 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1170

道路憶山中 謝霊運(康楽) 詩<58-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩451 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1170


臨川郡に行く途中、遠ざかりゆく始寧の故居を思い、その過去の生活を追憶しつつ、その感情を歌った。「道路憶山中」(道路にて山中を憶う) 詩は、『文選』の巻二十六の「行旅」 の部に選ばれているものである。


道路憶山中
采菱調易急,江南歌不緩。
楚人の歌曲の「採菱曲」の調べで歩くと早歩きになりやすいし、「江南曲」だと歌はゆるやかにはならない。
楚人心昔絕,越客腸今斷。
楚人の宋玉の心というのは昔に讒言によって絶たれてしまった、越客の屈原の腸も今私の断腸の思いも屈原が強烈な愛国の情から出た詩を生み出したように、私はこの自然を極楽浄土、祇園精舎として詩を描くのだ。
斷絕雖殊念,俱為歸慮款。
屈原の国を思う心と私の極楽浄土へのおもい、断絶は念いをそれぞれ殊にするというものだが、一緒なのは供に故郷に帰りたいという思いが強いということである。
#2
存鄉爾思積,憶山我憤懣。
故郷を思う気持ちはうず高く積み重なってしまった、先祖の謝安の東山を思えば、私の心は我慢できないし、腹に据えかねるのだ。
追尋棲息時,偃臥任縱誕。
始寧で隠棲の時の昔を思い起してみると、体が思うに任せず、わがままでしまりがないことをし続けていたのだ。
得性非外求,自已為誰纂?
この性格になったのはだれか外部から影響を受けたというものではない。すべてこの身から出たものであり、誰の為に集めてそろえるといったものであろうか。
不怨秋夕長,常苦夏日短。

愁いに秋の夕の長いことを怨んでみてもしかたがないし、「一切皆苦」と常に夏に日ごとに短かくなっていく、生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされるのだ。
#3
濯流激浮湍,息陰倚密竿。
懷故叵新歡,含悲忘春暖。
淒淒明月吹,惻惻廣陵散。
殷勤訴危柱,慷慨命促管!

道路にて山中を憶う
菱を采る調べは急になり易く、江南の歌は緩ならず。
楚人の心は昔から絕ち,越客【えつかく】の腸は今に斷つ。
斷絕【だんぜつ】は念いを殊にすと雖も,俱為【とも】に歸慮【きりょ】に款【たた】かれぬ。
#2
鄉を存【おも】い爾【しか】い思いは積めり,山を憶い我は憤懣【ふんまん】す。
棲息の時 追尋するに,偃臥【えんが】して縱誕【しょうたん】を任【ほしい】ままにせり。
性を得る外に求むるに非らず,自から已むのみにて誰の為にか纂【つ】がん?
秋の夕の長きを怨みず,常に夏の日の短きに苦しむ。
#3
流れに濯ぎて 浮湍に激しくし,陰に息【いこ】いて密【しげり】の竿【たけ】に倚る。
故【むかし】を懷い新しき歡【よろこ】びは叵【しがた】く,悲しを含み春の暖かなるを忘る。
淒淒として明月を吹き,惻惻として廣陵を散【ひ】く。
殷勤【いんぎん】 危柱【きちゅう】に訴え,慷慨【こうがい】 促管【そくかん】を命ず!



現代語訳と訳註
(本文)
#2
存鄉爾思積,憶山我憤懣。
追尋棲息時,偃臥任縱誕。
得性非外求,自已為誰纂?
不怨秋夕長,常苦夏日短。

(下し文) #2
鄉を存【おも】い爾【しか】い思いは積めり,山を憶い我は憤懣【ふんまん】す。
棲息の時 追尋するに,偃臥【えんが】して縱誕【しょうたん】を任【ほしい】ままにせり。
性を得る外に求むるに非らず,自から已むのみにて誰の為にか纂【つ】がん?
秋の夕の長きを怨みず,常に夏の日の短きに苦しむ。


(現代語訳)
故郷を思う気持ちはうず高く積み重なってしまった、先祖の謝安の東山を思えば、私の心は我慢できないし、腹に据えかねるのだ。
始寧で隠棲の時を昔を思い起してみると、体が思うに任せず、わがままでしまりがないことをし続けていたのだ。
この性格になったのはだれか外部から影響を受けたというものではない。すべてこの身から出たものであり、誰の為に集めてそろえるといったものであろうか。
愁いに秋の夕の長いことを怨んでみてもしかたがないし、「一切皆苦」と常に夏に日ごとに短かくなっていく、生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされるのだ。


(訳注) #2
存鄉爾思積,憶山我憤懣。
故郷を思う気持ちはうず高く積み重なってしまった、先祖の謝安の東山を思えば、私の心は我慢できないし、腹に据えかねるのだ。
憤懣 我慢できない腹に据えかねる ・ 業を煮やす。


追尋棲息時,偃臥任縱誕。
始寧で隠棲の時の昔を思い起してみると、体が思うに任せず、わがままでしまりがないことをし続けていたのだ。
追尋 昔を思い尋ねる。・偃臥 【えんが】うつぶして寝ること。腹ばうこと。病気療養を指す。・縱誕【しょうたん】かってきまま。わがままでしまりがないさま。


得性非外求,自已為誰纂?
この性格になったのはだれか外部から影響を受けたというものではない。すべてこの身から出たものであり、誰の為に集めてそろえるといったものであろうか。
 集めてそろえる。編集する。「纂修/雑纂・編纂・論纂」 .


不怨秋夕長,常苦夏日短。
愁いに秋の夕の長いことを怨んでみてもしかたがないし、「一切皆苦」と常に夏に日ごとに短かくなっていく、生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされるのだ。
ここは、「一切皆苦」初期の経典に「色は苦なり」「受想行識も苦なり」としばしば説かれていることをいっている。「すべての存在は不完全であり、不満足なものである」と言いかえることもできる。不完全であるがゆえに、常に変化して止まることがない。永遠に存在するものはなく、ただ変化のみが続くので「空しい」というふうに、「苦」という一語で様々な現象が語られる。日常的感覚における苦受であり、肉体的な身苦と精神的な心苦(憂)に分けられることもある。しかしながら、精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされ、これを苦苦・壊苦・行苦の三苦という。すなわち、どちらの立場にしても、苦ではないものはないわけで、「一切皆苦」というのは実にこの意である。

道路憶山中 謝霊運(康楽) 詩<52#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩449 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1164

道路憶山中 謝霊運(康楽) 詩<52#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩449 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1164


臨川郡に行く途中、遠ざかりゆく始寧の故居を思い、その過去の生活を追憶しつつ、その感情を歌った。「道路憶山中」(道路にて山中を憶う) 詩は、『文選』の巻二十六の「行旅」 の部に選ばれているものである。


道路憶山中
采菱調易急,江南歌不緩。
楚人の歌曲の「採菱曲」の調べで歩くと早歩きになりやすいし、「江南曲」だと歌はゆるやかにはならない。
楚人心昔絕,越客腸今斷。
楚人の宋玉の心というのは昔に讒言によって絶たれてしまった、越客の屈原の腸も今私の断腸の思いも屈原が強烈な愛国の情から出た詩を生み出したように、私はこの自然を極楽浄土、祇園精舎として詩を描くのだ。
斷絕雖殊念,俱為歸慮款。

屈原の国を思う心と私の極楽浄土へのおもい、断絶は念いをそれぞれ殊にするというものだが、一緒なのは供に故郷に帰りたいという思いが強いということである。
#2
存鄉爾思積,憶山我憤懣。
追尋棲息時,偃臥任縱誕。
得性非外求,自已為誰纂?
不怨秋夕長,常苦夏日短。
#3
濯流激浮湍,息陰倚密竿。
懷故叵新歡,含悲忘春日耎。
淒淒明月吹,惻惻廣陵散。
殷勤訴危柱,慷慨命促管!

道路にて山中を憶う
菱を采る調べは急になり易く、江南の歌は緩ならず。
楚人の心は昔から絕ち,越客【えつかく】の腸は今に斷つ。
斷絕【だんぜつ】は念いを殊にすと雖も,俱為【とも】に歸慮【きりょ】に款【たた】かれぬ。

#2
鄉を存【おも】い爾【しか】い思いは積めり,山を憶い我は憤懣【ふんまん】す。
棲息の時 追尋するに,偃臥【えんが】して縱誕【おもい】を任【ほしい】ままにせり。
性を得る外に求むるに非らず,自から已むのみにて誰の為にか纂【つ】がん?
秋の夕の長きを怨みず,常に夏の日の短きに苦しむ。
#3
流れに濯ぎて 浮湍に激しくし,陰に息【いこ】いて密【しげり】の竿【たけ】に倚る。
故【むかし】を懷い新しき歡【よろこ】びは叵【しがた】く,悲しを含み春の暖かなるを忘る。
淒淒として明月を吹き,惻惻として廣陵を散【ひ】く。
殷勤【いんぎん】 危柱【きちゅう】に訴え,慷慨【こうがい】 促管【そくかん】を命ず!


現代語訳と訳註
(本文) 道路憶山中
采菱調易急,江南歌不緩。
楚人心昔絕,越客腸今斷。
斷絕雖殊念,俱為歸慮款。


(下し文)
道路にて山中を憶う
「采菱」 調べは急になり易く、「江南」 歌は緩ならず。
楚人の心は昔から絕ち,越客【えつかく】の腸は今に斷つ。
斷絕【だんぜつ】は念いを殊にすと雖も,俱為【とも】に歸慮【きりょ】に款【たた】かれぬ。

(現代語訳)
楚人の歌曲の「採菱曲」の調べで歩くと早歩きになりやすいし、「江南曲」だと歌はゆるやかにはならない。
楚人の宋玉の心というのは昔に讒言によって絶たれてしまった、越客の屈原の腸も今私の断腸の思いも屈原が強烈な愛国の情から出た詩を生み出したように、私はこの自然を極楽浄土、祇園精舎として詩を描くのだ。
屈原の国を思う心と私の極楽浄土へのおもい、断絶は念いをそれぞれ殊にするというものだが、一緒なのは供に故郷に帰りたいという思いが強いということである。

(訳注)
采菱調易急,江南歌不緩。
楚人の歌曲の「採菱曲」の調べで歩くと早歩きになりやすいし、「江南曲」だと歌はゆるやかにはならない。

・采菱 楚人の歌曲名。採菱曲。農民女性の歌。宋玉『楚辞・招魂』「肴羞未通、女楽蘿些。㴑鐘按鼓、造新歌些。渉江采菱、發揚荷些。美人既酔、朱顔酡些。」(肴羞【こうしゅう】未だ通ぜらるに、女楽【じょがく】蘿【つらな】る。鐘を㴑【つら】ね鼓を按じて、造新歌些。渉江【しょうこう】采菱【さいりょう】、發揚荷【】些。美人既酔、朱顔【しゅがん】酡【だ】なり。)


楚人心昔絕,越客腸今斷。
楚人の宋玉の心というのは昔に讒言によって絶たれてしまった、越客の屈原の腸も今私の断腸の思いも屈原が強烈な愛国の情から出た詩を生み出したように、私はこの自然を極楽浄土、祇園精舎として詩を描くのだ。


斷絕雖殊念,俱為歸慮款。
屈原の国を思う心と私の極楽浄土へのおもい、断絶は念いをそれぞれ殊にするというものだが、一緒なのは供に故郷に帰りたいという思いが強いということである。

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<57-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩449 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1164

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<57-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩449 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1164


從斤竹澗越嶺溪行詩
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。
巌下雲方合。花上露猶泫。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。
#2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。
石の上に瓜先き立って岩から飛び出す滝の水を汲み、林の枝を引きよせて若葉を摘むのである。
#3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
しかしこの山水の美しきを観ては、人の心にひたすらに浄土に遣るために外物や余計な配慮を忘れ去ることである、浄土に遣ることだけを心に悟って心の悩みをもつことはないということがよく理解された。
そのうちに、楚評九歌の山鬼籍に「ここに人山の阿に有り、辞茅(まさきのかずら)薜茘を被【き】て、女蘿(ひかげのかずら)を帯にす」とある、あの祇園精舎とする山の阿に住む人を想い見て、その人のかずらの衣帯がまのあたりにあるようである。
握蘭勤徒結。折麻心莫展。
楚辞の詩人と同様に、私も蘭草を取っては贈るすべもなく、心をこめてただむだに結ぶだけであり、浄土に咲く大麻の花を折っても心はふさがって伸べることができない。
情用賞為美。事昧竟誰辨。
人間の情念は美しいものこそ浄土を為すべきものとして心から賞賛するのであり、この事の真理は蒙昧で未熟なものにとって誰がよく見わけることができよう。
觀此遺物慮。一悟得所遣。
谷川を過ぎてゆけばやがて急流を服を着たまま川を渡り、急傾斜に木を組んで造った桟道を登ってはるかな山の上に出る。
川渚屢徑複。乘流翫回轉。
川のなぎさをしばしば向こう岸に往ったりかえったりし、流れに随い下って川の廻転を楽しむのである。
蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
浮草が深い淵にただよい集まり、まこもやがまは清んだ浅瀬を蔽って生えている。
企石挹飛泉。攀林摘葉卷。


(斤竹澗より嶺を越えて溪行す。)
猿鳴いて誠に曙【あけぼの】を知り、谷幽にして光未だ顯【あら】われず。
巌下に雲 方【まさ】に合し、花上に露猶 泫【したた】る。
逶迤【いい】として隈隩【わいおう】に傍【そ】ひ、迢遞【ちょうてい】として陘峴【けいけん】を陟【のぼ】る。
#2
澗を過ぎて既に急を厲【わた】り、桟を登って亦 緬【めん】を陵【しの】ぐ。
川渚【せんしょ】は屡【しばし】ば 徑複【けいふく】し、流に乗じて回轉【かいてん】を翫【もてあそ】ぶ。
蘋萍【ひんべい】は沈深【ちんしん】に泛び、菰蒲【こほ】は清淺【せいせん】を冒【おお】えり。
石に企【つま】だてて 飛泉を挹【く】み、林を撃ちて葉巻【ようけん】を摘む。
#3
想見【そうけん】す山阿【さんあ】の人、薜蘿【へいら】眼に在るが若し。
蘭を握りて勤【ねんごろ】に徒【いたずら】に結び、麻【ま】を折りて心展【の】ぶる莫し。
情は賞して美と為すを用いて。事 昧【くら】くして竟に誰か辨せん。
此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。



現代語訳と訳註
(本文)
#3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
握蘭勤徒結。折麻心莫展。
情用賞為美。事昧竟誰辨。
觀此遺物慮。一悟得所遣。


(下し文)#3
想見【そうけん】す山阿【さんあ】の人、薜蘿【へいら】眼に在るが若し。
蘭を握りて勤【ねんごろ】に徒【いたずら】に結び、麻【ま】を折りて心展【の】ぶる莫し。
情は賞して美と為すを用いて。事 昧【くら】くして竟に誰か辨せん。
此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。


(現代語訳)
そのうちに、楚評九歌の山鬼籍に「ここに人山の阿に有り、辞茅(まさきのかずら)薜茘を被【き】て、女蘿(ひかげのかずら)を帯にす」とある、あの祇園精舎とする山の阿に住む人を想い見て、その人のかずらの衣帯がまのあたりにあるようである。
楚辞の詩人と同様に、私も蘭草を取っては贈るすべもなく、心をこめてただむだに結ぶだけであり、浄土に咲く大麻の花を折っても心はふさがって伸べることができない。
人間の情念は美しいものこそ浄土を為すべきものとして心から賞賛するのであり、この事の真理は蒙昧で未熟なものにとって誰がよく見わけることができよう。
しかしこの山水の美しきを観ては、人の心にひたすらに浄土に遣るために外物や余計な配慮を忘れ去ることである、浄土に遣ることだけを心に悟って心の悩みをもつことはないということがよく理解された。


(訳注) #3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
そのうちに、楚評九歌の山鬼籍に「ここに人山の阿に有り、辞茅(まさきのかずら)薜茘を被【き】て、女蘿(ひかげのかずら)を帯にす」とある、あの祇園精舎とする山の阿に住む人を想い見て、その人のかずらの衣帯がまのあたりにあるようである。
山阿人 祇園精舎で左土地を開く修行をしているひと。山の端に住む人。楚辞九歌山鬼篇に「若有人兮山之阿,被薜荔兮带女萝。」(ここに人山の阿に有りし薜茘を被り女蘿を帯にす)と。・薜羅 薜茘の衣、女蘿の帯。山鬼の衣帯。
楚辞九歌山鬼篇
若有人兮山之阿,被薜荔兮带女萝。既含睇兮又宜笑,子慕予兮善窈窕。
乘赤豹兮从文狸,辛夷车兮结桂旗。被石蘭兮带杜衡,折芳馨兮遗所思。
余處幽篁兮终不見天,路險難兮獨后来。表独立兮山之上,云容容兮而在下。
杳冥冥兮羌昼晦,东风飘兮神灵雨。留灵修兮憺忘归,岁既晏兮孰华予。
采三秀兮于山间,石磊磊兮葛蔓蔓。怨公子兮怅忘归,君思我兮不得閒。
山中人兮芳杜若,飲石泉兮陰松柏。君思我兮然疑作。
雷填填兮雨冥冥,猿啾啾兮狖夜鳴。風颯颯兮木萧萧,思公子兮徒離憂。


握蘭勤徒結。折麻心莫展。
楚辞の詩人と同様に、私も蘭草を取っては贈るすべもなく、心をこめてただむだに結ぶだけであり、浄土に咲く大麻の花を折っても心はふさがって伸べることができない。
握蘭 香ばしい蘭草を握る。山鬼篇に「被石蘭兮带杜衡,折芳馨兮遗所思。」(石蘭【せきらん】を被【き】て杜衡【とこう】を带【おび】とし,芳馨を折りて思ふ所に遣らん。)「棗拠の逸民賦に曰く、春蘭を握りて芳を遣ると」とある。・折麻 麻の白い花を折って離れている人に贈る。楚辞九歌大司命篇に「折疏麻兮瑶華、将以兮離居。」(疏麻の瑶華〈白玉のような花〉を折りて、将に離れ居るもの遣らんとす。)と。沈徳潜注に「此れ徒に勤に心を結ぶを云ふ」と。・心莫展 遣る人がないのでこころはふさがる。沈徳潜注に「友に贈らんと欲して由末きを言ふなり。上の二句を承けて看れは便ち明かなり」と。
楚辞九歌大司命篇
廣開兮天門,紛吾乘兮玄雲;
令飘风兮先驱,使涷雨兮洒尘;
君回翔兮以下,逾空桑兮从女;
纷总总兮九州,何寿夭兮在予;
高飞兮安翔,乘清气兮御陰陽;
吾与君兮齐速,导帝之兮九坑;
灵衣兮被被,玉佩兮陆离;
壹陰兮壹陽,衆莫知兮余所爲;
折疏麻兮瑶,将以遗兮离居;
老冉冉兮既极,不寢近兮愈疏;
乘龍兮轔轔,高騁兮冲天;
結桂枝兮延佇,羌愈思兮愁人;
愁人兮奈何,愿若今兮無虧;
固人命兮有当,孰離合兮何爲?


情用賞為美。事昧竟誰辨。
人間の情念は美しいものこそ浄土を為すべきものとして心から賞賛するのであり、この事の真理は蒙昧で未熟なものにとって誰がよく見わけることができよう。
 偽りのない心。・用賞為美 極楽浄土をもとめる心の賞賛をよいとする。・事昧 その事の真理は無知蒙昧にとって悟り難い。・竟誰辨 仏陀は分け隔てをしない。善人も悪人でも分け隔てなく極楽浄土にゆけること。


觀此遺物慮。一悟得所遣。
しかしこの山水の美しきを観ては、人の心にひたすらに浄土に遣るために外物や余計な配慮を忘れ去ることである、浄土に遣ることだけを心に悟って心の悩みをもつことはないということがよく理解された。
遣物慮 物欲の外物や内心のやましい心慮を忘れる。・一悟 浄土に遣ることだけを心に悟って。・ 悩みを去る。心をなぐさめる。煩悩を棄て極楽浄土へ遣ること。謝靈運にとって、天子のほかに仏陀がいるのであり、中華思想では判断できない思想がある。儒者道教者は、施政者の哲学の中に入っていて天子の徳が施されることを基本に論理が組み立てられる。謝靈運には、天子、皇帝より極楽浄土が基本であり、ましてや太守の発言行動に敬意を表することも尊重することもないのである。仏陀のもとにゆけるのか、極楽浄土へ行けるのかが最も重要な判断基準であるのだ。

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<57-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩448 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1161

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<57-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩448 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1161


從斤竹澗越嶺溪行詩
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。
巌下雲方合。花上露猶泫。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。
#2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。
石の上に瓜先き立って岩から飛び出す滝の水を汲み、林の枝を引きよせて若葉を摘むのである。
#3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
握蘭勤徒結。折麻心莫展。
情用賞為美。事昧竟誰辨。
觀此遺物慮。一悟得所遣。
谷川を過ぎてゆけばやがて急流を服を着たまま川を渡り、急傾斜に木を組んで造った桟道を登ってはるかな山の上に出る。
川渚屢徑複。乘流翫回轉。
川のなぎさをしばしば向こう岸に往ったりかえったりし、流れに随い下って川の廻転を楽しむのである。
蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
浮草が深い淵にただよい集まり、まこもやがまは清んだ浅瀬を蔽って生えている。
企石挹飛泉。攀林摘葉卷。


(斤竹澗より嶺を越えて溪行す。)
猿鳴いて誠に曙【あけぼの】を知り、谷幽にして光未だ顯【あら】われず。
巌下に雲 方【まさ】に合し、花上に露猶 泫【したた】る。
逶迤【いい】として隈隩【わいおう】に傍【そ】ひ、迢遞【ちょうてい】として陘峴【けいけん】を陟【のぼ】る。
#2
澗を過ぎて既に急を厲【わた】り、桟を登って亦 緬【めん】を陵【しの】ぐ。
川渚【せんしょ】は屡【しばし】ば 徑複【けいふく】し、流に乗じて回轉【かいてん】を翫【もてあそ】ぶ。
蘋萍【ひんべい】は沈深【ちんしん】に泛び、菰蒲【こほ】は清淺【せいせん】を冒【おお】えり。
石に企【つま】だてて 飛泉を挹【く】み、林を撃ちて葉巻【ようけん】を摘む。
#3
想見【そうけん】す山阿【さんあ】の人、薜蘿【へいら】眼に在るが若し。
蘭を握りて勤【ねんごろ】に徒【いたずら】に結び、麻【ま】を折りて心展【の】ぶる莫し。
情は賞して美と為すを用いて。事 昧【くら】くして竟に誰か辨せん。
此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。



現代語訳と訳註
(本文)
#2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。
川渚屢徑複。乘流翫回轉。
蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
企石挹飛泉。攀林摘葉卷。


(下し文)
澗を過ぎて既に急を厲【わた】り、桟を登って亦 緬【めん】を陵【しの】ぐ。
川渚【せんしょ】は屡【しばし】ば 徑複【けいふく】し、流に乗じて回轉【かいてん】を翫【もてあそ】ぶ。
蘋萍【ひんべい】は沈深【ちんしん】に泛び、菰蒲【こほ】は清淺【せいせん】を冒【おお】えり。
石に企【つま】だてて 飛泉を挹【く】み、林を撃ちて葉巻【ようけん】を摘む。


(現代語訳)
谷川を過ぎてゆけばやがて急流を服を着たまま川を渡り、急傾斜に木を組んで造った桟道を登ってはるかな山の上に出る。
川のなぎさをしばしば向こう岸に往ったりかえったりし、流れに随い下って川の廻転を楽しむのである。
浮草が深い淵にただよい集まり、まこもやがまは清んだ浅瀬を蔽って生えている。
石の上に瓜先き立って岩から飛び出す滝の水を汲み、林の枝を引きよせて若葉を摘むのである。


(訳注) #2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。

谷川を過ぎてゆけばやがて急流を服を着たまま川を渡り、急傾斜に木を組んで造った桟道を登ってはるかな山の上に出る。
 徒渉。詩経に「深ければ則ち厲る」と、毛伝に「衣を以て水を捗るを厲といふ」と。・登桟 かけはし路を登る。木を組んで急斜面に作った道を桟道という。・陵紬、はるかな山の上に出る。


