李白 秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗
秋顏入曉鏡,壯髮凋危冠。窮與鮑生賈,飢從漂母餐。
時來極天人,道在豈吟嘆。樂毅方適趙,蘇秦初說韓。
卷舒固在我,何事空摧殘。
というのも、鏡は暁に寒くして、秋に衰えたる我が顔を写し、高い冠の下には、凋みかかった髪の毛をかくして居るので、わが身の姿かたちの枯稿するを見れば、感慨に堪へぬ次第である。ここに、人間の事を考へると、かの管仲の如きも、貪しき時は、飽叔牙と共に行商をして居たというし、韓信の如きも、餓えた時には、漂母の贈った一飯にどうやら腹を脹らせたという話である。しかし、時、一たび至れば、管仲は、齊の桓公をたすけて、天晴覇業を成し、諸侯を九合し、天下を一匡し、韓信は、漢の高祖を扶けて、四百年の帝業を成就した。この二人は、幸にして、時が来たために、天人の際を極めて、自由自在に、その志ざすところを伸ばすことが出来たので、いやしくも、道、ここに在り、つまり、今の境涯が必然的の過程であるとすれば、如何に窮迫したとても、決して深く吟嘆するには及ばぬことである。それから、楽毅は、燕の昭王の命を奉じ、趙にいって之を説き、遂に諸侯の兵を聯合して、齊を討ったというし、蘇秦は、合従の謀を実施するために、最初に、韓に往いて遊説し、韓王をして、秦に反抗せしめた。楽毅が趙に往ったのも、蘇秦が韓に設いたのも、彼等の志を遂げる上から云うと、丁度、功業の手始めであった。おのれも、志ぎすところの功業は、まだ實現せねが、まさしく、端緒には就いて居るので、今しも道行の最中に居るのである。されば、之を放って六合にわたり、之を巻いて密に退蔵すという如き卷舒は、すべて、我が一心にあるので、我が一心が、この時、撓んで仕舞えば、それ切りで、何にも成らぬが、屈伸その宜しきを得、その時に随って、道を施して行くならば、物の見事に、目的が遂げられるに相違ないここに、蕭颯たる秋の気に感じて、白髪を鑷しつつ、無限の愁嘆を起したものの、考えて見れば、如何に難儀をしたとても、目的さへ確かりして居るならば、自ら挫けて落胆するにも及ばぬわけである。
294-#2 《卷九01秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <294-#2> Ⅰ李白詩1588 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6488
年:-741年開元二十九年41歳
卷別: 卷一六九 文體: 五言古詩
詩題: 秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗
作地點: 潁陽(都畿道 / 河南府 / 潁陽)
及地點: 煉藥院 (都畿道 河南府 潁陽)
交遊人物:元丹丘 當地交遊(都畿道 河南府 潁陽)
秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗
(秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗【元丹丘】に贈った)
木落識歲秋,瓶冰知天寒。
木の葉がばらばらと落ちるを見るに、今年も、すでに半ばを過ぎて、秋に成ったということが分るし、瓶中の水の氷れるを見れば、天、いよいよ寒くして、すでに冬に成りかかったということが知れる。今しも、世は秋の末で、追々寒い時節となったということであり、秋の末といえば、人の死境に近付いたと同じことで、何人も、此れに対して、感懐を起さぬものは無かろう。
桂枝日已綠,拂雪凌雲端。
