張衡《西京賦》(33) 厚𥿻と錦とを木にまとわせ、土には朱と紫色を着色し、兵器庫には宮城守護兵の寵臣のものたちの武器が所蔵されており、一々ならべて兵架に収められ、寵臣の石顕でもない、董賢でもない限り、誰がこのような大邸宅に住めるというのか。
張平子(張衡)《西京賦》(33) (長安の城郭)-#2 文選 賦<114―(33)>31分割68回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1070 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3898
(32)#14-1長安の城郭
徒觀其城郭之制,則旁開三門。
(長安の城郭)とにかく、長安の城郭の作り方に目を観察してみると、各方位の璧面の一面ごとに門が三つ開くように配置される。
參塗夷庭,方軌十二,街衢相經。
そして、各門ごとに三本の道路を配し、平坦で一直線、四台の車を並べて走れる幅員(軌)があり、そうした道路が全部で十二通りあり、そして四通八達の道路が、十字路に交差して通っている。
廛里端直,甍宇齊平。
屋敷町はきちんと屋なみのそろえていて、屋根の甍は寸尺たがわず高さをそろえられた。
北闕甲第,當道直啓。
宮城の北にある一級邸宅地区は寵愛された貴族で、道路に画し南正面に屋敷の墻門をひらくようにした。
(33)#14-2
程巧致功,期不陁陊。
名だたる工匠を徹底して選び抜き、彼等に期待通り以上の腕をふるわせて、曲ってもくずれおちないようにする。
木衣綈錦,土被朱紫。
厚𥿻と錦とを木にまとわせ、土には朱と紫の二色を全面に着色した。
武庫禁兵,設在蘭錡。
兵器庫には宮城守護兵の寵臣のものたちの武器が所蔵されており、一々ならべて兵架に収められる。
匪石匪董,疇能宅此?
こんなことでは寵臣の石顕でもない、董賢でもない限り、誰がこのような大邸宅に住めるというのか。
#14
徒【ただ】其の城郭の制を觀れば,則ち旁に三門を開く。
參塗【さんと】夷【たいらか】に庭【ただ】しく,軌を方【なら】ぶと十二,街衢【がいく】相い經【わた】る。
廛里【てんり】端直し,甍宇【ぼうう】齊平【せいへい】なり。
北闕の甲第【こうだい】,道に當りて直ちに啓【ひら】く。
巧を程【えら】びて功を致し,陁陊【しち】せざらんことを期す。
木には綈錦【ていきん】を衣【き】せ,土には朱紫【しゅし】を被【こうむ】る。
武庫の禁兵は,設けて蘭錡【らんき】に在る。
石の匪ず 董に匪ずんば,疇【たれ】か能く此に宅さん?
『西京賦』 現代語訳と訳註
(本文) (33)#14-2
程巧致功,期不陁陊。
木衣綈錦,土被朱紫。
武庫禁兵,設在蘭錡。
匪石匪董,疇能宅此?
(下し文)
巧を程【えら】びて功を致し,陁陊【しち】せざらんことを期す。
木には綈錦【ていきん】を衣【き】せ,土には朱紫【しゅし】を被【こうむ】る。
武庫の禁兵は,設けて蘭錡【らんき】に在る。
石の匪ず 董に匪ずんば,疇【たれ】か能く此に宅さん?
