漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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どうぞよろしくお願いします。

李白詩全集 卷九

294-#2 《卷九01秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <294-#2> Ⅰ李白詩1588 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6488

李白  秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗  

秋顏入曉鏡,壯髮凋危冠。窮與鮑生賈,飢從漂母餐。

時來極天人,道在豈吟嘆。樂毅方適趙,蘇秦初韓。

卷舒固在我,何事空摧殘。

というのも、鏡は暁に寒くして、秋に衰えたる我が顔を写し、高い冠の下には、凋みかかった髪の毛をかくして居るので、わが身の姿かたちの枯稿するを見れば、感慨に堪へぬ次第である。ここに、人間の事を考へると、かの管仲の如きも、貪しき時は、飽叔牙と共に行商をして居たというし、韓信の如きも、餓えた時には、漂母の贈った一飯にどうやら腹を脹らせたという話である。しかし、時、一たび至れば、管仲は、齊の桓公をたすけて、天晴覇業を成し、諸侯を九合し、天下を一匡し、韓信は、漢の高祖を扶けて、四百年の帝業を成就した。この二人は、幸にして、時が来たために、天人の際を極めて、自由自在に、その志ざすところを伸ばすことが出来たので、いやしくも、道、ここに在り、つまり、今の境涯が必然的の過程であるとすれば、如何に窮迫したとても、決して深く吟嘆するには及ばぬことである。それから、楽毅は、燕の昭王の命を奉じ、趙にいって之を説き、遂に諸侯の兵を聯合して、齊を討ったというし、蘇秦は、合従の謀を実施するために、最初に、韓に往いて遊説し、韓王をして、秦に反抗せしめた。楽毅が趙に往ったのも、蘇秦が韓に設いたのも、彼等の志を遂げる上から云うと、丁度、功業の手始めであった。おのれも、志ぎすところの功業は、まだ實現せねが、まさしく、端緒には就いて居るので、今しも道行の最中に居るのである。されば、之を放って六合にわたり、之を巻いて密に退蔵すという如き卷舒は、すべて、我が一心にあるので、我が一心が、この時、撓んで仕舞えば、それ切りで、何にも成らぬが、屈伸その宜しきを得、その時に随って、道を施して行くならば、物の見事に、目的が遂げられるに相違ないここに、蕭颯たる秋の気に感じて、白髪を鑷しつつ、無限の愁嘆を起したものの、考えて見れば、如何に難儀をしたとても、目的さへ確かりして居るならば、自ら挫けて落胆するにも及ばぬわけである。

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年:-741年開元二十九年41

卷別:    卷一六九              文體:    五言古詩

詩題:    秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

作地點:              潁陽(都畿道 / 河南府 / 潁陽)

及地點:              煉藥院 (都畿道 河南府 潁陽)           

交遊人物:元丹丘            當地交遊(都畿道 河南府 潁陽)

 

 

秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

(秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗【元丹丘】に贈った)

木落識秋,瓶冰知天寒。

木の葉がばらばらと落ちるを見るに、今年も、すでに半ばを過ぎて、秋に成ったということが分るし、瓶中の水の氷れるを見れば、天、いよいよ寒くして、すでに冬に成りかかったということが知れる。今しも、世は秋の末で、追々寒い時節となったということであり、秋の末といえば、人の死境に近付いたと同じことで、何人も、此れに対して、感懐を起さぬものは無かろう。

桂枝日已綠,拂雪凌雲端。

唯だ、我が元林宗の如く道術に達した人は、桂枝が四時緑に茂り、積れる雪を払って雲端を凌ぐが如くである。

弱齡接光景,矯翼攀鴻鸞。

人も、此の域に到達しなければ、到底駄目なので、時節の変遷につれて、身體にまで申し分が出てくるようでは、全くお話にもならない。おのれも、年の若い時分から、仙道に志、元六兄の風采に接し、始終の人に遇って居たので、たとえば、翼を矯げて鴻鸞を攀じるが如く、元六兄の後から付いて参って、その人と同一なる仙家の境涯に到達したいという願望を起した。

投分三十載,榮枯同所歡。

かくて、ひとたび「莫逆の交じりを結んで」より、三十歳の久しい間、栄えるも、衰えるも、君と共にし、決してかわるまいと互いに固く誓った、

長吁望青雲,鑷白坐相看。

元六兄が超然独立、桂枝の日に緑なるが如きに反し、自分は、そう行かないの見ると、元の仙分に厚薄の別があるので、長吁して、天上の青雲を望み、おのが身をそこに致し得ざることを嘆嗟し、新たに頭上に霜を置きたる白髪を毛抜きで抜きながら、ここに元六兄に対坐して居るのである。

 

秋顏入曉鏡,壯髮凋危冠。

というのも、鏡は暁に寒くして、秋に衰えたる我が顔を写し、高い冠の下には、凋みかかった髪の毛をかくして居るので、わが身の姿かたちの枯稿するを見れば、感慨に堪へぬ次第である。

窮與鮑生賈,飢從漂母餐。

ここに、人間の事を考へると、かの管仲の如きも、貪しき時は、飽叔牙と共に行商をして居たというし、韓信の如きも、餓えた時には、漂母の贈った一飯にどうやら腹を脹らせたという話である。

時來極天人,道在豈吟嘆。

しかし、時、一たび至れば、管仲は、齊の桓公をたすけて、天晴覇業を成し、諸侯を九合し、天下を一匡し、韓信は、漢の高祖を扶けて、四百年の帝業を成就した。この二人は、幸にして、時が来たために、天人の際を極めて、自由自在に、その志ざすところを伸ばすことが出来たので、いやしくも、道、ここに在り、つまり、今の境涯が必然的の過程であるとすれば、如何に窮迫したとても、決して深く吟嘆するには及ばぬことである。

樂毅方適趙,蘇秦初韓。

それから、楽毅は、燕の昭王の命を奉じ、趙にいって之を説き、遂に諸侯の兵を聯合して、齊を討ったというし、蘇秦は、合従の謀を実施するために、最初に、韓に往いて遊説し、韓王をして、秦に反抗せしめた。楽毅が趙に往ったのも、蘇秦が韓に設いたのも、彼等の志を遂げる上から云うと、丁度、功業の手始めであった。

卷舒固在我,何事空摧殘。

おのれも、志ぎすところの功業は、まだ實現せねが、まさしく、端緒には就いて居るので、今しも道行の最中に居るのである。されば、之を放って六合にわたり、之を巻いて密に退蔵すという如き卷舒は、すべて、我が一心にあるので、我が一心が、この時、撓んで仕舞えば、それ切りで、何にも成らぬが、屈伸その宜しきを得、その時に随って、道を施して行くならば、物の見事に、目的が遂げられるに相違ないここに、蕭颯たる秋の気に感じて、白髪を鑷しつつ、無限の愁嘆を起したものの、考えて見れば、如何に難儀をしたとても、目的さへ確かりして居るならば、自ら挫けて落胆するにも及ばぬわけである。

 

(秋日鍊藥院に白髪を錦し元六兄林宗に贈る)

木落ちて、歳の秋たるを識り、瓶氷って、天の寒さを知る。

桂枝日に己に緑に、雪を払うて雲端を凌ぐ。

弱齢、光景に接し、矯翼、鴻鸞を攀づ。

投分三十載、栄枯、所歓を同じうす。

長吁、青雲を望み、白を鑷して坐して相看る。

 

秋顔、暁鏡に入り、壯髮、危冠を凋む。

窮して飽生と賈し、餞ゑて漂母に従って餐す。

時來って、天人を極め、道在り、豈に吟嘆せむや。

樂毅 方に趙に適き,蘇秦 初めて韓にく。

卷舒 固より我に在り,何事ぞ 空しく摧殘。

 

 

『秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

秋顏入曉鏡,壯髮凋危冠。

窮與鮑生賈,飢從漂母餐。

時來極天人,道在豈吟嘆。

樂毅方適趙,蘇秦初韓。

卷舒固在我,何事空摧殘。


(下し文)
秋顔、暁鏡に入り、壯髮、危冠を凋む。

窮して飽生と賈し、餞ゑて漂母に従って餐す。

時來って、天人を極め、道在り、豈に吟嘆せむや。

樂毅 方に趙に適き,蘇秦 初めて韓にく。

卷舒 固より我に在り,何事ぞ 空しく摧殘。

(現代語訳)
というのも、鏡は暁に寒くして、秋に衰えたる我が顔を写し、高い冠の下には、凋みかかった髪の毛をかくして居るので、わが身の姿かたちの枯稿するを見れば、感慨に堪へぬ次第である。

ここに、人間の事を考へると、かの管仲の如きも、貪しき時は、飽叔牙と共に行商をして居たというし、韓信の如きも、餓えた時には、漂母の贈った一飯にどうやら腹を脹らせたという話である。

しかし、時、一たび至れば、管仲は、齊の桓公をたすけて、天晴覇業を成し、諸侯を九合し、天下を一匡し、韓信は、漢の高祖を扶けて、四百年の帝業を成就した。この二人は、幸にして、時が来たために、天人の際を極めて、自由自在に、その志ざすところを伸ばすことが出来たので、いやしくも、道、ここに在り、つまり、今の境涯が必然的の過程であるとすれば、如何に窮迫したとても、決して深く吟嘆するには及ばぬことである。

それから、楽毅は、燕の昭王の命を奉じ、趙にいって之を説き、遂に諸侯の兵を聯合して、齊を討ったというし、蘇秦は、合従の謀を実施するために、最初に、韓に往いて遊説し、韓王をして、秦に反抗せしめた。楽毅が趙に往ったのも、蘇秦が韓に設いたのも、彼等の志を遂げる上から云うと、丁度、功業の手始めであった。

おのれも、志ぎすところの功業は、まだ實現せねが、まさしく、端緒には就いて居るので、今しも道行の最中に居るのである。されば、之を放って六合にわたり、之を巻いて密に退蔵すという如き卷舒は、すべて、我が一心にあるので、我が一心が、この時、撓んで仕舞えば、それ切りで、何にも成らぬが、屈伸その宜しきを得、その時に随って、道を施して行くならば、物の見事に、目的が遂げられるに相違ないここに、蕭颯たる秋の気に感じて、白髪を鑷しつつ、無限の愁嘆を起したものの、考えて見れば、如何に難儀をしたとても、目的さへ確かりして居るならば、自ら挫けて落胆するにも及ばぬわけである。


(訳注)

秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

(秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗【元丹丘】に贈った)

鍊藥院というのは、道観の名であって、その字の示す通とおり、道士輩がここでで長生延命の薬を錬るのである。その縁起等は一切わからぬが、要するに、格別広大な道院でもなく、又後には亡びて仕舞ったものと見える。それから、元六兄林宗は、元林宗、排行は六にあたる人で、矢張鍊藥院の道士であるが、元丹邱のことである。