唯だ、我が元林宗の如く道術に達した人は、桂枝が四時緑に茂り、積れる雪を払って雲端を凌ぐが如くである。
弱齡接光景,矯翼攀鴻鸞。
人も、此の域に到達しなければ、到底駄目なので、時節の変遷につれて、身體にまで申し分が出てくるようでは、全くお話にもならない。おのれも、年の若い時分から、仙道に志、元六兄の風采に接し、始終の人に遇って居たので、たとえば、翼を矯げて鴻鸞を攀じるが如く、元六兄の後から付いて参って、その人と同一なる仙家の境涯に到達したいという願望を起した。
投分三十載,榮枯同所歡。
かくて、ひとたび「莫逆の交じりを結んで」より、三十歳の久しい間、栄えるも、衰えるも、君と共にし、決してかわるまいと互いに固く誓った、
長吁望青雲,鑷白坐相看。
元六兄が超然独立、桂枝の日に緑なるが如きに反し、自分は、そう行かないの見ると、元の仙分に厚薄の別があるので、長吁して、天上の青雲を望み、おのが身をそこに致し得ざることを嘆嗟し、新たに頭上に霜を置きたる白髪を毛抜きで抜きながら、ここに元六兄に対坐して居るのである。
秋顏入曉鏡,壯髮凋危冠。
というのも、鏡は暁に寒くして、秋に衰えたる我が顔を写し、高い冠の下には、凋みかかった髪の毛をかくして居るので、わが身の姿かたちの枯稿するを見れば、感慨に堪へぬ次第である。
窮與鮑生賈,飢從漂母餐。
ここに、人間の事を考へると、かの管仲の如きも、貪しき時は、飽叔牙と共に行商をして居たというし、韓信の如きも、餓えた時には、漂母の贈った一飯にどうやら腹を脹らせたという話である。
時來極天人,道在豈吟嘆。
しかし、時、一たび至れば、管仲は、齊の桓公をたすけて、天晴覇業を成し、諸侯を九合し、天下を一匡し、韓信は、漢の高祖を扶けて、四百年の帝業を成就した。この二人は、幸にして、時が来たために、天人の際を極めて、自由自在に、その志ざすところを伸ばすことが出来たので、いやしくも、道、ここに在り、つまり、今の境涯が必然的の過程であるとすれば、如何に窮迫したとても、決して深く吟嘆するには及ばぬことである。
樂毅方適趙,蘇秦初說韓。
それから、楽毅は、燕の昭王の命を奉じ、趙にいって之を説き、遂に諸侯の兵を聯合して、齊を討ったというし、蘇秦は、合従の謀を実施するために、最初に、韓に往いて遊説し、韓王をして、秦に反抗せしめた。楽毅が趙に往ったのも、蘇秦が韓に設いたのも、彼等の志を遂げる上から云うと、丁度、功業の手始めであった。
卷舒固在我,何事空摧殘。
おのれも、志ぎすところの功業は、まだ實現せねが、まさしく、端緒には就いて居るので、今しも道行の最中に居るのである。されば、之を放って六合にわたり、之を巻いて密に退蔵すという如き卷舒は、すべて、我が一心にあるので、我が一心が、この時、撓んで仕舞えば、それ切りで、何にも成らぬが、屈伸その宜しきを得、その時に随って、道を施して行くならば、物の見事に、目的が遂げられるに相違ないここに、蕭颯たる秋の気に感じて、白髪を鑷しつつ、無限の愁嘆を起したものの、考えて見れば、如何に難儀をしたとても、目的さへ確かりして居るならば、自ら挫けて落胆するにも及ばぬわけである。
(秋日鍊藥院に白髪を錦し元六兄林宗に贈る)
木落ちて、歳の秋たるを識り、瓶氷って、天の寒さを知る。
桂枝日に己に緑に、雪を払うて雲端を凌ぐ。
弱齢、光景に接し、矯翼、鴻鸞を攀づ。
投分三十載、栄枯、所歓を同じうす。
長吁、青雲を望み、白を鑷して坐して相看る。
秋顔、暁鏡に入り、壯髮、危冠を凋む。
窮して飽生と賈し、餞ゑて漂母に従って餐す。
時來って、天人を極め、道在り、豈に吟嘆せむや。
樂毅 方に趙に適き,蘇秦 初めて韓に說く。
卷舒 固より我に在り,何事ぞ 空しく摧殘。
『秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗』 現代語訳と訳註解説
(本文)
秋顏入曉鏡,壯髮凋危冠。
窮與鮑生賈,飢從漂母餐。
時來極天人,道在豈吟嘆。
樂毅方適趙,蘇秦初說韓。
卷舒固在我,何事空摧殘。
(下し文)
秋顔、暁鏡に入り、壯髮、危冠を凋む。
窮して飽生と賈し、餞ゑて漂母に従って餐す。
時來って、天人を極め、道在り、豈に吟嘆せむや。
樂毅 方に趙に適き,蘇秦 初めて韓に說く。
卷舒 固より我に在り,何事ぞ 空しく摧殘。
(現代語訳)
というのも、鏡は暁に寒くして、秋に衰えたる我が顔を写し、高い冠の下には、凋みかかった髪の毛をかくして居るので、わが身の姿かたちの枯稿するを見れば、感慨に堪へぬ次第である。
ここに、人間の事を考へると、かの管仲の如きも、貪しき時は、飽叔牙と共に行商をして居たというし、韓信の如きも、餓えた時には、漂母の贈った一飯にどうやら腹を脹らせたという話である。
しかし、時、一たび至れば、管仲は、齊の桓公をたすけて、天晴覇業を成し、諸侯を九合し、天下を一匡し、韓信は、漢の高祖を扶けて、四百年の帝業を成就した。この二人は、幸にして、時が来たために、天人の際を極めて、自由自在に、その志ざすところを伸ばすことが出来たので、いやしくも、道、ここに在り、つまり、今の境涯が必然的の過程であるとすれば、如何に窮迫したとても、決して深く吟嘆するには及ばぬことである。
それから、楽毅は、燕の昭王の命を奉じ、趙にいって之を説き、遂に諸侯の兵を聯合して、齊を討ったというし、蘇秦は、合従の謀を実施するために、最初に、韓に往いて遊説し、韓王をして、秦に反抗せしめた。楽毅が趙に往ったのも、蘇秦が韓に設いたのも、彼等の志を遂げる上から云うと、丁度、功業の手始めであった。
おのれも、志ぎすところの功業は、まだ實現せねが、まさしく、端緒には就いて居るので、今しも道行の最中に居るのである。されば、之を放って六合にわたり、之を巻いて密に退蔵すという如き卷舒は、すべて、我が一心にあるので、我が一心が、この時、撓んで仕舞えば、それ切りで、何にも成らぬが、屈伸その宜しきを得、その時に随って、道を施して行くならば、物の見事に、目的が遂げられるに相違ないここに、蕭颯たる秋の気に感じて、白髪を鑷しつつ、無限の愁嘆を起したものの、考えて見れば、如何に難儀をしたとても、目的さへ確かりして居るならば、自ら挫けて落胆するにも及ばぬわけである。
(訳注)
秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗
(秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗【元丹丘】に贈った)
○鍊藥院というのは、道観の名であって、その字の示す通とおり、道士輩がここでで長生延命の薬を錬るのである。その縁起等は一切わからぬが、要するに、格別広大な道院でもなく、又後には亡びて仕舞ったものと見える。それから、元六兄林宗は、元林宗、排行は六にあたる人で、矢張鍊藥院の道士であるが、元丹邱のことである。
この詩は、秋日、鍊藥院において、李白が白髪を毛抜きで抜き取りながら、その感慨を叙して、そこにいる道士の元林宗という人におくったのである。
秋顏入曉鏡,壯髮凋危冠。
というのも、鏡は暁に寒くして、秋に衰えたる我が顔を写し、高い冠の下には、凋みかかった髪の毛をかくして居るので、わが身の姿かたちの枯稿するを見れば、感慨に堪へぬ次第である。
○危冠 髙い冠。
窮與鮑生賈,飢從漂母餐。
