漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
リンクはフリーです。報告、承諾は無用です。
ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

李白詩全集 卷八

744年年44歳-19李太白集305巻八19 贈薛校書  433 Index-24 Ⅲ-3Ⅰ李白詩1809 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7585

李白  贈薛校書

我有趨曲、無人知此音。 姑蘇成蔓草、麋鹿空悲吟。

未夸觀濤作、空郁釣鰲心。 舉手謝東海、虛行歸故林。
(薛校書郎に贈る)

われの歌う曲の中でいいと思うものの中に呉趨曲があるが、朝廷のなかでその音を知って居る人は無い。むかし、呉王夫差が栄華を誇った姑蘇台も、その國亡びし後は、唯だ草が繁って居るばかりで、そこへ遊びにくる糜鹿は、悲しげな聲を出して啼いて居るので、徒に庭に蔓草を生ずだけで、懐古の想を起さしめる。枚乗が《七發》で詠った廣陵の怒涛の潮は、天下の壮観であると聞いて居るが、まだ之を観ていない故、誇るに足るべき觀濤の作ができていないし、見ていないうちに六鰲を釣り上げようというような、心を言っても空しいだけである。そこで、手を拳げ、あの東海に挨拶し、虚空を歩みして、これから、しばらく故山へ歸ろうと思うので、暇乞の代りに、この詩を君に呈するのである。

李太白集 卷八19

贈 薛 校 書

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7585

Index-24  744年天寶三年44歳 56-19

433 <1000

 

        
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 744年天寶三年44-1956首】

-381-305巻八19 贈薛校書  (我有越曲,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

卷一六八15 

文體:

五言古詩

李太白集 

19

 《李白集校注》 瞿蛻園

 卷九19

詩題:

贈薛校書  (我有越曲,) 

序文

作地點:

未詳

及地點:

姑蘇臺 (江南東道 蘇州 蘇州) 別名:蘇臺

 

交遊人物:

薛校書    書信往來

 

 

 

 

  卷168_15 《贈薛校書》李白 

我有吳趨越)曲,無人知此音。

姑蘇成蔓草,麋鹿空悲吟。 

未誇觀濤作,空鬱釣鼇心。

舉手謝東海,虛行歸故林。 

 

贈薛校書(卷九19(一)六一九)

我有吳趨越)曲,無人知此音。

姑蘇成蔓草,糜鹿空悲吟。

未誇觀濤作,空鬱釣鼇心。

舉手謝東海,虛行歸故林。

 

305卷八-19 贈薛校書  (中)40

我有呉曲、無人知此音。

姑蘇成蔓草、麋鹿空悲吟。

未夸觀濤作、空郁釣鰲心。

舉手謝東海、虛行歸故林。

 

贈薛校書

我有趨曲、無人知此音。

姑蘇成蔓草、麋鹿空悲吟。

未夸觀濤作、空郁釣鰲心。

舉手謝東海、虛行歸故林。

(薛校書郎に贈る)

われの歌う曲の中でいいと思うものの中に呉趨曲があるが、朝廷のなかでその音を知って居る人は無い。

むかし、呉王夫差が栄華を誇った姑蘇台も、その國亡びし後は、唯だ草が繁って居るばかりで、そこへ遊びにくる糜鹿は、悲しげな聲を出して啼いて居るので、徒に庭に蔓草を生ずだけで、懐古の想を起さしめる。

枚乗が《七發》で詠った廣陵の怒涛の潮は、天下の壮観であると聞いて居るが、まだ之を観ていない故、誇るに足るべき觀濤の作ができていないし、見ていないうちに六鰲を釣り上げようというような、心を言っても空しいだけである。

そこで、手を拳げ、あの東海に挨拶し、虚空を歩みして、これから、しばらく故山へ歸ろうと思うので、暇乞の代りに、この詩を君に呈するのである。

(薛校書に贈る)

我に呉趨の曲あり、人の此音を知るなし。

姑蘇は蔓草となり、糜鹿空しく悲吟す。

未だ觀濤の作に誇らす、空しく釣鼇の心を鬱す。

手を擧げて東海に謝し、虚行、故林に歸る。

 

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743年年43歳 94李太白集315巻八29贈參寥子  434-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(78) Ⅰ李白詩1811 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7595

李白 贈參寥子   #2

毫墨時洒落、探玄有奇作。著論窮天人、千春秘麟閣。長揖不受官、拂衣歸林巒。

余亦去金馬、藤蘿同所歡。相思在何處、桂樹青云端。

れから、筆を揮えば、字体灑落で、さすがにさっぱりとして粋なものである、又、道家の玄理を探って、著述を試みていて、その議論も奇抜なものにおもえる。道家に関する著作の論理の展開は、もはや、天人の際を窮めるというべきものとなっており、長しへに麒麟閣に藏せられて居る位というものである。しかも、長揖して、官を承けず、衣をはらって、林巒に歸臥されたことである。自分も亦た金馬門に待詔していたが、そこを去って、江湖に放浪し、同じく藤蘿をよじて、世外に隠遁するつもりいるのである。ともかく、思いは、世俗のどこかにおいているものでなく、かの桂樹叢生する靑雲仙界にあると、常に心に思っているのである。

李太白集 卷八29

贈 參 寥 子  #2

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7585

Index-24  744年天寶三年44歳 56-19

433 <1000

 

 

 744年天寶三年44-2056首】-382-315巻八29 贈參寥子  (白鶴飛天書,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

卷一六八25 

文體:

五言古詩

李太白集 

29

 《李白集校注》 瞿蛻園

 卷九29

詩題:

贈參寥子

序文

作地點:

(山南東道 襄州 襄陽)

及地點:

峴山 (山南東道 襄州 峴山) 別名:峴首山

麒麟閣 (京畿道 京兆府 長安) 別名:麟閣

交遊人物:

參寥子    當地交遊(山南東道 襄州 峴山)

 

 

 

贈參寥子   #1

(莊子に言う、參寥のような先生にこの詩を贈る)

白鶴飛天書、南荊訪高士。

白鶴が天宮から賜った書を帯びて飛んで行く、その跡を慕って、楚地に高士をたずねてきたのである。

五云在峴山、果得參寥子。

五雲たなびく峴山にいたって、參寥子といふ人に出遭った。

骯臟辭故園、昂藏入君門。

われは、高亢律直をもって、世に容れられず翰林院を辞し、長安を出た。意気昂然として、君の門に入ったのである。

天子分玉帛、百官接話言。

君は当世の大人物で、天子は、玉帛を幣物として、わざわざ招致され、百官は、談話を交え、頻りに優遇してくれたのである。

(參寥子に贈る)  #1

白鶴 天書を飛ばし、南荊に 高士を訪う。

五云 峴山に在り、果して 參寥子を得る。

骯臟 故園を辭し、昂藏 入君の門にる。

天子 玉帛を分ち、百官 話言に接す。

#2

毫墨時洒落、探玄有奇作。

れから、筆を揮えば、字体灑落で、さすがにさっぱりとして粋なものである、又、道家の玄理を探って、著述を試みていて、その議論も奇抜なものにおもえる。

著論窮天人、千春秘麟閣。

道家に関する著作の論理の展開は、もはや、天人の際を窮めるというべきものとなっており、長しへに麒麟閣に藏せられて居る位というものである。

長揖不受官、拂衣歸林巒。

しかも、長揖して、官を承けず、衣をはらって、林巒に歸臥されたことである。

余亦去金馬、藤蘿同所歡。

自分も亦た金馬門に待詔していたが、そこを去って、江湖に放浪し、同じく藤蘿をよじて、世外に隠遁するつもりいるのである。

相思在何處、桂樹青云端。

ともかく、思いは、世俗のどこかにおいているものでなく、かの桂樹叢生する靑雲仙界にあると、常に心に思っているのである。

#2

毫墨 時に洒落、玄を探って奇作有り。

著論 天人を窮め、千春 麟閣に秘す。

長揖して 官を受けず、衣を拂って 林巒に歸える。

余 亦た金馬を去り、藤蘿 歡づる所を同じうする。

相思 何れの處に在からん、桂樹 青云の端にある。

大明宮の圖003 

『贈參寥子』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

毫墨時洒落、探玄有奇作。

著論窮天人、千春秘麟閣。

長揖不受官、拂衣歸林巒。

余亦去金馬、藤蘿同所歡。

相思在何處、桂樹青云端。

(下し文)
#2

毫墨 時に洒落、玄を探って奇作有り。

著論 天人を窮め、千春 麟閣に秘す。

長揖して 官を受けず、衣を拂って 林巒に歸える。

余 亦た金馬を去り、藤蘿 歡づる所を同じうする。

相思 何れの處に在からん、桂樹 青云の端にある。

(現代語訳)
#2

れから、筆を揮えば、字体灑落で、さすがにさっぱりとして粋なものである、又、道家の玄理を探って、著述を試みていて、その議論も奇抜なものにおもえる。

道家に関する著作の論理の展開は、もはや、天人の際を窮めるというべきものとなっており、長しへに麒麟閣に藏せられて居る位というものである。

しかも、長揖して、官を承けず、衣をはらって、林巒に歸臥されたことである。

自分も亦た金馬門に待詔していたが、そこを去って、江湖に放浪し、同じく藤蘿をよじて、世外に隠遁するつもりいるのである。

ともかく、思いは、世俗のどこかにおいているものでなく、かの桂樹叢生する靑雲仙界にあると、常に心に思っているのである。


(訳注)  #2

贈參寥子

(莊子に言う、參寥のような先生にこの詩を贈る)

1 參寥子 王琦の解に、「當時の逸士、其の姓名考える無し。蓋し、莊子のって、以て號と為せるなる。莊子に:𤣥冥、之を參寥に聞く、參寥、之を疑始に聞くとあり。崔云う:皆、古人の姓名、或は之を寓するのみ、其の人無し、と。 李云う、參、高なり、高邈 寥 曠 名づく可からざるなり。」とある。隱逸した高士であるが、名前も、生まれもわからず、しかし、存在感を消しているのに、あえば尊敬できる人物であったということであろう。

 

毫墨時洒落、探玄有奇作。

それから、筆を揮えば、字体灑落で、さすがにさっぱりとして粋なものである、又、道家の玄理を探って、著述を試みていて、その議論も奇抜なものにおもえる。

10 毫墨 筆を揮えば、字体灑落でというほどの意。

11 時洒落 ① 生意気なさま。しゃらくさいさま。② さっぱりしているさま。しゃれているさま。

12 探玄 道教の玄理を探求する。

 

著論窮天人、千春秘麟閣。

道家に関する著作の論理の展開は、もはや、天人の際を窮めるというべきものとなっており、長しへに麒麟閣に藏せられて居る位というものである。

13 著論窮天人 道家に関する著作の論理の展開は、もはや、天人の際を窮めると、道家に対する最大の惨事というものであろう。

千春 千回春を迎えること、とこしえにつづくことを言う。

麟閣 麒麟閣の略。別に畫麟閣.雲嫖姚というもとは漢の高祖の時、蒲何が建てて、図書を蔵していたが、のち漢の宜帝は功臣を紀念して表彰するため、霍光等十一人の像を閣上に画かした。宣帝は戎狄が定まって皆、賓服 し、股肱の臣の美を思い、功臣を人に図画させて麒麟閣に絵諸させた。 麒麟閣は未央宮にある。麒麟閣には十一臣が描かれた。 容貌に官爵、姓名を記した。麒麟閣十一臣は以下の通り。・大司馬大将軍博陸侯 姓霍氏、・衛将軍富平侯 張安世、・車騎将軍龍額侯 韓増、・後将軍営平侯 趙充国、・丞相高平侯 魏相、・丞相博陽侯 邴吉、・御史大夫建平侯 杜延年、・ 宗正陽城侯 劉徳、・少府 梁邱賀、・太子太傅 蕭望之、・典属国 蘇武

李白 《塞下曲,六首之三》「駿馬似風飆,鳴鞭出渭橋。彎弓辭漢月,插羽破天驕。陣解星芒盡,營空海霧消。功成畫麟閣,獨有霍嫖姚。」

唐の玄宗皇帝の故事に由来する。 玄宗皇帝は音楽や舞踏の愛好家で、自ら舞楽を教えていた。 その場所に梨が多く植えられていたことから、音楽や舞踏を学ぶ者を「梨園の弟子」といい、転じて、その世界をさすようになった。

 

長揖不受官、拂衣歸林巒。

しかも、長揖して、官を承けず、衣をはらって、林巒に歸臥されたことである。

 

余亦去金馬、藤蘿同所歡。

自分も亦た金馬門に待詔していたが、そこを去って、江湖に放浪し、同じく藤蘿をよじて、世外に隠遁するつもりいるのである。

14 金馬 大明宮の門の名、銀臺門の右銀臺門(金馬門)で、大明宮西壁三門の真ん中に位置し、入門して左に翰林院がある。《長安志、東内大明宮章》「西面右銀台門、侍省右藏庫、次北、翰林門翰林院學士院、又、東翰林院、北有少陽院、結鄰殿。翰林門北、曰、九仙門。」また、漢書東方朔傳に「金門に待詔して、稍や親近を得たり」とある。

金馬・金馬門・銀台()

30巻一古風五十九首其三十

但識金馬門、誰知蓬萊山。

161巻四36東武吟 ( 一作出東門后書懷留別翰林諸公 )

 談笑皆王公、一朝去金馬。

315巻八29贈參寥子

余亦去金馬、藤蘿同所歡。

373卷十贈從弟南平太守之遙二首 其一

承恩初入銀台門、著書獨在金鑾殿。

644巻十九18朝下過盧郎中敘舊游

君登金華省、我入銀台門。

743年(74)李太白集605巻十八12金門答蘇秀才  393-#3 Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-74-#3 Ⅰ李白詩1752 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7300

