漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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李白詩全集 卷二

744年年44歳-10李太白集74巻二15 行路難三首 其三 #2 424-#2Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-10【56首】Ⅰ李白詩1791 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7495

李白  行路難三首 之三#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

君不見中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍したとして、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

李太白集巻一44

行路難三首 其三

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7485

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-9

423 <1000

 

 

 
  2016年3月17日 の紀頌之5つのBlog  
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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李太白集分類補註巻三

          宋 楊齊賢 集註  元 蕭士贇 補註 (編集紀頌之)

  行路難,三首之三   其三此首一/作古興

#1

有耳莫洗潁川水、有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名、何用孤髙比雲月。

吾觀自古賢達人、功成不退皆殞身。子胥既棄江上、屈原終投湘水濵。

・潁川水 髙士傳 許由耕於中岳、潁水之陽、箕山之下。 堯召為九州長。由不欲聞之、洗耳于潁水濵

・首陽蕨 史記 武王 巳平殷亂、天下宗周。而伯夷叔齊恥之、義、不食周粟、隠于首陽山 採薇而食之、索隠曰薇蕨也。

梁書 阮孝緒傳 周徳雖興夷齊不厭薇蕨、漢道方盛 黄綺無悶山林薇蕨

本二草而古人亦多混稱、太白改、以叶韻、葢有自也  

・子胥既棄江上 /越春秋 王聞子胥之怨恨也、乃使人賜屬鏤之劍。子胥 伏劍而死。王 取子胥尸、盛以夷之器投之於江/中。子胥 因隨流揚波、依潮來往、蕩激崩岸。

・屈原終投湘水濵 拾遺記 屈原 以忠見斥、隠於沅湘、披榛、茹草、混同禽獸、不交世、務採/栢實、以和桂膏、用養心神。被王逼逐、乃赴清泠之水。楚人思慕、謂之水仙。其神 于天河、精靈時降湘浦。

#2

陸機雄才豈自保、李斯税駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞、上蔡蒼鷹何足道。

君不見呉中張翰稱、一作/達生秋風忽憶江東。行且樂生前一杯、酒何須身後千載名。

・陸機雄才豈自保 晉書 成都王穎 起兵討長沙王乂、假陸機後將軍河北大都督、督北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人、戰/於鹿苑。機軍、大敗。宦人孟玖、譖機于穎、言其有異志。穎 怒、使秀、收機。機 釋戎服、著白與秀相見神色自若、既而嘆曰、華亭鶴唳、豈可復聞乎。遂遇害于軍中。

世説 註 八王故事 曰 「華亭、由拳縣郊外墅也。有清泉茂林。/平後、陸機兄弟共于此十餘年。」語林曰、機為河北都督。聞警角之聲、謂孫丞曰、聞此不如華亭鶴唳、故臨/刑而有此嘆説文唳鶴鳴也。

李斯税駕苦不早 史記 「李斯為丞相、長男由、為三川守、諸男、皆尚秦公主、女悉嫁秦諸公子。李由、告歸咸陽、李斯置酒於家、百官長、皆前為門庭車騎、以千數。 李斯、喟然嘆曰、「吾聞之荀卿、曰、物禁太盛。夫斯乃上蔡布衣、閭巷黔首、上、不知其駑下、遂遷擢至此。當今、人臣之位、無居臣上者、可謂富貴極矣。物極則衰、吾未知所税駕也。

索隠曰 税駕猶解駕、言休息也。李斯言 巳 今日富貴、已 極未知向後、吉凶止泊、在何處也。

太平御覽  “史記曰「李斯臨刑、思牽黄犬、臂蒼鷹、出上蔡東門不可得矣。考今本 史記 李斯傳中、無臂蒼鷹、字而太白詩中、屢用、其事 當另有所本。

・張翰 晉書 張翰字季鷹人也。有清才、善屬文、而、縱任不拘。齊王冏、辟為大司馬東曹掾。冏、時執權。翰、因見秋風起、乃思中菰菜蓴羮鱸魚膾曰、人生、貴得適志、何能羇宦數千里、以要名爵乎。遂命駕而歸。俄而冏敗。人皆謂之見機。翰、任心自適、不求當世。或謂之曰、卿乃可縱適一時、獨不為身後名耶。荅曰、使我有身後名、不如即時一杯酒。時人貴其曠達。」

 

 

 

 

-372-74巻二15 行路難三首 其三  (有耳莫洗潁川水,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六二  12-3

文體:

樂府

李太白集 

02-15

 

 

詩題:

行路難三首 其三

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

首陽山 (都畿道 河南府偃師別名:西山 

上蔡 (河南道 豫州 上蔡)   

交遊人物:

 

 

 

 

 

-372-74巻二15 行路難三首 其三  (有耳莫洗潁川水,) 

行路難,三首之三 #1

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨

才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。
含光混世貴無名,何用孤高比雲月。

老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。

吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。

自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。

子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。

呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。
#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。

あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。
華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。
君不見張翰稱達生,秋風忽憶江東行。

君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。
且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍したとして、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

 

(行路難,三首の三)

耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨。

光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを。

吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損【おと】す。

子胥は既に棄てらる呉江の上【ほとり】 屈原は終に投ず湘水の浜。

 

陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ。

華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道【い】うに足らむ。

君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く。

且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須【もちひ】るや。

 

李白の足跡0000 

 

『行路難,三首之三』 現代語訳と訳註解説

(本文)#2

#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。

華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

君不見中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。

且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

(含異文) 有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名,何用孤高比雲月。吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。陸機雄才豈自保【陸機才多豈自保】,李斯駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。君不見中張翰稱達生【君不見中張翰真達生】,秋風忽憶江東行。且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

 

(下し文)

#2

陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ。

華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道【い】うに足らむ。

君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く。

且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須【もちひ】るや。

 

(現代語訳)

あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。
陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。
君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。
先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍したとして、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

 

汜水関などの地図 

(訳注) #2

行路難,三首之三 #2

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

1】      行路難 もとは漢代の歌謡。のち晋の袁山松という人がその音調を改変し新らしい歌詞をつくり、一時流行した。六朝の飽照の楽府に「擬行路難」十八首がある。 「行路難」はみずからの人生行路の困難を詠う。「行路難し 行路は難し、岐路多くして、今安にか在る」と悲鳴をあげながらも、「長風浪を破る 会に時有るべし」と将来に期待を寄せたい李白は三首つくった。

 

 

陸機雄才豈自保 李斯駕苦不早 
あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。

【6】   陸 機 (りくき261- 303年)は、中国三国時代から西晋の文学者・政治家・武将。字は士衡。呉の四姓(朱・張・顧・陸)の一つである陸氏の出身。祖父は陸遜。父は陸抗。子は陸蔚、陸夏。本籍は呉郡呉県(今の江蘇省蘇州市)。ただし家は呉の都建業(現在の江蘇省南京市)の南や、祖父の封地であった華亭(雲間とも。現在の上海市松江区)等にあったようである。父と共に呉に仕えて牙門将となった。天紀4年(280年)、晋との戦いで二人の兄の陸晏と陸景を失い、間もなく祖国も滅亡したため、故郷に引退する。この滅亡に憤慨して『弁亡論』を著した。やがて、説得に応じて弟と共に晋に仕官する事になった。既に陸機の文名は洛陽にも伝わっていたため、高官である張華は「呉討伐の戦果は、この二人の俊才を得たことだ」と言ったといわれている。その後、太子洗馬・著作郎を務めて、恵帝の治世下でも順調に出世を続けた。だが、次第に八王の乱の混乱に巻き込まれていく事になる。太安28月穎は洛陽で実権を握っていた長沙王司馬乂討伐を決意すると、彼は陸機の能力を評価して平原相・後将軍・河北大都督に任命、陸機は洛陽に向かって進撃したが、彼自身は祖父や父ほど将才に優れていなかった事に加え、配下達も「呉の降将」として彼を蔑んだ事もあって、十分な指揮が執れず、10月に洛陽城の建春門の攻防において大敗してしまった。謀反の疑いで処刑されてしまった。この時、陸機の二人の息子と、弟の陸雲・陸耽までもが連座して殺され、陸遜直系の子孫は断絶となった。《晉書》「成都王穎 起兵討長沙王乂、假陸機後將軍河北大都督、督北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人、戰/於鹿苑。機軍、大敗。宦人孟玖、譖機于穎、言其有異志。穎 怒、使秀、收機。機 釋戎服、著白、與秀相見神色自若、既而嘆曰、華亭鶴唳、豈可復聞乎。遂遇害于軍中。」(成都王穎、兵を起して長沙王乂を討ち、陸機に後將軍河北大都督を假し、北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人を督して、鹿苑に戰う。機の軍、大いに敗る。宦人孟玖、機を穎に譖して、其の異志有るを言う。穎 怒り、秀をして、機を收めしむ。機 戎服を釋き、白著け、秀と相い見て神色自若、既に而て嘆じて曰く、華亭の鶴唳、豈に復た聞く可けんや。遂に害に軍中に遇う。)とある。《世説》の註に八王の乱の故事をひいて曰う、「華亭、由拳縣郊外墅也。有清泉茂林。/平後、陸機兄弟共于此十餘年。」(華亭は、由拳縣の郊外の墅なり。清泉茂林有り。 平ぐ後、陸機兄弟、共に此にぶこと十餘年。)とあり、つづいて語林曰く、「機為河北都督。聞警角之聲、謂孫丞曰、聞此不如華亭鶴唳、故臨/刑而有此嘆説文唳鶴鳴也。」(機 河北都督と為る。警角の聲を聞き、孫丞に謂うて曰く、聞けば此れ華亭の鶴唳に如しかず、故に刑にんで此れ嘆説の文有り唳するは鶴鳴なり。)と讒言によって、一族は絶えた。

【7】   李 斯(り し? - 紀元前208年)儒家中国秦代の宰相。法家にその思想的基盤を置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。・李斯税駕苦不早 《史記》に「李斯為丞相、長男由、為三川守、諸男、皆尚秦公主、女悉嫁秦諸公子。李由、告歸咸陽、李斯置酒於家、百官長、皆前為。門庭車騎、以千數。 李斯、喟然嘆曰、『吾聞之荀卿』、曰、『物禁太盛。』夫斯乃上蔡布衣、閭巷黔首、上、不知其駑下、遂遷擢至此。當今、人臣之位、無居臣上者、可謂富貴極矣。物極則衰、吾未知所税駕也。」(李斯丞相と為り、長男は由、三川の守と為り、諸男、皆 秦の公主を尚し、女は悉く秦の諸公子に嫁す。李由、咸陽に告歸するるや、李斯 家に置酒し、百官の長、皆 前んで為す門庭車騎、以。 李斯、喟然として嘆じて曰く、『吾 之を荀卿に聞く』、曰く、『物は太はだ盛んなるを禁ず。』と。夫れ 斯 乃ち上蔡の布衣、閭巷の黔首、上、其の駑下を知らず、遂に遷た擢んで此に至る。當今、人臣の位、臣の上に居る者無し、富貴極れりと謂う可し。物極まれば則ち衰う、吾 未だ税駕する所を知らざるなり。)とあり、索隠は曰う「税駕猶解駕、言休息也。李斯言 巳 今日富貴、已 極未知向後、吉凶止泊、在何處也。」(税駕、言休息なり。李斯の言は 巳、今日富貴、已に 極り未だ向後を知らず、吉凶 止泊し、何處に在らんや。)とある。太平御覽に《史記》を引いて“史記曰「李斯臨刑、思牽黄犬、臂蒼鷹、出上蔡東門不可得矣。」(史記に曰う「李斯 刑に臨み、黄犬を牽き、蒼鷹を臂し、上蔡の東門を出んと思えども得可からず。)とあり、蕭士贇の補註に「考今本史記李斯傳中無臂蒼鷹字而太白詩中屢用其事 當另有所本。」(今、この本を考えるに、《史記 李斯傳》中に、「臂蒼鷹」の字は無く、而して太白詩中、屢しば用いたのは、其の事 當に另の本づく所が有ったということである。

 

華亭鶴唳何可聞 上蔡蒼鷹何足道 
陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。

【8】   華亭県(かてい-けん)は中華人民共和国甘粛省平涼市に位置する県。県人民政府の所在地は東華鎮。華亭県は東は崇信県、西は庄浪県、寧夏回族自治区の涇源県、南は張家川回族自治県と陝西省隴県、北は崆峒區に隣接する。

【9】   上蔡県(じょうさい-けん)は中華人民共和国河南省の駐馬店市に位置する県。
 

君不見呉中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。
君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。

【10】 張翰 昔、晋の張翰が、秋風に故郷である呉の菰菜(こさい)、蓴羹(じゅんさいのあつもの)、鱸魚膾(すずきのなます)を思い出し、それを食べたい一念で官を辞して故郷へ帰った。この後、すぐ世が乱れた。人々は、世の乱れを察していた張翰が故郷の味を口実に先手を打ったのだと思ったという逸話。李白「秋荊門を下る」

《晉書》に「張翰字季鷹人也。有清才、善屬文、而、縱任不拘。齊王冏、辟為大司馬東曹掾。冏、時執權。翰、因見秋風起、乃思中菰菜蓴羮鱸魚膾曰、『人生、貴得適志、何能羇宦數千里、以要名爵乎。』遂命駕而歸。俄而冏敗。人皆謂之見機。翰、任心自適、不求當世。或謂之曰、卿乃可縱適一時、獨不為身後名耶。荅曰、使我有身後名、不如即時一杯酒。時人貴其曠達。」(張翰、字は季鷹、郡の人なり。清才有り、善く文を屬す、而かも、縱任拘らず。齊王の冏、辟して大司馬、東曹掾と為す。冏、時に權を執る。翰、秋風の起る見るに因って、乃ち中の菰菜、蓴羮、鱸魚の膾を思うて曰く、『人生、適志を得るを貴ぶ、何ぞ能く羇宦數千里、以て名爵を要せんや。』と。遂に駕を命じ、而して歸る。俄にして 冏 敗る。人 皆 之を『機を見る』と謂う。翰は心に任せて自適し、當世に求めず。或いは之に謂ううて曰く、『卿は乃ち縱とい一時に適す可きも、獨り身後の名を為さざるか。』と。荅えて曰く、『我をして身後の名を有らしむも、即時一杯の酒に如かず。』と。時人 其の曠達を貴ぶ。とある。 

且樂生前一杯酒,何須身後千載名。
先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍しても、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

【11】   【解説】行路難ということ、第一首は、黄河の氷、大行山脈の雪、であった。第二首は、才のある明主に遭わないことであった。この第三首において、行路難の極みをいうが、それは「張翰稱達生」であり,「秋風忽憶江東行」でもって理想的行動、行路としている。行路は難であれ、「千載名」よりも、張翰のごとく「樂生前一杯酒」を大切にするということである。

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李白  行路難三首 之三

有耳莫洗潁川水、有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名、何用孤髙比雲月。

吾觀自古賢達人、功成不退皆殞身。子胥既棄江上、屈原終投湘水濵。

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三  才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。

自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。 

李太白集巻一44

行路難三首 其三 #1

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56-9

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-372-74巻二15 行路難三首 其三  (有耳莫洗潁川水,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六二  12-3

文體:

樂府

李太白集 

02-15

 

 

詩題:

行路難三首 其三

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

首陽山 (都畿道 河南府偃師別名:西山 

上蔡 (河南道 豫州 上蔡)   

交遊人物:

 

 

 

 

 

李太白集分類補註巻三

          宋 楊齊賢 集註  元 蕭士贇 補註 (編集紀頌之)

  行路難,三首之三   其三此首一/作古興

#1

有耳莫洗潁川水、有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名、何用孤髙比雲月。

吾觀自古賢達人、功成不退皆殞身。子胥既棄江上、屈原終投湘水濵。

・潁川水 髙士傳 許由耕於中岳、潁水之陽、箕山之下。 堯召為九州長。由不欲聞之、洗耳于潁水濵

・首陽蕨 史記 武王 巳平殷亂、天下宗周。而伯夷叔齊恥之、義、不食周粟、隠于首陽山 採薇而食之、索隠曰薇蕨也。

梁書 阮孝緒傳 周徳雖興夷齊不厭薇蕨、漢道方盛 黄綺無悶山林薇蕨

本二草而古人亦多混稱太白改以叶韻葢有自也  

・子胥既棄江上 /越春秋 王聞子胥之怨恨也、乃使人賜屬鏤之劍。子胥 伏劍而死。王 取子胥尸、盛以夷之器投之於江/中。子胥 因隨流揚波、依潮來往、蕩激崩岸。

・屈原終投湘水濵 拾遺記 屈原 以忠見斥、隠於沅湘、披榛、茹草、混同禽獸、不交世、務採/栢實、以和桂膏、用養心神。被王逼逐、乃赴清泠之水。楚人思慕、謂之水仙。其神 于天河、精靈時降湘浦。

#2

陸機雄才豈自保、李斯税駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞、上蔡蒼鷹何足道。

君不見呉中張翰稱、一作/達生秋風忽憶江東。行且樂生前一杯、酒何須身後千載名。

・陸機雄才豈自保 晉書 成都王穎 起兵討長沙王乂、假陸機後將軍河北大都督、督北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人、戰/於鹿苑。機軍、大敗。宦人孟玖、譖機于穎、言其有異志。穎 怒、使秀、收機。機 釋戎服、著白與秀相見神色自若、既而嘆曰、華亭鶴唳、豈可復聞乎。遂遇害于軍中。

世説 註 八王故事 曰 「華亭、由拳縣郊外墅也。有清泉茂林。/平後、陸機兄弟共于此十餘年。」語林曰、機為河北都督。聞警角之聲、謂孫丞曰、聞此不如華亭鶴唳、故臨/刑而有此嘆説文唳鶴鳴也。

李斯税駕苦不早 史記 「李斯為丞相、長男由、為三川守、諸男、皆尚秦公主、女悉嫁秦諸公子。李由、告歸咸陽、李斯置酒於家、百官長、皆前為門庭車騎、以千數。 李斯、喟然嘆曰、「吾聞之荀卿、曰、物禁太盛。夫斯乃上蔡布衣、閭巷黔首、上、不知其駑下、遂遷擢至此。當今、人臣之位無居臣上者可謂富貴極矣物極則衰吾未知所税駕也。」

索隠曰 税駕猶解駕言休息也。李斯言 巳 今日富貴、已 極未知向後、吉凶止泊、在何處也。

太平御覽  “史記曰「李斯臨刑、思牽黄犬、臂蒼鷹、出上蔡東門不可得矣。考今本 史記 李斯傳中、無臂蒼鷹、字而太白詩中、屢用、其事 當另有所本。

・張翰 晉書 張翰字季鷹人也。有清才、善屬文、而、縱任不拘。齊王冏、辟為大司馬東曹掾。冏、時執權。翰、因見秋風起、乃思中菰菜蓴羮鱸魚膾曰、人生、貴得適志、何能羇宦數千里、以要名爵乎。遂命駕而歸。俄而冏敗。人皆謂之見機。翰、任心自適、不求當世。或謂之曰、卿乃可縱適一時、獨不為身後名耶。荅曰、使我有身後名、不如即時一杯酒。時人貴其曠達。」

 


行路難,三首之三 #1

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。

才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。
含光混世貴無名,何用孤高比雲月。

老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。

吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。

自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。

子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。

呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。
#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。

華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

君不見中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。

且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

 

(行路難,三首の三)

耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨。

光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを。

吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損【おと】す。

子胥は既に棄てらる呉江の上【ほとり】 屈原は終に投ず湘水の浜。

 

陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ。

華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道【い】うに足らむ。

君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く。

且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須【もちひ】るや。

 

(含異文)      有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名,何用孤高比雲月。吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。陸機雄才豈自保【陸機才多豈自保】,李斯駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。君不見中張翰稱達生【君不見中張翰真達生】,秋風忽憶江東行。且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

 

洛陽 函谷関 嵩山005 

『行路難,三首之三』 現代語訳と訳註解説

(本文)

行路難,三首之三 #1

有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。

含光混世貴無名,何用孤高比雲月。

吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。

子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。

 

(下し文)

(行路難,三首の三)

耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨。

光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを。

吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損【おと】す。

子胥は既に棄てらる呉江の上【ほとり】 屈原は終に投ず湘水の浜。

 

(現代語訳)

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。
老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。

自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。

呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。
李白の足跡0000

(訳注)

行路難,三首之三 #1

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

1 行路難 もとは漢代の歌謡。のち晋の袁山松という人がその音調を改変し新らしい歌詞をつくり、一時流行した。六朝の飽照の楽府に「擬行路難」十八首がある。 「行路難」はみずからの人生行路の困難を詠う。「行路難し 行路は難し、岐路多くして、今安にか在る」と悲鳴をあげながらも、「長風浪を破る 会に時有るべし」と将来に期待を寄せたい李白は三首つくった。

 

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李白  烏棲曲

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。 東方漸高奈樂何。

(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)  呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

李太白集巻一44

烏  棲  曲

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7485

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-9

423 <1000

 

 
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-371-6502-06楽府烏棲曲  (姑蘇臺上烏棲時,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六二  06

文體:

樂府

李太白集 

02-06

 

 

詩題:

烏棲曲

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 姑蘇台

 

交遊人物:

 

 

 

 

 

-371-6502-06楽府烏棲曲  (姑蘇臺上烏棲時,) 

  卷162_6 《烏棲曲》李白 

烏棲曲

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。

歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。 

東方漸高奈樂何。 


烏棲曲 
烏棲の曲。(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。 
呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。

歌楚舞歡未畢、青山猶銜半邊日。 

歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。

銀箭金壺漏水多、起看秋月墜江波。 
そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。

東方漸高奈樂何。

はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

(烏棲曲)

姑蘇の臺上 烏棲む時、呉王の宮裏 西施を酔わしむ。
呉歌 楚舞 歓び未だ畢らず、青山 猶お銜まんと欲す、半邊の日。
銀箭 金壷 漏水多し、起って看る 秋月の江波に墜つるを。
東方漸く高く 楽しみを奈何。


大明宮の圖003
『烏棲曲』現代語訳と訳註解説
(
本文)

烏棲曲

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。

歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。

東方漸高奈樂何。

(下し文)
(烏棲曲)

姑蘇の臺上 烏棲む時、呉王の宮裏 西施を酔わしむ。

呉歌 楚舞 歓び未だ畢らず、青山 猶お銜まんと欲す、半邊の日。

銀箭 金壷 漏水多し、起って看る 秋月の江波に墜つるを。

東方漸く高く 楽しみを奈何。

(現代語訳)
烏棲曲(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)

呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。

歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。

そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。

はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

霓裳羽衣舞002
(訳注) 

烏棲曲

(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)

1 烏棲曲 梁簡文帝、梁の元帝、蕭子顯、並びに此の題有り之を作る。《樂府詩集巻四十八》に「清商曲辞、西曲歌」の歌中に烏夜啼を列して後よりなる。男女の歓楽を詠うものが多い。また、李白詩に、これに倣った「大堤曲」「襄陽歌」「丁都護歌」「荊州歌」「採連曲」などある。

2 本事詩に李白初めて蜀より京師に至る。賀知章は其の烏棲曲を見て嘆賞苦吟し、曰く「此詩可以泣鬼神矣」。或は言う「是烏夜啼二篇、未だ孰是を知らん。」とある。

3 蕭士贇は「この樂府は然り深く國風諷刺の體を得り、盛んに其の美を言うて、美ならざる者、自ら見わる。」という。

 

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。

呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。

4 姑蘇台 春秋時代の末期、呉王の開聞と夫差が、父子二代をかけて築いた姑蘇山の宮殿。現在の江蘇省蘇州市、もしくはその西南約一五キロ、横山の北がその跡とされる。16世紀に王世貞撰よってかかれた《豔異編--第五卷》に、「越王越謀滅,畜天下奇寶、美人、異味進於。殺三牲以祈天地,殺龍蛇以祠川岳。矯以江南億萬民輸為傭保。越又有美女二人,一名夷光,二名修明(即西施、鄭旦之別名),以貢於處以椒華之房,貫細珠為簾幌,朝下以蔽景,夕卷以待月。二人當軒並坐,理鏡靚妝於珠幌之,竊窺者莫不動心驚魂,謂之神人。王妖惑忘政。」(越王 越謀し滅さんとし,天下の奇寶、美人、異味を畜えて進む。三牲を殺し 以て天地を祈り,龍蛇を殺し 以て川岳を祠る。矯って以て江南億萬民を輸して傭保為らしむ。越 又た、美女二人有り,一名は夷光,二名は修明(即ち西施、鄭旦の別名である),以て貢ぐ。處らしむるに椒華の房を以てし,細珠を貫いて簾幌と為し,朝に下し 以て景を蔽い,夕に卷き以て月を待つ。二人 軒に當って並坐し,鏡を理めて珠幌の靚妝し,竊に窺うもの動心驚魂せざるは莫し,之れ神人と謂う。王 妖惑し 政を忘る。

《述異記》に王夫差築姑蘇之臺、三年乃成。周旋詰屈横亘五里、崇飾土木、殫耗人力、妓數千人、上立春宵為長夜之飲、造千石酒鍾、夫差作天池池中造青龍舟、舟中盛陳妓樂、日與西施為水嬉。」(王夫差 姑蘇之臺、三年乃る。周旋詰屈 横に亘る五里、土木を崇飾し、人力を殫耗し、妓數千人、上に春宵立てて夜の飲をし、千石の酒鍾を造り、夫差 天池を作し 池中に青龍舟を造り、舟中盛に妓樂を陳じ、日に西施と水嬉を為す。

《述異記》は、中国の南朝梁の任昉が撰したとされる志怪小説集。2巻。 ... 隋書』や『旧唐書』の「経籍志」および『新唐書』「芸文志」で著録される『述異記』10巻は、撰者を祖沖之としている。

5 呉王 夫差をさす。

6 裏  なか。

7 西施  呉王夫差の歓心を買うために、越王勾践から夫差に献上された美女。

李白8  蘇台覧古

(2)西施ものがたり

 

  

歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。

8 呉歌楚舞  呉(江蘇地方)の歌、楚(湖南・湖北地方)の舞い。ここでは、呉王の歓楽の象徴としての長江中流・下流地方の歌舞をいう。

・呉歌《樂府詩集》卷四十四引《晉書·樂志》にく「歌雜曲,並出江南。東晉已來,稍有增廣。其始皆徒歌,既而被之管弦。」とあり、呉歌は、南方の流行歌。

・楚舞 《史記留侯世家》:「高帝謂戚夫人曰:『為我楚舞,吾為若楚歌.』歌曰:「鴻鴈高飛,一舉千里。羽翮已就,橫四海。橫四海,當可奈何!雖有矰繳,尚安所施!」(鴻鵠高く飛んで、一挙に千里。羽翼すでに就って、四海を横絶す。四海を横絶すれば、 当に如何すべき。矰繳あれど、何処に施さん。)といった南方に行われた舞曲。

9 半邊日 青い山脈が、まだ太陽の半輪を衝えている。夕陽が半ば青山に沈み隠れた状態をいう。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。

そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。

10 銀箭 水時計の漏水桶に泛べる銀の箭。「箭」は時刻の目盛りを指し示すハリである。江總詩「虬水銀箭莫相催」

11 金壷 金属製の水時計の壷。鮑照詩 「金壺夕淪劉良」 註に金壺は、貯し、漏水を刻する者銅を以て之を為し、故に金壺と曰う。

12 漏水多 水時計の底から水が多く漏れる。長時間の経過を示す。夜は夜明けまでの五更に別れるので、上の桶の水が下の桶に流れ落ちてゆくので、時間の長さを水の量で表現したもの。

 

東方漸高奈樂何。

はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

13 漸高 (空が)次第に白く明るくなる。ここでは、「高」は「塙」「呆」の音通で用いられている。

14 奈楽何 (たとえ夜空が白もうとも)歓楽を尽くすことに支障はない。


(烏棲曲)

姑蘇の臺上 烏棲む時、呉王の宮裏 西施を酔わしむ。
呉歌 楚舞 歓び未だ畢らず、青山 猶お衝んと欲す、半邊の日。
銀箭 金壷 漏水多し、起って看る 秋月の江波に墜つるを。
東方漸く高く 楽しみを奈何。

 

 

 

【字解】

   烏棲曲

士贇曰樂録烏栖曲者/鳥獸三十一曲之一也

 

姑蘇臺上烏棲時呉王裏醉西施齊賢曰賀知章見/太白烏栖曲嘆賞

曰此詩可/以泣鬼神呉歌楚舞歡未畢青山欲半邊日銀箭

壺漏水多起看秋月墜江波東方漸高柰樂何士贇曰/此詩雖

只樂府然深得國風諷刺之體盛言/其美而不美者自見觀者其毋忽諸

 

 

  烏棲曲梁簡文帝梁元帝蕭子顯並有此題之作/樂府詩集列于西曲歌中烏夜啼之後

姑蘇臺上烏棲時裏醉西施歌楚舞歡未

青山欲繆本/作猶銜半邊日銀箭金壺一作金/壺丁丁漏水多起看

秋月墜江波東方漸髙奈樂何

述異記王夫差/築姑蘇之臺三年乃成周旋詰曲横亘五里崇飾土木殫耗人力官妓千/

立春宵為長夜之飲造千石酒鍾作天池池中造青龍舟舟中盛陳妓樂日與西施為水

晉書 /歌雜曲並出江南 漢書 為我楚舞 

江總詩「虬水銀箭莫」相催 鮑照詩 「金壺夕淪劉良」 註に金壺は、貯し、漏水を刻する者銅を以て之を為し、故に金壺と曰う。

本事詩に李白初めて蜀より京師に至る。賀知章は其の烏棲曲を見て嘆賞苦吟し、曰く「此詩可以泣鬼神矣」。或は言う「是烏夜啼二篇、未だ孰是を知らん。」

 

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李白  效古,二首之一 #3

清歌弦古曲,美酒沽新豐。快意且為樂,列筵坐群公。

光景不可留,生世如轉蓬。早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

そこで、清歌を斉唱し、古曲を弾じしめ、新豊の美酒を買い集められる。心ゆくばかりに、楽しみを縦いまにし、宴の四座には羣公を坐せしめ、もろともに打興じているのである。しかし、この楽しみのすべての光景は、決して久しく留まることができず、この世に在る間は、轉蓬の如く、行方定めぬものである。顧みれば、出世早達は大器晩成に勝り、人は、是非とも、年の若い内に出身せねばならぬもので、かの磻渓に釣を垂れた太公望に比せられるを羞ずるというので、これが世俗の見解である。

李太白集巻二三02

效古,二首之一 #3

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Index-23

743年天寶二年43歳 

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年:天寶二年43歳 94-81

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    效古,二首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:大明宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:永安宮、蓬萊宮、含元殿、蓬萊殿  

銀臺門 (京畿道 京兆府 長安)           

新豐 (京畿道 京兆府 新豐)              

交遊人物/地點:  

詩文:

 

效古,二首之一 #1

古詩の體に倣ったという詩

朝入天苑中,謁帝蓬萊宮。

朝に禁苑の中に入り、蓬莱宮に於いて天子に謁見した。

青山映輦道,碧樹搖蒼空。

終南の山色は、御輦の通行する路に映じ、碧樹は煙れる空に揺き、まことに長閑かなものでめでたいものである有様で、さすがに、太平の気象である。

謬題金閨籍,得與銀臺通。

かくて、誤って、金馬門に籍を置くことになり、そこへ行く道は、右銀臺門と通じ、布衣の身を以て、九重の城闕に出入するを得たる有り難きものである。

#2

待詔奉明主,抽毫頌清風。

身は、翰林に待詔となって、聖明の主に供奉し、筆を抜いて、清風の風雅頌などを作るを事として居た。

歸時落日晚,躞蹀浮雲驄。

それから、退朝する時は、すっかり日が落ちて晩になってからであったし、静かに名馬を歩ませたのだ。

人馬本無意,飛馳自豪雄。

人馬ともに意なきものから、その飛び馳する様は、豪雄を極めて居たものである。

入門紫鴛鴦,金井雙梧桐。

金門から入ると、太液池中には紫鴛鴦が戯れて居るし、天子の寝殿の金井には、梧桐の木が二株植えてある。

#3

清歌弦古曲,美酒沽新豐。

そこで、清歌を斉唱し、古曲を弾じしめ、新豊の美酒を買い集められる。

快意且為樂,列筵坐群公。

心ゆくばかりに、楽しみを縦いまにし、宴の四座には羣公を坐せしめ、もろともに打興じているのである。

光景不可留,生世如轉蓬。

しかし、この楽しみのすべての光景は、決して久しく留まることができず、この世に在る間は、轉蓬の如く、行方定めぬものである。

早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

顧みれば、出世早達は大器晩成に勝り、人は、是非とも、年の若い内に出身せねばならぬもので、かの磻渓に釣を垂れた太公望に比せられるを羞ずるというので、これが世俗の見解である。

 

(古に效う,二首の一) #1

朝に天苑の中に入り,帝に謁す 蓬萊宮。

青山 輦道に映り,碧樹 蒼空に搖く。

謬って金閨の籍に題し,銀臺と通ずるを得たり。

#2

待詔 明主に奉じ,毫を抽て清風を頌す。

歸時 落日晚く,躞蹀 浮雲の驄。

人馬 本と意無く,飛馳 自ら豪雄。

門に入れば 紫鴛鴦,金井 雙梧桐。
#3

清歌 古曲を弦じ,美酒 新豐を沽う。

快意 且つ樂を為し,列筵 群公を坐せしむ。

光景 留むべからず,世に生きて轉蓬の如し。

早達は 晚遇に勝る,垂釣の翁に比するを羞ず。

 

京兆地域図002 

『效古,二首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

清歌弦古曲,美酒沽新豐。

快意且為樂,列筵坐群公。

光景不可留,生世如轉蓬。

早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

(下し文)
#3

清歌 古曲を弦じ,美酒 新豐を沽う。

快意 且つ樂を為し,列筵 群公を坐せしむ。

光景 留むべからず,世に生きて轉蓬の如し。

早達は 晚遇に勝る,垂釣の翁に比するを羞ず。

(現代語訳)
#3

そこで、清歌を斉唱し、古曲を弾じしめ、新豊の美酒を買い集められる。

心ゆくばかりに、楽しみを縦いまにし、宴の四座には羣公を坐せしめ、もろともに打興じているのである。

しかし、この楽しみのすべての光景は、決して久しく留まることができず、この世に在る間は、轉蓬の如く、行方定めぬものである。

顧みれば、出世早達は大器晩成に勝り、人は、是非とも、年の若い内に出身せねばならぬもので、かの磻渓に釣を垂れた太公望に比せられるを羞ずるというので、これが世俗の見解である。


(訳注) #3

效古,二首之一 #3

古詩の體に倣ったという詩

 

清歌弦古曲,美酒沽新豐。

そこで、清歌を斉唱し、古曲を弾じしめ、新豊の美酒を買い集められる。

19 清歌弦古曲 念奴をイメージする。念奴は『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

美酒沽新豐 「新豐酒」漢唐兩代の最も有名な酒である。陝西省驪山華清宮近くにある酒の名産地。長安東北郊20kmの現・臨潼になる。王維の『少年行』に「新豐美酒斗十千,咸陽遊侠多少年。相逢意氣爲君飮,繋馬高樓垂柳邊。」とある。或いは、江蘇省太倉にある地名。李白《楊叛兒》「君歌楊叛兒,妾勸新豐酒。」

8 《楊叛兒》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 <98> Ⅰ李白詩1270 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4898

 

快意且為樂,列筵坐群公。

心ゆくばかりに、楽しみを縦いまにし、宴の四座には羣公を坐せしめ、もろともに打興じているのである。

20 列筵 宴席に身分役職により居並ぶ状況をいう。

謝靈運 《従遊京口北固應詔》 #1

玉璽誡誠信、黄屋示崇高。

事為名教用、道以神理超。

昔聞汾水遊、今見塵外鑣。

鳴笳發春渚、税鑾登山椒。

張組眺倒景、列筵矚歸潮。

(京口の北固【ほくこ】に従遊【じゅうゆう】す、詔に應ず)#1

玉璽【ぎょくじ】もて誠信【せいしん】を誡【いまし】め、黄屋【こうおく】もて崇高【すいこう】を示す。

事は名教【めいきょう】の為に用ひ、道は神理【しんり】を以て超ゆ。

昔は汾水【ふんすい】の遊を聞ぎ、今は塵外【じんがい】の鑣【ひょう】を見る。

茄を鳴らして春渚【しゅんしょ】を發し、鑾を税【と】いて山椒【さんしょう】に登る。

組を張りて倒景【とうえい】を眺め、筵を列ねて歸潮【きちょう】を矚【み】る。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<6>  従遊京口北固應詔 #1 詩集 362

 

光景不可留,生世如轉蓬。

しかし、この楽しみのすべての光景は、決して久しく留まることができず、この世に在る間は、轉蓬の如く、行方定めぬものである。

21 轉蓬  ヤナギヨモギが(根が大地から離れて)風に吹かれて、ひとつだけで、風に飛ばされてさすらうさま。日本のヨモギとは大きく異なり、風に吹かれて転がるように風に飛ばされる。(風に飛ばされて)転がってゆく蓬。飛蓬。「蓬」は、日本のヨモギとは異なる。蓬が枯れて、根元の土も風に飛ばされてしまい、根が大地から離れて、枯れた茎が輪のようになり、乾いた黄土高原を風に吹かれて、恰も紙くずが風に飛ばされるが如く回りながら、黄砂とともに流れ去ってゆく。飛蓬。孤蓬。
曹植「雑詩六首其二」
轉蓬離本根、飄颻隨長風。
何意迴飆舉、吹我入雲中。
高高上無極、天路安可窮。
類此遊客子、捐躯遠從戎。
毛褐不掩形、薇藿常不充。
去去莫復道、沈憂令人老。
また、曹植「吁嗟篇」に初句に使う。

雜詩六首其二 曹植 魏詩<19>古詩源 巻三 女性詩645 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1797

 

杜甫「野人送朱桜」
西蜀桜桃他自紅、野人相贈満筠籠。
数迴細写愁仍破、万顆匀円訝許同。
憶昨賜霑門下省、退朝擎出大明宮。
金盤玉筯無消息、此日嘗新任転蓬。

野人送朱櫻 蜀中転々 杜甫 <500  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2690 杜甫詩1000-500-732/1500

また、杜甫「客亭」最終句に使う。

紀頌之のブログ「李商隠8無題」最終語 参照

希望を持ってさすらうことを示すもので、詩の最初か最後に使われ、希望に向かう意思を示すものである。

 

早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

顧みれば、出世早達は大器晩成に勝り、人は、是非とも、年の若い内に出身せねばならぬもので、かの磻渓に釣を垂れた太公望に比せられるを羞ずるというので、これが世俗の見解である。

22 早達 出世早達のこと。《南史列傳卷四一至五十》「纘時年二十三, 善明見而嗟服。 累遷尚書吏部郎, 俄而長兼侍中, 時人以為早達。「纘、年二十二、尚書吏部郎に累遷し、俄にして、長兼侍中たり、時人以て早達となす」とある。

23 垂釣翁 王琦注「垂釣翁謂呂尚, 年八十釣於渭濱, 始遇文王。」(呂尚を謂ふ、年八十にして渭濱に釣し、はじめて文王に遇った。)とある。

秦嶺山脈終南山 

 

 

 

 

 

 

效古,二首之一 【字解】 

 

古詩の體に倣ったという詩

1 效古は、即ち古詩の體に倣ったというのであるが、その内容は、作者自身の閲歴を叙したので、わざと、此の如く題を命じたのである。

2 起首四句は、始めて天子に謁見せしこと、「謬題金閨籍」の四句は、翰林に待詔せしこと、歸時落日晩の四句は退食の模様、入門紫鴛鳶の六句は其宅に於ける逸樂の有様、光景不可留は感慨を述べたので、無論、後日の作であるが、その昔時の事として叙述を試みたのであろう。蕭士贇は「この詩、欒府富貴の體なり」といって居る。

3 天苑 禁苑に同じ。

4 蓬萊宮 唐書に「大明宮に、禁苑の東南に衣。、西・宮城の東北隅に壊す、長さ千八百歩、廉さ千八十歩、束内といふ、本と永安宮、貝翫八年に置く、九年、大明宮といひ、以て太上皇の渚薯に備ふ、百官資を献じ、以て役か助く、高宗、風痔を以て西内の漱汲む厭ひ、龍朔三年、はじめて大に興著して、蓬莱宮といひ、成亨元年、含元宮といひ、長安元年、復七大的宮といふしとある。

唐書 「大明宮,乃謂之西,神龍元年曰太極宮。大明宮在禁苑東南,西接宮城之東北隅,長千八百步,廣千八十步,曰東,本永安宮,貞觀八年置,九年曰大明宮,以備太上皇清暑,百官獻貲以助役。高宗以風痹,厭西湫濕,龍朔三年始大興葺,曰蓬萊宮,咸亨元年曰含元宮,長安元年复曰大明宮。」

長安志「東大明宮在禁苑之東南南接京城之北面西接宮城之東北隅南北五里東西三里貞觀八年置為永安宮明年改曰大明宮以備太上皇清暑百官獻貲財以助役龍朔三年大加興造號曰蓬萊宮咸亨元年改曰含元宮尋複大明宮」

5 青山 長安大明宮から180度に秦嶺山脈山脈を見るが、此処では長安の右中間による都市計画から南へ子午線上の終南山とみる。

6 輦道 夾城、閣道、輦に乗じて行くべき専用の道。

7 金閨籍 金は金門、應劭の漢書註に「籍は尺二の竹牒なり、これを宮門に懸け、案省相應じ、乃ち入るを得るなり」とある。

8 銀臺 大明宮の門の名、銀臺門の右銀臺門(金馬門)で、大明宮西壁三門の真ん中に位置し、入門して左に翰林院がある。《長安志、東内大明宮章》「西面右銀台門、侍省右藏庫、次北、翰林門翰林院學士院、又、東翰林院、北有少陽院、結鄰殿。翰林門北、曰、九仙門。」

9 待詔 1 天子の命令を待つこと。みことのりの下るのを待つこと。2 古代中国の官名。経学・文章の人を任命して、天子の詔に応じさせたもの。3 中国の宮廷の画院で最高位の画家。通鑑に「玄宗即位、はじめて翰林院を置いて、禁延に密邇し、文章の士を延き、下は僧道書畫琴棋數術の士に至るまで、皆之に處らしめ、之を待詔といふ」とある。

10 明主 賢明な君主。明君。

11 抽毫 筆箱から選んで筆をとりだす、出筆すること。抽笔出套。(抽筆出套);抽寶劍;抽刀.李白 588巻十七26宣州謝朓樓餞別校書叔云》「抽刀斷水水更流。舉杯消愁愁更愁。」(刀を抽いて水を斷てば、水更に流れ、杯を挙げて愁を消せば、愁 更に愁。)刀を抜いて水を断ち切ってみても水はそのまま流れてゆく。杯を挙げて愁いを消そうとしても愁いは愁いを重ねていく。

12 頌 人の美徳をほめたたえて詩歌にする。功徳をほめる。ほめことば。「頌歌・頌辞・頌徳・頌美」。たたえて祝う。「頌春」2 「詩経」の六義 (りくぎ) の一。宗廟 (そうびょう) で、祖先の徳をたたえる詩歌。、人君の盛徳をほめて神に告げる祭りの詩。「風雅頌・周頌・商頌」

13 清風 (穆として清風の如し)その詩は清泠の風がそよそよと吹く清風のように、人の心を和らげる。天子の恩徳を知らしめる文章を作るということ。毛伝に(清微の風は万物を化養するものなり)とあり、《詩經·蕩之什・烝民》「吉甫作誦、穆如清風。」(吉甫誦を作る、穆として清風の如し。)とあるに基づく。

14 躞蹀 1.小步行走貌。 2.徘徊。“蹀”(1).小步行走貌。《古風五十九首之二十二》「胡馬顧朔雪,躞蹀長嘶鳴。(胡馬【こば】 朔雪【さくせつ】を顧み、躞蹀【しょうちょう】として長く嘶鳴【しめい】す。)胡地の馬は故郷の朔地の山に積もった雪の向こうを振り向いて、馬に付けた鈴や玉を鳴らして、いつまでも嘶きつづけるものなのだ。

15 浮雲驄 漢の文帝の駿馬、名馬の名前であり、以後名馬を言う。

この二句は、右銀臺門から翰林院まで、静かに下馬して歩行すること、歸朝の場合も現代門を出るまで下馬のままで歩行したこと、朝廷の一員であることを意識させる、自慢の出来事である。驄は青白雜毛の馬をいう。李白〈長干行〉二首之二:「行人在何處,好乘浮雲驄。」(行人 何處にか在る、好し 浮雲の驄に乘ず。 []毛色青白相雜の馬。

16 紫鴛鴦 楽府古辞(漢時代の民謡)の中に、「鴛鴦が七十二羽、二羽ずつつがいになって、きれいにならんでいる」という意味の詩句が見える。鴛おしどりのオス。鴦おしどりの雌。

18巻一 古風五十九首其十八

七十紫鴛鴦。 雙雙戲庭幽。

282巻七 古意

上宿紫鴛鴦、若識二草心。

82823-02 效古二首其一

入門紫鴛鴦、金井雙梧桐。

831巻二十三 擬古十二首 擬古十二首其二

愿逢同心者。 飛作紫鴛鴦。

936巻二十四47代別情人

風吹綠琴去、曲度紫鴛鴦。

17 金井 後宮であろうか、高貴なところにある井戸端。擣衣、砧も意識させる。

75巻二楽府 長相思

絡緯秋啼金井闌、微霜淒淒簟色寒。

214卷六9扶風豪士歌

 梧桐楊柳拂金井、來醉扶風豪士家。

386巻十一贈別舍人弟台卿之江南

 梧桐落金井、一葉飛銀床。

626巻十八33答王十二寒夜獨酌有懷

 玉床金井冰崢嶸。 人生飄忽百年

82823-02效古二首其一

入門紫鴛鴦、金井雙梧桐。

18 梧桐 月の宮殿のつがいの鳳凰が棲むという伝説の葉。玄宗と楊貴妃の愛の巣の表現に使われる。

39巻一古風五十九首其三十九

梧桐巢燕雀、枳棘棲鴛鸞。

136巻四11 塞下曲六首 其四

摧殘梧桐葉、蕭颯沙棠枝。

214卷六9扶風豪士歌

梧桐楊柳拂金井、來醉扶風豪士家。

350卷九21 贈崔秋浦三首其一

門前五楊柳、井上二梧桐。

386巻十一贈別舍人弟台卿之江南

 梧桐落金井、一葉飛銀床。

488巻十四25將游衡岳過漢陽雙松亭留別族弟浮屠談皓

今茲大火落、秋葉黃梧桐。

515卷十五18送薛九被讒去魯

梧桐生蒺藜、綠竹乏佳實。

700巻二十14登金陵冶城西北謝安墩

梧桐識嘉樹、蕙草留芳根。

714巻二十與賈至舍人于龍興寺剪落梧桐枝望()

翦落青梧枝、浥湖坐可窺。

717巻二十秋登宣城謝()北樓

人煙寒橘柚、秋色老梧桐。

82823-02效古二首其一

入門紫鴛鴦、金井雙梧桐。

937巻二十四48代秋情

寒蟬聒梧桐、日夕長鳴悲。

漢の武帝は上林苑の建造を開始した時、群臣や遠方の諸侯の国は、各自、貴重な果実や珍しい樹木を献上し、その中には、また美しい名前の付いたものもあり、珍しくて美しいと評判であった。

梨の木十種:紫梨、青梨、(果実は大きい。)芳梨、(果実は小さい。)大谷梨、細葉梨、縹葉梨、金葉梨、(琅琊郡の王野家から出たもので、太守の王唐が献上した。)瀚海梨、(瀚海の北から出たもので、耐寒性で枯れない。)東王梨、(海中から出たもの。)紫條梨。

棗の木七種:弱枝棗、玉門棗、棠棗、青華棗、棗、赤心棗、西王棗。(崑崙山から出たもの。)

栗の木四種:侯栗、榛栗、瑰栗、嶧陽栗。(嶧陽都尉の曹龍が献上したもので、拳ぐらいの大きさ。)

桃の木十種:秦桃、桃、緗核桃、金城桃、綺葉桃、紫文桃、霜下桃、(霜が降りた後でも食べられる。)胡桃、(西域から出たもの。)櫻桃、含桃。

李の木十五種:紫李、緑李、朱李、黄李、青綺李、青房李、同心李、車下李、含枝李、金枝李、顏淵李、(魯の地から出たもの。)羌李、燕李、蠻李、侯李。

柰の木三種:白柰、紫柰、(花は紫色。)緑柰。(花は緑色。)

山査子の木三種:蠻査、羌査、猴査。

椑の木三種:青椑、赤葉椑、烏椑。

棠梨の木四種:赤棠、白棠、青棠、沙棠。

梅の木七種:朱梅、紫葉梅、紫花梅、同心梅、麗枝梅、燕梅、猴梅。

杏の木二種:文杏、(木には綾がある。)蓬萊杏。(東郡都尉の干吉が献上したもの。一本の杏の木の花には多くの種類の色が入り混じって、六枚の花辨があり、聞くところによれば仙人が食すると言われているそうだ。)

桐の木三種:椅桐、梧桐、荊桐。

林檎の木十本、枇杷の木十本、橙の木十本、安石榴の木十本、の木十本、白銀の木十本、黄銀の木十本、槐の木六百四十本、千年長生の木十本、万年長生の木十本、扶老の木十本、守宮槐の木十本、金明の木二十本、搖風の木十本、鳴風の木十本、琉璃の木七本、池離の木十本、離婁の木十本、楠の木四本、樅の木七本、白楡の木、杜の木、桂の木、蜀漆の木十本、桧の木十本、楔の木四本、楓の木四本。

743年(81)李太白集828卷23-02效古二首其一  400-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(81) Ⅰ李白詩1763 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7355

效古,二首之一 #2

待詔奉明主,抽毫頌清風。歸時落日晚,躞浮雲驄。

人馬本無意,飛馳自豪雄。入門紫鴛鴦,金井雙梧桐。
身は、翰林に待詔となって、聖明の主に供奉し、筆を抜いて、清風の風雅頌などを作るを事として居た。それから、退朝する時は、すっかり日が落ちて晩になってからであったし、静かに名馬を歩ませたのだ。人馬ともに意なきものから、その飛び馳する様は、豪雄を極めて居たものである。金門から入ると、太液池中には紫鴛鴦が戯れて居るし、天子の寝殿の金井には、梧桐の木が二株植えてある。

李太白集巻二三02

效古,二首之一 #2

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Index-23

743年天寶二年43歳 

94-81

400#11000

 

 

 
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年:天寶二年43歳 94-81

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    效古,二首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:大明宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:永安宮、蓬萊宮、含元殿、蓬萊殿  

銀臺門 (京畿道 京兆府 長安)           

新豐 (京畿道 京兆府 新豐)              

交遊人物/地點:  

詩文:

 

效古,二首之一 #1

古詩の體に倣ったという詩

朝入天苑中,謁帝蓬萊宮。

朝に禁苑の中に入り、蓬莱宮に於いて天子に謁見した。

青山映輦道,碧樹搖蒼空。

終南の山色は、御輦の通行する路に映じ、碧樹は煙れる空に揺き、まことに長閑かなものでめでたいものである有様で、さすがに、太平の気象である。

謬題金閨籍,得與銀臺通。

かくて、誤って、金馬門に籍を置くことになり、そこへ行く道は、右銀臺門と通じ、布衣の身を以て、九重の城闕に出入するを得たる有り難きものである。

#2

待詔奉明主,抽毫頌清風。

身は、翰林に待詔となって、聖明の主に供奉し、筆を抜いて、清風の風雅頌などを作るを事として居た。

歸時落日晚,躞蹀浮雲驄。

それから、退朝する時は、すっかり日が落ちて晩になってからであったし、静かに名馬を歩ませたのだ。

人馬本無意,飛馳自豪雄。

人馬ともに意なきものから、その飛び馳する様は、豪雄を極めて居たものである。

入門紫鴛鴦,金井雙梧桐。

金門から入ると、太液池中には紫鴛鴦が戯れて居るし、天子の寝殿の金井には、梧桐の木が二株植えてある。

#3

清歌弦古曲,美酒沽新豐。

快意且為樂,列筵坐群公。

光景不可留,生世如轉蓬。

早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

 

(古に效う,二首の一) #1

朝に天苑の中に入り,帝に謁す 蓬萊宮。

青山 輦道に映り,碧樹 蒼空に搖く。

謬って金閨の籍に題し,銀臺と通ずるを得たり。

#2

待詔 明主に奉じ,毫を抽て清風を頌す。

歸時 落日晚く,躞蹀 浮雲の驄。

人馬 本と意無く,飛馳 自ら豪雄。

門に入れば 紫鴛鴦,金井 雙梧桐。
#3

清歌弦古曲,美酒沽新豐。

快意且為樂,列筵坐群公。

光景不可留,生世如轉蓬。

早達勝晚遇,羞比垂釣翁。

大明宮の圖003 

 