川渚屢徑複。乘流翫回轉。
川のなぎさをしばしば向こう岸に往ったりかえったりし、流れに随い下って川の廻転を楽しむのである。
徑複 往来する。


蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
浮草が深い淵にただよい集まり、まこもやがまは清んだ浅瀬を蔽って生えている。
蘋萍 うきくさ。・沉深 深い淵。・孤荊 まこもやがま。水草。・ 蔽う。


企石挹飛泉。攀林摘葉卷。
石の上に瓜先き立って岩から飛び出す滝の水を汲み、林の枝を引きよせて若葉を摘むのである。
企石 石の上に爪先き立つ。企はつま立つ。・飛泉 滝水。・葉巻 まだ展びないわか葉。

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<51#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩446 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1155

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<51#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩446 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1155


 儒教者は謝靈運が理解できないようだ。多くの注釈で儒教者の感覚で間違った解釈をしている。仏教徒としての謝靈運ということ見ていくと違った意味となってくる。まず、ある注釈書に謝靈運にとって「自然の美しさ、山水の美しさは、気を紛らすことであり、精神的な苦しみを忘却するためであった」と「觀此遺物慮。一悟得所遣。」(此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。)この詩の最後の聯であり、結論としている。基本的な姿勢が儒教者の観念で捉えるからこのような了見の狭い解釈となったのだ。

この『從斤竹澗越嶺溪行詩』で、“斤竹潤から多くの嶺や谷を越えての旅で、猿声・谷・巌下の雲、花の上の露、遠き山川、潤、桟道、水草などの美しきを巧みに詠じ、結句で「此を観て物慮を遣れ一たび悟りて遣る所を得」と歌っている。これは霊運は美しい山水をみているあいだだけは心の憂いを忘れることができたという。すなわち、霊運が山水の美にあこがれたのは、常にその精神的な苦しみを忘却するためであった。ここで問題となるのは「物慮」である。これに対し、江家は物欲と塵慮であるというが、一般の人々より金持であり、生活に困らぬはずであった霊運ではあるが、さらにたくさんの金銭への欲望があったのかもしれぬ。そして、塵慮とは出世への欲望であったろうか。口では忘れたといっても、これは人間の本能である。いつも心の中には忘れることができなかった。これらは中国の知識人のみならず、人類の永遠の悩みでもある。”とあらわされている。儒教者の注釈を日本で、直訳しそのまま解説しているからで、実は全く違うことをいっているのである。自然の美しさは浄土ととらえているのである。念仏を唱えることで浄土にゆけるといっているのである。


從斤竹澗越嶺溪行詩
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。
巌下雲方合。花上露猶泫。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。
#2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。
川渚屢徑複。乘流翫回轉。
蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
企石挹飛泉。攀林摘葉卷。
#3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
握蘭勤徒結。折麻心莫展。
情用賞為美。事昧竟誰辨。
觀此遺物慮。一悟得所遣。


(斤竹澗より嶺を越えて溪行す。)
猿鳴いて誠に曙【あけぼの】を知り、谷幽にして光未だ顯【あら】われず。
巌下に雲 方【まさ】に合し、花上に露猶 泫【したた】る。
逶迤【いい】として隈隩【わいおう】に傍【そ】ひ、迢遞【ちょうてい】として陘峴【けいけん】を陟【のぼ】る。

#2
澗を過ぎて既に急を厲【わた】り、桟を登って亦 緬【めん】を陵【しの】ぐ。
川渚【せんしょ】は屡【しばし】ば 徑複【けいふく】し、流に乗じて回轉【かいてん】を翫【もてあそ】ぶ。
蘋萍【ひんべい】は沈深【ちんしん】に泛び、菰蒲【こほ】は清淺【せいせん】を冒【おお】えり。
石に企【つま】だてて 飛泉を挹【く】み、林を撃ちて葉巻【ようけん】を摘む。
#3
想見【そうけん】す山阿【さんあ】の人、薜蘿【へいら】眼に在るが若し。
蘭を握りて勤【ねんごろ】に徒【いたずら】に結び、麻【ま】を折りて心展【の】ぶる莫し。
情は賞して美と為すを用いて。事 昧【くら】くして竟に誰か辨せん。
此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。


現代語訳と訳註
(本文)

從斤竹澗越嶺溪行詩
猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
巌下雲方合。花上露猶泫。
逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。


(下し文)
斤竹澗より嶺を越えて溪行す。
猿鳴いて誠に曙【あけぼの】を知り、谷幽にして光未だ顯【あら】われず。
巌下に雲 方【まさ】に合し、花上に露猶 泫【したた】る。
逶迤【いい】として隈隩【わいおう】に傍【そ】ひ、迢遞【ちょうてい】として陘峴【けいけん】を陟【のぼ】る。


(現代語訳)
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。


(訳注)
從斤竹澗越嶺溪行詩
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
斤竹澗 温州府楽清県の東七十五里の谷川の名。・溪行 谷川ぞいに行く。


猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。


巌下雲方合。花上露猶泫。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
 したたる。


逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。
逶迤 うねうねとしたさま。・隈襖 山のくま。'隈, 山曲也。'隩, 隈也。 ・迢遞 造かに遠い。・陘峴 陸に連山の切れ目、峴は小さい嶺。

初発石首城 謝霊運(康楽) 詩<56-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩446 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1155

初発石首城 謝霊運(康楽) 詩<56-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩446 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1155


初發石首城
珪尚可磨,斯言易為緇。
天子に賜る白い玉は磨けば磨け砕け良いことになるが、言葉は讒言など黒く汚れたものでも容易にもちいられている。
雖抱中孚爻,猶勞貝錦詩。
誠、真心というものを易の卦のようにして大事にしているのであるが、それでもなおいろんな讒言によって苦労をしているのだ。
寸心若不亮,微命察如絲。
自分のほんの少しの気持ちが、もし人に明るくはっきりしていることができないのであれば、私の徴命は察するに糸のように危ういことである。
日月垂光景,成貸遂兼茲。」
太陽や月のように我々に暖かい慈愛を施してくれる文帝は私に光景を垂れてくだされた、誰もがするように賄賂を贈ることをしてでも臨川の内守を何とか勤め上げることにしよう。
#2
出宿薄京畿,晨裝摶魯颸。
私は宿を出て金陵の都、京幾に滞留したのである、午前中に旅の装いをして旅途中の涼風をとらえたのである。
重經平生別,再與朋知辭。
重ねて常日頃の別をした後で、再び朋友に別れの辞を与えることができる。
故山日已遠,風波豈還時。
故郷の山野は日ごとに既に遠くなっているし、大風か大波がおこってくれればこれで、かえり時になるのであろう。
苕苕萬里帆,茫茫終何之?」

苕苕として万里に向かう帆を高く掲げ、茫茫としてはっきりしないのについにどこに行けばよいのだろう。
#3
游當羅浮行,息必廬霍期。

皎皎として何もなく広々として明るさを発っしているおもう心境である、論語子罕でいう節奏を持った男が欺かれてしまうことはあってほしくないのだ。
旅をし、遊ぶといえばまさに羅浮山に行かねばならないのだ、心の癒し・憩うといえば必ず廬山の絶景であろうし、六安瓜片の緑茶の産地霍山に時期をみていくことである。
越海淩三山,遊湘曆九嶷。
そして、越の地方からは海を越えて温州に至る三山を陵ぐものである。湘江で遊び九嶷山を経ていくのもよいのである。
欽聖若旦暮,懷賢亦淒其。
聖人をつつしみ敬うのは朝が晩になるように当然のこととしている、そして賢人を懐うことは亦た、それが悲しくて,胸ふさがるのである。
皎皎明發心,不為歲寒欺。」


(初めて石首城を発す)
白き珪【けい】は尚 磨く可きも,斯の言は緇【くろ】と為し易し。
中孚【ちゅうふ】の爻【こう】を抱くと雖ども,猶 貝錦【ばいきん】詩に勞するごとし。
寸心【すんしん】の若し不亮【あき】らかならずんば,微命は察するに絲の如く。
日月 光景を垂れ,貸を成して遂に茲【これ】を兼ねしむ。」
#2
出宿をて京畿【けいき】に薄【いた】り,晨に裝いて魯颸【ろし】摶つ。
重ねて平生の別を經て,再び朋知に辭を與【あた】う。
故山【こざん】日に已に遠く,風波もて豈 還る時あらんや。
苕苕【ちょうちょう】萬里の帆,茫茫【ぼうぼう】終【つい】に何れに之かん?」
#3
游びには當に羅浮【らふ】に行くべし,息うは必ず廬 霍に期す。
海を越えて三山を淩ぎ,湘に遊びて九嶷【きゅうぎ】を曆ん。
欽聖【きんせい】旦暮【たんぼ】の若く,懷賢【かいけん】亦た 淒其【せいき】たり。
皎皎【きょうきょう】明發を心し,歲寒に欺【あざむ】かるるを為さず。」



現代語訳と訳註
(本文)

游當羅浮行,息必廬霍期。越海淩三山,遊湘曆九嶷。
欽聖若旦暮,懷賢亦淒其。皎皎明發心,不為歲寒欺。」

(下し文)#3
游びには當に羅浮【らふ】に行くべし,息うは必ず廬 霍に期す。
海を越えて三山を淩ぎ,湘に遊びて九嶷【きゅうぎ】を曆ん。
欽聖【きんせい】旦暮【たんぼ】の若く,懷賢【かいけん】亦た 淒其【せいき】たり。
皎皎【きょうきょう】明發を心し,歲寒に欺【あざむ】かるるを為さず。」


(現代語訳)
旅をし、遊ぶといえばまさに羅浮山に行かねばならないのだ、心の癒し・憩うといえば必ず廬山の絶景であろうし、六安瓜片の緑茶の産地霍山に時期をみていくことである。
そして、越の地方からは海を越えて温州に至る三山を陵ぐものである。湘江で遊び九嶷山を経ていくのもよいのである。
聖人をつつしみ敬うのは朝が晩になるように当然のこととしている、そして賢人を懐うことは亦た、それが悲しくて,胸ふさがるのである。
皎皎として何もなく広々として明るさを発っしているおもう心境である、論語子罕でいう節奏を持った男が欺かれてしまうことはあってほしくないのだ。


(訳注) #3
游當羅浮行,息必廬霍期。

旅をし、遊ぶといえばまさに羅浮山に行かねばならないのだ、心の癒し・憩うといえば必ず廬山の絶景であろうし、六安瓜片の緑茶の産地霍山に時期をみていくことである。
羅浮 羅浮山のこと。広東省恵州市博楽県長寧鎮にある。 広州の東90キロに位置する羅浮山は古くは東樵山といわれ南海の西樵山と姉妹関係にある。広東四大名山の一つで、道教の聖地として中国十大名山の一つにも数えられている。主峰飛雲頂は海抜1296m、は香港の北、広州市の東、東莞市の北東に所在する山である。広東省の道教の聖地「羅浮山」羅浮仙ラフセン:隋の趙師雄が梅の名所の羅浮山で羅をまとった美女と出会い酒を酌み交わす酒に酔い伏し梅の樹の下で気が付いた美女は梅の精で羅浮仙ラフセンと呼ばれた故事もある。
李白『江西送友人之羅浮
爾去之羅浮、我還憩峨眉。
中閥道萬里、霞月逼相思。
如尋楚狂子、瓊樹有芳枝。
李白『金陵江上遇蓬池隱者』
心愛名山游、身隨名山遠。
羅浮麻姑台、此去或未返。
『安陸白兆山桃花岩寄劉侍御綰』
云臥三十年、好閑復愛仙。 蓬壺雖冥絕、鸞鶴心悠然。
歸來桃花岩、得憩云窗眠。對嶺人共語、飲潭猿相連。
時升翠微上、邈若羅浮巔。 兩岑抱東壑、一嶂橫西天。
樹雜日易隱、崖傾月難圓。芳草換野色、飛蘿搖春煙。
入遠構石室、選幽開上田。 獨此林下意、杳無區中緣。

永辭霜台客、千載方來旋。
道教の寺観の傍には、娼屋のようなところがあった。祠もあって、旅人も宿泊できるものであったようだ。
廬山 江西省九江市南部にある名山。峰々が作る風景の雄大さ、奇絶さ、険しさ、秀麗さが古来より有名で、「匡廬奇秀甲天下」(匡廬の奇秀は天下一である)と称えられてきた(匡廬とは廬山の別名)。・霍山 安徽省六安市に位置する。六安瓜片(緑茶)の産地


越海淩三山,遊湘曆九嶷。
そして、越の地方からは海を越えて温州に至る三山を陵ぐものである。湘江で遊び九嶷山を経ていくのもよいのである。
三山 会稽始寧から南に三山(現浙江省富陽縣三山)がある。東方三神山の一山として に移動。蓬萊、方丈、瀛州(えいしゅう)は東海の三神山であり、不老不死の仙人が住むと伝えられている。・九嶷山 洞庭湖の南部で、瀟水と湘江が合流する一帯の景色は「瀟湘湖南」と称されて親しまれてきた。これに古代の帝王・舜が葬られたとされている九嶷山を取り入れた景観もまたその美しさで知られ、多くの詩が詠まれてきた(劉禹錫の「瀟湘曲」など)。


欽聖若旦暮,懷賢亦淒其。
聖人をつつしみ敬うのは朝が晩になるように当然のこととしている、そして賢人を懐うことは亦た、それが悲しくて,胸ふさがるのである。
1 つつしみ敬う。「欽仰・欽羨(きんせん)・欽慕」2 天子に関する物事に付けて敬意を示す語。「欽定・欽命」・旦暮 1 朝晩。あけくれ。旦夕。 2 時機が迫っていること。・ (凄) (1) 寒い,冷え冷えする.(2) もの寂しい,うらさびれた.《―(悽)》悲しい,胸ふさがる.


皎皎明發心,不為歲寒欺。」
皎皎として何もなく広々として明るさを発っしているおもう心境である、論語子罕でいう節奏を持った男が欺かれてしまうことはあってほしくないのだ。
皎皎(皓皓)【こうこう】1 白く光り輝くさま。清らかなさま。2 何もなく広々としているさま。
歳寒【さいかん】 寒さの厳しい時節。冬季。冬。歳寒の松柏、論語子罕:子曰:歲寒,然後知松柏之後凋也"。松や柏が厳寒にも葉の緑を保っているところから、節操が堅く、困難にあっても屈しないことのたとえ。

初発石首城 謝霊運(康楽) 詩<56-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩445 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1152

初発石首城 謝霊運(康楽) 詩<56-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩445 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1152


初發石首城
白珪尚可磨,斯言易為緇。
天子に賜る白い玉は磨けば磨け砕け良いことになるが、言葉は讒言など黒く汚れたものでも容易にもちいられている。
雖抱中孚爻,猶勞貝錦詩。
誠、真心というものを易の卦のようにして大事にしているのであるが、それでもなおいろんな讒言によって苦労をしているのだ。
寸心若不亮,微命察如絲。
自分のほんの少しの気持ちが、もし人に明るくはっきりしていることができないのであれば、私の徴命は察するに糸のように危ういことである。
日月垂光景,成貸遂兼茲。」

太陽や月のように我々に暖かい慈愛を施してくれる文帝は私に光景を垂れてくだされた、誰もがするように賄賂を贈ることをしてでも臨川の内守を何とか勤め上げることにしよう。
#2
出宿薄京畿,晨裝摶魯颸。
私は宿を出て金陵の都、京幾に滞留したのである、午前中に旅の装いをして旅途中の涼風をとらえたのである。
重經平生別,再與朋知辭。
重ねて常日頃の別をした後で、再び朋友に別れの辞を与えることができる。
故山日已遠,風波豈還時。
故郷の山野は日ごとに既に遠くなっているし、大風か大波がおこってくれればこれで、かえり時になるのであろう。
苕苕萬里帆,茫茫終何之?」
苕苕として万里に向かう帆を高く掲げ、茫茫としてはっきりしないのについにどこに行けばよいのだろう。
#3
游當羅浮行,息必廬霍期。越海淩三山,遊湘曆九嶷。
欽聖若旦暮,懷賢亦淒其。皎皎明發心,不為歲寒欺。」


(初めて石首城を発す)
白き珪【けい】は尚 磨く可きも,斯の言は緇【くろ】と為し易し。
中孚【ちゅうふ】の爻【こう】を抱くと雖ども,猶 貝錦【ばいきん】詩に勞するごとし。
寸心【すんしん】の若し不亮【あき】らかならずんば,微命は察するに絲の如く。
日月 光景を垂れ,貸を成して遂に茲【これ】を兼ねしむ。」
#2
出宿をて京畿【けいき】に薄【いた】り,晨に裝いて魯颸【ろし】摶つ。
重ねて平生の別を經て,再び朋知に辭を與【あた】う。
故山【こざん】日に已に遠く,風波もて豈 還る時あらんや。
苕苕【ちょうちょう】萬里の帆,茫茫【ぼうぼう】終【つい】に何れに之かん?」
#3
游びには當に羅浮【らふ】に行くべし,息うは必ず廬 霍に期す。
海を越えて三山を淩ぎ,湘に遊びて九嶷【きゅうぎ】を曆ん。
欽聖【きんせい】旦暮【たんぼ】の若く,懷賢【かいけん】亦た 淒其【せいき】たり。
皎皎【きょうきょう】明發を心し,歲寒に欺【あざむ】かるるを為さず。」


現代語訳と訳註
(本文)

出宿薄京畿,晨裝摶魯颸。重經平生別,再與朋知辭。
故山日已遠,風波豈還時。苕苕萬里帆,茫茫終何之?」


(下し文)#2
出宿をて京畿【けいき】に薄【いた】り,晨に裝いて魯颸【ろし】摶つ。
重ねて平生の別を經て,再び朋知に辭を與【あた】う。
故山【こざん】日に已に遠く,風波もて豈 還る時あらんや。
苕苕【ちょうちょう】萬里の帆,茫茫【ぼうぼう】終【つい】に何れに之かん?」


(現代語訳)
私は宿を出て金陵の都、京幾に滞留したのである、午前中に旅の装いをして旅途中の涼風をとらえたのである。
重ねて常日頃の別をした後で、再び朋友に別れの辞を与えることができる。
故郷の山野は日ごとに既に遠くなっているし、大風か大波がおこってくれればこれで、かえり時になるのであろう。
苕苕として万里に向かう帆を高く掲げ、茫茫としてはっきりしないのについにどこに行けばよいのだろう。


(訳注) #2
出宿薄京畿,晨裝摶魯颸。
私は宿を出て金陵の都、京幾に滞留したのである、午前中に旅の装いをして旅途中の涼風をとらえたのである。
京畿(けいき)は、漢字文化圏で京師(みやこ)および京師周辺の地域のこと。・魯颸 旅途中の涼風。


重經平生別,再與朋知辭。
重ねて常日頃の別をした後で、再び朋友に別れの辞を与えることができる。
平生 ふだん。いつも。つね日ごろ。副詞的にも用いる。・朋知 朋友の。


故山日已遠,風波豈還時。
故郷の山野は日ごとに既に遠くなっているし、大風か大波がおこってくれればこれで、かえり時になるのであろう。


苕苕萬里帆,茫茫終何之?」
苕苕として万里に向かう帆を高く掲げ、茫茫としてはっきりしないのについにどこに行けばよいのだろう。
苕苕 高いさま。超然。・茫茫 ひろびろと広大なさま

初発石首城 謝霊運(康楽) 詩<56-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩444 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1149

初発石首城 謝霊運(康楽) 詩<56-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩444 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1149


謝霊運は、臨川の内史をもって呼ぶ習慣があったがこの地の内史になったのは天子の特別なるおばしめしで、彼にとっては思わざる栄転であったとされるが、謝霊運は喜んではいなかった。
その臨川に赴任するとき、都の建康の西にあった石首城、すなわち石頭城を出発するときにその感慨を歌ったものに「初めて石首城を発す」がある。これは『文選』の巻二十六の「行旅」の部に引用されているが、この詩にはその不満の感情が実によく歌われているからである。



初發石首城
白珪尚可磨,斯言易為緇。
天子に賜る白い玉は磨けば磨け砕け良いことになるが、言葉は讒言など黒く汚れたものでも容易にもちいられている。
雖抱中孚爻,猶勞貝錦詩。
誠、真心というものを易の卦のようにして大事にしているのであるが、それでもなおいろんな讒言によって苦労をしているのだ。
寸心若不亮,微命察如絲。
自分のほんの少しの気持ちが、もし人に明るくはっきりしていることができないのであれば、私の徴命は察するに糸のように危ういことである。
日月垂光景,成貸遂兼茲。」
太陽や月のように我々に暖かい慈愛を施してくれる文帝は私に光景を垂れてくだされた、誰もがするように賄賂を贈ることをしてでも臨川の内守を何とか勤め上げることにしよう
#2
出宿薄京畿,晨裝摶魯颸。重經平生別,再與朋知辭。
故山日已遠,風波豈還時。苕苕萬里帆,茫茫終何之?」
#3
游當羅浮行,息必廬霍期。越海淩三山,遊湘曆九嶷。
欽聖若旦暮,懷賢亦淒其。皎皎明發心,不為歲寒欺。」


(初めて石首城を発す)
白き珪【けい】は尚 磨く可きも,斯の言は緇【くろ】と為し易し。
中孚【ちゅうふ】の爻【こう】を抱くと雖ども,猶 貝錦【ばいきん】詩に勞するごとし。
寸心【すんしん】の若し不亮【あき】らかならずんば,微命は察するに絲の如く。
日月 光景を垂れ,貸を成して遂に茲【これ】を兼ねしむ。」
#2
出宿をて京畿【けいき】に薄【いた】り,晨に裝いて魯颸【ろし】摶つ。
重ねて平生の別を經て,再び朋知に辭を與【あた】う。
故山【こざん】日に已に遠く,風波もて豈 還る時あらんや。
苕苕【ちょうちょう】萬里の帆,茫茫【ぼうぼう】終【つい】に何れに之かん?」

#3
游びには當に羅浮【らふ】に行くべし,息うは必ず廬 霍に期す。
海を越えて三山を淩ぎ,湘に遊びて九嶷【きゅうぎ】を曆ん。
欽聖【きんせい】旦暮【たんぼ】の若く,懷賢【かいけん】亦た 淒其【せいき】たり。
皎皎【きょうきょう】明發を心し,歲寒に欺【あざむ】かるるを為さず。」


現代語訳と訳註
(本文) 初發石首城

白珪尚可磨,斯言易為緇。雖抱中孚爻,猶勞貝錦詩。
寸心若不亮,微命察如絲。日月垂光景,成貸遂兼茲。」


(下し文)
白き珪【けい】は尚 磨く可きも,斯の言は緇【くろ】と為し易し。
中孚【ちゅうふ】の爻【こう】を抱くと雖ども,猶 貝錦【ばいきん】詩に勞するごとし。
寸心【すんしん】の若し不亮【あき】らかならずんば,微命は察するに絲の如く。
日月 光景を垂れ,貸を成して遂に茲【これ】を兼ねしむ。」


(現代語訳)

天子に賜る白い玉は磨けば磨け砕け良いことになるが、言葉は讒言など黒く汚れたものでも容易にもちいられている。
誠、真心というものを易の卦のようにして大事にしているのであるが、それでもなおいろんな讒言によって苦労をしているのだ。
自分のほんの少しの気持ちが、もし人に明るくはっきりしていることができないのであれば、私の徴命は察するに糸のように危ういことである。
太陽や月のように我々に暖かい慈愛を施してくれる文帝は私に光景を垂れてくだされた、誰もがするように賄賂を贈ることをしてでも臨川の内守を何とか勤め上げることにしよう