この詩は、秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗という人におくったのである。

 

秋顏入曉鏡,壯髮凋危冠。

というのも、鏡は暁に寒くして、秋に衰えたる我が顔を写し、高い冠の下には、凋みかかった髪の毛をかくして居るので、わが身の姿かたちの枯稿するを見れば、感慨に堪へぬ次第である。

○危冠 髙い冠。

 

窮與鮑生賈,飢從漂母餐。

ここに、人間の事を考へると、かの管仲の如きも、貪しき時は、飽叔牙と共に行商をして居たというし、韓信の如きも、餓えた時には、漂母の贈った一飯にどうやら腹を脹らせたという話である。

○窮與鮑生賈 《史》「記管仲曰、吾始困時、嘗与鮑叔賈。分財利多自与。鮑叔不以我為貪。知我貧也。吾嘗為鮑叔謀事、而更窮困。鮑叔不以我為愚。知時有利不利也。吾嘗三仕三見逐於君。」(管仲曰く、吾始め困しみし時、嘗て鮑叔と賈す。財利を分かつに多く自ら与ふ。鮑叔我を以て貪と為さず。我の貧なるを知ればなり。吾嘗て鮑叔の為に事を謀りて、更に窮困す。鮑叔我を以て愚と為さず。時に有利と不利と有るを知ればなり。吾嘗て三たび仕へて三たび君に逐はる。)

○飢從漂母餐 「漂母進食」の故事。前漢の韓信は家が貧乏であった。そこで准陰下郷県の南昌亭という宿場の長の家に居候をしていた。亭長の妻は彼を迷惑がり、朝早く飯をたいて寝床の中で食べてしまった。食事時に彼が行くと、もう食べ物はなく、彼のために飯の仕度したくはしなかった。韓信はこれは自分をいやがっているのだと悟り、自分から見切りをつけてそこを出てしまった。それから、准陰の城下にやって来て准水の流れで釣りをしていた。一人の洗濯ばあさんが彼の困っている様を見てかわいそうに思い、彼を数十日もの間食べさせてやった。彼は感謝して、「お前さんの恩は決して忘れやしないよ。今にきっとうんとお返しするからね」と言うと、ばあさんは「とんでもない。大の男が食べることもできないのがかわいそうだから、お前さまに食べさせてあげたのさ。どうして、最初からお礼なんかあてにしてはいませんよ」とて、彼の返礼など問題にしていなかった。そして、彼が高祖に従い手柄を立てて楚王になると、彼はその洗濯ばあさんを呼んでその恩に報いるべく千金を与え、下郷の亭長にはわずか銭百文だけしか与えないで、「お前はちっぽけな男だ。わしに恩徳を施し遂げられなかった」と言った。

 

時來極天人,道在豈吟嘆。

しかし、時、一たび至れば、管仲は、齊の桓公をたすけて、天晴覇業を成し、諸侯を九合し、天下を一匡し、韓信は、漢の高祖を扶けて、四百年の帝業を成就した。この二人は、幸にして、時が来たために、天人の際を極めて、自由自在に、その志ざすところを伸ばすことが出来たので、いやしくも、道、ここに在り、つまり、今の境涯が必然的の過程であるとすれば、如何に窮迫したとても、決して深く吟嘆するには及ばぬことである。

 

樂毅方適趙,蘇秦初韓。

それから、楽毅は、燕の昭王の命を奉じ、趙にいって之を説き、遂に諸侯の兵を聯合して、齊を討ったというし、蘇秦は、合従の謀を実施するために、最初に、韓に往いて遊説し、韓王をして、秦に反抗せしめた。楽毅が趙に往ったのも、蘇秦が韓に設いたのも、彼等の志を遂げる上から云うと、丁度、功業の手始めであった。

○樂毅方適趙 《史記卷八十樂毅列傳》是燕昭王問伐齊之事

斉湣王田地は自(みずか)ら誇(ほこ)り、百姓は堪(た)えられなくなった。ここに於いて燕昭王姫平は斉を討(う)つ事をたずねた。

樂毅對曰齊霸國之餘業也地大人眾未易獨攻也

燕亞卿楽毅は応(こた)えて曰く、「斉の国を覇(は)して残した業績(ぎょうせき)とは、地が大きくなり、人々が多くなったことで、未(ま)だ単独で攻(せ)めるのは容易(ようい)ではありません。

王必欲伐之莫如與趙及楚魏

王(燕昭王姫平)が必ずこれ(斉)を討(う)つことを欲するならば、趙、及び楚、魏とともにするにこしたことはありません」と。

於是使樂毅約趙惠文王別使連楚魏

ここに於いて燕亞卿楽毅をして趙恵文王趙何に約束させ、別の使者をして楚、魏を属(ぞく)させ、

令趙嚪說秦以伐齊之利

趙に令(れい)して、秦に斉を討(う)つことの利(り)を以って誘(さそ)い説(と)かせた。

諸侯害齊湣王之驕暴皆爭合從與燕伐齊

諸侯は斉湣王田地の驕(おご)りたかぶって態度が荒々しいのを憎(にく)み、皆(みな)合従を争(あらそ)って燕とともに斉を討(う)とうとした。

樂毅還報燕昭王悉起兵使樂毅為上將軍

燕亞卿楽毅は還(かえ)り報告した。燕昭王姫平はことごとく兵を起(お)こし、燕亞卿楽毅をして、燕上将軍と為(な)し、

趙惠文王以相國印授樂毅

趙恵文王趙何は趙相国印を以って燕亞卿上将軍楽毅に授(さず)けた。

樂毅於是并護趙楚韓魏燕之兵以伐齊破之濟西

燕亞卿上将軍楽毅はここに於いて、趙、楚、韓、魏、燕の兵を併(あわ)せ統率(とうそつ)し、斉を討(う)つを以って済(川名)の西にこれを破(やぶ)った。

○蘇秦初 史記 蘇秦列伝

蘇秦列伝における事跡である。

洛陽の人。斉に行き、張儀と共に鬼谷に縦横の術を学んだ。数年間諸国を放浪し、困窮して帰郷した所を親族に嘲笑され、発奮して相手を説得する方法を作り出した。最初に周の顕王に近づこうとしたが、蘇秦の経歴を知る王の側近らに信用されず、失敗した。次に秦に向かい、恵文王に進言したが、受け入れられなかった。当時の秦は商鞅が死刑になった直後で、弁舌の士を敬遠していた時期のためである。

その後は燕の文公に進言して趙との同盟を成立させ、更に韓・魏・斉・楚の王を説いて回り、戦国七雄のうち秦を除いた六国の間に同盟を成立させ、六国の宰相を兼任した。この時、韓の宣恵王を説いた際に、後に故事成語として知られる「鶏口となるも牛後となることなかれ」という言辞を述べた。

趙に帰った後、粛侯から武安君に封じられ、同盟の約定書を秦に送った。以後、秦は15年に渡って東に侵攻しなかった。蘇秦の方針は秦以外の国を同盟させ、それによって強国である秦の進出を押さえ込もうとするもので、それらの国が南北に縦に並んでいることから合従説と呼ばれた。

合従を成立させた蘇秦は故郷に帰ったが、彼の行列に諸侯それぞれが使者を出して見送り、さながら王者のようであった。これを聞いて周王も道を掃き清めて出迎え、郊外まで人を出して迎えた。故郷の親戚たちは恐れて顔も上げない様であった。彼は「もし自分にわずかの土地でもあれば、今のように宰相の印を持つことができたろうか」と言い、親族・友人らに多額の金銭を分け与えた。

合従解体後は燕に仕えたが、国内での立場が微妙になったために斉に移った。その目的は斉の国力を弱め、燕の利益を図ることにあった。斉では湣王に取り立てられたが、そのため対立者により暗殺された。死ぬ直前に湣王に対して「私が死んだら私の遺体に対し車裂きの刑に処し、『蘇秦は燕のために斉で謀反を企てた』としてください。そうすれば私を殺した者が出てくるでしょう」と言った。湣王は蘇秦の遺言に従うと、蘇秦を殺した者が自首してきたので捕らえて処刑した。

張儀列伝によると、張儀を秦に送ったのも蘇秦の魂胆で、秦による趙への出兵を張儀に止めさせる狙いがあった。

 

卷舒固在我,何事空摧殘。

おのれも、志ぎすところの功業は、まだ實現せねが、まさしく、端緒には就いて居るので、今しも道行の最中に居るのである。されば、之を放って六合にわたり、之を巻いて密に退蔵すという如き卷舒は、すべて、我が一心にあるので、我が一心が、この時、撓んで仕舞えば、それ切りで、何にも成らぬが、屈伸その宜しきを得、その時に随って、道を施して行くならば、物の見事に、目的が遂げられるに相違ないここに、蕭颯たる秋の気に感じて、白髪を鑷しつつ、無限の愁嘆を起したものの、考えて見れば、如何に難儀をしたとても、目的さへ確かりして居るならば、自ら挫けて落胆するにも及ばぬわけである。

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李白  秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗  

木落識秋,瓶冰知天寒。桂枝日已綠,拂雪凌雲端。

弱齡接光景,矯翼攀鴻鸞。投分三十載,榮枯同所歡。

長吁望青雲,鑷白坐相看。
(秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗【元丹丘】に贈った)木の葉がばらばらと落ちるを見るに、今年も、すでに半ばを過ぎて、秋に成ったということが分るし、瓶中の水の氷れるを見れば、天、いよいよ寒くして、すでに冬に成りかかったということが知れる。今しも、世は秋の末で、追々寒い時節となったということであり、秋の末といへば、人の死境に近付いたと同じことで、何人も、此れに対して、感懐を起さぬものは無かろう。唯だ、我が元林宗の如く道術に達した人は、桂枝が四時緑に茂り、積れる雪を払って雲端を凌ぐが如くである。人も、此の域に到達しなければ、到底駄目なので、時節の変遷につれて、身體にまで申し分が出てくるようでは、全くお話にもならない。おのれも、年の若い時分から、仙道に志、元六兄の風采に接し、始終の人に遇って居たので、たとえば、翼を矯げて鴻鸞を攀じるが如く、元六兄の後から付いて参って、その人と同一なる仙家の境涯に到達したいという願望を起した。かくて、ひとたび「莫逆の交じりを結んで」より、三十歳の久しい間、栄えるも、衰えるも、君と共にし、決してかわるまいと互いに固く誓った、元六兄が超然独立、桂枝の日に緑なるが如きに反し、自分は、そう行かないの見ると、元の仙分に厚薄の別があるので、長吁して、天上の青雲を望み、おのが身をそこに致し得ざることを嘆嗟し、新たに頭上に霜を置きたる白髪を毛抜きで抜きながら、ここに元六兄に対坐して居るのである。

