漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
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ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
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漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

李白詩全集 卷三

744年年44歳-12李太白集118巻三29 上之回  426-#2Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-12【56首】Ⅰ李白詩1795 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7515

李白  上之回 #2

萬乘出黃道,千旗揚彩虹。前軍細柳北,後騎甘泉東。

豈問渭川老,寧邀襄野童。但慕瑤池宴,歸來樂未窮。

かくて、万乗の鹵簿を整えて、輦道より出たならば、旌旗は彩虹が揚がったように長くたくさんならぶ。前軍は既に細柳の北に至るというのに、後騎は、やつと甘泉の東に差しかかったほどで、その行列の賑賑しく仰山なことは、言語に絶して居る。しかし、天子は、むかし、周の文王が渭水の上に太公望を尋ねあてたという様な訪賢の志もなく、又、黄帝が襄陽城の野で童子にたまたま出遭ったという様な謙虚さも、得道の願もないのである。唯だ、周の穆王が瑤池に於て、西王母と宴を催したという様な神仙の事を慕われて居るだけなので、やがて、歸られても、その樂、歓楽、快楽というものが、とこしえに尽きることがない様にと、心に祈って居られるのである。

李太白集 巻三29#2

上之回 #2

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Index-24

744年天寶三年44歳 

56-12) #2

426 <1000

 

 
  2016年3月23日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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744年年44歳-12李太白集118巻三29 上之回  426-#2Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-12【56首】Ⅰ李白詩1795 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7515  
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  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
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韓愈143-#5《 巻02-19薦士 -#5》 韓愈(韓退之) 806年貞元22年 39歳-(15)-#5<1708> Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7516  
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  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
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-374-118巻三29 上之回  (三十六離宮,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六三  27

文體:

樂府

李太白集 

巻三29

 

 

詩題:

上之回

序文

 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 

   

交遊人物:

 

 

 

 

 

京兆地域図002 

上之回

(漢の武帝の遊幸するのを賛美したことを述べて、玄宗を諷したものである。)

三十六離宮,樓臺與天通。

長安の近郊には、三十六所の離宮があって、いずれも、楼臺高く聳えて天にも届くばかり。

閣道步行月,美人愁煙空。

その間には、閣道を以てそれぞれ通じ、美人は、更け行く月に乗じて、おもむろに歩を移し、苑中の樹の間に煙りの晴れた時にも似て、その顔には、暗愁を帯びて居る。

恩疏寵不及,桃李傷春風。

それは何故かというと、天子の恩澤、甚だ疏にして、寵幸未だ其身に及ばざるが故に、桃李の艶なるも、春風を傷んで、自らたえざるが如くである。

淫樂意何極,金輿向回中。

天子は、淫樂を旨として、飽くことを知らず、そして、始終、宮中にばかり居ては面白くないというので、はるかに、金輿を移し、中に向って行幸せられた。

(上之回【じょうしかい】お上は囘りゆく)#1

三十六離宮,樓臺 天と通ず。

閣道 行月に步し,美人 煙り空しきを愁う。

恩疏にして 寵 及ばず,桃李 春風を傷む。

淫樂 意 何ぞ極まらん,金輿 回中に向う。

#2

萬乘出黃道,千旗揚彩虹。

前軍細柳北,後騎甘泉東。

豈問渭川老,寧邀襄野童。

但慕瑤池宴,歸來樂未窮。

かくて、万乗の鹵簿を整えて、輦道より出たならば、旌旗は彩虹が揚がったように長くたくさんならぶ。

前軍は既に細柳の北に至るというのに、後騎は、やつと甘泉の東に差しかかったほどで、その行列の賑賑しく仰山なことは、言語に絶して居る。

しかし、天子は、むかし、周の文王が渭水の上に太公望を尋ねあてたという様な訪賢の志もなく、又、黄帝が襄陽城の野で童子にたまたま出遭ったという様な謙虚さも、得道の願もないのである。

唯だ、周の穆王が瑤池に於て、西王母と宴を催したという様な神仙の事を慕われて居るだけなので、やがて、歸られても、その樂、歓楽、快楽というものが、とこしえに尽きることがない様にと、心に祈って居られるのである。

#2

萬乘 黃道を出で,千旗 彩虹を揚ぐ。

前軍は 細柳の北,後騎は 甘泉の東。

豈に問わんや 渭川の老,寧ろ邀えんや 襄野の童。

但だ 瑤池の宴を慕い,歸り來って 樂み 未だ窮らず。

 

『上之回』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

萬乘出黃道,千旗揚彩虹。

前軍細柳北,後騎甘泉東。

豈問渭川老,寧邀襄野童。

但慕瑤池宴,歸來樂未窮。

(下し文)
#2

萬乘 黃道を出で,千旗 彩虹を揚ぐ。

前軍は 細柳の北,後騎は 甘泉の東。

豈に問わんや 渭川の老,寧ろ邀えんや 襄野の童。

但だ 瑤池の宴を慕い,歸り來って 樂み 未だ窮らず。

 

 (現代語訳)
#2

かくて、万乗の鹵簿を整えて、輦道より出たならば、旌旗は彩虹が揚がったように長くたくさんならぶ。

前軍は既に細柳の北に至るというのに、後騎は、やつと甘泉の東に差しかかったほどで、その行列の賑賑しく仰山なことは、言語に絶して居る。

しかし、天子は、むかし、周の文王が渭水の上に太公望を尋ねあてたという様な訪賢の志もなく、又、黄帝が襄陽城の野で童子にたまたま出遭ったという様な謙虚さも、得道の願もないのである。

唯だ、周の穆王が瑤池に於て、西王母と宴を催したという様な神仙の事を慕われて居るだけなので、やがて、歸られても、その樂、歓楽、快楽というものが、とこしえに尽きることがない様にと、心に祈って居られるのである。

扶風雍州長安003
(訳注)  #2

上之回

(漢の武帝の遊幸するのを賛美したことを述べて、玄宗を諷したものである。)

1 上之回 宋書、漢の鼓吹鐃歌十八曲中に、上之回が有る。樂府古題の要解に、「上之回は、漢武帝、元封の初め雍に至るに因って、遂に回中の道に通じ、後に數ば遊幸す。其の歌、『帝游石、望諸國、月支臣、匈奴服。』と稱し、皆、當時の事を美するなり。

魏には『充官渡』言って、曹公が袁紹を官渡に於て破りしことをいうなり。 には『烏林』言って、周瑜が魏武を烏林に於て破ったことをいうなり。 晉には『宣輔政』と言って、宣帝の業をいうものである。 梁には、『道亡』と言って、東昏が道義を失って、師、樊鄧に起りしこというのである。 北齊には、『珍隴』と言って、神武が侯莫、陳恱を遣わし、賀技岳を誅して、隴を定めしことをいうなり。 後周には、『平竇泰』と言って、太祖が竇泰を討平したことをいうものである

贇曰「此詩言/秦皇漢武之幸回中者不過消志於神仙之亊而已豈知求賢哉時明/皇亦好神仙其諷諫之作歟」

蕭士贇の註に「この詩は、秦皇漢武の囘中に幸行するは、志を神仙の事に溺らすに過ぎざるのみ、豈に賢を求むるを知らむや、明皇も、亦た神仙を好む、其れ諷諫の作なるか」といって居る。

 

萬乘出黃道,千旗揚彩虹。

かくて、万乗の鹵簿を整えて、輦道より出たならば、旌旗は彩虹が揚がったように長くたくさんならぶ。

10 黃道 天子の通る道。《漢書天文志》「日有中道中道者黄道也。日君象故天子所行之道、亦曰黄道。」(日に中道有り、中道は黄道なり。日は君の象で、故に天子の行く所の道を、亦た黄道と曰う。)宋之問詩囂聲引颺聞黄道王氣周廻入紫宸。 蕭士贇曰前漢天文志 

・天球上で太陽の年周運動の行路にあたる大円。赤道と約 23°27′傾き,春分点,秋分点の 2点でそれと交わる。太陽はこの上を西から東へ 1年に 1周する。黄道上を春分点から東へ 90°動いた点を夏至点,270°つまり秋分点から 90°動いた点を冬至点といい,それぞれ赤緯+23°27′,-23°27′にあたる (→至点)

 

前軍細柳北,後騎甘泉東。

前軍は既に細柳の北に至るというのに、後騎は、やつと甘泉の東に差しかかったほどで、その行列の賑賑しく仰山なことは、言語に絶して居る。

11 細柳 漢の文帝の時、胡に備えて、三将軍が配置され、その一つ周亜夫将軍が細柳に開營下、その場所を言ってこの故事に基づいた。 《史記 ·絳侯周勃世家》。「漢文帝后元六年,匈奴大規模侵入漢朝邊境。於是,朝廷委派宗正官劉禮為將軍,駐軍霸陵;祝茲侯徐厲為將軍,駐軍在棘門;委派河郡太守周亞夫為將軍,駐軍細柳,以防備匈奴的侵略。

細柳

111巻三22司馬將軍歌 代隴上健兒陳安

紫髯若戟冠崔嵬、細柳開營揖天子。

118巻三29上之回

前軍細柳北、後騎甘泉東。

《史記 ·絳侯周勃世家》

文帝之后六年、匈奴大入邊。乃以宗正劉禮為將軍、軍霸上、祝茲侯徐厲為將軍、軍棘門、以河守亞夫為將軍、軍細柳以備胡。
(文帝の后六年、匈奴大いに邊に入る。乃ち宗正劉禮を以て將軍と為し、霸上に軍し、祝茲侯、徐厲を將軍と為し、棘門に軍し、河守、亞夫を以て將軍と為し、細柳に軍し以て胡に備う。
漢孝文帝の後六年、匈奴が大挙して辺境に入った。すなわち宗正の劉礼を以って将軍と為し、覇上に軍営を張った。祝茲侯徐万を将軍と為して、棘門に軍営を張った。河内守亞夫を以って将軍と為し、細柳に軍営を張った。以って胡(匈奴)に備えた。
上、自勞軍、至霸上及棘門軍、直馳入、將以下、騎送迎。已而之細柳軍。軍士吏被甲、兵刃彀弓弩持滿。
上、自ら軍を勞し、霸上に至り棘門軍に及び、直ちに馳せ入るや、將 以下、騎して送迎す。已に而して細柳軍ゆく。軍士吏は甲を被り、兵は刃彀弓弩で滿を持す。
上(漢孝文帝)は自ら軍を労い、覇上軍及び棘門軍に至り、直ちに馳せ入り、将軍以下騎兵が送迎した。すでに細柳軍に行き、軍の兵士、役人は鎧を被り、鋭兵刃物の武器、弓、弩(ど:おおゆみ)を引き絞り、満を持していた。
天子、先驅至、不得入軍門。先驅曰、天子且至。
天子、先驅に至るも、軍門に入るを得ず。先驅 曰く、天子 且に至らん。
天子(漢孝文帝)の先駆(さきがけ)が至ったが軍門に入ることを得られず。先駆が曰く「天子がまさに至らんとす」と。
都尉曰、將軍令曰、軍中聞將軍令、不聞天子之詔。
都尉 曰く、將軍の令に曰く、軍中には將軍の令を聞、天子の詔を聞かず。
都尉曰く、「将軍令曰く『軍営中は将軍令を聞き、天子の詔は聞かない』と。」と。
居無何、上、至又不得入、於是上乃使、使持節詔將軍、吾欲入勞軍。亞夫乃傳言開壁門。壁門士吏、謂從屬車騎曰、將軍約、軍中不得驅馳。
居無何して、上、至るも又た入るを得ず、是に於て上 乃ち使をして 節を持って將軍に詔りせしめ、吾 軍を勞するに入らんと欲す。亞夫 乃ち言を傳えて、壁門を開く。壁門の士吏、從屬の車騎に謂うて曰く、將軍約すらく、軍中には 驅馳するを得ず。
幾許(居無何:いくばく)とたたないうちに、上(漢孝文帝)が至ったが、また入ることを得られず。ここに於いて上(漢孝文帝)はすなわち節を持った使者をつかわし将軍に詔を告げた。「吾は入り軍営を労いたい」と。周亞夫はすなわち壁門を開くよう伝言した。壁門の士吏は従属の車騎に謂った、曰く「将軍の約束で、軍営中では(車騎を)駆け馳せらせることはできない」と。
於是天子、乃按轡徐行、至營。將軍亞夫持兵揖曰、介胄之士不拜、請以軍禮見。
是に於て天子、乃ち轡を按じて徐行し、營に至る。將軍 亞夫 兵を持し揖して曰く、介胄の士は拜せず、請う軍禮を以て見えん。
ここに於いて天子はすなわち轡【くつわ】をおさえて徐行した。陣屋に至り、将軍亞夫は兵器を持ちあいさつをして曰く「鎧冑の兵士は拝礼をしません。軍礼を以って見【まみ】えることを請う」と。
天子為、動改容、式車、使人稱謝、皇帝敬勞將軍。成禮而去。既出軍門、群臣皆驚。
天子 為に、動かして容を改め、車を式し、人をして稱謝せしめ、皇帝 敬んで將軍を勞う。禮を成して去る。既に軍門に出づ、群臣 皆 驚く。
天子(漢孝文帝)は感動し、改めて聞き入れ車の前方に手をかけて礼をした。人をつかわし称えわびをさせ、「皇帝は将軍(周亞夫)を敬い労う」と。礼を成して去った。すでに軍門を出て、群臣はみな驚いた。
文帝曰、嗟乎、此真將軍矣。曩者霸上棘門軍若兒戲耳。其將固可襲而虜也。至於亞夫可得而犯邪。稱善者久之。
文帝 曰く、嗟乎、此れ真の將軍! 曩の者、霸上棘門軍は兒戲の若きのみ。其れ將て固く襲とす可して虜なり。於至り亞夫に得可くして犯邪なり。善と稱する者久しく之とす。
漢孝文帝曰く「ああ、あれが真の将軍である。さきの霸上軍、棘門軍は子供が戯れているようなだけだ。その将(将軍)はきっと襲)われ虜となるだろう。周亞夫に至っては犯すことができるだろうか」と。善いと称えること久しかった。

12 甘泉東 三輔黄圗闗輔記》林光一曰甘泉秦所造在今池陽縣西故甘泉山以山為名周匝十餘里、漢武帝建元中、増廣。之周十九里。去長安三百里、望見長安城、黄帝以來圜丘祭天處。」(林光甘泉曰う秦が造る所なり、今の池陽縣の西、故の甘泉山に在る。周匝十餘里、漢武帝建元中、増廣。之周十九里。長安を去ること三百里、望見長安城を、黄帝以來の圜丘、祭天する處なり。

 

豈問渭川老,寧邀襄野童。

しかし、天子は、むかし、周の文王が渭水の上に太公望を尋ねあてたという様な訪賢の志もなく、又、黄帝が襄陽城の野で童子にたまたま出遭ったという様な謙虚さも、得道の願もないのである。

13 渭川老 太公望のこと。

14 襄野童 《荘子》黄帝将見大隗乎具茨之山至於襄城之野七聖皆迷無所問途。適遇牧馬童子問途焉。黄帝再拜稽首稱天師而退。」(黄帝 将に大隗を具茨の山に見んとし、襄城の野に至る。七聖 皆 迷い、途を問う所を無し。適ま牧馬の童子に遇うて途を問わん。黄帝 再拜 稽首して、天師と稱して退る。

 

但慕瑤池宴,歸來樂未窮。

唯だ、周の穆王が瑤池に於て、西王母と宴を催したという様な神仙の事を慕われて居るだけなので、やがて、歸られても、その樂、歓楽、快楽というものが、とこしえに尽きることがない様にと、心に祈って居られるのである。

15 瑤池宴 神仙の故事である《列子》「周穆王升崑崙之丘於西王母觴於瑶池之上。」(周穆王、崑崙之丘に升り、遂に西王母、瑶池之上に於て觴す。)とあるに基づく。
李白図102 

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李白  上之回

三十六離宮,樓臺與天通。閣道步行月,美人愁煙空。

恩疏寵不及,桃李傷春風。淫樂意何極,金輿向回中。

(漢の武帝の遊幸するのを賛美したことを述べて、玄宗を諷したものである。)  長安の近郊には、三十六所の離宮があって、いずれも、楼臺高く聳えて天にも届くばかり。その間には、閣道を以てそれぞれ通じ、美人は、更け行く月に乗じて、おもむろに歩を移し、苑中の樹の間に煙りの晴れた時にも似て、その顔には、暗愁を帯びて居る。それは何故かというと、天子の恩澤、甚だ疏にして、寵幸未だ其身に及ばざるが故に、桃李の艶なるも、春風を傷んで、自らたえざるが如くである。天子は、淫樂を旨として、飽くことを知らず、そして、始終、宮中にばかり居ては面白くないというので、はるかに、金輿を移し、中に向って行幸せられた。

李太白集 

巻三29

上之回

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Index-24

744年天寶三年44歳 

56-12

426 <1000

 

 
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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-374-118巻三29 上之回  (三十六離宮,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六三  27

文體:

樂府

李太白集 

巻三29

 

 

詩題:

上之回

序文

 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 

   

交遊人物:

 

 

 

 

 

全唐詩 卷163_27 《上之回》李白 

上之回

三十六離宮,樓臺與天通。閣道步行月,美人愁煙空。 

恩疏寵不及,桃李傷春風。淫樂意何極,金輿向回中。 

萬乘出黃道,千旗揚彩虹。前軍細柳北,後騎甘泉東。 

豈問渭川老,寧邀襄野童。但慕瑤池宴,歸來樂未窮。 

 

李太白集分類補註巻四  宋 楊齊賢 集註 元 蕭士贇 補註

   上之回

   士贇曰 漢帝、元封初、因至雍、遂通回中道、後數遊幸。焉其歌稱『帝遊石諸國月支臣匈奴服』葢誇時事也。

魏曰 『充官渡』言、曹公破袁紹於官渡也。 曰 『烏林』言、周瑜破魏武於烏林也。 晉曰『宣輔政』言、宣帝之業也。 梁曰、『道亡』言、東昏失道義、師、起樊鄧也。 北齊曰、『珍隴』言、神武遣侯莫陳恱、誅賀技岳、定也。 後周曰、『平竇泰』言、太祖討平竇泰也。

   三十六離樓臺與天通。閤道步行月美人愁煙空

   /賢曰西都賦離/館三十六所

恩踈寵不及桃李傷春風淫樂意何極金輿向回中

士贇曰「《括地志》云、秦回中在岐州雍縣西四十里」

萬乗出黄道、千旗揚彩虹。前軍細柳北後騎甘泉東

齊賢曰天子曰萬/乗日行黄道言人君動法於日也士贇曰秦之林光漢之甘泉在雍州/雲陽西北八十里秦始皇作甘泉去長安三百里望見長安城黄帝以/來祭天屯兵處

豈問渭川老邀襄野童但慕瑶池宴歸來樂未窮

渭川老:齊賢曰渭川老望也士。

贇曰此詩言/秦皇漢武之幸回中者不過消志於神仙之亊而已豈知求賢哉時明/皇亦好神仙其諷諫之作歟

 

 

李太白集注巻四   錢塘 王𤦺 撰

  上之回

  按宋書漢鼓吹鐃歌十八曲中、有上之回。樂府古題要解、「上之回、漢武帝、元封初因至雍、遂通回中道、後數遊幸焉。其歌、稱『帝游石望諸國、月支臣、匈奴服。』、皆、美當時事也。

三十六離宮,樓臺與天通。閣道步行月,美人愁煙空。 

恩疏寵不及,桃李傷春風。淫樂意何極,金輿向回中。 

萬乘出黃道,千旗揚彩虹。前軍細柳北,後騎甘泉東。 

豈問渭川老,寧邀襄野童。但慕瑤池宴,歸來樂未窮。 

三十六離宮・西都/賦離宫别館三十六所 

・章懐太子註三輔黄圖曰上林有建/章承光等一十一平樂繭觀等二十五館凡三十六所與天通極言其髙與天相近也。

閣道・《西京賦》閣道穹窿。向註 閣道飛陛也。

行月・沈約詩騰葢隠奔星低鑾避行月 

金輿・史記人體安駕乗為之金輿錯衡以繁其飾

回中・漢書元封四/年冬十月行幸雍祠五畤通回中道 應劭曰回中在安定高平有險阻蕭在其北又  ・《史記正義括地志》云秦/回中在岐州雍縣西四十里。・太平寰宇記回中翔府天興縣西。

黃道 宋之問詩囂聲引颺聞黄道王氣周廻入紫宸。 蕭士贇曰前漢天文志日有中道中道者黄道也。日君象故天子所行之道亦曰黄道。 

魏文帝詩/丹霞蔽日彩霞垂天漢書註細栁服曰在長安西北如淳曰長安倉在渭北近石

徼張揖曰在昆明/池南今有市是也。

三輔黄圗闗輔記林光一曰甘泉秦所造在今池陽縣西故甘泉山以山為名/周匝十餘里漢武帝建元中増廣之周十九里去長安三百里望見長安城黄帝以來圜丘祭天處遁甲開山/圖云雲陽先生之墟也

梁簡文帝上之回云前回中後車隅桂太白盖用其句法史記尚盖嘗窮困/年老矣以魚釣干周西伯西伯将出獵卜之曰所獲非龍非彲非虎非羆所獲霸王之輔於是周西伯獵果遇/太公於渭之陽與語大悦曰自吾先君太公曰當有聖人適周、周以興子真是耶吾太公望子久矣、故號之曰/太公望載與俱歸立為師荘子黄帝将見大隗乎具茨之山至於襄城之野七聖皆迷無所問途適遇牧馬童/子問途焉曰若知具茨之山乎曰然若知大隗之所存乎

曰然黄帝曰異哉。小童非徒知具茨之山又知大隗/之所存請問為天下小童曰予少而自游於六合之内予適有瞀病有長者教予曰若乗日之車而遊於襄城/之野今予病稍痊予又且復遊於六合之外夫為天下亦若此而已矣又奚事哉

黄帝再拜稽首稱天師而退

梁簡文帝詩聊驅式道侯無勞襄野童列子周穆王升崑崙之丘遂於西王母觴於瑶池之上

蕭士贇曰詩/言漢武幸回中不過溺志於神仙之事豈為求賢

明皇亦好神仙此/其諷諌之作歟

 

漢長安城 00 

上之回

(漢の武帝の遊幸するのを賛美したことを述べて、玄宗を諷したものである。)

三十六離宮,樓臺與天通。

長安の近郊には、三十六所の離宮があって、いずれも、楼臺高く聳えて天にも届くばかり。

閣道步行月,美人愁煙空。

その間には、閣道を以てそれぞれ通じ、美人は、更け行く月に乗じて、おもむろに歩を移し、苑中の樹の間に煙りの晴れた時にも似て、その顔には、暗愁を帯びて居る。

恩疏寵不及,桃李傷春風。

それは何故かというと、天子の恩澤、甚だ疏にして、寵幸未だ其身に及ばざるが故に、桃李の艶なるも、春風を傷んで、自らたえざるが如くである。

淫樂意何極,金輿向回中。

天子は、淫樂を旨として、飽くことを知らず、そして、始終、宮中にばかり居ては面白くないというので、はるかに、金輿を移し、中に向って行幸せられた。

(上之回【じょうしかい】お上は囘りゆく)#1

三十六離宮,樓臺 天と通ず。

閣道 行月に步し,美人 煙り空しきを愁う。

恩疏にして 寵 及ばず,桃李 春風を傷む。

淫樂 意 何ぞ極まらん,金輿 回中に向う。

#2

萬乘出黃道,千旗揚彩虹。

前軍細柳北,後騎甘泉東。

豈問渭川老,寧邀襄野童。

但慕瑤池宴,歸來樂未窮。

#2

萬乘 黃道を出で,千旗 彩虹を揚ぐ。

前軍は 細柳の北,後騎は 甘泉の東。

豈に問わんや 渭川の老,寧ろ邀えんや 襄野の童。

但だ 瑤池の宴を慕い,歸り來って 樂み 未だ窮らず。

 

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744年年44歳-11-#2李太白集96巻三7 山人勸酒  425-#2Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-11-#2 Ⅰ李白詩1793 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7505

李白  山人勸酒#2

  各守麋鹿志,恥隨龍虎爭。起佐太子,漢王乃複驚。

  顧謂戚夫人,彼翁羽翼成。歸來商山下,泛若雲無情。

  舉觴酹巢由,洗耳何獨清。浩歌望嵩嶽,意氣還相傾。
四皓等は、糜鹿の野性を守って、人間界に遠ざかり、秦の末から項羽の亡ぶるまで、龍寵虎の争いがたえなかったが、その中に立ち変るを愧じて、長く山中に暮らして居たのである。ところが、一朝、時運の到來するや、忽然としで起ち、再び世の中へ出てきて、漢の太子を助けた。その時、高祖は、太子を代えようと思って居たが、最早仕方が無いといって愈よ断念し、寵姫の戚夫人を顧み、かういふ老翁達が出てきて、太子の羽翼となって、これを輔佐するということであって見れば、汝の生んだ趙王如意を立てて太子とすることは到底出家ぬと仰せられ、ついに太子を廃することを断念せられた。かくて、國本幸に動かす、漢は四百年の帝祚を保つことができた。そこで、初めて安心したというので、四皓は、元の商山に帰り、さながら、泛然たる雲の無心なるが如く、そんな事はまるで知らぬ様な顔をして居た。かくて、商山にかえりし後は、いにしえの隠者たる巣父・許由に向つて一杯を献じ、これを弔うことを禁じ得なかったので、その心では、お前さん達は、耳を洗ったらして、住いには相違ないが、毫も天下の事に干與せず、独善主義を守って居たのは、同情し兼ねると思って居たのであろう。それから又、巣父・許由の隠れたといふ嵩山を望み、君達も、我等も、ともに世を避けた人であるが、どちらが神仙としての本文であろうかと、意気相傾けて、浩歌したことであろう。

李太白集 

巻三7

山 人 勸 酒 #2

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7485

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-11

425 <1000

 

 
  2016年3月19日 の紀頌之5つのBlog  
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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744年年44歳-11-#2李太白集96巻三7 山人勸酒  425-#2Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-11-#2 Ⅰ李白詩1793 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7505  
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  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
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  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
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-373-96巻三7 山人勸酒  (蒼蒼雲松,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六三  7

文體:

樂府

李太白集 

02-15

 

 

詩題:

山人勸酒

序文

 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

商山 (山南東道 商州 商縣、 洛南の南

嵩嶽(中嶽)  穎水   

交遊人物:

 

 

 

 

  卷163_7 《山人勸酒》李白 

山人勸酒

(商山の四皓を叙し、漢の太子の逸話を述べ、あわせて、唐の太子についての自分の思いを述べたもの)

蒼蒼雲松,落落綺皓。 

蒼蒼として雲のいる松の樹の聳え立つ、その下には、落落たる綺里季を筆頭にした商山の四皓が憩うて居る。

春風爾來為阿誰,蝴蝶忽然滿芳草。

この四皓らは、隠棲の山人であるから、その楽しみとする所も、世人とは異なって、遥かに高尚なものであろうが、春風は四皓らのためにふくわけでなく、誰のためというわけでなく、何時しか春になれば、自然に芳草は生じ、蝴蝶は其処に戯れるのである。四皓の四人もこれを見て、面白く感じるものであろう。

秀眉霜雪顏桃花,骨青髓綠長美好。 

ただ、この四人の秀でたる眉は霜雪を積んで白く、顔は桃の花のごとく鮮やかに輝いている、そして、金丹を練って服しているから、骨は青く、髄は緑で、顔色はとこしえに美しく変わることはない。

稱是秦時避世人,勸酒相歡不知老。 

この四皓は秦の始皇帝の末期ごろ、暴政を避けて、商山に隠れたのであり、世俗を立ったのであるが、この春景色を見れば、やはり楽しいと見え、互いに酒を進めて歓談し、おいてゆくのも認識することはなかったのである。

(山人 酒を勸む)

蒼蒼たる雲松,落落たる綺皓。

春風 爾 來って阿誰【あすい】の為にする,蝴蝶 忽然として芳草に滿つ。

秀眉は霜雪 顏は桃花,骨は青く髓は綠なり 長しえに美好なり。

是を稱して  “秦時世を避けるの人”と,酒を勸め 相い歡んで 老いを知らず。
#2

各守麋鹿志,恥隨龍虎爭。

四皓等は、糜鹿の野性を守って、人間界に遠ざかり、秦の末から項羽の亡ぶるまで、龍寵虎の争いがたえなかったが、その中に立ち変るを愧じて、長く山中に暮らして居たのである。

欻起佐太子,漢王乃複驚。 

ところが、一朝、時運の到來するや、忽然としで起ち、再び世の中へ出てきて、漢の太子を助けた。

顧謂戚夫人,彼翁羽翼成。

その時、高祖は、太子を代えようと思って居たが、最早仕方が無いといって愈よ断念し、寵姫の戚夫人を顧み、かういふ老翁達が出てきて、太子の羽翼となって、これを輔佐するということであって見れば、汝の生んだ趙王如意を立てて太子とすることは到底出家ぬと仰せられ、ついに太子を廃することを断念せられた。

歸來商山下,泛若雲無情。 

かくて、國本幸に動かす、漢は四百年の帝祚を保つことができた。そこで、初めて安心したというので、四皓は、元の商山に帰り、さながら、泛然たる雲の無心なるが如く、そんな事はまるで知らぬ様な顔をして居た。

舉觴酹巢由,洗耳何獨清。

かくて、商山にかえりし後は、いにしえの隠者たる巣父・許由に向つて一杯を献じ、これを弔うことを禁じ得なかったので、その心では、お前さん達は、耳を洗ったらして、住いには相違ないが、毫も天下の事に干與せず、独善主義を守って居たのは、同情し兼ねると思って居たのであろう。

浩歌望嵩嶽,意氣還相傾。 

それから又、巣父・許由の隠れたといふ嵩山を望み、君達も、我等も、ともに世を避けた人であるが、どちらが神仙としての本文であろうかと、意気相傾けて、浩歌したことであろう。

#2

各おの麋鹿の志を守り,龍虎の爭に隨うを恥ず。

欻ち起って太子を佐け,漢王 乃ち複た驚く。

顧みて戚夫人に謂う,彼の翁羽 翼 成れり、と。

歸り來る 商山の下,泛として雲の情無きが若し。

觴を舉げて 巢由に酹す,耳を洗う 何ぞ獨り清き。

浩歌して 嵩嶽を望めば,意氣 還た相い傾く。

 

 

『山人勸酒』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

各守麋鹿志,恥隨龍虎爭。

起佐太子,漢王乃複驚。

顧謂戚夫人,彼翁羽翼成。

歸來商山下,泛若雲無情。

舉觴酹巢由,洗耳何獨清。

浩歌望嵩嶽,意氣還相傾。

(下し文)
#2

各おの麋鹿の志を守り,龍虎の爭に隨うを恥ず。

欻ち起って太子を佐け,漢王 乃ち複た驚く。

顧みて戚夫人に謂う,彼の翁羽 翼 成れり、と。

歸り來る 商山の下,泛として雲の情無きが若し。

觴を舉げて 巢由に酹す,耳を洗う 何ぞ獨り清き。

浩歌して 嵩嶽を望めば,意氣 還た相い傾く。


(現代語訳)
#2

四皓等は、糜鹿の野性を守って、人間界に遠ざかり、秦の末から項羽の亡ぶるまで、龍寵虎の争いがたえなかったが、その中に立ち変るを愧じて、長く山中に暮らして居たのである。

ところが、一朝、時運の到來するや、忽然としで起ち、再び世の中へ出てきて、漢の太子を助けた。

その時、高祖は、太子を代えようと思って居たが、最早仕方が無いといって愈よ断念し、寵姫の戚夫人を顧み、かういふ老翁達が出てきて、太子の羽翼となって、これを輔佐するということであって見れば、汝の生んだ趙王如意を立てて太子とすることは到底出家ぬと仰せられ、ついに太子を廃することを断念せられた。

かくて、國本幸に動かす、漢は四百年の帝祚を保つことができた。そこで、初めて安心したというので、四皓は、元の商山に帰り、さながら、泛然たる雲の無心なるが如く、そんな事はまるで知らぬ様な顔をして居た。

かくて、商山にかえりし後は、いにしえの隠者たる巣父・許由に向つて一杯を献じ、これを弔うことを禁じ得なかったので、その心では、お前さん達は、耳を洗ったらして、住いには相違ないが、毫も天下の事に干與せず、独善主義を守って居たのは、同情し兼ねると思って居たのであろう。

それから又、巣父・許由の隠れたといふ嵩山を望み、君達も、我等も、ともに世を避けた人であるが、どちらが神仙としての本文であろうかと、意気相傾けて、浩歌したことであろう。

華山蓮花峰00
(訳注)  #2

山人勸酒

(商山の四皓を叙し、漢の太子の逸話を述べ、あわせて、唐の太子についての自分の思いを述べたもの)

1 王琦の註によると、「此題、未だ始る所を詳らにせず、而して、樂府詩集、太白の是の作を編して琴曲歌辭中に入る」とあり、古い詩があって、それに基づき、倣ってつくったものであろうからこのような詩形になったと思われる。

 

各守麋鹿志,恥隨龍虎爭。

四皓等は、糜鹿の野性を守って、人間界に遠ざかり、秦の末から項羽の亡ぶるまで、龍寵虎の争いがたえなかったが、その中に立ち変るを愧じて、長く山中に暮らして居たのである。

麋鹿 大鹿と鹿。獣類。「飛鳥 (ひちょう) () を遺 (のこ) し―痕を印する」〈鹿と同じ種〉シカのような角をもちながらシカでない。ウシのような蹄をもちながらウシでない。ウマのような顔をもちながらウマでない。ロバのような尾をもちながらロバでない。このように四つの動物に似た特徴をもちながら、そのいずれとも異なるために「四不像」と呼ばれる。

龍虎爭 秦未より漢初に亙れる争乱を指す。中国秦末期に陳勝と呉広が起こした、史上初の農民反乱である陳勝・呉広の乱は、秦を滅亡させたものであり楚漢戦争を経て漢が全土を平定した。秦末から朝廷権力闘争、王の継承問題が起こっていた。

 

欻起佐太子,漢王乃複驚。

ところが、一朝、時運の到來するや、忽然としで起ち、再び世の中へ出てきて、漢の太子を助けた。

【四】歘起 忽ち~が起こる。

漢王乃複驚 戚夫人の子、如意を皇太子に立てるようにたびたび懇望した。寵愛する戚夫人の懇望に加えて、皇太子に立てていた劉盈に対して父である劉邦自身がその資質にかねてから疑問と不安を抱いていたこと、さらに仁弱な盈とは対照的に如意が活発な子供であったことから、劉邦も徐々に盈を廃嫡して如意を立てることを考え始める。しかし、劉邦が皇太子の交代を重臣たちに諮ったものの、重臣たちはことごとく反対した。さらに、劉邦の信任が厚い張良の助言を受けた盈が、かつて高祖が招聘に失敗した有名な学者たちを自らの元に招いたことが決定打となり、劉邦は盈を皇太子にとどめることを決め、如意は趙王のままとされた。

②齊賢曰 《史、留侯 世家》 上 欲廢太子立戚夫人子趙王如意。 后恐。 留侯為畫 曰此難以口舌爭也。 顧 上不能致者天下有四人、逃匿山中、義不為、漢臣、然上髙此四人。 今公誠能、令太子為書、卑辭安車、固請來以為客、時時從入朝、令上見之、則一助也。

-#2 於是后令呂澤使人、奉太子書/卑辭厚禮、迎此四人。四人至客建成侯所十二年、上、從撃破布軍歸疾益甚、愈欲易太子。及燕置酒、太子侍、四人、從太子。年皆八十有餘、鬚眉皓白、衣冠甚偉。 上、怪之問曰、彼何為者!。四人前對、各言名姓曰、東園公、甪里先/生、綺里季、夏黄公。 上 大驚曰 吾求公數歳、公、逃避我。 今公何自從吾兒游乎。 四人皆曰 陛下輕士、善罵。 臣等、義不受辱。故恐而亡匿。 竊聞太子為、人仁孝恭敬、愛士、天下莫不延頸、欲為太子死者。 故臣等來。上曰、煩公、幸卒/調太子。四人為 壽已畢趨去。 

-3 上、目送之、召戚夫人、指示四人者曰、我欲易之彼四人輔之、羽翼已成、難動矣。呂后真而主矣。戚夫人泣。上、曰、「為我楚舞、吾為若楚歌。」歌曰、「鴻鵠髙飛、飛舉千里。羽翮已就、横絶四海、横絶/四海、當可奈何、雖有矰繳尚安所施。」歌數闋、戚夫人、噓唏流涕。上起去、罷酒、不易太子、留侯本招此四人之力也。

齊賢曰 《史、留侯 世家》 上 太子を廢して戚夫人の子趙王如意を立んと欲す。 后恐る。 留侯 に畫 曰く此の難 以て口舌爭うなり。 顧て 上 致す能はざる者、天下に四人有り、山中に逃れて匿れ、義として漢の臣として為らず、然れども、上、此の四人を髙しとす。今、公 誠に能く、太子をして書を為らしめ、卑辭安車、固く請われ來って以て客と為し、時時 從えて入朝し、上をして之を見せしむれば、則ち一助なり。

-#2 是に於て后 呂澤に令じ 使人をして、太子の書を奉じ、辭を卑うし、禮を厚うして、此の四人を迎えしむ。四人は客建し侯と成る所、十二年に至る、上、從て布軍を撃破すも、疾益ます甚しくして歸り、愈いよ太子を易えんと欲す。燕して置酒するに及び、太子侍し、四人、太子に從う。年、皆、八十有餘、鬚眉皓白、衣冠 甚だ偉なり。 上、之を怪しみ問うて曰く、彼 何為する者ぞ、と。四人前んで對え、各おの 名と姓を言うて曰く、東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公、と。 上 大いに驚いて曰く 吾 公を求むること數歳、公を避け我を逃れる。 今、公 何ぞ自ら吾が兒に從って游ぶや。 四人 皆 曰く「陛下士を輕んじて、善く罵る。 臣等、義として辱めを受けず。故に恐れて亡げ匿る。 竊に聞く太子と為り、人仁孝恭敬、士を愛し、天下 頸を延し、太子の為に死せんことを欲せざる者は莫し。」と。 故に臣等 來のみ。上曰く、「公を煩わす、幸いに卒に太子を調せよ。」と。四人壽を為し已に畢って趨り去る。 

-3 上、之を目送し、戚夫人を召し、四人者に指示して曰く、我 之を易んと欲す、彼の四人之を輔く、羽翼 已に成る、動かし難しれるや。呂后は真にして主と。戚夫人は泣く。上、曰く、「為我楚舞、吾為若楚歌。」(我がに為楚舞せよ、吾が為に楚歌せん。)と。歌うて曰く、「鴻鵠は髙く飛び、飛び舉ること千里。羽翮已に就く、絶四海を横し、絶四海を横し、奈何にすべきに當り、矰繳有り雖ども尚お安じて施す所なり。」歌 數闋、戚夫人、噓唏流涕す。上 起って去り、酒を罷めて、太子を易えず、留侯 本と此の四人を招くの力なり。」

留侯 張良のこと。秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。

 

顧謂戚夫人,彼翁羽翼成。

その時、高祖は、太子を代えようと思って居たが、最早仕方が無いといって愈よ断念し、寵姫の戚夫人を顧み、かういふ老翁達が出てきて、太子の羽翼となって、これを輔佐するということであって見れば、汝の生んだ趙王如意を立てて太子とすることは到底出家ぬと仰せられ、ついに太子を廃することを断念せられた。

 

歸來商山下,泛若雲無情。

かくて、國本幸に動かす、漢は四百年の帝祚を保つことができた。そこで、初めて安心したというので、四皓は、元の商山に帰り、さながら、泛然たる雲の無心なるが如く、そんな事はまるで知らぬ様な顔をして居た。

商山 通典に「商州上洛願に南山あり、亦失地肺山と名づけ、亦圭楚山と名づく、四時の陰るろところ」とあり、邁鑑地理適確に「商山は商州南路慮南一里に在り」と記してみろ。

 

舉觴酹巢由,洗耳何獨清。

かくて、商山にかえりし後は、いにしえの隠者たる巣父・許由に向つて一杯を献じ、これを弔うことを禁じ得なかったので、その心では、お前さん達は、耳を洗ったらして、住いには相違ないが、毫も天下の事に干與せず、独善主義を守って居たのは、同情し兼ねると思って居たのであろう。

巢由 茶盆と許由.逸士修に「某父に義時の陰人、年老い、樹を以て某となして、その上に痕わ。故に人波して某父と馬す。勇の許由に譲るや、由、以て某父に告ぐ。某父日く.汝、何ぞ汝の形を隙し、汝の光を萩ぜざる、菅が友に非ざるなり、と。乃ち其替わ撃って之ね下す。許由、憤然として自得せず、乃ち清給の水に遇うて、そり耳を淡ひ、その日毎拭うて日く、さきに言を開く、菅が友に負けりと。蓬に去って相見えず」とある。許由は前に見岬。

 

浩歌望嵩嶽,意氣還相傾。

それから又、巣父・許由の隠れたといふ嵩山を望み、君達も、我等も、ともに世を避けた人であるが、どちらが神仙としての本文であろうかと、意気相傾けて、浩歌したことであろう。

萬嶽 即ち常山、五嶽り「初登記に「嵩高山に五番の中岳なり、南に許由山あり、高大四編、その北に秦嶺山脈終南山穎水あり、勇、許由わ略す、その慶、なほ噂嘩あり」と記してある.



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李白  山人勸酒-#1 

蒼蒼雲松,落落綺皓。春風爾來為阿誰,蝴蝶忽然滿芳草。

秀眉霜雪顏桃花,骨青髓綠長美好。稱是秦時避世人,勸酒相歡不知老。
(商山の四皓を叙し、漢の太子の逸話を述べ、あわせて、唐の太子についての自分の思いを述べたもの)

蒼蒼として雲のいる松の樹の聳え立つ、その下には、落落たる綺里季を筆頭にした商山の四皓が憩うて居る。この四皓らは、隠棲の山人であるから、その楽しみとする所も、世人とは異なって、遥かに高尚なものであろうが、春風は四皓らのためにふくわけでなく、誰のためというわけでなく、何時しか春になれば、自然に芳草は生じ、蝴蝶は其処に戯れるのである。四皓の四人もこれを見て、面白く感じるものであろう。ただ、この四人の秀でたる眉は霜雪を積んで白く、顔は桃の花のごとく鮮やかに輝いている、そして、金丹を練って服しているから、骨は青く、髄は緑で、顔色はとこしえに美しく変わることはない。この四皓は秦の始皇帝の末期ごろ、暴政を避けて、商山に隠れたのであり、世俗を立ったのであるが、この春景色を見れば、やはり楽しいと見え、互いに酒を進めて歓談し、おいてゆくのも認識することはなかったのである。

李太白集 

巻三7

山 人 勸 酒#1

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-373-96巻三7 山人勸酒  (蒼蒼雲松,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六三  7

文體:

樂府

李太白集 

02-15

 

 

詩題:

山人勸酒

序文

 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

商山 (山南東道 商州 商縣、 洛南の南

嵩嶽(中嶽)  穎水   

交遊人物:

 

 

 

 

  卷163_7 《山人勸酒》李白 

山人勸酒-#1

(商山の四皓を叙し、漢の太子の逸話を述べ、あわせて、唐の太子についての自分の思いを述べたもの)

蒼蒼雲松,落落綺皓。 

蒼蒼として雲のいる松の樹の聳え立つ、その下には、落落たる綺里季を筆頭にした商山の四皓が憩うて居る。

春風爾來為阿誰,蝴蝶忽然滿芳草。

この四皓らは、隠棲の山人であるから、その楽しみとする所も、世人とは異なって、遥かに高尚なものであろうが、春風は四皓らのためにふくわけでなく、誰のためというわけでなく、何時しか春になれば、自然に芳草は生じ、蝴蝶は其処に戯れるのである。四皓の四人もこれを見て、面白く感じるものであろう。

秀眉霜雪顏桃花,骨青髓綠長美好。 

ただ、この四人の秀でたる眉は霜雪を積んで白く、顔は桃の花のごとく鮮やかに輝いている、そして、金丹を練って服しているから、骨は青く、髄は緑で、顔色はとこしえに美しく変わることはない。

稱是秦時避世人,勸酒相歡不知老。 

この四皓は秦の始皇帝の末期ごろ、暴政を避けて、商山に隠れたのであり、世俗を立ったのであるが、この春景色を見れば、やはり楽しいと見え、互いに酒を進めて歓談し、おいてゆくのも認識することはなかったのである。

(山人 酒を勸む)

蒼蒼たる雲松,落落たる綺皓。

春風 爾 來って阿誰【あすい】の為にする,蝴蝶 忽然として芳草に滿つ。

秀眉は霜雪 顏は桃花,骨は青く髓は綠なり 長しえに美好なり。

是を稱して  “秦時世を避けるの人”と,酒を勸め 相い歡んで 老いを知らず。
#2

  各守麋鹿志,恥隨龍虎爭。欻起佐太子,漢王乃複驚。 

  顧謂戚夫人,彼翁羽翼成。歸來商山下,泛若雲無情。 

  舉觴酹巢由,洗耳何獨清。浩歌望嵩嶽,意氣還相傾。 

 

華山001 

 

『山人勸酒』現代語訳と訳註解説
(
本文)

山人勸酒-#1

蒼蒼雲松,落落綺皓。

春風爾來為阿誰,蝴蝶忽然滿芳草。

秀眉霜雪顏桃花,骨青髓綠長美好。

稱是秦時避世人,勸酒相歡不知老。

(下し文)
(山人 酒を勸む)

蒼蒼たる雲松,落落たる綺皓。

春風 爾 來って阿誰【あすい】の為にする,蝴蝶 忽然として芳草に滿つ。

秀眉は霜雪 顏は桃花,骨は青く髓は綠なり 長しえに美好なり。

是を稱して  “秦時世を避けるの人”と,酒を勸め 相い歡んで 老いを知らず。

(現代語訳)
山人勸酒(商山の四皓を叙し、漢の太子の逸話を述べ、あわせて、唐の太子についての自分の思いを述べたもの)

蒼蒼として雲のいる松の樹の聳え立つ、その下には、落落たる綺里季を筆頭にした商山の四皓が憩うて居る。

この四皓らは、隠棲の山人であるから、その楽しみとする所も、世人とは異なって、遥かに高尚なものであろうが、春風は四皓らのためにふくわけでなく、誰のためというわけでなく、何時しか春になれば、自然に芳草は生じ、蝴蝶は其処に戯れるのである。四皓の四人もこれを見て、面白く感じるものであろう。

ただ、この四人の秀でたる眉は霜雪を積んで白く、顔は桃の花のごとく鮮やかに輝いている、そして、金丹を練って服しているから、骨は青く、髄は緑で、顔色はとこしえに美しく変わることはない。

この四皓は秦の始皇帝の末期ごろ、暴政を避けて、商山に隠れたのであり、世俗を立ったのであるが、この春景色を見れば、やはり楽しいと見え、互いに酒を進めて歓談し、おいてゆくのも認識することはなかったのである。

大明宮の圖003
(訳注) 

山人勸酒-#1

(商山の四皓を叙し、漢の太子の逸話を述べ、あわせて、唐の太子についての自分の思いを述べたもの)

1 王琦の註によると、「此題、未だ始る所を詳らにせず、而して、樂府詩集、太白の是の作を編して琴曲歌辭中に入る」とあり、古い詩があって、それに基づき、倣ってつくったものであろうからこのような詩形になったと思われる。

 

蒼蒼雲松,落落綺皓

蒼蒼として雲のいる松の樹の聳え立つ、その下には、落落たる綺里季を筆頭にした商山の四皓が憩うて居る。

2 綺皓 秦末に商山(陝西省商県)に乱を避けて隠居した4人の老人、東園公,夏黄公,甪里【ろくり】先生,綺里季の4人で,鬚眉がみな白かったのでこのように呼ばれた。綺里季,秦朝及漢朝の初年における著名な隱士であり、高士である。商山四皓の一人であり,外三人は、東園公、夏黃公、甪里齊である。四人は秦朝の暴政を經歷し目にし,先後して、山林に隱居して茅を結んだ。漢の高祖劉邦は曾て屢ば次召し他們に見ゆ,都避至ることはなかった。曾て三顧の礼で召されたとき、漢高祖劉邦に廢太子するを勸諫した。この詩の後半に詳しい。

 

春風爾來為阿誰,蝴蝶忽然滿芳草。

この四皓らは、隠棲の山人であるから、その楽しみとする所も、世人とは異なって、遥かに高尚なものであろうが、春風は四皓らのためにふくわけでなく、誰のためというわけでなく、何時しか春になれば、自然に芳草は生じ、蝴蝶は其処に戯れるのである。四皓の四人もこれを見て、面白く感じるものであろう。

3 蝴蝶忽然滿芳草 道教の始祖の1人とされる人物の荘子(荘周)による説話である。『荘子』内篇の斉物論第二にある、 「むかし、荘子は夢に胡蝶となり、自由に楽しく飛び回っていたが、目覚めると紛れもなく荘子である。しかし、荘子が夢に胡蝶となったのだろうか、胡蝶が夢に荘子となったのだろうか……」といった内容で、荘子の思想を象徴する寓話とも言われる。  この説話は、『荘子』の中でも重要とされる「斉物論篇」を締めくくる位置にある。「斉物論」とは「万物は全て斉しい(等しい)とする論」とされ、是非・善悪・彼我を始めとした区別は絶対的なものではない事を主張している。  この説話でも、夢と現実(胡蝶と荘子)の区別が絶対的ではないとされると共に、とらわれのない無為自然の境地が暗示されている。

 

秀眉霜雪顏桃花,骨青髓綠長美好。

ただ、この四人の秀でたる眉は霜雪を積んで白く、顔は桃の花のごとく鮮やかに輝いている、そして、金丹を練って服しているから、骨は青く、髄は緑で、顔色はとこしえに美しく変わることはない。

4 秀眉二句 仙人の様相をいう、青年が白髯を生やしているすがたであるということ、若々しい容貌(骨は青く、髄は緑で、顔色はとこしえに美しい)であり、西王母、麻姑仙人(仙女)などの女性の仙人の存在も多く伝えられている。

 

稱是秦時避世人,勸酒相歡不知老。

この四皓は秦の始皇帝の末期ごろ、暴政を避けて、商山に隠れたのであり、世俗を立ったのであるが、この春景色を見れば、やはり楽しいと見え、互いに酒を進めて歓談し、おいてゆくのも認識することはなかったのである。

5 秦時 秦末期、万里の長城や阿房宮の建設に、主に農民を使役させ、焚書坑儒などの思想政策も断行した。だでさえ過酷な労働と極度の法治主義に儒教弾圧まで加えたことで、全国の不満を高めてしまった頃を言う。

 

 

 

李太白集分類補註巻四  宋 楊齊賢 集註  元 蕭士贇 補註

  山人勸酒 -#1

    〔王琦〕此題、未詳所始、而、樂府詩集、/編太白是作入琴曲歌辭中。   

士贇曰樂府觴酌七/曲其一曰山人勸酒

蒼蒼雲松、落落綺皓

綺皓 士贇曰、綺皓、乃商山四皓之綺里季也。  《髙士傳》「四皓見秦政虐、乃逃入藍田山」 作歌曰 漠漠髙山深谷 逶迤曄曄紫芝可以/療飢唐虞世  吾將安歸駟馬髙  葢其憂甚大富貴之留人不如貧賤而肆志  乃/共入商洛山以待天下定

春風爾來為阿誰、蝴蝶忽然滿芳草。

秀眉霜雪顔桃花、骨青髓綠長美好。

稱是秦時避世人、勸酒相歡不知老。

#2

各守麋鹿志、恥隨龍虎爭

歘起太子漢皇乃復驚。

顧謂戚夫人、彼翁羽翼成。

歘起太子漢皇乃復驚の四句 ②齊賢曰 《史、留侯 世家》 上 欲廢太子立戚夫人子趙王。 如意后恐。 留侯為畫 曰此難以口舌爭也。 顧 上不能致者天下有四人、逃匿山中、義不為、漢臣、然上髙此四人。 今公誠能、令太子為書、卑辭安車、固請來以為客、時時從入朝、令上見之、則一助也。

-#2 於是后令呂澤使人、奉太子書/卑辭厚禮、迎此四人。四人至客建成侯所十二年、上、從撃破布軍歸疾益甚、愈欲易太子、及燕置酒太子、侍四/人、從太子、年皆八十有餘、鬚眉皓白、衣冠甚偉。 上、怪之問曰、彼何為者四人前對、各言名姓曰、東園公、甪里先/生、綺里季、夏黄公。 上 大驚曰 吾求公數歳、公、逃避我。 今公何自從吾兒游乎。 四人皆曰 陛下輕士、善罵臣等、義不受辱。故恐而亡匿。 竊聞太子為人仁孝恭敬愛士、天下莫不延頸、欲為太子死者。 故臣等來。上曰、煩公、幸卒/調太子四人為。 壽已畢趨去。 

-3 上、目送之、召戚夫人、指示四人者曰、我欲易之彼四人輔之、羽翼已成、難動矣。呂后真而主矣。戚夫人泣。上、曰、「為我楚舞、吾為若楚歌。」歌曰、「鴻鵠髙飛、飛舉千里。羽翮已就、横絶四海、横絶/四海、當可奈何、雖有矰繳尚安所施。」歌數闋、戚夫人、噓唏流涕。上起去、罷酒、不易太子、留侯本招此四人之力也。

歸來商山泛若雲無情。

舉觴酹巢由、洗耳何獨清。

浩歌望嵩嶽、意氣還相傾。

巢由 齊賢曰 九域志曰 頴昌府唐之許州許昌郡有許由臺/巢父臺士贇曰逸士傳曰巢父堯時隱人年老以樹為巢而寢其上故人號為巢父堯之讓許由也由以告巢/父巢父曰汝何不隱汝形藏汝光非吾友也。  乃擊其膺而下之許由悵然不自得乃遇清泠之水洗其耳拭、其/目曰、嚮者聞言負吾友遂去終身不相見樊仲父牽牛飲之見巢父洗耳乃驅牛而還恥令其牛飲其下流也