(訳注)
初發石首城

石首城 石頭城のこと。建康の都の西にある石頭城から任地臨川に赴くときに作った。
江蘇省南京市清涼山。 本楚金陵城, 漢建安十七年孫權重築改名。 城負山面江, 南臨秦淮河口, 當交通要沖, 六朝時為建康軍事重鎮。
戦国時代,周?王三十六年(前333年)に楚が越を滅ぼした。この時楚の威王が金陵邑を今の南京に建設した。同時に、今の 清凉山と呼ばれるところに城を築いた。秦始皇帝二十四年(前223年),楚を滅ぼし、金陵邑を秣陵?とした。三国時代,孫権は、秣陵を建業と改称、清凉山 に石頭城を建設した。当時、長江は清凉山下流を流れていて、石頭城の軍事的重要性は突出していた。呉では、水軍もっとも重要な水軍基地とし、以後数百年 間、軍事上の要衝となった。南北朝時代、何度も勝負の帰趨に大きな役割を果たした。
石頭城は清凉山の 西の天然の障壁をなし、山の周囲に築城したもの。周囲7里(現在の6里)あり 北は大江に接し南は秦淮河に接している。南向きに二つ門があり、東に向かって一つ,南門の西に西門があった。内部には石頭庫、石頭倉と呼ばれる倉庫があっ た。高所には烽火台があった。呉以降南朝でも重要性は変わらなかった。
南京清涼山後方位置(南京時内で30分距離)にある石頭城は南北の長さ3km,城遺跡は赤い色,城内には大量の河工石があって高さが0.3-0.7m,一番高いところは17mに達する自然岩石で造成され中間部位何ヶ所は飛び出してきた赤い色の水成岩になって険悪な顔と似て(鬼脸城)という。 本城は楚威王の金陵邑として楚威王7年(333年)に建造した。秦始皇帝二十四年(前223年),楚を滅ぼし、金陵邑を秣陵とした。東漢建安16年(211年)呉の孫権は秣陵(今日南京)に遷都して翌年に石頭山金陵邑旧跡に城を築いて石頭と名付けた。 明洪武2年(1369年)石頭城を応天府城(現南京)の一つ部分で再建した。 長江の軍事要地に当たるので歴代軍事家らの必須争奪地域になったし,石城虎距という名前を持つようになった。


白珪尚可磨,斯言易為緇。
天子に賜る白い玉は磨けば磨け砕け良いことになるが、言葉は讒言など黒く汚れたものでも容易にもちいられている。
白珪 【けい】諸侯に封じる時に、天子が授ける玉。「珪璧(けいへき)」白い玉はまた磨けばいいが、言葉は黒く汚れ易い、とある。『詩經』大雅、抑篇「白圭之玷,尚可磨也。斯言之玷,不可爲也。」(白圭の(王占)けたるは、なお磨くべし、この言の(王占)けたるは、為(おさ)むべからず。)、白い玉の欠けたのは、また磨けばいいが、言葉を誤ると改めようがない、とあるを引く。 ・ 悪口


雖抱中孚爻,猶勞貝錦詩。
誠、真心というものを易の卦のようにして大事にしているのであるが、それでもなおいろんな讒言によって苦労をしているのだ。
中孚 誠、真心ということ。・(こう)は、易の卦を構成する基本記号。
貝錦詩 議言


寸心若不亮,微命察如絲。
自分のほんの少しの気持ちが、もし人に明るくはっきりしていることができないのであれば、私の徴命は察するに糸のように危ういことである。
寸心 ほんの少しの気持ち。自分の気持ちをへりくだっていう語。


日月垂光景,成貸遂兼茲。」
太陽や月のように我々に暖かい慈愛を施してくれる文帝は私に光景を垂れてくだされた、誰もがするように賄賂を贈ることをしてでも臨川の内守を何とか勤め上げることにしよう
 宝。まいなう、賄賂を贈ること。・茲 江西省の臨川の内史という役につけられたが、これは謝霊運を太守扱いにするというもので実質謝霊運の上に大守がいた。

石室山詩 謝霊運(康楽) 詩<55-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩443 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1146

石室山詩 謝霊運(康楽) 詩<55-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩443 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1146


石室山詩
石室のある山での詩
清旦索幽異。放舟越坰郊。
すがすがしい 朝に、静かな此の別荘を目指してやって來る、それから小舟をきしから解き放って郊外の離れたところを超えてゆく。
苺苺蘭渚急。藐藐苔嶺高。
野イチゴがたくさん実っている、蘭が咲き誇る渚は急流である。はるか遠くまで映しい苔が生え高い峰の上まで続いている。
石室冠林陬。飛泉發山椒。
山懐に巌の空洞になっている、石橋か、冠のように変わった場所がある、泉から湧き出す水が滝となって飛び散り山の頂から噴出している。
虛泛徑千載。崢嶸非一朝。
小舟をむなしく浮かべている千年も前からの道としている、この石室山は高く聳えているのはこの朝だけではない。


#2
鄉村絕聞見。樵蘇限風霄。
人里、村は見えなくなってしまい、人々の生活の音も聞こえなくなった。木こりと草刈だけが風流な景色とこの大空を見ているだろう。
微戎無遠覽。總笄羨升喬。
あの昔の微子啓と公子罷戎の同盟を結んだはるかに遠い出来事として見ることはできないし、髪の毛を束ねて役人の簪をつけたとして趙升や王子喬の仙人を羨ましがっているのだ。
靈域久韜隱。如與心賞交。
この浄土に近い霊域においてこれからずっと久しく弓や剣を入れてつつんでしまいこんでしまうのだ、如来と共に心を賞賛し念仏を唱えていくのである。
合歡不容言。摘芳弄寒條。
浄土に行ける喜びを共にすることが分かってくると説明やなんか必要としない。香しい草花を摘み取り、まだ装いをしていない冬の木の枝を遊んで枯れ木に花が咲かせてやるとことにしよう。

#2
鄉村【ごうそん】 聞見【ぶんけん】を絕ち、樵【きこり】と蘇【くさかり】は風霄【ふうせい】に限【はば】まる。
微戎【びじゅう】のため遠覽【えんらん】する無し、總笄【そうべん】より升 喬を羨みしも。
靈域【れいいき】久しく韜隱【とういん】し、如し與に心賞【しんしょう】の交わりせば。
合歡【ごうかん】言を容【い】れず、芳を摘み寒條【かんじょう】を弄【もてあそ】ぶ。


夜明けを待って朝早く石室山の名勝を訪ねようとして、家を出ると、たちまちのうちに郊外に出てしまった。すると、遥か彼方に石室山が高く聾えていた。そこは人里遠く離れていて、人を寄せつけない。私は若いときから王子喬が仙人となったことにあこがれていたが、仙山に近づくこともできなかった。今、この名山を眺め、霊運の心の中にはさまざまな思い出が去来していたことであったろう。



現代語訳と訳註
(本文)
#2
鄉村絕聞見。樵蘇限風霄。微戎無遠覽。總笄羨升喬。
靈域久韜隱。如與心賞交。合歡不容言。摘芳弄寒條。


(下し文)#2
鄉村【ごうそん】 聞見【ぶんけん】を絕ち、樵【きこり】と蘇【くさかり】は風霄【ふうせい】に限【はば】まる。
微戎【びじゅう】のため遠覽【えんらん】する無し、總笄【そうべん】より升 喬を羨みしも。
靈域【れいいき】久しく韜隱【とういん】し、如し與に心賞【しんしょう】の交わりせば。
合歡【ごうかん】言を容【い】れず、芳を摘み寒條【かんじょう】を弄【もてあそ】ぶ。


(現代語訳)
人里、村は見えなくなってしまい、人々の生活の音も聞こえなくなった。木こりと草刈だけが風流な景色とこの大空を見ているだろう。
あの昔の微子啓と公子罷戎の同盟を結んだはるかに遠い出来事として見ることはできないし、髪の毛を束ねて役人の簪をつけたとして趙升や王子喬の仙人を羨ましがっているのだ。
この浄土に近い霊域においてこれからずっと久しく弓や剣を入れてつつんでしまいこんでしまうのだ、如来と共に心を賞賛し念仏を唱えていくのである。
浄土に行ける喜びを共にすることが分かってくると説明やなんか必要としない。香しい草花を摘み取り、まだ装いをしていない冬の木の枝を遊んで枯れ木に花が咲かせてやるとことにしよう。


(訳注)#2
鄉村絕聞見。樵蘇限風霄。

人里、村は見えなくなってしまい、人々の生活の音も聞こえなくなった。木こりと草刈だけが風流な景色とこの大空を見ているだろう。
樵蘇 木こりと草刈人。・風・ 大空。はるかな天。


微戎無遠覽。總笄羨升喬。
あの昔の微子啓と公子罷戎の同盟を結んだはるかに遠い出来事として見ることはできないし、髪の毛を束ねて役人の簪をつけたとして趙升や王子喬の仙人を羨ましがっているのだ。
微戎 微子啓(鄭の王)と罷戎(楚の公子)のこと。B.C.564閏12月、鄭が晋についたので、楚恭王は鄭を討たれ、その後楚と和睦したので、公子罷戎は鄭に使いして同盟を結んだ。・總笄 總は髪の毛を束ねること。笄はかんざし。・ 趙升のこと。漢代の仙人,生卒年均不詳,道教天師道創始者張道陵の弟子。・ 王子喬【おうしきょう】のこと。中国、周代の仙人。霊王の太子といわれる。名は晋。白い鶴にまたがり、笙(しょう)を吹いて雲中を飛んだという。


靈域久韜隱。如與心賞交。
この浄土に近い霊域においてこれからずっと久しく弓や剣を入れてつつんでしまいこんでしまうのだ、如来と共に心を賞賛し念仏を唱えていくのである。
韜隱 弓や剣を入れておく袋。つつむ。つつんでしまいこむ。また、中に隠す。ゆごて。弓を射るとき、つるが当たるのをふせぐため、左腕につけるかわのこて。自分の才能・地位・本心などを隠して表に出さないこと。節操を知り、自分をひけらかさないこと。


合歡不容言。摘芳弄寒條。
浄土に行ける喜びを共にすることが分かってくると説明やなんか必要としない。香しい草花を摘み取り、まだ装いをしていない冬の木の枝を遊んで枯れ木に花が咲かせてやるとことにしよう。
合歡 (1)喜びをともにすること。 (2)男女が共寝すること。 (3)「合歓木(ごうかんぼく)」の略。・寒條 秋冬樹木的枝條。 晉陶潛《歸鳥》詩: “翼翼歸鳥, 戢羽寒條。

石室山詩 謝霊運(康楽) 詩<55-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩442 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1143

石室山詩 謝霊運(康楽) 詩<55-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩442 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1143


当時の役人にとって詩文能力というのは、名声を博すための絶対条件であった。また、同時に腕力についても一定程度は最低限の素養としても不可欠であった。謝霊運は、その両方を兼ね備え、その上当時もっとも重要であった出自家柄も申し分なかった。ただ、支配者層から見れば、浄土教に傾倒しており、言いなりにならなかったことが彼の人生を安定したものにしなかった要因であろうと思う。『宋書』『南書』などの記述は、支配者側を正当化するためのものでしかないので、謝霊運の側から見れば真反対であるということになる。謝霊運の詩80篇を見る限り精神構造がおかしいと思われるものは全くない。


石室山詩
石室のある山での詩
清旦索幽異。放舟越坰郊。
すがすがしい 朝に、静かな此の別荘を目指してやって來る、それから小舟をきしから解き放って郊外の離れたところを超えてゆく。
苺苺蘭渚急。藐藐苔嶺高。
野イチゴがたくさん実っている、蘭が咲き誇る渚は急流である。はるか遠くまで映しい苔が生え高い峰の上まで続いている。
石室冠林陬。飛泉發山椒。
山懐に巌の空洞になっている、石橋か、冠のように変わった場所がある、泉から湧き出す水が滝となって飛び散り山の頂から噴出している。
虛泛徑千載。崢嶸非一朝。
小舟をむなしく浮かべている千年も前からの道としている、この石室山は高く聳えているのはこの朝だけではない。

#2
鄉村絕聞見。樵蘇限風霄。微戎無遠覽。總笄羨升喬。
靈域久韜隱。如與心賞交。合歡不容言。摘芳弄寒條。


清旦【せいたん】に 幽異【ゆうい】を索【もと】めんとし、舟を放ちて坰郊【けいこう】を越す。
苺苺【ぼうぼう】として蘭のある渚は急にし、藐藐【ぼうぼう】しき苔のある嶺は高し。
石室は林陬【りんしゅ】に冠たり、飛泉【ひせん】は山椒【さんしゅく】に發す。
虛しく泛かび千載に徑る、崢嶸【そうこう】は一朝に非ず。
#2
鄉村【ごうそん】 聞見【ぶんけん】を絕ち、樵【きこり】と蘇【くさかり】は風霄【ふうせい】に限【はば】まる。
微戎【びじゅう】のため遠覽【えんらん】する無し、總笄【そうべん】より升 喬を羨みしも。
靈域【れいいき】久しく韜隱【とういん】し、如し與に心賞【しんしょう】の交わりせば。
合歡【ごうかん】言を容【い】れず、芳を摘み寒條【かんじょう】を弄【もてあそ】ぶ。


現代語訳と訳註
(本文)

清旦索幽異。放舟越坰郊。苺苺蘭渚急。藐藐苔嶺高。
石室冠林陬。飛泉發山椒。虛泛徑千載。崢嶸非一朝。


(下し文)
清旦【せいたん】に 幽異【ゆうい】を索【もと】めんとし、舟を放ちて坰郊【けいこう】を越す。
苺苺【ぼうぼう】として蘭のある渚は急にし、藐藐【ぼうぼう】しき苔のある嶺は高し。
石室は林陬【りんしゅ】に冠たり、飛泉【ひせん】は山椒【さんしゅく】に發す。
虛しく泛かび千載に徑る、崢嶸【そうこう】は一朝に非ず。


(現代語訳)
石室のある山での詩
すがすがしい 朝に、静かな此の別荘を目指してやって來る、それから小舟をきしから解き放って郊外の離れたところを超えてゆく。
野イチゴがたくさん実っている、蘭が咲き誇る渚は急流である。はるか遠くまで映しい苔が生え高い峰の上まで続いている。
山懐に巌の空洞になっている、石橋か、冠のように変わった場所がある、泉から湧き出す水が滝となって飛び散り山の頂から噴出している。
小舟をむなしく浮かべている千年も前からの道としている、この石室山は高く聳えているのはこの朝だけではない。


(訳注)
石室山詩

石室のある山での詩
石室山  爛柯(らんか)山、現衢州(くしゅう)市の東南13キロ。もと石室山・石橋山ともいう。いずれも山に石室・石橋があるための命名である。爛柯山の名は後述の爛柯の故事が流布した唐代に始まり、それ以後、山の通称となる。道教の方では七十二福地の一(唐末・杜光庭「洞天福地記」)であり、北宋・張君房『雲笈七籤(うんきゅうしちせん)』巻27には七十二福地第三十に爛柯山をあげる。主峰の海抜は約180メートル。東西2キロ、南北1・9キロ。仙霞嶺の余脈である。 従来、永嘉郡(浙江省温州市永嘉県)の楠渓のほとりの山を指しているという注釈があるが、浙江省の名勝地をくまなく歩いている謝霊運は蘭渓や金華の銭塘江の上流で訪れているのである。参考として盛唐 孟浩然『尋天台山』「吾友太乙子,餐霞臥赤城。欲尋華頂去,不憚惡溪名。歇馬憑雲宿,揚帆截海行。高高翠微裏,遙見石樑橫。」『舟中曉望』「掛席東南望,青山水國遙。舳艫爭利涉,來往接風潮。問我今何去,天臺訪石橋。坐看霞色曉,疑是赤城標。」『越中逢天臺太乙子』「仙穴逢羽人,停艫向前拜。問余涉風水,何處遠行邁。登陸尋天臺,順流下吳會。茲山夙所尚,安得問靈怪。上逼青天高,俯臨滄海大。雞鳴見日出,常覿仙人旆。往來赤城中,逍遙白雲外。莓苔異人間,瀑布當空界。福庭長自然,華頂舊稱最。永此從之游,何當濟所屆。」

唐代、爛柯山の詩跡化は急速に進んだ。中唐の孟郊「爛柯石」詩には、
仙界一日内,人間千載窮。
雙棋未遍局,萬物皆爲空。
樵客返歸路,斧柯爛從風。
唯馀石橋在,猶自凌丹虹。
仙界 一日の内、人間(じんかん)(人の世) 千歳窮(つ)く。
双棋未だ局を徧(あまね)くせざるに、万物 皆な空と為る。
樵客(しょうかく)返帰の路、斧の柯(え) 爛(くさ)りて風に従う。
唯だ余(あま)す 石橋在りて、猶自(なお) 丹虹凌(しの)ぐを。

(紅い虹が天空高くかかるよう)と歌われる。
石室00


清旦索幽異。放舟越坰郊。
すがすがしい 朝に、静かな此の別荘を目指してやって來る、それから小舟をきしから解き放って郊外の離れたところを超えてゆく。
清旦 すがすがしい 朝。  ・坰郊 都から遠く離れた地。国境に近接する地区。


苺苺蘭渚急。藐藐苔嶺高。
野イチゴがたくさん実っている、蘭が咲き誇る渚は急流である。はるか遠くまで映しい苔が生え高い峰の上まで続いている。
苺苺 野イチゴがたくさん実っているさま。・藐藐 ①美しいさま。②人の教えが耳に入らない。③はるかとおい、高く遠いさま。④盛んなさま。多いさま。


石室冠林陬。飛泉發山椒。
山懐に巌の空洞になっている、石橋か、冠のように変わった場所がある、泉から湧き出す水が滝となって飛び散り山の頂から噴出している。
石室 巌により空洞で石橋のようになっている。【写真参考】 ・ 石室がアーチを描いて冠状になっている。・林陬 やまのふもと。林の中の村里。林があり坂道の過度のあたり。・山椒 山のいただき。

ishibashi00
虛泛徑千載。崢嶸非一朝。
小舟をむなしく浮かべている千年も前からの道としている、この石室山は高く聳えているのはこの朝だけではない。
崢嶸 たかくそびえるさま。

酬従弟謝惠運 五首その(5) 謝霊運(康楽) 詩<53>Ⅱ李白に影響を与えた詩440 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1137

酬従弟謝惠運 五首その(5) 謝霊運(康楽) 詩<53>Ⅱ李白に影響を与えた詩440 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1137

(5)
暮春雖未交,仲春善遊遨。
始寧の晩春のひと時を楽しもうということでいまだに友好を交わすことはないと言いながらも、今は中春であり広い空や海を)漫遊することをよろこぶ。
山桃發紅萼,野蕨漸紫苞。
その頃には山に桃の花が咲き、ガクアジサイ花が咲き、白・水色から紅・紫赤色に変化する。野にはワラビが顔をだし、紫苞をつみとるのである。
鳴嚶已悅豫,幽居猶郁陶。
また、生き歳往けるもの友人を求めて鳴き、友人同士が仲よく語り合いそのよろこび楽しみをを示すのである。しずかな独り住いであってもなお晴れやかな楽しみの時なのだ。
夢寐佇歸舟,釋我吝與勞。
そして舟に帰ってそのまま待っているとしても、始寧に帰った時のことを眠って夢を見るのである、少し君のための労力を出し惜しみをしているわたしのことを理解してほしい。


(5)
暮春 未だ交わらずと雖も,仲春にても善く遊遨【たのし】まん。
山桃は紅萼【こうがく】を發し,野蕨【やけつ】は紫苞【しほう】を漸【すす】む。
鳴嚶【めいえい】 已に悅豫【えつしょう】し,幽居猶お 郁陶【ゆうとう】す。夢寐【むび】にも歸舟【きしゅう】を佇【ま】ち,我の吝【けち】と勞とを釋【と】かん。


現代語訳と訳註
(本文)
(その5)
暮春雖未交,仲春善遊遨。山桃發紅萼,野蕨漸紫苞。
鳴嚶已悅豫,幽居猶郁陶。夢寐佇歸舟,釋我吝與勞。


(下し文)(その5)
暮春 未だ交わらずと雖も,仲春にても善く遊遨【たのし】まん。
山桃は紅萼【こうがく】を發し,野蕨【やけつ】は紫苞【しほう】を漸【すす】む。
鳴嚶【めいえい】 已に悅豫【えつしょう】し,幽居猶お 郁陶【ゆうとう】す。夢寐【むび】にも歸舟【きしゅう】を佇【ま】ち,我の吝【けち】と勞とを釋【と】かん。


(現代語訳)
始寧の晩春のひと時を楽しもうということでいまだに友好を交わすことはないと言いながらも、今は中春であり広い空や海を)漫遊することをよろこぶ。
その頃には山に桃の花が咲き、ガクアジサイ花が咲き、白・水色から紅・紫赤色に変化する。野にはワラビが顔をだし、紫苞をつみとるのである。
また、生き歳往けるもの友人を求めて鳴き、友人同士が仲よく語り合いそのよろこび楽しみをを示すのである。しずかな独り住いであってもなお晴れやかな楽しみの時なのだ。
そして舟に帰ってそのまま待っているとしても、始寧に帰った時のことを眠って夢を見るのである、少し君のための労力を出し惜しみをしているわたしのことを理解してほしい。


(訳注)
暮春雖未交,仲春善遊遨。

始寧の晩春のひと時を楽しもうということでいまだに友好を交わすことはないと言いながらも、今は中春であり広い空や海を)漫遊することをよろこぶ。
・遊遨 (広い空や海を)漫遊する,遍歴する。


山桃發紅萼,野蕨漸紫苞。
その頃には山に桃の花が咲き、ガクアジサイ花が咲き、白・水色から紅・紫赤色に変化する。野にはワラビが顔をだし、紫苞をつみとるのである。
紅萼 ガクアジサイの園芸品種。初夏に花が咲き、装飾花が白・水色から紅・紫赤色に変化する。・紫苞 苞(ほう)とは、植物用語の一つで、花や花序の基部にあって、つぼみを包んでいた葉のことをいう。


鳴嚶已悅豫,幽居猶郁陶。
また、生き歳往けるもの友人を求めて鳴き、友人同士が仲よく語り合いそのよろこび楽しみをを示すのである。しずかな独り住いであってもなお晴れやかな楽しみの時なのだ。
鳴嚶 1 鳥が仲よく鳴き交わしたり、友人を求めて鳴いたりすること。また、その声。 2 友人同士が仲よく語り合うこと。「詩経」小雅・伐木の「伐木丁丁、鳥鳴嚶々、出於幽谷、遷干喬木。」嚶として其れ鳴くは其の友を求むる声」・悅豫 喜び楽しむ。予はたのしむ。・ 1 香りがいい。かぐわしい。 2 文化が盛んなさま。  1 焼き物。「陶器・陶工・陶土/彩陶・製陶」2 人格を練りあげる。教え導く。「陶冶(とうや)/薫陶」3 うちとけて楽しい。「陶酔・陶然」4 もやもやして晴れない。「鬱陶(うっとう)」


夢寐佇歸舟,釋我吝與勞。
そして舟に帰ってそのまま待っているとしても、始寧に帰った時のことを眠って夢を見るのである、少し君のための労力を出し惜しみをしているわたしのことを理解してほしい。
 び【寐】[漢字項目]とは。意味や解説。[音]ビ(漢)[訓]ねるねむる。ねる。「寤寐(ごび)・夢寐」眠って夢を見ること。また、その間。
けち. 金銭や品物を惜しがって出さないこと。また、そのようなさまや人。 こせこせして卑しいこと。気持ちのせまいこと。また、そのさま。 【吝い】しわい. けちである。しみったれている。 【吝か】やぶさか. 物惜しみするようす。けち。 ためらうさま。思いきりの悪いさま。

酬従弟謝惠運 五首その(4) 謝霊運(康楽) 詩<51>Ⅱ李白に影響を与えた詩438 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1131

酬従弟謝惠運 五首その(4) 謝霊運(康楽) 詩<51>Ⅱ李白に影響を与えた詩438 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1131


洲渚既淹時,風波子行遲,
務協華京想,詎存空穀期。
猶復恵来章,祇足攬余思。
儻若果歸言,共陶暮春時。
中州の水際ですでにそのまま長くいつづける、船が出発できない風が吹き、船を転覆させる大波が君の行程を遅らせてしまう。
帝都での思いというものは逢うことははっきりしない。どうにかして始寧の谷間で逢うことの約束があるわけではないのだが何時でもいいから、会いたいものだ。
できるなら、また、手紙をくれると嬉しいのだけれど、手紙が来ないと私の心は乱れてしまうのだ。
若し変えることが出来るのであればともに、始寧の晩春のひと時を楽しもうではないか。