卷六05 -《玉壺吟》「世人不識東方朔、大隱金門是謫仙。」(世人は識らず東方朔、金門に大隱するは是れ謫仙。 いにしえの東方朔の才能とされ、かくいう私の才能が分からないが、「大隠者」のごとく金馬門の翰林院に隠棲している、これをもって、天上よりの「謫仙人」であるが、世間の人々は、そのことを認識していないのである。

○東方朔 漢の武帝に仕えた滑稽文学者をさすが、ここでは、李白、自分自身をたとえた。

○大隠金門 最上級の隠者は、金馬門(翰林院)に隠棲する。東方朔が酒宴で歌った歌詞に「世を金馬門に避く。宮殿の中にも以って世を避け身を全うす可し」とあるのを踏まえた。晋の王康裾の「反招隠」詩にも、「小隈は陵薮(山沢)に隠れ、大隠は朝市(朝廷や市場)に隠る」とある。

743年(55)李太白集卷六05 -《玉壺吟》#2 374Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-55#2 Ⅰ李白詩1722 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7153

金門 漢代の未央宮にあった門で、金門・金閨門の名であり、文学の士(学問をもって天子に仕える人)がここから出仕した。本来この門は、「魯般門」という名であるが、門の外に銅製の馬があることからこうよばれた。揚雄 解嘲 「與羣賢同行,歷金門,上玉堂」(羣賢と同行し,金門を歷,玉堂に上る)とある。唐における金門は、右銀臺門をいい、宣政殿の北には紫宸門があり、その内側には紫宸殿がある。紫宸殿の南にある紫寢門の左側には崇明門があり、右側には光順門がある。紫宸殿の東の方角には左銀台門があり、西の方角には右銀台門がある。この門の北沿いに九仙門がある。唐時代では、右銀台門より学士がことから金馬門といい、翰林學士院に出仕するものの代名詞とされた。銀臺 雍録載するところの大典大明宮の圖に「紫宸殿側に右銀臺門、左銀臺門あり」と記してある。學士は院門を出でてより、右銀臺門に至るまで、皆歩行して直に至り、すでに宮城の銀臺門外に出でて、それから馬に乗ることに成って居る。唐.李肇の《翰林志》:「今在右銀臺門之北,第一門向牓曰翰林之門,其制高大重複,號為胡門,入門直西為學士院,即開元十六年所置也。」(今右銀臺門の北にり,第一門牓に向う翰林の門を曰う,其れ高大重複を制し,胡門を為すを號し,門に入り直西は學士院を為し,即ち開元十六年(728)に所置されるなり。)唐.李白.相逢行:「朝騎五花馬,謁帝出銀臺。」(朝に五花の馬に騎し,帝に謁して 銀臺を出ず。)朝に五花の文ある名馬に跨って参内し、天子に拝謁したる後、銀臺門を出でて歸途に就いた人がある。

 

相思在何處、桂樹青云端。

ともかく、思いは、世俗のどこかにおいているものでなく、かの桂樹叢生する靑雲仙界にあると、常に心に思っているのである。

15 桂樹 《山中雜詩三首》 山際見來煙,竹中窺落日。鳥向簷上飛,雲從窗裏出。 綠竹可充食,女蘿可代裙。山中自有宅,桂樹籠青雲。

桂樹

 

117巻三28古朗月行

仙人垂兩足、桂樹何團團。

216卷六11白毫子歌

八公攜手五云去、 空余桂樹愁殺人。

315巻八29贈參寥子

相思在何處、桂樹青云端。

419巻十二09寄淮南友人

復作淮南客、因逢桂樹留。

42112-11聞丹丘子于城北營石門・・・

方從桂樹隱、不羨桃花源。

435巻十二25禪房懷友人岑倫

歸來儻有問、桂樹山之幽。

16 青云端 高い志であるが、此処では仙郷の意。
 
 

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744年年44歳-20-#1 李太白集315巻八29贈參寥子  434Index-24Ⅲ-3Ⅰ李白詩1810 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7590

李白 贈參寥子   #1

白鶴飛天書、南荊訪高士。 五云在峴山、果得參寥子。

骯臟辭故園、昂藏入君門。 天子分玉帛、百官接話言。

(莊子に言う、參寥のような先生にこの詩を贈る)

白鶴が天宮から賜った書を帯びて飛んで行く、その跡を慕って、楚地に高士をたずねてきたのである。五雲たなびく峴山にいたって、參寥子といふ人に出遭った。われは、高亢律直をもって、世に容れられず翰林院を辞し、長安を出た。意気昂然として、君の門に入ったのである。君は当世の大人物で、天子は、玉帛を幣物として、わざわざ招致され、百官は、談話を交え、頻りに優遇してくれたのである。

李太白集 卷八29

贈 參 寥 子 #1

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7585

Index-24  744年天寶三年44歳 56-19

433 <1000

 

 

 744年天寶三年44-2056首】-382-315巻八29 贈參寥子  (白鶴飛天書,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

卷一六八25 

文體:

五言古詩

李太白集 

29

 《李白集校注》 瞿蛻園

 卷九29

詩題:

贈參寥子

序文

作地點:

(山南東道 襄州 襄陽)

及地點:

峴山 (山南東道 襄州 峴山) 別名:峴首山

麒麟閣 (京畿道 京兆府 長安) 別名:麟閣

交遊人物:

參寥子    當地交遊(山南東道 襄州 峴山)

 

 

 

 

  卷168_25 《贈參寥子》李白 

白鶴飛天書,南荊訪高士。五雲在峴山,果得參寥子。 

骯髒辭故園,昂藏入君門。天子分玉帛,百官接話言。 

毫墨時灑落,探玄有奇作。著論窮天人,千春秘麟閣。 

長揖不受官,拂衣歸林巒。余亦去金馬,藤蘿同所歡。 

相思在何處,桂樹青雲端。 

 

 

  贈參寥子(卷九29(一)六三九)

白鶴飛天書,南荊訪高士。五雲在峴山,果得參寥子。

骯髒辭故國,昂藏入君門。天子分玉帛,百官接話言。

毫墨時灑落,探玄有奇作。著論窮天人,千春祕麟閣。

長揖不受官,拂衣歸林巒。余亦去金馬,藤蘿同所攀。

相思在何處?桂樹青雲端。

 

 

315巻八29贈參寥子

白鶴飛天書、南荊訪高士。 五云在峴山、果得參寥子。

骯臟辭故園、昂藏入君門。 天子分玉帛、百官接話言。

毫墨時洒落、探玄有奇作。 著論窮天人、千春秘麟閣。

長揖不受官、拂衣歸林巒。 余亦去金馬、藤蘿同所歡。

相思在何處、桂樹青云端。

 

 

315巻八29贈參寥子   #1

白鶴飛天書、南荊訪高士。 五云在峴山、果得參寥子。

骯臟辭故園、昂藏入君門。 天子分玉帛、百官接話言。

(莊子に言う、參寥のような先生にこの詩を贈る)

白鶴が天宮から賜った書を帯びて飛んで行く、その跡を慕って、楚地に高士をたずねてきたのである。

五雲たなびく峴山にいたって、參寥子といふ人に出遭った。

われは、高亢律直をもって、世に容れられず翰林院を辞し、長安を出た。意気昂然として、君の門に入ったのである。

君は当世の大人物で、天子は、玉帛を幣物として、わざわざ招致され、百官は、談話を交え、頻りに優遇してくれたのである。

(參寥子に贈る)  #1

白鶴 天書を飛ばし、南荊に 高士を訪う。

五云 峴山に在り、果して 參寥子を得る。

骯臟 故園を辭し、昂藏 入君の門にる。

天子 玉帛を分ち、百官 話言に接す。
#2

毫墨時洒落、探玄有奇作。 著論窮天人、千春秘麟閣。

長揖不受官、拂衣歸林巒。 余亦去金馬、藤蘿同所歡。

相思在何處、桂樹青云端。

 

『贈參寥子』現代語訳と訳註解説
(
本文)
           #1
贈參寥子

白鶴飛天書、南荊訪高士。 五云在峴山、果得參寥子。

骯臟辭故園、昂藏入君門。 天子分玉帛、百官接話言。

(下し文)

(參寥子に贈る)  #1

白鶴 天書を飛ばし、南荊に 高士を訪う。

五云 峴山に在り、果して 參寥子を得る。

骯臟 故園を辭し、昂藏 入君の門にる。

天子 玉帛を分ち、百官 話言に接す。

(現代語訳)
贈參寥子  #1(莊子に言う、參寥のような先生にこの詩を贈る)

白鶴が天宮から賜った書を帯びて飛んで行く、その跡を慕って、楚地に高士をたずねてきたのである。

五雲たなびく峴山にいたって、參寥子といふ人に出遭った。

われは、高亢律直をもって、世に容れられず翰林院を辞し、長安を出た。意気昂然として、君の門に入ったのである。

君は当世の大人物で、天子は、玉帛を幣物として、わざわざ招致され、百官は、談話を交え、頻りに優遇してくれたのである。


(訳注)   #1

贈參寥子

(莊子に言う、參寥のような先生にこの詩を贈る)

1 參寥子 王琦の解に、「當時の逸士、其の姓名考える無し。蓋し、莊子のって、以て號と為せるなる。莊子に:𤣥冥、之を參寥に聞く、參寥、之を疑始に聞くとあり。崔云う:皆、古人の姓名、或は之を寓するのみ、其の人無し、と。 李云う、參、高なり、高邈 寥 曠 名づく可からざるなり。」とある。隱逸した高士であるが、名前も、生まれもわからず、しかし、存在感を消しているのに、あえば尊敬できる人物であったということであろう。

 

白鶴飛天書、南荊訪高士。

白鶴が天宮から賜った書を帯びて飛んで行く、その跡を慕って、楚地に高士をたずねてきたのである。

2 南荊 楚血をいう。陸機 《演連珠》「南有寡和之歌。」(寡和の歌有り。)李善註に南とは楚を謂うなり。

 

五云在峴山、果得參寥子。

五雲たなびく峴山にいたって、參寥子といふ人に出遭った。

3 五云 五色の雲。參某は隠遁者、仙人であるから常侍白雲が随行する。五雲は彩雲であり、朝日に光ることを言う。

4 峴山 襄陽県の東南にある山で、漢水にのぞむ。唐代の名勝の地。《无和郡縣志》「峴山在襄州襄陽縣東南九里、東/臨漢、水古今大路。」(峴山は襄州襄陽縣の東南九里に在り、東に漢水を/臨み、古今の大路なり。)とあり、 《水經》の註に「峴山羊祜之鎮襄陽也、與鄒潤甫嘗登之。及祜薨後、後人立碑於故處、望/者悲感、杜元凱謂之墮淚碑。」(峴山羊祜の鎮は襄陽なり、與鄒潤甫は嘗て之に登る。祜に及び薨の後、後の人は故の處に碑立した、望む者は悲感し、杜元凱は之を墮淚碑と謂う。)とある。

《卷9-03憶襄陽舊遊贈馬少府巨》

憶襄陽舊遊贈馬少府巨#1

昔為大堤客,曾上山公樓。

開窗碧嶂滿,拂鏡滄江流。

高冠佩雄劍,長揖韓荊州。

此地別夫子,今來思舊遊。

(襄陽の舊遊を憶い 馬少府巨に贈る)

昔 大堤の客と為り,曾て上る 山公の樓。

窗を開けば 碧嶂滿ち,鏡を拂うて滄江流る。

高冠 雄劍を佩び,長揖す 韓荊州。

此の地 夫子に別れ,今來 舊遊を思う。

#2

朱顏君未老,白髮我先秋。

壯志恐蹉跎,功名若雲浮。

歸心結遠夢,落日懸春愁。

空思羊叔子,墮淚峴山頭。

 

朱顏 君 未だ老いず,白髮 我れ先づ秋。

壯志 蹉跎を恐る,功名 雲の浮ぶが若し。

歸心 遠夢を結び,落日 春愁を懸く。

空しく思う 羊叔子,淚を墮す峴山頭。

285-#2 《卷9-03憶襄陽舊遊贈馬少府巨》#2Index-20Ⅱ― 15-740年開元二十八年40歳 <285-#2> Ⅰ李白詩1570 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6398

143巻四18襄陽曲四首其二

山公醉酒時。 酩酊高陽下。頭上白接籬。 倒著還騎馬。

144巻四19襄陽曲四首其三

峴山臨漢江。 水綠沙如雪。上有墮淚碑。 苔久磨滅。

145巻四20襄陽曲四首其四

且醉習家池。 莫看墮淚碑。 山公欲上馬。 笑殺襄陽兒。

206卷六01襄陽歌

落日欲沒峴山西。 倒著接籬花下迷。襄陽小兒齊拍手。

315巻八29卷八贈參寥子

白鶴飛天書、南荊訪高士。 五云在峴山、果得參寥子。

754巻二一32 峴山懷古

訪古登峴首、憑高眺襄中。天清遠峰出、水落寒沙空。

峴山 襄陽県の東南にある山で、漢水にのぞむ。唐代の名勝の地。

「峴山の詩」孟浩然 与諸子登峴山 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -305

「峴山の詩」張九齢 登襄陽峴山 李白「峴山懐古」関連   Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -306

峴山の詩] 陳子昂 峴山懷古 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -307

還至端駅前与高六別処 張説 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -308

輿黄侍御北津泛舟 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -309

峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大) 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 350 -310

過故人莊 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -311

 

骯臟辭故園、昂藏入君門。

われは、高亢律直をもって、世に容れられず翰林院を辞し、長安を出た。意気昂然として、君の門に入ったのである。

5 骯臟 高亢律直の貌。

6 辭故園 それまで勤めてきた翰林院を辞したこと。

7 昂藏 意気昂然の貌。

 

