漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

李白詩全集 卷六

744年年44歳-15李太白集230卷六25白云歌送劉十六歸山  430Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-15【56首】Ⅰ李白詩1806 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7570

李白  白雲歌,送劉十六歸山

楚山秦山皆白雲,白雲處處長隨君。

長隨君,君入楚山裏,雲亦隨君渡湘水。

湘水上,女蘿衣,白雲堪臥君早歸。
(道を究め、仙人の風貌を持った劉君が、修行を重ねた楚の山還るというので、白雲の歌としてこれを送る詩)   君が故国にある楚の山々も、長安をめぐる泰の山々も、皆、白雲を帯びている。白雲は、処処に於いて、隠者の君に随って居るので、君が長安の泰山に居ても、間違いなく白雲が随って居るのである。故郷の楚山に居れば、矢張白雲が君に随って湧き出のである。かくの如く、高士の君がいれば、どこでも白雲が随って居る上は、同じ境涯であるから、何も都を棄て、故郷へ帰る必要は無いようにおもわれるのであるが、故郷の白雲は、又格別であると見えて、君は、此度、故郷に歸られる。そうして、君が故郷へ歸られると、秦山の雲は、君に随って湘水を渡ることになり、やがて楚山の雲となるのである。湘水の上なる楚山には、薜茘、女蘿が叢生して居るから、これを採って衣とすることができる。こう考えれば、君は薜茘、女蘿を衣となし、白雲に高臥し、優游、餘生をおくられようというのであるから、早くお歸りに成った方が宜しいということになってしまう。

李太白集 卷六25

白雲歌,送劉十六歸山

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7570

Index-24  744年天寶三年44歳 56-15

430 <1000

 

 

 

-378-230卷六25 云歌送劉十六歸山  (楚山秦山皆白雲,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

164_39

文體:

歌吟(樂府)

李太白集 

25

 

 

詩題:

白云歌,送劉十六歸山

序文

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) 秦山

及地點:

楚山

湘水 

 

咸陽

交遊人物:

 

 

 

 

全唐詩

166_41 《白雲歌,送劉十六歸山》李白 

楚山秦山皆白雲,白雲處處長隨君。

長隨君,君入楚山裏,雲亦隨君渡湘水。

湘水上,女蘿衣,白雲堪臥君早歸。 

 

李太白集:230卷六25白云歌送劉十六歸山

  白雲歌送劉十六歸山

楚山秦山皆白雲、白雲處處長隨君。

長隨君、君入楚山裏。雲亦隨君渡湘水。

齊賢曰 湘水出唐桂州興安縣海陽山西至于全州又北至于洞庭

湘水上女蘿衣白雲堪卧君早歸

士斌曰意劉十六楚/人而遊於秦送其歸山者歸/楚山也

 

李白詩校注:白雲歌送劉十六歸山(卷七(一)五二六)

  白雲歌送劉十六歸山

楚山秦山皆白雲,白雲處處長隨君。

長隨君,君入楚山裏,雲亦隨君渡湘水。

湘水上,女蘿衣,白雲堪臥君早歸。

《通鑑地理通釋》湘水出全州淸湘縣陽朔山東入洞庭北至衡州衡陽縣入江楚辭被薜荔兮帶女蘿

𢎞靜曰 「太白、賦新鶯百囀、與白雲歌、無咏物句。自是、天仙語。他人稍有擬象、 即屬凡辭。

 

 

 

白雲歌,送劉十六歸山

(道を究め、仙人の風貌を持った劉君が、修行を重ねた楚の山還るというので、白雲の歌としてこれを送る詩)

楚山秦山皆白雲,白雲處處長隨君。

君が故国にある楚の山々も、長安をめぐる泰の山々も、皆、白雲を帯びている。白雲は、処処に於いて、隠者の君に随って居るので、君が長安の泰山に居ても、間違いなく白雲が随って居るのである。

長隨君,君入楚山裏,雲亦隨君渡湘水。

故郷の楚山に居れば、矢張白雲が君に随って湧き出のである。かくの如く、高士の君がいれば、どこでも白雲が随って居る上は、同じ境涯であるから、何も都を棄て、故郷へ帰る必要は無いようにおもわれるのであるが、故郷の白雲は、又格別であると見えて、君は、此度、故郷に歸られる。そうして、君が故郷へ歸られると、秦山の雲は、君に随って湘水を渡ることになり、やがて楚山の雲となるのである。

湘水上,女蘿衣,白雲堪臥君早歸。 

湘水の上なる楚山には、薜茘、女蘿が叢生して居るから、これを採って衣とすることができる。こう考えれば、君は薜茘、女蘿を衣となし、白雲に高臥し、優游、餘生をおくられようというのであるから、早くお歸りに成った方が宜しいということになってしまう。

(白雲の歌,劉十六の山に歸るを送る。)

楚山 秦山 皆 白雲,白雲 處處 長く君に隨う。

長く君に隨って,君は楚山の裏に入り,雲 亦た 君に隨って 湘水を渡る。

湘水の上り,女蘿の衣,白雲 臥するに堪えたり 君 早く歸れ。

 

李白の足跡0000 

『白雲歌,送劉十六歸山』現代語訳と訳註解説
(
本文)

白雲歌,送劉十六歸山

楚山秦山皆白雲,白雲處處長隨君。

長隨君,君入楚山裏,雲亦隨君渡湘水。

湘水上,女蘿衣,白雲堪臥君早歸。

(下し文)
(白雲の歌,劉十六の山に歸るを送る。)

楚山 秦山 皆 白雲,白雲 處處 長く君に隨う。

長く君に隨って,君は楚山の裏に入り,雲 亦た 君に隨って 湘水を渡る。

湘水の上り,女蘿の衣,白雲 臥するに堪えたり 君 早く歸れ。

(現代語訳)
白雲歌,送劉十六歸山(道を究め、仙人の風貌を持った劉君が、修行を重ねた楚の山還るというので、白雲の歌としてこれを送る詩)

君が故国にある楚の山々も、長安をめぐる泰の山々も、皆、白雲を帯びている。白雲は、処処に於いて、隠者の君に随って居るので、君が長安の泰山に居ても、間違いなく白雲が随って居るのである。

故郷の楚山に居れば、矢張白雲が君に随って湧き出のである。かくの如く、高士の君がいれば、どこでも白雲が随って居る上は、同じ境涯であるから、何も都を棄て、故郷へ帰る必要は無いようにおもわれるのであるが、故郷の白雲は、又格別であると見えて、君は、此度、故郷に歸られる。そうして、君が故郷へ歸られると、秦山の雲は、君に随って湘水を渡ることになり、やがて楚山の雲となるのである。

湘水の上なる楚山には、薜茘、女蘿が叢生して居るから、これを採って衣とすることができる。こう考えれば、君は薜茘、女蘿を衣となし、白雲に高臥し、優游、餘生をおくられようというのであるから、早くお歸りに成った方が宜しいということになってしまう。


(訳注) 

白雲歌,送劉十六歸山

(道を究め、仙人の風貌を持った劉君が、修行を重ねた楚の山還るというので、白雲の歌としてこれを送る詩)

1 劉十六 この劉十六といふ人は、名字ともに分らぬ。しかし、李白がわざわざ、この詩を作って其旅の餞別したのを見れば、湘水、衡山に住む山水に高臥をたのしむ隠者であろうことがわかる。気配を消すほどに、高士であるから例によって人物はわからない。十六は排行で、先祖を祀るときの席の順番であったもので、唐では一族の権威的な意味でよく使われた。

2 評価 方𢎞靜曰「太白、賦新鶯百囀、與白雲歌、無咏物句。自是、天仙語。他人稍有擬象、 即屬凡辭。」(太白、新鶯百囀を賦する、白雲歌と、咏物の句無し。、天仙なり他人が稍やもして擬象有らば、即ち凡辭に屬す。𢎞靜:方弘静朝代:明. 人物簡介. 中國歷代人名大辭典. 【生卒】:1516—1611 【介紹】: 明徽州府歙縣人,字定之,號采山。嘉靖二十九年進士。授東平知州,遷南京部郎中,出為四川僉事,累官南京部侍郎

 

楚山秦山皆白雲,白雲處處長隨君。

君が故国にある楚の山々も、長安をめぐる泰の山々も、皆、白雲を帯びている。白雲は、処処に於いて、隠者の君に随って居るので、君が長安の泰山に居ても、間違いなく白雲が随って居るのである。

3 楚山 この場合、洞庭湖の付近、瀟湘八景をめぐって、衡山、桃源にかけて何処も隠遁の場所である。

4 秦山 凡そ、終南山を言うのであろう。

5 白雲 しばしば仙郷のイメージとしてつかい、隠者の散居の象徴とされる。『荘子』. 天地篇に「千歳,世を厭ひて去り,仙に上る」彼の白雲に乗じて帝郷(天帝の郷)に至る」と. ある。《莊子、外篇,天地篇》「千歳厭世,去而上倦,乗彼白雲,至於帝榔」(千歳,世を厭えば,去りて上倦し,彼の白雲乗じて,帝榔に至る。)とあるに基づいる。

 

長隨君,君入楚山裏,雲亦隨君渡湘水。

故郷の楚山に居れば、矢張白雲が君に随って湧き出のである。かくの如く、高士の君がいれば、どこでも白雲が随って居る上は、同じ境涯であるから、何も都を棄て、故郷へ帰る必要は無いようにおもわれるのであるが、故郷の白雲は、又格別であると見えて、君は、此度、故郷に歸られる。そうして、君が故郷へ歸られると、秦山の雲は、君に随って湘水を渡ることになり、やがて楚山の雲となるのである。

6 湘水 《通鑑地理通釋》「湘水、出全州淸湘縣陽朔山、東入洞庭、北至衡州衡陽縣入江。」(湘水は、全州淸湘縣 陽朔山に出でて、東して洞庭に入る、北して衡州衡陽縣に至りて江に入る。

 

湘水上,女蘿衣,白雲堪臥君早歸。

湘水の上なる楚山には、薜茘、女蘿が叢生して居るから、これを採って衣とすることができる。こう考えれば、君は薜茘、女蘿を衣となし、白雲に高臥し、優游、餘生をおくられようというのであるから、早くお歸りに成った方が宜しいということになってしまう。

7 女蘿 方𢎞靜の註によると、《楚辭補註、卷二 九歌山鬼》「若有人兮山之阿,被薜荔兮帶女羅。」(若に人有り山の阿【くま】に,薜荔【へいれい】を被て女羅を帶びとす。)に基づくとある。

743年(58)李太白集卷六10-《同族弟金城尉叔卿燭照山水壁畫歌》(高堂粉壁圖蓬瀛,) 376-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(58) Ⅰ李白詩1728 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7180

李白  同族弟金城尉叔卿燭照山水壁畫歌#2

迴溪碧流寂無喧,又如秦人月下窺花源。了然不覺清心魂,祗將疊嶂鳴秋猿。

與君對此歡未歇,放歌行吟達明發。卻顧海客揚雲帆,便欲因之向溟渤。
めぐって走る谷川の流は、その色碧にして、水はひたひたと湛え、勿論、画であるから騒がしい瀬の音は少しもないけれど、たとえば秦人が月下に桃花源を窺って、やがて其処を自分の住居と定めたのである。しかし、その風光は、了然としで、心魂を清くし、重なる峰の間には、秋の猿が鳴き叫ぶような気がした。今や君と共にこの図にたいし、名手の技巧を見ては、嬉しくてたまらす、放歌高吟して明旦に達する位である。ここに自分は、物外に逍遥したいという願望が、いやが上にもましたから、もし海客が雲帆を揚げて、遠く去ることがあるならば、自分は、これに頼んで、はるか遠い北溟渤海に向い、海中に於で、この図に見るような仙境に出合いたいと思うのである。

743年(58)李太白集卷六10-《同族弟金城尉叔卿燭照山水壁畫歌》(高堂粉壁圖蓬瀛,) 376-#2Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-58) Ⅰ李白詩1728 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7180