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年:-741年開元二十九年41

卷別:    卷一六九              文體:    五言古詩

詩題:    秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

作地點:              潁陽(都畿道 / 河南府 / 潁陽)

及地點:              煉藥院 (都畿道 河南府 潁陽)           

交遊人物:元丹丘            當地交遊(都畿道 河南府 潁陽)

 

 

秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

(秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗【元丹丘】に贈った)

木落識秋,瓶冰知天寒。

木の葉がばらばらと落ちるを見るに、今年も、すでに半ばを過ぎて、秋に成ったということが分るし、瓶中の水の氷れるを見れば、天、いよいよ寒くして、すでに冬に成りかかったということが知れる。今しも、世は秋の末で、追々寒い時節となったということであり、秋の末といへば、人の死境に近付いたと同じことで、何人も、此れに対して、感懐を起さぬものは無かろう。

桂枝日已綠,拂雪凌雲端。

唯だ、我が元林宗の如く道術に達した人は、桂枝が四時緑に茂り、積れる雪を払って雲端を凌ぐが如くである。

弱齡接光景,矯翼攀鴻鸞。

人も、此の域に到達しなければ、到底駄目なので、時節の変遷につれて、身體にまで申し分が出てくるようでは、全くお話にもならない。おのれも、年の若い時分から、仙道に志、元六兄の風采に接し、始終の人に遇って居たので、たとえば、翼を矯げて鴻鸞を攀じるが如く、元六兄の後から付いて参って、その人と同一なる仙家の境涯に到達したいという願望を起した。

投分三十載,榮枯同所歡。

かくて、ひとたび「莫逆の交じりを結んで」より、三十歳の久しい間、栄えるも、衰えるも、君と共にし、決してかわるまいと互いに固く誓った、

長吁望青雲,鑷白坐相看。

元六兄が超然独立、桂枝の日に緑なるが如きに反し、自分は、そう行かないの見ると、元の仙分に厚薄の別があるので、長吁して、天上の青雲を望み、おのが身をそこに致し得ざることを嘆嗟し、新たに頭上に霜を置きたる白髪を毛抜きで抜きながら、ここに元六兄に対坐して居るのである。

 

秋顏入曉鏡,壯髮凋危冠。

窮與鮑生賈,飢從漂母餐。

時來極天人,道在豈吟嘆。

樂毅方適趙,蘇秦初韓。

卷舒固在我,何事空摧殘。

 

(秋日鍊藥院に白髪を錦し元六兄林宗に贈る)

木落ちて、歳の秋たるを識り、瓶氷って、天の寒さを知る。

桂枝日に己に緑に、雪を払うて雲端を凌ぐ。

弱齢、光景に接し、矯翼、鴻鸞を攀づ。

投分三十載、栄枯、所歓を同じうす。

長吁、青雲を望み、白を鑷して坐して相看る。

 

秋顔、暁鏡に入り、壯髮、危冠を凋む。

窮して飽生と賈し、餞ゑて漂母に従って餐す。

時來って、天人を極め、道在り、豈に吟嘆せむや。

樂毅 方に趙に適き,蘇秦 初めて韓にく。

卷舒 固より我に在り,何事ぞ 空しく摧殘。

 

 

『秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

木落識秋,瓶冰知天寒。

桂枝日已綠,拂雪凌雲端。

弱齡接光景,矯翼攀鴻鸞。

投分三十載,榮枯同所歡。

長吁望青雲,鑷白坐相看。

(下し文)
(秋日鍊藥院に白髪を錦し元六兄林宗に贈る)

木落ちて、歳の秋たるを識り、瓶氷って、天の寒さを知る。

桂枝日に己に緑に、雪を払うて雲端を凌ぐ。

弱齢、光景に接し、矯翼、鴻鸞を攀づ。

投分三十載、栄枯、所歓を同じうす。

長吁、青雲を望み、白を鑷して坐して相看る。

(現代語訳)
(秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗【元丹丘】に贈った)

木の葉がばらばらと落ちるを見るに、今年も、すでに半ばを過ぎて、秋に成ったということが分るし、瓶中の水の氷れるを見れば、天、いよいよ寒くして、すでに冬に成りかかったということが知れる。今しも、世は秋の末で、追々寒い時節となったということであり、秋の末といへば、人の死境に近付いたと同じことで、何人も、此れに対して、感懐を起さぬものは無かろう。

唯だ、我が元林宗の如く道術に達した人は、桂枝が四時緑に茂り、積れる雪を払って雲端を凌ぐが如くである。

人も、此の域に到達しなければ、到底駄目なので、時節の変遷につれて、身體にまで申し分が出てくるようでは、全くお話にもならない。おのれも、年の若い時分から、仙道に志、元六兄の風采に接し、始終の人に遇って居たので、たとえば、翼を矯げて鴻鸞を攀じるが如く、元六兄の後から付いて参って、その人と同一なる仙家の境涯に到達したいという願望を起した。

かくて、ひとたび「莫逆の交じりを結んで」より、三十歳の久しい間、栄えるも、衰えるも、君と共にし、決してかわるまいと互いに固く誓った、

元六兄が超然独立、桂枝の日に緑なるが如きに反し、自分は、そう行かないの見ると、元の仙分に厚薄の別があるので、長吁して、天上の青雲を望み、おのが身をそこに致し得ざることを嘆嗟し、新たに頭上に霜を置きたる白髪を毛抜きで抜きながら、ここに元六兄に対坐して居るのである。


(訳注)

秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

(秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗【元丹丘】に贈った)

鍊藥院というのは、道観の名であって、その字の示す通とおり、道士輩がここでで長生延命の薬を錬るのである。その縁起等は一切わからぬが、要するに、格別広大な道院でもなく、又後には亡びて仕舞ったものと見える。それから、元六兄林宗は、元林宗、排行は六にあたる人で、矢張鍊藥院の道士であるが、元丹邱のことである。

この詩は、秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗という人におくったのである。

 

木落識秋,瓶冰知天寒。

木の葉がばらばらと落ちるを見るに、今年も、すでに半ばを過ぎて、秋に成ったということが分るし、瓶中の水の氷れるを見れば、天、いよいよ寒くして、すでに冬に成りかかったということが知れる。今しも、世は秋の末で、追々寒い時節となったということであり、秋の末といへば、人の死境に近付いたと同じことで、何人も、此れに対して、感懐を起さぬものは無かろう。

木落識秋,瓶冰知天寒 淮南子 「見一葉落、而知歳之將暮、睹瓶中之冰、而知天下之寒。」(一葉の落るを見て、歳の将に暮なんとするを知り、瓶中の氷を睹て、天下の寒きを知る。)に基づく。

 

桂枝日已綠,拂雪凌雲端。

唯だ、我が元林宗の如く道術に達した人は、桂枝が四時緑に茂り、積れる雪を払って雲端を凌ぐが如くである。

 

弱齡接光景,矯翼攀鴻鸞。

人も、此の域に到達しなければ、到底駄目なので、時節の変遷につれて、身體にまで申し分が出てくるようでは、全くお話にもならない。おのれも、年の若い時分から、仙道に志、元六兄の風采に接し、始終の人に遇って居たので、たとえば、翼を矯げて鴻鸞を攀じるが如く、元六兄の後から付いて参って、その人と同一なる仙家の境涯に到達したいという願望を起した。

弱齡 壮年。

光景 風采ということ。

 

投分三十載,榮枯同所歡。

かくて、ひとたび「莫逆の交じりを結んで」より、三十歳の久しい間、栄えるも、衰えるも、君と共にし、決してかわるまいと互いに固く誓った、

投分 自己の分限を投入すること、つまり、「莫逆の交じりを結ぶ」『莫逆の友』 ばくぎゃくのとも 梁書より 意味-無二の親友のこと。 注釈-「莫逆」は「逆らうこと莫なし」の意で、互いの息がピッタリと合い、逆らう気持ちなど全く生じない友の意。 「莫逆」は「ばくげき」とも読み、「莫逆の友」の結ぶ交わりを「莫逆の交わり」という。

 

長吁望青雲,鑷白坐相看。

元六兄が超然独立、桂枝の日に緑なるが如きに反し、自分は、そう行かないの見ると、元の仙分に厚薄の別があるので、長吁して、天上の青雲を望み、おのが身をそこに致し得ざることを嘆嗟し、新たに頭上に霜を置きたる白髪を毛抜きで抜きながら、ここに元六兄に対坐して居るのである。

285-#2 《卷9-03憶襄陽舊遊贈馬少府巨》#2Index-20Ⅱ― 15-740年開元二十八年40歳 <285-#2> Ⅰ李白詩1570 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6398

李白  憶襄陽舊遊贈馬少府巨#2  

朱顏君未老,白髮我先秋。壯志恐蹉跎,功名若雲浮。

歸心結遠夢,落日懸春愁。空思羊叔子,墮淚峴山頭。
別後、すでに数年、君はなお若君しく、朱顔で未だ老いざるに拘わらずというのに、われは、白髪すでに秋に入り、見られるとおり老人と成り果てて仕舞ったのである。かくて、折角の壮心も、次第に蹉跎して、衰えるように成り、功名富貴は、浮雲の如く、容易に手に取ることができないということも分ったのである。徒に故郷に帰りたいと思うにつけて、遠夢を結び、又落日に対して、春愁を懸けるような次第である。むかし、晋の羊砧は、客と共に、峴山に登って、歳月の人を相またざることを嘆息したが、自分も、今その通りで、頭をめぐらして、はるかに、彼の堕涙碑の事を思うばかりである。

285-#2 《卷9-03憶襄陽舊遊贈馬少府巨》#2Index-20Ⅱ― 15-740年開元二十八年40歳 <285-#2> Ⅰ李白詩1570 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6398

 

 
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年:740年開元二十八年40

卷別:    卷一六九              文體:    五言古詩

詩題:    憶襄陽舊遊贈馬少府巨

作地點:              曹州(河南道 / 曹州 / 曹州)

及地點:              襄州 (山南東道 襄州 襄州) 別名:襄陽         

大堤 (山南東道 襄州 襄州)             

山公樓 (山南東道 襄州 襄州)          

峴山 (山南東道 襄州 峴山) 別名:峴首山     

交遊人物:馬巨    當地交遊(河南道 曹州 濟陰)

韓朝宗              詩文提及(江南西道 洪州 洪州)

 

憶襄陽舊遊贈馬少府巨

(この詩は、某処で馬巨という人にあった故に、彼が襄尉たる縁故により、其地における舊遊を懐うて、この詩を贈ったものである。)