ここに、人間の事を考へると、かの管仲の如きも、貪しき時は、飽叔牙と共に行商をして居たというし、韓信の如きも、餓えた時には、漂母の贈った一飯にどうやら腹を脹らせたという話である。
○窮與鮑生賈 《史》「記管仲曰、吾始困時、嘗与鮑叔賈。分財利多自与。鮑叔不以我為貪。知我貧也。吾嘗為鮑叔謀事、而更窮困。鮑叔不以我為愚。知時有利不利也。吾嘗三仕三見逐於君。」(管仲曰く、吾始め困しみし時、嘗て鮑叔と賈す。財利を分かつに多く自ら与ふ。鮑叔我を以て貪と為さず。我の貧なるを知ればなり。吾嘗て鮑叔の為に事を謀りて、更に窮困す。鮑叔我を以て愚と為さず。時に有利と不利と有るを知ればなり。吾嘗て三たび仕へて三たび君に逐はる。)
○飢從漂母餐 「漂母進食」の故事。前漢の韓信は家が貧乏であった。そこで准陰下郷県の南昌亭という宿場の長の家に居候をしていた。亭長の妻は彼を迷惑がり、朝早く飯をたいて寝床の中で食べてしまった。食事時に彼が行くと、もう食べ物はなく、彼のために飯の仕度したくはしなかった。韓信はこれは自分をいやがっているのだと悟り、自分から見切りをつけてそこを出てしまった。それから、准陰の城下にやって来て准水の流れで釣りをしていた。一人の洗濯ばあさんが彼の困っている様を見てかわいそうに思い、彼を数十日もの間食べさせてやった。彼は感謝して、「お前さんの恩は決して忘れやしないよ。今にきっとうんとお返しするからね」と言うと、ばあさんは「とんでもない。大の男が食べることもできないのがかわいそうだから、お前さまに食べさせてあげたのさ。どうして、最初からお礼なんかあてにしてはいませんよ」とて、彼の返礼など問題にしていなかった。そして、彼が高祖に従い手柄を立てて楚王になると、彼はその洗濯ばあさんを呼んでその恩に報いるべく千金を与え、下郷の亭長にはわずか銭百文だけしか与えないで、「お前はちっぽけな男だ。わしに恩徳を施し遂げられなかった」と言った。
時來極天人,道在豈吟嘆。
しかし、時、一たび至れば、管仲は、齊の桓公をたすけて、天晴覇業を成し、諸侯を九合し、天下を一匡し、韓信は、漢の高祖を扶けて、四百年の帝業を成就した。この二人は、幸にして、時が来たために、天人の際を極めて、自由自在に、その志ざすところを伸ばすことが出来たので、いやしくも、道、ここに在り、つまり、今の境涯が必然的の過程であるとすれば、如何に窮迫したとても、決して深く吟嘆するには及ばぬことである。
樂毅方適趙,蘇秦初說韓。
それから、楽毅は、燕の昭王の命を奉じ、趙にいって之を説き、遂に諸侯の兵を聯合して、齊を討ったというし、蘇秦は、合従の謀を実施するために、最初に、韓に往いて遊説し、韓王をして、秦に反抗せしめた。楽毅が趙に往ったのも、蘇秦が韓に設いたのも、彼等の志を遂げる上から云うと、丁度、功業の手始めであった。
○樂毅方適趙 《史記卷八十樂毅列傳》是燕昭王問伐齊之事
斉湣王田地は自(みずか)ら誇(ほこ)り、百姓は堪(た)えられなくなった。ここに於いて燕昭王姫平は斉を討(う)つ事をたずねた。
樂毅對曰齊霸國之餘業也地大人眾未易獨攻也
燕亞卿楽毅は応(こた)えて曰く、「斉の国を覇(は)して残した業績(ぎょうせき)とは、地が大きくなり、人々が多くなったことで、未(ま)だ単独で攻(せ)めるのは容易(ようい)ではありません。
王必欲伐之莫如與趙及楚魏
王(燕昭王姫平)が必ずこれ(斉)を討(う)つことを欲するならば、趙、及び楚、魏とともにするにこしたことはありません」と。
於是使樂毅約趙惠文王別使連楚魏
ここに於いて燕亞卿楽毅をして趙恵文王趙何に約束させ、別の使者をして楚、魏を属(ぞく)させ、
令趙嚪說秦以伐齊之利
