張衡《西京賦》(1) (西京二百有余年の豪華を王室中心に述べる。作者、張衡はこれを憑虚公子にうたわせる。)憑虚公子と称する者がいる。気ぐらいも高く態度は横柄である。それに、つねに広く昔の故事を好み、太史に教えを受ける。そのため、前代の史実をたくさん心得ている。その公子が安処先生に向かって口を開く。
張平子(張衡)《西京賦》(1) 文選 賦<114―(1)>31分割68回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1038 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3738
張 衡ちょう こう(78年 - 139年)は後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。字は平子。南陽郡西鄂県(現河南省南陽市臥竜区石橋鎮)の人。没落した官僚の家庭に生まれた。祖父張堪は地方官吏だった。青年時代洛陽と長安に遊学し、太学で学んだ。永元十四年(102年)、張衡24歳の時,南陽郡守の幕僚(南陽郡主簿)となった。永初元年(107年)には、29歳で洛陽を描いた「東京賦」と長安を描いた「西京賦」を著した(これらを総称して「二京賦」という)。当初は南陽で下級官吏となった。永初五年(111年)、張衡34歳の時、京官の郎中として出仕した。元初三年(116年)張衡38歳の時、暦法機構の最高官職の太史令についた。建光二年(122年),公車馬令に出任した。永建三年から永和元年(128年-136年)の間、再び太史令を勤めた。最後は尚書となった。
30歳くらいで、天文を学び始め、「霊憲」「霊憲図」「渾天儀図注」「算網論」を著した。彼は歴史と暦法の問題については一切妥協しなかった為、当時争議を起こした。順帝の時代の宦官政治に我慢できず、朝廷を辞し、河北に去った。南陽に戻り、138年に朝廷に招聘されたが、139年に死去した。文学作品としては他に、「帰田賦」、「四愁詩」、「同声歌」がある。
西京賦 (1)#1-1
(西京二百有余年の豪華を王室中心に述べる。作者、張衡はこれを憑虚公子にうたわせる。)
有憑虛公子者,心奓體忲,
憑虚公子と称する者がいる。気ぐらいも高く態度は横柄である。
雅好博古,學乎舊史氏,是以多識前代之載。
それに、つねに広く昔の故事を好み、太史に教えを受ける。そのため、前代の史実をたくさん心得ている。
言於安處先生曰:
その公子が安処先生に向かって口を開く。
夫人在陽時則舒,在陰時則慘,此牽乎天者也。
「そもそも、人は春や夏は日が長くのびのびするものであるが、秋や冬は昼が短くみじめである。これは天に影響されるからです。」
(2) #1-2
處沃土則逸,處瘠土則勞,此繫乎地者也。
慘則尠於驩,勞則褊於惠,能違之者寡矣。
小必有之,大亦宜然。
故帝者因天地以致化,兆人承上教以成俗,
化俗之本,有與推移。
(3) #1-3
何以覈諸?秦據雍而強,周即豫而弱,
高祖都西而泰,光武處東而約,
政之興衰,恆由此作。
先生獨不見西京之事歟?請為吾子陳之︰
憑虛公子という者有り,心 奓【おご】り體 忲【おご】り,
雅【つね】に博古を好んで,舊史氏に學び,是を以て多く前代の載【こと】を識る。
安處【あんしょ】先生に言って曰く:
夫れ人 陽時に在りては則ち舒【やす】く,陰時に在りては則ち慘【うれ】い,此れ天に牽かるる者也。
(2) #1-2
沃土に處れば則ち逸【やす】く,瘠土【せきど】に處れば則ち勞【つか】り,此れ地に繫【ひ】かるる者也。
慘【うれ】うれば則ち驩に尠【すくな】く,勞【つか】るれば則ち惠に褊【すく】なし,能く之に違う者寡【すく】なし。