昔為大堤客,曾上山公樓。

むかし、襄陽東城外の歓楽街、大堤の客となって、君と共に、峴山の山公の楼に登ったことがある。

開窗碧嶂滿,拂鏡滄江流。

窓を開けば、碧山相い連って眼中に入り、その前には、漢江の水が流れて居て、その澄み渡って居ることは、さながら鏡を拭うたようである。

高冠佩雄劍,長揖韓荊州。

この時にあたり、われは、高冠を戴き、雄剣を佩び、かの一代の賢豪である刺史の韓荊州に長揖し、その幕下で、君と遊んだものである。

此地別夫子,今來思舊遊。

その後、君と別れ、そして、はからずもここに再会したことに因って、琶遊を思い出したわけである。

#2

朱顏君未老,白髮我先秋。

別後、すでに数年、君はなお若君しく、朱顔で未だ老いざるに拘わらずというのに、われは、白髪すでに秋に入り、見られるとおり老人と成り果てて仕舞ったのである。

壯志恐蹉跎,功名若雲浮。

かくて、折角の壮心も、次第に蹉跎して、衰えるように成り、功名富貴は、浮雲の如く、容易に手に取ることができないということも分ったのである。

歸心結遠夢,落日懸春愁。

徒に故郷に帰りたいと思うにつけて、遠夢を結び、又落日に対して、春愁を懸けるような次第である。

空思羊叔子,墮淚峴山頭。

むかし、晋の羊砧は、客と共に、峴山に登って、歳月の人を相またざることを嘆息したが、自分も、今その通りで、頭をめぐらして、はるかに、彼の堕涙碑の事を思うばかりである。

 

 

(襄陽の舊遊を憶い 馬少府巨に贈る)

昔 大堤の客と為り,曾て上る 山公の樓。

窗を開けば 碧嶂滿ち,鏡を拂うて滄江流る。

高冠 雄劍を佩び,長揖す 韓荊州。

此の地 夫子に別れ,今來 舊遊を思う。

 

朱顏 君 未だ老いず,白髮 我れ先づ秋。

壯志 蹉跎を恐る,功名 雲の浮ぶが若し。

歸心 遠夢を結び,落日 春愁を懸く。

空しく思う 羊叔子,淚を墮す峴山頭。

 

東都南都襄陽武昌山南東道舂陵03 

『憶襄陽舊遊贈馬少府巨』 現代語訳と訳註解説
(
本文) #2

朱顏君未老,白髮我先秋。

壯志恐蹉跎,功名若雲浮。

歸心結遠夢,落日懸春愁。

空思羊叔子,墮淚峴山頭。
(含異文)

朱顏君未老,白髮我先秋。壯志恐蹉跎,功名若雲浮。

歸心結遠夢,落日懸春愁。空思羊叔子,墮淚峴山頭【何時共攜手,更醉峴山頭】。


(下し文)
朱顏 君 未だ老いず,白髮 我れ先づ秋。

壯志 蹉跎を恐る,功名 雲の浮ぶが若し。

歸心 遠夢を結び,落日 春愁を懸く。

空しく思う 羊叔子,淚を墮す峴山頭。

(現代語訳) #2

別後、すでに数年、君はなお若君しく、朱顔で未だ老いざるに拘わらずというのに、われは、白髪すでに秋に入り、見られるとおり老人と成り果てて仕舞ったのである。

かくて、折角の壮心も、次第に蹉跎して、衰えるように成り、功名富貴は、浮雲の如く、容易に手に取ることができないということも分ったのである。

徒に故郷に帰りたいと思うにつけて、遠夢を結び、又落日に対して、春愁を懸けるような次第である。

むかし、晋の羊砧は、客と共に、峴山に登って、歳月の人を相またざることを嘆息したが、自分も、今その通りで、頭をめぐらして、はるかに、彼の堕涙碑の事を思うばかりである。


(訳注) #2

憶襄陽舊遊贈馬少府巨

(この詩は、某処で馬巨という人にあった故に、彼が襄尉たる縁故により、其地における舊遊を懐うて、この詩を贈ったものである。)

馬巨、その人は、例の如く、よくは分らない。

 

朱顏君未老,白髮我先秋。

別後、すでに数年、君はなお若君しく、朱顔で未だ老いざるに拘わらずというのに、われは、白髪すでに秋に入り、見られるとおり老人と成り果てて仕舞ったのである。

朱顏 年若くして美しい容顏の形容,年わかい女子をさす。

 

壯志恐蹉跎,功名若雲浮。

かくて、折角の壮心も、次第に蹉跎して、衰えるように成り、功名富貴は、浮雲の如く、容易に手に取ることができないということも分ったのである。

蹉跎 つまずく。思うようにいかない。時期を逸する。

 

歸心結遠夢,落日懸春愁。

徒に故郷に帰りたいと思うにつけて、遠夢を結び、又落日に対して、春愁を懸けるような次第である。

 

空思羊叔子,墮淚峴山頭。

むかし、晋の羊砧は、客と共に、峴山に登って、歳月の人を相またざることを嘆息したが、自分も、今その通りで、頭をめぐらして、はるかに、彼の堕涙碑の事を思うばかりである。

空思羊叔子,墮淚峴山頭 叔子は.羊祜の字。《荊州圖記》曰:羊叔子與鄒潤甫嘗登峴山,泣曰:「自有宇宙,便有此山,由來賢達登此望如我與卿者多矣,皆湮滅無聞,念此使人悲傷。」潤甫曰:「公德冠四海,道嗣前哲,令問令望,當與此山俱傳。若潤甫輩,乃當如公語耳。」后參佐為立碑,著故望處,百姓毎行望碑、莫不悲感、因名爲堕涙碑。」荊州圖記に「羊叔子、鄒潤甫と嘗て峴山に登り、嘆じて日く、宇宙あってより、便ち此山あり。由来、賢達、ここに登って遠望す、我と卿との如きもの多し。皆、湮滅して聞こゆるなし。これを念へば、人をして悲傷せしむ。潤甫日く、公の徳、四海に冠たり、道、前哲に嗣ぐ、令問令望、必ず此山と倶に傳へむ。潤甫輩の若きは、當に公の語の如くなべきのみ、と。後、參佐、爲に碑を立てて、道、故の望處に着く。百姓行いて碑か望む毎に、悲感せざるなし。杜預、名づけて、墮淚の碑となり」とある。

 襄陽一帯地図000

 

143巻四18襄陽曲四首其二

山公醉酒時。 酩酊高陽下。頭上白接籬。 倒著還騎馬。

 

144巻四19襄陽曲四首其三

峴山臨漢江。 水綠沙如雪。上有墮淚碑。 苔久磨滅。

 

145巻四20襄陽曲四首其四

且醉習家池。 莫看墮淚碑。 山公欲上馬。 笑殺襄陽兒。

 

206卷六01襄陽歌 「落日欲沒峴山西。 倒著接籬花下迷。襄陽小兒齊拍手。」

 

315巻八29卷八贈參寥子「白鶴飛天書、南荊訪高士。 五云在峴山、果得參寥子。」

 

754巻二十一32 峴山懷古「訪古登峴首、憑高眺襄中。天清遠峰出、水落寒沙空。」

285-#1 《卷9-03憶襄陽舊遊贈馬少府巨》#1Index-20Ⅱ― 15-740年開元二十八年40歳 <285-#1> Ⅰ李白詩1569 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6393

李白  憶襄陽舊遊贈馬少府巨 #1  

昔為大堤客,曾上山公樓。開窗碧嶂滿,拂鏡滄江流。

高冠佩雄劍,長揖韓荊州。此地別夫子,今來思舊遊。
(この詩は、某処で馬巨という人にあった故に、彼が襄尉たる縁故により、其地における舊遊を懐うて、この詩を贈ったものである。)むかし、襄陽東城外の歓楽街、大堤の客となって、君と共に、峴山の山公の楼に登ったことがある。窓を開けば、碧山相い連って眼中に入り、その前には、漢江の水が流れて居て、その澄み渡って居ることは、さながら鏡を拭うたようである。この時にあたり、われは、高冠を戴き、雄剣を佩び、かの一代の賢豪である刺史の韓荊州に長揖し、その幕下で、君と遊んだものである。その後、君と別れ、そして、はからずもここに再会したことに因って、琶遊を思い出したわけである。

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740年 李白40歳 

 

 

年:740年開元二十八年40

卷別:    卷一六九              文體:    五言古詩

詩題:    憶襄陽舊遊贈馬少府巨

作地點:              曹州(河南道 / 曹州 / 曹州)

及地點:              襄州 (山南東道 襄州 襄州) 別名:襄陽         

大堤 (山南東道 襄州 襄州)             

山公樓 (山南東道 襄州 襄州)          

峴山 (山南東道 襄州 峴山) 別名:峴首山     

交遊人物:馬巨    當地交遊(河南道 曹州 濟陰)

韓朝宗              詩文提及(江南西道 洪州 洪州)

 

憶襄陽舊遊贈馬少府巨

(この詩は、某処で馬巨という人にあった故に、彼が襄尉たる縁故により、其地における舊遊を懐うて、この詩を贈ったものである。)

昔為大堤客,曾上山公樓。

むかし、襄陽東城外の歓楽街、大堤の客となって、君と共に、峴山の山公の楼に登ったことがある。

開窗碧嶂滿,拂鏡滄江流。

窓を開けば、碧山相い連って眼中に入り、その前には、漢江の水が流れて居て、その澄み渡って居ることは、さながら鏡を拭うたようである。

高冠佩雄劍,長揖韓荊州。

この時にあたり、われは、高冠を戴き、雄剣を佩び、かの一代の賢豪である刺史の韓荊州に長揖し、その幕下で、君と遊んだものである。

此地別夫子,今來思舊遊。

その後、君と別れ、そして、はからずもここに再会したことに因って、琶遊を思い出したわけである。

#2

朱顏君未老,白髮我先秋。

壯志恐蹉跎,功名若雲浮。

歸心結遠夢,落日懸春愁。

空思羊叔子,墮淚峴山頭。

 

詩文(含異文)     昔為大堤客,曾上山公樓。開窗碧嶂滿,拂鏡滄江流。高冠佩雄劍,長揖韓荊州。此地別夫子,今來思舊遊。朱顏君未老,白髮我先秋。壯志恐蹉跎,功名若雲浮。歸心結遠夢,落日懸春愁。空思羊叔子,墮淚峴山頭【何時共攜手,更醉峴山頭】。

 

 

(襄陽の舊遊を憶い 馬少府巨に贈る)