天子分玉帛、百官接話言。

君は当世の大人物で、天子は、玉帛を幣物として、わざわざ招致され、百官は、談話を交え、頻りに優遇してくれたのである。

8 玉帛 神前にささげる供物。幣物、賜り物 贈もの 貰い物 到来物。

9 話言 才知に優れ、徳のあるものが聖天子のもとに百官、臣下は談話を交え、頻りに優遇するということ。《詩經、大雅、抑》「其維哲人、告之話言、順德之行。」(其れ維れ哲人は、之に話言を告ぐれば、德に順いて之れ行う。)に基づく。

744年年44歳-18李太白集291巻八05贈任城盧主簿  432Index-24Ⅲ-3 Ⅰ李白詩1808 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7580

李白  贈任城盧主簿

海鳥知天風,竄身魯門東。 臨觴不能飲,矯翼思凌空。

鐘鼓不為樂,煙霜誰與同。歸飛未忍去,流淚謝鴛鴻。

(任城の主簿の盧潜というものに贈った詩で、海鳥を以て自らを此し、鴛鴻を以て主簿に擬し、同類相い憐むの意に本づいて、惜別に及んだもの)  《莊子至樂》でいう、むかし、海鳥が天風の荒きに堪へ兼ねて、魯の東の城門に逃げてくると、魯の君王は非常に之を好遇したという。礼を尽くし、廟に觴し、九韶の樂を奏して、これを楽しませることに務めたが、海鳥は、これまで、このような事に出食わした経験もなく、眩視憂悲して、「敢えて一臠を食わず,敢えて一杯を飲まず」と、翼をあげで大空に飛びたいと思ったのである。鐘鼓の賑やかなことも、少しもたのしいことという心持はしない、野外の煙霜に其身をさらしてこそ海鳥であり、そうしたいと思って居たのである。自分も、この任城の地に来り、非常に優遇はされたが、逆に少しも満足することができず、今まさに「海鳥」のように、帰り飛ばんとおもっている。唯だ、君だけは、同類の鴛鴻と思い、今まで親密にしていたのである、物とはなしに別れ兼ね、ここに覚えず涙を流して、御挨拶を申し上げるのである。

李太白集 卷八05

贈任城盧主簿

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7580

Index-24  744年天寶三年44歳 56-18

432 <1000

 

 

744年天寶三年44-1856首】

-380-291巻八05 贈任城盧主簿  (海鳥知天風,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

卷一六八              05 

文體:

五言古詩

李太白集 

05

 

 

詩題:

贈任城盧主簿 (贈任城盧主簿潛)

序文

作地點:

河南道、州、任城縣、魯門東

及地點:

任城 (河南道 兗州 任城) 別名:濟寧

 

交遊人物:

盧主簿    當地交遊(河南道 兗州 任城)

交遊人物:

 

 

 

 

李太白集291巻八05贈任城盧主簿

海鳥知天風,竄身魯門東。

臨觴不能飲,矯翼思凌空。

鐘鼓不為樂,煙霜誰與同。

歸飛未忍去,流淚謝鴛鴻。

 

李太白集補注  贈任城盧主簿潛(卷九(一)六○○)

海鳥知天風,竄身魯門東。

臨觴不能飲,矯翼思淩空。

鐘鼓不為樂,煙霜誰與同?

歸來未忍去,流淚謝鴛鴻。

 

全唐詩 卷168_5 《贈任城盧主簿》李白 

海鳥知天風,竄身魯門東。

臨觴不能飲,矯翼思淩空。 

鐘鼓不為樂,煙霜誰與同。

歸飛未忍去,流淚謝鴛鴻。 

 

李太白集注巻九     錢塘 王𤦺 撰

  贈任城盧主簿潛

  蕭本少潛字《唐書地理志》河南道州有任城縣」 唐官制縣令之佐有主簿其位在丞之下尉之上京縣二人從八品畿縣上縣者正九品中縣下縣者從八品各一人

海鳥知天風,竄身魯門東。臨觴不能飲,矯翼思凌空。

鐘鼓不為樂,煙霜誰與同。歸飛未忍去,流淚謝鴛鴻。

莊子 昔者海鳥止於魯郊魯侯御而觴之於廟

詳見 《大鵬賦註揚雄解嘲矯翼厲翮 

李周翰註矯舉也南齊書孝感烟霜

 

 

李太白集分類補註巻九  宋 楊齊賢 集註   元 蕭士贇 補註

   贈任城盧主簿

海鳥知天風,竄身魯門東。臨觴不能飲,矯翼思凌空。

鐘鼓不為樂,煙霜誰與同。歸飛未忍去,流淚謝鴛鴻。

齊賢曰魯語海鳥曰爰居止于魯東門展禽曰今海有災乎夫廣川鳥獸常知避其災也

海多大風 莊子 云昔者海

鳥止於魯郊魯侯御、而觴之于廟奏九韶以為樂具太/牢以為膳鳥乃眩視憂悲不敢食一臠不敢飲一杯

 

 

 

贈任城盧主簿

(任城の主簿の盧潜というものに贈った詩で、海鳥を以て自らを此し、鴛鴻を以て主簿に擬し、同類相い憐むの意に本づいて、惜別に及んだもの)

海鳥知天風,竄身魯門東。

《莊子至樂》でいう、むかし、海鳥が天風の荒きに堪へ兼ねて、魯の東の城門に逃げてくると、魯の君王は非常に之を好遇したという。

臨觴不能飲,矯翼思凌空。

礼を尽くし、廟に觴し、九韶の樂を奏して、これを楽しませることに務めたが、海鳥は、これまで、このような事に出食わした経験もなく、眩視憂悲して、「敢えて一臠を食わず,敢えて一杯を飲まず」と、翼をあげで大空に飛びたいと思ったのである。

鐘鼓不為樂,煙霜誰與同。

鐘鼓の賑やかなことも、少しもたのしいことという心持はしない、野外の煙霜に其身をさらしてこそ海鳥であり、そうしたいと思って居たのである。

歸飛未忍去,流淚謝鴛鴻。

自分も、この任城の地に来り、非常に優遇はされたが、逆に少しも満足することができず、今まさに「海鳥」のように、帰り飛ばんとおもっている。唯だ、君だけは、同類の鴛鴻と思い、今まで親密にしていたのである、物とはなしに別れ兼ね、ここに覚えず涙を流して、御挨拶を申し上げるのである。

 

河南道 兗州 瑕丘 徂徠山 00 

『贈任城盧主簿』現代語訳と訳註解説
(
本文)

贈任城盧主簿

海鳥知天風,竄身魯門東。

臨觴不能飲,矯翼思凌空。

鐘鼓不為樂,煙霜誰與同。

歸飛未忍去,流淚謝鴛鴻。

(下し文)
(任城の盧潜主簿に贈る)

海鳥は天風を知り,身を魯門の東に竄す。

觴に臨んで 飲む能わず,翼を矯げて 空を凌がんとを思う。

鐘鼓 樂しみと為さず,煙霜 誰かと同じからん。

歸り飛んで 未だ去るに忍びず,淚を流して 鴛鴻に謝す。

(現代語訳)
贈任城盧主簿 (任城の主簿の盧潜というものに贈った詩で、海鳥を以て自らを此し、鴛鴻を以て主簿に擬し、同類相い憐むの意に本づいて、惜別に及んだもの)

《莊子至樂》でいう、むかし、海鳥が天風の荒きに堪へ兼ねて、魯の東の城門に逃げてくると、魯の君王は非常に之を好遇したという。

礼を尽くし、廟に觴し、九韶の樂を奏して、これを楽しませることに務めたが、海鳥は、これまで、このような事に出食わした経験もなく、眩視憂悲して、「敢えて一臠を食わず,敢えて一杯を飲まず」と、翼をあげで大空に飛びたいと思ったのである。

鐘鼓の賑やかなことも、少しもたのしいことという心持はしない、野外の煙霜に其身をさらしてこそ海鳥であり、そうしたいと思って居たのである。

自分も、この任城の地に来り、非常に優遇はされたが、逆に少しも満足することができず、今まさに「海鳥」のように、帰り飛ばんとおもっている。唯だ、君だけは、同類の鴛鴻と思い、今まで親密にしていたのである、物とはなしに別れ兼ね、ここに覚えず涙を流して、御挨拶を申し上げるのである。

李白図102
(訳注) 

贈任城盧主簿

(任城の主簿の盧潜というものに贈った詩で、海鳥を以て自らを此し、鴛鴻を以て主簿に擬し、同類相い憐むの意に本づいて、惜別に及んだもの)

1 この詩は、李白が任城に往った時、その縣令から、物質的には随分好過されたのであるが、その人が除りわけの分かった人物でもなかったらしく、そこで不満で堪まらず、やがて辭して去ろうとするとき、この詩を作って、主簿の盧潜といふものに贈ったのである。

この詩は、全篇が比喩であって、海鳥を以て自ら此し、鴛鴻を以て主簿に擬し、同類相憐むの意に本づいて、惜別に及んだのである。

河南道、州、任城縣、魯門東 

2 兗州 兗州は山東省西南部の魯西南平原に位置する。東には曲阜の孔子ゆかりの「三孔」を仰ぎ,西には梁山県の水滸伝ゆかりの沼沢地(梁山泊)があり、北には泰山がそびえ、南には微山湖を望むため、「東文、西武、北岱、南湖」と呼ばれる。また、「杜甫」ゆかりの地である少陵台もある。いま、全市の総面積は651平方キロメートルで農地面積は60万畝ほど。泗河が南西から北東に流れ、その西北岸に兗州の中心市街地がある。昔の県城内には府河という小さな川が流れ、九仙橋や中御橋などが架かる。

3 任城 唐時代、兗州に属した、今の山東省済寧州治。秦に対する合従連衡を説いた蘇秦が〈亢父(こうほ)の険〉と呼び,斉国防御の要地としたのもこの地である。漢代には任城県が置かれ,後漢には任城国となり,以後州郡の中心となった。《唐書地理志に「河南道州有任城縣」(河南道、州に任城縣が有ると記してある。 

杜甫《巻一07與任城許圭簿遊南池》

224_17 《與任城許主簿游南池(池在濟寧州境)》杜甫 

秋水通溝洫,城隅進小船。晚涼看洗馬,森木亂鳴蟬。 

菱熟經時雨,蒲荒八月天。晨朝降白露,遙憶舊青氈。 

(任城の許主簿と南池に遊ぶ)

秋水溝洫に通ず、城隅より小船を進む。晩涼に洗馬を看る、森木に鳴蝉乱る。

菱は熟す時を経たるの雨、蒲は荒る八月の天。晨朝白露降らん、遙に憶う舊青氈。

176_3 《魯郡東石門送杜二甫》李白 

酔別復幾日、登臨徧池臺。何言石門路、重有金樽開。

秋波落泗水、海色明徂徠。飛蓬各自遠、且尽林中盃。

 (魯郡の東 石門にて杜二甫を送る)

酔別(すいべつ)()た幾日(いくにち)ぞ、登臨(とうりん)池台(ちだい)に徧(あまね)し。

何ぞ言わん石門(せきもん)の路(みち)、重ねて金樽(きんそん)の開く有らんと。

秋波(しゅうは)泗水(しすい)に落ち、海色(かいしょく) 徂徠(そらい)に明かなり。

飛蓬(ひほう)各自(かくじ)遠し、且(しばら)く林中(りんちゅう)の盃(はい)を尽くさん。

・魯郡 いまの山東省兗州市。・石門 いまの山東省曲阜県の東北、泗水の岸にあった。

4 主簿 主簿は記録を掌る官。また、唐の官制として、縣令の佐に主簿が有って其の位は丞の下、尉の上に在り、京縣には二人、從八品、畿縣上縣には正九品、中縣下縣には從八品おのおの一人ということ。

 

海鳥知天風,竄身魯門東。

《莊子至樂》でいう、むかし、海鳥が天風の荒きに堪へ兼ねて、魯の東の城門に逃げてくると、魯の君王は非常に之を好遇したという。

5 海鳥 海鳥は、海洋に生息する鳥の総称。 沿岸部に棲息する鳥は水鳥に含める。 大洋を飛び回るアホウドリ、カツオドリ、ネッタイチョウなどが代表。 繁殖時には陸に巣を作る。いくつかの種は、孤島で集団繁殖をする。ここでは、集団から脱逃したものをいう。

竄身 竄:1 もぐる。逃げ隠れる。「竄入」2 遠隔地へ追放する。「流竄 (りゅうざん・るざん) 3 文章を書き改める。「改竄」。

魯門東 魯の東の城門。魯は、中国の王朝名・地名。地名としての魯は現在の中国山東省南部を指す。山東省全体の略称としても用いられる。 王朝としての魯は、中国大陸に周代、春秋時代、戦国時代に亘って存在した国である。代々の魯公の爵位は侯爵であり、姓は姫である。首府は曲阜。 周公旦の子伯禽が成王によって封ぜられて成立した。

特に、初句4句は《莊子、外篇、至樂)「昔者海鳥止於魯郊,魯侯御而觴之於廟,奏九韶以為樂,具太牢以為膳。鳥乃眩視憂悲。不敢食一臠,不敢飲一杯,三日而死。此以己養養鳥也,非以鳥養養烏也。」(昔者、海鳥 魯の郊に止まる,魯侯 御【むか】えて 之を廟に觴し,九韶を奏して以て樂と為し,太牢を具えて 以て膳と為す。鳥 乃ち眩視憂悲す。敢えて一臠を食わず,敢えて一杯を飲まず,三日にして死す。此れ己れが養を以て鳥を養うなり,鳥の養を以て烏を養うに非ざるなり。)に基づく。

 

臨觴不能飲,矯翼思凌空。

礼を尽くし、廟に觴し、九韶の樂を奏して、これを楽しませることに務めたが、海鳥は、これまで、このような事に出食わした経験もなく、眩視憂悲して、「敢えて一臠を食わず,敢えて一杯を飲まず」と、翼をあげで大空に飛びたいと思ったのである。