⑤此意謂巢由之矯激、不若四皓之時行時止。一出而國本定、事成、則復歸乎商山。巻舒自在、若無心之雲也。中庸之徳、其至矣乎、何以獨清為哉。太白、葢、為明皇欲廢太子琰 有所感而作是詩也。 

⑥ 初瑛母以倡進鄂光二王/母以色選。 武惠妃寵幸後王、愛與諸子絶等而太子二王以母失寵頗怏怏。惠妃女婿楊揣妃㫖伺太子短譁為醜語。 惠妃訴于帝且泣帝大怒召宰相議廢之。

⑦ 張九齡諫得不廢。 俄而九齡。 罷李林甫、専國數稱王、美以探。 妃意妃果徳之。 二十五年洄復搆瑛瑶琚與妃之兄薛輔異謀。惠妃、使人詭召太子二王曰、宮中有賊、請戒、以兵入。太子從之。 妃白帝曰、太子二王謀、反甲而來帝使中人視之如言。

⑧  遽召宰相林甫議。 答曰陛下家事非臣所宜。 豫帝意决乃詔廢為庶人尋遇害。天下寃之號三庶人。中惠妃病、數見庶人為祟。因召/巫祈之、請改葬、且射行刑者瘞之、訖不解。妃死祟亡、明皇之時、盧鴻、王希夷、隱居嵩山、李元愷、筠之徒、皆以/隱逸稱、或召至闕庭、或遣問政事、徒爾髙議濶論、然未有能如四皓之一言而、太子得不易也。 末句曰、「浩歌望/嵩嶽。意氣還相傾「」亦深不滿於當時嵩嶽之隱者、歟其意、微而婉矣。

出を冠に宗&KR1090

 【】たたり、祟り。

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李白  妾薄命#2

雨落不上天,水覆難再收。君情與妾意,各自東西流。

昔日芙蓉花,今成斷根草。以色事他人,能得幾時好。

雨は落ちてくるものであり、天にむかって上がることはい、こぼされた水は再び元の碗に収まることはないのだ。天子の愛情と后妃の思いとが合致していたけれど、ちょうど流れる水が、それぞれ自然に西と東に別れて流れさったようなものだ。昔は確かに、芙蓉の花のように 華麗に咲く花のような后妃であったが、それも廃位となった今はただ、根無し草となり、飛蓬のように、零落して各地を流浪するしかなくなったのだ。子孫繁栄のため、色香だけを求められ、それをもって、人につかえることしかできないものが、一体どれほどの期間、すばらしい時間を得ることができるというのだろうか。(皇位継承のめどが立てば、後は気ままに寵愛を行うのは習わしであるから、すぐに捨てられるのである。)

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年:743年天寶二年43歳 94-25

卷別:  卷一六三        文體:  樂府

詩題:  妾薄命

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿         

 

 

妾薄命 #1

(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)

漢帝寵阿嬌,貯之黃金屋。

漢の武帝は幼少のときともに遊んだ阿嬌を見初め、いつくしんだ、そして、「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」といい、皇太子妃となって黄金の御殿に迎えて、ついに皇后となされた。
咳唾落九天,隨風生珠玉。

そこで阿嬌は、君寵をえて、その権力と勢力の盛んなことは、九天の上で吐く唾が風に乗って人に落ちると、それがやがて珠玉に化するという有様であった。
寵極愛還歇,妒深情卻疏。

天子の寵愛、貴盛が極限まで行ったが、ひとたびその寵愛を失うと実にあさましいものである、もともと、我儘で、嫉妬深い気性は、その情が密で、深いことが度が過ぎて仇になり、嫉妬心が陰謀策力に変わり、深く人の心も疎んじていった。
長門一步地,不肯暫迴車。

誰も振り返らず、司馬相如の賦を買い、一時は寵愛が戻るも、ついに、長門宮に幽閉され、一切の接触をたたれ、君の御所とはわずかに一歩を隔てるも、その後、君の輦車を回して立ち寄られることはなくなった。

#2

雨落不上天,水覆難再收。

雨は落ちてくるものであり、天にむかって上がることはい、こぼされた水は再び元の碗に収まることはないのだ。
君情與妾意,各自東西流。

天子の愛情と后妃の思いとが合致していたけれど、ちょうど流れる水が、それぞれ自然に西と東に別れて流れさったようなものだ。
昔日芙蓉花,今成斷根草。

昔は確かに、芙蓉の花のように 華麗に咲く花のような后妃であったが、それも廃位となった今はただ、根無し草となり、飛蓬のように、零落して各地を流浪するしかなくなったのだ。
以色事他人,能得幾時好。

子孫繁栄のため、色香だけを求められ、それをもって、人につかえることしかできないものが、一体どれほどの期間、すばらしい時間を得ることができるというのだろうか。(皇位継承のめどが立てば、後は気ままに寵愛を行うのは習わしであるから、すぐに捨てられるのである。)


漢帝 阿嬌 寵【いつく】 しむ、之を黃金の屋に貯【おさ】む。 
咳唾【がいだ】 九天に落つ、風隨う 珠玉 生ず。 
寵極 愛 還た歇【つきる】、妒み深く 情 卻く疏【うと】んず。 
長門 一たび 地を步む、肯って 暫く 回車されず。
#2

雨落 天に上らず、水覆 再び收り難し。 
君情 與 妾意、各々自ら 東西に流る。 
昔日  芙蓉の花,今 成る  斷根の草。
色を以て  他人に事【つか】へ,能【よ】く  幾時【いくとき】の 好【よろし】きを  得たりや。

 

 

『妾薄命』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

雨落不上天,水覆難再收。

君情與妾意,各自東西流。

昔日芙蓉花,今成斷根草。

以色事他人,能得幾時好。

詩文(含異文)  漢帝寵阿嬌【漢帝重阿嬌】,貯之黃金屋。咳唾落九天,隨風生珠玉。寵極愛還歇,妒深情卻疏。長門一步地,不肯暫迴車。雨落不上天,水覆難再收【水覆重難收】。君情與妾意,各自東西流。昔日芙蓉花,今成斷根草。以色事他人,能得幾時好。

 

 (下し文)
#2

雨落 天に上らず、水覆 再び收り難し。

君情 與 妾意、各々自ら 東西に流る。

昔日  芙蓉の花,今 成る  斷根の草。

色を以て  他人に事【つか】へ,能【よ】く  幾時【いくとき】の 好【よろし】きを  得たりや。

(現代語訳)
雨は落ちてくるものであり、天にむかって上がることはい、こぼされた水は再び元の碗に収まることはないのだ。
天子の愛情と后妃の思いとが合致していたけれど、ちょうど流れる水が、それぞれ自然に西と東に別れて流れさったようなものだ。
昔は確かに、芙蓉の花のように 華麗に咲く花のような后妃であったが、それも廃位となった今はただ、根無し草となり、飛蓬のように、零落して各地を流浪するしかなくなったのだ。
子孫繁栄のため、色香だけを求められ、それをもって、人につかえることしかできないものが、一体どれほどの期間、すばらしい時間を得ることができるというのだろうか。(皇位継承のめどが立てば、後は気ままに寵愛を行うのは習わしであるから、すぐに捨てられるのである。)

(訳注)

妾薄命 #2

(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)

妾薄命は、失寵の宮人を詠するを旨とし、曹植の作は、《漢書·孝成許皇后傳》に本づいて、「其餘誠太迫急,奈何?妾薄命,端遇竟寧前。」といい、梁の簡文帝は、名都多麗質、傷良人不返、王牆遠聘、盧姫嫁遅といって居る。李白の此作は、漢の武帝の陳皇后の事を述べ、初は非常に君の寵愛を辱うしたが、のちには廃后の憂き目に遭って、長門宮に幽閉されたといふことを写し、人生の栄顕、まことに恃み難いといふところに同情を寄せたのであるが、もとより、多少の諷意はあると思われる。

皇后といえども、政変、陰謀、その他により、将来はどうなるかわからない、武帝の陳皇后は出自、取り巻き、応援者、すべての条件が整っていて、盤石の体制の中で最強の皇后として後宮に君臨したたのに、自ら墓穴を掘る行動を起こし、死罪を賜るところ、赦を以て長門宮に幽閉された。凡そのことはわかっても死亡の記録は残されていない。

 

雨落不上天、水覆難再收。
雨は落ちてくるものであり、天にむかって上がることはい、こぼされた水は再び元の碗に収まることはないのだ。
雨落 天に上らず、

水覆難再收 覆水盆に返らず。 
 
君情與妾意、各自東西流。
天子の愛情と后妃の思いとが合致していたけれど、ちょうど流れる水が、それぞれ自然に西と東に別れて流れさったようなものだ。
君情 天子の愛情

妾意 后妃の思い

○東西流る。
 

昔日芙蓉花、今成斷根草。
昔は確かに、芙蓉の花のように 華麗に咲く花のような后妃であったが、それも廃位となった今はただ、根無し草となり、飛蓬のように、零落して各地を流浪するしかなくなったのだ。
昔日 むかし。

○芙蓉花 フヨウの花。華麗に咲く花の女王でもある。そのように、天子の側にいて芙蓉花のように愛でられる位置にいたものだった(が)。 

今成 今は…となった。 

斷根草 根無し草。飛蓬、転蓬。 *零落して各地を流浪するさまをいう。

 

以色事他人、能得幾時好。
子孫繁栄のため、色香だけを求められ、それをもって、人につかえることしかできないものが、一体どれほどの期間、すばらしい時間を得ることができるというのだろうか。(皇位継承のめどが立てば、後は気ままに寵愛を行うのは習わしであるから、すぐに捨てられるのである。)
以色 色香をもって。色事で。 

 つかえる。動詞。 ・他人 ほかの人。

○能得 …が可能である。 

 よく。 ○ 得る。 

幾時 どれほどの時間。 ○ よい。
 

其一は園遊をのべ、其二は宴会の楽しみのさまをのべる。制作年代を、建安中の作とする説と、黄初六年、文帝が東征よりの帰途、蕹丘に柾をたずねた時の作との説がある。詩の雰囲気、できばえからすると前者建安中の作と考える。

妾薄命二首 其一 曹植(曹子建)

妾薄命二首 其一

(妾薄命二首 其の一)

攜玉手喜同車,比上雲閣飛除。

玉手を携え 車を同じくするを喜び、此びて 雲闇 飛除に上る。

釣台蹇清虛,池塘靈沼可

釣台は蹇として清虚、池塘 霊沼 娯しむ可し。

仰泛龍舟綠波,俯擢神草枝柯。

仰ぎて竜舟を緑波に汎べ、併しで神草の枝村を擢く。

想彼宓妃洛河,退詠漢女湘娥。

彼の 宓妃の洛河を想い、退きて 漢女と湘蛾を詠ず。

妾薄命二首 其二 曹植(曹子建)

日月既逝西藏,更會蘭室洞房。

日月既に逝きて西に藏【かく】る、更に 蘭室の洞房に会す。

華燈步障舒光,皎若日出扶桑。

華鐙 歩障に光を舒べ、皎として日の扶桑より出づるが若し。

促樽合坐行觴,主人起舞娑盤。

樽を促し坐を合せて觴を行る、主人 起ちて舞うや婆盤たり。

能者穴觸別端,騰觚飛爵闌干。

能者は冗にして別端に触る、觚を騰げ爵を飛ばして闌干たり。

同量等色齊顏,任意交屬所歡。

量を同じくし色を等しくし顔を斉しくす、意に任せて交ごも歓ぶ所に属ぐ。

 

 

朱顏發外形蘭,袖隨禮容極情。

朱顔 外に発【あらわ】れて 形 蘭たり、袖は礼容に随いて情を極め。

妙舞仙仙體輕,裳解履遺纓。

妙舞 仙仙として体軽し、裳 解け履遣りで纓を絶ち。

俯仰笑喧無呈,覽持佳人玉顏。

俯仰し笑喧して呈無し、佳人の玉顔を覧持ち。

齊舉金爵翠盤,手形羅袖良難。

斉しく金爵と翠盤を挙ぐ、手 羅袖より形わるるは良に難く。

腕弱不勝珠環,坐者嘆息舒顏。

腕 弱くして珠環に勝えず、坐する者 嘆息して顔を舒ぶ。

 

 

御巾裛粉君傍,中有霍納都梁,

巾を御し粉を裛う君が傍、中に有り霍納と都梁と。

雞舌五味雜香,進者何人齊姜,

鶏舌と五味の雑香と、進む者は何人ぞ 斉姜なり。

恩重愛深難忘。召延親好宴私,

恩は重く愛は深く 忘れ難し、親好を召延して宴私す。

但歌杯來何遲。客賦既醉言歸,主人稱露未晞。

但だ歌う 杯の来る何んぞ遅きやと、客は賦す 既に酔う言に帰らんと、主人は称す 露未だ晞【かわ】かずと。

 

 

 

《巻三19-白頭吟》「此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。」(此の時 阿嬌 正に嬌妒,獨り長門に坐して 日暮を愁う。)この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

743年(22)李白341 巻三19-《白頭吟》(錦水東北流,) 341Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(22) <李白341> Ⅰ李白詩1664 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6868

 

《巻三19-白頭吟》「但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。」(但だ願ふ、君恩、妾を顧みること深きを、豈に惜まむや、黄金、詞賦を買ふを。相如、賦を作って黄金を得たり、丈夫、新を好んで、異心多し。)そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。かくて、司馬相加は、陳皇后のために賦をつくり、多分の金が手元に残ったと、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。

743年(23)李白341-#2 巻三19-《白頭吟》 341-#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(23) <李白341-#2> Ⅰ李白詩1668 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6888

743年(25)李白344 巻三35-《妾薄命》(漢帝寵阿嬌,)#1 344Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(25) <李白344> Ⅰ李白詩1678 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6938

李白  妾薄命 #1

漢帝寵阿嬌,貯之黃金屋。咳唾落九天,隨風生珠玉。

寵極愛還歇,妒深情卻疏。長門一步地,不肯暫迴車。

(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)

漢の武帝は幼少のときともに遊んだ阿嬌を見初め、いつくしんだ、そして、「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」といい、皇太子妃となって黄金の御殿に迎えて、ついに皇后となされた。そこで阿嬌は、君寵をえて、その権力と勢力の盛んなことは、九天の上で吐く唾が風に乗って人に落ちると、それがやがて珠玉に化するという有様であった。天子の寵愛、貴盛が極限まで行ったが、ひとたびその寵愛を失うと実にあさましいものである、もともと、我儘で、嫉妬深い気性は、その情が密で、深いことが度が過ぎて仇になり、嫉妬心が陰謀策力に変わり、深く人の心も疎んじていった。誰も振り返らず、司馬相如の賦を買い、一時は寵愛が戻るも、ついに、長門宮に幽閉され、一切の接触をたたれ、君の御所とはわずかに一歩を隔てるも、その後、君の輦車を回して立ち寄られることはなくなった。

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年:743年天寶二年43歳 94-25

卷別:  卷一六三        文體:  樂府

詩題:  妾薄命

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿         

 

 

妾薄命 #1

(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)

漢帝寵阿嬌,貯之黃金屋。

漢の武帝は幼少のときともに遊んだ阿嬌を見初め、いつくしんだ、そして、「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」といい、皇太子妃となって黄金の御殿に迎えて、ついに皇后となされた。
咳唾落九天,隨風生珠玉。

そこで阿嬌は、君寵をえて、その権力と勢力の盛んなことは、九天の上で吐く唾が風に乗って人に落ちると、それがやがて珠玉に化するという有様であった。
寵極愛還歇,妒深情卻疏。

天子の寵愛、貴盛が極限まで行ったが、ひとたびその寵愛を失うと実にあさましいものである、もともと、我儘で、嫉妬深い気性は、その情が密で、深いことが度が過ぎて仇になり、嫉妬心が陰謀策力に変わり、深く人の心も疎んじていった。
長門一步地,不肯暫迴車。

誰も振り返らず、司馬相如の賦を買い、一時は寵愛が戻るも、ついに、長門宮に幽閉され、一切の接触をたたれ、君の御所とはわずかに一歩を隔てるも、その後、君の輦車を回して立ち寄られることはなくなった。#2

雨落不上天,水覆難再收。

君情與妾意,各自東西流。

昔日芙蓉花,今成斷根草。

以色事他人,能得幾時好。

漢帝 阿嬌 寵【いつく】 しむ、之を黃金の屋に貯【おさ】む。 
咳唾【がいだ】 九天に落つ、風隨う 珠玉 生ず。 
寵極 愛 還た歇【つきる】、妒み深く 情 卻く疏【うと】んず。 
長門 一たび 地を步む、肯って 暫く 回車されず。
#2

雨落 天に上らず、水覆 再び收り難し。 
君情 與 妾意、各々自ら 東西に流る。 
昔日  芙蓉の花,今 成る  斷根の草。
色を以て  他人に事【つか】へ,能【よ】く  幾時【いくとき】の 好【よろし】きを  得たりや。

 

詩文(含異文)  漢帝寵阿嬌【漢帝重阿嬌】,貯之黃金屋。咳唾落九天,隨風生珠玉。寵極愛還歇,妒深情卻疏。長門一步地,不肯暫迴車。雨落不上天,水覆難再收【水覆重難收】。君情與妾意,各自東西流。昔日芙蓉花,今成斷根草。以色事他人,能得幾時好。

 

 

『妾薄命』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

妾薄命 #1

漢帝寵阿嬌,貯之黃金屋。

咳唾落九天,隨風生珠玉。

寵極愛還歇,妒深情卻疏。

長門一步地,不肯暫迴車。
詩文(含異文)  漢帝寵阿嬌【漢帝重阿嬌】,貯之黃金屋。咳唾落九天,隨風生珠玉。寵極愛還歇,妒深情卻疏。長門一步地,不肯暫迴車。雨落不上天,水覆難再收【水覆重難收】。君情與妾意,各自東西流。昔日芙蓉花,今成斷根草。以色事他人,能得幾時好。


(下し文)
(妾薄命)

漢帝 阿嬌 寵【いつく】 しむ、之を黃金の屋に貯【おさ】む。

咳唾【がいだ】 九天に落つ、風隨う 珠玉 生ず。

寵極 愛 還た歇【つきる】、妒み深く 情 卻く疏【うと】んず。

長門 一たび 地を步む、肯って 暫く 回車されず。

(現代語訳)
妾薄命 #1(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)

漢の武帝は幼少のときともに遊んだ阿嬌を見初め、いつくしんだ、そして、「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」といい、皇太子妃となって黄金の御殿に迎えて、ついに皇后となされた。
そこで阿嬌は、君寵をえて、その権力と勢力の盛んなことは、九天の上で吐く唾が風に乗って人に落ちると、それがやがて珠玉に化するという有様であった。
子の寵愛、貴盛が極限まで行ったが、ひとたびその寵愛を失うと実にあさましいものである、もともと、我儘で、嫉妬深い気性は、その情が密で、深いことが度が過ぎて仇になり、嫉妬心が陰謀策力に変わり、深く人の心も疎んじていった。
誰も振り返らず、司馬相如の賦を買い、一時は寵愛が戻るも、ついに、長門宮に幽閉され、一切の接触をたたれ、君の御所とはわずかに一歩を隔てるも、その後、君の輦車を回して立ち寄られることはなくなった。

(訳注)

妾薄命 #1

(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)

妾薄命は、失寵の宮人を詠するを旨とし、曹植の作は、《漢書·孝成許皇后傳》に本づいて、「其餘誠太迫急,奈何?妾薄命,端遇竟寧前。」といい、梁の簡文帝は、名都多麗質、傷良人不返、王牆遠聘、盧姫嫁遅といって居る。李白の此作は、漢の武帝の陳皇后の事を述べ、初は非常に君の寵愛を辱うしたが、のちには廃后の憂き目に遭って、長門宮に幽閉されたといふことを写し、人生の栄顕、まことに恃み難いといふところに同情を寄せたのであるが、もとより、多少の諷意はあると思われる。

皇后といえども、政変、陰謀、その他により、将来はどうなるかわからない、武帝の陳皇后は出自、取り巻き、応援者、すべての条件が整っていて、盤石の体制の中で最強の皇后として後宮に君臨したたのに、自ら墓穴を掘る行動を起こし、死罪を賜るところ、赦を以て長門宮に幽閉された。凡そのことはわかっても死亡の記録は残されていない。

 

宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。

また、皇太子の東宮にも「内官」があり、太子妃一人、その下に良娣、良媛、承徽、昭訓、奉儀などの品級があった。諸親王の王妃の下にも孺人【じゅじん】等の媵妾【ようしょう】の身分があった。

 

唐代の記録にある二十六人の皇后の内、死後追贈された人、あるいは息子の即位によって尊ばれて太后に封ぜられた人、こうした若干の例外を除く他の大多数の皇后は、その時代の高官か名門の家柄の出であり、そのうちの八人はやはり皇族の出身であった。時に皇帝が家柄などにそう拘泥しないこともあったが、しかし大臣たちが家柄を最も有力な理由にして反対したので、皇帝でさえどうすることもできなかった。武則天の父は若い頃商人であったが、建国後に高い地位に上り、格の低い名もなき家柄とはいえなかったけれども、武則天を皇后に立てることに反対した大臣たちはやはり、彼女の「門地は、実に微賎である」と攻撃した(『資治通鑑』巻二〇三、則天后光宅元年)。一方、高宗が努めて衆議を排して彼女を皇后にしようと議した時にも、また懸命になって「家門は勲庸(勲功)著しい」とか、「地位は櫻献(冠帯と印綬)ともに華である」(『資治通鑑』巻二〇〇、永徴六年)などと強調した。武宗の王賢妃はたいへんな寵愛を受け、また武宗が即位する際に大きな功績もあったので、武宗は彼女を皇后にしようとした。しかし、大臣たちは「子が無く、また家柄も高貴ではない。

恐らく天下の議を話すことになろう」といって反対したので、ついに出身が下賎ということで皇后にできなかった。皇帝でさえ名門の女性を皇后に立てるという原則に逆らえなかったことが分かる。名門出身という、この資本がなかったならば、たとえ皇帝の寵愛をほしいままにしたり、皇子を早く生んだとしても、ただ死後に称号を追贈されるか、子が即位して始めて正式に太后になることが許されたのである。唐代の皇后の内、四、五人は低い家柄の出身であった。たとえば、粛宗の呉后は、罪人の家族として宮中の下婦にされた人であり、憲宗の鄭后、珍宗の斎后はともに侍女の出であり、両者とも生んだ子が即位して始めて尊ばれて太后になることができた。

 

漢帝寵阿嬌、貯之黃金屋。 
漢の武帝は幼少のときともに遊んだ阿嬌を見初め、いつくしんだ、そして、「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」といい、皇太子妃となって黄金の御殿に迎えて、ついに皇后となされた。
阿嬌 漢の武帝の后の幼名。(漢武故事)。「阿」は親しみを表す語。「嬌」は〕美しい女性。美人。陳皇后(ちん こうごう、生没年不詳)は、前漢の武帝の最初の皇后。武帝の従姉妹に当たる。母は武帝の父である景帝の同母姉の館陶長公主劉嫖、父は堂邑侯陳午である。
《漢武故事》「武帝、數
,長公主嫖抱置膝上,問曰:「兒欲得婦不?」膠東王曰:「欲得婦。」長主指左右長御百餘人,皆云不用。末指其女問曰:「阿嬌好不?」於是乃笑對曰:「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」長主大悅,乃苦要上,遂成婚焉。」武帝、數,長公主、嫖抱いて膝上に置き,問うて曰く:「兒、婦を得んと欲するや不や?」と。膠東王曰く:「婦を得んと欲す。」長主左右長御百餘人を指し,皆、云う用いず。末に其の女を指し問うて曰く:「阿嬌を好きや不や?」是に於いて乃ち笑って對えて曰く:「好し!若し阿嬌を得ば作婦とす,當に金屋を作って之を貯うべし也。」と。長主大いに悅び,乃ち苦に上に要し,遂に婚を成す。)とある。『漢武故事』によると、館陶長公主は娘を皇太子に娶わせようと思ったが、当時の皇太子である劉栄の母栗姫が長公主と仲が悪かった。そこで長公主は景帝に王夫人の子である劉徹(武帝)を褒め、王夫人を皇后、劉徹を皇太子にすることに成功した。
長公主はまだ幼い皇太子の劉徹と娘の阿嬌を会わせ、劉徹に「阿嬌を得たいかい?」と訊いた。劉徹は「もし阿嬌を得る事ができたら、金の建物に住まわせるよ」と答えたので、長公主は喜んで娘を彼に娶わせ、阿嬌は皇太子妃となった。

 武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ず、わがままと傲慢が助長された。やがて衛子夫が武帝に寵愛されたと聞くと、嫉妬心 皇后は彼女の死を願い、一族も弟の衛青を連れ去り監禁するほどだった。皇后は呪術を用いて呪い、それが発覚して元光5年(紀元前130年)に廃位され長門宮に幽閉された。
母の館陶長公主は武帝の姉の平陽公主に「皇帝は私がいなければ皇太子になれなかったのに、どうして我が娘を捨てるのだ」と訊いたが、平陽公主は「子が出来ないからです」と答えた。皇后は子が出来るようにと医者に多額の金を使ったが、結局子は出来なかった。
十数年後に館陶長公主が死亡し、その数年後には陳皇后も死亡した。

李白の詩「阿嬌」という語が出ている句は以下。

108巻三19白頭吟    「此時阿嬌正嬌妒、獨坐長門愁日暮。」

108巻三19白頭吟    「聞道阿嬌失恩寵、千金買賦要君王。」

124巻三35妾薄命    「漢帝寵阿嬌。 貯之黃金屋。」

 

 

咳唾落九天、隨風生珠玉。 
そこで阿嬌は、君寵をえて、その権力と勢力の盛んなことは、九天の上で吐く唾が風に乗って人に落ちると、それがやがて珠玉に化するという有様であった。
咳唾 せきとつばき。権力・勢力の強いさま。一言一句が珠玉の言葉になること。 
九天 中華思想で天地は九で区分される。地は九州、天は九天、その真ん中を示す語である大空の真ん中。天下の中心。その真ん中に天子、皇帝がいる。宮廷のこと。九重も宮廷。天文学、地理、山、九であらわした。縁起のいい数字とされた。

風隨 かぜのふくままに。

珠玉 生ず。 

 

寵極愛還歇、妒深情卻疏。
天子の寵愛、貴盛が極限まで行ったが、ひとたびその寵愛を失うと実にあさましいものである、もともと、我儘で、嫉妬深い気性は、その情が密で、深いことが度が過ぎて仇になり、嫉妬心が陰謀策力に変わり、深く人の心も疎んじていった。
寵極 天子の寵愛

○愛還歇、別の后妃に移った

妒深 嫉妬心が深く。
 
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長門 長門宮、長門怨(古くからある歌謡の題。)漢の武帝の陳皇后のために作られたものである。陳皇后は、幼い頃は阿嬌とよぱれ、いとこに当る武帝のお気にいりであったが、帝の寵愛が衛子夫(のちに賢皇后)に移ると、ひどいヤキモチをやいたので、ついに長門宮に幽閉された。長門宮は、長安の東南の郊外にある離宮である。悶悶と苦しんだ彼女は、当時の文豪、司馬相如にたのみ、黄金百斤を与えて、帝の気持をこちらへ向けなおすような長い韻文を作ってもらった。これが「長門の賦」である。後世の人は、その話にもとづき「長門怨」という歌をつくった。

長門怨二首 其一 「天囘北斗挂西樓。 金屋無人螢火流。 月光欲到長門殿。 別作深宮一段愁。」(天は北斗を囘らして西樓に挂かる。 金屋人無く螢火流れる。

月光 到らんと欲す 長門殿。 別に作す 深宮一段の愁。) 天は北斗七星を廻転させ、宮中の西楼の屋根に星がかかった。黄金造りの家には人影はなく、ホタルの光だけが不気味に流れ飛ぶ。月の光が長門殿に差し込んで来ようとした時、 更に宮殿にひとしお憂いが増してゆく。

回車 お立ちよりの車馬、輦車。

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李白  獨不見  #2

風摧寒棕響,月入霜閨悲。憶與君別年,種桃齊蛾眉。

桃今百餘尺,花落成枯枝。終然獨不見,流淚空自知。

やがて、椶櫚の上に木枯しの風が吹きつけて、くだくような音を響かせて其皮が地上に散らばる。程なく、冬に成って、一人寝の閨の中に月が差し込む。

あなたを送り出した別離の年、桃の木を植えたのですそれは私の眉毛の大きさと同じくらいだったのです。そういうことが、年年続いて、いつまで待っても、黄龍邊塞に居る良人は、なかなか掃ってこない。
さきに、別れた其の年に、小さい桃の木を植えたが、人の背丈位で、わが眉のところまで届く位であったが、今は百余尺の高い木になって、花も咲き、実も結び、やがて、秋に成って、枯枝となった。

しかし、良人は矢張、歸ってこない。この分では、死ぬまでも歸らないかも知れないが、この悲しさを知る人もなく、唯だ自ら涙を流すのみである。

743年(24)李白343 -#2 巻三30-《獨不見》(白馬誰家子,) 343 -#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-24)Ⅰ李白詩1677 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6933

 

 

 
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韓愈102-#2《 巻四01 劉生詩》 #2 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1590> Ⅱ#2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6934  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
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年:743年天寶二年43歳 94-23

卷別:  卷一六三        文體:  樂府

詩題:  獨不見

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:黃龍城 (河北道北部 營州 柳城)    

天山 (隴右道西部 無第二級行政層級 天山) 別名:雪山       

 

 

獨不見  #1

(思う人に逢えず、ひとりで空閏を守って居る意味を、女性の言葉で述べたので、李白も、亦た古辭の語意をとって、この一首を作ったのである。)

白馬誰家子,黃龍邊塞兒。

白馬に跨り、意気揚揚として、邊塞に出かけた彼の人は、今や契丹と対陣している北方の辺境地域の黄龍塞というところに駐屯して居るとのことである。

天山三丈雪,豈是遠行時。

その地は、匈奴に接し、天山山脈といふ高い山々があって、その山頂には三丈の雪が常に積って居るそうで、とても行かれないというのを、無理に、険を冒して遠く従ったのである。

春蕙忽秋草,莎雞鳴西池。

さて一度、良人に別れた後は、いつまで待てども、帰って来ることはなく、春、蘭恵が香をはっすると思って居る内に、忽ち変じて秋草の荒蕪となり、その秋草の間なる曲地の傍には、キリギリスの鳴き聲がする。

#2

風摧寒棕響,月入霜閨悲。

やがて、椶櫚の上に木枯しの風が吹きつけて、くだくような音を響かせて其皮が地上に散らばる。程なく、冬に成って、一人寝の閨の中に月が差し込む。

憶與君別年,種桃齊蛾眉。

あなたを送り出した別離の年、桃の木を植えたのですそれは私の眉毛の大きさと同じくらいだったのです。そういうことが、年年続いて、いつまで待っても、黄龍邊塞に居る良人は、なかなか掃ってこない。
桃今百餘尺,花落成枯枝。

さきに、別れた其の年に、小さい桃の木を植えたが、人の背丈位で、わが眉のところまで届く位であったが、今は百余尺の高い木になって、花も咲き、実も結び、やがて、秋に成って、枯枝となった。

終然獨不見,流淚空自知。

しかし、良人は矢張、歸ってこない。この分では、死ぬまでも歸らないかも知れないが、この悲しさを知る人もなく、唯だ自ら涙を流すのみである。

獨り見えず

白馬たが家の子ぞ、 黄龍辺塞の児。
天山三丈の雪、あにこれ遠行の時ならんや。
春蕙たちまちに秋草 莎雞(さけい) 西池に鳴く。
風は寒棕(かんそう)を摧(くだ)いて響き、月は霜閨に入って悲しむ。
憶ふ君と別るるの年、桃を種ゑて蛾眉に斉し。
桃いま百余尺、花落ちて枯枝と成る。
終然としてひとり見えず、流涙むなしくみづから知る。

 

 

『獨不見』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

風摧寒棕響,月入霜閨悲。

憶與君別年,種桃齊蛾眉。

桃今百餘尺,花落成枯枝。

終然獨不見,流淚空自知。

(下し文)
#2

風は寒棕(かんそう)を摧(くだ)いて響き、月は霜閨に入って悲しむ。

憶ふ君と別るるの年、桃を種ゑて蛾眉に斉し。

桃いま百余尺、花落ちて枯枝と成る。

終然としてひとり見えず、流涙むなしくみづから知る。

(現代語訳)
#2

やがて、椶櫚の上に木枯しの風が吹きつけて、くだくような音を響かせて其皮が地上に散らばる。程なく、冬に成って、一人寝の閨の中に月が差し込む。

あなたを送り出した別離の年、桃の木を植えたのですそれは私の眉毛の大きさと同じくらいだったのです。そういうことが、年年続いて、いつまで待っても、黄龍邊塞に居る良人は、なかなか掃ってこない。
さきに、別れた其の年に、小さい桃の木を植えたが、人の背丈位で、わが眉のところまで届く位であったが、今は百余尺の高い木になって、花も咲き、実も結び、やがて、秋に成って、枯枝となった。

しかし、良人は矢張、歸ってこない。この分では、死ぬまでも歸らないかも知れないが、この悲しさを知る人もなく、唯だ自ら涙を流すのみである。


(訳注)#2

獨不見

(思う人に逢えず、ひとりで空閏を守って居る意味を、女性の言葉で述べたので、李白も、亦た古辭の語意をとって、この一首を作ったのである。)

楽府古題要解に「獨不見」は、「思うて見るを得ざるを言ふなり」とあり、胡震亨は「梁の柳惲の本辭、「奉帚長信宮、誰知獨不見」とあり、「唐人、擬するもの多く、《獨不見》の

三字を用ふ」といって居る。


風摧寒椶響、月入霜閨悲。
やがて、椶櫚の上に木枯しの風が吹きつけて、くだくような音を響かせて其皮が地上に散らばる。程なく、冬に成って、一人寝の閨の中に月が差し込む。

寒椶 椶櫚の一種。

霜閨 霜夜の夫のゐない寝室。


憶與君別年、種桃齊蛾眉。
あなたを送り出した別離の年、桃の木を植えたのですそれは私の眉毛の大きさと同じくらいだったのです。そういうことが、年年続いて、いつまで待っても、黄龍邊塞に居る良人は、なかなか掃ってこない。
 この霜の句は別の意味にもとれる。女性を示す語として使用され、「桃栗三年で実を成す。」ここでは桃が妻で、「齊蛾眉」蛾眉を慎んでいた。つまり化粧など全くしないということである。つつましく生活をしているという意味にもとれる。

また、徴兵されて出征する義務が3年であったところから、桃木でそれを表現するのであるが、この詩は、その頃戦況が話題となっていた契丹のことを、景色として借りたもので、4番目の妻宋氏にあてた詩であろうと思う。

桃今百餘尺、花落成枯枝。
さきに、別れた其の年に、小さい桃の木を植えたが、人の背丈位で、わが眉のところまで届く位であったが、今は百余尺の高い木になって、花も咲き、実も結び、やがて、秋に成って、枯枝となった。

○この下の句も、若くてはちきれそうだった桃の様な素肌が衰えてしまったという意味。
 
終然獨不見、流涙空自知。
しかし、良人は矢張、歸ってこない。この分では、死ぬまでも歸らないかも知れないが、この悲しさを知る人もなく、唯だ自ら涙を流すのみである。

○流れる涙は、あなたに拭いてもらいたい。ということで思いが強調されている。男性の青雲の志を女は歯を食いしばって我慢し、支えていくという時代である。
耐え忍んでいる姿をどう表現するか、というのが李白のテーマだったのかもしない。


 別れる時、自分の蛾眉の大きさであった桃が百余尺となり、更に枯れたといって別れの時間の経過の長さをあらわしている。同様に、春の若草がたちまち黄草に変わる。そして自分は轉蓬であるというのが、李白の得意の手法で、人として、好意的に見れるか見れないか分れる所である。李白という詩人が妻と同じところで過ごしていてこれだけの詩が作れるのかというと、それは絶対にできないのである。

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李白  獨不見  #1

白馬誰家子,黃龍邊塞兒。天山三丈雪,豈是遠行時。

春蕙忽秋草,莎雞鳴西池。

(思う人に逢えず、ひとりで空閏を守って居る意味を、女性の言葉で述べたので、李白も、亦た古辭の語意をとって、この一首を作ったのである。)

白馬に跨り、意気揚揚として、邊塞に出かけた彼の人は、今や契丹と対陣している北方の辺境地域の黄龍塞というところに駐屯して居るとのことである。その地は、匈奴に接し、天山山脈といふ高い山々があって、その山頂には三丈の雪が常に積って居るそうで、とても行かれないというのを、無理に、険を冒して遠く従ったのである。さて一度、良人に別れた後は、いつまで待てども、帰って来ることはなく、春、蘭恵が香をはっすると思って居る内に、忽ち変じて秋草の荒蕪となり、その秋草の間なる曲地の傍には、キリギリスの鳴き聲がする。

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年:743年天寶二年43歳 94-23

卷別:  卷一六三        文體:  樂府

詩題:  獨不見

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:黃龍城 (河北道北部 營州 柳城)    

天山 (隴右道西部 無第二級行政層級 天山) 別名:雪山       

 

 

獨不見  #1

(思う人に逢えず、ひとりで空閏を守って居る意味を、女性の言葉で述べたので、李白も、亦た古辭の語意をとって、この一首を作ったのである。)

白馬誰家子,黃龍邊塞兒。

白馬に跨り、意気揚揚として、邊塞に出かけた彼の人は、今や契丹と対陣している北方の辺境地域の黄龍塞というところに駐屯して居るとのことである。

天山三丈雪,豈是遠行時。

その地は、匈奴に接し、天山山脈といふ高い山々があって、その山頂には三丈の雪が常に積って居るそうで、とても行かれないというのを、無理に、険を冒して遠く従ったのである。

春蕙忽秋草,莎雞鳴西池。

さて一度、良人に別れた後は、いつまで待てども、帰って来ることはなく、春、蘭恵が香をはっすると思って居る内に、忽ち変じて秋草の荒蕪となり、その秋草の間なる曲地の傍には、キリギリスの鳴き聲がする。

#2

風摧寒棕響,月入霜閨悲。

憶與君別年,種桃齊蛾眉。

桃今百餘尺,花落成枯枝。

終然獨不見,流淚空自知。

獨り見えず

白馬たが家の子ぞ、 黄龍辺塞の児。
天山三丈の雪、あにこれ遠行の時ならんや。
春蕙たちまちに秋草 莎雞(さけい) 西池に鳴く。
風は寒棕(かんそう)を摧(くだ)いて響き、月は霜閨に入って悲しむ。
憶ふ君と別るるの年、桃を種ゑて蛾眉に斉し。
桃いま百余尺、花落ちて枯枝と成る。
終然としてひとり見えず、流涙むなしくみづから知る。

 

 

現代語訳と訳註
(
本文)

獨不見

白馬誰家子。 黃龍邊塞兒。 
天山三丈雪。 豈是遠行時。 
春蕙忽秋草。 莎雞鳴曲池。

 

詩文(含異文)  白馬誰家子,黃龍邊塞兒。天山三丈雪,豈是遠行時。春蕙忽秋草,莎雞鳴西池【莎雞鳴曲池】。風摧寒棕響【風摧寒梭響】,月入霜閨悲。憶與君別年,種桃齊蛾眉。桃今百餘尺,花落成枯枝。終然獨不見,流淚空自知。

 

(下し文)
獨り見えず

白馬たが家の子ぞ、 黄龍辺塞の児。
天山三丈の雪、あにこれ遠行の時ならんや。
春蕙たちまちに秋草 莎雞(さけい) 西池に鳴く。
風は寒棕(かんそう)を摧(くだ)いて響き、月は霜閨に入って悲しむ。
憶ふ君と別るるの年、桃を種ゑて蛾眉に斉し。
桃いま百余尺、花落ちて枯枝と成る。
終然としてひとり見えず、流涙むなしくみづから知る。


(現代語訳)
(思う人に逢えず、ひとりで空閏を守って居る意味を、女性の言葉で述べたので、李白も、亦た古辭の語意をとって、この一首を作ったのである。)

白馬に跨り、意気揚揚として、邊塞に出かけた彼の人は、今や契丹と対陣している北方の辺境地域の黄龍塞というところに駐屯して居るとのことである。

その地は、匈奴に接し、天山山脈といふ高い山々があって、その山頂には三丈の雪が常に積って居るそうで、とても行かれないというのを、無理に、険を冒して遠く従ったのである。

さて一度、良人に別れた後は、いつまで待てども、帰って来ることはなく、春、蘭恵が香をはっすると思って居る内に、忽ち変じて秋草の荒蕪となり、その秋草の間なる曲地の傍には、キリギリスの鳴き聲がする。

 

(訳注)
獨不見

(思う人に逢えず、ひとりで空閏を守って居る意味を、女性の言葉で述べたので、李白も、亦た古辭の語意をとって、この一首を作ったのである。)

楽府古題要解に「獨不見」は、「思うて見るを得ざるを言ふなり」とあり、胡震亨は「梁の柳惲の本辭、「奉帚長信宮、誰知獨不見」とあり、「唐人、擬するもの多く、《獨不見》の

三字を用ふ」といって居る。

 

白馬誰家子、黄龍邊塞兒。
白馬に跨り、意気揚揚として、邊塞に出かけた彼の人は、今や契丹と対陣している北方の辺境地域の黄龍塞というところに駐屯して居るとのことである。

黄龍 水經註「白狼水北逕白狼縣故城東,王莽更名伏狄。」契丹との対陣の地。750年以降、安禄山の軍内に契丹軍が入り込んでいた。753年安禄山は契丹を破り契丹内の奚という国の軍を完全支配かにおく。755年の叛乱時は重要な一翼を担った。

邊塞 国境の塞


天山三丈雪、豈是遠行時。
その地は、匈奴に接し、天山山脈といふ高い山々があって、その山頂には三丈の雪が常に積って居るそうで、とても行かれないというのを、無理に、険を冒して遠く従ったのである。

天山 天山山脈、匈奴中の山で、匈奴では白山といい、白山しんこうの家減の山である。古名白山,又名雪山,冬夏つうじて雪が有る。故名,匈奴謂之天山,唐の時、又、折羅漫山と名づく。

遠行 敵地の奥に攻め入ること


春蕙忽秋草、莎雞鳴西池。
さて一度、良人に別れた後は、いつまで待てども、帰って来ることはなく、春、蘭恵が香をはっすると思って居る内に、忽ち変じて秋草の荒蕪となり、その秋草の間なる曲地の傍には、キリギリスの鳴き聲がする。

莎雞 きりぎりす。

春蕙 春咲く蘭の花、

743年(22)李白341-#9 巻三19-《白頭吟》 341-#9Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(22) <李白341-#9> Ⅰ李白詩1675 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6923

李白  白頭吟 #9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。妾有秦樓鏡,照心勝照井。願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

司馬相如が馬車と馬をすべて売り払って一軒の飲み屋を買い取った酒屋で卓文君と一緒に働いて築いたものはそのままにされ錦の屏風に裘は置かれたままになった、司馬相如の一度おかした他の女への心変わりは取り戻すことのできないことなのである。

女というものに、その心の内が映し出され、邪心があれば殺されたという咸陽宮の樓鏡というものがあれば、その心を照らし出し、市井の前に照らし出されることに違いないのである。

願うことなら、その鏡をもってきて、司馬相如の新しい人を照らしてもらいたいものだ、其処に映された、相対するかわいい影があった。

しかし、おもへば、それは未練というもので、たとえにも言う通り、一旦覆した水は、元の盃に満たそうと思っても、到底かえりはしないので、妾もひとたび君に棄てられた上は、重ねて歸ってくることはできないことであろう。ところが、司馬相如は、卓文君のところにかえ許しを請うてかえったのである。

しかし、おもへば、それは未練というもので、たとえにも言う通り、一旦覆した水は、元の盃に満たそうと思っても、到底かえりはしないもので、一旦そむいた心は元のようにはいかない。たとえば、宋の康王が、韓朋の妻が美しいというので、韓朋に青陵臺を建設させたあと後に、殺したら、妻は後を追って死んだから、後には、せいりょうだいがのこっただけであるということなのだ。

743年(22)李白341-#9 巻三19-《白頭吟》 341-#9Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-22) <李白341-#9> Ⅰ李白詩1675 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6923

 

 
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李白  《白頭吟》#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。莫捲龍鬚席,從他生網絲。且留琥珀枕,還有夢來時。

それに、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬということはわかっていることである。

それでも、卓文君の頭には、お家を守る吉祥の趙婕妤の玉燕も釵を挿していて、これは、嫁入りに実家から持ってきたものである。

それにそのころは、「君への思いの心を表す贈り物」もたくさんもらったものだし、薄い絹地の閨着を着て幸せな時を過ごしたものであった。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなど、してはならないのである。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。

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  2015年11月15日 の紀頌之5つのBlog  
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#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江を東への碧水、成都の城郭の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

司馬相如は武帝の招きに応じて蜀を去り、武帝に謁見したのだが、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如を賢臣としてお迎えされ、だれよりもひかり輝句賢臣として迎えられて長安に入った。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

こうして司馬相如は、再び、郞に復職されて、高い評価の下に朝廷に入ったのである。武帝はこの時からその勢いをつけはじめていて、大空に羽ばたくほどのものであった。この武帝に、司馬相如はは並み居る文学者をしのいで高い評価を得た。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

陳皇后は、後宮を母の公主と一緒になって、おもうままにし、その嫉妬深さとわがままを武帝に向け、衛子夫に向けた、そして起こした謀略が発覚し、寵愛を失い、長門宮に移された。そこで、司馬相如から千金で「詩賦」を買い、武帝に心情を訴え武帝を振り向かせることになった。

この時司馬相如は、武帝からも、以前から相如の詩を読んでいて、高い評価画与えたのである。そのため相如は、蜀での貧しい時代、卓文君と酒場で酒を打った貧賤の時代のことを忘れてしまい、地位と裕福になったことで、妾の邸宅を作ったのである。

司馬相如の求めに若い娘はみなこれに応じ、長安北の五陵の高級住宅地に妾邸を持ったのである、これによって卓文君の喜び愛し合う最高の時期は終焉をむかえたのである。

#6

聞くならく 阿嬌 恩寵を失い,千金 賦を買うて 君王を要す と。

相如 貧賤日を憶わず,位 高く 金 多くして 私室を聘す。

茂陵の姝子 皆 求めらる,文君の歡愛 此に從って畢る。
#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

卓文君は、涕は両の眼から泉の水ようにあふれ出て、拭っても、拭っても頬から紫羅欄花の襟に落ちて濡れてしまって、乾くことがなかった。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

夜も眠れず、五更の声を聴き、鶏が朝を告げるのも三度も聞いた、清らかな空に日が昇り始める頃には、疲れつくして、この「白頭吟」をうたったのである。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

長いため息をついてしまってからは、まだ若い黒髪なのに整えることもしなくなったし、悲しみに加え恨みに思うことはさらに深まるから晴天に向かってこの気持ちを訴える。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

杞梁の妻は夫の遺体を抱えて城下で泣き続け十日後、妻の強い哀痛の情によって城壁が崩れてしまった、妻というもの夫に心がないということは誰もが言うことだ。

淚は雙泉の水の如く,行くゆく紫羅の襟に墮つ。

五更 雞 三唱,清晨 白頭吟。

長吁 整えず 綠 雲鬢,仰いで 青天に訴えて哀怨深し。

城は崩れ 杞梁の妻,誰か道う 土に心無しと。
#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

それに、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬということはわかっていることである。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

それでも、卓文君の頭には、お家を守る吉祥の趙婕妤の玉燕も釵を挿していて、これは、嫁入りに実家から持ってきたものである。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

それにそのころは、「君への思いの心を表す贈り物」もたくさんもらったものだし、薄い絹地の閨着を着て幸せな時を過ごしたものであった。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなど、してはならないのである。

且留琥珀枕,還有夢來時。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。

東流は作らず 西歸の水,落花 枝を辭して故林を羞ず。

頭上の玉燕釵,是れ妾が嫁時の物。

君に贈って 相思を表し,羅袖 幸時に拂う。

龍鬚の席を捲く莫れ,從かす他の網絲を生ずるに。

且つ留琥珀の枕,還有夢來時。#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

(下し文)
#8

東流は作らず 西歸の水,落花 枝を辭して故林を羞ず。

頭上の玉燕釵,是れ妾が嫁時の物。

君に贈って 相思を表し,羅袖 幸時に拂う。

龍鬚の席を捲く莫れ,從かす他の網絲を生ずるに。

且つ留琥珀の枕,還有夢來時。

(現代語訳)
#8

それに、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬということはわかっていることである。

それでも、卓文君の頭には、お家を守る吉祥の趙婕妤の玉燕も釵を挿していて、これは、嫁入りに実家から持ってきたものである。

それにそのころは、「君への思いの心を表す贈り物」もたくさんもらったものだし、薄い絹地の閨着を着て幸せな時を過ごしたものであった。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなど、してはならないのである。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。


(訳注) #8

 

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

それに、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬということはわかっていることである。

○この二句 《孟子告子篇》告子曰、「性猶湍水也。決諸東方、則東流、決諸西方、則西流。人性之無分於善不善也、猶 水之無分於東西也。」孟子曰、「水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。」

 

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

それでも、卓文君の頭には、お家を守る吉祥の趙婕妤の玉燕も釵を挿していて、これは、嫁入りに実家から持ってきたものである。

24】玉燕釵 玉で燕を作った黄金細工の釵の名。後宮の主として吉祥となった趙婕妤がつけたことからそれが作られたという《洞冥記、卷二》「神女留玉釵以贈帝, 帝以賜 趙婕妤。至 昭帝 元鳳 中,宮人猶見此釵。黃諃 欲之。 明日示之,既發匣,有白燕飛昇天。後宮人學作此釵,因名玉燕釵,言吉祥也。」とある。

 

贈君表相思,羅袖幸時拂。

それにそのころは、「君への思いの心を表す贈り物」もたくさんもらったものだし、薄い絹地の閨着を着て幸せな時を過ごしたものであった。

 

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなど、してはならないのである。

7】 龍鬚席 温鑑証に「龍顔革む以て織り成す、今推上安産府の居人、多く能く寵愛席も織る」とある。 

 

且留琥珀枕,或有夢來時。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。

8】 琥珀枕 太平御覧、廣雅曰:「琥珀珠也、生地中、其上及旁不生、草淺者四五尺、深者八九尺、大如斛、削去皮、成琥珀。初時如桃膠、凝堅乃成。其方人以為枕。出博南縣。」(琥珀は珠なり、地中に生ず、其の上及び旁に草を生ぜず、淺き者は四五尺、深き者は八九尺、大 斛の如く、皮を削り去れば、琥珀を成す。初めの時は桃膠の如く、凝堅 乃ち成る。其の方人 以て枕と為す。博南縣に出ず。)とある。

 

743年(28)李白341-#7 巻三19-《白頭吟》 341-#7Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(28) <李白341-#7> Ⅰ李白詩1673 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6913

李白  《白頭吟》#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。城崩杞梁妻,誰道土無心。

卓文君は、涕は両の眼から泉の水ようにあふれ出て、拭っても、拭っても頬から紫羅欄花の襟に落ちて濡れてしまって、乾くことがなかった。

夜も眠れず、五更の声を聴き、鶏が朝を告げるのも三度も聞いた、清らかな空に日が昇り始める頃には、疲れつくして、この「白頭吟」をうたったのである。

長いため息をついてしまってからは、まだ若い黒髪なのに整えることもしなくなったし、悲しみに加え恨みに思うことはさらに深まるから晴天に向かってこの気持ちを訴える。

杞梁の妻は夫の遺体を抱えて城下で泣き続け十日後、妻の強い哀痛の情によって城壁が崩れてしまった、妻というもの夫に心がないということは誰もが言うことだ。

743年(28)李白341-#7 巻三19-《白頭吟》 341-#7Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-28) <李白341-#7> Ⅰ李白詩1673 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6913

 

 

 
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韓愈100 -#6《 巻三20 永貞行》 #6 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1586> Ⅱ#6 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6914  
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  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 766年-171杜甫 《1712 吹笛》605 杜甫詩index-15-766年大暦元年55歲-171 <1047> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6915   
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
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  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
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#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江を東への碧水、成都の城郭の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

司馬相如は武帝の招きに応じて蜀を去り、武帝に謁見したのだが、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如を賢臣としてお迎えされ、だれよりもひかり輝句賢臣として迎えられて長安に入った。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

こうして司馬相如は、再び、郞に復職されて、高い評価の下に朝廷に入ったのである。武帝はこの時からその勢いをつけはじめていて、大空に羽ばたくほどのものであった。この武帝に、司馬相如はは並み居る文学者をしのいで高い評価を得た。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

陳皇后は、後宮を母の公主と一緒になって、おもうままにし、その嫉妬深さとわがままを武帝に向け、衛子夫に向けた、そして起こした謀略が発覚し、寵愛を失い、長門宮に移された。そこで、司馬相如から千金で「詩賦」を買い、武帝に心情を訴え武帝を振り向かせることになった。

この時司馬相如は、武帝からも、以前から相如の詩を読んでいて、高い評価画与えたのである。そのため相如は、蜀での貧しい時代、卓文君と酒場で酒を打った貧賤の時代のことを忘れてしまい、地位と裕福になったことで、妾の邸宅を作ったのである。

司馬相如の求めに若い娘はみなこれに応じ、長安北の五陵の高級住宅地に妾邸を持ったのである、これによって卓文君の喜び愛し合う最高の時期は終焉をむかえたのである。

#6

聞くならく 阿嬌 恩寵を失い,千金 賦を買うて 君王を要す と。

相如 貧賤日を憶わず,位 高く 金 多くして 私室を聘す。

茂陵の姝子 皆 求めらる,文君の歡愛 此に從って畢る。
#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

卓文君は、涕は両の眼から泉の水ようにあふれ出て、拭っても、拭っても頬から紫羅欄花の襟に落ちて濡れてしまって、乾くことがなかった。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

夜も眠れず、五更の声を聴き、鶏が朝を告げるのも三度も聞いた、清らかな空に日が昇り始める頃には、疲れつくして、この「白頭吟」をうたったのである。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

長いため息をついてしまってからは、まだ若い黒髪なのに整えることもしなくなったし、悲しみに加え恨みに思うことはさらに深まるから晴天に向かってこの気持ちを訴える。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

