李白 上之回 #2
萬乘出黃道,千旗揚彩虹。前軍細柳北,後騎甘泉東。
豈問渭川老,寧邀襄野童。但慕瑤池宴,歸來樂未窮。
かくて、万乗の鹵簿を整えて、輦道より出たならば、旌旗は彩虹が揚がったように長くたくさんならぶ。前軍は既に細柳の北に至るというのに、後騎は、やつと甘泉の東に差しかかったほどで、その行列の賑賑しく仰山なことは、言語に絶して居る。しかし、天子は、むかし、周の文王が渭水の上に太公望を尋ねあてたという様な訪賢の志もなく、又、黄帝が襄陽城の野で童子にたまたま出遭ったという様な謙虚さも、得道の願もないのである。唯だ、周の穆王が瑤池に於て、西王母と宴を催したという様な神仙の事を慕われて居るだけなので、やがて、歸られても、その樂、歓楽、快楽というものが、とこしえに尽きることがない様にと、心に祈って居られるのである。
李太白集 巻三29#2 |
上之回 #2 |
漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7515 |
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Index-24 |
744年天寶三年44歳 |
56首-(12) #2 |
426 <1000> |
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-374-118巻三29 上之回
(三十六離宮,)
作時年: |
744年 |
天寶三年 |
44歲 |
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全唐詩卷別: |
卷一六三 27 |
文體: |
樂府 |
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李太白集 |
巻三29 |
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詩題: |
上之回 |
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序文 |
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作地點: |
長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) |
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及地點: |
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交遊人物: |
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上之回
(漢の武帝の遊幸するのを賛美したことを述べて、玄宗を諷したものである。)
三十六離宮,樓臺與天通。
長安の近郊には、三十六所の離宮があって、いずれも、楼臺高く聳えて天にも届くばかり。
閣道步行月,美人愁煙空。
その間には、閣道を以てそれぞれ通じ、美人は、更け行く月に乗じて、おもむろに歩を移し、苑中の樹の間に煙りの晴れた時にも似て、その顔には、暗愁を帯びて居る。
恩疏寵不及,桃李傷春風。
それは何故かというと、天子の恩澤、甚だ疏にして、寵幸未だ其身に及ばざるが故に、桃李の艶なるも、春風を傷んで、自らたえざるが如くである。
淫樂意何極,金輿向回中。
天子は、淫樂を旨として、飽くことを知らず、そして、始終、宮中にばかり居ては面白くないというので、はるかに、金輿を移し、囘中に向って行幸せられた。