臨觴不能飲 海鳥に対する接し方ではないため、盃に臨みのむことしない、「眩視憂悲。不敢食一臠,不敢飲一杯。」相手のことを無視し、自分の思いで歓待した。鳥の養い方でなく、人間の歓待方法でもてなしたこと。

 

鐘鼓不為樂,煙霜誰與同。

鐘鼓の賑やかなことも、少しもたのしいことという心持はしない、野外の煙霜に其身をさらしてこそ海鳥であり、そうしたいと思って居たのである。

煙霜誰與同 同じく《莊子、外篇、至樂》「夫以鳥養養鳥者、宜栖之深林、遊之壇陸、浮之江湖、食之 隨行列而止、委蛇而處。」(夫れ鳥を養う以て鳥を養う者は、宜しく之を深林に栖せ、之を壇陸に遊せ、之を江湖に浮せ、之に 食わせ、行列に隨いて止まり、委蛇して處しむべし)と、のんびりとしたそれぞれにあった、環境の中に住まわせてやることが養うことである。

 

歸飛未忍去,流淚謝鴛鴻。

自分も、この任城の地に来り、非常に優遇はされたが、逆に少しも満足することができず、今まさに「海鳥」のように、帰り飛ばんとおもっている。唯だ、君だけは、同類の鴛鴻と思い、今まで親密にしていたのである、物とはなしに別れ兼ね、ここに覚えず涙を流して、御挨拶を申し上げるのである。

743年(59)李太白集卷八36-《贈盧徵君昆弟》#2 378-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(59) Ⅰ李白詩1731 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7195

李白  贈盧徵君昆弟 #2

滄州即此地,觀化遊無窮。水落海上清,鼇背睹方蓬。

與君弄倒景,攜手凌星虹。

徵君は、その山をもって滄州と見做し、静かに宇宙の物化をみて、こころを無窮の大道に遊ばしめるのである。かくて、晩秋のころ、気の葉が落ち尽くし、鼇背にある蓬萊島が目の当たりに見える時分に、わたしも徵君を訪ねた。徵君兄弟とともに、日映中に浮べる倒影を弄し、手を携えて、天空を飛行し、あの星虹を凌いで瑤闕に朝したいと思っているのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-59

卷別:    卷一六八              文體:    五言古詩

詩題:    贈盧徵君昆弟

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              

交遊人物/地點:盧徵君昆弟             書信往來

 

 

贈盧徵君昆弟

(高操の美といえる盧徵君兄弟を尊敬しこの詩を贈る。)

明主訪賢逸,雲泉今已空。

明主は上に在って、隠逸の賢者を訪求せられているけれど、漢のころからの徵君と称されるものは、たいてい召し出され、今や、山中雲がわく巌洞までもを探してもそういう人はいないであろう。

二盧竟不起,萬乘高其風。

しかし、ここに征士である盧徵君兄弟は、しばしば召されたが、ついに立たず、万乗の天子もその高風を称賞せられた。

河上喜相得,壺中趣每同。

盧徵君兄弟は、昔の河上公とあい得て、定めて喜ばしく、また仙人が壺中に別世界を幻出するその趣と常々同一なのである。

#2

滄州即此地,觀化遊無窮。

徵君は、その山をもって滄州と見做し、静かに宇宙の物化をみて、こころを無窮の大道に遊ばしめるのである。

水落海上清,鼇背睹方蓬。

かくて、晩秋のころ、気の葉が落ち尽くし、鼇背にある蓬萊島が目の当たりに見える時分に、わたしも徵君を訪ねた。

與君弄倒景,攜手凌星虹。

徵君兄弟とともに、日映中に浮べる倒影を弄し、手を携えて、天空を飛行し、あの星虹を凌いで瑤闕に朝したいと思っているのである。

 

(盧徵君の昆弟に贈る)

明主 賢逸を訪い,雲泉 今 已に空し。

二盧 竟に起たず,萬乘 其の風を高し。

河上 相い得るを喜び,壺中 趣 每に同じゅうす。

#2

滄州 即ち此の地,化を觀て 無窮に遊ぶ。

水落ちて 海上清く,鼇背に 方蓬を睹る。

君と倒景を弄し,手を攜えて星虹を凌がん。

 

『贈盧徵君昆弟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

滄州即此地,觀化遊無窮。

水落海上清,鼇背睹方蓬。

與君弄倒景,攜手凌星虹。

(下し文)
#2

滄州 即ち此の地,化を觀て 無窮に遊ぶ。

水落ちて 海上清く,鼇背に 方蓬を睹る。

君と倒景を弄し,手を攜えて星虹を凌がん。

(現代語訳)
#2

徵君は、その山をもって滄州と見做し、静かに宇宙の物化をみて、こころを無窮の大道に遊ばしめるのである。

かくて、晩秋のころ、気の葉が落ち尽くし、鼇背にある蓬萊島が目の当たりに見える時分に、わたしも徵君を訪ねた。

徵君兄弟とともに、日映中に浮べる倒影を弄し、手を携えて、天空を飛行し、あの星虹を凌いで瑤闕に朝したいと思っているのである。

大明宮の圖003
(訳注)

贈盧徵君昆弟

(高操の美といえる盧徵君兄弟を尊敬しこの詩を贈る。)

1    盧徵君 盧鴻を征士の尊稱、徵君と号されたのと同じような人物として盧徵君兄弟をいう。

 

滄州即此地,觀化遊無窮。

徵君は、その山をもって滄州と見做し、静かに宇宙の物化をみて、こころを無窮の大道に遊ばしめるのである。

8 滄州 実際の地名というよりは、水辺の土地をいい、隠者の住むところを象徴する。東方の海上にあると信じられた仙人の島。謝眺『之宣城、出新林浦、向版橋』『文選』巻二七に「既懽懐禄情、復協滄州趣」(禄を得たいという心情にもかない、また隠遁したいという心にもかなうのだ)とある。《巻八15玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首 其二》「功成拂衣去,搖曳滄洲傍。」(功成【な】らば衣を払って去り、滄洲の傍らに揺裔【ようえい】せん。こうして、この世において思う存分功業を成し遂げ、衣を払って去り、かの滄州のほとりに逍遥して仙郷を味わいたいと思っておるところで、その辺りをお含み頂、ご登用の御助力をいただきたいものである。

李白『夜泊黄山聞殷十四呉吟』「朝来果是滄州逸、酤酒提盤飯霜栗。」『春日獨酌 二首 其二』「我有紫霞想、緬懷滄洲間。」

 

水落海上清,鼇背睹方蓬。

かくて、晩秋のころ、気の葉が落ち尽くし、鼇背にある蓬萊島が目の当たりに見える時分に、わたしも徵君を訪ねた。

9. 鼇背 おおうみがめの背。想像上の動物の名。海中に住み、背に蓬莱山などの仙山を背負っているという。おおうみがめが背にのせているという、海中の仙山の峰。②翰林院のこと。

10 方蓬 東海の蓬莱山。神仙三山、蓬莱、瀛州、方丈をいう。

 

與君弄倒景,攜手凌星虹。

徵君兄弟とともに、日映中に浮べる倒影を弄し、手を携えて、天空を飛行し、あの星虹を凌いで瑤闕に朝したいと思っているのである。

11 倒景 大陽が沈んだあと、日の光が西から照り返すこと。夕日。 2.水面に逆さまに写った景色。逆さに映った影。倒影(とうえい)

12 星虹 星の虹の架け橋。《巻06-08 元丹丘歌》「躡星虹,身騎飛龍耳生風。」

 

京兆地域図002洛陽 函谷関 嵩山005 

 

 

 

贈盧徵君昆弟  【字解】

 

(高操の美といえる盧徵君兄弟を尊敬しこの詩を贈る。)

1 盧徵君 盧鴻を征士の尊稱、徵君と号されたのと同じような人物として盧徵君兄弟をいう。《新唐書》卷一百九十六〈隱逸列傳盧鴻〉“盧鴻字顥然,其先幽州范陽人,徙洛陽。博學,善書籀。廬嵩山。玄宗開元初,備禮徵再,不至。五年,詔曰:「鴻有泰一之道,中庸之德,鉤深詣微,確乎自高。詔書屢下,每輒辭託,使朕虛心引領,于今數年。雖得素履幽人之介,而失考父滋恭之誼,豈朝廷之故與生殊趣邪?將縱欲山林,往而不能反乎?禮有大倫,君臣之義不可廢也。今城闕密邇,不足為勞,有司其齎束帛之具,重宣茲旨,想有以翻然易節,副朕意焉。」鴻至東都,謁見不拜,宰相遣通事舍人問狀,答曰:「禮者,忠信所薄,臣敢以忠信見。」帝召升殿,置酒。拜諫議大夫,固辭。復下制,許還山,給米百斛、絹五十,府縣為致其家,朝廷得失,其以狀聞。將行,賜隱居服,官營草堂,恩禮殊渥。鴻到山中,廣學廬,聚徒至五百人。及卒,帝賜萬錢。鴻所居室,自號寧極云。(盧鴻は字を顥然,其の先は幽州范陽の人,洛陽に徙【うつ】る。博學,善く籀を書す。嵩山に廬す。玄宗開元の初,禮を備えて徵すこと再,至らず。五年,詔して曰く:「鴻 泰一の道有り,中庸の德,詣微を鉤深し,確乎自ら高す。詔書屢ば下し,每に輒ち託を辭し,朕 虛をして心 領を引き,今に于て數年。素履 幽人の介を得ると雖も,而て父滋恭の誼を失考し,豈に朝廷に之き故に與生殊趣邪?將に山林に縱欲し,往き能反せずや?禮 大倫に有り,君臣の義 廢す可からざるなり。今 城闕密邇し,勞を為すに足らず,司有り其の齎 帛の具を束し,重ねて茲の旨を宣し,想う有り 以て翻然易節 朕の意を,副えんや。」鴻 東都に至り,謁見して拜せず,宰相 遣通事舍人問狀,答えて曰く:「禮者,忠信所薄,臣敢以忠信見。」帝 召して殿に升り,置酒す。諫議大夫に拜せらる,固辭す。復た制を下し,山に還えるを許し,米百斛、絹五十を給し,縣に府し 其の家に致るを為し,朝廷得失し,其れ以て狀聞す。將て行き,隱居の服を賜い,草堂を官營す,禮に恩渥をし殊にす。鴻 山中にり,廣く廬に學び,聚徒至五百人に。卒するに及び,帝 萬錢を賜う。鴻 居る所の室,自ら寧極と號すと云う。)

2 徵君征君  征士の尊稱。 《後漢書黃憲傳》「友人勸其仕, 憲亦不拒之, 暫到京師而還, 竟無所就。 年四十八終, 天下號曰徵君。」(友人 其の仕を勸む, 憲 亦た之を拒まず, 暫く京師に到りて還る, 竟に就く所無く。 年四十八にして終る, 天下に號して徵君と曰う。)

3 雲泉 雲が生じるのは、巌洞の泉湧くところであるということ。

4 二盧 征士である盧徵君兄弟のこと。

5 萬乘 万乗の天子。

6 河上 河上公。河上公とは如何なる人物であるのか。河上公注『老子』につけられた、葛玄の序という文章によると、河上公は姓名未詳。前漢の文帝の時に黄河の岸辺に隠居して、『老子』を読み解いていた。文帝は、河上公が『老子』に通じていると聞いて召し寄せようとしたが、「そんなことでは道や徳は教えられない」と河上公が上京を拒むので、しかたなく文帝みずからが出向いてその非礼を責めたところ、河上公は手を打ってふわりと虚空に浮かび上がり、自分は帝王の指図を受けぬと宣言する。そこで文帝は河上公が神人であると悟り、礼を尽くして教えを乞うたところ、河上公は『老子道徳経章句』二巻を文帝に授け、「これをよく研究すれば、『老子』は分かるだろう。余がこの経に注をつけて以来、千七百年になるが、伝授したのは、あなたを含めて四人だけだ。人には見せるな」と言った。伝授を終えると、河上公はどこかに消えた、と。葛玄の序はそのように説く。河上公もまた、謎に満ちた人物である。

神仙傳「河上公者,莫知其姓名也。漢孝文帝時,結草為庵於河之濱,常讀老子道德經。時文帝好老子之道,詔命諸王公大臣州牧在朝卿士,皆令誦之,不通老子經者,不得陛朝。帝於經中有疑義,人莫能通,侍郎裴楷奏雲:陜州河上有人誦老子。即遣詔使所疑義問之,公曰:「道尊德貴,非可遙問也。」帝即嘉幸詣之,公在庵中不出,帝使人謂之曰:「溥天之下,莫非王土,率土之濱,莫非王民,域中四大,而王居其一,子雖有道,猶朕民也,不能自屈,何乃高乎?朕能使民富貴貧賤。」須臾,公即拊掌坐躍,冉冉在空虛之中,去地百余尺,而止於虛空,良久,俛而答曰:「余上不至天,中不累人,下不居地,何民之有焉?君宜能令余富貴貧賤乎?」帝大驚,悟知是神人,方下輦稽首禮謝曰:「朕以不能,忝承先業,才小任大,憂於不堪,而誌奉道德,直以暗昧,多所不了,惟願道君垂湣,有以教之。」河上公即授素書老子道德章句二卷,謂帝曰:「熟研究之,所疑自解。余著此經以來,千七百余年,凡傳三人,連子四矣,勿視非人!」帝即拜跪受經,言畢,失公所在。遂於西山築臺望之,不復見矣。論者以為文帝雖耽尚大道,而心未純信,故示神變以悟帝,意欲成其道,時人因號河上公。」