趙に令(れい)して、秦に斉を討(う)つことの利(り)を以って誘(さそ)い説(と)かせた。
諸侯害齊湣王之驕暴皆爭合從與燕伐齊
諸侯は斉湣王田地の驕(おご)りたかぶって態度が荒々しいのを憎(にく)み、皆(みな)合従を争(あらそ)って燕とともに斉を討(う)とうとした。
樂毅還報燕昭王悉起兵使樂毅為上將軍
燕亞卿楽毅は還(かえ)り報告した。燕昭王姫平はことごとく兵を起(お)こし、燕亞卿楽毅をして、燕上将軍と為(な)し、
趙惠文王以相國印授樂毅
趙恵文王趙何は趙相国印を以って燕亞卿上将軍楽毅に授(さず)けた。
樂毅於是并護趙楚韓魏燕之兵以伐齊破之濟西
燕亞卿上将軍楽毅はここに於いて、趙、楚、韓、魏、燕の兵を併(あわ)せ統率(とうそつ)し、斉を討(う)つを以って済(川名)の西にこれを破(やぶ)った。
○蘇秦初說韓 史記 蘇秦列伝
蘇秦列伝における事跡である。
洛陽の人。斉に行き、張儀と共に鬼谷に縦横の術を学んだ。数年間諸国を放浪し、困窮して帰郷した所を親族に嘲笑され、発奮して相手を説得する方法を作り出した。最初に周の顕王に近づこうとしたが、蘇秦の経歴を知る王の側近らに信用されず、失敗した。次に秦に向かい、恵文王に進言したが、受け入れられなかった。当時の秦は商鞅が死刑になった直後で、弁舌の士を敬遠していた時期のためである。
その後は燕の文公に進言して趙との同盟を成立させ、更に韓・魏・斉・楚の王を説いて回り、戦国七雄のうち秦を除いた六国の間に同盟を成立させ、六国の宰相を兼任した。この時、韓の宣恵王を説いた際に、後に故事成語として知られる「鶏口となるも牛後となることなかれ」という言辞を述べた。
趙に帰った後、粛侯から武安君に封じられ、同盟の約定書を秦に送った。以後、秦は15年に渡って東に侵攻しなかった。蘇秦の方針は秦以外の国を同盟させ、それによって強国である秦の進出を押さえ込もうとするもので、それらの国が南北に縦に並んでいることから合従説と呼ばれた。
合従を成立させた蘇秦は故郷に帰ったが、彼の行列に諸侯それぞれが使者を出して見送り、さながら王者のようであった。これを聞いて周王も道を掃き清めて出迎え、郊外まで人を出して迎えた。故郷の親戚たちは恐れて顔も上げない様であった。彼は「もし自分にわずかの土地でもあれば、今のように宰相の印を持つことができたろうか」と言い、親族・友人らに多額の金銭を分け与えた。
合従解体後は燕に仕えたが、国内での立場が微妙になったために斉に移った。その目的は斉の国力を弱め、燕の利益を図ることにあった。斉では湣王に取り立てられたが、そのため対立者により暗殺された。死ぬ直前に湣王に対して「私が死んだら私の遺体に対し車裂きの刑に処し、『蘇秦は燕のために斉で謀反を企てた』としてください。そうすれば私を殺した者が出てくるでしょう」と言った。湣王は蘇秦の遺言に従うと、蘇秦を殺した者が自首してきたので捕らえて処刑した。
張儀列伝によると、張儀を秦に送ったのも蘇秦の魂胆で、秦による趙への出兵を張儀に止めさせる狙いがあった。
卷舒固在我,何事空摧殘。
おのれも、志ぎすところの功業は、まだ實現せねが、まさしく、端緒には就いて居るので、今しも道行の最中に居るのである。されば、之を放って六合にわたり、之を巻いて密に退蔵すという如き卷舒は、すべて、我が一心にあるので、我が一心が、この時、撓んで仕舞えば、それ切りで、何にも成らぬが、屈伸その宜しきを得、その時に随って、道を施して行くならば、物の見事に、目的が遂げられるに相違ないここに、蕭颯たる秋の気に感じて、白髪を鑷しつつ、無限の愁嘆を起したものの、考えて見れば、如何に難儀をしたとても、目的さへ確かりして居るならば、自ら挫けて落胆するにも及ばぬわけである。