杞梁の妻は夫の遺体を抱えて城下で泣き続け十日後、妻の強い哀痛の情によって城壁が崩れてしまった、妻というもの夫に心がないということは誰もが言うことだ。

淚は雙泉の水の如く,行くゆく紫羅の襟に墮つ。

五更 雞 三唱,清晨 白頭吟。

長吁 整えず 綠 雲鬢,仰いで 青天に訴えて哀怨深し。

城は崩れ 杞梁の妻,誰か道う 土に心無しと。
#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

城崩杞梁妻,誰道土無心。


(下し文)
#7

淚は雙泉の水の如く,行くゆく紫羅の襟に墮つ。

五更 雞 三唱,清晨 白頭吟。

長吁 整えず 綠 雲鬢,仰いで 青天に訴えて哀怨深し。

城は崩れ 杞梁の妻,誰か道う 土に心無しと。

(現代語訳)
#7

卓文君は、涕は両の眼から泉の水ようにあふれ出て、拭っても、拭っても頬から紫羅欄花の襟に落ちて濡れてしまって、乾くことがなかった。

夜も眠れず、五更の声を聴き、鶏が朝を告げるのも三度も聞いた、清らかな空に日が昇り始める頃には、疲れつくして、この「白頭吟」をうたったのである。

長いため息をついてしまってからは、まだ若い黒髪なのに整えることもしなくなったし、悲しみに加え恨みに思うことはさらに深まるから晴天に向かってこの気持ちを訴える。

杞梁の妻は夫の遺体を抱えて城下で泣き続け十日後、妻の強い哀痛の情によって城壁が崩れてしまった、妻というもの夫に心がないということは誰もが言うことだ。


(訳注) #7

白頭吟7 

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。)

白頭吟 白頭吟は古楽府の題である。

卓文君
前漢時代、臨の大富豪である卓王孫の娘。司馬相如と恋に落ちて駆け落ちをする、愛情溢れる女性とされる。

 

卓文君 白頭吟

皚如山上雪,皎若雲間月。聞君有兩意,故來相決絶。

今日斗酒會,明旦溝水頭。躞蹀御溝上,溝水東西流。

淒淒復淒淒,嫁娶不須啼。願得一心人,白頭不相離。

竹竿何嫋嫋,魚尾何簁簁。男兒重意氣,何用錢刀爲。

皚【がい】たること山上の雪の 如く,皎【こう】たること雲間の月の 若【ごと】し。

聞く君 兩意有りと,故【ことさら】に來たりて相い決絶す。

今日斗酒の會,明旦溝水の頭【ほとり】。

御溝の上に躞蹀【しょうちょう】すれば,溝水は東西に流る。

淒淒【せいせい】復た 淒淒たり,嫁娶【かしゅ】に啼【な】くを須【もち】いず。

願はくは一心の人を得て,白頭まで相い離れざらん。

竹竿何ぞ嫋嫋【じょうじょう】たる,魚尾何ぞ簁簁【しし】たる。

男兒は意氣を重んず,何ぞ錢刀を用いるを爲さん。

白頭吟 卓文君 <109-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩543 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1446

白頭吟 卓文君 <109-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩544 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1449

 

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

卓文君は、涕は両の眼から泉の水ようにあふれ出て、拭っても、拭っても頬から紫羅欄花の襟に落ちて濡れてしまって、乾くことがなかった。

紫羅 紫羅欄花 - アブラナ科の多年草。南ヨーロッパ原産。高さ約60センチメートル。葉は互生し長卵形。45月頃,茎頂に十字形花を総状に多数つける。観賞用に栽培し,花の色は白または紅紫色。

 

五更雞三唱,清晨白頭吟。

夜も眠れず、五更の声を聴き、鶏が朝を告げるのも三度も聞いた、清らかな空に日が昇り始める頃には、疲れつくして、この「白頭吟」をうたったのである。

五更雞三唱 五更の声を聴き、鶏が朝を告げるのも三度も聞いた。

 

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

長いため息をついてしまってからは、まだ若い黒髪なのに整えることもしなくなったし、悲しみに加え恨みに思うことはさらに深まるから晴天に向かってこの気持ちを訴える。

 

城崩杞梁妻,誰道土無心。

杞梁の妻は夫の遺体を抱えて城下で泣き続け十日後、妻の強い哀痛の情によって城壁が崩れてしまった、妻というもの夫に心がないということは誰もが言うことだ。

城崩杞梁妻 劉向.列女傳.卷四.齊杞梁妻。樂曲名。杞梁妻之妹朝月所作。

『列女伝・貞順伝(巻四)』

杞梁の妻は子がなく、親戚もいなかったため、夫が死んでから頼るべき人がいなくなった。妻は夫の遺体を抱えて城下で泣き続け、その姿は人々の心を動かし、道を通る者は皆涙を流した。

十日後、妻の強い哀痛の情によって城壁が崩れてしまった。

夫の葬儀・埋葬が終わってから、妻は「私はどこに行けばいいのか。婦人は誰かを頼りにしなければならない。父がいれば父に頼り、夫がいれば夫に頼り、子がいれば子に頼るものである。しかし今、上は父がおらず、中は夫がおらず、下は子もいないん。内に頼る者がいなければ誠意を明らかにさせ、外に頼る者がいなければ貞節を立てるものである(誰も頼る者がいないのに、誠意や貞操を棄てて生きるのは誤りである)。二人の夫に仕えることはできない(再婚することはできない)」と言い、淄水に身を投げて死んだ。

743年(27)李白341-#6 巻三19-《白頭吟》 341-#6Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(27)Ⅰ李白詩1672 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6908

李白  《白頭吟》#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

陳皇后は、後宮を母の公主と一緒になって、おもうままにし、その嫉妬深さとわがままを武帝に向け、衛子夫に向けた、そして起こした謀略が発覚し、寵愛を失い、長門宮に移された。そこで、司馬相如から千金で「詩賦」を買い、武帝に心情を訴え武帝を振り向かせることになった。この時司馬相如は、武帝からも、以前から相如の詩を読んでいて、高い評価画与えたのである。そのため相如は、蜀での貧しい時代、卓文君と酒場で酒を打った貧賤の時代のことを忘れてしまい、地位と裕福になったことで、妾の邸宅を作ったのである。司馬相如の求めに若い娘はみなこれに応じ、長安北の五陵の高級住宅地に妾邸を持ったのである、これによって卓文君の喜び愛し合う最高の時期は終焉をむかえたのである。

743年(27)李白341-#6 巻三19-《白頭吟》 341-#6Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-27Ⅰ李白詩1672 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6908

 

 

 
  2015年11月13日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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743年(27)李白341-#6 巻三19-《白頭吟》 341-#6Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(27)Ⅰ李白詩1672 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6908  
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  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
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韓愈100 -#5《 巻三20 永貞行》 #5 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1585> Ⅱ#5 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6909  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
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  孟郊 張籍          
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  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 766年-170#5杜甫 《1768 哭王彭州掄》#5 杜甫詩index-15-766年大暦元年55歲-170-#5 <1046> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6910  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
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  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 11顧夐 (改)《巻七26荷葉杯九首其五》『花間集』328全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-6912  
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#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江を東への碧水、成都の城郭の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

司馬相如は武帝の招きに応じて蜀を去り、武帝に謁見したのだが、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如を賢臣としてお迎えされ、だれよりもひかり輝句賢臣として迎えられて長安に入った。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

こうして司馬相如は、再び、郞に復職されて、高い評価の下に朝廷に入ったのである。武帝はこの時からその勢いをつけはじめていて、大空に羽ばたくほどのものであった。この武帝に、司馬相如はは並み居る文学者をしのいで高い評価を得た。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

陳皇后は、後宮を母の公主と一緒になって、おもうままにし、その嫉妬深さとわがままを武帝に向け、衛子夫に向けた、そして起こした謀略が発覚し、寵愛を失い、長門宮に移された。そこで、司馬相如から千金で「詩賦」を買い、武帝に心情を訴え武帝を振り向かせることになった。

この時司馬相如は、武帝からも、以前から相如の詩を読んでいて、高い評価画与えたのである。そのため相如は、蜀での貧しい時代、卓文君と酒場で酒を打った貧賤の時代のことを忘れてしまい、地位と裕福になったことで、妾の邸宅を作ったのである。

司馬相如の求めに若い娘はみなこれに応じ、長安北の五陵の高級住宅地に妾邸を持ったのである、これによって卓文君の喜び愛し合う最高の時期は終焉をむかえたのである。

#6

聞くならく 阿嬌 恩寵を失い,千金 賦を買うて 君王を要す と。

相如 貧賤日を憶わず,位 高く 金 多くして 私室を聘す。

茂陵の姝子 皆 求めらる,文君の歡愛 此に從って畢る。
#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

(下し文)
#6

聞くならく 阿嬌 恩寵を失い,千金 賦を買うて 君王を要す と。

相如 貧賤日を憶わず,位 高く 金 多くして 私室を聘す。

茂陵の姝子 皆 求めらる,文君の歡愛 此に從って畢る。

(現代語訳)
#6

陳皇后は、後宮を母の公主と一緒になって、おもうままにし、その嫉妬深さとわがままを武帝に向け、衛子夫に向けた、そして起こした謀略が発覚し、寵愛を失い、長門宮に移された。そこで、司馬相如から千金で「詩賦」を買い、武帝に心情を訴え武帝を振り向かせることになった。

この時司馬相如は、武帝からも、以前から相如の詩を読んでいて、高い評価画与えたのである。そのため相如は、蜀での貧しい時代、卓文君と酒場で酒を打った貧賤の時代のことを忘れてしまい、地位と裕福になったことで、妾の邸宅を作ったのである。

司馬相如の求めに若い娘はみなこれに応じ、長安北の五陵の高級住宅地に妾邸を持ったのである、これによって卓文君の喜び愛し合う最高の時期は終焉をむかえたのである。

(訳注)

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

陳皇后は、後宮を母の公主と一緒になって、おもうままにし、その嫉妬深さとわがままを武帝に向け、衛子夫に向けた、そして起こした謀略が発覚し、寵愛を失い、長門宮に移された。そこで、司馬相如から千金で「詩賦」を買い、武帝に心情を訴え武帝を振り向かせることになった。

 

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

この時司馬相如は、武帝からも、以前から相如の詩を読んでいて、高い評価画与えたのである。そのため相如は、蜀での貧しい時代、卓文君と酒場で酒を打った貧賤の時代のことを忘れてしまい、地位と裕福になったことで、妾の邸宅を作ったのである。

私室 妾邸をつくる。

 

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

司馬相如の求めに若い娘はみなこれに応じ、長安北の五陵の高級住宅地に妾邸を持ったのである、これによって卓文君の喜び愛し合う最高の時期は終焉をむかえたのである。

茂陵姝子皆見求 高級住宅街に。妾邸を持つこと。

歡愛 喜び愛し合う最高の時期のことを言う。

 

 

 

 

 

<長門賦> 司馬相如

孝武皇帝陳皇后,時得幸,頗妒,長門宮,愁悶悲思。聞蜀郡成都司馬相如,天下工爲文,奉黄金百斤,爲相如、文君取酒,因於解悲愁之辭,而相如爲文以悟主上。皇后復得幸,其辭曰:

 

夫何一佳人兮,步逍遙以自虞。魂逾佚而不反兮,形枯槁而獨居。

言我朝往而暮來兮,飲食樂而忘人。心慊移而不省故兮,交得意而相親。

伊予志之慢愚兮,怀貞愨之歡心。愿賜問而自進兮,得尚君之玉音。

奉虛言而望誠兮,期城南之离宮。修薄具而自設兮,君曾不肯乎幸臨。

廓獨潛而專精兮,天漂漂而疾風。登蘭台而遙望兮,神(心兄心兄,音晃)而外淫。

浮云郁而四塞兮,天窈窈而晝陰。雷殷殷而響起兮,聲象君之車音。

飄風回而起閨兮,舉帷幄之(示詹示詹,音摻)。桂樹交而相紛兮,芳酷烈之(門加言,重疊,音吟)。

孔雀集而相存兮,玄猿嘯而長吟。翡翠協翼而來萃兮,鸞鳳翔而北南

心憑噫而不舒兮,邪气壯而攻中。下蘭台而周覽兮,步從容于深宮。

正殿塊以造天兮,郁并起而穹崇。間徙倚于東廂兮,觀夫靡靡而無窮。

擠玉以撼金舖兮,聲噌(口+宏去□,音宏)而似鐘音。

 

刻木蘭以為榱兮,飾文杏以為梁。羅丰茸之游樹兮,离樓梧而相撐。

施瑰木之(木薄,音博)櫨兮,委參差以(木康,音康)梁。時仿佛以物類兮,象積石之將將。五色炫以相曜兮,爛耀耀而成光。

致錯石之瓴甓兮,象玳瑁之文章。張羅綺之幔帷兮,垂楚組之連綱。

 

撫柱楣以從容兮,覽曲台之央央。白鶴嗷以哀號兮,孤雌(足寺)于枯腸。

日黃昏而望兮,悵獨托于空堂。懸明月以自照兮,徂清夜于洞房。

援雅琴以變調兮,奏愁思之不可長。案流徵以卻轉兮,聲幼眇而复揚。

貫歷覽其中操兮,意慷慨而自(昂去日,音昂)。左右悲而垂淚兮,涕流离而從橫。

舒息悒而增欷兮,(足徙,音徙)履起而彷徨。揄長袂以自翳兮,數昔日之(侃下加言,音謙)殃。

無面目之可顯兮,遂思而就床。摶芬若以為枕兮,席荃蘭而(艸+臣,音chai3)香。

 

忽寢寐而夢想兮,魄若君之在旁。惕寤覺而無見兮,魂(□+王,重疊,音狂)若有亡。

眾雞鳴而愁予兮,起視月之精光。觀眾星之行列兮,畢昴出于東方。

望中庭之藹藹兮,若季秋之降霜。夜曼曼其若兮,怀郁郁其不可再更。

澹偃蹇而待曙兮,荒亭亭而复明。妾人竊自悲兮,究年而不敢忘。

 

冒頭「頗る妒む」とは、武帝が新たに衛子夫という別の女性を寵愛するようになって、陳皇后から遠ざかるようになったことに、陳皇后が激しく嫉妬したことを言います。その嫉妬深さが災いして、陳皇后は長門宮に退居させられたのです。

 

孝武帝の陳皇后は、当時、皇帝から寵愛を受けていたが、少々嫉妬深くて、陳皇后は嫉妬して衛氏の弟・衛青を誘拐しようしたり、あげくのはてに衛氏を呪い殺そうとした。事は発覚し、皇后を廃され長門宮と(皇帝と)別れて長門宮に移り、住まわされた。愁いに悶えて悲しみに沈んでいた。蜀郡の成都の司馬相如が天下の文章の名人だと聞いて、黄金百斤を出して、(その頃、酒屋を営んでいた)相如と(相如の妻の)卓文君から酒を買い上げてやり、悲愁を解きほぐす文章を作ってもらった。相如が文章を作って(陳皇后の気持ちを)主上に悟らせたので、陳皇后はまた寵愛されることになった。その文章は次のとおり。

 

なぜでしょう、一人の美人がさまよい歩いて物憂げにしています。魂は消え失せて元に返らぬように見え、肉体は枯れ果てた様子で一人ぽつねんと立っています。(かつて皇帝陛下は)「朕は朝に出座して暮には帰るだろう」と言ったのに、今は(新しい女と)飲食の楽しみを共にされ、私のことをお忘れになりました。御心は移り変わり、昔なじみ(の私)を省みず、気に入りの人と交わって親しくされています。(嫉妬深い)私の心の愚かさよ、私はまじめな素直さを胸に抱いていますのに。ただ御下問を賜って参上し、陛下のお言葉をいただきたいとのみ願っています。

陛下の虚しいお言葉をいただいて、まことのことかと待ち望み、城の南の離宮に(陛下を)お待ちしました。粗末な料理をつくろって用意していましたのに、陛下は一向におでまし下さろうとなさいません。むなしく一人隠れて心を鎮めておりますと、天にはひゅうひゅうと疾風が吹いています。蘭台に登ってはるかに見渡せば、心はうつろになって外界に脱け出ます。浮雲は重なりながら辺りに塞がり、天は深々として昼もなお暗く、雷は殷々と響き渡って、その音は陛下の車の響きに似ています。飄風は吹きめぐって部屋に舞い立ち、カーテンをひらひらと吹き上げます。桂の樹は枝茂く重なり合って、ぷんぷんと香りを漂わせます。孔雀たちは集まって(私を)憐れんでくれて、猿たちは鳴いて声長く歌います。翡翠(かわせみ)は翼を収めて集まって来て、鸞鳥と鳳凰は北に南に飛び交います。

心は結ぼれて晴れません。不満な気持ちが沸いて来て胸の内を責めつけます。蘭台より下りて辺りを見渡し、奥御殿へと静かに歩みます。正殿は高々と天まで届き、大きな柱が並び建てられて、彎形の御殿となっています。しばらく東の渡殿をさまよっていますと、こまごまと美しく限りなく続く建物が見えます。

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李白  《白頭吟》#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

濯錦江を東への碧水、成都の城郭の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。司馬相如は武帝の招きに応じて蜀を去り、武帝に謁見したのだが、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如を賢臣としてお迎えされ、だれよりもひかり輝句賢臣として迎えられて長安に入った。こうして司馬相如は、再び、郞に復職されて、高い評価の下に朝廷に入ったのである。武帝はこの時からその勢いをつけはじめていて、大空に羽ばたくほどのものであった。この武帝に、司馬相如はは並み居る文学者をしのいで高い評価を得た。

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年:743年天寶二年43歳 94-22

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    白頭吟

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              錦江 (劍南道北部 益州 成都)           

長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿               

金城 (京畿道 京兆府 金城) 別名:興平、槐里           

青陵臺 (河南道 鄆州 須昌)             

 

 

白頭吟 #1

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。) #1

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。

それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。

此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

(白頭吟) #1

錦水 東北より流る,波蕩 雙鴛鴦。

雄は巢う 漢宮の樹,雌は弄す 秦草の芳。

寧ろ萬死を同じゅうして 綺翼を碎くも,不忍びず 雲間 兩つながら分張するを。

 阿嬌 嬌妒,獨長門して 日暮
#2

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。

そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。

相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。

かくて、司馬相加は、多分の金が手元に残ると、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。

一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

この金で、茂陵の女子を聘して妾としようとした。気の毒なのは卓文君で、おのが境涯を悲んで、「白頭吟」と題する詩を作って相如に贈った。

但だ願ふ、君恩、妾を顧みること深きを、豈に惜まむや、黄金、詞賦を買ふを。

相如、賦を作って黄金を得たり、丈夫、新を好んで、異心多し。

一朝 將に聘せんとす茂陵の女、文君因って贈る白頭の吟。

#3

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

しかし、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

菟絲固無情,隨風任傾倒。

かの兎糸は、もとより無情の物で、始終風に随って、右に左にと、何処へでも傾倒する。

誰使女蘿枝,而來強縈抱。

そこで、立派な丈夫な木にでも身を寄せたら、先ず幸いが、女羅といふ同じ様な蔦の枝へ持って往って喰付いたから、どうにも仕方がない。

兩草猶一心,人心不如草。

元來、女子は、もとより人に頼るべきもので、その相手が異心を持たぬ人であれば善いが、女蘿の如く、同じく他に巻き付きたがるものでは仕方がないので、現に相如は茂陵の女に心を寄せて、頼み甲斐なきものと成り果てて仕舞った。

#3

東流は西歸の水と作らず,落花 辭條をして故林を羞ず。

菟絲 固もと情無し,風に隨って傾倒に任す。

誰か女蘿の枝をして,而來 強いて縈抱せしむ。

兩草 猶お一心,人心は草に如かず。

#4

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなどしないでおいてください。

且留琥珀枕,或有夢來時。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。

しかし、おもへば、それは未練というもので、たとえにも言う通り、一旦覆した水は、元の盃に満たそうと思っても、到底かえりはしないので、妾もひとたび君に棄てられた上は、重ねて歸ってくることはできないことであろう。むかしから、貧賤の中こそ、糟糠の妻は決して棄てないと云って居るものの、得意に成って相いそむかないものは、ほとんどない。

古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。

ただ、韓朋は其妻を奪われて、宋の暴君、康王のために殺され、そして、その妻なるものも、亦た青陵臺の上から投身して夫に殉じたというが、これこそ真に相い負かざるもので、その他は、富貴の位地に至れば、容易に其舊を忘れるものばかり、今更ながら、人心はまことにたのみ難く、わが今日の不幸も、致方ないものとして、断念するほかはない。

#4

卷く莫れ 龍鬚の席,從かす他の網絲を生ずるに。

且つ琥珀の枕を留めよ,或は夢の來る時有らん。

覆水 再び收むるも 豈に杯に滿たんや,棄妾 已に去って 重ねて迴り難し。

古來 得意 相い負かず,祗だ今 惟だ見る 青陵臺。
#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

濯錦江を東への碧水、成都の城郭の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

司馬相如は武帝の招きに応じて蜀を去り、武帝に謁見したのだが、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如を賢臣としてお迎えされ、だれよりもひかり輝句賢臣として迎えられて長安に入った。

こうして司馬相如は、再び、郞に復職されて、高い評価の下に朝廷に入ったのである。武帝はこの時からその勢いをつけはじめていて、大空に羽ばたくほどのものであった。この武帝に、司馬相如はは並み居る文学者をしのいで高い評価を得た。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

(下し文)
#5

錦水 東流し碧なり,波蕩 雙鴛鴦。

雄は巢う 漢宮の樹,雌は弄す 秦草の芳。

相如 蜀を去って武帝に謁し,赤車駟馬 輝光を生ず。

一朝 再び覽る大人の作,萬乘 忽ち雲を凌いで翔らんと欲す。


(現代語訳)
#5

濯錦江を東への碧水、成都の城郭の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

司馬相如は武帝の招きに応じて蜀を去り、武帝に謁見したのだが、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如を賢臣としてお迎えされ、だれよりもひかり輝句賢臣として迎えられて長安に入った。

こうして司馬相如は、再び、郞に復職されて、高い評価の下に朝廷に入ったのである。武帝はこの時からその勢いをつけはじめていて、大空に羽ばたくほどのものであった。この武帝に、司馬相如はは並み居る文学者をしのいで高い評価を得た。


(訳注) 

 白頭吟#5 

卓文君
前漢時代、臨の大富豪である卓王孫の娘。司馬相如と恋に落ちて駆け落ちをする、愛情溢れる女性とされる。

 

卓文君 白頭吟

皚如山上雪,皎若雲間月。聞君有兩意,故來相決絶。

今日斗酒會,明旦溝水頭。躞蹀御溝上,溝水東西流。

淒淒復淒淒,嫁娶不須啼。願得一心人,白頭不相離。

竹竿何嫋嫋,魚尾何簁簁。男兒重意氣,何用錢刀爲。

皚【がい】たること山上の雪の 如く,皎【こう】たること雲間の月の 若【ごと】し。

聞く君 兩意有りと,故【ことさら】に來たりて相い決絶す。

今日斗酒の會,明旦溝水の頭【ほとり】。

御溝の上に躞蹀【しょうちょう】すれば,溝水は東西に流る。

淒淒【せいせい】復た 淒淒たり,嫁娶【かしゅ】に啼【な】くを須【もち】いず。

願はくは一心の人を得て,白頭まで相い離れざらん。

竹竿何ぞ嫋嫋【じょうじょう】たる,魚尾何ぞ簁簁【しし】たる。

男兒は意氣を重んず,何ぞ錢刀を用いるを爲さん。

白頭吟 卓文君 <109-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩543 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1446

白頭吟 卓文君 <109-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩544 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1449

 

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江を東への碧水、成都の城郭の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

錦水 都江堰で分水された河川であり、成都を堀のようにめぐって流れる河川名で、成都を洪水から守り、利水の面でも有効な河川であった。西北から遊水地の部分を流れる河川を濯錦江という。杜甫草堂があったあたりをいう。

東流碧 錦江、成都の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。濯錦江ともいう、錦江の主流は東北から流れ下り合流して南下し、長江本流に合流する。

波蕩 波に浮いて、波のまにまに動かされるさま。

雙鴛鴦 司馬相如と卓文君のなれそめは蜀であったので、愛をはぐくんだところを表す語句である。

 

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

○この二句と次の二句は、司馬相如と卓文君が長安に上り、仲睦まじく暮らしたことを言う。

 

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

司馬相如は武帝の招きに応じて蜀を去り、武帝に謁見したのだが、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如を賢臣としてお迎えされ、だれよりもひかり輝句賢臣として迎えられて長安に入った。

卓王孫は自分の娘がこのような仕事をしていることを恥じ、親戚などからの勧めもあって、卓文君に召使いを100人、100万銭、前回の結婚の際の嫁入り道具を与えた。これで、司馬相如は結婚を認められたことになる。2人は成都に移り住み、土地を買い入れて、地主となった。ところで、中央では景帝が死に、武帝が皇帝の位についていた。武帝は景帝と違って、文学を大変好んでいた。あるとき、武帝は「子虚の賦」を読んで、大いに感動し、「この賦の作者と同じ時代に生きられなかったのは残念だ」とまで言った。武帝は「子虚の賦」が、ずっと昔の人によって書かれたと思っていたのだ。司馬相如と同郷である側近の楊得意という者が、「子虚の賦」の作者が今生きている人間で、名を司馬相如というと武帝に教えた。武帝は早速司馬相如を召した。そのとき、司馬相如は、「子虚の賦」が諸侯のことを書いた内容であり、天子(皇帝)にたてまつるのにはふさわしくないと言った。そして、司馬相如は天子にふさわしくなるように「子虚の賦」を改作して、「天子游獵賦(『文選』では「子虚賦」と「上林賦」に分割。「子虚・上林賦」と称されることが多い。)」として、武帝にたてまつった。武帝は大いに喜び、司馬相如を郞に復職させた。

《贈從弟南平太守之遙二首其一》「漢家天子馳駟馬。赤車蜀道迎相如。」(漢家の天子  駟馬(しば)を馳せ、赤軍もて蜀道に相如 (しょうじょ)を迎ふ。)唐王朝の天子は4頭立ての馬車で夜明けに出発した、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如の様な賢臣がお迎えをしている。

 

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

こうして司馬相如は、再び、郞に復職されて、高い評価の下に朝廷に入ったのである。武帝はこの時からその勢いをつけはじめていて、大空に羽ばたくほどのものであった。この武帝に、司馬相如はは並み居る文学者をしのいで高い評価を得た。

萬乘 「乗」は車の意。中国の周代、天子は直轄地から戦時に兵車1万台を徴発することができたところから》天子。また、天子の位。

凌雲/陵雲 雲をしのぐほどに高いこと。俗世を超越していることにいう。「飄々 (ひょうひょう) たる―の気」凌雲の志1 《「漢書」揚雄伝から》超然として俗世間の外にあろうとする志。2 《「後漢書」馮衍伝から》高い地位にのぼ ること。即位したから、太皇太后、皇太后の意向が強く働いていたために、即位当初は竇氏が実権を握っていた。大皇太后の死後、武帝はその力を発揮し始めていたという意。

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李白  白頭吟  #4

莫卷龍鬚席,從他生網絲。且留琥珀枕,或有夢來時。

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなどしないでおいてください。それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。しかし、おもへば、それは未練というもので、たとえにも言う通り、一旦覆した水は、元の盃に満たそうと思っても、到底かえりはしないので、妾もひとたび君に棄てられた上は、重ねて歸ってくることはできないことであろう。むかしから、貧賤の中こそ、糟糠の妻は決して棄てないと云って居るものの、得意に成って相いそむかないものは、ほとんどない。ただ、韓朋は其妻を奪われて、宋の暴君、康王のために殺され、そして、その妻なるものも、亦た青陵臺の上から投身して夫に殉じたというが、これこそ真に相い負かざるもので、その他は、富貴の位地に至れば、容易に其舊を忘れるものばかり、今更ながら、人心はまことにたのみ難く、わが今日の不幸も、致方ないものとして、断念するほかはない。

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年:743年天寶二年43歳 94-22

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    白頭吟

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              錦江 (劍南道北部 益州 成都)           

長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿               

金城 (京畿道 京兆府 金城) 別名:興平、槐里           

青陵臺 (河南道 鄆州 須昌)             

 

 

白頭吟 #1

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。) #1

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。

それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。

此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

(白頭吟) #1

錦水 東北より流る,波蕩 雙鴛鴦。

雄は巢う 漢宮の樹,雌は弄す 秦草の芳。

寧ろ萬死を同じゅうして 綺翼を碎くも,不忍びず 雲間 兩つながら分張するを。

 阿嬌 嬌妒,獨長門して 日暮
#2

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。

そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。

相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。

かくて、司馬相加は、多分の金が手元に残ると、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。

一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

この金で、茂陵の女子を聘して妾としようとした。気の毒なのは卓文君で、おのが境涯を悲んで、「白頭吟」と題する詩を作って相如に贈った。

但だ願ふ、君恩、妾を顧みること深きを、豈に惜まむや、黄金、詞賦を買ふを。

相如、賦を作って黄金を得たり、丈夫、新を好んで、異心多し。

一朝 將に聘せんとす茂陵の女、文君因って贈る白頭の吟。

#3

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

しかし、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

菟絲固無情,隨風任傾倒。

かの兎糸は、もとより無情の物で、始終風に随って、右に左にと、何処へでも傾倒する。

誰使女蘿枝,而來強縈抱。

そこで、立派な丈夫な木にでも身を寄せたら、先ず幸いが、女羅といふ同じ様な蔦の枝へ持って往って喰付いたから、どうにも仕方がない。

兩草猶一心,人心不如草。

元來、女子は、もとより人に頼るべきもので、その相手が異心を持たぬ人であれば善いが、女蘿の如く、同じく他に巻き付きたがるものでは仕方がないので、現に相如は茂陵の女に心を寄せて、頼み甲斐なきものと成り果てて仕舞った。

#3

東流は西歸の水と作らず,落花 辭條をして故林を羞ず。

菟絲 固もと情無し,風に隨って傾倒に任す。

誰か女蘿の枝をして,而來 強いて縈抱せしむ。

兩草 猶お一心,人心は草に如かず。

#4

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,或有夢來時。

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。

古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなどしないでおいてください。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。

しかし、おもへば、それは未練というもので、たとえにも言う通り、一旦覆した水は、元の盃に満たそうと思っても、到底かえりはしないので、妾もひとたび君に棄てられた上は、重ねて歸ってくることはできないことであろう。むかしから、貧賤の中こそ、糟糠の妻は決して棄てないと云って居るものの、得意に成って相いそむかないものは、ほとんどない。

ただ、韓朋は其妻を奪われて、宋の暴君、康王のために殺され、そして、その妻なるものも、亦た青陵臺の上から投身して夫に殉じたというが、これこそ真に相い負かざるもので、その他は、富貴の位地に至れば、容易に其舊を忘れるものばかり、今更ながら、人心はまことにたのみ難く、わが今日の不幸も、致方ないものとして、断念するほかはない。

#4

卷く莫れ 龍鬚の席,從かす他の網絲を生ずるに。

且つ琥珀の枕を留めよ,或は夢の來る時有らん。

覆水 再び收むるも 豈に杯に滿たんや,棄妾 已に去って 重ねて迴り難し。

古來 得意 相い負かず,祗だ今 惟だ見る 青陵臺。
#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,或有夢來時。

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。

古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。


(下し文)
#4

卷く莫れ 龍鬚の席,從かす他の網絲を生ずるに。

且つ琥珀の枕を留めよ,或は夢の來る時有らん。

覆水 再び收むるも 豈に杯に滿たんや,棄妾 已に去って 重ねて迴り難し。

古來 得意 相い負かず,祗だ今 惟だ見る 青陵臺。

(現代語訳)
#4

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなどしないでおいてください。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。

しかし、おもへば、それは未練というもので、たとえにも言う通り、一旦覆した水は、元の盃に満たそうと思っても、到底かえりはしないので、妾もひとたび君に棄てられた上は、重ねて歸ってくることはできないことであろう。むかしから、貧賤の中こそ、糟糠の妻は決して棄てないと云って居るものの、得意に成って相いそむかないものは、ほとんどない。

ただ、韓朋は其妻を奪われて、宋の暴君、康王のために殺され、そして、その妻なるものも、亦た青陵臺の上から投身して夫に殉じたというが、これこそ真に相い負かざるもので、その他は、富貴の位地に至れば、容易に其舊を忘れるものばかり、今更ながら、人心はまことにたのみ難く、わが今日の不幸も、致方ないものとして、断念するほかはない。


(訳注) #4

白頭吟#4

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。)

白頭吟 白頭吟は古楽府の題である。

 

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなどしないでおいてください。

7】 龍鬚席 温鑑証に「龍顔革む以て織り成す、今推上安産府の居人、多く能く寵愛席も織る」とある。

 

且留琥珀枕,或有夢來時。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。

8】 琥珀枕 太平御覧、廣雅曰:「琥珀珠也、生地中、其上及旁不生、草淺者四五尺、深者八九尺、大如斛、削去皮、成琥珀。初時如桃膠、凝堅乃成。其方人以為枕。出博南縣。」(琥珀は珠なり、地中に生ず、其の上及び旁に草を生ぜず、淺き者は四五尺、深き者は八九尺、大 斛の如く、皮を削り去れば、琥珀を成す。初めの時は桃膠の如く、凝堅 乃ち成る。其の方人 以て枕と為す。博南縣に出ず。)とある。

 

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。

しかし、おもへば、それは未練というもので、たとえにも言う通り、一旦覆した水は、元の盃に満たそうと思っても、到底かえりはしないので、妾もひとたび君に棄てられた上は、重ねて歸ってくることはできないことであろう。むかしから、貧賤の中こそ、糟糠の妻は決して棄てないと云って居るものの、得意に成って相いそむかないものは、ほとんどない。

9】 覆水再收豈滿杯 後漢書「苗謂進曰:「始共從南陽來,俱以貧賤,依省以致貴富。國家之事,亦何容易!覆水不可收。宜深思之,且與省和也。」何苗、兄進に謂つて日く、覆水収めず、宜しく深く之を思ふべし)とある。

 

古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。

ただ、韓朋は其妻を奪われて、宋の暴君、康王のために殺され、そして、その妻なるものも、亦た青陵臺の上から投身して夫に殉じたというが、これこそ真に相い負かざるもので、その他は、富貴の位地に至れば、容易に其舊を忘れるものばかり、今更ながら、人心はまことにたのみ難く、わが今日の不幸も、致方ないものとして、断念するほかはない。

10青陵臺 《獨異志》卷中引晉干寶《搜神記》:「宋康王以韓朋妻美而萃之,使朋築青陵台,然後殺之,其妻請臨喪,遂投身而死。王令分埋台左右,期年,各生一梓樹,及大,樹枝條相交,有二鳥哀鳴其上,因號之曰相思樹。」(宋の康王 韓朋の妻美なるを以て 之を萃い,朋をして青陵台を築かしめ,然る後 之を殺す,其の妻 喪に臨むを請い,遂に身を投じて死す。王 令じて台の左右に分埋す,期年にして,各の一梓樹を生ず,大なるに及び,樹の枝條 相い交る,二鳥有り 其の上に哀鳴す,因って之を號して相い思樹と曰う。)

 

●康王(生まれ未詳- 紀元前286 在位紀元前329 - 紀元前286年)は、中国戦国時代の宋の第34代で最後の国君。姓は子、諱は偃、諡は康。桓公の子。紀元前328年に兄の宋公剔成君(てきせいくん)を軍事クーデターで追放し、君位を簒奪し宋君となる。そのためか剔成君には諡号が与えられていない。

偃が即位した紀元前4世紀末の宋国は楚や斉、魏の3国に挟まれ、常にこれら強大国の情勢に国政が左右されていた。第20代襄公以後目立った活躍の場もなく、弱小国に成り下がっていた。

宋君偃はこうした情勢の中、即位10年の紀元前320年、各諸侯が王号を相次いで称する時勢に乗るかのように、宋君としては最初で最後の王号を名乗った。これ以後、宋王の偃は斉の属国の滕(姫姓)を滅ぼすなど、周辺各国に対して自国の国勢に見合わぬ軍事行動を展開した。このことで外政に自信をつけた宋王偃は、内政でも神を祀った祠を焼き尽くし、大地に鞭打ったり、民衆に暴虐を行い、臣下の美貌の妻を奪ったり、諫言する臣下には容赦ない仕打ちを行うなど恐怖政治を敷き、ほしいままに暴政をおこなった。そのため、国の内外から「宋の桀」と呼ばれたという。

743年(24)李白341-#3 巻三19-《白頭吟》#3 341-#3Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(24)Ⅰ李白詩1669 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6893

李白  白頭吟 #3   

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。菟絲固無情,隨風任傾倒。

誰使女蘿枝,而來強縈抱。兩草猶一心,人心不如草。

しかし、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。かの兎糸は、もとより無情の物で、始終風に随って、右に左にと、何処へでも傾倒する。そこで、立派な丈夫な木にでも身を寄せたら、先ず幸いが、女羅といふ同じ様な蔦の枝へ持って往って喰付いたから、どうにも仕方がない。元來、女子は、もとより人に頼るべきもので、その相手が異心を持たぬ人であれば善いが、女蘿の如く、同じく他に巻き付きたがるものでは仕方がないので、現に相如は茂陵の女に心を寄せて、頼み甲斐なきものと成り果てて仕舞った。

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白頭吟 #1

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。) #1

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。

それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。

此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

(白頭吟) #1

錦水 東北より流る,波蕩 雙鴛鴦。

雄は巢う 漢宮の樹,雌は弄す 秦草の芳。

寧ろ萬死を同じゅうして 綺翼を碎くも,不忍びず 雲間 兩つながら分張するを。

 阿嬌 嬌妒,獨長門して 日暮
#2

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。

そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。

相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。

かくて、司馬相加は、多分の金が手元に残ると、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。

一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

この金で、茂陵の女子を聘して妾としようとした。気の毒なのは卓文君で、おのが境涯を悲んで、「白頭吟」と題する詩を作って相如に贈った。

但だ願ふ、君恩、妾を顧みること深きを、豈に惜まむや、黄金、詞賦を買ふを。

相如、賦を作って黄金を得たり、丈夫、新を好んで、異心多し。

一朝 將に聘せんとす茂陵の女、文君因って贈る白頭の吟。

#3

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

菟絲固無情,隨風任傾倒。

誰使女蘿枝,而來強縈抱。

兩草猶一心,人心不如草。

しかし、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

かの兎糸は、もとより無情の物で、始終風に随って、右に左にと、何処へでも傾倒する。

そこで、立派な丈夫な木にでも身を寄せたら、先ず幸いが、女羅といふ同じ様な蔦の枝へ持って往って喰付いたから、どうにも仕方がない。

元來、女子は、もとより人に頼るべきもので、その相手が異心を持たぬ人であれば善いが、女蘿の如く、同じく他に巻き付きたがるものでは仕方がないので、現に相如は茂陵の女に心を寄せて、頼み甲斐なきものと成り果てて仕舞った。

#3

東流は西歸の水と作らず,落花 辭條をして故林を羞ず。

菟絲 固もと情無し,風に隨って傾倒に任す。

誰か女蘿の枝をして,而來 強いて縈抱せしむ。

兩草 猶お一心,人心は草に如かず。

#4

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,或有夢來時。

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。

古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。

#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

菟絲固無情,隨風任傾倒。

誰使女蘿枝,而來強縈抱。

兩草猶一心,人心不如草。

(下し文)
#3

東流は西歸の水と作らず,落花 辭條をして故林を羞ず。

菟絲 固もと情無し,風に隨って傾倒に任す。

誰か女蘿の枝をして,而來 強いて縈抱せしむ。

兩草 猶お一心,人心は草に如かず。


(現代語訳)
#3

しかし、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

かの兎糸は、もとより無情の物で、始終風に随って、右に左にと、何処へでも傾倒する。

そこで、立派な丈夫な木にでも身を寄せたら、先ず幸いが、女羅といふ同じ様な蔦の枝へ持って往って喰付いたから、どうにも仕方がない。

元來、女子は、もとより人に頼るべきもので、その相手が異心を持たぬ人であれば善いが、女蘿の如く、同じく他に巻き付きたがるものでは仕方がないので、現に相如は茂陵の女に心を寄せて、頼み甲斐なきものと成り果てて仕舞った。


(訳注) #3

白頭吟3

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。)

白頭吟 白頭吟は古楽府の題である。

 

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

しかし、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

○この二句 《孟子告子篇》告子曰、「性猶湍水也。決諸東方、則東流、決諸西方、則西流。人性之無分於善不善也、猶 水之無分於東西也。」孟子曰、「水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。」

 

菟絲固無情,隨風任傾倒。

かの兎糸は、もとより無情の物で、始終風に随って、右に左にと、何処へでも傾倒する。

6】 兎絲 爾雅に「唐蒙に女蘿、女蘿に兎絲」とある。王埼の註に「古今、その二物たるを疑ふもの多し、博物志、魏の文帝の記するところ、静物相似乱するもの、女蘿は兎絲に寄生し、兎絲は木の上に寄生し、根、地に著かずと。然らば女蘿は兎絲の上に寄生するものあり、釋草の女蘿兎絲、或は亦た此義のみ」とある。李白は、ここで二草を別の物と見て居る。・女蘿:一種蔓生植物。 ・菟絲:一年生草本纏繞性寄生植物,無根無葉。 女蘿附菟絲:以菟絲和女蘿纏繞,比夫妻或情人的關係

 

誰使女蘿枝,而來強縈抱。

そこで、立派な丈夫な木にでも身を寄せたら、先ず幸いが、女羅といふ同じ様な蔦の枝へ持って往って喰付いたから、どうにも仕方がない。

 

兩草猶一心,人心不如草。

元來、女子は、もとより人に頼るべきもので、その相手が異心を持たぬ人であれば善いが、女蘿の如く、同じく他に巻き付きたがるものでは仕方がないので、現に相如は茂陵の女に心を寄せて、頼み甲斐なきものと成り果てて仕舞った。

 

 

《孟子告子篇》性猶湍水也。告子曰:「性猶湍水也,決諸東方則東流,袂諸西方則西流。人性之無分於善不善也,猶水之無分於東西也。」孟子曰:「水信無分於東西。無分於上下乎?人性之善也,猶水之就下也。」

性は猶ほ湍水のごときなり。告子曰く、「性は猶ほ湍水のごときなり。

諸れを東方に決すれば、則ち東流し、諸を西方に決すれば、則ち西流す。

人性の善不善を分かつこと無きは、猶ほ水の東西を分かつこと無きがごときなり。」と。

孟子曰く、「水は信に東西を分かつこと無きも、上下を分かつこと無からんや。

人性の善なるは、猶ほ水の下きに就くがごときなり。

人善ならざること有る無く、水下らざること有る無し。

今夫れ水は、搏ちて之を躍らせば、顙を過ごさしむべく、激して之を行れば、山に在らしむべし。

是れ豈に水の性ならんや。其の勢則ち然るなり。

人の不善を為さしむべきは、其の性も亦(また)猶ほ是(か)くのごときなり。」と。

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李白  白頭吟 #2   

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

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年:743年天寶二年43歳 94-22

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    白頭吟

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              錦江 (劍南道北部 益州 成都)           

長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿  

金城 (京畿道 京兆府 金城) 別名:興平、槐里             

青陵臺 (河南道 鄆州 須昌)              

 

 

白頭吟 #1

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。

此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。) #1

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。

しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

(白頭吟) #1

錦水 東北より流る,波蕩 雙鴛鴦。

雄は巢う 漢宮の樹,雌は弄す 秦草の芳。

寧ろ萬死を同じゅうして 綺翼を碎くも,不忍びず 雲間 兩つながら分張するを。

 阿嬌 嬌妒,獨長門して 日暮
#2

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。

相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。

一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。

かくて、司馬相加は、多分の金が手元に残ると、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。

この金で、茂陵の女子を聘して妾としようとした。気の毒なのは卓文君で、おのが境涯を悲んで、「白頭吟」と題する詩を作って相如に贈った。しかし、東に向つて流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

但だ願ふ、君恩、妾を顧みること深きを、豈に惜まむや、黄金、詞賦を買ふを。

相如、賦を作って黄金を得たり、丈夫、新を好んで、異心多し。

一朝 將に聘せんとす茂陵の女、文君因って贈る白頭の吟。

#3

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

菟絲固無情,隨風任傾倒。

誰使女蘿枝,而來強縈抱。

兩草猶一心,人心不如草。

#4

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,或有夢來時。

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。

古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。

#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

長安城図 作図00 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。

相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。

一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

(下し文)
#2

但だ願ふ、君恩、妾を顧みること深きを、豈に惜まむや、黄金、詞賦を買ふを。

相如、賦を作って黄金を得たり、丈夫、新を好んで、異心多し。

一朝 將に聘せんとす茂陵の女、文君因って贈る白頭の吟。

(現代語訳)
#2

そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。

かくて、司馬相加は、多分の金が手元に残ると、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。

この金で、茂陵の女子を聘して妾としようとした。気の毒なのは卓文君で、おのが境涯を悲んで、「白頭吟」と題する詩を作って相如に贈った。しかし、東に向つて流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。


(訳注)

白頭吟#2

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。)

白頭吟 白頭吟は古楽府の題である。

 

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。

そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。

5】黃金買詞賦 司馬相如《長門賦·序》「孝武皇帝陳皇后時得幸,頗妒。別在長門宮,愁悶悲思。聞蜀郡成都司馬相如天下工為文,奉黃金百斤為相如文君取酒,因于解悲愁之辭。而相如為文以悟主上,陳皇后復得親幸。」

 

相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。

かくて、司馬相加は、多分の金が手元に残ると、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。

5】相如作賦 司馬相如の長門賦の序に「孝武皇帝の陳皇后、時に幸を得たるも、頗る嫉妬、別に長門官に在り、愁悶悲思、蜀郡成都の司馬相如、天下文を爲るに工なるを聞き、黄金百斤を奉じて、相如の為にす。文君酒を取り、因って悲愁を解くの辭を干む。而して、相如文を爲り、以て主上を悟らしめ、皇后復た親幸を得たり」とある。

 

一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

この金で、茂陵の女子を聘して妾としようとした。気の毒なのは卓文君で、おのが境涯を悲んで、「白頭吟」と題する詩を作って相如に贈った。しかし、東に向つて流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

卓文君
前漢時代、臨の大富豪である卓王孫の娘。司馬相如と恋に落ちて駆け落ちをする、愛情溢れる女性とされる。

 

卓文君 白頭吟

皚如山上雪,皎若雲間月。聞君有兩意,故來相決絶。

今日斗酒會,明旦溝水頭。躞蹀御溝上,溝水東西流。

淒淒復淒淒,嫁娶不須啼。願得一心人,白頭不相離。

竹竿何嫋嫋,魚尾何簁簁。男兒重意氣,何用錢刀爲。

わたしの心はこれだけ真っ白で、山上の雪のようです、そして女としても、雲間に輝く清らかで澄んだ白い月光で、立派に貞操を守っている女なのです。あなたが、心情を他人に遣るということが聞こえてきます。わたしはほとほと愛想が尽きたので、わざわざあなたと別れるためにやって来たのです。 今日は二人にとっての最後のお酒を飲む機会だし、明日になれば堀端のほとりを歩くだけなのです。お堀の畔をとぼとぼ歩くでしょう、すると掘割の水は西から東へ別れ、当たり前のように流れていくことでしょう。 寒く冷ややかな上にも寒く冷ややかであっても、嫁入りは、必ずしも啼き悲しむものではない。願うことなら嘘をつかないで愛し続けてくれる男夫を見つけて。白髪頭になるまで添い遂げたいのです。釣り竿は何としなやかなことではないか。夫は妻のことを思うべきです。女性は、こんなにも生き生きとしてすばらしいのに、どうして妻のすばらしさに気づかないのか。男とは、金銭ではなくて情義を重んずるものだろうにどうして、銭金などをどうして用いようとするのだろうか。

皚【がい】たること山上の雪の 如く,皎【こう】たること雲間の月の 若【ごと】し。

聞く君 兩意有りと,故【ことさら】に來たりて相い決絶す。

今日斗酒の會,明旦溝水の頭【ほとり】。

御溝の上に躞蹀【しょうちょう】すれば,溝水は東西に流る。

淒淒【せいせい】復た 淒淒たり,嫁娶【かしゅ】に啼【な】くを須【もち】いず。

願はくは一心の人を得て,白頭まで相い離れざらん。

竹竿何ぞ嫋嫋【じょうじょう】たる,魚尾何ぞ簁簁【しし】たる。

男兒は意氣を重んず,何ぞ錢刀を用いるを爲さん。

白頭吟 卓文君 <109-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩543 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1446

白頭吟 卓文君 <109-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩544 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1449

743年(22)李白341 巻三19-《白頭吟》(錦水東北流,) 341Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(22) <李白341> Ⅰ李白詩1664 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6868

李白  白頭吟 #1   

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。) #1

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

743年(22)李白341 巻三19-《白頭吟》(錦水東北流,) 341Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-22) <李白341> Ⅰ李白詩1664 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6868

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-22

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    白頭吟

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              錦江 (劍南道北部 益州 成都)           

長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿  

金城 (京畿道 京兆府 金城) 別名:興平、槐里             

青陵臺 (河南道 鄆州 須昌)              

 

 

白頭吟 #1

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。

此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。) #1

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。

しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

(白頭吟) #1

錦水 東北より流る,波蕩 雙鴛鴦。

雄は巢う 漢宮の樹,雌は弄す 秦草の芳。

寧ろ萬死を同じゅうして 綺翼を碎くも,不忍びず 雲間 兩つながら分張するを。

 阿嬌 嬌妒,獨長門して 日暮
#2

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。

相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。

一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

#3

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

菟絲固無情,隨風任傾倒。

誰使女蘿枝,而來強縈抱。

兩草猶一心,人心不如草。

#4

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,或有夢來時。

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。

古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。

#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

白頭吟

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。

此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

(下し文)
(白頭吟) #1

錦水 東北より流る,波蕩 雙鴛鴦。

雄は巢う 漢宮の樹,雌は弄す 秦草の芳。

寧ろ萬死を同じゅうして 綺翼を碎くも,不忍びず 雲間 兩つながら分張するを。

此の時 阿嬌 正に嬌妒,獨り長門に坐して 日暮を愁う。

(現代語訳)
(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。) #1

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。

しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

成都関連地図 00成都561
(訳注)

白頭吟 #1

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。)

白頭吟 白頭吟は古楽府の題である。

杜甫『奉贈王中允維』
中允聲名久,如今契闊深。
共傳收庾信,不比得陳琳。
一病緣明主,三年獨此心。
窮愁應有作,試誦白頭吟。
○白頭吟 漢の司馬相如の妻卓文君が夫が妾を買おうとするのをきいて賦した「白頭吟」を引き、王維の詩が天子に対して二心なきをいうのはこれと似ている。又、飽照の「白頭吟」の「直きこと朱糸の縄の如く、清きこと玉壷の氷の如し」といい、身の清直で潔白な旨を表現する。

奉贈王中允維 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 254

『古別離』孟郊
欲別牽郞衣,郞今到何處。
不恨歸來遲,莫向臨邛去。
唐宋詩203 Ⅶ孟郊(孟東野)紀頌之の漢詩ブログ 「古別離」孟郊(8

○臨邛 〔りんきょう〕司馬相如が卓文君と恋に落ちて駆け落ちを始めたところ。男を惑わす女の居る所の意で使う。臨邛は、秦の時代に置かれた県名。現・四川省邛耒県。 ○去 行く。去る。

卓文君
前漢時代、臨の大富豪である卓王孫の娘。司馬相如と恋に落ちて駆け落ちをする、愛情溢れる女性とされる。

 

卓文君 白頭吟

皚如山上雪,皎若雲間月。聞君有兩意,故來相決絶。

今日斗酒會,明旦溝水頭。躞蹀御溝上,溝水東西流。

淒淒復淒淒,嫁娶不須啼。願得一心人,白頭不相離。

竹竿何嫋嫋,魚尾何簁簁。男兒重意氣,何用錢刀爲。

皚【がい】たること山上の雪の 如く,皎【こう】たること雲間の月の 若【ごと】し。

聞く君 兩意有りと,故【ことさら】に來たりて相い決絶す。

今日斗酒の會,明旦溝水の頭【ほとり】。

御溝の上に躞蹀【しょうちょう】すれば,溝水は東西に流る。

淒淒【せいせい】復た 淒淒たり,嫁娶【かしゅ】に啼【な】くを須【もち】いず。

願はくは一心の人を得て,白頭まで相い離れざらん。

竹竿何ぞ嫋嫋【じょうじょう】たる,魚尾何ぞ簁簁【しし】たる。

男兒は意氣を重んず,何ぞ錢刀を用いるを爲さん。

白頭吟 卓文君 <109-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩543 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1446

白頭吟 卓文君 <109-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩544 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1449

 

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

錦水 都江堰で分水された河川であり、成都を堀のようにめぐって流れる河川名で、成都を洪水から守り、利水の面でも有効な河川であった。西北から遊水地の部分を流れる河川を濯錦江という。杜甫草堂があったあたりをいう。

東北流 錦江の主流は東北から流れ下り、成都の南で西北からの濯錦江と合流して南下し、長江本流に合流する。

波蕩 波に浮いて、波のまにまに動かされるさま。

雙鴛鴦 司馬相如と卓文君のなれそめは蜀であったので、愛をはぐくんだところを表す語句である。

 

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

○この二句と次の二句は、司馬相如と卓文君が長安に上り、仲睦まじく暮らしたことを言う。

 

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。

それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。

兩分張 二つの鴛鴦が、司馬相如と卓文君が分離することがなかったということ。

 

此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

此時 司馬相如が武帝に仕えた期間。武帝在位期間は前14139 - 87329日である。武帝は「子虚の賦」を読んで、大いに感動し、「この賦の作者と同じ時代に生きられなかったのは残念だ」とまで言った。武帝は「子虚の賦」が、ずっと昔の人によって書かれたと思っていたのだ。司馬相如と同郷である側近の楊得意という者が、「子虚の賦」の作者が今生きている人間で、名を司馬相如というと武帝に教えた。