『效古,二首之一』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

待詔奉明主,抽毫頌清風。

歸時落日晚,躞浮雲驄。

人馬本無意,飛馳自豪雄。

入門紫鴛鴦,金井雙梧桐。

(下し文)
#2

待詔 明主に奉じ,毫を抽て清風を頌す。

歸時 落日晚く,躞 浮雲の驄。

人馬 本と意無く,飛馳 自ら豪雄。

門に入れば 紫鴛鴦,金井 雙梧桐。


(現代語訳)
#2

身は、翰林に待詔となって、聖明の主に供奉し、筆を抜いて、清風の風雅頌などを作るを事として居た。

それから、退朝する時は、すっかり日が落ちて晩になってからであったし、静かに名馬を歩ませたのだ。

人馬ともに意なきものから、その飛び馳する様は、豪雄を極めて居たものである。

金門から入ると、太液池中には紫鴛鴦が戯れて居るし、天子の寝殿の金井には、梧桐の木が二株植えてある。


(訳注) #2

效古,二首之一 #2

古詩の體に倣ったという詩

 

待詔奉明主,抽毫頌清風。

身は、翰林に待詔となって、聖明の主に供奉し、筆を抜いて、清風の風雅頌などを作るを事として居た。

9 待詔 1 天子の命令を待つこと。みことのりの下るのを待つこと。2 古代中国の官名。経学・文章の人を任命して、天子の詔に応じさせたもの。3 中国の宮廷の画院で最高位の画家。通鑑に「玄宗即位、はじめて翰林院を置いて、禁延に密邇し、文章の士を延き、下は僧道書畫琴棋數術の士に至るまで、皆之に處らしめ、之を待詔といふ」とある。

10 明主 賢明な君主。明君。

11 抽毫 筆箱から選んで筆をとりだす、出筆すること。抽笔出套。(抽筆出套);抽寶劍;抽刀.李白 588巻十七26宣州謝朓樓餞別校書叔云》「抽刀斷水水更流。舉杯消愁愁更愁。(刀を抽いて水を斷てば、水更に流れ、杯を挙げて愁を消せば、愁 更に愁。)刀を抜いて水を断ち切ってみても水はそのまま流れてゆく。杯を挙げて愁いを消そうとしても愁いは愁いを重ねていく。

12 頌 人の美徳をほめたたえて詩歌にする。功徳をほめる。ほめことば。「頌歌・頌辞・頌徳・頌美」。たたえて祝う。「頌春」2 「詩経」の六義 (りくぎ) の一。宗廟 (そうびょう) で、祖先の徳をたたえる詩歌。、人君の盛徳をほめて神に告げる祭りの詩。「風雅頌・周頌・商頌」

13 清風 (穆として清風の如し)その詩は清泠の風がそよそよと吹く清風のように、人の心を和らげる。天子の恩徳を知らしめる文章を作るということ。毛伝に(清微の風は万物を化養するものなり)とあり、《詩經·蕩之什・烝民》「吉甫作誦、穆如清風。」(吉甫誦を作る、穆として清風の如し。)とあるに基づく。

 

歸時落日晚,躞蹀浮雲驄。

それから、退朝する時は、すっかり日が落ちて晩になってからであったし、静かに名馬を歩ませたのだ。

14 躞蹀 1.小步行走貌。 2.徘徊。“蹀”(1).小步行走貌。《古風五十九首之二十二》「胡馬顧朔雪,躞蹀長嘶鳴。」(胡馬【こば】 朔雪【さくせつ】を顧み、躞蹀【しょうちょう】として長く嘶鳴【しめい】す。)胡地の馬は故郷の朔地の山に積もった雪の向こうを振り向いて、馬に付けた鈴や玉を鳴らして、いつまでも嘶きつづけるものなのだ。

15 浮雲驄 漢の文帝の駿馬、名馬の名前であり、以後名馬を言う。

この二句は、右銀臺門から翰林院まで、静かに下馬して歩行すること、歸朝の場合も現代門を出るまで下馬のままで歩行したこと、朝廷の一員であることを意識させる、自慢の出来事である。驄は青白雜毛の馬をいう。李白〈長干行〉二首之二:「行人在何處,好乘浮雲驄。」(行人 何處にか在る、好し 浮雲の驄に乘ず。 []毛色青白相雜の馬。

 

人馬本無意,飛馳自豪雄。

人馬ともに意なきものから、その飛び馳する様は、豪雄を極めて居たものである。

 

入門紫鴛鴦,金井雙梧桐。

金門から入ると、太液池中には紫鴛鴦が戯れて居るし、天子の寝殿の金井には、梧桐の木が二株植えてある。

16 紫鴛鴦 楽府古辞(漢時代の民謡)の中に、「鴛鴦が七十二羽、二羽ずつつがいになって、きれいにならんでいる」という意味の詩句が見える。鴛おしどりのオス。鴦おしどりの雌。

18巻一 古風五十九首其十八

七十紫鴛鴦。 雙雙戲庭幽。

282巻七 古意

上宿紫鴛鴦、若識二草心。

82823-02 效古二首其一

入門紫鴛鴦、金井雙梧桐。

831巻二十三 擬古十二首 擬古十二首其二

愿逢同心者。 飛作紫鴛鴦。

936巻二十四47代別情人

風吹綠琴去、曲度紫鴛鴦。

17 金井 後宮であろうか、高貴なところにある井戸端。擣衣、砧も意識させる。

75巻二楽府 長相思

絡緯秋啼金井闌、微霜淒淒簟色寒。

214卷六9扶風豪士歌

 梧桐楊柳拂金井、來醉扶風豪士家。

386巻十一贈別舍人弟台卿之江南

 梧桐落金井、一葉飛銀床。

626巻十八33答王十二寒夜獨酌有懷

 玉床金井冰崢嶸。 人生飄忽百年

82823-02效古二首其一

入門紫鴛鴦、金井雙梧桐。

18 梧桐 月の宮殿のつがいの鳳凰が棲むという伝説の葉。玄宗と楊貴妃の愛の巣の表現に使われる。

39巻一古風五十九首其三十九

梧桐巢燕雀、枳棘棲鴛鸞。

136巻四11 塞下曲六首 其四

摧殘梧桐葉、蕭颯沙棠枝。

214卷六9扶風豪士歌

梧桐楊柳拂金井、來醉扶風豪士家。

350卷九21 贈崔秋浦三首其一

門前五楊柳、井上二梧桐。

386巻十一贈別舍人弟台卿之江南

 梧桐落金井、一葉飛銀床。

488巻十四25將游衡岳過漢陽雙松亭留別族弟浮屠談皓

今茲大火落、秋葉黃梧桐。

515卷十五18送薛九被讒去魯

梧桐生蒺藜、綠竹乏佳實。

700巻二十14登金陵冶城西北謝安墩

梧桐識嘉樹、蕙草留芳根。

714巻二十與賈至舍人于龍興寺剪落梧桐枝望()

翦落青梧枝、浥湖坐可窺。

717巻二十秋登宣城謝()北樓

人煙寒橘柚、秋色老梧桐。

82823-02效古二首其一

入門紫鴛鴦、金井雙梧桐。

937巻二十四48代秋情

寒蟬聒梧桐、日夕長鳴悲。

漢の武帝は上林苑の建造を開始した時、群臣や遠方の諸侯の国は、各自、貴重な果実や珍しい樹木を献上し、その中には、また美しい名前の付いたものもあり、珍しくて美しいと評判であった。

梨の木十種:紫梨、青梨、(果実は大きい。)芳梨、(果実は小さい。)大谷梨、細葉梨、縹葉梨、金葉梨、(琅琊郡の王野家から出たもので、太守の王唐が献上した。)瀚海梨、(瀚海の北から出たもので、耐寒性で枯れない。)東王梨、(海中から出たもの。)紫條梨。

棗の木七種:弱枝棗、玉門棗、棠棗、青華棗、棗、赤心棗、西王棗。(崑崙山から出たもの。)

栗の木四種:侯栗、榛栗、瑰栗、嶧陽栗。(嶧陽都尉の曹龍が献上したもので、拳ぐらいの大きさ。)

桃の木十種:秦桃、桃、緗核桃、金城桃、綺葉桃、紫文桃、霜下桃、(霜が降りた後でも食べられる。)胡桃、(西域から出たもの。)櫻桃、含桃。

李の木十五種:紫李、緑李、朱李、黄李、青綺李、青房李、同心李、車下李、含枝李、金枝李、顏淵李、(魯の地から出たもの。)羌李、燕李、蠻李、侯李。

柰の木三種:白柰、紫柰、(花は紫色。)緑柰。(花は緑色。)

山査子の木三種:蠻査、羌査、猴査。

椑の木三種:青椑、赤葉椑、烏椑。

棠梨の木四種:赤棠、白棠、青棠、沙棠。

梅の木七種:朱梅、紫葉梅、紫花梅、同心梅、麗枝梅、燕梅、猴梅。

杏の木二種:文杏、(木には綾がある。)蓬萊杏。(東郡都尉の干吉が献上したもの。一本の杏の木の花には多くの種類の色が入り混じって、六枚の花辨があり、聞くところによれば仙人が食すると言われているそうだ。)

桐の木三種:椅桐、梧桐、荊桐。

林檎の木十本、枇杷の木十本、橙の木十本、安石榴の木十本、の木十本、白銀の木十本、黄銀の木十本、槐の木六百四十本、千年長生の木十本、万年長生の木十本、扶老の木十本、守宮槐の木十本、金明の木二十本、搖風の木十本、鳴風の木十本、琉璃の木七本、池離の木十本、離婁の木十本、楠の木四本、樅の木七本、白楡の木、杜の木、桂の木、蜀漆の木十本、桧の木十本、楔の木四本、楓の木四本。

京兆地域図002 

效古,二首之一 【字解】 

 

古詩の體に倣ったという詩

1 效古は、即ち古詩の體に倣ったというのであるが、その内容は、作者自身の閲歴を叙したので、わざと、此の如く題を命じたのである。

2 起首四句は、始めて天子に謁見せしこと、「謬題金閨籍」の四句は、翰林に待詔せしこと、歸時落日晩の四句は退食の模様、入門紫鴛鳶の六句は其宅に於ける逸樂の有様、光景不可留は感慨を述べたので、無論、後日の作であるが、その昔時の事として叙述を試みたのであろう。蕭士贇は「この詩、欒府富貴の體なり」といって居る。

3 天苑 禁苑に同じ。

4 蓬萊宮 唐書に「大明宮に、禁苑の東南に衣。、西・宮城の東北隅に壊す、長さ千八百歩、廉さ千八十歩、束内といふ、本と永安宮、貝翫八年に置く、九年、大明宮といひ、以て太上皇の渚薯に備ふ、百官資を献じ、以て役か助く、高宗、風痔を以て西内の漱汲む厭ひ、龍朔三年、はじめて大に興著して、蓬莱宮といひ、成亨元年、含元宮といひ、長安元年、復七大的宮といふしとある。

唐書 「大明宮,乃謂之西,神龍元年曰太極宮。大明宮在禁苑東南,西接宮城之東北隅,長千八百步,廣千八十步,曰東,本永安宮,貞觀八年置,九年曰大明宮,以備太上皇清暑,百官獻貲以助役。高宗以風痹,厭西湫濕,龍朔三年始大興葺,曰蓬萊宮,咸亨元年曰含元宮,長安元年复曰大明宮。」

長安志「東大明宮在禁苑之東南南接京城之北面西接宮城之東北隅南北五里東西三里貞觀八年置為永安宮明年改曰大明宮以備太上皇清暑百官獻貲財以助役龍朔三年大加興造號曰蓬萊宮咸亨元年改曰含元宮尋複大明宮」

5 青山 長安大明宮から180度に秦嶺山脈山脈を見るが、此処では長安の右中間による都市計画から南へ子午線上の終南山とみる。

6 輦道 夾城、閣道、輦に乗じて行くべき専用の道。

7 金閨籍 金は金門、應劭の漢書註に「籍は尺二の竹牒なり、これを宮門に懸け、案省相應じ、乃ち入るを得るなり」とある。

8 銀臺 大明宮の門の名、銀臺門の右銀臺門(金馬門)で、大明宮西壁三門の真ん中に位置し、入門して左に翰林院がある。《長安志、東内大明宮章》「西面右銀台門、侍省右藏庫、次北、翰林門翰林院學士院、又、東翰林院、北有少陽院、結鄰殿。翰林門北、曰、九仙門。」

743年(77)李太白集694巻二十08杜陵絕句  396Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(77) Ⅰ李白詩1758 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7330

李白  杜陵句 

南登杜陵上,北望五陵間。

秋水明落日,流光滅遠山。
(長安の南には小高い少陵原があり、その北の端に杜陵がある、其処に登って北に広がる景色を絶句で述べたもの)

長安城の南にある杜陵の上に登って、そこから北のかた五陵の間を望んでみる。おりしも、秋の清らかな水は漲って、夕日はいよいよ明らかに、その川の流れに落日が反映し、流れ行くその光のなかに遠い山々が蒼茫として消えかかっている。

李太白集巻二十08 (694

杜陵

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7330

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-77

396 <1000

 

 
  2016年2月13日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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年:743年天寶二年43歳 94-77

卷別:    卷一八○              文體:    五言

詩題:    杜陵

作地點:              目前尚無資料

及地點:              杜陵 (京畿道 京兆府 萬年) 別名:杜墅、少陵             

交遊人物/地點:  

詩文:

 

杜陵

(長安の南には小高い少陵原があり、その北の端に杜陵がある、其処に登って北に広がる景色を絶句で述べたもの)

南登杜陵上,北望五陵間。

長安城の南にある杜陵の上に登って、そこから北のかた五陵の間を望んでみる。
秋水明落日,流光滅遠山。

おりしも、秋の清らかな水は漲って、夕日はいよいよ明らかに、その川の流れに落日が反映し、流れ行くその光のなかに遠い山々が蒼茫として消えかかっている。

 

(杜陵)

南、杜陵の上に登り、北に望む 五陵の間。

秋水 落日明らかに、流光 遠山滅す。

 

 

『杜陵』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

杜陵

南登杜陵上,北望五陵間。

秋水明落日,流光滅遠山。

(下し文)
(
杜陵)

南、杜陵の上に登り、北に望む 五陵の間。

秋水 落日明らかに、流光 遠山滅す。

(現代語訳)
杜陵(長安の南には小高い少陵原があり、その北の端に杜陵がある、其処に登って北に広がる景色を絶句で述べたもの)

長安城の南にある杜陵の上に登って、そこから北のかた五陵の間を望んでみる。
おりしも、秋の清らかな水は漲って、夕日はいよいよ明らかに、その川の流れに落日が反映し、流れ行くその光のなかに遠い山々が蒼茫として消えかかっている。


(訳注)

杜陵

(長安の南には小高い少陵原があり、その北の端に杜陵がある、其処に登って北に広がる景色を絶句で述べたもの)

杜陵 杜陵とは前漢の宣帝の陵墓で長安の(城郭の右下)東南にある。小高い丘の上にあり、見晴らしが良いところだ。五陵は長安の北東から北西にかけて、渭水の横門橋わたって東から陽陵(景帝)、長陵(高祖)、安陵(恵帝)、平陵(昭帝)、茂陵(武帝)と咸陽原にある。杜陵からの距離は、30km~50km。 

  元和郡縣志 「杜陵在京兆府萬年縣東南二十里」といい、胡三省鑑註に「漢の宣帝、杜陵邑を起せしより、後漢に至りて、縣となし、京兆に属す。隋、京城幷に杜陵を遷して大興縣に入る、唐、大興を改めて萬年という」とある。

  班固《西都賦》「則南望杜㶚,北眺五陵。」(則ち南に杜㶚【とは】を望み、北に五陵を眺む。南に杜陵と㶚陵の二陵をはるかに望み見て、北に長陵・安陵・陽陵・茂陵・平陵の五陵が見わたされる。杜㶚:長安のやや東よりの杜陵(漢の第八代宜帝の陵)と㶚陵(第四代文帝の陵)。(杜陵;O-8,灞陵;Q-7

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  李白《巻十二06-夕霽杜陵登樓寄韋繇》

浮陽滅霽景,萬物生秋容。登樓送遠目,伏檻觀群峰。

原野曠超緬,關河紛雜重。清暉映竹日,翠色明雲松。

蹈海寄遐想,還山迷舊蹤。徒然迫晚暮,未果諧心胸。

結桂空佇立,折麻恨莫從。思君達永夜,長樂聞疏鐘。

(夕霽 杜陵の樓に登り韋繇に寄せる)

浮陽 滅霽景をし,萬物 秋容を生ず。

樓に登りて遠目を送り,檻に伏して群峰を觀る。

原野 曠超にして緬たり,關河 紛雜にして重る。

清暉 竹日に映じ,翠色 雲松に明かなり。

海を蹈んで遐想を寄せ,山に還らんとして舊蹤に迷う。

徒然として晚暮に迫る,未だ心胸に諧【かな】うを果さず。

桂を結び 空しく佇立し,麻を折り 恨むらくは 從う莫し。

君を思うて 永夜に達し,長樂に 疏鐘を聞く。

743年(61)李太白集巻十二06-《夕霽杜陵登樓寄韋繇》 380-#2Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-61) Ⅰ李白詩1734 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7210

 

南登杜陵上,北望五陵間。

長安城の南にある杜陵の上に登って、そこから北のかた五陵の間を望んでみる。
長安付近図00赤枠は長安の城郭  この墓陵群は中国のピラミットといわれている。


五陵原(太字)という皇帝の陵墓区で、西から茂陵、康陵、義陵、渭陵延陵、平陵長陵、陽陵、安陵の9陵が並んでいる。このうち長陵は高祖・劉邦の陵、茂陵は武帝の陵である。ほとんどの皇帝陵に皇后陵が併設されており、有名な呂后の様に皇后の地位が高かったことの現れで、皇帝が西、皇后が東とされ以後これに倣ったと言われてる。。延陵の場合、右上(東北)にやや規模の小さな皇后陵が見える。また東端にある陽陵は周囲が発掘されて兵馬俑が出土、博物館として公開されている。

 

 

 

秋水明落日,流光滅遠山。

おりしも、秋の清らかな水は漲って、夕日はいよいよ明らかに、その川の流れに落日が反映し、流れ行くその光のなかに遠い山々が蒼茫として消えかかっている。
漢文委員会紀頌之タイトル 

李白334-#2 巻二28-《胡無人》 334-#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(19) <李白334-#2> Ⅰ李白詩1657 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6833

李白  胡無人 #2 

雲龍風虎盡交回,太白入月敵可摧。敵可摧,旄頭滅,履胡之腸涉胡血。

懸胡青天上,埋胡紫塞傍。胡無人,漢道昌。

陛下之壽三千霜,但歌「大風雲飛揚,安得猛士兮守四方。」

それから、漢の兵隊は、雲龍風虎の陣形を交互に回転し、やがて、太白星が月にいれば、いよいよ敵を打ち滅ぼす前兆と知られた。さていよいよ胡人を打ち破れば、旄頭の胡星も、いつしか消えて、なくなってしまい、戦場には、胡人の死骸が縦横に転がっていて、そこで胡人のはらわたを踏みにじり、胡人の血の川のごとく流れるところを徒渉した。胡王の首を高く青天の上にさらし、胡奴の屍を始末して、長城の傍らにうずめた。それでも、胡にしかるべき人がいないことによって、このように、容易に、掃蕩することができたので、漢帝国はこれによってますます隆盛となったのである。こうして、陛下の壽は、三千年の久しきにわたるべく、その威の遠近に及ぶは、漢の高祖を讃える歌をそのままに、大風がひとたび怒って満点の雲を吹き飛ばすがごとく、おまけに、胡人すでに滅んで、この国境付近は全く安寧になったのである。もはや、特別に猛士を挙用して、四方を守るということではなくなったということでめでたいことであるといわねばなるまい。

 

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年:743年天寶二年43歳 94-15

卷別:    卷一六二         文體:    樂府

詩題:    胡無人

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              玉門關 (隴右道東部 瓜州 玉門關) 別名:玉關、玉門  

 

 

胡無人

(開元の末から天寳の初めに異民族を征討したことについてのべたもの)

嚴風吹霜海草凋,筋幹精堅胡馬驕。

厳しい冬の風が霜を帯びて吹き荒めば、海藻が全てしおれ枯れつくした砂漠になっていて、弓矢も丈夫にできており、胡馬も、勢い盛んにして、いよいよ胡人が南下して国境周辺に入寇するときとなった。

漢家戰士三十萬,將軍兼領霍嫖姚。

この時、中国においては、三十万の戦士を繰り出し、大将軍は、霍嫖姚のごとき知勇兼備の将校をいくらも幕下に従っている。

流星白羽腰間插,劍花秋蓮光出匣。

そこで、中国の将士は、流星のごとく早く飛ぶ白羽の矢を腰に挟んでいて、焼き刃の匂い、秋の蓮の花の艶と同じような名刀を匣から取り出してこれを腰に佩びている。

天兵照雪下玉關,虜箭如沙射金甲。

こうして、中国の兵隊は、ゆきに照らされつつ、玉門關から打って出ると、胡人はこれは大変だというので、にわかに射だす防矢は、それは砂のようであり、黄金の鎧に次々にあたる。

雲龍風虎盡交回,太白入月敵可摧。

それから、漢の兵隊は、雲龍風虎の陣形を交互に回転し、やがて、太白星が月にいれば、いよいよ敵を打ち滅ぼす前兆と知られた。

敵可摧,旄頭滅,履胡之腸涉胡血。

さていよいよ胡人を打ち破れば、旄頭の胡星も、いつしか消えて、なくなってしまい、戦場には、胡人の死骸が縦横に転がっていて、そこで胡人のはらわたを踏みにじり、胡人の血の川のごとく流れるところを徒渉した。

懸胡青天上,埋胡紫塞傍。

胡王の首を高く青天の上にさらし、胡奴の屍を始末して、長城の傍らにうずめた。

胡無人,漢道昌。

それでも、胡にしかるべき人がいないことによって、このように、容易に、掃蕩することができたので、漢帝国はこれによってますます隆盛となったのである。

陛下之壽三千霜,但歌「大風雲飛揚,安得猛士兮守四方。」

こうして、陛下の壽は、三千年の久しきにわたるべく、その威の遠近に及ぶは、漢の高祖を讃える歌をそのままに、大風がひとたび怒って満点の雲を吹き飛ばすがごとく、おまけに、胡人すでに滅んで、この国境付近は全く安寧になったのである。もはや、特別に猛士を挙用して、四方を守るということではなくなったということでめでたいことであるといわねばなるまい。

 

(胡無人)

嚴風 霜を吹いて 海草凋む,筋幹 精堅 胡馬驕る。

漢家の戰士 三十萬,將軍は兼ねて領す 霍 嫖姚。

流星 白羽 腰間に插み,劍花 秋蓮 光 匣を出づ。

天兵 雪を照らし 玉關を下れば,虜箭 沙の如く 金甲を射る。

 

雲龍 風虎 盡く交回,太白 月に入って 敵摧く可し。

敵摧く可し,旄頭 滅す,胡の腸を履み 胡血を涉る。

胡を懸く 青天の上,胡を埋む 紫塞の傍。

胡に人無く,漢道 昌んなり。

陛下の壽 三千霜,但だ歌わん「大風雲飛揚,安んぞ猛士を得て 四方を守らん。」と。

 

『胡無人』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

雲龍風虎盡交回,太白入月敵可摧。

敵可摧,旄頭滅,履胡之腸涉胡血。

懸胡青天上,埋胡紫塞傍。

胡無人,漢道昌。

陛下之壽三千霜,但歌「大風雲飛揚,安得猛士兮守四方。」

(下し文)
雲龍 風虎 盡く交回,太白 月に入って 敵摧く可し。

敵摧く可し,旄頭 滅す,胡の腸を履み 胡血を涉る。

胡を懸く 青天の上,胡を埋む 紫塞の傍。

胡に人無く,漢道 昌んなり。

陛下の壽 三千霜,但だ歌わん「大風雲飛揚,安んぞ猛士を得て 四方を守らん。」と。

(現代語訳)
それから、漢の兵隊は、雲龍風虎の陣形を交互に回転し、やがて、太白星が月にいれば、いよいよ敵を打ち滅ぼす前兆と知られた。

さていよいよ胡人を打ち破れば、旄頭の胡星も、いつしか消えて、なくなってしまい、戦場には、胡人の死骸が縦横に転がっていて、そこで胡人のはらわたを踏みにじり、胡人の血の川のごとく流れるところを徒渉した。

胡王の首を高く青天の上にさらし、胡奴の屍を始末して、長城の傍らにうずめた。

それでも、胡にしかるべき人がいないことによって、このように、容易に、掃蕩することができたので、漢帝国はこれによってますます隆盛となったのである。

こうして、陛下の壽は、三千年の久しきにわたるべく、その威の遠近に及ぶは、漢の高祖を讃える歌をそのままに、大風がひとたび怒って満点の雲を吹き飛ばすがごとく、おまけに、胡人すでに滅んで、この国境付近は全く安寧になったのである。もはや、特別に猛士を挙用して、四方を守るということではなくなったということでめでたいことであるといわねばなるまい。


(訳注)

胡無人

(開元の末から天寳の初めに異民族を征討したことについてのべたもの)

李白朝廷に迎えられる折に作ったものであろう。743年天寶二年の作。

胡無人 相和歌瑟調、樂府相和歌辭の一つ。胡中人無きにより、容易にこれを征服できたということを述べたもの。有善哉行、隴西行等三十八曲,樂器用笙、笛、簫、琴、瑟、箏、琵琶等七種。

相和歌漢時期は「街畦道謡民謡」の基礎の上で継承先秦楚声などの伝統を形成している。相和歌が漢族の代表的な漢民族舞踊の一つ。主に宦官巨宴会、娯楽などの場合にも用いる演奏、宮廷の宴会、祀神ひいて元旦朝礼と漢族民俗活動などの場合は。「相葉歌」の名が一番早い記録について「晋・楽誌」「首相も、漢の古い歌。糸竹もっと首相、執節者の歌。」その特徴は歌人は击节太鼓と伴奏管絃楽器相応するとを考えてた。相和歌でのは、主に瑟調、清調、空洞の3種類ともいう首相三調。と後世のいわゆる「清商三調」と同じ、略称「三調」。

 

雲龍風虎盡交回,太白入月敵可摧。

それから、漢の兵隊は、雲龍風虎の陣形を交互に回転し、やがて、太白星が月にいれば、いよいよ敵を打ち滅ぼす前兆と知られた。

雲龍風虎 「雲は龍に従い、風は虎に従う」ということだが、軍隊が理路整然と秩序だって戦うこと、諸所の陣形が崩れることがなくて闘う姿を現す。

太白入月 太白星とは金星の異称である。「金星」の名は中国では太白とも呼び、戦国時代 に起こった五行思想とかかわりがある。それによると「金剋木であり、金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒す。」ということで、太白星が月にいれば、いよいよ敵を打ち滅ぼす前兆と知られているのである。また、仏教伝承では、釈迦は明けの明星が輝くのを見て真理を見つけたという。また弘法大師空海も明けの明星が口中に飛び込み悟りを開いたとされるというのも、釈迦伝説、五行思想の影響ということである。

 

敵可摧,旄頭滅,履胡之腸涉胡血。

さていよいよ胡人を打ち破れば、旄頭の胡星も、いつしか消えて、なくなってしまい、戦場には、胡人の死骸が縦横に転がっていて、そこで胡人のはらわたを踏みにじり、胡人の血の川のごとく流れるところを徒渉した。

旄頭滅 ここにいう旄頭は異民族の軍隊の帽子や旗の頭に旄を載せ飾っているのを言う。

 

懸胡青天上,埋胡紫塞傍。

胡王の首を高く青天の上にさらし、胡奴の屍を始末して、長城の傍らにうずめた。

懸胡青天上 胡王、胡大将、胡人の首を高く青天の上にさらすことをいう。

紫塞傍 晉が長城を築いた時に使用された土や石が皆紫色であったことで紫塞といった。漢王朝でも、唐王朝でも長城は改築増築を行ったが、土樋氏が同種のものが使われたので、同様に紫塞といった。

 

胡無人,漢道昌。

それでも、胡にしかるべき人がいないことによって、このように、容易に、掃蕩することができたので、漢帝国はこれによってますます隆盛となったのである。

 

陛下之壽三千霜,但歌「大風雲飛揚,安得猛士兮守四方。」

こうして、陛下の壽は、三千年の久しきにわたるべく、その威の遠近に及ぶは、漢の高祖を讃える歌をそのままに、大風がひとたび怒って満点の雲を吹き飛ばすがごとく、おまけに、胡人すでに滅んで、この国境付近は全く安寧になったのである。もはや、特別に猛士を挙用して、四方を守るということではなくなったということでめでたいことであるといわねばなるまい。

三千霜 朔方の戦いは、秋が始まりの基本でそれが霜であることで、三千年ということである。

歌大風雲飛揚 漢の高祖が、彼の故郷の沛に帰ったときに作られた歌の詩句。漢高帝歸豐沛,作歌曰:「大風起兮雲飛揚,威加海兮歸故,安得猛士兮守四方。」

李白334 巻二28-《胡無人》(嚴風吹霜海草凋,) 334Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(15) <李白334> Ⅰ李白詩1647 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6783

李白  胡無人    

嚴風吹霜海草凋,筋幹精堅胡馬驕。漢家戰士三十萬,將軍兼領霍嫖姚。

流星白羽腰間插,劍花秋蓮光出匣。天兵照雪下玉關,虜箭如沙射金甲。

(開元の末から天寳の初めに異民族を征討したことについてのべたもの)

厳しい冬の風が霜を帯びて吹き荒めば、海藻が全てしおれ枯れつくした砂漠になっていて、弓矢も丈夫にできており、胡馬も、勢い盛んにして、いよいよ胡人が南下して国境周辺に入寇するときとなった。この時、中国においては、三十万の戦士を繰り出し、大将軍は、霍嫖姚のごとき知勇兼備の将校をいくらも幕下に従っている。そこで、中国の将士は、流星のごとく早く飛ぶ白羽の矢を腰に挟んでいて、焼き刃の匂い、秋の蓮の花の艶と同じような名刀を匣から取り出してこれを腰に佩びている。こうして、中国の兵隊は、ゆきに照らされつつ、玉門關から打って出ると、胡人はこれは大変だというので、にわかに射だす防矢は、それは砂のようであり、黄金の鎧に次々にあたる。

李白334 巻二28-《胡無人》(嚴風吹霜海草凋,) 334Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-15) <李白334> Ⅰ李白詩1647 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6783

 

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-15

卷別:    卷一六二         文體:    樂府

詩題:    胡無人

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              玉門關 (隴右道東部 瓜州 玉門關) 別名:玉關、玉門  

 

 

胡無人

(開元の末から天寳の初めに異民族を征討したことについてのべたもの)

嚴風吹霜海草凋,筋幹精堅胡馬驕。

厳しい冬の風が霜を帯びて吹き荒めば、海藻が全てしおれ枯れつくした砂漠になっていて、弓矢も丈夫にできており、胡馬も、勢い盛んにして、いよいよ胡人が南下して国境周辺に入寇するときとなった。

漢家戰士三十萬,將軍兼領霍嫖姚。

この時、中国においては、三十万の戦士を繰り出し、大将軍は、霍嫖姚のごとき知勇兼備の将校をいくらも幕下に従っている。

流星白羽腰間插,劍花秋蓮光出匣。

そこで、中国の将士は、流星のごとく早く飛ぶ白羽の矢を腰に挟んでいて、焼き刃の匂い、秋の蓮の花の艶と同じような名刀を匣から取り出してこれを腰に佩びている。

天兵照雪下玉關,虜箭如沙射金甲。

こうして、中国の兵隊は、ゆきに照らされつつ、玉門關から打って出ると、胡人はこれは大変だというので、にわかに射だす防矢は、それは砂のようであり、黄金の鎧に次々にあたる。

雲龍風虎盡交回,太白入月敵可摧。

敵可摧,旄頭滅,履胡之腸涉胡血。

懸胡青天上,埋胡紫塞傍。

胡無人,漢道昌。

陛下之壽三千霜,但歌大風雲飛揚,

安得猛士兮守四方。

 

(胡無人)

嚴風 霜を吹いて 海草凋む,筋幹 精堅 胡馬驕る。

漢家の戰士 三十萬,將軍は兼ねて領す 霍 嫖姚。

流星 白羽 腰間に插み,劍花 秋蓮 光 匣を出づ。

天兵 雪を照らし 玉關を下れば,虜箭 沙の如く 金甲を射る。

 

雲龍 風虎 盡く交回,太白 月に入って 敵摧く可し。

敵摧く可し,旄頭 滅す,胡の腸を履み 胡血を涉る。

胡を懸く 青天の上,胡を埋む 紫塞の傍。

胡に人無く,漢道 昌んなり。

陛下の壽 三千霜,但だ歌わん 大風 雲 飛揚,

安んぞ猛士を得て 四方を守らん。

李白の足跡0000

『胡無人』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

胡無人

嚴風吹霜海草凋,筋幹精堅胡馬驕。

漢家戰士三十萬,將軍兼領霍嫖姚。

流星白羽腰間插,劍花秋蓮光出匣。

天兵照雪下玉關,虜箭如沙射金甲。
詩文(含異文)     嚴風吹霜海草凋,筋幹精堅胡馬驕。漢家戰士三十萬,將軍兼領霍嫖姚【將軍誰者霍嫖姚】。流星白羽腰間插,劍花秋蓮光出匣。天兵照雪下玉關,虜箭如沙射金甲。雲龍風虎盡交回,太白入月敵可摧。敵可摧,旄頭滅,履胡之腸涉胡血。懸胡青天上,埋胡紫塞傍。胡無人,漢道昌。【案:一本此下有以下五句:陛下之壽三千霜,但歌大風雲飛揚,安得猛士兮守四方。胡無人,漢道昌。】


(下し文)
(胡無人)

嚴風 霜を吹いて 海草凋む,筋幹 精堅 胡馬驕る。

漢家の戰士 三十萬,將軍は兼ねて領す 霍 嫖姚。

流星 白羽 腰間に插み,劍花 秋蓮 光 匣を出づ。

天兵 雪を照らし 玉關を下れば,虜箭 沙の如く 金甲を射る。


(現代語訳)
(開元の末から天寳の初めに異民族を征討したことについてのべたもの)

厳しい冬の風が霜を帯びて吹き荒めば、海藻が全てしおれ枯れつくした砂漠になっていて、弓矢も丈夫にできており、胡馬も、勢い盛んにして、いよいよ胡人が南下して国境周辺に入寇するときとなった。

この時、中国においては、三十万の戦士を繰り出し、大将軍は、霍嫖姚のごとき知勇兼備の将校をいくらも幕下に従っている。

そこで、中国の将士は、流星のごとく早く飛ぶ白羽の矢を腰に挟んでいて、焼き刃の匂い、秋の蓮の花の艶と同じような名刀を匣から取り出してこれを腰に佩びている。

こうして、中国の兵隊は、ゆきに照らされつつ、玉門關から打って出ると、胡人はこれは大変だというので、にわかに射だす防矢は、それは砂のようであり、黄金の鎧に次々にあたる。

Ta唐 長安近郊圖  新02
(訳注)

胡無人

(開元の末から天寳の初めに異民族を征討したことについてのべたもの)

李白朝廷に迎えられる折に作ったものであろう。743年天寶二年の作。

胡無人 相和歌瑟調、樂府相和歌辭の一つ。胡中人無きにより、容易にこれを征服できたということを述べたもの。有善哉行、隴西行等三十八曲,樂器用笙、笛、簫、琴、瑟、箏、琵琶等七種。

相和歌漢時期は「街畦道謡民謡」の基礎の上で継承先秦楚声などの伝統を形成している。相和歌が漢族の代表的な漢民族舞踊の一つ。主に宦官巨宴会、娯楽などの場合にも用いる演奏、宮廷の宴会、祀神ひいて元旦朝礼と漢族民俗活動などの場合は。「相葉歌」の名が一番早い記録について「晋・楽誌」「首相も、漢の古い歌。糸竹もっと首相、執節者の歌。」その特徴は歌人は击节太鼓と伴奏管絃楽器相応するとを考えてた。相和歌でのは、主に瑟調、清調、空洞の3種類ともいう首相三調。と後世のいわゆる「清商三調」と同じ、略称「三調」。

 

嚴風吹霜海草凋,筋幹精堅胡馬驕。

厳しい冬の風が霜を帯びて吹き荒めば、海藻が全てしおれ枯れつくした砂漠になっていて、弓矢も丈夫にできており、胡馬も、勢い盛んにして、いよいよ胡人が南下して国境周辺に入寇するときとなった。

嚴風 厳しい冬の風。

海草凋 瀚海ということで砂漠という意味で、其処にはわずかに生えた草までが枯れている。

筋幹精堅 あきになって膠が堅くなるので弓矢が丈夫にできることを言う。騎馬民族である胡側の軍隊の勢いが一番盛んになるときである。周禮「凡爲弓,冬析幹而春液角,夏治筋,秋幹、角、膠、筋、漆、絲六材,皆令善而無瑕病,然後爲善」とある。

胡馬驕 戦馬のいいものは、西域、西北方の馬である。

 

漢家戰士三十萬,將軍兼領霍嫖姚。

この時、中国においては、三十万の戦士を繰り出し、大将軍は、霍嫖姚のごとき知勇兼備の将校をいくらも幕下に従っている。

漢家戰士三十萬 《漢書·五行志中之下》「先是,五將軍眾三十萬伏馬邑,欲襲單于也。」

霍嫖姚 霍去病称。霍 去病(かく きょへい、紀元前140 - 紀元前117年、Huò Qù-bìng)は、前漢の武帝時代の武将である。父は、霍仲孺。異母弟は、大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。霍去病と衛青は同時代に活躍し、血縁でもある事からよく比較される。衛青は少年時代に奴隷であった経験から人にへりくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。その一方で、霍去病は物心付いた時には既に一族は外戚であり、叔父が匈奴討伐に大功を上げていた。その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分たちは豪華な幕舎の下で宴会を開くような事をしていた。

しかし宮廷でも兵士の間でも、霍去病のほうが人気は上であった。衛青はへりくだりが度を過ぎて媚を売るような所があったとされ、また、霍去病の傲慢も頼もしい勇壮と見られていた模様だった。武帝も自身の性格から、積極果敢な霍去病をより好んでいた。

 

流星白羽腰間插,劍花秋蓮光出匣。

そこで、中国の将士は、流星のごとく早く飛ぶ白羽の矢を腰に挟んでいて、焼き刃の匂い、秋の蓮の花の艶と同じような名刀を匣から取り出してこれを腰に佩びている。

流星 瞬く間の流星のはやさをいう。

白羽 箭に白い羽をはぎていること。白い矢羽を持つ矢のこと。

秋蓮 焼き刃の匂い、秋の蓮の花の艶と同じような名刀をいう。

 

天兵照雪下玉關,虜箭如沙射金甲。

こうして、中国の兵隊は、ゆきに照らされつつ、玉門關から打って出ると、胡人はこれは大変だというので、にわかに射だす防矢は、それは砂のようであり、黄金の鎧に次々にあたる。

天兵 天からの力を得た兵隊。

玉關 玉門関は甘粛省敦煌市の北西約90kmにある、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所の1つ。漢と唐2度に渡り建立された。現存する玉門関遺跡は唐代のものである。俗称は小方盤城。

李白333-#7 《巻二25-上雲樂》 333-#7Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(20) <李白333-#7> Ⅰ李白詩1655 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6823

李白  上雲樂#7

能胡歌,獻漢酒。跪雙膝,立兩肘,散花指天舉素手。

拜龍顏,獻聖壽。北斗戾,南山摧。天子九九八十一萬長傾萬杯。

かくて文康はまた巧みに胡歌を唱和して、漢の酒を献上しようとした。そして、兩の膝をひざまずき、兩の肘をはって、天子の御前に畏まり、ひとたび白い手を挙げて、天をさせば、花は天より繽紛として、雨の如く降りしきり、さながら極欒浄土を眼前に幻出したようになったのである。然る後に天子の御尊顔を拝し、謹んで壽を献上いたします。祝して申し上げるには、北斗も曲がるべく、南山もくだけるべく程のことであります。かかるものは、到底、相い比するに足らず、天子は、九九、八十一萬歳の壽を保たるべく、どうか、私が差し上げる、この萬歳の杯を傾けて下さいと申しあげたのである。

李白333-#7 《巻二25-上雲樂》 333-#7Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-20) <李白333-#7> Ⅰ李白詩1655 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6823

 

 
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  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
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年:743年天寶二年43歳 94-14

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    上雲樂

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸      

白水 (京畿道 同州 白水)   

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

 

 

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

金天之西,白日所沒。

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。
#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。

女媧戲黃土,團作愚下人。

まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。

散在六合間,濛濛若沙塵。

宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。

云【ここ】に見る 日月初めて生ずるの時,鑄冶す 火精と水銀と。

陽烏 未だ谷を出ず,顧兔 半ば身を藏す。

女媧 黃土に戲れ,團して 愚下の人と作る。

散じて 六合の間に在り,濛濛として 沙塵の若し。

#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

しかも、この人類は、生きたり死んだり、終始展轉して居るが、終始転々としている。この文康といふ胡人が、天地と共に生れた眞正の仙人であるということを知っているものもいなかった位だったのである。

西海栽若木,東溟植扶桑。

しかし、その文康は日の沈む西海に若木を栽え、日の上る東海に扶桑を植えた。

別來幾多時,枝葉萬里長。

この二木の間を毎日太陽が度って行くようになり、彼が一度、別れてより、若木も、扶桑も、だんだん大きくなって、その枝葉は、萬里を覆う位になった。

中國有七聖,半路洪荒。

それで、ここに、我が大唐は、中国に君とし、高祖より玄宗に至るまで、七代の聖君を経由、半途にして、世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱「武韋の禍」、恰も太古鴻荒の世に逆戻りをしたようであつた。

生死 了に盡きず,誰か明かにせん 此の胡は是れ仙真なるを。

西海には 若木を栽え,東溟には扶桑を植う。

別來 幾多の時ぞ,枝葉 萬里長し。

中國に七聖有り,半路 洪荒を

#5

陛下應運起,龍飛入咸陽。

今の天子は、運に乗じて起ち、やがて龍駕は、長安、すなわち、咸陽で天下統一がなされたように、入られ、「武韋の禍」を沈めて開元の治みちびかれた。

赤眉立盆子,白水興漢光。

かくて、王莽の簒奪と同じような韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。丁度、赤眉の賊が劉金子を立てたようなもので、天子が快復に専念なされるのは、後漢の光武が白水から勃興したるに比すべく、天下は安寧し、「開元の治」といわれるほどの唐王朝の繁栄を迎えたのである。

叱吒四海動,洪濤為簸揚。

されば、天子、一度、叱咤すれば、四海の水が動揺して、大きな波が簸って揚がるが如く、天下は忽ち震動し、寰宇が一洗された。

舉足踏紫微,天關自開張。

かくて、いよいよ天子の位を臨んで中外に耽命すれば、遠い處の關塞まで、ことごとく開通し、出入も自由で、又これを閉じで守るようなるようなことはない時代にされたのである。

陛下 運に應じて起ち,龍飛 咸陽に入る。

赤眉 盆子を立てて,白水 漢光を興す。

叱吒すれば 四海動き,洪濤すれば 簸揚為にす。

足を舉げて紫微を踏み,天關 自ら開張。

 

#6

老胡感至德,東來進仙倡。

唐の隆盛の気運は、かくの如くであるから、老胡の文康は、その至徳に感じて、西域より東方にきたのであり、種種の樂舞中に神仙的な藝人に扮する仙倡を進めたのである。

五色師子,九苞鳳凰。

そして、それに加え舞楽の中心的存在の“五色獅子だの”、“九苞の鳳凰”だのを連 れてきた。

是老胡雞犬,鳴舞飛帝

この獅子や鳳凰は、取りも直さず、老胡の鶏犬とも称すべきもので、それが都にきて、天子の御前で雅楽を鳴らし、舞をなした。

淋漓颯沓,進退成行。

それは、淋漓颯沓として、往ったり来たり、めぐったり、進退自然に行をなし、まこと見事なものであったのである。

老胡 至德に感じ,東に來って仙倡を進む。

五色の師子,九苞の鳳凰。

是れ老胡の雞犬,鳴舞して帝に飛ぶ。

淋漓 颯沓,進退 行を成す。
#7

能胡歌,獻漢酒。

かくて文康はまた巧みに胡歌を唱和して、漢の酒を献上しようとした。

跪雙膝,立兩肘,散花指天舉素手。

そして、兩の膝をひざまずき、兩の肘をはって、天子の御前に畏まり、ひとたび白い手を挙げて、天をさせば、花は天より繽紛として、雨の如く降りしきり、さながら極欒浄土を眼前に幻出したようになったのである。

拜龍顏,獻聖壽。

然る後に天子の御尊顔を拝し、謹んで壽を献上いたします。

北斗戾,南山摧。

祝して申し上げるには、北斗も曲がるべく、南山もくだけるべく程のことであります。

天子九九八十一萬長傾萬杯。

かかるものは、到底、相い比するに足らず、天子は、九九、八十一萬歳の壽を保たるべく、どうか、私が差し上げる、この萬歳の杯を傾けて下さいと申しあげたのである。

胡歌を能くし,漢酒を獻ず。

雙膝を跪まずき,兩肘を立べ,散花 天を指して素手を舉ぐ。

龍顏を拜し,聖壽を獻ず。

北斗戾り,南山摧く。

天子 九九八十一の萬長傾せよ 萬杯。

 

 

『上雲樂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#7

能胡歌,獻漢酒。

跪雙膝,立兩肘,散花指天舉素手。

拜龍顏,獻聖壽。

北斗戾,南山摧。

天子九九八十一萬,長傾萬

(下し文)
胡歌を能くし,漢酒を獻ず。

雙膝を跪まずき,兩肘を立べ,散花 天を指して素手を舉ぐ。

龍顏を拜し,聖壽を獻ず。

北斗戾り,南山摧く。

天子 九九八十一の萬,長傾せよ 萬の杯

(現代語訳)
#7

かくて文康はまた巧みに胡歌を唱和して、漢の酒を献上しようとした。

そして、兩の膝をひざまずき、兩の肘をはって、天子の御前に畏まり、ひとたび白い手を挙げて、天をさせば、花は天より繽紛として、雨の如く降りしきり、さながら極欒浄土を眼前に幻出したようになったのである。

然る後に天子の御尊顔を拝し、謹んで壽を献上いたします。

祝して申し上げるには、北斗も曲がるべく、南山もくだけるべく程のことであります。

かかるものは、到底、相い比するに足らず、天子は、九九、八十一萬歳の壽を保たるべく、どうか、私が差し上げる、この萬歳の杯を傾けて下さいと申しあげたのである。


(訳注) #7

上雲樂

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

李白の詩文力を確かめるために作らされた作品であろうと思う、玄宗の目にかなうと判断された作品の一つである。従来、安禄山の乱後の作品として紹介されている訳注本もあるが、それは間違い。

原註に「老胡文康辭、或云范雲及周捨所作、今擬之」とある。胡震亨の説に「梁の武帝、上雲樂を製し、西方の老胡文康、上古より生きるもの設け、青眼高鼻、白髪、孔雀鳳凰、白鹿を導弄し、梁朝を慕って来遊伏拝し、千歳の壽を祝す。周捨、これが詞を爲す。太白の擬作、周捨の本詞にくらべれば、肆を加う、而して、龍飛咸陽の数語、又、この胡、肅宗の朝に遊ぶと謂うものに似たり。亦たおのおのその時に従って、一代の俳樂を備うるのみ」とある

周捨《上雲樂》〈老胡文康辭〉

西方老胡,厥名文康。遨遨六合,傲誕三皇。西觀濛汜,東戲扶桑。南泛大蒙之海,北至無通之。昔與若士為友,共弄彭祖扶床。往年暫到昆侖,複瑤池舉觴。周帝迎以上席,王母贈以玉漿。故乃壽如南山,志若金剛。青眼眢眢,白髮長長。蛾眉臨髭,高鼻垂口。非直能俳,又善飲酒。簫管鳴前,門徒從後。濟濟翼翼,各有分部。鳳皇是老胡家雞,師子是老胡家狗。陛下撥亂反正,再朗三光。澤與雨施,化與風翔。覘雲候呂,志游大樑。重駟修路,始屆帝。伏拜金闕,仰瞻玉堂。從者小子,羅列成行。悉知廉節,皆識義方。歌管愔愔,鏗鼓鏘鏘。響震鈞天,聲若鵷皇。前卻中規矩,進退得宮商。舉技無不佳,胡舞最所長。老胡寄篋中,複有奇樂章。齎持數萬里,原以奉聖皇。乃欲次第,老耄多所忘。但願明陛下,壽千萬,歡樂未渠央

李白は、上記に擬してこの詩を作った。

老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのである。

周捨 469年~524年〕字は升逸,汝南の安城の」人,周顒の子である。宋明帝の泰始五年に生れ,梁武帝普通五年に卒した,年五十六であった。幼いころから聰穎。既に長ず,博學に多く通ず,尤の義理に精ず。善く誦書し,背文し、諷,音韻に清辯した。起家齊太學博士。梁武帝時,拜尚書祠部郎。禮儀損益,多自捨出。歷遷太子右衛率。雖居職屢徙,而常留省。預機密二十余年,稱賢相。性儉素如布衣。以右驍衛將軍知詹事卒,謚簡子。捨著有文集二十卷,(《隋書志》及《兩唐書志》)行於世

 

能胡歌,獻漢酒。

かくて文康はまた巧みに胡歌を唱和して、漢の酒を献上しようとした。

 

跪雙膝,立兩肘,散花指天舉素手。

そして、兩の膝をひざまずき、兩の肘をはって、天子の御前に畏まり、ひとたび白い手を挙げて、天をさせば、花は天より繽紛として、雨の如く降りしきり、さながら極欒浄土を眼前に幻出したようになったのである。

【1】   散花 《維摩詰經》 「會中、有一天女,見諸大人,聞所法,便現其身,即以天花散諸菩薩,悉皆墮落,至大弟子,便著不墜。一切弟子皆神力去華,而不能令去。」

 

拜龍顏,獻聖壽。

然る後に天子の御尊顔を拝し、謹んで壽を献上いたします。

【2】    龍顏 玄宗のお顔。

 

北斗戾,南山摧。

祝して申し上げるには、北斗も曲がるべく、南山もくだけるべく程のことであります。

【3】    戾 曲がる。

 

天子九九八十一萬長傾萬杯。

かかるものは、到底、相い比するに足らず、天子は、九九、八十一萬歳の壽を保たるべく、どうか、私が差し上げる、この萬歳の杯を傾けて下さいと申しあげたのである。

李白333-#6 《巻二25-上雲樂》 333-#6Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(19) <李白333-#6> Ⅰ李白詩1654 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6818

李白  上雲樂#6   

老胡感至德,東來進仙倡。五色師子,九苞鳳凰。是老胡雞犬,鳴舞飛帝淋漓颯沓,進退成行。

唐の隆盛の気運は、かくの如くであるから、老胡の文康は、その至徳に感じて、西域より東方にきたのであり、種種の樂舞中に神仙的な藝人に扮する仙倡を進めたのである。

そして、それに加え舞楽の中心的存在の“五色獅子だの”、“九苞の鳳凰”だのを連 れてきた。

この獅子や鳳凰は、取りも直さず、老胡の鶏犬とも称すべきもので、それが都にきて、天子の御前で雅楽を鳴らし、舞をなした。

それは、淋漓颯沓として、往ったり来たり、めぐったり、進退自然に行をなし、まこと見事なものであったのである。

李白333-#6 《巻二25-上雲樂》 333-#6Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-19) <李白333-#6> Ⅰ李白詩1654 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6818

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-14

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    上雲樂

作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點: 咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸      

 白水 (京畿道 同州 白水)   

 終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

 

 

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

金天之西,白日所沒。

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。
#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。

女媧戲黃土,團作愚下人。

まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。

散在六合間,濛濛若沙塵。

宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。

云【ここ】に見る 日月初めて生ずるの時,鑄冶す 火精と水銀と。

陽烏 未だ谷を出ず,顧兔 半ば身を藏す。

女媧 黃土に戲れ,團して 愚下の人と作る。

散じて 六合の間に在り,濛濛として 沙塵の若し。

#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

しかも、この人類は、生きたり死んだり、終始展轉して居るが、終始転々としている。この文康といふ胡人が、天地と共に生れた眞正の仙人であるということを知っているものもいなかった位だったのである。

西海栽若木,東溟植扶桑。

しかし、その文康は日の沈む西海に若木を栽え、日の上る東海に扶桑を植えた。

別來幾多時,枝葉萬里長。

この二木の間を毎日太陽が度って行くようになり、彼が一度、別れてより、若木も、扶桑も、だんだん大きくなって、その枝葉は、萬里を覆う位になった。

中國有七聖,半路洪荒。

それで、ここに、我が大唐は、中国に君とし、高祖より玄宗に至るまで、七代の聖君を経由、半途にして、世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱「武韋の禍」、恰も太古鴻荒の世に逆戻りをしたようであつた。

生死 了に盡きず,誰か明かにせん 此の胡は是れ仙真なるを。

西海には 若木を栽え,東溟には扶桑を植う。

別來 幾多の時ぞ,枝葉 萬里長し。

中國に七聖有り,半路 洪荒を

#5

陛下應運起,龍飛入咸陽。

今の天子は、運に乗じて起ち、やがて龍駕は、長安、すなわち、咸陽で天下統一がなされたように、入られ、「武韋の禍」を沈めて開元の治みちびかれた。

赤眉立盆子,白水興漢光。

かくて、王莽の簒奪と同じような韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。丁度、赤眉の賊が劉金子を立てたようなもので、天子が快復に専念なされるのは、後漢の光武が白水から勃興したるに比すべく、天下は安寧し、「開元の治」といわれるほどの唐王朝の繁栄を迎えたのである。