 

 
  2016年1月14日 の紀頌之5つのBlog  
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年:743年天寶二年43歳 94-56

卷別:    卷一六六              文體:    七言古詩

詩題:    同族弟金城尉叔卿燭照山水壁畫歌

作地點:              目前尚無資料

及地點:              金城 (京畿道 京兆府 金城) 別名:興平         

赤城山 (江南東道 台州 台州)           

山陰 (江南東道 越州 山陰)              

交遊人物/地點:李叔卿      當地交遊

 

 

同族弟金城尉叔卿“燭照山水壁畫”歌 #1

(李白の族弟である金城尉の叔卿を訪ね、夜、燭を秉って山水壁畫を照らしてじっくり見てこの絵の歌をつくった)

高堂粉壁圖蓬瀛,燭前一見滄洲清。

君が高堂の白壁には、名手の手に成れる蓬莱、瀛洲の国があるというので、燭を秉って之を照らし、滄洲の遠く清らかで広がる趣を一見した。

洪波洶湧山崢嶸,皎若丹丘隔海望赤城。

すると、大波が湧き立ち、山は崢嶸として聳え、皓然としで光り輝く有様は、丹丘で昼夜常に明るい仙境から、海を隔てて、赤城山を望むが如くである。

光中乍喜嵐氣滅,謂逢山陰晴後雪。

その光り輝く中には、山気は消えつくして、少しも曇った様な景色がなく、山陰への道の上に、積雪の日の晴れた時では無いかと思われた位にみえる。

#2

迴溪碧流寂無喧,又如秦人月下窺花源。

めぐって走る谷川の流は、その色碧にして、水はひたひたと湛え、勿論、画であるから騒がしい瀬の音は少しもないけれど、たとえば秦人が月下に桃花源を窺って、やがて其処を自分の住居と定めたのである。

了然不覺清心魂,祗將疊嶂鳴秋猿。

しかし、その風光は、了然としで、心魂を清くし、重なる峰の間には、秋の猿が鳴き叫ぶような気がした。

與君對此歡未歇,放歌行吟達明發。

今や君と共にこの図にたいし、名手の技巧を見ては、嬉しくてたまらす、放歌高吟して明旦に達する位である。

卻顧海客揚雲帆,便欲因之向溟渤。

ここに自分は、物外に逍遥したいという願望が、いやが上にもましたから、もし海客が雲帆を揚げて、遠く去ることがあるならば、自分は、これに頼んで、はるか遠い北溟渤海に向い、海中に於で、この図に見るような仙境に出合いたいと思うのである。

 

(族弟の金城の尉 叔卿と同じく“燭して山水の壁畫を照す”の歌) #1

高堂の粉壁 蓬瀛を圖し,燭前 一見す 滄洲の清きを。

洪波 洶湧して山崢嶸,皎として 丹丘より海を隔てて赤城を望むが若し。

光中 乍ち喜ぶ 嵐氣の滅するを,謂う 山陰 晴後の雪に逢いたるかと。

#2 

迴溪 碧流 寂として喧無く,又た 秦が月下に花源を窺が如し。

了然として覺えず 心魂を清うし,祗だ 疊嶂を將て秋猿を鳴かしむ。

君と此に對して 歡 未だ歇まず,放歌 行吟 明發に達す。

卻って顧る 海客の雲帆を揚ぐるを,便ち之に因って溟渤に向わんと欲す。

 

長安城図 作図00 

『同族弟金城尉叔卿“燭照山水壁畫”歌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

迴溪碧流寂無喧,又如秦人月下窺花源。

了然不覺清心魂,祗將疊嶂鳴秋猿。

與君對此歡未歇,放歌行吟達明發。

卻顧海客揚雲帆,便欲因之向溟渤。

(下し文)
#2 

迴溪 碧流 寂として喧無く,又た 秦が月下に花源を窺が如し。

了然として覺えず 心魂を清うし,祗だ 疊嶂を將て秋猿を鳴かしむ。

君と此に對して 歡 未だ歇まず,放歌 行吟 明發に達す。

卻って顧る 海客の雲帆を揚ぐるを,便ち之に因って溟渤に向わんと欲す。

(現代語訳)
#2

めぐって走る谷川の流は、その色碧にして、水はひたひたと湛え、勿論、画であるから騒がしい瀬の音は少しもないけれど、たとえば秦人が月下に桃花源を窺って、やがて其処を自分の住居と定めたのである。

しかし、その風光は、了然としで、心魂を清くし、重なる峰の間には、秋の猿が鳴き叫ぶような気がした。

今や君と共にこの図にたいし、名手の技巧を見ては、嬉しくてたまらす、放歌高吟して明旦に達する位である。

ここに自分は、物外に逍遥したいという願望が、いやが上にもましたから、もし海客が雲帆を揚げて、遠く去ることがあるならば、自分は、これに頼んで、はるか遠い北溟渤海に向い、海中に於で、この図に見るような仙境に出合いたいと思うのである。

大明宮の圖003
(訳注) #2

同族弟金城尉叔卿“燭照山水壁畫”歌 

(李白の族弟である金城尉の叔卿を訪ね、夜、燭を秉って山水壁畫を照らしてじっくり見てこの絵の歌をつくった)

1 金城 金城は京兆府興平縣〔馬-茂陵の間にある〕。

 

迴溪碧流寂無喧,又如秦人月下窺花源。

めぐって走る谷川の流は、その色碧にして、水はひたひたと湛え、勿論、画であるから騒がしい瀬の音は少しもないけれど、たとえば秦人が月下に桃花源を窺って、やがて其処を自分の住居と定めたのである。

13 秦人月下窺花源 陶淵明の《桃花源詩》「瀛氏亂天紀、賢者避其世。」(瀛氏  天紀を 亂し,賢者  其の世を 避く。)秦の皇帝瀛氏は暴政を行い、世界の秩序をみだしたので、賢者たちは世をのがれて隠遁した。とあるに基づく。

14 花源 桃花源:陶淵明が「桃花源の詩」とその序でえがいた理想郷
《桃花源幷記》陶淵明(陶潜)  <#1709 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2529

《桃源行》 王維  <#1715 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2559

桃源圖 韓愈(韓退之) <145>Ⅱ中唐詩719 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2579

 

了然不覺清心魂,祗將疊嶂鳴秋猿。

しかし、その風光は、了然としで、心魂を清くし、重なる峰の間には、秋の猿が鳴き叫ぶような気がした。

15 疊嶂 山峰;嶂:直立像屏障的山;層、迭:重複,一層加上一層。形容山峰起伏,連綿重迭。

 

與君對此歡未歇,放歌行吟達明發。

今や君と共にこの図にたいし、名手の技巧を見ては、嬉しくてたまらす、放歌高吟して明旦に達する位である。

16 明發 早朝、夜が明けて光が発する時。 

 

卻顧海客揚雲帆,便欲因之向溟渤。

ここに自分は、物外に逍遥したいという願望が、いやが上にもましたから、もし海客が雲帆を揚げて、遠く去ることがあるならば、自分は、これに頼んで、はるか遠い北溟渤海に向い、海中に於で、この図に見るような仙境に出合いたいと思うのである。

17 溟渤 北溟渤海を合称す。 

 

 

 

同族弟金城尉叔卿“燭照山水壁畫”歌 【字解】

 

1 金城 金城は京兆府興平縣〔馬-茂陵の間にある〕。

2 城尉叔卿 李季卿《三墳記》「先侍郎之子叔卿、字萬天骨琅琅,德(闕一字)文蔚。識度標邁,弱冠以明(闕一字)觀國,蒞鹿邑虞二尉。巍守崔公沔洎相國晉公(闕二字)甲科第之進等舉之,・・・轉金城尉,曹無受謝,吏不敢(闕四字)卷行於世。」(先侍郎の子叔卿という、字は萬。天骨 琅琅,德光 文蔚。識度 標邁,弱冠にして明を以って國を觀て,鹿邑 虞二尉を蒞けらる。巍守 崔公沔は洎相國晉公 甲科 之を第せしめ 進等 之を舉げ,・・・金城の尉に轉ず,曹謝を受ける無し,吏 敢えて世に卷行せず。)とあって、李白の族弟だけに、一廉の人物であったと見える。

3この詩は、族弟金城の尉李叔卿を訪い、花、燭を秉って、一所に其家の山水の壁画を見たるに因って、この詩を作ったという意。この頃は、宮殿や寺観ばかりでなく、すこし大きな家では名手に壁画を作らせたものと見える。

4 粉壁 漆喰の白壁。

5 蓬瀛 蓬莱と瀛洲、方丈、東海中の神仙三山島。

6 滄州 1 青々とした水に囲まれた州浜。人里を離れた水辺。2 仙人や隠者の住んでいる所。隠者の棲む場所。東海の神仙三山の海、滄海が臨めるあたり。 

7 洪波 大きな波。おおなみ。洪濤(こうとう)。

8 崢嶸 ① 山が高く険しい・こと(さま)。  人生の苦難に満ちている・こと(さま)。

9 丹丘 昼夜常に明るいところを言う。《楚辞、遠遊》に「仍羽人於丹丘兮、留不死之旧郷」、(羽人に丹丘に仍【したが】い、不死の旧郷に留る)孫綽「遊天台山賦」に「仍羽人於丹丘、尋不死之福庭」(羽人に丹丘に仍【したが】い、尋ねば福庭に死なず)とある。

10 赤城 赤城は孫綽賦にある、天台山を代表する赤城山。赤城山は赤土の砂礫が層をなしており、あたかも城壁のようであるのでこの名がついた。また、その石が赤く輝いていて朝焼けのようであるということで、朝靄夕霞が漂い纏うこの山にまつわる慣である。

天台山(てんだいさん)は、中国浙江省中部の天台県の北方2kmにある霊山である。最高峰は華頂峰で標高1,138m。洞栢峰・仏隴峰・赤城峰・瀑布峰などの峰々が存在する。中国三大霊山の一つ。仏教との関係では、呉の赤烏中(238 - 251年)に仏教寺院が建立された、という伝承がある。支遁や曇光、竺曇猷らの僧が、この山中に住した。また、後漢のころから道教の聖地ともされていた。石橋の下から流れ落ちる滝がある。

盛唐詩 越中逢天臺太乙子#2 孟浩然<30> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白350 -337 

盛唐詩 尋天台山 孟浩然<31> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -338

11 嵐氣 嵐は山気。

12 山陰 春秋時代の越(えつ)の都で、秦(しん)代に山陰県が置かれ、唐代になって会稽(かいけい)、山陰の2県が設けられた。《唐地理志》「在山陰縣、会稽山在北」

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李白詩  同族弟金城尉叔卿“燭照山水壁畫”歌 #1

高堂粉壁圖蓬瀛,燭前一見滄洲清。

洪波洶湧山崢嶸,皎若丹丘隔海望赤城。

光中乍喜嵐氣滅,謂逢山陰晴後雪。

(李白の族弟である金城尉の叔卿を訪ね、夜、燭を秉って山水壁畫を照らしてじっくり見てこの絵の歌をつくった)

君が高堂の白壁には、名手の手に成れる蓬莱、瀛洲の国があるというので、燭を秉って之を照らし、滄洲の遠く清らかで広がる趣を一見した。

すると、大波が湧き立ち、山は崢嶸として聳え、皓然としで光り輝く有様は、丹丘で昼夜常に明るい仙境から、海を隔てて、赤城山を望むが如くである。

その光り輝く中には、山気は消えつくして、少しも曇った様な景色がなく、山陰への道の上に、積雪の日の晴れた時では無いかと思われた位にみえる。

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年:743年天寶二年43歳 94-56

卷別:    卷一六六              文體:    七言古詩

詩題:    同族弟金城尉叔卿燭照山水壁畫歌

作地點:              目前尚無資料

及地點:              金城 (京畿道 京兆府 金城) 別名:興平         

赤城山 (江南東道 台州 台州)           