現代語訳と訳註
(本文)
(その4)
洲渚既淹時,風波子行遲,
務協華京想,詎存空穀期。
猶復恵来章,祇足攬余思。
儻若果歸言,共陶暮春時。


(下し文)
(その4) 
洲渚【しゅうしょ】既に淹時【えんじ】せば,風波【ふうは】子の行くこと遲し,務【とお】く華京【かきょう】の想に協【かな】えり,詎【なん】ぞ 空穀【くうこく】に 期を存せん。
猶 復た来章【らいしょう】を恵む,祇【まさ】に足余【よ】の思いを攬【みだ】す。
儻若【もし】歸言【きごん】を果しなば,共に陶【たのし】まん 暮春の時を。


(現代語訳)
中州の水際ですでにそのまま長くいつづける、船が出発できない風が吹き、船を転覆させる大波が君の行程を遅らせてしまう。
帝都での思いというものは逢うことははっきりしない。どうにかして始寧の谷間で逢うことの約束があるわけではないのだが何時でもいいから、会いたいものだ。
できるなら、また、手紙をくれると嬉しいのだけれど、手紙が来ないと私の心は乱れてしまうのだ。
若し変えることが出来るのであればともに、始寧の晩春のひと時を楽しもうではないか。


(訳注)
洲渚既淹時,風波子行遲,
中州の水際ですでにそのまま長くいつづける、船が出発できない風が吹き、船を転覆させる大波が君の行程を遅らせてしまう。
洲渚【しゅうしょ】 洲渚  州(す)の水際。旅先の中州の渚。


務協華京想,詎存空穀期。
帝都での思いというものは逢うことははっきりしない。どうにかして始寧の谷間で逢うことの約束があるわけではないのだが何時でもいいから、会いたいものだ。
務協 務:つとめる、おもむく。はっきりしない。協:かなう。逢う。和合する。・空穀期 谷で逢う約束があるのではない。


猶復恵来章,祇足攬余思。
できるなら、また、手紙をくれると嬉しいのだけれど、手紙が来ないと私の心は乱れてしまうのだ。
来章 手紙が来ること


儻若果歸言,共陶暮春時。
若し変えることが出来るのであればともに、始寧の晩春のひと時を楽しもうではないか。

暮春 晩春。春から初夏へ移り際。新暦では4月終りから5月初めのころ。

酬従弟謝惠運 五首その(3) 謝霊運(康楽) 詩<49>Ⅱ李白に影響を与えた詩436 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1125

酬従弟謝惠運 五首その(3) 謝霊運(康楽) 詩<49>Ⅱ李白に影響を与えた詩436 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1125


 謝靈運 謝惠連
酬従弟謝惠連 五首西陵遇風獻康楽 五首
従弟の恵連に酬ゆ 五首西陵にて風に遇い康楽に獻ず五首
(その1(その1
寢瘵謝人徒,滅跡入雲峯。我行指孟春、春仲尚未發。
岩壑寓耳目,歡愛隔音容。趣途遠有期、念離情無歇。
賞心望,長懷莫與同。成装候良辰、漾舟陶嘉月。
末路令弟,開顏披心胸瞻塗意少悰、還顧情多闕。
(その2(その2)
心胸既雲,意得鹹在哲兄感仳別、相送越垌
淩澗尋我室,散帙問所飲餞野亭館、分袂澄湖
夕慮曉月流,朝忌曛日悽悽留子言、眷眷浮客
悟對無厭歇,聚散成迴塘隠艫栧、遠望絶形
(その3(その3
分離別西,回景歸東靡靡即長路,戚戚抱遙
別時悲已甚,別後情更悲遙但自弭,路長當語
傾想遲嘉音,果枉濟江行行道轉遠,去去情彌
辛勤風波事,款曲洲渚昨發浦陽汭,今宿浙江
(その4(その4)
洲渚既淹,風波子行屯雲蔽曾嶺、驚風湧飛
務協華京想,詎存空穀零雨潤墳澤、落雪灑林
猶復恵来章,祇足攬余浮氛晦崖巘、積素成原
儻若果歸言,共陶暮春曲汜薄停旅、通川絶行
(その5(その5)
暮春雖未交,仲春善遊臨津不得済、佇楫阻風
山桃發紅萼,野蕨漸紫蕭條洲渚際、気色少諧
鳴嚶已悅豫,幽居猶郁西瞻興遊歎、東睇起悽
夢寐佇歸舟,釋我吝與積憤成疢痗、無萱將如

酬従弟謝惠運 五首 
従弟の恵連に酬ゆ 五首 
(その1)
(その1)
寢瘵謝人徒,滅跡入雲峯。
病の床について人と会うのを謝絶した、それから後名跡を訪れることはなく雲に隠れる峯に隠棲した。
岩壑寓耳目,歡愛隔音容。
ひととの交じりを断って岩の谷間の水音に耳や目を寄せた。愛しい人とも声を聞くことも隔たったのである。
永絕賞心望,長懷莫與同。
その隠棲生活は長く続いた、景観を賞賛する心でここで臨んだのだ。そして長期間にわたって同じ気持ちで過ごすことはなかった。
末路值令弟,開顏披心胸。
晩年になって、弟の君と逢うことが出来た。そして顔を開いたし、心を打ち解け、胸襟を開いたのだ。
(その2)
心胸既雲披,意得鹹在斯。
心と胸の中の本音を既にうちあけて話したら、互いの思いはここで納得し合うことが出来た。
淩澗尋我室,散帙問所知。
そうしたら、隠棲している谷を越えて私の庵を尋ねてくる。読書をしてわからないところを質問をしてくる。
夕慮曉月流,朝忌曛日馳。
夕べに明け方の月かが流れ落ちるのかと思い、朝には夕日が落ちるのを嫌ったように朝と夕を間違えるほど楽しい時を過ごした。
悟對無厭歇,聚散成分離。
向かい合ってみると厭になって辞めることはなく、集った後で散したらその後は分れて離れたままである。
(その3)
分離別西川,回景歸東山。
惠連と西川で別れた、わたしは景色を廻って会稽の東山に帰った。
別時悲已甚,別後情更延。
別れるときはそれまで以上に甚だ悲しい思いをしていた、別れた後は心情としてさらに伸びたようだ。
傾想遲嘉音,果枉濟江篇。
想いを謝蕙連の方に傾けて良い便りをこころまちにしている。果して私の贈った詩「濟江篇」の気持ちを忘れたりはしないのだ。
辛勤風波事,款曲洲渚言。
辛いおもいをして勤めていておだやかでないしごとがあるものだ,その旅先の中州の渚からこちらに手紙をくれたらいいのだ。

離して西川にて別れ,回景【かいけい】して東山に歸れり。
別れし時 悲しみ已に甚しきも,別れて後 情け更に延ぶ。
想いを傾けて嘉音【かおん】を遲【ま】ちしに,果して濟江【せいこう】の篇を枉【まげ】られぬ。
辛勤【して】風波【ふうは】の事,款曲【かんきょく】して洲渚【しゅうしょ】の言。


(その4) 
洲渚既淹時,風波子行遲, 洲渚【しゅうしょ】既に淹時【えんじ】せば,風波【ふうは】子の行くこと遲し,
務協華京想,詎存空穀期。 務【とお】く華京【かきょう】の想に協【かな】えり,詎【なん】ぞ 空穀【くうこく】に 期を存せん。
猶復恵来章,祇足攬余思。 猶 復た来章【らいしょう】を恵む,祇【まさ】に足余【よ】の思いを攬【みだ】す。
儻若果歸言,共陶暮春時。 儻若【もし】歸言【きごん】を果しなば,共に陶【たのし】まん 暮春の時を。
(その5) (その5)
暮春雖未交,仲春善遊遨。 暮春 未だ交わらずと雖も,仲春にても善く遊遨【たのし】まん。
山桃發紅萼,野蕨漸紫苞。 山桃は紅萼【こうがく】を發し,野蕨【やけつ】は紫苞【しほう】を漸【すす】む。
鳴嚶已悅豫,幽居猶郁陶。 鳴嚶【めいえい】 已に悅豫【えつしょう】し,幽居猶お 郁陶【ゆうとう】す。
夢寐佇歸舟,釋我吝與勞。 夢寐【むび】にも歸舟【きしゅう】を佇【ま】ち,我の吝【けち】と勞とを釋【と】かん。



現代語訳と訳註
(本文)
(その3)
分離別西川,回景歸東山。
別時悲已甚,別後情更延。
傾想遲嘉音,果枉濟江篇。
辛勤風波事,款曲洲渚言。


(下し文) (その3)
分離して西川にて別れ,回景【かいけい】して東山に歸れり。
別れし時 悲しみ已に甚しきも,別れて後 情け更に延ぶ。
想いを傾けて嘉音【かおん】を遲【ま】ちしに,果して濟江【せいこう】の篇を枉【まげ】られぬ。
辛勤【して】風波【ふうは】の事,款曲【かんきょく】して洲渚【しゅうしょ】の言。


(現代語訳)
惠連と西川で別れた、わたしは景色を廻って会稽の東山に帰った。
別れるときはそれまで以上に甚だ悲しい思いをしていた、別れた後は心情としてさらに伸びたようだ。
想いを謝蕙連の方に傾けて良い便りをこころまちにしている。果して私の贈った詩「濟江篇」の気持ちを忘れたりはしないのだ。
辛いおもいをして勤めていておだやかでないしごとがあるものだ,その旅先の中州の渚からこちらに手紙をくれたらいいのだ。


(訳注) (その3)
分離別西川,回景歸東山。

惠連と西川で別れた、わたしは景色を廻って会稽の東山に帰った。
○東山 浙江省上虞県の西南にあり、会稽(紹興)からいうと東の山であり、名勝地。晋の太傅であった謝安がむかしここに隠居して、なかなか朝廷の招きに応じなかったので有名。山上には謝安の建てた白雲堂、明月堂のあとがあり、山上よりの眺めは絶景だという。薔薇洞というのは、かれが妓女をつれて宴をもよおした所と伝えられている。


別時悲已甚,別後情更延。
別れるときはそれまで以上に甚だ悲しい思いをしていた、別れた後は心情としてさらに伸びたようだ。


傾想遲嘉音,果枉濟江篇。
想いを謝蕙連の方に傾けて良い便りをこころまちにしている。果して私の贈った詩「濟江篇」の気持ちを忘れたりはしないのだ。
嘉音 良い便り。濟江篇 謝惠連に贈った謝靈運の詩篇. 《昭明文選》卷二十五南朝宋•謝靈運《酬從弟惠連》 傾想遲嘉音,果枉濟江篇。 《昭明文選》卷二十五南朝宋•謝惠連《西陵遇風獻康樂》 昨發浦陽汭,今宿浙江湄。屯雲蔽曾嶺,驚風涌飛流。零雨潤墳澤,落雪灑林丘。


辛勤風波事,款曲洲渚言。
辛いおもいをして勤めていておだやかでないしごとがあるものだ,その旅先の中州の渚からこちらに手紙をくれたらいいのだ。
款曲【かんきょく】うちとてけ交わる
洲渚【しゅうしょ】洲渚  州(す)の水際の言。旅先の中州の渚からこちらに手紙。


(その3)
分離して西川にて別れ,回景【かいけい】して東山に歸れり。
別れし時 悲しみ已に甚しきも,別れて後 情け更に延ぶ。
想いを傾けて嘉音【かおん】を遲【ま】ちしに,果して濟江【せいこう】の篇を枉【まげ】られぬ。
辛勤【して】風波【ふうは】の事,款曲【かんきょく】して洲渚【しゅうしょ】の言。

酬従弟謝惠運 五首その(2) 謝霊運(康楽) 詩<47>Ⅱ李白に影響を与えた詩433 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1116

酬従弟謝惠運 五首その(2) 謝霊運(康楽) 詩<47>Ⅱ李白に影響を与えた詩433 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1116


 謝靈運 謝惠連
酬従弟謝惠連 五首西陵遇風獻康楽 五首

従弟の恵連に酬ゆ 五首

西陵にて風に遇い康楽に獻ず五首

(その1(その1

寢瘵謝人徒,滅跡入雲峯。

我行指孟春、春仲尚未發。

岩壑寓耳目,歡愛隔音容。

趣途遠有期、念離情無歇。

賞心望,長懷莫與同。

成装候良辰、漾舟陶嘉月。

末路令弟,開顏披心胸

瞻塗意少悰、還顧情多闕。

(その2(その2)

心胸既雲,意得鹹在

哲兄感仳別、相送越垌

淩澗尋我室,散帙問所

飲餞野亭館、分袂澄湖

夕慮曉月流,朝忌曛日

悽悽留子言、眷眷浮客

悟對無厭歇,聚散成

迴塘隠艫栧、遠望絶形

(その3(その3

分離別西,回景歸東

靡靡即長路,戚戚抱遙

別時悲已甚,別後情更

悲遙但自弭,路長當語

傾想遲嘉音,果枉濟江

行行道轉遠,去去情彌

辛勤風波事,款曲洲渚

昨發浦陽汭,今宿浙江

(その4(その4)

洲渚既淹,風波子行

屯雲蔽曾嶺、驚風湧飛

務協華京想,詎存空穀

零雨潤墳澤、落雪灑林

猶復恵来章,祇足攬余

浮氛晦崖巘、積素成原

儻若果歸言,共陶暮春

曲汜薄停旅、通川絶行

(その5(その5)

暮春雖未交,仲春善遊

臨津不得済、佇楫阻風

山桃發紅萼,野蕨漸紫

蕭條洲渚際、気色少諧

鳴嚶已悅豫,幽居猶郁

西瞻興遊歎、東睇起悽

夢寐佇歸舟,釋我吝與

積憤成疢痗、無萱將如




酬従弟謝惠運 五首
(その1)
寢瘵謝人徒,滅跡入雲峯。
病の床について人と会うのを謝絶した、それから後名跡を訪れることはなく雲に隠れる峯に隠棲した。
岩壑寓耳目,歡愛隔音容。
ひととの交じりを断って岩の谷間の水音に耳や目を寄せた。愛しい人とも声を聞くことも隔たったのである。
永絕賞心望,長懷莫與同。
その隠棲生活は長く続いた、景観を賞賛する心でここで臨んだのだ。そして長期間にわたって同じ気持ちで過ごすことはなかった。
末路值令弟,開顏披心胸。
晩年になって、弟の君と逢うことが出来た。そして顔を開いたし、心を打ち解け、胸襟を開いたのだ。
(その2)
心胸既雲披,意得鹹在斯。
心と胸の中の本音を既にうちあけて話したら、互いの思いはここで納得し合うことが出来た。
淩澗尋我室,散帙問所知。
そうしたら、隠棲している谷を越えて私の庵を尋ねてくる。読書をしてわからないところを質問をしてくる。
夕慮曉月流,朝忌曛日馳。
夕べに明け方の月かが流れ落ちるのかと思い、朝には夕日が落ちるのを嫌ったように朝と夕を間違えるほど楽しい時を過ごした。
悟對無厭歇,聚散成分離。
向かい合ってみると厭になって辞めることはなく、集った後で散したらその後は分れて離れたままである。

(その3)
分離別西川,回景歸東山。別時悲已甚,別後情更延。
傾想遲嘉音,果枉濟江篇。辛勤風波事,款曲洲渚言。
(その4)
洲渚既淹時,風波子行遲,務協華京想,詎存空穀期。
猶復恵来章,祇足攬余思。儻若果歸言,共陶暮春時。
(その5)
暮春雖未交,仲春善遊遨。山桃發紅萼,野蕨漸紫苞。
鳴嚶已悅豫,幽居猶郁陶。夢寐佇歸舟,釋我吝與勞。


(従弟謝惠運に酬ゆ五首)
(その1)
瘵【やまい】に寢【い】ね 人徒【じんと】を謝し,滅跡【めつせき】して雲峯【うんほう】に入れり。
岩壑【がんがく】耳目【じもく】を寓【よ】せ,歡愛【かんあい】音容【おんよう】を隔てり。
永絕【えいぜつ】して賞心【しょうしん】を望み,長懷【ちょうかい】して 與に同じくするを莫きを。
末路【ばんねん】令弟【おとうと】に值【あ】い,開顏【かいがん】心胸【しんきょう】を披【ひら】けり。

(その2)
心胸【しんきょう】既【すで】に雲【いう】を披【ひら】け,意得ること鹹【みな】斯【ここ】に在りき。
澗【たに】を淩ぎ 我が室を尋ね,散帙【さんしつ】知れる所を問える。
夕には曉月【ぎょうげつ】の流れるを慮【おもんばか】り,朝には曛日【くんじつ】の馳するを忌【い】めり。
悟對【ごたい】して 厭歇【えんけつ】すること無く,聚散【しゅうさん】して 分離を成しぬ。

(その3)
分離して西川にて別れ,回景【かいけい】して東山に歸れり。
別れし時 悲しみ已に甚しきも,別れて後 情け更に延ぶ。
想いを傾けて嘉音【かおん】を遲【ま】ちしに,果して濟江【せいこう】の篇を枉【まげ】られぬ。
辛勤【して】風波【ふうは】の事,款曲【かんきょく】して洲渚【しゅうしょ】の言。
(その4) 
洲渚【しゅうしょ】既に淹時【えんじ】せば,風波【ふうは】子の行くこと遲し,務【とお】く華京【かきょう】の想に協【かな】えり,詎【なん】ぞ 空穀【くうこく】に 期を存せん。
猶 復た来章【らいしょう】を恵む,祇【まさ】に足余【よ】の思いを攬【みだ】す。
儻若【もし】歸言【きごん】を果しなば,共に陶【たのし】まん 暮春の時を。
(その5)
暮春 未だ交わらずと雖も,仲春にても善く遊遨【たのし】まん。
山桃は紅萼【こうがく】を發し,野蕨【やけつ】は紫苞【しほう】を漸【すす】む。
鳴嚶【めいえい】 已に悅豫【えつしょう】し,幽居猶お 郁陶【ゆうとう】す。夢寐【むび】にも歸舟【きしゅう】を佇【ま】ち,我の吝【けち】と勞とを釋【と】かん。


現代語訳と訳註
(本文)
(その2)
心胸既雲披,意得鹹在斯。
淩澗尋我室,散帙問所知。
夕慮曉月流,朝忌曛日馳。
悟對無厭歇,聚散成分離。


(下し文) (その2)
心胸【しんきょう】既【すで】に雲【いう】を披【ひら】け,意得ること鹹【みな】斯【ここ】に在りき。
澗【たに】を淩ぎ 我が室を尋ね,散帙【さんしつ】知れる所を問える。
夕には曉月【ぎょうげつ】の流れるを慮【おもんばか】り,朝には曛日【くんじつ】の馳するを忌【い】めり。
悟對【ごたい】して 厭歇【えんけつ】すること無く,聚散【しゅうさん】して 分離を成しぬ。


(現代語訳)
心と胸の中の本音を既にうちあけて話したら、互いの思いはここで納得し合うことが出来た。
そうしたら、隠棲している谷を越えて私の庵を尋ねてくる。読書をしてわからないところを質問をしてくる。
夕べに明け方の月かが流れ落ちるのかと思い、朝には夕日が落ちるのを嫌ったように朝と夕を間違えるほど楽しい時を過ごした。
向かい合ってみると厭になって辞めることはなく、集った後で散したらその後は分れて離れたままである。


(訳注) (その2)
心胸既雲披,意得鹹在斯。
心胸【しんきょう】既【すで】に雲【いう】を披【ひら】け,意得ること鹹【みな】斯【ここ】に在りき。
心と胸の中の本音を既にうちあけて話したら、互いの思いはここで納得し合うことが出来た。


淩澗尋我室,散帙問所知。
澗【たに】を淩ぎ 我が室を尋ね,散帙【さんちつ】知れる所を問える。
そうしたら、隠棲している谷を越えて私の庵を尋ねてくる。読書をしてわからないところを質問をしてくる。
散帙 書帙をうち開くこと。また讀書することをさす。(ちつ)とは、和本を包んで保存する装具の一種。


夕慮曉月流,朝忌曛日馳。
夕には曉月【ぎょうげつ】の流れるを慮【おもんばか】り,朝には曛日【くんじつ】の馳するを忌【い】めり。
夕べに明け方の月かが流れ落ちるのかと思い、朝には夕日が落ちるのを嫌ったように朝と夕を間違えるほど楽しい時を過ごした。
・曉月 あけがたのつき。・曛日 夕日、入日、黄昏時のことをいう。気に入った時の経過の表現として、朝・夕の表現をよく使う。
『登石門最高頂』「晨策尋絕壁,夕息在山棲。疏峰抗高館,對嶺臨回溪。」『石門在永嘉』「早聞夕飈急、晩見朝日暾。」『晚出西射堂』「步出西城門,遙望城西岑。連鄣疊巘崿,青翠杳深沈。曉霜楓葉丹,夕曛嵐氣陰。」


悟對無厭歇,聚散成分離。
悟對【ごたい】して 厭歇【えんけつ】すること無く,聚散【しゅうさん】して 分離を成しぬ。
向かい合ってみると厭になって辞めることはなく、集った後で散したらその後は分れて離れたままである。
厭歇 きらってやめる。・聚散 人々がより集まって仲間をつくったり、また別々に分かれたりすること。・聚散【しゅうさん】1 集まったり散ったりすること。2 生産地から集めた品物を消費地へ送り出すこと。


西陵遇風獻康楽(その2)
哲兄感仳別、相送越垌林。
飲餞野亭館、分袂澄湖陰。
悽悽留子言、眷眷浮客心。
迴塘隠艫栧、遠望絶形音。


(その2)
哲兄【てっけい】は仳別【ひべつ】に感じ、相送って垌林【けいりん】を越え。
野亭【やてい】の館に飲餞【いんせん】し、澄湖【とうこ】の陰に分袂【ぶんぺい】す。
悽悽【せいせい】たり留子【りゅうし】の言、眷眷【けんけん】たり浮客【ふかく】の心。
迴塘【かいとう】に櫨挽【ろえい】隠れ、遠望【えんぼう】形音【けいおん】絶ゆ。


酬従弟謝惠連 五首その(1) 謝霊運(康楽) 詩<45>Ⅱ李白に影響を与えた詩432 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1113

酬従弟謝惠連 五首その(1) 謝霊運(康楽) 詩<45>Ⅱ李白に影響を与えた詩432 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1113


謝霊運が懐かしい都を出て、再び隠遁のため故郷始寧に向かうときの感情を歌ったものである。朝早く旅立ちをするのが当時の習いであったが、ちょうど大風の吹いている日であった。それも、向かい風で歩きにくいものであった。しかし、出発の日は清明節、陽暦の四月五日または六日にあたるが、旅立つにはきわめて縁起のよい日であった。再び都に来たが、無念にも、再び故郷に隠遁しに帰る謝霊運の心情は、さぞかし感慨無量なものがあったと思う。
なお、このころの作らしいものに、「酬従弟謝惠運」(従弟の恵連に酬ゆ)という題の作品が残っている。


 謝靈運 謝惠連
酬従弟謝惠連 五首西陵遇風獻康楽 五首
従弟の恵連に酬ゆ 五首西陵にて風に遇い康楽に獻ず五首
(その1(その1
寢瘵謝人徒,滅跡入雲峯。我行指孟春、春仲尚未發。
岩壑寓耳目,歡愛隔音容。趣途遠有期、念離情無歇。
賞心望,長懷莫與同。成装候良辰、漾舟陶嘉月。
末路令弟,開顏披心胸瞻塗意少悰、還顧情多闕。
(その2(その2)
心胸既雲,意得鹹在哲兄感仳別、相送越垌
淩澗尋我室,散帙問所飲餞野亭館、分袂澄湖
夕慮曉月流,朝忌曛日悽悽留子言、眷眷浮客
悟對無厭歇,聚散成迴塘隠艫栧、遠望絶形
(その3(その3
分離別西,回景歸東靡靡即長路,戚戚抱遙
別時悲已甚,別後情更悲遙但自弭,路長當語
傾想遲嘉音,果枉濟江行行道轉遠,去去情彌
辛勤風波事,款曲洲渚昨發浦陽汭,今宿浙江
(その4(その4)
洲渚既淹,風波子行屯雲蔽曾嶺、驚風湧飛
務協華京想,詎存空穀零雨潤墳澤、落雪灑林
猶復恵来章,祇足攬余浮氛晦崖巘、積素成原
儻若果歸言,共陶暮春曲汜薄停旅、通川絶行
(その5(その5)
暮春雖未交,仲春善遊臨津不得済、佇楫阻風
山桃發紅萼,野蕨漸紫蕭條洲渚際、気色少諧
鳴嚶已悅豫,幽居猶郁西瞻興遊歎、東睇起悽
夢寐佇歸舟,釋我吝與積憤成疢痗、無萱將如