叱吒四海動,洪濤為簸揚。

されば、天子、一度、叱咤すれば、四海の水が動揺して、大きな波が簸って揚がるが如く、天下は忽ち震動し、寰宇が一洗された。

舉足踏紫微,天關自開張。

かくて、いよいよ天子の位を臨んで中外に耽命すれば、遠い處の關塞まで、ことごとく開通し、出入も自由で、又これを閉じで守るようなるようなことはない時代にされたのである。

陛下 運に應じて起ち,龍飛 咸陽に入る。

赤眉 盆子を立てて,白水 漢光を興す。

叱吒すれば 四海動き,洪濤すれば 簸揚為にす。

足を舉げて紫微を踏み,天關 自ら開張。

 

#6

老胡感至德,東來進仙倡。

唐の隆盛の気運は、かくの如くであるから、老胡の文康は、その至徳に感じて、西域より東方にきたのであり、種種の樂舞中に神仙的な藝人に扮する仙倡を進めたのである。

五色師子,九苞鳳凰。

そして、それに加え舞楽の中心的存在の“五色獅子だの”、“九苞の鳳凰”だのを連 れてきた。

是老胡雞犬,鳴舞飛帝

この獅子や鳳凰は、取りも直さず、老胡の鶏犬とも称すべきもので、それが都にきて、天子の御前で雅楽を鳴らし、舞をなした。

淋漓颯沓,進退成行。

それは、淋漓颯沓として、往ったり来たり、めぐったり、進退自然に行をなし、まこと見事なものであったのである。

老胡 至德に感じ,東に來って仙倡を進む。

五色の師子,九苞の鳳凰。

是れ老胡の雞犬,鳴舞して帝に飛ぶ。

淋漓 颯沓,進退 行を成す。
#7

能胡歌,獻漢酒。

跪雙膝,立兩肘,散花指天舉素手。

拜龍顏,獻聖壽。

北斗戾,南山摧。

天子九九八十一萬長傾萬杯。

胡歌を能くし,漢酒を獻ず。

雙膝を跪まずき,兩肘を立べ,散花 天を指して素手を舉ぐ。

龍顏を拜し,聖壽を獻ず。

北斗戾り,南山摧く。

天子 九九八十一の萬長傾せよ 萬杯。

 

 

『上雲樂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#6

老胡感至德,東來進仙倡。

五色師子,九苞鳳凰。

是老胡雞犬,鳴舞飛帝

淋漓颯沓,進退成行。

(下し文)
#6

老胡 至德に感じ,東に來って仙倡を進む。

五色の師子,九苞の鳳凰。

是れ老胡の雞犬,鳴舞して帝に飛ぶ。

淋漓 颯沓,進退 行を成す。


(現代語訳)
#6

唐の隆盛の気運は、かくの如くであるから、老胡の文康は、その至徳に感じて、西域より東方にきたのであり、種種の樂舞中に神仙的な藝人に扮する仙倡を進めたのである。

そして、それに加え舞楽の中心的存在の“五色獅子だの”、“九苞の鳳凰”だのを連 れてきた。

この獅子や鳳凰は、取りも直さず、老胡の鶏犬とも称すべきもので、それが都にきて、天子の御前で雅楽を鳴らし、舞をなした。

それは、淋漓颯沓として、往ったり来たり、めぐったり、進退自然に行をなし、まこと見事なものであったのである。


(訳注) #6

上雲樂

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

 

原註に「老胡文康辭、或云范雲及周捨所作、今擬之」とある。胡震亨の説に「梁の武帝、上雲樂を製し、西方の老胡文康、上古より生きるもの設け、青眼高鼻、白髪、孔雀鳳凰、白鹿を導弄し、梁朝を慕って来遊伏拝し、千歳の壽を祝す。周捨、これが詞を爲す。太白の擬作、周捨の本詞にくらべれば、肆を加う、而して、龍飛咸陽の数語、又、この胡、肅宗の朝に遊ぶと謂うものに似たり。亦たおのおのその時に従って、一代の俳樂を備うるのみ」とある

周捨《上雲樂》〈老胡文康辭〉

西方老胡,厥名文康。遨遨六合,傲誕三皇。西觀濛汜,東戲扶桑。南泛大蒙之海,北至無通之。昔與若士為友,共弄彭祖扶床。往年暫到昆侖,複瑤池舉觴。周帝迎以上席,王母贈以玉漿。故乃壽如南山,志若金剛。青眼眢眢,白髮長長。蛾眉臨髭,高鼻垂口。非直能俳,又善飲酒。簫管鳴前,門徒從後。濟濟翼翼,各有分部。鳳皇是老胡家雞,師子是老胡家狗。陛下撥亂反正,再朗三光。澤與雨施,化與風翔。覘雲候呂,志游大樑。重駟修路,始屆帝。伏拜金闕,仰瞻玉堂。從者小子,羅列成行。悉知廉節,皆識義方。歌管愔愔,鏗鼓鏘鏘。響震鈞天,聲若鵷皇。前卻中規矩,進退得宮商。舉技無不佳,胡舞最所長。老胡寄篋中,複有奇樂章。齎持數萬里,原以奉聖皇。乃欲次第,老耄多所忘。但願明陛下,壽千萬,歡樂未渠央

李白は、上記に擬してこの詩を作った。

老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのである。

周捨 469年~524年〕字は升逸,汝南の安城の」人,周顒の子である。宋明帝の泰始五年に生れ,梁武帝普通五年に卒した,年五十六であった。幼いころから聰穎。既に長ず,博學に多く通ず,尤の義理に精ず。善く誦書し,背文し、諷,音韻に清辯した。起家齊太學博士。梁武帝時,拜尚書祠部郎。禮儀損益,多自捨出。歷遷太子右衛率。雖居職屢徙,而常留省。預機密二十余年,稱賢相。性儉素如布衣。以右驍衛將軍知詹事卒,謚簡子。捨著有文集二十卷,(《隋書志》及《兩唐書志》)行於世

 

老胡感至德,東來進仙倡。

唐の隆盛の気運は、かくの如くであるから、老胡の文康は、その至徳に感じて、西域より東方にきたのであり、種種の樂舞中に神仙的な藝人に扮する仙倡を進めたのである。

【1】   仙倡 古代において樂舞中に神仙的な藝人に扮するもののことをいう。 倡は歌舞藝人の古稱である。様様に扮装して戯をなし仙倡の輩をいう。《文選張衡<西京賦>》「總會仙倡, 戲豹舞羆。」 にみえ、 薛綜の注に 「仙倡, 偽作假形, 謂如神也。」(仙倡は、偽って假形を作し、神のごときをいう。)とある。

 

五色師子,九苞鳳凰。

そして、それに加え舞楽の中心的存在の“五色獅子だの”、“九苞の鳳凰”だのを連 れてきた。

【2】   五色獅子 傳中の五色獅子をいうが、百獸王であり、トラをも食べるという、最も強いものであるそれがあって、舞の源流、中心的なものとなっている。

【3】   九苞鳳凰 山海経に「丹穴の山、鳥あり、状、鶴の如く、五色にして文あり、名づけて、九苞鳳といふ。見るるときは、天下安寧」とあり、論語摘衰に「聖鳳に九苞あ。九苞とは、-に曰く、口・命を包む、二に曰く、心、度に合す、三た曰く、耳、聴達、四に日く、舌、詘伸、五にいわく、彩、光色、六に曰く、冠、矩朱、七に日く、距、鋭鉤、八に曰く、音、激揚、九に曰く、腹、文戸」つまり鳳凰の中でも、特に優れたもので、九つの特徴を備えているものと見える。 

 

是老胡雞犬,鳴舞飛帝

この獅子や鳳凰は、取りも直さず、老胡の鶏犬とも称すべきもので、それが都にきて、天子の御前で雅楽を鳴らし、舞をなした。

 

淋漓颯沓,進退成行。

それは、淋漓颯沓として、往ったり来たり、めぐったり、進退自然に行をなし、まこと見事なものであったのである。

【4】   颯沓 盤旋のかたちになるのも。竜巻。

李白333-#5 《巻二25-上雲樂》 333-#5Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(14) <李白333-#5> Ⅰ李白詩1653 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6813

李白  上雲樂#5

陛下應運起,龍飛入咸陽。赤眉立盆子,白水興漢光。

叱吒四海動,洪濤為簸揚。舉足踏紫微,天關自開張。

今の天子は、運に乗じて起ち、やがて龍駕は、長安、すなわち、咸陽で天下統一がなされたように、入られ、「武韋の禍」を沈めて開元の治みちびかれた。かくて、王莽の簒奪と同じような韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。丁度、赤眉の賊が劉金子を立てたようなもので、天子が快復に専念なされるのは、後漢の光武が白水から勃興したるに比すべく、天下は安寧し、「開元の治」といわれるほどの唐王朝の繁栄を迎えたのである。されば、天子、一度、叱咤すれば、四海の水が動揺して、大きな波が簸って揚がるが如く、天下は忽ち震動し、寰宇が一洗された。かくて、いよいよ天子の位を臨んで中外に耽命すれば、遠い處の關塞まで、ことごとく開通し、出入も自由で、又これを閉じで守るようなるようなことはない時代にされたのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-14

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    上雲樂

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸      

白水 (京畿道 同州 白水)   

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

 

 

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

金天之西,白日所沒。

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。
#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。

女媧戲黃土,團作愚下人。

まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。

散在六合間,濛濛若沙塵。

宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。

云【ここ】に見る 日月初めて生ずるの時,鑄冶す 火精と水銀と。

陽烏 未だ谷を出ず,顧兔 半ば身を藏す。

女媧 黃土に戲れ,團して 愚下の人と作る。

散じて 六合の間に在り,濛濛として 沙塵の若し。

#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

しかも、この人類は、生きたり死んだり、終始展轉して居るが、終始転々としている。この文康といふ胡人が、天地と共に生れた眞正の仙人であるということを知っているものもいなかった位だったのである。

西海栽若木,東溟植扶桑。

しかし、その文康は日の沈む西海に若木を栽え、日の上る東海に扶桑を植えた。

別來幾多時,枝葉萬里長。

この二木の間を毎日太陽が度って行くようになり、彼が一度、別れてより、若木も、扶桑も、だんだん大きくなって、その枝葉は、萬里を覆う位になった。

中國有七聖,半路洪荒。

それで、ここに、我が大唐は、中国に君とし、高祖より玄宗に至るまで、七代の聖君を経由、半途にして、世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱「武韋の禍」、恰も太古鴻荒の世に逆戻りをしたようであつた。

生死 了に盡きず,誰か明かにせん 此の胡は是れ仙真なるを。

西海には 若木を栽え,東溟には扶桑を植う。

別來 幾多の時ぞ,枝葉 萬里長し。

中國に七聖有り,半路 洪荒を

#5

陛下應運起,龍飛入咸陽。

赤眉立盆子,白水興漢光。

叱吒四海動,洪濤為簸揚。

舉足踏紫微,天關自開張。

今の天子は、運に乗じて起ち、やがて龍駕は、長安、すなわち、咸陽で天下統一がなされたように、入られ、「武韋の禍」を沈めて開元の治みちびかれた。

かくて、王莽の簒奪と同じような韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。丁度、赤眉の賊が劉金子を立てたようなもので、天子が快復に専念なされるのは、後漢の光武が白水から勃興したるに比すべく、天下は安寧し、「開元の治」といわれるほどの唐王朝の繁栄を迎えたのである。

されば、天子、一度、叱咤すれば、四海の水が動揺して、大きな波が簸って揚がるが如く、天下は忽ち震動し、寰宇が一洗された。

かくて、いよいよ天子の位を臨んで中外に耽命すれば、遠い處の關塞まで、ことごとく開通し、出入も自由で、又これを閉じで守るようなるようなことはない時代にされたのである。

陛下 運に應じて起ち,龍飛 咸陽に入る。

赤眉 盆子を立てて,白水 漢光を興す。

叱吒すれば 四海動き,洪濤すれば 簸揚為にす。

足を舉げて紫微を踏み,天關 自ら開張。

 

『上雲樂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#5

陛下應運起,龍飛入咸陽。

赤眉立盆子,白水興漢光。

叱吒四海動,洪濤為簸揚。

舉足踏紫微,天關自開張。

(下し文)
#5

陛下 運に應じて起ち,龍飛 咸陽に入る。

赤眉 盆子を立てて,白水 漢光を興す。

叱吒すれば 四海動き,洪濤すれば 簸揚為にす。

足を舉げて紫微を踏み,天關 自ら開張。

(現代語訳)
#5

今の天子は、運に乗じて起ち、やがて龍駕は、長安、すなわち、咸陽で天下統一がなされたように、入られ、「武韋の禍」を沈めて開元の治みちびかれた。

かくて、王莽の簒奪と同じような韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。丁度、赤眉の賊が劉金子を立てたようなもので、天子が快復に専念なされるのは、後漢の光武が白水から勃興したるに比すべく、天下は安寧し、「開元の治」といわれるほどの唐王朝の繁栄を迎えたのである。

されば、天子、一度、叱咤すれば、四海の水が動揺して、大きな波が簸って揚がるが如く、天下は忽ち震動し、寰宇が一洗された。

かくて、いよいよ天子の位を臨んで中外に耽命すれば、遠い處の關塞まで、ことごとく開通し、出入も自由で、又これを閉じで守るようなるようなことはない時代にされたのである。


(訳注) #5

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

 

原註に「老胡文康辭、或云范雲及周捨所作、今擬之」とある。胡震亨の説に「梁の武帝、上雲樂を製し、西方の老胡文康、上古より生きるもの設け、青眼高鼻、白髪、孔雀鳳凰、白鹿を導弄し、梁朝を慕って来遊伏拝し、千歳の壽を祝す。周捨、これが詞を爲す。太白の擬作、周捨の本詞にくらべれば、肆を加う、而して、龍飛咸陽の数語、又、この胡、肅宗の朝に遊ぶと謂うものに似たり。亦たおのおのその時に従って、一代の俳樂を備うるのみ」とある

周捨《上雲樂》〈老胡文康辭〉

西方老胡,厥名文康。遨遨六合,傲誕三皇。西觀濛汜,東戲扶桑。南泛大蒙之海,北至無通之。昔與若士為友,共弄彭祖扶床。往年暫到昆侖,複瑤池舉觴。周帝迎以上席,王母贈以玉漿。故乃壽如南山,志若金剛。青眼眢眢,白髮長長。蛾眉臨髭,高鼻垂口。非直能俳,又善飲酒。簫管鳴前,門徒從後。濟濟翼翼,各有分部。鳳皇是老胡家雞,師子是老胡家狗。陛下撥亂反正,再朗三光。澤與雨施,化與風翔。覘雲候呂,志游大樑。重駟修路,始屆帝。伏拜金闕,仰瞻玉堂。從者小子,羅列成行。悉知廉節,皆識義方。歌管愔愔,鏗鼓鏘鏘。響震鈞天,聲若鵷皇。前卻中規矩,進退得宮商。舉技無不佳,胡舞最所長。老胡寄篋中,複有奇樂章。齎持數萬里,原以奉聖皇。乃欲次第,老耄多所忘。但願明陛下,壽千萬,歡樂未渠央

李白は、上記に擬してこの詩を作った。

老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのである。

周捨 469年~524年〕字は升逸,汝南の安城の」人,周顒の子である。宋明帝の泰始五年に生れ,梁武帝普通五年に卒した,年五十六であった。幼いころから聰穎。既に長ず,博學に多く通ず,尤の義理に精ず。善く誦書し,背文し、諷,音韻に清辯した。起家齊太學博士。梁武帝時,拜尚書祠部郎。禮儀損益,多自捨出。歷遷太子右衛率。雖居職屢徙,而常留省。預機密二十余年,稱賢相。性儉素如布衣。以右驍衛將軍知詹事卒,謚簡子。捨著有文集二十卷,(《隋書志》及《兩唐書志》)行於世

 

陛下應運起,龍飛入咸陽。

今の天子は、運に乗じて起ち、やがて龍駕は、長安、すなわち、咸陽で天下統一がなされたように、入られ、「武韋の禍」を沈めて開元の治みちびかれた。

【1】    陛下 玄宗、

【2】    應運起 運に乗じて起ち

【3】    龍飛 玄宗は龍にたとえられる。

◎玄宗は、睿宗の第3子として洛陽で生まれる。母は徳妃竇氏。玄宗が生まれた頃は武則天の武周時代であった。はじめは伯父である皇太子の李弘の養子となっていた。

705年、李隆基が20歳になったとき、祖母の武后が中宗に禅譲することで武周は消滅し、唐が復活したが、朝廷には隆基の叔母で武后の娘である太平公主らを初めとした武后一族の勢力が残存していた。

中宗の皇后である韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。韋后は代わって擁立した殤帝を傀儡とし、自らに禅譲させようと企てていた。

これに対し、隆基の従兄である皇太子・李重俊が韋后に対してクーデターを起こしたが失敗した。隆基はこれを教訓とし、太平公主と協力して韋后排除を計画、710年に計画が実行され、韋后の一族を皆殺しにした。これにより睿宗が復位、隆基はこの功により皇太子に立てられた。

隆基には、睿宗が武則天の傀儡皇帝だった時期に皇太子に立てていた長兄の李憲(成器)がいたが、李憲は弟の才能と功績を認めて皇位継承を放棄したため、皇位継承争いは生じなかった(隆基は皇帝即位後も兄に対しては常に敬意を払い、その死後には皇帝として追号(「譲皇帝」)した)。しかし隆基と太平公主との間には、主導権争いが発生する。これは712年に隆基が睿宗から譲位されたのちに太平公主を殺害し、実権を掌握したことで決着を見る。

 

赤眉立盆子,白水興漢光。

かくて、王莽の簒奪と同じような韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。丁度、赤眉の賊が劉金子を立てたようなもので、天子が快復に専念なされるのは、後漢の光武が白水から勃興したるに比すべく、天下は安寧し、「開元の治」といわれるほどの唐王朝の繁栄を迎えたのである。

【4】    赤眉立盆子 漢末の大農民反乱、王の乱 赤眉の乱という。眉を赤く塗ったためにこの名がある。『周礼』などに範をとった極端に復古的な王莽の政治は,豪族層の利害に反し,農民の生活をも混乱に陥れた。このため建国後各地に反乱が続出した。失政の数々や人間性の問題もあって、王莽は姦臣の代表格として看做されることが多い。呉承恩は、『西遊記』で孫悟空が暴れた時期(山に封じられるまで)を王莽の時代と設定したが、これは「暴君・王位簒奪者・偽天子が皇位にある時、天変地異が起こる」という伝承を王莽の簒奪と重ねていると見られる。

【5】    白水興漢光 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた光武帝のこと劉秀で、新市軍は南陽の豪族の平林軍や劉縯の舂陵軍と連合し、南陽宛城を包囲した後、新皇帝を擁立すべく新市・平林軍の部将らが協議を行った。劉縯擁立の動きもあったが、実績のある有能な人物を擁立すると自らの勢力が弱体化することを恐れた新市・平林軍の部将らはこれを却下し、凡庸な人物と見做されていた劉玄が更始帝として擁立されることとなった。河内の実力者となった劉秀は部下により皇帝即位を上奏された。幽州からの凱旋途中において2度までは固辞したが、3度目の要請には「之を思わん」と返答、『赤伏符』という讖文を奏上された4度目の要請で即位を受諾し6月に即位、元号を建武とした。

 

叱吒四海動,洪濤為簸揚。

されば、天子、一度、叱咤すれば、四海の水が動揺して、大きな波が簸って揚がるが如く、天下は忽ち震動し、寰宇が一洗された。

【6】    叱吒の二句 天下震動、寰宇が一洗されたことを言う。玄宗の前半の治世は「開元の治」と称され、唐の絶頂期と評価されている。玄宗が行った政策は仏教僧達の度牒(現在に例えれば宗教法人資格)の見直し、税制改革、節度使制の導入などである。これらの玄宗初期の政策を玄宗の下で行ったのは武則天に見出された姚崇・宋璟の両宰相である。

 

舉足踏紫微,天關自開張。

かくて、いよいよ天子の位を臨んで中外に耽命すれば、遠い處の關塞まで、ことごとく開通し、出入も自由で、又これを閉じで守るようなるようなことはない時代にされたのである。

【7】    舉足踏紫微 玄宗が皇城紫微殿にふんで天子即位されたこと。

【8】   天關自開張 四遠の關塞に至るまで、ことごとく開通し、出入りを閉じで守ることをする必要がなくなる。

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李白  上雲樂#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。西海栽若木,東溟植扶桑。

別來幾多時,枝葉萬里長。中國有七聖,半路洪荒
しかも、この人類は、生きたり死んだり、終始展轉して居るが、終始転々としている。この文康といふ胡人が、天地と共に生れた眞正の仙人であるということを知っているものもいなかった位だったのである。しかし、その文康は日の沈む西海に若木を栽え、日の上る東海に扶桑を植えた。この二木の間を毎日太陽が度って行くようになり、彼が一度、別れてより、若木も、扶桑も、だんだん大きくなって、その枝葉は、萬里を覆う位になった。それで、ここに、我が大唐は、中国に君とし、高祖より玄宗に至るまで、七代の聖君を経由、半途にして、世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱「武韋の禍」、恰も太古鴻荒の世に逆戻りをしたようであつた。

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年:743年天寶二年43歳 94-14

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    上雲樂

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸      

白水 (京畿道 同州 白水)   

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

 

 

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

金天之西,白日所沒。

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。
#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。

女媧戲黃土,團作愚下人。

まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。

散在六合間,濛濛若沙塵。

宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。

云【ここ】に見る 日月初めて生ずるの時,鑄冶す 火精と水銀と。

陽烏 未だ谷を出ず,顧兔 半ば身を藏す。

女媧 黃土に戲れ,團して 愚下の人と作る。

散じて 六合の間に在り,濛濛として 沙塵の若し。

#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

しかも、この人類は、生きたり死んだり、終始展轉して居るが、終始転々としている。この文康といふ胡人が、天地と共に生れた眞正の仙人であるということを知っているものもいなかった位だったのである。

西海栽若木,東溟植扶桑。

しかし、その文康は日の沈む西海に若木を栽え、日の上る東海に扶桑を植えた。

別來幾多時,枝葉萬里長。

この二木の間を毎日太陽が度って行くようになり、彼が一度、別れてより、若木も、扶桑も、だんだん大きくなって、その枝葉は、萬里を覆う位になった。

中國有七聖,半路洪荒。

それで、ここに、我が大唐は、中国に君とし、高祖より玄宗に至るまで、七代の聖君を経由、半途にして、世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱「武韋の禍」、恰も太古鴻荒の世に逆戻りをしたようであつた。

生死 了に盡きず,誰か明かにせん 此の胡は是れ仙真なるを。

西海には 若木を栽え,東溟には扶桑を植う。

別來 幾多の時ぞ,枝葉 萬里長し。

中國に七聖有り,半路 洪荒を

 

 

『上雲樂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

西海栽若木,東溟植扶桑。

別來幾多時,枝葉萬里長。

中國有七聖,半路洪荒

(下し文)
#4

生死 了に盡きず,誰か明かにせん 此の胡は是れ仙真なるを。

西海には 若木を栽え,東溟には扶桑を植う。

別來 幾多の時ぞ,枝葉 萬里長し。

中國に七聖有り,半路 洪荒を


(現代語訳)
#4

しかも、この人類は、生きたり死んだり、終始展轉して居るが、終始転々としている。この文康といふ胡人が、天地と共に生れた眞正の仙人であるということを知っているものもいなかった位だったのである。

しかし、その文康は日の沈む西海に若木を栽え、日の上る東海に扶桑を植えた。

この二木の間を毎日太陽が度って行くようになり、彼が一度、別れてより、若木も、扶桑も、だんだん大きくなって、その枝葉は、萬里を覆う位になった。

それで、ここに、我が大唐は、中国に君とし、高祖より玄宗に至るまで、七代の聖君を経由、半途にして、世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱「武韋の禍」、恰も太古鴻荒の世に逆戻りをしたようであつた。


(訳注) #4

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

 

原註に「老胡文康辭、或云范雲及周捨所作、今擬之」とある。胡震亨の説に「梁の武帝、上雲樂を製し、西方の老胡文康、上古より生きるもの設け、青眼高鼻、白髪、孔雀鳳凰、白鹿を導弄し、梁朝を慕って来遊伏拝し、千歳の壽を祝す。周捨、これが詞を爲す。太白の擬作、周捨の本詞にくらべれば、肆を加う、而して、龍飛咸陽の数語、又、この胡、肅宗の朝に遊ぶと謂うものに似たり。亦たおのおのその時に従って、一代の俳樂を備うるのみ」とある

周捨《上雲樂》〈老胡文康辭〉

西方老胡,厥名文康。遨遨六合,傲誕三皇。西觀濛汜,東戲扶桑。南泛大蒙之海,北至無通之。昔與若士為友,共弄彭祖扶床。往年暫到昆侖,複瑤池舉觴。周帝迎以上席,王母贈以玉漿。故乃壽如南山,志若金剛。青眼眢眢,白髮長長。蛾眉臨髭,高鼻垂口。非直能俳,又善飲酒。簫管鳴前,門徒從後。濟濟翼翼,各有分部。鳳皇是老胡家雞,師子是老胡家狗。陛下撥亂反正,再朗三光。澤與雨施,化與風翔。覘雲候呂,志游大樑。重駟修路,始屆帝。伏拜金闕,仰瞻玉堂。從者小子,羅列成行。悉知廉節,皆識義方。歌管愔愔,鏗鼓鏘鏘。響震鈞天,聲若鵷皇。前卻中規矩,進退得宮商。舉技無不佳,胡舞最所長。老胡寄篋中,複有奇樂章。齎持數萬里,原以奉聖皇。乃欲次第,老耄多所忘。但願明陛下,壽千萬,歡樂未渠央

李白は、上記に擬してこの詩を作った。

老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのである。

周捨 469年~524年〕字は升逸,汝南の安城の」人,周顒の子である。宋明帝の泰始五年に生れ,梁武帝普通五年に卒した,年五十六であった。幼いころから聰穎。既に長ず,博學に多く通ず,尤の義理に精ず。善く誦書し,背文し、諷,音韻に清辯した。起家齊太學博士。梁武帝時,拜尚書祠部郎。禮儀損益,多自捨出。歷遷太子右衛率。雖居職屢徙,而常留省。預機密二十余年,稱賢相。性儉素如布衣。以右驍衛將軍知詹事卒,謚簡子。捨著有文集二十卷,(《隋書志》及《兩唐書志》)行於世

 

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

しかも、この人類は、生きたり死んだり、終始展轉して居るが、終始転々としている。この文康といふ胡人が、天地と共に生れた眞正の仙人であるということを知っているものもいなかった位だったのである。

【23】    誰明此胡 誰あろう、この文康といふ胡人が明らかにそうである。

【24】    仙真 眞正の仙人であるということ。

 

西海栽若木,東溟植扶桑。

しかし、その文康は日の沈む西海に若木を栽え、日の上る東海に扶桑を植えた。

【25】   西海栽若木 西海に若木を栽える。山海經 「灰野山,山上有一種紅顏色的樹木,青色的葉子紅色的花,名叫若木。日入處也。」灰野の山,山の上に一種の紅顏色の樹木有り,青色の葉子、紅色の花,名を若木と叫う。日入るの處なり。) 淮南子(形訓7)「若木在建木西,末有十日,其華照下地。」(若木は建木の西に在り,末に十日有り,其の華 下地を照す。)

【26】    東溟植扶桑 東海に扶桑を植える。 《十洲記》曰:「扶桑在碧海中,上有天帝宮,東王所治,有椹樹,長數千丈,二千圍,同根更相依倚,故曰扶桑,仙人食根,體作紫色,其樹雖大,椹如中夏桑也。九千一生實,味甘香。」(曰く:扶桑 碧海中に在り,上天帝の宮に有り,東王治むる所,椹樹有り,長數 千丈,二千圍,同根して更に相い依倚し,故に扶桑と曰く,仙人 根を食し,體 紫色を作し,其の樹 大なると雖も,椹 夏桑を中るが如く也。九千 一生の實,味は甘香なり。)

  

別來幾多時,枝葉萬里長。

この二木の間を毎日太陽が度って行くようになり、彼が一度、別れてより、若木も、扶桑も、だんだん大きくなって、その枝葉は、萬里を覆う位になった。

 

中國有七聖,半路洪荒。

それで、ここに、我が大唐は、中国に君とし、高祖より玄宗に至るまで、七代の聖君を経由、半途にして、世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱「武韋の禍」、恰も太古鴻荒の世に逆戻りをしたようであつた。

【27】   中國有七聖 唐は、618 - 907年、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。高祖、太宗、高宗、中宗、睿宗(武則天)、殤帝、玄宗と武則天を挟んで七人の天子がついている。太宗期「貞観の治」玄宗期「開元の治」と徳と繁栄の最もよい時期を経験している。

【28】   半路洪荒 唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐(唐の高句麗出兵)が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて武后(武則天)とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって専権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後、690年の簒奪により(載初元年)国号を周と改めた(武周)。武則天が老境に入って床にあることが多くなると権威は衰え、705年(神龍元年)、宰相張柬之に退位を迫られた。こうして武則天が退位させた息子の中宗が再び帝位に就き、周は115年で滅亡した。しかし今度は、中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺した。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とした後簒奪を画策したが、中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主の蜂起により敗れた韋后は族殺され、武則天が廃位させた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を2人の皇后の姓を取って「武韋の禍」と呼ぶ。

李白333-#3 《巻二25-上雲樂》 #3Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(14)  Ⅰ李白詩1651 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6803

李白  上雲樂#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。陽烏未出谷,顧兔半藏身。

女媧戲黃土,團作愚下人。散在六合間,濛濛若沙塵。
おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。

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  孟郊 張籍          
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年:743年天寶二年43歳 94-14

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    上雲樂

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸      

白水 (京畿道 同州 白水)   

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

 

 

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

金天之西,白日所沒。

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。
#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。

女媧戲黃土,團作愚下人。

まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。

散在六合間,濛濛若沙塵。

宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。

云【ここ】に見る 日月初めて生ずるの時,鑄冶す 火精と水銀と。

陽烏 未だ谷を出ず,顧兔 半ば身を藏す。

女媧 黃土に戲れ,團して 愚下の人と作る。

散じて 六合の間に在り,濛濛として 沙塵の若し。

#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

西海栽若木,東溟植扶桑。

別來幾多時,枝葉萬里長。

中國有七聖,半路洪荒。

生死 了に盡きず,誰か明かにせん 此の胡は是れ仙真なるを。

西海には 若木を栽え,東溟には扶桑を植う。

別來 幾多の時ぞ,枝葉 萬里長し。

中國に七聖有り,半路 洪荒を

 

 

『上雲樂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

女媧戲黃土,團作愚下人。

散在六合間,濛濛若沙塵。

(下し文)


(現代語訳)
#3

おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、

その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。

まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。

宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。


(訳注) #3

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

 

原註に「老胡文康辭、或云范雲及周捨所作、今擬之」とある。胡震亨の説に「梁の武帝、上雲樂を製し、西方の老胡文康、上古より生きるもの設け、青眼高鼻、白髪、孔雀鳳凰、白鹿を導弄し、梁朝を慕って来遊伏拝し、千歳の壽を祝す。周捨、これが詞を爲す。太白の擬作、周捨の本詞にくらべれば、肆を加う、而して、龍飛咸陽の数語、又、この胡、肅宗の朝に遊ぶと謂うものに似たり。亦たおのおのその時に従って、一代の俳樂を備うるのみ」とある

周捨《上雲樂》〈老胡文康辭〉

西方老胡,厥名文康。遨遨六合,傲誕三皇。西觀濛汜,東戲扶桑。南泛大蒙之海,北至無通之。昔與若士為友,共弄彭祖扶床。往年暫到昆侖,複瑤池舉觴。周帝迎以上席,王母贈以玉漿。故乃壽如南山,志若金剛。青眼眢眢,白髮長長。蛾眉臨髭,高鼻垂口。非直能俳,又善飲酒。簫管鳴前,門徒從後。濟濟翼翼,各有分部。鳳皇是老胡家雞,師子是老胡家狗。陛下撥亂反正,再朗三光。澤與雨施,化與風翔。覘雲候呂,志游大樑。重駟修路,始屆帝。伏拜金闕,仰瞻玉堂。從者小子,羅列成行。悉知廉節,皆識義方。歌管愔愔,鏗鼓鏘鏘。響震鈞天,聲若鵷皇。前卻中規矩,進退得宮商。舉技無不佳,胡舞最所長。老胡寄篋中,複有奇樂章。齎持數萬里,原以奉聖皇。乃欲次第,老耄多所忘。但願明陛下,壽千萬,歡樂未渠央

李白は、上記に擬してこの詩を作った。

老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのである。

周捨 469年~524年〕字は升逸,汝南の安城の」人,周顒の子である。宋明帝の泰始五年に生れ,梁武帝普通五年に卒した,年五十六であった。幼いころから聰穎。既に長ず,博學に多く通ず,尤の義理に精ず。善く誦書し,背文し、諷,音韻に清辯した。起家齊太學博士。梁武帝時,拜尚書祠部郎。禮儀損益,多自捨出。歷遷太子右衛率。雖居職屢徙,而常留省。預機密二十余年,稱賢相。性儉素如布衣。以右驍衛將軍知詹事卒,謚簡子。捨著有文集二十卷,(《隋書志》及《兩唐書志》)行於世

 

 

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、

【1】   火精與水銀 火精は日、水銀は月。淮南子の天文訓に「積陽之熱氣生火,火氣之精者為日;積陰之寒氣為水,水氣之精者為月。」(積陽の熱気、火を生ず、火気の精なるものは日となる。積陰の寒気、水となる。水気の精なるものは月となる)とある。

 

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。

【2】   陽鳥 日に同じ。初學記【火精陽德】《范子•計然》曰:日者,火精也。陽鳥日中之鳥也」「范子計然日く、日は火の精なり、陽鳥は日中の鳥なり」と ある。

【3】   谷 暘谷、東方に在って日のいずるところ。

顧兎 月中の兎。《楚辞、第三巻「天問」》「夜光何徳、死則又育。厥利維何、而顧兔在腹。夜光何の德ぞ、死すれば則ち又育す。、厥【そ】の利維れ何ぞ、而して顧菟【こと】腹に在り)“夜光(月)には何の徳があるのだろうか、欠けたと思ったらまた満ちてくる。何の利があって、腹にウサギを住まわせているのか。”とある。

 

女媧戲黃土,團作愚下人。

まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。

【4】   女媧戯黃土 太平御覧に風俗通を引いて「俗説天地開闢、未有人民、女媧搏黄土作人。劇務、力不暇供、乃引縄絙于泥中、挙以為人。」(俗説、天地はじめて開闕、未だ人民あらず。女媧、黄土を團して、入を爲る。劇務、力不暇供、乃引縄絙于泥中、挙以為人。乃ち縄を泥中に引いて以て人を爲る。

叉《錄異記》「房州上庸界有伏羲女媧廟,雲是摶土為人民之所在,古跡在焉。」(房州上庸界に伏義女媧の廟あり、云う是れ、土を撫でして人民を爲りしところ、古跡あり)と記してある。

(『太平御覧』)

 天地が開闢したときには人がまだいなかったので、女媧が黄土をまるめて人を造った。

しかし、きわめて劇務であったのに、力を費やす暇がなく、縄を泥の中で引き回し、引き上げて人を造った。

 古人にとって、土は器を作るためのもっとも基本的素材であるし、そして天を父とし、

地を母とする中国文化の視点をよくあらわす。「乃引縄絙于泥中、挙以為人」、すなわち、一人ずつ造るのではなく、縄を泥に引き回して、これを引き上げることによって、大量生産をしたことである。ここの縄は、普通の意味で言う縄ではなく、男根のことであり、ふるい落とされた泥のはねが精液であり、そしてこの行為は男女の交尾を暗示するという説もある。

 

散在六合間,濛濛若沙塵。

宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。

【5】   六合 上下二方に四方をいい、即ち、天地。

【6】   濛濛 1 霧・煙・ほこりなどが立ちこめるさま。「―と砂ぼこりをまき上げる」2 心がぼんやりとしているさま。[名]病気。

李白333-#2 《巻二25-上雲樂》 333-#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(14) <李白333-#2> Ⅰ李白詩1650 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6798

李白  上雲樂 #2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。不睹詭譎貌,豈知造化神。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。撫頂弄盤古,推車轉天輪。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

李白333-#2 《巻二25-上雲樂》 333-#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-14) <李白333-#2> Ⅰ李白詩1650 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6798

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-14

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    上雲樂

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸      

白水 (京畿道 同州 白水)   

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

 

 

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

金天之西,白日所沒。

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。
#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

女媧戲黃土,團作愚下人。

散在六合間,濛濛若沙塵。

云【ここ】に見る 日月初めて生ずるの時,鑄冶す 火精と水銀と。

陽烏 未だ谷を出ず,顧兔 半ば身を藏す。

女媧 黃土に戲れ,團して 愚下の人と作る。

散じて 六合の間に在り,濛濛として 沙塵の若し。

 

Ta唐 長安近郊圖  新02 

『上雲樂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

(下し文)
#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。

(現代語訳)
#2

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

長安城図 作図00
(訳注)

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

【1】   華蓋垂下睫 相香に「眉に華蓋し」とある。眉長くして、下、目を覆うをいう。

【2】    嵩嶽臨上脣。相書に「鼻は中嶽.即ち嵩岳」とある、鼻が大きくして、上唇を壓するが如きをいう。

 

不睹詭譎貌,豈知造化神。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

【3】    詭譎貌 奇怪に同じ。

 

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

【4】   大道 道徳指歸論に「道徳を父と爲し、神明を母となす」とある。

【5】   元氣 孫楚の石人銘に「大象無形、元気爲母、杳兮冥兮、陶冶衆有」とみる。

 

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

【6】   撫頂 頂きは頭に同じ

【7】   盤古 記に「盤古氏は、天地萬物の祖なり」とあり、三五暦記に「天地混沌として、鶏子の如し。盤古、その中に生ず。萬八千歳にして、天地開闢、陽は清んで天となり、陰は濁って地となる。盤古、その中に在って、一日九變、天よりも神、地よりも聖。天に日に高きこと一丈、盤古に日に長ずること一丈、かくのごときこと萬八千歳、天數極めて高く、地數きわめて深く、盤古極めて長し。後、乃ち三皇あり。數はーにおこり、三に立ち、五に成り、七に盛に、九に處る、故に天は地を去ること九万里」とある。

【8】   天輪 呂氏春秋に「天地は車輪の如く、終ればまたはじまる」とある。

李白333 巻二25-《上雲樂》(金天之西,) 333Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(14) <李白333> Ⅰ李白詩1646 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6778

李白  上雲樂#1

金天之西,白日所沒。康老胡雛,生彼月窟。

巉巖容儀,戌削風骨。碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

李白333 巻二25-《上雲樂》(金天之西,) 333Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-14) <李白333> Ⅰ李白詩1646 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6778

 

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-14

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    上雲樂

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸      

白水 (京畿道 同州 白水)   

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

 

 

上雲樂#1

金天之西,白日所沒。

康老胡雛,生彼月窟。

巉巖容儀,戌削風骨。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

女媧戲黃土,團作愚下人。

散在六合間,濛濛若沙塵。

#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

西海栽若木,東溟植扶桑。

別來幾多時,枝葉萬里長。

中國有七聖,半路洪荒。

#5

陛下應運起,龍飛入咸陽。

赤眉立盆子,白水興漢光。

叱吒四海動,洪濤為簸揚。

舉足踏紫微,天關自開張。

#6

老胡感至德,東來進仙倡。

五色師子,九苞鳳凰。

是老胡雞犬,鳴舞飛帝

淋漓颯沓,進退成行。

#7

能胡歌,獻漢酒。

跪雙膝,立兩肘,散花指天舉素手。

拜龍顏,獻聖壽。

北斗戾,南山摧。

天子九九八十一萬長傾萬杯。

 

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

金天之西,白日所沒。

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。

yoshu&choan736 

『上雲樂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

上雲樂#1

金天之西,白日所沒。

康老胡雛,生彼月窟。

巉巖容儀,戌削風骨。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

(下し文)
(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

(現代語訳)
上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。


(訳注)

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

 

原註に「老胡文康辭、或云范雲及周捨所作、今擬之」とある。胡震亨の説に「梁の武帝、上雲樂を製し、西方の老胡文康、上古より生きるもの設け、青眼高鼻、白髪、孔雀鳳凰、白鹿を導弄し、梁朝を慕って来遊伏拝し、千歳の壽を祝す。周捨、これが詞を爲す。太白の擬作、周捨の本詞にくらべれば、肆を加う、而して、龍飛咸陽の数語、又、この胡、肅宗の朝に遊ぶと謂うものに似たり。亦たおのおのその時に従って、一代の俳樂を備うるのみ」とある

周捨《上雲樂》〈老胡文康辭〉

西方老胡,厥名文康。遨遨六合,傲誕三皇。西觀濛汜,東戲扶桑。南泛大蒙之海,北至無通之。昔與若士為友,共弄彭祖扶床。往年暫到昆侖,複瑤池舉觴。周帝迎以上席,王母贈以玉漿。故乃壽如南山,志若金剛。青眼眢眢,白髮長長。蛾眉臨髭,高鼻垂口。非直能俳,又善飲酒。簫管鳴前,門徒從後。濟濟翼翼,各有分部。鳳皇是老胡家雞,師子是老胡家狗。陛下撥亂反正,再朗三光。澤與雨施,化與風翔。覘雲候呂,志游大樑。重駟修路,始屆帝。伏拜金闕,仰瞻玉堂。從者小子,羅列成行。悉知廉節,皆識義方。歌管愔愔,鏗鼓鏘鏘。響震鈞天,聲若鵷皇。前卻中規矩,進退得宮商。舉技無不佳,胡舞最所長。老胡寄篋中,複有奇樂章。齎持數萬里,原以奉聖皇。乃欲次第,老耄多所忘。但願明陛下,壽千萬,歡樂未渠央

李白は、上記に擬してこの詩を作った。

老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのである。

周捨 469年~524年〕字は升逸,汝南の安城の」人,周顒の子である。宋明帝の泰始五年に生れ,梁武帝普通五年に卒した,年五十六であった。幼いころから聰穎。既に長ず,博學に多く通ず,尤の義理に精ず。善く誦書し,背文し、諷,音韻に清辯した。起家齊太學博士。梁武帝時,拜尚書祠部郎。禮儀損益,多自捨出。歷遷太子右衛率。雖居職屢徙,而常留省。預機密二十余年,稱賢相。性儉素如布衣。以右驍衛將軍知詹事卒,謚簡子。捨著有文集二十卷,(《隋書志》及《兩唐書志》)行於世

 

金天之西,白日所沒

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

【1】   金天 西方の天、張衡の《思玄賦》「顧金天而嘆息兮、吾欲往乎西嬉。」とあって、「金天は西方、少昊の主のところなり」とある。

 

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

【2】   康老 音に名高き老いたる胡人。

【3】   胡雛 胡児に同じ。

【4】   月窟 長楊賦に西壓月窟とある。即ち西、月没するに近きところ、蓋し西域極遠の地を示して言う。

 

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

【5】   巉巖 荘子に「太山巉巖たり」とある、高聾り貌.

【6】   戌削 上林賦「渺閻易以戌削」とあり、刻畫してこれを作るがごときを言うとしている。即ち清癯の貌。

 

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

【7】   碧玉炅炅 その日の色、碧にして光あるをいう。 

8】 黄金拳拳 その髪の色黄にして、稍々巻きたるをいう。(金髪縮れ髪) 
大明宮-座標02長安皇城宮城00 

李白332 巻二21-《夜坐吟》(冬夜夜寒覺夜長,) 332Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(13) <李白332> Ⅰ李白詩1645 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6773

李白  夜坐吟   

冬夜夜寒覺夜長,沈吟久坐坐北堂。冰合井泉月入閨,金缸青凝照悲啼。

金缸滅,啼轉多。掩妾淚,聽君歌。歌有聲,妾有情。情聲合,兩無違。

一語不入意,從君萬曲梁塵飛。

この詩は、(冬の夜に、美人の歌うのを聞いて、歌の声のよさよりも歌う心の深さを貴ぶ、いくら歌がうまくっても、その深い意味を理解し表現するのでなければ聞くに足らない、)と詠っている。

冬の夜は長い、夜の寒さがきびしければ厳しいほど、夜がますます長く感じられるものである。うれいの詩を吟じれば沈みこみ、ながい時間をじっと座れば座るほど、北の奥座敷に坐われば、時が過ぎるのも忘れる。寒さが増して井戸に氷がはりつめ、月の光が閨に冷たくさしこんでくる。黄金の油皿の火が青く、こりかたまるほどの長い時間がたっている、悲しい泣きはらした顔を照らしだしている。そのうちに、黄金の油皿の火がきえると、真っ暗ななかに、ますますひどく泣けてくる。わたしは涙を掩うて、あなたのこの歌を聞く。あなたの歌はよい声でまことにうまいが、わたしのこころには情という哀れなものがある。そこで、わたしの情と、上手なあなたの歌を、兩の手のように合わせ、たがいにちぐはぐのないようなものでありたい。一語でも、わたしの心情に響かないなら、あなたがいかに上手に万曲を歌ったとしても、それはただ、梁の上の塵を飛ばすほど澄みきった声であろうと、一向に役には立たず、決して感動を呼び起こすことはないのである。
李白332 巻二21-《夜坐吟》(冬夜夜寒覺夜長,) 332Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-13) <李白332> Ⅰ李白詩1645 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6773

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-13

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    夜坐吟

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

夜坐吟

この詩は、(冬の夜に、人の歌うのを聞いて、歌の声のよさよりも歌う心の深さを貴ぶ、いくら歌がうまくっても、その深い意味を理解し表現するのでなければ聞くに足らない、)と詠っている。

冬夜夜寒覺夜長,沈吟久坐坐北堂。

冬の夜は長い、夜の寒さがきびしければ厳しいほど、夜がますます長く感じられるものである。うれいの詩を吟じれば沈みこみ、ながい時間をじっと座れば座るほど、北の奥座敷に坐われば、時が過ぎるのも忘れる。

冰合井泉月入閨,金缸青凝照悲啼。

寒さが増して井戸に氷がはりつめ、月の光が閨に冷たくさしこんでくる。黄金の油皿の火が青く、こりかたまるほどの長い時間がたっている、悲しい泣きはらした顔を照らしだしている。
金缸滅,啼轉多。

そのうちに、黄金の油皿の火がきえると、真っ暗ななかに、ますますひどく泣けてくる。
掩妾淚,聽君歌。

わたしは涙を掩うて、あなたのこの歌を聞く。
歌有聲,妾有情。

あなたの歌はよい声でまことにうまいが、わたしのこころには情という哀れなものがある。

情聲合,兩無違。

そこで、わたしの情と、上手なあなたの歌を、兩の手のように合わせ、たがいにちぐはぐのないようなものでありたい。

一語不入意,從君萬曲梁塵飛。

一語でも、わたしの心情に響かないなら、あなたがいかに上手に万曲を歌ったとしても、それはただ、梁の上の塵を飛ばすほど澄みきった声であろうと、一向に役には立たず、決して感動を呼び起こすことはないのである。
夜坐吟

冬夜 夜は寒くして 夜の長きを覚ゆ、沈吟 久しく坐して北堂に坐す。

氷は井泉に合し 月は閏に入る、金紅青く凝って悲啼を照らす。

金紅滅し、啼くこと転(うた)た多し。

妾が涙を掩い、君が歌を聴く。

歌には声有り、妾には情有り。

情声合して、両つながら違(たご)う無けん。

一語 意に入らずんば、君が万曲梁塵(りょうじん)の飛ぶに従(ま)かせん。

 

長安城図 作図00
夜坐吟 現代訳と訳註 解説。

(本文)
夜坐吟

冬夜夜寒覺夜長,沈吟久坐坐北堂。

冰合井泉月入閨,金缸青凝照悲啼。

金缸滅,啼轉多。

掩妾淚,聽君歌。

歌有聲,妾有情。

情聲合,兩無違。

一語不入意,從君萬曲梁塵飛。

(含異文)

冬夜夜寒覺夜長,沈吟久坐坐北堂。冰合井泉月入閨,金缸青凝照悲啼【青缸青凝照悲啼】【金缸凝明照悲啼】【青缸凝明照悲啼】。金缸滅【青缸滅】,啼轉多。掩妾淚,聽君歌。歌有聲,妾有情。情聲合,兩無違。一語不入意,從君萬曲梁塵飛。


(下し文)
(夜坐吟)

冬夜 夜は寒くして 夜の長きを覚ゆ、沈吟 久しく坐して北堂に坐す。
氷は井泉に合し 月は閏に入る、金紅青く凝って悲啼を照らす。
金紅滅し、啼くこと転【うた】た多し。
妾が涙を掩い、君が歌を聴く。
歌には声有り、妾には情有り。
情声合して、両つながら違う無けん。
一語 意に入らずんば、君が万曲梁塵の飛ぶに従【ま】かせん。
  
(現代語訳)
この詩は、(冬の夜に、美人の歌うのを聞いて、歌の声のよさよりも歌う心の深さを貴ぶ、いくら歌がうまくっても、その深い意味を理解し表現するのでなければ聞くに足らない、)と詠っている。

冬の夜は長い、夜の寒さがきびしければ厳しいほど、夜がますます長く感じられるものである。うれいの詩を吟じれば沈みこみ、ながい時間をじっと座れば座るほど、北の奥座敷に坐われば、時が過ぎるのも忘れる。
寒さが増して井戸に氷がはりつめ、月の光が閨に冷たくさしこんでくる。黄金の油皿の火が青く、こりかたまるほどの長い時間がたっている、悲しい泣きはらした顔を照らしだしている。
そのうちに、黄金の油皿の火がきえると、真っ暗ななかに、ますますひどく泣けてくる。
わたしは涙を掩うて、あなたのこの歌を聞く。
あなたの歌はよい声でまことにうまいが、わたしのこころには情という哀れなものがある。

そこで、わたしの情と、上手なあなたの歌を、兩の手のように合わせ、たがいにちぐはぐのないようなものでありたい。

一語でも、わたしの心情に響かないなら、あなたがいかに上手に万曲を歌ったとしても、それはただ、梁の上の塵を飛ばすほど澄みきった声であろうと、一向に役には立たず、決して感動を呼び起こすことはないのである。
長安皇城宮城00  
夜坐吟(語訳と訳註)
この詩は、(冬の夜に、美人の歌うのを聞いて、歌の声のよさよりも歌う心の深さを貴ぶ、いくら歌がうまくっても、その深い意味を理解し表現するのでなければ聞くに足らない、)と詠っている。

夜坐吟 

六朝の、飽照の詩集に「代夜坐吟」と題する楽府。「冬夜沈沈夜坐吟、含聲未発已知心。霜入幕、風度林、 朱灯滅、 朱顔尋。体君歌、逐君音、 不貴声、 貴意探。

鮑照 楽府白紵詞 「萬曲不關心。一曲動情多。欲知情厚薄。更聽此聲過。 」

李白も、同じリズムを借り、同じ発想によっている。

 

冬夜夜寒覺夜長、沈吟久坐坐北堂。
冬の夜は長い、夜の寒さがきびしければ厳しいほど、夜がますます長く感じられるものである。うれいの詩を吟じれば沈みこみ、ながい時間をじっと座れば座るほど、北の奥座敷に坐われば、時が過ぎるのも忘れる。
沈吟 かんがえこむこと。うれえなげくこと。

北堂 北向の奥の部室婦人がここに住む。


冰合井泉月入閨、金鉱青凝照悲啼。
寒さが増して井戸に氷がはりつめ、月の光が閨に冷たくさしこんでくる。黄金の油皿の火が青く、こりかたまるほどの長い時間がたっている、悲しい泣きはらした顔を照らしだしている。
冰井合 井戸の水が氷って音を立てる。

 美人の寝室。

悲啼 韓愈《猛虎行》「誰云猛虎惡,中路正悲啼。」(此れを持って誰が猛虎は極悪非道というであろうか、帰るところを失ってその途中でまごついていて悲啼しているというのは、逆に憐れというものではないか。)

396-3 《猛虎行〔猛虎行贈李宗閔〕》韓愈(韓退之) Ⅱ韓昌黎集 巻五 <1043  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4199韓愈詩-396-3


金紅滅、啼轉多。

そのうちに、黄金の油皿の火がきえると、真っ暗ななかに、ますますひどく泣けてくる。
金釭 釭は、ともしぴの油皿。それが黄金づくり。

 ますます。

 

掩妾涙、聴君歌。

わたしは涙を掩うて、あなたのこの歌を聞く。
 女の一人称。


歌有聲、妾有情。

あなたの歌はよい声でまことにうまいが、わたしのこころには情という哀れなものがある。

 

情聾合、兩無違。

そこで、わたしの情と、上手なあなたの歌を、兩の手のように合わせ、たがいにちぐはぐのないようなものでありたい。


一語不入意、従君萬曲梁塵飛。
一語でも、わたしの心情に響かないなら、あなたがいかに上手に万曲を歌ったとしても、それはただ、梁の上の塵を飛ばすほど澄みきった声であろうと、一向に役には立たず、決して感動を呼び起こすことはないのである。
 なるが儘にまかせる。したいようにしなさい、わたしには関係ないことだ。