山陰 (江南東道 越州 山陰)              

交遊人物/地點:李叔卿      當地交遊

 

 

同族弟金城尉叔卿“燭照山水壁畫”歌 #1

(李白の族弟である金城尉の叔卿を訪ね、夜、燭を秉って山水壁畫を照らしてじっくり見てこの絵の歌をつくった)

高堂粉壁圖蓬瀛,燭前一見滄洲清。

君が高堂の白壁には、名手の手に成れる蓬莱、瀛洲の国があるというので、燭を秉って之を照らし、滄洲の遠く清らかで広がる趣を一見した。

洪波洶湧山崢嶸,皎若丹丘隔海望赤城。

すると、大波が湧き立ち、山は崢嶸として聳え、皓然としで光り輝く有様は、丹丘で昼夜常に明るい仙境から、海を隔てて、赤城山を望むが如くである。

光中乍喜嵐氣滅,謂逢山陰晴後雪。

その光り輝く中には、山気は消えつくして、少しも曇った様な景色がなく、山陰への道の上に、積雪の日の晴れた時では無いかと思われた位にみえる。

#2

迴溪碧流寂無喧,又如秦人月下窺花源。

了然不覺清心魂,祗將疊嶂鳴秋猿。

與君對此歡未歇,放歌行吟達明發。

卻顧海客揚雲帆,便欲因之向溟渤。

 

(族弟の金城の尉 叔卿と同じく“燭して山水の壁畫を照す”の歌) #1

高堂の粉壁 蓬瀛を圖し,燭前 一見す 滄洲の清きを。

洪波 洶湧して山崢嶸,皎として 丹丘より海を隔てて赤城を望むが若し。

光中 乍ち喜ぶ 嵐氣の滅するを,謂う 山陰 晴後の雪に逢いたるかと。

 

#2 

迴溪 碧流 寂として喧無く,又た 秦が月下に花源を窺が如し。

了然として覺えず 心魂を清うし,祗だ 疊嶂を將て秋猿を鳴かしむ。

君と此に對して 歡 未だ歇まず,放歌 行吟 明發に達す。

卻って顧る 海客の雲帆を揚ぐるを,便ち之に因って溟渤に向わんと欲す。

 

京兆地域図002 

 

同族弟金城尉叔卿“燭照山水壁畫”歌』 現代語訳と訳註解説

(本文)
同族弟金城尉叔卿“燭照山水壁畫”歌 #1

高堂粉壁圖蓬瀛,燭前一見滄洲清。

洪波洶湧山崢嶸,皎若丹丘隔海望赤城。

光中乍喜嵐氣滅,謂逢山陰晴後雪。

(下し文)
(族弟の金城の尉 叔卿と同じく“燭して山水の壁畫を照す”の歌) #1

高堂の粉壁 蓬瀛を圖し,燭前 一見す 滄洲の清きを。

洪波 洶湧して山崢嶸,皎として 丹丘より海を隔てて赤城を望むが若し。

光中 乍ち喜ぶ 嵐氣の滅するを,謂う 山陰 晴後の雪に逢いたるかと。

(現代語訳)
同族弟金城尉叔卿“燭照山水壁畫”歌 #1(李白の族弟である金城尉の叔卿を訪ね、夜、燭を秉って山水壁畫を照らしてじっくり見てこの絵の歌をつくった)

君が高堂の白壁には、名手の手に成れる蓬莱、瀛洲の国があるというので、燭を秉って之を照らし、滄洲の遠く清らかで広がる趣を一見した。

すると、大波が湧き立ち、山は崢嶸として聳え、皓然としで光り輝く有様は、丹丘で昼夜常に明るい仙境から、海を隔てて、赤城山を望むが如くである。

その光り輝く中には、山気は消えつくして、少しも曇った様な景色がなく、山陰への道の上に、積雪の日の晴れた時では無いかと思われた位にみえる。


(訳注)

同族弟金城尉叔卿“燭照山水壁畫”歌 #1

(李白の族弟である金城尉の叔卿を訪ね、夜、燭を秉って山水壁畫を照らしてじっくり見てこの絵の歌をつくった)

1 金城 金城は京兆府興平縣〔馬-茂陵の間にある〕。

2 城尉叔卿 李季卿《三墳記》「先侍郎之子叔卿、字萬天骨琅琅,德(闕一字)文蔚。識度標邁,弱冠以明(闕一字)觀國,蒞鹿邑虞二尉。巍守崔公沔洎相國晉公(闕二字)甲科第之進等舉之,・・・轉金城尉,曹無受謝,吏不敢(闕四字)卷行於世。」(先侍郎の子叔卿という、字は萬。天骨 琅琅,德光 文蔚。識度 標邁,弱冠にして明を以って國を觀て,鹿邑 虞二尉を蒞けらる。巍守 崔公沔は洎相國晉公 甲科 之を第せしめ 進等 之を舉げ,・・・金城の尉に轉ず,曹謝を受ける無し,吏 敢えて世に卷行せず。)とあって、李白の族弟だけに、一廉の人物であったと見える。

3この詩は、族弟金城の尉李叔卿を訪い、花、燭を秉って、一所に其家の山水の壁画を見たるに因って、この詩を作ったという意。この頃は、宮殿や寺観ばかりでなく、すこし大きな家では名手に壁画を作らせたものと見える。

 

高堂粉壁圖蓬瀛,燭前一見滄洲清。

君が高堂の白壁には、名手の手に成れる蓬莱、瀛洲の国があるというので、燭を秉って之を照らし、滄洲の遠く清らかで広がる趣を一見した。

4 粉壁 漆喰の白壁。

5 蓬瀛 蓬莱と瀛洲、方丈、東海中の神仙三山島。

6 滄州 1 青々とした水に囲まれた州浜。人里を離れた水辺。2 仙人や隠者の住んでいる所。隠者の棲む場所。東海の神仙三山の海、滄海が臨めるあたり。 

 

洪波洶湧山崢嶸,皎若丹丘隔海望赤城。

すると、大波が湧き立ち、山は崢嶸として聳え、皓然としで光り輝く有様は、丹丘で昼夜常に明るい仙境から、海を隔てて、赤城山を望むが如くである。

7 洪波 大きな波。おおなみ。洪濤(こうとう)。

8 崢嶸 ① 山が高く険しい・こと(さま)。  人生の苦難に満ちている・こと(さま)。

9 丹丘 昼夜常に明るいところを言う。《楚辞、遠遊》に「仍羽人於丹丘兮、留不死之旧郷」、(羽人に丹丘に仍【したが】い、不死の旧郷に留る)孫綽「遊天台山賦」に「仍羽人於丹丘、尋不死之福庭」(羽人に丹丘に仍【したが】い、尋ねば福庭に死なず)とある。

10 赤城 赤城は孫綽賦にある、天台山を代表する赤城山。赤城山は赤土の砂礫が層をなしており、あたかも城壁のようであるのでこの名がついた。また、その石が赤く輝いていて朝焼けのようであるということで、朝靄夕霞が漂い纏うこの山にまつわる慣である。

天台山(てんだいさん)は、中国浙江省中部の天台県の北方2kmにある霊山である。最高峰は華頂峰で標高1,138m。洞栢峰・仏隴峰・赤城峰・瀑布峰などの峰々が存在する。中国三大霊山の一つ。仏教との関係では、呉の赤烏中(238 - 251年)に仏教寺院が建立された、という伝承がある。支遁や曇光、竺曇猷らの僧が、この山中に住した。また、後漢のころから道教の聖地ともされていた。石橋の下から流れ落ちる滝がある。

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光中乍喜嵐氣滅,謂逢山陰晴後雪。

その光り輝く中には、山気は消えつくして、少しも曇った様な景色がなく、山陰への道の上に、積雪の日の晴れた時では無いかと思われた位にみえる。

11 嵐氣 嵐は山気。

12 山陰 春秋時代の越(えつ)の都で、秦(しん)代に山陰県が置かれ、唐代になって会稽(かいけい)、山陰の2県が設けられた。《唐地理志》「在山陰縣、会稽山在北」

大明宮の圖003 

743年(56)李太白集卷六07-《西嶽雲臺歌送丹丘子》 375-#4Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(56) Ⅰ李白詩1726 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7170

李白  西嶽雲臺歌送丹丘子 #4

我皇手把天地丹丘談天與天語。九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。

今、天子は、四海に君臨して、天地の戸を手に握って居られるが、そこへ、丹邱先生が伺候して、天を談じ、至尊の前に於で道を講じられ、天子の前にその思想を語られるべきお方であるのである。

もとより、何等の官位も無い一道士ではあるが、道徳堅固なばかりに、天子は非常に之を尊敬し、九重に出入するのを許されたので、この上もないこうえいなことであるとしている。そして、丹邱先生の蹤跡は、凡人の企てが及ぶことができないもので、朝には、東の方、遠く蓬莱島へ行ったかと思えば、夕には、西の方、華山にかえるというように、天地の間を自由自在に翺翔して居る。この丹邱先生が、今度、いよいよ長安を辞して、雲臺峰の道観にかえられるというので、この詩を作って、送別の意を表した次第である。

かねがね願っているのは、神仙の道にあるがゆえに、せめて先生が平生服用されている、玉漿の仙液を少しでも善いから、われに恵んで飲ましては下さるまいか。そうすると、われは、直に二茅龍に乗じて、天に登って昇仙することが出来るであろう。どうかこの詩を作ってさし上げた我が好意に免じて、如上の希望を叶へて戴きたいものである。
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年:743年天寶二年43歳 94-55

卷別:    卷一六六              文體:    七言古詩

詩題:    西嶽雲臺歌送丹丘子

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              雲臺峰 (京畿道 華州 華山)              

華山 (京畿道 華州 華山) 別名:華、太華、華岳、西岳             

仙人掌 (京畿道 華州 華山)              

渭橋 (京畿道 京兆府 長安)              

交遊人物/地點:元丹丘      當地交遊(京畿道 華州 華山)

 

 

西嶽雲臺歌送丹丘子

(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)

西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。

西嶽の華山は、嶸と天に聳えて、実に壮観であって、その絶頂に登って遥かに下方を望めば黄河は、絲の如く細く、遥かにに西北の天際から流れてくるのが見える。

黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。

抑も、黄河は、万里の塞外からきて、このやま麓に触れ、これを動かすが如き勢であって、ぐるぐると廻る渦は、車轂の如く旋轉し、その聲は、古の秦地たる長安の都までも、恐ろしい雷の如く聞える。

(西嶽雲臺の歌で 丹丘子を送る)

西嶽 崢嶸として何ぞ壯なる哉,黃河絲の如く天際より來る。

黃河萬里 山に觸れて動き,盤渦 轂轉して秦地雷なり。

#2

榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。

今は堯舜のころのような「開元の治」といわれる聖主の御治世であるから、黄河から栄光を生じ、目出度い休気を発し、五彩紛粉として、空中に輝いて居る。黄河は、千年に唯だ一度清むというが、今しも、丁度清んで居るので、正に聖人が上に在ますということが分かる。

巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海。

むかし、華山は、首陽山と対して、黄河は其間を流れて居たのであるが、巨霊といって恐ろしい力のある神様が、この西嶽を掌でつんざき開いて、河水を切って落したというが、その巨霊が叫び狂って、南山を劈いたその跡も、歴々として今でも残って居るし、その劈いた道筋は、大きな波が、箭を射るが如き勢を以て流れ、そして、東海に馳せ向うのである。

三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。

華山は、元来多くの峰が集合してできているので、中にも蓮花、落雁、朝陽の主要三峰は鼎立して、今にも崩れ掛りそうで、巨霊の掌でつんざいて開いたによって、翠崖丹谷が出来たのである。