武帝は早速司馬相如を召した。そのとき、司馬相如は、「子虚の賦」が諸侯のことを書いた内容であり、天子(皇帝)にたてまつるのにはふさわしくないと言った。そして、司馬相如は天子にふさわしくなるように「子虚の賦」を改作して、「天子游獵賦(『文選』では「子虚賦」と「上林賦」に分割。「子虚・上林賦」と称されることが多い。)」として、武帝にたてまつった。武帝は大いに喜び、司馬相如を郞に復職させた。

阿嬌正嬌妒 幼名、阿嬌。陳皇后(生没年不詳)は、前漢の武帝の最初の皇后。武帝の従姉妹に当たる。母は武帝の父である景帝の同母姉の館陶公主(中国語版)(堂邑長公主)劉嫖、父は堂邑侯陳午である。館陶公主は娘を皇太子に娶わせようと思ったが、当時の皇太子である劉栄の母栗姫(中国語版)が館陶公主と仲が悪かった。そこで館陶公主は景帝に王夫人の子である劉徹(武帝)を褒め、王夫人を皇后、劉徹を皇太子にすることに成功した。

武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来なかった。一方で衛子夫が武帝に寵愛されたと聞くと、皇后は彼女の死を願い、一族も弟の衛青を連れ去り監禁するほどだった。皇后は呪術を用いて呪い、それが発覚して元光5年(紀元前130年)に廃位された。

母の館陶公主は武帝の姉の平陽公主(中国語版)に「皇帝は私がいなければ皇太子になれなかったのに、どうして我が娘を捨てるのだ」と訊いたが、平陽公主は「子が出来ないからです」と答えた。皇后は子が出来るようにと医者に多額の金を使ったが、結局子は出来なかった。

十数年後に陳皇后のため、衛子夫に毒を盛ったことが発覚し、館陶公主が死罪を受け、その数年後には陳皇后も死亡した。

獨坐長門愁日暮 当初死罪を言い渡されたが、長門宮に幽閉され、獨り坐して過ごし、愁いの後にそのままそこで死を迎える。

長安城図 作図00 

 

 

『史記・司馬相如列傳』

會梁孝王卒,相如歸,而家貧,無以自業。素與臨令王吉相善,吉曰:『長卿(司馬相如の字)久宦遊不遂,而來過我。』於是相如往,舍都亭。臨令繆爲恭敬,日往朝相如。相如初尚見之,後稱病,使從者謝吉,吉愈益謹肅。臨中多富人,而卓王孫家僮八百人,程鄭亦數百人,二人乃相謂曰:『令有貴客,爲具召之。』并召令。令既至,卓氏客以百數。至日中,謁司馬長卿(司馬相如の字),長卿謝病不能往,臨令不敢嘗食,自往迎相如。相如不得已,彊往,一坐盡傾。酒酣,臨令前奏琴曰:「竊聞長卿(司馬相如の字)好之,願以自娯。」相如辭謝,爲鼓一再行。是時卓王孫有女(卓)文君新寡,好音,故相如繆與令相重,而以琴心挑之。相如之臨,從車騎,雍容閒雅甚都;及飮卓氏,弄琴,(卓)文君竊從戸窺之,心悅而好之,恐不得當也。既罷,相如乃使人重賜文君侍者通殷勤。文君夜亡奔相如,相如乃與馳歸成都。家居徒四壁立。卓王孫大怒曰:『女至不材,我不忍殺,不分一錢也。』人或謂王孫,王孫終不聽。文君久之不樂,曰:『長卿第倶如臨,從昆弟假貸猶足爲生,何至自苦如此!』相如與倶之臨,盡賣其車騎,買一酒舍酒,而令文君當鑪。相如身自著犢鼻褌,與保庸雜作,滌器於市中。卓王孫聞而恥之,爲杜門不出。昆弟諸公更謂王孫曰:『有一男兩女,所不足者非財也。今文君已失身於司馬長卿,長卿故倦游,雖貧,其人材足依也,且又令客,獨奈何相辱如此!』卓王孫不得已,分予文君僮百人,錢百萬,及其嫁時衣被財物。文君乃與相如歸成都,買田宅,爲富人。

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李白  設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭雉子斑【雉子斑】#2

乍向草中耿介死,不求黃金籠下生。天地至廣大,何惜遂物情。

善卷讓天子,務光亦逃名。所貴曠士懷,朗然合太清。
そもそも雉は、耿介な鳥であり、草中間において死んでゆくものであって、決して黄金細工の鶏籠に入れて飼われることを願ってはいない。他の鳥は、命大事とし、黄金籠中に残生を保つことをこの上もない栄誉と心得ているが、この雉は少しもそんなことは思ってもいない。そもそも、天地はいたって広大なもので、万物を包含し、各々その情を遂げさせるので、雉のように、原野草中でその生命を全うせしめるというもの、やはり、天地の徳である。人もまたその通りで、耿介をもって知られているのは、莊子にいう、舜が善卷に禅譲しようとしたときの故事、湯が卞隨や、務光に譲ろうとした時、彼らは固く断って山に入り、或は、投身し、或は石を背負って身を沈めたのである。これらは人間の曠士であり、彼らの胸懐は、朗然として太清に合し、即ち天意にかなったもので、これが即ち、貴いことであるのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-21

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    雉子斑【設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭】

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭【雉子斑】#1

(古来よりの伝説珍獣である辟邪を舞にし、邪悪を避けるを願い、雉の凛々しく勇壮な有様を曲にした歌をつくる)1

辟邪伎作鼓吹驚,雉子班之奏曲成,喔咿振迅欲飛鳴。

辟邪伎の舞楽がはじまると、鼓吹のこえが驚ろおどろしくきこえてくる,こうして合いの手の雉子班の奏曲へと移って演奏される,その曲の意味合いは、雉の飛ぶ様子を歌に作ってあるので、その音楽を聴いていると、そこへ雉がとびだしてくるようにおもわれる。雉は、喔咿と口を開き、羽ばたきをして、まさに鳴きだそうとする。

扇錦翼,雄風生。

ひとたび錦翼を扇動すれば、雄風颯然としておこるのである。

雙雌同飲啄,趫悍誰能爭。

メスとならんで、同じえさをついばみ、水を飲んでいて、その凛々しく勇まし気なすがたは、世に敵がないというあり様である。

#2

乍向草中耿介死,不求黃金籠下生。

そもそも雉は、耿介な鳥であり、草中間において死んでゆくものであって、決して黄金細工の鶏籠に入れて飼われることを願ってはいない。他の鳥は、命大事とし、黄金籠中に残生を保つことをこの上もない栄誉と心得ているが、この雉は少しもそんなことは思ってもいない。

天地至廣大,何惜遂物情。

そもそも、天地はいたって広大なもので、万物を包含し、各々その情を遂げさせるので、雉のように、原野草中でその生命を全うせしめるというもの、やはり、天地の徳である。善卷讓天子,務光亦逃名。

人もまたその通りで、耿介をもって知られているのは、莊子にいう、舜が善卷に禅譲しようとしたときの故事、湯が卞隨や、務光に譲ろうとした時、彼らは固く断って山に入り、或は、投身し、或は石を背負って身を沈めたのである。

所貴曠士懷,朗然合太清。

これらは人間の曠士であり、彼らの胸懐は、朗然として太清に合し、即ち天意にかなったもので、これが即ち、貴いことであるのである。

乍ち草中に向って 耿介死し,黃金 籠下に生くるを求めず。

天地 至って廣大,何ぞ物情を遂ぐるを惜まんや。

善卷は天子を讓り,務光も亦た名を逃る。

貴ぶ所は曠士の懷なり,朗然として太清に合す。



『設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭雉子斑』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

乍向草中耿介死,不求黃金籠下生。

天地至廣大,何惜遂物情。

善卷讓天子,務光亦逃名。

所貴曠士懷,朗然合太清。

(下し文)
#2

乍ち草中に向って 耿介死し,黃金 籠下に生くるを求めず。

天地 至って廣大,何ぞ物情を遂ぐるを惜まんや。

善卷は天子を讓り,務光も亦た名を逃る。

貴ぶ所は曠士の懷なり,朗然として太清に合す。

(現代語訳)
#2

そもそも雉は、耿介な鳥であり、草中間において死んでゆくものであって、決して黄金細工の鶏籠に入れて飼われることを願ってはいない。他の鳥は、命大事とし、黄金籠中に残生を保つことをこの上もない栄誉と心得ているが、この雉は少しもそんなことは思ってもいない。

そもそも、天地はいたって広大なもので、万物を包含し、各々その情を遂げさせるので、雉のように、原野草中でその生命を全うせしめるというもの、やはり、天地の徳である。人もまたその通りで、耿介をもって知られているのは、莊子にいう、舜が善卷に禅譲しようとしたときの故事、湯が卞隨や、務光に譲ろうとした時、彼らは固く断って山に入り、或は、投身し、或は石を背負って身を沈めたのである。

これらは人間の曠士であり、彼らの胸懐は、朗然として太清に合し、即ち天意にかなったもので、これが即ち、貴いことであるのである。


(訳注) #2

設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭雉子斑

(古来よりの伝説珍獣である辟邪を舞にし、邪悪を避けるを願い、雉の凛々しく勇壮な有様を曲にした歌をつくる)

辟邪伎 古代中国の想像上の動物。鹿に似て二角をもち,邪悪をさけるといわれる。天禄とともに旗などに描かれた。辟邪絵は中国などで古来より信仰された、疫鬼を懲らしめ退散させる善神を描いた絵である。奈良国立博物館が所蔵する12世紀頃制作の絵巻物は、日本の国宝に指定されている。このほか、アジャンター石窟で5世紀頃制作の第17窟などの遺例が知られる。ここでは僻邪の舞

鼓吹 笛の聲に合わせて太鼓をたたいて踊る。

雉子班の古詞 雉子斑《樂府解題》「雉子高飛止,黃鵠飛之以千里,雄來飛,從雌視。」

雉の雄は、春、「けーんけーん」と鳴いて雌を呼ぶ鳥である。飛ぶ姿よりも歩いている姿 を見かけることが多い。妻恋の象徴として詠われていた。

 

乍向草中耿介死,不求黃金籠下生。

そもそも雉は、耿介な鳥であり、草中間において死んでゆくものであって、決して黄金細工の鶏籠に入れて飼われることを願ってはいない。他の鳥は、命大事とし、黄金籠中に残生を保つことをこの上もない栄誉と心得ているが、この雉は少しもそんなことは思ってもいない。

耿介 ①かたく志を守ること。 ②徳が光り輝いて偉大なさま。

 

天地至廣大,何惜遂物情。

そもそも、天地はいたって広大なもので、万物を包含し、各々その情を遂げさせるので、雉のように、原野草中でその生命を全うせしめるというもの、やはり、天地の徳である。

 

善卷讓天子,務光亦逃名。

人もまたその通りで、耿介をもって知られているのは、莊子にいう、舜が善卷に禅譲しようとしたときの故事、湯が卞隨や、務光に譲ろうとした時、彼らは固く断って山に入り、或は、投身し、或は石を背負って身を沈めたのである。

善卷讓天子 隠者の名前。宇宙の中にあって天地の恵みがあればよく、天下などどうしようもないと山に入った人。《子、讓王第二十八》「舜以天下讓善卷,善卷曰:「余立於宇宙之中,冬日衣皮毛,夏日衣葛絺;春耕種,形足以勞動;秋收斂,身足以休食;日出而作,日入而息,逍遙於天地之間而心意自得。吾何以天下為哉!悲夫,子之不知余也!」遂不受。於是去而入深山,莫知其處。」

務光亦逃名 桀を打つため戦った者たち(卞隨、務光)が、天下を譲り合って清廉に拒否して死んでいったことをいう。《子、讓王第二十八》「湯遂與伊尹謀伐桀,剋之,以讓卞隨。卞隨辭曰:「后之伐桀也謀乎我,必以我為賊也;勝桀而讓我,必以我為貪也。吾生乎亂世,而无道之人再來漫我以其辱行,吾不忍數聞也。」乃自投椆水而死。

  湯又讓務光,曰:「知者謀之,武者遂之,仁者居之,古之道也。吾子胡不立乎?」

  務光辭曰:「廢上,非義也;殺民,非仁也;人犯其難,我享其利,非廉也。吾聞之曰,非其義者,不受其祿,无道之世,不踐其土。況尊我乎!吾不忍久見也。」乃負石而自沈於廬水。

 

所貴曠士懷,朗然合太清。

これらは人間の曠士であり、彼らの胸懐は、朗然として太清に合し、即ち天意にかなったもので、これが即ち、貴いことであるのである。

曠士懷 胸襟開闊な人。杜甫《同諸公登慈恩寺塔》「自非曠士懷,登茲翻百憂。」よほどの胸中のひろいひとでないかぎり、ここ処へ登ったなら、さまざまの憂いの心を湧きたたせるだろう。○曠士懷 胸中のひろいひと。・懐 胸中、心。○茲 慈恩寺塔をさす。○翻 ひるがえす、湧きたたせること。

朗然 明るくはっきりとしているさま。

合太清 道教三天、三清をいう。「太元」を神格化した最高神元始天尊と、「道」を神格化した霊宝天尊(太上道君)、老子を神格化した道徳天尊(太上老君)の三柱。 それぞれ道教における天上界の最高天「玉清境」「上清境」「太清境」に住し、この三天のことも「三清」と呼ぶ。

743年(21)李白340 巻三15-《雉子斑》(辟邪伎作鼓吹驚,) 340Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(21) <李白340> Ⅰ李白詩1663 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6863

李白  設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭【雉子斑】#1  

辟邪伎作鼓吹驚,雉子班之奏曲成,喔咿振迅欲飛鳴。

扇錦翼,雄風生。雙雌同飲啄,趫悍誰能爭。

(古来よりの伝説珍獣である辟邪を舞にし、邪悪を避けるを願い、雉の凛々しく勇壮な有様を曲にした歌をつくる)1  辟邪伎の舞楽がはじまると、鼓吹のこえが驚ろおどろしくきこえてくる,こうして合いの手の雉子班の奏曲へと移って演奏される,その曲の意味合いは、雉の飛ぶ様子を歌に作ってあるので、その音楽を聴いていると、そこへ雉がとびだしてくるようにおもわれる。雉は、喔咿と口を開き、羽ばたきをして、まさに鳴きだそうとする。ひとたび錦翼を扇動すれば、雄風颯然としておこるのである。メスとならんで、同じえさをついばみ、水を飲んでいて、その凛々しく勇まし気なすがたは、世に敵がないというあり様である。

743年(21)李白340 巻三15-《雉子斑》(辟邪伎作鼓吹驚,) 340Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-21) <李白340> Ⅰ李白詩1663 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6863

 

 
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  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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743年(21)李白340 巻三15-《雉子斑》(辟邪伎作鼓吹驚,) 340Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(21) <李白340> Ⅰ李白詩1663 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6863  
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  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
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  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
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年:       天寶二年

寫作時間:           743

寫作年紀:           43

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    雉子斑【設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭】

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭【雉子斑】#1

(古来よりの伝説珍獣である辟邪を舞にし、邪悪を避けるを願い、雉の凛々しく勇壮な有様を曲にした歌をつくる)1

辟邪伎作鼓吹驚,雉子班之奏曲成,喔咿振迅欲飛鳴。

辟邪伎の舞楽がはじまると、鼓吹のこえが驚ろおどろしくきこえてくる,こうして合いの手の雉子班の奏曲へと移って演奏される,その曲の意味合いは、雉の飛ぶ様子を歌に作ってあるので、その音楽を聴いていると、そこへ雉がとびだしてくるようにおもわれる。雉は、喔咿と口を開き、羽ばたきをして、まさに鳴きだそうとする。

扇錦翼,雄風生。

ひとたび錦翼を扇動すれば、雄風颯然としておこるのである。

雙雌同飲啄,趫悍誰能爭。

メスとならんで、同じえさをついばみ、水を飲んでいて、その凛々しく勇まし気なすがたは、世に敵がないというあり様である。

#2

乍向草中耿介死,不求黃金籠下生。

天地至廣大,何惜遂物情。

善卷讓天子,務光亦逃名。

所貴曠士懷,朗然合太清。

 

詩文(含異文)     辟邪伎作鼓吹驚,雉子班之奏曲成,喔咿振迅欲飛鳴。扇錦翼,雄風生。雙雌同飲啄,趫悍誰能爭。乍向草中耿介死,不求黃金籠下生。天地至廣大,何惜遂物情。善卷讓天子,務光亦逃名。所貴曠士懷,朗然合太清。
大明宮-座標02 

長安城図 作図00 

 

 

『設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭【雉子斑】』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭【雉子斑】#1

辟邪伎作鼓吹驚,雉子班之奏曲成,咿振迅欲飛鳴。

扇錦翼,雄風生。

雙雌同飲啄,悍誰能爭

(下し文)
設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭【雉子斑】#1

辟邪伎作鼓吹驚,雉子班之奏曲成,咿振迅欲飛鳴。

扇錦翼,雄風生。

雙雌同飲啄,悍誰能爭

(現代語訳)
(古来よりの伝説珍獣である辟邪を舞にし、邪悪を避けるを願い、雉の凛々しく勇壮な有様を曲にした歌をつくる)1

辟邪伎の舞楽がはじまると、鼓吹のこえが驚ろおどろしくきこえてくる,こうして合いの手の雉子班の奏曲へと移って演奏される,その曲の意味合いは、雉の飛ぶ様子を歌に作ってあるので、その音楽を聴いていると、そこへ雉がとびだしてくるようにおもわれる。雉は、喔咿と口を開き、羽ばたきをして、まさに鳴きだそうとする。

ひとたび錦翼を扇動すれば、雄風颯然としておこるのである。

メスとならんで、同じえさをついばみ、水を飲んでいて、その凛々しく勇まし気なすがたは、世に敵がないというあり様である。


(訳注)

設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭【雉子斑】#1

(古来よりの伝説珍獣である辟邪を舞にし、邪悪を避けるを願い、雉の凛々しく勇壮な有様を曲にした歌をつくる)

辟邪伎 古代中国の想像上の動物。鹿に似て二角をもち,邪悪をさけるといわれる。天禄とともに旗などに描かれた。辟邪絵は中国などで古来より信仰された、疫鬼を懲らしめ退散させる善神を描いた絵である。奈良国立博物館が所蔵する12世紀頃制作の絵巻物は、日本の国宝に指定されている。このほか、アジャンター石窟で5世紀頃制作の第17窟などの遺例が知られる。ここでは僻邪の舞

鼓吹 笛の聲に合わせて太鼓をたたいて踊る。

雉子班の古詞 雉子斑《樂府解題》「雉子高飛止,黃鵠飛之以千里,雄來飛,從雌視。」

雉の雄は、春、「けーんけーん」と鳴いて雌を呼ぶ鳥である。飛ぶ姿よりも歩いている姿 を見かけることが多い。妻恋の象徴として詠われていた。

 

辟邪伎作鼓吹驚,雉子班之奏曲成,喔咿振迅欲飛鳴。

辟邪伎の舞楽がはじまると、鼓吹のこえが驚ろおどろしくきこえてくる,こうして合いの手の雉子班の奏曲へと移って演奏される,その曲の意味合いは、雉の飛ぶ様子を歌に作ってあるので、その音楽を聴いていると、そこへ雉がとびだしてくるようにおもわれる。雉は、喔咿と口を開き、羽ばたきをして、まさに鳴きだそうとする。

喔咿 雉の鳴く声。

 

扇錦翼,雄風生。

ひとたび錦翼を扇動すれば、雄風颯然としておこるのである。

 

雙雌同飲啄,趫悍誰能爭。

メスとならんで、同じえさをついばみ、水を飲んでいて、その凛々しく勇まし気なすがたは、世に敵がないというあり様である。

趫悍 雉の勇敢なところをいう。

743年(20)李白339 巻三13-《中山孺子妾歌》(中山孺子妾,) 339Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(20) <李白339> Ⅰ李白詩1664 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6868

李白  中山孺子妾歌   

中山孺子妾,特以色見珍。雖然不如延年妹,亦是當時世人。

桃李出深井,花豔驚上春。一貴復一賤,關天豈由身。

芙蓉老秋霜,團扇羞網塵。戚姬髡髮入舂市,萬古共悲辛。

(漢の未央の才人、官である中山王の妃賓、王妾の品號有る者を儒子の妃賓という制度そのままに諸侯の後宮に美人おいているのを詠う)

中山王は天子の近親で、非常に尊崇されるお立場である。その後宮の妃賓といえば、寵貴もとより思うものであり、特に色の美なるを以て珍重され、寵愛されるのである。後宮専房の栄枯をほしいままにしているもので、例えば、李延年の妹で、漢の武帝の寵愛を受けた李夫人とまではいかないとしても、これもまた、当時における絶世の美人であったのである。そもそも桃李の下には道ができるといわれる者が後宮の寝殿の奥に生じ、初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。その時代、その世にもてはやされるのも、その美しい姿からすれば、天命であり、必然のことであるが、せっかく寵愛を受けていても、寵愛は衰え、失うものであるのは自分の身によるものではないのである。

栄枯盛衰、寵愛を失えば、芙蓉の花も秋の霜に枯れ、老いるようになる、団扇は夏には涼しい風を送るが、秋風とともに無用となり、やがてその上に塵がつもってこれを蔽うようになる。現に、漢の戚夫人は、高祖が崩御の後には、無残にも、緑の神を落とされ、米つきの仕事を命ぜられた、というように、妃嬪の栄枯は万古の人の悲辛の思いに堪えられないものであり、かの中山王の妃賓たるも、これを以て決して今の寵愛を誇ってはいけないのである。

743年(20)李白339 巻三13-《中山孺子妾歌》(中山孺子妾,) 339Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-20) <李白339> Ⅰ李白詩1664 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6868

 

 
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  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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743年(20)李白339 巻三13-《中山孺子妾歌》(中山孺子妾,) 339Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(20) <李白339> Ⅰ李白詩1664 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6868  
  孟浩然 詩 index 李白詩index 謝霊運 詩 index 司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》 揚雄 《 甘泉賦 》  ●諸葛亮(孔明)出師表  
  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
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(1)漁父辞 屈原 『楚辞・九歌』東君 屈原 《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内>  
  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
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韓愈98-#3《 巻三18謁衡岳廟,遂宿嶽寺題門樓》 #3 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1577> Ⅱ#3 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6869  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
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  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
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  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 11顧夐 (改)《巻七18獻衷心 (繡鴛鴦帳》『花間集』320全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-6872  
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年:

743年天寶二年43歳 94-20

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    中山孺子妾歌

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

中山孺子妾歌

(漢の未央の才人、官である中山王の妃賓、王妾の品號有る者を儒子の妃賓という制度そのままに諸侯の後宮に美人おいているのを詠う)

中山孺子妾,特以色見珍。

中山王は天子の近親で、非常に尊崇されるお立場である。その後宮の妃賓といえば、寵貴もとより思うものであり、特に色の美なるを以て珍重され、寵愛されるのである。

雖然不如延年妹,亦是當時世人。

後宮専房の栄枯をほしいままにしているもので、例えば、李延年の妹で、漢の武帝の寵愛を受けた李夫人とまではいかないとしても、これもまた、当時における絶世の美人であったのである。

桃李出深井,花豔驚上春。

そもそも桃李の下には道ができるといわれる者が後宮の寝殿の奥に生じ、初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。

一貴復一賤,關天豈由身。

その時代、その世にもてはやされるのも、その美しい姿からすれば、天命であり、必然のことであるが、せっかく寵愛を受けていても、寵愛は衰え、失うものであるのは自分の身によるものではないのである。

芙蓉老秋霜,團扇羞網塵。

栄枯盛衰、寵愛を失えば、芙蓉の花も秋の霜に枯れ、老いるようになる、団扇は夏には涼しい風を送るが、秋風とともに無用となり、やがてその上に塵がつもってこれを蔽うようになる。

姬髡髮入舂市,萬古共悲辛。

現に、漢の戚夫人は、高祖が崩御の後には、無残にも、緑の神を落とされ、米つきの仕事を命ぜられた、というように、妃嬪の栄枯は万古の人の悲辛の思いに堪えられないものであり、かの中山王の妃賓たるも、これを以て決して今の寵愛を誇ってはいけないのである。

 

(中山孺子妾の歌)

中山孺子の妾,特に色を以て珍とせらる。

延年の妹に如かずと雖も,亦た是れ當時 世の人。

桃李は深井に出で,花豔にして 上春を驚かす。

一貴 復た 一賤,天に關す 豈に身に由らんや。

芙蓉は秋霜に老い,團扇は網塵を羞づ。

姫は髮して舂市に入り,萬古 共に悲辛

 

 

『中山孺子妾歌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

中山孺子妾歌

中山孺子妾,特以色見珍。

雖然不如延年妹,亦是當時世人。

桃李出深井,花豔驚上春。

一貴復一賤,關天豈由身。

芙蓉老秋霜,團扇羞網塵。

姬髡髮入舂市,萬古共悲辛
詩文(含異文)     中山孺子妾,特以色見珍。雖然不如延年妹,亦是當時世人。桃李出深井,花豔驚上春。一貴復一賤,關天豈由身。芙蓉老秋霜,團扇羞網塵。戚姬髡髮入舂市【戚姬髡剪入舂市】,萬古共悲辛。

 

 (下し文)
(中山孺子妾の歌)

中山孺子の妾,特に色を以て珍とせらる。

延年の妹に如かずと雖も,亦た是れ當時 世の人。

桃李は深井に出で,花豔にして 上春を驚かす。

一貴 復た 一賤,天に關す 豈に身に由らんや。

芙蓉は秋霜に老い,團扇は網塵を羞づ。

姫は髮して舂市に入り,萬古 共に悲辛


(現代語訳)
(漢の未央の才人、官である中山王の妃賓、王妾の品號有る者を儒子の妃賓という制度そのままに諸侯の後宮に美人おいているのを詠う)

中山王は天子の近親で、非常に尊崇されるお立場である。その後宮の妃賓といえば、寵貴もとより思うものであり、特に色の美なるを以て珍重され、寵愛されるのである。

後宮専房の栄枯をほしいままにしているもので、例えば、李延年の妹で、漢の武帝の寵愛を受けた李夫人とまではいかないとしても、これもまた、当時における絶世の美人であったのである。

そもそも桃李の下には道ができるといわれる者が後宮の寝殿の奥に生じ、初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。

その時代、その世にもてはやされるのも、その美しい姿からすれば、天命であり、必然のことであるが、せっかく寵愛を受けていても、寵愛は衰え、失うものであるのは自分の身によるものではないのである。

栄枯盛衰、寵愛を失えば、芙蓉の花も秋の霜に枯れ、老いるようになる、団扇は夏には涼しい風を送るが、秋風とともに無用となり、やがてその上に塵がつもってこれを蔽うようになる。

現に、漢の戚夫人は、高祖が崩御の後には、無残にも、緑の神を落とされ、米つきの仕事を命ぜられた、というように、妃嬪の栄枯は万古の人の悲辛の思いに堪えられないものであり、かの中山王の妃賓たるも、これを以て決して今の寵愛を誇ってはいけないのである。


(訳注)

中山孺子妾歌

(漢の未央の才人、官である中山王の妃賓、王妾の品號有る者を儒子の妃賓という制度そのままに諸侯の後宮に美人おいているのを詠う)

古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。《礼記、昏義》 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。

《漢書》曰「“詔賜中山靖王子噲及孺子妾冰、未央才人歌詩四篇。”如淳曰:“孺子,幼少稱孺子。妾,宮人也。”顏師古曰:“孺子,王妾之有品號者。妾,王之眾妾也。冰,其名。才人,天子官。”按,此謂以歌詩賜中山王及孺子妾、未央才人等爾,累言之,故雲及也。而陸厥作歌,乃謂之中山孺子妾,失之遠矣。」(《漢書》に曰く:“詔して中山靖王子、及び孺子妾、未央の才人に歌詩四篇を賜う。”と。如淳曰く:“孺子は,幼少 孺子と稱す。妾は,宮人なり。”と。顏師古曰く:“孺子は,王妾の品號有る者。妾は,王の眾妾なり。冰は,其の名なり。才人は,天子の官なり。”と。按ずるに,此れは歌詩を以て中山王及び孺子 妾、未央の才人等に賜うを謂うのみ。爾,之を累言する,故に及と雲うなり。而して 陸厥 歌を作り,乃ち之を中山孺子妾と謂う,之を失うこと遠し。)とある。

中山晴 中山晴王噲現、在の河北省に中山王国があった。初代王靖王は劉勝で、在位42年で死に、その後は哀王劉昌、康王劉昆侈、頃王劉輔、憲王劉福、懐王劉循と続き、懐王に子がいなかたため断絶した。李白は、劉勝が酒食に耽り、120人以上の子供がいたことで有名で、1968年に中山靖王の墓とされる遺跡から「金縷玉衣(ヒスイで作られた死者に着せる服)が発掘されたことで、豪奢な生活ぶりを示すものを唐時代において、諸侯が同じようにしていることを問題視している。

儒子 儒子妾氷。顏師古曰く:“孺子は,王妾の品號有る者。妾は,王の眾妾なり。冰は,其の名なり。才人は,天子の官なり。”と

 

中山孺子妾,特以色見珍。

中山王は天子の近親で、非常に尊崇されるお立場である。その後宮の妃賓といえば、寵貴もとより思うものであり、特に色の美なるを以て珍重され、寵愛されるのである。

 

雖然不如延年妹,亦是當時世人。

後宮専房の栄枯をほしいままにしているもので、例えば、李延年の妹で、漢の武帝の寵愛を受けた李夫人とまではいかないとしても、これもまた、当時における絶世の美人であったのである。

延年妹 人名。生卒年不詳,漢中山(今河北定縣)人,漢武帝寵妃,李延年妹。容貌美麗,善於歌舞。生昌邑哀王,早卒,武帝曾作賦悼念。兄李延年は美人の妹を武帝に売り込むため、詩をつくって自ら歌ってみせた。それが有名な《絶世傾国の歌》「北方有佳人、絶世而獨立。一顧傾人城、再顧傾人國。寧不知傾城與傾國、佳人難再得。」(北方に佳人有り、絶世にして獨立す。一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の國を傾く。寧んぞ傾城と傾國とを知らざらんや 、佳人は再びは得がたし。)売り込みは大成功で、李延年の妹は武帝の夫人として召され、他の兄たちも要職を得て出世した。ところで、武帝に愛されたのは李夫人だけではなかった。傾国と例えるのに相応しい美人だった李夫人の兄、李延年自身もまた絶世の美男だった。武帝は李夫人を慈しみ、男子をもうけつつ、同時に李延年をも寵愛し、夫婦のように起臥を共にしていた。李夫人は不幸にして夭折してしまい、死に瀕して容色衰えた自分の顔を武帝に見せることを頑なに拒んだと伝えられる。

 

桃李出深井,花豔驚上春。

そもそも桃李の下には道ができるといわれる者が後宮の寝殿の奥に生じ、初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。

桃李 史記「桃李不言下自成蹊」桜梅桃李:桜は桜、梅は梅、桃は桃、李(すもも)は李、それぞれの姿、特質がある。 桜は決して梅にはなれないけれど、桜であるからこその美しさがある。

深井 後宮の寝殿の奥にある井戸端。

花豔驚上春 初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。

 

一貴復一賤,關天豈由身。

その時代、その世にもてはやされるのも、その美しい姿からすれば、天命であり、必然のことであるが、せっかく寵愛を受けていても、寵愛は衰え、失うものであるのは自分の身によるものではないのである。

 

芙蓉老秋霜,團扇羞網塵

栄枯盛衰、寵愛を失えば、芙蓉の花も秋の霜に枯れ、老いるようになる、団扇は夏には涼しい風を送るが、秋風とともに無用となり、やがてその上に塵がつもってこれを蔽うようになる。

 

姬髡髮入舂市,萬古共悲辛。

現に、漢の戚夫人は、高祖が崩御の後には、無残にも、緑の神を落とされ、米つきの仕事を命ぜられた、というように、妃嬪の栄枯は万古の人の悲辛の思いに堪えられないものであり、かの中山王の妃賓たるも、これを以て決して今の寵愛を誇ってはいけないのである。

 戚夫人(未詳- 紀元前194?)は、秦末から前漢初期の人物。高祖劉邦の側室で、劉如意の生母。一説によると名は懿。上体を後ろに大きく反らす楚舞を得意とし、劉邦とは遠征中に碁を打ったともいわれる。寵愛する戚夫人の懇望に加えて、皇太子に立てていた劉盈に対して父である劉邦自身がその資質にかねてから疑問と不安を抱いていたこと、さらに仁弱な盈とは対照的に如意が活発な子供であったことから、劉邦も徐々に盈を廃嫡して如意を立てることを考え始める。

しかし、劉邦が皇太子の交代を重臣たちに諮ったものの、重臣たちはことごとく反対した。さらに、劉邦の信任が厚い張良の助言を受けた盈が、かつて高祖が招聘に失敗した有名な学者たちを自らの元に招いたことが決定打となり、劉邦は盈を皇太子にとどめることを決め、如意は趙王のままとされた。

このことから、戚夫人母子は盈の生母である呂雉に憎まれることとなり、紀元前195年に劉邦が死去して盈(恵帝)が即位すると、皇太后となった呂雉による報復が始まる。

まず、戚夫人を捕らえて永巷(えいこう:罪を犯した女官を入れる牢獄)に監禁し、一日中豆を搗かせる刑罰を与えた。戚夫人が自らの境遇を嘆き悲しみ、詠んだ歌が「永巷歌」として『漢書』に収められている。

そして呂太后は、長安に入朝した如意を毒殺した。その前後、戚夫人も殺害された。『史記』によると呂后は戚夫人の両手両足を切り、目耳声を潰し、厠に投げ落としてそれを人豚と呼ばせ、さらに恵帝を呼んでそれを見せたため、彼は以後激しい衝撃を受け、酒色に溺れるようになり早世したという。

 

 

 

 

 

 

不幸な運命、感情の飢渇富貴

栄達、優閑、快適 

彼女たちは、こうした人の世のすべての栄耀栄華を味わい尽したのであるから、唐代に生きた多くの女性たちの中では幸運な人々といわざるをえない。しかしながら、彼女たちにもまた彼女たちなりの不幸があった。彼女たちの運命は極めて不安定であり、一般の民間の女性に比べると、より自分の運命を自分で決める力がなかった。なぜなら、彼女たちの運命はきわめて政治情勢の衝撃を受けやすかったからであり、またその運命は最高権力者の一時の寵愛にすべて係っていたからである。

『新・旧唐書』の「后妃伝」に記載されている三十六人の后妃のうち、意外なことに十五人は非命の最期をとげている。二人は後宮で皇帝の寵愛を争って死に、二人は動乱のなかで行方不明となり、一人は皇帝の死に殉じて自殺し、一人は皇太后として皇帝から罪を問われて死んだ。その他の九人はすべて政治闘争、宮廷政変で死に、そのうちの三人は朝廷の政治に関与して政敵に殺され、残りの六人は罪もないのに政争の犠牲となった。

后妃たちにとって、最も恐ろしいことはまず

 

 

第一に政治権力をめぐる闘争

彼女たちはしばしば全く理由もなく政治事件の被害に遭ったり、家族の罪に連坐させられたり、甚だしい場合には殺害されるという災難にあった。ここで人々はまず楊貴妃のことを最初に想い浮かべることであろう。複雑な政治闘争、権力闘争の角逐の中で、いまだ政治に関与したことのなかったこの女性は、玄宗皇帝が彼女に夢中になり、また彼女の家族を特別に厚遇したということだけで、君主を迷わし国を誤らせ禍をもたらした罪魁となり、最後には無残にも締め殺されたうえ、千古に残る悪名を背負わされ、正真正銘の生け贅の小羊となった。

唐代に、このような悲劇が決して他になかったわけではない。中宗の趨皇后(死後に皇后の称号を追贈)は王妃となった時、母親の常楽長公主と武則天の間に抗争が起ったため、内侍省(宮中に在る官官管理の一役所)に拘禁された。毎日窓から生のままの食事を少し与えられただけで、世話する人もいなかった。数日後、衛士が中で死んでいるのを発見したとき、死体はすでに腐乱していた。容宗の睾后と劉后は人から無実の罪に陥れられ、武則天の命で、同じ日に秘密裏に殺され、死体は行方知れずになった。粛宗が皇太子だった時、章妃は長兄が罪により死を賜ったため粛宗と離婚を余儀なくされた。以後彼女は宮中で尼僧となって終生灯明古仏を伴としてくらした。唐末、昭宗の何皇后の最後はさらに悲惨で、昭宗が朱全忠に殺された後、罪を控造されて締め殺され、王朝交替の犠牲者となった。

 

第二の脅威は、皇帝の寵愛を失うこと

大多数の后妃と皇帝との結婚は、事実上政略結婚であり、もともと皇帝の愛情を得たのではなかった。何人かの后妃は容姿と技芸の才能によって、あるいは皇帝と艱難を共にしたことによって寵愛を受けた。しかし、いったん時が移り状況が変化したり、また年をとってくると、容色が衰えて寵愛が薄れるという例えどおり、佳人、麗人が無数にいる宮廷で自分の地位を保持することはきわめて難しかった。王皇后と玄宗は艱難を共にした夫婦であり、彼女は玄宗が行った喜后打倒の政変に参与した。しかし武恵妃が寵愛を一身に集めた後には、しだいに冷遇されるようになった。彼女は皇帝に泣いて訴え、昔艱難を共にした時の情愛を想い出してほしいと願った。玄宗は一時はそれに感動したが、結局やはり彼女を廃して庶民の身分に落してしまった。境遇がちょっとマシな者だと、后妃の名が残される場合もあったが、それ以後愛情は失われ、後半生を孤独と寂実の中に耐え忍ばねばならなかった。また、彼女たちの運命は、ひどい場合は完全に皇帝の一時的な喜怒哀楽によって決められた。武宗はかつて一人の妃嬢に非常に腹を立てたことがあった。その場に学士の柳公権がいたので、皇帝は彼に「もし学士が詩を一篇作ってくれるなら、彼女を許してやろう」といった。柳公権が絶句を一首つくると、武宗はたいそう喜び、彼女はこの災難を逃れることができた(王走保『唐掟言』巻一三)。しかし、皇帝から廃されたり、冷遇されただけの者は、まだ不幸中の幸いであったように思う。最悪の場合は生命の危険さえあった。高宗の王皇后と斎淑妃の二人は、武則天と寵愛を争って一敗地に塗れた。

この二人の敗北者は新皇后の階下の囚人となり、それぞれ二百回も杖で打たれてから手足を切断され、酒瓶の中に閉じ込められた後、無惨に殺された。

 

后妃、妃嬪にとって脅威は皇帝の死去

これは皇帝の付属品である后妃たちが、いっさいの地位と栄誉の拠り所を失うことを意味した。一つだけ例外がある。つまり子が皇帝に即位した場合で、「やんごとなき夫の妻」から、「やんごとなき子の母」 へと転じることができた。少なくとも子のある妃嬪はちょっとした地位を保つことができたが、子のない妃嬢たちは武則天のように仏寺に送られて尼にされるか、あるいは寂しく落ちぶれて後宮の中で生涯を終えた。たとえ太后といぅ至尊の地位に登っても、新皇帝の顔色を窺わねばならなかった。憲宗の郭皇后は郭子儀の孫娘にあたり、公主を母に持ち、また穆宗の母となり、敬宗、文宗、武宗の三皇帝の祖母にあたる女性であったから、人々は唐朝の后妃のなかで「最も高貴」な方と呼んだ。しかし、宣宗が即位(八四七年)すると、生母の鄭太后はもともと郭太后の侍女であり、かねてから怨みをもっていたため、郭太后を礼遇しなかった。それで郭太后は鬱々として楽しまず、楼に登って自殺しょうとした。宣宗はそれを聞くと非常に怒った。郭太后はその夜急に死んでしまったが、死因はいうまでもなく明らかであろう。

唐代の后妃のなかには、そのほか皇帝に殉死したという特別な例がある。それは武宗の王賢妃である。彼女はもとは才人の身分であり、歌舞をよくし、皇帝からたいへんな寵愛を受けた。武宗は危篤間近になると、彼女に「朕が死んだらお前はどうするのか」と問うた。すると彼女は「陛下に御供して九泉にまいりたいと思います」と答えた。すると武宗は布を彼女に与えたので、王才人は帳の下で首をくくって死んだ(『資治通鑑』巻二四八、武宗会昌六年)。次の宣宗が即位すると、彼女に「賢妃」を追贈し、その貞節を誉め讃えた。このようにして、一個の生きた肉体が「賢妃」という虚名と取り換えられたのである。

もし、予測のつかない未来と苦難の多い運命によって生みだされる不安な感情が、后妃たちの生活の普通の心理であったとするなら、もう一つ彼女たちにまとわりついているのは、心の慰めや家庭の暖かさが欠けていることによって深く感ずる孤独、寂蓼、哀怨の気特であった。次のようにも言うことができよう。彼女たちは物質的には豊かであったが、人間の情愛の面では貧しかったと。

寵愛を失った者は言うまでもないが、寵愛を受けている者でさえも、何万にものぼる女性が一人の男性に侍っている宮中においては、誰も皇帝の愛情をいつまでも一身に繋ぎとめておくことは不可能であり、また正常な夫婦生活と家族団欒の楽しみを味わうことも不可能であった。皇帝が訪れることもなくなって、零落してしまった后妃の場合、おのずから悲痛はさらに倍加した。

玄宗の時代、妃嬪がはなはだ多かったので、「妃嬪たちに美しい花を挿すよう競わせ、帝は自ら白蝶を捕えて放ち、蝶のとまった妃嬪のところに赴いた」。また、妃嬪たちは常に「銭を投げて帝の寝所に誰が侍るのかを賭けた」(『開元天宝遺事』巻上、下)。彼女たちの苦痛を想像することができる。

「長門(妃嬪の住む宮殿)閉ざし定まりで生を求めず、頭花を焼却し挙を卸却す。玉窓に病臥す 秋雨の下、遥かに聞く別院にて人を喚ぶ声」(王建「長門」)、「早に雨露の翻って相い誤るを知らば、只ら荊の簪を挿して匹夫に嫁したるに」(劉得仁「長門怨」)、「珊瑚の枕上に千行の涙、是れ君を思うにあらず 是れ君を恨むなり」(李紳「長門怨」)等々と詩人に描写されている。唐代の人は「宮怨」「婕妤怨」「長門怨」「昭陽怨」などの類の詩詞を大量に作っており、その大半は詩人が后妃になぞらえて作ったものであるが、じつに的確に后妃たちの苦悶と幽怨の気持とを表している。これらの作品を貴婦人たちの有りもしない苦しみの表現と見なすべきではない。これらには彼女たちの、宮中での不自然な夫婦生活に対する怨み、民間の普通の夫婦に対する憧れがよく表現されている。女性として彼女たちが抱く怨恨と憧憬は、自然の情に合い理にかなっている。

 

 

残酷な生存競争

日常的に危険と不安が潜伏している後宮のなかで、気の弱い者、能力のない者は、ただ唯々諾々と運命に翻弄されるしかなかった。しかし、ちょっと勇敢な者は、他人から運命を左右されることに甘んぜず、自分の力をもって自分の運命を支配し変革しょうとし、さらに進んでは他人をも支配しょうとした。これは高い身分にいることから激発される権力欲ばかりではなかった。彼女たちの特殊な生活環境もまた、彼女たちを一場の激しい 「生存競争」 の只中に投げ入れずにはおかなかったのである。

 

 

皇帝の寵愛を失う恐怖があるからこそ、人は様々な手段を講じて寵愛をつなぎとめたり、寵愛を奪いとろうとした。後宮における寵愛をめぐる最も残酷な一場の闘争は、武則天、王皇后、粛淑妃の間で行われた。王皇后は皇帝の寵愛もなく、また子もなかったので、寵愛を一身に受ける斎淑妃を嫉妬して張り合った。彼女は高宗がかつて武則天と情を通じていたことを知ると、策略をめぐらし、感業寺の尼になっていた武則天に蓄髪させて再び宮中に入れ、粛淑妃の寵愛を奪わせようとした。宮中に入ったはじめのうちは武則天もへりくだって恭しくしていたが、いったん帝の寵愛を得ると、この二人の競争相手に対抗し始めた。王皇后を廃するために武則天は自分の生んだ女の子を締め殺し、その罪を皇后にかぶせることもいとわなかった。最終的に武則天はさまざまな計略と手段をもって徹底的に競争相手を打ち破って皇后になり、王、請の二人は悲惨な末路をたどった。斎淑妃は処刑される時、武則天を激しく呪い、「願わくば来世は猶に生れ、武氏を鼠にして、世々代々その喉笛にくらいつき仇を討ちたい」といった。後宮の競争の激しさは人を懐然とさせる。こうした競争は王后、粛妃が起したものではないし、また武則天だけを谷めることもできない。それはじつに後宮のなかで極限にまで発展した、一夫多妻制度がもたらした産物であった。政治と権力が彼女たちの争いを発酵させ膨らませたのであり、その激烈さは普通の家庭の妻と妾の争いを遥かに越えるものとなった。

皇帝がひとたび崩御すると、后妃たちの財産、生命、地位はたちまち何の保障もなくなるので、早くから考えをめぐらせた人たちもいた。男子を生んだ后妃は、いうまでもなくあらゆる手段を講じてわが子を皇太子にし、その貴い子の母たる地位を手に入れようとした。こうして跡継ぎを決めることも、后妃たちの激しい競争となった。玄宗はすでに趨魔妃の生んだ子を皇太子にしていたが、武恵妃が玄宗の寵愛を受けるようになると、現皇太子の位を奪って我が子寿王を皇太子に立てようと画策した。まず彼女は皇太子を廃するため罠をしかけて、〝宮中に賊が出たと言って皇太子と二人の王子に鎧を着て来させ、その後で玄宗に三人が謀反を起したと告げた。それで、太子と二人の王子は処刑された。男子のない后妃、あっても皇太子になる望みのない后妃は別に出路を求め、皇太子かその他の皇子たちにとりいって自己の安全を図ったのである。高祖李淵が晩年に寵愛したダ徳妃、張捷好などは子がなかったり、あっても助かったので、すでに勢力をもっている他の何人かの皇子と争うことはたいへん難しかった。そこで彼女たちは皇太子の李建成と互いに結びあい、利用しあって建成の即位を助け、高祖の死後のわれとわが子の不測の運命にそなえたのである。

后妃たちは表面的には高貴で優閑な生活を送っていたが、裏では緊張に満ちた活動をしており、それは彼女たちの別の生活の大きな部分をなしていた。こうした様々な手段は決して公明正大なものとはいえない。しかし、政治の変動と後宮の生活が彼女たちにもたらす残酷無情な状況を見るならば、そしてまた天下の母の鏡と尊ばれながら、じつは常に他人に運命を翻弄され、吉凶も保障し難い境遇にあったことを考えるならば、彼女たちが自分の運命を変えようと少しあがいたからといって、どうして厳しく責めることができよう。

743年(19)李白338-#3 巻三09-《鞠歌行》(玉不自言如桃李,) 338-#3Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(19) <李白338-#3> Ⅰ李白詩1663 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6863

李白  鞠歌行 #3

朝歌鼓刀叟,虎變磻溪中。一舉釣六合,遂荒營丘東。

平生渭水曲,誰識此老翁。奈何今之人,雙目送飛鴻。

そうしてみれば、甯戚とか、百里奚という人物は、上のものが彼らを認める力があったからそうなったのであるが、これと少し違うのは太公望は、朝歌の市中にいて、刀を鼓して牛を屠殺していたが、これが、磻溪の中に、虎變して文王の師となったのである。そして、一挙に六合を釣り上げて、天下統一の大功を成し遂げた後は、ついに、荒れていた營丘の東であるところの斉の國をわが有とした。太公望は、夢に見たといって探し求めてくれて遭遇できたからよかったけれど、それがなければ、平生の渭水のほとりで釣りをする一老翁に過ぎなかっただろうし、だれもこの人を識別できなかったであろう。今の世の人は、衛の靈公が孔子を引見した時、空を飛ぶ雁を見ていたと同じことで、全く賢者を用いる意思がないと悟ったように、甯戚や、百里奚のように、それに、太公望のような偉人がいたとしても、世に出ることができずに、大功業を立てることができず、埋もれたままのものがいるということは慨嘆に堪えぬものである。

743年(19)李白338-#3 巻三09-《鞠歌行》(玉不自言如桃李,) 338-#3Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-19) <李白338-#3> Ⅰ李白詩1663 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6863

 

 
  2015年11月4日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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743年(19)李白338-#3 巻三09-《鞠歌行》(玉不自言如桃李,) 338-#3Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(19) <李白338-#3> Ⅰ李白詩1663 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6863  
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  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 766年-165杜甫 《1524奉寄李十五祕書文嶷。二首之一》 杜甫詩index-15-766年大暦元年55歲-165 <1037> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6865  
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
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  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 11顧夐 (改)《巻七17遐方怨 簾影細,》『花間集』319全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-6867  
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  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
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年:743年天寶二年43歳 94-19

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    鞠歌行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              荊山 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)       

營丘 (河南道 青州 臨淄)   

磻溪 (京畿道 岐州 虢縣)   

交遊人物/地點:  

 

 

鞠歌行

(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

玉不自言如桃李,魚目笑之卞和恥。

「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」といわれるが、玉はものを言わないことだけは、桃李と同じであるが、その下に小道をなすような効果はない、これに反して、魚目は、玉が世人に重んぜられないと笑っても、玉自身は自らの価値の良しあしを言うわけではないので、「卞和の恥」といわれるように、それが「連城の璧」といわれるようなこともあるのである。

楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。

それは楚の國の話である、楚国には玉を汚す青蠅のようなものが充満していた、それがために「連城の壁」と交換されるほどの価値のある白璧でありながら、讒毀ということ遭遇し、偽物だという嫌疑を受けたのである。

荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。

かくて、卞和は、この玉が真の玉であることの証明ができず両足を切られ、荊山に隠れて長號し、もしこの忠臣がそのまま死んだら、足なしの幽霊となったであろう。

(鞠歌行【きくかこう】)

玉は自ら言わず 桃李の如し,魚目 之を笑うて卞和【べんか】恥づ。

楚國の青蠅 何ず太だ多し,連城の白璧 讒毀に遭う。

荊山 長く泣血の人を號ばしめ,忠臣 死せば 刖足【げっそく】の鬼と為らん。

#2

聽曲知甯戚,夷吾因小妻。

それから、甯戚は齊の桓公をおかさんがために、歌を唄ったが、その意味は誰も意味合いを理解しえなかったが、幸いその時の宰相であった夷吾の小妻に賢明な婦人がいて、そのことを詳しく管仲に告げたから、管仲も初めてこれを悟り、やがてこれを桓公に進めて、ついに重く用いられたという。

秦穆五羊皮,買死百里奚。

それから秦の穆公は、五羊の皮をもって,百里奚を贖ったのであるが、それでも、百里奚を重用したことで、五覇の一と称せられるまでになった。

洗拂青雲上,當時賤如泥。

その当時、百里奚は、死に瀕した囚人に過ぎず、ひとたびこれを洗浄して、青雲の上にその身をいたさしめたがために、国家を治る大經綸を実施せしめることができたが、もしこれを洗拂するものがなかったならば、その賤しきこと、泥土のごとく、そのまま死んだことだろう。

#2

曲を聽いては甯戚を知り,夷吾は小妻に因る。

秦穆 五羊の皮,死を買う 百里奚。

青雲の上に洗拂す,當時 賤しきこと泥の如し。
#3

朝歌鼓刀叟,虎變磻溪中。

そうしてみれば、甯戚とか、百里奚という人物は、上のものが彼らを認める力があったからそうなったのであるが、これと少し違うのは太公望は、朝歌の市中にいて、刀を鼓して牛を屠殺していたが、これが、磻溪の中に、虎變して文王の師となったのである。

一舉釣六合,遂荒營丘東。

そして、一挙に六合を釣り上げて、天下統一の大功を成し遂げた後は、ついに、荒れていた營丘の東であるところの斉の國をわが有とした。

平生渭水曲,誰識此老翁。

太公望は、夢に見たといって探し求めてくれて遭遇できたからよかったけれど、それがなければ、平生の渭水のほとりで釣りをする一老翁に過ぎなかっただろうし、だれもこの人を識別できなかったであろう。

奈何今之人,雙目送飛鴻。

今の世の人は、衛の靈公が孔子を引見した時、空を飛ぶ雁を見ていたと同じことで、全く賢者を用いる意思がないと悟ったように、甯戚や、百里奚のように、それに、太公望のような偉人がいたとしても、世に出ることができずに、大功業を立てることができず、埋もれたままのものがいるということは慨嘆に堪えぬものである。

朝歌 鼓刀の叟,虎變す 磻溪の中。

一舉して六合を釣り,遂に營丘の東を荒【たも】つ。

平生 渭水の曲,誰か此の老翁を識らん。

奈何んぞ 今の人,雙目 飛鴻を送るを。

yoshu&choan736Ta唐 長安近郊圖  新02 

『鞠歌行』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
鞠歌行 #1

#3

朝歌鼓刀叟,虎變磻溪中。

一舉釣六合,遂荒營丘東。

平生渭水曲,誰識此老翁。

奈何今之人,雙目送飛鴻。


(下し文)
#3

朝歌 鼓刀の叟,虎變す 磻溪の中。

一舉して六合を釣り,遂に營丘の東を荒【たも】つ。

平生 渭水の曲,誰か此の老翁を識らん。

奈何んぞ 今の人,雙目 飛鴻を送るを。

(現代語訳)
#3

そうしてみれば、甯戚とか、百里奚という人物は、上のものが彼らを認める力があったからそうなったのであるが、これと少し違うのは太公望は、朝歌の市中にいて、刀を鼓して牛を屠殺していたが、これが、磻溪の中に、虎變して文王の師となったのである。

そして、一挙に六合を釣り上げて、天下統一の大功を成し遂げた後は、ついに、荒れていた營丘の東であるところの斉の國をわが有とした。

太公望は、夢に見たといって探し求めてくれて遭遇できたからよかったけれど、それがなければ、平生の渭水のほとりで釣りをする一老翁に過ぎなかっただろうし、だれもこの人を識別できなかったであろう。