万曲 情をふくんだ一曲には心を動かされるが、情のない万曲のいい声で歌っても気にもとまらない。

梁塵飛 漢の劉向の《別録》「漢興以來,善雅歌者,魯人虞公,發聲清哀,遠動梁塵。」漢はじまって以来の名歌手といわれる魯の人虞公は、声がすみきっていて、歌うと、梁の上につもった塵までが動いたという美声の故事。

李白331-#3 《巻二18-春日行》 331-#3Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首 <李白331-#3> Ⅰ李白詩1647 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6783

李白  春日行#3

三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿帝不去,留鎬京。安能為軒轅,獨往入窈冥。小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。

かくて天子の徳は、天上にも聞こえ、道教三十六天は、これを迎え来たらしむがために、使者として、仙人を使わされ、その仙人は、いとも軽そうに雲車から降りて、天帝の勅旨を伝え、早く天上に参上されたいといった。ところが、天子は、猶、この土地を去らず、依然として都長安にとどまっておられる。天子の期せられるところは古の黃帝のように、あくまで至上の徳を積み、我が身一つで、杳冥の中に入り、天我契合の聖境に達しようとすることにあるので、今のままでは、いまだ持って足れずとせず、勉めて進もうという大した意気込みである。それで、我々小臣の者たちは、そのかたじけなさに恐れ入り、拝跪して、南山の壽のようにかけず、崩れず、とこしえにこの世におわしまし、そして、陛下は万古から万世までその大名を垂れ、あっぱれな聖天子になられんことを願ってこの詩を奉る次第である。

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年:743年天寶二年43歳 94-12

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    春日行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山  

 

【3分割】

春日行

(君王の遊楽を詞す歌。)

深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。

皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである

佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。

その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。

春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。

すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。

#2

因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。

かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。

三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。

この時しも、三千の美人は、天子の御側に居て、歌笑を爲し、それに合せて、鐘を撃ち鼓を鳴らすと、宮殿も動揺して傾かむばかり。

萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。

今しも、四海おそれなく、万民は聚って舞踏しつつ、太平を謳歌し、天子は、無爲の至徳を以て天下に臨まれるが故に、下民は、自ら安寧である。

#3

三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿

かくて天子の徳は、天上にも聞こえ、道教三十六天は、これを迎え来たらしむがために、使者として、仙人を使わされ、その仙人は、いとも軽そうに雲車から降りて、天帝の勅旨を伝え、早く天上に参上されたいといった。

帝不去,留鎬京。

ところが、天子は、猶、この土地を去らず、依然として都長安にとどまっておられる。

安能為軒轅,獨往入窈冥。

天子の期せられるところは古の黃帝のように、あくまで至上の徳を積み、我が身一つで、杳冥の中に入り、天我契合の聖境に達しようとすることにあるので、今のままでは、いまだ持って足れずとせず、勉めて進もうという大した意気込みである。

小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。

それで、我々小臣の者たちは、そのかたじけなさに恐れ入り、拝跪して、南山の壽のようにかけず、崩れず、とこしえにこの世におわしまし、そして、陛下は万古から万世までその大名を垂れ、あっぱれな聖天子になられんことを願ってこの詩を奉る次第である。

 

 

(春日行)

深宮の高樓 紫清に入る,金は蛟龍を作りて 繡楹を盤る。

佳人 窗に當って白日を弄し,絃は手を將って語って 鳴箏を彈ず。

春風 吹き落つ君王の耳,此の曲 乃ち是れ昇天の行。
#2

因って天池を出でて蓬瀛に泛び,樓船 蹙沓 波浪 驚く。

三千の雙蛾 歌笑を獻じ,鐘を撾ち 鼓を考じ 宮殿傾く。

萬姓 聚舞 太平を歌う,我 無為にして,人自ら寧し。

#3

三十六帝 相い迎えんと欲す,仙人 飄翩 雲軿

帝 去らず,鎬京に留る。

安んぞ能く軒轅と為り,獨り往く 窈冥に入らんと。

小臣 拜して獻ず 南山の壽,陛下萬古垂鴻名。

 

Ta唐 長安近郊圖  新02 

『春日行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿

帝不去,留鎬京。

安能為軒轅,獨往入窈冥。

小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。

(下し文)
#3

三十六帝 相い迎えんと欲す,仙人 飄翩 雲軿を下る。

帝 去らず,鎬京に留る。

安んぞ能く軒轅と為り,獨り往く 窈冥に入らんと。

小臣 拜して獻ず 南山の壽,陛下萬古垂鴻名。

(現代語訳)
#3

かくて天子の徳は、天上にも聞こえ、道教三十六天は、これを迎え来たらしむがために、使者として、仙人を使わされ、その仙人は、いとも軽そうに雲車から降りて、天帝の勅旨を伝え、早く天上に参上されたいといった。

ところが、天子は、猶、この土地を去らず、依然として都長安にとどまっておられる。

天子の期せられるところは古の黃帝のように、あくまで至上の徳を積み、我が身一つで、杳冥の中に入り、天我契合の聖境に達しようとすることにあるので、今のままでは、いまだ持って足れずとせず、勉めて進もうという大した意気込みである。

それで、我々小臣の者たちは、そのかたじけなさに恐れ入り、拝跪して、南山の壽のようにかけず、崩れず、とこしえにこの世におわしまし、そして、陛下は万古から万世までその大名を垂れ、あっぱれな聖天子になられんことを願ってこの詩を奉る次第である。


(訳注) #3
春日行 

(君王の遊楽を詞す歌。)

○春日 春の日が長く、暮れるのが遅いさま。春の日がうららかでのどかなさま。▽「遅遅」は日が長く、のどかなさまをいう。

年中行事は、唐代では史料も増え、政府の儀礼だけでなく、都市における行事の詳細も分かるようになっている。行事の中でも、立春から冬至までの八節(二十四節気参照)と重日が重要視された。唐代の年中行事は、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会であり、宗教的呪術の場でもあった。

 

三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿

かくて天子の徳は、天上にも聞こえ、道教三十六天は、これを迎え来たらしむがために、使者として、仙人を使わされ、その仙人は、いとも軽そうに雲車から降りて、天帝の勅旨を伝え、早く天上に参上されたいといった。

三十六帝 道教三十六天のこと。三十六天罡道教神名,道教稱北斗叢星中有三十六個天罡星,每個天罡星各有一神,共有三十六位神將。兜率天、大梵天、月行天、速行天、智慧天、婆利天、善法堂天、影照天、威德顏天、眾分天、住輪天、清淨天、上行天、缽弘地天、雜地天、山頂天、住峰天、俱吒天、光明天、周行地天、歡喜圓天、波利樹天、摩尼藏天、險岸天、柔軟地天、雜莊嚴天、如意地天、微細行天、密殿中天、寰影上天、音樂天、成輪天,計為三十三天,加以三清所居之清微天、禹餘天、太赤天,合為三十六天。

軿 雲でもって車とする。

長安皇城宮城00 

帝不去,留鎬京。

ところが、天子は、猶、この土地を去らず、依然として都長安にとどまっておられる。

鎬京 西周 (→周 ) 時代の都の名。現在の陝西省西安市の西、澧水をはさんで豊邑の対岸にあったと考えられる。西周の始王である武王は,殷を討ったあと,父文王の営んだ豊京より移ってここを都とし,これが西周の東遷まで続いた。

 

安能為軒轅,獨往入窈冥。

天子の期せられるところは古の黃帝のように、あくまで至上の徳を積み、我が身一つで、杳冥の中に入り、天我契合の聖境に達しようとすることにあるので、今のままでは、いまだ持って足れずとせず、勉めて進もうという大した意気込みである。

軒轅 黃帝、『史記』や『国語・晋語』によると、少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、氏は軒轅氏、または帝鴻氏とも呼ばれ、山海経に登場する怪神・帝鴻と同一のものとする説もある。蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となり、天我契合の聖境に達しようとするにいたった。『史記』はその治世を、従わない者を討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描いている。

窈冥 杳冥。

 

小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。

それで、我々小臣の者たちは、そのかたじけなさに恐れ入り、拝跪して、南山の壽のようにかけず、崩れず、とこしえにこの世におわしまし、そして、陛下は万古から万世までその大名を垂れ、あっぱれな聖天子になられんことを願ってこの詩を奉る次第である。

拜獻 そのかたじけなさに恐れ入り、拝跪すること。厳かな山に対して、海の闊大さにつぃして詩的表現として使われる。山,我不讚美你的壯健, 海,我不歌詠你的闊大

南山壽 「詩経」小雅・天保から》終南山が崩れないように生命や事業がいつまでも続くこと。南山は、長安の南にたたなわる終南山秦嶺山脈のこと。「天保定爾、以莫不興。如山如阜、如岡如陵。如川之方至、以莫不增。・・・如月之恒、如日之升。如南山之壽、不騫不崩。如松柏之茂、無不爾或承。」(天は爾を保定す、以って興らざるなし。山の如く阜の如く、岡の如く陵の如し。川の方に至るが如く、以って增さざるなし。・・・月の恒なるが如く、日の升るが如く。南山の壽の如く、騫けず崩れず。松柏の茂る如く、爾に承くる或らざるなし。)天保から「如」しが九回あり、「天保九如」が「南山之寿」と同じ意味で用いられる。

陛下 「陛」は宮殿の階段。階下にいる近臣を通じて奏上する意から、中国で天子の尊称。

鴻名 大きな名誉。名声。大きな名。

 

李白331-#2 《巻二18-春日行》 331-#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(12) <李白331-#2> Ⅰ李白詩1646 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6778

李白  春日行#2

因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。

三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。

萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。

かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。

この時しも、三千の美人は、天子の御側に居て、歌笑を爲し、それに合せて、鐘を撃ち鼓を鳴らすと、宮殿も動揺して傾かむばかり。

今しも、四海おそれなく、万民は聚って舞踏しつつ、太平を謳歌し、天子は、無爲の至徳を以て天下に臨まれるが故に、下民は、自ら安寧である。

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  2015年10月18日 の紀頌之5つのBlog  
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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年:743年天寶二年43歳 94-12

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    春日行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山  

 

【3分割】

春日行

(君王の遊楽を詞す歌。)

深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。

皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである

佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。

その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。

春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。

すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。

#2

因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。

かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。

三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。

この時しも、三千の美人は、天子の御側に居て、歌笑を爲し、それに合せて、鐘を撃ち鼓を鳴らすと、宮殿も動揺して傾かむばかり。

萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。

今しも、四海おそれなく、万民は聚って舞踏しつつ、太平を謳歌し、天子は、無爲の至徳を以て天下に臨まれるが故に、下民は、自ら安寧である。

#3

三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿

帝不去,留鎬京。

安能為軒轅,獨往入窈冥。

小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。

 

 

(春日行)

深宮の高樓 紫清に入る,金は蛟龍を作りて 繡楹を盤る。

佳人 窗に當って白日を弄し,絃は手を將って語って 鳴箏を彈ず。

春風 吹き落つ君王の耳,此の曲 乃ち是れ昇天の行。

因って天池を出でて蓬瀛に泛び,樓船 蹙沓 波浪 驚く。

三千の雙蛾 歌笑を獻じ,鐘を撾ち 鼓を考じ 宮殿傾く。

萬姓 聚舞 太平を歌う,我 無為にして,人自ら寧し。

 

三十六帝 相い迎えんと欲す,仙人 飄翩 雲軿

帝 去らず,鎬京に留る。

安んぞ能く軒轅と為り,獨り往く 窈冥に入らんと。

小臣 拜して獻ず 南山の壽,陛下萬古垂鴻名。

長安城図 作図00 

『春日行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。

三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。

萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。

(下し文)
#2

因って天池を出でて蓬瀛に泛び,樓船 蹙沓 波浪 驚く。

三千の雙蛾 歌笑を獻じ,鐘を撾ち 鼓を考じ 宮殿傾く。

萬姓 聚舞 太平を歌う,我 無為にして,人自ら寧し。

(現代語訳)
#2

かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。

この時しも、三千の美人は、天子の御側に居て、歌笑を爲し、それに合せて、鐘を撃ち鼓を鳴らすと、宮殿も動揺して傾かむばかり。

今しも、四海おそれなく、万民は聚って舞踏しつつ、太平を謳歌し、天子は、無爲の至徳を以て天下に臨まれるが故に、下民は、自ら安寧である。


(訳注)

#2

因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。

かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。

天池 大明宮大掖池、横幅約1km、縦幅、約500mの池。

泛蓬瀛 大掖池に実際に神仙三山(蓬莱、方丈、瀛州)の島々を具現化してある。

樓船 この池に浮べる船。大きな帆船で樓櫓もしっかり作った船。

蹙沓 池が大きいので波が立つことを言う。

波浪驚 さざ波の大きいのがぶっつかりあっておどろく。

 

綱引きも女性が参加できるスポーツであった。中宗はかつて后妃と一緒に、宮女たちの綱引き競技を見物したことがある。また、後宮の女性たちは節句の日にいつも船漕ぎ競争をした。「狸狸な血株を頭に繋って標とし、天上 声を斉えて画境を挙ぐ。却って是れ内人は争意切にして、六宮の羅袖一時に招く」(張砧「上巳楽」)。この詩は六宮の美人が船漕ぎ競争をする賑やかなありさまをよく描写している。

女性の体育活動に関する記録は多くない。しかも大半は宮女・妓優の活動に関するものであるが、それらは古代女性の体育史の空白を補っており、さらにまた古代には女性と体育は縁がなかったとする大方の通論の誤りを正すものである。

女性の娯楽活動は体育活動よりもより豊富であり、参加者の範囲も広かった。

 大明宮-座標02

 

三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。

この時しも、三千の美人は、天子の御側に居て、歌笑を爲し、それに合せて、鐘を撃ち鼓を鳴らすと、宮殿も動揺して傾かむばかり。

三千 宮中の女性の数。玄宗の時は、三万人ともいわれている。杜甫はかつて《観公孫大娘弟子舞剣器行井序》「先帝の侍女八千人」(「公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る行」)と詠い、白居易もまた《長恨歌》」「後宮の佳麗三千人」と言った。これらは決して詩人の誇張ではなく、唐代の宮廷女性は、実際はこの数字をはるかに越えていた。唐の太宗の時、李百薬は上奏して「無用の宮人は、ややもすれば数万に達する」(『全唐文』巻一四二、李百薬「宮人を放つを請うの封事」)といった。『新唐書』の「官者伝」上に、「開元、天宝中、宮嬪はおおよそ四万に至る」と記されている。後者は唐代の宮廷女性の人数に関する最高の具体的な数字であり、まさに盛唐の風流天子玄宗皇帝時代のものである。

雙蛾 この時、妃嬪が百名以上いた、通常の妃賓に100名程度の宮女がつくので、これだけでも、15千人程度、織物から諸作業のもで総員30,000名というもの納得できるものではある。妃嬪に数十名ついて宴がおこなわれれば、

獻歌笑 このころいちばんは、散楽であり、「百戯」とも呼ばれる民間で行われる様々な娯楽のための技芸の総称である。次第に西域の技芸が取り入れられるようになり、盛唐では、宮廷でも左右教坊によって管轄された。散楽は、民間の音楽や角觝など武術、芝居も含まれるが、主流は曲芸や幻術(手品)、であった。内容は、竿木、縄伎(戯縄ともいう)、舞馬(象で行うこともある)、跳丸、弄剣、筋斗(とんぼ)、球伎、馬伎、呑刀、吐火、舞剣、植瓜、種棗、盤舞、杯盤舞などがあった。

撾鐘 銅鐸の鐘をたくさん並べ、踊りながら敲き、仙郷の音楽と言われた。

考鼓 鼓にも音階があり、これも役割を定めて、歌い踊りながら鳴らした。

宮殿傾 数が多く、大迫力であることを言う。

 

萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。

今しも、四海おそれなく、万民は聚って舞踏しつつ、太平を謳歌し、天子は、無爲の至徳を以て天下に臨まれるが故に、下民は、自ら安寧である。

萬姓聚舞歌太平 唐時代の中で、最も生産性が高まり、最も裕福で安定した時代「開元の治」といわれた。この頃の思想は、宮中、後宮というものは、民の生活とかけ離れるほど、天子の威厳威光が高まると考えられ、頽廃に向かうほど、太平になるものとされていた。それぞれことが、ただ一人の天子のためにあるというのである。

李白331-#1 《巻二18-春日行》(深宮高樓入紫清,) 331-#1Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(12) <李白331-#1> Ⅰ李白詩1645 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6773

李白  春日行  

深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。

(君王の遊楽を詞す歌。)

皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである。その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。

李白331-#1 《巻二18-春日行》(深宮高樓入紫清,) 331-#1Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-12) <李白331-#1> Ⅰ李白詩1645 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6773

 

 
  2015年10月17日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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韓愈94-#1《 巻二15岳陽樓別竇司直》 #1 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1558> Ⅱ#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6774  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
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  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
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  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
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年:743年天寶二年43歳 94-12

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    春日行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山  

 

【3分割】

春日行

深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。

佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。

春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。

(君王の遊楽を詞す歌。)

皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである

その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。

すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。

 

因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。

三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。

萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。

 

三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿

帝不去,留鎬京。

安能為軒轅,獨往入窈冥。

小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。

 

 

(春日行)

深宮の高樓 紫清に入る,金は蛟龍を作りて 繡楹を盤る。

佳人 窗に當って白日を弄し,絃は手を將って語って 鳴箏を彈ず。

春風 吹き落つ君王の耳,此の曲 乃ち是れ昇天の行。

因って天池を出でて蓬瀛に泛び,樓船 蹙沓 波浪 驚く。

三千の雙蛾 歌笑を獻じ,鐘を撾ち 鼓を考じ 宮殿傾く。

萬姓 聚舞 太平を歌う,我 無為にして,人自ら寧し。

 

三十六帝 相い迎えんと欲す,仙人 飄翩 雲軿

帝 去らず,鎬京に留る。

安んぞ能く軒轅と為り,獨り往く 窈冥に入らんと。

小臣 拜して獻ず 南山の壽,陛下萬古垂鴻名。

長安城図 作図00 

 

『春日行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

春日行

深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。

佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。

春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。

(下し文)
(春日行)

深宮の高樓 紫清に入る,金は蛟龍を作りて 繡楹を盤る。

佳人 窗に當って白日を弄し,絃は手を將って語って 鳴箏を彈ず。

春風 吹き落つ君王の耳,此の曲 乃ち是れ昇天の行。

(現代語訳)
(君王の遊楽を詞す歌。)

皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである

その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。

すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。


(訳注)

春日行 

(君王の遊楽を詞す歌。)

○春日 春の日が長く、暮れるのが遅いさま。春の日がうららかでのどかなさま。▽「遅遅」は日が長く、のどかなさまをいう。

年中行事は、唐代では史料も増え、政府の儀礼だけでなく、都市における行事の詳細も分かるようになっている。行事の中でも、立春から冬至までの八節(二十四節気参照)と重日が重要視された。唐代の年中行事は、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会であり、宗教的呪術の場でもあった。

元会は、元旦に都である長安の太極宮もしくは大明宮で皇帝が行う朝賀である。元会には各国の使者や百官が集まり、式典を行った。百官は元旦と前後3日間合計7日間休み、元会の儀式が終わると、残る3日新春の訪れを家族と祝った。正月には竹を燃やし、爆竹が鳴らされ、悪霊を追い払った。また、屠蘇酒を飲み、健康を祝い、膠牙糖という水飴を舐めた。

人日節は正月7日に行われた行事である。祝宴が宮廷で行われ、百官に魔よけの人形の切り絵である「人勝」が配られる。この日、7種の野草を使う羮が作られた。

上元節は正月15日の前後3日間続く灯籠祭りであり、元宵節とも呼ばれ、仏教の影響もあって、最も盛んとなった祭りである。上元節の期間中は、夜行の禁が解かれ、都市、田舎を問わず、家ごとに灯籠を掛け連ね、着飾った大勢の見物人が夜通し活動する。大都市では、灯籠を無数に連ねた灯樹、灯輪、山棚などというものが飾られ、都市内各地で見物することができた。上元節の灯籠は、玄宗期に隆盛を迎え、その盛大さは多くの唐詩に唱われている。長安では、皇帝も元宵節を楽しみ、雑踏は非常に激しいもので、落とし物も朝には市中にあちこちに転がったと伝えられる。また、昼間は抜河(綱引き)が行われた。長安以外では、洛陽、揚州、涼州でも大規模な祭りが開かれた。玄宗期の一時期は2月に開かれていた。

探春の宴は早春の野に春の風景を探す行事である。送窮日は、1月最終日で、貧乏神を送り出す行事である。

寒食節は、2月末に、一日中冷たいものを食べる。前後3日間、火を焚くこと、夜間に灯りをつけることを禁じられた。清明節は、31日に寒食節が終わると、一続きで行われる、家で新火をおこし始める行事である。

寒食の用語解説 - 古代中国で、冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたこと。そのころは風雨が激しいので火災予防のためとも、また、一度火を断って新しい火で春を促すためともいう。

上巳節は、33日に行われる河や池の水で身体を洗う行事である「祓禊」が行われる。長安付近では、曲江池や渭水で行った。全体的に行楽のような意味合いを持った行事で、景色を楽しんだり、宴会が開かれたりした。

春の行事:探春の宴、送窮日、寒食節、清明節、上巳節  

長安皇城宮城00 

深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。

皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである

○深宮 宮城の奥深いところ。

○紫清 皇城の上に広がるおおぞら。

○盤繡楹 彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱。・楹 母屋の正面の丸柱. 2((文語文[昔の書き言葉])) 部屋の数を数える.

 

佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。

その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。

○佳人 古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。

○絃將手語 声を出して語り、歌いながら弦を弾く

○彈鳴箏 絃数の多い箏琴、さらに多い瑟琴など弾き、敲いて音を出す、同時に複数絃から音色が出るため高度に難しいとされた。玄宗は数多くの「一芸に秀でたもの」を梨園に集めた。李白は、ここで玄宗の遊楽に対してのことを言っているのであろう。以下、閉じ有名な宮優をあげる。

<張雲容>

全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。

<王大娘>

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。教坊に所属していた妓女。玄宗と楊貴妃の前で雑伎として、頭の上に、頂上に木で山を形作ったものをつけた百尺ある竿を立て、幼児にその中を出入りさせ、歌舞を披露する芸を見せた。その場にいた劉晏がこれを詩にして詠い、褒美をもらっている。

<許和子(永新)

『楽府雑録』『開元天宝遺事』に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥・李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。

安史の乱の時に、後宮のものもバラバラとなり、一士人の得るところとなった。宮中で金吾将軍であった韋青もまた、歌を善くしていたが、彼が広陵の地に乱を避け、月夜に河の上の欄干によりかかっていたところ、船の中からする歌声を聞き、永新の歌と気づいた韋青が船に入っていき、永新と再会し、涙を流しあったという説話が残っている。その士人が死去した後、母親と長安に戻り、民間の中で死去する。最期に母親に、「お母さんの金の成る木は倒れました」と語ったと伝えられる。清代の戯曲『長生殿』にも、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

<念奴>

『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

 

春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。

すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。

昇天行 古樂府昇天行。曹植"日月何肯留"、鮑照"家世宅關輔"。曹植又有《飛龍》、《仙人》、《上仙錄》與《神遊》、《五遊》、《遠遊》、《龍欲昇天》等七篇。如陸士衡《緩聲歌》,皆傷人世不永,俗情險艱,當求神仙翺翔六合之外。其詞蓋出楚歌《遠遊篇》也。昇天行は、曹植の"日月何肯留"とあり、鮑照の"家世宅關輔"とみえる。曹植は又、《飛龍》、《仙人》、《上仙錄》與《神遊》、《五遊》、《遠遊》、《龍欲昇天》等七篇 有る。陸士衡《緩聲歌》の如し,皆 人世 永からず,俗情險艱なるを傷み,當に神仙を求め、六合之外に翺翔すべし。其の詞 蓋し楚歌(楚辞)の《遠遊篇》に出る也。」とある。
大明宮-座標02

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李白  飛龍引,二首之二 #2

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。載玉女,過紫皇,紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

かの嬋娟たる美人どもは、長雲の車に載って、銀河を横切り、やがて、紫微宮において柴皇に謁見した。その時、紫皇は、廣寒宮で白兎が年中杵を搗くといふ仙薬の薬方を黃帝に賜った。この藥方は、まことに貴いもので、これ服用すれば、天は決して老いるものではないが、万が一、天が老いることがあっても、薬を飲んだ仙人はその後やっとおいてゆくというもので、日月星の三光が萎んで仕舞っても、自分の身體だけは、現存すると いうので、つまり、不老長寿の霊薬なのである。然るところ、黄帝、幷に宮女の一行は、帰り途に、ふと、崑崙山の瑤池の方を見下ろして、女仙の大将として知られる西王母は、眉毛が蓬々として、その色は白く、さながら秋の野におりた霜のようで、蕭颯として風に動いている。もし天に後れて老い、三光が凋んでも、その人の身体は、毀れないといふ霊薬があるならば、西王母は、何時までも花顔嬋娟として、若々しくあるべきではないか、このように老い朽ちて、死の迫って居るのを見ると、せっかくの霊薬も、あてには成らず、後宮における「神仙の道」などというものは、断じて、信ずるに足らぬものであるとしか言いようがないのである。

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年:-743年天寶二年43歳 94-11

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  飛龍引,二首之二

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)    

 

 

飛龍引,二首之二

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其二は、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じているが、そんな事は決して有りうべきことではないということをのべる。)

鼎湖流水清且閒,軒轅去時有弓劍。

黃帝昇仙の遺蹟たる鼎湖へ来てみると、流水は古に異ならず、清くして且つ閒である。古來傳うるところに根拠すれば、黄帝上天の後、遺物としては、弓と剣との二つだけが、この鼎湖の側に残って居たとのことである。

古人傳道留其間,後宮嬋娟多花顏。

そして、また、古来伝うるところでは、どこかに行ったのではなく其処にとどまっていたのであり、だから、黃帝の後宮に居た嬋娟たる美人は、鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天し、これも二度とは還らないのである。

乘鸞飛煙亦不還,騎龍攀天造天關。

さて鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天しかえらなかったものたちは、黃帝は龍に乗じて、天上の玉帝のおわします天関に至って、天語をきかれたという。

#2

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

かの嬋娟たる美人どもは、長雲の車に載って、銀河を横切り、やがて、紫微宮において柴皇に謁見した。

載玉女,過紫皇,紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

その時、紫皇は、廣寒宮で白兎が年中杵を搗くといふ仙薬の薬方を黃帝に賜った。この藥方は、まことに貴いもので、これ服用すれば、天は決して老いるものではないが、万が一、天が老いることがあっても、薬を飲んだ仙人はその後やっとおいてゆくというもので、日月星の三光が萎んで仕舞っても、自分の身體だけは、現存すると いうので、つまり、不老長寿の霊薬なのである。

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

然るところ、黄帝、幷に宮女の一行は、帰り途に、ふと、崑崙山の瑤池の方を見下ろして、女仙の大将として知られる西王母は、眉毛が蓬々として、その色は白く、さながら秋の野におりた霜のようで、蕭颯として風に動いている。もし天に後れて老い、三光が凋んでも、その人の身体は、毀れないといふ霊薬があるならば、西王母は、何時までも花顔嬋娟として、若々しくあるべきではないか、このように老い朽ちて、死の迫って居るのを見ると、せっかくの霊薬も、あてには成らず、後宮における「神仙の道」などというものは、断じて、信ずるに足らぬものであるとしか言いようがないのである。

 

(飛龍引,二首の二)

鼎湖の流水 清且閒なり,軒轅去る時 弓劍有り。

古人傳へ道う 其の間に留まると,後宮の嬋娟 花顏多し。

鸞に乘じ 煙を飛ばし亦た還らず,龍に騎し 天を攀じて天關に造る。

#2

天關に造り,天語を聞く,長雲 河車 玉女を載す。

玉女を載せて,紫皇を過ぎ,紫皇 乃ち白兔の擣く所の藥方を賜い,天に後れて老い 三光を彫む。

下 瑤池を視て 王母を見れば,蛾眉 蕭颯として 秋霜の如し。

 

 

『飛龍引,二首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

載玉女,過紫皇,紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

(下し文)
#2

天關に造り,天語を聞く,長雲 河車 玉女を載す。

玉女を載せて,紫皇を過ぎ,紫皇 乃ち白兔の擣く所の藥方を賜い,天に後れて老い 三光を彫む。

下 瑤池を視て 王母を見れば,蛾眉 蕭颯として 秋霜の如し。

(現代語訳)
かの嬋娟たる美人どもは、長雲の車に載って、銀河を横切り、やがて、紫微宮において柴皇に謁見した。

その時、紫皇は、廣寒宮で白兎が年中杵を搗くといふ仙薬の薬方を黃帝に賜った。この藥方は、まことに貴いもので、これ服用すれば、天は決して老いるものではないが、万が一、天が老いることがあっても、薬を飲んだ仙人はその後やっとおいてゆくというもので、日月星の三光が萎んで仕舞っても、自分の身體だけは、現存すると いうので、つまり、不老長寿の霊薬なのである。

然るところ、黄帝、幷に宮女の一行は、帰り途に、ふと、崑崙山の瑤池の方を見下ろして、女仙の大将として知られる西王母は、眉毛が蓬々として、その色は白く、さながら秋の野におりた霜のようで、蕭颯として風に動いている。もし天に後れて老い、三光が凋んでも、その人の身体は、毀れないといふ霊薬があるならば、西王母は、何時までも花顔嬋娟として、若々しくあるべきではないか、このように老い朽ちて、死の迫って居るのを見ると、せっかくの霊薬も、あてには成らず、後宮における「神仙の道」などというものは、断じて、信ずるに足らぬものであるとしか言いようがないのである。


(訳注)

飛龍引,二首之二

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其二は、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じているが、そんな事は決して有りうべきことではないということをのべる。)

琴曲歌詞の古歌である。

其二は史記漢書に載せ司馬相如の大人賦を切り詰めて、十数句に短縮したようなもので、その本意は・玄宗の末年、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じて居られるよう だが、そんな事は決して有りうべきことではないといって、之を諷した一邊にあるので、二詩互いに表裏を爲し、一正一反、各々その妙を極めて居る。

飛龍引,二首之二

鼎湖流水清且,軒轅去時有弓

古人傳道留其,後宮嬋娟多花

乘鸞飛煙亦不,騎龍攀天造天

造天,聞天,長雲河車載玉

載玉,過紫。紫皇乃賜白兔所擣之藥,後天而老彫三

下視瑤池見王,蛾眉蕭颯如秋

●○○●○△○  ○○●○●○●

●○△●△○△  ●○○○○○○

△○○○●△○  △○○○●○○

●○○  △○● △○○○●●●

●●● △●○  ●○●●●●●●○●○ ●○○●○△△

●●○○●△△ △○○●△○○

飛龍引,二首之一

黃帝鑄鼎於荊,鍊丹

丹砂成黃,騎龍飛上太清

雲愁海思令人,宮中綵女顏如

飄然揮手凌紫,從風縱體登鸞

登鸞,侍軒

遨遊青天中,其樂不可

○●●●○○○  ●○○

○○○○○  △○○●●○○

○○●△△○○  ○△●●○△○

○○○●○●○  △△△●○○○

○○○  ●○○

○○○○△  ○●△●○

 

 

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

かの嬋娟たる美人どもは、長雲の車に載って、銀河を横切り、やがて、紫微宮において柴皇に謁見した。

  1. 玉女 仙家の侍女、その美、玉の如きより言う。

 

載玉女,過紫皇,紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

その時、紫皇は、廣寒宮で白兎が年中杵を搗くといふ仙薬の薬方を黃帝に賜った。この藥方は、まことに貴いもので、これ服用すれば、天は決して老いるものではないが、万が一、天が老いることがあっても、薬を飲んだ仙人はその後やっとおいてゆくというもので、日月星の三光が萎んで仕舞っても、自分の身體だけは、現存すると いうので、つまり、不老長寿の霊薬なのである。

  1. 紫皇 紫微宮の大帝、太平御覧の引ける秘要經に「太清九宮、皆僚属あり、その最も高さものを天皇、柴星、玉皇と称す」とある。

  2. 白兔所擣之藥方 《集·相如歌辞九·<董逃行>之四》「教敕凡吏受言,採取神藥若木端,玉兔長跪擣藥蝦蟆丸,奉上陛下一玉柈,服此可得神仙。」(敕凡吏に教し言を受く,取神藥を採って若木の端,玉兔 長跪し 藥蝦蟆丸を擣し,上陛下 一玉柈を奉じ,此の藥を服して神仙を得る可し。)

  3. 後天而老 天は決して老いるものではないが、万が一、天が老いることがあっても、仙人はその後やっとおいてゆくというもの。

  4. 彫三光 三光は日月星、日月星が萎んでも、自分だけは現存している。

 

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

然るところ、黄帝、幷に宮女の一行は、帰り途に、ふと、崑崙山の瑤池の方を見下ろして、女仙の大将として知られる西王母は、眉毛が蓬々として、その色は白く、さながら秋の野におりた霜のようで、蕭颯として風に動いている。もし天に後れて老い、三光が凋んでも、その人の身体は、毀れないといふ霊薬があるならば、西王母は、何時までも花顔嬋娟として、若々しくあるべきではないか、このように老い朽ちて、死の迫って居るのを見ると、せっかくの霊薬も、あてには成らず、後宮における「神仙の道」などというものは、断じて、信ずるに足らぬものであるとしか言いようがないのである。

  1. 下視瑤池 太平廣記に「西王母居るところの宮室九層、玄紫翠丹房、左に瑤池を帯び、右に翠水を環らす」とある。

  2. 蛾眉蕭颯 司馬相如の大人賦に、「吾乃今日睹西王母。然白首戴勝而穴處兮,亦幸有三足烏為之使。」とあると同義、蕭颯は秋霜、即ち白首の意。玄宗の道教に対する姿勢が不純であるということをいう。

    李白は丹砂、金丹、・・・道教を否定するのではなく、頽廃と権力闘争、讒言、暗躍というものを批判しているということである。

 

 

 

飛龍引,二首之二

鼎湖流水清且閒,軒轅去時有弓劍。

古人傳道留其間,後宮嬋娟多花顏。

乘鸞飛煙亦不還,騎龍攀天造天關。

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

載玉女,過紫皇。

紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

 

 

作者:司馬相如 西漢           

《大人賦》

  世有大人兮,在乎中州。宅彌萬里兮,曾不足以少留。悲世俗之迫隘兮,朅輕舉而遠遊。乘絳幡之素蜺兮,載雲氣而上浮。建格澤之脩竿兮,總光耀之采旄。垂旬始以為兮,彗星而為。掉指橋以偃蹇兮,又旖旎以招搖。攬攙搶以為旌兮,靡屈虹而為綢。紅杳渺以眩湣兮,猋風涌而雲浮。駕應龍象輿之蠖略逶麗兮,驂赤螭青虯之蚴蟉宛蜒。低卬夭蟜裾以驕驁兮,詘折隆窮蠼以連卷。沛艾赳仡以儗兮,放散畔岸驤以孱顏。踱輵轄容以委麗兮,蜩蟉偃𤟭以梁倚。糾蓼叫奡蹋以路兮,蔑蒙踊躍騰而狂莅颯芔翕熛至電過兮,煥然霧除霍然雲消。

 

  邪少陽而登太陰兮,與真人乎相求。互折窈窕以右轉兮,橫厲飛泉以正東。悉徵靈圉而選之兮,部署衆神於搖光。使五帝先導兮,反太一而從陵陽。左玄冥而右黔靁兮,前長離而後潏湟。廝征伯僑而役羨門兮,詔岐伯使尚方。祝融警而蹕御兮,清氣氛而後行。屯余車而萬乘兮,綷雲蓋而樹華旗。使句芒其將行兮,吾欲往乎南娭。

 

  歷唐堯於崇山兮,過虞舜於九疑。紛湛湛其差錯兮,雜遝膠葛以方馳。騷擾衝蓯其相紛挐兮,滂濞泱軋麗以林離。鑽羅列聚叢以蘢茸兮,衍曼流爛以陸離。徑入靁室之砰磷鬱律兮,洞出鬼谷之崫。徧覽八紘而觀四荒兮,朅渡九江而越五河。經營炎火而浮弱水兮,杭浮渚涉流沙。奄息總極氾濫水嬉兮,使靈媧鼓琴而舞馮夷。時若薆薆將混濁兮,召屏翳誅風伯而刑雨師。西望崑崙之軋沕洸忽兮,直徑馳乎三危。排閶闔而入帝宮兮,載玉女而與之歸。登閬風而遙集兮,亢鳥騰而壹止。低回陰山翔以紆曲兮,吾乃今日睹西王母。然白首戴勝而穴處兮,亦幸有三足烏為之使。必長生若此而不死兮,雖濟萬世不足以喜。

 

  回車朅來兮道不周,會食幽都。呼吸沆瀣兮餐朝霞,噍咀芝英兮嘰瓊華。侵潯而高縱兮,紛鴻涌而上厲。貫列缺之倒景兮,涉豐隆之滂濞。騁游道而脩降兮,騖遺霧而遠逝。迫區中之隘陜兮,舒節出乎北垠,遺屯騎於玄闕兮,軼先驅於寒門。下崢嶸而無地兮,上嵺廓而無天。視眩眠而亡見兮,聽惝恍而無聞。乘虛無而上假兮,超無友而獨存。

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743年(10329 巻二10-《飛龍引,二首之一》(黃帝鑄鼎於荊山,)

李白  龍引,二首之一

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

登鸞車,侍軒轅。遨遊青天中,其樂不可言。

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。

李白329 巻二10-《飛龍引,二首之一》(黃帝鑄鼎於荊山,) 329Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-10) <李白329> Ⅰ李白詩1642 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6758

 

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94

卷別: 卷一六二      文體: 樂府

詩題: 飛龍引,二首之一

作地點:      長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:      荊山 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)      

 

 

飛龍引,二首之一

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。

丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。

登鸞車,侍軒轅。

やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。

遨遊青天中,其樂不可言。

まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。

(飛龍引,二首之一)

黃帝 鼎を荊山に鑄て,丹砂を鍊る。

丹砂 黃金を成す,龍に騎して 飛んで上る 太清の家。

雲愁 海思 人をして嗟せしむ,宮中の綵女 顏 花の如し。

飄然 手を揮って 紫霞を凌ぐ,風に從い 體を縱にして 鸞車に登る。

鸞車に登り,軒轅に侍す。

遨遊す 青天の中,其の樂や 言う可からず。

 

 

『飛龍引,二首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

飛龍引,二首之一

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。

丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

登鸞車,侍軒轅。

遨遊青天中,其樂不可言。

(下し文)
飛龍引,二首之一

黃帝 鼎を荊山に鑄て,丹砂を鍊る。

丹砂 黃金を成す,龍に騎して 飛んで上る 太清の家。

雲愁 海思 人をして嗟せしむ,宮中の綵女 顏 花の如し。

飄然 手を揮って 紫霞を凌ぐ,風に從い 體を縱にして 鸞車に登る。

鸞車に登り,軒轅に侍す。

遨遊す 青天の中,其の樂や 言う可からず。

(現代語訳)
(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。

丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。

しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。

だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。

やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。

まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。


(訳注)

飛龍引,二首之一

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

琴曲歌詞の古歌である。

 

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。

  1. 黃帝 史記 黃帝采首山銅,鑄鼎於荊山下。鼎既成,有龍垂胡髯下迎黃帝。黃帝上騎,群臣後宮從上者七十餘人,龍乃上去。餘小臣不得上,乃悉持龍髯,龍髯拔,墮,墮黃帝之弓。百姓仰望黃帝既上天,乃抱其弓與胡髯號,故後世因名其處曰鼎湖,其弓曰烏號。」(黄帝、首山の銅を采り、鼎を荊山の下に鑄る。鼎、すで成る。龍有り、胡髯を垂れ、下って黃帝を迎う。黃帝 上り騎す,群臣後宮 從って上る者七十餘人,龍 乃ち上り去る。餘の小臣 上る得ず,乃ち悉く龍髯を持す,龍髯拔け,墮つ,黃帝の弓を墮つ。百姓 仰望すれば黃帝 既に天に上る,乃ち其弓と胡髯とを抱いて號ぶ,故に後世因って其處を名づけて鼎湖と曰い,其の弓を烏號と曰う。)とみえる。

  2. 錬丹砂 《史記、封禅書》「李少君、少君言上曰「祠灶則致物、致物而丹沙可化為黃金、黃金成以為飲食器則益壽、益壽而海中蓬萊僊者乃可見、見之以封禪則不死、黃帝是也。(李少君上に言って曰く「灶を祠れば則ち物を致す、物を致せば、丹沙化して黃金と為るべし、黃金 成って以て飲食の器と為せば則ち壽を益さん、壽を益せば海中蓬萊の僊者 乃ち見る可し、之を見て以て封禪すれば則ち死せず、黃帝 是れなり。)とある。

錬丹砂は煉丹術とも書く。服用すると、不老不死、軽身(身が軽くなり空を飛べる)、鬼神を使役し変身などの超能力をもつ神仙になれるという丹薬を製しようと、昔の中国で盛んに試みられた術。不老不死は、秦(しん)の始皇帝や漢の武帝など、他にかなわぬことのない絶対君主にとって、最後に残った願望であった。薬物書『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』でも、上薬120種はそのための薬で、晋(しん)の葛洪(かっこう)が著した錬丹および神仙に関する書『抱朴子(ほうぼくし)』では上薬を仙薬ともよび、そのままか、簡単な処理だけで単独で服用すれば延命効果があるが、不死を得るには丹薬が必要であるとする。今日の「~丹」という薬名は丹薬に由来する。金の永遠不変性は不老不死に通じるが、天然の金では純度が低くて効果が少ないと考え、金に、丹砂(辰砂(しんしゃ)とも。硫化水銀。これが主原料のため丹薬という)、ヒ素や銅や鉄、それらの化合物、塩化ナトリウム(岩塩)、雲母(うんも)、鶏卵などを加え、加熱などの物理的・化学的処理を施して金の純度を高め(それが可能と考え)、原料の相乗作用にも期待した。硫黄(いおう)や水銀や硫化水銀の化学変化の顕著さや鶏卵の成鳥への変化などは、凡人から神仙への変身に通じるとして有効と考えられた。こうした思想は西洋・イスラムの錬金術と似通っている。現存最古の錬丹術書である後漢(ごかん)末の魏伯陽(ぎはくよう)の『周易参同契(しゅうえきさんどうけい)』は、西方の錬金術の『ヘルメス文書』と同様、隠喩(いんゆ)的象徴的表現に満ちている。中国の場合、金の製造を最終目標とすることもあるが、おもに不老不死を得るために金をつくる点が西方と異なる。水銀やヒ素はごく微量に用いればある種の病気に有効であるが、継続的に大量服用すれば中毒となる。唐代には丹薬を服用して急死したり苦死した皇帝が少なくとも5人はいる。

 神仙になるには丹薬の服用のほか、精神的・肉体的修行を積み、仙人の課する一種の資格試験に合格しなければならない。宋(そう)代ごろからは服薬より精神修養に重点が移り、丹薬製造過程と精神修養の過程を対応させ、前者を外丹、後者を内丹とよんだ。錬金術と同様、錬丹術にもインチキのものもあり、真剣な追求の場合も徒労に終わったが、化学に関する知識の増大、化学物質の発見、実験器具の発達に貢献した。隋(ずい)唐の名医孫思(そんしばく)の『丹経(たんきょう)』(655)記載の「伏火硫黄法」などの処方は火薬の起源となった。

 

丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。

  1. 太清 大空。

 

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。

  1. 雲愁海思 梁の豫章王の詩に「雲悲海思徒揜抑」とあるに本づく。

  2. 綵女 美女に同じ。

 

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。

  1. 縱體 曹植の洛神賦、忽焉縱體、以遨以嬉.の註に「縱體は輕擧の貌」とある。體の輕げなるをいう。

  2. 鸞車 自鸞に引かせて仙人の乗る車。

 

登鸞車,侍軒轅。

やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。

  1. 軒轅 史記に「黃帝は少典の子、姓は公孫、名を軒轅という。土徳の瑞あり、故に黃帝と号す」とある。

 

遨遊青天中,其樂不可言。

まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。

 

 


 

李白  飛龍引,二首之二   

鼎湖流水清且閒,軒轅去時有弓劍。

古人傳道留其間,後宮嬋娟多花顏。

乘鸞飛煙亦不還,騎龍攀天造天關。

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其二は、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じているが、そんな事は決して有りうべきことではないということをのべる。)

黃帝昇仙の遺蹟たる鼎湖へ来てみると、流水は古に異ならず、清くして且つ閒である。古來傳うるところに根拠すれば、黄帝上天の後、遺物としては、弓と剣との二つだけが、この鼎湖の側に残って居たとのことである。

そして、また、古来伝うるところでは、どこかに行ったのではなく其処にとどまっていたのであり、だから、黃帝の後宮に居た嬋娟たる美人は、鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天し、これも二度とは還らないのである。

さて鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天しかえらなかったものたちは、黃帝は龍に乗じて、天上の玉帝のおわします天関に至って、天語をきかれたという。

李白330#1 巻二11-《飛龍引,二首之二》(鼎湖流水清且閒,) 330#1Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-11) <李白330#1> Ⅰ李白詩1643 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6763

 

 

年:-743年天寶二年43歳 94-11

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  飛龍引,二首之二

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)    

 

 

飛龍引,二首之二

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其二は、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じているが、そんな事は決して有りうべきことではないということをのべる。)

鼎湖流水清且閒,軒轅去時有弓劍。

黃帝昇仙の遺蹟たる鼎湖へ来てみると、流水は古に異ならず、清くして且つ閒である。古來傳うるところに根拠すれば、黄帝上天の後、遺物としては、弓と剣との二つだけが、この鼎湖の側に残って居たとのことである。

古人傳道留其間,後宮嬋娟多花顏。

そして、また、古来伝うるところでは、どこかに行ったのではなく其処にとどまっていたのであり、だから、黃帝の後宮に居た嬋娟たる美人は、鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天し、これも二度とは還らないのである。

乘鸞飛煙亦不還,騎龍攀天造天關。

さて鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天しかえらなかったものたちは、黃帝は龍に乗じて、天上の玉帝のおわします天関に至って、天語をきかれたという。

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

載玉女,過紫皇,紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

 

(飛龍引,二首の二)

鼎湖の流水 清且閒なり,軒轅去る時 弓劍有り。

古人傳へ道う 其の間に留まると,後宮の嬋娟 花顏多し。

鸞に乘じ 煙を飛ばし亦た還らず,龍に騎し 天を攀じて天關に造る。

 

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

載玉女,過紫皇,紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

『飛龍引,二首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

飛龍引,二首之二

鼎湖流水清且閒,軒轅去時有弓劍。

古人傳道留其間,後宮嬋娟多花顏。

乘鸞飛煙亦不還,騎龍攀天造天關。

 

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

載玉女,過紫皇,紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

(下し文)
(飛龍引,二首の二)#1

鼎湖の流水 清且閒なり,軒轅去る時 弓劍有り。

古人傳へ道う 其の間に留まると,後宮の嬋娟 花顏多し。

鸞に乘じ 煙を飛ばし亦た還らず,龍に騎し 天を攀じて天關に造る。

 

#2

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

載玉女,過紫皇。

紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

(現代語訳)
(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其二は、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じているが、そんな事は決して有りうべきことではないということをのべる。)

黃帝昇仙の遺蹟たる鼎湖へ来てみると、流水は古に異ならず、清くして且つ閒である。古來傳うるところに根拠すれば、黄帝上天の後、遺物としては、弓と剣との二つだけが、この鼎湖の側に残って居たとのことである。

そして、また、古来伝うるところでは、どこかに行ったのではなく其処にとどまっていたのであり、だから、黃帝の後宮に居た嬋娟たる美人は、鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天し、これも二度とは還らないのである。

さて鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天しかえらなかったものたちは、黃帝は龍に乗じて、天上の玉帝のおわします天関に至って、天語をきかれたという。


(訳注)

飛龍引,二首之二

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其二は、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じているが、そんな事は決して有りうべきことではないということをのべる。)

琴曲歌詞の古歌である。

 

其二は史記漢書に載せ司馬相如の大人賦を切り詰めて、十数句に短縮したようなもので、その本意は・玄宗の末年、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じて居られるやう だが、そんな事は決して有りうべきことではないといって、之を諷した一邊にあるので、二詩互いに表裏を爲し、一正一反、各々その妙を極めて居る。

飛龍引,二首之二

鼎湖流水清且,軒轅去時有弓

古人傳道留其,後宮嬋娟多花

乘鸞飛煙亦不,騎龍攀天造天

造天,聞天,長雲河車載玉

載玉,過紫。紫皇乃賜白兔所擣之藥,後天而老彫三

下視瑤池見王,蛾眉蕭颯如秋

●○○●○△○  ○○●○●○●

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△○○○●△○  △○○○●○○

●○○  △○● △○○○●●●

●●● △●○  ●○●●●●●●○●○ ●○○●○△△

●●○○●△△ △○○●△○○

飛龍引,二首之一

黃帝鑄鼎於荊,鍊丹

丹砂成黃,騎龍飛上太清

雲愁海思令人,宮中綵女顏如

飄然揮手凌紫,從風縱體登鸞

登鸞,侍軒

遨遊青天中,其樂不可

○●●●○○○  ●○○

○○○○○  △○○●●○○

○○●△△○○  ○△●●○△○

○○○●○●○  △△△●○○○

○○○  ●○○

○○○○△  ○●△●○

 

鼎湖流水清且閒,軒轅去時有弓劍。

黃帝昇仙の遺蹟たる鼎湖へ来てみると、流水は古に異ならず、清くして且つ閒である。古來傳うるところに根拠すれば、黄帝上天の後、遺物としては、弓と剣との二つだけが、この鼎湖の側に残って居たとのことである。

  1. 弓劍 か針葉帝が上昇ぜし時鳥軟の弓谷堕したことは、前首に解して置い圭、それから、創私通Lt=とに抱朴子に「茸帝、自ら亡日を揮び、七十日に至って去り、七十日にして還る、喬山に葬る。陵崩ろろや、墓空しくして戸なく、但だ創鳥みろのみ」とあって.同じ事が列仙静にも見えて居る。

  2. 鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)    黄帝は、首山の胴を採掘して荊山の麓で鼎を鋳造した。鼎が完成すると、龍が出現した。あごひげをたらして下って、黄帝を天上に迎えに来た。黄帝は、こうして龍にまたがり昇ることになった。群臣や後宮の女官で従うことを許された者は、わずか七十人あまりだった。小臣はみな昇ることを許されなかった。彼らは天に昇りたくて龍のひげをにぎってはなさなかった。そのため龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた。小臣たちはその弓を抱いて泣いた。後世、その場所を鼎湖【ていこ】と名づけ、その弓を烏号【うごう】といった。李白《巻1809答長安崔少府叔封,遊終南翠微寺,太宗皇帝金沙泉見寄》「鼎湖夢淥水,龍駕空茫然。」

149-2 《答長安崔少府叔封,遊終南翠微寺,太宗皇帝金沙泉見寄 (2)》Index-10 Ⅱ―5-730年開元十八年30歳 李白<149-2> Ⅰ李白詩1343 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5263


古人傳道留其間,後宮嬋娟多花顏。

そして、また、古来伝うるところでは、どこかに行ったのではなく其処にとどまっていたのであり、だから、黃帝の後宮に居た嬋娟たる美人は、鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天し、これも二度とは還らないのである。嬋娟 美好の貌。

 

乘鸞飛煙亦不還,騎龍攀天造天關。

さて鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天しかえらなかったものたちは、黃帝は龍に乗じて、天上の玉帝のおわします天関に至って、天語をきかれたという。天關 天上の宮闕。

李白329 巻二10-《飛龍引,二首之一》(黃帝鑄鼎於荊山,) 329Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(10) <李白329> Ⅰ李白詩1642 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6758

李白  龍引,二首之一

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

登鸞車,侍軒轅。遨遊青天中,其樂不可言。

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。

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年:743年天寶二年43歳 94

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    飛龍引,二首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              荊山 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)       

 

 

飛龍引,二首之一

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。

丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。

登鸞車,侍軒轅。

やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。

遨遊青天中,其樂不可言。

まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。

(飛龍引,二首之一)

黃帝 鼎を荊山に鑄て,丹砂を鍊る。

丹砂 黃金を成す,龍に騎して 飛んで上る 太清の家。

雲愁 海思 人をして嗟せしむ,宮中の綵女 顏 花の如し。

飄然 手を揮って 紫霞を凌ぐ,風に從い 體を縱にして 鸞車に登る。

鸞車に登り,軒轅に侍す。

遨遊す 青天の中,其の樂や 言う可からず。

 

 

『飛龍引,二首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

飛龍引,二首之一

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。

丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

登鸞車,侍軒轅。

遨遊青天中,其樂不可言。

(下し文)
飛龍引,二首之一

黃帝 鼎を荊山に鑄て,丹砂を鍊る。

丹砂 黃金を成す,龍に騎して 飛んで上る 太清の家。

雲愁 海思 人をして嗟せしむ,宮中の綵女 顏 花の如し。

飄然 手を揮って 紫霞を凌ぐ,風に從い 體を縱にして 鸞車に登る。

鸞車に登り,軒轅に侍す。

遨遊す 青天の中,其の樂や 言う可からず。

(現代語訳)
(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。

丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。

しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。

だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。

やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。

まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。


(訳注)