榮光休氣 五彩に紛たり,千年一たび清んで 聖人在り。

巨靈 咆哮して 兩山を擘き,洪波 箭を噴いて東海を射る。

三峰 卻立して 摧けんと欲するが如し,翠崖 丹谷 高掌開く。

#3

白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。

五嶽大帝に「金天氏為白帝,治華陰山。」(金天氏白帝と為り,華陰山に治す。)と白帝は金の精を集め、元気をめぐらせて、西方を平鎮して居るが、その元気を受けてできた華山の中には、他に見ることはない様な奇絶な景色があって、石は蓮花の形をなし、雲は臺となって居る。

雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。

その雲臺峰には、立派な道観があって、閣道が天に通じで居る。そこに行い澄まして居る高徳の道士は、太古から今に至るまで、不死と傳えられた丹邱先生その人である。

明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。

かくて、丹邱先生は、明星玉女という峰の何し負う仙女などを自由に使って、自分の居る雲臺観の掃除をさせて居るし、その端坐して居る間には、麻姑といふ仙女がきて、長い爪で背中の痒い處を掻いて呉れることであらう。

白帝の金精 元氣を運【めぐ】らし,石は蓮花を作し 雲は臺を作す。

雲臺の閣道 窈冥に連り,中に不死の丹丘生有り。

明星玉女 灑掃に備わり,“麻姑搔背” 指爪輕し。

#4

我皇手把天地丹丘談天與天語。

今、天子は、四海に君臨して、天地の戸を手に握って居られるが、そこへ、丹邱先生が伺候して、天を談じ、至尊の前に於で道を講じられ、天子の前にその思想を語られるべきお方であるのである。

九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。

もとより、何等の官位も無い一道士ではあるが、道徳堅固なばかりに、天子は非常に之を尊敬し、九重に出入するのを許されたので、この上もないこうえいなことであるとしている。そして、丹邱先生の蹤跡は、凡人の企てが及ぶことができないもので、朝には、東の方、遠く蓬莱島へ行ったかと思えば、夕には、西の方、華山にかえるというように、天地の間を自由自在に翺翔して居る。この丹邱先生が、今度、いよいよ長安を辞して、雲臺峰の道観にかえられるというので、この詩を作って、送別の意を表した次第である。

玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。

かねがね願っているのは、神仙の道にあるがゆえに、せめて先生が平生服用されている、玉漿の仙液を少しでも善いから、われに恵んで飲ましては下さるまいか。そうすると、われは、直に二茅龍に乗じて、天に登って昇仙することが出来るであろう。どうかこの詩を作ってさし上げた我が好意に免じて、如上の希望を叶へて戴きたいものである。

 

我が皇 手に把る天地の,丹丘 天を談じて天と語る。

九重 出入 光輝を生ず,東 蓬萊に來り 復た西に歸る。

玉漿 儻し故人に惠んで飲ましむれば,二茅の龍に騎し天に上って飛ばん。

華山001 

『西嶽雲臺歌送丹丘子』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

我皇手把天地,丹丘談天與天語。

九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。

玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。

(下し文)
#4

我が皇 手に把る天地の,丹丘 天を談じて天と語る。

九重 出入 光輝を生ず,東 蓬萊に來り 復た西に歸る。

玉漿 儻し故人に惠んで飲ましむれば,二茅の龍に騎し天に上って飛ばん。

(現代語訳)
#4

今、天子は、四海に君臨して、天地の戸を手に握って居られるが、そこへ、丹邱先生が伺候して、天を談じ、至尊の前に於で道を講じられ、天子の前にその思想を語られるべきお方であるのである。

もとより、何等の官位も無い一道士ではあるが、道徳堅固なばかりに、天子は非常に之を尊敬し、九重に出入するのを許されたので、この上もないこうえいなことであるとしている。そして、丹邱先生の蹤跡は、凡人の企てが及ぶことができないもので、朝には、東の方、遠く蓬莱島へ行ったかと思えば、夕には、西の方、華山にかえるというように、天地の間を自由自在に翺翔して居る。この丹邱先生が、今度、いよいよ長安を辞して、雲臺峰の道観にかえられるというので、この詩を作って、送別の意を表した次第である。

かねがね願っているのは、神仙の道にあるがゆえに、せめて先生が平生服用されている、玉漿の仙液を少しでも善いから、われに恵んで飲ましては下さるまいか。そうすると、われは、直に二茅龍に乗じて、天に登って昇仙することが出来るであろう。どうかこの詩を作ってさし上げた我が好意に免じて、如上の希望を叶へて戴きたいものである。

京兆地域図002
(訳注) #4

西嶽雲臺歌送丹丘子

(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)

 

我皇手把天地丹丘談天與天語。

今、天子は、四海に君臨して、天地の戸を手に握って居られるが、そこへ、丹邱先生が伺候して、天を談じ、至尊の前に於で道を講じられ、天子の前にその思想を語られるべきお方であるのである。

18 天地 六朝初期の霊宝派や上清派の道教と密接な関係をもちつつ形成された仙伝小説である《漢武帝内傳》「又命侍女安法嬰歌元靈之曲。其詞曰:“大象雖寥廓,我把天地。」(又侍女安法嬰じて 元靈わしむ。其ぼ詞に曰く“大象寥廓と雖も,我は天地把む。)とある。

19 談天與天語 道教の源流は、上帝そして天に対する信仰、儒家の祖先信仰、民間の巫法、墨家の上帝鬼神信仰などさまざまなものである。特に墨家が言う「鬼」とは、天と人の間にあって人間を監視し、天意(「義」‐道徳や倫理など)に背くと災いや事故を起こすと言う。人々は「義」を守る生活とともに天や鬼を祀り、罰を避けようとした。道教では天と鬼の間に人の世界があり、各階層で善行や悪行によって上り下りがあると考えられたのである。これらを踏まえ、元丹邱は天を談じ、天語得るということであるから、天子に迎えられるにふさわしい人物であるということを言うのである。

 

九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。

もとより、何等の官位も無い一道士ではあるが、道徳堅固なばかりに、天子は非常に之を尊敬し、九重に出入するのを許されたので、この上もないこうえいなことであるとしている。そして、丹邱先生の蹤跡は、凡人の企てが及ぶことができないもので、朝には、東の方、遠く蓬莱島へ行ったかと思えば、夕には、西の方、華山にかえるというように、天地の間を自由自在に翺翔して居る。この丹邱先生が、今度、いよいよ長安を辞して、雲臺峰の道観にかえられるというので、この詩を作って、送別の意を表した次第である。

 

玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。

かねがね願っているのは、神仙の道にあるがゆえに、せめて先生が平生服用されている、玉漿の仙液を少しでも善いから、われに恵んで飲ましては下さるまいか。そうすると、われは、直に二茅龍に乗じて、天に登って昇仙することが出来るであろう。どうかこの詩を作ってさし上げた我が好意に免じて、如上の希望を叶へて戴きたいものである。

20 玉漿 中国の古い天文思想により引用した言葉で、玉でもって不老長寿の水を作ったものを玉漿という、

21 二茅龍 漢劉向《列仙傳呼子先》“呼子先者, 漢中關下卜師也, 老壽百馀歲 臨去, 呼酒家老嫗曰: '急裝, 當與嫗共應中陵王。 '夜有仙人持二茅狗來至, 呼子先。子先持一與酒家嫗,得而騎之。乃龍也,上華陰山,常於山上大呼言:「子先、酒母在此耳」”(呼子先は,漢中關下の卜師なり,老壽 百馀歲なり去るに臨み,酒家の老嫗を呼んで曰く、「急裝して,當に嫗と共に中陵王に應ずべしと。夜 仙人有り 二茅狗を持して來り至り,子先を呼ぶ。子先 一を持して酒家の嫗に與え,得て之に騎す。乃ち龍まり,華陰山に上り,常に山上に於いて大呼して言う:「子先、酒母 此に在るのみ」)とある。

 

華山蓮花峰00

 

【字解】-----------------------------------

1 西嶽 華山のこと。 中国陝西省華陰市にある険しい山。道教の修道院があり、中国五名山、五岳の一つで、西岳と称されている。最高峰となる南峰の標高は2,160m。花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほどしかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山として知られる。《癸辛雜識》 「五岳惟華岳極峻,直上四十五里,遇無路處皆挽鐵絙以上。有西岳廟在山頂,望黃河一衣帶水耳。」(五岳惟だ華岳のみ極めて峻,直上四十五里,無路き處に遇えば 皆 鐵絙を挽いて以て上る。西岳廟山頂に在り,黃河を望めば一衣帶水のみと有る。)

2. 雲臺 雲臺觀,在陝西省華陰縣南華山上。

3. 丹丘子 その華岳の雲臺峰に元丹邱子という道士が棲んで居た。この人は、李白と親交があつたと見えて、集中に其名が散見して居る。そして、元丹邱は神仙の術を得、天子から尊崇され、しばしば招いて道教の話を聞かれたこともあるので、それ等の事実を詠み込んで、今や丹邱子が華山の雲臺峰に歸隠するのをおくったのである。

元丹丘 《李太白集 巻六 巻06-08 元丹丘歌》元丹邱は李白が30歳前後に交際していた道士のひとり。李白はこの人物の詩を12編も書いているとおり、心から信服していたようだ。頴川は河南省を流れる川、元丹邱丘はこの川のほとりに別荘をもっていた、嵩岑は嵩山のこと、五岳のひとつで神聖な山とされた。

李白はこの年、秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。

胡紫陽、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。

 

李太白集

Category 詩題

作時

-No.

西暦 年号

06-08

1.元丹丘歌 

731年開元十九年

24-02

2.題元丹丘山居 

731年開元十九年

24-03

3.題元丹丘 陽山居 并序 

731年開元十九年

18-16

4.酬岑勛見尋就元丹丘對酒相待以詩見招

736年開元二十四年

02-08

5.將進酒 

736年開元二十四年

14-12

6.潁陽別元丹丘之淮陽 

738年開元二十六年

23-55

7.觀元丹丘坐巫山屏風 

738年開元二十六年

13-13

14.江上寄元六林宗

739年開元二十七年39

09-01

15秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

741年開元二十九年

06-07

9. 西嶽雲臺歌送丹丘子

743年天寶二年

18-11

8. 以詩代書答元丹丘

744年天寶三年

24-08

10.題嵩山逸人元丹丘山居 并序 

750年天寶九年

22-02

11.尋高鳳石門山中元丹丘 

751年天寶十年

12-11

12.聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡

751年天寶十年

22-01

13.與元丹丘方城寺談玄作 

751年天寶十年

 以上の十三首+二首である。

㈣ 崢嶸 1 山や谷のけわしさ。2 人生のけわしさ。[ト・タル][文][形動タリ]山などが、高くけわしいさま。

㈤ 盤渦轂轉 渦が盤のようにぐるぐる回って車轂の如く回転する。

6.  千年一清 晉•王嘉撰《拾遺記》「黄河千年一清,至聖之君以為大瑞。」(黄河千年に一たび清む、至聖の君、以て大瑞と爲す。)とある。

7.  巨靈 巨神、川の神、古語に昔二つの華山が一つになっていた。黄河がそのためまっすぐ流れないので、河神が手で山をおし開き、足で麓をおし分けて河水を通した。その手足の跡がのこっているという。張衡《西京賦》「漢氏初都,在渭之涘,秦里其朔,寔為咸陽。左有崤函重險、桃林之塞,綴以二華,巨靈贔屓,高掌遠蹠,以流河曲,厥跡猶存。」(漢氏の初都は、渭の涘【ほとり】に在り。秦 其の朔【きた】に里【あ】り、寔【これ】を咸陽と為す。左に崤函【こうかん】の重険【ちょうかん】、桃林の塞有り。綴【てい】するに二華を以てし、巨靈贔屓【ひいき】し、掌を高くし蹠【あし】を遠くし、以て河曲を流せり。厥【そ】の跡 猶お存す。(長安の地勢) 漢の王室が始めて定めた都は、渭水のほとりである。それまで秦はその北に居り、そこは咸陽という。漢都長安の東は、崤山・函谷山の二重の険があり、桃林の塞がある。そこから長安まで、その間を太華と少華のなん両山をつないでおり、むかし河の巨神が全力を傾ける。掌を高くさし上げ、足を大きく踏ん張り、もと一つの山であったのを押し開き、曲流する河水をまっすぐ流した。その痕跡は今も残る。