今の世の人は、衛の靈公が孔子を引見した時、空を飛ぶ雁を見ていたと同じことで、全く賢者を用いる意思がないと悟ったように、甯戚や、百里奚のように、それに、太公望のような偉人がいたとしても、世に出ることができずに、大功業を立てることができず、埋もれたままのものがいるということは慨嘆に堪えぬものである。


(訳注) 鞠歌行 #3

鞠歌行

(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

陸機 鞠歌行晉 陸機 《鞠歌行》序:《漢宮閤》有 含章 鞠室, 靈芝 鞠室, 後漢 馬防 第宅卜臨道, 連閣、通池、鞠城, 彌於街路。 《鞠歌》將謂此也。” 張載 《鞠歌行》:《鞠歌》胡然兮, 邈余樂之不猶。”參見“

【きく】[漢字項目],きくいく【鞠育】,きくじん【鞠訊/鞫訊】,きくもん【鞠問/鞫問】,きっきゅうじょ【鞠躬如】,まり【鞠】,,鞠躬尽瘁,鞠躬。

 

朝歌鼓刀叟,虎變磻溪中。

そうしてみれば、甯戚とか、百里奚という人物は、上のものが彼らを認める力があったからそうなったのであるが、これと少し違うのは太公望は、朝歌の市中にいて、刀を鼓して牛を屠殺していたが、これが、磻溪の中に、虎變して文王の師となったのである。

朝歌鼓刀叟 太公望のこと。東海のほとりの出身であり、祖先は四岳の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという。元は屠殺人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する

磻溪 別に“磻谿”或は“ 磻磎”ともいう。太公望が釣りをしていた河川水名。今西省宝市東南,伝説にいう、周尚がまだ文王に遭遇していない時期に釣り糸を垂れていた場所であり、この地名を以て尚という意味としている

 

一舉釣六合,遂荒營丘東。

そして、一挙に六合を釣り上げて、天下統一の大功を成し遂げた後は、ついに、荒れていた營丘の東であるところの斉の國をわが有とした。

一舉釣六合 周の軍師として昌の子の発 (後の武王) を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ。殷を牧野の戦いで打ち破った。

遂荒營丘東 《詩経、魯頌》「奄有龜蒙、遂荒大東。」(龜蒙を奄有し、遂に大東を荒【たも】つ)亀山・蒙山をも奄い有ち、延いて大陸の極東のはてまでも覆い保有し、東海に臨む迄に至っている。 《史記、太公望、世家》「於是武王已平商而王天下、封師尚父於齊營丘。」(是に於いて武王は已に商を平らげて天下に王たり。 師尚父を斉の営丘に封ず。)とある。

営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した。

 

平生渭水曲,誰識此老翁。

太公望は、夢に見たといって探し求めてくれて遭遇できたからよかったけれど、それがなければ、平生の渭水のほとりで釣りをする一老翁に過ぎなかっただろうし、だれもこの人を識別できなかったであろう。

渭水曲 渭水の淵。渭水のほとりで釣りをする太公望のこと。

 

奈何今之人,雙目送飛鴻。

今の世の人は、衛の靈公が孔子を引見した時、空を飛ぶ雁を見ていたと同じことで、全く賢者を用いる意思がないと悟ったように、甯戚や、百里奚のように、それに、太公望のような偉人がいたとしても、世に出ることができずに、大功業を立てることができず、埋もれたままのものがいるということは慨嘆に堪えぬものである。

飛鴻 《史記、衛靈公第十五》 「衛靈公問陳於孔子。孔子對曰:俎豆之事、則嘗聞之矣、軍旅之事未之學也。明日遂行」靈公が雁が飛ぶ隊列を眺めてぼんやりしているのを見て、孔子は用ひられざるを知り、衛を去ることを決めたとしている。

743年(19)李白338-#2 巻三09-《鞠歌行》-#2 Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(19) <李白338-#2> Ⅰ李白詩1662 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6858

李白  鞠歌行 #2

聽曲知甯戚,夷吾因小妻。秦穆五羊皮,買死百里奚。洗拂青雲上,當時賤如泥。

それから、甯戚は齊の桓公をおかさんがために、歌を唄ったが、その意味は誰も意味合いを理解しえなかったが、幸いその時の宰相であった夷吾の小妻に賢明な婦人がいて、そのことを詳しく管仲に告げたから、管仲も初めてこれを悟り、やがてこれを桓公に進めて、ついに重く用いられたという。

それから秦の穆公は、五羊の皮をもって,百里奚を贖ったのであるが、それでも、百里奚を重用したことで、五覇の一と称せられるまでになった。

その当時、百里奚は、死に瀕した囚人に過ぎず、ひとたびこれを洗浄して、青雲の上にその身をいたさしめたがために、国家を治る大經綸を実施せしめることができたが、もしこれを洗拂するものがなかったならば、その賤しきこと、泥土のごとく、そのまま死んだことだろう。

743年(19)李白338-#2 巻三09-《鞠歌行》-#2 Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-19) <李白338-#2> Ⅰ李白詩1662 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6858

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-19

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    鞠歌行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              荊山 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)       

營丘 (河南道 青州 臨淄)   

磻溪 (京畿道 岐州 虢縣)   

交遊人物/地點:  

 

 

鞠歌行

(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

玉不自言如桃李,魚目笑之卞和恥。

「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」といわれるが、玉はものを言わないことだけは、桃李と同じであるが、その下に小道をなすような効果はない、これに反して、魚目は、玉が世人に重んぜられないと笑っても、玉自身は自らの価値の良しあしを言うわけではないので、「卞和の恥」といわれるように、それが「連城の璧」といわれるようなこともあるのである。

楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。

それは楚の國の話である、楚国には玉を汚す青蠅のようなものが充満していた、それがために「連城の壁」と交換されるほどの価値のある白璧でありながら、讒毀ということ遭遇し、偽物だという嫌疑を受けたのである。

荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。

かくて、卞和は、この玉が真の玉であることの証明ができず両足を切られ、荊山に隠れて長號し、もしこの忠臣がそのまま死んだら、足なしの幽霊となったであろう。

(鞠歌行【きくかこう】)

玉は自ら言わず 桃李の如し,魚目 之を笑うて卞和【べんか】恥づ。

楚國の青蠅 何ず太だ多し,連城の白璧 讒毀に遭う。

荊山 長く泣血の人を號ばしめ,忠臣 死せば 刖足【げっそく】の鬼と為らん。

#2

聽曲知甯戚,夷吾因小妻。

それから、甯戚は齊の桓公をおかさんがために、歌を唄ったが、その意味は誰も意味合いを理解しえなかったが、幸いその時の宰相であった夷吾の小妻に賢明な婦人がいて、そのことを詳しく管仲に告げたから、管仲も初めてこれを悟り、やがてこれを桓公に進めて、ついに重く用いられたという。

秦穆五羊皮,買死百里奚。

それから秦の穆公は、五羊の皮をもって,百里奚を贖ったのであるが、それでも、百里奚を重用したことで、五覇の一と称せられるまでになった。

洗拂青雲上,當時賤如泥。

その当時、百里奚は、死に瀕した囚人に過ぎず、ひとたびこれを洗浄して、青雲の上にその身をいたさしめたがために、国家を治る大經綸を実施せしめることができたが、もしこれを洗拂するものがなかったならば、その賤しきこと、泥土のごとく、そのまま死んだことだろう。

#2

曲を聽いては甯戚を知り,夷吾は小妻に因る。

秦穆 五羊の皮,死を買う 百里奚。

青雲の上に洗拂す,當時 賤しきこと泥の如し。
#3

朝歌鼓刀叟,虎變磻溪中。

一舉釣六合,遂荒營丘東。

平生渭水曲,誰識此老翁。

奈何今之人,雙目送飛鴻。

 

 

『鞠歌行』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
鞠歌行 #2

聽曲知甯戚,夷吾因小妻。

秦穆五羊皮,買死百里奚。

洗拂青雲上,當時賤如泥。

(下し文)

#2

曲を聽いては甯戚を知り,夷吾は小妻に因る。

秦穆 五羊の皮,死を買う 百里奚。

青雲の上に洗拂す,當時 賤しきこと泥の如し。


(現代語訳)
#2

それから、甯戚は齊の桓公をおかさんがために、歌を唄ったが、その意味は誰も意味合いを理解しえなかったが、幸いその時の宰相であった夷吾の小妻に賢明な婦人がいて、そのことを詳しく管仲に告げたから、管仲も初めてこれを悟り、やがてこれを桓公に進めて、ついに重く用いられたという。

それから秦の穆公は、五羊の皮をもって,百里奚を贖ったのであるが、それでも、百里奚を重用したことで、五覇の一と称せられるまでになった。

その当時、百里奚は、死に瀕した囚人に過ぎず、ひとたびこれを洗浄して、青雲の上にその身をいたさしめたがために、国家を治る大經綸を実施せしめることができたが、もしこれを洗拂するものがなかったならば、その賤しきこと、泥土のごとく、そのまま死んだことだろう。


(訳注) 鞠歌行#2

鞠歌行

(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

陸機 鞠歌行晉 陸機 《鞠歌行》序:《漢宮閤》有 含章 鞠室, 靈芝 鞠室, 後漢 馬防 第宅卜臨道, 連閣、通池、鞠城, 彌於街路。 《鞠歌》將謂此也。” 張載 《鞠歌行》:《鞠歌》胡然兮, 邈余樂之不猶。”參見“

【きく】[漢字項目],きくいく【鞠育】,きくじん【鞠訊/鞫訊】,きくもん【鞠問/鞫問】,きっきゅうじょ【鞠躬如】,まり【鞠】,,鞠躬尽瘁,鞠躬。

 

聽曲知甯戚,夷吾因小妻。

それから、甯戚は齊の桓公をおかさんがために、歌を唄ったが、その意味は誰も意味合いを理解しえなかったが、幸いその時の宰相であった夷吾の小妻に賢明な婦人がいて、そのことを詳しく管仲に告げたから、管仲も初めてこれを悟り、やがてこれを桓公に進めて、ついに重く用いられたという。

甯戚 斉の宰相。衛の人。斉桓公に用いられようと思い、斉に赴き、牛飼をして牛に飯を食わせる歌を歌った。桓公はこれを聞いて、 甯戚を見出して登用した。漢の劉向 《列女傳齊管妾婧》に以下のように書かれている。

齊管妾婧: 妾婧者,齊相管仲之妾也。甯戚欲見桓公,道無從,乃為人僕。將車宿齊東門之外,桓公因出,甯戚擊牛角而商歌,甚悲,桓公異之,使管仲迎之,甯戚稱曰: 浩浩乎白水! 管仲不知所謂, 不朝五日, 而有憂色。 其妾婧進曰:古有《白水》之詩。 詩不云乎「浩浩白水,儵儵之魚,君來召我,我將安居,國家未定,從我焉如。」此甯戚之欲得仕國家也。  管仲大悦,以報桓公。桓公乃修官府,齊戒五日,見寧子,因以爲佐,齊國以治。

妾婧は,齊相である管仲の妾なり。甯戚 桓公に見えんと欲す,道 從る無し,乃ち人の僕と為り。車を將いて齊の東門の外に宿す,桓公 因って出づ,甯戚 牛角を擊って 商歌,甚だ悲し,桓公 之を異み,管仲をして之を迎えしむ,甯戚 稱して曰く: 浩浩乎たり 白水と! 管仲 謂う所を知らず, 朝せざること五日にして,憂色有り。 其の妾婧 進んで曰く:古の《白水》の詩有り。 詩に云わずや「浩浩たり白水,儵儵の魚,君來って我を召く,我 安居に將て,國家 未た定らず,我從て焉如。」此甯戚國家うるをんとする也。  管仲 大いに悦び,以って桓公に報ず。桓公 乃ち官府を修し,齊戒すること五日にして,寧子を見,因って以て佐と爲し,齊國 以って治まる。

夷吾 管仲の字。夷吾は、中国の春秋時代における斉の政治家である。桓公に仕え、覇者に押し上げた。一般には字の仲がよく知られており、以下本稿でも管 仲として記す。三国時代の管寧はその後裔という。

因小妻 小妻に賢明な婦人がいて、その内容ことを詳しく管仲に告げたことによる。

〔桓公:春秋時代・斉の第16代君主。春秋五覇の筆頭に晋の文公と並び数えられる。鮑叔の活躍により公子糾との公位継承争いに勝利し、管仲を宰相にして斉を強大な国とした。実力を失いつつあった東周に代わって会盟を執り行った。〕

 

秦穆五羊皮,買死百里奚。

それから秦の穆公は、五羊の皮をもって,百里奚を贖ったのであるが、それでも、百里奚を重用したことで、五覇の一と称せられるまでになった。

百里奚 春秋時代の秦の人。字(あざな)は井伯。孟明視の父。楚に捕らえられていたとき、秦の穆公(ぼくこう)がその賢を聞き、羖羊(こよう)(黒い牡の羊)の皮5枚で買って宰相としたので、その恩にこたえて大いに活躍、穆公を春秋五覇の一人とした。五羖大夫(ごこたいふ)

 

洗拂青雲上,當時賤如泥。

その当時、百里奚は、死に瀕した囚人に過ぎず、ひとたびこれを洗浄して、青雲の上にその身をいたさしめたがために、国家を治る大經綸を実施せしめることができたが、もしこれを洗拂するものがなかったならば、その賤しきこと、泥土のごとく、そのまま死んだことだろう。

〔經綸:国家の秩序をととのえ治めること。また、その方策。(大展經綸《三國演義》第三十八回:“先取荊州後取川,大展經綸補天手。)政治的な才能を十分に発揮すること〕

743年(19)李白338 巻三09-《鞠歌行》(玉不自言如桃李,) 338Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(19) <李白338> Ⅰ李白詩1661 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6853

李白  鞠歌行 #1

玉不自言如桃李,魚目笑之卞和恥。楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。

荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。

(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」といわれるが、玉はものを言わないことだけは、桃李と同じであるが、その下に小道をなすような効果はない、これに反して、魚目は、玉が世人に重んぜられないと笑っても、玉自身は自らの価値の良しあしを言うわけではないので、「卞和の恥」といわれるように、それが「連城の璧」といわれるようなこともあるのである。それは楚の國の話である、楚国には玉を汚す青蠅のようなものが充満していた、それがために「連城の壁」と交換されるほどの価値のある白璧でありながら、讒毀ということ遭遇し、偽物だという嫌疑を受けたのである。かくて、卞和は、この玉が真の玉であることの証明ができず両足を切られ、荊山に隠れて長號し、もしこの忠臣がそのまま死んだら、足なしの幽霊となったであろう。

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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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年:743年天寶二年43歳 94-19

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    鞠歌行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              荊山 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)       

營丘 (河南道 青州 臨淄)   

磻溪 (京畿道 岐州 虢縣)   

交遊人物/地點:  

 

 

鞠歌行

(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

玉不自言如桃李,魚目笑之卞和恥。

「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」といわれるが、玉はものを言わないことだけは、桃李と同じであるが、その下に小道をなすような効果はない、これに反して、魚目は、玉が世人に重んぜられないと笑っても、玉自身は自らの価値の良しあしを言うわけではないので、「卞和の恥」といわれるように、それが「連城の璧」といわれるようなこともあるのである。

楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。

それは楚の國の話である、楚国には玉を汚す青蠅のようなものが充満していた、それがために「連城の壁」と交換されるほどの価値のある白璧でありながら、讒毀ということ遭遇し、偽物だという嫌疑を受けたのである。

荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。

かくて、卞和は、この玉が真の玉であることの証明ができず両足を切られ、荊山に隠れて長號し、もしこの忠臣がそのまま死んだら、足なしの幽霊となったであろう。

(鞠歌行【きくかこう】)

玉は自ら言わず 桃李の如し,魚目 之を笑うて卞和【べんか】恥づ。

楚國の青蠅 何ず太だ多し,連城の白璧 讒毀に遭う。

荊山 長く泣血の人を號ばしめ,忠臣 死せば 刖足【げっそく】の鬼と為らん。
#2

聽曲知甯戚,夷吾因小妻。

秦穆五羊皮,買死百里奚。

洗拂青雲上,當時賤如泥。

#3

朝歌鼓刀叟,虎變磻溪中。

一舉釣六合,遂荒營丘東。

平生渭水曲,誰識此老翁。

奈何今之人,雙目送飛鴻。

 

詩文(含異文)

玉不自言如桃李,魚目笑之卞和恥。楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。

荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。聽曲知甯戚,夷吾因小妻。秦穆五羊皮,買死百里奚。洗拂青雲上,當時賤如泥。朝歌鼓刀叟,虎變磻溪中。一舉釣六合,遂荒營丘東。平生渭水曲,誰識此老翁【誰數此老翁】。奈何今之人,雙目送飛鴻【雙目送征鴻】。

 

 

『鞠歌行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

鞠歌行

玉不自言如桃李,魚目笑之卞和恥。

楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。

荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。

(下し文)
(鞠歌行【きくかこう】)

玉は自ら言わず 桃李の如し,魚目 之を笑うて卞和【べんか】恥づ。

楚國の青蠅 何ず太だ多し,連城の白璧 讒毀に遭う。

荊山 長く泣血の人を號ばしめ,忠臣 死せば 刖足【げっそく】の鬼と為らん。

(現代語訳)
(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」といわれるが、玉はものを言わないことだけは、桃李と同じであるが、その下に小道をなすような効果はない、これに反して、魚目は、玉が世人に重んぜられないと笑っても、玉自身は自らの価値の良しあしを言うわけではないので、「卞和の恥」といわれるように、それが「連城の璧」といわれるようなこともあるのである。

それは楚の國の話である、楚国には玉を汚す青蠅のようなものが充満していた、それがために「連城の壁」と交換されるほどの価値のある白璧でありながら、讒毀ということ遭遇し、偽物だという嫌疑を受けたのである。

かくて、卞和は、この玉が真の玉であることの証明ができず両足を切られ、荊山に隠れて長號し、もしこの忠臣がそのまま死んだら、足なしの幽霊となったであろう。


(訳注)

鞠歌行

(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

陸機 鞠歌行晉 陸機 《鞠歌行》序:《漢宮閤》有 含章 鞠室, 靈芝 鞠室, 後漢 馬防 第宅卜臨道, 連閣、通池、鞠城, 彌於街路。 《鞠歌》將謂此也。” 張載 《鞠歌行》:《鞠歌》胡然兮, 邈余樂之不猶。”參見“

鞠【きく】[漢字項目],きくいく【鞠育】,きくじん【鞠訊/鞫訊】,きくもん【鞠問/鞫問】,きっきゅうじょ【鞠躬如】,まり【鞠】,,鞠躬尽瘁,鞠躬。

 

玉不自言如桃李,魚目笑之卞和恥。

「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」といわれるが、玉はものを言わないことだけは、桃李と同じであるが、その下に小道をなすような効果はない、これに反して、魚目は、玉が世人に重んぜられないと笑っても、玉自身は自らの価値の良しあしを言うわけではないので、「卞和の恥」といわれるように、それが「連城の璧」といわれるようなこともあるのである。

○桃李 司馬遷《史記李將軍列傳論》「諺曰:『桃李不言,下自成蹊。』此言雖小,可以諭大也。」(諺に曰はく、「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」此の言小なりと雖も、以て大をふべきなり。)

 

《荀子》「桃李茜粲于一時,時至而後殺,至于松柏,經隆冬而不凋,蒙霜雪而不變,可謂得其真矣」(桃李は一時に茜粲たるも,時至って後に殺がる,松柏に至っては,隆冬を經て凋まず,霜雪を蒙って變せず,其の真を得たりと謂う可し。)に基づく。松柏は、御陵の東西に植えられる常緑樹。

李白《送薛九被讒去魯》「賢哉四公子,撫掌黃泉裡。借問笑何人,笑人不好士。爾去且勿諠,桃李竟何言。沙丘無漂母,誰肯飯王孫。」(賢なる哉 四公子,掌を撫す 黃泉の裡。

借問す 何人を笑うか,人の 士を好まざるを笑う。爾 去って 且つ諠しゅう勿れ,桃李 竟に何をか言う。沙丘に漂母無く,誰か肯えて 王孫に飯せん。)

ここにあげた、平原公君、孟嘗君、信陵君、春申君の四人は、戦国時代にあって、共に、賓客を好み、四公子と名をはせた賢者たちで、その死後、黄泉の国において、互いに尊重したがいに慰め合っているであろう。そこで、何人を笑うのかと問うてみると、世の中の権勢のある人が兎角好まず、したがって大事業を起こせないようなものこそつまらぬもので笑うべき人というのである。君は今、高士を好まざる世の中において、ついにもちいられず、讒言を被って追い出されてしまったからと言って格別恥にはならない。素直にここを発ち去って、くどくどしく騒ぎ立てない方が宜しいし、物言わずして、自然にその下に小路を為すという桃李のように、奥ゆかしく有ってほしいのである。顧みれば、この砂丘を中心とする、魯國を訪ね回ってみても、韓信の漂母のようなものはいないのであるから、王孫の窮を憐れんで、これに飯を与えるというようなこともないから、この地は、決して、九恋の地ではない。從ってさっさとここを立ち去って他の地に往く方が良いのである。

295-#2 《卷11-14贈從弟冽》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <295-#2> Ⅰ李白詩1590 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6498

 

 

贈范金卿,二首之一 #1

君子枉清盼,不知東走迷。離家來幾月,絡緯鳴中閨。

桃李君不言,攀花願成蹊。那能吐芳信,惠好相招攜。

我有結綠珍,久藏濁水泥。

(范金卿に贈る,二首の一) #1

君子 清盼を枉げ,知らず 東に走って迷うを。

家を離れて 幾月來り,絡緯 中閨に鳴く。

桃李 君 言わず,花を攀じて 蹊を成さんと願う。

那ぞ能く芳信を吐き,惠好 相い 招攜せん。

我に結綠の珍有り,久しく 濁水の泥に藏す。

(兗州金縣の縣令の范某に贈った詩、その一) #1

君子は、涼しき目を動かして、四邊を見まわし、狂者を逐うで東定するものの心迷えるを知らず、あくまで純潔の心情を持って居る。

われ家を離れて、未だ幾月も経過せざるに、春去り、夏徂き、世は既に秋に成って、かごとがましき蟲の聾が、閨中に近くすだくのが聞こえる。

君の徳化は、さながら桃李の花の如く、物言はざれども誠信の心は、自然、人を引きつけて、その下、自ら蹊を成す位、われも亦た、其花をとじて、蹊を開きたいと思う位である。

君にして、わが為に、芳言を吐き、惠して之を好し、われを招いて、提携して呉れるならば、この上もない仕合せな事である。

われは、結緑の美玉を持って居るが、濁れる泥水の中に久しく蔵して置いた故に、時人は、その寶たることを知らす、これを棄てて、宋人の燕石と同様、全然價の無い詰まらぬ物と思って居る。

282-#1 《卷8-07贈范金卿,二首之一》-#1Index-20Ⅱ― 15-740年開元二十八年40歳 <282-#1> Ⅰ李白詩1564 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6368

 

 

李白《送姪良攜二妓赴會稽戲有此贈》「攜妓東山去,春光半道催。遙看若桃李,雙入鏡中開。」(妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。遙【はるか】に看る 桃李の若く、双【ふたつ】ながら鏡中に入って開く。

(おいの良が妓を携えて会稽に遊びに出かけるについて、送別のために、たわむれにこの詩を作って贈ったものである。)
おいの良が妓を携えて会稽に遊びに出かけるについて、丁度、晉の大傳謝安の東山におけるがごとくである。そして会稽に赴く道中においては、春光次第に催し、まことに、良い時候で、その風興も謝安のように思われる。

汝が携えている二人の妓女を遙かに看れば、さながら、赤い桃花と白い李花がさいて姸を競っているかのようだ、そして、鏡湖の中に入って、舟を浮かべての宴は、はなやかに開かれて、その風情はまたひとしおであろうけど、わたしは、はるかな長江流れにいる。

274 《卷十六11送姪良攜二妓赴會稽戲有此贈(改訂)》Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 <274> Ⅰ李白詩1552 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6308

 

 

李白《贈徐安宜》「川光淨麥隴,日色明桑枝。訟息但長嘯,賓來或解頤。青橙拂牖,白水流園池。遊子滯安邑,懷恩未忍辭。翳君樹桃李,晚託深期。」

川光 麥隴に淨く,日色 桑枝に明かなり。

訟息んで 但だ長嘯し,賓 來って或は頤【おとがい】を解く。

青橙は牖を拂い,白水は園池に流る。

遊子 安邑に滯し,恩を懷うて 未だ辭するに忍びず。

翳【これ】君 桃李を樹う,晚 深期を託す。

されば、野水はキラキラとして麦畑の間に浄く見えている、太陽の光は桑の葉や枝打を大きくするように鮮やかに照らしている。

徐公の庭の上には、訴訟沙汰などは興っていなく、いたって暢気であるから長嘯しているのであるし、賓客が来訪すれば話し上手でみんなを笑わせてくれるのである。

そして、徐公の住居と云えば、青橙が窓際に植えられていて、清らかな水の流れは園地に流れ込む。

私は、今、この地、安邑に旅人として来て久しく滞留していたが、徐公の治下を見て、痛く心に感じるもので、辞して去るには忍びない。

思えば、貴公は桃李を植えたようなもので、「夏は休息を得るべく、秋は実を得るべし」と云う通り、いずれ目に見えるような結果があるに相違ないから、これを貴公の晩年に期して、心長閑に待っておられるのがよいであろう。

 

樹桃李 《説苑》「夫樹桃李者。夏得休息。秋得食焉。樹蒺藜者。夏不得休息。秋得其刺焉。今子之所種(種作樹)者蒺藜也。非桃李也。自今已來。擇人而樹之。毋已樹而擇之也。」に基づく。

264-#2 《卷8-04贈徐安宜#2》Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 <264-#2>(改訂版Ver..2.1) Ⅰ李白詩1532 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6208

 

 

魚目 魚の目。李白《古風,五十九首之五十六》「魚目復相哂,寸心增煩紆。」(魚目して 復た相い哂い,寸心 煩紆を增す。)これが魚の目であれば、珠の形をしているが、なんの価値もないものであるが、今の世では、この方が帰って珍とされるぐらいで、魚目は、南越の明珠を笑っているというもので、何らの価値を見出さないのである。君子が君王に見いだされないで、かえって世人、小人、どもの侮蔑されるのも、丁度この事と同じことであり、これを思えば、方寸の心の中で、頻りに思いは乱れるというもののである。

・魚目 魚の目。・寸心 方寸の心の中。・煩紆 頻りに思いは乱れる。

李白327 《巻一56-《古風,五十九首之五十六 (越客採明珠)327Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-8) <李白327> Ⅰ李白詩1640 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6748

笑之卞和恥 

 

楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。

それは楚の國の話である、楚国には玉を汚す青蠅のようなものが充満していた、それがために「連城の壁」と交換されるほどの価値のある白璧でありながら、讒毀ということ遭遇し、偽物だという嫌疑を受けたのである。

 

荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。

かくて、卞和は、この玉が真の玉であることの証明ができず両足を切られ、荊山に隠れて長號し、もしこの忠臣がそのまま死んだら、足なしの幽霊となったであろう。

卞和 卞和の壁(卞和恥)(趙王璧)「楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。」以上四句は〔卞和恥〕の逸話である。 春秋時代の楚()の人。山中で得た宝玉の原石を楚の厲王(れいおう)に献じたが信じてもらえず左足を切られ、次の武王のときにも献じたが、ただの石だとして右足を切られた。文王が位につき、これを磨かせると、はたして玉であったので、この玉を「和氏(かし)の璧(たま)」と称した。のち、趙(ちょう)の恵文王がこの玉を得たが、秦の昭王が15の城と交換したいと言ったので、「連城の璧」とも称された。

 

 

李白《古風,五十九首之五十》

宋國梧臺東,野人得燕石。誇作天下珍,卻哂趙王璧。

趙璧無緇磷,燕石非貞真。流俗多錯誤,豈知玉與珉。

宋國 梧臺の東,野人 燕石を得たり。

誇って 天下の珍と作し,卻って 趙王の璧を哂う。

趙璧は 緇磷【しりん】無く,燕石は 貞真に非らず。

流俗 錯誤多し,豈に玉と珉とを知らんや。

(この詩は、世俗のものは短見であり、間違った思い込みを貫き通し、すべてものの真贋、人の賢否を弁別しないことを傷んだもの)

昔から、愚鈍の評判のある宋国の人が、梧台の東において、普通にとつまらぬ燕石を拾ってきた。

一途に普通にとつまらぬ燕石と思っていたのが素晴らしい璧玉であった趙王の秘蔵する「卞和の璧玉」にも勝る天下の至宝だと思い込んで、折角だからと、これを大切にしたという話がある。

かの趙の璧玉は論語「不曰堅乎?磨而不磷;不曰白乎?涅而不緇。」というように、少しの傷もなく、その上光明爛然たるものであるが、この燕石は、その石質といえば、堅貞清真にあらず、もとより三文の値打もないものである。

しかし、この様な話は、一人、宋人のことだけではなく、滔々たる末世の風俗として、物事に錯誤が多く、玉とこれに似て非なる珉戸を全く判別することなく、つまらぬものを大切にし、貴きものを打ち棄てるということが、間間あるのである。まことに慨嘆に堪えぬ次第である。

○宋國梧臺東,野人得燕石 《藝文類聚》《闞子》「宋之愚人,得燕石於梧臺之東,歸而藏之以為寶,周客聞而觀焉。主人齋七日,端冕玄服以發寶,革匱十重,緹巾十襲,客見之。掩口而笑曰:此特燕石也。其與瓦甓不殊。主人大怒曰:「商賈之言,醫匠之口。」(宋之愚人、燕石を梧臺の東()に得て、西に帰ってこれを蔵し、以て大寶となす。周の客聞いてみる。主人斉すること七日、 端冕玄服、以て大寶となす。革重,緹巾十。客これを見て、首を傾げ、口を覆い、盧胡して笑って曰く「これ、燕石なり、瓦甓と异ならず。主人大いに怒って曰く「商買の言、醫匠のこころなり。」と。これを蔵すること、愈々固し。」とある。

燕石は 燕山所的一种似玉的石亦称"燕珉"不足珍之物。とされる。

この二句は、《太平御覧》卷五十一《闕子》曰:宋之愚人得燕石于梧台之西藏之以大宝。周客焉。主人端冕玄服以宝,华匮十重,巾十。客之,胡而笑曰:「此燕石也,与瓦甓不异。」主人大怒,藏之愈固。

743年(22)李白337 巻三08-《于闐採花》(于闐採花人,) 337Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(22) <李白337> Ⅰ李白詩1660 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6848

李白  于闐採花

于闐採花人,自言花相似。明妃一朝西入胡,胡中美女多羞死。

乃知漢地多名姝,胡中無花可方比。

丹青能令醜者妍,無鹽翻在深宮裡。自古妒蛾眉,胡沙埋皓齒。
(西域異民族の于闐国の花を摘む女)

西域異民族の于闐国の花を摘む女は、自分の顔色も、その花に似ていると思っているものである。それは彼女たちが中国の花、美女を知らないからで、王昭君がある朝、匈奴に嫁して匈奴に入ったときに、胡中の美女たちはその美しさに多くのものが、羞死したという。

このことで中国には名姝がとても多くいるということが認知され、胡中の花では比べるものがなかったというのである。王昭君がなぜ匈奴に入ったのかというと、後宮絵師の毛延寿に賄賂を渡さなかったために選定画を見にくく書かれたことで、不美人を選定し、胡地に送ったのであった。是と反対に、無鹽のごとき醜いものであっても多分な賄賂を贈っていれば、選定画を絶世の美女に書き上げ後宮の妃賓の列に加わり、君側に侍することになるのである。古より言われていることわざ通り、蛾眉は後宮に入れば、妬まれるものであり、それも胡地に送られる言であり、その絶世の美女は胡地の砂漠に明眸皓歯をうずめて、ついに帰らぬ人となった。人生には、凡そ、このような実に慨嘆に堪えぬこともあるのである。

743年(22)李白337 巻三08-《于闐採花》(于闐採花人,) 337Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-22) <李白337> Ⅰ李白詩1660 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6848

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-22

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    于闐採花

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

于闐採花

(西域異民族の于闐国の花を摘む女)

于闐採花人,自言花相似。

西域異民族の于闐国の花を摘む女は、自分の顔色も、その花に似ていると思っているものである。

明妃一朝西入胡,胡中美女多羞死。

それは彼女たちが中国の花、美女を知らないからで、王昭君がある朝、匈奴に嫁して匈奴に入ったときに、胡中の美女たちはその美しさに多くのものが、羞死したという。

乃知漢地多名姝,胡中無花可方比。

このことで中国には名姝がとても多くいるということが認知され、胡中の花では比べるものがなかったというのである。

丹青能令醜者妍,無鹽翻在深宮裡。

王昭君がなぜ匈奴に入ったのかというと、後宮絵師の毛延寿に賄賂を渡さなかったために選定画を見にくく書かれたことで、不美人を選定し、胡地に送ったのであった。是と反対に、無鹽のごとき醜いものであっても多分な賄賂を贈っていれば、選定画を絶世の美女に書き上げ後宮の妃賓の列に加わり、君側に侍することになるのである。

自古妒蛾眉,胡沙埋皓齒。

古より言われていることわざ通り、蛾眉は後宮に入れば、妬まれるものであり、それも胡地に送られる言であり、その絶世の美女は胡地の砂漠に明眸皓歯をうずめて、ついに帰らぬ人となった。人生には、凡そ、このような実に慨嘆に堪えぬこともあるのである。

 

(于闐【うてん】 花を採る)

于闐 花を採る人,自ら言う 花 相い似たり。

明妃 一朝 西に 胡に入る,胡中の美女 多く羞死す。

乃ち知る 漢地に名姝多く,胡中 花 方比す可き無し。

丹青 能く醜者をして妍なら令む,無鹽 翻って 深宮の裡に在り。

古より 蛾眉を妒み,胡沙 皓齒を埋む。

安史期のアジア5s 

 

『于闐採花』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

于闐採花

于闐採花人,自言花相似。

明妃一朝西入胡,胡中美女多羞死。

乃知漢地多名姝,胡中無花可方比。

丹青能令醜者妍,無鹽翻在深宮裡。

自古妒蛾眉,胡沙埋皓齒。

(下し文)
(于闐【うてん】 花を採る)

于闐 花を採る人,自ら言う 花 相い似たり。

明妃 一朝 西に 胡に入る,胡中の美女 多く羞死す。

乃ち知る 漢地に名姝多く,胡中 花 方比す可き無し。

丹青 能く醜者をして妍なら令む,無鹽 翻って 深宮の裡に在り。

古より 蛾眉を妒み,胡沙 皓齒を埋む。

(現代語訳)
(西域異民族の于闐国の花を摘む女)

西域異民族の于闐国の花を摘む女は、自分の顔色も、その花に似ていると思っているものである。

それは彼女たちが中国の花、美女を知らないからで、王昭君がある朝、匈奴に嫁して匈奴に入ったときに、胡中の美女たちはその美しさに多くのものが、羞死したという。

このことで中国には名姝がとても多くいるということが認知され、胡中の花では比べるものがなかったというのである。

王昭君がなぜ匈奴に入ったのかというと、後宮絵師の毛延寿に賄賂を渡さなかったために選定画を見にくく書かれたことで、不美人を選定し、胡地に送ったのであった。是と反対に、無鹽のごとき醜いものであっても多分な賄賂を贈っていれば、選定画を絶世の美女に書き上げ後宮の妃賓の列に加わり、君側に侍することになるのである。

古より言われていることわざ通り、蛾眉は後宮に入れば、妬まれるものであり、それも胡地に送られる言であり、その絶世の美女は胡地の砂漠に明眸皓歯をうずめて、ついに帰らぬ人となった。人生には、凡そ、このような実に慨嘆に堪えぬこともあるのである。


(訳注)

于闐採花

(西域異民族の于闐国の花を摘む女)

于闐採花 六朝の陳隋《海山記》「山川雖異所,草木尚同春。亦如溱洧地,自有采花人。」にあるのが本辭である。西国異民族の音譜を把手中国の歌楽に乗せるのが大流行し、ここにいう于闐国、即ち、胡国、異民族、匈奴であるから、李白は、王昭君の故事を詠じたのである。

于闐 西域南道沿いにあった仏教王国。タリム盆地のタクラマカン砂漠の南に位置する。現在では中華人民共和国新疆ウイグル自治区にあたる。漢語では于闐(うてん)、于寘(うてん)、於闐。コータン王国とも書かれる。漢、唐代の中国では「于」として知られていた。オアシス沿いにあり、植えられていたクワによる絹および絹織物、その他軟玉、硬玉(共にヒスイの一種)および陶磁器を輸出していた。

 

于闐採花人,自言花相似。

西域異民族の于闐国の花を摘む女は、自分の顔色も、その花に似ていると思っているものである。

 

明妃一朝西入胡,胡中美女多羞死。

それは彼女たちが中国の花、美女を知らないからで、王昭君がある朝、匈奴に嫁して匈奴に入ったときに、胡中の美女たちはその美しさに多くのものが、羞死したという。

明妃一朝西入胡 明妃は王昭君。周辺各国境付近で局地戦を常に行っている。一方、和平策も行っている。それは、最も普通なのは古来より行われた騎馬民族に対し豊かな産物や文化財を与へて懐柔するやり方と、婚姻という形をとった。この李白の時代まで、二千年近くも続いていたことであり、その中で、もっとも興味を持たれるのは、王昭君であった。

 

乃知漢地多名姝,胡中無花可方比。

このことで中国には名姝がとても多くいるということが認知され、胡中の花では比べるものがなかったというのである。

方比 比べてみること。

 

丹青能令醜者妍,無鹽翻在深宮裡。

王昭君がなぜ匈奴に入ったのかというと、後宮絵師の毛延寿に賄賂を渡さなかったために選定画を見にくく書かれたことで、不美人を選定し、胡地に送ったのであった。是と反対に、無鹽のごとき醜いものであっても多分な賄賂を贈っていれば、選定画を絶世の美女に書き上げ後宮の妃賓の列に加わり、君側に侍することになるのである。

丹青能令醜者妍 ・丹青は宮廷絵師のこと。丹青は赤と青の鉱物性絵の具。1 赤と青。丹碧。2 絵の具。また、彩色。「―の妙を尽くす」3 《「たんぜい」とも》絵画。また、絵の具で描くこと。

無鹽 「貌似無鹽」醜女にたいする形容である,這「無鹽」とは是れ戰國時代齊國の無鹽縣醜女が鐘離の春,今の山東東平縣東部に在る。書上她「四十にして未だ嫁せず」,「極めて醜く雙と無し」,「凹頭 深目,長肚大節,昂鼻結喉,肥頂少髮」,而して且つ「皮膚烤漆」とみにくいことをいう。

 

自古妒蛾眉,胡沙埋皓齒。

古より言われていることわざ通り、蛾眉は後宮に入れば、妬まれるものであり、それも胡地に送られる言であり、その絶世の美女は胡地の砂漠に明眸皓歯をうずめて、ついに帰らぬ人となった。人生には、凡そ、このような実に慨嘆に堪えぬこともあるのである。

 

 

王昭君  李白

昭君払玉鞍、上馬啼紅頬。

今日漢宮人、明朝胡地妾。

 

王昭君  李白

漢家秦地月、流影照明妃。

一上玉関道、天涯去不帰。

漢月還従東海出、明妃西嫁無来日。

燕支長寒雪作花、娥眉憔悴没胡沙。

生乏黄金枉図画、死留青塚使人嗟。

 

李白33-35 王昭君を詠う 三首

怨詩 昭君  漢詩<110-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩545 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1452

怨詩 王昭君  漢詩<110-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩546 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1455

王昭君歎二首 其一 沈満願(梁の征西記室范靖の妻) <114-#1>玉台新詠集 女性詩 551 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1470

王昭君歎二首 其二 沈満願(梁の征西記室范靖の妻) 女流<115>玉台新詠集 女性詩 552 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1473

 

◎王昭君
前漢の元帝の宮女。紀元前33年(竟寧元年)、匈奴との和親のため、呼韓邪単于に嫁し、「寧胡閼氏」としてその地で没した。名は檣。昭君は字。明君、明妃は、「昭」字をさけたための晋以降の称。
『漢書・本紀・元帝紀』「竟寧元年春正月,匈奴 呼韓邪單于來朝。詔曰:「匈奴呼韓邪單于不忘恩德,鄕慕禮義,復修朝賀之禮,願保塞傳之無窮,邊垂長無兵革之事。其改元爲竟寧,賜單于待詔掖庭王檣爲閼氏。」
王檣 王昭君のこと。
閼氏 單于の正妻の称で皇后のこと。
『漢書・匈奴傳・下』「王昭君號寧胡閼氏,生一男伊屠智牙師,爲右日逐王。」
多くの子供をもうけ、夫の没後は、匈奴の習慣に従った再婚をし、父子二代の妻となり、更に子供を儲けている。子供達の名も記録されている。
辺疆安寧のための犠牲になったことで漢・匈奴友好使節の役を果たした。
李白33-35 王昭君を詠う 三首、五言絶句『王昭君』、雑言古詩、『王昭君』、雑言古詩『于闐採花』、王昭君ものがたり『王昭君 二首』 白楽天
聞歌
斂笑凝眸意欲歌,高雲不動碧嵯峨。
銅臺罷望歸何處,玉輦忘還事幾多。
靑冢路邊南雁盡,細腰宮裏北人過。
此聲腸斷非今日,香
燈光奈爾何。

李商隠 3 聞歌

王昭君の七十余年前に、烏孫公主の故事がある。烏孫公主は漢の皇室の一族、江都王・劉建の娘で、武帝の従孫になる劉細君のこと。彼女は、西域の伊犂地方に住んでいたトルコ系民族の国家・烏孫国に嫁した。ともに漢王朝の対西域政策と軍略を物語るものである。
悲愁歌 烏孫公主(劉細君) 女流<108542 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1443

oushokun01

◎『怨詩』
空高く飛ぶ鳥のさまから己の身を想い、遙かに離れ去ることとなってしまった境遇を詠う。『樂府詩集』に基づく。『昭君怨』『怨曠思惟歌』ともする。

李白336 巻三04-《陽春歌》(長安白日照春空,) 336Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(21) <李白336> Ⅰ李白詩1659 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6843

李白  陽春歌   

長安白日照春空,綠楊結煙桑嫋風。

披香殿前花始紅,流芳發色繡中。

中,相經過,飛燕皇後輕身舞,紫宮夫人世歌。

聖君三萬六千日,歲歲年年奈樂何。

(宮中における春日行楽の行状をのべたもの)

長安の春は、いとも長閑けく晴れ渡って煕煕たる白日は、空に輝く、緑に煙る楊柳は、そよ吹く東風に垂れている。後宮のうちにおいて披香殿前の花は、初めて紅にほころび、花の香りが流れ渡り、花の色は、いよいよ鮮やかに、繡にその影を映している。中には、幾多の宮女が往来するのも、引きを切らず、やがて、奥御殿においては、趙飛燕にも負けない容貌の皇后が、いとも軽い感じで掌上の舞をおどり、未央宮の中で第一であると称された李夫人のような妃嬪が歌を唄うとまことに世に類を見ないものであろう。聖天の君主の喜びは申すまでもなく、太平の日に際し、百年三萬六千日、日ごと日ごと、かくのごとく歓楽を極められるので、年々歳々、時々刻々、時は移りかわるが、君主の恩徳の機運は変わらず、歓楽も少しも衰えることはなく、まことにめでたいものである。

李白336 巻三04-《陽春歌》(長安白日照春空,) 336Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-21) <李白336> Ⅰ李白詩1659 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6843

 

 
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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李白336 巻三04-《陽春歌》(長安白日照春空,) 336Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(21) <李白336> Ⅰ李白詩1659 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6843  
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  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
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年:743年天寶二年43

卷別:    卷一六三              文體:    樂府・相和歌辭

詩題:    陽春歌

作地點:長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:長安 (京畿道 京兆府 長安) 別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都      

披香殿 (京畿道 京兆府 長安)          

 

 

陽春歌

(宮中における春日行楽の行状をのべたもの)

長安白日照春空,綠楊結煙桑嫋風。

長安の春は、いとも長閑けく晴れ渡って煕煕たる白日は、空に輝く、緑に煙る楊柳は、そよ吹く東風に垂れている。

披香殿前花始紅,流芳發色繡中。

後宮のうちにおいて披香殿前の花は、初めて紅にほころび、花の香りが流れ渡り、花の色は、いよいよ鮮やかに、繡にその影を映している。

中,相經過,飛燕皇後輕身舞,紫宮夫人世歌。

中には、幾多の宮女が往来するのも、引きを切らず、やがて、奥御殿においては、趙飛燕にも負けない容貌の皇后が、いとも軽い感じで掌上の舞をおどり、未央宮の中で第一であると称された李夫人のような妃嬪が歌を唄うとまことに世に類を見ないものであろう。

聖君三萬六千日,歲歲年年奈樂何。

聖天の君主の喜びは申すまでもなく、太平の日に際し、百年三萬六千日、日ごと日ごと、かくのごとく歓楽を極められるので、年々歳々、時々刻々、時は移りかわるが、君主の恩徳の機運は変わらず、歓楽も少しも衰えることはなく、まことにめでたいものである。

(陽春歌)

長安の白日 春空を照らす,綠楊 煙を結んで嫋風に桑す。

披香殿の前 花 始めて紅に,流芳 色を發す 繡中。

中,相い經過す,飛燕皇後 輕身の舞,紫宮夫人 世の歌。

聖君 三萬六千日,歲歲年年 樂を奈何


 

『陽春歌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

陽春歌

長安白日照春空,綠楊結煙桑嫋風。

披香殿前花始紅,流芳發色繡中。

中,相經過,飛燕皇後輕身舞,紫宮夫人世歌。

聖君三萬六千日,歲歲年年奈樂何

(下し文)
(陽春歌)

長安の白日 春空を照らす,綠楊 煙を結んで嫋風に桑す。

披香殿の前 花 始めて紅に,流芳 色を發す 繡中。

中,相い經過す,飛燕皇後 輕身の舞,紫宮夫人 世の歌。

聖君 三萬六千日,歲歲年年 樂を奈何

(現代語訳)
(宮中における春日行楽の行状をのべたもの)

長安の春は、いとも長閑けく晴れ渡って煕煕たる白日は、空に輝く、緑に煙る楊柳は、そよ吹く東風に垂れている。

後宮のうちにおいて披香殿前の花は、初めて紅にほころび、花の香りが流れ渡り、花の色は、いよいよ鮮やかに、繡にその影を映している。

中には、幾多の宮女が往来するのも、引きを切らず、やがて、奥御殿においては、趙飛燕にも負けない容貌の皇后が、いとも軽い感じで掌上の舞をおどり、未央宮の中で第一であると称された李夫人のような妃嬪が歌を唄うとまことに世に類を見ないものであろう。

聖天の君主の喜びは申すまでもなく、太平の日に際し、百年三萬六千日、日ごと日ごと、かくのごとく歓楽を極められるので、年々歳々、時々刻々、時は移りかわるが、君主の恩徳の機運は変わらず、歓楽も少しも衰えることはなく、まことにめでたいものである。


(訳注)

陽春歌

(宮中における春日行楽の行状をのべたもの)

教坊の曲、相和歌辭の歌。宋の呉邁遠《陽春歌》、梁の沈約《陽春曲》に擬して作ったもの。

 

長安白日照春空,綠楊結煙桑嫋風。

長安の春は、いとも長閑けく晴れ渡って煕煕たる白日は、空に輝く、緑に煙る楊柳は、そよ吹く東風に垂れている。

 

披香殿前花始紅,流芳發色繡中。

後宮のうちにおいて披香殿前の花は、初めて紅にほころび、花の香りが流れ渡り、花の色は、いよいよ鮮やかに、繡にその影を映している。

披香殿 漢の未央宮の奥御殿。《西京賦》「後宮則昭陽飛翔,增成合驩,蘭林披香,鳳皇鴛鸞。」

張衡)《西京賦》(16)(華麗な後宮) 後宮には、昭陽殿・飛翔殿・増成殿・合辞殿とあり、つづいて蘭林殿・披香殿・凰皇殿・鴛鸞殿がある。いかにも柔軟優美で華麗な女官がむらがり集まって、ここで、感嘆しては後をふりかえり、目をとめて美人たちが見るところである。だから後宮の館室、それに宿衛の官舎も休暇の宿舎も、五彩の色で飾り、織細で手がこんでいる。

張平子(張衡)《西京賦》(16)(華麗な後宮)#7-1 文選 賦<114―16)>31分割68回 李白に影響を与えた詩1053 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3813

 薄絹に刺繍を施されたとびら。

 

中,相經過,飛燕皇後輕身舞,紫宮夫人世歌。

中には、幾多の宮女が往来するのも、引きを切らず、やがて、奥御殿においては、趙飛燕にも負けない容貌の皇后が、いとも軽い感じで掌上の舞をおどり、未央宮の中で第一であると称された李夫人のような妃嬪が歌を唄うとまことに世に類を見ないものであろう。

相經過 幾多の宮女が往来するのも、引きを切らず、

飛燕 趙 飛燕は、前漢成帝の皇后。元名を宜主と称した。 正史である『漢書』での趙飛燕に関する記述は非常に簡単なものであるが、稗史においては美貌をもって記述されており、優れた容姿を表現する環肥燕瘦の燕痩が示すのが趙飛燕である。

輕身舞 軽い感じで掌上の舞をおどること。

紫宮夫人世歌 紫宮は未央宮の別称、絶世の歌手李延年の妹が絶世の美人であた。

 

聖君三萬六千日,歲歲年年奈樂何。

聖天の君主の喜びは申すまでもなく、太平の日に際し、百年三萬六千日、日ごと日ごと、かくのごとく歓楽を極められるので、年々歳々、時々刻々、時は移りかわるが、君主の恩徳の機運は変わらず、歓楽も少しも衰えることはなく、まことにめでたいものである。

 

 

<紫宮夫人世歌

漢の武帝が晩年愛した女性に李夫人がいた。武帝が秋風辞の中で「佳人を懷うて忘る能はず」と歌ったその佳人であるとされる女性だ。彼女の一家は倡と呼ばれる芸能民だった。李延年は李夫人の兄である。何かの罪を得て、宮刑を受けたが、その後歌人として近侍していた。歌舞をよくし、新声変曲と呼ばれる新しい音楽を作り出し、その才能を以て武帝の寵を受けた。或る時、新しい曲を作って武帝の前で披露した。それが「絶世傾国の歌」である。武帝は、この歌に歌われたのが、李延年の妹であると聞かされ、婦人として迎えることとしたのである。

 

絶世傾国の歌

北方有佳人、絶世而獨立。

一顧傾人城、再顧傾人國。

寧不知傾城與傾國、佳人難再得。

北方に佳人有り、絶世にして獨立す。

一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の國を傾く。

寧んぞ傾城と傾國とを知らざらんや、佳人は再びは得がたし。

 

北方とは、李延年の故郷河北をさす。そこに絶世の美人がいて、城を傾け国を傾けさせるほど美しいといわれる。傾城傾国の憂いはもとより知らぬわけではないが、かかる佳人は二度とは得られないでしょう、こう李延年は歌う。皇帝に自分の妹を売り込んでいるのである。

李白335 巻三01-《關山月》(明月出天山,) 335Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(16) <李白335> Ⅰ李白詩1648 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6788

743年(16335 巻三01-《關山月》(明月出天山,)

李白  關山月   

明月出天山,蒼茫雲海間。長風幾萬里,吹度玉門關。

漢下白登道,胡窺青海灣。由來征戰地,不見有人還。

戍客望邊色,思歸多苦顏。高樓當此夜,歎息未應閒。

(開元、天寶年間、玄宗は辺境を開くため、回紇、吐蕃国境に兵士を出した、その兵卒の苦境を述べて、為政者の戒めとした。)

征戍の兵士は、何万里という極遠の土地に置かれて、夜仰ぎ見れば、明月が天山山脈の上にのぼってくると、見渡す限り蒼く暗く広がる雲海を照らし出す。  雲海の中では故郷がどちらかわからず、遠くから吹き寄せる風は幾萬里をぬける。はるかな玉門關のほうから吹いてくるが、征戍の兵士が此処まで来たその辛苦は、歸当てもないのでなおさら傷心が深まる。こうした匈奴との戦は、漢の高祖が白登山(現・山西省北部大同東北東すぐ)上の白登台で匈奴に包囲攻撃され白登山より下りて匈奴と戦ったことから始まり、爾後、和戦常ならず、時々胡軍は、青海の湾に侵寇してきて、わが中国を窺うということがあったのである。だから戦は絶えることなく、そこに派遣された兵士は、昔から遠征と戦闘の地から帰ったためしがないのである。出征兵士は、帰ろうと思っても変えることができず、ただ、辺境の惨憺たる景色を眺めているだけなのである。帰りたい思いは顔をしかめさせ、又帰りを待つ多くの妻も苦渋の顔となる。その妻は、故郷の高殿の上に立ち、同じ月を見て、夫がいつ帰るかも知らず、せつない歎息をしていることが、きっと途切れることも、たえることもできないだろう。 

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年:743年天寶二年43歳 94-16

卷別:  卷一六三        文體:  樂府

詩題:  關山月

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        天山 (隴右道西部 無第二級行政層級 天山) 別名:雪山       

玉門關 (隴右道東部 瓜州 玉門關) 別名:玉關、玉門         

白登山 (河東道 雲州 白登山)      

交遊人物/地點:

 

 

關山月

(開元、天寶年間、玄宗は辺境を開くため、回紇、吐蕃国境に兵士を出した、その兵卒の苦境を述べて、為政者の戒めとした。)

明月出天山,蒼茫雲海間。

征戍の兵士は、何万里という極遠の土地に置かれて、夜仰ぎ見れば、明月が天山山脈の上にのぼってくると、見渡す限り蒼く暗く広がる雲海を照らし出す。  

長風幾萬里,吹度玉門關。

雲海の中では故郷がどちらかわからず、遠くから吹き寄せる風は幾萬里をぬける。はるかな玉門關のほうから吹いてくるが、征戍の兵士が此処まで来たその辛苦は、歸当てもないのでなおさら傷心が深まる。