神仙傳「河上公は,其の姓名を知る莫し也。漢の孝文帝の時,草を結び庵を河の濱を為る,常に老子は道德經を讀む。時に文帝 老子の道を好み,詔命して諸王公大臣州牧 朝卿士在り,皆 之を誦ぜ令む,老子經を通ぜざる者,陛朝を得ず。帝 經中に疑義有り,人は能く通ずること莫れ,侍郎裴楷 奏して雲う:陜州河上 人有り 老子を誦す。即ち遣詔使 疑義を所し 之を問う,公曰く:「道は尊く德は貴し,遙に問う可きに非ざる也。」と。帝 即ち嘉び幸にして之を詣し,公 庵中に在りて出でず,帝 人を使し 之を謂うて曰く:「溥天の下,王土非ざるは莫く,率土の濱,王民非ざるは莫し,域中四大,而して王居其一は,子 道有りと雖も,猶お朕の民なり,不能自屈,何乃高乎?朕能使民富貴貧賤。」と。須臾して,公 即ち掌を拊して坐躍すれば,冉冉として空虛の中に在り,地を去ること百余尺,而して虛空に止み,良久,俛して答えて曰く:「余 上 天に至らず,中 人に累せず,下 地に居らず,何の民か之れ有らんと?君 宜く能く余 富貴貧賤か?」と。帝 大いに驚き,是れ神人を悟知し,方に輦を下りて稽首し禮謝して曰く:「朕 以て能わず,忝承して先業し,才は小 任は大,憂 堪えず,而して誌は道德を奉り,直ちに以て暗昧し,多所 了らず,惟だ願うは道君垂湣,有 以て之を教う。」河上公 即ち素書、老子道德章句二卷を授け,帝に謂うて曰く:「熟して之を研究し,所疑 自ら解す。余 此經を著して以來,千七百余年,凡そ三人に傳え,子を連ねて四と,視る勿れ人に非らず!」帝 即ち拜跪して經を受け,言畢って,公在る所を失う。遂に 西山 臺を築き 之を望み,復た見るなし。論者 以て文帝を為し 耽すと雖も 尚お大道,而して心 未だ純信せず,故に神變を示し以て帝を悟り,意 其の道を成さんと欲し,時に人に因り河上公と號す。」と。

7 壺中趣  壺中有天。 現実の世俗的生活の中に自らが創っている別天地。自分だけの時間と世界をもてる幸せを大切にしたいもの。後漢書に「費長房が役所の二階から何気なく町中の老商人を眺めていた。仕事を終えた老商人があたりを見回し、ポンと壺に入り込んでしまった。不思議に思った彼が翌日、老商人を問い詰めた。『見られたか。じゃ仕方がない。ついておいで』と大きな壷の中に誘った。壷の中は彼が見たこともない別天地だった。」という故事による。老商人の壺中有天は、彼の現実の生活、その人生の中に開けている楽しみであって、費長房のものでないということに留意すべきであると。

《後漢書》卷八十二下《方術傳·費長房傳》“費長房者,汝南人也。曾為市掾。市中有老翁賣藥,懸一壺於肆頭,及市罷,輒跳入壺中。……翁知長房之意其神也,……長房遂欲求道,而顧家人為憂。翁乃斷一青竹,度與長房身齊,使懸之舍後。家人見之,即長房形也,以為縊死,大小驚號,遂殯葬之。……長房辭歸,翁與一竹杖,曰:「騎此任所之,則自至矣。既至,可以杖投葛陂中也。」又為作一符,曰:「以此主地上鬼神。」長房乘杖,須臾來歸,自謂去家適經旬日,而已十餘年矣。……遂能醫療疾,鞭笞百鬼,及驅使社公。……後東海君來見葛陂君,因淫其夫人,於是長房劾繫之三年,而東海大旱。長房至海上,見其人請雨,乃謂之曰:「東海君有罪,吾前繫於葛陂,今方出之使作雨也。」於是雨立注。長房曾與人共行,見一書生黃巾被裘,無鞍騎馬,下而叩頭。長房曰:「還它馬,赦汝死罪。」人問其故,長房曰:「此狸也,盜社公馬耳。」又嘗坐客,而使至宛市鮓,須臾還,乃飯。或一日之閒,人見其在千里之外者數處焉。後失其符,為眾鬼所殺。”

(費長房は,汝南の人也。曾て市掾を為す。市中に老翁賣藥する有り,肆頭に一壺に懸り,市罷に及び,輒ち跳んで壺中に入る。……翁 長房の意、其の神を知る也,……長房 遂に道を求めんと欲す,而して家人をて憂を為す。翁 乃ち一び青竹を斷じ,度と長房とに身を齊し,之を懸け舍後とせん。家人 之を見,即ち長房の形なり,以て縊死と為す,大小 驚いて號し,遂に殯して之を葬す。……長房 辭して歸り,翁と一に竹杖す,曰く:「騎して此の任所に之く,則ちら自る至矣。既ち至って,以て葛陂の中に杖を投じすべしなり。」又 一符を作る為し,曰く:「以て此の主地は鬼神に上る。」長房 杖に乘り,須臾して來り歸えり,自謂う家を去って經旬に適く日,而して已に十餘年。……遂に能く醫療疾し,百鬼に鞭笞し,驅して社公に及ぶ。……後に東海君來り葛陂君を見る,因に其の夫人を淫し,是に於いて長房は劾繫すること之れ三年,而して東海大いに旱す。長房海上に至り,其人が雨を請うを見て,乃ち之を謂うて曰く:「東海君罪有り,吾 葛陂に前繫す,今 方に之に出づれば雨を作さしむるなり。」是に於て雨注き立つ。長房 曾て人に與え共に行き,一書を見て黃巾の被裘を生ず,騎馬するに鞍無く,下りて頭を叩く。長房曰く:「它馬還り,汝死罪を赦さる。」人問うて其れ故に,長房曰く:「此れ狸なり,社公の馬耳を盜む。」又嘗坐客し,而して宛市の鮓に至らしむ,須臾して還り,乃ち飯。或いは一日之を閒く,人は其れを見て 千里の外に在る者は數處なり。後に其の符を失い,眾鬼 殺す所と為す。)

に基づく。

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李白  《贈盧徵君昆弟》 明主訪賢逸,雲泉今已空。

二盧竟不起,萬乘高其風。 河上喜相得,壺中趣每同。

(高操の美といえる盧徵君兄弟を尊敬しこの詩を贈る。)

明主は上に在って、隠逸の賢者を訪求せられているけれど、漢のころからの徵君と称されるものは、たいてい召し出され、今や、山中雲がわく巌洞までもを探してもそういう人はいないであろう。しかし、ここに征士である盧徵君兄弟は、しばしば召されたが、ついに立たず、万乗の天子もその高風を称賞せられた。盧徵君兄弟は、昔の河上公とあい得て、定めて喜ばしく、また仙人が壺中に別世界を幻出するその趣と常々同一なのである。

743年(59)李太白集卷八36-#1《贈盧徵君昆弟》(明主訪賢逸,) 378Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-59) Ⅰ李白詩1729 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7185

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-59

卷別:    卷一六八              文體:    五言古詩

詩題:    贈盧徵君昆弟

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:盧徵君昆弟             書信往來

 

 

贈盧徵君昆弟 #1

(高操の美といえる盧徵君兄弟を尊敬しこの詩を贈る。)
明主訪賢逸,雲泉今已空。

明主は上に在って、隠逸の賢者を訪求せられているけれど、漢のころからの徵君と称されるものは、たいてい召し出され、今や、山中雲がわく巌洞までもを探してもそういう人はいないであろう。

二盧竟不起,萬乘高其風。

しかし、ここに征士である盧徵君兄弟は、しばしば召されたが、ついに立たず、万乗の天子もその高風を称賞せられた。

河上喜相得,壺中趣每同。

盧徵君兄弟は、昔の河上公とあい得て、定めて喜ばしく、また仙人が壺中に別世界を幻出するその趣と常々同一なのである。

 

滄州即此地,觀化遊無窮。

水落海上清,鼇背睹方蓬。

與君弄倒景,攜手凌星虹。

 

(盧徵君の昆弟に贈る)

明主 賢逸を訪い,雲泉 今 已に空し。

二盧 竟に起たず,萬乘 其の風を高し。

河上 相い得るを喜び,壺中 趣 每に同じゅうす。

#2

滄州 即ち此の地,化を觀て 無窮に遊ぶ。

水落ちて 海上清く,鼇背に 方蓬を睹る。

君と倒景を弄し,手を攜えて星虹を凌がん。

大明宮の圖003 

『贈盧徵君昆弟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

贈盧徵君昆弟

明主訪賢逸,雲泉今已空。

二盧竟不起,萬乘高其風。

河上喜相得,壺中趣每同。

滄州即此地,觀化遊無窮。

水落海上清,鼇背睹方蓬。

與君弄倒景,攜手凌星虹。

(下し文)
(盧徵君の昆弟に贈る)

明主 賢逸を訪い,雲泉 今 已に空し。

二盧 竟に起たず,萬乘 其の風を高し。

河上 相い得るを喜び,壺中 趣 每に同じゅうす。

滄州 即ち此の地,化を觀て 無窮に遊ぶ。

水落ちて 海上清く,鼇背に 方蓬を睹る。

君と倒景を弄し,手を攜えて星虹を凌がん。

(現代語訳)
贈盧徵君昆弟#1(高操の美といえる盧徵君兄弟を尊敬しこの詩を贈る。)

明主は上に在って、隠逸の賢者を訪求せられているけれど、漢のころからの徵君と称されるものは、たいてい召し出され、今や、山中雲がわく巌洞までもを探してもそういう人はいないであろう。

しかし、ここに征士である盧徵君兄弟は、しばしば召されたが、ついに立たず、万乗の天子もその高風を称賞せられた。

盧徵君兄弟は、昔の河上公とあい得て、定めて喜ばしく、また仙人が壺中に別世界を幻出するその趣と常々同一なのである。

滄州即此地,觀化遊無窮。

水落海上清,鼇背睹方蓬。

與君弄倒景,攜手凌星虹。
汜水関などの地図
(訳注)

贈盧徵君昆弟

(高操の美といえる盧徵君兄弟を尊敬しこの詩を贈る。)

1 盧徵君 盧鴻を征士の尊稱、徵君と号されたのと同じような人物として盧徵君兄弟をいう。《新唐書》卷一百九十六〈隱逸列傳盧鴻〉“盧鴻字顥然,其先幽州范陽人,徙洛陽。博學,善書籀。廬嵩山。玄宗開元初,備禮徵再,不至。五年,詔曰:「鴻有泰一之道,中庸之德,鉤深詣微,確乎自高。詔書屢下,每輒辭託,使朕虛心引領,于今數年。雖得素履幽人之介,而失考父滋恭之誼,豈朝廷之故與生殊趣邪?將縱欲山林,往而不能反乎?禮有大倫,君臣之義不可廢也。今城闕密邇,不足為勞,有司其齎束帛之具,重宣茲旨,想有以翻然易節,副朕意焉。」鴻至東都,謁見不拜,宰相遣通事舍人問狀,答曰:「禮者,忠信所薄,臣敢以忠信見。」帝召升殿,置酒。拜諫議大夫,固辭。復下制,許還山,給米百斛、絹五十,府縣為致其家,朝廷得失,其以狀聞。將行,賜隱居服,官營草堂,恩禮殊渥。鴻到山中,廣學廬,聚徒至五百人。及卒,帝賜萬錢。鴻所居室,自號寧極云。(盧鴻は字を顥然,其の先は幽州范陽の人,洛陽に徙【うつ】る。博學,善く籀を書す。嵩山に廬す。玄宗開元の初,禮を備えて徵すこと再,至らず。五年,詔して曰く:「鴻 泰一の道有り,中庸の德,詣微を鉤深し,確乎自ら高す。詔書屢ば下し,每に輒ち託を辭し,朕 虛をして心 領を引き,今に于て數年。素履 幽人の介を得ると雖も,而て父滋恭の誼を失考し,豈に朝廷に之き故に與生殊趣邪?將に山林に縱欲し,往き能反せずや?禮 大倫に有り,君臣の義 廢す可からざるなり。今 城闕密邇し,勞を為すに足らず,司有り其の齎 帛の具を束し,重ねて茲の旨を宣し,想う有り 以て翻然易節 朕の意を,副えんや。」鴻 東都に至り,謁見して拜せず,宰相 遣通事舍人問狀,答えて曰く:「禮者,忠信所薄,臣敢以忠信見。」帝 召して殿に升り,置酒す。諫議大夫に拜せらる,固辭す。復た制を下し,山に還えるを許し,米百斛、絹五十を給し,縣に府し 其の家に致るを為し,朝廷得失し,其れ以て狀聞す。將て行き,隱居の服を賜い,草堂を官營す,禮に恩渥をし殊にす。鴻 山中にり,廣く廬に學び,聚徒至五百人に。卒するに及び,帝 萬錢を賜う。鴻 居る所の室,自ら寧極と號すと云う。)

2 徵君, 征君  征士の尊稱。 《後漢書黃憲傳》「友人勸其仕, 憲亦不拒之, 暫到京師而還, 竟無所就。 年四十八終, 天下號曰徵君。」(友人 其の仕を勸む, 憲 亦た之を拒まず, 暫く京師に到りて還る, 竟に就く所無く。 年四十八にして終る, 天下に號して徵君と曰う。)

 

明主訪賢逸,雲泉今已空。

明主は上に在って、隠逸の賢者を訪求せられているけれど、漢のころからの徵君と称されるものは、たいてい召し出され、今や、山中雲がわく巌洞までもを探してもそういう人はいないであろう。

3 雲泉 雲が生じるのは、巌洞の泉湧くところであるということ。

 