飛龍引,二首之一

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

琴曲歌詞の古歌である。

 

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。

  1. 黃帝 史記 黃帝采首山銅,鑄鼎於荊山下。鼎既成,有龍垂胡髯下迎黃帝。黃帝上騎,群臣後宮從上者七十餘人,龍乃上去。餘小臣不得上,乃悉持龍髯,龍髯拔,墮,墮黃帝之弓。百姓仰望黃帝既上天,乃抱其弓與胡髯號,故後世因名其處曰鼎湖,其弓曰烏號。」(黄帝、首山の銅を采り、鼎を荊山の下に鑄る。鼎、すで成る。龍有り、胡髯を垂れ、下って黃帝を迎う。黃帝 上り騎す,群臣後宮 從って上る者七十餘人,龍 乃ち上り去る。餘の小臣 上る得ず,乃ち悉く龍髯を持す,龍髯拔け,墮つ,黃帝の弓を墮つ。百姓 仰望すれば黃帝 既に天に上る,乃ち其弓と胡髯とを抱いて號ぶ,故に後世因って其處を名づけて鼎湖と曰い,其の弓を烏號と曰う。)とみえる。

  2. 錬丹砂 《史記、封禅書》「李少君、少君言上曰「祠灶則致物、致物而丹沙可化為黃金、黃金成以為飲食器則益壽、益壽而海中蓬萊僊者乃可見、見之以封禪則不死、黃帝是也。(李少君上に言って曰く「灶を祠れば則ち物を致す、物を致せば、丹沙化して黃金と為るべし、黃金 成って以て飲食の器と為せば則ち壽を益さん、壽を益せば海中蓬萊の僊者 乃ち見る可し、之を見て以て封禪すれば則ち死せず、黃帝 是れなり。)とある。

錬丹砂は煉丹術とも書く。服用すると、不老不死、軽身(身が軽くなり空を飛べる)、鬼神を使役し変身などの超能力をもつ神仙になれるという丹薬を製しようと、昔の中国で盛んに試みられた術。不老不死は、秦(しん)の始皇帝や漢の武帝など、他にかなわぬことのない絶対君主にとって、最後に残った願望であった。薬物書『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』でも、上薬120種はそのための薬で、晋(しん)の葛洪(かっこう)が著した錬丹および神仙に関する書『抱朴子(ほうぼくし)』では上薬を仙薬ともよび、そのままか、簡単な処理だけで単独で服用すれば延命効果があるが、不死を得るには丹薬が必要であるとする。今日の「~丹」という薬名は丹薬に由来する。金の永遠不変性は不老不死に通じるが、天然の金では純度が低くて効果が少ないと考え、金に、丹砂(辰砂(しんしゃ)とも。硫化水銀。これが主原料のため丹薬という)、ヒ素や銅や鉄、それらの化合物、塩化ナトリウム(岩塩)、雲母(うんも)、鶏卵などを加え、加熱などの物理的・化学的処理を施して金の純度を高め(それが可能と考え)、原料の相乗作用にも期待した。硫黄(いおう)や水銀や硫化水銀の化学変化の顕著さや鶏卵の成鳥への変化などは、凡人から神仙への変身に通じるとして有効と考えられた。こうした思想は西洋・イスラムの錬金術と似通っている。現存最古の錬丹術書である後漢(ごかん)末の魏伯陽(ぎはくよう)の『周易参同契(しゅうえきさんどうけい)』は、西方の錬金術の『ヘルメス文書』と同様、隠喩(いんゆ)的象徴的表現に満ちている。中国の場合、金の製造を最終目標とすることもあるが、おもに不老不死を得るために金をつくる点が西方と異なる。水銀やヒ素はごく微量に用いればある種の病気に有効であるが、継続的に大量服用すれば中毒となる。唐代には丹薬を服用して急死したり苦死した皇帝が少なくとも5人はいる。

 神仙になるには丹薬の服用のほか、精神的・肉体的修行を積み、仙人の課する一種の資格試験に合格しなければならない。宋(そう)代ごろからは服薬より精神修養に重点が移り、丹薬製造過程と精神修養の過程を対応させ、前者を外丹、後者を内丹とよんだ。錬金術と同様、錬丹術にもインチキのものもあり、真剣な追求の場合も徒労に終わったが、化学に関する知識の増大、化学物質の発見、実験器具の発達に貢献した。隋(ずい)唐の名医孫思(そんしばく)の『丹経(たんきょう)』(655)記載の「伏火硫黄法」などの処方は火薬の起源となった。

 

丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。

  1. 太清 大空。

 

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。

  1. 雲愁海思 梁の豫章王の詩に「雲悲海思徒揜抑」とあるに本づく。

  2. 綵女 美女に同じ。

 

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。

  1. 縱體 曹植の洛神賦、忽焉縱體、以遨以嬉.の註に「縱體は輕擧の貌」とある。體の輕げなるをいう。

  2. 鸞車 自鸞に引かせて仙人の乗る車。

 

登鸞車,侍軒轅。

やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。

  1. 軒轅 史記に「黃帝は少典の子、姓は公孫、名を軒轅という。土徳の瑞あり、故に黃帝と号す」とある。

 

遨遊青天中,其樂不可言。

まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。

李白328 巻二05-《烏夜啼》(黃雲城邊烏欲棲,) 328Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(9) <李白328> Ⅰ李白詩1641 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6753

李白  烏夜啼   

黃雲城邊烏欲棲,歸飛啞啞枝上啼。

機中織錦秦川女,碧紗如煙隔窗語。

停梭悵然憶遠人,獨宿孤房淚如雨。
カラスが鳴いたのは、夫を兵役に出している妻の夫を想うて啼く声という思婦詩であり、李白にとって、烏が泣いたのは官職に取り上げてくれる予言になっている。)夕日の影、薄れさまよい、黄昏の運気が城樓のあたりにたちこめている、この時、歸烏は陣をなしてねぐらにむかおうとして、互いに呼び合って啼き、そのこえは枝にとまって、「ああ」と聞こえる。ここに、深閨の少婦は、烏の羣の失っていないのを見て、自分の愁思に堪えられないのである。この少婦は、今しも、織機を前にして 錦を織っているが、それは秦川氏の妻の故事に学んで、回文を織っているのであろうか、青いうす絹のカーテンは霞のよう窓越しに一人ごとをつぶやいている。この少婦は、今しも、織機を前にして 錦を織っているが、それは秦川氏の妻の故事に学んで、回文を織っているのであろうか、青いうす絹のカーテンは霞のよう窓越しに一人ごとをつぶやいている。

李白328 巻二05-《烏夜啼》(黃雲城邊烏欲棲,) 328Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-9) <李白328> Ⅰ李白詩1641 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6753

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    烏夜啼

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

烏夜啼

黃雲城邊烏欲棲,歸飛啞啞枝上啼。

機中織錦秦川女,碧紗如煙隔窗語。

停梭悵然憶遠人,獨宿孤房淚如雨。

カラスが鳴いたのは、夫を兵役に出している妻の夫を想うて啼く声という思婦詩であり、李白にとって、烏が泣いたのは官職に取り上げてくれる予言になっている。)

夕日の影、薄れさまよい、黄昏の運気が城樓のあたりにたちこめている、この時、歸烏は陣をなしてねぐらにむかおうとして、互いに呼び合って啼き、そのこえは枝にとまって、「ああ」と聞こえる。ここに、深閨の少婦は、烏の羣の失っていないのを見て、自分の愁思に堪えられないのである。

この少婦は、今しも、織機を前にして 錦を織っているが、それは秦川氏の妻の故事に学んで、回文を織っているのであろうか、青いうす絹のカーテンは霞のよう窓越しに一人ごとをつぶやいている。

この少婦は、今しも、織機を前にして 錦を織っているが、それは秦川氏の妻の故事に学んで、回文を織っているのであろうか、青いうす絹のカーテンは霞のよう窓越しに一人ごとをつぶやいている。

 

烏夜啼うやてい

黄雲 城辺 烏棲まんと欲し、帰り飛び  唖唖ああとして枝上に啼く。

機中錦を織る  秦川の女、碧紗へきさ  煙の如く  窓を隔てて語る。

を停め  悵然として遠人を憶う、独り弧房に宿して  涙  雨の如し。

 

 

『烏夜啼』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

烏夜啼

黃雲城邊烏欲棲,歸飛啞啞枝上啼。

機中織錦秦川女,碧紗如煙隔窗語。

停梭悵然憶遠人,獨宿孤房淚如雨。
(含異文)

黃雲城邊烏欲棲,歸飛啞啞枝上啼。機中織錦秦川女【閨中織婦秦川女】【機中織錦秦家女】【閨中織婦秦家女】,碧紗如煙隔窗語。停梭悵然憶遠人【停梭向人問故夫】,獨宿孤房淚如雨【獨宿空房淚如雨】【欲遼西淚如雨】。
(下し文)
烏夜啼【うやてい】

黄雲 城辺 烏棲まんと欲し、帰り飛び  唖唖【ああ】として枝上に啼く。

機中錦を織る  秦川の女、碧紗【へきさ】  煙の如く  窓を隔てて語る。

梭【ひ】を停め  悵然として遠人を憶う、独り弧房に宿して  涙  雨の如し。

(現代語訳)
カラスが鳴いたのは、夫を兵役に出している妻の夫を想うて啼く声という思婦詩であり、李白にとって、烏が泣いたのは官職に取り上げてくれる予言になっている。)

夕日の影、薄れさまよい、黄昏の運気が城樓のあたりにたちこめている、この時、歸烏は陣をなしてねぐらにむかおうとして、互いに呼び合って啼き、そのこえは枝にとまって、「ああ」と聞こえる。ここに、深閨の少婦は、烏の羣の失っていないのを見て、自分の愁思に堪えられないのである。

この少婦は、今しも、織機を前にして 錦を織っているが、それは秦川氏の妻の故事に学んで、回文を織っているのであろうか、青いうす絹のカーテンは霞のよう窓越しに一人ごとをつぶやいている。

この少婦は、今しも、織機を前にして 錦を織っているが、それは秦川氏の妻の故事に学んで、回文を織っているのであろうか、青いうす絹のカーテンは霞のよう窓越しに一人ごとをつぶやいている。


(訳注)

烏夜啼

この詩は(カラスが鳴いたのは、夫を兵役に出している妻の夫を想うて啼く声という思婦詩であり、李白にとって、烏が泣いたのは官職に取り上げてくれる予言になっている。)

烏夜啼は、周の房中葉の遺聲で、江左に謂はゆる梁宋新聲の楽府である。そして、その詞あるは、実に宋の臨川王劉義慶にはじまったのである。樂府古題要解に「宋の元嘉中、彭城王劉義慶を豫章郡に徒す。義慶、時に江州に在り、相見て哭す。文帝聞いて之を怪み、徴して、宅に還らしむ。義慶、大いに懼る。妓妾、鳥の夜啼くを聞き、斎閣を叩いて云ふ、明日應に赦あるべしと。旦に及びで、果して、南兗州刺史に改めらる。これに因って、歌を作る。その詞に云ふ、蘢葱窓不開、鳥夜啼、夜夜望郎來、と。蓋し其妾を詠せしなり」とある。それから、師曠の禽経註に「鳥、雌雄を失えば、夜啼く」といひ、直解に「妾、夫君を望む、烏の雌雄を失うて夜啼くが如きなり」とある。そこで、六朝の作者は、多く鳥啼を借って、惰懐を抒写し、皆この體に沿ひ、大抵、達人を寄懐するを以てその旨とし

たので、李白の此作も、亦た其通りである

・ 「烏夜啼」は周楽府にある。 南北朝、宋の臨川王劉義慶が彭城王劉義康との関係で文帝に怪しまれ、自宅謹慎させられていたとき、カラスが夜啼くのを聞いた女性が「明日はきっとお許しがありましょう。」と予言した。予言は当たったばかりかその年のうちに南袁州の刺史となった。そのことを感謝してこの歌を作った。

黃雲城邊烏欲棲,歸飛啞啞枝上啼。

夕日の影、薄れさまよい、黄昏の運気が城樓のあたりにたちこめている、この時、歸烏は陣をなしてねぐらにむかおうとして、互いに呼び合って啼き、そのこえは枝にとまって、「ああ」と聞こえる。ここに、深閨の少婦は、烏の羣の失っていないのを見て、自分の愁思に堪えられないのである。

・黄雲:夕暮れ時の雲気。黄土の砂煙。 

・城邊:城塞一帯。 

・烏:カラス。 ・欲:…よう。…う。…たい。 

・棲:鳥が巣に宿る。すむ。

・啞啞:〔ああ〕からすなどの啼き声。カーカー。 

・啼:〔てい〕(鳥や虫が)鳴く。

 

機中織錦秦川女,碧紗如煙隔窗語。

この少婦は、今しも、織機を前にして 錦を織っているが、それは秦川氏の妻の故事に学んで、回文を織っているのであろうか、青いうす絹のカーテンは霞のよう窓越しに一人ごとをつぶやいている。

・機中:機(はた)で織り込む。 

・機:はた。はたおる。 

・織錦:錦を織る。夫を思い慕ったことばを回文で織り込む。 

・秦川女:蘇蕙(蘇若蘭)のこと。この句は『晋書・列伝第六十六・列女・竇滔妻蘇氏』砂漠方面に流された夫を思う妻の典型を引用。秦川は長安地方を指す。夫が秦川刺史であったことによるための言い方。回文の錦を織った妻のことで竇滔とうとうの妻の蘇蕙(蘇若蘭)のこと。回文:順序を逆に読めば、別の意味になる文のこと。

・碧紗:緑色のうす絹のカーテン。女性の部屋を謂う。 

・如烟:けむっているかのようである。 

・隔牕語:窓を隔てて話す。

 

 

停梭悵然憶遠人,獨宿孤房淚如雨。
織機の杼()をとめて 心痛めて遠くを臨み、帰り来ぬあの人を憶う、誰もいない部屋にひとり寝してると  涙は雨のように濡らす。

・停梭:ひを(一時的に)とめる。 

・梭:〔さ〕ひ。おさ。機織りの道具。横糸を通す管のついているもの。 

・悵然:恨み嘆くさま。 

・憶:思い出す。 

・遠人:〔えんじん〕遠いところにいる人。遠方へ戦争や守備で行っている人。

・獨宿:ひとりで泊まる。 

・空房:誰もいない家屋。「孤房」ともする。 

・如雨:雨のようである。

 

 

 

烏夜啼うやてい

黄雲 城辺 烏棲まんと欲し、帰り飛び  唖唖ああとして枝上に啼く。

機中錦を織る  秦川の女、碧紗へきさ  煙の如く  窓を隔てて語る。

を停め  悵然として遠人を憶う、独り弧房に宿して  涙  雨の如し。

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將進酒 -2

烹羊宰牛且為樂,會須一飲三百杯。

岑夫子,丹丘生。

將進酒,君莫停。

與君歌一曲,請君為我側耳聽。

鐘鼓饌玉不足貴,但願長醉不願醒。

羊を料理し、牛をころしてごちそうを作り、佳肴、山のようにあり、既にこうして酒盛りする以上は、「一飮三百杯」、朝から晩まで、しばらくのあいだ、ゆっくりと、楽しみごとをするとしよう。
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將進酒 #1

君不見黃河之水天上來,奔流到海不復迴。

君不見高堂明鏡悲白髮,朝如青絲暮成雪。

人生得意須盡歡,莫使金樽空對月。

天生我材必有用,千金散盡還復來。

黄河九曲の水は天上からすさまじい勢いで流れ下る、奔流矢の如く東に向かって流れ、やがていったん海に流れ込めば、もはやは帰ってきたりはしない。人間の歳月、まことに短くして、一日はその日のうちに再び晨になるという事は無い、丁度黄河の流れと同じである
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(

改訂版) 《巻2-8 將進酒》

年:736年開元二十四年36

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  將進酒

作地點:        潁陽(都畿道 / 河南府 / 潁陽)

及地點:平樂樓 (都畿道 河南府 洛陽)      

交遊人物:岑勛  當地交遊(都畿道 河南府 潁陽)

元丹丘        當地交遊(都畿道 河南府 潁陽)

 

將進酒

君不見黃河之水天上來,奔流到海不復迴。

黄河九曲の水は天上からすさまじい勢いで流れ下る、奔流矢の如く東に向かって流れ、やがていったん海に流れ込めば、もはやは帰ってきたりはしない。人間の歳月、まことに短くして、一日はその日のうちに再び晨になるという事は無い、丁度黄河の流れと同じである
君不見高堂明鏡悲白髮,朝如青絲暮成雪。

高堂の上で、澄みわたった鏡を覗き込んで白髪になったことを悲しんでいるものを見よ。朝方は黒い絹糸のような黒髪であったものが、夕暮には、雪のように真っ白になる老いてこんなありさまになってしまったのである。
人生得意須盡歡,莫使金樽空對月。

人生は朝露の如く、若い時は二度とない。そこで得意の折、よろしく十分に歓を尽くして置酒高会、以て興をほしいままにすべく、せっかくの黄金製の酒器をして、空しく明月に対することができるはずのものではなく、こういう場合には、どしどし酒を傾けるのがよろしいのだ。 
天生我材必有用,千金散盡還復來。

2

烹羊宰牛且為樂,會須一飲三百杯。

岑夫子,丹丘生。

將進酒,君莫停。

與君歌一曲,請君為我側耳聽。

鐘鼓饌玉不足貴,但願長醉不願醒。

3

古來聖賢皆寂寞,惟有飲者留其名。

陳王昔時宴平樂,斗酒十千恣讙謔。

主人何為言少錢,徑須沽取對君酌。

五花馬,千金裘。

呼兒將出換美酒,與爾同銷萬古愁。

 

(改訂版) 《巻2-8 將進酒》

『將進酒』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

將進酒

君不見黃河之水天上來,奔流到海不復迴。

君不見高堂明鏡悲白髮,朝如青絲暮成雪。

人生得意須盡歡,莫使金樽空對月。

天生我材必有用,千金散盡還復來。

(下し文)
(將進酒)

君見ずや 黄河の水 天上より来り、奔流し海に到ってまた廻【かへ】らざるを。

君見ずや 高堂の明鏡 白髪を悲しむを、朝は青糸のごときも暮には雪をなす。

人生意を得ればすべからく歓を尽くすべし、金樽をしてむなしく月に対(むか)はしむるなかれ。

天のわが材を生ずる必ず用あればなり、千金も散じ尽せばまたまた来る。

(現代語訳)

(富貴貧賤、皆一時の事であり、くよくよ考える事は無い、ただ飲んで酔えばよいのだ、だから、酒をお勧めしよう)

黄河九曲の水は天上からすさまじい勢いで流れ下る、奔流矢の如く東に向かって流れ、やがていったん海に流れ込めば、もはやは帰ってきたりはしない。人間の歳月、まことに短くして、一日はその日のうちに再び晨になるという事は無い、丁度黄河の流れと同じである
高堂の上で、澄みわたった鏡を覗き込んで白髪になったことを悲しんでいるものを見よ。朝方は黒い絹糸のような黒髪であったものが、夕暮には、雪のように真っ白になる老いてこんなありさまになってしまったのである。
人生は朝露の如く、若い時は二度とない。そこで得意の折、よろしく十分に歓を尽くして置酒高会、以て興をほしいままにすべく、せっかくの黄金製の酒器をして、空しく明月に対することができるはずのものではなく、こういう場合には、どしどし酒を傾けるのがよろしいのだ。 
そもそも天が、わたしにこの才能を生しめたのは、けっしてぐうぜんでも、むいみでもなく、必ずどこかに役立てようとしたためである。確かに今不遇で、抑鬱であるが自暴自棄はよくないと思ってはいるが、富貴貧賤、皆一時の事であり、千金一擲して散じつくすともまた、戻って嚢中にはいることもあるであろう。

(訳注) (改訂版) 《巻2-8 將進酒》

將進酒
(富貴貧賤、皆一時の事であり、くよくよ考える事は無い、ただ飲んで酔えばよいのだ、だから、酒をお勧めしよう)

漢の鼓吹鐃歌十八曲の一つに、將進酒があり、六朝以降、楽府旧題。鼓吹曲辭になる。古詩には、「將進酒乘太白」とあり、宋の何承天の將進酒篇には、將進酒慶三朝備繁禮薦佳肴とある。まさに酒をお勧めしようの意になる。楽府題の音楽と題名を使って自分の気持ちを表している。

この詩は、古楽府題をとりながら、詩中に、李白・元丹邱・岑夫子と具体的な固有名詞を登場させている。通常は故人、逸話が基本である。


君不見黄河之水天上來、奔流到海不復回。

黄河九曲の水は天上からすさまじい勢いで流れ下る、奔流矢の如く東に向かって流れ、やがていったん海に流れ込めば、もはやは帰ってきたりはしない。人間の歳月、まことに短くして、一日はその日のうちに再び晨になるという事は無い、丁度黄河の流れと同じである
○君不見 あなた、ご覧なさい。詩をみている人(聞いている人)に対する呼びかけ。樂府体に使われる。 

○黄河之水 黄河の流れ。 ・天上來:天上より流れ来る。黄河の源は九曲であり、伝説の崑崙とされていた。 

・奔流 激しい勢いの流れ。 

到海 海に到る。 

不復 二度とは…ない。永遠に…ない。一度も…ない、ということ。 

回 かえる。もどる。


君不見高堂明鏡悲白髮、朝如青絲暮成雪。

高堂の上で、澄みわたった鏡を覗き込んで白髪になったことを悲しんでいるものを見よ。朝方は黒い絹糸のような黒髪であったものが、夕暮には、雪のように真っ白になる老いてこんなありさまになってしまったのである。
○高堂 立派なお屋敷の主要な表座敷、高貴な人々というの意味もある。 

○明鏡 澄みわたった鏡。1 曇りのない鏡。2すぐれた手本。 明鏡止水:邪念がなく、澄み切って落ち着いた心の形容。

○悲白髮 鏡を覗き込んで、白髪の老齢になったことを悲しむ。
○「朝」「暮」は、一日のうちの日の出、日の入りを指すが、ここでは人生の「朝」「暮」の時期のことをいう。 ・朝 あさ。あした。 

○青絲 黒い絹糸。黒髪のこと。緑の黒髪。「青」は黒いことをも指す。“青布”“青鞋”。 青絲曲。青絲白馬、

《巻2-8 將進酒》「朝如青絲暮成雪。」

《巻五 陌上桑》「青絲結金絡。 不知誰家子。」

《巻五 搗衣篇》「愿為雙燕泛中洲。 君邊云擁青絲騎。」

《卷12-18 新林浦阻風寄友人》 今朝東門柳。 夾道垂青絲。」

《巻二十二 待酒不至》 「玉壺系青絲、沽酒來何遲。」

○暮 夕方。 

○成雪 雪のように真っ白になる。


人生得意須盡歡、莫使金尊空對月。
人生は朝露の如く、若い時は二度とない。そこで得意の折、よろしく十分に歓を尽くして置酒高会、以て興をほしいままにすべく、せっかくの黄金製の酒器をして、空しく明月に対することができるはずのものではなく、こういう場合には、どしどし酒を傾けるのがよろしいのだ。 
○人生 人が生きる。人生。 

○得意 自分の気持にかなうこと。目的を達して満足していること。意を得る。また、自分の気持を理解する人。 

○須 する、必要がある。せねばならぬ。すべからく…べし。 

○盡歡 充分に楽しむ。よろこびをしつくす。歓楽を尽くす。
○莫使 …させてはいけない。…に…させてはいけない

○金尊 黄金製の酒器。また、黄金の大酒樽()。真鍮製のものと考えられる。 

○空 むなしく。無意味に。 

○對月 月に向かう。

 

天生我材必有用、千金散盡還復來。
そもそも天が、わたしにこの才能を生しめたのは、けっしてぐうぜんでも、むいみでもなく、必ずどこかに役立てようとしたためである。確かに今不遇で、抑鬱であるが自暴自棄はよくないと思ってはいるが、富貴貧賤、皆一時の事であり、千金一擲して散じつくすともまた、戻って嚢中にはいることもあるであろう。
○天生 天は…を生む。また、生まれつき。 

○我材 わたしという人材。 

○必有用 きっと、用いるところがあるはずだ

○千金 大金。 

○散盡 使い果たす。 

還復來 また再び帰ってくる。

 

 

 

將進酒
君不見黄河之水天上來,奔流到海不復回。
君不見高堂明鏡悲白髮,朝如青絲暮成雪。
人生得意須盡歡,莫使金尊空對月。
天生我材必有用,千金散盡還復來。
烹羊宰牛且爲樂,會須一飮三百杯。
岑夫子,丹丘生。
將進酒,杯莫停。
與君歌一曲,請君爲我傾耳聽。
鐘鼓饌玉不足貴,但願長醉不用醒。
古來聖賢皆寂寞,惟有飮者留其名。
陳王昔時宴平樂,斗酒十千恣歡謔。
主人何爲言少錢,徑須沽取對君酌。
五花馬,千金裘。
呼兒將出換美酒,與爾同銷萬古愁。

將進酒
君見ずや 黄河の水 天上より来り、奔流し海に到ってまた廻【かへ】らざるを。
君見ずや 高堂の明鏡 白髪を悲しむを、朝は青糸のごときも暮には雪をなす。
人生意を得ればすべからく歓を尽くすべし、金樽をしてむなしく月に対(むか)はしむるなかれ。
天のわが材を生ずる必ず用あればなり、千金も散じ尽せばまたまた来る。
羊を烹【に】、牛を宰【に】て しばらく楽みをなせ、かならずすべからく一飲三百杯なるべし。
岑夫子【しんぷうし】 丹邱生、酒を進む君停(とどむ)るなかれ。
君のため一曲を歌わん、請う君わがために 耳を側【そばだ】てて 聴け。
鐘鼓 饌玉【せんぎょく】 は貴ぶに足らず、玉餞に同じくりっぱな料理、ただ長酔を願うて醒むるを願はず。
古来 聖賢みな寂寞、ただ飲者のその名を留むるあるのみ。
陳王 昔時 平楽に宴する 魏の陳思王曹植、曹操の子で詩人としても名高い。

道観の名、斗酒十千 歓謔を悉(ほしいまま)にす。 
主人 なんすれ 銭少しという、ただちにすべからく沽【か】い取り 君に対して酌むべし。
五花の馬 千金の裘。 
児を呼びもち出でて美酒に換へ、なんじとともに銷【け】さん 万古の愁。 

 

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196(改訂版) 《巻2-20前有一樽酒行【前有樽酒行】,二首之二(琴奏龍門之綠桐)》Index-12 Ⅱ―7 -732年開元二十年32 12首 <196> Ⅰ李白詩1421 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5653

 

年:-732年開元二十年32

卷別:    卷一六二               李太白集巻二 20首目  文體:             樂府

詩題:    前有一樽酒行,二首之二【前有樽酒行】

作地點:              洛陽(都畿道 / 河南府 / 洛陽)

 

 前有一樽酒行,二首之一【前有樽酒行】

(古楽府の同題詩は賓主の長寿を祝うものであるが、李白はこの詩では、時に及んでまさに行楽すべしということを詠っている。)

春風東來忽相過,金樽淥酒生微波。

春風は東から吹いて來るとたちまち春が過ぎてしまうので、金の大盃にそそがれた春に搾った澄み切った新酒に春風が吹き波だっている。

落花紛紛稍覺多,美人欲醉朱顏酡。

そこに落ちかかる花びらが紛々として次第に多きを加えた、この時芸妓の美人はほろ酔いで顔を赤くしている。

青軒桃李能幾何,流光欺人忽蹉跎。

青い色を塗った軒端に咲く桃李の花は、いつまでどれほど匂っているだろうか、日月は人を圧倒してどんどん行き過ぎてしまう。

君起舞,日西夕。

だから今を面白く楽しく過ごしたいと思っていると日は西に傾き夕方になろうとする、君よ、さあ起ちあがって踊舞りたまえ。

當年意氣不肯平,白髮如絲歎何益。

君は昔日の意気、依然としてあるから不平が恒常的に絶えず渋い顔をする、しかし、そうしているうちに白髪頭の老人になってしまって、後悔しても遅いのではなかろうか。

 

(前有 一樽酒行,二首之一)

春風 東來して忽ち相い過ぐ,金の樽 淥酒 微波を生ず。

落花 紛紛として稍や多きを覺ゆ,美人醉わんと欲して 朱顏酡す。

青軒の桃李 能く幾何ぞ,流光 人を欺いて 忽ち蹉跎たり。

君 起って舞え,日 西に 夕なり。

當年の意氣 肯えて平らかならず,白髮 絲の如し 歎ずるも 何の益かあらん。


前有一樽酒行,二首之二
【前有樽酒行】

(古楽府の同題詩は賓主の長寿を祝うものであるが、李白はこの詩では、時に及んでまさに行楽すべしということを詠っている。)その二

琴奏龍門之綠桐,玉壺美酒清若空。

龍門の緑桐の樹で作った良い琴瑟を用意し、輝くきれいな壺に美味しい清酒を入れて用意すると澄み切った良いお酒はまるで空っぽのようにみえる。

催弦拂柱與君飲,看朱成碧顏始紅。

やがて、琴絃を引き締めて、琴柱をを払って掻き立て、その琴の音を聞きつつ、君と一緒に酒を飲めば、紅い色が緑に見えるほど酩酊してしまって、互いの顔は初めて赤くなって酔いが回ったのだ。

貌如花,當壚笑春風。

ペルシャ人の女は、眼鼻顔立ちがはっきりして艶にして花のようだ。酒瓶を並べているところに座っていて、春風に色香を載せて微笑みながら酒を売っている。

笑春風,舞羅衣,君今不醉將安歸。【君今不醉欲安歸】

春風のほほえみという誘いに乗ったので、うすぎぬの衣でさあ踊舞りたまえ。さあ君、いまこそ酔わなければ何処で酔おうというのか、ここに来た以上、十分酒を飲んで愉快に楽しく過ごそうというものだ。

 

(前有一樽酒行,二首之二)

琴 龍門の綠桐【ろくどう】を奏し,玉壺 美酒 清くして空【から】の若し。

弦を催し 柱を拂って 君と飲み,朱の碧を成すを看て 顏 始めて紅なり。

 貌 花の如し,壚【ろ】に當って 春風に笑う。

春風に笑い,羅衣を舞い,君 今 醉わず 將に安【いず】くにか歸らんとする。

 

巫山十二峰003 

(改訂版) 《巻2-20前有一樽酒行,二首之二》

『前有一樽酒行,二首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

前有一樽酒行,二首之二【前有樽酒行】

琴奏龍門之綠桐,玉壺美酒清若空。

催弦拂柱與君飲,看朱成碧顏始紅。

貌如花,當壚笑春風。

笑春風,舞羅衣,君今不醉將安歸。【君今不醉欲安歸】


(下し文)
(前有一樽酒行,二首の二)

琴 龍門の綠桐【ろくどう】を奏し,玉壺 美酒 清くして空【から】の若し。

弦を催し 柱を拂って 君と飲み,朱の碧を成すを看て 顏 始めて紅なり。

 貌 花の如し,壚【ろ】に當って 春風に笑う。

春風に笑い,羅衣を舞い,君 今 醉わず 將に安【いず】くにか歸らんとする。


(現代語訳)
(古楽府の同題詩は賓主の長寿を祝うものであるが、李白はこの詩では、時に及んでまさに行楽すべしということを詠っている。)その二

龍門の緑桐の樹で作った良い琴瑟を用意し、輝くきれいな壺に美味しい清酒を入れて用意すると澄み切った良いお酒はまるで空っぽのようにみえる。

やがて、琴絃を引き締めて、琴柱をを払って掻き立て、その琴の音を聞きつつ、君と一緒に酒を飲めば、紅い色が緑に見えるほど酩酊してしまって、互いの顔は初めて赤くなって酔いが回ったのだ。

ペルシャ人の女は、眼鼻顔立ちがはっきりして艶にして花のようだ。酒瓶を並べているところに座っていて、春風に色香を載せて微笑みながら酒を売っている。

春風のほほえみという誘いに乗ったので、うすぎぬの衣でさあ踊舞りたまえ。さあ君、いまこそ酔わなければ何処で酔おうというのか、ここに来た以上、十分酒を飲んで愉快に楽しく過ごそうというものだ。

李白の足跡0000
(訳注)

前有一樽酒行,二首之二【前有樽酒行】

(古楽府の同題詩は賓主の長寿を祝うものであるが、李白はこの詩では、時に及んでまさに行楽すべしということを詠っている。)その二

 

琴奏龍門之綠桐,玉壺美酒清若空。

龍門の緑桐の樹で作った良い琴瑟を用意し、輝くきれいな壺に美味しい清酒を入れて用意すると澄み切った良いお酒はまるで空っぽのようにみえる。

龍門之綠桐 龍門の琴瑟。周禮に「龍門山の桐の樹は高さ百尺にして枝なし。琴をとって斫斬して、以て琴とならしむ。』とあり、琴瑟のブランド名。

清若空 清酒が澄みきっていて、まるで壺の中が酒が入ってなくて、空の様だということ。

 

催弦拂柱與君飲,看朱成碧顏始紅。

やがて、琴絃を引き締めて、琴柱をを払って掻き立て、その琴の音を聞きつつ、君と一緒に酒を飲めば、紅い色が緑に見えるほど酩酊してしまって、互いの顔は初めて赤くなって酔いが回ったのだ。

催絃 絃舷をせきたてる。せわしく絃をかきならす。

払柱 琴柱をはらう。「払」は琴そのものを女性とするので、性行為の比喩である。自由奔放に琴をひくことと表現する。

看朱成碧 赤い色が青く見える。ここでは、酔って物の見分けがつかなくなること、悪酔いをしたもの。

 

貌如花,當壚笑春風。

ペルシャ人の女は、眼鼻顔立ちがはっきりして艶にして花のようだ。酒瓶を並べているところに座っていて、春風に色香を載せて微笑みながら酒を売っている。

胡姫  唐の時代「胡姫」はペルシャ(イラン系)の紅毛金髪、碧眼、白皙の女性を示していた。この当時、長安は世界最大の都市であり、西門の金光門は異民族への玄関口である。この門から東の春明門は目抜き通り、都登路であり、その真ん中に朱雀門があり、国際通りであった。

貌如花 目鼻立ちが大きくはっきりしている。

當壚 酒の大甕を炉のように土で固めて四辺隆起に盛っている。酒販売の店のせつび。漢の文人司馬相加が、美しい女房の卓文君を壚のそばに坐らせ、酒を売らせた話は有名である。「史記」や「漢書」に見える。当壚は、酒を売ること。(おカンの番をすると解することが多いが意味が薄い。)

 

笑春風,舞羅衣,君今不醉將安歸。【君今不醉欲安歸】

春風のほほえみという誘いに乗ったので、うすぎぬの衣でさあ踊舞りたまえ。さあ君、いまこそ酔わなければ何処で酔おうというのか、ここに来た以上、十分酒を飲んで愉快に楽しく過ごそうというものだ。

笑春風 色香を振りまいて誘うこと。酒場女は娼婦でもあったので売春も常識的に存在した。

蘿衣 うすぎぬの衣。
李白 32歳 

195(改訂版) 《巻2-19前有一樽酒行【前有樽酒行】,二首之一春風東來忽相過,》Index-12 Ⅱ―7 -732年開元二十年32歳 12首 <195> Ⅰ李白詩1420 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5648

李白《巻2-19前有一樽酒行,二首之一春風東來忽相過,》古楽府の同題詩は賓主の長寿を祝うものであるが、李白はこの詩では、時に及んでまさに行楽すべしということを詠っている。)春風は東から吹いて來るとたちまち春が過ぎてしまうので、金の大盃にそそがれた春に搾った澄み切った新酒に春風が吹き波だっている。

 
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195(改訂版) 《巻2-19前有一樽酒行【前有樽酒行】,二首之一春風東來忽相過,》Index-12 Ⅱ―7 -732年開元二十年32 12首 <195> Ⅰ李白詩1420 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5648

 

 

年:-732年開元二十年32

卷別:    卷一六二               李太白集巻二 19首目  文體:             樂府

詩題:    前有一樽酒行【前有樽酒行】,二首之一

作地點:              洛陽(都畿道 / 河南府 / 洛陽)

 

 

前有一樽酒行,二首之一【前有樽酒行】

(古楽府の同題詩は賓主の長寿を祝うものであるが、李白はこの詩では、時に及んでまさに行楽すべしということを詠っている。)

春風東來忽相過,金樽淥酒生微波。

春風は東から吹いて來るとたちまち春が過ぎてしまうので、金の大盃にそそがれた春に搾った澄み切った新酒に春風が吹き波だっている。

落花紛紛稍覺多,美人欲醉朱顏酡。

そこに落ちかかる花びらが紛々として次第に多きを加えた、この時芸妓の美人はほろ酔いで顔を赤くしている。

青軒桃李能幾何,流光欺人忽蹉跎。

青い色を塗った軒端に咲く桃李の花は、いつまでどれほど匂っているだろうか、日月は人を圧倒してどんどん行き過ぎてしまう。

君起舞,日西夕。

だから今を面白く楽しく過ごしたいと思っていると日は西に傾き夕方になろうとする、君よ、さあ起ちあがって踊舞りたまえ。

當年意氣不肯平,白髮如絲歎何益。

君は昔日の意気、依然としてあるから不平が恒常的に絶えず渋い顔をする、しかし、そうしているうちに白髪頭の老人になってしまって、後悔しても遅いのではなかろうか。

 

(前有 一樽酒行,二首之一)

春風 東來して忽ち相い過ぐ,金の樽 淥酒 微波を生ず。

落花 紛紛として稍や多きを覺ゆ,美人醉わんと欲して 朱顏酡す。

青軒の桃李 能く幾何ぞ,流光 人を欺いて 忽ち蹉跎たり。

君 起って舞え,日 西に 夕なり。

當年の意氣 肯えて平らかならず,白髮 絲の如し 歎ずるも 何の益かあらん。

hakubai01 

 

『前有一樽酒行,二首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

前有一樽酒行【前有樽酒行】,二首之一
春風東來忽相過,金樽淥酒生微波。

落花紛紛稍覺多,美人欲醉朱顏酡。

青軒桃李能幾何,流光欺人忽蹉跎。

君起舞,日西夕。

當年意氣不肯平,白髮如絲歎何益。


(下し文)
(前有 一樽酒行,二首之一)

春風 東來して忽ち相い過ぐ,金の樽 酒 微波を生ず。

落花 紛紛として稍や多きを覺ゆ,美人醉わんと欲して 朱顏酡す。

青軒の桃李 能く幾何ぞ,流光 人を欺いて 忽ち蹉跎たり。

君 起って舞え,日 西に 夕なり。

當年の意氣 肯えて平らかならず,白髮 絲の如し 歎ずるも 何の益かあらん。

(現代語訳)
(古楽府の同題詩は賓主の長寿を祝うものであるが、李白はこの詩では、時に及んでまさに行楽すべしということを詠っている。)

春風は東から吹いて來るとたちまち春が過ぎてしまうので、金の大盃にそそがれた春に搾った澄み切った新酒に春風が吹き波だっている。

そこに落ちかかる花びらが紛々として次第に多きを加えた、この時芸妓の美人はほろ酔いで顔を赤くしている。

青い色を塗った軒端に咲く桃李の花は、いつまでどれほど匂っているだろうか、日月は人を圧倒してどんどん行き過ぎてしまう。

だから今を面白く楽しく過ごしたいと思っていると日は西に傾き夕方になろうとする、君よ、さあ起ちあがって踊舞りたまえ。

君は昔日の意気、依然としてあるから不平が恒常的に絶えず渋い顔をする、しかし、そうしているうちに白髪頭の老人になってしまって、後悔しても遅いのではなかろうか。

幻日環01
(訳注)

前有一樽酒行【前有樽酒行】,二首之一

(古楽府の同題詩は賓主の長寿を祝うものであるが、李白はこの詩では、時に及んでまさに行楽すべしということを詠っている。)

 

春風東來忽相過,金樽淥酒生微波。

春風は東から吹いて來るとたちまち春が過ぎてしまうので、金の大盃にそそがれた春に搾った澄み切った新酒に春風が吹き波だっている。

金樽 樽は大盃の事で金の飾りのもの。

淥酒 春に搾った新酒の清酒

杜甫《1413 宴戎州楊使君東樓》「重碧拈春酒,輕紅擘荔枝。」(重碧の春酒を拈【ひね】り,輕紅の荔枝を擘【やぶ】る。新酒で濃い緑の竹筒に入った「春酒」をつまむようにして口元に持って行って飲むと、南国の紅色の荔枝をつよく裂き破ってつまみにする。

・重碧:濃い青竹に入れている酒で、春に搾りたての新酒。長安新豊の新酒は口広の甕で油紙で、黄色いひもで縛っている。高温で焼いた瓶でこい茶色。緑色の酒という解釈をしている書物もあるが、間違い。

・拈:酒を絞り出すこと、つくり出すこと。【拈る】ひねる. 物を指先などでねじる。 体の一部をねじり回す。「足を拈った」; 簡単に負かす。ここでは、盃はワイングラスのような形の銀製で作られるので右手でつまむようにして口元に持って行くと左手で隠しながら飲むので、盃をひねるようにして飲むことをいう。

765年永泰元年54-31 1413 宴戎州楊使君東樓》 杜甫index-15 杜甫<831 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4890 杜甫詩1500-831-1149/2500765年永泰元年54-31

 

落花紛紛稍覺多,美人欲醉朱顏酡。

そこに落ちかかる花びらが紛々として次第に多きを加えた、この時芸妓の美人はほろ酔いで顔を赤くしている。

顏酡 酒に寄って顔を赤くしている。

 

青軒桃李能幾何,流光欺人忽蹉跎。

青い色を塗った軒端に咲く桃李の花は、いつまでどれほど匂っているだろうか、日月は人を圧倒してどんどん行き過ぎてしまう。

青軒 青い色を塗った軒、五行思想で春、東、上品なものという。

 

君起舞,日西夕。

だから今を面白く楽しく過ごしたいと思っていると日は西に傾き夕方になろうとする、君よ、さあ起ちあがって踊舞りたまえ。

 

當年意氣不肯平,白髮如絲歎何益。

君は昔日の意気、依然としてあるから不平が恒常的に絶えず渋い顔をする、しかし、そうしているうちに白髪頭の老人になってしまって、後悔しても遅いのではなかろうか。
李白 32歳 

159-#3 《巻02-30 俠客行 -#3》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <159-#3> Ⅰ李白詩7 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5378

李白《巻02-30 俠客行 -#3》 侠客というもの仕事はこれほどに華々しく世にもてはやされるのであるが、これに比較して儒者というものは誠につまらぬもので、かの揚雄は、わずかな俸禄をもらって白髪頭になるまで骨身を惜しんで著した書を天禄閣で校したのが「太玄經」である。それも死して後に評価されたのである。生きている時の両者の懸隔の甚だしいのは情けないことではないか。

 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    俠客行

作地點:長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:邯鄲 (河北道南部 邯鄲)           

 開封 (河南道 汴州 開封) 別名:大梁            

 

 

俠客行

(侠遊二十五曲の一つである「侠客行」任侠の士を詠うもの)

趙客縵胡纓,鉤霜雪明。

この剣客は趙の地の出身で、飾も何もない粗末な冠の紐を帯び、その服装ははなはだみぐるしいが、呉の国の剣先の曲った短剣は刃先は霜雪のように鋭い業物と見える。

銀鞍照白馬,颯沓如流星。

かくて、銀鞍を白馬に置き、馬上豊かに乗り出せば、その速いことは、流星のようである。

十步殺一人,千里不留行。

そして、いざという時、十歩の間に一人を殺し、戦利の遠きをも糸飛びに駈け出して、その行方を留めることができない。

事了拂衣去,深藏身與名。

事が終われば、衣を払って民衆の中に入り、その身を隠し、且つ評判などもたたないようにして、出没自在にするのである。

 

閒過信陵飲,劍膝前橫。

それから、信陵君のような貴公子を訪ねて、会飲するにあたって、剣を外して丸腰でひざを突き合わせてあるいは横になって語らう。

將炙啖朱亥,持觴勸侯嬴。

朱亥のような若者に向っては、焼き肴をあたえてやり、侯嬴のような老剣士に対しては、慇懃に盃を勧める。

三杯吐然諾,五嶽倒為輕。

きわめて親密に交際し、酒三杯のんだら、然諾を重んじた立派な言葉を吐く、五岳の名山もそのためには軽やかに搖動しているのである。

眼花耳熱後,意氣素霓生。

やがて、酒が進んで酔いが回り、眼がかすみ、耳が熱すれば、意気はそこらの人を圧倒し、その気焔は虹を生ずるばかりである。

 

救趙揮金槌,邯鄲先震驚。

かれらは稀に見る任侠の士であって、信陵君が趙を救おうとして、朱亥は鉄槌を揮って、将軍晋鄙を打ち殺し、それから、信陵君はその軍を奪い始めて趙を救うことができたので、邯鄲を囲んでいた秦軍も先ず震撼し驚愕して動いた。

千秋二壯士,烜赫大梁城。

この二壮士の名声はこの後千秋でもなお、朽ちることなく、大梁城に赤々と燃えるほどの名声が著された。

縱死俠骨香,不慚世上英。

それで、いとたび死んで、むなしく侠骨の香りを余すところなく漂わせ、あっぱれにも、地上の俊英樽に愧じるものではなかったのである。

誰能書閣下,白首太玄經。

侠客というもの仕事はこれほどに華々しく世にもてはやされるのであるが、これに比較して儒者というものは誠につまらぬもので、かの揚雄は、わずかな俸禄をもらって白髪頭になるまで骨身を惜しんで著した書を天禄閣で校したのが「太玄經」である。それも死して後に評価されたのである。生きている時の両者の懸隔の甚だしいのは情けないことではないか。

 

(俠客行)

趙客 縵胡の纓,鉤 霜雪明かなり。

銀鞍 白馬を照らし,颯沓として流星の如し。

十步に一人を殺し,千里 行を留めず。

事了るや 衣を拂って去り,深く藏す 身と名とを。

 

閒に信陵を過ぎて飲み,劍をして膝前に橫たう。

炙を 將って朱亥に啖【くら】わしめ,觴を持して侯嬴に勸む。

三杯然諾を吐き,五嶽 倒って為に輕し。

眼花し 耳熱する後,意氣 素霓【そげい】生ず。

 

趙を救って金槌を揮い,邯鄲 先ず震驚す。

千秋の二壯士,烜赫【けんかく】す 大梁城。

縱い死するも俠骨香しく,世上の英たるに慚じず。

誰か能く書閣の下,白首 太玄經。

戦国七雄001 

 

『俠客行』 現代語訳と訳註解説

(本文)

救趙揮金槌,邯鄲先震驚。

千秋二壯士,烜赫大梁城。

縱死俠骨香,不慚世上英。

誰能書閣下,白首太玄經。

 

 

(下し文)

趙を救って金槌を揮い,邯鄲 先ず震驚す。

千秋の二壯士,烜赫【けんかく】す 大梁城。

縱い死するも俠骨香しく,世上の英たるに慚じず。

誰か能く書閣の下,白首 太玄經。

 

(現代語訳)

かれらは稀に見る任侠の士であって、信陵君が趙を救おうとして、朱亥は鉄槌を揮って、将軍晋鄙を打ち殺し、それから、信陵君はその軍を奪い始めて趙を救うことができたので、邯鄲を囲んでいた秦軍も先ず震撼し驚愕して動いた。

この二壮士の名声はこの後千秋でもなお、朽ちることなく、大梁城に赤々と燃えるほどの名声が著された。

それで、いとたび死んで、むなしく侠骨の香りを余すところなく漂わせ、あっぱれにも、地上の俊英樽に愧じるものではなかったのである。

侠客というもの仕事はこれほどに華々しく世にもてはやされるのであるが、これに比較して儒者というものは誠につまらぬもので、かの揚雄は、わずかな俸禄をもらって白髪頭になるまで骨身を惜しんで著した書を天禄閣で校したのが「太玄經」である。それも死して後に評価されたのである。生きている時の両者の懸隔の甚だしいのは情けないことではないか。

 

(訳注) 

俠客行 #3

(侠遊二十五曲の一つである「侠客行」任侠の士を詠うもの)

任侠の士を詠うもの、侠客行は侠遊二十五曲の一つである。

 

救趙揮金槌,邯鄲先震驚。

かれらは稀に見る任侠の士であって、信陵君が趙を救おうとして、朱亥は鉄槌を揮って、将軍晋鄙を打ち殺し、それから、信陵君はその軍を奪い始めて趙を救うことができたので、邯鄲を囲んでいた秦軍も先ず震撼し驚愕して動いた。

救趙 魏の安釐王二十年、趙の長平の軍を破り、また進んで邯鄲を取り囲んだ。公子(信陵君魏無忌)の姉は趙恵文王趙何の弟の平原君趙勝の夫人(ふじん)と為り、たびたび、魏安釐王魏圉及び公子(信陵君魏無忌)に書を送り、魏からの救援を請(こ)うた。

史記に「現の安置五二十年、秦.趙の長平の軍を破り、叉進んで、邯鄯を囲む。公子の妹は、趙の平原君の夫人たり。屡ば、救を魏に請う。魏王、将軍晋鄙をし一、十万の衆を將いて、趙を救わしむ。軍を留めて鄴に壁し、名は趙を故うと爲し、実は両端を持し、以て観望す。平原君、魏の公子を譲めしむ。公子、これ患へ、乃ち侯生の計も用ひ、如娘に請うて、王の臥内に於て虎符を竊ましめて、晋鄙の軍を奪ひ、朱亥をして四十斤の鉄槌を袖して晋鄙を槌殺せしめ、公子、遂に其軍を将い、進んで秦軍を撃つ。秦軍、解けて去り、遂に邯鄯を救うて趙を存す。はじめ、公子過ぎて侯生に謝するや、侯生日く、臣、宜しく從うべし.老いて能はす。請う、公子の行く日を数え、晋鄙の軍に至るの日を以て、北向自到、以て公子を送らむと。公子遂に行いて軍に至る。侯生、果して北向日到す」とある。

 

千秋二壯士,烜赫大梁城。

この二壮士の名声はこの後千秋でもなお、朽ちることなく、大梁城に赤々と燃えるほどの名声が著された。

烜赫 赤々と燃えるほどの名声。輝かしい烜赫 。名の聞こえたもの。

 

縱死俠骨香,不慚世上英。

それで、いとたび死んで、むなしく侠骨の香りを余すところなく漂わせ、あっぱれにも、地上の俊英樽に愧じるものではなかったのである。

 

誰能書閣下,白首太玄經。

侠客というもの仕事はこれほどに華々しく世にもてはやされるのであるが、これに比較して儒者というものは誠につまらぬもので、かの揚雄は、わずかな俸禄をもらって白髪頭になるまで骨身を惜しんで著した書を天禄閣で校したのが「太玄經」である。それも死して後に評価されたのである。生きている時の両者の懸隔の甚だしいのは情けないことではないか。

大玄經 前漢の思想家揚雄の著書。『易経 (周易) 』を改修して,一層精密な人間の運命を予言する書としようとしたもの。人間の諸現象は,『老子』の唱える「玄 () 」を根源とし,天・地・人を基本要因とし,その組合せでとらえられるとして,その組合せの 81首の図式をつくり,さらに各首にその現象の終始の展開を象徴する9賛をつけている。易に老荘思想を取り入れ、易占を社会情勢に応じた合理的なものにしようとしたもので、易の陰陽二元論の代わりに、始・中・終の三元をもって宇宙万物を説明した。

 

 

 

 

 

魏安釐王二十年秦昭王已破趙長平軍又進兵圍邯鄲

公子姊為趙惠文王弟平原君夫人數遺魏王及公子書請救於魏

魏王使將軍晉鄙將十萬眾救趙

秦王使使者告魏王曰吾攻趙旦暮且下

而諸侯敢救者已拔趙必移兵先擊之

魏王恐使人止晉鄙留軍壁鄴

名為救趙實持兩端以觀望

 

魏安釐王二十年、秦昭王(秦昭襄王嬴稷)はすでに趙の長平軍を破(やぶ)り、また兵を進めて邯鄲(趙の都)を包囲した。

公子(信陵君魏無忌)の姉は趙恵文王趙何の弟の平原君趙勝の夫人(ふじん)と為り、たびたび、魏安釐王魏圉及び公子(信陵君魏無忌)に書を送り、魏からの救援を請(こ)うた。

魏安釐王魏圉は魏將軍晋鄙をつかわし、十万人に衆を率(ひき)いさせて趙を救援させた。

秦昭王(秦昭襄王嬴稷)は使者をつかわし魏安釐王魏圉に告(つ)げた、曰く、「吾(われ)は趙を朝も夕も攻(せ)めまさに下(くだ)さんとし、

しこうして諸侯の敢(あ)えて救おうとした者は、 すでに趙を攻め落としたら、必ず兵を移してこれを先(さき)に撃(う)つだろう」と。

魏安釐王魏圉は恐(おそ)れ、人をつかわし魏将軍の晋鄙に(趙の救援を)止(とど)めさせて軍を留(とど)めて鄴で防備させた。

名目は趙を救うと為し、実質は二心を持ち、以って様子をみて自分の考えや態度を決めようとした。

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李白《巻02-30 俠客行 -#2それから、信陵君のような貴公子を訪ねて、会飲するにあたって、剣を外して丸腰でひざを突き合わせてあるいは横になって語らう。