張平子(張衡)《西京賦》(4)(長安の地勢) #2-1 文選 賦<114―(4)>31分割68回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1041 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3753

【8】三峰 現在の華山は東、西、南、北、中と五峰有る。主峰は南峰“落雁”、東峰“朝陽”、西峰“蓮花” と有って,三峰が鼎峙している。“勢飛白雲外影倒黃河裡”といわれ,人々は “天外三峰”と稱している。また雲台、玉女の二峰が相輔してその側に有る。華山記に「太華山削成而四方直上至頂、列爲三峯。其西爲蓮花/峯、峯之石窳隆不一。皆如蓮葉倒垂、故名是峯曰蓮花。 其南曰落雁峯、上多松檜、故亦曰松檜峯。白帝在其/間、俯眺三秦、曠莽無際黄河如一縷、水 繚繞岳下。其東峯曰朝陽峯、峯之左脇中有一峯、狀甚秀異、如爲東峯/所抱者曰玉女峯、乃東峯之支峯也。世之談三峯者、數玉女而不數朝陽非矣。」(太華山削成し、四方直上して頂きに至り、列して三峰となる。その西を蓮花峰となす、峰の石窳隆して一ならず、皆蓮葉の倒垂するが如し、故にこの峰を名づけて蓮花という。その南を落雁峰という、上に松檜多し、故に亦た松檜峰といふ。白帝宮、その間に在り、伏して三秦を眺むれば、黄河一縷の如く、水、嶽下み繚繞す。その東峰在朝陽峰といふ、峰の左脇中に一峰あり、状甚だ秀異、東峰に抱かるるものの如し、玉女峰といふ、乃ち東峰の支峰なり。世の三峰を談するもの、玉女を数えて、朝陽を数えず、非なり。)とある。

9】 高掌開 上文の続きに「山の東北は、即ち仙人掌たり、即ちいわゆる巨霊掌なり 巌壁黒色、石膏、宝中より流れ出で、凝結して痕を成し、黄白相間はる。遠く之を望めば、その大なるもの、五岐、指の如きものも見る。好奇のもの、ついに傳えて、巨霊山を劈くの掌跡となす。『掌の長さ三十丈、五指参差、中指直に峰頂きに冠す、長さ三十丈」とある、これに就いて、王涯の大華山掌辯等あれども、あまりくどいので、省略する。

10. 白帝金精 少昊【しょうこう】は、中国古代の五帝の一人。姓は己姓。氏は金天氏(鳳鳥氏、青陽氏、窮桑氏、雲陽氏とも称される)。名は(質とも作る)。号は「皞」(「皓」・「顥」とも作る)、「朱宣」、「少昊」(少昊とは太昊の徳行を継承したことによる命名)。黄帝の子。窮桑(現在の山東省曲阜市)に生まれる。義和の国と称された東夷族の国の領主。暦を創り、官名を「玄鳥氏」、「伯趙氏」、「青鳥氏」、「丹鳥氏」等、鳥の名で呼んだことが、春秋左氏伝-昭公十七年の項に記載されている。蟜極の父。中国神話では、金字塔(ピラミッド)に埋葬されたとされている。なお、その遺構は中華人民共和国内に発見されていない。の氏族(嬴、桑、、秦、徐、黄、江、李、趙、 数百あり)の始祖。東晉葛洪《枕中書、五嶽大帝》「則以太昊氏為青帝,治岱宗山,祝融氏為赤帝,治衡霍山,金天氏為白帝,治華陰山,顓頊氏為黑帝,治太恆山,軒轅氏為黃帝,治嵩高山。」とあり、(金天氏白帝と為り,華陰山に治す。)とみえる。

11. 運 はこぶ。めぐる。めぐらす。もてあそぶ。めぐりあわせ、うん。

12. 石作蓮花 華山の西峰海拔2082米,又、因みに石葉が蓮の瓣の如く峰覆蓋している,故に又の名を蓮花峰という

13. 雲作臺 雲が臺をなす、道教においての仙境の台をいう。

14. 雲臺 雲臺峰 北峰のことで、海拔1614米,華山において主峰の一である,華山において北にあることで拝礼する方向にあるやまである。北峰四面は懸であり,上に景雲を冠しており,下には地脈に通じ,巍然として獨り秀である,雲臺の若く有り,此に因て又の名を雲臺峰という

15. 閣道 ①花を見るための桟道。王維《御製従蓬萊宮向興慶》「鑾輿迴出千門柳,閣道廻看上苑花。」(鑾輿 迴らし出ず千門の柳,閣道廻らし看る上苑の花)②山中のがけからがけに渡した橋。かけ橋。アーチ橋や肘木橋のような梯橋などもいう。③秦の始皇帝が渭水(いすい)の両岸に築いた長楽・咸陽両宮の間に架けられた橋は支間68,柱750本からなる木造の桁橋であり,漢代の壁画に中段を高く上げた橋の描写がある。秦・漢時代には,閣道という宮殿もあった。

16. 明星玉女 《太平廣記·卷第五十九·女仙四》「明星玉女者,居山。服玉,白日升天。山,其广数,高三仞。其有梯磴,。玉女祠前有五石臼,号曰玉女洗盆。其中水色,碧绿澄澈,雨不加溢,旱不减耗。祠内有玉石一匹焉。」(明星玉女者は,華山に居す。玉,白日升天す。山頂に石龜とし,其の広さは数畝であり,高さは三仞である。其のには梯磴有り,遠く皆見る。玉女祠の前には五石臼が有り,号して曰う玉女が頭を洗った盆である。其の中は水色,碧绿澄澈していて,雨がふっても溢れることはない,旱であっても中の水が减耗することもなく。祠内には玉石の馬が一匹有るだけである。

17. 麻姑搔背 漢の桓帝かんていのとき、蔡経さいけいという者が麻姑の長い爪を見て、あの爪で背中をかかせたら、さぞかし気持ちがよいだろうと心の中で思ったという故事「麻姑」は中国伝説上の仙女の名。鳥のような長い爪つめをもっているので、かゆいところをかくのに適しているといわれた。「掻痒」はかゆいところをかくこと。晉·葛洪《神仙傳》卷二《王遠》“麻姑手爪似鳥,經見之,心中念曰:「背大癢時,得此爪以爬背,當佳也。」遠已知經心中所言,即使人牽經鞭之,謂曰:「麻姑神人也,汝何忽謂其爪可爬背耶!」但見鞭著經背,亦莫見有人持鞭者。”(麻姑の手爪は鳥に似たり,蔡經之を見て,心中に念じて曰く:「背大に癢き時,此の爪を得て以て背を爬く,當に佳なるべきなり。」と。王遠 已に蔡經心中を言う所を知り,即ち人をして經を牽いて之を鞭たしめて,謂うて曰く:「麻姑は神人なり,汝 何ぞ忽に謂其の爪で背を爬く可し!」と。但し鞭著して蔡經の背を見れば,亦た人の鞭を持す者有る見る莫れ。)

 

華山は、秦嶺山脈の東段に属し、『水経注』には、「遠而望之若花状」、「西方為華山,少阴用事,万物生華,故曰華」という記述があるので、「華山」と呼ばれる。華山は主に南峰(落雁)、東峰(朝陽)、西峰()、中峰(玉女)、北峰(雲台)5峰からなり、その中主峰落雁、朝陽、蓮花は高く険しく、神技があるように聳え立っている。南峰は一番高い峰だけでなく、五岳の中では最高の峰です。上に登り群山を見下ろし、山々が重なり合ってそばだち、勢いがある。ここに「仰天池」と呼ばれる池があり、一年中澄みきっていて涸れない。玉女と雲台はほかの峰に比べて高くはないが、それぞれの特色がある。風光明美な華山は、中国の著名な景勝地だけではなく、道教の有名な「洞天福地」である。華山には奇妙な石がたくさんあり、岩洞が全山に分布し、《雲笈七籤》の洞天福地記によると、華山西玄洞は、三元极真洞天とも呼ばれ、十大洞天の第四洞天とされている。華山洞は、太极総仙洞天とも呼ばれ、三十六小洞天の第四洞天とされ、他に花洞、玉皇洞、太上洞、賀老洞、迎陽洞、希夷洞などがあるという。

古くから道教教徒は華山での修行に憧れていた。歴代の著名な道士、士の修行の遺跡と文物が山の至る所にあり、彼らに関する伝説と物語は、今日まで当地に伝わっている。道教が形成する前、その前身「方仙道」、「黄老道」の期に、すでにたくさんの著名な神仙家達が華山に定住して修道していたのである。とくに、唐代は国教として盛んな時期であった、唐高祖、唐太宗などが華山に登り拝礼をしているし、唐睿宗の娘金仙王女は華山で修道し、唐玄宗が王女の為に仙姑観、白雲宮を建てている。
西嶽華山00

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李白  西嶽雲臺歌送丹丘子#3

白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。

雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。

明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。

五嶽大帝に「金天氏為白帝,治華陰山。」(金天氏白帝と為り,華陰山に治す。)と白帝は金の精を集め、元気をめぐらせて、西方を平鎮して居るが、その元気を受けてできた華山の中には、他に見ることはない様な奇絶な景色があって、石は蓮花の形をなし、雲は臺となって居る。

その雲臺峰には、立派な道観があって、閣道が天に通じで居る。そこに行い澄まして居る高徳の道士は、太古から今に至るまで、不死と傳えられた丹邱先生その人である。

かくて、丹邱先生は、明星玉女という峰の何し負う仙女などを自由に使って、自分の居る雲臺観の掃除をさせて居るし、その端坐して居る間には、麻姑といふ仙女がきて、長い爪で背中の痒い處を掻いて呉れることであらう。

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年:743年天寶二年43歳 94-55

卷別:    卷一六六              文體:    七言古詩

詩題:    西嶽雲臺歌送丹丘子

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              雲臺峰 (京畿道 華州 華山)              

華山 (京畿道 華州 華山) 別名:華、太華、華岳、西岳             

仙人掌 (京畿道 華州 華山)              

渭橋 (京畿道 京兆府 長安)              

交遊人物/地點:元丹丘      當地交遊(京畿道 華州 華山)

 

 

西嶽雲臺歌送丹丘子

(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)

西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。

西嶽の華山は、嶸と天に聳えて、実に壮観であって、その絶頂に登って遥かに下方を望めば黄河は、絲の如く細く、遥かにに西北の天際から流れてくるのが見える。

黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。

抑も、黄河は、万里の塞外からきて、このやま麓に触れ、これを動かすが如き勢であって、ぐるぐると廻る渦は、車轂の如く旋轉し、その聲は、古の秦地たる長安の都までも、恐ろしい雷の如く聞える。

(西嶽雲臺の歌で 丹丘子を送る)

西嶽 崢嶸として何ぞ壯なる哉,黃河絲の如く天際より來る。

黃河萬里 山に觸れて動き,盤渦 轂轉して秦地雷なり。

#2

榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。

今は堯舜のころのような「開元の治」といわれる聖主の御治世であるから、黄河から栄光を生じ、目出度い休気を発し、五彩紛粉として、空中に輝いて居る。黄河は、千年に唯だ一度清むというが、今しも、丁度清んで居るので、正に聖人が上に在ますということが分かる。

巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海。

むかし、華山は、首陽山と対して、黄河は其間を流れて居たのであるが、巨霊といって恐ろしい力のある神様が、この西嶽を掌でつんざき開いて、河水を切って落したというが、その巨霊が叫び狂って、南山を劈いたその跡も、歴々として今でも残って居るし、その劈いた道筋は、大きな波が、箭を射るが如き勢を以て流れ、そして、東海に馳せ向うのである。