酬従弟謝惠連 五首
(その1)
寢瘵謝人徒,滅跡入雲峯。
病の床について人と会うのを謝絶した、それから後名跡を訪れることはなく雲に隠れる峯に隠棲した。
岩壑寓耳目,歡愛隔音容。
ひととの交じりを断って岩の谷間の水音に耳や目を寄せた。愛しい人とも声を聞くことも隔たったのである。
永絕賞心望,長懷莫與同。
その隠棲生活は長く続いた、景観を賞賛する心でここで臨んだのだ。そして長期間にわたって同じ気持ちで過ごすことはなかった。
末路值令弟,開顏披心胸。
晩年になって、弟の君と逢うことが出来た。そして顔を開いたし、心を打ち解け、胸襟を開いたのだ。

(その2)
心胸既雲披,意得鹹在斯。淩澗尋我室,散帙問所知。
夕慮曉月流,朝忌曛日馳。悟對無厭歇,聚散成分離。
(その3)
分離別西川,回景歸東山。別時悲已甚,別後情更延。
傾想遲嘉音,果枉濟江篇。辛勤風波事,款曲洲渚言。
(その4)
洲渚既淹時,風波子行遲,務協華京想,詎存空穀期。
猶復恵来章,祇足攬余思。儻若果歸言,共陶暮春時。
(その5)
暮春雖未交,仲春善遊遨。山桃發紅萼,野蕨漸紫苞。
鳴嚶已悅豫,幽居猶郁陶。夢寐佇歸舟,釋我吝與勞。


(従弟謝惠連に酬ゆ五首)
(その1)
瘵【やまい】に寢【い】ね 人徒【じんと】を謝し,滅跡【めつせき】して雲峯【うんほう】に入れり。
岩壑【がんがく】耳目【じもく】を寓【よ】せ,歡愛【かんあい】音容【おんよう】を隔てり。
永絕【えいぜつ】して賞心【しょうしん】を望み,長懷【ちょうかい】して 與に同じくするを莫きを。
末路【ばんねん】令弟【おとうと】に值【あ】い,開顏【かいがん】心胸【しんきょう】を披【ひら】けり。

(その2)
心胸【しんきょう】既【すで】に雲【いう】を披【ひら】け,意得ること鹹【みな】斯【ここ】に在りき。
澗【たに】を淩ぎ 我が室を尋ね,散帙【さんしつ】知れる所を問える。
夕には曉月【ぎょうげつ】の流れるを慮【おもんばか】り,朝には曛日【くんじつ】の馳するを忌【い】めり。
悟對【われとたい】して 厭歇【けんけつ】すること無く,聚散【しゅうさん】して 分離を成しぬ。

(その3)
分離して西川にて別れ,回景【かいけい】して東山に歸れり。
別れし時 悲しみ已に甚しきも,別れて後 情け更に延ぶ。
想いを傾けて嘉音【かおん】を遲【ま】ちしに,果して濟江【せいこう】の篇を枉【まげ】られぬ。
辛勤【して】風波【ふうは】の事,款曲【かんきょく】して洲渚【しゅうしょ】の言。
(その4) 
洲渚【しゅうしょ】既に淹時【えんじ】せば,風波【ふうは】子の行くこと遲し,務【とお】く華京【かきょう】の想に協【かな】えり,詎【なん】ぞ 空穀【くうこく】に 期を存せん。
猶 復た来章【らいしょう】を恵む,祇【まさ】に足余【よ】の思いを攬【みだ】す。
儻若【もし】歸言【きごん】を果しなば,共に陶【たのし】まん 暮春の時を。
(その5)
暮春 未だ交わらずと雖も,仲春にても善く遊遨【たのし】まん。
山桃は紅萼【こうがく】を發し,野蕨【やけつ】は紫苞【しほう】を漸【すす】む。
鳴嚶【めいえい】 已に悅豫【えつしょう】し,幽居猶お 郁陶【ゆうとう】す。夢寐【むび】にも歸舟【きしゅう】を佇【ま】ち,我の吝【けち】と勞とを釋【と】かん。



現代語訳と訳註
(本文) 酬従弟謝惠連 五首 (その1)
寢瘵謝人徒,滅跡入雲峯。
岩壑寓耳目,歡愛隔音容。
永絕賞心望,長懷莫與同。
末路值令弟,開顏披心胸。


(下し文) (その1)
瘵【やまい】に寢【い】ね 人徒【じんと】を謝し,滅跡【めつせき】して雲峯【うんほう】に入れり。
岩壑【がんがく】耳目【じもく】を寓【よ】せ,歡愛【かんあい】音容【おんよう】を隔てり。
永絕【えいぜつ】して賞心【しょうしん】を望み,長懷【ちょうかい】して 與に同じくするを莫きを。
末路【ばんねん】令弟【おとうと】に值【あ】い,開顏【かいがん】心胸【しんきょう】を披【ひら】けり。


(現代語訳)
病の床について人と会うのを謝絶した、それから後名跡を訪れることはなく雲に隠れる峯に隠棲した。
ひととの交じりを断って岩の谷間の水音に耳や目を寄せた。愛しい人とも声を聞くことも隔たったのである。
その隠棲生活は長く続いた、景観を賞賛する心でここで臨んだのだ。そして長期間にわたって同じ気持ちで過ごすことはなかった。
晩年になって、弟の君と逢うことが出来た。そして顔を開いたし、心を打ち解け、胸襟を開いたのだ。


(訳注) 酬従弟謝惠連 五首 (その1)
寢瘵謝人徒,滅跡入雲峯。
病の床について人と会うのを謝絶した、それから後、名跡を訪れることはなく雲に隠れる峯に隠棲した。
滅跡 名跡を訪れることはないこと。


岩壑寓耳目,歡愛隔音容。
ひととの交じりを断って岩の谷間の水音に耳や目を寄せた。愛しい人とも声を聞くことも隔たったのである。
歡愛 愛しい人。


永絕賞心望,長懷莫與同。
その隠棲生活は長く続いた、景観を賞賛する心でここで臨んだのだ。そして長期間にわたって同じ気持ちで過ごすことはなかった。


末路值令弟,開顏披心胸。
晩年になって、弟の君と逢うことが出来た。そして顔を開いたし、心を打ち解け、、胸襟を開いたのだ。
末路 晩年。

謝恵連のその1
西陵遇風獻康楽(その1)
我行指孟春、春仲尚未發。
趣途遠有期、念離情無歇。
成装候良辰、漾舟陶嘉月。
瞻塗意少悰、還顧情多闕。


都建康の西陵で病気になったので康楽兄上に近況をお知らせする詩。
私の旅は春のはじめのつもりであったのに、仲春二月になってもやはりまだ出発しないでいる。
旅の途に向かうことは遠く以前に心に決めていたが、別れを思えばさびしい気持ちが尽きない。
旅装も出来上がって門出の良い日を待ちながら、船を浮かべて春の好ましい月を楽しむのである。
そうはいっても、行く手の途をながめてみると心に楽しみが少なく、あと振り返ってみるなら、ここに留まるには、気持の上で満足することはないことの方が多いのを覚えるのである。


西陵にて風に遇い康楽に獻ず(その1)
我が行 孟春【もうしゅん】を指すに、春仲【はるなかば】なるも尚 未だ發せず。
途に趣くこと遠く期有り、離【わかれ】を念うて情 歇【や】む無し。
装【よそおい】成して良辰【りょうしん】を候【ま】ち、舟を漾【うかべ】て嘉月を陶【たの】しむ。
塗【みち】を瞻て意に悰【たのしみ】少し、還顧【かんこ】すれば情に闕【か】くること多し。

田南樹園激流植援 謝霊運(康楽) 詩<43#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩429 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1104

田南樹園激流植援 謝霊運(康楽) 詩<43#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩429 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1104


田南樹園激流植援 #1
樵隱俱在山,由來事不同。
不同非一事,養痾亦園中。
中園屏氛雜,清曠招遠風。
蔔室倚北阜,啟扉面南江。
激澗代汲井,插槿當列墉。
#2
羣木既羅戶,眾山亦對牕。
園中に群がる木々がすでに戸口に連なり並んでいる、多くの山々もまた高窓からまともに見える。
靡迤趨下田,迢遞瞰高峯。
うねうねと続いた低い田を歩いたり、遠く聾えた高い峯をながめたりする。
寡欲不期勞,即事罕人功。
欲が少ないことは、この山居のため、日常の煩わしさで心身を疲れさそうとは思わないし、物事はあるがままに、人の力を用いることはまれであった。
唯開蔣生徑,永懷求羊蹤。
ただ漢の蔣詡のように幽居の庭に3筋の径(こみち)をつくり、松・菊・竹を植えた、また高士である求仲と羊仲が俗世をさけてその道を歩いて遊んだことを永く慕わしく思おもうのである。
賞心不可忘,妙善冀能同。
この山水の風景を賞賛する心を忘れることはできない。それにただ念仏を唱え浄土にゆくすぐれて善い真理を悟って、どうか善悪、死生を同一視できる念仏することの願う。この山水幽遠の境地にいて、浄土を求めたいと思うのである。


(田の南園に樹え流れに激ぎ援を植う)
樵【しょう】と隠【いん】とは俱【とも】に山に在れども、由来 車は同じからず。
同じからざるは一事に非ず、痾【やまい】を養うも亦た園中にあり。
園中 氛【よごれ】と 雑 を屏【しりぞ】け、清曠【せいこう】して遠風【えんぷう】を招く。
室を卜【ぼく】いて北皐【ほくふ】に倚り、扉を啓【ひら】いて南の江に画す。
澗【かん】を激【そそ】いで井に汲むに代え、槿【きん】を插して糖【かき】を列【ならび】に当つ。
#2
群木は既に戸に羅なり、衆山も亦た窗に対す。
靡迤【びい】りて下の田に趨き、迢遞なる高峰を瞰【み】る。
寡欲【かよく】労にしてを期せず、事に即して人の功を竿なくす。
唯だ蒋生【しょうせい】の蓮を開き、永く求羊【きゅうよう】の踪【あと】をを懐う。
覚心 忘る可からず、妙善【みょうぜん】をば能く同じくせんことを冀【ねが】う。


現代語訳と訳註
(本文)
田南樹園激流植援 #2
羣木既羅戶,眾山亦對牕。
靡迤趨下田,迢遞瞰高峯。
寡欲不期勞,即事罕人功。
唯開蔣生徑,永懷求羊蹤。
賞心不可忘,妙善冀能同。


(下し文) #2
群木は既に戸に羅なり、衆山も亦た窗に対す。
靡迤【びい】りて下の田に趨き、迢遞なる高峰を瞰【み】る。
寡欲【かよく】労にしてを期せず、事に即して人の功を竿なくす。
唯だ蒋生【しょうせい】の蓮を開き、永く求羊【きゅうよう】の踪【あと】をを懐う。
覚心 忘る可からず、妙善【みょうぜん】をば能く同じくせんことを冀【ねが】う。


(現代語訳)
園中に群がる木々がすでに戸口に連なり並んでいる、多くの山々もまた高窓からまともに見える。
うねうねと続いた低い田を歩いたり、遠く聾えた高い峯をながめたりする。
欲が少ないことは、この山居のため、日常の煩わしさで心身を疲れさそうとは思わないし、物事はあるがままに、人の力を用いることはまれであった。
ただ漢の蔣詡のように幽居の庭に3筋の径(こみち)をつくり、松・菊・竹を植えた、また高士である求仲と羊仲が俗世をさけてその道を歩いて遊んだことを永く慕わしく思おもうのである。
この山水の風景を賞賛する心を忘れることはできない。それにただ念仏を唱え浄土にゆくすぐれて善い真理を悟って、どうか善悪、死生を同一視できる念仏することの願う。この山水幽遠の境地にいて、浄土を求めたいと思うのである。


(訳注) #2
羣木既羅戶,眾山亦對牕。
園中に群がる木々がすでに戸口に連なり並んでいる、多くの山々もまた高窓からまともに見える。
 高まど、 てんまど、 けむだし。


靡迤趨下田,迢遞瞰高峯。
うねうねと続いた低い田を歩いたり、遠く聾えた高い峯をながめたりする。
靡迤 うねうねと連らなるさま。○迢遞 遠く聳えたさま。○ 見下ろす。眺める。


寡欲不期勞,即事罕人功。
欲が少ないことは、この山居のため、日常の煩わしさで心身を疲れさそうとは思わないし、物事はあるがままに、人の力を用いることはまれであった。
寡欲 物欲が少ない。○不期労 山居のために必ずしも心身を疲らそうと思わない。○即事 物事についてそのままで。○罕人功 人手を煩わすことがまれである。


唯開蔣生徑,永懷求羊蹤。
ただ漢の蔣詡のように幽居の庭に3筋の径(こみち)をつくり、松・菊・竹を植えた、また高士である求仲と羊仲が俗世をさけてその道を歩いて遊んだことを永く慕わしく思おもうのである。
○蔣生徑 漢代の蒋詡(しょうく)が、幽居の庭に3筋の径(こみち)をつくり、松・菊・竹を植えた故事から庭につけた3本のこみちのことをいう。○求羊蹤 羊仲・求仲の歩いた足あと。彼等の行為。
二仲; 開徑; 羊仲; 羊求; 求仲; 求羊; 三三徑; 三徑詡; 開三徑; 開竹徑; 求羊徑; 求羊蹤; 徑三三; 蔣生徑; 蔣詡徑; 徑開高士; 避地蔣生; 蔣生難再逢; 開徑;. 3. 三徑 • 二仲; 開徑; 羊仲; 羊求; 求仲; 求羊; 三三徑; 三徑詡; 開三徑; 開竹徑; 求羊徑;


賞心不可忘,妙善冀能同。
この山水の風景を賞賛する心を忘れることはできない。それにただ念仏を唱え浄土にゆくすぐれて善い真理を悟って、どうか善悪、死生を同一視できる念仏することの願う。この山水幽遠の境地にいて、浄土を求めたいと思うのである。
賞心 山水の風景を賞賛する心。○妙善 浄土宗の真理をいう。○冀能同 念仏を唱えることで、前任悪人の別なく浄土にゆける。


と歌う。始寧に帰った霊運は本宅以外に別荘をも作り、悠々と自適の生活にはいった。その別荘は、室を卜いて北の卓に借り、扉を啓けば南は江に面しその景が眺められ、そして潮水を敵いで升に汲むに代え、程を挿えて垣根の代わりにした、と描写し、そこからの眺めを、「群がれる木は既に戸に羅なり 衆くの山も亦た牌に対す 靡逼りて下の田に潜り 邁遽なる高峰を放る」と述べる。特に、欲寡なければ労を期せず、事に即して人の功苧なり、唯だ漠の蒋生の故事によって逆を開いた。と詠ずるのは、陶淵明の「帰去来辞」の「僮僕歡迎、稚子候門。三逕就荒、松菊猶存。」(僮僕は歡び迎へ、稚子 門に候(ま)つ。三径は荒に就(つ)き、松菊は猶お存せり)の内容と同じ考えをもっていたことを示す。貧しさをいとわず、役人生活を捨てた淵明。親戚・友人の切なる忠告を退けてやめた謝霊運がに求めたのは仏教的な心の自由であった。南亡く朝という特異な時代、二君に交えずの時代であっても、君主の禅譲ということからの嫌気は自然の美へあこがれ、自由な生活へのあこがれ、それは中国知識人の夢であり望みであったのだ。


#2
羣木既羅戶,眾山亦對牕。
靡迤趨下田,迢遞瞰高峯。
寡欲不期勞,即事罕人功。
唯開蔣生徑,永懷求羊蹤。
賞心不可忘,妙善冀能同。

群木は既に戸に羅なり、衆山も亦た窗に対す。
靡迤【びい】りて下の田に趨き、迢遞なる高峰を瞰【み】る。
寡欲【かよく】労にしてを期せず、事に即して人の功を竿なくす。
唯だ蒋生【しょうせい】の蓮を開き、永く求羊【きゅうよう】の踪【あと】をを懐う。
覚心 忘る可からず、妙善【みょうぜん】をば能く同じくせんことを冀【ねが】う。

田南樹園激流植援 謝霊運(康楽) 詩<42#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩428 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1101

田南樹園激流植援 謝霊運(康楽) 詩<42#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩428 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1101
(田の南園に樹え流れに激ぎ援を植うP134田の南園に樹え、流れに激ぎ援を植う)


始寧の隠世
『宋書』の本伝によると、謝霊運は

父祖ならびに始寧県に葬らる。併せて故宅及び有り。遂に籍を会稽に移し、別業を營す。山に傍い江を帯び、幽居の美を尽くす。隠士王弘之・孔淳之等と縦放(自由)を娯しみと為す。終焉の志有り。一詩の都邑に至る有る毎に、貴賤競い写さざるなし。

宿昔の間、士庶皆なし。遠近名を欽慕し京師を動かす。山居の賦を作る。


始寧は現在の浙江省上虞県である。海外貿易で有名な寧波の町から西に60km、名酒の町、紹興から東50kmのところにある。謝霊運は『山居賦』の自注に、

余が祖、車騎(謝玄)は大功を淮に建て、江左は横流の禍いを免るるを得たり。後に太博(謝安)既にずるに及び、建國己に輟む。是に於いて便ち駕を解いて東に帰り、以って君側の乱を避けんことを求む。廃興・隠顕は当に是れ賢達の心たるべし。故に神麗の所を選び、以って高棲の志を申ぶ。山川を経始し、実に此に基をおく。



会稽に籍を移し、別業=別荘に本拠をそこに移すことにした。このことははなはだ簡略にそれとなく記されている。それは晋の南渡に当たり、先祖の眠る故郷に自由に行けなくなったこと、また、この自然の美しい土地に魅せられたのであろうか。「山居賦」によれば、

其の居や湖を左にし、江を右にし、渚に往き、江に還り、山を西にし、阜を背にし。



山居の様子を述べ、農産物、あるいは水草・樹木・魚類・鳥類・獣類について書き、または、仏寺を歌い、仏道・浄土へのあこがれをいい、仏教を論じ、文学について私見を述べる。
始寧で霊運のやったことは、『文選』の巻三十の 「雑詩」に引用される 「田南樹園激流植援」(田の南園に樹え、流れに激ぎ援を植う)という詩に歌われた。



田南樹園激流植援 #1
田の南に庭を作り、流れをせき止めて水を庭にそそぎ庭わまわりに生垣を植える。
樵隱俱在山,由來事不同。
木こりと隠者とがともにこの山中に住んでいるが、もとより彼等のする事は同じではない。
不同非一事,養痾亦園中。
同じでないのは一つの事だけではなくて、私のように病気の保養をするのもまたこの園中での仕事の一つである。
中園屏氛雜,清曠招遠風。
荘園の中にうるさい雑事をしりぞけて、清らかにむなしい心で幽遠な気分、座禅のような気分を招き求めるのである。
蔔室倚北阜,啟扉面南江。
亀の甲を焼いて占い、庵の位置、方位を定めて、北山を背にして建てる、門の扉を南方の川江に向かって開いた。
激澗代汲井,插槿當列墉。
そして谷川を堰き止めて園にさそい注流させ、井戸水を汲む代わりにする、むくげの木を挿し植えて連ねて土塀の代用にあてるのだ。
#2
羣木既羅戶,眾山亦對牕。
靡迤趨下田,迢遞瞰高峯。
寡欲不期勞,即事罕人功。
唯開蔣生徑,永懷求羊蹤。
賞心不可忘,妙善冀能同。


(田の南園に樹え流れに激ぎ援を植う)
樵【しょう】と隠【いん】とは俱【とも】に山に在れども、由来 車は同じからず。
同じからざるは一事に非ず、痾【やまい】を養うも亦た園中にあり。
園中 氛【よごれ】と 雑 を屏【しりぞ】け、清曠【せいこう】して遠風【えんぷう】を招く。
室を卜【ぼく】いて北皐【ほくふ】に倚り、扉を啓【ひら】いて南の江に画す。
澗【かん】を激【そそ】いで井に汲むに代え、槿【きん】を插して糖【かき】を列【ならび】に当つ。
#2
群木は既に戸に羅なり、衆山も亦た窗に対す。
靡迤【びい】りて下の田に趨き、迢遞なる高峰を瞰【み】る。
寡欲【かよく】労にしてを期せず、事に即して人の功を竿なくす。
唯だ蒋生【しょうせい】の蓮を開き、永く求羊【】の踪【あと】をむるを懐う。
覚心 忘る可からず、妙善【みょうぜん】をば能く同じくせんことを巽【ねが】う
 


現代語訳と訳註
(本文) #1

田南樹園激流植援
樵隱俱在山,由來事不同。
不同非一事,養痾亦園中。
中園屏氛雜,清曠招遠風。
蔔室倚北阜,啟扉面南江。
激澗代汲井,插槿當列墉。


(下し文)
樵【しょう】と隠【いん】とは俱【とも】に山に在れども、由来 車は同じからず。
同じからざるは一事に非ず、痾【やまい】を養うも亦た園中にあり。
園中 氛【よごれ】と 雑 を屏【しりぞ】け、清曠【せいこう】して遠風【えんぷう】を招く。
室を卜【ぼく】いて北皐【ほくふ】に倚り、扉を啓【ひら】いて南の江に画す。
澗【かん】を激【そそ】いで井に汲むに代え、槿【きん】を插して糖【かき】を列【ならび】に当つ。

(現代語訳)
田の南に庭を作り、流れをせき止めて水を庭にそそぎ庭わまわりに生垣を植える。
木こりと隠者とがともにこの山中に住んでいるが、もとより彼等のする事は同じではない。
同じでないのは一つの事だけではなくて、私のように病気の保養をするのもまたこの園中での仕事の一つである。
荘園の中にうるさい雑事をしりぞけて、清らかにむなしい心で幽遠な気分、座禅のような気分を招き求めるのである。
亀の甲を焼いて占い、庵の位置、方位を定めて、北山を背にして建てる、門の扉を南方の川江に向かって開いた。
そして谷川を堰き止めて園にさそい注流させ、井戸水を汲む代わりにする、むくげの木を挿し植えて連ねて土塀の代用にあてるのだ。


(訳注)#1
田南樹園激流植援

田の南に庭を作り、流れをせき止めて水を庭にそそぎ庭わまわりに生垣を植える。
田南樹園激流植援 田の南に庭を作り、流れをせき止めて水を庭にそそぎ庭わまわりに生垣を植える。援は垣、いけがき。
○隠棲し始めた謝霊運は隠棲を意識過剰であったのだろう、いかにも隠者を意識した詩題となっている。


隱俱在山,由來事不同。
木こりと隠者とがともにこの山中に住んでいるが、もとより彼等のする事は同じではない。
樵隠 木こりと隠者。○事不同 仕事は同じではない。


不同非一事,養痾亦園中。
同じでないのは一つの事だけではなくて、私のように病気の保養をするのもまたこの園中での仕事の一つである。
養痾 病気の保養をする。


中園屏氛雜,清曠招遠風。
荘園の中にうるさい雑事をしりぞけて、清らかにむなしい心で幽遠な気分、座禅のような気分を招き求めるのである。
氛雜 うるさい雜事。氛は乱。○清曠 心がすずしくむなしい。○抑遠風 幽遠な気分を招く。一人静かに心を日常のことから遠ざける気分、座禅のような気分をいう。

蔔室倚北阜,啟扉面南江。
亀の甲を焼いて占い、庵の位置、方位を定めて、北山を背にして建てる、門の扉を南方の川江に向かって開いた。
蔔室【ぼくしつ】 蔔:卜。うらなって家を建てる。○倚北阜 北峯を背にする。


激澗代汲井,插槿當列墉。
そして谷川を堰き止めて園にさそい注流させ、井戸水を汲む代わりにする、むくげの木を挿し植えて連ねて土塀の代用にあてるのだ。
槿 むくげ。木槿。錦臾科の灌木。その花は朝開き夕に萎む。○ 土塀。

石壁精舎還湖中作 謝霊運(康楽) 詩<42#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩423 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1086

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石壁精舎還湖中作 謝霊運(康楽) 詩<42#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩423 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1086
(石壁精舎より湖中に還る作)