(現代語訳)
名だたる工匠を徹底して選び抜き、彼等に期待通り以上の腕をふるわせて、曲ってもくずれおちないようにする。
厚𥿻と錦とを木にまとわせ、土には朱と紫の二色を全面に着色した。
兵器庫には宮城守護兵の寵臣のものたちの武器が所蔵されており、一々ならべて兵架に収められる。
こんなことでは寵臣の石顕でもない、董賢でもない限り、誰がこのような大邸宅に住めるというのか。
(訳注) (33)#14-2
程巧致功,期不陁陊。
名だたる工匠を徹底して選び抜き、彼等に期待通り以上の腕をふるわせて、曲ってもくずれおちないようにする。
○程巧 巧は名工。名匠を選定する。
○致 尽くす。
○陁陊 くずれ落ちる。悪いものは作らないっ徹底した良いものを作る。陁 ななめ、 ななめのさま 、 けわしい
木衣綈錦,土被朱紫。
厚𥿻と錦とを木にまとわせ、土には朱と紫の二色を全面に着色した。
○綈 厚𥿻、つむぎの類。木も土も錦繍のごとく装飾されている。
武庫禁兵,設在蘭錡。
兵器庫には宮城守護兵の寵臣のものたちの武器が所蔵されており、一々ならべて兵架に収められる。
○武庫 兵器庫、本来なら武庫令丞があって管理する。ここは寵臣が私的に兵器庫をもっていることをいう。
○禁兵 宮城守護兵の所蔵する武器。
○蘭錡 兵架。弩を格納するを錡、他の兵器を格納するを蘭という。
匪石匪董,疇能宅此?
こんなことでは寵臣の石顕でもない、董賢でもない限り、誰がこのような大邸宅に住めるというのか。
○石 石顕のこと。元帝の時の腎官で寵臣。元帝の病気につけこみ、政事の実権を握り、事大小となく彼によって決した。硬骨漢の宰相蕭望之をも自殺せしめた。下賜の貨財一万万といわれたが、元帝死去の後没落して故郷に帰る途中で死んだ。
○董 董賢のこと。哀帝の寵臣。美貌で取り入る。二十二歳で百官の政務を統括す。また妻の父を将作大匠(宮廷造営長官) とし、詔によって、北闕の下に大邸宅を起工し、前後二重の御殿と洞門とを建て、土木事業に技巧の限力を尽くし、柱や檻は「衣するに綈錦を以てし」、下は僮僕に至るまで、下賜のものあり、「武庫の禁兵、上方(尚方、御物制作またその庫を掌る官署)の珍宝もあり、また死後のための金縷玉衣もあった。その邸宅は堅牢を拉めたが、哀帝の死後苦境に落ち自殺した。けれどもその父は、朱砂で棺を塗り、またほりものの絵を画き、四季にちなむ色彩を施し、蒼龍を左に、白虎を右に描き、上には金銀の太陽と月をあらわす模様があり、天子もこれに及ばぬほどであった」という(『漢書』の侒幸伝)。
石顕(せきけん、生没年不詳)は、前漢の人。字は君房。済南の人。
(1)若い頃に罪があり宮刑に処せられ宦官となった。中黄門となって中書に選ばれた。宣帝は中書の宦官を重用し、宦官の弘恭を中書令、石顕を中書僕射とした。
宣帝が死亡し元帝の世になると、元帝は政務より音楽を好み、石顕ら宦官を信用し、政治を任せた。
前将軍蕭望之、宗正劉更生、光禄大夫周堪らが石顕らの排除を狙うと、彼らを陥れ、蕭望之を自殺、劉更生や周堪を罷免に追い込んだ。
(2)元帝が即位して数年で弘恭が死ぬと、石顕が中書令になった。太中大夫張猛、魏郡太守京房、御史中丞陳咸、待詔賈捐之らが元帝に石顕の短所を述べて排除を狙ったが、石顕は彼らの罪を探し出し、京房と賈捐之は処刑され、張猛は自殺に追い込まれ、陳咸は髠刑に処せられた。こういったことから大臣たちも石顕を恐れるようになった。
(3)石顕はまた少府五鹿充宗や中書僕射牢梁、御史中丞伊嘉といった者と交友関係を持ち、付き従う者は高い地位に昇った。彼らが石顕によって地位を得た様を世間では「牢よ石よ、五鹿は客よ。印はなんと多いことよ。綬はなんと長いことよ」と歌った。