三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。

華山は、元来多くの峰が集合してできているので、中にも蓮花、落雁、朝陽の主要三峰は鼎立して、今にも崩れ掛りそうで、巨霊の掌でつんざいて開いたによって、翠崖丹谷が出来たのである。

榮光休氣 五彩に紛たり,千年一たび清んで 聖人在り。

巨靈 咆哮して 兩山を擘き,洪波 箭を噴いて東海を射る。

三峰 卻立して 摧けんと欲するが如し,翠崖 丹谷 高掌開く。

#3

白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。

五嶽大帝に「金天氏為白帝,治華陰山。」(金天氏白帝と為り,華陰山に治す。)と白帝は金の精を集め、元気をめぐらせて、西方を平鎮して居るが、その元気を受けてできた華山の中には、他に見ることはない様な奇絶な景色があって、石は蓮花の形をなし、雲は臺となって居る。

雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。

その雲臺峰には、立派な道観があって、閣道が天に通じで居る。そこに行い澄まして居る高徳の道士は、太古から今に至るまで、不死と傳えられた丹邱先生その人である。

明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。

かくて、丹邱先生は、明星玉女という峰の何し負う仙女などを自由に使って、自分の居る雲臺観の掃除をさせて居るし、その端坐して居る間には、麻姑といふ仙女がきて、長い爪で背中の痒い處を掻いて呉れることであらう。

白帝の金精 元氣を運【めぐ】らし,石は蓮花を作し 雲は臺を作す。

雲臺の閣道 窈冥に連り,中に不死の丹丘生有り。

明星玉女 灑掃に備わり,“麻姑搔背” 指爪輕し。

#4

我皇手把天地丹丘談天與天語。

九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。

玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。

 

西嶽華山00 

『西嶽雲臺歌送丹丘子』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。

雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。

明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。

(下し文)
#3

白帝の金精 元氣を運【めぐ】らし,石は蓮花を作し 雲は臺を作す。

雲臺の閣道 窈冥に連り,中に不死の丹丘生有り。

明星玉女 灑掃に備わり,“麻姑搔背” 指爪輕し。

(現代語訳)
#3

五嶽大帝に「金天氏為白帝,治華陰山。」(金天氏白帝と為り,華陰山に治す。)と白帝は金の精を集め、元気をめぐらせて、西方を平鎮して居るが、その元気を受けてできた華山の中には、他に見ることはない様な奇絶な景色があって、石は蓮花の形をなし、雲は臺となって居る。

その雲臺峰には、立派な道観があって、閣道が天に通じで居る。そこに行い澄まして居る高徳の道士は、太古から今に至るまで、不死と傳えられた丹邱先生その人である。

かくて、丹邱先生は、明星玉女という峰の何し負う仙女などを自由に使って、自分の居る雲臺観の掃除をさせて居るし、その端坐して居る間には、麻姑といふ仙女がきて、長い爪で背中の痒い處を掻いて呉れることであらう。

汜水関などの地図
(訳注) #3

西嶽雲臺歌送丹丘子

(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)

1 西嶽 華山のこと。 中国陝西省華陰市にある険しい山。道教の修道院があり、中国五名山、五岳の一つで、西岳と称されている。最高峰となる南峰の標高は2,160m。花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほどしかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山として知られる。《癸辛雜識》 「五岳惟華岳極峻,直上四十五里,遇無路處皆挽鐵絙以上。有西岳廟在山頂,望黃河一衣帶水耳。」(五岳惟だ華岳のみ極めて峻,直上四十五里,無路き處に遇えば 皆 鐵絙を挽いて以て上る。西岳廟山頂に在り,黃河を望めば一衣帶水のみと有る。)

2. 雲臺 雲臺觀,在陝西省華陰縣南華山上。

3. 丹丘子 その華岳の雲臺峰に元丹邱子という道士が棲んで居た。この人は、李白と親交があつたと見えて、集中に其名が散見して居る。そして、元丹邱は神仙の術を得、天子から尊崇され、しばしば招いて道教の話を聞かれたこともあるので、それ等の事実を詠み込んで、今や丹邱子が華山の雲臺峰に歸隠するのをおくったのである。

 

白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。

五嶽大帝に「金天氏為白帝,治華陰山。」(金天氏白帝と為り,華陰山に治す。)と白帝は金の精を集め、元気をめぐらせて、西方を平鎮して居るが、その元気を受けてできた華山の中には、他に見ることはない様な奇絶な景色があって、石は蓮花の形をなし、雲は臺となって居る。

10. 白帝金精 少昊【しょうこう】は、中国古代の五帝の一人。姓は己姓。氏は金天氏(鳳鳥氏、青陽氏、窮桑氏、雲陽氏とも称される)。名は(質とも作る)。号は「皞」(「皓」・「顥」とも作る)、「朱宣」、「少昊」(少昊とは太昊の徳行を継承したことによる命名)。黄帝の子。窮桑(現在の山東省曲阜市)に生まれる。義和の国と称された東夷族の国の領主。暦を創り、官名を「玄鳥氏」、「伯趙氏」、「青鳥氏」、「丹鳥氏」等、鳥の名で呼んだことが、春秋左氏伝-昭公十七年の項に記載されている。蟜極の父。中国神話では、金字塔(ピラミッド)に埋葬されたとされている。なお、その遺構は中華人民共和国内に発見されていない。の氏族(嬴、桑、、秦、徐、黄、江、李、趙、 数百あり)の始祖。東晉葛洪《枕中書、五嶽大帝》「則以太昊氏為青帝,治岱宗山,祝融氏為赤帝,治衡霍山,金天氏為白帝,治華陰山,顓頊氏為黑帝,治太恆山,軒轅氏為黃帝,治嵩高山。」とあり、(金天氏白帝と為り,華陰山に治す。)とみえる。

11. 運 はこぶ。めぐる。めぐらす。もてあそぶ。めぐりあわせ、うん。

12. 石作蓮花 華山の西峰海拔2082米,又、因みに石葉が蓮の瓣の如く峰覆蓋している,故に又の名を蓮花峰という

13. 雲作臺 雲が臺をなす、道教においての仙境の台をいう。

 

雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。

その雲臺峰には、立派な道観があって、閣道が天に通じで居る。そこに行い澄まして居る高徳の道士は、太古から今に至るまで、不死と傳えられた丹邱先生その人である。

14. 雲臺 雲臺峰 北峰のことで、海拔1614米,華山において主峰の一である,華山において北にあることで拝礼する方向にあるやまである。北峰四面は懸であり,上に景雲を冠しており,下には地脈に通じ,巍然として獨り秀である,雲臺の若く有り,此に因て又の名を雲臺峰という

15. 閣道 ①花を見るための桟道。王維《御製従蓬萊宮向興慶》「鑾輿迴出千門柳,閣道廻看上苑花。」(鑾輿 迴らし出ず千門の柳,閣道廻らし看る上苑の花)②山中のがけからがけに渡した橋。かけ橋。アーチ橋や肘木橋のような梯橋などもいう。③秦の始皇帝が渭水(いすい)の両岸に築いた長楽・咸陽両宮の間に架けられた橋は支間68,柱750本からなる木造の桁橋であり,漢代の壁画に中段を高く上げた橋の描写がある。秦・漢時代には,閣道という宮殿もあった。

 

明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。

かくて、丹邱先生は、明星玉女という峰の何し負う仙女などを自由に使って、自分の居る雲臺観の掃除をさせて居るし、その端坐して居る間には、麻姑といふ仙女がきて、長い爪で背中の痒い處を掻いて呉れることであらう。

16. 明星玉女 《太平廣記·卷第五十九·女仙四》「明星玉女者,居山。服玉,白日升天。山,其广数,高三仞。其有梯磴,。玉女祠前有五石臼,号曰玉女洗盆。其中水色,碧绿澄澈,雨不加溢,旱不减耗。祠内有玉石一匹焉。」(明星玉女者華山に。玉,白日升天す。山頂に石龜とし,其の広さは数畝であり,高さは三仞である。其のには梯磴有り,遠く皆見る。玉女祠の前には五石臼が有り,号して曰う玉女が頭を洗った盆である。其の中は水色,碧绿澄澈していて,雨がふっても溢れることはない,旱であっても中の水が减耗することもなく。祠内には玉石の馬が一匹有るだけである。

17. 麻姑搔背 漢の桓帝かんていのとき、蔡経さいけいという者が麻姑の長い爪を見て、あの爪で背中をかかせたら、さぞかし気持ちがよいだろうと心の中で思ったという故事「麻姑」は中国伝説上の仙女の名。鳥のような長い爪つめをもっているので、かゆいところをかくのに適しているといわれた。「掻痒」はかゆいところをかくこと。晉·葛洪《神仙傳》卷二《王遠》“麻姑手爪似鳥,經見之,心中念曰:「背大癢時,得此爪以爬背,當佳也。」遠已知經心中所言,即使人牽經鞭之,謂曰:「麻姑神人也,汝何忽謂其爪可爬背耶!」但見鞭著經背,亦莫見有人持鞭者。”(麻姑の手爪は鳥に似たり,蔡經之を見て,心中に念じて曰く:「背大に癢き時,此の爪を得て以て背を爬く,當に佳なるべきなり。」と。王遠 已に蔡經心中を言う所を知り,即ち人をして經を牽いて之を鞭たしめて,謂うて曰く:「麻姑は神人なり,汝 何ぞ忽に謂其の爪で背を爬く可し!」と。但し鞭著して蔡經の背を見れば,亦た人の鞭を持す者有る見る莫れ。)

 

 

 


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李白  西嶽雲臺歌送丹丘子  -#2

榮光休氣 五彩に紛たり,千年一たび清んで 聖人在り。

巨靈 咆哮して 兩山を擘き,洪波 箭を噴いて東海を射る。

三峰 卻立して 摧けんと欲するが如し,翠崖 丹谷 高掌開く。
今は堯舜のころのような「開元の治」といわれる聖主の御治世であるから、黄河から栄光を生じ、目出度い休気を発し、五彩紛粉として、空中に輝いて居る。黄河は、千年に唯だ一度清むというが、今しも、丁度清んで居るので、正に聖人が上に在ますということが分かる。むかし、華山は、首陽山と対して、黄河は其間を流れて居たのであるが、巨霊といって恐ろしい力のある神様が、この西嶽を掌でつんざき開いて、河水を切って落したというが、その巨霊が叫び狂って、南山を劈いたその跡も、歴々として今でも残って居るし、その劈いた道筋は、大きな波が、箭を射るが如き勢を以て流れ、そして、東海に馳せ向うのである。華山は、元来多くの峰が集合してできているので、中にも蓮花、落雁、朝陽の主要三峰は鼎立して、今にも崩れ掛りそうで、巨霊の掌でつんざいて開いたによって、翠崖丹谷が出来たのである。

743年(57)李太白集卷六07-《西嶽雲臺歌送丹丘子》 375-#2Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-57) Ⅰ李白詩1724 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7161

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-55

卷別:    卷一六六              文體:    七言古詩

詩題:    西嶽雲臺歌送丹丘子

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              雲臺峰 (京畿道 華州 華山)              

華山 (京畿道 華州 華山) 別名:華、太華、華岳、西岳             

仙人掌 (京畿道 華州 華山)              

渭橋 (京畿道 京兆府 長安)              

交遊人物/地點:元丹丘      當地交遊(京畿道 華州 華山)

 

 

西嶽雲臺歌送丹丘子

(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)

西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。

西嶽の華山は、嶸と天に聳えて、実に壮観であって、その絶頂に登って遥かに下方を望めば黄河は、絲の如く細く、遥かにに西北の天際から流れてくるのが見える。

黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。

抑も、黄河は、万里の塞外からきて、このやま麓に触れ、これを動かすが如き勢であって、ぐるぐると廻る渦は、車轂の如く旋轉し、その聲は、古の秦地たる長安の都までも、恐ろしい雷の如く聞える。