 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    俠客行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              邯鄲 (河北道南部 邯鄲)           

開封 (河南道 汴州 開封) 別名:大梁            

 

 

俠客行

(侠遊二十五曲の一つである「侠客行」任侠の士を詠うもの)

趙客縵胡纓,鉤霜雪明。

この剣客は趙の地の出身で、飾も何もない粗末な冠の紐を帯び、その服装ははなはだみぐるしいが、呉の国の剣先の曲った短剣は刃先は霜雪のように鋭い業物と見える。

銀鞍照白馬,颯沓如流星。

かくて、銀鞍を白馬に置き、馬上豊かに乗り出せば、その速いことは、流星のようである。

十步殺一人,千里不留行。

そして、いざという時、十歩の間に一人を殺し、戦利の遠きをも糸飛びに駈け出して、その行方を留めることができない。

事了拂衣去,深藏身與名。

事が終われば、衣を払って民衆の中に入り、その身を隠し、且つ評判などもたたないようにして、出没自在にするのである。

 

閒過信陵飲,劍膝前橫。

それから、信陵君のような貴公子を訪ねて、会飲するにあたって、剣を外して丸腰でひざを突き合わせてあるいは横になって語らう。

將炙啖朱亥,持觴勸侯嬴。

朱亥のような若者に向っては、焼き肴をあたえてやり、侯嬴のような老剣士に対しては、慇懃に盃を勧める。

三杯吐然諾,五嶽倒為輕。

きわめて親密に交際し、酒三杯のんだら、然諾を重んじた立派な言葉を吐く、五岳の名山もそのためには軽やかに搖動しているのである。

眼花耳熱後,意氣素霓生。

やがて、酒が進んで酔いが回り、眼がかすみ、耳が熱すれば、意気はそこらの人を圧倒し、その気焔は虹を生ずるばかりである。

 

救趙揮金槌,邯鄲先震驚。

千秋二壯士,烜赫大梁城。

縱死俠骨香,不慚世上英。

誰能書閣下,白首太玄經。

 

(俠客行)

趙客 縵胡の纓,鉤 霜雪明かなり。

銀鞍 白馬を照らし,颯沓として流星の如し。

十步に一人を殺し,千里 行を留めず。

事了るや 衣を拂って去り,深く藏す 身と名とを。

 

閒に信陵を過ぎて飲み,劍をして膝前に橫たう。

炙を 將って朱亥に啖【くら】わしめ,觴を持して侯嬴に勸む。

三杯然諾を吐き,五嶽 倒って為に輕し。

眼花し 耳熱する後,意氣 素霓【そげい】生ず。

 

趙を救って金槌を揮い,邯鄲 先ず震驚す。

千秋の二壯士,烜赫【けんかく】す 大梁城。

縱い死するも俠骨香しく,世上の英たるに慚じず。

誰か能く書閣の下,白首 太玄經。

 

李白図102 

『俠客行』 現代語訳と訳註解説

(本文)

閒過信陵飲,劍膝前橫。

將炙啖朱亥,持觴勸侯嬴。

三杯吐然諾,五嶽倒為輕。

眼花耳熱後,意氣素霓生。

 

(下し文)

閒に信陵を過ぎて飲み,劍をして膝前に橫たう。

炙を 將って朱亥に啖【くら】わしめ,觴を持して侯嬴に勸む。

三杯然諾を吐き,五嶽 倒って為に輕し。

眼花し 耳熱する後,意氣 素霓【そげい】生ず。

 

(現代語訳)

それから、信陵君のような貴公子を訪ねて、会飲するにあたって、剣を外して丸腰でひざを突き合わせてあるいは横になって語らう。

朱亥のような若者に向っては、焼き肴をあたえてやり、侯嬴のような老剣士に対しては、慇懃に盃を勧める。

きわめて親密に交際し、酒三杯のんだら、然諾を重んじた立派な言葉を吐く、五岳の名山もそのためには軽やかに搖動しているのである。

やがて、酒が進んで酔いが回り、眼がかすみ、耳が熱すれば、意気はそこらの人を圧倒し、その気焔は虹を生ずるばかりである。

 

戦国七雄001 

(訳注)

俠客行 #2

(侠遊二十五曲の一つである「侠客行」任侠の士を詠うもの)

任侠の士を詠うもの、侠客行は侠遊二十五曲の一つである。

#2 逸話 魏の公子と食客(信陵君・侯嬴・朱亥)

ある時、安釐王と囲碁(双六との説もある)を打っていた所、趙との国境から烽火が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけ」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと判断したのだが、これ以後の安釐王は信陵君の力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。

そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。その通り、信陵君は宴席を設けたが侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔もせず待っていた。そして宴席で信陵君は侯嬴を上席へと座らせた。他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯嬴朱亥と世間話をしていた理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑す一方で待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。

 

閒過信陵飲,劍膝前橫。

それから、信陵君のような貴公子を訪ねて、会飲するにあたって、剣を外して丸腰でひざを突き合わせてあるいは横になって語らう。

信陵 戦国時代の魏の公子であり、政治家・軍人。三代昭王の末子。姓は姫、氏は魏、諱は無忌。戦国四君の一人。大国秦によって圧迫を受けた魏を支え、諸国をまとめ上げ秦を攻めるも、兄王に疑われて憂死した。 兄が安釐王として立つと、封ぜられて信陵君と名乗る。ここでは貴族の息子たち、とくに次男三男とに遊侠なものが多かったことをいう。李白杜甫王維の「少年」詩にのべられている。

 

將炙啖朱亥,持觴勸侯嬴。

朱亥のような若者に向っては、焼き肴をあたえてやり、侯嬴のような老剣士に対しては、慇懃に盃を勧める。

朱亥 信陵君の評判を高めることになった肉屋の若者。

侯嬴 老人で門番であったが賢者であることで新陵君が度量が大きいとの評判を高めた。

 

三杯吐然諾,五嶽倒為輕。

きわめて親密に交際し、酒三杯のんだら、然諾を重んじた立派な言葉を吐く、五岳の名山もそのためには軽やかに搖動しているのである。

然諾 然諾を重んじる。いったん引き受けたことは、その約束を守って必ず実行する。

五嶽 五岳(ごがく)は中国の道教の聖地である5つの山の総称。五名山とも呼ばれる。陰陽五行説に基づき、木行=東、火行=南、土行=中、金行=西、水行=北 の各方位に位置する、5つの山が聖山とされる。

 東岳 泰山(山東省泰安市泰山区)

 南岳 衡山(湖南省衡陽市衡山県)

 中岳 嵩山(河南省鄭州市登封市)

 西岳 華山(陝西省渭南市華陰市)

 北岳 恒山(山西省大同市渾源県)

神話によると万物の元となった盤古という神が死んだとき、その五体が五岳になったと言われている。

 

眼花耳熱後,意氣素霓生。

やがて、酒が進んで酔いが回り、眼がかすみ、耳が熱すれば、意気はそこらの人を圧倒し、その気焔は虹を生ずるばかりである。

眼花 酒が進んで酔いが回り、眼がかすむこと。
55moon 

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159 《巻02-30 俠客行》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <159> Ⅰ李白詩1355 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5323

 

 

年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    俠客行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              邯鄲 (河北道南部 邯鄲)           

開封 (河南道 汴州 開封) 別名:大梁            

 

 

俠客行

(侠遊二十五曲の一つである「侠客行」任侠の士を詠うもの)

趙客縵胡纓,鉤霜雪明。

この剣客は趙の地の出身で、飾も何もない粗末な冠の紐を帯び、その服装ははなはだみぐるしいが、呉の国の剣先の曲った短剣は刃先は霜雪のように鋭い業物と見える。

銀鞍照白馬,颯沓如流星。

かくて、銀鞍を白馬に置き、馬上豊かに乗り出せば、その速いことは、流星のようである。

十步殺一人,千里不留行。

そして、いざという時、十歩の間に一人を殺し、戦利の遠きをも糸飛びに駈け出して、その行方を留めることができない。

事了拂衣去,深藏身與名。

事が終われば、衣を払って民衆の中に入り、その身を隠し、且つ評判などもたたないようにして、出没自在にするのである。

 

閒過信陵飲,劍膝前橫。

將炙啖朱亥,持觴勸侯嬴。

三杯吐然諾,五嶽倒為輕。

眼花耳熱後,意氣素霓生。

 

救趙揮金槌,邯鄲先震驚。

千秋二壯士,烜赫大梁城。

縱死俠骨香,不慚世上英。

誰能書閣下,白首太玄經。

 

(俠客行)

趙客 縵胡の纓,鉤 霜雪明かなり。

銀鞍 白馬を照らし,颯沓として流星の如し。

十步に一人を殺し,千里 行を留めず。

事了るや 衣を拂って去り,深く藏す 身と名とを。

 

閒に信陵を過ぎて飲み,劍をして膝前に橫たう。

炙を 將って朱亥に啖【くら】わしめ,觴を持して侯嬴に勸む。

三杯然諾を吐き,五嶽 倒って為に輕し。

眼花し 耳熱する後,意氣 素霓【そげい】生ず。

 

趙を救って金槌を揮い,邯鄲 先ず震驚す。

千秋の二壯士,烜赫【けんかく】す 大梁城。

縱い死するも俠骨香しく,世上の英たるに慚じず。

誰か能く書閣の下,白首 太玄經。

 

李白図102 

『俠客行』 現代語訳と訳註解説

(本文)

俠客行

趙客縵胡纓,鉤霜雪明。

銀鞍照白馬,颯沓如流星。

十步殺一人,千里不留行。

事了拂衣去,深藏身與名。

 

(下し文)

(俠客行)

趙客 縵胡の纓,鉤 霜雪明かなり。

銀鞍 白馬を照らし,颯沓として流星の如し。

十步に一人を殺し,千里 行を留めず。

 

(現代語訳)

(侠遊二十五曲の一つである「侠客行」任侠の士を詠うもの)

この剣客は趙の地の出身で、飾も何もない粗末な冠の紐を帯び、その服装ははなはだみぐるしいが、呉の国の剣先の曲った短剣は刃先は霜雪のように鋭い業物と見える。

かくて、銀鞍を白馬に置き、馬上豊かに乗り出せば、その速いことは、流星のようである。

そして、いざという時、十歩の間に一人を殺し、戦利の遠きをも糸飛びに駈け出して、その行方を留めることができない。

事が終われば、衣を払って民衆の中に入り、その身を隠し、且つ評判などもたたないようにして、出没自在にするのである。

Ta唐 長安近郊圖  新02 

 (訳注)

俠客行

(侠遊二十五曲の一つである「侠客行」任侠の士を詠うもの)

任侠の士を詠うもの、侠客行は侠遊二十五曲の一つである。

 

趙客縵胡纓,鉤霜雪明。

この剣客は趙の地の出身で、飾も何もない粗末な冠の紐を帯び、その服装ははなはだみぐるしいが、呉の国の剣先の曲った短剣は刃先は霜雪のように鋭い業物と見える。

趙客 燕趙は慷慨悲歌之士の地である。 楽毅・荊軻らのようにの憂色は濃く、深い者、悲憤の人士者が出ている。楽 毅は、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。楽毅の憂色は濃く、深い。四度にわたる隣国・趙の侵略。宰相だった楽毅の父は自ら望んで死地へ赴き、祖国は国土の大半を失った。荊 軻は、中国戦国時代末期の刺客。燕の太子の命を受け、策略を用いて秦王の政を暗殺しようとするが、失敗し逆に殺された。

縵胡纓 飾も何もない冠の紐。《荘子、劍·卷第三十》「太子曰然吾王所見劒士皆蓬頭突、垂冠曼胡之纓短後之衣」

 呉の国の剣先の曲った短剣。

 

銀鞍照白馬,颯沓如流星。

かくて、銀鞍を白馬に置き、馬上豊かに乗り出せば、その速いことは、流星のようである。

颯沓 流れ星の素早く流れた様子をいう。

 

十步殺一人,千里不留行。

そして、いざという時、十歩の間に一人を殺し、戦利の遠きをも糸飛びに駈け出して、その行方を留めることができない。

十步殺一人 天下無敵をいう。荘子『荘子』〈説剣〉。 《王曰「子之剣、何能禁制。」曰「臣之剣、十歩一人、千里不留行。」王大悦之、曰「天下無敵矣。」》 (王曰く「子の剣、何をか能く禁制す」と。曰く「臣の剣、十歩にして一人、千里にしても留まらず行く」と。

 

事了拂衣去,深藏身與名。

事が終われば、衣を払って民衆の中に入り、その身を隠し、且つ評判などもたたないようにして、出没自在にするのである。

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李白  行路難三首 之三#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

君不見中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍したとして、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

李太白集巻一44

行路難三首 其三

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7485

Index-24

744年天寶三年44歳 

56首-(9)

423 <1000>

 


 

 
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李太白集分類補註巻三

          宋 楊齊賢 集註  元 蕭士贇 補註 (編集紀頌之)

  行路難,三首之三   其三此首一/作古興

#1

有耳莫洗潁川水、有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名、何用孤髙比雲月。

吾觀自古賢達人、功成不退皆殞身。子胥既棄江上、屈原終投湘水濵。

・潁川水 髙士傳 許由耕於中岳、潁水之陽、箕山之下。 堯召為九州長。由不欲聞之、洗耳于潁水濵

・首陽蕨 史記 武王 巳平殷亂、天下宗周。而伯夷叔齊恥之、義、不食周粟、隠于首陽山 採薇而食之、索隠曰薇蕨也。

梁書 阮孝緒傳 周徳雖興夷齊不厭薇蕨、漢道方盛 黄綺無悶山林薇蕨

本二草而古人亦多混稱、太白改、以叶韻、葢有自也  

・子胥既棄江上 /越春秋 王聞子胥之怨恨也、乃使人賜屬鏤之劍。子胥 伏劍而死。王 取子胥尸、盛以夷之器投之於江/中。子胥 因隨流揚波、依潮來往、蕩激崩岸。

・屈原終投湘水濵 拾遺記 屈原 以忠見斥、隠於沅湘、披榛、茹草、混同禽獸、不交世、務採/栢實、以和桂膏、用養心神。被王逼逐、乃赴清泠之水。楚人思慕、謂之水仙。其神 于天河、精靈時降湘浦。

#2

陸機雄才豈自保、李斯税駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞、上蔡蒼鷹何足道。

君不見呉中張翰稱、一作/真達生秋風忽憶江東。行且樂生前一杯、酒何須身後千載名。

・陸機雄才豈自保 晉書 成都王穎 起兵討長沙王乂、假陸機後將軍河北大都督、督北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人、戰/於鹿苑。機軍、大敗。宦人孟玖、譖機于穎、言其有異志。穎 怒、使秀、收機。機 釋戎服、著白與秀相見神色自若、既而嘆曰、華亭鶴唳、豈可復聞乎。遂遇害于軍中。

世説 註 八王故事 曰 「華亭、由拳縣郊外墅也。有清泉茂林。/平後、陸機兄弟共于此十餘年。」語林曰、機為河北都督。聞警角之聲、謂孫丞曰、聞此不如華亭鶴唳、故臨/刑而有此嘆説文唳鶴鳴也。

李斯税駕苦不早 史記 「李斯為丞相、長男由、為三川守、諸男、皆尚秦公主、女悉嫁秦諸公子。李由、告歸咸陽、李斯置酒於家、百官長、皆前為門庭車騎、以千數。 李斯、喟然嘆曰、「吾聞之荀卿、曰、物禁太盛。夫斯乃上蔡布衣、閭巷黔首、上、不知其駑下、遂遷擢至此。當今、人臣之位、無居臣上者、可謂富貴極矣。物極則衰、吾未知所税駕也。

索隠曰 税駕猶解駕、言休息也。李斯言 巳 今日富貴、已 極未知向後、吉凶止泊、在何處也。

太平御覽  “史記曰「李斯臨刑、思牽黄犬、臂蒼鷹、出上蔡東門不可得矣。考今本 史記 李斯傳中、無臂蒼鷹、字而太白詩中、屢用、其事 當另有所本。

・張翰 晉書 張翰字季鷹人也。有清才、善屬文、而、縱任不拘。齊王冏、辟為大司馬東曹掾。冏、時執權。翰、因見秋風起、乃思中菰菜蓴羮鱸魚膾曰、人生、貴得適志、何能羇宦數千里、以要名爵乎。遂命駕而歸。俄而冏敗。人皆謂之見機。翰、任心自適、不求當世。或謂之曰、卿乃可縱適一時、獨不為身後名耶。荅曰、使我有身後名、不如即時一杯酒。時人貴其曠達。」

 

 

 

 

-372-74巻二15 行路難三首 其三  (有耳莫洗潁川水,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六二  12-3

文體:

樂府

李太白集 

巻02-15

 

 

詩題:

行路難三首 其三

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

首陽山 (都畿道 河南府偃師) 別名:西山 

上蔡 (河南道 豫州 上蔡)   

交遊人物:

 

 

 

 

 

-372-74巻二15 行路難三首 其三  (有耳莫洗潁川水,) 

行路難,三首之三 #1

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨

才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。
含光混世貴無名,何用孤高比雲月。

老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。

吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。

自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。

子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。

呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。
#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。

あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。
華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。
君不見張翰稱達生,秋風忽憶江東行。

君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。
且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍したとして、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

 

(行路難,三首の三)

耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨。

光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを。

吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損【おと】す。

子胥は既に棄てらる呉江の上【ほとり】 屈原は終に投ず湘水の浜。

 

陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ。

華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道【い】うに足らむ。

君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く。

且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須【もちひ】るや。

 

李白の足跡0000 

 

『行路難,三首之三』 現代語訳と訳註解説

(本文)#2

#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。

華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

君不見中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。

且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

(含異文): 有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名,何用孤高比雲月。吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。陸機雄才豈自保【陸機才多豈自保】,李斯駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。君不見中張翰稱達生【君不見中張翰真達生】,秋風忽憶江東行。且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

 

(下し文)

#2

陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ。

華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道【い】うに足らむ。

君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く。

且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須【もちひ】るや。

 

(現代語訳)

あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。
陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。
君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。
先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍したとして、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

 

汜水関などの地図

 

(訳注) #2

行路難,三首之三 #2

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

1】      行路難 もとは漢代の歌謡。のち晋の袁山松という人がその音調を改変し新らしい歌詞をつくり、一時流行した。六朝の飽照の楽府に「擬行路難」十八首がある。 「行路難」はみずからの人生行路の困難を詠う。「行路難し 行路は難し、岐路多くして、今安にか在る」と悲鳴をあげながらも、「長風浪を破る 会に時有るべし」と将来に期待を寄せたい李白は三首つくった。

 

 

陸機雄才豈自保 李斯駕苦不早 
あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。

【6】   陸 機 (りくき261年- 303年)は、中国三国時代から西晋の文学者・政治家・武将。字は士衡。呉の四姓(朱・張・顧・陸)の一つである陸氏の出身。祖父は陸遜。父は陸抗。子は陸蔚、陸夏。本籍は呉郡呉県(今の江蘇省蘇州市)。ただし家は呉の都建業(現在の江蘇省南京市)の南や、祖父の封地であった華亭(雲間とも。現在の上海市松江区)等にあったようである。父と共に呉に仕えて牙門将となった。天紀4年(280年)、晋との戦いで二人の兄の陸晏と陸景を失い、間もなく祖国も滅亡したため、故郷に引退する。この滅亡に憤慨して『弁亡論』を著した。やがて、説得に応じて弟と共に晋に仕官する事になった。既に陸機の文名は洛陽にも伝わっていたため、高官である張華は「呉討伐の戦果は、この二人の俊才を得たことだ」と言ったといわれている。その後、太子洗馬・著作郎を務めて、恵帝の治世下でも順調に出世を続けた。だが、次第に八王の乱の混乱に巻き込まれていく事になる。太安2年8月穎は洛陽で実権を握っていた長沙王司馬乂討伐を決意すると、彼は陸機の能力を評価して平原相・後将軍・河北大都督に任命、陸機は洛陽に向かって進撃したが、彼自身は祖父や父ほど将才に優れていなかった事に加え、配下達も「呉の降将」として彼を蔑んだ事もあって、十分な指揮が執れず、10月に洛陽城の建春門の攻防において大敗してしまった。謀反の疑いで処刑されてしまった。この時、陸機の二人の息子と、弟の陸雲・陸耽までもが連座して殺され、陸遜直系の子孫は断絶となった。《晉書》「成都王穎 起兵討長沙王乂、假陸機後將軍河北大都督、督北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人、戰/於鹿苑。機軍、大敗。宦人孟玖、譖機于穎、言其有異志。穎 怒、使秀、收機。機 釋戎服、著白、與秀相見神色自若、既而嘆曰、華亭鶴唳、豈可復聞乎。遂遇害于軍中。」(成都王穎、兵を起して長沙王乂を討ち、陸機に後將軍河北大都督を假し、北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人を督して、鹿苑に戰う。機の軍、大いに敗る。宦人孟玖、機を穎に譖して、其の異志有るを言う。穎 怒り、秀をして、機を收めしむ。機 戎服を釋き、白著け、秀と相い見て神色自若、既に而て嘆じて曰く、華亭の鶴唳、豈に復た聞く可けんや。遂に害に軍中に遇う。)とある。《世説》の註に八王の乱の故事をひいて曰う、「華亭、由拳縣郊外墅也。有清泉茂林。/平後、陸機兄弟共于此十餘年。」(華亭は、由拳縣の郊外の墅なり。清泉茂林有り。 平ぐ後、陸機兄弟、共に此にぶこと十餘年。)とあり、つづいて語林曰く、「機為河北都督。聞警角之聲、謂孫丞曰、聞此不如華亭鶴唳、故臨/刑而有此嘆説文唳鶴鳴也。」(機 河北都督と為る。警角の聲を聞き、孫丞に謂うて曰く、聞けば此れ華亭の鶴唳に如しかず、故に刑にんで此れ嘆説の文有り唳するは鶴鳴なり。)と讒言によって、一族は絶えた。

【7】   李 斯(り し? - 紀元前208年)儒家中国秦代の宰相。法家にその思想的基盤を置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。・李斯税駕苦不早 《史記》に「李斯為丞相、長男由、為三川守、諸男、皆尚秦公主、女悉嫁秦諸公子。李由、告歸咸陽、李斯置酒於家、百官長、皆前為。門庭車騎、以千數。 李斯、喟然嘆曰、『吾聞之荀卿』、曰、『物禁太盛。』夫斯乃上蔡布衣、閭巷黔首、上、不知其駑下、遂遷擢至此。當今、人臣之位、無居臣上者、可謂富貴極矣。物極則衰、吾未知所税駕也。」(李斯丞相と為り、長男は由、三川の守と為り、諸男、皆 秦の公主を尚し、女は悉く秦の諸公子に嫁す。李由、咸陽に告歸するるや、李斯 家に置酒し、百官の長、皆 前んで為す門庭車騎、以。 李斯、喟然として嘆じて曰く、『吾 之を荀卿に聞く』、曰く、『物は太はだ盛んなるを禁ず。』と。夫れ 斯 乃ち上蔡の布衣、閭巷の黔首、上、其の駑下を知らず、遂に遷た擢んで此に至る。當今、人臣の位、臣の上に居る者無し、富貴極れりと謂う可し。物極まれば則ち衰う、吾 未だ税駕する所を知らざるなり。)とあり、索隠は曰う「税駕猶解駕、言休息也。李斯言 巳 今日富貴、已 極未知向後、吉凶止泊、在何處也。」(税駕、言休息なり。李斯の言は 巳、今日富貴、已に 極り未だ向後を知らず、吉凶 止泊し、何處に在らんや。)とある。太平御覽に《史記》を引いて“史記曰「李斯臨刑、思牽黄犬、臂蒼鷹、出上蔡東門不可得矣。」(史記に曰う「李斯 刑に臨み、黄犬を牽き、蒼鷹を臂し、上蔡の東門を出んと思えども得可からず。)とあり、蕭士贇の補註に「考今本史記李斯傳中無臂蒼鷹字而太白詩中屢用其事 當另有所本。」(今、この本を考えるに、《史記 李斯傳》中に、「臂蒼鷹」の字は無く、而して太白詩中、屢しば用いたのは、其の事 當に另の本づく所が有ったということである。

 

華亭鶴唳何可聞 上蔡蒼鷹何足道 
陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。

【8】   華亭県(かてい-けん)は中華人民共和国甘粛省平涼市に位置する県。県人民政府の所在地は東華鎮。華亭県は東は崇信県、西は庄浪県、寧夏回族自治区の涇源県、南は張家川回族自治県と陝西省隴県、北は崆峒區に隣接する。

【9】   上蔡県(じょうさい-けん)は中華人民共和国河南省の駐馬店市に位置する県。
 

君不見呉中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。
君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。

【10】 張翰 昔、晋の張翰が、秋風に故郷である呉の菰菜(こさい)、蓴羹(じゅんさいのあつもの)、鱸魚膾(すずきのなます)を思い出し、それを食べたい一念で官を辞して故郷へ帰った。この後、すぐ世が乱れた。人々は、世の乱れを察していた張翰が故郷の味を口実に先手を打ったのだと思ったという逸話。李白「秋荊門を下る」

《晉書》に「張翰字季鷹人也。有清才、善屬文、而、縱任不拘。齊王冏、辟為大司馬東曹掾。冏、時執權。翰、因見秋風起、乃思中菰菜蓴羮鱸魚膾曰、『人生、貴得適志、何能羇宦數千里、以要名爵乎。』遂命駕而歸。俄而冏敗。人皆謂之見機。翰、任心自適、不求當世。或謂之曰、卿乃可縱適一時、獨不為身後名耶。荅曰、使我有身後名、不如即時一杯酒。時人貴其曠達。」(張翰、字は季鷹、郡の人なり。清才有り、善く文を屬す、而かも、縱任拘らず。齊王の冏、辟して大司馬、東曹掾と為す。冏、時に權を執る。翰、秋風の起る見るに因って、乃ち中の菰菜、蓴羮、鱸魚の膾を思うて曰く、『人生、適志を得るを貴ぶ、何ぞ能く羇宦數千里、以て名爵を要せんや。』と。遂に駕を命じ、而して歸る。俄にして 冏 敗る。人 皆 之を『機を見る』と謂う。翰は心に任せて自適し、當世に求めず。或いは之に謂ううて曰く、『卿は乃ち縱とい一時に適す可きも、獨り身後の名を為さざるか。』と。荅えて曰く、『我をして身後の名を有らしむも、即時一杯の酒に如かず。』と。時人 其の曠達を貴ぶ。とある。 
 

且樂生前一杯酒,何須身後千載名。
先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍しても、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

【11】   【解説】行路難ということ、第一首は、黄河の氷、大行山脈の雪、であった。第二首は、才のある明主に遭わないことであった。この第三首において、行路難の極みをいうが、それは「張翰稱達生」であり,「秋風忽憶江東行」でもって理想的行動、行路としている。行路は難であれ、「千載名」よりも、張翰のごとく「樂生前一杯酒」を大切にするということである。

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李白  行路難三首 之三

有耳莫洗潁川水、有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名、何用孤髙比雲月。

吾觀自古賢達人、功成不退皆殞身。子胥既棄江上、屈原終投湘水濵。

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三  才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。

李太白集巻一44

行路難三首 其三

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7485

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-9

423 <1000

 


 
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李太白集分類補註巻三

          宋 楊齊賢 集註  元 蕭士贇 補註 (編集紀頌之)

  行路難,三首之三   其三此首一/作古興

#1

有耳莫洗潁川水、有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名、何用孤髙比雲月。

吾觀自古賢達人、功成不退皆殞身。子胥既棄江上、屈原終投湘水濵。

・潁川水 髙士傳 許由耕於中岳、潁水之陽、箕山之下。 堯召為九州長。由不欲聞之、洗耳于潁水濵

・首陽蕨 史記 武王 巳平殷亂、天下宗周。而伯夷叔齊恥之、義、不食周粟、隠于首陽山 採薇而食之、索隠曰薇蕨也。

梁書 阮孝緒傳 周徳雖興夷齊不厭薇蕨、漢道方盛 黄綺無悶山林薇蕨

本二草而古人亦多混稱、太白改、以叶韻、葢有自也  

・子胥既棄江上 /越春秋 王聞子胥之怨恨也、乃使人賜屬鏤之劍。子胥 伏劍而死。王 取子胥尸、盛以夷之器投之於江/中。子胥 因隨流揚波、依潮來往、蕩激崩岸。

・屈原終投湘水濵 拾遺記 屈原 以忠見斥、隠於沅湘、披榛、茹草、混同禽獸、不交世、務採/栢實、以和桂膏、用養心神。被王逼逐、乃赴清泠之水。楚人思慕、謂之水仙。其神 于天河、精靈時降湘浦。

#2

陸機雄才豈自保、李斯税駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞、上蔡蒼鷹何足道。

君不見呉中張翰稱、一作/達生秋風忽憶江東。行且樂生前一杯、酒何須身後千載名。

・陸機雄才豈自保 晉書 成都王穎 起兵討長沙王乂、假陸機後將軍河北大都督、督北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人、戰/於鹿苑。機軍、大敗。宦人孟玖、譖機于穎、言其有異志。穎 怒、使秀、收機。機 釋戎服、著白與秀相見神色自若、既而嘆曰、華亭鶴唳、豈可復聞乎。遂遇害于軍中。

世説 註 八王故事 曰 「華亭、由拳縣郊外墅也。有清泉茂林。/平後、陸機兄弟共于此十餘年。」語林曰、機為河北都督。聞警角之聲、謂孫丞曰、聞此不如華亭鶴唳、故臨/刑而有此嘆説文唳鶴鳴也。

李斯税駕苦不早 史記 「李斯為丞相、長男由、為三川守、諸男、皆尚秦公主、女悉嫁秦諸公子。李由、告歸咸陽、李斯置酒於家、百官長、皆前為門庭車騎、以千數。 李斯、喟然嘆曰、「吾聞之荀卿、曰、物禁太盛。夫斯乃上蔡布衣、閭巷黔首、上、不知其駑下、遂遷擢至此。當今、人臣之位、無居臣上者、可謂富貴極矣。物極則衰、吾未知所税駕也。

索隠曰 税駕猶解駕、言休息也。李斯言 巳 今日富貴、已 極未知向後、吉凶止泊、在何處也。

太平御覽  “史記曰「李斯臨刑、思牽黄犬、臂蒼鷹、出上蔡東門不可得矣。考今本 史記 李斯傳中、無臂蒼鷹、字而太白詩中、屢用、其事 當另有所本。

・張翰 晉書 張翰字季鷹人也。有清才、善屬文、而、縱任不拘。齊王冏、辟為大司馬東曹掾。冏、時執權。翰、因見秋風起、乃思中菰菜蓴羮鱸魚膾曰、人生、貴得適志、何能羇宦數千里、以要名爵乎。遂命駕而歸。俄而冏敗。人皆謂之見機。翰、任心自適、不求當世。或謂之曰、卿乃可縱適一時、獨不為身後名耶。荅曰、使我有身後名、不如即時一杯酒。時人貴其曠達。」

 

 

 

 

-372-74巻二15 行路難三首 其三  (有耳莫洗潁川水,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六二  12-3

文體:

樂府

李太白集 

02-15

 

 

詩題:

行路難三首 其三

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

首陽山 (都畿道 河南府偃師別名:西山 

上蔡 (河南道 豫州 上蔡)   

交遊人物:

 

 

 

 

行路難,三首之三 #1

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。

才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。
含光混世貴無名,何用孤高比雲月。

老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。

吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。

自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。

子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。

呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。
#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。

華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

君不見中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。

且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

 

(行路難,三首の三)

耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨。

光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを。

吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損【おと】す。

子胥は既に棄てらる呉江の上【ほとり】 屈原は終に投ず湘水の浜。

 

陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ。

華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道【い】うに足らむ。

君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く。

且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須【もちひ】るや。

 

(含異文)      有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名,何用孤高比雲月。吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。陸機雄才豈自保【陸機才多豈自保】,李斯駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。君不見中張翰稱達生【君不見中張翰真達生】,秋風忽憶江東行。且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

 

 

『行路難,三首之三』 現代語訳と訳註解説

(本文)

行路難,三首之三 #1

有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。

含光混世貴無名,何用孤高比雲月。

吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。

子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。

 

(下し文)

(行路難,三首の三)

耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨。

光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを。

吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損【おと】す。

子胥は既に棄てらる呉江の上【ほとり】 屈原は終に投ず湘水の浜。

 

(現代語訳)

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。
老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。

自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。

呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。

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李白《巻02-14 行路難三首 其二》(改訂) 昭王の様な絶対賢主がいたなら、自分も不遇になることも無かろうが、それほどの昭王であっても没後すでに、千年、今は白骨になり蔓草に蔽われ墓のしたにある。昭王が政治を行った黄金台の跡をだれが見守り掃除するというのか。今更のことだが、目標を持った行路を進んでいくというのは困難なことだ、いっそ陶淵明のように「歸去來」を唱えて、隠遁して桃源郷に帰ろう。

 

 
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年:-731年開元十九年31 43

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  行路難,三首之二

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        長安 (京畿道 京兆府長安) 別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都

淮陰 (淮南道 楚州 淮陰)  

黃金臺 (河北道南部 易州 易縣) 別名:金臺、燕臺   

 

 

行路難,三首之一

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)

金樽清酒斗十千,玉盤珍羞直萬錢。

金の樽にたたえた聖人の酒、清酒は一斗が一万斛もたたえている。玉のように輝く大皿に盛った珍しい御馳走は万銭の値打ちである。
停杯投箸不能食,拔劍四顧心茫然。

人の世はいかに豪奢を尽くしても、思うが儘にはいかないことは仕方がないので、盃を交わしていても、杯をおき、喰う気にならず箸をおく。果ては、癇癪を起こして、剣を抜き、四方の霊に問うてみても、心は茫然としている。
欲渡黃河冰塞川,將登太行雪滿山。

それに、今までのように黄河を渡ろうとしても、あいにく、氷にふさがれて渡ることができないし、太行山に登ろうとすれば、積もった雪がいっぱいで、到底いかれないというようなことである。
閒來垂釣碧溪上,忽復乘舟夢日邊。

そこで、世の中のことを打ち棄てて、かの太公望が渭水のほとりでした様に、奇麗で静かな緑の谷川で釣糸を垂れて、心のどかにしていようとするが、その間に見る夢は、浮世の事を断念したつもりでも、どうしても舟に乗って白日の天子のそばに行くことを、夢みてしまうのだ。
行路難,行路難,多岐路,今安在。

これから生きる行路はまことに困難で、どの行路も困難なものだ。進めば岐路に当たり、行けば岐路、分れ路が多すぎる。今は容易に行ける行路はないのだ。

長風破浪會有時,直掛雲帆濟滄海。

結局、雲帆を掛け、滄海をわたり、長風に乗じてはるか万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来る。その時には、理想の仙界に向かっている。

行路難,三首之二 #1

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その二

大道如青天,我獨不得出。

長安の街の縦横に通ずる大通り、出入自在、何処にでも行かれそうなものであるというものであるが、我独り、この中に寓居しているものの、この身を宇宙の表に置くことができないように、ここから脱出することが出来きない、それは、天子の御政道が青天のように清朗で広く包み込むものであるが、私がその道を得ることができないのも同じである。
羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗。

かくて、自分は何時までも長安の中にいて、市中に群れている遊侠少年のまねをして、闘鶏や闘犬に梨や栗程度ものを賭けて遊び戯れて、うかうかした日々を過ごしていたことを愧じている。
彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。

確かに、自分は、何時までも轗軻不遇であるから、戦国の馮驩は剣を弾いて作詩した歌を苦しい声で唄い、宰相の孟嘗君に聞かせて聞き入れられた、いくら弁舌が上手くても漢の鄒陽は王に仕えて話す真意がすぐには思うように伝わらなかったように、自分もそのように振る舞えばよいが、それはできないだろう。
淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。

今、自分は、才を用いられることが無いばかりか、馬鹿にされたり、邪魔者扱いにされる。それは昔、淮陰の街の人たちの若い徒は韓信をあなどり「股くぐり」をさせ、わらいものであったが、漢の貴族、官僚たちは若くして要職に就いた賈誼に嫉妬し忌み嫌い讒言し、左遷させた。
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君不見昔時燕家重郭隗,擁慧折節無嫌猜。

君が知らない昔の出来事だが、戦国燕の昭王は、恨みを斉に報いんとして、郭隗を重用したのである、そうして、鄒衍を迎えるに礼を尽くして讒言や諫言など猜疑心の意見がある中、全く疑わないで使いにだし成功した。
劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。

そこで、燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと肝胆をいたし、五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材を登用すれば「肝胆を砕いて才能の限りをつくす」働きをするものだ。
昭王白骨縈爛草,誰人更掃黃金臺。

そこで、燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと肝胆をいたし、五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材を登用すれば「肝胆を砕いて才能の限りをつくす」働きをするものだ。
昭王の様な絶対賢主がいたなら、自分も不遇になることも無かろうが、それほどの昭王であっても没後すでに、千年、今は白骨になり蔓草に蔽われ墓のしたにある。昭王が政治を行った黄金台の跡をだれが見守り掃除するというのか。

行路難,歸去來。

今更のことだが、目標を持った行路を進んでいくというのは困難なことだ、いっそ陶淵明のように「歸去來」を唱えて、隠遁して桃源郷に帰ろう。

 

行路難,三首の二 #1

大道【たいどう】は晴天の如し、我れ独り出ずるを得ず。

羞【は】ず  長安社中の児を逐うて、赤鶏【せきけい】 白狗 梨栗【りりつ】を賭するを。

剣を弾じ歌を作【な】して苦声を奏し、裾【すそ】を王門に曳きて 情に称【かな】わず。

淮陰の市井 韓信を笑い、漢朝の公卿  賈生を忌【い】む。

#2

君見ずや 昔時【せきじ】の燕家【えんか】郭隗を重んじ彗【すい】を擁し節を折って嫌猜【けんさい】無し。

劇辛【げきしん】 楽毅【がくき】 恩分に感じ、肝を輸【いた】し膽【たん】を剖【さ】いて英才を效【いた】す。

昭王の白骨 蔓草【まんそう】に縈【まと】わる、誰人か更に掃【はら】わん 黃金臺。

行路は難【かた】し、帰り去らん 来【いざ】。

 

詩文(含異文)  大道如青天,我獨不得出。羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗【赤雞白雉賭梨栗】。彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。君不見昔時燕家重郭隗,擁慧折節無嫌猜【擁慧折腰無嫌猜】。劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。昭王白骨縈爛草【昭王白骨縈蔓草】,誰人更掃黃金臺。行路難,歸去來。

李白図102 

『行路難,三首之二』 現代語訳と訳註解説

(本文)#2

君不見昔時燕家重郭隗,擁慧折節無嫌猜。

劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。

昭王白骨縈爛草,誰人更掃黃金臺。

行路難,歸去來。

 

 

(下し文) #2

君見ずや 昔時【せきじ】の燕家【えんか】郭隗を重んじ彗【すい】を擁し節を折って嫌猜【けんさい】無し。

劇辛【げきしん】 楽毅【がくき】 恩分に感じ、肝を輸【いた】し膽【たん】を剖【さ】いて英才を效【いた】す。

昭王の白骨 蔓草【まんそう】に縈【まと】わる、誰人か更に掃【はら】わん 黄金台。

行路は難【かた】し、帰り去らん 来【いざ】。

 

(現代語訳)

君が知らない昔の出来事だが、戦国燕の昭王は、恨みを斉に報いんとして、郭隗を重用したのである、そうして、鄒衍を迎えるに礼を尽くして讒言や諫言など猜疑心の意見がある中、全く疑わないで使いにだし成功した。
そこで、燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと肝胆をいたし、五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材を登用すれば「肝胆を砕いて才能の限りをつくす」働きをするものだ。
そこで、燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと肝胆をいたし、五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材を登用すれば「肝胆を砕いて才能の限りをつくす」働きをするものだ。
昭王の様な絶対賢主がいたなら、自分も不遇になることも無かろうが、それほどの昭王であっても没後すでに、千年、今は白骨になり蔓草に蔽われ墓のしたにある。昭王が政治を行った黄金台の跡をだれが見守り掃除するというのか。

今更のことだが、目標を持った行路を進んでいくというのは困難なことだ、いっそ陶淵明のように「歸去來」を唱えて、隠遁して桃源郷に帰ろう。

魚玄機2長安洛陽中原地図 

(訳注)

行路難,三首之二 #2

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)

行路難 もとは漢代の歌謡。のち晋の袁山松という人がその音調を改変し新らしい歌詞をつくり、一時流行した。六朝の飽照の楽府に「擬行路難」十八首がある。 「行路難」はみずからの人生行路の困難を詠う。「行路難し 行路は難し、岐路多くして、今安にか在る」と悲鳴をあげながらも、「長風浪を破る 会に時有るべし」と将来に期待を寄せたい李白は三首つくった。

 

君不見昔時燕家重郭隗,擁彗折節無嫌猜。
君が知らない昔の出来事だが、戦国燕の昭王は、恨みを斉に報いんとして、郭隗を重用したのである、そうして、鄒衍を迎えるに礼を尽くして讒言や諫言など猜疑心の意見がある中、全く疑わないで使いにだし成功した。
○燕家重郭隗 昭王は人材を集めることを願い、どうしたら人材が来てくれるかを家臣の郭隗に聞いた。郭隗の返答は「まず私を優遇してください。さすれば郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから、もっと優れた人物はもっと優遇してくれるに違いないと思って人材が集まってきます。」と答え、昭王はこれを容れて郭隗を師と仰ぎ、特別に宮殿を造って郭隗に与えた。これは後世に「まず隗より始めよ」として有名な逸話になった。 

○擁彗折節無嫌猜 鄒衍(前305頃―前240) 戦国時代の陰陽五行家。斉の人。弁才にたけ、燕・斉を歴遊した。晩年、斉の使いとして趙に赴き、公孫竜を説得して尊敬された。陰陽のことを研究し、「五徳終始」説を提唱、春秋戦国時代に流行する「五行」説を社会・歴史の変化と王朝の交代になぞらえて、漢代の懺緯学の主な源流となった。著書の『鄒子』などは全部散逸した。 

 

劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。
そこで、燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと肝胆をいたし、五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材を登用すれば「肝胆を砕いて才能の限りをつくす」働きをするものだ。
○劇辛樂毅感恩分 劇辛は趙の国出身の人物で、郭隗の進言を聞き入れた燕昭王が「隗より始めよ」と富国強兵の為の人材優遇を始めて以降に、楽毅や鄒衍らと同様に、賢人を求め優遇する燕昭王の元へと赴き、燕の臣となった。楽毅は、戦国燕の武将で、昭王を助けて仇敵の斉を五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ稀代の軍略家。 

○輸肝剖膽效英才 き人材を登用すれば「肝胆を砕いて 才能の限りをつくす」働きをするものだ。


昭王白骨縈爛草,誰人更掃黃金臺。
昭王の様な絶対賢主がいたなら、自分も不遇になることも無かろうが、それほどの昭王であっても没後すでに、千年、今は白骨になり蔓草に蔽われ墓のしたにある。昭王が政治を行った黄金台の跡をだれが見守り掃除するというのか。

○白骨縈爛草 蔓草に纏われた墓の下に白骨がある。江淹《恨賦》「蔓草縈骨」とある。

○黃金臺 河南省大興縣の東南の臺。河北省易縣の東南。易水の上。戦国燕の昭王が千金を以て、天下の賢士を招いたところ。


行路難,歸去來。
今更のことだが、目標を持った行路を進んでいくというのは困難なことだ、いっそ陶淵明のように「歸去來」を唱えて、隠遁して桃源郷に帰ろう。

歸去來 〔陶淵明(とうえんめい)「帰去来辞」に基づく。「来」は助辞〕故郷に帰るために,官職をやめてその地を去ること。「かえりなんいざ」と訓読されてきた。
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157 《巻02-14 行路難三首 其二》(改訂)Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <157> Ⅰ李白詩1 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5348

 

 

年:-731年開元十九年31 43

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  行路難,三首之二

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        長安 (京畿道 京兆府長安) 別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都

淮陰 (淮南道 楚州 淮陰)  

黃金臺 (河北道南部 易州 易縣) 別名:金臺、燕臺   

 

 

行路難,三首之一

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)

金樽清酒斗十千,玉盤珍羞直萬錢。

金の樽にたたえた聖人の酒、清酒は一斗が一万斛もたたえている。玉のように輝く大皿に盛った珍しい御馳走は万銭の値打ちである。
停杯投箸不能食,拔劍四顧心茫然。

人の世はいかに豪奢を尽くしても、思うが儘にはいかないことは仕方がないので、盃を交わしていても、杯をおき、喰う気にならず箸をおく。果ては、癇癪を起こして、剣を抜き、四方の霊に問うてみても、心は茫然としている。
欲渡黃河冰塞川,將登太行雪滿山。

それに、今までのように黄河を渡ろうとしても、あいにく、氷にふさがれて渡ることができないし、太行山に登ろうとすれば、積もった雪がいっぱいで、到底いかれないというようなことである。
閒來垂釣碧溪上,忽復乘舟夢日邊。

そこで、世の中のことを打ち棄てて、かの太公望が渭水のほとりでした様に、奇麗で静かな緑の谷川で釣糸を垂れて、心のどかにしていようとするが、その間に見る夢は、浮世の事を断念したつもりでも、どうしても舟に乗って白日の天子のそばに行くことを、夢みてしまうのだ。
行路難,行路難,多岐路,今安在。

これから生きる行路はまことに困難で、どの行路も困難なものだ。進めば岐路に当たり、行けば岐路、分れ路が多すぎる。今は容易に行ける行路はないのだ。

長風破浪會有時,直掛雲帆濟滄海。

結局、雲帆を掛け、滄海をわたり、長風に乗じてはるか万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来る。その時には、理想の仙界に向かっている。

行路難,三首之二 #1

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その二

大道如青天,我獨不得出。

長安の街の縦横に通ずる大通り、出入自在、何処にでも行かれそうなものであるというものであるが、我独り、この中に寓居しているものの、この身を宇宙の表に置くことができないように、ここから脱出することが出来きない、それは、天子の御政道が青天のように清朗で広く包み込むものであるが、私がその道を得ることができないのも同じである。

羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗。

かくて、自分は何時までも長安の中にいて、市中に群れている遊侠少年のまねをして、闘鶏や闘犬に梨や栗程度ものを賭けて遊び戯れて、うかうかした日々を過ごしていたことを愧じている。

彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。

確かに、自分は、何時までも轗軻不遇であるから、戦国の馮驩は剣を弾いて作詩した歌を苦しい声で唄い、宰相の孟嘗君に聞かせて聞き入れられた、いくら弁舌が上手くても漢の鄒陽は王に仕えて話す真意がすぐには思うように伝わらなかったように、自分もそのように振る舞えばよいが、それはできないだろう。

淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。

今、自分は、才を用いられることが無いばかりか、馬鹿にされたり、邪魔者扱いにされる。それは昔、淮陰の街の人たちの若い徒は韓信をあなどり「股くぐり」をさせ、わらいものであったが、漢の貴族、官僚たちは若くして要職に就いた賈誼に嫉妬し忌み嫌い讒言し、左遷させた。

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君不見昔時燕家重郭隗,擁慧折節無嫌猜。

劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。

昭王白骨縈爛草,誰人更掃黃金臺。

行路難,歸去來。

 

行路難,三首の二 #1

大道【たいどう】は晴天の如し、我れ独り出ずるを得ず。

羞【は】ず 長安社中の児を逐うて、赤鶏【せきけい】 白狗 梨栗【りりつ】を賭するを。

剣を弾じ歌を作【な】して苦声を奏し、裾【すそ】を王門に曳きて 情に称【かな】わず。

淮陰の市井 韓信を笑い、漢朝の公卿  賈生を忌【い】む。

#2

君見ずや 昔時【せきじ】の燕家【えんか】郭隗を重んじ彗【すい】を擁し節を折って嫌猜【けんさい】無し。

劇辛【げきしん】 楽毅【がくき】 恩分に感じ、肝を輸【いた】し膽【たん】を剖【さ】いて英才を效【いた】す。

昭王の白骨 蔓草【まんそう】に縈【まと】わる、誰人か更に掃【はら】わん 黄金台。

行路は難【かた】し、帰り去らん 来【いざ】。

 

詩文(含異文)  大道如青天,我獨不得出。羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗【赤雞白雉賭梨栗】。彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。君不見昔時燕家重郭隗,擁慧折節無嫌猜【擁慧折腰無嫌猜】。劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。昭王白骨縈爛草【昭王白骨縈蔓草】,誰人更掃黃金臺。行路難,歸去來。

長安城漢唐 

『行路難,三首之二』 現代語訳と訳註解説

(本文)

行路難,三首之二 #1

大道如青天,我獨不得出。

羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗。

彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。

淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。

 

(下し文)

行路難,三首の二 #1

大道【たいどう】は晴天の如し、我れ独り出ずるを得ず。

羞【は】ず  長安社中の児を逐うて、赤鶏【せきけい】 白狗 梨栗【りりつ】を賭するを。

剣を弾じ歌を作【な】して苦声を奏し、裾【すそ】を王門に曳きて  情に称【かな】わず。

淮陰の市井 韓信を笑い、漢朝の公卿  賈生を忌【い】む。

 

(現代語訳)

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その二

長安の街の縦横に通ずる大通り、出入自在、何処にでも行かれそうなものであるというものであるが、我独り、この中に寓居しているものの、この身を宇宙の表に置くことができないように、ここから脱出することが出来きない、それは、天子の御政道が青天のように清朗で広く包み込むものであるが、私がその道を得ることができないのも同じである。
かくて、自分は何時までも長安の中にいて、市中に群れている遊侠少年のまねをして、闘鶏や闘犬に梨や栗程度ものを賭けて遊び戯れて、うかうかした日々を過ごしていたことを愧じている。
確かに、自分は、何時までも轗軻不遇であるから、戦国の馮驩は剣を弾いて作詩した歌を苦しい声で唄い、宰相の孟嘗君に聞かせて聞き入れられた、いくら弁舌が上手くても漢の鄒陽は王に仕えて話す真意がすぐには思うように伝わらなかったように、自分もそのように振る舞えばよいが、それはできないだろう。
今、自分は、才を用いられることが無いばかりか、馬鹿にされたり、邪魔者扱いにされる。それは昔、淮陰の街の人たちの若い徒は韓信をあなどり「股くぐり」をさせ、わらいものであったが、漢の貴族、官僚たちは若くして要職に就いた賈誼に嫉妬し忌み嫌い讒言し、左遷させた。
<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->長安付近図00
<!--[endif]-->

(訳注)

行路難,三首之二

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)

行路難 もとは漢代の歌謡。のち晋の袁山松という人がその音調を改変し新らしい歌詞をつくり、一時流行した。六朝の飽照の楽府に「擬行路難」十八首がある。 「行路難」はみずからの人生行路の困難を詠う。「行路難し 行路は難し、岐路多くして、今安にか在る」と悲鳴をあげながらも、「長風浪を破る 会に時有るべし」と将来に期待を寄せたい李白は三首つくった。

 

大道如青天,我獨不得出。
長安の街の縦横に通ずる大通り、出入自在、何処にでも行かれそうなものであるというものであるが、我独り、この中に寓居しているものの、この身を宇宙の表に置くことができないように、ここから脱出することが出来きない、それは、天子の御政道が青天のように清朗で広く包み込むものであるが、私がその道を得ることができないのも同じである。
○大道 長安の街の縦横に通ずる大通り。天下の御政道。道は万物に備わったそれぞれの道をいい、それら万物すべてに共通する道をしめす。

 

羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗。
かくて、自分は何時までも長安の中にいて、市中に群れている遊侠少年のまねをして、闘鶏や闘犬に梨や栗程度ものを賭けて遊び戯れて、うかうかした日々を過ごしていたことを愧じている。
○羞逐 はずかしいことではあるがやってしまう。
○兒 若い衆、任侠の使徒。子供は童。

○梨栗 実際には、お金をかけたのかもしれないが、レートとして、高くないことを示している。


彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。
確かに、自分は、何時までも轗軻不遇であるから、戦国の馮驩は剣を弾いて作詩した歌を苦しい声で唄い、宰相の孟嘗君に聞かせて聞き入れられた、いくら弁舌が上手くても漢の鄒陽は王に仕えて話す真意がすぐには思うように伝わらなかったように、自分もそのように振る舞えばよいが、それはできないだろう。
○彈劍 馮驩 すうかん斉の宰相孟嘗君に仕えた政治家。孟嘗君の食客として迎えられ、下級宿舎に泊まらせられた。馮驩は剣を叩きながら「我が長剣よ、帰ろうか、食う魚なし」という歌を歌い出した。それを聞いた孟嘗君は中級宿舎に泊まらせた。すると馮驩はまた剣を叩きながら「我が長剣よ、帰ろうか、外にも出ようも御輿がない」という歌を歌い出した。詳しくはウィキペディア「馮驩」「斉の宰相と馮驩」参照。

○曳裾王門不稱情 弁舌の上手い使徒を雇い入れ、王に意見を述べさせても、述べた本質のところの理解はすぐにできるのではない。「史記」巻八十三は戦国の弁舌の徒・魯仲連と漢代に文章を以て重用された鄒陽の合伝にある故事に基づいている。


淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。
今、自分は、才を用いられることが無いばかりか、馬鹿にされたり、邪魔者扱いにされる。それは昔、淮陰の街の人たちの若い徒は韓信をあなどり「股くぐり」をさせ、わらいものであったが、漢の貴族、官僚たちは若くして要職に就いた賈誼に嫉妬し忌み嫌い讒言し、左遷させた。
○韓信 淮陰(現:江蘇省淮安市)の出身。貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活に終始していた。韓信は町の少年に「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。出来ないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。大いに笑われた韓信であったが、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していたのである。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになる。
○賈誼 漢の孝文帝劉恒(紀元前202157年)に仕えた文人賈誼(紀元前201169年)のこと。洛陽の人。諸吉家の説に通じ、二十歳で博士となった。一年後、太中大夫すなわち内閣建議官となり、法律の改革にのりだして寵任されたが、若輩にして高官についたことを重臣たちに嫉まれ、長沙王の傅に左遷された。のち呼び戻され、孝文帝の鬼神の事に関する質問に答え、弁説して夜にまで及び、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられる。その後、孝文帝の少子である梁の懐王の傅となり、まもなく三十三歳を以て死んだ。屈原を弔う文及び鵩(みみずく)の賦が有名。賈誼が長沙にいた時、「目鳥 其の承塵に集まる」。目鳥はふくろうに似た鳥というが、詩文のなかのみにあらわれ、その家の主人の死を予兆する不吉な鳥とされる。賈誼はその出現におびえ、「鵩鳥の賦」(『文選』巻一三)を著した。李商隠「賈生」 
賈生 李商隠:紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 64 参照。

156 《巻02-13 行路難三首 其一 》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <156> Ⅰ李白詩1352 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5308

李白《巻02-13 行路難三首其一 》(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)

 
 2014年12月30日の紀頌之5つのブログ 
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年:-731年開元十九年31

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  行路難,三首之一

 

 

行路難,三首之一

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)

金樽清酒斗十千,玉盤珍羞直萬錢。

金の樽にたたえた聖人の酒、清酒は一斗が一万斛もたたえている。玉のように輝く大皿に盛った珍しい御馳走は万銭の値打ちである。
停杯投箸不能食,拔劍四顧心茫然。

人の世はいかに豪奢を尽くしても、思うが儘にはいかないことは仕方がないので、盃を交わしていても、杯をおき、喰う気にならず箸をおく。果ては、癇癪を起こして、剣を抜き、四方の霊に問うてみても、心は茫然としている。
欲渡黃河冰塞川,將登太行雪滿山。

それに、今までのように黄河を渡ろうとしても、あいにく、氷にふさがれて渡ることができないし、太行山に登ろうとすれば、積もった雪がいっぱいで、到底いかれないというようなことである。
閒來垂釣碧溪上,忽復乘舟夢日邊。

そこで、世の中のことを打ち棄てて、かの太公望が渭水のほとりでした様に、奇麗で静かな緑の谷川で釣糸を垂れて、心のどかにしていようとするが、その間に見る夢は、浮世の事を断念したつもりでも、どうしても舟に乗って白日の天子のそばに行くことを、夢みてしまうのだ。
行路難,行路難,多岐路,今安在。

これから生きる行路はまことに困難で、どの行路も困難なものだ。進めば岐路に当たり、行けば岐路、分れ路が多すぎる。今は容易に行ける行路はないのだ。

長風破浪會有時,直掛雲帆濟滄海。

結局、雲帆を掛け、滄海をわたり、長風に乗じてはるか万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来る。その時には、理想の仙界に向かっている。
(行路難,三首の一)

金樽の清酒 斗十千,玉盤の珍羞【ちんしゅう】 直【あたい】 萬錢【ばんぜん】。

杯を停め箸を投じて 食う能わず,劒を拔いて四顧し心 茫然【ぼうぜん】。

黄河を渡らんと欲すれば冰は川を塞ぐ,太行に登らんと將れば雪は山に滿。

閑來【かんらい】 釣を垂る 碧溪【へきけい】の上,忽ち復 舟に乘じて日邊を夢む。

行路 難! 行路 難!  岐路 多し 今 安くにか在る。

長風 浪を破る 會ず時 有り,直ちに雲帆【うんぱん】を挂【か】けて 滄海【そうかい】に濟【わた】らん。

 

(含異文)

金樽清酒斗十千,玉盤珍饈直萬錢。

停杯投箸不能食,拔劍四顧心茫然。

欲渡黃河冰塞川,將登太行雪滿山【將登太行雪暗天】。

閒來垂釣碧溪上【閒來垂釣坐溪上】,忽復乘舟夢日邊。

行路難,行路難,多岐路,今安在。

長風破浪會有時,直掛雲帆濟蒼海。

 

華山道教
『行路難,三首之一』 現代語訳と訳註解説

(本文)

行路難,三首之一

金樽清酒斗十千,玉盤珍羞直萬錢。

停杯投箸不能食,拔劍四顧心茫然。

欲渡黃河冰塞川,將登太行雪滿山。

閒來垂釣碧溪上,忽復乘舟夢日邊。

行路難,行路難,多岐路,今安在。

長風破浪會有時,直掛雲帆濟滄海。

 

(下し文)

(行路難,三首の一)

金樽の清酒 斗十千,玉盤の珍羞【ちんしゅう】 直【あたい】 萬錢【ばんぜん】。

杯を停め箸を投じて 食う能わず,劒を拔いて四顧し心 茫然【ぼうぜん】。

黄河を渡らんと欲すれば冰は川を塞ぐ,太行に登らんと將れば雪は山に滿。

閑來【かんらい】 釣を垂る 碧溪【へきけい】の上,忽ち復 舟に乘じて日邊を夢む。

行路 難! 行路 難!  岐路 多し 今 安くにか在る。

長風 浪を破る 會ず時 有り,直ちに雲帆【うんぱん】を挂【か】けて 滄海【そうかい】に濟【わた】らん。

 

(現代語訳)

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)

金の樽にたたえた聖人の酒、清酒は一斗が一万斛もたたえている。玉のように輝く大皿に盛った珍しい御馳走は万銭の値打ちである。
人の世はいかに豪奢を尽くしても、思うが儘にはいかないことは仕方がないので、盃を交わしていても、杯をおき、喰う気にならず箸をおく。果ては、癇癪を起こして、剣を抜き、四方の霊に問うてみても、心は茫然としている。
それに、今までのように黄河を渡ろうとしても、あいにく、氷にふさがれて渡ることができないし、太行山に登ろうとすれば、積もった雪がいっぱいで、到底いかれないというようなことである。
そこで、世の中のことを打ち棄てて、かの太公望が渭水のほとりでした様に、奇麗で静かな緑の谷川で釣糸を垂れて、心のどかにしていようとするが、その間に見る夢は、浮世の事を断念したつもりでも、どうしても舟に乗って白日の天子のそばに行くことを、夢みてしまうのだ。
これから生きる行路はまことに困難で、どの行路も困難なものだ。進めば岐路に当たり、行けば岐路、分れ路が多すぎる。今は容易に行ける行路はないのだ。

結局、雲帆を掛け、滄海をわたり、長風に乗じてはるか万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来る。その時には、理想の仙界に向かっている。
<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->終南山06
<!--[endif]-->

(訳注)

行路難,三首之一

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)

行路難 もとは漢代の歌謡。のち晋の袁山松という人がその音調を改変し新らしい歌詞をつくり、一時流行した。六朝の飽照の楽府に「擬行路難」十八首がある。 「行路難」はみずからの人生行路の困難を詠う。「行路難し 行路は難し、岐路多くして、今安にか在る」と悲鳴をあげながらも、「長風浪を破る 会に時有るべし」と将来に期待を寄せたい李白は三首つくった。

 

金樽清酒斗十千,玉盤珍羞直萬錢。
金の樽にたたえた聖人の酒、清酒は一斗が一万斛もたたえている。玉のように輝く大皿に盛った珍しい御馳走は万銭の値打ちである。
斗十干 一斗一万銭。高い上等の酒。曹植の詩「美酒斗十干」にもとづく。
李白《將進酒》「陳王昔時宴平樂,斗酒十千恣歡謔。」(陳王の曹植は平楽観で宴を開いたとき。 陳王・曹植は斗酒を大金で手に入れ、よろこびたわむれることをほしいままにした。)
・陳王 三国時代魏の曹植のこと。 ・昔時 むかし。 ・平樂 平楽観。『名都篇』で詠う宮殿の名で、後漢の明帝の造営になる。(当時の)首都・洛陽にあった遊戯場。或いは、長安の未央宮にあった。・斗酒十千 斗酒で一万銭。曹植楽府詩、「一斗一万銭」。 ・斗酒 両義あり。わずかな酒。また、多くの酒。 ・斗 ます。少しばかりの量。少量の酒。多くの酒。 ・十千 一万。 ・恣 ほしいままにする。わがまま。勝手きままにふるまう。 ・歡謔 かんぎゃく よろこびたわむれる。

王維の『少年行』に新豐美酒斗十千,咸陽遊侠多少年。相逢意氣爲君飮,繋馬高樓垂柳邊。
 (紀 頌之のブログ6月11王維 少年行参照

珍羞 めずらしいごちそう。○直 値と同じ。


停杯投箸不能食,拔劒四顧心茫然。
人の世はいかに豪奢を尽くしても、思うが儘にはいかないことは仕方がないので、盃を交わしていても、杯をおき、喰う気にならず箸をおく。果ては、癇癪を起こして、剣を抜き、四方の霊に問うてみても、心は茫然としている。
停杯 気持ちがのらない度いつの間にか酒を辞めている状態。

拔劒四顧 剣を抜いて四方の霊に問いただしてみる。


欲渡黄河冰塞川,將登太行雪滿山。
それに、今までのように黄河を渡ろうとしても、あいにく、氷にふさがれて渡ることができないし、太行山に登ろうとすれば、積もった雪がいっぱいで、到底いかれないというようなことである。
太行 山の名。太行山脈(たいこうさんみゃく)は中国北部にある山地。山西省、河南省、河北省の三つの省の境界部分に位置する。太行山脈は東の華北平野と西の山西高原(黄土高原の最東端)の間に、北東から南西へ400kmにわたり伸びており、平均標高は1,500mから2,000mである。最高峰は河北省張家口市の小五台山で、標高2,882m。山脈の東にある標高1,000mほどの蒼岩山は自然の奇峰や歴史ある楼閣などの多い風景区となっている。山西省・山東省の地名は、この太行山脈の西・東にあることに由来する。


閑來垂釣碧溪上,忽復乘舟夢日邊。
そこで、世の中のことを打ち棄てて、かの太公望が渭水のほとりでした様に、奇麗で静かな緑の谷川で釣糸を垂れて、心のどかにしていようとするが、その間に見る夢は、浮世の事を断念したつもりでも、どうしても舟に乗って白日の天子のそばに行くことを、夢みてしまうのだ。
日辺 太陽の側と、天子の側という意味と、ここでは兼ねている。



行路難,行路難,多岐路,今安在
これから生きる行路はまことに困難で、どの行路も困難なものだ。進めば岐路に当たり、行けば岐路、分れ路が多すぎる。今は容易に行ける行路はないのだ。
多岐路 わかれみちが多いために逃げた羊を追うことができず、とうとう羊を亡ってしまった。ヘボ学者はそれと同様、多すぎる資料をもてあまして決断に迷い、いたずらに年をとってしまう、という故事がある。「列子」にみえる。ここは岐路から岐路へ、岐路が多い迷路のようだということ。
今安在 迷路のどこにいるのか。



長風破浪會有時,直挂雲帆濟滄海。
結局、雲帆を掛け、滄海をわたり、長風に乗じてはるか万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来る。その時には、理想の仙界に向かっている。
滄海 東方の仙界、蓬莱・方丈・瀛州に向かい海。あおうなばら。

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李白《巻02-04 梁甫吟 -#4(改訂)Iそもそも、雲は龍にしたがい、風は虎に随うというもの、龍虎はかならず風雲に出会って活躍するはずなのであり、太公望のよう人は、牛の屠殺と釣三昧から一躍、風雲感会を得てその能力を発揮した。今の世の君主が動揺不安の境遇にあるとき、わたしこそが、それを安定させる人であるのだから、その時機が到来するのを自信を持って待っているのだ。

 
 2014年12月29日の紀頌之5つのブログ 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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155-#4 《巻02-04 梁甫吟 -#4(改訂)Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <155-#4> Ⅰ李白詩1358 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5338

 

 

年:731       開元十九年31

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  梁甫吟

及地點:        梁父山 (河南道 兗州梁父山) 別名:梁甫山         

淇縣 (河北道南部 衛州 衛縣) 別名:朝歌   

棘津 (河北道北部 安東都護府 延津州)      

高陽 (河北道南部 瀛洲 高陽)            



梁甫吟 1
(呂尚に学び、諸葛亮を学んで、梁甫吟を詠う)

長嘯梁甫吟。 何時見陽春。 
ああここに有志の士がいる、いずれの時に明主に遭遇し、大いに用いられ、持っている志を伸ばせるのか、ここにいにしえの英雄、諸葛亮を学び、大声を発して梁甫吟をながく、ながく吟じてみるのも、やむを得ない始末だからだ。
君不見朝歌屠叟辭棘津、八十西來釣渭濱。 
君は知っているだろう。むかし呂尚という人がいたが、はじめは朝歌の牛殺しのおじいさんであったが、棘津の地にわかれをつげ、八十歳の老衰の身をもって、西方にきて、渭水のほとりで十年にわたって釣りをしていて文王と出会ったのをた。 
寧羞白發照淥水。逢時壯氣思經綸。 
風采と云えば、白髪が緑の清らかな水に映るようになっていることを、どうして恥じる必要があろう。時節の到来にあたれば、意気さかんに、天下をおさめ人民をすくう方策をいかせると用いられたのである。
廣張三千六百鉤。 風期暗與文王親。 
それまで「三千六百回の鉤」十年もの長い間、毎日毎日、釣り糸をたらした。しらず、しらず、その風格が文王と親しむところとなり、これを認められたのである。
大賢虎變愚不測。 當年頗似尋常人。 
すぐれた人物は、期の到来で虎の毛並のもようが見事に変るように、あざやかな変化をするものだ、愚か者には予想もできはしないもので、はじめは、世間のふつうの人といささか似ているということであったのだ。

#2
君不見高陽酒徒起草中。長揖山東隆准公。 
君は知っているだろう。酈食其というものが高陽の里に居て、大酒のみであったので誰も相手にされなかったが、ひとたび、荒草の中から身をおこし、沛公に謁見する。
入門不拜騁雄辯。兩女輟洗來趨風。 
門を入っても最敬礼をしないままに、そして雄弁に沛公を説き伏せた。感服した挙句には、沛公の足を洗っていた二人の女は、あっけにとられて洗うのをやめ、あわてて沛公に厚く礼をなすにいたった。
東下齊城七十二。指揮楚漢如旋蓬。 
酈食其は東方に下って行った、そしてその雄弁でもって斉の七十二城をおとした。また、楚と漢の両軍を指揮して、空をとびまわるヨモギの穂を丸めるようにしてしまったのだ。
狂客落魄尚如此。何況壯士當群雄。
おちぶれていた独りよがりの頑固者、狂客と呼ばれ、なお、こういった仕事ができたのだ。まして、血気さかんな志士であったなら、むらがる英雄の前にのり出そうとするのも当たり前のことであろう。
我欲攀龍見明主。雷公砰訇震天鼓。 
わたしは、竜鱗を攀じて、賢明な君主に謁見し、その知遇を得ようと企てたが、雷公が、妨害を試み、恐ろしく凄まじい響きを発し、ガラゴロゴロと天鼓を頻りにうちならしたのだ。
#3
帝旁投壺多玉女。三時大笑開電光。 
天帝のおそばには、飾り立て輝くきゅう玉女が大勢ならび、投壷のゲームをやっていた。半日のあいだ、壷に投げこむ矢がはずれるたびに、天帝が大いに笑い、イナズマの閃光があったのだ。
倏爍晦冥起風雨。閶闔九門不可通。 
かくて、ピカッと光っては、忽ち暗闇となり、暴風雨がまきおこる。天に通じる御門は九重にとざされ、通りぬけることができなくなった。
以額叩關閽者怒。白日不照吾精誠。 
天帝の居られる九重の門は固く閉ざされたので、ひたいをぶっつけて門をたたくと、門番がおこった。それからくもりではない太陽の光も、わたくしの真心を照らし出してはくれなくなった。
杞國無事憂天傾。貐磨牙競人肉。 
むかし、杞の国の人は、何事も起らないのに、天の傾くことを憂えた。わたしも、また、杞憂をいだかざるを得ない。竊寙(せつゆ)という怪獣が、牙をみがいて、われ先に人の肉を食おうとしているというのだ。
騶虞不折生草莖。手接飛猱搏雕虎。

また、騶虞という仁獣は、生きている草の茎さえ折らないように、注意ぶかく歩いているというのに、朝廷には悪人がはびこり、善人は消極的である。これはわたしなら、飛びまわる手長猿を片手でつかみながら、片手で斑の虎をなぐり殺すことさえできるというものだ。
 
#4
側足焦原未言苦。智者可卷愚者豪。 
つまり、貧窮と疏賤に打ち勝ち、莒国の焦原が登ったという絶壁の石に足のつま先で立って、少しも苦しいなどとは言わない。知恵ある者は知恵を巻物にしまいこむようにしていることができるもの、愚か者ほど、強がったり、えらそうなそぶりをするものだ。

世人見我輕鴻毛。力排南山三壯士。 
しかるに、世間の人は、わたしが世に出ず引き込んでいるのを見るとつまらぬやつだと、鴻の鳥羽の毛より軽いと見くびって、真の精神を解しているのではないのである。むかし、斉国の力自慢では南山でもおしのけるという公孫接等と言う三人の壮士がいたが、妬まれて僅か、二桃のために命を失った。
齊相殺之費二桃。楚弄兵無劇孟。 
かれらは、節義を砥礪するため、時の斉の宰相である妟子に憎まれて、わずか二つの桃のために命を失ったが、これは辞世を見る事をしなかったためである。また、呉楚七国の乱に際し、呉楚の方では、劇孟という任侠者で、立派で勇壮な人物を味方にしなかった。
亞夫咍爾為徒勞。梁甫吟。聲正悲。 
その楚呉の乱の征伐に出かけた周亜夫は、劇孟を用いなかった楚呉の国では到底七国の反乱を胎児出来る事は無かろうと大いに笑ったという。国の政治を司るものの不勉強というのもの、私を登用しない今日の政治も同じである。だから、こうして「簗甫吟」を吟じていても、ここに至れば、声はまことに悲壮となることを禁じ得ないのである。
張公兩龍劍。 神物合有時。 
むかし張公のもっていた二つの宝剣が、別別に失われたにもかかわらず、二頭の竜となってあらわれ、一つになったという故事もある。非常にすぐれたものは、その働き場所を得るには、時期というものが合わなければならないし、何時かは明主と遭遇するということに相違ないと確信しているのだ。
風云感會起屠釣。大人嶬屼當安之。

そもそも、雲は龍にしたがい、風は虎に随うというもの、龍虎はかならず風雲に出会って活躍するはずなのであり、太公望のよう人は、牛の屠殺と釣三昧から一躍、風雲感会を得てその能力を発揮した。今の世の君主が動揺不安の境遇にあるとき、わたしこそが、それを安定させる人であるのだから、その時機が到来するのを自信を持って待っているのだ。

梁甫吟#1

長嘯す梁甫吟、何れの時か陽春を見ん。

君見ずや 朝歌の屠叟【とそう】棘津【きょくしん】を辞し、八十にして西に来って渭浜に釣す。

寧んぞ羞じんや 白髪の淥水を照らすを、時に逢い気を壮にして 經綸を思う。

広く張る三千六百鉤、風期 暗に文王と親しむ。

大賢は虎変して愚は測らず、当年頗る似たり尋常の人に。

#2

君見ずや高陽の酒徒 草中に起り、山東の隆準公に長揖せるを。

門に入りて拝せず 雄弁を騁すれば、両女洗うことを輟めて 来って風に趨る。

東のかた斉城七十二を下す、楚漢を指揮して旋蓬の如し。

狂客落魄するも 尚お此の如し、何ぞ況んや壮士の群雄に当るをや。

我竜に攀じて明主に見えんと欲す、雷公の砰訇【ほうこう】 天鼓を震う。
#3

帝の旁に授壷して 玉女多し、三時大笑して 電光を開く。

倏燦【しゅくしゃく】 晦冥【かいめい】 風雨を起す、

閶闔【しょうこう】の九門 通ず可からず。

額を以て関を叩けば 閽者怒る、白日吾が精誠を照らさず。

杞国無事にして 天の傾くを憂う、喫給は牙を磨いて 人肉を競い。

騶虞【すうぐ】は折らず 生草の茎、手は飛猿に接して 雕虎を持ち。

#4

足を焦原に側だてて 未だ苦を言わず、智者は巻く可く愚者は豪なり。

世人我を見ること鴻毛よりも軽し、力は南山を排す三壮士。

斉相 之を殺すに二桃を費す、呉楚兵を弄して劇孟無し。

亜夫 咍爾としで徒労と為す。梁甫吟  声正に悲し。

張公の両竜剣、神物 合するに時有り。

風雲感会 屠釣を起す、大人嶬屼たらは当に之を安んずべし。

杜甫 体系 地図459同谷紀行
現代語訳と訳註
(
本文)#4

側足焦原未言苦。智者可卷愚者豪。 
世人見我輕鴻毛。力排南山三壯士。 
齊相殺之費二桃。
楚弄兵無劇孟。 
亞夫咍爾為徒勞。梁甫吟。聲正悲。 
張公兩龍劍。 神物合有時。 
風云感會起屠釣。大人嶬屼當安之。


(下し文)
足を焦原に側だてて 未だ苦を言わず、智者は巻く可く愚者は豪なり。
世人我を見ること鴻毛よりも軽し、力は南山を排す三壮士。
斉相 之を殺すに二桃を費す、呉楚兵を弄して劇孟無し。
亜夫 咍爾としで徒労と為す。梁甫吟  声正に悲し。
張公の両竜剣、神物 合するに時有り。
風雲感会 屠釣を起す、大人嶬屼たらは当に之を安んずべし。


(現代語訳)
つまり、貧窮と疏賤に打ち勝ち、莒国の焦原が登ったという絶壁の石に足のつま先で立って、少しも苦しいなどとは言わない。知恵ある者は知恵を巻物にしまいこむようにしていることができるもの、愚か者ほど、強がったり、えらそうなそぶりをするものだ。

しかるに、世間の人は、わたしが世に出ず引き込んでいるのを見るとつまらぬやつだと、鴻の鳥羽の毛より軽いと見くびって、真の精神を解しているのではないのである。むかし、斉国の力自慢では南山でもおしのけるという公孫接等と言う三人の壮士がいたが、妬まれて僅か、二桃のために命を失った。
かれらは、節義を砥礪するため、時の斉の宰相である妟子に憎まれて、わずか二つの桃のために命を失ったが、これは辞世を見る事をしなかったためである。また、呉楚七国の乱に際し、呉楚の方では、劇孟という任侠者で、立派で勇壮な人物を味方にしなかった。
その楚呉の乱の征伐に出かけた周亜夫は、劇孟を用いなかった楚呉の国では到底七国の反乱を胎児出来る事は無かろうと大いに笑ったという。国の政治を司るものの不勉強というのもの、私を登用しない今日の政治も同じである。だから、こうして「簗甫吟」を吟じていても、ここに至れば、声はまことに悲壮となることを禁じ得ないのである。
むかし張公のもっていた二つの宝剣が、別別に失われたにもかかわらず、二頭の竜となってあらわれ、一つになったという故事もある。非常にすぐれたものは、その働き場所を得るには、時期というものが合わなければならないし、何時かは明主と遭遇するということに相違ないと確信しているのだ。
そもそも、雲は龍にしたがい、風は虎に随うというもの、龍虎はかならず風雲に出会って活躍するはずなのであり、太公望のよう人は、牛の屠殺と釣三昧から一躍、風雲感会を得てその能力を発揮した。今の世の君主が動揺不安の境遇にあるとき、わたしこそが、それを安定させる人であるのだから、その時機が到来するのを自信を持って待っているのだ。


yoshu&choan736
(訳注) #4
梁甫吟
 

(呂尚に学び、諸葛亮を学んで、梁甫吟を詠う)

梁甫吟は楽府題の古い題の一つ。相和歌楚調曲に梁父吟行とあって、その由来は戦国の武侯が好んで詠ったものといわれる。梁甫は、梁父とも書き、むかしの斉の国、いまの山東省の、泰山のふもとにある、570mの小さな山の名である。そこは、古代の迷信では、死者のたましいの帰る場所とされていた。「梁甫吟」はもともと、葬いの歌であったという。また、骨子(孔子の弟子)の作ったものであるという。骨子が泰山のふもとに耕していたところ、天が大雪をふらし、凍ること旬日、帰ることができず、その父母を思って、巣山歌を作ったと、「琴挽」という本に見える、それが「梁甫吟」の起源であるという。現在「楽府詩集」に収められている一首は、「三国志」の立役者である諸葛亮(孔明)の作と伝えられている。それは次の歌である。
諸葛亮(孔明)「梁甫吟」
歩出斉城門  遥望蕩陰里
里中有三墳  塁塁正相似
問是誰家墓  田疆古冶子
力能排南山  文能絶地紀
一朝被讒言  二桃殺三士
誰能為此謀  国相斉晏子
下し文
歩して斉の城門を出で  遥に蕩陰の里を望む 
里中に三墳有り  塁塁として正に相似たり
問う是れ誰が家の墓ぞ  田疆古冶氏
力を能く南山を排し  文を能く地紀を絶つ
一朝 讒言を被りて  二桃 三士を殺す
誰か能く此の謀を為せる  国相斉の晏子なり

現代訳
梁甫の歌;
斉の城門を歩いて出て、遠くに蕩陰(地名)の村を眺めるとそこにお墓が三基ある 並んで立っていて、よく似ていた。
これはどちらのお墓ですかと聞いてみた。
これが有名な公孫接・田開彊・古冶子のお墓です。
三人は南山を動かすほど力が強く、大地の四隅を繋ぐ紐を切るほど学問もできる人たちでした
ところが、ひとたび、讒言を言われ、二つの桃でもって三人を殺してしまった。
誰がこんなはかりごとをしたのですか? それは斉の宰相の晏嬰です

これは、詭計をもちいて人を殺した、斉の量子の故事をうたったものである。「力排南山三壯士。齊相殺之費二桃」参照。李白のこの詩は、その故事をふくみつつ、主題を少しかえ、不遇の志士の時機到来を待つ気持をうたいあげる。

梁甫吟 諸葛亮 漢詩<96>Ⅱ李白に影響を与えた詩819 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2643

 

側足焦原未言苦。智者可卷愚者豪。 
足を焦原に側だてて 未だ苦を言わず、智者は巻く可く愚者は豪なり。

つまり、貧窮と疏賤に打ち勝ち、莒国の焦原が登ったという絶壁の石に足のつま先で立って、少しも苦しいなどとは言わない。知恵ある者は知恵を巻物にしまいこむようにしていることができるもの、愚か者ほど、強がったり、えらそうなそぶりをするものだ。
○焦原 尸子「莒国に焦原というもの有り、廣さ五十歩、百仭の渓に臨み、莒国敢て近ずくなり。」また、太平寰記に「焦原は莒縣の南三十六里に在り、俗に横山という」とあり、こういったところを指すものである。莒県は中華人民共和国山東省日照市に位置する県。沭河が北から南へ流れている。

智者可巻 知恵ある者は、政治が道をはずれ、筋の通らぬ時代には、自己の才能や知恵をふところに巻きこんで、世に出ない。「論語」の「衛の霊公」に「君子なる哉、蘧伯玉。邦に道あれば則ち仕え、邦に道なければ則ち巻きて懐(いだ)く可し」とある。

 

世人見我輕鴻毛。力排南山三壯士。

世人我を見ること鴻毛よりも軽し、力は南山を排す三壮士。

しかるに、世間の人は、わたしが世に出ず引き込んでいるのを見るとつまらぬやつだと、鴻の鳥羽の毛より軽いと見くびって、真の精神を解しているのではないのである。むかし、斉国の力自慢では南山でもおしのけるという公孫接等と言う三人の壮士がいた。
力排南山三壯士 諸葛亮(諸葛孔明)『梁甫吟』#1で全文掲載 説明は以下が詳しい。
力能排南山  文能絶地紀
一朝被讒言  二桃殺三士
誰能為此謀  国相斉晏子
力を能く南山を排し  文を能く地紀を絶つ
一朝 讒言を被りて  二桃 三士を殺す
誰か能く此の謀を為せる  国相斉の晏子なり

「二桃もて三士を殺す」「妟子春秋」に見える故事。春秋時代の斉の景公の部下に、公孫接・田開疆・古冶子という三人の勇士がいた。力が非常に強く、虎をなぐり殺した。ある日、斉の国の大臣である量子(曇嬰)が彼らの前を通りすぎたが、三人は起ち上ろうともしない。妟子は景公にお目通りして言った。「かれらは勇気とカの持主ですが、礼節を知りません。君臣上下の分別がありません。これを放っておくと危険ですから、殺してしまうべきです。」国王は同意したが、三人の勇士を刺殺することのできる者はいない。妟子は一計を案じた。かれは国王の名によって、二つの桃を三人に送りとどけ、各自の能力をくらべあって、能力の大きい者が桃を食わないかと言った。まず公孫接が言うには「按は、第一にいのししを打ち殺し、第二に虎の子をも打ち殺した。この接の能力などは、十分に桃を食うねうちがある。人と同じには見てもろうまい。」桃をつかんで起ち上った。次に田閉彊が言った。「わたしは、武器をとって敵の大軍をしりぞけること二度。この開彊の能力などは、十分に桃を食うねうちがあり、人と同じには見てもろうまい。」やはり、桃をつかんで起ち上った。さいごに古冶子が言った。「わたしは、かつて主君に従って黄河をわたったとき、大きなスッポンが三頭立の馬車の左の副馬にくらいつき、黄河の中流に柱のように突立っている砥柱山の流れに引きずりこんだ。この冶は、流れに逆らうこと百歩、流れに順うこと九里、大スッポンをつかまえて殺し、左手で副馬の尾をあやつり、右手にスッポンの頭をひっさげ、おどりあがって岸に出た。人びとがみな、河伯(黄河の神様)だと言うので、この冶がよく見ると、それは大スッポンの首だった。この冶の能力などは、やはり桃を食うねうちがあり、人と同じには見てもろうまい。お二方、どうして桃をかさえないのか。」公孫接と田開彊が言った。「われわれの勇はあなたに及ばない。能力もあなたに及ばない。桃を取ってゆずらないのは欲が深い。そして又、死なないのは勇気がない。」二人とも、その桃をかえし、自分の手で首をしめて死んだ。古冶子は言った。「二人が死んだのに、冶がひとり生きているのは不仁である。人に恥をかかせながら、自分だけが誇っているのは、不義である。そうした自分の行為を遺憾に思いながら死なないのは勇気がない。」これまた、その桃をかえし、自分の手で首をしめて死んだ。景公は、三人を鄭重に葬った。


齊相殺之費二桃。楚弄兵無劇孟。
斉相 之を殺すに二桃を費す、呉楚兵を弄して劇孟無し。

かれらは、節義を砥礪するため、時の斉の宰相である妟子に憎まれて、わずか二つの桃のために命を失ったが、これは辞世を見る事をしなかったためである。また、呉楚七国の乱に際し、呉楚の方では、劇孟という任侠者で、立派で勇壮な人物を味方にしなかった。
楚弄兵無劇孟。 漢の景帝三年(紀元前154年)、呉楚等七国が反乱を起したとき、景帝は大将軍の竇嬰、太尉の周亞夫を派遣して鎮圧させた。周亞夫は東方にむかい河南に至ろうとしたとき、当時の有名な侠客であった劇孟を味方に得た。東天は喜んで言った。「呉や楚は天下を争うような大事を企てながら、劇孟を求めない。わたしは、かれらが何もできないことを知るだけだ。」「漢書」に見える話であるが、強大であった呉楚の分断作戦と補給路を断つことで戦意を失わせ、内部分解させた。
 
亞夫咍爾為徒勞。梁甫吟。聲正悲。 
亜夫 咍爾としで徒労と為す。梁甫吟  声正に悲し。

その楚呉の乱の征伐に出かけた周亜夫は、劇孟を用いなかった楚呉の国では到底七国の反乱を胎児出来る事は無かろうと大いに笑ったという。国の政治を司るものの不勉強というのもの、私を登用しない今日の政治も同じである。だから、こうして「簗甫吟」を吟じていても、ここに至れば、声はまことに悲壮となることを禁じ得ないのである。
〇咍 せせら笑う。


張公兩龍劍。 神物合有時。 
張公の両竜剣、神物 合するに時有り。

むかし張公のもっていた二つの宝剣が、別別に失われたにもかかわらず、二頭の竜となってあらわれ、一つになったという故事もある。非常にすぐれたものは、その働き場所を得るには、時期というものが合わなければならないし、何時かは明主と遭遇するということに相違ないと確信しているのだ。
張公両竜剣 竜泉、太阿という二つの宝剣が、豫章と豐城とで出土し、張華と雷煥の二人が、おのおのその一刀を待ったと伝えられる。その後、張華が誅せられ、剣のありかを失った。雷煥が亡くなったのち、子の雷華が剣を持って旅をし、延平津に通りかかった時、剣が突然、腰間から躍り出て水中におちた。人を水にもぐらせてさがしたが、剣は見つからず、しかし、長さ数丈の二頭の竜を見たという。


風云感會起屠釣。大人嶬屼當安之。 
風雲感会 屠釣を起す、大人嶬屼たらは当に之を安んずべし。
そもそも、雲は龍にしたがい、風は虎に随うというもの、龍虎はかならず風雲に出会って活躍するはずなのであり、太公望のよう人は、牛の屠殺と釣三昧から一躍、風雲感会を得てその能力を発揮した。今の世の君主が動揺不安の境遇にあるとき、わたしこそが、それを安定させる人であるのだから、その時機が到来するのを自信を持って待っているのだ。
風雲感會 「易経」に「竜は雲に従い、虎は風に従う」とある。竜虎が風雲に出会うように、英雄が時を得て、めざましく活躍すること。

○屠釣 牛殺しや釣をしていた男。太公望をさす。

○大人 ここではおそらく君主をさす。

○幌帆 「書経」や「易経」に見える言葉、(机隈・離礁)と意味は同じく、動揺して不安なありさま。 

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李白《巻02-04 梁甫吟 -#3(改訂)天帝の居られる九重の門は固く閉ざされたので、ひたいをぶっつけて門をたたくと、門番がおこった。それからくもりではない太陽の光も、わたくしの真心を照らし出してはくれなくなった。

 
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年:731       開元十九年31

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  梁甫吟

及地點:        梁父山 (河南道 兗州梁父山) 別名:梁甫山         

淇縣 (河北道南部 衛州 衛縣) 別名:朝歌   

棘津 (河北道北部 安東都護府 延津州)      

高陽 (河北道南部 瀛洲 高陽)            



梁甫吟 1
(呂尚に学び、諸葛亮を学んで、梁甫吟を詠う)

長嘯梁甫吟。 何時見陽春。 
ああここに有志の士がいる、いずれの時に明主に遭遇し、大いに用いられ、持っている志を伸ばせるのか、ここにいにしえの英雄、諸葛亮を学び、大声を発して梁甫吟をながく、ながく吟じてみるのも、やむを得ない始末だからだ。
君不見朝歌屠叟辭棘津、八十西來釣渭濱。 
君は知っているだろう。むかし呂尚という人がいたが、はじめは朝歌の牛殺しのおじいさんであったが、棘津の地にわかれをつげ、八十歳の老衰の身をもって、西方にきて、渭水のほとりで十年にわたって釣りをしていて文王と出会ったのをた。 
寧羞白發照淥水。逢時壯氣思經綸。 
風采と云えば、白髪が緑の清らかな水に映るようになっていることを、どうして恥じる必要があろう。時節の到来にあたれば、意気さかんに、天下をおさめ人民をすくう方策をいかせると用いられたのである。
廣張三千六百鉤。 風期暗與文王親。 
それまで「三千六百回の鉤」十年もの長い間、毎日毎日、釣り糸をたらした。しらず、しらず、その風格が文王と親しむところとなり、これを認められたのである。
大賢虎變愚不測。 當年頗似尋常人。 
すぐれた人物は、期の到来で虎の毛並のもようが見事に変るように、あざやかな変化をするものだ、愚か者には予想もできはしないもので、はじめは、世間のふつうの人といささか似ているということであったのだ。

#2
君不見高陽酒徒起草中。長揖山東隆准公。 
君は知っているだろう。酈食其というものが高陽の里に居て、大酒のみであったので誰も相手にされなかったが、ひとたび、荒草の中から身をおこし、沛公に謁見する。
入門不拜騁雄辯。兩女輟洗來趨風。 
門を入っても最敬礼をしないままに、そして雄弁に沛公を説き伏せた。感服した挙句には、沛公の足を洗っていた二人の女は、あっけにとられて洗うのをやめ、あわてて沛公に厚く礼をなすにいたった。
東下齊城七十二。指揮楚漢如旋蓬。 
酈食其は東方に下って行った、そしてその雄弁でもって斉の七十二城をおとした。また、楚と漢の両軍を指揮して、空をとびまわるヨモギの穂を丸めるようにしてしまったのだ。
狂客落魄尚如此。何況壯士當群雄。
おちぶれていた独りよがりの頑固者、狂客と呼ばれ、なお、こういった仕事ができたのだ。まして、血気さかんな志士であったなら、むらがる英雄の前にのり出そうとするのも当たり前のことであろう。
我欲攀龍見明主。雷公砰訇震天鼓。 
わたしは、竜鱗を攀じて、賢明な君主に謁見し、その知遇を得ようと企てたが、雷公が、妨害を試み、恐ろしく凄まじい響きを発し、ガラゴロゴロと天鼓を頻りにうちならしたのだ。
#3
帝旁投壺多玉女。三時大笑開電光。 
倏爍晦冥起風雨。閶闔九門不可通。 
以額叩關閽者怒。白日不照吾精誠。 
杞國無事憂天傾。
貐磨牙競人肉。 
騶虞不折生草莖。手接飛猱搏雕虎。

#4
側足焦原未言苦。智者可卷愚者豪。 
世人見我輕鴻毛。力排南山三壯士。 
齊相殺之費二桃。
楚弄兵無劇孟。 
亞夫咍爾為徒勞。梁甫吟。聲正悲。 
張公兩龍劍。 神物合有時。 
風云感會起屠釣。大人嶬屼當安之。


梁甫吟#1

長嘯す梁甫吟、何れの時か陽春を見ん。

君見ずや 朝歌の屠叟【とそう】棘津【きょくしん】を辞し、八十にして西に来って渭浜に釣す。

寧んぞ羞じんや 白髪の淥水を照らすを、時に逢い気を壮にして 經綸を思う。

広く張る三千六百鉤、風期 暗に文王と親しむ。

大賢は虎変して愚は測らず、当年頗る似たり尋常の人に。

#2

君見ずや高陽の酒徒 草中に起り、山東の隆準公に長揖せるを。

門に入りて拝せず 雄弁を騁すれば、両女洗うことを輟めて 来って風に趨る。

東のかた斉城七十二を下す、楚漢を指揮して旋蓬の如し。

狂客落魄するも 尚お此の如し、何ぞ況んや壮士の群雄に当るをや。

我竜に攀じて明主に見えんと欲す、雷公の砰訇【ほうこう】 天鼓を震う。
#3

帝の旁に授壷して 玉女多し、三時大笑して 電光を開く。

倏燦【しゅくしゃく】 晦冥【かいめい】 風雨を起す、

閶闔【しょうこう】の九門 通ず可からず。

額を以て関を叩けば 閽者怒る、白日吾が精誠を照らさず。

杞国無事にして 天の傾くを憂う、喫給は牙を磨いて 人肉を競い。

騶虞【すうぐ】は折らず 生草の茎、手は飛猿に接して 雕虎を持ち。

#4

足を焦原に側だてて 未だ苦を言わず、智者は巻く可く愚者は豪なり。

世人我を見ること鴻毛よりも軽し、力は南山を排す三壮士。

斉相 之を殺すに二桃を費す、呉楚兵を弄して劇孟無し。

亜夫 咍爾としで徒労と為す。梁甫吟  声正に悲し。

張公の両竜剣、神物 合するに時有り。

風雲感会 屠釣を起す、大人嶬屼たらは当に之を安んずべし。

嚢陽一帯
現代語訳と訳註
(
本文)#3
帝旁投壺多玉女。三時大笑開電光。 
倏爍晦冥起風雨。閶闔九門不可通。 
以額叩關閽者怒。白日不照吾精誠。 
杞國無事憂天傾。
貐磨牙競人肉。 
騶虞不折生草莖。手接飛猱搏雕虎。


(下し文) #3
#3

帝の旁に授壷して 玉女多し、三時大笑して 電光を開く。

倏燦【しゅくしゃく】 晦冥【かいめい】 風雨を起す、

閶闔【しょうこう】の九門 通ず可からず。

額を以て関を叩けば 閽者怒る、白日吾が精誠を照らさず。

杞国無事にして 天の傾くを憂う、喫給は牙を磨いて 人肉を競い。

騶虞【すうぐ】は折らず 生草の茎、手は飛猿に接して 雕虎を持ち。


(現代語訳)
天帝のおそばには、飾り立て輝くきゅう玉女が大勢ならび、投壷のゲームをやっていた。半日のあいだ、壷に投げこむ矢がはずれるたびに、天帝が大いに笑い、イナズマの閃光があったのだ。
かくて、ピカッと光っては、忽ち暗闇となり、暴風雨がまきおこる。天に通じる御門は九重にとざされ、通りぬけることができなくなった。
天帝の居られる九重の門は固く閉ざされたので、ひたいをぶっつけて門をたたくと、門番がおこった。それからくもりではない太陽の光も、わたくしの真心を照らし出してはくれなくなった。
むかし、杞の国の人は、何事も起らないのに、天の傾くことを憂えた。わたしも、また、杞憂をいだかざるを得ない。竊寙(せつゆ)という怪獣が、牙をみがいて、われ先に人の肉を食おうとしているというのだ。
また、騶虞という仁獣は、生きている草の茎さえ折らないように、注意ぶかく歩いているというのに、朝廷には悪人がはびこり、善人は消極的である。これはわたしなら、飛びまわる手長猿を片手でつかみながら、片手で斑の虎をなぐり殺すことさえできるというものだ。

終南山06 
(訳注) #3
梁甫吟 

(呂尚に学び、諸葛亮を学んで、梁甫吟を詠う)

梁甫吟は楽府題の古い題の一つ。相和歌楚調曲に梁父吟行とあって、その由来は戦国の武侯が好んで詠ったものといわれる。梁甫は、梁父とも書き、むかしの斉の国、いまの山東省の、泰山のふもとにある、570mの小さな山の名である。そこは、古代の迷信では、死者のたましいの帰る場所とされていた。「梁甫吟」はもともと、葬いの歌であったという。また、骨子(孔子の弟子)の作ったものであるという。骨子が泰山のふもとに耕していたところ、天が大雪をふらし、凍ること旬日、帰ることができず、その父母を思って、巣山歌を作ったと、「琴挽」という本に見える、それが「梁甫吟」の起源であるという。現在「楽府詩集」に収められている一首は、「三国志」の立役者である諸葛亮(孔明)の作と伝えられている。

 

帝旁投壺多玉女。三時大笑開電光。 
天帝のおそばには、飾り立て輝くきゅう玉女が大勢ならび、投壷のゲームをやっていた。半日のあいだ、壷に投げこむ矢がはずれるたびに、天帝が大いに笑い、イナズマの閃光があったのだ。
帝努授壷多玉女 帝は上帝(玄宗のこと)、天の神。天上と仙境と宮廷を同じ表現でいう。投壺は、矢を壷に投げこむ遊戯。壷矢 投げ矢の壷とその矢。矢を壺に投げ入れて勝負をする遊戯の道具。「神異経」に「東王公が玉女と投壺をしてあそんだ。千二百本の矢を投じたが、矢が壷にうまく入ると天はすすりなき、はずれると天が笑った」とある。また、むかしの人は、雨のふらないときに、いなずまが光ると、天が笑った、と考えた『春秋左氏伝』にも見える非常に古いゲームである。『礼記』および『大戴礼記』に投壺篇があり、投壺の儀礼、壺と矢の寸法、席から壺までの距離などを細かく規定している。


三時 一昼夜が十二時。昼の一日が六時だから、三時は半日(現在の六時間)に当る。


倏爍晦冥起風雨。閶闔九門不可通。 
かくて、ピカッと光っては、忽ち暗闇となり、暴風雨がまきおこる。天に通じる御門は九重にとざされ、通りぬけることができなくなった。
倏爍 極めて短い時間、光がひらめく。

○晦瞑 くらい。

閶闔 天の門。

宣城見杜鵑花 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集-244/-350

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九門 九重の門。これらは大明宮のことを指す
贈從弟南平太守之遙二首 其二 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -292

玉壺吟 :雑言古詩 李白

侍従遊宿温泉宮作 :李白

(2)李白と道教 李白46西岳云台歌送丹邱子

 

以額叩關閽者怒。白日不照吾精誠。 
天帝の居られる九重の門は固く閉ざされたので、ひたいをぶっつけて門をたたくと、門番がおこった。それからくもりではない太陽の光も、わたくしの真心を照らし出してはくれなくなった。
閽者 門番。


杞國無事憂天傾。貐磨牙競人肉。 
むかし、杞の国の人は、何事も起らないのに、天の傾くことを憂えた。わたしも、また、杞憂をいだかざるを得ない。竊寙(せつゆ)という怪獣が、牙をみがいて、われ先に人の肉を食おうとしているというのだ。
杷国無事憂天傾「列子」に見える故事。杞という国のある人が、天がもし崩れおちるなら、身の置きどころがないと、無用の心配をし、夜も眠れず食欲もなくなった。つまり、神経疾患になった。こういった取りこし苦労を「杞憂」という語源である。

「山海経」に見える怪獣。少咸という山に獣がすみ、そのかたちは牛のごとく、体は赤く、顔は人、足は馬、名を竊寙(せつゆ)という。なき声は赤子のようで、こいつは人を食う。貐はすなわち竊寙である。


騶虞不折生草莖。手接飛猱搏雕虎。 
また、騶虞という仁獣は、生きている草の茎さえ折らないように、注意ぶかく歩いているというのに、朝廷には悪人がはびこり、善人は消極的である。これはわたしなら、飛びまわる手長猿を片手でつかみながら、片手で斑の虎をなぐり殺すことさえできるというものだ。
騶虞 白い虎。体に黒いもようがあり、尾は胴体より長い。生きた動物を食わず、生えている草をふみつけない。想像上の仁獣である。「詩経国風上」騶虞はなさけあるけものとされ、仁徳のある君主の期待をもつ者として登場する。

○手技飛操持彫虎 猿と虎と戦うことを比喩して、貧窮と疎賤の二つに対して常にたたかい、これにうちかつことだという。儒教の言葉、故事である。

焦原 山東省の莒(きょ)県の南三十六里のところに、横山と呼ばれる大きな岩があり、それが焦原である。広さ五十歩、百幅(幅は、両手を左右にひろげた幅)の深さの谷川に臨み、非常に危険な場所である。莒の国でも、これに近づこうとする者がいなかったが、一人の勇者があらわれ、後向きに歩いて崖のはしで足のかかとをそろえた。世にたたえられたが、そもそも正義ということは、この焦原のように高いものだ。そして賢者は、正義のためには、どんなに危険をおかしてでも、足のかかとを焦原の石の上にそろえるようなことをやってのけ、しかも、少しも苦痛を言わない。儒教の一節。


155-#2 《巻02-04 梁甫吟 -#2》(改訂)Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <155-#2> Ⅰ李白詩1356 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5328

李白《巻02-04 梁甫吟 -#2(改訂)おちぶれていた独りよがりの頑固者、狂客と呼ばれ、なお、こういった仕事ができたのだ。まして、血気さかんな志士であったなら、むらがる英雄の前にのり出そうとするのも当たり前のことであろう。

 
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年:731       開元十九年31

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  梁甫吟

及地點:        梁父山 (河南道 兗州梁父山) 別名:梁甫山         

淇縣 (河北道南部 衛州 衛縣) 別名:朝歌   

棘津 (河北道北部 安東都護府 延津州)      

高陽 (河北道南部 瀛洲 高陽)            



梁甫吟 1
(呂尚に学び、諸葛亮を学んで、梁甫吟を詠う)

長嘯梁甫吟。 何時見陽春。 
ああここに有志の士がいる、いずれの時に明主に遭遇し、大いに用いられ、持っている志を伸ばせるのか、ここにいにしえの英雄、諸葛亮を学び、大声を発して梁甫吟をながく、ながく吟じてみるのも、やむを得ない始末だからだ。
君不見朝歌屠叟辭棘津、八十西來釣渭濱。 
君は知っているだろう。むかし呂尚という人がいたが、はじめは朝歌の牛殺しのおじいさんであったが、棘津の地にわかれをつげ、八十歳の老衰の身をもって、西方にきて、渭水のほとりで十年にわたって釣りをしていて文王と出会ったのをた。 
寧羞白發照淥水。逢時壯氣思經綸。 
風采と云えば、白髪が緑の清らかな水に映るようになっていることを、どうして恥じる必要があろう。時節の到来にあたれば、意気さかんに、天下をおさめ人民をすくう方策をいかせると用いられたのである。
廣張三千六百鉤。 風期暗與文王親。 
それまで「三千六百回の鉤」十年もの長い間、毎日毎日、釣り糸をたらした。しらず、しらず、その風格が文王と親しむところとなり、これを認められたのである。
大賢虎變愚不測。 當年頗似尋常人。 
すぐれた人物は、期の到来で虎の毛並のもようが見事に変るように、あざやかな変化をするものだ、愚か者には予想もできはしないもので、はじめは、世間のふつうの人といささか似ているということであったのだ。

#2
君不見高陽酒徒起草中。長揖山東隆准公。 
君は知っているだろう。酈食其というものが高陽の里に居て、大酒のみであったので誰も相手にされなかったが、ひとたび、荒草の中から身をおこし、沛公に謁見する。
入門不拜騁雄辯。兩女輟洗來趨風。 
門を入っても最敬礼をしないままに、そして雄弁に沛公を説き伏せた。感服した挙句には、沛公の足を洗っていた二人の女は、あっけにとられて洗うのをやめ、あわてて沛公に厚く礼をなすにいたった。
東下齊城七十二。指揮楚漢如旋蓬。 
酈食其は東方に下って行った、そしてその雄弁でもって斉の七十二城をおとした。また、楚と漢の両軍を指揮して、空をとびまわるヨモギの穂を丸めるようにしてしまったのだ。
狂客落魄尚如此。何況壯士當群雄。
おちぶれていた独りよがりの頑固者、狂客と呼ばれ、なお、こういった仕事ができたのだ。まして、血気さかんな志士であったなら、むらがる英雄の前にのり出そうとするのも当たり前のことであろう。
我欲攀龍見明主。雷公砰訇震天鼓。 
わたしは、竜鱗を攀じて、賢明な君主に謁見し、その知遇を得ようと企てたが、雷公が、妨害を試み、恐ろしく凄まじい響きを発し、ガラゴロゴロと天鼓を頻りにうちならしたのだ。
#3
帝旁投壺多玉女。三時大笑開電光。 
倏爍晦冥起風雨。閶闔九門不可通。 
以額叩關閽者怒。白日不照吾精誠。 
杞國無事憂天傾。
貐磨牙競人肉。 
騶虞不折生草莖。手接飛猱搏雕虎。

#4
側足焦原未言苦。智者可卷愚者豪。 
世人見我輕鴻毛。力排南山三壯士。 
齊相殺之費二桃。
楚弄兵無劇孟。 
亞夫咍爾為徒勞。梁甫吟。聲正悲。 
張公兩龍劍。 神物合有時。 
風云感會起屠釣。大人嶬屼當安之。


梁甫吟#1

長嘯す梁甫吟、何れの時か陽春を見ん。

君見ずや 朝歌の屠叟【とそう】棘津【きょくしん】を辞し、八十にして西に来って渭浜に釣す。

寧んぞ羞じんや 白髪の淥水を照らすを、時に逢い気を壮にして 經綸を思う。

広く張る三千六百鉤、風期 暗に文王と親しむ。

大賢は虎変して愚は測らず、当年頗る似たり尋常の人に。

#2

君見ずや高陽の酒徒 草中に起り、山東の隆準公に長揖せるを。

門に入りて拝せず 雄弁を騁すれば、両女洗うことを輟めて 来って風に趨る。

東のかた斉城七十二を下す、楚漢を指揮して旋蓬の如し。

狂客落魄するも 尚お此の如し、何ぞ況んや壮士の群雄に当るをや。

我竜に攀じて明主に見えんと欲す、雷公の砰訇【ほうこう】 天鼓を震う。
#3

帝の旁に授壷して 玉女多し、三時大笑して 電光を開く。

倏燦【しゅくしゃく】 晦冥【かいめい】 風雨を起す、

閶闔【しょうこう】の九門 通ず可からず。

額を以て関を叩けば 閽者怒る、白日吾が精誠を照らさず。

杞国無事にして 天の傾くを憂う、喫給は牙を磨いて 人肉を競い。

騶虞【すうぐ】は折らず 生草の茎、手は飛猿に接して 雕虎を持ち。

#4

足を焦原に側だてて 未だ苦を言わず、智者は巻く可く愚者は豪なり。

世人我を見ること鴻毛よりも軽し、力は南山を排す三壮士。

斉相 之を殺すに二桃を費す、呉楚兵を弄して劇孟無し。

亜夫 咍爾としで徒労と為す。梁甫吟  声正に悲し。

張公の両竜剣、神物 合するに時有り。

風雲感会 屠釣を起す、大人嶬屼たらは当に之を安んずべし。

嚢陽一帯
現代語訳と訳註
(
本文) #2
君不見 高陽酒徒起草中。 長揖山東隆准公。 
入門不拜騁雄辯。 兩女輟洗來趨風。 
東下齊城七十二。 指揮楚漢如旋蓬。 
狂客落魄尚如此。何況壯士當群雄。
我欲攀龍見明主。雷公砰訇震天鼓。