二盧竟不起,萬乘高其風。

しかし、ここに征士である盧徵君兄弟は、しばしば召されたが、ついに立たず、万乗の天子もその高風を称賞せられた。

4 二盧 征士である盧徵君兄弟のこと。

5 萬乘 万乗の天子。

 

河上喜相得,壺中趣每同。

盧徵君兄弟は、昔の河上公とあい得て、定めて喜ばしく、また仙人が壺中に別世界を幻出するその趣と常々同一なのである。

6 河上 河上公。河上公とは如何なる人物であるのか。河上公注『老子』につけられた、葛玄の序という文章によると、河上公は姓名未詳。前漢の文帝の時に黄河の岸辺に隠居して、『老子』を読み解いていた。文帝は、河上公が『老子』に通じていると聞いて召し寄せようとしたが、「そんなことでは道や徳は教えられない」と河上公が上京を拒むので、しかたなく文帝みずからが出向いてその非礼を責めたところ、河上公は手を打ってふわりと虚空に浮かび上がり、自分は帝王の指図を受けぬと宣言する。そこで文帝は河上公が神人であると悟り、礼を尽くして教えを乞うたところ、河上公は『老子道徳経章句』二巻を文帝に授け、「これをよく研究すれば、『老子』は分かるだろう。余がこの経に注をつけて以来、千七百年になるが、伝授したのは、あなたを含めて四人だけだ。人には見せるな」と言った。伝授を終えると、河上公はどこかに消えた、と。葛玄の序はそのように説く。河上公もまた、謎に満ちた人物である。

神仙傳「河上公者,莫知其姓名也。漢孝文帝時,結草為庵於河之濱,常讀老子道德經。時文帝好老子之道,詔命諸王公大臣州牧在朝卿士,皆令誦之,不通老子經者,不得陛朝。帝於經中有疑義,人莫能通,侍郎裴楷奏雲:陜州河上有人誦老子。即遣詔使所疑義問之,公曰:「道尊德貴,非可遙問也。」帝即嘉幸詣之,公在庵中不出,帝使人謂之曰:「溥天之下,莫非王土,率土之濱,莫非王民,域中四大,而王居其一,子雖有道,猶朕民也,不能自屈,何乃高乎?朕能使民富貴貧賤。」須臾,公即拊掌坐躍,冉冉在空虛之中,去地百余尺,而止於虛空,良久,俛而答曰:「余上不至天,中不累人,下不居地,何民之有焉?君宜能令余富貴貧賤乎?」帝大驚,悟知是神人,方下輦稽首禮謝曰:「朕以不能,忝承先業,才小任大,憂於不堪,而誌奉道德,直以暗昧,多所不了,惟願道君垂湣,有以教之。」河上公即授素書老子道德章句二卷,謂帝曰:「熟研究之,所疑自解。余著此經以來,千七百余年,凡傳三人,連子四矣,勿視非人!」帝即拜跪受經,言畢,失公所在。遂於西山築臺望之,不復見矣。論者以為文帝雖耽尚大道,而心未純信,故示神變以悟帝,意欲成其道,時人因號河上公。」

神仙傳「河上公は,其の姓名を知る莫し也。漢の孝文帝の時,草を結び庵を河の濱を為る,常に老子は道德經を讀む。時に文帝 老子の道を好み,詔命して諸王公大臣州牧 朝卿士在り,皆 之を誦ぜ令む,老子經を通ぜざる者,陛朝を得ず。帝 經中に疑義有り,人は能く通ずること莫れ,侍郎裴楷 奏して雲う:陜州河上 人有り 老子を誦す。即ち遣詔使 疑義を所し 之を問う,公曰く:「道は尊く德は貴し,遙に問う可きに非ざる也。」と。帝 即ち嘉び幸にして之を詣し,公 庵中に在りて出でず,帝 人を使し 之を謂うて曰く:「溥天の下,王土非ざるは莫く,率土の濱,王民非ざるは莫し,域中四大,而して王居其一は,子 道有りと雖も,猶お朕の民なり,不能自屈,何乃高乎?朕能使民富貴貧賤。」と。須臾して,公 即ち掌を拊して坐躍すれば,冉冉として空虛の中に在り,地を去ること百余尺,而して虛空に止み,良久,俛して答えて曰く:「余 上 天に至らず,中 人に累せず,下 地に居らず,何の民か之れ有らんと?君 宜く能く余 富貴貧賤か?」と。帝 大いに驚き,是れ神人を悟知し,方に輦を下りて稽首し禮謝して曰く:「朕 以て能わず,忝承して先業し,才は小 任は大,憂 堪えず,而して誌は道德を奉り,直ちに以て暗昧し,多所 了らず,惟だ願うは道君垂湣,有 以て之を教う。」河上公 即ち素書、老子道德章句二卷を授け,帝に謂うて曰く:「熟して之を研究し,所疑 自ら解す。余 此經を著して以來,千七百余年,凡そ三人に傳え,子を連ねて四と,視る勿れ人に非らず!」帝 即ち拜跪して經を受け,言畢って,公在る所を失う。遂に 西山 臺を築き 之を望み,復た見るなし。論者 以て文帝を為し 耽すと雖も 尚お大道,而して心 未だ純信せず,故に神變を示し以て帝を悟り,意 其の道を成さんと欲し,時に人に因り河上公と號す。」と。

7 壺中趣  壺中有天。 現実の世俗的生活の中に自らが創っている別天地。自分だけの時間と世界をもてる幸せを大切にしたいもの。後漢書に「費長房が役所の二階から何気なく町中の老商人を眺めていた。仕事を終えた老商人があたりを見回し、ポンと壺に入り込んでしまった。不思議に思った彼が翌日、老商人を問い詰めた。『見られたか。じゃ仕方がない。ついておいで』と大きな壷の中に誘った。壷の中は彼が見たこともない別天地だった。」という故事による。老商人の壺中有天は、彼の現実の生活、その人生の中に開けている楽しみであって、費長房のものでないということに留意すべきであると。
京兆地域図002洛陽 函谷関 嵩山005

《後漢書》卷八十二下《方術傳·費長房傳》“費長房者,汝南人也。曾為市掾。市中有老翁賣藥,懸一壺於肆頭,及市罷,輒跳入壺中。……翁知長房之意其神也,……長房遂欲求道,而顧家人為憂。翁乃斷一青竹,度與長房身齊,使懸之舍後。家人見之,即長房形也,以為縊死,大小驚號,遂殯葬之。……長房辭歸,翁與一竹杖,曰:「騎此任所之,則自至矣。既至,可以杖投葛陂中也。」又為作一符,曰:「以此主地上鬼神。」長房乘杖,須臾來歸,自謂去家適經旬日,而已十餘年矣。……遂能醫療疾,鞭笞百鬼,及驅使社公。……後東海君來見葛陂君,因淫其夫人,於是長房劾繫之三年,而東海大旱。長房至海上,見其人請雨,乃謂之曰:「東海君有罪,吾前繫於葛陂,今方出之使作雨也。」於是雨立注。長房曾與人共行,見一書生黃巾被裘,無鞍騎馬,下而叩頭。長房曰:「還它馬,赦汝死罪。」人問其故,長房曰:「此狸也,盜社公馬耳。」又嘗坐客,而使至宛市鮓,須臾還,乃飯。或一日之閒,人見其在千里之外者數處焉。後失其符,為眾鬼所殺。”

(費長房は,汝南の人也。曾て市掾を為す。市中に老翁賣藥する有り,肆頭に一壺に懸り,市罷に及び,輒ち跳んで壺中に入る。……翁 長房の意、其の神を知る也,……長房 遂に道を求めんと欲す,而して家人をて憂を為す。翁 乃ち一び青竹を斷じ,度と長房とに身を齊し,之を懸け舍後とせん。家人 之を見,即ち長房の形なり,以て縊死と為す,大小 驚いて號し,遂に殯して之を葬す。……長房 辭して歸り,翁と一に竹杖す,曰く:「騎して此の任所に之く,則ちら自る至矣。既ち至って,以て葛陂の中に杖を投じすべしなり。」又 一符を作る為し,曰く:「以て此の主地は鬼神に上る。」長房 杖に乘り,須臾して來り歸えり,自謂う家を去って經旬に適く日,而して已に十餘年。……遂に能く醫療疾し,百鬼に鞭笞し,驅して社公に及ぶ。……後に東海君來り葛陂君を見る,因に其の夫人を淫し,是に於いて長房は劾繫すること之れ三年,而して東海大いに旱す。長房海上に至り,其人が雨を請うを見て,乃ち之を謂うて曰く:「東海君罪有り,吾 葛陂に前繫す,今 方に之に出づれば雨を作さしむるなり。」是に於て雨注き立つ。長房 曾て人に與え共に行き,一書を見て黃巾の被裘を生ず,騎馬するに鞍無く,下りて頭を叩く。長房曰く:「它馬還り,汝死罪を赦さる。」人問うて其れ故に,長房曰く:「此れ狸なり,社公の馬耳を盜む。」又嘗坐客し,而して宛市の鮓に至らしむ,須臾して還り,乃ち飯。或いは一日之を閒く,人は其れを見て 千里の外に在る者は數處なり。後に其の符を失い,眾鬼 殺す所と為す。)

に基づく。


743年(58)李太白集巻八22-《贈郭將軍》(將軍少年出武威,) 377Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(58) Ⅰ李白詩1729 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7185

李白  贈郭將軍

將軍少年出武威,入掌銀臺護紫微。平明拂劍朝天去,薄暮垂鞭醉酒歸。

愛子臨風吹玉笛,美人向月舞羅衣。疇昔雄豪如夢裡,相逢且欲醉春暉。

(郭子儀将軍に贈る詩)

将軍は血気盛んな青年期に西域武威より来たって朝廷に出仕し、やがて銀臺門を掌って、紫微を護衛することになる。かくて、夜明けのころ、剣を拂い、それから、宮闕にはいってゆき、夕暮れになると、鞭を垂れ、酒に酔い、静かに馬を歩ませて帰ってゆく。家に着くと、愛子は風に臨んで、玉笛を吹き、美人は、羅衣をつけて月華に舞う、歌舞の趣と興を風流に楽しむ。そのむかしは、雄豪をもって世に名を鳴しめたものだが、それはもはやゆめとしたものであるが、いまでは閑職に居て相変わらず御奉公をなされている。そこで、何時か日を決め、春の日差しの中で一緒に酒を飲み友に酔いたいものと思って居るところである。

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  2016年1月15日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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年:743年天寶二年43歳 94-58

卷別:    卷一六八              文體:    七言律詩

詩題:    贈郭將軍

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              涼州 (隴右道東部 涼州 涼州) 別名:武威、武威郡      

銀臺門 (京畿道 京兆府 長安)           

紫微殿 (京畿道 京兆府 長安)           

交遊人物/地點:郭將軍      書信往來

 

 

贈郭將軍

(郭子儀将軍に贈る詩)

將軍少年出武威,入掌銀臺護紫微。

将軍は血気盛んな青年期に西域武威より来たって朝廷に出仕し、やがて銀臺門を掌って、紫微を護衛することになる。

平明拂劍朝天去,薄暮垂鞭醉酒歸。

かくて、夜明けのころ、剣を拂い、それから、宮闕にはいってゆき、夕暮れになると、鞭を垂れ、酒に酔い、静かに馬を歩ませて帰ってゆく。

愛子臨風吹玉笛,美人向月舞羅衣。

家に着くと、愛子は風に臨んで、玉笛を吹き、美人は、羅衣をつけて月華に舞う、歌舞の趣と興を風流に楽しむ。

疇昔雄豪如夢裡,相逢且欲醉春暉。

そのむかしは、雄豪をもって世に名を鳴しめたものだが、それはもはやゆめとしたものであるが、いまでは閑職に居て相変わらず御奉公をなされている。そこで、何時か日を決め、春の日差しの中で一緒に酒を飲み友に酔いたいものと思って居るところである。

(郭將軍に贈る)

將軍 少年に武威に出で,銀臺に入り掌て紫微を護す。

平明 劍を拂って天に朝して去り,薄暮 鞭を垂れて 酒に醉うて歸る。

愛子 風に臨んで玉笛を吹き,美人 月に向って羅衣を舞わしむ。

疇昔 雄豪 夢裡の如し,相逢う 且つ春暉に醉んと欲す。

大明宮の圖003 

 

『贈郭將軍』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

贈郭將軍

將軍少年出武威,入掌銀臺護紫微。

平明拂劍朝天去,薄暮垂鞭醉酒歸。

愛子臨風吹玉笛,美人向月舞羅衣。

疇昔雄豪如夢裡,相逢且欲醉春暉。
詩文(含異文)     將軍少年出武威【將軍豪蕩有英威】,入掌銀臺護紫微【昔掌銀臺護紫微】。平明拂劍朝天去,薄暮垂鞭醉酒歸。愛子臨風吹玉笛,美人向月舞羅衣。疇昔雄豪如夢裡,相逢且欲醉春暉【今日相逢俱失路,何年灞上弄春暉】。


(下し文)
(郭將軍に贈る)

將軍 少年に武威に出で,銀臺に入り掌て紫微を護す。

平明 劍を拂って天に朝して去り,薄暮 鞭を垂れて 酒に醉うて歸る。

愛子 風に臨んで玉笛を吹き,美人 月に向って羅衣を舞わしむ。

疇昔 雄豪 夢裡の如し,相逢う 且つ春暉に醉んと欲す。

(現代語訳)
(郭子儀将軍に贈る詩)

将軍は血気盛んな青年期に西域武威より来たって朝廷に出仕し、やがて銀臺門を掌って、紫微を護衛することになる。

かくて、夜明けのころ、剣を拂い、それから、宮闕にはいってゆき、夕暮れになると、鞭を垂れ、酒に酔い、静かに馬を歩ませて帰ってゆく。

家に着くと、愛子は風に臨んで、玉笛を吹き、美人は、羅衣をつけて月華に舞う、歌舞の趣と興を風流に楽しむ。

そのむかしは、雄豪をもって世に名を鳴しめたものだが、それはもはやゆめとしたものであるが、いまでは閑職に居て相変わらず御奉公をなされている。そこで、何時か日を決め、春の日差しの中で一緒に酒を飲み友に酔いたいものと思って居るところである。