(西嶽雲臺の歌で 丹丘子を送る)

西嶽 崢嶸として何ぞ壯なる哉,黃河絲の如く天際より來る。

黃河萬里 山に觸れて動き,盤渦 轂轉して秦地雷なり。

#2

榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。

今は堯舜のころのような「開元の治」といわれる聖主の御治世であるから、黄河から栄光を生じ、目出度い休気を発し、五彩紛粉として、空中に輝いて居る。黄河は、千年に唯だ一度清むというが、今しも、丁度清んで居るので、正に聖人が上に在ますということが分かる。

巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海。

むかし、華山は、首陽山と対して、黄河は其間を流れて居たのであるが、巨霊といって恐ろしい力のある神様が、この西嶽を掌でつんざき開いて、河水を切って落したというが、その巨霊が叫び狂って、南山を劈いたその跡も、歴々として今でも残って居るし、その劈いた道筋は、大きな波が、箭を射るが如き勢を以て流れ、そして、東海に馳せ向うのである。

三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。

華山は、元来多くの峰が集合してできているので、中にも蓮花、落雁、朝陽の主要三峰は鼎立して、今にも崩れ掛りそうで、巨霊の掌でつんざいて開いたによって、翠崖丹谷が出来たのである。

榮光休氣 五彩に紛たり,千年一たび清んで 聖人在り。

巨靈 咆哮して 兩山を擘き,洪波 箭を噴いて東海を射る。

三峰 卻立して 摧けんと欲するが如し,翠崖 丹谷 高掌開く。

#3

白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。

雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。

明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。

#4

我皇手把天地丹丘談天與天語。

九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。

玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。

 

 

詩文(含異文)     西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海【洪波噴流射東海】。三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。我皇手把天地,丹丘談天與天語。九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。

 

Ta唐 長安近郊圖  新02 

『西嶽雲臺歌送丹丘子』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。

巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海。

三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。

(下し文)
#2

榮光休氣 五彩に紛たり,千年一たび清んで 聖人在り。

巨靈 咆哮して 兩山を擘き,洪波 箭を噴いて東海を射る。

三峰 卻立して 摧けんと欲するが如し,翠崖 丹谷 高掌開く。

(現代語訳)
#2

今は堯舜のころのような「開元の治」といわれる聖主の御治世であるから、黄河から栄光を生じ、目出度い休気を発し、五彩紛粉として、空中に輝いて居る。黄河は、千年に唯だ一度清むというが、今しも、丁度清んで居るので、正に聖人が上に在ますということが分かる。

むかし、華山は、首陽山と対して、黄河は其間を流れて居たのであるが、巨霊といって恐ろしい力のある神様が、この西嶽を掌でつんざき開いて、河水を切って落したというが、その巨霊が叫び狂って、南山を劈いたその跡も、歴々として今でも残って居るし、その劈いた道筋は、大きな波が、箭を射るが如き勢を以て流れ、そして、東海に馳せ向うのである。

華山は、元来多くの峰が集合してできているので、中にも蓮花、落雁、朝陽の主要三峰は鼎立して、今にも崩れ掛りそうで、巨霊の掌でつんざいて開いたによって、翠崖丹谷が出来たのである。

西嶽華山00
(訳注) #2

西嶽雲臺歌送丹丘子

(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)

1 西嶽 華山のこと。 中国陝西省華陰市にある険しい山。道教の修道院があり、中国五名山、五岳の一つで、西岳と称されている。最高峰となる南峰の標高は2,160m。花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほどしかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山として知られる。《癸辛雜識》 「五岳惟華岳極峻,直上四十五里,遇無路處皆挽鐵絙以上。有西岳廟在山頂,望黃河一衣帶水耳。」(五岳惟だ華岳のみ極めて峻,直上四十五里,無路き處に遇えば 皆 鐵絙を挽いて以て上る。西岳廟山頂に在り,黃河を望めば一衣帶水のみと有る。)

2. 雲臺 雲臺觀,在陝西省華陰縣南華山上。

3. 丹丘子 その華岳の雲臺峰に元丹邱子という道士が棲んで居た。この人は、李白と親交があつたと見えて、集中に其名が散見して居る。そして、元丹邱は神仙の術を得、天子から尊崇され、しばしば招いて道教の話を聞かれたこともあるので、それ等の事実を詠み込んで、今や丹邱子が華山の雲臺峰に歸隠するのをおくったのである。

 

榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。

今は堯舜のころのような「開元の治」といわれる聖主の御治世であるから、黄河から栄光を生じ、目出度い休気を発し、五彩紛粉として、空中に輝いて居る。黄河は、千年に唯だ一度清むというが、今しも、丁度清んで居るので、正に聖人が上に在ますということが分かる。

6.  千年一清 晉•王嘉撰《拾遺記》「黄河千年一清,至聖之君以為大瑞。」(黄河千年に一たび清む、至聖の君、以て大瑞と爲す。)とある。

 

巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海。

むかし、華山は、首陽山と対して、黄河は其間を流れて居たのであるが、巨霊といって恐ろしい力のある神様が、この西嶽を掌でつんざき開いて、河水を切って落したというが、その巨霊が叫び狂って、南山を劈いたその跡も、歴々として今でも残って居るし、その劈いた道筋は、大きな波が、箭を射るが如き勢を以て流れ、そして、東海に馳せ向うのである。

7.】  巨靈 巨神、川の神、古語に昔二つの華山が一つになっていた。黄河がそのためまっすぐ流れないので、河神が手で山をおし開き、足で麓をおし分けて河水を通した。その手足の跡がのこっているという。張衡《西京賦》「漢氏初都,在渭之涘,秦里其朔,寔為咸陽。左有崤函重險、桃林之塞,綴以二華,巨靈贔屓,高掌遠蹠,以流河曲,厥跡猶存。」(漢氏の初都は、渭の涘【ほとり】に在り。秦 其の朔【きた】に里【あ】り、寔【これ】を咸陽と為す。左に崤函【こうかん】の重険【ちょうかん】、桃林の塞有り。綴【てい】するに二華を以てし、巨靈贔屓【ひいき】し、掌を高くし蹠【あし】を遠くし、以て河曲を流せり。厥【そ】の跡 猶お存す。(長安の地勢) 漢の王室が始めて定めた都は、渭水のほとりである。それまで秦はその北に居り、そこは咸陽という。漢都長安の東は、崤山・函谷山の二重の険があり、桃林の塞がある。そこから長安まで、その間を太華と少華のなん両山をつないでおり、むかし河の巨神が全力を傾ける。掌を高くさし上げ、足を大きく踏ん張り、もと一つの山であったのを押し開き、曲流する河水をまっすぐ流した。その痕跡は今も残る。

張平子(張衡)《西京賦》(4)(長安の地勢) #2-1 文選 賦<114―(4)>31分割68回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1041 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3753

 

三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。

華山は、元来多くの峰が集合してできているので、中にも蓮花、落雁、朝陽の主要三峰は鼎立して、今にも崩れ掛りそうで、巨霊の掌でつんざいて開いたによって、翠崖丹谷が出来たのである。

【8】三峰 現在の華山は東、西、南、北、中と五峰有る。主峰は南峰“落雁”、東峰“朝陽”、西峰“蓮花” と有って,三峰が鼎峙している。“勢飛白雲外影倒黃河裡”といわれ,人々は “天外三峰”と稱している。また雲台、玉女の二峰が相輔してその側に有る。華山記に「太華山削成而四方直上至頂、列爲三峯。其西爲蓮花/峯、峯之石窳隆不一。皆如蓮葉倒垂、故名是峯曰蓮花。 其南曰落雁峯、上多松檜、故亦曰松檜峯。白帝在其/間、俯眺三秦、曠莽無際黄河如一縷、水 繚繞岳下。其東峯曰朝陽峯、峯之左脇中有一峯、狀甚秀異、如爲東峯/所抱者曰玉女峯、乃東峯之支峯也。世之談三峯者、數玉女而不數朝陽非矣。」(太華山削成し、四方直上して頂きに至り、列して三峰となる。その西を蓮花峰となす、峰の石窳隆して一ならず、皆蓮葉の倒垂するが如し、故にこの峰を名づけて蓮花という。その南を落雁峰という、上に松檜多し、故に亦た松檜峰といふ。白帝宮、その間に在り、伏して三秦を眺むれば、黄河一縷の如く、水、嶽下み繚繞す。その東峰在朝陽峰といふ、峰の左脇中に一峰あり、状甚だ秀異、東峰に抱かるるものの如し、玉女峰といふ、乃ち東峰の支峰なり。世の三峰を談するもの、玉女を数えて、朝陽を数えず、非なり。)とある。

9】 高掌開 上文の続きに「山の東北は、即ち仙人掌たり、即ちいわゆる巨霊掌なり 巌壁黒色、石膏、宝中より流れ出で、凝結して痕を成し、黄白相間はる。遠く之を望めば、その大なるもの、五岐、指の如きものも見る。好奇のもの、ついに傳えて、巨霊山を劈くの掌跡となす。『掌の長さ三十丈、五指参差、中指直に峰頂きに冠す、長さ三十丈」とある、これに就いて、王涯の大華山掌辯等あれども、あまりくどいので、省略する。

 

 

 

 

 

【字解】

1 西嶽 華山のこと。 中国陝西省華陰市にある険しい山。道教の修道院があり、中国五名山、五岳の一つで、西岳と称されている。最高峰となる南峰の標高は2,160m。花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほどしかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山として知られる。《癸辛雜識》 「五岳惟華岳極峻,直上四十五里,遇無路處皆挽鐵絙以上。有西岳廟在山頂,望黃河一衣帶水耳。」(五岳惟だ華岳のみ極めて峻,直上四十五里,無路き處に遇えば 皆 鐵絙を挽いて以て上る。西岳廟山頂に在り,黃河を望めば一衣帶水のみと有る。)

2. 雲臺 雲臺觀,在陝西省華陰縣南華山上。

3. 丹丘子 その華岳の雲臺峰に元丹邱子という道士が棲んで居た。この人は、李白と親交があつたと見えて、集中に其名が散見して居る。そして、元丹邱は神仙の術を得、天子から尊崇され、しばしば招いて道教の話を聞かれたこともあるので、それ等の事実を詠み込んで、今や丹邱子が華山の雲臺峰に歸隠するのをおくったのである。

元丹丘 《李太白集 巻六 巻06-08 元丹丘歌》元丹邱は李白が30歳前後に交際していた道士のひとり。李白はこの人物の詩を12編も書いているとおり、心から信服していたようだ。頴川は河南省を流れる川、元丹邱丘はこの川のほとりに別荘をもっていた、嵩岑は嵩山のこと、五岳のひとつで神聖な山とされた。

李白はこの年、秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。

胡紫陽、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。

 

李太白集

Category 詩題

作時

-No.