(4)石顕はまた左将軍馮奉世が、子の馮野王ともども大臣として有名であり、娘は後宮で元帝の寵愛を受けていることから、彼らを味方にしようとし、馮奉世の子の馮逡を元帝に推薦した。馮逡は石顕が権力をほしいままにしていることを述べ、元帝は激怒して彼を郎に戻した。このことがあって、後に御史大夫の後任を選ぶ時、大臣が馮野王を推薦した際、元帝が石顕に尋ねると、「寵姫の兄である馮野王を選べば、後世の者は陛下が寵姫の親族を贔屓して三公にしたのだと思うでしょう」と答えたため、元帝は馮野王を選ばなかった。
(5)石顕はわざと宮門が閉じた後の夜間に出入りすると元帝に申し出ておいて、後から石顕が夜間に勝手に宮門を開けて出入りしたと告発する者がいた。石顕は元帝に対し「私を嫉妬して陥れようとする者がいるのです。大役をおおせつかりながら皆を喜ばせることが出来ず、天下から恨まれておりますので、役目を返上して後宮の掃除夫にしていただいて私を生かしていただければ幸いです」と言い、元帝に憐れみを催させ、慰労と恩賞を賜った。
(6)世間で儒者の蕭望之を殺したことが批判されているのを知ると、儒者の歓心を買うため、儒者の貢禹と親交を結び、彼を推薦して御史大夫にまで至らしめた。これにより世間では石顕を称え、蕭望之を妬んだのではないのだと思うようになった。
(7)元帝の晩年、定陶王(劉康)が寵愛を受け皇太子の地位を脅かしたが、石顕は皇太子を支持した。しかしその皇太子(成帝)が即位すると、石顕を長信中太僕に左遷し、数ヵ月後には丞相匡衡らが石顕の旧悪を告発した。石顕や牢梁、陳順らの一党は罷免され、石顕は妻子と共に故郷に戻る道中で憂いのあまり食を取らず死亡した。
董 賢(とう けん、前22年 - 前1年)は、その眉目秀麗なる容姿から前漢哀帝の寵愛を受けた官人。哀帝の死後は権勢を失い自殺に追い込まれた。字は聖卿。
(1)董賢は御史であった董恭の子として生まれた。当初は太子舍人となったが、哀帝即位後は様々な官職を転任していた。前4年、哀帝は眉目秀麗な少年に成長した董賢に心奪われ、以後董賢は帝の男色相手として寵愛されるようになった。
(2)寵愛を受けた董賢は大司馬に任じられ、妹を昭儀(漢代の後宮女官の位)として後宮に迎え入れ、また妻も入宮し侍奉することが認められるという、破格の待遇を与えられた。帝は董賢を寵愛することすこぶるで、彼を片時も側から離さなかった。(3)ある日のこと、共に昼寝をしていた二人のうち哀帝が先に目を覚ましたが、横には自分の衣の大きな袖の上に董賢がまだすやすやと眠っていた。ここで自分が立ち上がろうとすれば董賢を起さざるを得ないが、それはいかにも忍びないと感じた哀帝は、人に命じて董賢が横たわっていた方の袖を切り落とさせた。この故事が男色の別称のひとつである「断袖」(だんしゅう)の由来である。
(4)過度な寵愛は董賢一族に経済的、政治的な恩恵が与えられたばかりか、董賢の僮僕にまで賞賜が与えられた。その後哀帝は董賢を侯に封じた。反対した丞相王嘉はその後加増の詔を差し戻すという事態となり、王嘉はそれが元で罪を得て投獄され絶食し命を絶っている。また舜堯の故事を引き合いに禅譲までも申し出たが、これは中常侍王閎に諫言され撤回している。
(5)元寿2年(前1年)に哀帝が崩御すると、哀帝は董賢に皇帝の璽綬を託した(次の皇帝の決定権を与えたことになる)。そこで王閎が太皇太后王氏(王政君)に璽綬を奪うよう進言し、王閎は武装して宮殿に入り董賢から璽綬を強奪した。これにより董賢は政治基盤を失う。太皇太后王氏は董賢を朝廷より遠ざけ、また年少との理由で大司馬の職を解いた。この詔勅が出された当日、董賢は妻と共に自殺した。なお彼の後任が王莽である。この時董賢の年齢は僅かに21歳、死後は財産は没収され、一族は各地に流刑となった。