昔 大堤の客と為り,曾て上る 山公の樓。

窗を開けば 碧嶂滿ち,鏡を拂うて滄江流る。

高冠 雄劍を佩び,長揖す 韓荊州。

此の地 夫子に別れ,今來 舊遊を思う。

 

朱顏 君 未だ老いず,白髮 我れ先づ秋。

壯志 蹉跎を恐る,功名 雲の浮ぶが若し。

歸心 遠夢を結び,落日 春愁を懸く。

空しく思う 羊叔子,淚を墮す峴山頭。

 

 

『憶襄陽舊遊贈馬少府巨』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

憶襄陽舊遊贈馬少府巨 #1

昔為大堤客,曾上山公樓。

開窗碧嶂滿,拂鏡滄江流。

高冠佩雄劍,長揖韓荊州。

此地別夫子,今來思舊遊。

(下し文)
(襄陽の舊遊を憶い 馬少府巨に贈る)

昔 大堤の客と為り,曾て上る 山公の樓。

窗を開けば 碧嶂滿ち,鏡を拂うて滄江流る。

高冠 雄劍を佩び,長揖す 韓荊州。

此の地 夫子に別れ,今來 舊遊を思う。

(現代語訳)
(この詩は、某処で馬巨という人にあった故に、彼が襄尉たる縁故により、其地における舊遊を懐うて、この詩を贈ったものである。)

むかし、襄陽東城外の歓楽街、大堤の客となって、君と共に、峴山の山公の楼に登ったことがある。

窓を開けば、碧山相い連って眼中に入り、その前には、漢江の水が流れて居て、その澄み渡って居ることは、さながら鏡を拭うたようである。

この時にあたり、われは、高冠を戴き、雄剣を佩び、かの一代の賢豪である刺史の韓荊州に長揖し、その幕下で、君と遊んだものである。

その後、君と別れ、そして、はからずもここに再会したことに因って、琶遊を思い出したわけである。

襄陽一帯地図000 

(訳注)

憶襄陽舊遊贈馬少府巨

(この詩は、某処で馬巨という人にあった故に、彼が襄尉たる縁故により、其地における舊遊を懐うて、この詩を贈ったものである。)

馬巨、その人は、例の如く、よくは分らない。

 

昔為大堤客,曾上山公樓。

むかし、襄陽東城外の歓楽街、大堤の客となって、君と共に、峴山の山公の楼に登ったことがある。

大堤 襄陽東城外の歓楽街。

山公 山簡(さん かん、生没年未詳)は三国時代の魏および西晋の襄陽の刺史である。字は季倫。父親は竹林の七賢の一人、山濤。○山公 山簡のこと。字は季倫。西晋時代の人。竹林の七賢の一人、山濤の子。公は一般に尊称であるが、ここでは、とくに尊敬と親しみの気特がこもっている。山簡、あざなは季倫。荊州の地方長官として嚢陽にいたとき、常に酔っぱらっては高陽の池にあそび(野酒)、酩酊したあげく、白い帽子をさかさに被り、馬にのって歩いた。それが評判となり、そのことをうたった歌までできた。話は「世説」にある。ここに言う、楼は峴山に在る峴首亭から見える景色を思い出すということ。

 

開窗碧嶂滿,拂鏡滄江流。

窓を開けば、碧山相い連って眼中に入り、その前には、漢江の水が流れて居て、その澄み渡って居ることは、さながら鏡を拭うたようである。

碧嶂 嶂は山の高峻なるもの、ついたてのように切り立った峰。襄陽東の鹿門山の連山。

 

高冠佩雄劍,長揖韓荊州。

この時にあたり、われは、高冠を戴き、雄剣を佩び、かの一代の賢豪である刺史の韓荊州に長揖し、その幕下で、君と遊んだものである。

韓荊州 韓朝宗(686750),中國唐朝政治人物,韓朝宗最早擔任左拾遺。唐睿宗想要下令推廣乞寒胡戲,韓朝宗跟皇帝勸阻。名に朝宗、開元中・刑州の刺史となって居た。李白は、之に謁見した時、長揖して拝を爲さなかった。

 

此地別夫子,今來思舊遊。

その後、君と別れ、そして、はからずもここに再会したことに因って、琶遊を思い出したわけである。
李白の足跡003 

269-#3 《卷9-18遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#3》Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 【3分割】<269-#3> Ⅰ李白詩1544 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6268

李白  遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#3

子胥昔乞食,此女傾壺漿。運開展宿憤,入楚鞭平王。

凜冽天地間,聞名若懷霜。壯夫或未達,十步九太行。

與君拂衣去,萬里同

おもへば、壮士たるもの、未だ栄達せずして、世間にうろついて居る間は、十歩の中、九歩までは、太行の絶険に此すべき行路難を経ねばならぬので、今日、ここに北湖亭の主人に冷遇されるのも、決して怪むに足らぬことである。されば、君とともに、衣を払って遠く去り、江湖萬里の間に翺翔し、平生の宿志を遂げたいものである。

269-#3 《卷9-18遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#3》Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 【3分割】<269-#3> Ⅰ李白詩1544 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6268

 

 
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年:739年開元二十七年39

卷別:    卷一六九              文體:    五言古詩

詩題:    遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】

作地點:              溧陽(江南西道 / 宣州 / 溧陽)

及地點:              溧陽 (江南西道 宣州 溧陽)              

北湖亭 (江南西道 宣州 溧陽)          

瓦屋山 (江南西道 宣州 溧陽)          

溧水 (江南西道 宣州 溧水)             

交遊人物:孟浩然              當地交遊(江南西道 宣州 溧陽)

 

 

遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#1

(溧陽の北湖亭に遊んで、遙かに瓦屋山を望んで、伍子胥のことを思い出し、この詩を作って同人の人に贈った。別題として【孟浩然に贈る】とした。)

朝登北湖亭,遙望瓦屋山。

朝に溧陽城を出でて、北湖亭に登り、遙かに瓦屋山を望んだ。

天清白露下,始覺秋風還。

時折しも秋で、天は澄み渡って、白露暁に降り、西風が冷たく身にしむのを覚えた。

遊子託主人,仰觀眉睫間。

詩人たちと、折角、ここに遊びにきたが、風流人なのだろう主人は、空を仰ぎ見て、空間に目を向けている。

目色送飛鴻,然不可攀。

飛ぶ雁に看惚れて居るようだ、客がきても、丸で相手にせず、邈然としで取らすがりようもない位である。

#2

長吁相勸勉,何事來關。

こんなに冷遇されるならば、何のために、わざわざこの呉地に来たのか、まことに、詰らないといって、同遊の人人とともに長嘆して、互に慰め合って居た。

聞有貞義女,振窮水灣。

それはさておき、この溧陽の地には、むかし貞義を似て称せられた一婦人が居たので溧水の河岸において窮人を救った。

清光了在眼,白日如披顏。

その風貌は、ありありと眼中に在るが如く、そして、白日の中において、その顔を見るような感じがする。

高墳五六兀棲猛虎。

眺めやれば、古塚が五つ六つ堆をなして高まり、丁度、猛虎が踞んで居るような形をして居る。

遺跡翳九泉,芳名動千古。

彼女の遺跡は、この大地の上では、湮滅しかかつて居るが、その芳名は、千歳の後なる今日までも傳わって居る。

#3

子胥昔乞食,此女傾壺漿。

むかし、伍子胥は、楚より出奔し、途中で落ちぶれて、食を乞うたが、その時、この女は、壺漿水を傾けて之を救い、その為に、伍子胥は、呉に逃げ込んだ。

運開展宿憤,入楚鞭平王。

やがて、運が開くと、かねての遺恨を晴らすことができるというので、その呉王闔閭に従って、楚の都の郢に攻め入った時に、墓をあばいて、平王の屍を出し、これを鞭つこと三百、目を抉り、以てかねての父兄の仇に報いた。 

凜冽天地間,聞名若懷霜。

伍子胥の為した事蹟は、凛列として、天地の間に存し、その名を聞けば、霜を懐中に抱くが如く、人の気を引き締める。

壯夫或未達,十九太行。

おもへば、壮士たるもの、未だ栄達せずして、世間にうろついて居る間は、十歩の中、九歩までは、太行の絶険に此すべき行路難を経ねばならぬので、今日、ここに北湖亭の主人に冷遇されるのも、決して怪むに足らぬことである。

與君拂衣去,萬里同翔。

されば、君とともに、衣を払って遠く去り、江湖萬里の間に翺翔し、平生の宿志を遂げたいものである。

 

溧陽の北湖亭に遊び、瓦屋山を望み、古えを懷い同旅に贈る【孟浩然に贈る】

朝に北湖の亭に上り、遙かに瓦屋の山を望む。

天は清くして、白露下り、はじめて、秋風の還るを覚ゆ。

游子、主人に託し、仰いで、眉睫の間を観る。

目色、飛鴻を送り、邈然として挙つべからず。

#2

長吁して相い勸勉し,何事か關に來る

聞く 貞義の女あり、,窮を振う 溧水の灣。

清光 了【つい】に眼に在り,白日 顏を披くが如し。

高墳 五六墩【とん】,崒兀【しゅつこつ】として 猛虎を棲ましむ。

遺跡 九泉に翳【えい】し,芳名 千古を動かす。

#3

子胥【ししょ】昔 食を乞い,此の女 壺漿を傾く。

運 開いて 宿憤を展べ,楚に入って 平王を鞭つ。

凜冽たり 天地の間,名を聞く 霜を懷くが若し。

壯夫 或は 未だ達せず,十步に 九太行。

君と衣を拂うて去り,萬里 同じく翔せん。

 

江南東道 婺州 東陽00 

『遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
#3

子胥昔乞食,此女傾壺漿。

運開展宿憤,入楚鞭平王。

凜冽天地間,聞名若懷霜。

壯夫或未達,十步九太行。

與君拂衣去,萬里同

(下し文)
#3

子胥【ししょ】昔 食を乞い,此の女 壺漿を傾く。

運 開いて 宿憤を展べ,楚に入って 平王を鞭つ。

凜冽たり 天地の間,名を聞く 霜を懷くが若し。

壯夫 或は 未だ達せず,十步に 九太行。

君と衣を拂うて去り,萬里 同じく翔せん

(現代語訳) #3

むかし、伍子胥は、楚より出奔し、途中で落ちぶれて、食を乞うたが、その時、この女は、壺漿水を傾けて之を救い、その為に、伍子胥は、呉に逃げ込んだ。

やがて、運が開くと、かねての遺恨を晴らすことができるというので、その呉王闔閭に従って、楚の都の郢に攻め入った時に、墓をあばいて、平王の屍を出し、これを鞭つこと三百、目を抉り、以てかねての父兄の仇に報いた。 