小なるは必ず之に有り,大なるは亦た宜しく然るべし。
故に帝者は天地に因りて以て化を致し,兆人は上教を承けて以て俗を成す。
化俗の本,與【とも】に推し移る有り。
(3) #1-3
何を以てか諸【これ】を覈【あきらか】にする?秦は雍に據りて強く,周は豫に即【つ】きて弱し。
高祖は西に都して泰【やす】く,光武は東に處りて約なり。
政【まつりごと】の興衰は,恆【つね】に此に由りて作る。
先生 獨り西京の事を見ずや?請う 吾子の為に之を陳べん。
『西京賦』 現代語訳と訳註
(本文) (1)#1-1
西京賦
有憑虛公子者,心奓體忲,
雅好博古,學乎舊史氏,是以多識前代之載。
言於安處先生曰:夫人在陽時則舒,
在陰時則慘,此牽乎天者也。
(下し文)
憑虛公子という者有り,心 奓【おご】り體 忲【おご】り,
雅【つね】に博古を好んで,舊史氏に學び,是を以て多く前代の載【こと】を識る。
安處【あんしょ】先生に言って曰く:
夫れ人 陽時に在りては則ち舒【やす】く,陰時に在りては則ち慘【うれ】い,此れ天に牽かるる者也。
(現代語訳)
(西京二百有余年の豪華を王室中心に述べる。作者、張衡はこれを憑虚公子にうたわせる。)
憑虚公子と称する者がいる。気ぐらいも高く態度は横柄である。
それに、つねに広く昔の故事を好み、太史に教えを受ける。そのため、前代の史実をたくさん心得ている。
その公子が安処先生に向かって口を開く。
「そもそも、人は春や夏は日が長くのびのびするものであるが、秋や冬は昼が短くみじめである。これは天に影響されるからです。」
(訳注)
(1)#1-1
西京賦
(西京二百有余年の豪華を王室中心に述べる。作者、張衡はこれを憑虚公子にうたわせる。)
〇張平子 (78年 - 139年)は後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。字は平子。南陽郡西鄂県(現河南省南陽市臥竜区石橋鎮)の人。三輔、京師に遊び、五経・六芸に通じ、天文・歴算・陰陽などに詳しく、安帝・順帝に仕え尚書となる。西京、東京の二篇は永元年間に作られた。でき上がるまで十年を要した(『後漢書』本伝)。本伝に「永元中、天下承平日久しく、王公より以下移【おごり】をこえざるはなし。衡乃ち班固の両都に擬して二京の賦を作り、以て諷諌す。」とある。永元は和帝の年号。十五年間続く。この末年ごろにはできあがっていたか。孫文青氏の「張衡年譜」では安帝の永初元年、三十歳のころに完成したという。
有憑虛公子者,心奓體忲,
憑虚公子と称する者がいる。気ぐらいも高く態度は横柄である。
〇憑虚公子 薛綜の注に「憑は依託なり。虚は無なり。この公子有る無きなり」とある。無有公子と同じ。仮託の人物。なお「二京の賦」には薛綜(三国時代の呉の文人)の注がある。李善はその妥当なものを残したという。
〇体 行い。
雅好博古,學乎舊史氏,是以多識前代之載。
それに、つねに広く昔の故事を好み、太史に教えを受ける。そのため、前代の史実をたくさん心得ている。
〇旧史氏 太史。図典〔地凶経典)を掌り、古く三代の旧官の意。 『後漢書』の百官志によれは天時、星暦を掌るとある。図典の語は楊雄の劇秦美新の作にも見える。古記録の意。
言於安處先生曰:
その公子が安処先生に向かって口を開く。
〇安処先生 無有先生と同じ。いずこに処らんやの意。
夫人在陽時則舒,在陰時則慘,此牽乎天者也。
「そもそも、人は春や夏は日が長くのびのびするものであるが、秋や冬は昼が短くみじめである。これは天に影響されるからです。」
〇陽時 春夏、陰時の秋冬に対す。
〇舒 快適、楽しい。