謝霊運は仏教の勉学と修行、その合間にあちこちと遊歩した。巫湖の南に南山、北に北山という山があったが、謝霊運はいつも石壁精舎の南山に居住し、南山から北山に向かおうとして、巫湖を経て、船中で眺めた美景を歌った秀作に、(石壁精舎より湖中に還る作)を作っている。これは『文選』の巻二十二の 「遊覧」に選ばれている。別に-『於南山往北山経湖中瞻眺』(南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり)―もある。


石壁精舍還湖中作詩
昏旦變氣候。山水含清暉。
午前中とくらべ夕がたになると気候が変わりってきた、(わたしの勉学修行に満足感があり)山も水も清々しい光を含んでいるようだ。
清暉能娛人。遊子憺忘歸。
その清らかな光彩は人をこころから楽しませることができ、旅ゆく人の心を和ませてたのしむため帰ることをわすれるのである。
出谷日尚早。入舟陽已微。
石壁精舎のある谷を出るときは日はまだ高かったが、船に乗るころには太陽はもう暗く微かになっていた。
林壑斂暝色。雲霞收夕霏。』
林や谷、山影に夕暮れの色が深くこめてきている、空は雲や夕霞に夕映えがはえていて、やまかげには夕靄がすっかり治まってしまっている。

#2
芰荷迭映蔚。蒲稗相因依。
舟の近くには菱と蓮と、たがいに色映えて繁り、岸辺には蒲(がま)と稗(ひえ)と.か寄り合って密生している。
披拂趨南徑。愉悅偃東扉。
覆われた小枝を拂って居室の南の小徑を小走りに歩き草をおしあけていき、私は心なごませわが家の東の窓辺に身を横たえるのである。
慮澹物自輕。意愜理無違。
私の心は静かにさっぱりしているので、煩わしい物情に惹かれることがないし、自然と物欲を軽視する考えであり、心を悩ますことがないのである。また私の心持ちは浄土を願うことだけなので、その浄土念仏の思想真理に違うことがないのである。
寄言攝生客。試用此道推。』

浄土念仏の思想真理により、物欲、自分の生命だけを大切に守ろうとする人々に言ってやりたいのだが、試みに浄土念仏の思想真理よって心安らぎ、物情・物欲に心惑わず、楽しんで浄土念仏の思想真理を唱えるだけでこころおちつくということを悟るようにしてみるのである。

(石壁精舎還湖中作。石壁精舎より湖中に還りて作る)
昏旦【こんたん】に気候【きこう】変じ、山水 清暉【せいき】を。
清暉 能く人を娯【たのし】ませ、游子【ゆうし】憺【やす】みて帰るを忘れる。
谷を出でて日尚はやく、舟に入りて陽已に微なり。
林壑【りんがく】瞑色【めいしょく】を斂【おさ】め、雲霞 夕霏【せきひ】を収む。」
#2
芰荷【きか】迭【たがい】に映蔚【えいい】し、蒲稗【ほはい】相い因【いん】依【い】す。
被払【ひふつ】して南径【なんけい】に趨【おもむ】き、愉悦【ゆえつ】して東扉【とうひ】に偃【ふ】す。
慮【おもい】澹【しずか】にして物自ら軽く、意 愜【かな】いて理 違【たが】う無し。
言を寄す摂生【せつせい】の客、試みに此処の道を用って推せ。」

nat0026


現代語訳と訳註
(本文)
#2
芰荷迭映蔚。蒲稗相因依。
披拂趨南徑。愉悅偃東扉。
慮澹物自輕。意愜理無違。
寄言攝生客。試用此道推。』


(下し文) #2
芰荷【きか】迭【たがい】に映蔚【えいい】し、蒲稗【ほはい】相い因【いん】依【い】す。
被払【ひふつ】して南径【なんけい】に趨【おもむ】き、愉悦【ゆえつ】して東扉【とうひ】に偃【ふ】す。
慮【おもい】澹【しずか】にして物自ら軽く、意 愜【かな】いて理 違【たが】う無し。
言を寄す摂生【せつせい】の客、試みに此処の道を用って推せ。」


(現代語訳)
舟の近くには菱と蓮と、たがいに色映えて繁り、岸辺には蒲(がま)と稗(ひえ)と.か寄り合って密生している。
覆われた小枝を拂って居室の南の小徑を小走りに歩き草をおしあけていき、私は心なごませわが家の東の窓辺に身を横たえるのである。
私の心は静かにさっぱりしているので、煩わしい物情に惹かれることがないし、自然と物欲を軽視する考えであり、心を悩ますことがないのである。また私の心持ちは浄土を願うことだけなので、その浄土念仏の思想真理に違うことがないのである。
浄土念仏の思想真理により、物欲、自分の生命だけを大切に守ろうとする人々に言ってやりたいのだが、試みに浄土念仏の思想真理よって心安らぎ、物情・物欲に心惑わず、楽しんで浄土念仏の思想真理を唱えるだけでこころおちつくということを悟るようにしてみるのである。


(訳注) #2
芰荷迭映蔚。蒲稗相因依。
舟の近くには菱と蓮と、たがいに色映えて繁り、岸辺には蒲(がま)と稗(ひえ)と.か寄り合って密生している。
芰荷 ひしとはす。○迭映蔚 たがいに色はえて茂っている。○満稗 がまとひえ。水草。○困依 寄りかかり合って生える。密生する。


披拂趨南徑。愉悅偃東扉。
覆われた小枝を拂って居室の南の小徑を小走りに歩き草をおしあけていき、私は心なごませわが家の東の窓辺に身を横たえるのである。
披払 小枝や草を推しわけ払う。○南径 家の南の小道。○東扉 家の東の扉の内。


慮澹物自輕。意愜理無違。
私の心は静かにさっぱりしているので、煩わしい物情に惹かれることがないし、自然と物欲を軽視する考えであり、心を悩ますことがないのである。また私の心持ちは浄土を願うことだけなので、その浄土念仏の思想真理に違うことがないのである。
○澹 淡。静かになごやかにさっぱりしている。○物自転 無欲であることで物欲を重んじない。○意愜 心持が快適である。念仏を唱えることで憂いが無くなり満足感を得る。○理無違 浄土念仏の真理にたがえることはない。


寄言攝生客。試用此道推。』
浄土念仏の思想真理により、物欲、自分の生命だけを大切に守ろうとする人々に言ってやりたいのだが、試みに浄土念仏の思想真理よって心安らぎ、物情・物欲に心惑わず、楽しんで浄土念仏の思想真理を唱えるだけでこころおちつくということを悟るようにしてみるのである。



(解説)
 謝霊運(385年(太元10年) - 433年(元嘉10年))は中国の東晋・南朝宋代を生きた詩人・官僚。陳郡陽夏(河南省太康)の人。爵位から謝康楽とも言われる。六朝期を代表する詩人で山水を詠じた詩が名高く、山水詩の祖とされる。

 河南省で、江南大族の出身であり、名将だった謝玄が祖父である。406年、20歳の時に皇帝に仕えたものの、謀反の疑いをかけられ、広州に流刑とされた後、その地でも疑いをかけられ、処刑の上、死体を市中にさらし者にされた。

謝霊運の浄土宗的な詩は、道教儒教に嫌気がしていた人民の喝采を得ていた。浄土教は為政者を必要としないしそうであり、謝霊運は危険分子とされたのである。そして、為政者に対し歯に衣着せぬ言動は、邪魔であった。多くの歴史書は為政者によって書かれる。謝霊運に残っているのは為政者が許せる範囲の詩文でしかない。気ままとかお坊ちゃんとかいうのは為政者の見方である。詩の一つ一つ見ていくと、世に伝えられている謝霊運像は間違いであるようにしか見えない。

石壁精舎還湖中作 謝霊運(康楽) 詩<42#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩422 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1083

石壁精舎還湖中作 謝霊運(康楽) 詩<42#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩422 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1083

(石壁精舎より湖中に還る作)


謝霊運は仏教の勉学と修行、その合間にあちこちと遊歩した。巫湖の南に南山、北に北山という山があったが、謝霊運はいつも石壁精舎の南山に居住し、南山から北山に向かおうとして、巫湖を経て、船中で眺めた美景を歌った秀作に、(石壁精舎より湖中に還る作)を作っている。これは『文選』の巻二十二の 「遊覧」に選ばれている。別に-『於南山往北山経湖中瞻眺』(南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり)―もある。



石壁精舍還湖中作詩
南の山の石壁精舍から北山の住まいへ帰る巫湖の中に船から見ての作詩。
昏旦變氣候。山水含清暉。
午前中とくらべ夕がたになると気候が変わりってきた、(わたしの勉学修行に満足感があり)山も水も清々しい光を含んでいるようだ。
清暉能娛人。遊子憺忘歸。
その清らかな光彩は人をこころから楽しませることができ、旅ゆく人の心を和ませてたのしむため帰ることをわすれるのである。
出谷日尚早。入舟陽已微。
石壁精舎のある谷を出るときは日はまだ高かったが、船に乗るころには太陽はもう暗く微かになっていた。
林壑斂暝色。雲霞收夕霏。』
林や谷、山影に夕暮れの色が深くこめてきている、空は雲や夕霞に夕映えがはえていて、やまかげには夕靄がすっかり治まってしまっている。

#2
芰荷迭映蔚。蒲稗相因依。
披拂趨南徑。愉悅偃東扉。
慮澹物自輕。意愜理無違。
寄言攝生客。試用此道推。』


(石壁精舎還湖中作。石壁精舎より湖中に還りて作る)
昏旦【こんたん】に気候【きこう】変じ、山水 清暉【せいき】を。
清暉 能く人を娯【たのし】ませ、游子【ゆうし】憺【やす】みて帰るを忘れる。
谷を出でて日尚はやく、舟に入りて陽已に微なり。
林壑【りんがく】瞑色【めいしょく】を斂【おさ】め、雲霞 夕霏【せきひ】を収む。」

#2
芰荷【きか】迭【たがい】に映蔚【えいい】し、蒲稗【ほはい】相い因【いん】依【い】す。
被払【ひふつ】して南径【なんけい】に趨【おもむ】き、愉悦【ゆえつ】して東扉【とうひ】に偃【ふ】す。
慮【おもい】澹【しずか】にして物自ら軽く、意 愜【かな】いて理 違【たが】う無し。
言を寄す摂生【せつせい】の客、試みに此処の道を用って推せ。」


現代語訳と訳註
(本文) 石壁精舍還湖中作詩

昏旦變氣候。山水含清暉。
清暉能娛人。遊子憺忘歸。
出谷日尚早。入舟陽已微。
林壑斂暝色。雲霞收夕霏。』


(下し文)
(石壁精舎還湖中作。石壁精舎より湖中に還りて作る)
昏旦【こんたん】に気候【きこう】変じ、山水 清暉【せいき】を。
清暉 能く人を娯【たのし】ませ、游子【ゆうし】憺【やす】みて帰るを忘れる。
谷を出でて日尚はやく、舟に入りて陽已に微なり。
林壑【りんがく】瞑色【めいしょく】を斂【おさ】め、雲霞 夕霏【せきひ】を収む。」


(現代語訳)
南の山の石壁精舍から北山の住まいへ帰る巫湖の中に船から見ての作詩。
午前中とくらべ夕がたになると気候が変わりってきた、(わたしの勉学修行に満足感があり)山も水も清々しい光を含んでいるようだ。
その清らかな光彩は人をこころから楽しませることができ、旅ゆく人の心を和ませてたのしむため帰ることをわすれるのである。
石壁精舎のある谷を出るときは日はまだ高かったが、船に乗るころには太陽はもう暗く微かになっていた。
林や谷、山影に夕暮れの色が深くこめてきている、空は雲や夕霞に夕映えがはえていて、やまかげには夕靄がすっかり治まってしまっている。

鳥居(3)

(訳注)
石壁精舍還湖中作詩

南の山の石壁精舍から北山の住まいへ帰る巫湖の中に船から見ての作詩。
石壁精舎 「精舎は今の読書斎走れなり」と。心をやすめて棲む所を精舎という。○湖中 謝霊運遊名山志に「巫湖は三面悉く高山水渚にのぞみ、山の渓澗凡そ五処。南の第一谷は今も在り。所謂石壁精舎なり」とある。
故郷の会稽の巫湖の中から見上げ眺めた風景。湖の南北の山に仏教修行館や謝霊運の居所があり、南山から北山に行く途中の作。
紹興中部の山会平原 (山陰―会稽平原) は, もともと沼沢地. であった。現在, 水郷風景が広がっている
会稽の曹娥なる女子は、その父が巫覡であったが、五月五日、(父は)神を迎えるため長江の大波に逆らって溺死した。紹興市東浦鎮。古い景観を残す水郷地帯。


昏旦變氣候。山水含清暉。
午前中とくらべ夕がたになると気候が変わりってきた、(わたしの勉学修行に満足感があり)山も水も清々しい光を含んでいるようだ


清暉能娛人。遊子憺忘歸。
その清らかな光彩は人をこころから楽しませることができ、旅ゆく人の心を和ませてたのしむため帰ることをわすれるのである。
 心をなごませて楽しむことができる。


谷日尚早。入舟陽已微。
石壁精舎のある谷を出るときは日はまだ高かったが、船に乗るころには太陽はもう暗く微かになっていた。
 口光。○林璧 林や谷の蔭。○赦瞑色 夕暮れの色を深くこめる。


林壑斂暝色。雲霞收夕霏。』
林や谷、山影に夕暮れの色が深くこめてきている、空は雲や夕霞に夕映えがはえていて、やまかげには夕靄がすっかり治まってしまっている。
雲霞 夕やけ雲。○夕霏 夕靄。

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立石壁招提精舎 謝霊運(康楽) 詩<41#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩421 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1080

立石壁招提精舎 謝霊運(康楽) 詩<41#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩421 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1080
(石壁に招提精舎を立つ)

浄土教に厚く帰依していた謝霊運は浮き世の無常を強く感じ、衆生済度をも兼ねて仏寺を建立した。それを詠じたものに、「石壁に招提精舎を立つ」の作がある。この精舎については諸説あるが読書斎であり、慧遠にいたく帰依し、浄土教を信じていたので、謝霊運の仏教修行の場であった。


石壁立招提精舍詩
四城有頓躓。三世無極已。
浮歡昧眼前。沉照貫終始。
壯齡緩前期。頹年迫暮齒。
揮霍夢幻頃。飄忽風電起。
#2
良緣迨未謝。時逝不可俟。
天子との良縁はまだなく未だに心許せることにはなることがない。そうしている間に時は過ぎ去ってゆきやがてこの身が塵となっていくには忍びない。
敬擬靈鷲山。尚想祗洹軌。
ここを靈鷲山として霊山浄土の修行の場としたい、そしてその上祗洹精舎と位置付けたいのだ。
絕溜飛庭前。高林映窗裏。
この場所では、とどめ置くことはしないので精神統一の場から飛び立つこともある。高い林の上から窓辺に映る日常を見ることである。
禪室棲空觀。講宇析妙理。

心静かに修行しているこの空間を見て棲むことである、宇宙を講じてその真理を悟ることができる。

(石壁に招提精舎を立つ)
四城に頓瞑【とんめい】有り、三世【さんせい】は無極【はてなき】のみ。
浮きたる歓びは眼前を昧【くら】くし、沈照【ちんしょう】して終始を貫く。
壮齢【そうれい】 前期に緩【ゆる】く、頹年【たいねん】 暮歯【ろうじん】に迫り、揮霍【はや】きこと夢・幻【まぼろし】の頃、飄忽【ひょうこつ】に風電【ふうでん】 起こり。
#2
良縁【りょうえん】 未だ謝せざるに迨【いた】る、時は逝【ゆ】き挨つ可からず。
敬みて靈鷲山【りょうじゅせん】に擬し、尚お想う 祗洹【ぎおん】の軌。
絶溜【ぜつりゅう】 飛庭【ひてい】の前、高き林 窗裏【そうり】に映じ。
禅室【ぜんしつ】にて空観【くうかん】を棲【すま】し、講字【こくじ】にて妙理【みょうり】を析【わ】かつ。

yayoipl07

現代語訳と訳註
(本文)
#2
良緣迨未謝。時逝不可俟。
敬擬靈鷲山。尚想祗洹軌。
絕溜飛庭前。高林映窗裏。
禪室棲空觀。講宇析妙理。


(下し文) #2
良縁【りょうえん】 未だ謝せざるに迨【いた】る、時は逝【ゆ】き挨つ可からず。
敬みて靈鷲山【りょうじゅせん】に擬し、尚お想う 祗洹【ぎおん】の軌。
絶溜【ぜつりゅう】 飛庭【ひてい】の前、高き林 窗裏【そうり】に映じ。
禅室【ぜんしつ】にて空観【くうかん】を棲【すま】し、講字【こくじ】にて妙理【みょうり】を析【わ】かつ。


(現代語訳)
天子との良縁はまだなく未だに心許せることにはなることがない。そうしている間に時は過ぎ去ってゆきやがてこの身が塵となっていくには忍びない。
ここを靈鷲山として霊山浄土の修行の場としたい、そしてその上祗洹精舎と位置付けたいのだ。
この場所では、とどめ置くことはしないので精神統一の場から飛び立つこともある。高い林の上から窓辺に映る日常を見ることである。
心静かに修行しているこの空間を見て棲むことである、宇宙を講じてその真理を悟ることができる。


(訳注) #2
良緣迨未謝。時逝不可俟。
天子との良縁はまだなく未だに心許せることにはなることがない。そうしている間に時は過ぎ去ってゆきやがてこの身が塵となっていくには忍びない。


敬擬靈鷲山。尚想祗洹軌。
ここを靈鷲山として霊山浄土の修行の場としたい、そしてその上祗洹精舎と位置付けたいのだ。
霊鷲山【りょうじゅせん】インドのビハール州のほぼ中央に位置する山。釈迦仏が無量寿経や法華経を説いたとされる山として知られる。霊山浄土(りょうぜんじょうど) とされる。霊山会上ともいう。もし世界が毀損しても未来永劫、釈迦仏がここに常住して法を説くことを意味する。○祗洹 祇園精舎 祇樹給孤独園精舎は、中インドのシュラーヴァスティー(舎衛城)にあった寺院で、釈迦が説法を行ったとされる場所。天竺五精舎(釈迦在世にあった五つの寺院)の一つ。


絕溜飛庭前。高林映窗裏。
この場所では、とどめ置くことはしないので精神統一の場から飛び立つこともある。高い林の上から窓辺に映る日常を見ることである。
絕溜 とどめ置くことを拒絶する。○飛庭前 修行の場寄り飛び立つ。客観的に見ること。○高林 たかいはやし。○映窗裏 窓辺に映る。


禪室棲空觀。講宇析妙理。
心静かに修行しているこの空間を見て棲むことである、宇宙を講じてその真理を悟ることができる。
禪室 官を辞して初めて味わえる浄土宗の修行三昧の日々、心をやすめて棲むところであったものである。○棲空觀 この空間を見て棲むこと。○講宇 宇宙を講じること。○妙理 真理を悟ること。


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仏教へのあこがれは早くから憤っていたが、この詩では謝霊運は人生が無常で、夢・幻のようなもので、今、若いといっても、やがて老人となり、死が訪れる。そこで、その悩みから解脱するために、祇園精舎、仏寺を作り、霊山浄土を唱え、専心に仏教三昧の生活を送りたいという。役人生活をやめた現在、仏教専一にすることができるようになった。
謝霊運の温州永嘉での毎日は、自分の身が次第に塵となっていくような無力感でどうしようもなかったのであろう。こうして、故郷に帰り、石壁精舎を建立しやっと精神的に落ち着いたのである。この差霊運の心境をよく陶淵明と比較されるがかなり違っている。

立石壁招提精舎 謝霊運(康楽) 詩<41#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩420 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1077

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(石壁に招提精舎を立つ)

浄土教に厚く帰依していた謝霊運は浮き世の無常を強く感じ、衆生済度をも兼ねて仏寺を建立した。それを詠じたものに、「石壁に招提精舎を立つ」の作がある。この精舎についてはしょせつあるが読書斎であり、慧遠にいたく帰依し、浄土教を信じていたので、謝霊運の仏教修行の場であった。


石壁立招提精舍詩
石壁という場所で、招提=修行場、書斎のような建物を建てての詩。
四城有頓躓。三世無極已。
城郭の四方にはもっぱらつまずくことがあるものだ、過去、現在、未来にわたってきわめることはないものだ。
浮歡昧眼前。沉照貫終始。
浮ついている歓びは目の前にあることでさえ見えないことがある、暗く沈んだり明るく照らされたりしてはじめから終わりまで貫くことである。
壯齡緩前期。頹年迫暮齒。
壮年の歳になることは人生の前半期であり緩やかに過ごすものであるが、人生の老年期には晩年にせまるのである。
揮霍夢幻頃。飄忽風電起。

ぱっとどびちり振り払うことは夢まぼろしという時もあるし、突然掻かき曇って風や雷がおこることもある。

#2
良緣迨未謝。時逝不可俟。
敬擬靈鷲山。尚想祗洹軌。
絕溜飛庭前。高林映窗裏。
禪室棲空觀。講宇析妙理。


(石壁に招提精舎を立つ)
四城に頓瞑【とんめい】有り、三世【さんせい】は無極【はてなき】のみ。
浮きたる歓びは眼前を昧【くら】くし、沈照【ちんしょう】して終始を貫く。
壮齢【そうれい】 前期に緩【ゆる】く、頹年【たいねん】 暮歯【ろうじん】に迫り、揮霍【はや】きこと夢・幻【まぼろし】の頃、飄忽【ひょうこつ】に風電【ふうでん】 起こり。

#2
良縁【りょうえん】 未だ謝せざるに迨【いた】る、時は逝【ゆ】き挨つ可からず。
敬みて靈鷲山【りょうじゅせん】に擬し、尚お想う 祗洹【ぎおん】の軌。
絶溜【ぜつりゅう】 飛庭【ひてい】の前、高き林 窗裏【そうり】に映じ。
禅室【ぜんしつ】にて空観【くうかん】を棲【すま】し、講字【こくじ】にて妙理【みょうり】を析【わ】かつ。


現代語訳と訳註
(本文)

石壁立招提精舍詩
四城有頓躓。三世無極已。
浮歡昧眼前。沉照貫終始。
壯齡緩前期。頹年迫暮齒。
揮霍夢幻頃。飄忽風電起。


(下し文)
四城に頓躓【とんち】有り、三世【さんせい】は無極【はてなき】のみ。
浮きたる歓びは眼前を昧【くら】くし、沈照【ちんしょう】して終始を貫く。
壮齢【そうれい】 前期に緩【ゆる】く、頹年【たいねん】 暮歯【ろうじん】に迫り、揮霍【はや】きこと夢・幻【まぼろし】の頃、飄忽【ひょうこつ】に風電【ふうでん】 起こり。


(現代語訳)
石壁という場所で、招提=修行場、書斎のような建物を建てての詩。
城郭の四方にはもっぱらつまずくことがあるものだ、過去、現在、未来にわたってきわめることはないものだ。
浮ついている歓びは目の前にあることでさえ見えないことがある、暗く沈んだり明るく照らされたりしてはじめから終わりまで貫くことである。
壮年の歳になることは人生の前半期であり緩やかに過ごすものであるが、人生の老年期には晩年にせまるのである。


(訳注)
石壁立招提精舍詩
石壁という場所で、招提=修行場、書斎のような建物を建てる。
官を辞して初めて味わえる浄土宗の修行三昧の日々、心をやすめて棲むところであったものである。
石壁 崖下のような場所。石壁という場所、地名。○ 建立したのである。○招提 修行場、書斎のような建物。○精舍 心をやすめて棲むところであったもの。


四城有頓躓。三世無極已。
城郭の四方にはもっぱらつまずくことがあるものだ、過去、現在、未来にわたってきわめることはないものだ。
四城 城郭の四方。○頓躓 頓1 いちずなさま。ひたすら。2 完全にその状態であるさま。3 向こう見ずなさま。また、強引で粗暴なさま。躓【ち】つまずくこと。また、失敗すること。○三世 過去、現在、未来。


浮歡昧眼前。沉照貫終始。
浮ついている歓びは目の前にあることでさえ見えないことがある、暗く沈んだり明るく照らされたりしてはじめから終わりまで貫くことである。
浮歡 浮ついている歓び。○昧眼前 目の前にあることでさえ見えないこと。○沉照 暗く沈んだり明るく照らされたりすること。○貫終始 はじめから終わりまで貫くこと。