伍子胥の為した事蹟は、凛列として、天地の間に存し、その名を聞けば、霜を懐中に抱くが如く、人の気を引き締める。

おもへば、壮士たるもの、未だ栄達せずして、世間にうろついて居る間は、十歩の中、九歩までは、太行の絶険に此すべき行路難を経ねばならぬので、今日、ここに北湖亭の主人に冷遇されるのも、決して怪むに足らぬことである。

されば、君とともに、衣を払って遠く去り、江湖萬里の間に翺翔し、平生の宿志を遂げたいものである。


(訳注) #3

《卷9-18遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#3》

(溧陽の北湖亭に遊んで、遙かに瓦屋山を望んで、伍子胥のことを思い出し、この詩を作って同人の人に贈った。別題として【孟浩然に贈る】とした。)

溧陽 江南西道 宣州 溧陽(11)秦の始皇帝26年(紀元前221年)溧陽県を設けた(県治は今の高淳県固城鎮にあった)。今の溧陽市は秦の溧陽県の東部地域に属していた。三国呉の黄武元年(222年)、境内は元の溧陽県東部から永平県を分置し、後に永世県に改めた。

瓦屋山 江南西道 宣州 溧陽(11)江蘇省西南部,是溧陽市與句容市的界山,海拔352.1米。

 

子胥昔乞食,此女傾壺漿。

むかし、伍子胥は、楚より出奔し、途中で落ちぶれて、食を乞うたが、その時、この女は、壺漿水を傾けて之を救い、その為に、伍子胥は、呉に逃げ込んだ。

伍子胥 [?~前485]中国、春秋時代の楚()の武人。名は員(うん)。父と兄が楚の平王に殺されたので、呉を助け、楚と戦い、あだを討った。のち、呉王夫差(ふさ)が越王勾践(こうせん)を破ったとき、その降伏を許そうとした夫差に反対して自殺。

 

運開展宿憤,入楚鞭平王。

やがて、運が開くと、かねての遺恨を晴らすことができるというので、その呉王闔閭に従って、楚の都の郢に攻め入った時に、墓をあばいて、平王の屍を出し、これを鞭つこと三百、目を抉り、以てかねての父兄の仇に報いた。 

鞭平王 『呉越春秋』「闔閭九年: 呉王入郢,止留。伍胥以不得昭王,乃掘平王之墓,出其屍,鞭之三百,左足踐腹,右手抉其目,誚之曰:“誰使汝用讒諛之口,殺我父兄,豈不冤哉?」(闔閭九年: 呉王 郢に入り,止留す。伍胥 以て昭王得ず,乃ち平王の墓を掘り,其の屍を出し,之を鞭つこと三百,左足に腹を踐み,右手に其目を抉り,之を誚めて曰く:“誰か汝を使て讒諛の口を用いて,我が父兄を殺さしむる,豈に冤ならずや?)に基づいている

楚国のお家騒動で父と兄とを楚の平王に殺されると,楚より出奔し,諸国をさまよったあと,呉に身を寄せた。呉王の闔閭(こうりよ)が父王を殺して即位するのに力をかして信任を受け,兵法家の孫武とともに呉の国力の充実につとめた。国力をのばした呉は,楚に侵攻し,楚都の郢(えい)を陥(おと)した。伍子胥は,すでに死んで葬られていた平王の墓をあばき,その尸(しかばね)を三百鞭(むち)打って父と兄の仇をうったとされる。

 

凜冽天地間,聞名若懷霜。

伍子胥の為した事蹟は、凛列として、天地の間に存し、その名を聞けば、霜を懐中に抱くが如く、人の気を引き締める。

 

壯夫或未達,十步九太行。

おもへば、壮士たるもの、未だ栄達せずして、世間にうろついて居る間は、十歩の中、九歩までは、太行の絶険に此すべき行路難を経ねばならぬので、今日、ここに北湖亭の主人に冷遇されるのも、決して怪むに足らぬことである。

太行 太行山脈は中華人民共和国北部にある山地。山西省、河南省、河北省の三つの省の境界部分に位置する。太行山脈は東の華北平野と西の山西高原の間に、北東から南西へ400kmにわたり伸びており、平均標高は1,500mから2,000mである。最高峰は河北省張家口市の小五台山で、標高2,882m

 

與君拂衣去,萬里同翔。

されば、君とともに、衣を払って遠く去り、江湖萬里の間に翺翔し、平生の宿志を遂げたいものである。

269-#2 《卷9-18遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#2》Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 【3分割】<269-#2> Ⅰ李白詩1543 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6263

李白  遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#2

長吁相勸勉,何事來關。聞有貞義女,振窮溧水灣。

清光了在眼,白日如披顏。高墳五六墩,崒兀棲猛虎。

遺跡翳九泉,芳名動千古。

こんなに冷遇されるならば、何のために、わざわざこの呉地に来たのか、まことに、詰らないといって、同遊の人人とともに長嘆して、互に慰め合って居た。それはさておき、この溧陽の地には、むかし貞義を似て称せられた一婦人が居たので溧水の河岸において窮人を救った。その風貌は、ありありと眼中に在るが如く、そして、白日の中において、その顔を見るような感じがする。

269-#2 《卷9-18遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#2》Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 【3分割】<269-#2> Ⅰ李白詩1543 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6263

 

 
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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年:739年開元二十七年39

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詩題:    遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】

作地點:              溧陽(江南西道 / 宣州 / 溧陽)

及地點:              溧陽 (江南西道 宣州 溧陽)              

北湖亭 (江南西道 宣州 溧陽)          

瓦屋山 (江南西道 宣州 溧陽)          

溧水 (江南西道 宣州 溧水)             

交遊人物:孟浩然              當地交遊(江南西道 宣州 溧陽)

 

 

遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#1

(溧陽の北湖亭に遊んで、遙かに瓦屋山を望んで、伍子胥のことを思い出し、この詩を作って同人の人に贈った。別題として【孟浩然に贈る】とした。)

朝登北湖亭,遙望瓦屋山。

朝に溧陽城を出でて、北湖亭に登り、遙かに瓦屋山を望んだ。

天清白露下,始覺秋風還。

時折しも秋で、天は澄み渡って、白露暁に降り、西風が冷たく身にしむのを覚えた。

遊子託主人,仰觀眉睫間。

詩人たちと、折角、ここに遊びにきたが、風流人なのだろう主人は、空を仰ぎ見て、空間に目を向けている。

目色送飛鴻,然不可攀。

飛ぶ雁に看惚れて居るようだ、客がきても、丸で相手にせず、邈然としで取らすがりようもない位である。

#2

長吁相勸勉,何事來關。

こんなに冷遇されるならば、何のために、わざわざこの呉地に来たのか、まことに、詰らないといって、同遊の人人とともに長嘆して、互に慰め合って居た。

聞有貞義女,振窮水灣。

それはさておき、この溧陽の地には、むかし貞義を似て称せられた一婦人が居たので溧水の河岸において窮人を救った。

清光了在眼,白日如披顏。

その風貌は、ありありと眼中に在るが如く、そして、白日の中において、その顔を見るような感じがする。

高墳五六兀棲猛虎。

眺めやれば、古塚が五つ六つ堆をなして高まり、丁度、猛虎が踞んで居るような形をして居る。

遺跡翳九泉,芳名動千古。

彼女の遺跡は、この大地の上では、湮滅しかかつて居るが、その芳名は、千歳の後なる今日までも傳わって居る。

#3

子胥昔乞食,此女傾壺漿。

運開展宿憤,入楚鞭平王。

凜冽天地間,聞名若懷霜。

壯夫或未達,十步九太行。

與君拂衣去,萬里同翔。

 

溧陽の北湖亭に遊び、瓦屋山を望み、古えを懷い同旅に贈る【孟浩然に贈る】

朝に北湖の亭に上り、遙かに瓦屋の山を望む。

天は清くして、白露下り、はじめて、秋風の還るを覚ゆ。

游子、主人に託し、仰いで、眉睫の間を観る。

目色、飛鴻を送り、邈然として挙つべからず。

#2

長吁して相い勸勉し,何事か關に來る

聞く 貞義の女あり、,窮を振う 溧水の灣。

清光 了【つい】に眼に在り,白日 顏を披くが如し。

高墳 五六墩【とん】,崒兀【しゅつこつ】として 猛虎を棲ましむ。

遺跡 九泉に翳【えい】し,芳名 千古を動かす。

#3

子胥【ししょ】昔 食を乞い,此の女 壺漿を傾く。

運 開いて 宿憤を展べ,楚に入って 平王を鞭つ。

凜冽たり 天地の間,名を聞く 霜を懷くが若し。

壯夫 或は 未だ達せず,十步に 九太行。

君と衣を拂うて去り,萬里 同じく翔せん。

 

 

 

『遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
#2

長吁相勸勉,何事來關。

聞有貞義女,振窮溧水灣。

清光了在眼,白日如披顏。

高墳五六墩,兀棲猛虎。

遺跡翳九泉,芳名動千古。

(下し文) #2

長吁して相い勸勉し,何事か關に來る。

聞く 貞義の女あり、,窮を振う 溧水の灣。

清光 了【つい】に眼に在り,白日 顏を披くが如し。

高墳 五六墩【とん】,兀【しゅつこつ】として 猛虎を棲ましむ。

遺跡 九泉に翳【えい】し,芳名 千古を動かす。

(現代語訳)
《卷9-18遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#2》

こんなに冷遇されるならば、何のために、わざわざこの呉地に来たのか、まことに、詰らないといって、同遊の人人とともに長嘆して、互に慰め合って居た。

それはさておき、この溧陽の地には、むかし貞義を似て称せられた一婦人が居たので溧水の河岸において窮人を救った。

その風貌は、ありありと眼中に在るが如く、そして、白日の中において、その顔を見るような感じがする。

眺めやれば、古塚が五つ六つ堆をなして高まり、丁度、猛虎が踞んで居るような形をして居る。

彼女の遺跡は、この大地の上では、湮滅しかかつて居るが、その芳名は、千歳の後なる今日までも傳わって居る。

太湖上海地図
(訳注) #2

《卷9-18遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#2》

(溧陽の北湖亭に遊んで、遙かに瓦屋山を望んで、伍子胥のことを思い出し、この詩を作って同人の人に贈った。別題として【孟浩然に贈る】とした。)

溧陽 江南西道 宣州 溧陽(11)秦の始皇帝26年(紀元前221年)溧陽県を設けた(県治は今の高淳県固城鎮にあった)。今の溧陽市は秦の溧陽県の東部地域に属していた。三国呉の黄武元年(222年)、境内は元の溧陽県東部から永平県を分置し、後に永世県に改めた。