(上之回【じょうしかい】お上は囘りゆく)#1
三十六離宮,樓臺 天と通ず。
閣道 行月に步し,美人 煙り空しきを愁う。
恩疏にして 寵 及ばず,桃李 春風を傷む。
淫樂 意 何ぞ極まらん,金輿 回中に向う。
#2
萬乘出黃道,千旗揚彩虹。
前軍細柳北,後騎甘泉東。
豈問渭川老,寧邀襄野童。
但慕瑤池宴,歸來樂未窮。
かくて、万乗の鹵簿を整えて、輦道より出たならば、旌旗は彩虹が揚がったように長くたくさんならぶ。
前軍は既に細柳の北に至るというのに、後騎は、やつと甘泉の東に差しかかったほどで、その行列の賑賑しく仰山なことは、言語に絶して居る。
しかし、天子は、むかし、周の文王が渭水の上に太公望を尋ねあてたという様な訪賢の志もなく、又、黄帝が襄陽城の野で童子にたまたま出遭ったという様な謙虚さも、得道の願もないのである。
唯だ、周の穆王が瑤池に於て、西王母と宴を催したという様な神仙の事を慕われて居るだけなので、やがて、歸られても、その樂、歓楽、快楽というものが、とこしえに尽きることがない様にと、心に祈って居られるのである。
#2
萬乘 黃道を出で,千旗 彩虹を揚ぐ。
前軍は 細柳の北,後騎は 甘泉の東。
豈に問わんや 渭川の老,寧ろ邀えんや 襄野の童。
但だ 瑤池の宴を慕い,歸り來って 樂み 未だ窮らず。
『上之回』現代語訳と訳註解説
(本文)
#2
萬乘出黃道,千旗揚彩虹。
前軍細柳北,後騎甘泉東。
豈問渭川老,寧邀襄野童。
但慕瑤池宴,歸來樂未窮。
(下し文)
#2
萬乘 黃道を出で,千旗 彩虹を揚ぐ。
前軍は 細柳の北,後騎は 甘泉の東。
豈に問わんや 渭川の老,寧ろ邀えんや 襄野の童。
但だ 瑤池の宴を慕い,歸り來って 樂み 未だ窮らず。
(現代語訳)
#2
かくて、万乗の鹵簿を整えて、輦道より出たならば、旌旗は彩虹が揚がったように長くたくさんならぶ。
前軍は既に細柳の北に至るというのに、後騎は、やつと甘泉の東に差しかかったほどで、その行列の賑賑しく仰山なことは、言語に絶して居る。
しかし、天子は、むかし、周の文王が渭水の上に太公望を尋ねあてたという様な訪賢の志もなく、又、黄帝が襄陽城の野で童子にたまたま出遭ったという様な謙虚さも、得道の願もないのである。
唯だ、周の穆王が瑤池に於て、西王母と宴を催したという様な神仙の事を慕われて居るだけなので、やがて、歸られても、その樂、歓楽、快楽というものが、とこしえに尽きることがない様にと、心に祈って居られるのである。
上之回
(漢の武帝の遊幸するのを賛美したことを述べて、玄宗を諷したものである。)
1 上之回 宋書、漢の鼓吹鐃歌十八曲中に、上之回が有る。樂府古題の要解に、「上之回は、漢武帝、元封の初め雍に至るに因って、遂に回中の道に通じ、後に數ば遊幸す。其の歌、『帝游石闗、望諸國、月支臣、匈奴服。』と稱し、皆、當時の事を美するなり。
魏には『充官渡』言って、曹公が袁紹を官渡に於て破りしことをいうなり。 吳には『烏林』言って、周瑜が魏武を烏林に於て破ったことをいうなり。 晉には『宣輔政』と言って、宣帝の業をいうものである。 梁には、『道亡』と言って、東昏が道義を失って、師、樊鄧に起りしこというのである。 北齊には、『珍闗隴』と言って、神武が侯莫、陳恱を遣わし、賀技岳を誅して、闗隴を定めしことをいうなり。 後周には、『平竇泰』と言って、太祖が竇泰を討平したことをいうものである。
贇曰「此詩言/秦皇漢武之幸回中者不過消志於神仙之亊而已豈知求賢哉時明/皇亦好神仙其諷諫之作歟」
蕭士贇の註に「この詩は、秦皇漢武の囘中に幸行するは、志を神仙の事に溺らすに過ぎざるのみ、豈に賢を求むるを知らむや、明皇も、亦た神仙を好む、其れ諷諫の作なるか」といって居る。