壯齡緩前期。頹年迫暮齒。
壮年の歳になることは人生の前半期であり緩やかに過ごすものであるが、人生の老年期には晩年にせまるのである。
暮歯【ぼし】老年。晩年。


揮霍夢幻頃。飄忽風電起。
ぱっとどびちり振り払うことは夢まぼろしという時もあるし、突然掻かき曇って風や雷がおこることもある。
揮霍 ぱっとどびちり振り払うこと。○飄忽 突然掻かき曇る。○風電起 風や雷がおこること。

東陽溪中贈答二首その(2) 謝霊運(康楽) 詩<40#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩423 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1086

東陽溪中贈答二首その(2) 謝霊運(康楽) 詩<40#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩423 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1086


東陽溪中贈答二首
一 可憐誰家婦。緣流洗素足。
       明月在雲間。迢迢不可得。
二 可憐誰家郎。緣流乘素舸。
       但問情若為。月就雲中墮。


東陽溪中贈答二首 その(2)
可憐誰家郎。緣流乘素舸。
そこにいいおとこがいるがどこの家の若者だ、清らかな流れに一人で白い小舟に乗っている。
但問情若為。月就雲中墮。
越王勾践が船に乗ってここを通過した時と同じように質問する「情をなせるだろうか?」と、月に喩えていうとそれは雲の中に落ちていくというものだ。


憐れむ 可【べ】し  誰【た】が家の 郎【ろう】ぞ,淥流【ろくりゅう】に 素舸【こぶね】に 乘る。
但 問う  情 若為【いか】にと,月は雲中に就いて墮【お】つ。


現代語訳と訳註
(本文)

東陽溪中贈答二首 その(2)
可憐誰家郎。緣流乘素舸。
但問情若為。月就雲中墮。


(下し文)
憐れむ 可【べ】し  誰【た】が家の 郎【ろう】ぞ,淥流【ろくりゅう】に 素舸【こぶね】に 乘る。
但 問う  情 若為【いか】にと,月は雲中に就いて墮【お】つ。

(現代語訳)
そこにいいおとこがいるがどこの家の若者だ、清らかな流れに一人で白い小舟に乗っている。
越王勾践が船に乗ってここを通過した時と同じように質問する「情をなせるだろうか?」と、月に喩えていうとそれは雲の中に落ちていくというものだ。


(訳注)
(二)可憐誰家郎 (可憐なり誰が家の郎おとこ)
可憐誰家郎、淥流乗素舸
そこにいいおとこがいるがどこの家の若者だ、清らかな流れに一人で白い小舟に乗っている。
可憐 若々しくていい男。 ○誰家 どの家系。  ○ 若い男。○淥流:谷川の流れに沿って。 ○舸 白木の舟。 ○:白い。


但問情若爲、月就雲中堕。
越王勾践が船に乗ってここを通過した時と同じように質問する「情をなせるだろうか?」と、月に喩えていうとそれは雲の中に落ちていくというものだ。


西施ものがたり
 本名は施夷光。中国では西子ともいう。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(現在の諸曁市)生まれだと言われている。

 現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施>>>西施と呼ばれるようになった。

 紀元前5世紀、越王勾践(こうせん)が、呉王夫差(ふさ)に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は谷川で洗濯をしている姿を見出されてたといわれている。

 この時の越の献上は黒檀の柱200本と美女50人といわれている。黒檀は、硬くて、耐久性のある良材で、高級家具や仏壇、高級品に使用される。比重が大きく、水に入れると沈む。
 呉にとってこの献上の良材は、宮殿の造営に向かわせた。豪奢な宮殿造営は国家財政を弱体化させることになる。宮殿は、五層の建造物で、姑蘇台(こそだい)と命名された。
 次は美女軍団が呉の国王を狂わせた。

 十八史略には、西施のきわめて美しかったこと、彼女にまつわるエピソードが記されている。西施は、呉王 夫差の寵姫となったが、あるとき胸の病となり、故郷の村に帰ってきた。西施は、痛む胸を手でおさえ、苦しみに眉をひそめて歩いた。それがかえって色香を引出し、村人の目を引いた。そのときに村に評判の醜女がいて、西施のまねた行動をした。それは、異様な姿に映り、かえって村人に嫌われた。これを「西施捧心」と表され、実もないのに真似をしても無駄なことだということだが、日本では、「これだけやっていますが、自分の力だけでなく、真似をしただけですよ」という謙遜の意味に使用されることが多い。


 このようにまれな美しさをそなえた西施は、呉王 夫差を虜(とりこ)にした。夫差は、西施のために八景を築き、その中でともに遊んだ。それぞれの風景の中には、所々に、席がもうけられ、優雅な宴(うたげ)がもよおされた。夏には、西施とともに船を浮かべ、西施が水浴すると、呉王 夫差は、その美しい肢体に見入った。こうして、夫差は悦楽の世界にひたり、政治も軍事も、そして民さえ忘れてしまい、傾国が始まったのである。


 越の策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。

呉が滅びた後の生涯は不明だが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。


 その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになった。また、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もある。

東陽溪中贈答二首その(1) 謝霊運(康楽) 詩<40#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩422 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1083

東陽溪中贈答二首その(1) 謝霊運(康楽) 詩<40#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩422 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1083
東陽谿中贈答 謝靈運      *385~433年 南朝の宋の詩人。


東陽溪中贈答二首
一  可憐誰家婦、緣流洗素足。
   明月在雲間、迢迢不可得。

二  可憐誰家郎、緣流乘素舸。
   但問情若為、月就雲中墮。




東陽谿中贈答 その(1)
東陽の谷にあたって答えて贈る。その(1)
可憐誰家婦,淥流洗素足。
可愛らしい娘がいるが、誰の家系もご婦人なのだろうか、澄み切った谷の流れに、西施のように素足をだしての白い足を洗っている。
明月在雲間,迢迢不可得。

明月は、雲のむこうにあって抱かれているようだが、遥か彼方の存在だから、とても手にいれることはできはしない。 


東陽の谿中 答え贈る
可憐【かれん】なるは 誰【た】が家の 婦【おんな】ぞ,淥流【ろくりゅう】に 素足を 洗ふ。
明月  雲間に 在り,迢迢【ちょうちょう】として  得 可【べ】からず。


現代語訳と訳註
(本文)

東陽谿中贈答
可憐誰家婦,淥流洗素足。
明月在雲間,迢迢不可得。


(下し文)
東陽の谿中 答え贈る
可憐【かれん】なるは 誰【た】が家の 婦【おんな】ぞ,淥流【ろくりゅう】に 素足を 洗ふ。
明月  雲間に 在り,迢迢【ちょうちょう】として  得 可【べ】からず。


(現代語訳)
東陽の谷にあたって答えて贈る。
可愛らしい娘がいるが、誰の家系もご婦人なのだろうか、澄み切った谷の流れに、西施のように素足をだしての白い足を洗っている。
明月は、雲のむこうにあって抱かれているようだが、遥か彼方の存在だから、とても手にいれることはできはしない。 


(訳注)
東陽谿中贈答

東陽の谷にあたって答えて贈る。
東陽 浙江省東陽県。会稽山脈の南方にある
谿 (1)山または丘にはさまれた細長い溝状の低地。一般には河川の浸食による河谷が多い。成因によって川や氷河による浸食谷と断層や褶曲(しゆうきよく)による構造谷とに分ける。また、山脈に沿う谷を縦谷(じゆうこく)、山脈を横切るものを横谷(おうこく)という。(2)高い所にはさまれた低い部分。 (3)二つの屋根の流れが交わる所。


可憐誰家婦、縁流洗素足。
可愛らしい娘がいるが、誰の家系もご婦人なのだろうか、澄み切った谷の流れに、西施のように素足をだしての白い足を洗っている。
可憐 愛すべき娘。可愛らしい娘。 ・誰家 どの家系。 ・ おんな。 ・淥流:谷川の流れに沿って。 ・ あらう。 ・素足 白い足。 ・:白い。
東陽の素足の女は。○素足女 この地方は美人の多い子で有名。素足の女は、楚の国の王を籠絡した女性西施がそのふっくらとした艶的の魅力により
語の句に警告させその出発殿のすあしのおんなであった。


明月在雲間、迢迢不可得。
明月は、雲のむこうにあって抱かれているようだが、遥か彼方の存在だから、とても手にいれることはできはしない。 
明月 澄みわたった月。素足の女性、西施をイメージする。 ・雲間:雲の間。 ・迢迢 (ちょうちょう) 遥か。遠い。高い。 ・不可得 得ることができない。


(解説)
淥水=白 素=白 足=白 、明=白 月=白 雲=白 ここで一句に3つの白、次の句で6つの白を挿入している。淥水は透明な水昼は緑に見え、夜は黒で、月明かりで白ある。素月は霜月で澄み切ったもの、汚れていないものをいう、その清らかなそんざいが、雲のようにつかむことはできない。エロチックな雰囲気を出しつつも謝霊運には精一杯かもしれない。玉台新詠の中で最も艶歌らしくない詩である。



 越王勾践(こうせん)が、呉王夫差(ふさ)に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた西施(施夷光)は谷川で洗濯をしている素足姿を見出されてたといわれている。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
 「あでやかな物言いたげな」は西施たちを意味し、同じように白蘋を取る娘たちも白い素足を出している。娘らには、何も魂胆はないけれど見ている作者に呉の国王のように心を動かされてしまう。若い娘らの魅力を詠ったものである。(当時は肌は白くて少し太めの足がよかったようだ) 李白に限らず、舟に乗って白蘋(浮き草)を採る娘たちを眺めるのは、とても素敵なひとときだったであろう。

夜宿石門詩 謝霊運(康楽) 詩<39#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩421 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1080

夜宿石門詩 謝霊運(康楽) 詩<39#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩421 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1080


夜宿石門詩
朝搴苑中蘭,畏彼霜下歇。
暝還雲際宿,弄此石上月。
鳥鳴識夜棲,木落知風發。」
異音同至听,殊響俱清越。
ちがった音がともに聞こえて来て、殊なつた響きかどれも皆清々しくて平常の域を越えてくる。
妙物莫為賞,芳醑誰與伐。
すぐれた物といって我がために誉めてくれる人がなく、芳しい酒は誰に自慢できるというのか。
美人竟不來,陽阿徒晞發。」

楚辞に私の慕うよい人はとうとう来ない。「夕宿兮帝郊、君誰須兮雲之際。與女遊兮九河、衝風至兮水揚波。與女沐兮咸池、晞女髮兮陽之阿。望美人兮未來、臨風怳兮浩歌。孔蓋兮翠旍、登九天兮撫彗星。」(夕に帝の郊【こう】に宿れば、君誰をか雲の際【はて】に須【ま】つ。女なんじと九河【きゅうか】に遊べば、衝風【しょうふう】至って水波を揚ぐ。女【なんじ】と咸池【かんち】に沐【もく】し、女【なんじ】の髪を陽【よう】の阿【あ】に晞【かわ】かさん。美人を望めどもいまだ来らず、風に臨【のぞ】んで怳【こう】として浩歌【こうか】す。)(少司命)とあるが、私も友人か来ないので、むなしく伝説の日の照る山の端で、ひとり髪を乾かすだけである。同じ心の友がいないのは寂しいことである。

(夜石門に宿る詩)
朝に苑中の蘭を搴【と】り、彼の霜下に歇【つ】くるを畏【おそ】る。
瞑【めい】に雲際【うんさい】の宿に還【かえ】り、此の石上の月を弄【もてあそ】ぶ。
鳥鳴いて夜棲むを識り、木落ちて風の發【おこ】るを知る。
異音【いおん】同じく听【せき】を致し、殊なれる響き 俱に清越たり。妙物 賞を為す莫く、芳【かおりよ】き醑【うまざけ】 誰と与にか伐【ほこ】らん。
美人 竟に來たらず、陽の阿【おか】にて徒【いたず】らに髪を晞【かわ】かす


現代語訳と訳註
(本文)

異音同至听,殊響俱清越。
妙物莫為賞,芳醑誰與伐。
美人竟不來,陽阿徒晞發。」


(下し文)
異音同じく寵に至り、殊響供に清越なり。
妙物も馬に賞する莫し。芳醇誰にか伐らん。
美人寛に来らず、陽阿に徒に髪を怖かすのみ。


(現代語訳)
ちがった音がともに聞こえて来て、殊なつた響きかどれも皆清々しくて平常の域を越えてくる。
すぐれた物といって我がために誉めてくれる人がなく、芳しい酒は誰に自慢できるというのか。
楚辞に私の慕うよい人はとうとう来ない。「夕宿兮帝郊、君誰須兮雲之際。與女遊兮九河、衝風至兮水揚波。與女沐兮咸池、晞女髮兮陽之阿。望美人兮未來、臨風怳兮浩歌。孔蓋兮翠旍、登九天兮撫彗星。」(夕に帝の郊【こう】に宿れば、君誰をか雲の際【はて】に須【ま】つ。女なんじと九河【きゅうか】に遊べば、衝風【しょうふう】至って水波を揚ぐ。女【なんじ】と咸池【かんち】に沐【もく】し、女【なんじ】の髪を陽【よう】の阿【あ】に晞【かわ】かさん。美人を望めどもいまだ来らず、風に臨【のぞ】んで怳【こう】として浩歌【こうか】す。)(少司命)とあるが、私も友人か来ないので、むなしく伝説の日の照る山の端で、ひとり髪を乾かすだけである。同じ心の友がいないのは寂しいことである。

(訳注)
異音同至听,殊響俱清越。
ちがった音がともに聞こえて来て、殊なつた響きかどれも皆清々しくて平常の域を越えてくる。
清越 清くて調子が高い。清々しさが平常の域を越えてくる。


妙物莫為賞,芳醑誰與伐。
私の作った興味ある変わった詩文に対して賞賛してくれる人はいない、それに香しい旨酒をだれと共に自慢できるというのか。
妙物 すぐれた物。たえなるもの。○芳醑 香ばしい酒。○伐 ほこる。


美人竟不來,陽阿徒晞發。」
楚辞に私の慕うよい人はとうとう来ない。「夕宿兮帝郊、君誰須兮雲之際。與女遊兮九河、衝風至兮水揚波。與女沐兮咸池、晞女髮兮陽之阿。望美人兮未來、臨風怳兮浩歌。孔蓋兮翠旍、登九天兮撫彗星。」(夕に帝の郊【こう】に宿れば、君誰をか雲の際【はて】に須【ま】つ。女なんじと九河【きゅうか】に遊べば、衝風【しょうふう】至って水波を揚ぐ。女【なんじ】と咸池【かんち】に沐【もく】し、女【なんじ】の髪を陽【よう】の阿【あ】に晞【かわ】かさん。美人を望めどもいまだ来らず、風に臨【のぞ】んで怳【こう】として浩歌【こうか】す。)(少司命)とあるが、私も友人か来ないので、むなしく伝説の日の照る山の端で、ひとり髪を乾かすだけである。同じ心の友がいないのは寂しいことである。
美人 美しい女性。佳人。芸妓のこと。○陽阿徒晞發 楚辞九歌少司命篇「「夕宿兮帝郊、君誰須兮雲之際。與女遊兮九河、衝風至兮水揚波。與女沐兮咸池、晞女髮兮陽之阿。望美人兮未來、臨風怳兮浩歌。孔蓋兮翠旍、登九天兮撫彗星。」(夕に帝の郊【こう】に宿れば、君誰をか雲の際【はて】に須【ま】つ。女なんじと九河【きゅうか】に遊べば、衝風【しょうふう】至って水波を揚ぐ。女【なんじ】と咸池【かんち】に沐【もく】し、女【なんじ】の髪を陽【よう】の阿【あ】に晞【かわ】かさん。美人を望めどもいまだ来らず、風に臨【のぞ】んで怳【こう】として浩歌【こうか】す。)と。陽阿は日の照る山の端の意味。九陽の丘。扶桑のほとりの伝説の地名。

夜宿石門詩 謝霊運(康楽) 詩<39#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩420 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1077

夜宿石門詩 謝霊運(康楽) 詩<39#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩420 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1077



故郷始寧における謝霊運の日常生活はというに、たとえは、始寧の別荘の南に楼があり、そこで漢の謝安の故事、朝廷の誘いに乗らず始寧の芸妓を携えて遊んだことにならい、芸妓を待っていたが来なかったときの感情を歌ったものである。

南樓中望所遲客
杳杳日西頹,漫漫長路迫。
登樓為誰思?臨江遲來客。
與我別所期,期在三五夕。
圓景早已滿,佳人猶未適。
即事怨睽攜,感物方淒戚。』
孟夏非長夜,晦明如歲隔。
瑤華未堪折,蘭苕已屢摘。
路阻莫贈問,雲何慰離析?
搔首訪行人,引領冀良覿。』
(南樓の中にて遅つ所の客を望む)
杳杳【きょうきょう】として日は西に頹【くず】れ、漫漫として長き路は迫【せま】れり。
楼に登り 誰の為かと思う、江に臨み釆たる客を遅【ま】つ。
我と別れしとき期する所あり、期は三五の夕に在り。
円景【まるきつき】は早く己に満ちしに、佳人は殊に末だ適【いた】らず。
事に即【つ】きて睽【そむ】き攜【はな】れるを怨み、物に感じて方【まさ】に淒【いたみ】戚【うれ】う。
孟夏【もうか】は長き夜に非ざるも、晦明【かいめい】は歳の隔つるが如し。
瑤華【あさのはな】は未だ折るに堪えざれど、蘭苕【らんしょう】 己に屢【しばし】ば摘【つ】む。
路阻【へだ】たりて贈問【ぞうもん】する莫ければ、云何【いか】んぞ離析【りせき】を慰めん。
首を掻いて行人に訪ね、領【うなじ】を引いて良き覿【み】んことを冀【ねが】う。


送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈
攜妓東山去。 春光半道催。
遙看若桃李。 雙入鏡中開。
 姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り
妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。
遙(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。


夜宿石門詩
ある夜石門に宿す時の詩。
朝搴苑中蘭,畏彼霜下歇。
朝になって庭園の中に咲く蘭の花を取る、それは秋の霜の下に枯れ尽きるのを心配するからなのだ。
暝還雲際宿,弄此石上月。
夕暮れになって引返し、高い所の雲のはての石門山に宿する、この山の石の上に登ってくる月を愛で楽しむのである。
鳥鳴識夜棲,木落知風發。」
鳥の鳴く声に彼等が夜、この林にやどっていることを認識し、木の葉の落ちるのをみて風の発する方向がわかる。
異音同至听,殊響俱清越。
妙物莫為賞,芳醑誰與伐。
美人竟不來,陽阿徒晞發。」

(夜石門に宿る詩)
朝に苑中の蘭を搴【と】り、彼の霜下に歇【つ】くるを畏【おそ】る。
瞑【めい】に雲際【うんさい】の宿に還【かえ】り、此の石上の月を弄【もてあそ】ぶ。
鳥鳴いて夜棲むを識り、木落ちて風の發【おこ】るを知る。
異音【いおん】同じく听【せき】を致し、殊なれる響き 俱に清越たり。
妙物 賞を為す莫く、芳【かおりよ】き醑【うまざけ】 誰と与にか伐【ほこ】らん。美人 竟に來たらず、陽の阿【おか】にて徒【いたず】らに髪を晞【かわ】かす



現代語訳と訳註
(本文)
夜宿石門詩
朝搴苑中蘭,畏彼霜下歇。
暝還雲際宿,弄此石上月。
鳥鳴識夜棲,木落知風發。」


(下し文)
朝に苑中の蘭を奉り、彼の霜下に駄くるを畏る。
瞑に雲際の宿に還り、此の石上の月を弄す。
鳥鳴いて夜棲むを識り、木落ちて凧の葬るを知る。


(現代語訳)
ある夜石門に宿す時の詩。
朝になって庭園の中に咲く蘭の花を取る、それは秋の霜の下に枯れ尽きるのを心配するからなのだ。
夕暮れになって引返し、高い所の雲のはての石門山に宿する、この山の石の上に登ってくる月を愛で楽しむのである。
鳥の鳴く声に彼等が夜、この林にやどっていることを認識し、木の葉の落ちるのをみて風の発する方向がわかる。


(訳注)
夜宿石門詩
ある夜石門に宿す時の詩。
石門 浙江省会稽道、始寧より少し南の浙江省嵊県の嘑山の南にある名勝にある里。謝霊運の別荘がある。


搴苑中蘭,畏彼霜下歇。
朝になって庭園の中に咲く蘭の花を取る、それは秋の霜の下に枯れ尽きるのを心配するからなのだ。
○搴 取る。○ 枯れ尽きる。


暝還雲際宿,弄此石上月。
夕暮れになって引返し、高い所の雲のはての石門山に宿する、この山の石の上に登ってくる月を愛で楽しむのである。
 暮れ。・めでる。


鳥鳴識夜棲,木落知風發。」
鳥の鳴く声に彼等が夜、この林にやどっていることを認識し、木の葉の落ちるのをみて風の発する方向がわかる。
。○夜棲 夜、巣に戻って樹上に宿ること

南樓中望所遅客 謝霊運(康楽) 詩<38#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩419 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1074

南樓中望所遅客 謝霊運(康楽) 詩<38#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩419 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1074
(南樓の中にて遅つ所の客を望む)


南樓中望所遅客
故郷始寧における謝霊運の日常生活はというに、たとえは、始寧の別荘の南に楼があり、そこで漢の謝安の故事、朝廷の誘いに乗らず始寧の芸妓を携えて遊んだことにならい、芸妓を待っていたが来なかったときの感情を歌ったものである。
『文選』の巻三十の雑詩に引用されている「南樓の中にて遅つ所の客を望む」の作がある。


南樓中望所遲客
杳杳日西頹,漫漫長路迫。
登樓為誰思?臨江遲來客。
與我別所期,期在三五夕。
圓景早已滿,佳人猶未適。
即事怨睽攜,感物方淒戚。』
孟夏非長夜,晦明如歲隔。
初夏になると長い夜ではなくなり、日が長いものである、夜明けは早く夜が来るのが遅くなる年を取るのに隔たりを感じるものである。
瑤華未堪折,蘭苕已屢摘。
崑崙山に咲く玉のように美しい花はいまだに折れることはぜったいにないものであるが、蘭の花に豌豆の鶴が巻き付けばそれはしばしば摘み取ってしまうものであろう。
路阻莫贈問,雲何慰離析?
ここに來る道が嶮しいのか、邪魔が入ったのか、いろいろ疑問を考えることはやめよう、慰めここを離れていこうとういのになんというのか、言いようはないであろう。
搔首訪行人,引領冀良覿。』
自分の首を掻きながら前を通っていく人を訪れた、「うなじを引いてこちらを見てくれませんか」といってみるのだ。


(南樓の中にて遅つ所の客を望む)
杳杳【きょうきょう】として日は西に頹【くず】れ、漫漫として長き路は迫【せま】れり。
楼に登り 誰の為かと思う、江に臨み釆たる客を遅【ま】つ。
我と別れしとき期する所あり、期は三五の夕に在り。
円景【まるきつき】は早く己に満ちしに、佳人は殊に末だ適【いた】らず。
事に即【つ】きて睽【そむ】き攜【はな】れるを怨み、物に感じて方【まさ】に淒【いたみ】戚【うれ】う。
孟夏【もうか】は長き夜に非ざるも、晦明【かいめい】は歳の隔つるが如し。
瑤華【あさのはな】は未だ折るに堪えざれど、蘭苕【らんしょう】 己に屢【しばし】ば摘【つ】む。
路阻【へだ】たりて贈問【ぞうもん】する莫ければ、云何【いか】んぞ離析【りせき】を慰めん。
首を掻いて行人に訪ね、領【うなじ】を引いて良き覿【み】んことを冀【ねが】う

DCF00199

現代語訳と訳註
(本文)

孟夏非長夜,晦明如歲隔。
瑤華未堪折,蘭苕已屢摘。
路阻莫贈問,雲何慰離析?
搔首訪行人,引領冀良覿。』


(下し文)
孟夏【もうか】は長き夜に非ざるも、晦明【かいめい】は歳の隔つるが如し。
瑤華【あさのはな】は未だ折るに堪えざれど、蘭苕【らんしょう】 己に屢【しばし】ば摘【つ】む。
路阻【へだ】たりて贈問【ぞうもん】する莫ければ、云何【いか】んぞ離析【りせき】を慰めん。
首を掻いて行人に訪ね、領【うなじ】を引いて良き覿【み】んことを冀【ねが】う。