長安城図 作図00
(訳注)

贈郭將軍

(郭子儀将軍に贈る詩)

郭子儀(かく しぎ、697 - 781年)は、中国、唐朝に仕えた軍人・政治家。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた。客家人[要出典]。安史の乱で大功を立て、以後よく異民族の侵入を防いだ。盛唐〜中唐期を代表する名将。憲宗(在位805 - 820年)の皇后郭氏は子儀の孫である。郭子儀 史書をひともいても、出生はもちろん幼少年期から青壮年期に至るまで、その来歴はほとんど記録に残されていない。地方長官の子息であったが、早くに父を喪ったのか、「蔭官」(父祖の功によって官職に就くこと)によって政界入りを果たした形跡はなく、武挙(官僚を選ぶ科挙と同じく武官を選ぶ試験)において優秀と認められて仕官を果たすが(新書・本伝「武挙の異等なるを以て左衛長史に補さる」および徐松 /孟二冬 補正『登科記考補正』巻27)、その後、単于副都護、振遠軍使に累進していったのは、おそらく中年期以降のことであろうと推測されるだけである。

唐代のみならず中国史上の大人物であり、後世画題として珍重されるほど有名人となるが、このように典型的な晩成型の人物であった。史書によると、玄宗の天宝8年(749年)に木剌山に横塞軍と安北都護府を設置した際、横塞軍使に命じられているのが、年号の確認できる最も早い時期の経歴であり、ときに既に53歳であった。李吉甫撰『元和郡県図志』巻4・天徳軍の条によると、「天宝八年、張斉丘 又た西可敦城に横塞軍を置き、又た中受降城より横塞軍を移して理む」と見え、呉廷燮撰『唐方鎮年表』(以下「年表」という)巻1によると、翌天宝9年まで節度使であった張斉丘(あるいは「張斉邱」とも)の配下にあったようである。

李白は安史の乱では粛宗の弟の永王李璘に従ったが、永王が叛いたためにその臣下であった李白もまた囚われの身となり、罪に服すこととなったが、郭子儀は李白の無罪を説いて李白の助命を請うた。そのため、死罪から流罪に軽減された。郭子儀は若年のころに、李白に命を救われたことがあったという。

 

將軍少年出武威,入掌銀臺護紫微。

将軍は血気盛んな青年期に西域武威より来たって朝廷に出仕し、やがて銀臺門を掌って、紫微を護衛することになる。

銀臺 銀臺門, 宮門名。 唐の時、翰林院、學士院は銀台門の附近に在る,後因銀台門を以て代て翰林院を指す。 李白 《贈從弟南平太守之遙》詩之一:承恩初入 銀臺門 著書獨在金鑾殿。(恩を承()けて初めて 入る銀台門、書を著してひとり金鑾殿にあり。天子に翰林の役を仰せつかって初めて銀台門を通過でき翰林院に入れる。書をしたためるとそれを天子のいる金鑾殿に一人で持参できるのだ。

紫微 紫微垣(しびえん)のことで、古代中国天文学において天球上を3区画に分けた三垣の中垣をいう。天の北極を中心とした広い天区、あるいはその主体となった星官(星座)のことを指す場合もある。「紫微」「紫微宮(しびきゅう)」「紫宮(しきゅう)」「紫垣(しえん)」ともいい、天帝の在所とされたため、転じて皇宮、朝廷の異称ともなった。

星官としての紫微垣は、天における中央の宮殿を囲う藩垣(城壁)の形に象っており、その中枢には天の北極が位置する。

 

平明拂劍朝天去,薄暮垂鞭醉酒歸。

かくて、夜明けのころ、剣を拂い、それから、宮闕にはいってゆき、夕暮れになると、鞭を垂れ、酒に酔い、静かに馬を歩ませて帰ってゆく。

 

愛子臨風吹玉笛,美人向月舞羅衣。

家に着くと、愛子は風に臨んで、玉笛を吹き、美人は、羅衣をつけて月華に舞う、歌舞の趣と興を風流に楽しむ。

舞羅衣 霓裳羽衣の曲 唐の玄宗が楊玉環のために作ったとされる曲。霓裳羽衣の曲は玄宗が婆羅門系の音楽をアレンジした曲と言われる。玄宗は愛妾である楊玉環のお披露目の際、この曲を群臣に披露し、群臣に楊玉環が特別な存在であると意識させた。

『霓裳羽衣舞』は唐代舞踊を代表する演目で、「霓裳」とは虹のように美しいもすそ(スカート)、「羽衣」は鳥の羽のように軽い衣のこと。唐の玄宗皇帝が夢のなかで天上の月宮に遊び、仙女が舞っていた調べをもとに作った。

楽史「楊太真外伝」によると、玄宗が三郷駅に登り、女几山を望んだ時に作曲したものである説と、玄宗が、仙人の羅公遠に連れられ、月宮に行き、仙女が舞っていた曲の調べをおぼえて作らせた説双方が記されている。楊貴妃もこれに合わせて、舞うのを得意としたという。しかし、玄宗期に起こった安史の乱以降、この曲は国を傾けた不祥の曲であると忌まれ、楽譜も散逸してしまった。 白居易の「長恨歌」にも曲名が登場する。「漁陽鼙鼓動地來、驚破霓裳羽衣曲。」(漁陽の鼙鼓【へいこ】 地を動【どよ】もして来たり、驚破す 霓裳羽衣の曲。)

 

疇昔雄豪如夢裡,相逢且欲醉春暉。

そのむかしは、雄豪をもって世に名を鳴しめたものだが、それはもはやゆめとしたものであるが、いまでは閑職に居て相変わらず御奉公をなされている。そこで、何時か日を決め、春の日差しの中で一緒に酒を飲み友に酔いたいものと思って居るところである。

疇昔 過去のある日。昔。また,昨日。《文選.左思.詠史詩八首之一》:「雖非甲冑士,疇昔覽穰苴。」(甲冑の士に非ずと雖も,疇昔には穰苴を覽たり。)我は甲冑をつける武人ではないが、かねて穰苴の兵法書を読み心得ている。

雄豪 雄々しく強いこと。また、その人や、そのさま。

夢裡 夢の中。夢中。

春暉 春の太陽の光。
安史の乱期 勢力図 002 

李白308 《巻八24溫泉侍從歸逢故人》Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白308> Ⅰ李白詩1611 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6603

李白  溫泉侍從歸逢故人  

漢帝長楊苑,誇胡羽獵歸。子雲叨侍從,獻賦有光輝。

激賞搖天筆,承恩賜御衣。逢君奏明主,他日共翻飛。
(温泉宮に侍従しその帰り際に旧知の人にあったから賦し示した)

むかし、漢の武帝は胡人に誇るのに、禽獣が多いにいることをしめそうと、長楊苑で羽獵を催され、猛々しい獣や鳥の狩りを持ち帰った。その時、お供をしていた楊雄は畏れ多くも、その行に陪従し、羽獵の帰後、「長楊賦」を献上し、大いに面目を施したというところであった。詩人は揚雄のように行幸に侍従したら、御自ら筆をとり、激賞されねばなるまいし、恩を受けて、御衣冠を賜れ、以後寵愛を受けるのである。かくて、君に出逢った上は、君のことを天子皇帝に奏上し、しかるべき地位を賜るように一肌脱いで大いにあっせんし、他日、君とともに青雲の上に翻飛するようにいたそうと思っているところである。
李白308 《巻八24溫泉侍從歸逢故人》Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42 18首 <李白308> Ⅰ李白詩1611 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6603

 

 
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年:742年天寶元年42 18

卷別:    卷一六八              文體:    五言律詩

詩題:    溫泉侍從歸逢故人

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              溫泉宮 (京畿道 京兆府 驪山) 別名:溫泉      

長楊宮 (京畿道 京兆府 )           

 

 

溫泉侍從歸逢故人

(温泉宮に侍従しその帰り際に旧知の人にあったから賦し示した)

漢帝長楊苑,誇胡羽獵歸。

むかし、漢の武帝は胡人に誇るのに、禽獣が多いにいることをしめそうと、長楊苑で羽獵を催され、猛々しい獣や鳥の狩りを持ち帰った。
子雲叨侍從,獻賦有光輝。

その時、お供をしていた楊雄は畏れ多くも、その行に陪従し、羽獵の帰後、「長楊賦」を献上し、大いに面目を施したというところであった。
激賞搖天筆,承恩賜御衣。

詩人は揚雄のように行幸に侍従したら、御自ら筆をとり、激賞されねばなるまいし、恩を受けて、御衣冠を賜れ、以後寵愛を受けるのである。
逢君奏明主,他日共翻飛。

かくて、君に出逢った上は、君のことを天子皇帝に奏上し、しかるべき地位を賜るように一肌脱いで大いにあっせんし、他日、君とともに青雲の上に翻飛するようにいたそうと思っているところである。

(溫泉に侍從して歸って故人に逢う)

漢帝の長楊苑,胡に誇って 羽獵して歸る。

子雲 叨りに侍從,賦を獻じて 光輝有り。

激賞 天筆を搖かし,恩を承けて 御衣を賜う。

君に逢うて 明主に奏し,他日 共に翻飛せん。

『溫泉侍從歸逢故人』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

溫泉侍從歸逢故人

漢帝長楊苑,誇胡羽獵歸。

子雲叨侍從,獻賦有光輝。

激賞搖天筆,承恩賜御衣。

逢君奏明主,他日共翻飛。

(下し文)
(溫泉に侍從して歸って故人に逢う)

漢帝の長楊苑,胡に誇って 羽獵して歸る。

子雲 叨りに侍從,賦を獻じて 光輝有り。

激賞 天筆を搖かし,恩を承けて 御衣を賜う。

君に逢うて 明主に奏し,他日 共に翻飛せん。

(現代語訳)
(温泉宮に侍従しその帰り際に旧知の人にあったから賦し示した)

むかし、漢の武帝は胡人に誇るのに、禽獣が多いにいることをしめそうと、長楊苑で羽獵を催され、猛々しい獣や鳥の狩りを持ち帰った。
その時、お供をしていた楊雄は畏れ多くも、その行に陪従し、羽獵の帰後、「長楊賦」を献上し、大いに面目を施したというところであった。
詩人は揚雄のように行幸に侍従したら、御自ら筆をとり、激賞されねばなるまいし、恩を受けて、御衣冠を賜れ、以後寵愛を受けるのである。
かくて、君に出逢った上は、君のことを天子皇帝に奏上し、しかるべき地位を賜るように一肌脱いで大いにあっせんし、他日、君とともに青雲の上に翻飛するようにいたそうと思っているところである。

(訳注)

溫泉侍從歸逢故人

(温泉宮に侍従しその帰り際に旧知の人にあったから賦し示した)

李白307 《巻八 23駕去溫泉後贈楊山人》と同じ時期の作である。

李白は宮廷に召され、高官からも厚遇され、絶頂を迎えている。漢の武帝の時、楊雄もかなり年を取ってから朝廷に上がり、寵愛されている。楊雄を自分に重ねていたのだろう。国政にも参画していい助言をしたいものと考えていたようだ。しかし、玄宗は、必ずしも国政に李白を参与させるという意図を最初からもってはいない。李白の優れた詩才を愛して、文人としての才能を重要視しただけなのである。華やかな宮廷生活に興趣を添える人として李白を迎えたようである。玄宗の関心は楊貴妃にあり、国政にかかる事務までも任せきる状況であった。

 

漢帝長楊苑,誇胡羽獵歸。

むかし、漢の武帝は胡人に誇るのに、禽獣が多いにいることをしめそうと、長楊苑で羽獵を催され、猛々しい獣や鳥の狩りを持ち帰った。
漢帝 漢の武帝。

長楊苑 揚雄《長楊賦序》「上將大誇胡人以多禽獸,秋,命右扶風發民入南山,西自褒斜,東至弘農,南敺漢中,張羅罔罝罘,捕熊羆豪豬虎豹狖玃狐菟麋鹿,載以檻車,輸長楊射熊館。以網為周阹,縱禽獸其中,令胡人手搏之,自取其獲,上親臨觀焉。是時,農民不得收斂。雄從至射熊館,還,上長楊賦」(上、將に大いに胡人に誇るに禽獸の多きを以ってせんとし,秋,右扶風に命じ、民を發って南山に入り,西は褒斜自り,東は弘農に至り,南は漢中を敺り,羅罔の罝罘を張り,熊羆・豪豬・虎豹・狖玃・狐菟・麋鹿を捕え,載するに檻車を以ってす,長楊 射熊館に輸す。網を以って周阹と為し,禽獸を其の中に縱ち,胡人を令て手もて之を搏ち,自ら其獲を取らしめ,上 親ら臨み觀る。是の時,農民收斂するを得ず。雄 從って射熊館に至り,還って,長楊賦を上る。)とある。

誇胡 北方異民族に対して誇ること。

羽獵 鳥類の狩猟。楊雄の賦にあるのでそれを示す。

 

子雲叨侍從,獻賦有光輝。

その時、お供をしていた楊雄は畏れ多くも、その行に陪従し、羽獵の帰後、「長楊賦」を献上し、大いに面目を施したというところであった。
子雲 漢の文人。揚雄、あざなは子雲。前漢の末期、紀元前一世紀、蜀(四川)の成都の人。学問だけが好きで、それ以外の欲望は全くなく、財産もあまりなかったが満足していた。ドモリで議論ができなかったので、よく読書し、沈思黙考した。成帝の時、承明宮に召されて、甘泉、河東、長楊、羽猟の四つの賦を奏上した。かれの著書はすべて古典の模倣で、「易」に似せて「太玄経」を作り、「論語に似せて「法言」を作った。かれは晩年、ある事件の巻き添えで、疑われて逮捕されようとしたとき、天禄閣という建物の中で書物調べに没頭していたので、驚きあわてて閣上から飛び降りて、あやうく死にかけた。