瓦屋山 江南西道 宣州 溧陽(11)江蘇省西南部,是溧陽市與句容市的界山,海拔352.1米。

 

長吁相勸勉,何事來關。

こんなに冷遇されるならば、何のために、わざわざこの呉地に来たのか、まことに、詰らないといって、同遊の人人とともに長嘆して、互に慰め合って居た。

 

聞有貞義女,振窮溧水灣。

それはさておき、この溧陽の地には、むかし貞義を似て称せられた一婦人が居たので

溧水の河岸において窮人を救った。

貞義女 《越絶書》「春秋時, 楚伍子胥奔至溧陽, 乞食於女子。 女子食之而嘆曰:妾獨與母居三十年, 自守貞明, 不願從適, 何宜饋飯而與丈夫?越虧禮義, 妾不忍也。 遂投江而亡。”見漢趙曄《越春秋‧王僚使公子光傳》。 後人遂以“貞義女”稱之。」(春秋の時, の楚伍子胥は奔して溧陽に至り,女子に食を乞う。 女子 之を食して 嘆じて曰く:妾は獨り母と居すること三十年, 自ら貞明を守り,適に從って願うことなし, 何ぞ宜く饋飯して丈夫を與えられん?越 禮義を虧い, 妾は忍ばざるなり。 遂に投江にじて亡す。”漢の趙曄《越春秋‧王僚使公子光傳》に見ゆ。 後 人 遂に以って“貞義女”と之を稱す。)に基づく。

溧水 江南西道 宣州 溧水 (11)南京市中心部から南に42km、長江デルタの最西端の丘陵地に位置する。南京市城内を貫く秦淮河の源流、水河が流れる

 

清光了在眼,白日如披顏。

その風貌は、ありありと眼中に在るが如く、そして、白日の中において、その顔を見るような感じがする。

 

高墳五六墩,崒兀棲猛虎。

眺めやれば、古塚が五つ六つ堆をなして高まり、丁度、猛虎が踞んで居るような形をして居る。

○崒兀 高く峻しいさま。杜甫《自京赴奉先縣詠懷五百字》「群冰從西下, 極目高崒兀。」たくさんの氷が西の方から流れくだる、みきわめるとそれは高くて山のそばだつようにみえる。

棲猛虎 猛虎が踞んで居るやうな形をして居る。

 

遺跡翳九泉,芳名動千古。

彼女の遺跡は、この大地の上では、湮滅しかかつて居るが、その芳名は、千歳の後なる今日までも傳わって居る。

九泉 吹燗九重を九泉という。大地の下にある九重の底で、黄泉をいう。木玄虚「海賦」(『文選』所収)の「吹烱九泉」の李善注に「地有九重、故曰九泉」とある。山上憶良作の「沈痾自哀文」では、『遊仙窟』を引用した中で「九泉」の言葉を見ることができる。そこでは、「九泉の下の人は、一銭にだに直せず」といい、死人には一文の価値もないことを言う。実際の『遊仙窟』の話を見ると、主人公である張文成が十娘と五嫂という女性両方を手に入れようとしているので、十娘がわざとすねてみせた言葉の一部分である。「少府(張文成)はわたしのことを死者と同様、何の役にも立たないとおっしゃるのでしょう。明日外に出られたら、わたしのことを一文の値打ちもない女だと言いふらすのでしょう」と言うのである。女から男に向けられた非難の台詞である。しかし憶良の「沈痾自哀文」は、男女の恋のやり取りではなく、生きることの難しさ、だからこそ生有ることが尊いのだと綿々と述べるのである。そして、生の重要さを強調するために死を卑下する表現として『遊仙窟』の言葉を用いている。中国文学における死者世界を生死の概念の中で理解していたのである。

唐時代 地図615 長江下流域 

 

 

 

溧陽の北湖亭に遊び、瓦屋山を望み、古えを懷い同旅に贈る【孟浩然に贈る】

朝に北湖の亭に上り、遙かに瓦屋の山を望む。

天は清くして、白露下り、はじめて、秋風の還るを覚ゆ。

游子、主人に託し、仰いで、眉睫の間を観る。

目色、飛鴻を送り、邈然として挙つべからず。

#2

長吁して相い勸勉し,何事か關に來る

聞く 貞義の女あり、,窮を振う 溧水の灣。

清光 了【つい】に眼に在り,白日 顏を披くが如し。

高墳 五六墩【とん】,崒兀【しゅつこつ】として 猛虎を棲ましむ。

遺跡 九泉に翳【えい】し,芳名 千古を動かす。

#3

子胥【ししょ】昔 食を乞い,此の女 壺漿を傾く。

運 開いて 宿憤を展べ,楚に入って 平王を鞭つ。

凜冽たり 天地の間,名を聞く 霜を懷くが若し。

壯夫 或は 未だ達せず,十步に 九太行。

君と衣を拂うて去り,萬里 同じく翔せん。

269-#1 《卷9-18遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】》Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 【3分割】<269-#1> Ⅰ李白詩1537 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6233

李白  遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#1

朝登北湖亭,遙望瓦屋山。天清白露下,始覺秋風還。

遊子託主人,仰觀眉睫間。目色送飛鴻,邈然不可攀。
(溧陽の北湖亭に遊んで、遙かに瓦屋山を望んで、伍子胥のことを思い出し、この詩を作って同人の人に贈った。別題として【孟浩然に贈る】とした。)朝に溧陽城を出でて、北湖亭に登り、遙かに瓦屋山を望んだ。時折しも秋で、天は澄み渡って、白露暁に降り、西風が冷たく身にしむのを覚えた。詩人たちと、折角、ここに遊びにきたが、風流人なのだろう主人は、空を仰ぎ見て、空間に目を向けている。

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年:739年開元二十七年39

卷別:    卷一六九              文體:    五言古詩

詩題:    遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】

作地點:              溧陽(江南西道 / 宣州 / 溧陽)

及地點:              溧陽 (江南西道 宣州 溧陽)              

北湖亭 (江南西道 宣州 溧陽)          

瓦屋山 (江南西道 宣州 溧陽)          

溧水 (江南西道 宣州 溧水)             

交遊人物:孟浩然              當地交遊(江南西道 宣州 溧陽)

 

 

遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#1

(溧陽の北湖亭に遊んで、遙かに瓦屋山を望んで、伍子胥のことを思い出し、この詩を作って同人の人に贈った。別題として【孟浩然に贈る】とした。)

朝登北湖亭,遙望瓦屋山。

朝に溧陽城を出でて、北湖亭に登り、遙かに瓦屋山を望んだ。

天清白露下,始覺秋風還。

時折しも秋で、天は澄み渡って、白露暁に降り、西風が冷たく身にしむのを覚えた。

遊子託主人,仰觀眉睫間。

詩人たちと、折角、ここに遊びにきたが、風流人なのだろう主人は、空を仰ぎ見て、空間に目を向けている。

目色送飛鴻,然不可攀。

飛ぶ雁に看惚れて居るようだ、客がきても、丸で相手にせず、邈然としで取らすがりようもない位である。

#2

長吁相勸勉,何事來關。

聞有貞義女,振窮溧水灣。

清光了在眼,白日如披顏。

高墳五六墩,崒兀棲猛虎。

遺跡翳九泉,芳名動千古。

#3

子胥昔乞食,此女傾壺漿。

運開展宿憤,入楚鞭平王。

凜冽天地間,聞名若懷霜。

壯夫或未達,十步九太行。

與君拂衣去,萬里同翔。

 

溧陽の北湖亭に遊び、瓦屋山を望み、古えを懷い同旅に贈る【孟浩然に贈る】

朝に北湖の亭に上り、遙かに瓦屋の山を望む。

天は清くして、白露下り、はじめて、秋風の還るを覚ゆ。

游子、主人に託し、仰いで、眉睫の間を観る。

目色、飛鴻を送り、邈然として挙つべからず。

#2

長吁して相い勸勉し,何事か關に來る

聞く 貞義の女あり、,窮を振う 溧水の灣。

清光 了【つい】に眼に在り,白日 顏を披くが如し。

高墳 五六墩【とん】,崒兀【しゅつこつ】として 猛虎を棲ましむ。

遺跡 九泉に翳【えい】し,芳名 千古を動かす。

#3

子胥【ししょ】昔 食を乞い,此の女 壺漿を傾く。

運 開いて 宿憤を展べ,楚に入って 平王を鞭つ。

凜冽たり 天地の間,名を聞く 霜を懷くが若し。

壯夫 或は 未だ達せず,十步に 九太行。

君と衣を拂うて去り,萬里 同じく翔せん。

太湖上海地図 

 

 

『遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#1

朝登北湖亭,遙望瓦屋山。

天清白露下,始覺秋風還。

遊子託主人,仰觀眉睫間。

目色送飛鴻,邈然不可攀。

(下し文)
溧陽の北湖亭に遊び、瓦屋山を望み、古えを懷い同旅に贈る【孟浩然に贈る】

朝に北湖の亭に上り、遙かに瓦屋の山を望む。

天は清くして、白露下り、はじめて、秋風の還るを覚ゆ。

游子、主人に託し、仰いで、眉睫の間を観る。

目色、飛鴻を送り、邈然として挙つべからず。

(現代語訳)
(溧陽の北湖亭に遊んで、遙かに瓦屋山を望んで、伍子胥のことを思い出し、この詩を作って同人の人に贈った。別題として【孟浩然に贈る】とした。)

朝に溧陽城を出でて、北湖亭に登り、遙かに瓦屋山を望んだ。

時折しも秋で、天は澄み渡って、白露暁に降り、西風が冷たく身にしむのを覚えた。

詩人たちと、折角、ここに遊びにきたが、風流人なのだろう主人は、空を仰ぎ見て、空間に目を向けている。

飛ぶ雁に看惚れて居るようだ、客がきても、丸で相手にせず、邈然としで取らすがりようもない位である。


(訳注)

遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅【贈孟浩然】#1

(溧陽の北湖亭に遊んで、遙かに瓦屋山を望んで、伍子胥のことを思い出し、この詩を作って同人の人に贈った。別題として【孟浩然に贈る】とした。)

溧陽 江南西道 宣州 溧陽(11)秦の始皇帝26年(紀元前221年)溧陽県を設けた(県治は今の高淳県固城鎮にあった)。今の溧陽市は秦の溧陽県の東部地域に属していた。三国呉の黄武元年(222年)、境内は元の溧陽県東部から永平県を分置し、後に永世県に改めた。

瓦屋山 江南西道 宣州 溧陽(11)江蘇省西南部,是溧陽市與句容市的界山,海拔352.1米。

 

朝登北湖亭,遙望瓦屋山。

朝に溧陽城を出でて、北湖亭に登り、遙かに瓦屋山を望んだ。

 