漢下白登道,胡窺青海灣。

こうした匈奴との戦は、漢の高祖が白登山(現・山西省北部大同東北東すぐ)上の白登台で匈奴に包囲攻撃され白登山より下りて匈奴と戦ったことから始まり、爾後、和戦常ならず、時々胡軍は、青海の湾に侵寇してきて、わが中国を窺うということがあったのである。

由來征戰地,不見有人還。

だから戦は絶えることなく、そこに派遣された兵士は、昔から遠征と戦闘の地から帰ったためしがないのである。

戍客望邊色,思歸多苦顏。

出征兵士は、帰ろうと思っても変えることができず、ただ、辺境の惨憺たる景色を眺めているだけなのである。帰りたい思いは顔をしかめさせ、又帰りを待つ多くの妻も苦渋の顔となる。 

高樓當此夜,歎息未應閒。

その妻は、故郷の高殿の上に立ち、同じ月を見て、夫がいつ帰るかも知らず、せつない歎息をしていることが、きっと途切れることも、たえることもできないだろう。

(關山月)
明月 天山より出づ,蒼茫たる 雲海の間。
長風 幾萬里,吹き度る 玉門關。
漢は下る 白登の道,胡は窺う 青海の灣。
由來征戰の地,見ず 人の還る有るを。
戍客 邊色を望み,歸るを思うて 苦顏多し。
高樓 此の夜に當り,歎息して 未だ應に閑なるべからず。

安史期のアジアssH

 

『關山月』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

關山月

明月出天山,蒼茫雲海間。

長風幾萬里,吹度玉門關。

漢下白登道,胡窺青海灣。

由來征戰地,不見有人還。

戍客望邊色,思歸多苦顏。

高樓當此夜,歎息未應閒。
詩文(含異文)  明月出天山,蒼茫雲海間。長風幾萬里,吹度玉門關。漢下白登道,胡窺青海灣。由來征戰地,不見有人還。戍客望邊色【戌客望邊色】【戍客望邊邑】【戌客望邊邑】,思歸多苦顏。高樓當此夜,歎息未應閒【歎息未應還】。


(下し文)
(關山月)

明月 天山より出づ,蒼茫たる 雲海の間。

長風 幾萬里,吹き度る 玉門關。

漢は下る 白登の道,胡は窺う 青海の灣。

由來征戰の地,見ず 人の還る有るを。

戍客 邊色を望み,歸るを思うて 苦顏多し。

高樓 此の夜に當り,歎息して 未だ應に閑なるべからず。


(現代語訳)
(開元、天寶年間、玄宗は辺境を開くため、回紇、吐蕃国境に兵士を出した、その兵卒の苦境を述べて、為政者の戒めとした。)

征戍の兵士は、何万里という極遠の土地に置かれて、夜仰ぎ見れば、明月が天山山脈の上にのぼってくると、見渡す限り蒼く暗く広がる雲海を照らし出す。  

雲海の中では故郷がどちらかわからず、遠くから吹き寄せる風は幾萬里をぬける。はるかな玉門關のほうから吹いてくるが、征戍の兵士が此処まで来たその辛苦は、歸当てもないのでなおさら傷心が深まる。

こうした匈奴との戦は、漢の高祖が白登山(現・山西省北部大同東北東すぐ)上の白登台で匈奴に包囲攻撃され白登山より下りて匈奴と戦ったことから始まり、爾後、和戦常ならず、時々胡軍は、青海の湾に侵寇してきて、わが中国を窺うということがあったのである。

だから戦は絶えることなく、そこに派遣された兵士は、昔から遠征と戦闘の地から帰ったためしがないのである。

だから戦は絶えることなく、そこに派遣された兵士は、昔から遠征と戦闘の地から帰ったためしがないのである。  
出征兵士は、帰ろうと思っても変えることができず、ただ、辺境の惨憺たる景色を眺めているだけなのである。帰りたい思いは顔をしかめさせ、又帰りを待つ多くの妻も苦渋の顔となる。 

その妻は、故郷の高殿の上に立ち、同じ月を見て、夫がいつ帰るかも知らず、せつない歎息をしていることが、きっと途切れることも、たえることもできないだろう。

安史の乱当時の勢力図 

 (訳注)

關山月

(開元、天寶年間、玄宗は辺境を開くため、回紇、吐蕃国境に兵士を出した、その兵卒の苦境を述べて、為政者の戒めとした。)

邊塞詩、涼州詩はこの時代流行した。
漢の横吹曲という楽府の中にある題である、関山月は八首ある。五言古詩。関所のある山々を照らす月。それに照らされる出征兵士や、兵士を思う故郷の妻たちを詠う。
李白の邊塞を詠う詩の掲載をに追加する。

關山月
楽府旧題。本来の意味は、国境守備隊の砦がある山の上に昇った月。前線の月。ここに登場する兵士は、西域玉門關を越え、さらに西域に行ったもの。


明月出天山、蒼茫雲海間

征戍の兵士は、何万里という極遠の土地に置かれて、夜仰ぎ見れば、明月が天山山脈の上にのぼってくると、見渡す限り蒼く暗く広がる雲海を照らし出す。  

・明月:明るく澄みわたった月。 

・天山:〔てんざん〕新疆にある祁連山〔きれんざん〕(チーリェンシャン) 。天山一帯。当時の中国人の世界観では、最西端になる。天山山脈、祁連山脈は中国の主な山脈の一つ。青蔵高原の北縁、甘粛と青海に跨り、西はアルチン山脈に接し、東は蘭州の興隆山に至り、南はチャイダム盆地と青海湖に相連なる。山脈は西北から東南へ走り、数条の平行する山脈よりなり、平均海抜4000m以上、長さ2000km、幅200500km

・蒼茫:〔そうぼう〕(空、海、平原などの)広々として、はてしのないさま。見わたす限り青々として広いさま。また、目のとどく限りうす暗くひろいさま。 

・雲海:山頂から見下ろした雲が海のように見えるもの。また、雲のはるかかなたに横たわっている海原(うなばら)。ここは、前者の意。


長風幾萬里、吹度玉門關。
雲海の中では故郷がどちらかわからず、遠くから吹き寄せる風は幾萬里をぬける。はるかな玉門關のほうから吹いてくるが、征戍の兵士が此処まで来たその辛苦は、歸当てもないのでなおさら傷心が深まる。

・長風:遥か彼方から吹いてくる風。 

・幾萬里:何万里もの。長大な距離を謂う。

・吹度:吹いてきてずっと通って先へ行く。吹いてきて…を越える。吹きわたる。 

・玉門關:西域に通ずる交通の要衝。漢の前進基地。玉門関は中華人民共和国甘粛省敦煌市の北西約90kmにある、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所の1つ。漢と唐2度に渡り建立された。現存する玉門関遺跡は唐代のものである。俗称は小方盤城。関。玉関。現・甘肅省燉煌の西方、涼州の西北500キロメートルの地点にある。


漢下白登道、胡窺青海灣。
こうした匈奴との戦は、漢の高祖が白登山(現・山西省北部大同東北東すぐ)上の白登台で匈奴に包囲攻撃され白登山より下りて匈奴と戦ったことから始まり、爾後、和戦常ならず、時々胡軍は、青海の湾に侵寇してきて、わが中国を窺うということがあったのである。

・漢:漢の高祖の軍。 

・下:(白登山上の白登台より)下りて(、匈奴に対して囲みを破るための反撃する)。 

・白登道:漢の高祖が白登山より下りて匈奴と戦ったところ。現・山西省北部大同東北東すぐ。

・胡:西方異民族。ウイグル民族や、チベット民族などを指す。上句で漢の高祖のことを詠っているが、漢の高祖の場合は、匈奴を指す。 

・窺:〔き〕ねらう。乗ずべき時を待つ。また、覗き見する。こっそり見る。ここは、前者の意。 ・青海:ココノール湖。 

・灣:くま。ほとり。前出・杜甫の『兵車行』でいえば「君不見青海頭」 の「頭」に該る。


由來征戰地、不見有人還。
だから戦は絶えることなく、そこに派遣された兵士は、昔から遠征と戦闘の地から帰ったためしがないのである。

・由來:もともと。元来。それ以来。もとから。初めから今まで。また、来歴。いわれ。よってきたところ。ここは、前者の意。 

・征戰:出征して戦う。戦に行く王翰も李白も同時代人だが、王翰の方がやや早く、李白に影響を与えたか。

・不見:見あたらない。 

・有人還:(だれか)人が帰ってくる。 

・還:行き先からかえる。行った者がくるりとかえる。後出の「歸」は、もと出た所にかえる。本来の居場所(自宅、故郷、故国、墓所)にかえる。


戍客望邊色、思歸多苦顏。
出征兵士は、帰ろうと思っても変えることができず、ただ、辺境の惨憺たる景色を眺めているだけなのである。帰りたい思いは顔をしかめさせ、又帰りを待つ多くの妻も苦渋の顔となる。 

・戍客:〔じゅかく〕国境警備の兵士。征人。 ・邊色:国境地方の景色。 邊邑ともする。その場合は国境地帯の村の意になる。

 ・思歸:帰郷の念を起こす 

・苦顏:顔をしかめる。


高樓當此夜、歎息未應閑。
その妻は、故郷の高殿の上に立ち、同じ月を見て、夫がいつ帰るかも知らず、せつない歎息をしていることが、きっと途切れることも、たえることもできないだろう。

・高樓:たかどの。 

・當:…に当たつては。…の時は。…に際しては。 

・此夜:この(明月の)夜。

・歎息:なげいて深くため息をつく。また、大変感心する。ここは、前者の意。 

・應:きつと…だろう。当然…であろう。まさに…べし。 

・閑:暇(いとま)。

 




(關山月)
明月 天山より出づ,蒼茫たる 雲海の間。
長風 幾萬里,吹き度る 玉門關。
漢は下る 白登の道,胡は窺う 青海の灣。
由來征戰の地,見ず 人の還る有るを。
戍客 邊色を望み,歸るを思うて 苦顏多し。
高樓 此の夜に當り,歎息して 未だ應に閑なるべからず。

262 《巻三17久別離-#2》Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳-1 <262>(改訂版Ver..2.1) Ⅰ李白詩1526 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6178

李白  久別離-#2

去年寄書報陽臺,今年寄書重相催。東風兮東風,為我吹行雲使西來。

待來竟不來,落花寂寂委青苔。
東風は、西に向かって、はるかに陽臺の方にふきつけてくるから、東風よ、わたしのために、行雲をふきかえして、ここ、西の方へくるようにしてもらいたい。しかし、何時まで待っても、夫は帰ってこず、やがて今年の春もまた、暮れ盡そうとしていて、散りおちた花びらが、寂しく淋しく青い苔の上にくずおれてゆく。

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年:739年開元二十七年39

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    久別離

 

 

久別離

(閨中思婦の情思:別れて久しい、帰りを待つ女の情を詠う

別來幾春未還家,玉窗五見櫻桃花。

お別れしてから幾度目かの春なのに、あのひとはまだ家に帰ってこない。宝玉で飾った窓辺に、桜桃梅の花の咲くのを、もう五回も見た。

況有錦字書,開緘使人嗟。

そのうえ、わびしい思いを織りこんだ錦の手紙がここにある。封をひらいてよみかえすと、ためいきが出る。

至此腸斷彼心雲鬟綠鬢罷梳結,愁如回飆亂白雪。

そこまで考えて来ると、わたしはハラワタがちぎれる。あのひとの心はつめたくなってしまった。雲のような髪も、みどりの鬢も、櫛けずって結う気もしない。かなしい心の中は、つむじ風が白雪をかきみだすかのようだ。

 

去年寄書報陽臺,今年寄書重相催。

去年、手紙を出して、巫山の陽台にいる夫に、この気持を知らせたが、まだ帰ってこないので、今年もふたたび手紙を出して、かさねて早く帰れと催促してみたが、容易に帰ってきそうもない。

東風兮東風,為我吹行雲使西來。

東風は、西に向かって、はるかに陽臺の方にふきつけてくるから、東風よ、わたしのために、行雲をふきかえして、ここ、西の方へくるようにしてもらいたい。

待來竟不來,落花寂寂委青苔。

しかし、何時まで待っても、夫は帰ってこず、やがて今年の春もまた、暮れ盡そうとしていて、散りおちた花びらが、寂しく淋しく青い苔の上にくずおれてゆく。

 (久別離)

別来幾春か 未だ家に還らず、玉窓 五【いつ】たび見る 櫻桃の花

況んや 錦字の書有り、鍼を開けば 人をして嗟せしむ。

此に至り 腸断え、彼の心は絶え、雲鬟綠鬢 梳結を罷み、愁は回飆の白雪を乱れるがごとし。

 

去年 書を寄せて 陽台に報じ、今年 書を寄せて 重ねて相催す。

東風や東風、我が為に行雲を吹いて西に来らしむ。

来るを 待てどもついに来らず、落花寂寂として 青苔に委す。

李白の足跡0000 

 

『久別離』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

去年寄書報陽臺,今年寄書重相催。

東風兮東風,為我吹行雲使西來。

待來竟不來,落花寂寂委青苔。

(下し文)
去年 書を寄せて 陽台に報じ、今年 書を寄せて 重ねて相催す。

東風や東風、我が為に行雲を吹いて西に来らしむ。

来るを 待てどもついに来らず、落花寂寂として 青苔に委す。

(現代語訳)
去年、手紙を出して、巫山の陽台にいる夫に、この気持を知らせたが、まだ帰ってこないので、今年もふたたび手紙を出して、かさねて早く帰れと催促してみたが、容易に帰ってきそうもない。

東風は、西に向かって、はるかに陽臺の方にふきつけてくるから、東風よ、わたしのために、行雲をふきかえして、ここ、西の方へくるようにしてもらいたい。

しかし、何時まで待っても、夫は帰ってこず、やがて今年の春もまた、暮れ盡そうとしていて、散りおちた花びらが、寂しく淋しく青い苔の上にくずおれてゆく。


(訳注)

久別離

(閨中思婦の情思:別れて久しい、帰りを待つ女の情を詠う

古別離、長別離、生別離、遠別離の楽府「別離」シリーズの一首である。これらは古い別離の曲にもとづいて作られたものである。

 

去年寄書報陽台、今年寄書重相催。

去年、手紙を出して、巫山の陽台にいる夫に、この気持を知らせたが、まだ帰ってこないので、今年もふたたび手紙を出して、かさねて早く帰れと催促してみたが、容易に帰ってきそうもない。

○陽台・行雲 李白の詩にしばしば出てくる巫山の夢の故事。陽台は山の名。四川省巫山県の城内の北の角にある。巫山の女神がこの山の上に住んでいたと伝えられる。むかし楚の嚢王が高唐の丘に遊んだとき夢の中で美女と枕をかわした。女がすなわち、朝には芸となり、暮には雨となる巫山の女神であった。

夢瑤 瑤姫【ようき】は、別名を「巫山神女」と呼ばれており。炎帝の四人娘の第三の娘であり、才色を兼ね備えて、学問より武術が得意とした。女娃(じょあ)の姉にあたる。美しいく輝く仙草「瑤草」は、瑤姫の化身である。『高唐賦』と『神女賦』に記述があり、楚の懐王の夢に現れた契りを結んだ。最終、彼女は巫山に封じられた。中国上古の神話には、瑤姫が西王母の第二十三人の娘「雲華夫人(うんかふじん)」だとの言い伝えがあり、十二匹の悪龍に降伏し禹の治水事業を助けていた。後に巫山十二峰(神女峰)を形成した。

 

東風兮東風。 為我吹行云使西來、

東風は、西に向かって、はるかに陽臺の方にふきつけてくるから、東風よ、わたしのために、行雲をふきかえして、ここ、西の方へくるようにしてもらいたい。

○東風 春風、長江の下流域から、東風に乗って帰って来る。

 

待來竟不來、落花寂寂委青苔。

しかし、何時まで待っても、夫は帰ってこず、やがて今年の春もまた、暮れ盡そうとしていて、散りおちた花びらが、寂しく淋しく青い苔の上にくずおれてゆく。

○寂寂 さびしく、しずかなさま。

 巫山十二峰002

 

(久別離)

別来幾春か 未だ家に還らず、玉窓 五【いつ】たび見る 櫻桃の花

況んや 錦字の書有り、鍼を開けば 人をして嗟せしむ。

此に至り 腸断え、彼の心は絶え、雲鬟綠鬢 梳結を罷み、愁は回飆の白雪を乱れるがごとし。

 

去年 書を寄せて 陽台に報じ、今年 書を寄せて 重ねて相催す。

東風や東風、我が為に行雲を吹いて西に来らしむ。

来るを 待てどもついに来らず、落花寂寂として 青苔に委す。

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李白 將進酒3

古來聖賢皆寂寞,惟有飲者留其名。

陳王昔時宴平樂,斗酒十千恣讙謔。

主人何為言少錢,徑須沽取對君酌。

五花馬,千金裘。

呼兒將出換美酒,與爾同銷萬古愁。
給仕の子を呼んで、五花馬と千金裘を持って行かせて美酒を買いこんで、あなたと一緒になって痛飲し、昔から胸につのる萬古の愁いのすべてを消すことにしようではないか。人間の事は、くよくよと考えるに及ばず、ただ酒を飲んで、酔いさえすれば、それでよいのである。 
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 Ⅱ中唐詩・晩唐詩
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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(改訂版) 《巻2-8 將進酒》

年:736年開元二十四年36

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  將進酒

作地點:        潁陽(都畿道 / 河南府 / 潁陽)

及地點:平樂樓 (都畿道 河南府 洛陽)      

交遊人物:岑勛  當地交遊(都畿道 河南府 潁陽)

元丹丘        當地交遊(都畿道 河南府 潁陽)

 

將進酒

君不見黃河之水天上來,奔流到海不復迴。

黄河九曲の水は天上からすさまじい勢いで流れ下る、奔流矢の如く東に向かって流れ、やがていったん海に流れ込めば、もはやは帰ってきたりはしない。人間の歳月、まことに短くして、一日はその日のうちに再び晨になるという事は無い、丁度黄河の流れと同じである
君不見高堂明鏡悲白髮,朝如青絲暮成雪。

高堂の上で、澄みわたった鏡を覗き込んで白髪になったことを悲しんでいるものを見よ。朝方は黒い絹糸のような黒髪であったものが、夕暮には、雪のように真っ白になる老いてこんなありさまになってしまったのである。
人生得意須盡歡,莫使金樽空對月。

人生は朝露の如く、若い時は二度とない。そこで得意の折、よろしく十分に歓を尽くして置酒高会、以て興をほしいままにすべく、せっかくの黄金製の酒器をして、空しく明月に対することができるはずのものではなく、こういう場合には、どしどし酒を傾けるのがよろしいのだ。 
天生我材必有用,千金散盡還復來。

(將進酒)
君見ずや 黄河の水 天上より来り、奔流し海に到ってまた廻【かへ】らざるを。
君見ずや 高堂の明鏡 白髪を悲しむを、朝は青糸のごときも暮には雪をなす。
人生意を得ればすべからく歓を尽くすべし、金樽をしてむなしく月に対(むか)はしむるなかれ。
天のわが材を生ずる必ず用あればなり、千金も散じ尽せばまたまた来る。
2

烹羊宰牛且為樂,會須一飲三百杯。

とまれ、羊を料理し、牛をころしてごちそうを作り、佳肴、山のようにあり、既にこうして酒盛りする以上は、「一飮三百杯」、朝から晩まで、しばらくのあいだ、ゆっくりと、楽しみごとをするとしよう。
岑夫子,丹丘生。將進酒,君莫停。

岑先生、丹丘先輩、われ卿に酒をお勧める以上、願わくば、卿、杯を途中で停めないように、まさに今、酒をお進めする。
與君歌一曲,請君為我側耳聽。

われ、また、卿のために、鼓吹曲辭、一曲歌いましょう。卿方々にお願いするが、しっかりと耳を傾けてほしい。 
鐘鼓饌玉不足貴,但願長醉不願醒。

ああ、鐘鼓の楽、美珍なる食い物、これらが必ずしも貴ぶべきものとするものではない。ただ、願うならば、何時までも酔いとおして、けっして長い酔いから醒めないようにしたいものである。
羊を烹【に】、牛を宰【に】て しばらく楽みをなせ、かならずすべからく一飲三百杯なるべし。
岑夫子【しんぷうし】 丹邱生、酒を進む君停(とどむ)るなかれ。
君のため一曲を歌わん、請う君わがために 耳を側【そばだ】てて 聴け。
鐘鼓 饌玉【せんぎょく】 は貴ぶに足らず、玉餞に同じくりっぱな料理、ただ長酔を願うて醒むるを願はず。

3

古來聖賢皆寂寞,惟有飲者留其名。

古来、聖人や賢人の徳をもってするも、その死後はというと、皆、ひっそりと寂寞なものでしかないし、世上これを称するものさえもいないくらいである。これに反して、酒飲みの者と云えば、能くその名を留めて、万古に不朽である。
陳王昔時宴平樂,斗酒十千恣讙謔。

むかし、陳王の曹植は平楽観で宴を開いたときの事、万斛の酒を酌み交わし、終日流連して、よろこびたわむれることをほしいままにした。ということだが、これこそ我々の宜しく学ぶところではなかろうか。
主人何為言少錢,徑須沽取對君酌。

酒を飲むということはここに意味があるというのに、酒屋の主人がどうして、お金が足りなくなったというのであろうか、そうであっても壺中の酒が尽きれば、直ちに酒を沽取り、また、卿に酒をつがせてください。 
五花馬,千金裘。

美しい毛並みの馬と高価な白狐の脇毛のかわごろもにおよんだ珍貴なものであっても、決して惜しくはない。 
呼兒將出換美酒,與爾同銷萬古愁。

給仕の子を呼んで、五花馬と千金裘を持って行かせて美酒を買いこんで、あなたと一緒になって痛飲し、昔から胸につのる萬古の愁いのすべてを消すことにしようではないか。人間の事は、くよくよと考えるに及ばず、ただ酒を飲んで、酔いさえすれば、それでよいのである。 
古来 聖賢みな寂寞、ただ飲者のその名を留むるあるのみ。
陳王 昔時 平楽に宴する 魏の陳思王曹植、曹操の子で詩人としても名高い。

道観の名、斗酒十千 歓謔を悉(ほしいまま)にす。 
主人 なんすれ 銭少しという、ただちにすべからく沽【か】い取り 君に対して酌むべし。
五花の馬 千金の裘。 
児を呼びもち出でて美酒に換へ、なんじとともに銷【け】さん 万古の愁。 

 

 

(改訂版) 《巻2-8 將進酒》

『將進酒』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
3

古來聖賢皆寂寞,惟有飲者留其名。

陳王昔時宴平樂,斗酒十千恣讙謔。

主人何為言少錢,徑須沽取對君酌。

五花馬,千金裘。

呼兒將出換美酒,與爾同銷萬古愁。

(下し文)
古来 聖賢みな寂寞、ただ飲者のその名を留むるあるのみ。

陳王 昔時 平楽に宴する 魏の陳思王曹植、曹操の子で詩人としても名高い。

道観の名、斗酒十千 歓謔を悉(ほしいまま)にす。 

主人 なんすれ 銭少しという、ただちにすべからく沽【か】い取り 君に対して酌むべし。

五花の馬 千金の裘。 

児を呼びもち出でて美酒に換へ、なんじとともに銷【け】さん 万古の愁。 

(現代語訳)
古来、聖人や賢人の徳をもってするも、その死後はというと、皆、ひっそりと寂寞なものでしかないし、世上これを称するものさえもいないくらいである。これに反して、酒飲みの者と云えば、能くその名を留めて、万古に不朽である。
むかし、陳王の曹植は平楽観で宴を開いたときの事、万斛の酒を酌み交わし、終日流連して、よろこびたわむれることをほしいままにした。ということだが、これこそ我々の宜しく学ぶところではなかろうか。
酒を飲むということはここに意味があるというのに、酒屋の主人がどうして、お金が足りなくなったというのであろうか、そうであっても壺中の酒が尽きれば、直ちに酒を沽取り、また、卿に酒をつがせてください。 
美しい毛並みの馬と高価な白狐の脇毛のかわごろもにおよんだ珍貴なものであっても、決して惜しくはない。 
給仕の子を呼んで、五花馬と千金裘を持って行かせて美酒を買いこんで、あなたと一緒になって痛飲し、昔から胸につのる萬古の愁いのすべてを消すことにしようではないか。人間の事は、くよくよと考えるに及ばず、ただ酒を飲んで、酔いさえすれば、それでよいのである。 

(訳注)

(改訂版) 《巻2-8 將進酒》

將進酒
(富貴貧賤、皆一時の事であり、くよくよ考える事は無い、ただ飲んで酔えばよいのだ、だから、酒をお勧めしよう)

漢の鼓吹鐃歌十八曲の一つに、將進酒があり、六朝以降、楽府旧題。鼓吹曲辭になる。古詩には、「將進酒乘太白」とあり、宋の何承天の將進酒篇には、將進酒慶三朝備繁禮薦佳肴とある。まさに酒をお勧めしようの意になる。楽府題の音楽と題名を使って自分の気持ちを表している。

この詩は、古楽府題をとりながら、詩中に、李白・元丹邱・岑夫子と具体的な固有名詞を登場させている。通常は故人、逸話が基本である。

 

古來聖賢皆寂寞,惟有飮者留其名。
古来、聖人や賢人の徳をもってするも、その死後はというと、皆、ひっそりと寂寞なものでしかないし、世上これを称するものさえもいないくらいである。これに反して、酒飲みの者と云えば、能くその名を留めて、万古に不朽である。
○古來 昔から今に至るまで。今まで。 

○聖賢 聖人と賢人。 

○皆 みな。ことごとく。全部。 

○寂寞 ひっそりとしてもの寂しいさま

○惟有 ただ…だけがある。=唯有。 

○飮者 飲み助。呑兵衛。 

○留其名 その勇名を記録に留め(てい)る。

 

陳王昔時宴平樂,斗酒十千恣歡謔。
むかし、陳王の曹植は平楽観で宴を開いたときの事、万斛の酒を酌み交わし、終日流連して、よろこびたわむれることをほしいままにした。ということだが、これこそ我々の宜しく学ぶところではなかろうか
○陳王 三国時代魏の曹植のこと。 

○昔時 むかし。 ○宴 うたげをする。 

○平樂 平楽観。『名都篇』で詠う宮殿の名で、後漢の明帝の造営になる。(当時の)首都・洛陽にあった遊戯場。或いは、長安の未央宮にあった。○斗酒十千 斗酒で一万銭。曹植楽府詩、「一斗一万銭」。 

○斗酒 両義あり。わずかな酒。また、多くの酒。 

○斗 ます。少しばかりの量。少量の酒。多くの酒。 

十千 一万。 

○恣 ほしいままにする。わがまま。勝手きままにふるまう。 

歡謔 かんぎゃく よろこびたわむれる。

 

主人何爲言少錢,徑須沽取對君酌。
酒を飲むということはここに意味があるというのに、酒屋の主人がどうして、お金が足りなくなったというのであろうか、そうであっても壺中の酒が尽きれば、直ちに酒を沽取り、また、卿に酒をつがせてください。 
○主人 酒屋のあるじ。 

○何爲 何ゆえ。どうして。 

○言 声に出して言う。 

○少錢 お金が足らない。お金が少ない。 

○徑 直ちに。速く。ついに。 

○須 ぜひとも…する必要がある。すべからく…べし。 

○沽取 こしゅ 酒を買い取る。手に入れる。酒を持ってこさせるという意味。 

○酌 酒を注(つ)ぐ。 

 

五花馬,千金裘。
美しい毛並みの馬と高価な白狐の脇毛のかわごろもにおよんだ珍貴なものであっても、決して惜しくはない。 
○五花馬 美しい毛並みの馬。青白雑色の馬。 

○千金裘 高価な皮衣。白狐のかわごろも。狐裘のこと。狐の脇の下の毛を数千匹分集めて作られる貴重な衣服。戦国時代の孟嘗君が持っていたという白狐の皮衣。天下に二つとないもの。

 

呼兒將出換美酒、與爾同銷萬古愁。
給仕の子を呼んで、五花馬と千金裘を持って行かせて美酒を買いこんで、あなたと一緒になって痛飲し、昔から胸につのる萬古の愁いのすべてを消すことにしようではないか。人間の事は、くよくよと考えるに及ばず、ただ酒を飲んで、酔いさえすれば、それでよいのである。 
○兒 年若い使用人。ボーイ。給仕。 

○將出 持ち出す。 

○換 交換する。

爾 あなた。なんぢ。 

 同じくする。動詞としての用法。 

○銷 消す。とかす。≒消。 

○萬古愁 昔から永遠に解かれることのない愁い。死の恐怖。



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 この「将進酒」と題する長篇は、元丹邱と岑夫子とに対して憂鬱を打ち明けたという詩である。ここで李白は「万古の愁い」を消してくれる酒を飲もう。竹林の時代より酒こそが一番だ。道教の先輩たちに李白の明朗さは酒を愛したことによるものだろうか。「天生我材必有用、千金散盡還復來。」(天が、わたしという人材を生んだのは、必ず用いるところがあるからなのだ。大金を使い果たしたとしても、それはまた返ってくるものだ。)この思想が李白の基本であり、道教の思想である。

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李白 襄陽歌 -#3 人生死後爽涼たる有様を見るのは、晉の羊祜がこの地に鎮して、人々に悦服せられ、襄陽の街を見下ろす峴山に堕涙碑を建てられたが、その一片の石だけは今も残っているが、その碑を背負っている亀の頭は既に剥落し、莓苔がこれらを埋め、淒寥の極みであって、誰も涙するというもので、心も悲しくなり、ただ茫然自失するばかりである。

 

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年:734年開元二十二年34

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    襄陽歌

作地點:              襄州(山南東道 / 襄州 / 襄州)

及地點:襄州 (山南東道 襄州 襄州) 別名:襄陽         

峴山 (山南東道 襄州 峴山) 別名:峴首山    

咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸    

舒州 (淮南道 舒州 舒州)  

 

(改訂版) 巻6-1 襄陽歌》

襄陽歌  #1

(襄陽の名所旧跡について興をよせ,酒を頌える歌であると同時に山簡の賛歌でもある。)

落日欲沒峴山西,倒著接離花下迷。

まっ赤な夕日が幌山の西に今日も沈もうとしている。我独り、ここに来れば、山間のように白い帽子をさかさまにかぶって、花ざかりの木の下を、ふらりふらりと彷徨う。
襄陽小兒齊拍手,攔街爭唱白銅鞮。

すると、その態度がなんだかおかしいと見えて、襄陽の街の子供たちが大勢よってきて、いっせいに手をたたきながら、道いっぱいにさえぎって、「白銅鞮」の舊歌を口々にうたって囃したてる。
傍人借問笑何事,笑殺山翁醉似泥。【笑殺山公醉似泥】

そこで、通りかかった人がこれをあやしみ、いったい何でそんなに笑っているのかと、たずねれば、子供はこたえて、昔、ここで酩酊して有名であった山簡のようにあのおじさんがベロベロに酔っぱらった恰好がおかしくてたまらないのだという。
#2

鸕鶿杓,鸚鵡杯,百年三萬六千日,一日須傾三百杯。

鸕鶿の桮杓に、そして、鸚鵡の盃の道具はちゃんとそろっているし、どちらもすばらしく立派なうつわだ。人生、百年、一日に三百杯を傾け、それでもしょせん三万六千日、飲みつくすことが必要だ。こうして人生を満足できるものとなるのだ。  
遙看漢水鴨頭綠,恰似葡萄初醱醅。【恰似葡萄初撥醅】

こうして眺め遣ると、はるかに漢水が見え、春まさに至り、碧波漫漫として。水はあおあおとして、ちょうど鴨の頭のような緑色、染物屋の藍染のような水を流したようであり、葡萄が醗酵しはじめる時の色によく似ている。 
此江若變作春酒,壘麴便築糟丘臺。

この漢水の大江の水が、もしも春の新酒に変るものなら、うずたかく麹をかさねていって、殷の帝紂が築いたような酒の粕の高台を築いてやろうとおもう。 
#3

千金駿馬換小妾,笑坐雕鞍歌落梅。【千金駿馬換少妾】

そうなると、自分に侍している愛妾などもこれをするには必要ないのであり、千金の値うちのある駿馬に換えて、すぐにこれにまたがって、見事な彫り物をほどこした鞍に坐して、悠然として、「落梅花」の古曲を歌を口ずさんだらこれ以上の事は無いというものだ。

車傍側掛一壺酒,鳳笙龍管行相催。

お供の車などで数輌の随行があり、その車傍には一壺の酒がぶらさげてあり、醒めればまた飲み、鳳の笙笛やら龍管楽器の音楽を演奏していて、我が興を助けて、囃しながら道をゆく。
咸陽市中歎黃犬,何如月下傾金罍。【醉坐雕鞍歌落梅】

秦の李斯は小吏より立身して、宰相までなったのだが、後には、讒言に咸陽の町のまん中で腰斬される時に、おなじように処刑される息子に「黄色い犬をつれて免狩りしたかった」などと嘆いた李斯の最期を思うと、富貴栄華の末は、たいがいこうなるものであるから、むしろはじめから、世俗をはなれ、月の下で、黄金の杯を傾けて、快く酔って歌った方が、悠に面白いことではないか。
君不見晉朝羊公一片石,龜頭剝落生莓苔。【龜龍剝落生莓苔】

さらに、人生死後爽涼たる有様を見るのは、晉の羊祜がこの地に鎮して、人々に悦服せられ、襄陽の街を見下ろす峴山に堕涙碑を建てられたが、その一片の石だけは今も残っているが、その碑を背負っている亀の頭は既に剥落し、莓苔がこれらを埋め、淒寥の極みであって、誰も涙するというもので、心も悲しくなり、ただ茫然自失するばかりである。

 

淚亦不能為之墮,心亦不能為之哀。【案:一本此下有以下二句:誰能憂彼身後事,金鳧銀鴨葬死灰。】

清風朗月不用一錢買,玉山自倒非人推。

舒州杓,力士鐺,李白與爾同死生。

襄王雲雨今安在,江水東流猿夜聲。

 

(襄陽の歌)
落日 沒せむと欲す  峴山【けんざん】の西,倒【さかし】まに 接籬を著けて 花下に迷う。

襄陽の小兒 齊しく手を拍ち,街を攔【さえぎ】って 爭い唱う「白銅鞮」。 

傍人借問す 何事をか笑ふと,笑殺す 山の醉いて泥の似たるを。』

 

鸕鶿【ろじ】の杓【しゃく】、鸚鵡の杯、百年 三萬 六千日,一日 須【すべか】らく傾くべし  三百杯。

遙かに看る 漢水 鴨頭の綠,恰【あた】かも似たり 葡萄の初めて醱醅【はつばい】するに。

此の江 若し 變じて 春酒と作【な】らば,壘麹 便ち 築かん 糟丘臺。』

 

千金の駿馬 小妾と換へ,笑ひて 雕鞍に坐して 「落梅」を歌う。

車旁 側に挂【か】く 一壺の酒,鳳笙 龍管 行【ゆくゆ】く 相い催【うなが】す。

咸陽の市中に 黄犬を歎くは,なんぞ 如【し】かん 月下に金罍【きんらい】を傾(かたむ)くるに。

 見ずや 晉朝の羊公 一片の石,龜頭 剥落して 莓苔【ばいたい】生ず。』


涙も亦た 之れが爲に墮つる能わず,心も亦た 之れが爲に哀しむ能はず。

清風 朗月 一錢の買うを 用いず,玉山 自ら倒る 人の推すに非ず。

舒州の杓,力士の鐺【そう】。李白 爾と 死生を 同じくせん。

襄王の雲雨  今 安にか在る,江水は 東流して 猿は夜に聲く。』

襄陽一帯地図000

 

『襄陽歌』 現代語訳と訳註解説
(
本文) (改訂版) 巻6-1 襄陽歌 -#3》

千金駿馬換小妾,笑坐雕鞍歌落梅。【千金駿馬換少妾】

車傍側掛一壺酒,鳳笙龍管行相催。

咸陽市中歎黃犬,何如月下傾金罍。【醉坐雕鞍歌落梅】

君不見晉朝羊公一片石,龜頭剝落生莓苔。【龜龍剝落生莓苔】

(下し文)
千金の駿馬 小妾と換へ,笑ひて 雕鞍に坐して 「落梅」を歌う。

車旁 側に挂【か】く 一壺の酒,鳳笙 龍管 行【ゆくゆ】く 相い催【うなが】す。

咸陽の市中に 黄犬を歎くは,なんぞ 如【し】かん 月下に金罍【きんらい】を傾(かたむ)くるに。

君 見ずや 晉朝の羊公 一片の石,龜頭 剥落して 莓苔【ばいたい】生ず。』

(現代語訳)
そうなると、自分に侍している愛妾などもこれをするには必要ないのであり、千金の値うちのある駿馬に換えて、すぐにこれにまたがって、見事な彫り物をほどこした鞍に坐して、悠然として、「落梅花」の古曲を歌を口ずさんだらこれ以上の事は無いというものだ。

お供の車などで数輌の随行があり、その車傍には一壺の酒がぶらさげてあり、醒めればまた飲み、鳳の笙笛やら龍管楽器の音楽を演奏していて、我が興を助けて、囃しながら道をゆく。
秦の李斯は小吏より立身して、宰相までなったのだが、後には、讒言に咸陽の町のまん中で腰斬される時に、おなじように処刑される息子に「黄色い犬をつれて免狩りしたかった」などと嘆いた李斯の最期を思うと、富貴栄華の末は、たいがいこうなるものであるから、むしろはじめから、世俗をはなれ、月の下で、黄金の杯を傾けて、快く酔って歌った方が、悠に面白いことではないか。
さらに、人生死後爽涼たる有様を見るのは、晉の羊祜がこの地に鎮して、人々に悦服せられ、襄陽の街を見下ろす峴山に堕涙碑を建てられたが、その一片の石だけは今も残っているが、その碑を背負っている亀の頭は既に剥落し、莓苔がこれらを埋め、淒寥の極みであって、誰も涙するというもので、心も悲しくなり、ただ茫然自失するばかりである。

李白の足跡0000
(訳注) (改訂版) 巻6-1 襄陽歌 -#3》

襄陽歌 #3

(襄陽の名所旧跡について興をよせ,酒を頌える歌であると同時に山簡の賛歌でもある。)

一年三百六十日,一生百年,毎日酒を飲んで暮らせたらという李白の目には,河川は酒に見え,丘陵は麹糟に映った。時空を超越させてくれるのは酒だけであり、李白はこの時“仙”になったのであり,「杓」と「鐺」が生涯の友であるという。「杓」は酒を酌む器,「錯」は酒を温める鼎。この作は酒を一生の友とすることを宣言した作としてたしかに劉伶の「酒徳頌」に匹敵する。

李白はまず山簡の飲酒を範として掲げた上で高らかに唱い出し,その上で以下には自分がいかに山簡のように酒を愛するかを詠んでいる。この詩は南宋・祝穆『方興勝覧』三二「襄州府」名官の「山簡」の条に唯一引用され, しかも全文が引用されているように,酒を頌える歌であると同時に山簡の賛歌でもあるといえる。では,山簡はといえば,夕暮れまで酒を飲み,花間に迷い,街の子供たちに通せん坊されて歌い囃されるという,滑稽な泥酔者として捉えられている。

「峴山の詩」張九齢 登襄陽峴山 李白「峴山懐古」関連   Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -306

峴山の詩] 陳子昂 峴山懷古 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -307

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千金駿馬換小妾,笑坐雕鞍歌落梅。【千金駿馬換少妾】

そうなると、自分に侍している愛妾などもこれをするには必要ないのであり、千金の値うちのある駿馬に換えて、すぐにこれにまたがって、見事な彫り物をほどこした鞍に坐して、悠然として、「落梅花」の古曲を歌を口ずさんだらこれ以上の事は無いというものだ。

・千金:千枚の黄金。多額の金銭。 ・駿馬換小妾:後魏の曹彰が駿馬を見つけ、それを何とか手に入れたいと思って、馬主に対して「自分には好い妾(つま)たちがいるので、あなたがすきな妾を選び、それと馬とを交換しよう」と持ちかけたという故事。『獨異志』。 

・駿馬:〔しゅんめ〕すぐれた馬。良馬。足の速く強い馬。 

・換:交換する。 

・小妾:〔しょうしょう〕若いめかけ。 

・雕鞍:立派な彫り物を施した鞍(くら)。 

・歌:うたう。動詞。 

・落梅:笛の演奏用の『落梅花』という曲名のこと。

 

車傍側掛一壺酒,鳳笙龍管行相催。

お供の車などで数輌の随行があり、その車傍には一壺の酒がぶらさげてあり、醒めればまた飲み、鳳の笙笛やら龍管楽器の音楽を演奏していて、我が興を助けて、囃しながら道をゆく。
・車旁:車の側壁。 

・側挂:ぶら下げている。つり下げている。 

・鳳笙龍管:鳳の鳴き声のような(鳳の姿のような)笙に、龍のなき声のような笛の音。」 

・行:行きながら。ゆくゆく。 

・相催:促してくる。 ・相-:動詞の前に附き、動作の及ぶ趨勢を表す。…てくる。…ていく。

 

咸陽市中歎黃犬,何如月下傾金罍。【醉坐雕鞍歌落梅】

秦の李斯は小吏より立身して、宰相までなったのだが、後には、讒言に咸陽の町のまん中で腰斬される時に、おなじように処刑される息子に「黄色い犬をつれて免狩りしたかった」などと嘆いた李斯の最期を思うと、富貴栄華の末は、たいがいこうなるものであるから、むしろはじめから、世俗をはなれ、月の下で、黄金の杯を傾けて、快く酔って歌った方が、悠に面白いことではないか。
・咸陽:秦の首都。秦・始皇帝がここに都を置く渭城。秦朝の首都として大いに栄えた。風水においては山・丘・阜などの南側、河・江・川・湖などの水辺の北側を陽と言う。この都市は九嵕山の南、渭水の北に当たり「咸陽」なためにこの名前がついた。 

・歎黄犬:李斯の故事をいう。李斯は諫言を重ねたが、かえって皇帝の不興を買い、さらに趙高の讒言で疎まれ、追い詰められていった。紀元前208年、ついに李斯は捕らえる。凄惨な拷問に耐えられず趙高が捏造した容疑(楚の項梁の軍勢に討ち取られた李斯の長男で三川郡の太守の李由が生前楚軍と内通していたという罪)を認め、市中で腰斬(胴斬り。受刑者を腹部で両断し、即死させず苦しんで死なせる重刑)に処され、生涯を終えた。その時に李斯は並んで刑場に引っ立てられた次男に対して「わしは故郷の上蔡で、猟犬を連れ、お前と兎狩りによく出かけた。また狩に出かける夢は、もう適わないのだな」と無念そうに述べたという。李斯の息子は始皇帝の皇女を娶り、彼の娘は始皇帝の公子に嫁いでいたと伝わるが、一族は全て殺され、根絶やしとなった。

・何如:どうして及ぼうか。なんぞしかん。また、いかん。ここは、前者の意。 

・傾:(酒器を)傾ける。酒を飲むこと。かたぶく。下二、四段活用。 

・金罍:〔きんらい〕雷雲の模様を画いた黄金製の酒かめ。黄金製の酒器。

 

君不見晉朝羊公一片石,龜頭剝落生莓苔。【龜龍剝落生莓苔】
さらに、人生死後爽涼たる有様を見るのは、晉の羊祜がこの地に鎮して、人々に悦服せられ、襄陽の街を見下ろす峴山に堕涙碑を建てられたが、その一片の石だけは今も残っているが、その碑を背負っている亀の頭は既に剥落し、莓苔がこれらを埋め、淒寥の極みであって、誰も涙するというもので、心も悲しくなり、ただ茫然自失するばかりである。

・君不見:諸君、見たことがありませんか。詩をみている人に対する呼びかけ。樂府体に使われる。「君不聞」もある。そこで詩のリズムが大きく変化させる。 

・晉朝羊公一片石: 晉朝 (西)晋の羊祜。265年~419年。三国の魏に代わり、265年権臣司馬炎が建てた国。280年、呉を併せて天下を統一したが、八王の乱で、匈奴の劉曜らによって316年に滅ぼされた。 ・羊公 呉と闘った西晋の名将・羊のこと。山を愛し、善政をしたため、羊の没後、民衆は羊が愛した山を望むところに石碑を築いた。 ・一片石 羊の石碑。前出の堕涙碑(紫字部分)のこと。
・龜頭:石碑の土台の亀の頭。石碑の土台部分は亀のような形をして、甲羅に碑を背負っている形になっている。あの亀のような動物は想像上のもので贔屓〔ひき;bi4xi4〕という。 

・剥落:剥げ落ちる。 

・莓苔:〔ばい〕こけ。
安陸・南陽・嚢陽 李白00 

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年:32年開元二十年32

卷別:    卷一六三               李太白集巻三 文體:    樂府

詩題:    結客少年場行

作地點:              洛陽(都畿道 / 河南府 / 洛陽)

及地點:              新豐 (京畿道 京兆府 新豐)              

 

 

結客少年場行

(貴公子が任侠の士を気取って、遊侠の場に出入りするものの、そこには呉越、春秋の劇孟、燕丹と荊軻の志さえもなく、その息子らの破廉恥な様子を詠うことにより、貴族社会を批判している)

紫燕黃金瞳,啾啾搖綠鬉。【稜稜搖綠鬉】

遊侠の少年のまたがる紫燕の名馬は、黄金のひとみ、きらきらしく耀き、鈴の音のリンリンたるにつれて、緑の鬣を振るい動かすさまは、まことに勇ましい。

平明相馳逐,結客洛門東。

こうして、少年は朝早くから、この馬に乗って出かけ、洛門の東に出てその客と遊び戯れる。

少年學劍術,凌轢白猿公。

それから少年は、撃剣の術を学びその技の妙なることは、白猿公を圧倒すべき程である。

珠袍曳錦帶,匕首插鴻。

それから、珠にて飾れる美しい衣裳を着下ろして、錦帯を引きずり、むかし鉤師が其子の呉鴻等を殺し、その血を塗って鍛え上げたという、天晴なわざものヒ首を懐にしのばしている。

由來萬夫勇,挾此生雄風。

この少年はただでさえ萬夫の勇あるに、まして、このヒ首を持っているから、身辺に雄風を生ずるばかりである。

 

託交從劇孟,買醉入新豐。

それから、激孟などいう著名な侠客と交際を為し、新豊の市に入って酔いを買う。

笑盡一杯酒,殺人都市中。

笑って一杯の酒を飲みつくすや否や、直ちに去って行き、都市の真ん中で人を殺すという。

羞道易水寒,令日貫虹。令日貫虹】

むかし、荊軻は、秦に入るに際し、風が蕭蕭と吹き込んで、「易水が寒」いと詠い、やがて「白虹日を貫抜く」変事があってから秦に入った。

燕丹事不立,虛沒秦帝宮。

荊軻は始皇帝に謁見しながら、これを刺し殺すことなどできず、折角の燕丹の志を遂げることが出来ず秦の宮殿で空しく死んでしまった。

舞陽死灰人,安可與成功。

要するに、荊軻はつまらぬ男であり、一緒に行った秦舞陽は顔の色が、時に当たって死灰のような色に変わったから、その目的がばれてしまったのであり、こんなものを相棒にして、どうして成功することがあろうか、これと同じように、ここにいる少年は、この昔の資格ほどの志もないというものである。

 

(結客少年場行)

紫燕 黃金の瞳,啾啾として 綠鬉を搖らす。

平明 相い馳逐し,客に結んで 洛門の東。

少年 劍術を學び,凌轢す 白猿公。

珠袍 錦帶を曳き,匕首 鴻を插む

由來は萬夫の勇なり,此を挾んで雄風を生ず。

 

交を託して劇孟に從い,醉いを買うて 新豐に入る。

笑って一杯の酒を盡し,人を殺す 都市の中。

易水の寒を道【い】うを羞づ,徒【いたずら】に日をして虹を貫ぬか令む。

燕丹 事 立たず,虛しく秦帝の宮に沒す。

舞陽は 死灰の人,安んぞ與に功を成す可けんや。

 

戦国七雄001 

 

『結客少年場行』 現代語訳と訳註解説
 (
本文)

託交從劇孟,買醉入新豐。

笑盡一杯酒,殺人都市中。

羞道易水寒,令日貫虹。令日貫虹】

燕丹事不立,虛沒秦帝宮。

舞陽死灰人,安可與成功。


(下し文)
交を託して劇孟に從い,醉いを買うて 新豐に入る。

笑って一杯の酒を盡し,人を殺す 都市の中。

易水の寒を道【い】うを羞づ,徒【いたずら】に日をして虹を貫ぬか令む。

燕丹 事 立たず,虛しく秦帝の宮に沒す。

舞陽は 死灰の人,安んぞ與に功を成す可けんや。

(現代語訳)
それから、激孟などいう著名な侠客と交際を為し、新豊の市に入って酔いを買う。

笑って一杯の酒を飲みつくすや否や、直ちに去って行き、都市の真ん中で人を殺すという。

むかし、荊軻は、秦に入るに際し、風が蕭蕭と吹き込んで、「易水が寒」いと詠い、やがて「白虹日を貫抜く」変事があってから秦に入った。

荊軻は始皇帝に謁見しながら、これを刺し殺すことなどできず、折角の燕丹の志を遂げることが出来ず秦の宮殿で空しく死んでしまった。

要するに、荊軻はつまらぬ男であり、一緒に行った秦舞陽は顔の色が、時に当たって死灰のような色に変わったから、その目的がばれてしまったのであり、こんなものを相棒にして、どうして成功することがあろうか、これと同じように、ここにいる少年は、この昔の資格ほどの志もないというものである。


(訳注)

結客少年場行

(貴公子が任侠の士を気取って、遊侠の場に出入りするものの、そこには呉越、春秋の劇孟、燕丹と荊軻の志さえもなく、その息子らの破廉恥な様子を詠うことにより、貴族社会を批判している)

曹植詩 《結客篇》曰:“結客少年場,報怨洛北邙。”「結客少年場行、報怨洛北邙」を宋·鮑照が雜曲歌辭六 【結客少年場行】《後漢書》曰:“祭遵嘗為部吏所侵,結客殺人。” つづいて郭茂倩《樂府解題》曰:“《結客少年場行》,言輕生重義,慷慨以立功名也。”結客少年場,報怨洛北荒,利劍鳴手中,一擊兩尸僵」とあり、やはり先行するものは無く曹植のものに代したと考えられる。

樂府解題によると,

《結客少年場行》とは言輕く生重く義薄く,慷慨を以て功名を立てる也。

『廣題』に曰く“漢の長安少年が殺吏,財を受け報仇(する際)彈丸を探(くじのように引き),赤丸なら武吏を斫*(はつ)り,黑丸は文吏を殺すときめた。

また(三國時),尹賞が長安令のとき,之を捕しまった。長安中でその爲之歌に曰く、“どこに子の死を求める(者がいよう),桓東少年場,生むときには想わない,枯骨のほかに何を葬ろうか”

結客少年場とは少年時の遊樂の場のため,任俠客を氣取り,終に無と成る,故の此の曲なり。と,ある。

李白図102函谷関002 

託交從劇孟,買醉入新豐。

それから、激孟などいう著名な侠客と交際を為し、新豊の市に入って酔いを買う。

劇孟 漢の景帝三年(紀元前154年)、呉楚等七国が反乱を起したとき、景帝は大将軍の竇嬰、太尉の周亞夫を派遣して鎮圧させた。周亞夫は東方にむかい河南に至ろうとしたとき、当時の有名な侠客であった劇孟を味方に得た。東天は喜んで言った。「呉や楚は天下を争うような大事を企てながら、劇孟を求めない。わたしは、かれらが何もできないことを知るだけだ。」「漢書」に見える話であるが、強大であった呉楚の分断作戦と補給路を断つことで戦意を失わせ、内部分解させた。

梁甫吟 #4 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -298

新豐 ・新豐:陝西省驪山華清宮近くにある酒の名産地。長安東北郊20kmの地名。 215 王維 少年行四首 に新豐美酒斗十千,咸陽遊侠多少年。相逢意氣爲君飮,繋馬高樓垂柳邊。

 

笑盡一杯酒,殺人都市中。

笑って一杯の酒を飲みつくすや否や、直ちに去って行き、都市の真ん中で人を殺すという。

 

羞道易水寒,令日貫虹。令日貫虹】

むかし、荊軻は、秦に入るに際し、風が蕭蕭と吹き込んで、「易水が寒」いと詠い、やがて「白虹日を貫抜く」変事があってから秦に入った。

易水寒 『史記・刺客列傳』易水のほとりでの歌。『易水歌』「風蕭蕭兮易水寒,壯士一去兮不復還。」易水は北京の南西を流れる川で、白河に合流する。

日貫虹 【貫白虹日】白虹(はっこう)()を貫(つらぬ)・く。《「戦国策」魏策から》白い虹が太陽を貫いてかかる。白い虹を兵の、太陽を君主の象徴と解釈することによって、兵乱が起こり、君主に危害を加える予兆とされた。

 

燕丹事不立,虛沒秦帝宮。

荊軻は始皇帝に謁見しながら、これを刺し殺すことなどできず、折角の燕丹の志を遂げることが出来ず秦の宮殿で空しく死んでしまった。

燕丹事不立,虛沒秦帝宮 の二句

 

舞陽死灰人,安可與成功。

要するに、荊軻はつまらぬ男であり、一緒に行った秦舞陽は顔の色が、時に当たって死灰のような色に変わったから、その目的がばれてしまったのであり、こんなものを相棒にして、どうして成功することがあろうか、これと同じように、ここにいる少年は、この昔の資格ほどの志もないというものである。

舞陽死灰人 前の二句とこの句と四句は『史記』「刺客列伝」にみえる。

 

史記 「刺客列伝」

 

春秋戦国の時代には、敵国の王侯を刺殺するために、一本の匕首(合口)に全てをかけて敵地に入り込む刺客が、ことに多かった。その最も著名なのが荊軻である。

 

 荊軻は衞の生まれだったが、祖国に用いられず、国々を遍歴して燕に行き、そこで巷に人望の高かった任侠の士・田光の知遇を得ていた。彼はまた筑(琴に似た竹製の楽器)の名手の高漸離と意気投合し、いつも二人で酒を飲み歩き、酔うと高漸離は筑を鳴らし、荊軻はそれに和して歌い、傍若無人に振る舞っていたが、巷に酔いしれているかと思えば独居して書を読み、また剣を磨くことも怠らなかった。