萬乘出黃道,千旗揚彩虹。
かくて、万乗の鹵簿を整えて、輦道より出たならば、旌旗は彩虹が揚がったように長くたくさんならぶ。
10 黃道 天子の通る道。《漢書天文志》「日有中道中道者黄道也。日君象故天子所行之道、亦曰黄道。」(日に中道有り、中道は黄道なり。日は君の象で、故に天子の行く所の道を、亦た黄道と曰う。)宋之問詩囂聲引颺聞黄道王氣周廻入紫宸。 蕭士贇曰前漢天文志
・天球上で太陽の年周運動の行路にあたる大円。赤道と約 23°27′傾き,春分点,秋分点の 2点でそれと交わる。太陽はこの上を西から東へ 1年に 1周する。黄道上を春分点から東へ 90°動いた点を夏至点,270°つまり秋分点から 90°動いた点を冬至点といい,それぞれ赤緯+23°27′,-23°27′にあたる (→至点) 。
前軍細柳北,後騎甘泉東。
前軍は既に細柳の北に至るというのに、後騎は、やつと甘泉の東に差しかかったほどで、その行列の賑賑しく仰山なことは、言語に絶して居る。
11 細柳 漢の文帝の時、胡に備えて、三将軍が配置され、その一つ周亜夫将軍が細柳に開營下、その場所を言ってこの故事に基づいた。 《史記 ·絳侯周勃世家》。「漢文帝后元六年,匈奴大規模侵入漢朝邊境。於是,朝廷委派宗正官劉禮為將軍,駐軍霸陵;祝茲侯徐厲為將軍,駐軍在棘門;委派河內郡太守周亞夫為將軍,駐軍細柳,以防備匈奴的侵略。
細柳 |
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111巻三22司馬將軍歌 代隴上健兒陳安 |
紫髯若戟冠崔嵬、細柳開營揖天子。 |
118巻三29上之回 |
前軍細柳北、後騎甘泉東。 |
《史記 ·絳侯周勃世家》
文帝之后六年、匈奴大入邊。乃以宗正劉禮為將軍、軍霸上、祝茲侯徐厲為將軍、軍棘門、以河內守亞夫為將軍、軍細柳以備胡。
(文帝の后六年、匈奴大いに邊に入る。乃ち宗正劉禮を以て將軍と為し、霸上に軍し、祝茲侯、徐厲を將軍と為し、棘門に軍し、河內の守、亞夫を以て將軍と為し、細柳に軍し以て胡に備う。)
漢孝文帝の後六年、匈奴が大挙して辺境に入った。すなわち宗正の劉礼を以って将軍と為し、覇上に軍営を張った。祝茲侯徐万を将軍と為して、棘門に軍営を張った。河内守亞夫を以って将軍と為し、細柳に軍営を張った。以って胡(匈奴)に備えた。
上、自勞軍、至霸上及棘門軍、直馳入、將以下、騎送迎。已而之細柳軍。軍士吏被甲、銳兵刃彀弓弩持滿。
(上、自ら軍を勞し、霸上に至り棘門軍に及び、直ちに馳せ入るや、將 以下、騎して送迎す。已に而して細柳軍ゆく。軍士吏は甲を被り、銳兵は刃彀弓弩で滿を持す。)
上(漢孝文帝)は自ら軍を労い、覇上軍及び棘門軍に至り、直ちに馳せ入り、将軍以下騎兵が送迎した。すでに細柳軍に行き、軍の兵士、役人は鎧を被り、鋭兵刃物の武器、弓、弩(ど:おおゆみ)を引き絞り、満を持していた。
天子、先驅至、不得入軍門。先驅曰、天子且至。
(天子、先驅に至るも、軍門に入るを得ず。先驅 曰く、天子 且に至らん。)
天子(漢孝文帝)の先駆(さきがけ)が至ったが軍門に入ることを得られず。先駆が曰く「天子がまさに至らんとす」と。
都尉曰、將軍令曰、軍中聞將軍令、不聞天子之詔。
(都尉 曰く、將軍の令に曰く、軍中には將軍の令を聞、天子の詔を聞かず。)
都尉曰く、「将軍令曰く『軍営中は将軍令を聞き、天子の詔は聞かない』と。」と。
居無何、上、至又不得入、於是上乃使、使持節詔將軍、吾欲入勞軍。亞夫乃傳言開壁門。壁門士吏、謂從屬車騎曰、將軍約、軍中不得驅馳。