(現代語訳)
初夏になると長い夜ではなくなり、日が長いものである、夜明けは早く夜が来るのが遅くなる年を取るのに隔たりを感じるものである。
崑崙山に咲く玉のように美しい花はいまだに折れることはぜったいにないものであるが、蘭の花に豌豆の鶴が巻き付けばそれはしばしば摘み取ってしまうものであろう。
ここに來る道が嶮しいのか、邪魔が入ったのか、いろいろ疑問を考えることはやめよう、慰めここを離れていこうとういのになんというのか、言いようはないであろう。
自分の首を掻きながら前を通っていく人を訪れた、「うなじを引いてこちらを見てくれませんか」といってみるのだ。


(訳注)
孟夏非長夜,晦明如歲隔。

初夏になると長い夜ではなくなり、日が長いものである、夜明けは早く夜が来るのが遅くなる年を取るのに隔たりを感じるものである。
○孟夏 夏の初め。初夏。また、陰暦4月の異称。「孟」は初めの意。○晦明 晦明とは暗いと明るいで、夜と昼のこと。夜が長いのは歳を早くとり(日が早い)、昼が長いのは歳を取りにくい(日が遅い)。満月も早く見えなくなってしまうことをいう。


瑤華未堪折,蘭苕已屢摘。
崑崙山に咲く玉のように美しい花はいまだに折れることはぜったいにないものであるが、蘭の花に豌豆の鶴が巻き付けばそれはしばしば摘み取ってしまうものであろう。
○「神仙に通じる崑崙山にある理想郷の中腹大地」を指し、『瑤華』とは「玉のように美しい花」を指す言葉。○気にった美人は何かあっても許そうと思うが、その美人に邪魔をする輩は排除しよう。


路阻莫贈問,雲何慰離析?
ここに來る道が嶮しいのか、邪魔が入ったのか、いろいろ疑問を考えることはやめよう、慰めここを離れていこうとういのになんというのか、言いようはないであろう。
路阻 地形が険しい。「険阻」 2 遮り止める。はばむ。「阻害・阻隔・阻止○


搔首訪行人,引領冀良覿。』
自分の首を掻きながら前を通っていく人を訪れた、「うなじを引いてこちらを見てくれませんか」といってみるのだ。

南樓中望所遅客 謝霊運(康楽) 詩<38#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩418 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1071

南樓中望所遅客 謝霊運(康楽) 詩<38#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩418 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1071

(南樓の中にて遅つ所の客を望む)


南樓中望所遅客
故郷始寧における謝霊運の日常生活はというに、たとえは、始寧の別荘の南に楼があり、そこで漢の謝安の故事、朝廷の誘いに乗らず始寧の芸妓を携えて遊んだことにならい、芸妓を待っていたが来なかったときの感情を歌ったものである。
『文選』の巻三十の雑詩に引用されている「南樓の中にて遅つ所の客を望む」の作がある。


南樓中望所遲客
南の高殿の中でこちらに来る客が通り過ぎる場所でなかなか来ない客を待っている。
杳杳日西頹,漫漫長路迫。
日が西に沈みかけ辺りはだんだん薄暗くなってくる、長い一本道には広々として見渡しがよく、宵闇が迫ってくる。
登樓為誰思?臨江遲來客。
高楼に登るのは誰のために登るのだろうか? 大江の流れを眺めることは待っている客がなかなか来ないためである。
與我別所期,期在三五夕。
彼の人と私が逢う約束をしたのは別の場所であった。そしてその約束の日が来て十五夜の夜なのだ。
圓景早已滿,佳人猶未適。
真丸くなった月は早くも既にあがってしまう。芸妓を携え東山で過ごした謝安の故事を思い美人を待っているのだがまだ会えずにいるのだ。
即事怨睽攜,感物方淒戚。』

こんな故事にならって待っているのに攜相手にそむかれては怒りの気持ちになってしまう。いろんなことに感情を以て来たけれどこんなに辛くやりきれないものなのだろうか。
孟夏非長夜,晦明如歲隔。
瑤華未堪折,蘭苕已屢摘。
路阻莫贈問,雲何慰離析?
搔首訪行人,引領冀良覿。』

(南樓の中にて遅つ所の客を望む)
杳杳【きょうきょう】として日は西に頹【くず】れ、漫漫として長き路は迫【せま】れり。
楼に登り 誰の為かと思う、江に臨み釆たる客を遅【ま】つ。
我と別れしとき期する所あり、期は三五の夕に在り。
円景【まるきつき】は早く己に満ちしに、佳人は殊に末だ適【いた】らず。
事に即【つ】きて睽【そむ】き攜【はな】れるを怨み、物に感じて方【まさ】に淒【いたみ】戚【うれ】う。
孟夏【もうか】は長き夜に非ざるも、晦明【かいめい】は歳の隔つるが如し。
瑤華【あさのはな】は未だ折るに堪えざれど、蘭苕【らんしょう】 己に屢【しばし】ば摘【つ】む。
路阻【へだ】たりて贈問【ぞうもん】する莫ければ、云何【いか】んぞ離析【りせき】を慰めん。
首を掻いて行人に訪ね、領【うなじ】を引いて良き覿【み】んことを冀【ねが】う。
a謝霊運永嘉ルート02

現代語訳と訳註
(本文)
南樓中望所遲客
杳杳日西頹,漫漫長路迫。
登樓為誰思?臨江遲來客。
與我別所期,期在三五夕。
圓景早已滿,佳人猶未適。
即事怨睽攜,感物方淒戚。』

(下し文)
 杳杳【きょうきょう】として日は西に頹【くず】れ、漫漫として長き路は迫【せま】れり。
楼に登り 誰の為かと思う、江に臨み釆たる客を遅【ま】つ。
我と別れしとき期する所あり、期は三五の夕に在り。
円景【まるきつき】は早く己に満ちしに、佳人は殊に末だ適【いた】らず。
事に即【つ】きて睽【そむ】き攜【はな】れるを怨み、物に感じて方【まさ】に淒【いたみ】戚【うれ】う。


(現代語訳)
南の高殿の中でこちらに来る客が通り過ぎる場所でなかなか来ない客を待っている。
日が西に沈みかけ辺りはだんだん薄暗くなってくる、長い一本道には広々として見渡しがよく、宵闇が迫ってくる。
高楼に登るのは誰のために登るのだろうか? 大江の流れを眺めることは待っている客がなかなか来ないためである。
彼の人と私が逢う約束をしたのは別の場所であった。そしてその約束の日が来て十五夜の夜なのだ。
真丸くなった月は早くも既にあがってしまう。芸妓を携え東山で過ごした謝安の故事を思い美人を待っているのだがまだ会えずにいるのだ。
こんな故事にならって待っているのに攜相手にそむかれては怒りの気持ちになってしまう。いろんなことに感情を以て来たけれどこんなに辛くやりきれないものなのだろうか。


(訳注)
南樓中望所遲客

南の高殿の中でこちらに来る客が通り過ぎる場所でなかなか来ない客を待っている。
遲客 約束の時間に来ない客。約束をすっぽかされたもの。
送姪良携二妓赴会稽戯有此贈  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -287


杳杳日西頹,漫漫長路迫。
日が西に沈みかけ辺りはだんだん薄暗くなってくる、長い一本道には広々として見渡しがよく、宵闇が迫ってくる。
○杳杳 ほのかなさま。くらいさま。また、はるかなさま。○漫漫 広々と果てしないさま。
 

登樓為誰思?臨江遲來客。
高楼に登るのは誰のために登るのだろうか? 大江の流れを眺めることは待っている客がなかなか来ないためである。


與我別所期,期在三五夕。
彼の人と私が逢う約束をしたのは別の場所であった。そしてその約束の日が来て十五夜の夜なのだ。
 逢引の日のこと。佳期。○三五夕 十五夜の夜。月が昇り始める前から見るのが基本であるから、月がの場流前が約束の時である。


圓景早已滿,佳人猶未適。
真丸くなった月は早くも既にあがってしまう。芸妓を携え東山で過ごした謝安の故事を思い美人を待っているのだがまだ会えずにいるのだ。
佳人【かじん】 美しい女性。美人。芸妓のこと。


即事怨睽攜,感物方淒戚。』
こんな故事にならって待っているのに攜える相手にそむかれては怒りの気持ちになってしまう。いろんなことに感情を以て来たけれどこんなに辛くやりきれないものなのだろうか。
○晋の謝安(字は安石)が始寧(会稽紹興市の東の上虞県の西南)に隠居して朝廷のお召しに応じなかったのは「東山高臥」といって有名な講である。山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。○携 佳人=美人=芸妓を携える。謝安の故事をふまえる。
李白『憶東山二首其二 李白 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -270

于南山往北山経湖中瞻眺 謝霊運<37>#2 詩集 417  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1068

于南山往北山経湖中瞻眺 謝霊運<37>#2 詩集 417  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1068
謝霊運はその退屈しのぎに、相変わらずあちこちと遊び歩いていたらしい。巫湖の南に南山、北に北山という山があったが、霊運はいつも南山に居住し、常に湖を船で渡っては遵造していた。かつて、南山から北山に行かんとして、船中で眺めた美景を歌ったものに、「南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり」を作っている。これは『文選』の巻二十二の 「遊覧」に選ばれている。




于南山往北山經湖中瞻眺
朝旦發陽崖,景落憩陰峯。
舍舟眺迥渚,停策倚茂松。 
側徑既窈窕,環洲亦玲瓏。
俛視喬木杪,仰聆大壑灇。 
石橫水分流,林密蹊絕蹤。』
解作竟何感,升長皆豐容。
天地の陰陽の気の結び目が解けて活動をはじめて春雷がおこり、結局何の物を感じ動かしたかわからぬが、陽気が立ち万物は生長して皆盛んに繁っているのである。
初篁苞綠籜,新蒲含紫茸。
初生の若竹は緑の皮に包まれ、新しい蒲の花は紫の毛房を含んで咲いている。
海鷗戲春岸,天雞弄和風。 
海カモメは春のおだやかな岸にたわむれており、金鷄鳥は春のなごやかな風に遊んでいる。
撫化心無厭,覽物眷彌重。
万物の化身、芽吹き、成長を撫でるように愛する私の心は飽くことを知らないが、春の物すべて見るに値する美しいものなのだ。だから愛でかえりみることがいよいよ重なってくるのである。
不惜去人遠,但恨莫與同。 
去って行く人が遠ざかるのを惜しみはしないけれど、ただ、わたしと共にこの地で同じ思いで遊ぶ人がいないのが残念である。
孤遊非情歎,賞廢理誰通?』
しかし、ただひとりここに遊ぶのが私の心からの歎きではないことは確かだ、この景色を観賞する美の心を捨てるというのであるなら、誰が真理に通ずることができるであろうか。それを私は惜しむのである。


(南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり)
朝旦【ちょうたん】に陽崖【ようがい】(南山)を発し、景【ひ】落ちて陰峰【いんぽう】(北山)に憩う。
舟を舎てて迥渚【かいしょ】を眺め、策【つえ】を停【とど】めて茂れる松に倚る。
側徑【そくけい】既に窃窕【ようちょう】、環洲も亦た玲瓏【れいろう】なり。
俛して喬木【きょうぼく】の杪【こずえ】を視、仰ぎて大壑の灇【そそ】ぐを聆く。
石は横たわりて水 流れを分かち、林は密にして蹊【みち】は蹤【あと】を絶つ。』
解作【かいさく】は竟に何をか感ぜしむる、升長【しょうちょう】皆な豐容【ぼうよう】たり。
初篁【しょこう】は綠籜【りょくたく】に苞まれ,新蒲は紫茸【しじょう】を含む。
海鴎【かいおう】は春岸に戯れ、天雞【てんけい】は風に和して 弄【もてあそ】ぶ。
化を撫して心 厭【あ】く無く、物を覧て眷【けん】彌【いよい】よ重なる。
惜しまず去る人の遠きを、但だ恨む与【とも】に同【とも】にする莫きを。
孤遊【こゆう】は情の歎ずるに非ず、賞すること廃れば理誰か通ぜん?』

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現代語訳と訳註
(本文)

解作竟何感,升長皆豐容。
初篁苞綠籜,新蒲含紫茸。
海鷗戲春岸,天雞弄和風。 
撫化心無厭,覽物眷彌重。
不惜去人遠,但恨莫與同。 
孤遊非情歎,賞廢理誰通?』

(下し文)
解作【かいさく】は竟に何をか感ぜしむる、升長【しょうちょう】皆な豐容【ぼうよう】たり。
初篁【しょこう】は綠籜【りょくたく】に苞まれ,新蒲は紫茸【しじょう】を含む。
海鴎【かいおう】は春岸に戯れ、天雞【てんけい】は風に和して 弄【もてあそ】ぶ。
化を撫して心 厭【あ】く無く、物を覧て眷【けん】彌【いよい】よ重なる。
惜しまず去る人の遠きを、但だ恨む与【とも】に同【とも】にする莫きを。
孤遊【こゆう】は情の歎ずるに非ず、賞すること廃れば理誰か通ぜん?』


(現代語訳)
天地の陰陽の気の結び目が解けて活動をはじめて春雷がおこり、結局何の物を感じ動かしたかわからぬが、陽気が立ち万物は生長して皆盛んに繁っているのである。
初生の若竹は緑の皮に包まれ、新しい蒲の花は紫の毛房を含んで咲いている。
海カモメは春のおだやかな岸にたわむれており、金鷄鳥は春のなごやかな風に遊んでいる。
万物の化身、芽吹き、成長を撫でるように愛する私の心は飽くことを知らないが、春の物すべて見るに値する美しいものなのだ。だから愛でかえりみることがいよいよ重なってくるのである。
去って行く人が遠ざかるのを惜しみはしないけれど、ただ、わたしと共にこの地で同じ思いで遊ぶ人がいないのが残念である。
しかし、ただひとりここに遊ぶのが私の心からの歎きではないことは確かだ、この景色を観賞する美の心を捨てるというのであるなら、誰が真理に通ずることができるであろうか。それを私は惜しむのである。


(訳注)
解作竟何感,升長皆豐容。

天地の陰陽の気の結び目が解けて活動をはじめて春雷がおこり、結局何の物を感じ動かしたかわからぬが、陽気が立ち万物は生長して皆盛んに繁っているのである。
解作 天地の陰陽の気が結び目が解けて活動をはじめること。易の解の卦に「天地解而雷雨作、雷雨作而百花草木皆甲坼。」天地が解け雷雨が作(おこ)り、雷雨が作り百花草木が皆、甲坼(種子の殻を破って発芽)する。○升長 草木の生長すること。易経の升の卦「升、元亨。用見大人。勿恤南征吉。彖曰、柔以時升、巽而順、剛中而應、是以大亨。用見大人、勿恤、有慶也。南征吉、志行也。象曰、地中生木、升。君子以順徳、積小以高大。」<升(しょう)は、元(おお)いに亨(とお)る。もって大人(たいじん)を見る。恤(うれ)うるなかれ。南征(なんせい)すれば吉(きつ)なり。彖(たん)に曰く、柔(じゅう)、時をもって升(のぼ)り、巽(そん)にして順(じゅん)、剛(ごう)中にして応ず、ここをもって大いに亨(とお)るなり。もって大人(たいじん)を見る、恤(うれ)うるなかれとは、慶びあるなり。南征(なんせい)すれば吉(きつ)なりとは、志(こころざし)行なわるるなり。象に曰く、地中に木を生ずるは升(しょう)なり。君子もって徳に順(したが)い、小を積みてもって高大(こうだい)なり。>


初篁苞綠籜,新蒲含紫茸。
初生の若竹は緑の皮に包まれ、新しい蒲の花は紫の毛房を含んで咲いている。
初篁 初生の若竹藪。初生の叢竹。○苞綠籜 みどりの竹の皮に包まれる。○紫茸 むらさきの毛房。


海鷗戲春岸,天雞弄和風。 
海カモメは春のおだやかな岸にたわむれており、金鷄鳥は春のなごやかな風に遊んでいる。


撫化心無厭,覽物眷彌重。
万物の化身、芽吹き、成長を撫でるように愛する私の心は飽くことを知らないが、春の物すべて見るに値する美しいものなのだ。だから愛でかえりみることがいよいよ重なってくるのである。


不惜去人遠,但恨莫與同。 
去って行く人が遠ざかるのを惜しみはしないけれど、ただ、わたしと共にこの地で同じ思いで遊ぶ人がいないのが残念である


孤遊非情歎,賞廢理誰通?』
しかし、ただひとりここに遊ぶのが私の心からの歎きではないことは確かだ、この景色を観賞する美の心を捨てるというのであるなら、誰が真理に通ずることができるであろうか。それを私は惜しむのである。
孤遊 ただひとりここに遊ぶ。○情歎 私の心からの歎き。○賞廢 の景色を観賞する美の心を捨てるというのであるなら○ 真実の道理。美しいものを見て過ごすこと、欲得利害や名誉、塵界の出来事かけ離れた穏やかな生活にこそ心理があるというのであろう。政治の第一線に残りたいということとこうした美や風流に対するあこがれは一致するものではない。晋が西晋にそして東晉にそして宋に禅譲され、徳の政治は完全に消滅していった。体調を崩したのは政治に対して強烈な嫌気であり、謝霊運の体の中からも自家中毒のように拒絶反応が出たものであった。この故郷での隠棲生活以降、謝霊運の山水詩人らしい側面が強調されるのである。


demen07

于南山往北山経湖中瞻眺 謝霊運<37>#1 詩集 416  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1065

于南山往北山経湖中瞻眺 謝霊運<37>#1 詩集 416  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1065
(南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり)

謝霊運はその退屈しのぎに、相変わらずあちこちと遊び歩いていたらしい。巫湖の南に南山、北に北山という山があったが、霊運はいつも南山に居住し、常に湖を船で渡っては遵造していた。かつて、南山から北山に行かんとして、船中で眺めた美景を歌ったものに、「南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり」を作っている。これは『文選』の巻二十二の 「遊覧」に選ばれている。


于南山往北山經湖中瞻眺
故郷の会稽の南山の仏教修行館から北山の別荘に行く途中巫湖の中から見上げ眺めた風景。
朝旦發陽崖,景落憩陰峯。
夜が明け朝のうちに南の日向の崖を出発して、夕陽が西におちる頃、北の日蔭の峯に着いて休む。
舍舟眺迥渚,停策倚茂松。 
次いで、舟を乗り捨てて陸行すると、遠ざかる方で廻っているなぎさを眺める。そして杖をとどめて茂った松に倚りかかる。
側徑既窈窕,環洲亦玲瓏。
側に寄った狭い小道は遠くうねり曲がり、川水めぐる中洲もまた夕日に明るく輝いている。
俛視喬木杪,仰聆大壑灇。 
目を俛せたあと高い木のこずえを見あげ、仰ぎみると大きな谷川の水のそそぐ音がきこえてくる。
石橫水分流,林密蹊絕蹤。』

巌は川の中に横たわって流れを二つに分け、林は密に茂って山道には人の足あともまったく見えない。

解作竟何感,升長皆豐容。
初篁苞綠籜,新蒲含紫茸。
海鷗戲春岸,天雞弄和風。 
撫化心無厭,覽物眷彌重。
不惜去人遠,但恨莫與同。 
孤遊非情歎,賞廢理誰通?』


(南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり)#1
朝旦【ちょうたん】に陽崖【ようがい】(南山)を発し、景【ひ】落ちて陰峰【いんぽう】(北山)に憩う。
舟を舎てて迥渚【かいしょ】を眺め、策【つえ】を停【とど】めて茂れる松に倚る。
側徑【そくけい】既に窃窕【ようちょう】、環洲も亦た玲瓏【れいろう】なり。
俛して喬木【きょうぼく】の杪【こずえ】を視、仰ぎて大壑の灇【そそ】ぐを聆く。
石は横たわりて水 流れを分かち、林は密にして蹊【みち】は蹤【あと】を絶つ。』

#2
解作【かいさく】は竟に何をか感ぜしむる、升長【しょうちょう】皆な豐容【ぼうよう】たり。
初篁【しょこう】は綠籜【りょくたく】に苞まれ,新蒲は紫茸【しじょう】を含む。
海鴎【かいおう】は春岸に戯れ、天雞【てんけい】は風に和して 弄【もてあそ】ぶ。
化を撫して心 厭【あ】く無く、物を覧て眷【けん】彌【いよい】よ重なる。
惜しまず去る人の遠きを、但だ恨む与【とも】に同【とも】にする莫きを。
孤遊【こゆう】は情の歎ずるに非ず、賞すること廃れば理誰か通ぜん?』

a謝霊運永嘉ルート02

現代語訳と訳註
(本文)

于南山往北山經湖中瞻眺
朝旦發陽崖,景落憩陰峯。
舍舟眺迥渚,停策倚茂松。 
側徑既窈窕,環洲亦玲瓏。
俛視喬木杪,仰聆大壑灇。 
石橫水分流,林密蹊絕蹤。』


(下し文) (南山より北山に往き湖中の瞻眺を経たり)
朝旦【ちょうたん】に陽崖【ようがい】(南山)を発し、景【ひ】落ちて陰峰【いんぽう】(北山)に憩う。
舟を舎てて迥渚【かいしょ】を眺め、策【つえ】を停【とど】めて茂れる松に倚る。
側徑【そくけい】既に窃窕【ようちょう】、環洲も亦た玲瓏【れいろう】なり。
俛して喬木【きょうぼく】の杪【こずえ】を視、仰ぎて大壑の灇【そそ】ぐを聆く。
石は横たわりて水 流れを分かち、林は密にして蹊【みち】は蹤【あと】を絶つ。』


(現代語訳)
故郷の会稽の南山の仏教修行館から北山の別荘に行く途中巫湖の中から見上げ眺めた風景。
夜が明け朝のうちに南の日向の崖を出発して、夕陽が西におちる頃、北の日蔭の峯に着いて休む。
次いで、舟を乗り捨てて陸行すると、遠ざかる方で廻っているなぎさを眺める。そして杖をとどめて茂った松に倚りかかる。
側に寄った狭い小道は遠くうねり曲がり、川水めぐる中洲もまた夕日に明るく輝いている。
目を俛せたあと高い木のこずえを見あげ、仰ぎみると大きな谷川の水のそそぐ音がきこえてくる。
巌は川の中に横たわって流れを二つに分け、林は密に茂って山道には人の足あともまったく見えない。

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(訳注)
于南山往北山經湖中瞻眺

故郷の会稽の南山の仏教修行館から北山の別荘に行く途中巫湖の中から見上げ眺めた風景。
経湖中階跳 故郷の会稽の巫湖の中から見上げ眺めた風景。湖の南北の山に仏教修行館や謝霊運の居所があり、南山から北山に行く途中の作。紹興中部の山会平原 (山陰―会稽平原) は, もともと沼沢地. であった。現在, 水郷風景が広がっている.会稽の曹娥なる女子は、その父が巫覡であったが、五月五日、(父は)神を迎えるため長江の大波に逆らって溺死した。紹興市東浦鎮。古い景観を残す水郷地帯。


朝旦發陽崖,景落憩陰峯。
夜が明け朝のうちに南の日向の崖を出発して、夕陽が西におちる頃、北の日蔭の峯に着いて休む。
陽崖 宿の崖。山の南を陽という。


舍舟眺迥渚,停策倚茂松。 
次いで、舟を乗り捨てて陸行すると、遠ざかる方で廻っているなぎさを眺める。そして杖をとどめて茂った松に倚りかかる。
迥渚 曲がったなぎさ。


側徑既窈窕,環洲亦玲瓏。
側に寄った狭い小道は遠くうねり曲がり、川水めぐる中洲もまた夕日に明るく輝いている。
側径 側に寄った狭い小路。○窈窕 遠くうねり続く。○環洲 水流めぐる中島。・玲瓏 明るく揮く。


俛視喬木杪,仰聆大壑灇。 
目を俛せたあと高い木のこずえを見あげ、仰ぎみると大きな谷川の水のそそぐ音がきこえてくる。
 水の音。○ 聴く。○大壑灇 大きな谷川の水のそそぐ音


石橫水分流,林密蹊絕蹤。』
巌は川の中に横たわって流れを二つに分け、林は密に茂って山道には人の足あともまったく見えない。
 足あと。

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