 

 秦が着々と天下統一の歩みを進めている頃であった。韓を滅ぼし、趙を滅ぼした秦は、趙と燕との国境を流れる易水に臨んで、将に燕に攻め入る態勢を整えていた。その時燕の太子の丹が秦王・政を刺すべき刺客として選んだのは、田光であった。だが田光は自分の老齢を考えて、荊軻を薦めると、その決意を励ますために、自らは首をはねて死んだ。大事を命じられながら果たし得ない老骨の身の、それが太子のためになし得る唯一の道だと思ったのである。

 

 そのころ、秦から樊於期という将軍が燕に逃れてきて太子丹の元に身を隠していた。荊軻は秦王が莫大な賞金をかけて樊於期の首を求めているのを知ると、その首と、燕の督亢の地図を持って行けば秦王は心を許して引見するに違いないと考え、そのことを太子丹に申し出た。太子丹は荊軻を一刻も早く秦へやりたいと焦慮しながらも、樊於期を斬るには忍びない様子である。荊軻はそれを知ると、自ら樊於期に会って死を求めた。それが秦王に対する樊於期の恨みを晴らし、太子丹に対する恩にも報い、かる燕の憂いを除く道であると説いたのである。――樊於期は田光がしたのと同じように、荊軻の前で自ら首をはねて死んだ。

 

 樊於期の首と、督亢の地図とのほかに、荊軻はともに秦へ行くべき友人を待っていた。太子丹は秦舞陽と言う若者を副使として荊軻につけたが、荊軻には秦舞陽が頼みとするに足りる男とは思えなかったのである。友は遠方に居てなかなか来なかった。太子丹は、既に出発の準備を整えながら荊軻が立たないのを見ると、いよいよ焦慮して、秦舞陽一人を先に行かせようとした。荊軻は心ならずも友を待たずに行くことに決めた。秦舞陽を一人やることは危ないと思ったからである。それに時期も切迫している。太子の焦慮も解らぬではなかった。

 

 太子丹をはじめ、事を知っている少数の者は、服を喪服に替えて荊軻達を易水のほとりまで送っていった。いよいよ別れの時である。高漸離は筑を奏で、荊軻はそれに和して歌った。易水の風は冷たく人々の肌を刺し、高漸離の筑と荊軻の歌声とは悲壮に人々の心をふるわせた。秦へ行けばおそらく生きては帰れないであろう。これが荊軻を見る最後かと思うと高漸離は暗然と涙ぐみ、密かに涙を拭いかつ筑をかき鳴らして友を送った。荊軻は進みながら歌った。

 

 風蕭蕭兮易水寒,壯士一去兮不復還。(風蕭蕭として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた還らず。)

 

 その声は人々の肺腑をえぐった。人々は皆、眼を怒らして秦の方を睨み、髪逆立って冠を突くばかりであった。――すでにして荊軻は去り、ついに振り向くこともなくその姿は遠くなっていった。

 

 秦へ行った荊軻は、樊於期の首と督亢の地図とを伴って、秦王政に近づくことを得たが、匕首一閃、秦王は身を引いて、荊軻の手にはただ王の袖だけが残った。後ろから王を抱きとめるはずの秦舞陽は、もろくも人々にねじ伏せられていたのである。荊軻はついに志を遂げることが出来ず、みずから自分の胸を開き、指さして秦王に刺させた。

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197-#1 《巻3-25 結客少年場行 -#1(紫燕黃金瞳,)》Index-12 Ⅱ―7 -732年開元二十年32 12首 <197-#1> Ⅰ李白詩1421 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5653

 

 

 

年:32年開元二十年32

卷別:    卷一六三               李太白集巻三 文體:    樂府

詩題:    結客少年場行

作地點:              洛陽(都畿道 / 河南府 / 洛陽)

及地點:              新豐 (京畿道 京兆府 新豐)              

 

 

結客少年場行

(貴公子が任侠の士を気取って、遊侠の場に出入りするものの、そこには呉越、春秋の劇孟、燕丹と荊軻の志さえもなく、その息子らの破廉恥な様子を詠うことにより、貴族社会を批判している)

紫燕黃金瞳,啾啾搖綠鬉。【稜稜搖綠鬉】

遊侠の少年のまたがる紫燕の名馬は、黄金のひとみ、きらきらしく耀き、鈴の音のリンリンたるにつれて、緑の鬣を振るい動かすさまは、まことに勇ましい。

平明相馳逐,結客洛門東。

こうして、少年は朝早くから、この馬に乗って出かけ、洛門の東に出てその客と遊び戯れる。

少年學劍術,凌轢白猿公。

それから少年は、撃剣の術を学びその技の妙なることは、白猿公を圧倒すべき程である。

珠袍曳錦帶,匕首插鴻。

それから、珠にて飾れる美しい衣裳を着下ろして、錦帯を引きずり、むかし鉤師が其子の呉鴻等を殺し、その血を塗って鍛え上げたという、天晴なわざものヒ首を懐にしのばしている。

由來萬夫勇,挾此生雄風。

この少年はただでさえ萬夫の勇あるに、まして、このヒ首を持っているから、身辺に雄風を生ずるばかりである。

 

託交從劇孟,買醉入新豐。

笑盡一杯酒,殺人都市中。

羞道易水寒,令日貫虹。令日貫虹】

燕丹事不立,虛沒秦帝宮。

舞陽死灰人,安可與成功。

 

(結客少年場行)

紫燕 黃金の瞳,啾啾として 綠鬉を搖らす。

平明 相い馳逐し,客に結んで 洛門の東。

少年 劍術を學び,凌轢す 白猿公。

珠袍 錦帶を曳き,匕首 鴻を插む

由來は萬夫の勇なり,此を挾んで雄風を生ず。

 

交を託して劇孟に從い,醉いを買うて 新豐に入る。

笑って一杯の酒を盡し,人を殺す 都市の中。

易水の寒を道【い】うを羞づ,徒【いたずら】に日をして虹を貫ぬか令む。

燕丹 事 立たず,虛しく秦帝の宮に沒す。

舞陽は 死灰の人,安んぞ與に功を成す可けんや。

touRAKUYOjou600 

 

『結客少年場行』 現代語訳と訳註解説
 (本文)
結客少年場行

紫燕黃金瞳,啾啾搖綠鬉。【稜稜搖綠鬉】

平明相馳逐,結客洛門東。

少年學劍術,凌轢白猿公。

珠袍曳錦帶,匕首插鴻。

由來萬夫勇,挾此生雄風。

 

(下し文)
(
結客少年場行)

紫燕 黃金の瞳,啾啾として 綠を搖らす。

平明 相い馳逐し,客に結んで 洛門の東。

少年 劍術を學び,凌轢す 白猿公。

珠袍 錦帶を曳き,匕首 鴻を插む。

由來は萬夫の勇なり,此を挾んで雄風を生ず。

(現代語訳)
(貴公子が任侠の士を気取って、遊侠の場に出入りするものの、そこには呉越、春秋の劇孟、燕丹と荊軻の志さえもなく、その息子らの破廉恥な様子を詠うことにより、貴族社会を批判している)

遊侠の少年のまたがる紫燕の名馬は、黄金のひとみ、きらきらしく耀き、鈴の音のリンリンたるにつれて、緑の鬣を振るい動かすさまは、まことに勇ましい。

こうして、少年は朝早くから、この馬に乗って出かけ、洛門の東に出てその客と遊び戯れる。

それから少年は、撃剣の術を学びその技の妙なることは、白猿公を圧倒すべき程である。

それから、珠にて飾れる美しい衣裳を着下ろして、錦帯を引きずり、むかし鉤師が其子の呉鴻等を殺し、その血を塗って鍛え上げたという、天晴なわざものヒ首を懐にしのばしている。

この少年はただでさえ萬夫の勇あるに、まして、このヒ首を持っているから、身辺に雄風を生ずるばかりである。

漢魏隋唐の洛陽城

(訳注)

結客少年場行

(貴公子が任侠の士を気取って、遊侠の場に出入りするものの、そこには呉越、春秋の劇孟、燕丹と荊軻の志さえもなく、その息子らの破廉恥な様子を詠うことにより、貴族社会を批判している)

曹植詩 《結客篇》曰:“結客少年場,報怨洛北邙。”「結客少年場行、報怨洛北邙」を宋·鮑照が雜曲歌辭六 【結客少年場行】《後漢書》曰:“祭遵嘗為部吏所侵,結客殺人。” つづいて郭茂倩《樂府解題》曰:“《結客少年場行》,言輕生重義,慷慨以立功名也。”結客少年場,報怨洛北荒,利劍鳴手中,一擊兩尸僵」とあり、やはり先行するものは無く曹植のものに代したと考えられる。

樂府解題によると,

《結客少年場行》とは言輕く生重く義薄く,慷慨を以て功名を立てる也。

『廣題』に曰く“漢の長安少年が殺吏,財を受け報仇(する際)彈丸を探(くじのように引き),赤丸なら武吏を斫*(はつ)り,黑丸は文吏を殺すときめた。

また(三國時),尹賞が長安令のとき,之を捕しまった。長安中でその爲之歌に曰く、“どこに子の死を求める(者がいよう),桓東少年場,生むときには想わない,枯骨のほかに何を葬ろうか”

結客少年場とは少年時の遊樂の場のため,任俠客を氣取り,終に無と成る,故の此の曲なり。と,ある。

 

紫燕黃金瞳,啾啾搖綠鬉。【稜稜搖綠鬉】

遊侠の少年のまたがる紫燕の名馬は、黄金のひとみ、きらきらしく耀き、鈴の音のリンリンたるにつれて、緑の鬣を振るい動かすさまは、まことに勇ましい。

杜甫《夜聽許十一誦詩愛而有作》「紫燕自超詣,翠駁誰翦剔?」(紫燕自ら超詣 翠駁誰か勇別せん)紫燕の名馬はおのずから凡馬から超越していることである。翠駁の馬の毛並みはいったいだれがきったりしたのであるかというように、人しれず苦心している結果に成るものであるのだ。 
紫燕 漢の文帝の良馬九匹、其の一つを紫燕騮という、許生の詩能を比較する。九逸《西京雜記》:漢文帝自代還,有良馬九匹,皆天下駿足也。名曰浮雲、赤電、群、逸群、紫燕騮、祿螭驄、龍子、嶙駒、塵,號九逸。有來宣能禦超詣 遠くにこえていく。超とは高くこえること、詣とは遠くにまでいたること。○翠駁 翠は馬については紫色をいう。駁は色の不純なことをいう。紫色でぶちであるのが翠駁であり、そのような馬をいう。○翦剔 翦はたてがみの毛をきること、剔は毛を刷くことをいう。翦剔とは毛なみをうるわしく整えることをいう。

夜聽許十一誦詩愛而有作 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 101

啾啾 馬に付けている鈴の鳴る音。

綠鬉 たてがみ。

 

平明相馳逐,結客洛門東。

こうして、少年は朝早くから、この馬に乗って出かけ、洛門の東に出てその客と遊び戯れる。

漢の無名氏《東門行》《西門行》にあるように、門を出てゆくことは強い信念、志をもって出るものとしているが、洛門の東で遊んでいるということ。

出東門,不顧歸,來入門,悵欲悲。

盎中無斗儲,還視桁上無懸衣。

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少年學劍術,凌轢白猿公。

それから少年は、撃剣の術を学びその技の妙なることは、白猿公を圧倒すべき程である。

凌轢 圧倒すること。

白猿公 《越春秋》卷九〈勾踐陰謀外傳‧勾踐十三年〉~226, 越王又問相國范蠡曰:「孤有報復之謀,水戰則乘舟,陸行則乘輿,輿舟之利,頓於兵弩。今子為寡人謀事,莫不謬者乎?」范蠡對曰:「臣聞古之聖君,莫不習戰用兵,然行陣隊伍軍鼓之事,吉凶決在其工 .

 

珠袍曳錦帶,匕首插鴻。

それから、珠にて飾れる美しい衣裳を着下ろして、錦帯を引きずり、むかし鉤師が其子の呉鴻等を殺し、その血を塗って鍛え上げたという、天晴なわざものヒ首を懐にしのばしている。

匕首 びしゅ- (「匕首」とも書く)つばのない短刀。匕首(ひしゆ)。九寸五分(くすんごぶ)。 刀剣で,つばをつけず,柄口(つかぐち)と鞘口(さやぐち)が合うようなこしらえ。

 中国古代の二名剣のことをいう。呉の刀工干将は呉王の嘱により剣を作る時、妻莫耶の髪を炉に入れて初めて作り得た名剣二口に、陽を「干将」、陰を「莫耶」と名づけたことから、転じて、広く名剣の意となった。「呉越春秋」に書かれている<干将莫耶・干将莫邪>の二剣について

呉王・闔閭は名工・干将に2振りの剣を作るよう命じた。干将は最高の材料をそろえ、最高の製作条件を整えてこれに挑んだが、なかなか鉄が溶けず、3ヶ月の時がすぎた。妻の莫耶は干将の師であった欧冶子がかつて自身の身を犠牲にして剣を作ったことを思い出し、自分の髪と爪を炉に入れてみたところ、ようやく鉄が溶けた。干将はこの鉄を使って2振りの剣を作り上げたが、陽剣「干将」は手元において隠し、陰剣「莫耶」のみを王に献上した。王は献上された「莫耶」を大変気に入り、この剣を珍重した。

干将の妻は髪を切り爪を切って爐の中に投じ、童女童男三百人にふいごで火をおして炭をしかけさせると、金鉄はうるおい、ついに剣をつくることができ、陽を干将といい、陰を莫耶といった。陽は亀甲の文様、陰はちらばったすじ模様があった。干将はその陽をかくし、陰を出してこれを献じた。闔閭は甚だ重んじた。すでに宝剣を得て、たまたま魯の使者の季孫が呉に招かれており、闔閭は掌剣大夫に莫邪を献じさせた。季孫は剣を抜くと、刃に欠けているところがあり大きさは黍粒ぐらいであった。感嘆して言った「美しい剣だ。中国の軍といえどもこれ以上の物があるだろうか。剣ができたということは、呉の覇業をあらわしている。欠けているところがあれば、滅びる。私はこれを好みはするが、受け取るべきであろうか」受けずに去った。

闔閭はすでに莫邪を宝とし、また国中に金鈎を作るように命じて言った 「よい鈎を作ることができた物には、百金を褒美として与える」 呉で鈎を作る物は甚だ多かった。そして、ある人は王の手厚い褒美をむさぼり、二子を殺してその血を金に塗り、ついに二つの鉤を作り闔閭に献じ、宮門に至って褒美を求めた。王は言った 「鈎を作る者は多いが、おまえはひとり恩賞を求めてきた、おまえの鈎は他のものとどう異なるのか」 鈎を作る者は言った 「私の作る鈎は、恩賞をむさぼってふたりの子を殺し、血を塗って二つの鈎を作ったのです。」王はそこでたくさんの鈎を挙げてその者に示し「どれがそうなのか」王の鈎は甚だ多く、形態は似ていて、どこにあるか分からなかった。ここにおいて鈎師は鈎に向かって二人の子の名を呼び、「呉鴻、扈稽、私はここにいる、王はおまえたちの霊妙を知らない」声が口から絶えると、二つの鈎はともに飛んできて父の胸に付いた。呉王は大いに驚いて言った 「ああ、私はまことにあなたに償おう」 そこで百金を恩賞として与えた。ついに身につけて離さなかった。

 

由來萬夫勇,挾此生雄風。

この少年はただでさえ萬夫の勇あるに、まして、このヒ首を持っているから、身辺に雄風を生ずるばかりである。

 

 李白図102

 

 

李白 任侠の詩

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160-#2 《巻03-10 幽澗泉 #2》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <160-#2> Ⅰ李白詩1368 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5388

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163-#1 《巻04-05 白馬篇》-#1Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <163> Ⅰ李白詩1359 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5343

163-#2 《巻04-05 白馬篇 #2》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <163-#2> Ⅰ李白詩1372 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5408

164 《巻05-11 少年子》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <164> Ⅰ李白詩1373 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5413

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李白《巻03-24 結襪子》 (古の壮士輩は一度恩義の重きに感ずれば、死を賭して報いると恩義の重さを詠う)

 

 
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 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    結襪子

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              蘇州 (江南東道 蘇州 蘇州) 別名:郡、             

泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳         

 

 

結襪子

(古の壮士輩は一度恩義の重きに感ずれば、死を賭して報いると恩義の重さを詠う)

燕南壯士門豪,筑中置鉛魚隱刀。

燕南の壮士高潮離は、筑中に鉛を置き、始皇帝に近づいて、これを打付けたが、不幸にして中らず、その爲に、誅せられて仕舞った。彼は、荊軻の知に報いんが為に、こんな事をしたのである。次に、呉門の豪士専諾は、炙った魚の中にヒ首を隠し、やがて王僚に近づくや、そのヒ首を以て王僚を刺殺し、自分も、その場で殺されてしまった。彼は、公子光の知遇に感じて、ここに及んだのである。

感君恩重許君命,太山一擲輕鴻毛。

かくの如く、古しえの壮士輩は一たび恩義の重きに感ずれば、死を許して、いかなる事でもするので、死は、平生重きこと泰山の如くであるが、この場合には、鴻毛よりも軽いのである。

 

(結襪子【けつべつし】)

燕南の壯士 門の豪,筑中には鉛を置き魚には刀を隱す。

君が恩の重きに感じて君に命を許し,太山一擲 鴻毛より輕し。

 

 

『結襪子』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

結襪子

燕南壯士門豪,筑中置鉛魚隱刀。

感君恩重許君命,太山一擲輕鴻毛。


(下し文)
(結襪子【けつべつし】)

燕南の壯士 門の豪,筑中には鉛を置き魚には刀を隱す。

君が恩の重きに感じて君に命を許し,太山一擲 鴻毛より輕し。

(現代語訳)


(訳注)

結襪子

(古の壮士輩は一度恩義の重きに感ずれば、死を賭して報いると恩義の重さを詠う)

詩の前半に於ては、高漸離と専諾との事を分叙し、後半に於て之を収束したので、章法すこぶる緊密、そして、一誦すれば胸の透く程に痛快な詩である。

襪【しとうず】絹や錦の2枚の足形の布を縫い合わせてつくられた靴下(イラスト)。足袋のような底やこはぜはなく,上方につけた2本の紐で結び合わせる。奈良~平安時代の礼服(らいふく),朝服などに各種の沓(くつ)とともに用いられた。中国唐代の襪(べつ)が伝わり,これをシタクツと呼び,さらにシタグツ(下沓)の音便でシタウズからシトウズとなった。《和名類聚抄》には〈襪,和名之太久豆足衣也〉とある。襪は錦,綾,絁(あしぎぬ),布()を表地に,白絁,生絁を裏地に多く用いた。

 

燕南壯士門豪,筑中置鉛魚隱刀。

燕南の壮士高潮離は、筑中に鉛を置き、始皇帝に近づいて、これを打付けたが、不幸にして中らず、その爲に、誅せられて仕舞った。彼は、荊軻の知に報いんが為に、こんな事をしたのである。次に、呉門の豪士専諾は、炙った魚の中にヒ首を隠し、やがて王僚に近づくや、そのヒ首を以て王僚を刺殺し、自分も、その場で殺されてしまった。彼は、公子光の知遇に感じて、ここに及んだのである。

○高漸離

史記 列傳 卷八十六 刺客列傳第二十六  荊軻

於是秦逐太子丹・荊軻之客 皆亡 高漸離變名姓爲人庸保 匿作於宋子 久之 作苦 聞其家堂上客擊筑 傍偟不能去 毎出言曰 彼有善有不善 從者以告其主 曰 彼庸乃知音 竊言是非 家丈人召使前擊筑 一坐稱善 賜酒 而高漸離念久隱畏約無窮時 乃退 出其裝匣中筑與其善衣 更容貌而前 舉坐客皆驚 下與抗禮 以爲上客 使擊筑而歌 客無不流涕而去者 宋子傳客之 聞於秦始皇 秦始皇召見 人有識者 乃曰 高漸離也 秦皇帝惜其善擊筑 重赦之 乃其目 使擊筑 未嘗不稱善 稍益近之 高漸離乃以鉛置筑中 復進得近 舉筑朴秦皇帝 不中 於是遂誅高漸離 終身不復近諸侯之人。

ここに秦は太子丹・荊軻の客を逐(お)う。 皆亡(に)ぐ。 高漸離(こうざんり/前出。荊軻と親しかった筑の名人)は名姓を變じ人の庸保(ようほ/雇われ人)と爲り、匿(かく)れて宋子(そうし/地名)に作(さく)す。 これ久しくして、作すること苦し。 その家の堂上に客の筑を擊つを聞き、傍(かたわら)を偟(さまよ)い去ること能(あた)わず。 毎(つね)に言を出だして曰く、「彼は善(よ)き有り、善(よ)からず有り」と。 從者、以ってその主に告げて曰く、「彼(か)の庸(よう/雇い人)は乃ち音を知り、竊(ひそか)に是非を言う」と。 家の丈人(じょうじん/その家の老いた主人)、召し前に筑を擊たしむ。 一坐、善しと稱し酒を賜う。 而して高漸離、久しく隱れ畏約(いやく/人目をさけてかくれる)すること窮まる時の無きを念う。 乃ち退(しりぞ)き、その裝匣(そうこう/荷物いれ)の中の筑とその善衣(ぜんい/立派な着物)を出し、容貌を更めて前(すす)む。 坐の客は舉(あ)げて皆驚く。 下りて抗禮(こうれい/礼を争う、すなわち上座・下座の席順をゆずりあうこと)し、以って上客と爲す。 筑を擊ちて歌わしむるに、客の流涕せずして去る者無し。 宋子、傳えてこれを客とす。 秦の始皇に聞こゆ。 秦の始皇、召して見(まみ)ゆるに、人の識る者有り。 乃ち曰く、「高漸離なり」と。 秦の皇帝、その善く筑を擊つを惜しみ、重んじてこれを赦(ゆる)し、乃ちその目を(かく/目をつぶして盲目とする)す。 筑を擊たしめ、未だ嘗て善と稱(い)わざることなし。 稍(ようやく)益(ますます)これを近づく。 高漸離、乃ち鉛を以って筑の中に置き、また進みて近づくを得、筑を舉(あ)げて秦の皇帝を朴(う)つ。 中(あた)らず。 ここに遂に高漸離を誅し、終身また諸侯の人を近づけず。

韓愈『送董卲南序』「為我弔望諸君之墓,而觀於其市,復有昔時屠狗者乎?」

31-#2 《讀巻04-15-#2 送董卲南序》韓愈(韓退之)ID 795年貞元11年 28歳<1278 Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5374

為我弔望諸君之墓,而觀於其市,

どうか私のために、燕将望諸君(楽毅)の墓を弔って、その町の市場を見てほしい。

○望諸君 燕の名将楽毅・荊軻。『史記』に「毅燕の恵王の善く昭王に代らざるを知り、誅を畏れて遂に趙に降れり。趙困って封じて望諸君と為せり」とある。燕の昭王を助けて斉を伐って大勝したが、昭王の死後題に仕えた。管仲・楽毅と並び称される。

楽毅・荊軻らは憂色濃く深い者、悲憤の人士者とされる。楽毅は、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。楽毅の憂色は濃く、深い。四度にわたる隣国・趙の侵略。宰相だった楽毅の父は自ら望んで死地へ赴き、祖国は国土の大半を失った。荊軻は、中国戦国時代末期の刺客。燕の太子の命を受け、策略を用いて秦王の政を暗殺しようとするが、失敗し逆に殺された。

復有昔時屠狗者乎?

そこに昔の戦国の荊軻と燕の市に飲んだくれた犬殺しの高漸離のような人物がいるだろうか。

○屠狗者 荊軻と酒を飲んだ者。『史記』に「狗を居(招)るもの高漸離と云ふものあり、荊軻酒を嗜み、日々屠狗者高漸難と燕の市に飲み、酒酣(たけなわ)にして往いて市中に歌ひ、己にして相泣き、旁人無きが如し」と。感慨志を得なかった人士である。

為我謝曰:「明天子在上,可以出而仕矣!」

もしいたら、私のためにこう挨拶をしていってくれ、「今の唐の世には、明徳の天子が上におられるから、出て朝廷に仕えることができる。」ということだ。

○謝 辞を告げる。挨拶する。

 

門豪 史記「伍子胥知公子光之欲殺王僚。乃進專諸於公子光。

伍子胥、公子光の臭王際を殺さむとするを知り、乃ち専諾を公子光に進む。光、甲士を窟室中に伏せ、而して、酒を具へて王僚を請ふ。酒すでに酣なるとき、公子光、佯って足疾と爲して、窟室中に入り、専諾をしてヒ首を魚灸の腹中に置いて、これを進めしむ。すでに王の前に至るや、専諾、魚を擘さ、因って、ヒ首を以て王僚を刺す。王僚、立どころに死す、左右亦た専諾を殺す」とある。

筑中 筑に、状、琴に似て大頭、絃を安んじ、竹を以て之な撃つのである。

太山一擲輕鴻毛 漢書に「司馬遷日く、人もとより一死あり、死.太山より重きあり、或は鴻毛よりも軽さあり。これ私用ふるに、趣くところ異なればなり」とある。

 

感君恩重許君命,太山一擲輕鴻毛。

かくの如く、古しえの壮士輩は一たび恩義の重きに感ずれば、死を許して、いかなる事でもするので、死は、平生重きこと泰山の如くであるが、この場合には、鴻毛よりも軽いのである。

161 《巻03-16 相逢行》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <161> Ⅰ李白詩1357 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5333

李白《巻03-16 相逢行》軽装した遊侠の少年が、馬に跨り、紅塵を蹴立てて馳せ行くとき、向うからも同じ様な少年が来て、はたっと出合った。すると、黄金の鞭を軽げに揮いながら、両手を前にたかくして会釈した、

 

 
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161 《巻03-16 相逢行》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <161> Ⅰ李白詩1357 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5333

 

 

年:       開元十九年

寫作時間:           731

寫作年紀:           31

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    相逢行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

相逢行

(《詩経 齊風、還》詩を継承して詠ったもの。)

相逢紅塵高揖黃金鞭。

軽装した遊侠の少年が、馬に跨り、紅塵を蹴立てて馳せ行くとき、向うからも同じ様な少年が来て、はたっと出合った。すると、黄金の鞭を軽げに揮いながら、両手を前にたかくして会釈した、

垂楊裡,君家阿那邊。

片片が萬家の隠見する垂柳の中を指し、君の御住居は、どの辺でありますかといって尋ねた。

 

(相い逢うの行)

相い逢う 紅塵の,高く揖す 黃金の鞭。

 垂楊の裡,君が家は阿那の邊。

 

 

『相逢行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

相逢行

相逢紅塵高揖黃金鞭。

垂楊裡,君家阿那邊。


(下し文)


(現代語訳)
(《詩経 齊風、還》詩を継承して詠ったもの。)

軽装した遊侠の少年が、馬に跨り、紅塵を蹴立てて馳せ行くとき、向うからも同じ様な少年が来て、はたっと出合った。すると、黄金の鞭を軽げに揮いながら、両手を前にたかくして会釈した、

片片が萬家の隠見する垂柳の中を指し、君の御住居は、どの辺でありますかといって尋ねた。


(訳注)

相逢行

相逢行は、一に相逢狭路問行ともいい、又長安有狭斜行ともいい、その古詞は、漢人の作に係り、一寸長いが、李白の此作は、王昭君の詩と同じく、あっさりと片付けたところに、一種の妙趣がある。この詩は乾隆帝が激賞している有名な詩である。

李白の詩は、以下の《詩経 齊風、還》詩を継承して詠ったもの。

齊国の少年輩が、遊猟の歸途、互に相逢うて、馬が良いとか、乗りっ振りが善いとかいつて、褒め合ふことを述べている。

詩経 齊風 

子之還兮 遭我乎峱之閒兮。

並驅從兩肩兮、揖我謂我儇兮。

子の還たる 我に峱【どう】の閒に遭ふ。

竝【なら】び驅せて兩肩を從【お】ふ 我をして揖【ゆう】して我を儇【けん】と謂ふ。

 

子之茂兮 遭我乎峱之道兮

竝驅從兩牡兮 揖我謂我好兮

子の茂【ばう】なる 我に峱の道に遭ふ。

竝びて驅せて兩牡【りやうぼ】を從ふ 我を揖して我を好【よし】と謂ふ。

 

子之昌兮 遭我乎峱之陽兮

竝驅從兩狼兮 揖我謂我臧兮

子の昌なる 我に峱【どう】の陽に遭ふ。

竝びて驅りて兩狼を從【お】う 我を揖して我を臧【よし】と謂ふ

 

相逢紅塵高揖黃金鞭。

軽装した遊侠の少年が、馬に跨り、紅塵を蹴立てて馳せ行くとき、向うからも同じ様な少年が来て、はたっと出合った。すると、黄金の鞭を軽げに揮いながら、両手を前にたかくして会釈した、

 

垂楊裡,君家阿那邊。

片片が萬家の隠見する垂柳の中を指し、君の御住居は、どの辺でありますかといって尋ねた。

160-#2 《巻03-10 幽澗泉 #2》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <160-#2> Ⅰ李白詩1368 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5388

李白《巻03-10 幽澗泉 #2》 曲に古今の別あることを知っているのでもないが、ただ指に任せて、かくのごとき声を写し、これによって、かくのごとき情を発するのである。それが自然に人の心を動かし、幽澗の泉が深林に鳴るかの如き思いを持って聞かれるのであって、琴の妙趣は、もとより限なきものである。

 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    幽澗泉

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

幽澗泉

(ひっそりとした谷間に響く琴の音を詠う)

拂彼白石,彈吾素琴。

白石を梯うて、素琴を弾ずる。

幽澗愀兮流泉深,善手明徽高張清。

琴の上手な人が、絃を高く張って、これを掻き鳴らすと、初は幽潤が愀として、流泉が極めて深いような響きをして居るのであった。

心寂歷似千古,松颼兮萬尋。

段段進むに連れ、こころには身を切られるような 切なさ. 思い知らされ、千古の松が萬尋の谷に臨んで、かぜが颼と響き聾を発している。

中見愁猿弔影而危處兮,叫秋木而長吟。

段段進むに連れ、こころには身を切られるような 切なさ. 思い知らされ、千古の松が萬尋の谷に臨んで、かぜが颼と響き聾を発している。

 

客有哀時失職而聽者,淚淋浪以霑襟。

乃緝商綴羽,潺湲成音。

吾但寫聲發情於妙指,殊不知此曲之古今。

幽澗泉,鳴深林。

 

(幽澗の泉)

彼の白石を拂い,吾が素琴を彈ず。

幽澗 愀として 流泉深し,善手 明徽 高く張って清くす。

心 寂歷として千古に似たり,松 颼【しつりゅう】として萬尋なるに。

中に見る 愁猿の影を弔うて危處し,秋木に叫んで 長吟するを。

 

客に 時を哀み 職を失って 聽く者有り,淚 淋浪 以て襟を霑す。

乃ち商を緝し 羽を綴り,潺湲【せんかん】音を成す。

吾 但だ聲を寫し 發情を妙指し,殊に此の曲の古今を知らず。

幽澗の泉,深林に鳴る。

 

(含異文)

拂彼白石,彈吾素琴。幽澗愀兮流泉深,善手明徽高張清。心寂歷似千古,松颼兮萬尋。中見愁猿弔影而危處兮,叫秋木而長吟。客有哀時失職而聽者【客有哀時失志而聽者】,淚淋浪以霑襟。乃緝商綴羽,潺湲成音。吾但寫聲發情於妙指,殊不知此曲之古今。幽澗泉,鳴深林。

 

花蕊夫人002 

『幽澗泉』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

客有哀時失職而聽者,淚淋浪以霑襟。

乃緝商綴羽,潺湲成音。

吾但寫聲發情於妙指,殊不知此曲之古今。

幽澗泉,鳴深林。

(下し文)
客に 時を哀み 職を失って 聽く者有り,淚 淋浪 以て襟を霑す。

乃ち商を緝し 羽を綴り,潺湲【せんかん】音を成す。

吾 但だ聲を寫し 發情を妙指し,殊に此の曲の古今を知らず。

幽澗の泉,深林に鳴る。

(現代語訳)
時を哀み、職を失し、物憂きままに、これを聞いている客があって、覚えず、涙淋狼として、襟をうるおすのである。

これまでは、琴を弾くものが、商の調子でやって居たが、急に変じて羽の調子にすると、又、元の幽潤の泉のような潺湲たる音に立ち戻り、それで、また循環してゆく。

畢竟するに、曲に古今の別あることを知っているのでもないが、ただ指に任せて、かくのごとき声を写し、これによって、かくのごとき情を発するのである。

それが自然に人の心を動かし、幽澗の泉が深林に鳴るかの如き思いを持って聞かれるのであって、琴の妙趣は、もとより限なきものである。

(訳注)#2

幽澗泉

(ひっそりとした谷間に響く琴の音を詠う)

欒府詩集には、この首を以て琴曲歌靡中に入れてある。但し、この首は、琴の音色を写すような心持である。

 

客有哀時失職而聽者,淚淋浪以霑襟。

時を哀み、職を失し、物憂きままに、これを聞いている客があって、覚えず、涙淋狼として、襟をうるおすのである。

淋浪 乱れれるさま。水の並び下るさま。

 

乃緝商綴羽,潺湲成音。

これまでは、琴を弾くものが、商の調子でやって居たが、急に変じて羽の調子にすると、又、元の幽潤の泉のような潺湲たる音に立ち戻り、それで、また循環してゆく。

緝商綴羽 五声(ごせい)は、中国音楽で使われる五つの音高。五音(ごいん)ともいう。宮(きゅう)、商(しょう)、角(かく)、 徴(ち)、 羽(う)の五つ。音の高低によって並べると、五音音階ができる。西洋古典音楽の階名で大体、宮はド(Do)、商はレ(Re)、角はミ(Mi)、徴はソ(Sol)、羽はラ(La)にあたると説明されることが多い。後に変宮(宮の低半音)と変徴(徴の低半音)が加えられ、七声または七音となった。変宮と変徴は大体、シと#ファ(fis)に相当する。音の低いものから並べると、宮・商・角・変徴・徴・羽・変宮で、七音音階を形成する。秦以降、七声は、宮・商・角・清角(角の高半音の意)・徴・羽・変宮、または宮・商・清角・徴・羽・清羽などでも表された。なお中国伝統音楽にはファに相当する音がない。昔の中国では、五声のそれぞれに身分的な意味を持っていた。宮 - 君主 商 - 臣下 角 - 民 徴 - 事 羽 - 物 

潺湲 1 さらさらと水の流れるさま。2 涙がしきりに流れるさま。

 

吾但寫聲發情於妙指,殊不知此曲之古今。

畢竟するに、曲に古今の別あることを知っているのでもないが、ただ指に任せて、かくのごとき声を写し、これによって、かくのごとき情を発するのである。

 

幽澗泉,鳴深林。
それが自然に人の心を動かし、幽澗の泉が深林に鳴るかの如き思いを持って聞かれるのであって、琴の妙趣は、もとより限なきものである。

Ta唐 長安近郊圖  新02 

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李白《巻03-10 幽澗泉》(ひっそりとした谷間に響く琴の音を詠う)白石を梯うて、素琴を弾ずる。琴の上手な人が、絃を高く張って、これを掻き鳴らすと、初は幽潤が愀として、流泉が極めて深いような響きをして居るのであった。

 

 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    幽澗泉

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

幽澗泉

(ひっそりとした谷間に響く琴の音を詠う)

拂彼白石,彈吾素琴。

白石を梯うて、素琴を弾ずる。

幽澗愀兮流泉深,善手明徽高張清。

琴の上手な人が、絃を高く張って、これを掻き鳴らすと、初は幽潤が愀として、流泉が極めて深いような響きをして居るのであった。

心寂歷似千古,松颼兮萬尋。

段段進むに連れ、こころには身を切られるような 切なさ. 思い知らされ、千古の松が萬尋の谷に臨んで、かぜが颼と響き聾を発している。

中見愁猿弔影而危處兮,叫秋木而長吟。

段段進むに連れ、こころには身を切られるような 切なさ. 思い知らされ、千古の松が萬尋の谷に臨んで、かぜが颼と響き聾を発している。

 

客有哀時失職而聽者,淚淋浪以霑襟。

乃緝商綴羽,潺湲成音。

吾但寫聲發情於妙指,殊不知此曲之古今。

幽澗泉,鳴深林。

 

(幽澗の泉)

彼の白石を拂い,吾が素琴を彈ず。

幽澗 愀として 流泉深し,善手 明徽 高く張って清くす。

心 寂歷として千古に似たり,松 颼【しつりゅう】として萬尋なるに。

中に見る 愁猿の影を弔うて危處し,秋木に叫んで 長吟するを。

 

客に 時を哀み 職を失って 聽く者有り,淚 淋浪 以て襟を霑す。

乃ち商を緝し 羽を綴り,潺湲【せんかん】音を成す。

吾 但だ聲を寫し 發情を妙指し,殊に此の曲の古今を知らず。

幽澗の泉,深林に鳴る。

 

(含異文)

拂彼白石,彈吾素琴。幽澗愀兮流泉深,善手明徽高張清。心寂歷似千古,松颼兮萬尋。中見愁猿弔影而危處兮,叫秋木而長吟。客有哀時失職而聽者【客有哀時失志而聽者】,淚淋浪以霑襟。乃緝商綴羽,潺湲成音。吾但寫聲發情於妙指,殊不知此曲之古今。幽澗泉,鳴深林。

花蕊夫人002 

 

『幽澗泉』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

幽澗泉

拂彼白石,彈吾素琴。

幽澗愀兮流泉深,善手明徽高張清。

心寂歷似千古,松颼兮萬尋。

中見愁猿弔影而危處兮,叫秋木而長吟。

(下し文)
(幽澗の泉)

彼の白石を拂い,吾が素琴を彈ず。

幽澗 愀として 流泉深し,善手 明徽 高く張って清くす。

心 寂歷として千古に似たり,松 颼【しつりゅう】として萬尋なるに。

中に見る 愁猿の影を弔うて危處し,秋木に叫んで 長吟するを。

(現代語訳)
(ひっそりとした谷間に響く琴の音を詠う)

白石を梯うて、素琴を弾ずる。

琴の上手な人が、絃を高く張って、これを掻き鳴らすと、初は幽潤が愀として、流泉が極めて深いような響きをして居るのであった。

段段進むに連れ、こころには身を切られるような 切なさ. 思い知らされ、千古の松が萬尋の谷に臨んで、かぜが颼と響き聾を発している。


(訳注)

幽澗泉

(ひっそりとした谷間に響く琴の音を詠う)

欒府詩集には、この首を以て琴曲歌靡中に入れてある。但し、この首は、琴の音色を写すような心持である。

 

拂彼白石,彈吾素琴。

白石を梯うて、素琴を弾ずる。

 

幽澗愀兮流泉深,善手明徽高張清。

琴の上手な人が、絃を高く張って、これを掻き鳴らすと、初は幽潤が愀として、流泉が極めて深いような響きをして居るのであった。

 

心寂歷似千古,松颼兮萬尋。

段段進むに連れ、こころには身を切られるような 切なさ. 思い知らされ、千古の松が萬尋の谷に臨んで、かぜが颼と響き聾を発している。

寂歷 身を切られるような 切なさ. 思い知ること。

 風の吹きつける音。

 

中見愁猿弔影而危處兮,叫秋木而長吟。

その松の上には、逆さにぶら下がった猿が、物悲しき声を出して長い声で叫ぶ。
太白山001 

101 《長干行,二首之二 -#3》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 <103> Ⅰ李白詩1277 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4933

すでに、商人の妻になっているので、美人たちのようなことはできない、だから、こうして増水した水を心配し、それから、風が吹いたら愁い、始終くよくよして一生を過ごしていくのだと思っている。

 
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 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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101 《長干行,二首之二 -#3》李白index- 6 726年開元十四年26歳》 <103> Ⅰ李白詩1277 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4933

 

 

726年開元十四年26

襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 

 

作地點:        江寧(江南東道 / 潤州 / 江寧)

及地點:       

長干 (江南東道 潤州 江寧)        

望夫石 (淮南道 濠州 塗山) 別名:望夫臺   

瞿塘峽 (山南東道 夔州 夔州) 別名:瞿塘   

灩澦堆 (山南東道 夔州 夔州)      

長風沙 (淮南道 舒州 舒州)

 

長干行,二首之一 #1

妾髮初覆額,折花門前劇。

郎騎竹馬來,遶床弄青梅。

同居長干里,兩小無嫌猜。

十四為君婦,羞顏未嘗開。

低頭向暗壁,千喚不一回。

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)

私の髪がやっと額を覆うようになってきた頃、何の憂いもなく、門前のあたりで花を摘んで遊んでいた。
我が夫もそのころは竹馬に乗ってやってきて、寝床のまわりを回っては青い梅の実をもてあそんでいたのだ。
何せ、同じように長干の里にいて、幼い二人とも何の疑いもなく、仲睦まじかったのである。
14
歳であなたの妻になり、恥ずかしさで、はにかんで笑顔も作れないままだった。

うなだれて壁に向かっては、千度呼ばれても、一度も振り向かないでいた。

#2

十五始展眉,願同塵與灰。

常存抱柱信,豈上望夫臺?

十六君遠行,瞿塘灩澦堆。

五月不可觸,猿聲天上哀。

門前遲行跡,一一生綠苔。

15歳でやっと眉をほころばせて笑うことができるようになり、ともに寄り添い灰になるまで一緒にいたいと願うようになった。

あなたの愛は尾生の抱柱の信のように堅固でしたから、わたしが望夫臺に上って夫の帰りを待ちわびるようになろうとは思いもしなかった。
16
歳になったとき、あなたは遠くへ旅立ち、長江の難所である瞿塘峡、灔澦堆の方にいったのだ。
5月の増水期にはとても近づくことも出来ないところで、そこには野猿がいて、その泣き声だけが大空に悲しそうに響きわたるという。
新居の門前には、あなたが旅立ちの時、行ったり、戻ったりしていたその足跡の上には、いまは一つ一つと青いコケが生えてきている。

その苔が深くびっしりと生えていて、とても払いきれるものではない、そこに枯れ葉が落ちはじめて、早くも秋風が吹いている。

#3

苔深不能掃,落葉秋風早。

八月蝴蝶來,雙飛西園草。

感此傷妾心,坐愁紅顏老。

早晚下三巴,預將書報家。

相迎不道遠,直至長風沙。

その苔が深くびっしりと生えていて、とても払いきれるものではない、そこに枯れ葉が落ちはじめて、早くも秋風が吹いている。

仲秋の八月には、つがいの蝶が飛んできて、二羽ならんで西の庭園の草花の上を仲良く並んで飛び回る。

それを見るとおもわず心にあなたを思い、私の心は痛み、若妻の紅顏が老いゆくのをむなしく悲しむばかりなのだ。

いったいいつになったら三巴の長江を下って帰えってくるのだろうか、そのときはあらかじめ我が家に手紙で知らせてほしいのだ。
夫のための迎えをするのに、遠いと思うことなどないし、このまままっすぐに、長風沙まででもいこうとするのだ。
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(長干行,二首 其の一)
妾が髮初めて額を覆ふとき、花を折って門前に劇【たはむ】る。』
郎は竹馬に騎って來り、床を遶りて青梅を弄す。
同じく長干の里に居り、兩つながら小【おさな】くして嫌猜無し。
十四 君が婦と為り、羞顏 未だ嘗て開かず。
頭を低れて暗壁に向ひ、千喚に一も回(めぐ)らさず。
#2

十五 始めて眉を展べ、願はくは塵と灰とを同じゅうせん。
常に抱柱の信を存し、豈に望夫臺に上らんや。
 
十六 君遠く行く、瞿塘 艶澦堆。
五月 觸るべからず、猿鳴 天上に哀し。
門前 遲行の跡、一一 綠苔を生ず。』
#3
苔深くして掃ふ能はず、落葉 秋風早し
八月 蝴蝶來り、雙び飛ぶ西園の草
此に感じて妾が心を傷ましめ、坐【そぞろ】に愁ふ紅顏の老ゆるを。』
早晩三巴を下らん、預【あらかじ】め書を將って家に報ぜよ
相ひ迎ふるに遠きを道【い】はず、直ちに至らん長風沙』
<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->
<!--[endif]-->

 

長干行,二首之二

憶妾深閨裡,煙塵不曾識。

嫁與長干人,沙頭候風色。

五月南風興,思君下巴陵。

八月西風起,想君發揚子。

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)二首の二

昔は奥の閨の中で籠ってばかりいて、浮世の辛苦は全く知らなかった。

ところが、長干の人の所に嫁いできてから、夫がいつも舟で商売に出ているから、舟が着く沙頭に出て、天気の様子を見ては、夫の身を案じたのだ。

真夏の五月になって、南からの風が強く起りだすと、夫が巴陵を下って長江を帰れば追い風であるからと心配する。

秋、八月になると強い西風が吹くと、夫が、揚子の辺りを出発してくれたらいいなとおもうのである。

 

去來悲如何,見少別離多。

湘潭幾日到,妾夢越風波。

昨夜狂風度,吹折江頭樹。

淼淼暗無邊,行人在何處。

北客真王公,朱衣滿江中。

この風があって帰ってこられず、妻はどれだけ悲しいことか、帰ってきて、相見る事が出来るというのは稀であって、多くは、すぐに舟で出かけて仕舞うので、多くの時は別離しているのである。

今でも、夫は、長江を遡り、洞庭湖に入り、湘江のある潭州には何時ごろ到着されるのか、妻の夢は、はるばる風波を越えて、湘潭に行くことである。

ところが、昨夜、狂ったように強風が吹き、江頭の樹木を吹き倒し、折り尽くした。

長江の波は大波が淼淼として、その上、真っ暗で行くべき方向が分からなかった。船旅の人たちはてんぷくしてどこにいったのであろうか。

たまたま北客が名馬に乗じて長干に来たって、多くの美人を呼び集めた。

日暮來投宿,數朝不肯東。

好乘浮雲驄,佳期蘭渚東。

鴛鴦綠蒲上,翡翠錦屏中。

自憐十五餘,顏色桃花紅。

那作商人婦,愁水復愁風。

日暮れには大勢の人がこの街の宿に投宿した。数多くの人がこの朝になっても東にむかうことができなかった。

もしうまく浮浪雲の乗っていくことが出来れば、逢瀬の約束の日を蘭渚の東において出会い、酒盛りをすることが出来るだろう。

江を眺めれば綠蒲の上には鴛鴦がみえるし、部屋内の錦屏の中には翡翠が描かれ、そこに美人たちが騒いでいる。

その光景を見れば、夫と一緒に居れない自分は十五を過ぎたばかりで、桃花に似た紅色の顔立ちであるから、嫁に来ていなければあの北客の宴の美人たちに負けない。

すでに、商人の妻になっているので、美人たちのようなことはできない、だから、こうして増水した水を心配し、それから、風が吹いたら愁い、始終くよくよして一生を過ごしていくのだと思っている。

 

(長干行,二首の二)

憶う妾が 深閨の裡,煙塵 曾って識らず。

長干の人に嫁與して,沙頭 風色を候す。

五月 南風興れば,君が巴陵を下るを思う。

八月 西風起れば,君が揚子を發せしを想う。

 

去來 悲しみ如何【いかん】,見ること少くして別離は多くす。

湘潭 幾日か到らん,妾が夢は風波を越ゆ。

昨夜 狂風度り,吹き折る江頭の樹。

淼淼【びゅうびゅう】として暗きこと邊無し,行人 何處にか在る。

北客は真王公なり,朱衣 江中に滿つ。

 

日暮れて投宿に來る,數ば朝に 肯えて東せず。

好し 浮雲の驄に乘じ,佳期 蘭渚の東。

鴛鴦は 綠蒲の上,翡翠は 錦屏の中。

自ら憐れむ十五の餘,顏色 桃花紅なり。

那ぞ商人の婦と作って,水を愁い 復た風を愁う。

李白図102 

 

『長干行』 現代語訳と訳註

(本文)

長干行,二首之二 #3

日暮來投宿,數朝不肯東。

好乘浮雲驄,佳期蘭渚東。

鴛鴦綠蒲上,翡翠錦屏中。

自憐十五餘,顏色桃花紅。

那作商人婦,愁水復愁風。

 

(下し文)

日暮れて投宿に來る,數ば朝に 肯えて東せず。

好し 浮雲の驄に乘じ,佳期 蘭渚の東。

鴛鴦は 綠蒲の上,翡翠は 錦屏の中。

自ら憐れむ十五の餘,顏色 桃花紅なり。

那ぞ商人の婦と作って,水を愁い 復た風を愁う。

 

(現代語訳)

日暮れには大勢の人がこの街の宿に投宿した。数多くの人がこの朝になっても東にむかうことができなかった。

もしうまく浮浪雲の乗っていくことが出来れば、逢瀬の約束の日を蘭渚の東において出会い、酒盛りをすることが出来るだろう。

江を眺めれば綠蒲の上には鴛鴦がみえるし、部屋内の錦屏の中には翡翠が描かれ、そこに美人たちが騒いでいる。

その光景を見れば、夫と一緒に居れない自分は十五を過ぎたばかりで、桃花に似た紅色の顔立ちであるから、嫁に来ていなければあの北客の宴の美人たちに負けない。

すでに、商人の妻になっているので、美人たちのようなことはできない、だから、こうして増水した水を心配し、それから、風が吹いたら愁い、始終くよくよして一生を過ごしていくのだと思っている。

三峡 巫山十二峰001 

 

(訳注)

長干行,二首之二

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)二首の二

行は、うた。長干は今の南京の南にある小さな町。出稼ぎの商人たちの居住した町。
楽府「雑曲歌辞」長江下流の商人船頭の妻の生活を詠う。男女の愛を歌ったもので、六朝時代の楽府、風俗歌を下敷きにしている。

 

日暮來投宿,數朝不肯東。

日暮れには大勢の人がこの街の宿に投宿した。数多くの人がこの朝になっても東にむかうことができなかった。

 

好乘浮雲驄,佳期蘭渚東。

もしうまく浮浪雲の乗っていくことが出来れば、逢瀬の約束の日を蘭渚の東において出会い、酒盛りをすることが出来るだろう。

浮雲驄 漢文帝、良馬九匹 文帝自代還。有良馬九匹。皆天下之駿馬也。一名浮雲。一名赤電。一名絶群。一名逸驃。一名紫鷰騮。一名綠螭驄。一名龍子。一名麟駒。一名絶塵。號為九逸。有來宣能御。代王號為王良。倶還代邸。漢の文帝は代王時代に天下の名馬九匹を所有していた。「浮雲」「赤電」「絶群」「逸驃」「紫鷰騮」「綠螭驄」「龍子」「麟駒」「絶塵」という名前であった。ここは、男たちが天候によって旅に出られないことをいう。

佳期 逢瀬の約束の日。

蘭渚東 蘭は蘭房、蘭閨など妓女の部屋などを意味するし、東は美人、春の意味。

 

鴛鴦綠蒲上,翡翠錦屏中。

江を眺めれば綠蒲の上には鴛鴦がみえるし、部屋内の錦屏の中には翡翠が描かれ、そこに美人たちが騒いでいる。

鴛鴦 おしどり。妻が一人で居ることに悲哀を感じさせる。

綠蒲 鴛鴦は砂浜にツガイでいるものであるが、ここは陸上を意味する座敷の宴会のこと。

翡翠 カワセミの雄は赤の羽、雌は翠の羽で、帷帳、屏風をかざる。

 

自憐十五餘,顏色桃花紅。

その光景を見れば、夫と一緒に居れない自分は十五を過ぎたばかりで、桃花に似た紅色の顔立ちであるから、嫁に来ていなければあの北客の宴の美人たちに負けない。

 

那作商人婦,愁水復愁風。

すでに、商人の妻になっているので、美人たちのようなことはできない、だから、こうして増水した水を心配し、それから、風が吹いたら愁い、始終くよくよして一生を過ごしていくのだと思っている。

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この風があって帰ってこられず、妻はどれだけ悲しいことか、帰ってきて、相見る事が出来るというのは稀であって、多くは、すぐに舟で出かけて仕舞うので、多くの時は別離しているのである。

 
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101 《長干行,二首之二 -#2》李白index- 6 726年開元十四年26歳》 <102> Ⅰ李白詩1276 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4928

 

襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。  

長干行,二首之二

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)二首の二

憶妾深閨裡,煙塵不曾識。

昔は奥の閨の中で籠ってばかりいて、浮世の辛苦は全く知らなかった。

嫁與長干人,沙頭候風色。

ところが、長干の人の所に嫁いできてから、夫がいつも舟で商売に出ているから、舟が着く沙頭に出て、天気の様子を見ては、夫の身を案じたのだ。

五月南風興,思君下巴陵。

真夏の五月になって、南からの風が強く起りだすと、夫が巴陵を下って長江を帰れば追い風であるからと心配する。

八月西風起,想君發揚子。

秋、八月になると強い西風が吹くと、夫が、揚子の辺りを出発してくれたらいいなとおもうのである。

 

去來悲如何,見少別離多。

この風があって帰ってこられず、妻はどれだけ悲しいことか、帰ってきて、相見る事が出来るというのは稀であって、多くは、すぐに舟で出かけて仕舞うので、多くの時は別離しているのである。

湘潭幾日到,妾夢越風波。

今でも、夫は、長江を遡り、洞庭湖に入り、湘江のある潭州には何時ごろ到着されるのか、妻の夢は、はるばる風波を越えて、湘潭に行くことである。

昨夜狂風度,吹折江頭樹。

ところが、昨夜、狂ったように強風が吹き、江頭の樹木を吹き倒し、折り尽くした。

淼淼暗無邊,行人在何處。

長江の波は大波が淼淼として、その上、真っ暗で行くべき方向が分からなかった。船旅の人たちはてんぷくしてどこにいったのであろうか。

北客真王公,朱衣滿江中。

たまたま北客が名馬に乗じて長干に来たって、多くの美人を呼び集めた。

日暮來投宿,數朝不肯東。

好乘浮雲驄,佳期蘭渚東。

鴛鴦綠蒲上,翡翠錦屏中。

自憐十五餘,顏色桃花紅。

那作商人婦,愁水復愁風。

 