(居無何して、上、至るも又た入るを得ず、是に於て上 乃ち使をして 節を持って將軍に詔りせしめ、吾 軍を勞するに入らんと欲す。亞夫 乃ち言を傳えて、壁門を開く。壁門の士吏、從屬の車騎に謂うて曰く、將軍約すらく、軍中には 驅馳するを得ず。)
幾許(居無何:いくばく)とたたないうちに、上(漢孝文帝)が至ったが、また入ることを得られず。ここに於いて上(漢孝文帝)はすなわち節を持った使者をつかわし将軍に詔を告げた。「吾は入り軍営を労いたい」と。周亞夫はすなわち壁門を開くよう伝言した。壁門の士吏は従属の車騎に謂った、曰く「将軍の約束で、軍営中では(車騎を)駆け馳せらせることはできない」と。
於是天子、乃按轡徐行、至營。將軍亞夫持兵揖曰、介胄之士不拜、請以軍禮見。
(是に於て天子、乃ち轡を按じて徐行し、營に至る。將軍 亞夫 兵を持し揖して曰く、介胄の士は拜せず、請う軍禮を以て見えん。)
ここに於いて天子はすなわち轡【くつわ】をおさえて徐行した。陣屋に至り、将軍亞夫は兵器を持ちあいさつをして曰く「鎧冑の兵士は拝礼をしません。軍礼を以って見【まみ】えることを請う」と。
天子為、動改容、式車、使人稱謝、皇帝敬勞將軍。成禮而去。既出軍門、群臣皆驚。
(天子 為に、動かして容を改め、車を式し、人をして稱謝せしめ、皇帝 敬んで將軍を勞う。禮を成して去る。既に軍門に出づ、群臣 皆 驚く。)
天子(漢孝文帝)は感動し、改めて聞き入れ車の前方に手をかけて礼をした。人をつかわし称えわびをさせ、「皇帝は将軍(周亞夫)を敬い労う」と。礼を成して去った。すでに軍門を出て、群臣はみな驚いた。
文帝曰、嗟乎、此真將軍矣。曩者霸上棘門軍若兒戲耳。其將固可襲而虜也。至於亞夫可得而犯邪。稱善者久之。
(文帝 曰く、嗟乎、此れ真の將軍! 曩の者、霸上棘門軍は兒戲の若きのみ。其れ將て固く襲とす可して虜なり。於至り亞夫に得可くして犯邪なり。善と稱する者久しく之とす。)
漢孝文帝曰く「ああ、あれが真の将軍である。さきの霸上軍、棘門軍は子供が戯れているようなだけだ。その将(将軍)はきっと襲)われ虜となるだろう。周亞夫に至っては犯すことができるだろうか」と。善いと称えること久しかった。
12 甘泉東 《三輔黄圗闗輔記》「林光宫、一曰甘泉宫。秦所造、在今池陽縣西、故甘泉山。宫以山為名。宫周匝十餘里、漢武帝建元中、増廣。之周十九里。去長安三百里、望見長安城、黄帝以來圜丘祭天處。」(林光宫、一に甘泉宫と曰う。秦が造る所なり、今の池陽縣の西、故の甘泉山に在る。宫は山を以て名と為す。宫は周匝十餘里、漢の武帝の建元中に、増廣す。之れ周十九里。長安を去ること三百里、望見長安城を、黄帝以來の圜丘、祭天する處なり。)
豈問渭川老,寧邀襄野童。
しかし、天子は、むかし、周の文王が渭水の上に太公望を尋ねあてたという様な訪賢の志もなく、又、黄帝が襄陽城の野で童子にたまたま出遭ったという様な謙虚さも、得道の願もないのである。
13 渭川老 太公望のこと。
14 襄野童 《荘子》「黄帝将見大隗乎具茨之山、至於襄城之野。七聖皆迷無所問途。適遇牧馬童子問途焉。黄帝再拜稽首、稱天師而退。」(黄帝 将に大隗を具茨の山に見んとし、襄城の野に至る。七聖 皆 迷い、途を問う所を無し。適ま牧馬の童子に遇うて途を問わん。黄帝 再拜 稽首して、天師と稱して退る。)
但慕瑤池宴,歸來樂未窮。
唯だ、周の穆王が瑤池に於て、西王母と宴を催したという様な神仙の事を慕われて居るだけなので、やがて、歸られても、その樂、歓楽、快楽というものが、とこしえに尽きることがない様にと、心に祈って居られるのである。
15 瑤池宴 神仙の故事である《列子》「周穆王、升崑崙之丘、遂賔於西王母、觴於瑶池之上。」(周穆王、崑崙之丘に升り、遂に西王母賔し、瑶池之上に於て觴す。)とあるに基づく。