天清白露下,始覺秋風還。

時折しも秋で、天は澄み渡って、白露暁に降り、西風が冷たく身にしむのを覚えた。

 

遊子託主人,仰觀眉睫間。

詩人たちと、折角、ここに遊びにきたが、風流人なのだろう主人は、空を仰ぎ見て、空間に目を向けている。

遊子 故郷を離れている者。故郷を離れている者の歌、楽府題に遊子吟がある。

主人 北湖亭の主人。

 

目色送飛鴻,邈然不可攀。

飛ぶ雁に看惚れて居るようだ、客がきても、丸で相手にせず、邈然としで取らすがりようもない位である。

鴻 大きい鳥の名。ヒシクイ。ガンの一種。「鴻雁(こうがん)
江南東道 婺州 東陽00李白の足跡003 

268-#3 《卷9-06贈崔郎中宗之#3》Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 【3分割】<268-#3> Ⅰ李白詩1541 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6253

李白《卷9-06贈崔郎中宗之#3》

仲尼七十,歷聘莫見收。魯連逃千金,圭組豈可酬。

時哉苟不會,草木為我儔。希君同攜手,長往南山幽。
むかし、孔子は世に容れられず、七十余国を周流遊説したし、随分招碑もされたが、遂に収用されることもなかった。魯連は、高節を負って、天晴な大功を立てても、印授を受けることをいさぎよしとしなかった。希わくば、君と同じく手を携えて、幽遂なる南山にあとを収め、一たび去って配ることも無いようにしたいものである。

268-#3 《卷9-06贈崔郎中宗之#3》Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 【3分割】<268-#3> Ⅰ李白詩1541 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6253


 

年:739年開元二十七年39歳 

卷別:    卷一六九              文體:    五言古詩

詩題:    贈崔郎中宗之【案:時謫官金陵。】

交遊人物:崔成輔              書信往來

 

 

贈崔郎中宗之

(李白の飲み仲間で、且つ、親友であるところから、李白は自分の不遇を述べてその同情を促がしたもの。)

胡雁拂海翼,翔鳴素秋。

北方の胡地より飛んできた雁は、海を払う様な翼を振い、天半に翔って、涼しき秋に乗じて鳴き叫ぶのである。

驚雲辭沙朔,飄蕩迷河洲。

その声は雲を驚かせ、やがて、朔方の沙漠を去って南に向う、それから黄河の洲に下って、処定めぬ身を喞ちつつ、飄蕩のように迷っているのである。

有如飛蓬人,去逐萬里遊。

かくの如く、淋しい折から、われは飛蓬の飄飄と風に追われるように、遠く飛び去るのであり、果てて去って萬里の遊を試みているのである。

#2

登高望浮雲,彷彿如舊丘。

かくて、高い山などに登って、浮雲の棚引く空の果てを望めば、あたりの有榛は、彷彿として、わが故郷の如くである。

日從海傍沒,水向天邊流。

しかし、日は西海より地平線下に没し、水は天邊に向って流れ、まことに、だだッ廣い景色で、故郷は何処とも分らない。

長嘯倚孤劍,目極心悠悠。

そこで、孤剣に倚って長嘯し、目を極めて遠望すると、心悠悠として、郷愁は涯なき程である。

晏歸去來,富貴安可求。

自分は、すでに老境に近づいたから、むしろ、「さあ故郷へ帰ろう」方が善いので、富貴などは如何にして求められよう、到底、望ないことである。

#3

仲尼七十聘莫見收。

むかし、孔子は世に容れられず、七十余国を周流遊説したし、随分招碑もされたが、遂に収用されることもなかった。

魯連逃千金,圭組豈可酬。

魯連は、高節を負って、天晴な大功を立てても、印授を受けることをいさぎよしとしなかった。

時哉苟不會,草木為我儔。

幸にして、好き機会に遇えば、起って、心ゆくばかりの大功も立てられるか、そうでなければ、草木と同じく朽ちはてるばかりであり、その位なら、然るべき処に隠れ住んだ方が善いというものだ。

希君同攜手,長往南山幽。

希わくば、君と同じく手を携えて、幽遂なる南山にあとを収め、一たび去って配ることも無いようにしたいものである。

 

(崔郎中宗之に贈る)

胡雁、海を拂うの翼,翔して素秋に鳴く

雲を驚かして沙朔を辞し、飄蕩 河洲に迷う。

飛蓬の如きの人あり、去って逐ふ萬里の遊。

#2

高きに登って、浮雲を望めば、彷彿として、旧邱の如し。

日は 海傍より沒し,水は天邊に向って流る。

長嘯 孤劍に倚り,目極って心 悠悠。

 晏く「歸去來」,富貴 安んぞ求む可けんや。

#3

仲尼七十 收めらるる莫し。

魯連 千金を逃れ,圭組 豈に酬可けんや。

時なる哉 苟くも會せず,草木 為我が儔たり。

希わくば 君 同じく手を攜え,長く往かん 南山の幽なるに。

 

 

贈崔郎中宗之』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

仲尼七十,歷聘莫見收。

魯連逃千金,圭組豈可酬。

時哉苟不會,草木為我儔。

希君同攜手,長往南山幽。

(下し文) #3

仲尼七十,歷聘 收めらるる莫し。

魯連 千金を逃れ,圭組 豈に酬可けんや。

時なる哉 苟くも會せず,草木 為我が儔たり。

希わくば 君 同じく手を攜え,長く往かん 南山の幽なるに。

(現代語訳) #3

むかし、孔子は世に容れられず、七十余国を周流遊説したし、随分招碑もされたが、遂に収用されることもなかった。

魯連は、高節を負って、天晴な大功を立てても、印授を受けることをいさぎよしとしなかった。

幸にして、好き機会に遇えば、起って、心ゆくばかりの大功も立てられるか、そうでなければ、草木と同じく朽ちはてるばかりであり、その位なら、然るべき処に隠れ住んだ方が善いというものだ。

希わくば、君と同じく手を携えて、幽遂なる南山にあとを収め、一たび去って配ることも無いようにしたいものである。


(訳注) #3

贈崔郎中宗之

(李白の飲み仲間で、且つ、親友であるところから、李白は自分の不遇を述べてその同情を促がしたもの。)

杜甫《卷二01飲中八仙歌》「宗之蕭灑美少年,舉觴白眼望青天,皎如玉樹臨風前。」

宗之瀟灑美少年,舉觴白眼望青天,皎如玉樹臨風前。
崔宗之は垢抜けた美少年、杯を挙げては白眼で晴天を望む、輝くようなその姿は風前の玉樹のようだ。宗之 崔宗之。宗之は崔日用の子、斉国公に襲ぎ封ぜられる。また侍御史となったことがある。(崔宗之〔唐〕名成輔,以字行,滑州靈昌(今河南滑縣)人。日用子,襲封齊國公。好學,寬博有風檢,與李白、杜甫以文相知。)瀟灑 さっぱりしたさま。腸 さかずき。白眼 魏の阮籍の故事、籍は俗人を見るときには白眼をむきだした。 しろいさま。玉樹 うつくしい樹。魏の夏侯玄が嘗て毛骨と並び坐ったところが、時の人はそれを「葉餞玉樹二倍ル」といったという、玄のうつくしいさまをいったもの。臨風前 風の前に立っている。

 

仲尼七十歷聘莫見收。

むかし、孔子は世に容れられず、七十余国を周流遊説したし、随分招碑もされたが、遂に収用されることもなかった。

○仲尼七十 孔子が世に容れられず、七十余国を周流遊説したこと。《淮南子》卷二十〈泰族訓〉「孔子欲行王道,東西南北,七十而無所偶。」

○歷聘 度々招聘される。

 

魯連逃千金,圭組豈可酬。

魯連は、高節を負って、天晴な大功を立てても、印授を受けることをいさぎよしとしなかった。

○魯連逃千金 ・魯連 魯仲連(約西元前305年~西元前245年)戦国時代の斉の雄弁家。高節を守って誰にも仕えず、諸国を遊歴した。生没年未詳。魯連。・延州 季札(きさつ、生没年不詳)は、中国春秋時代の呉で活躍した政治家。姓は姫。呉の初代王寿夢の少子。清廉賢哲を以って知られ、延陵の季子として知られる。

謝靈運《入東道路詩》「魯連謝千金.延州權去朝.」(魯連【ろれん】は千金を謝し、延州は権【かり】に朝を去る。)魯中連は千金をもってしても高節を守って誰にも仕えず、春秋時代の呉の季札は清廉賢哲を以って知られ朝、固辞して朝立ち去った。

入東道路詩(東の道路に入るの詩)

整駕辭金門.命旅惟詰朝.

懷居顧歸雲.指塗泝行飆.

清明節.榮華感和韶.

陵隰繁綠杞.墟囿粲紅桃.

鷕鷕翬方雊.纖纖麥垂苗.
隱軫邑里密.緬邈江海遼.
滿目皆古事.心賞貴所高.
魯連謝千金.延州權去朝.
行路既經見.願言寄吟謠.

入東道路詩 謝霊運(康楽) 詩<44#2 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1110

圭組 圭:有位者が證験としてもつもの。組:印の紐。

 

時哉苟不會,草木為我儔。

幸にして、好き機会に遇えば、起って、心ゆくばかりの大功も立てられるか、そうでなければ、草木と同じく朽ちはてるばかりであり、その位なら、然るべき処に隠れ住んだ方が善いというものだ。

 

希君同攜手,長往南山幽。

希わくば、君と同じく手を携えて、幽遂なる南山にあとを収め、一たび去って配ることも無いようにしたいものである。

南山 盧山を象徴的に言い、隠遁のために山に入ることを意味する。

古風,五十九首之四十七

桃花開東園,含笑誇白日。

偶蒙東風榮,生此豔陽質。

豈無佳人色,但恐花不實。

宛轉龍火飛,零落早相失。

詎知南山松,獨立自蕭飋。

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李白《卷9-06贈崔郎中宗之#2》

登高望浮雲,彷彿如舊丘。日從海傍沒,水向天邊流。

長嘯倚孤劍,目極心悠悠。晏歸去來,富貴安可求
かくて、高い山などに登って、浮雲の棚引く空の果てを望めば、あたりの有榛は、彷彿として、わが故郷の如くである。しかし、日は西海より地平線下に没し、水は天邊に向って流れ、まことに、だだッ廣い景色で、故郷は何処とも分らない。そこで、孤剣に倚って長嘯し、目を極めて遠望すると、心悠悠として、郷愁は涯なき程である。自分は、すでに老境に近づいたから、むしろ、「さあ故郷へ帰ろう」方が善いので、富貴などは如何にして求められよう、到底、望ないことである。

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