(長干行,二首の二)

憶う妾が 深閨の裡,煙塵 曾って識らず。

長干の人に嫁與して,沙頭 風色を候す。

五月 南風興れば,君が巴陵を下るを思う。

八月 西風起れば,君が揚子を發せしを想う。

 

去來 悲しみ如何【いかん】,見ること少くして別離は多くす。

湘潭 幾日か到らん,妾が夢は風波を越ゆ。

昨夜 狂風度り,吹き折る江頭の樹。

淼淼【びゅうびゅう】として暗きこと邊無し,行人 何處にか在る。

北客は真王公なり,朱衣 江中に滿つ。

 

日暮れて投宿に來る,數ば朝に 肯えて東せず。

好し 浮雲の驄に乘じ,佳期 蘭渚の東。

鴛鴦は 綠蒲の上,翡翠は 錦屏の中。

自ら憐れむ十五の餘,顏色 桃花紅なり。

那ぞ商人の婦と作って,水を愁い 復た風を愁う。

 

三峡 巫山十二峰001 

『長干行』 現代語訳と訳註

(本文)

去來悲如何,見少別離多。

湘潭幾日到,妾夢越風波。

昨夜狂風度,吹折江頭樹。

淼淼暗無邊,行人在何處。

北客真王公,朱衣滿江中。

 

 

(下し文)

去來 悲しみ如何【いかん】,見ること少くして別離は多くす。

湘潭 幾日か到らん,妾が夢は風波を越ゆ。

昨夜 狂風度り,吹き折る江頭の樹。

淼淼【びゅうびゅう】として暗きこと邊無し,行人 何處にか在る。

北客は真王公なり,朱衣 滿江の中。

 

(現代語訳)

この風があって帰ってこられず、妻はどれだけ悲しいことか、帰ってきて、相見る事が出来るというのは稀であって、多くは、すぐに舟で出かけて仕舞うので、多くの時は別離しているのである。

今でも、夫は、長江を遡り、洞庭湖に入り、湘江のある潭州には何時ごろ到着されるのか、妻の夢は、はるばる風波を越えて、湘潭に行くことである。

ところが、昨夜、狂ったように強風が吹き、江頭の樹木を吹き倒し、折り尽くした。

長江の波は大波が淼淼として、その上、真っ暗で行くべき方向が分からなかった。船旅の人たちはてんぷくしてどこにいったのであろうか。

たまたま北客が名馬に乗じて長干に来たって、多くの美人を呼び集めた。

南池江 採蓮002 

(訳注)

長干行,二首之二

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)二首の二

行は、うた。長干は今の南京の南にある小さな町。出稼ぎの商人たちの居住した町。
楽府「雑曲歌辞」長江下流の商人船頭の妻の生活を詠う。男女の愛を歌ったもので、六朝時代の楽府、風俗歌を下敷きにしている。

 

去來悲如何,見少別離多。

この風があって帰ってこられず、妻はどれだけ悲しいことか、帰ってきて、相見る事が出来るというのは稀であって、多くは、すぐに舟で出かけて仕舞うので、多くの時は別離しているのである。

 

湘潭幾日到,妾夢越風波。

今でも、夫は、長江を遡り、洞庭湖に入り、湘江のある潭州には何時ごろ到着されるのか、妻の夢は、はるばる風波を越えて、湘潭に行くことである。

湘潭 洞庭湖に入り、湘江のある潭州

潭州 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 41

 

昨夜狂風度,吹折江頭樹。

ところが、昨夜、狂ったように強風が吹き、江頭の樹木を吹き倒し、折り尽くした。

 

淼淼暗無邊,行人在何處。

長江の波は大波が淼淼として、その上、真っ暗で行くべき方向が分からなかった。船旅の人たちはてんぷくしてどこにいったのであろうか。

淼淼 水面が果てしなく広がっているさま。淼漫。

 

北客真王公,朱衣滿江中。

たまたま北客が名馬に乗じて長干に来たって、多くの美人を呼び集めた。

朱衣 朱色の衣服。四位・五位の官人が着用した。あけごろもの女妓。ここでは、しけで長宿する場合芸妓と遊ぶ。

 

 

 

 

潭州 李商隠
潭州官舎暮樓空、今古無端人望中。
湘涙浅深滋竹色、楚歌重畳怨蘭叢。
陶公戦艦空灘雨、賈傅承塵破廟風。
目断故園人不至、松醪一酔與誰同。潭州の役所、夕闇せまるころ楼台は誰もいなくて静かなたたずまい、今と昔、いつもどおり何の変りもなくされていることが世間の人々が寄せる信頼や、尊敬の念をもたせているのです湘水のほとりで劉蕡に流した涙は、むかし舜帝の死に泣いた二人の妃、その涙を写すまだらの竹が、雨に濡れて鮮やかに浮かび上がっているし、楚の国を追われた屈原が悲しみを托した蘭の茂みに繰り返し怨みの風が吹き付ける。この地でかつて陶侃(とうかん)は、戦艦を建造して勝利を収めたが、その岩のある急流に今はただ雨が降り注いでいる。この地にかつて賈誼は太傅として流され、死の影に怯えて鵩鳥の賦を作ったが、その崩れかけた廟に今は風が吹き寄せているのだ。
ふるさとの故郷の田園に目を凝らしても何も見えず、待つ人の座主はかえって来る気配もない。松の酒で酔いながら劉蕡のことを偲びたかったけれど、誰とこの酒酌み交わそうというのか。

101 《長干行,二首之二》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 <101> Ⅰ李白詩1273 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4913

昔は奥の閨の中で籠ってばかりいて、浮世の辛苦は全く知らなかった。ところが、長干の人の所に嫁いできてから、夫がいつも舟で商売に出ているから、舟が着く沙頭に出て、天気の様子を見ては、夫の身を案じたのだ。

 
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 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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101 《長干行,二首之二》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 <101> Ⅰ李白詩1273 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4913 
 孟浩然 詩 index李白詩index謝霊運 詩 index司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》揚雄 《 甘泉賦 》 ●諸葛亮(孔明)出師表 
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20-(10) 《上宰相書 -(10)》韓愈(韓退之)ID 793年貞元9年 26歳<1188> Ⅱ韓昌黎集 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4924韓愈詩-20-(10) 
 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
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長干行,二首之二

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)二首の二

憶妾深閨裡,煙塵不曾識。

昔は奥の閨の中で籠ってばかりいて、浮世の辛苦は全く知らなかった。

嫁與長干人,沙頭候風色。

ところが、長干の人の所に嫁いできてから、夫がいつも舟で商売に出ているから、舟が着く沙頭に出て、天気の様子を見ては、夫の身を案じたのだ。

五月南風興,思君下巴陵。

真夏の五月になって、南からの風が強く起りだすと、夫が巴陵を下って長江を帰れば追い風であるからと心配する。

八月西風起,想君發揚子。

秋、八月になると強い西風が吹くと、夫が、揚子の辺りを出発してくれたらいいなとおもうのである。

 

去來悲如何,見少別離多。

湘潭幾日到,妾夢越風波。

昨夜狂風度,吹折江頭樹。

淼淼暗無邊,行人在何處。

北客真王公,朱衣滿江中。

 

日暮來投宿,數朝不肯東。

好乘浮雲驄,佳期蘭渚東。

鴛鴦綠蒲上,翡翠錦屏中。

自憐十五餘,顏色桃花紅。

那作商人婦,愁水復愁風。

 

(長干行,二首の二)

憶う妾が 深閨の裡,煙塵 曾って識らず。

長干の人に嫁與して,沙頭 風色を候す。

五月 南風興れば,君が巴陵を下るを思う。

八月 西風起れば,君が揚子を發せしを想う。

 

去來悲如何,見少別離多。

湘潭幾日到,妾夢越風波。

昨夜狂風度,吹折江頭樹。

淼淼暗無邊,行人在何處。

北客真王公,朱衣滿江中。

 

日暮來投宿,數朝不肯東。

好乘浮雲驄,佳期蘭渚東。

鴛鴦綠蒲上,翡翠錦屏中。

自憐十五餘,顏色桃花紅。

那作商人婦,愁水復愁風。

 

李白図102 

『長干行』 現代語訳と訳註

(本文)

長干行,二首之二

憶妾深閨裡,煙塵不曾識。

嫁與長干人,沙頭候風色。

五月南風興,思君下巴陵。

八月西風起,想君發揚子。

 

(下し文)

(長干行,二首の二)

憶う妾が 深閨の裡,煙塵 曾って識らず。

長干の人に嫁與して,沙頭 風色を候す。

五月 南風興れば,君が巴陵を下るを思う。

八月 西風起れば,君が揚子を發せしを想う。

 

 

(現代語訳)

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)二首の二

昔は奥の閨の中で籠ってばかりいて、浮世の辛苦は全く知らなかった。

ところが、長干の人の所に嫁いできてから、夫がいつも舟で商売に出ているから、舟が着く沙頭に出て、天気の様子を見ては、夫の身を案じたのだ。

真夏の五月になって、南からの風が強く起りだすと、夫が巴陵を下って長江を帰れば追い風であるからと心配する。

秋、八月になると強い西風が吹くと、夫が、揚子の辺りを出発してくれたらいいなとおもうのである。

 

a謝霊運永嘉ルート02 

(訳注)

長干行,二首之二

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)二首の二

行は、うた。長干は今の南京の南にある小さな町。出稼ぎの商人たちの居住した町。
楽府「雑曲歌辞」長江下流の商人船頭の妻の生活を詠う。男女の愛を歌ったもので、六朝時代の楽府、風俗歌を下敷きにしている。

 

憶妾深閨裡,煙塵不曾識。

昔は奥の閨の中で籠ってばかりいて、浮世の辛苦は全く知らなかった。

煙塵 浮世の辛苦のこと。

 

嫁與長干人,沙頭候風色。

ところが、長干の人の所に嫁いできてから、夫がいつも舟で商売に出ているから、舟が着く沙頭に出て、天気の様子を見ては、夫の身を案じたのだ。

候風色 風向きや空の色を注意してみる。

 

五月南風興,思君下巴陵。

真夏の五月になって、南からの風が強く起りだすと、夫が巴陵を下って長江を帰れば追い風であるからと心配する。

五月南風 真夏の五月になって、南からの風が強く吹きはじめる。

巴陵 西晋が成立すると280年(太康元年)には巴陵県が、291年(元康元年)には巴陵郡へと改編されている。隋代になると新た ... されている. 岳州は中華民国まで踏襲され、1913年に岳州巴陵県を岳陽県と改称している。1983年に地級市に昇格し現在に至っている。

 

八月西風起,想君發揚子。

秋、八月になると強い西風が吹くと、夫が、揚子の辺りを出発してくれたらいいなとおもうのである。

揚子 この時代には長江のこと。

南池江 採蓮002

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 魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻 
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100-#3 《長干行,二首之一 #3》李白index- 6 726年開元十四年26歳》 <100-#3> Ⅰ李白詩1274 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4918

 

 

726年開元十四年26

襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 

 

作地點:        江寧(江南東道 / 潤州 / 江寧)

及地點:       

長干 (江南東道 潤州 江寧)        

望夫石 (淮南道 濠州 塗山) 別名:望夫臺   

瞿塘峽 (山南東道 夔州 夔州) 別名:瞿塘   

灩澦堆 (山南東道 夔州 夔州)      

長風沙 (淮南道 舒州 舒州)

 

 

長干行,二首之一 #1

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)

妾髮初覆額,折花門前劇。

私の髪がやっと額を覆うようになってきた頃、何の憂いもなく、門前のあたりで花を摘んで遊んでいた。

郎騎竹馬來,遶床弄青梅。

我が夫もそのころは竹馬に乗ってやってきて、寝床のまわりを回っては青い梅の実をもてあそんでいたのだ。

同居長干里,兩小無嫌猜。

何せ、同じように長干の里にいて、幼い二人とも何の疑いもなく、仲睦まじかったのである。

十四為君婦,羞顏未嘗開。

14歳であなたの妻になり、恥ずかしさで、はにかんで笑顔も作れないままだった。

低頭向暗壁,千喚不一回。

うなだれて壁に向かっては、千度呼ばれても、一度も振り向かないでいた。

#2

十五始展眉,願同塵與灰。

15歳でやっと眉をほころばせて笑うことができるようになり、ともに寄り添い灰になるまで一緒にいたいと願うようになった。

常存抱柱信,豈上望夫臺?

あなたの愛は尾生の抱柱の信のように堅固でしたから、わたしが望夫臺に上って夫の帰りを待ちわびるようになろうとは思いもしなかった。

十六君遠行,瞿塘灩澦堆。

16歳になったとき、あなたは遠くへ旅立ち、長江の難所である瞿塘峡、灔澦堆の方にいったのだ。

五月不可觸,猿聲天上哀。

5月の増水期にはとても近づくことも出来ないところで、そこには野猿がいて、その泣き声だけが大空に悲しそうに響きわたるという。

門前遲行跡,一一生綠苔。

新居の門前には、あなたが旅立ちの時、行ったり、戻ったりしていたその足跡の上には、いまは一つ一つと青いコケが生えてきている。



#3

苔深不能掃,落葉秋風早。

その苔が深くびっしりと生えていて、とても払いきれるものではない、そこに枯れ葉が落ちはじめて、早くも秋風が吹いている。

八月蝴蝶來,雙飛西園草。

仲秋の八月には、つがいの蝶が飛んできて、二羽ならんで西の庭園の草花の上を仲良く並んで飛び回る。

感此傷妾心,坐愁紅顏老。

それを見るとおもわず心にあなたを思い、私の心は痛み、若妻の紅顏が老いゆくのをむなしく悲しむばかりなのだ。

早晚下三巴,預將書報家。

いったいいつになったら三巴の長江を下って帰えってくるのだろうか、そのときはあらかじめ我が家に手紙で知らせてほしいのだ。

相迎不道遠,直至長風沙。

夫のための迎えをするのに、遠いと思うことなどないし、このまままっすぐに、長風沙まででもいこうとするのだ。 

(長干行,二首 其の一)
妾が髮初めて額を覆ふとき、花を折って門前に劇【たはむ】る。』
郎は竹馬に騎って來り、床を遶りて青梅を弄す。
同じく長干の里に居り、兩つながら小【おさな】くして嫌猜無し。
十四 君が婦と為り、羞顏 未だ嘗て開かず。
頭を低れて暗壁に向ひ、千喚に一も回(めぐ)らさず。
#2

十五 始めて眉を展べ、願はくは塵と灰とを同じゅうせん。
常に抱柱の信を存し、豈に望夫臺に上らんや。
 
十六 君遠く行く、瞿塘 艶澦堆。
五月 觸るべからず、猿鳴 天上に哀し。
門前 遲行の跡、一一 綠苔を生ず。』
#3
苔深くして掃ふ能はず、落葉 秋風早し
八月 蝴蝶來り、雙び飛ぶ西園の草
此に感じて妾が心を傷ましめ、坐【そぞろ】に愁ふ紅顏の老ゆるを。』
早晩三巴を下らん、預【あらかじ】め書を將って家に報ぜよ
相ひ迎ふるに遠きを道【い】はず、直ちに至らん長風沙』
<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->
<!--[endif]-->

長干行,二首之二

憶妾深閨裡,煙塵不曾識。

嫁與長干人,沙頭候風色。

五月南風興,思君下巴陵。

八月西風起,想君發揚子。

去來悲如何,見少別離多。

湘潭幾日到,妾夢越風波。

昨夜狂風度,吹折江頭樹。

淼淼暗無邊,行人在何處。

北客真王公,朱衣滿江中。

日暮來投宿,數朝不肯東。

好乘浮雲驄,佳期蘭渚東。

鴛鴦綠蒲上,翡翠錦屏中。

自憐十五餘,顏色桃花紅。

那作商人婦,愁水復愁風。

 

巫山十二峰002 

『長干行,二首之一』#2 現代語訳と訳註

(本文)

苔深不能掃,落葉秋風早。

八月蝴蝶來,雙飛西園草。

感此傷妾心,坐愁紅顏老。

早晚下三巴,預將書報家。

相迎不道遠,直至長風沙。

 

(下し文)

苔深くして掃ふ能はず、落葉 秋風早し

八月 蝴蝶來り、雙び飛ぶ西園の草

此に感じて妾が心を傷ましめ、坐【そぞろ】に愁ふ紅顏の老ゆるを。』

早晩三巴を下らん、預【あらかじ】め書を將って家に報ぜよ

相ひ迎ふるに遠きを道【い】はず、直ちに至らん長風沙』

 

(現代語訳)

その苔が深くびっしりと生えていて、とても払いきれるものではない、そこに枯れ葉が落ちはじめて、早くも秋風が吹いている。

仲秋の八月には、つがいの蝶が飛んできて、二羽ならんで西の庭園の草花の上を仲良く並んで飛び回る。

それを見るとおもわず心にあなたを思い、私の心は痛み、若妻の紅顏が老いゆくのをむなしく悲しむばかりなのだ。

いったいいつになったら三巴の長江を下って帰えってくるのだろうか、そのときはあらかじめ我が家に手紙で知らせてほしいのだ。
夫のための迎えをするのに、遠いと思うことなどないし、このまままっすぐに、長風沙まででもいこうとするのだ。
<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->巫山十二峰003
<!--[endif]-->

(訳注)#3

長干行

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)

行は、うた。長干は今の南京の南にある小さな町。出稼ぎの商人たちの居住した町。
楽府「雑曲歌辞」長江下流の商人船頭の妻の生活を詠う。男女の愛を歌ったもので、六朝時代の楽府、風俗歌を下敷きにしている。

 

苔深不能掃、落葉秋風早。 
その苔が深くびっしりと生えていて、とても払いきれるものではない、そこに枯れ葉が落ちはじめて、早くも秋風が吹いている。

 

八月胡蝶來。 雙飛西園草。
仲秋の八月には、つがいの蝶が飛んできて、二羽ならんで西の庭園の草花の上を仲良く並んで飛び回る。

胡蝶 胡蝶の夢(こちょうのゆめ)は、中国の戦国時代の宋国(現在の河南省)に生まれた思想家で、道教の始祖の1人とされる人物の荘子(荘周)による説話である。荘子の考えが顕著に表れている説話として、またその代表作として一般的にもよく知られている。
雙飛西園草 荘子の謂う自由な境地をあらわす。夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話である。この説話は「無為自然」「一切斉同」の荘子の考え方がよく現れているものとして有名である。「無為自然」を荘子の言葉でいえば「逍遥遊」となり、それは目的意識に縛られない自由な境地のことであり、その境地に達すれば自然と融和して自由な生き方ができると荘子は説く。

 

感此傷妾心、坐愁紅顏老。 』
それを見るとおもわず心にあなたを思い、私の心は痛み、若妻の紅顏が老いゆくのをむなしく悲しむばかりなのだ。


早晚下三巴、預將書報家。 
いったいいつになったら三巴の長江を下って帰えってくるのだろうか、そのときはあらかじめ我が家に手紙で知らせてほしいのだ。
三巴 巴郡・巴東・巴西の絃称で、今の四川省の東部にあたる。


相迎不道遠、直至長風沙。』
夫のための迎えをするのに、遠いと思うことなどないし、このまままっすぐに、長風沙まででもいこうとするのだ。
長風沙 安徽省安慶氏の長江沿いの地南京からは350kmくらい上流地点。

李白図102 

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100-#2 《長干行,二首之一 #2》李白index- 6 726年開元十四年26歳》 <100-#2> Ⅰ李白詩1273 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4913

襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 

 

 

726年開元十四年26

襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 

 

作地點:        江寧(江南東道 / 潤州 / 江寧)

及地點:       

長干 (江南東道 潤州 江寧)        

望夫石 (淮南道 濠州 塗山) 別名:望夫臺   

瞿塘峽 (山南東道 夔州 夔州) 別名:瞿塘   

灩澦堆 (山南東道 夔州 夔州)      

長風沙 (淮南道 舒州 舒州)

 

 

長干行,二首之一 #1

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)

妾髮初覆額,折花門前劇。

私の髪がやっと額を覆うようになってきた頃、何の憂いもなく、門前のあたりで花を摘んで遊んでいた。

郎騎竹馬來,遶床弄青梅。

我が夫もそのころは竹馬に乗ってやってきて、寝床のまわりを回っては青い梅の実をもてあそんでいたのだ。

同居長干里,兩小無嫌猜。

何せ、同じように長干の里にいて、幼い二人とも何の疑いもなく、仲睦まじかったのである。

十四為君婦,羞顏未嘗開。

14歳であなたの妻になり、恥ずかしさで、はにかんで笑顔も作れないままだった。

低頭向暗壁,千喚不一回。

うなだれて壁に向かっては、千度呼ばれても、一度も振り向かないでいた。

#2

十五始展眉,願同塵與灰。

15歳でやっと眉をほころばせて笑うことができるようになり、ともに寄り添い灰になるまで一緒にいたいと願うようになった。

常存抱柱信,豈上望夫臺?

あなたの愛は尾生の抱柱の信のように堅固でしたから、わたしが望夫臺に上って夫の帰りを待ちわびるようになろうとは思いもしなかった。

十六君遠行,瞿塘灩澦堆。

16歳になったとき、あなたは遠くへ旅立ち、長江の難所である瞿塘峡、灔澦堆の方にいったのだ。

五月不可觸,猿聲天上哀

5月の増水期にはとても近づくことも出来ないところで、そこには野猿がいて、その泣き声だけが大空に悲しそうに響きわたるという。

門前遲行跡,一一生綠苔。

新居の門前には、あなたが旅立ちの時、行ったり、戻ったりしていたその足跡の上には、いまは一つ一つと青いコケが生えてきている。



#3

苔深不能掃,落葉秋風早。

八月蝴蝶來,雙飛西園草。

感此傷妾心,坐愁紅顏老。

早晚下三巴,預將書報家。

相迎不道遠,直至長風沙。

 

(長干行)
妾が髮初めて額を覆ふとき、花を折って門前に劇【たはむ】る。』
郎は竹馬に騎って來り、床を遶りて青梅を弄す。
同じく長干の里に居り、兩つながら小【おさな】くして嫌猜無し。
十四 君が婦と為り、羞顏 未だ嘗て開かず。
頭を低れて暗壁に向ひ、千喚に一も回(めぐ)らさず。
#2

十五 始めて眉を展べ、願はくは塵と灰とを同じゅうせん。
常に抱柱の信を存し、豈に望夫臺に上らんや。
 
十六 君遠く行く、瞿塘 艶澦堆。
五月 觸るべからず、猿鳴 天上に哀し。
門前 遲行の跡、一一 綠苔を生ず。』
#5
苔深くして掃ふ能はず、落葉 秋風早し
八月 蝴蝶來り、雙び飛ぶ西園の草
此に感じて妾が心を傷ましめ、坐【そぞろ】に愁ふ紅顏の老ゆるを。』

早晩三巴を下らん、預【あらかじ】め書を將って家に報ぜよ
相ひ迎ふるに遠きを道【い】はず、直ちに至らん長風沙』
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<!--[endif]-->

長干行,二首之二

憶妾深閨裡,煙塵不曾識。

嫁與長干人,沙頭候風色。

五月南風興,思君下巴陵。

八月西風起,想君發揚子。

去來悲如何,見少別離多。

湘潭幾日到,妾夢越風波。

昨夜狂風度,吹折江頭樹。

淼淼暗無邊,行人在何處。

北客真王公,朱衣滿江中。

日暮來投宿,數朝不肯東。

好乘浮雲驄,佳期蘭渚東。

鴛鴦綠蒲上,翡翠錦屏中。

自憐十五餘,顏色桃花紅。

那作商人婦,愁水復愁風。

 

巫山十二峰003 

『長干行,二首之一』#2 現代語訳と訳註

(本文) #2

十五始展眉,願同塵與灰。

常存抱柱信,豈上望夫臺?

十六君遠行,瞿塘灩澦堆。

五月不可觸,猿聲天上哀。

門前遲行跡,一一生綠苔。

 

(下し文) #2

十五 始めて眉を展べ、願はくは塵と灰とを同じゅうせん。

常に抱柱の信を存し、豈に望夫臺に上らんや。

 十六 君遠く行く、瞿塘 艶澦堆。

五月 觸るべからず、猿鳴 天上に哀し。

門前 遲行の跡、一一 綠苔を生ず。』

 

 

(現代語訳)

15歳でやっと眉をほころばせて笑うことができるようになり、ともに寄り添い灰になるまで一緒にいたいと願うようになった。

あなたの愛は尾生の抱柱の信のように堅固でしたから、わたしが望夫臺に上って夫の帰りを待ちわびるようになろうとは思いもしなかった。
16
歳になったとき、あなたは遠くへ旅立ち、長江の難所である瞿塘峡、灔澦堆の方にいったのだ。
5月の増水期にはとても近づくことも出来ないところで、そこには野猿がいて、その泣き声だけが大空に悲しそうに響きわたるという。
新居の門前には、あなたが旅立ちの時、行ったり、戻ったりしていたその足跡の上には、いまは一つ一つと青いコケが生えてきている。

その苔が深くびっしりと生えていて、とても払いきれるものではない、そこに枯れ葉が落ちはじめて、早くも秋風が吹いている。

巫山十二峰002 

(訳注) #2

長干行

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)

行は、うた。長干は今の南京の南にある小さな町。出稼ぎの商人たちの居住した町。
楽府「雑曲歌辞」長江下流の商人船頭の妻の生活を詠う。男女の愛を歌ったもので、六朝時代の楽府、風俗歌を下敷きにしている。

 

十五始展眉。 愿同塵與灰。 
15歳でやっと眉をほころばせて笑うことができるようになり、ともに寄り添い灰になるまで一緒にいたいと願うようになった。

 

常存抱柱信。 豈上望夫台。
あなたの愛は尾生の抱柱の信のように堅固でしたから、わたしが望夫臺に上って夫の帰りを待ちわびるようになろうとは思いもしなかった。
抱柱信 むかし尾生という男が、橋の下で女とあう約束をした。女はいくら待っても来ない。突然、洪水がおしよせてきた。尾生は約束の場所を離れて信を失うことを願わず、橋の柱を抱いて溺死した。「荘子」(死んでも約束を守る固い信義)

望夫台 山の名。ある人が家を離れて久しく、かれの妻は山の上で夫を待ち望んで、ついに石のかたまりになったという。中国各地に今でも望夫台、望夫石、望夫山という名称の山が残っている。

61 《望夫石》Ⅰ―1 715年開元三年15歳 剣術を好み賦を作る <61> Ⅰ李白詩1225 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4673


十六君遠行、瞿塘灩澦堆。
16歳になったとき、あなたは遠くへ旅立ち、長江の難所である瞿塘峡、灔澦堆の方にいったのだ。
瞿塘 長江の三峡の一つ。絶壁が両岸にせまり流れのはげしく危険なところ

○灩澦堆 瞿塘峡に横たわる大きな暗礁。亀のような形をしている。


五月不可觸。猿聲天上哀。
5月の増水期にはとても近づくことも出来ないところで、そこには野猿がいて、その泣き声だけが大空に悲しそうに響きわたるという。
五月不可觸 五月の増水期には水嵩が上がり大岩が隠れてしまい危険で近づけない。


門前遲行跡、一一生綠苔。』
新居の門前には、あなたが旅立ちの時、行ったり、戻ったりしていたその足跡の上には、いまは一つ一つと青いコケが生えてきている。


苔深不能掃、落葉秋風早。 
その苔が深くびっしりと生えていて、とても払いきれるものではない、そこに枯れ葉が落ちはじめて、早くも秋風が吹いている。
巫山十二峰004 

100 《長干行,二首之一》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》<100> Ⅰ李白詩1272 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4908

我が夫もそのころは竹馬に乗ってやってきて、寝床のまわりを回っては青い梅の実をもてあそんでいたのだ。何せ、同じように長干の里にいて、幼い二人とも何の疑いもなく、仲睦まじかったのである。

 
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100

《長干行,二首之一》李白index- 6 726年開元十四年26歳》<100> Ⅰ李白詩1272 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4908

 

 

726年開元十四年26

襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 

 

作地點:        江寧(江南東道 / 潤州 / 江寧)

及地點:       

長干 (江南東道 潤州 江寧)        

望夫石 (淮南道 濠州 塗山) 別名:望夫臺   

瞿塘峽 (山南東道 夔州 夔州) 別名:瞿塘   

灩澦堆 (山南東道 夔州 夔州)      

長風沙 (淮南道 舒州 舒州)

 

 

長干行,二首之一 #1

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)

妾髮初覆額,折花門前劇。

私の髪がやっと額を覆うようになってきた頃、何の憂いもなく、門前のあたりで花を摘んで遊んでいた。

郎騎竹馬來,遶床弄青梅。

我が夫もそのころは竹馬に乗ってやってきて、寝床のまわりを回っては青い梅の実をもてあそんでいたのだ。

同居長干里,兩小無嫌猜。

何せ、同じように長干の里にいて、幼い二人とも何の疑いもなく、仲睦まじかったのである。

十四為君婦,羞顏未嘗開。

14歳であなたの妻になり、恥ずかしさで、はにかんで笑顔も作れないままだった。

低頭向暗壁,千喚不一回。

うなだれて壁に向かっては、千度呼ばれても、一度も振り向かないでいた。

#2

十五始展眉,願同塵與灰。

常存抱柱信,豈上望夫臺?

十六君遠行,瞿塘灩澦堆。

五月不可觸,猿聲天上哀。

門前遲行跡,一一生綠苔。

#3

苔深不能掃,落葉秋風早。

八月蝴蝶來,雙飛西園草。

感此傷妾心,坐愁紅顏老。

早晚下三巴,預將書報家。

相迎不道遠,直至長風沙。

 

(長干行)
妾が髮初めて額を覆ふとき、花を折って門前に劇【たはむ】る。』
郎は竹馬に騎って來り、床を遶りて青梅を弄す。
同じく長干の里に居り、兩つながら小【おさな】くして嫌猜無し。
十四 君が婦と為り、羞顏 未だ嘗て開かず。
頭を低れて暗壁に向ひ、千喚に一も回(めぐ)らさず。
#2

十五 始めて眉を展べ、願はくは塵と灰とを同じゅうせん。
常に抱柱の信を存し、豈に望夫臺に上らんや。
 
十六 君遠く行く、瞿塘 艶澦堆。
五月 觸るべからず、猿鳴 天上に哀し。
門前 遲行の跡、一一 綠苔を生ず。』
#5
苔深くして掃ふ能はず、落葉 秋風早し
八月 蝴蝶來り、雙び飛ぶ西園の草
此に感じて妾が心を傷ましめ、坐【そぞろ】に愁ふ紅顏の老ゆるを。』

早晩三巴を下らん、預【あらかじ】め書を將って家に報ぜよ
相ひ迎ふるに遠きを道【い】はず、直ちに至らん長風沙』
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長干行,二首之二

憶妾深閨裡,煙塵不曾識。

嫁與長干人,沙頭候風色。

五月南風興,思君下巴陵。

八月西風起,想君發揚子。

去來悲如何,見少別離多。

湘潭幾日到,妾夢越風波。

昨夜狂風度,吹折江頭樹。

淼淼暗無邊,行人在何處。

北客真王公,朱衣滿江中。

日暮來投宿,數朝不肯東。

好乘浮雲驄,佳期蘭渚東。

鴛鴦綠蒲上,翡翠錦屏中。

自憐十五餘,顏色桃花紅。

那作商人婦,愁水復愁風。

 

三峡 巫山十二峰001『長干行』 現代語訳と訳註

(本文)

長干行,二首之一 #1

妾髮初覆額,折花門前劇。

郎騎竹馬來,遶床弄青梅。

同居長干里,兩小無嫌猜。

十四為君婦,羞顏未嘗開。

低頭向暗壁,千喚不一回。 

 

(下し文)

(長干行)

妾が髮初めて額を覆ふとき、花を折って門前に劇【たはむ】る。』

郎は竹馬に騎って來り、床を遶りて青梅を弄す。

同じく長干の里に居り、兩つながら小【おさな】くして嫌猜無し。

十四 君が婦と為り、羞顏 未だ嘗て開かず。

頭を低れて暗壁に向ひ、千喚に一も回(めぐ)らさず。

 

(現代語訳)

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)

私の髪がやっと額を覆うようになってきた頃、何の憂いもなく、門前のあたりで花を摘んで遊んでいた。
我が夫もそのころは竹馬に乗ってやってきて、寝床のまわりを回っては青い梅の実をもてあそんでいたのだ。
何せ、同じように長干の里にいて、幼い二人とも何の疑いもなく、仲睦まじかったのである。
14
歳であなたの妻になり、恥ずかしさで、はにかんで笑顔も作れないままだった。

うなだれて壁に向かっては、千度呼ばれても、一度も振り向かないでいた。

a謝霊運永嘉ルート02 

(訳注)

長干行

(長江下流の商人船頭の妻の生活、男女の愛を詠う。)

行は、うた。長干は今の南京の南にある小さな町。出稼ぎの商人たちの居住した町。
楽府「雑曲歌辞」長江下流の商人船頭の妻の生活を詠う。男女の愛を歌ったもので、六朝時代の楽府、風俗歌を下敷きにしている。

 

妾發初覆額。 折花門前劇。』
私の髪がやっと額を覆うようになってきた頃、何の憂いもなく、門前のあたりで花を摘んで遊んでいた。
 女の一人称。

 あそびたわむれる。

 

郎騎竹馬來。 繞床弄青梅。
我が夫もそのころは竹馬に乗ってやってきて、寝床のまわりを回っては青い梅の実をもてあそんでいたのだ。
 男の二人称。

竹馬 中国の竹馬は、一本の竹にまたがって走る。馬のたてがみをあらわす房が端についており、片端は地にひきずって走る。

青梅・繞床 男女の性行為を示唆する。からまる。性行為という意識を持たないで遊びでしていた。(おいしゃさんごっこ)


同居長干里。兩小無嫌猜。
何せ、同じように長干の里にいて、幼い二人とも何の疑いもなく、仲睦まじかったのである。
嫌猜 こだわり。嫌も、猜も、うたがうこと。性に対する表現。


十四為君婦。羞顏未嘗開。
14歳であなたの妻になり、恥ずかしさで、はにかんで笑顔も作れないままだった。


低頭向暗壁。千喚不一回。 
うなだれて壁に向かっては、千度呼ばれても、一度も振り向かないでいた。
李白図102 

99 《採蓮曲》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 <99> Ⅰ李白詩1271 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4903

空が晴れ渡っているので、日差しは強く新妝を照らしていてその影が水の底まではっきりと映り、そこに風が吹いて来て、蓮の香りに加えて女のたもとを翻し、空中に舞上り、女のかおりもとどいてくる。

 
 2014年10月3日の紀頌之5つのブログ 
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 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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99 《採蓮曲》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 <99> Ⅰ李白詩1271 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4903 
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99 《採蓮曲》李白index- 6 726年開元十四年26歳》 <99> Ⅰ李白詩1271 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4903

 

 

襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 

年:726年開元十四年26

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

李太白集 巻三

詩題:    採蓮曲

及地點:若耶溪 (江南東道 越州 會稽) 別名:耶溪、若溪、浣紗溪         

 

 

採蓮曲

(江南の若い女が蓮を取りつつ戯れている様子を詠じた詩)

若耶溪傍採蓮女,笑隔荷花共人語。

蓮の名所と知られている若耶溪の辺りには、若い女が多く集まって蓮の花を取っているが、それぞれが蓮の葉影の深い所にいて蓮の花を隔てて話をしている。

日照新妝水底明,風飄香袂空中舉。

空が晴れ渡っているので、日差しは強く新妝を照らしていてその影が水の底まではっきりと映り、そこに風が吹いて来て、蓮の香りに加えて女のたもとを翻し、空中に舞上り、女のかおりもとどいてくる。

岸上誰家遊冶郎,三三五五映垂楊。

岸の上には放蕩者たちが三々五々と群れをなして、柳の間にいるが、いずれもたくましい馬に乗っている。

紫騮嘶入落花去,見此踟躕空斷腸。

やがて、馬が嘶いて落花の間に入って、向うへ去る時、ふと采蓮の女を垣間見たので、頻りに最近は女旱で心を悩ましているのに、ただ、うろうろしているだけなのだ。

 

(採蓮曲)

若耶【じゃくや】渓の傍り 採蓮の女、笑って荷花【かか】を隔てて人と共に語る。
日は新粧を照らして水底明らかに、風は香袖を飄して空中に挙がる。
岸上  誰が家の遊冶郎【ゆうやろう】ぞ、三三、五五、垂楊に映ず。
紫騮【しりゅう】落花に嘶【いなな】きて入りて去り、此れを見て踟蹰【ちちゅう】して空しく断腸。
<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->南池江 採蓮002
<!--[endif]-->

 

『採蓮曲』 現代語訳と訳註

(本文)

採蓮曲

若耶溪傍採蓮女,笑隔荷花共人語。

日照新妝水底明,風飄香袂空中舉。

岸上誰家遊冶郎,三三五五映垂楊。

紫騮嘶入落花去,見此踟躕空斷腸。

 

(含異文)

若耶溪傍採蓮女,笑隔荷花共人語。

日照新妝水底明,風飄香袂空中舉【風飄香袖空中舉】。

岸上誰家遊冶郎,三三五五映垂楊。

紫騮嘶入落花去,見此踟躕空斷腸。

 

(下し文)

(採蓮曲)

若耶【じゃくや】渓の傍り 採蓮の女、笑って荷花【かか】を隔てて人と共に語る。

日は新粧を照らして水底明らかに、風は香袖を飄して空中に挙がる。

岸上  誰が家の遊冶郎【ゆうやろう】ぞ、三三、五五、垂楊に映ず。

紫騮【しりゅう】落花に嘶【いなな】きて入りて去り、此れを見て踟蹰【ちちゅう】して空しく断腸。

 

(現代語訳)

(江南の若い女が蓮を取りつつ戯れている様子を詠じた詩)

蓮の名所と知られている若耶溪の辺りには、若い女が多く集まって蓮の花を取っているが、それぞれが蓮の葉影の深い所にいて蓮の花を隔てて話をしている。

空が晴れ渡っているので、日差しは強く新妝を照らしていてその影が水の底まではっきりと映り、そこに風が吹いて来て、蓮の香りに加えて女のたもとを翻し、空中に舞上り、女のかおりもとどいてくる。

岸の上には放蕩者たちが三々五々と群れをなして、柳の間にいるが、いずれもたくましい馬に乗っている。

やがて、馬が嘶いて落花の間に入って、向うへ去る時、ふと采蓮の女を垣間見たので、頻りに最近は女旱で心を悩ましているのに、ただ、うろうろしているだけなのだ。

 

呉越の地図 

(訳注)

採蓮曲

(江南の若い女が蓮を取りつつ戯れている様子を詠じた詩)

本来、「採蓮曲」というのは蓮の根を採る秋の労働歌だが、李白はそれを越の美女西施(せいし)が紗を洗い、蓮の花を採った事に柳絮(りゅうじょ)の舞う晩春の艶情の歌に変化させている、李白の真骨頂というべきもののひとつである。

 

若耶溪傍採蓮女,笑隔荷花共人語。

蓮の名所と知られている若耶溪の辺りには、若い女が多く集まって蓮の花を取っているが、それぞれが蓮の葉影の深い所にいて蓮の花を隔てて話をしている。

若耶溪 現在、平水江という名の川である。大禹陵前の湖水から会稽山の東側を流れる平水江から引いた運河があり、西側の南池江と繋がっている。それが、嘗て若耶溪と称されていた川である。

 

日照新妝水底明,風飄香袂空中舉。

空が晴れ渡っているので、日差しは強く新妝を照らしていてその影が水の底まではっきりと映り、そこに風が吹いて来て、蓮の香りに加えて女のたもとを翻し、空中に舞上り、女のかおりもとどいてくる。

新妝 若い女、顔に新たなお化粧を施した顔。

 

岸上誰家遊冶郎,三三五五映垂楊。

岸の上には放蕩者たちが三々五々と群れをなして、柳の間にいるが、いずれもたくましい馬に乗っている。

遊冶郎 酒色におぼれて、身持ちの悪い男。放蕩者。道楽者。

 

紫騮嘶入落花去,見此踟躕空斷腸。

やがて、赤毛の駿馬が嘶いて落花の間に入って、向うへ去る時、ふと采蓮の女を垣間見たので、頻りに最近は女旱で心を悩ましているのに、ただ、うろうろしているだけなのだ。

紫騮 赤毛の馬、説文に「騮は赤馬、黒毛の尾あり」とあり、爾雅の註に「赤色黒鬣」とある。紫は、つまり赤の濃いものである。鄭玄の毛詩箋に「赤身黒鬣を騮という。」とある。李白は以下の詩に紫騮について述べている。

《巻三20採蓮曲》「紫騮嘶入落花去。 見此踟躕空斷腸。

《巻五12紫騮馬》「紫騮行且嘶。 雙翻碧玉蹄。 臨流不肯渡。 似惜錦障泥。

《巻十七27宣城送劉副使入秦》「昔贈紫騮駒。 今傾白玉卮。 同歡萬斛酒。 未足解相思。」

踟躕 ①うろうろして先に進まないさま。徘徊はいかい②ためらう。決めかねる。③連なるさま。

斷腸 最近は女旱であること。

98 《楊叛兒》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 <98> Ⅰ李白詩1270 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4898

(楊叛兒の古辞に依傍して、それをさらに解釈的に鋪張して、その意義を明白にした詩である。)

 
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82 《白紵辭,三首之三》index-5 1-5 725年開元十三年25歳 蜀を離れ、襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 <82> Ⅰ李白詩1247 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4783

(白紵をひるがえして、玉のような美女たちがいっぱい踊り、玉釵を君の冠の紐をかけて、君を留めるから、君もその意に違わず、なおここに居続けて歓楽を極めることがいいことなのだと詠う。)その三

 
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82 《白紵辭,三首之三》index-5 1-5 725年開元十三年25歳 蜀を離れ、襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 82> Ⅰ李白詩1247 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4783

 

 

巻三    白紵辭,三首之三

作年:725年開元十三年25

卷別:  卷一六三        文體:  樂府

詩題:  白紵辭,三首之三

作地點:        江寧(江南東道 / 潤州 / 江寧)

 

 

白紵辭三首 其一

(白紵をひるがえして、玉のような美女たちがいっぱい踊ると詠う。)

揚清歌,發皓齒,北方佳人東鄰子。

すみきった声をあげて歌うために、まっしろな歯をみせている。それは、李夫人の様な北方の佳人だろうし、宋玉の東鄰の処女に比すべき美人たちである。

且吟白紵停綠水,長袖拂面為君起。

古めかしい、「緑水」の曲などはやめて新しい、この面白い白紵の辞を歌うでの、その一方において、うす絹の長い袖で顔を隠し、あなたの歓賞を得ようとその歌に合う白紵の舞を踊り始めたのである。

寒雲夜卷霜海空,胡風吹天飄塞鴻。

夜が更けてきたとき寒々とした重い雲、大地には霜が降れば、まるで海のようであって、北風、胡地より吹ききたるように白絹の似合う、西域の異国の色白な肌、大雁を翻すように白紵をひるがえす、この宴席の外は惨澹たる景色である。

玉顏滿堂樂未終,館娃日落歌吹濛。

玉のような美女の顔を座敷いっぱい集めて、楽しみはなかなか終りそうにない。西施の居所の館娃官と同じように日が落ちても歌に踊りに笛を吹いてはっきりしないほどの宴席が続く。



(白紵辞【はくちょじ】 其の一)
清歌を揚げ、皓歯を発く、北方の佳人 東隣の子。

且つ白紵を吟じて 緑水を停め、長袖 面を払って 君が為に起つ。

寒雲 夜巻いて 霜海空ごこち、胡風天を吹いて 塞鴻諷えす。
玉顔満堂 楽しみ未だ終らず、
館娃 日落ちて歌吹濛たり。

 

白紵辭,三首之二

(白紵をひるがえして、玉のような美女たちがいっぱい踊り、大空に飛び上がりたいものと詠う。)その二

月寒江清夜沈沈,美人一笑千黃金。

西施の居所の館娃官と同じように日が落ちても歌に踊り、長夜の宴ははじまろと、月はつめたく長江の水清く、夜はしんしんとふけてゆく。美人の一微笑を得んがためには千の黄金も惜しくない。

垂羅舞縠揚哀音,郢中白雪且莫吟。

そうすれば、美女たちは、うすぎぬを垂らし、ちぢみの絹でかざって舞いおどり、かなしそうに、微妙な細い声をあげて歌いだす。その歌は「郢中の白雪」曲というような他国の高尚な歌は、今は場違いだから唄ってはいけない。

子夜歌動君心,動君心,冀君賞。

この国の民謡で、むかし子夜という女がうたったという風俗歌の「呉歌」でそれが「白紵辞」であり、それが君の心を動かそう。君の心を動かして、君から誉めてもらって承諾をもらおう。

願作天池雙鴛鴦,一朝飛去青雲上。

願わくは、歌舞の美人たちは御苑の池のつがいの鴛鴦のように君の寵愛を得て、やがては青雲の上に飛んで仙界に行きたいと心に思い暮らしている。



(白紵辭,三首之二)

月寒く 江は清く 夜沈沈たり,美人 一笑 千の黃金。

羅を垂れ 縠を舞わして 哀音を揚ぐ,郢中の「白雪」 且つ吟ずる莫れ。

子夜歌 君の心を動す,君の心を動して,君の賞を冀【こいねが】う。

願わくば天池の雙鴛鴦と作り,一朝 飛び去らん 青雲の上。

白紵辭,三首之三

(白紵をひるがえして、玉のような美女たちがいっぱい踊り、玉釵を君の冠の紐をかけて、君を留めるから、君もその意に違わず、なおここに居続けて歓楽を極めることがいいことなのだと詠う。)その三

刀剪綵縫舞衣,明妝麗服奪春暉。

呉の国の小刀を以て、美しい綵段を裁断し、そして縫い上げたのがこの舞衣裳である。それを着つければ、明妝麗服、まことに美しく、その光彩は光のどかな春の光さえも圧倒するものなのだ。

揚眉轉袖若雪飛,傾城獨立世所稀。

それから眉をあげ、袖をひるがえして白紵で舞い踊れば、それれはさながら、白雲の飛ぶような絶世にして独立し、ひとたび顧われれば、国を傾けることになる、いにしえの李夫人のように世上稀なことを見るというものだ。

激楚結風醉忘歸,高堂月落燭已微,玉釵掛纓君莫違。

こうして「激楚結風」の曲を歌い舞えば、満堂の賓客は酒に舞いに酔うて帰るのも忘れていると、高堂の上月が落ちかかって、燈火の影もようやくうすくなりはじめる。美人たちは、既に歌舞を善くするが上に、情思さらに深く、玉釵を君の冠の紐をかけて、君を留めるから、君もその意に違わず、なおここに居続けて歓楽を極めることがいいことなのだ。

 

(白紵辭,三首の三)

の刀 綵を剪って舞衣を縫う,明妝の麗服 春暉を奪う。

眉を揚げて 袖を轉じ 雪の飛ぶが若し,傾城 獨立せば 世の稀なる所なり。

「激楚結風」醉うて歸るを忘る,高堂 月落ちて 燭 已に微なり,玉釵 纓に掛く 君違う莫れ。

 

55moon 

白紵辭,三首之三』 現代語訳と訳註

(本文)

白紵辭,三首之三

刀剪綵縫舞衣,明妝麗服奪春暉。

揚眉轉袖若雪飛,傾城獨立世所稀。

激楚結風醉忘歸,高堂月落燭已微,玉釵掛纓君莫違。

 

 

(下し文)

(白紵辭,三首の三)

の刀 綵を剪って舞衣を縫う,明妝の麗服 春暉を奪う。

眉を揚げて 袖を轉じ 雪の飛ぶが若し,傾城 獨立せば 世の稀なる所なり。

「激楚結風」醉うて歸るを忘る,高堂 月落ちて 燭 已に微なり,玉釵 纓に掛く 君違う莫れ。

 

(現代語訳)

(白紵をひるがえして、玉のような美女たちがいっぱい踊り、玉釵を君の冠の紐をかけて、君を留めるから、君もその意に違わず、なおここに居続けて歓楽を極めることがいいことなのだと詠う。)その三

呉の国の小刀を以て、美しい綵段を裁断し、そして縫い上げたのがこの舞衣裳である。それを着つければ、明妝麗服、まことに美しく、その光彩は光のどかな春の光さえも圧倒するものなのだ。

それから眉をあげ、袖をひるがえして白紵で舞い踊れば、それれはさながら、白雲の飛ぶような絶世にして独立し、ひとたび顧われれば、国を傾けることになる、いにしえの李夫人のように世上稀なことを見るというものだ。

こうして「激楚結風」の曲を歌い舞えば、満堂の賓客は酒に舞いに酔うて帰るのも忘れていると、高堂の上月が落ちかかって、燈火の影もようやくうすくなりはじめる。美人たちは、既に歌舞を善くするが上に、情思さらに深く、玉釵を君の冠の紐をかけて、君を留めるから、君もその意に違わず、なおここに居続けて歓楽を極めることがいいことなのだ。

 

(訳注)

白紵辭,三首之三

(白紵をひるがえして、玉のような美女たちがいっぱい踊り、玉釵を君の冠の紐をかけて、君を留めるから、君もその意に違わず、なおここに居続けて歓楽を極めることがいいことなのだと詠う。)その三

白紵辭 晋の時代、呉の地方に白紵の舞というのが起った。白紵というのは、麻の着物の美白なもの。それを着て舞い、その舞の歌を白紵辞と言った。

『白紵舞』は晉の頃から唐代の宮廷のみならず民間にも広まった舞踊で、日本、韓国、東南アジア一帯にも伝えられた。白紵とは、麻の一種で織られた薄手の白い織物のことで、白紵で仕立てられた長い袖を翻す舞い姿は、優美にして変化に富み、その美しさは古来、波を揺らすそよ風や舞い降りる雪などにたとえられている。呉歌においては、白紵、雅楽では子夜といった。梁の武帝が沈約に命じて、その詩を更制せしめた。梁の武帝が改作させたのは、四首連続して、四時を分詠したもので、子夜四時歌である。

鮑照《白紵舞》

朱脣動、素腕舉。

洛陽少童邯鄲女。古稱綠水今白紵。

催弦急管為君舞。窮秋九月荷葉黃。

北風驅鴈天雨霜。夜長酒多樂未央。

 

白紵舞001刀剪綵縫舞衣,明妝麗服奪春暉。

呉の国の小刀を以て、美しい綵段を裁断し、そして縫い上げたのがこの舞衣裳である。それを着つければ、明妝麗服、まことに美しく、その光彩は光のどかな春の光さえも圧倒するものなのだ。

 美しい綵段

春暉 光のどかな春の光

 

揚眉轉袖若雪飛,傾城獨立世所稀。

それから眉をあげ、袖をひるがえして白紵で舞い踊れば、それれはさながら、白雲の飛ぶような絶世にして独立し、ひとたび顧われれば、国を傾けることになる、いにしえの李夫人のように世上稀なことを見るというものだ。

傾城獨立世所稀 李延年の歌に基づく。文末参照。

 

激楚結風醉忘歸,高堂月落燭已微,玉釵掛纓君莫違。

こうして「激楚結風」の曲を歌い舞えば、満堂の賓客は酒に舞いに酔うて帰るのも忘れていると、高堂の上月が落ちかかって、燈火の影もようやくうすくなりはじめる。美人たちは、既に歌舞を善くするが上に、情思さらに深く、玉釵を君の冠の紐をかけて、君を留めるから、君もその意に違わず、なおここに居続けて歓楽を極めることがいいことなのだ。

激楚結風 激楚と結風は、ともに急調子な楚の楽曲の名という。

荊、、鄭、衛之聲,韶、濩、武、象之樂,陰淫案衍之音;鄢、郢繽紛,激楚結風。

荊、、鄭、衛の聲,韶【しょう】、濩【ご】、武、象の樂,陰淫【いんいん】案衍【あんえん】の音;鄢【えん】、郢【えい】繽紛【ひんぷん】として,激楚【げきそ】結風あり。

この他、楚衛の民歌、韶象といった聖人の音楽、あるいは、節度のない放縦な曲であり、鄢、郢に伝わる複雑な楚の歌謡の、激楚結風なども奏でられる。

○韶、濩、武、象之樂 韶は舜の楽。濩は湯王の楽。武は大武で、武王の楽。象は周公の楽。

○陰淫案桁 陰淫と案桁は、ともに畳韻語で、節度がなく放縦な形容。たがいに双声の関係にある。

○鄢、郢繽紛,激楚結風 鄢(湖北省宜城の南)も、郢(湖北省江陵の北)も、ともに春秋時代の楚の都。激楚と結風は、ともに急調子な楚の楽曲の名という。

司馬相如《上林賦 》(32)― #11-2 文選 賦<110-#11-2>13分割40回 Ⅱ李白に影響を与えた詩937 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3233

 

 

 

李延年 (漢、武帝の時代、宮廷楽士。)

北方有佳人、絶世而独立。

一顧傾人城、再顧傾人国。

寧不知傾城与傾国、佳人難再得。

 北方に佳人有り、絶世にして独り立ち、

 一たび顧みれば人の城を傾け、再び顧みれば人の国を傾く。

いずくんぞ傾城と傾国を知らざらんや。佳人再びは得難し。

北の方に美しい人がいる、その美しさは、この世に類なく。

 一たび顧みれば、都市を捨ててもいい気になり、再び顧みれば、国を捨ててもいい気になる。

 都市や国を危うくすることはわかっているが、このような美人は二度と手に入らない。

平陽公主が李延年には妹が、まさしく類い稀なる美女で、舞も見事であった。こうして彼女は武帝に寵愛されるようになり、一児をもうけた。李夫人はほどなく病にかかり、若くしてこの世を去った。 武帝は彼女の死を悼み、甘泉宮に肖像画を掛け彼女を偲んだ。
李白図102 

81 《白紵辭三首其二》index-5 1-5 725年開元十三年25歳 蜀を離れ、襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 20 首 <81> Ⅰ李白詩1246 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4778

この国の民謡で、むかし子夜という女がうたったという風俗歌の「呉歌」でそれが「白紵辞」であり、それが君の心を動かそう。君の心を動かして、君から誉めてもらって承諾をもらおう。

 
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