(下し文)
君見ずや高陽の酒徒 草中に起り、山東の隆準公に長揖せるを。

門に入りて拝せず 雄弁を騁すれば、両女洗うことを輟めて 来って風に趨る。

東のかた斉城七十二を下す、楚漢を指揮して旋蓬の如し。

狂客落魄するも 尚お此の如し、何ぞ況んや壮士の群雄に当るをや。

我竜に攀じて明主に見えんと欲す、雷公の砰訇【ほうこう】 天鼓を震う。

 

(現代語訳)
君は知っているだろう。酈食其というものが高陽の里に居て、大酒のみであったので誰も相手にされなかったが、ひとたび、荒草の中から身をおこし、沛公に謁見する。
門を入っても最敬礼をしないままに、そして雄弁に沛公を説き伏せた。感服した挙句には、沛公の足を洗っていた二人の女は、あっけにとられて洗うのをやめ、あわてて沛公に厚く礼をなすにいたった。
酈食其は東方に下って行った、そしてその雄弁でもって斉の七十二城をおとした。また、楚と漢の両軍を指揮して、空をとびまわるヨモギの穂を丸めるようにしてしまったのだ。
おちぶれていた独りよがりの頑固者、狂客と呼ばれ、なお、こういった仕事ができたのだ。まして、血気さかんな志士であったなら、むらがる英雄の前にのり出そうとするのも当たり前のことであろう。
わたしは、竜鱗を攀じて、賢明な君主に謁見し、その知遇を得ようと企てたが、雷公が、妨害を試み、恐ろしく凄まじい響きを発し、ガラゴロゴロと天鼓を頻りにうちならしたのだ。

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(訳注)#2
梁甫吟 

(呂尚に学び、諸葛亮を学んで、梁甫吟を詠う)

梁甫吟は楽府題の古い題の一つ。相和歌楚調曲に梁父吟行とあって、その由来は戦国の武侯が好んで詠ったものといわれる。梁甫は、梁父とも書き、むかしの斉の国、いまの山東省の、泰山のふもとにある、570mの小さな山の名である。そこは、古代の迷信では、死者のたましいの帰る場所とされていた。「梁甫吟」はもともと、葬いの歌であったという。また、骨子(孔子の弟子)の作ったものであるという。骨子が泰山のふもとに耕していたところ、天が大雪をふらし、凍ること旬日、帰ることができず、その父母を思って、巣山歌を作ったと、「琴挽」という本に見える、それが「梁甫吟」の起源であるという。現在「楽府詩集」に収められている一首は、「三国志」の立役者である諸葛亮(孔明)の作と伝えられている。

 

君不見 高陽酒徒起草中。 長揖山東隆准公。 
君見ずや高陽の酒徒 草中に起り、山東の隆準公に長揖せるを。
君は知っているだろう。酈食其というものが高陽の里に居て、大酒のみであったので誰も相手にされなかったが、ひとたび、荒草の中から身をおこし、沛公に謁見する。
高陽酒徒 高陽は地名。いまの河南省杞県の西。陳留県に属した。酒徒は酒のみ。高陽の呑み助とは、漢の酈食其(れきいき)のことで、陳留県高陽郷の人である。読書を好んだ。(酈生の生は、読書人に対する呼び方。)家が貧しくて、おちぶれ、仕事がなくて衣食に困った。県中の人がみな、かれを狂生と呼んだ。沛公(のちの漢の高祖)が軍をひきいて陳留の郊外を攻略したとき、沛公の旗本の騎士で、たまたま酈生と同じ村の青年がいた。その青年に会って酈生は言った。「おまえが沛公にお目通りしたらこのように申しあげろ。臣の村に、酈生という者がおります。年は六十あまり、身のたけ八尺、人びとはみな彼を狂生と呼んでいますが、彼みずからは、わたしは狂生ではないと、申しております、と。」騎士は酈生におしえられたとおりに言った。沛公は高陽の宿舎まで来て、使を出して酈生を招いた。酈生が来て、入って謁見すると、沛公はちょうど、床几に足を投げ出して坐り、二人の女に足を洗わせていたが、そのままで酈生と面会した。酈生は部屋に入り、両手を組み合わせて会釈しただけで、ひざまずく拝礼はしなかった。そして言った。「足下は秦を助けて諸侯を攻めようとされるのか。それとも、諸侯をひきいて秦を破ろうとされるのか。」沛公は罵って言った。「小僧め。そもそも天下の者がみな、秦のために長い間くるしめられた。だから諸侯が連合して秦を攻めている。それにどうして、秦を助けて諸侯を攻めるなどと申すのか。」酈生は言った。「徒党をあつめ、義兵をあわせて、必ず無道の秦を課しょうとされるなら、足を投げ出したまま年長者に面会するのはよろしくありません。」沛公は足を洗うのをやめ、起ち上って着物をつくろい、酈生を上座にまねいて、あやまった。酈生はそこでむかし戦国時代に、列国が南北または東西に結んで、強国に対抗したり同盟したりした、いわゆる六国の合縦連衡の話をした。沛公は喜び鄭生に食をたまい、「では、どうした計略をたてるのか」ときいた。酈生は、強い秦をうちやぶるには、まず、天下の要害であり、交通の要処である保留を攻略すべきであると進言し、先導してそこを降伏させた。沛公は、酈生に広野君という号を与えた。酈生は遊説の士となり、馳せまわって諸侯の国に使した。漢の三年に、漢王(沛公)は酈生をつかわして斉王の田広に説かせ、酈生は、車の横木にもたれて安坐しながら、斉の七十余城を降服させた。酈生がはじめて沛公に謁見した時のことは、次のようにも伝わっている。酈生が会いに来たとき、沛公はちょうど足を洗っていたが、取次にきた門番に「どんな男か」とたずねた。「一見したところ、儒者のような身なりをしております」と門番がこたえた。沛公は言った。「おれはいま天下を相手に仕事をしているのだ。儒者などに会う暇はない。」門番が出ていって、その旨をつたえると、酈生は目をいからし、剣の柄に手をかけ、門番をどなりつけた。「おれは高陽の酒徒だ。儒者などではない。」門番は腰をぬかして沛公に報告した。「客は天下の壮士です。」かくして酈生は沛公に謁見することができた。○草中 草がぼうぼうと等見た野原の中。民間、在野。

○長揖 両手を前でくみあわせて上から下へ腹の辺までさげる。敬礼の一種であるが、王に対する最敬礼でなく、軽い会釈にすぎない。

山東隆準公 のちに漢の高祖となる沛公すなわち劉邦をさす。沛の豊邑(いまの江蘇省豊県)の人である。豊県は、山東省にちかい。「史記」の高祖本紀に、高祖は生れつき「隆準にして竜顔」とある。隆は高い。準は、音がセツ、鼻柱のこと、隆準公は、鼻の高いおやじさん。
高適の詩(2)塞上聞吹笛  田家春望 参照


入門不拜騁雄辯。兩女輟洗來趨風。 
門に入りて拝せず 雄弁を騁すれば、両女洗うことを輟めて 来って風に趨る。
門を入っても最敬礼をしないままに、そして雄弁に沛公を説き伏せた。感服した挙句には、沛公の足を洗っていた二人の女は、あっけにとられて洗うのをやめ、あわてて沛公に厚く礼をなすにいたった。
 身体をかがめ、手のあたりまで頭をさげる、おじぎ。

 走らせる。雄弁に語ることの意。

両女輯洗来趨風 沛公の足を洗っていた二人の女は、あっけにとられて洗うのをやめ、あわてて沛公のきげんをとったのだ。。

趨風 風のように走りまわる。


東下齊城七十二。指揮楚漢如旋蓬。 
東のかた斉城七十二を下す、楚漢を指揮して旋蓬の如し。
酈食其は東方に下って行った、そしてその雄弁でもって斉の七十二城をおとした。また、楚と漢の両軍を指揮して、空をとびまわるヨモギの穂を丸めるようにしてしまったのだ。
東下斉城七十二 漢王(沛公)の三年の秋、楚の項羽は漢を撃って賛陽(河南)を攻め落した。漢の軍は退却して河南の肇県と洛陽の間に立てこもった。一方、沛公の部将である韓信が、東の方で斉の国を攻めていた。酈生はこのとき、沛公に進言し、斉を漢の東方の同盟国とするために斉王の田広を説得する案を出した。沛公は同意した。酈生は斉におもむき、田広に会って言った。「王は、天下の帰一するところを知っておられますか」「知らぬ」「王が天下の帰一するところを知っておられるなら、斉の国をたもてましょうが、もし知っておられないなら、斉の国はたもてないでしょう」「天下はどこに帰一するだろうか」「漢王に帰一しましょう」「どういう根拠で、そう言うのか。」酈生はそこで、雄弁をふるって天下の形勢を論じ、楚の項王の不徳をのべ、漢の沛公の人徳をのぺ、「後れて漢に帰服する国が先ず亡びましょう。王がはやく漢王に降服されるなら、斉の国はたもてましょうが、もし漢に降らなければ、たちまち危険滅亡がやって来ましょう」とまくしたてた。田広は酈生のことばを信じ、斉の七十二城をあけわたした。韓信はそれをきくと、軍隊を動かして斉を掌った。漢軍の来襲をきいた斉玉田広は、だまされたと知り、酈生に向い、「汝が漢軍の侵入をとめたら、わしは汝を生かしておくが、さもなければ、汝を煮殺してしまうぞ」と言った。野生「大事業をなす者は、細かい事はどうでもよい。わたしは、おまえごときのために前言を変えはせぬ。」斉王はついに、酈生を煮殺し、兵をひきいて東方に逃げた。「史記」酈生陸質列伝。

旋蓬 風にふかれて飛びまわるヨモギの穂
 
狂客落魄尚如此。何況壯士當群雄。
狂客落魄するも 尚お此の如し、何ぞ況んや壮士の群雄に当るをや。
おちぶれていた独りよがりの頑固者、狂客と呼ばれ、なお、こういった仕事ができたのだ。まして、血気さかんな志士であったなら、むらがる英雄の前にのり出そうとするのも当たり前のことであろう。
狂客 きちがい扱いにされた余計者。一つのことに夢中になって他の意見を取り入れない頑固者。杜甫も狂夫とつかう。

落魄おちぶれる。「史記」弥生の伝に「家貧にして落塊、以て衣食の業を為す無し」とあるのを用いた。


我欲攀龍見明主。雷公砰訇震天鼓。 
我竜に攀じて明主に見えんと欲す、雷公の砰訇(ほうこう) 天鼓を震う。
わたしは、竜鱗を攀じて、賢明な君主に謁見し、その知遇を得ようと企てたが、雷公が、妨害を試み、恐ろしく凄まじい響きを発し、ガラゴロゴロと天鼓を頻りにうちならしたのだ。
攣竜 竜のうろこにすがる。君主の知遇を得ること。

明主 賢明な君主。玄宗をさす。

○砰訇 大きな音。

天鼓 かみなり。星の名前。天から鼓が降った夢を見て身ごもった母から生まれた少年「天鼓」は、本当に天から降った鼓を打って妙なる音を響かせた。話を聞いた帝に鼓を召されることになったので、惜しんで山に隠れ、見つけられて川に沈められたが、鼓は鳴りやまなかった。父が呼ばれて打つと鼓は鳴り、川辺で管弦講によって弔うと天鼓の霊が現れて舞を舞うという。宇宙は大きく、空は澄み渡り、心も澄み渡る。清らかな世界という意味。

155-#1 《巻02-04 梁甫吟 -#1》(改訂)Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <155-#1> Ⅰ李白詩1355 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5323

李白《巻02-04 梁甫吟 -#1(改訂)(呂尚に学び、諸葛亮を学んで、梁甫吟を詠う)ああここに有志の士がいる、いずれの時に明主に遭遇し、大いに用いられ、持っている志を伸ばせるのか、ここにいにしえの英雄、諸葛亮を学び、大声を発して梁甫吟をながく、ながく吟じてみるのも、やむを得ない始末だからだ。


155-#1 《巻02-04 梁甫吟 -#1(改訂)Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <155-#1> Ⅰ李白詩1355 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5323

 

年:731       開元十九年31

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  梁甫吟

及地點:        梁父山 (河南道 兗州梁父山) 別名:梁甫山         

淇縣 (河北道南部 衛州 衛縣) 別名:朝歌   

棘津 (河北道北部 安東都護府 延津州)      

高陽 (河北道南部 瀛洲 高陽)            


梁甫吟 1
(呂尚に学び、諸葛亮を学んで、梁甫吟を詠う)

長嘯梁甫吟。 何時見陽春。 
ああここに有志の士がいる、いずれの時に明主に遭遇し、大いに用いられ、持っている志を伸ばせるのか、ここにいにしえの英雄、諸葛亮を学び、大声を発して梁甫吟をながく、ながく吟じてみるのも、やむを得ない始末だからだ。
君不見朝歌屠叟辭棘津、八十西來釣渭濱。 
君は知っているだろう。むかし呂尚という人がいたが、はじめは朝歌の牛殺しのおじいさんであったが、棘津の地にわかれをつげ、八十歳の老衰の身をもって、西方にきて、渭水のほとりで十年にわたって釣りをしていて文王と出会ったのをた。 
寧羞白發照淥水。逢時壯氣思經綸。 
風采と云えば、白髪が緑の清らかな水に映るようになっていることを、どうして恥じる必要があろう。時節の到来にあたれば、意気さかんに、天下をおさめ人民をすくう方策をいかせると用いられたのである。
廣張三千六百鉤。 風期暗與文王親。 
それまで「三千六百回の鉤」十年もの長い間、毎日毎日、釣り糸をたらした。しらず、しらず、その風格が文王と親しむところとなり、これを認められたのである。
大賢虎變愚不測。 當年頗似尋常人。 
すぐれた人物は、期の到来で虎の毛並のもようが見事に変るように、あざやかな変化をするものだ、愚か者には予想もできはしないもので、はじめは、世間のふつうの人といささか似ているということであったのだ。

#2
君不見 高陽酒徒起草中。 長揖山東隆准公。 
入門不拜騁雄辯。 兩女輟洗來趨風。 
東下齊城七十二。 指揮楚漢如旋蓬。 
狂客落魄尚如此。何況壯士當群雄。
我欲攀龍見明主。雷公砰訇震天鼓。

#3
帝旁投壺多玉女。三時大笑開電光。 
倏爍晦冥起風雨。閶闔九門不可通。 
以額叩關閽者怒。白日不照吾精誠。 
杞國無事憂天傾。
貐磨牙競人肉。 
騶虞不折生草莖。手接飛猱搏雕虎。

#4
側足焦原未言苦。智者可卷愚者豪。 
世人見我輕鴻毛。力排南山三壯士。 
齊相殺之費二桃。
楚弄兵無劇孟。 
亞夫咍爾為徒勞。梁甫吟。聲正悲。 
張公兩龍劍。 神物合有時。 
風云感會起屠釣。大人嶬屼當安之。


梁甫吟#1
長嘯す梁甫吟、何れの時か陽春を見ん。
君見ずや 朝歌の屠叟【とそう】棘津【きょくしん】を辞し、八十にして西に来って渭浜に釣す。

寧んぞ羞じんや 白髪の淥水を照らすを、時に逢い気を壮にして 經綸を思う。
広く張る三千六百鉤、風期 暗に文王と親しむ。
大賢は虎変して愚は測らず、当年頗る似たり尋常の人に。

#2
君見ずや高陽の酒徒 草中に起り、山東の隆準公に長揖せるを。
門に入りて拝せず 雄弁を騁すれば、両女洗うことを輟めて 来って風に趨る。
東のかた斉城七十二を下す、楚漢を指揮して旋蓬の如し。
狂客落魄するも 尚お此の如し、何ぞ況んや壮士の群雄に当るをや。
我竜に攀じて明主に見えんと欲す、雷公の砰訇【ほうこう】 天鼓を震う。
#3
帝の旁に授壷して 玉女多し、三時大笑して 電光を開く。
倏燦【しゅくしゃく】 晦冥【かいめい】 風雨を起す、
閶闔【しょうこう】の九門 通ず可からず。
額を以て関を叩けば 閽者怒る、白日吾が精誠を照らさず。
杞国無事にして 天の傾くを憂う、喫給は牙を磨いて 人肉を競い。
騶虞【すうぐ】は折らず 生草の茎、手は飛猿に接して 雕虎を持ち。

#4
足を焦原に側だてて 未だ苦を言わず、智者は巻く可く愚者は豪なり。
世人我を見ること鴻毛よりも軽し、力は南山を排す三壮士。
斉相 之を殺すに二桃を費す、呉楚兵を弄して劇孟無し。
亜夫 咍爾としで徒労と為す。梁甫吟  声正に悲し。
張公の両竜剣、神物 合するに時有り。
風雲感会 屠釣を起す、大人嶬屼たらは当に之を安んずべし。

李白図102 

現代語訳と訳註
(
本文)
 1
長嘯梁甫吟。 何時見陽春。 
君不見朝歌屠叟辭棘津、八十西來釣渭濱。 
寧羞白發照淥水。逢時壯氣思經綸。 
廣張三千六百鉤。 風期暗與文王親。 
大賢虎變愚不測。 當年頗似尋常人。


(下し文) 梁甫吟#1
長嘯す梁甫吟。何れの時か陽春を見ん。
君見ずや 朝歌の屠叟 棘津を辞し、八十にして西に来って渭浜に釣す。
寧んぞ羞じんや 白髪の淥水を照らすを、時に逢い気を壮にして 經綸を思う。
広く張る三千六百鉤、風期 暗に文王と親しむ。
大賢は虎変して愚は測らず、当年頗る似たり尋常の人に。


(現代語訳)
(呂尚に学び、諸葛亮を学んで、梁甫吟を詠う)

ああここに有志の士がいる、いずれの時に明主に遭遇し、大いに用いられ、持っている志を伸ばせるのか、ここにいにしえの英雄、諸葛亮を学び、大声を発して梁甫吟をながく、ながく吟じてみるのも、やむを得ない始末だからだ。
君は知っているだろう。むかし呂尚という人がいたが、はじめは朝歌の牛殺しのおじいさんであったが、棘津の地にわかれをつげ、八十歳の老衰の身をもって、西方にきて、渭水のほとりで十年にわたって釣りをしていて文王と出会ったのをた。 
それまで「三千六百回の鉤」十年もの長い間、毎日毎日、釣り糸をたらした。しらず、しらず、その風格が文王と親しむところとなり、これを認められたのである。
すぐれた人物は、期の到来で虎の毛並のもようが見事に変るように、あざやかな変化をするものだ、愚か者には予想もできはしないもので、はじめは、世間のふつうの人といささか似ているということであったのだ。


(訳注)
梁甫吟
 

(呂尚に学び、諸葛亮を学んで、梁甫吟を詠う)

梁甫吟は楽府題の古い題の一つ。相和歌楚調曲に梁父吟行とあって、その由来は戦国の武侯が好んで詠ったものといわれる。梁甫は、梁父とも書き、むかしの斉の国、いまの山東省の、泰山のふもとにある、570mの小さな山の名である。そこは、古代の迷信では、死者のたましいの帰る場所とされていた。「梁甫吟」はもともと、葬いの歌であったという。また、骨子(孔子の弟子)の作ったものであるという。骨子が泰山のふもとに耕していたところ、天が大雪をふらし、凍ること旬日、帰ることができず、その父母を思って、巣山歌を作ったと、「琴挽」という本に見える、それが「梁甫吟」の起源であるという。現在「楽府詩集」に収められている一首は、「三国志」の立役者である諸葛亮(孔明)の作と伝えられている。それは次の歌である。
諸葛亮(孔明)「梁甫吟」
歩出斉城門  遥望蕩陰里
里中有三墳  塁塁正相似
問是誰家墓  田疆古冶子
力能排南山  文能絶地紀
一朝被讒言  二桃殺三士
誰能為此謀  国相斉晏子
下し文
歩して斉の城門を出で  遥に蕩陰の里を望む 
里中に三墳有り  塁塁として正に相似たり
問う是れ誰が家の墓ぞ  田疆古冶氏
力を能く南山を排し  文を能く地紀を絶つ
一朝 讒言を被りて  二桃 三士を殺す
誰か能く此の謀を為せる  国相斉の晏子なり

現代訳
梁甫の歌;
斉の城門を歩いて出て、遠くに蕩陰(地名)の村を眺めるとそこにお墓が三基ある 並んで立っていて、よく似ていた。
これはどちらのお墓ですかと聞いてみた。
これが有名な公孫接・田開彊・古冶子のお墓です。
三人は南山を動かすほど力が強く、大地の四隅を繋ぐ紐を切るほど学問もできる人たちでした
ところが、ひとたび、讒言を言われ、二つの桃でもって三人を殺してしまった。
誰がこんなはかりごとをしたのですか? それは斉の宰相の晏嬰です

これは、詭計をもちいて人を殺した、斉の量子の故事をうたったものである。「力排南山三壯士。齊相殺之費二桃」参照。李白のこの詩は、その故事をふくみつつ、主題を少しかえ、不遇の志士の時機到来を待つ気持をうたいあげる。

梁甫吟 諸葛亮 漢詩<96>Ⅱ李白に影響を与えた詩819 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2643


長嘯梁甫吟。 何時見陽春。 
長嘯す梁甫吟。何れの時か陽春を見ん。
ああここに有志の士がいる、いずれの時に明主に遭遇し、大いに用いられ、持っている志を伸ばせるのか、ここにいにしえの英雄、諸葛亮を学び、大声を発して梁甫吟をながく、ながく吟じてみるのも、やむを得ない始末だからだ。
長哺 長く、すみきった声を出して詩歌を吟じる。

陽春 陽気のみちみちた春。春という季節は、万物をはぐくみ育てる、それにも似た君主の慈愛恩恵を、暗に意味する。《楚辞、九弁》「無衣裘以御冬兮,恐溘死不得見乎陽春。」“(衣裘の以て冬を御【ふせ】ぐ無く,恐らくは溘死【こうし】して陽春を見るを得ざらんことを。)身には衣や毛衣の冬の寒さをふせぐものがなく、急に死んで、来る年の陽春を見ることができないかも知れぬと心配をするのである。”という句が、君主から放逐されて絶望の意中を述べたところに見える。

九辯 第六・七・八段 まとめ 宋玉  <00-#26>Ⅱもっとも影響を与えた詩文 655 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2259


君不見朝歌屠叟辭棘津、八十西來釣渭濱。 
君見ずや 朝歌の屠叟【とそう】棘津【きょくしん】を辞し、八十にして西に来って渭浜に釣す。
君は知っているだろう。むかし呂尚という人がいたが、はじめは朝歌の牛殺しのおじいさんであったが、棘津の地にわかれをつげ、八十歳の老衰の身をもって、西方にきて、渭水のほとりで十年にわたって釣りをしていて文王と出会ったのをた。 
朝歌屠叟 朝歌は地名。大むかし、殷の時代のみやこ、河南省にあった。屠叟は、屠牛(牛殺し)のじいさん。朝歌の牛殺しのじじいとは、周の太公望、呂尚のことである。伝説によると、かれはかつて朝歌において牛殺しをしていたことがあり、棘津(河南省延津県)においては行商人をしていたし、橎渓(いまの駅西省宝鶏県の東南にあり、源は南山から出、北に流れて渭水に入る)では魚を釣っていた。八十歳のときに、はじめて周の文王に出遇った。文王は立ちどころにその人物を見抜き、この人こそ自分の父の大公が、かねがね望んでいた軍師である、だから太公望と呼ぶといって連れて帰り、非常に重くかれを用いた。かれは、文王の子の武王をたすけて駿を討ち、天下を定め、斉の国の始祖となった。

渭浜 渭水のほとり。太公望が渭水で釣りをしていた文王との故事に基づく。


寧羞白發照淥水。逢時壯氣思經綸。 
寧んぞ羞じんや 白髪の淥水を照らすを、時に逢い気を壮にして 經綸を思う。
風采と云えば、白髪が緑の清らかな水に映るようになっていることを、どうして恥じる必要があろう。時節の到来にあたれば、意気さかんに、天下をおさめ人民をすくう方策をいかせると用いられたのである。
壮気 意気さかんに。

経論 天下をおさめ人民をすくう方策。


廣張三千六百鉤。 風期暗與文王親。 
広く張る三千六百鉤、風期 暗に文王と親しむ。
それまで「三千六百回の鉤」十年もの長い間、毎日毎日、釣り糸をたらした。しらず、しらず、その風格が文王と親しむところとなり、これを認められたのである。
三千六百鉤 鉤はつりばり。一年は三百六十日、十年で三千六百日。毎日釣り糸を垂れると、十年で三千六百鉤となる。太公望は八十歳のときから渭水のほとりで釣りをし、九十歳のときに文王に遇った、その間の十年間(一説では、七十から八十までの間)釣りをしていたことをさす。また、清の沈徳潜の説では、三千六百鈎は、天下をことごとく釣ることで、文王を釣り出したという意味に解する。

風期風塵、または、風采に同じ。人品。びとがら。

 しらぬうちに。しらず、しらず。

文王 文王(未詳- 紀元前1152年-紀元前1056年 寿命 97才)は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父季歴と母太任の子。周王朝の創始者である武王の父にあたる。文王は商に仕えて、三公(特に重要な三人の諸侯)の地位にあり、父である季歴の死後に周の地を受け継ぎ、岐山のふもとより本拠地を灃河(渭河の支流である。湖南省の澧水とは字が異なる。)の西岸の豊邑(正しくは豐邑。後の長安の近く)に移し、仁政を行ってこの地を豊かにしていた。


大賢虎變愚不測。 當年頗似尋常人。 
大賢は虎変して愚は測らず、当年頗る似たり尋常の人に。
すぐれた人物は、期の到来で虎の毛並のもようが見事に変るように、あざやかな変化をするものだ、愚か者には予想もできはしないもので、はじめは、世間のふつうの人といささか似ているということであったのだ。
虎変 「易経」に「大人虎変」とあるのに基づく。虎の毛皮のもようの鮮やかなように、非凡な大人物は、あざやかに変化する。「君子豹変」も出典は同じく、現在使われるような惑い意味ではなく、本来は、君子が過を改めて善にうつることの際立って著しいことを意味する。「大人」というのは「君子」よりも、一枚上の人物。

当年 当時。

頗似 いささか似ている。頻はいささか。(顔は少であり甚ではない。)

尋常 ふつう。なみ。

 
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154-#5 《巻02-03 蜀道難 #5(改訂) Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <154-#5> Ⅰ李白詩1354 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5318

 

 

年:731年開元十九年31

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  蜀道難

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        蜀道 (劍南道北部益州 成都)      

太白山 (京畿道 岐州 太白山) 別名:太白峰         

峨眉山 (劍南道北部 嘉州 峨眉山)  

青泥嶺 (山南西道 興州 長舉)      

劍閣 (劍南道北部 劍州 劍閣)      

 

 

蜀道難 #1

(蜀への道の難しさ。長安から蜀へ向かう蜀道についてあらゆる方面から、険艱を詳述して賦としている。)

噫吁戲危乎高哉!蜀道之難難於上青天。

ああ、何と危うく、高いことか。蜀に行く道の難儀ことよ、その難しさは青空に登るよりもなお難しいだろう。

蠶叢及魚鳧,開國何茫然。

蜀王の蚕叢、さらには魚鳧、かれらの開国の世に何と遠くたどり着くことができなくことか。
爾來四萬八千不與秦塞通人煙。

それ以来、はるかに四万八千年、長安地方とは、人家の煙も通じないままだった。
西當太白有鳥道,可以橫峨眉

西のかた太白山には、鳥しか通えないような高く険しい道があるが、どうして峨眉山のまでも、ずいと横切って進めることができよう。
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#2

地崩山摧壯士死,然後天梯石棧相鉤連。

その地は、食の君主が、五人の力士を遣わして、秦の五美女を迎えた時に、大地が崩れ、高山がくだけ、五人の壮士たちが圧死したという大事件がおこり、その後で、天の梯子のような山道や、岩壁に渡した桟道が、やっとつながるようになったので、これが即ち桟道である。
上有六龍回日之高標,下有衝波逆折之回川。

その桟道の険を詳しく言えば、上のほうに有るのは、六竜の引く太陽神の車も後戻りして、迂回するような、さらに高く突き出た峰、下のほうに有るのは、早瀬の波がぶつかりあう波頭が逆巻きつつ、蛇行して流れ去る激流の峡谷の川がある。
黃鶴之飛尚不得過,猿猱欲度愁攀援。

つまり、高い所は、天の高嶺で、低い所は、地底のようなところであるから、一飛び千里といわれる黄鶴の翼を以て飛ぼうとしても、越えてしまうのは、なお不可能だろう、猿が渡ろうとしても、よじのぼることさえできなくて考え込んでしまうだろう程のものであるから、人に逢ってはなお更難関ということなのだ。
青泥何盤盤,百步九折縈巖巒。

それに加えて、青泥の嶺の山道は、何と曲りくねって続くことか。百歩のうちに九度も折れ曲り、やがてその嶺頂の昇り、岩山をめぐって進むということだ。
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#3

捫參歷井仰脅息,以手撫膺坐長歎。

やがて嶺頂に上れば、秦蜀の分野となる参井の二星はすぐ近くにあって、参の星座を手でさぐり、井の星座を踏みしめるようにして、そこをすり抜けてゆく。そして疲れて、天を仰いで苦しい息をつき、挙句の果てに、わが手で胸をさすりつつ、腰をおろして長いため息をつくことになる。
問君西遊何時還?畏途巉巖不可攀。

蜀に行くことの困難はこの通りであり、一度西に向かう旅に出たなら、何時になったら還れるのかと君にたずねたところでどうしよもないというものだ。こんな恐ろしい旅路のゴツゴツとそびえる山岩高峻の道は、どうしてよじ登ることさえなどできないというものだ。
但見悲鳥號古木,雄飛雌從繞林間。

その間に見れば、悲しげな声を出して啼く鳥が、樹齢もすぐには分か来ほどの古木で鳴いている、雄が飛べば、雌が後を追って、餌を林冲にあさり、めぐってゆく。

又聞子規啼夜月,愁空山。

また聞けば、ホトトギスが一斉に夜半の月光に啼き、何にもない山中はたちまちに愁える景色ばかりになるのである。
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#4

蜀道之難難於上青天,使人聽此凋朱顏。

「蜀に行く道の難儀ことよ、その難しさは青空に登るよりもなお難しいだろう。」人がこの言葉を聴くだけで、人は張りのある若き紅顔も凋ましてしまうことだろう。
連峰去天不盈尺,枯松倒掛倚壁。

更に進めば、連なる峰々は、天から一尺にも足りぬ高さでそびえたち、枯れた松の木が、まるで逆さに掛かったように、絶壁によりかかって生えている。

飛湍瀑流爭喧豗,崖轉石萬壑雷。

更に進むと、飛び散るしぶきの急流と、落ちかかる瀑布の流れは、たがいに豪濁音を争っている、絶壁にぶつかり、岩石を転がして、すべての谷々に雷鳴がとどろきわたっているのだ。
其險也如此,嗟爾遠道之人胡為乎來哉!

その険阻は極まれるその道は、これほどまでのものなのだ。ああ君よ、遠き道をゆく旅人があるというのは、どういうことだろうか、不思議な事である。
劍閣崢嶸而崔嵬。

剣門山の閣道は、崢嶸で崔嵬として草木もなく高く険しすぎる。#5

一夫當關,萬夫莫開。

左思が《蜀都賦》で述べた様に「一人の男が、関所を守れば、万人が攻めても、開きはしない。」ということだ。
所守或匪親,化為狼與豺。

蜀の北門というべき剣閣は朝廷でもよほど気を付けねば、守るその男が、皇族の血筋の者であればよいのだが、この地方を支配したものが狼や山犬のような、反逆者にならぬとも限らない。

朝避猛虎,夕避長蛇。

実際には、それでなくとも、夜明けには、吐蕃という猛虎のようなやからを避け、ゆうべには、回紇という大蛇のようなやからを避けるという場所である。

磨牙吮血,殺人如麻。

かれらは、牙を磨ぎ、血をすすって、手当り次第に、人々を殺すことが何でもないように行うやつらなのだ。
錦城雖云樂,不如早還家。

山のかなたをくだると 〝錦城″ は、人情豊かな楽しい所だと言われるが、それはとんでもないことで、道路は険艱であるうえに、険悪な事態に遭遇することになるので、いっそ、早く我が家に戻ったほうがよい。
蜀道之難難於上青天,

要するに、蜀の地を穏やかに治めることは、今日のようなやり方ではいけないのだ、だから、蜀に行く道の難儀ことよ、その難しさは青空に登るよりもなお難しいだろう。

側身西望長咨嗟。

身をよじって西のかたを望み、長く嘆息するばかりだ。
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(蜀道難) #1

噫吁戲【ああ】 危いか 高い哉、蜀道の難きは 青天に上るよりも難し。

蚕叢と魚鳧【ぎょふ】と、開國 何ぞ茫然たる。

爾來 四萬八千歳、秦塞と人煙を通ぜず。

西のかた太白に當りて鳥道有り、以て 峨眉の頂を橫絶すべし。

#2

地崩れ山摧けて壯士死す、然る后 天梯 石棧 相ひ鉤連す。

上には六龍回日の高標有り、下には沖波逆折の回川有り。

黄鶴の飛ぶこと 尚過ぐるを得ず、猿柔度らんと欲して攀縁を愁ふ。

青泥 何ぞ盤盤たる、百歩九折 岩巒を巡る。

#3

參を捫【さぐ】り井を歴て仰いで脅息し、手を以て膺【むね】を撫し 坐して長嘆す。

君に問ふ 西游して何れの時にか還ると、畏途の巉岩 攀づ可からず。

但だ見る 悲鳥古木に號ぶを、雄は飛び雌は從って 林間を繞る。

又聞く 子規夜月に啼いて、空山を愁ふるを。

#4

蜀道の難きは、青天に上るよりも難し、人をして此を聽いて朱顏を凋ばしむ。

連峰天を去ること尺に盈たず、枯松倒しまに挂【か】かって絶壁に倚る。

飛湍 瀑流 爭って喧豗【けんかい】たり、崖を撃ち石を轉じて萬壑雷【とどろ】く。

其の險や此くの若し、嗟【ああ】爾遠道の人胡為【なんすれ】ぞ來れるや。    

劍閣は崢嶸として崔嵬たり。

#5

一夫 關に當たれば、萬夫も開く莫し。

守る所 或は親に匪ざれば、化して 狼と豺と為る。

朝には 猛虎を避け、夕には 長蛇を避く。

牙を磨き 血を吮【す】い、人を殺すこと麻の如し。

錦城 樂しと云ふと雖も、早く家に還るに如かず。

蜀道の難きは。青天に上るよりも難し。

身を側てて西望し 長く咨嗟す。

杜甫 体系 地図459同谷紀行


『蜀道難』 現代語訳と訳註解説

(本文)5

一夫當關,萬夫莫開。

所守或匪親,化為狼與豺。

朝避猛虎,夕避長蛇。

磨牙吮血,殺人如麻。

錦城雖云樂,不如早還家。

蜀道之難難於上青天,側身西望長咨嗟。

 

(下し文) #5

一夫 關に當たれば、萬夫も開く莫し。

守る所 或は親に匪ざれば、化して 狼と豺と為る。

朝には 猛虎を避け、夕には 長蛇を避く。

牙を磨き 血を吮【す】い、錦城 樂しと云ふと雖も。

早く家に還るに如かず、蜀道の難きは。

青天に上るよりも難し、身を側てて西望し 長く咨嗟す。

 

(現代語訳)

左思が《蜀都賦》で述べた様に「一人の男が、関所を守れば、万人が攻めても、開きはしない。」ということだ。
蜀の北門というべき剣閣は朝廷でもよほど気を付けねば、守るその男が、皇族の血筋の者であればよいのだが、この地方を支配したものが狼や山犬のような、反逆者にならぬとも限らない。

実際には、それでなくとも、夜明けには、吐蕃という猛虎のようなやからを避け、ゆうべには、回紇という大蛇のようなやからを避けるという場所である。

かれらは、牙を磨ぎ、血をすすって、手当り次第に、人々を殺すことが何でもないように行うやつらなのだ。
山のかなたをくだると 〝錦城″ は、人情豊かな楽しい所だと言われるが、それはとんでもないことで、道路は険艱であるうえに、険悪な事態に遭遇することになるので、いっそ、早く我が家に戻ったほうがよい。
要するに、蜀の地を穏やかに治めることは、今日のようなやり方ではいけないのだ、だから、蜀に行く道の難儀ことよ、その難しさは青空に登るよりもなお難しいだろう。

身をよじって西のかたを望み、長く嘆息するばかりだ。
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yoshu&choan736(訳注)

蜀道難 #5

(蜀への道の難しさ。長安から蜀へ向かう蜀道についてあらゆる方面から、険艱を詳述して賦としている。)

蜀道難は楽府題相和歌瑟調三十八曲の一つ。銅梁玉塁の険を詠うもので、世道の危険、人心の険峨を謗るものである。李白の詩もこれに沿っている。これだけ険阻であるから、天子の意向が届きにくいため、天子に敵対することが多いのである


一夫當關、萬夫莫開。
一夫 關に當たれば、萬夫も開く莫し。

左思が《蜀都賦》で述べた様に「一人の男が、関所を守れば、万人が攻めても、開きはしない。」ということだ。
一夫当関 剣閣を詠う慣用句。左思《蜀都賦》「一夫守隘、萬夫莫開」とあり、これに基づいたもの。

 

所守或匪親、化為狼與豺。
守る所 或は親に匪ざれば、化して 狼と豺と為る。

蜀の北門というべき剣閣は朝廷でもよほど気を付けねば、守るその男が、皇族の血筋の者であればよいのだが、この地方を支配したものが狼や山犬のような、反逆者にならぬとも限らない。

 

朝避猛虎、夕避長蛇。 
朝には 猛虎を避け、夕には 長蛇を避く。

実際には、それでなくとも、夜明けには、吐蕃という猛虎のようなやからを避け、ゆうべには、回紇という大蛇のようなやからを避けるという場所である。


磨牙吮血、殺人如麻。 
牙を磨き 血を吮【す】い、人を殺すこと麻の如し。

かれらは、牙を磨ぎ、血をすすって、手当り次第に、人々を殺すことが何でもないように行うやつらなのだ。
  吸う・すする。音は「ゼン・セン」「ジュン・シュン」 の二系統がある。

殺人如麻  手あたり次第に人を殺す。「如麻」は、多く入り乱れるさま。


錦城雖云樂、不如早還家。 
錦城 樂しと云ふと雖も、早く家に還るに如かず。

山のかなたをくだると 〝錦城″ は、人情豊かな楽しい所だと言われるが、それはとんでもないことで、道路は険艱であるうえに、険悪な事態に遭遇することになるので、いっそ、早く我が家に戻ったほうがよい。
錦城  成都の美称。「錦官城」ともいう。昔、成都の南部地区に錦を扱う官署(少城)が置かれていたための呼称。蜀は錦の名産地だった。


蜀道之難、難于上青天。 
蜀道の難きは。青天に上るよりも難し。

要するに、蜀の地を穏やかに治めることは、今日のようなやり方ではいけないのだ、だから、蜀に行く道の難儀ことよ、その難しさは青空に登るよりもなお難しいだろう。


側身西望長咨嗟。』 
身を側てて西望し 長く咨嗟す。

身をよじって西のかたを望み、長く嘆息するばかりだ。
○側身  体の向きを変える。身をよじる、振りかえる。

長咨嗟 長く嘆息する。
蜀の山001 

154-#4 《巻02-03 蜀道難 #4》(改訂) Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <154-#4> Ⅰ李白詩1353 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5313

李白《巻02-03 蜀道難 #4その険阻は極まれるその道は、これほどまでのものなのだ。ああ君よ、遠き道をゆく旅人があるというのは、どういうことだろうか、不思議な事である。

 
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154-#4 《巻02-03 蜀道難 #4(改訂) Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <154-#4> Ⅰ李白詩1353 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5313

 

 

年:731年開元十九年31

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  蜀道難

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        蜀道 (劍南道北部益州 成都)      

太白山 (京畿道 岐州 太白山) 別名:太白峰         

峨眉山 (劍南道北部 嘉州 峨眉山)  

青泥嶺 (山南西道 興州 長舉)      

劍閣 (劍南道北部 劍州 劍閣)      

 

 

蜀道難 #1

(蜀への道の難しさ。長安から蜀へ向かう蜀道についてあらゆる方面から、険艱を詳述して賦としている。)

噫吁戲危乎高哉!蜀道之難難於上青天。

ああ、何と危うく、高いことか。蜀に行く道の難儀ことよ、その難しさは青空に登るよりもなお難しいだろう。

蠶叢及魚鳧,開國何茫然。

蜀王の蚕叢、さらには魚鳧、かれらの開国の世に何と遠くたどり着くことができなくことか。
爾來四萬八千不與秦塞通人煙。

それ以来、はるかに四万八千年、長安地方とは、人家の煙も通じないままだった。
西當太白有鳥道,可以橫峨眉

西のかた太白山には、鳥しか通えないような高く険しい道があるが、どうして峨眉山のまでも、ずいと横切って進めることができよう。
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#2

地崩山摧壯士死,然後天梯石棧相鉤連。

その地は、食の君主が、五人の力士を遣わして、秦の五美女を迎えた時に、大地が崩れ、高山がくだけ、五人の壮士たちが圧死したという大事件がおこり、その後で、天の梯子のような山道や、岩壁に渡した桟道が、やっとつながるようになったので、これが即ち桟道である。
上有六龍回日之高標,下有衝波逆折之回川。

その桟道の険を詳しく言えば、上のほうに有るのは、六竜の引く太陽神の車も後戻りして、迂回するような、さらに高く突き出た峰、下のほうに有るのは、早瀬の波がぶつかりあう波頭が逆巻きつつ、蛇行して流れ去る激流の峡谷の川がある。
黃鶴之飛尚不得過,猿猱欲度愁攀援。

つまり、高い所は、天の高嶺で、低い所は、地底のようなところであるから、一飛び千里といわれる黄鶴の翼を以て飛ぼうとしても、越えてしまうのは、なお不可能だろう、猿が渡ろうとしても、よじのぼることさえできなくて考え込んでしまうだろう程のものであるから、人に逢ってはなお更難関ということなのだ。
青泥何盤盤,百步九折縈巖巒。

それに加えて、青泥の嶺の山道は、何と曲りくねって続くことか。百歩のうちに九度も折れ曲り、やがてその嶺頂の昇り、岩山をめぐって進むということだ。
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#3

捫參歷井仰脅息,以手撫膺坐長歎。

やがて嶺頂に上れば、秦蜀の分野となる参井の二星はすぐ近くにあって、参の星座を手でさぐり、井の星座を踏みしめるようにして、そこをすり抜けてゆく。そして疲れて、天を仰いで苦しい息をつき、挙句の果てに、わが手で胸をさすりつつ、腰をおろして長いため息をつくことになる。
問君西遊何時還?畏途巉巖不可攀。

蜀に行くことの困難はこの通りであり、一度西に向かう旅に出たなら、何時になったら還れるのかと君にたずねたところでどうしよもないというものだ。こんな恐ろしい旅路のゴツゴツとそびえる山岩高峻の道は、どうしてよじ登ることさえなどできないというものだ。
但見悲鳥號古木,雄飛雌從繞林間。

その間に見れば、悲しげな声を出して啼く鳥が、樹齢もすぐには分か来ほどの古木で鳴いている、雄が飛べば、雌が後を追って、餌を林冲にあさり、めぐってゆく。

又聞子規啼夜月,愁空山。

また聞けば、ホトトギスが一斉に夜半の月光に啼き、何にもない山中はたちまちに愁える景色ばかりになるのである。
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#4

蜀道之難難於上青天,使人聽此凋朱顏。

「蜀に行く道の難儀ことよ、その難しさは青空に登るよりもなお難しいだろう。」人がこの言葉を聴くだけで、人は張りのある若き紅顔も凋ましてしまうことだろう。
連峰去天不盈尺,枯松倒掛倚壁。

更に進めば、連なる峰々は、天から一尺にも足りぬ高さでそびえたち、枯れた松の木が、まるで逆さに掛かったように、絶壁によりかかって生えている。

飛湍瀑流爭喧豗,崖轉石萬壑雷。

更に進むと、飛び散るしぶきの急流と、落ちかかる瀑布の流れは、たがいに豪濁音を争っている、絶壁にぶつかり、岩石を転がして、すべての谷々に雷鳴がとどろきわたっているのだ。
其險也如此,嗟爾遠道之人胡為乎來哉!

その険阻は極まれるその道は、これほどまでのものなのだ。ああ君よ、遠き道をゆく旅人があるというのは、どういうことだろうか、不思議な事である。
劍閣崢嶸而崔嵬。

剣門山の閣道は、崢嶸で崔嵬として草木もなく高く険しすぎる。#5

一夫當關,萬夫莫開。

所守或匪親,化為狼與豺。

朝避猛虎,夕避長蛇。

磨牙吮血,殺人如麻。

錦城雖云樂,不如早還家。

蜀道之難難於上青天,側身西望長咨嗟。

 

(蜀道難) #1

噫吁戲【ああ】 危いか 高い哉、蜀道の難きは 青天に上るよりも難し。

蚕叢と魚鳧【ぎょふ】と、開國 何ぞ茫然たる。

爾來 四萬八千歳、秦塞と人煙を通ぜず。

西のかた太白に當りて鳥道有り、以て 峨眉の頂を橫絶すべし。

#2

地崩れ山摧けて壯士死す、然る后 天梯 石棧 相ひ鉤連す。

上には六龍回日の高標有り、下には沖波逆折の回川有り。

黄鶴の飛ぶこと 尚過ぐるを得ず、猿柔度らんと欲して攀縁を愁ふ。

青泥 何ぞ盤盤たる、百歩九折 岩巒を巡る。

#3

參を捫【さぐ】り井を歴て仰いで脅息し、手を以て膺【むね】を撫し 坐して長嘆す。

君に問ふ 西游して何れの時にか還ると、畏途の巉岩 攀づ可からず。

但だ見る 悲鳥古木に號ぶを、雄は飛び雌は從って 林間を繞る。

又聞く 子規夜月に啼いて、空山を愁ふるを。

#4

蜀道の難きは、青天に上るよりも難し、人をして此を聽いて朱顏を凋ばしむ。

連峰天を去ること尺に盈たず、枯松倒しまに挂【か】かって絶壁に倚る。

飛湍 瀑流 爭って喧豗【けんかい】たり、崖を撃ち石を轉じて萬壑雷【とどろ】く。

其の險や此くの若し、嗟【ああ】爾遠道の人胡為【なんすれ】ぞ來れるや。    

劍閣は崢嶸として崔嵬たり。

#5

一夫 關に當たれば、萬夫も開く莫し。

守る所 或は親に匪ざれば、化して 狼と豺と為る。

朝には 猛虎を避け、夕には 長蛇を避く。

牙を磨き 血を吮【す】い、人を殺すこと麻の如し。

錦城 樂しと云ふと雖も、早く家に還るに如かず。

蜀道の難きは。青天に上るよりも難し。

身を側てて西望し 長く咨嗟す。

 

nat0001
『蜀道難』 現代語訳と訳註解説

(本文)#4

蜀道之難難於上青天,使人聽此凋朱顏。

連峰去天不盈尺,枯松倒掛倚壁。

飛湍瀑流爭喧豗,崖轉石萬壑雷。

其險也如此,嗟爾遠道之人胡為乎來哉!劍閣崢嶸而崔嵬。

 

(下し文)

蜀道の難きは、青天に上るよりも難し、人をして此を聽いて朱顏を凋ばしむ。

連峰天を去ること尺に盈たず、枯松倒しまに挂【か】かって絶壁に倚る。

飛湍 瀑流 爭って喧豗【けんかい】たり、崖を撃ち石を轉じて萬壑雷【とどろ】く。

其の險や此くの若し、嗟【ああ】爾遠道の人胡為【なんすれ】ぞ來れるや。    

劍閣は崢嶸として崔嵬たり。

 

(現代語訳)

「蜀に行く道の難儀ことよ、その難しさは青空に登るよりもなお難しいだろう。」人がこの言葉を聴くだけで、人は張りのある若き紅顔も凋ましてしまうことだろう。
更に進めば、連なる峰々は、天から一尺にも足りぬ高さでそびえたち、枯れた松の木が、まるで逆さに掛かったように、絶壁によりかかって生えている。

更に進むと、飛び散るしぶきの急流と、落ちかかる瀑布の流れは、たがいに豪濁音を争っている、絶壁にぶつかり、岩石を転がして、すべての谷々に雷鳴がとどろきわたっているのだ。
その険阻は極まれるその道は、これほどまでのものなのだ。ああ君よ、遠き道をゆく旅人があるというのは、どういうことだろうか、不思議な事である。
剣門山の閣道は、崢嶸で崔嵬として草木もなく高く険しすぎる。

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(訳注) 

蜀道難 #4

(蜀への道の難しさ。長安から蜀へ向かう蜀道についてあらゆる方面から、険艱を詳述して賦としている。)

蜀道難は楽府題相和歌瑟調三十八曲の一つ。銅梁玉塁の険を詠うもので、世道の危険、人心の険峨を謗るものである。李白の詩もこれに沿っている。これだけ険阻であるから、天子の意向が届きにくいため、天子に敵対することが多いのである


蜀道之難難于上青天、使人聽此凋朱顏。 
蜀道の難きは、青天に上るよりも難し、人をして此を聽いて朱顏を凋ばしむ。

「蜀に行く道の難儀ことよ、その難しさは青空に登るよりもなお難しいだろう。」人がこの言葉を聴くだけで、人は張りのある若き紅顔も凋ましてしまうことだろう。
朱顔  血色のよい顔。紅顔。

 

連峰去天不盈尺、枯松倒挂倚壁。 
連峰天を去ること尺に盈たず、枯松倒しまに挂【か】かって絶壁に倚る。

更に進めば、連なる峰々は、天から一尺にも足りぬ高さでそびえたち、枯れた松の木が、まるで逆さに掛かったように、絶壁によりかかって生えている。


飛湍瀑流爭喧豗、崖轉石萬壑雷。 
飛湍 瀑流 爭って喧豗【けんかい】たり、崖を撃ち石を轉じて萬壑雷【とどろ】く。

更に進むと、飛び散るしぶきの急流と、落ちかかる瀑布の流れは、たがいに豪濁音を争っている、絶壁にぶつかり、岩石を転がして、すべての谷々に雷鳴がとどろきわたっているのだ。
飛溝 しぶきをあげて飛びちる激流。

○暴流 滝。瀑布が落ち流れる轟音。

  水が岩壁に音をたててぶつかること。

喧豗 さわがしさ。水が出すすべての音が集まったやかましさをいう。

萬壑  無数の谷間。
 
其險也如此、嗟爾遠道之人胡為乎來哉。 
其の險や此くの若し、嗟【ああ】爾遠道の人胡為【なんすれ】ぞ來れるや。    

その険阻は極まれるその道は、これほどまでのものなのだ。ああ君よ、遠き道をゆく旅人があるというのは、どういうことだろうか、不思議な事である。
  ああ。感嘆詞。

○爾  「汝」 の類語。

 どうして。疑問反語。原因を問いただす。「何」 の類語。

 

劍閣崢嶸而崔嵬。 
劍閣は崢嶸として崔嵬たり。

剣門山の閣道は、崢嶸で崔嵬として草木もなく高く険しすぎる。
剣閣 剣門山(蜀道の中の最も険岨な山。四川省東北部)の閣道(桟道)。現在の四川省剣閣県の東北の、大剣山・小剣山の間、約一五キロの山々に設置された。唐代にはここに剣門関が置かれていた。

崢嶸而崔嵬 - 高く険しいさま。・崢嶸 山など高く嶮しいさま。歳月の積み重なるさま。寒気の厳しいさま。 ・崔嵬 石や岩がごろごろしているさま。高くそばだって草木がない山。
蜀の山001 

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李白《巻02-03 蜀道難 #3(改訂) 蜀に行くことの困難はこの通りであり、一度西に向かう旅に出たなら、何時になったら還れるのかと君にたずねたところでどうしよもないというものだ。こんな恐ろしい旅路のゴツゴツとそびえる山岩高峻の道は、どうしてよじ登ることさえなどできないというものだ。

 
 2014年12月23日の紀頌之5つのブログ 
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