揚雄 《甘泉賦 序》 文選  詩<107>Ⅱ李白に影響を与えた詩854 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2818

 むさぼる。身分不相応。恐れ多い。 

侍從 君主のおそばに同行する。

 

激賞搖天筆,承恩賜御衣。

詩人は揚雄のように行幸に侍従したら、御自ら筆をとり、激賞されねばなるまいし、恩を受けて、御衣冠を賜れ、以後寵愛を受けるのである。
御衣 冠位。この二句は、李白《古風,五十九首之八》「意氣人所仰。 冶游方及時。 子云不曉事。 晚獻長楊辭。」(意氣 人の仰ぐ所、冶游【やゆう】方【まさ】 に時に及ぶ。子云 事を曉【さと】らず、晚に獻ず 長楊の辭。)古風其八にと同様の内容。

Index-32 #2 《古風五十九首之八》Index-32-7 753年天寶十二年53歳 梁苑にいて、秋、曹南から宜城、黄山から当塗で年越580Ⅰ李白詩1156 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4328

 

逢君奏明主,他日共翻飛。

かくて、君に出逢った上は、君のことを天子皇帝に奏上し、しかるべき地位を賜るように一肌脱いで大いにあっせんし、他日、君とともに青雲の上に翻飛するようにいたそうと思っているところである。
奏明主 秦の名君である玄宗皇帝を指す。

他日 きのうまでのこと。これから先の日。いつか。

李白307-#2 《巻八 23駕去溫泉後贈楊山人》#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白307-#2> Ⅰ李白詩1610 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6598

李白  駕去溫泉後贈楊山人#2   

幸陪鸞輦出鴻都,身騎飛龍天馬駒。王公大人借顏色,金璋紫綬來相趨。

當時結交何紛紛,片言道合惟有君。待吾盡節報明主,然後相攜臥白雲。
幸いにも今や鴻都門學ではない私の考えを認めていただき天子のみ車にしたがってお供する栄誉を与えてもらうことになった。そして、飛竜天馬の厩に飼っている良馬を授かり、これに騎乗することになる。 そうなると王公大人といわれる高位高官の人も顔を和らげて、下にも置かず、丁重に扱ってくれるし、金璋紫綬の大臣・将軍たち、貴顕のものも、小走りで面会にやってきて  こころよく会ってくれる。これまで交わりを結んだ人は紛紛としてすこぶる多くいるが、、ただちょっとばかり話をしただけのもので、主持するところが合致するのは陽山人だけであり、「道義の交わり」を結ぶに足るものである。私が忠節をつくし君に仕える務めを尽くし、ひとかどの功業を立てて後、辞して世外の閒人となり、君と会い携えて、白雲に起臥するつもりであるから、ともに語りあおうではないか、それまで待っていてくれたまえ。

李白307-#2 《巻八 23駕去溫泉後贈楊山人》#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42 18首 <李白307-#2> Ⅰ李白詩1610 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6598

 

 

 
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年:742年天寶元年42 18

卷別:    卷一六八              文體:    七言古詩

詩題:    駕去溫泉後贈楊山人

作地點:              驪山(京畿道 / 京兆府 / 驪山)

及地點:              溫泉宮 (京畿道 京兆府 驪山) 別名:溫泉      

交遊人物/地點:楊山人      書信往來(京畿道 京兆府 驪山)

 

 

駕去溫泉後贈楊山人

(驪山に隠遁しているのなら、ちょうど温泉宮があるからそこより車駕に乗って去ってゆく陽山人にこの詩を贈る。)

少年落魄楚漢間,風塵蕭瑟多苦顏。

われは、少年のころ、古の酈食其が楚漢争闘の間に落魄していたと同じように、とかく不遇で、落ちぶれていたから、蕭瑟である風塵の底のほうに燻って、苦しんだ顔をしていた。

自言管葛竟誰許,長吁莫錯還閉關。

自分では、管仲、諸葛亮に比すべき才幹があると思っているが、だれもそう思ってくれなかったから嘆息を禁じえず、やがて時を過たず、幽居に帰り、門を閉じて、高臥していた。

一朝君王垂拂拭,剖心輸丹雪胸臆。

ある朝突然に、長く匣底にしまっておいた剣を拂拭すると同じく君王から召喚されれば、赤心を開いて胸憶に蓄えてある事々を残らず開陳することである。

忽蒙白日回景光,直上青雲生羽翼。

こうして、御意にかない、白日の景光を回らすがごとく、直ちに羽翼を生じて青雲に飛び上がることになる。

#2

幸陪鸞輦出鴻都,身騎飛龍天馬駒。

幸いにも今や鴻都門學ではない私の考えを認めていただき天子のみ車にしたがってお供する栄誉を与えてもらうことになった。そして、飛竜天馬の厩に飼っている良馬を授かり、これに騎乗することになる。
王公大人借顏色,金璋紫綬來相趨。

そうなると王公大人といわれる高位高官の人も顔を和らげて、下にも置かず、丁重に扱ってくれるし、金璋紫綬の大臣・将軍たち、貴顕のものも、小走りで面会にやってきて  こころよく会ってくれる。

當時結交何紛紛,片言道合惟有君。

これまで交わりを結んだ人は紛紛としてすこぶる多くいるが、、ただちょっとばかり話をしただけのもので、主持するところが合致するのは陽山人だけであり、「道義の交わり」を結ぶに足るものである。

待吾盡節報明主,然後相攜臥白雲。

私が忠節をつくし君に仕える務めを尽くし、ひとかどの功業を立てて後、辞して世外の閒人となり、君と会い携えて、白雲に起臥するつもりであるから、ともに語りあおうではないか、それまで待っていてくれたまえ。

(駕が温泉宮を去るの後 楊山人に贈る)

少年  落托(らくたく)す  楚漢(そかん)の間、風塵  蕭瑟として苦顔多し。

自ら言う  介蠆(かいまん)竟に誰か許さんと、長吁 莫錯(ばくさく)として還りて関を閉ず。

一朝  君王  払拭を垂れ、心を剖【さ】き丹を輸【いた】して 胸臆を雪【すす】ぐ。

忽ち白日の景光を廻らすを蒙【こうむ】り、直ちに青雲に上って羽翼を生ず。

#2

幸に鸞輦【らんれん】に陪して鴻都を出で、身は騎る 飛龍 天馬の駒。

王公大人 顔色を借し、金章紫綬 来りて相い趨る。

当時 交りを結ぶ 何ぞ紛紛、片言 道合す 唯だ君有り。

吾が節を尽くして明主に報ずるを待って、然る後 相い攜えて白雲に臥せん。

 

 

『駕去溫泉後贈楊山人』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

幸陪鸞輦出鴻都,身騎飛龍天馬駒。

王公大人借顏色,金璋紫綬來相趨。

當時結交何紛紛,片言道合惟有君。

待吾盡節報明主,然後相攜臥白雲。

(下し文)
#2

幸に鸞輦【らんれん】に陪して鴻都を出で、身は騎る 飛龍 天馬の駒。

王公大人 顔色を借し、金章紫綬 来りて相い趨る。

当時 交りを結ぶ 何ぞ紛紛、片言 道合す 唯だ君有り。

吾が節を尽くして明主に報ずるを待って、然る後 相い攜えて白雲に臥せん。

(現代語訳) #2

幸いにも今や鴻都門學ではない私の考えを認めていただき天子のみ車にしたがってお供する栄誉を与えてもらうことになった。そして、飛竜天馬の厩に飼っている良馬を授かり、これに騎乗することになる。
そうなると王公大人といわれる高位高官の人も顔を和らげて、下にも置かず、丁重に扱ってくれるし、金璋紫綬の大臣・将軍たち、貴顕のものも、小走りで面会にやってきて  こころよく会ってくれる。

これまで交わりを結んだ人は紛紛としてすこぶる多くいるが、、ただちょっとばかり話をしただけのもので、主持するところが合致するのは陽山人だけであり、「道義の交わり」を結ぶに足るものである。

私が忠節をつくし君に仕える務めを尽くし、ひとかどの功業を立てて後、辞して世外の閒人となり、君と会い携えて、白雲に起臥するつもりであるから、ともに語りあおうではないか、それまで待っていてくれたまえ。


(訳注) #2

駕去溫泉後贈楊山人

(驪山に隠遁しているのなら、ちょうど温泉宮があるからそこより車駕に乗って去ってゆく陽山人にこの詩を贈る。)

溫泉 温泉宮。驪山の華清宮にある。《唐書》「京兆府昭應縣木新豐有宮旗國山下天寶二年分新豐萬年置舍昌繇七載肖新豐改會圄為胎應治溫泉宮  開元十一年置溫泉宮,天寶六載改為華清宮於驪山上,益治湯井為池,臺殿環列山谷。自開元來,每 ...... 是年,改溫泉曰華清宮,治湯井為池,環山列宮室,又築羅城,置百司及十宅。」

楊山人 驪山の近傍に隠れていたものである。

309巻八23  駕去溫泉后贈楊山人

少年落魄楚漢間

506卷十五09送楊山人歸天台

客有思天台。

557卷十六60送楊山人歸嵩山

我有萬古宅。

 

 

幸陪鸞輦出鴻都,身騎飛龍天馬駒。

幸いにも今や鴻都門學ではない私の考えを認めていただき天子のみ車にしたがってお供する栄誉を与えてもらうことになった。そして、飛竜天馬の厩に飼っている良馬を授かり、これに騎乗することになる。
鸞輦 鸞の模様で飾られた天子の輦。 

出鴻都 後漢の霊帝時代、儒学者たちの集まりを鴻都門学派といった。この学派が皇帝により庇護されていたものが、批判を受けた。儒教の考えから出でている自分を天子がお認めになっている。

天馬駒 天使より貸し与えられた馬のこと。長借馬。翰林志「唐制度、学士初めて院に入れば、中厩の馬一頭を賜い、これを長借馬という。」とある。

 

王公大人借顏色,金璋紫綬來相趨。

そうなると王公大人といわれる高位高官の人も顔を和らげて、下にも置かず、丁重に扱ってくれるし、金璋紫綬の大臣・将軍たち、貴顕のものも、小走りで面会にやってきて  こころよく会ってくれる。

○金璋紫綬 銅の印に紫の綬。《太平御覽·驃騎將軍》「驃騎將軍,漢官也,長史、司馬各一人,金璋、紫綬,五時朝服,武冠,佩山玄玉。」

 

當時結交何紛紛,片言道合惟有君。

これまで交わりを結んだ人は紛紛としてすこぶる多くいるが、、ただちょっとばかり話をしただけのもので、主持するところが合致するのは陽山人だけであり、「道義の交わり」を結ぶに足るものである。

○紛紛 入り乱れてまとまりのないさま。

 

待吾盡節報明主,然後相攜臥白雲。

私が忠節をつくし君に仕える務めを尽くし、ひとかどの功業を立てて後、辞して世外の閒人となり、君と会い携えて、白雲に起臥するつもりであるから、ともに語りあおうではないか、それまで待っていてくれたまえ。

 

(駕が温泉宮を去るの後 楊山人に贈る)

少年  落托(らくたく)す  楚漢(そかん)の間、風塵  蕭瑟として苦顔多し。

自ら言う  介蠆(かいまん)竟に誰か許さんと、長吁 莫錯(ばくさく)として還りて関を閉ず。

一朝  君王  払拭を垂れ、心を剖【さ】き丹を輸【いた】して 胸臆を雪【すす】ぐ。

忽ち白日の景光を廻らすを蒙【こうむ】り、直ちに青雲に上って羽翼を生ず。

 

幸に鸞輦【らんれん】に陪して鴻都を出で、身は騎る 飛龍 天馬の駒。

王公大人 顔色を借し、金章紫綬 来りて相い趨る。

当時 交りを結ぶ 何ぞ紛紛、片言 道合す 唯だ君有り。

吾が節を尽くして明主に報ずるを待って、然る後 相い攜えて白雲に臥せん。

李白307-#1 《巻八 23駕去溫泉後贈楊山人》#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白307-#1> Ⅰ李白詩1609 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6593

駕去溫泉後贈楊山人-#1

少年落魄楚漢間,風塵蕭瑟多苦顏。自言管葛竟誰許,長吁莫錯還閉關。

一朝君王垂拂拭,剖心輸丹雪胸臆。忽蒙白日回景光,直上青雲生羽翼。
(驪山に隠遁しているのなら、ちょうど温泉宮があるからそこより車駕に乗って去ってゆく陽山人にこの詩を贈る。)

われは、少年のころ、古の酈食其が楚漢争闘の間に落魄していたと同じように、とかく不遇で、落ちぶれていたから、蕭瑟である風塵の底のほうに燻って、苦しんだ顔をしていた。自分では、管仲、諸葛亮に比すべき才幹があると思っているが、だれもそう思ってくれなかったから嘆息を禁じえず、やがて時を過たず、幽居に帰り、門を閉じて、高臥していた。ある朝突然に、長く匣底にしまっておいた剣を拂拭すると同じく君王から召喚されれば、赤心を開いて胸憶に蓄えてある事々を残らず開陳することである。こうして、御意にかない、白日の景光を回らすがごとく、直ちに羽翼を生じて青雲に飛び上がることになる。

李白307-#1 《巻八 23駕去溫泉後贈楊山人》#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42 18首 <李白307-#1> Ⅰ李白詩1609 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6593

 

 

 
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