西暦 年号

06-08

1.元丹丘歌 

731年開元十九年

24-02

2.題元丹丘山居 

731年開元十九年

24-03

3.題元丹丘 陽山居 并序 

731年開元十九年

18-16

4.酬岑勛見尋就元丹丘對酒相待以詩見招

736年開元二十四年

02-08

5.將進酒 

736年開元二十四年

14-12

6.潁陽別元丹丘之淮陽 

738年開元二十六年

23-55

7.觀元丹丘坐巫山屏風 

738年開元二十六年

13-13

14.江上寄元六林宗

739年開元二十七年39

09-01

15秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

741年開元二十九年

06-07

9. 西嶽雲臺歌送丹丘子

743年天寶二年

18-11

8. 以詩代書答元丹丘

744年天寶三年

24-08

10.題嵩山逸人元丹丘山居 并序 

750年天寶九年

22-02

11.尋高鳳石門山中元丹丘 

751年天寶十年

12-11

12.聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡

751年天寶十年

22-01

13.與元丹丘方城寺談玄作 

751年天寶十年

 以上の十三首+二首である。

㈣ 崢嶸 1 山や谷のけわしさ。2 人生のけわしさ。[ト・タル][文][形動タリ]山などが、高くけわしいさま。

㈤ 盤渦轂轉 渦が盤のようにぐるぐる回って車轂の如く回転する。

6.  千年一清 晉•王嘉撰《拾遺記》「黄河千年一清,至聖之君以為大瑞。」(黄河千年に一たび清む、至聖の君、以て大瑞と爲す。)とある。

7.  巨靈 巨神、川の神、古語に昔二つの華山が一つになっていた。黄河がそのためまっすぐ流れないので、河神が手で山をおし開き、足で麓をおし分けて河水を通した。その手足の跡がのこっているという。張衡《西京賦》「漢氏初都,在渭之涘,秦里其朔,寔為咸陽。左有崤函重險、桃林之塞,綴以二華,巨靈贔屓,高掌遠蹠,以流河曲,厥跡猶存。」(漢氏の初都は、渭の涘【ほとり】に在り。秦 其の朔【きた】に里【あ】り、寔【これ】を咸陽と為す。左に崤函【こうかん】の重険【ちょうかん】、桃林の塞有り。綴【てい】するに二華を以てし、巨靈贔屓【ひいき】し、掌を高くし蹠【あし】を遠くし、以て河曲を流せり。厥【そ】の跡 猶お存す。(長安の地勢) 漢の王室が始めて定めた都は、渭水のほとりである。それまで秦はその北に居り、そこは咸陽という。漢都長安の東は、崤山・函谷山の二重の険があり、桃林の塞がある。そこから長安まで、その間を太華と少華のなん両山をつないでおり、むかし河の巨神が全力を傾ける。掌を高くさし上げ、足を大きく踏ん張り、もと一つの山であったのを押し開き、曲流する河水をまっすぐ流した。その痕跡は今も残る。

張平子(張衡)《西京賦》(4)(長安の地勢) #2-1 文選 賦<114―(4)>31分割68回 Ⅱ李白に影響与えた詩1041 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3753

【8】三峰 現在の華山は東、西、南、北、中と五峰有る。主峰は南峰“落雁”、東峰“朝陽”、西峰“蓮花” と有って,三峰が鼎峙している。“勢飛白雲外影倒黃河裡”といわれ,人々は “天外三峰”と稱している。また雲台、玉女の二峰が相輔してその側に有る。華山記に「太華山削成而四方直上至頂、列爲三峯。其西爲蓮花/峯、峯之石窳隆不一。皆如蓮葉倒垂、故名是峯曰蓮花。 其南曰落雁峯、上多松檜、故亦曰松檜峯。白帝在其/間、俯眺三秦、曠莽無際黄河如一縷、水 繚繞岳下。其東峯曰朝陽峯、峯之左脇中有一峯、狀甚秀異、如爲東峯/所抱者曰玉女峯、乃東峯之支峯也。世之談三峯者、數玉女而不數朝陽非矣。」(太華山削成し、四方直上して頂きに至り、列して三峰となる。その西を蓮花峰となす、峰の石窳隆して一ならず、皆蓮葉の倒垂するが如し、故にこの峰を名づけて蓮花という。その南を落雁峰という、上に松檜多し、故に亦た松檜峰といふ。白帝宮、その間に在り、伏して三秦を眺むれば、黄河一縷の如く、水、嶽下み繚繞す。その東峰在朝陽峰といふ、峰の左脇中に一峰あり、状甚だ秀異、東峰に抱かるるものの如し、玉女峰といふ、乃ち東峰の支峰なり。世の三峰を談するもの、玉女を数えて、朝陽を数えず、非なり。)とある。

9】 高掌開 上文の続きに「山の東北は、即ち仙人掌たり、即ちいわゆる巨霊掌なり 巌壁黒色、石膏、宝中より流れ出で、凝結して痕を成し、黄白相間はる。遠く之を望めば、その大なるもの、五岐、指の如きものも見る。好奇のもの、ついに傳えて、巨霊山を劈くの掌跡となす。『掌の長さ三十丈、五指参差、中指直に峰頂きに冠す、長さ三十丈」とある、これに就いて、王涯の大華山掌辯等あれども、あまりくどいので、省略する。

743年(56)李白 卷六07-《西嶽雲臺歌送丹丘子》(西嶽崢嶸何壯哉,) Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(56) <李白> Ⅰ李白詩1714 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7118

李白  西嶽雲臺歌送丹丘子

西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。

黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。

(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)

西嶽の華山は、嶸と天に聳えて、実に壮観であって、その絶頂に登って遥かに下方を望めば黄河は、絲の如く細く、遥かにに西北の天際から流れてくるのが見える。抑も、黄河は、万里の塞外からきて、このやま麓に触れ、これを動かすが如き勢であって、ぐるぐると廻る渦は、車轂の如く旋轉し、その聲は、古の秦地たる長安の都までも、恐ろしい雷の如く聞える。

743年(56)李白 卷六07-《西嶽雲臺歌送丹丘子》(西嶽崢嶸何壯哉,) Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-56) <李白> Ⅰ李白詩1714 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7118

 

 
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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元丹丘 《李太白集 巻六 巻06-08 元丹丘歌》元丹邱は李白が30歳前後に交際していた道士のひとり。李白はこの人物の詩を12編も書いているとおり、心から信服していたようだ。頴川は河南省を流れる川、元丹邱丘はこの川のほとりに別荘をもっていた、嵩岑は嵩山のこと、五岳のひとつで神聖な山とされた。

李白はこの年、秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。

胡紫陽、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。

 

李太白集

Category 詩題

作時

-No.

西暦 年号

06-08

1.元丹丘歌 

731年開元十九年

24-02

2.題元丹丘山居 

731年開元十九年

24-03

3.題元丹丘 陽山居 并序 

731年開元十九年

18-16

4.酬岑勛見尋就元丹丘對酒相待以詩見招

736年開元二十四年

02-08

5.將進酒 

736年開元二十四年

14-12

6.潁陽別元丹丘之淮陽 

738年開元二十六年

23-55

7.觀元丹丘坐巫山屏風 

738年開元二十六年

13-13

14.江上寄元六林宗

739年開元二十七年39

09-01

15秋日鍊藥院鑷白髮贈元六兄林宗

741年開元二十九年

06-07

9. 西嶽雲臺歌送丹丘子

743年天寶二年

18-11

8. 以詩代書答元丹丘

744年天寶三年

24-08

10.題嵩山逸人元丹丘山居 并序 

750年天寶九年

22-02

11.尋高鳳石門山中元丹丘 

751年天寶十年

12-11

12.聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡

751年天寶十年

22-01

13.與元丹丘方城寺談玄作 

751年天寶十年

 

 以上の十三首+二首である。

 

 

 

年:743年天寶二年43歳 94-55

卷別:    卷一六六              文體:    七言古詩

詩題:    西嶽雲臺歌送丹丘子

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              雲臺峰 (京畿道 華州 華山)              

華山 (京畿道 華州 華山) 別名:華、太華、華岳、西岳             

仙人掌 (京畿道 華州 華山)              

渭橋 (京畿道 京兆府 長安)              

交遊人物/地點:元丹丘      當地交遊(京畿道 華州 華山)

 

 

西嶽雲臺歌送丹丘子

(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)

西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。

西嶽の華山は、嶸と天に聳えて、実に壮観であって、その絶頂に登って遥かに下方を望めば黄河は、絲の如く細く、遥かにに西北の天際から流れてくるのが見える。

黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。

抑も、黄河は、万里の塞外からきて、このやま麓に触れ、これを動かすが如き勢であって、ぐるぐると廻る渦は、車轂の如く旋轉し、その聲は、古の秦地たる長安の都までも、恐ろしい雷の如く聞える。

(西嶽雲臺の歌で 丹丘子を送る)

西嶽 崢嶸として何ぞ壯なる哉,黃河絲の如く天際より來る。

黃河萬里 山に觸れて動き,盤渦 轂轉して秦地雷なり。

榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。

巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海。

三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。

 

白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。

雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。

明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。

 

我皇手把天地丹丘談天與天語。

九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。

玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。

 

 

詩文(含異文)     西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海【洪波噴流射東海】。三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。我皇手把天地,丹丘談天與天語。九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。

華山道教 

 

『西嶽雲臺歌送丹丘子』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

西嶽雲臺歌送丹丘子

西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。

黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。

(下し文)
(西嶽雲臺の歌で 丹丘子を送る)

西嶽 崢嶸として何ぞ壯なる哉,黃河絲の如く天際より來る。

黃河萬里 山に觸れて動き,盤渦 轂轉して秦地雷なり。

(現代語訳)
西嶽雲臺歌送丹丘子(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)

西嶽の華山は、嶸と天に聳えて、実に壮観であって、その絶頂に登って遥かに下方を望めば黄河は、絲の如く細く、遥かにに西北の天際から流れてくるのが見える。

抑も、黄河は、万里の塞外からきて、このやま麓に触れ、これを動かすが如き勢であって、ぐるぐると廻る渦は、車轂の如く旋轉し、その聲は、古の秦地たる長安の都までも、恐ろしい雷の如く聞える。


(訳注)

西嶽雲臺歌送丹丘子

(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)

1 西嶽 華山のこと。 中国陝西省華陰市にある険しい山。道教の修道院があり、中国五名山、五岳の一つで、西岳と称されている。最高峰となる南峰の標高は2,160m。花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほどしかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山として知られる。《癸辛雜識》 「五岳惟華岳極峻,直上四十五里,遇無路處皆挽鐵絙以上。有西岳廟在山頂,望黃河一衣帶水耳。」(五岳惟だ華岳のみ極めて峻,直上四十五里,無路き處に遇えば 皆 鐵絙を挽いて以て上る。西岳廟山頂に在り,黃河を望めば一衣帶水のみと有る。)

1.  2. 雲臺 雲臺觀,在陝西省華陰縣南華山上。

2.  3. 丹丘子 その華岳の雲臺峰に元丹邱子という道士が棲んで居た。この人は、李白と親交があつたと見えて、集中に其名が散見して居る。そして、元丹邱は神仙の術を得、天子から尊崇され、しばしば招いて道教の話を聞かれたこともあるので、それ等の事実を詠み込んで、今や丹邱子が華山の雲臺峰に歸隠するのをおくったのである。

 

西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。

西嶽の華山は、嶸と天に聳えて、実に壮観であって、その絶頂に登って遥かに下方を望めば黄河は、絲の如く細く、遥かにに西北の天際から流れてくるのが見える。

㈣ 崢嶸 1 山や谷のけわしさ。2 人生のけわしさ。[ト・タル][文][形動タリ]山などが、高くけわしいさま。

 

黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。

抑も、黄河は、万里の塞外からきて、このやま麓に触れ、これを動かすが如き勢であって、ぐるぐると廻る渦は、車轂の如く旋轉し、その聲は、古の秦地たる長安の都までも、恐ろしい雷の如く聞える。

㈤ 盤渦轂轉 渦が盤のようにぐるぐる回って車轂の如く回転する。
西嶽華山00 

743年(55)李太白集卷六05 -《玉壺吟》#2 374Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(55)#2 Ⅰ李白詩1722 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7153

李白  玉壺吟 #2

朝天數換飛龍馬,敕賜珊瑚白玉鞭。世人不識東方朔,大隱金門是謫仙

西施宜笑復宜顰,醜女效之徒累身。君王雖愛蛾眉好,無奈宮中妒殺人。

朝廷への出仕には、「飛竜」の厩の駿馬をいくたび何度も取り換えことなどを勅令により、また、白い珊瑚の握りの玉で飾った美しい鞭を賜わった。いにしえの東方朔の才能とされ、かくいう私の才能が分からないが、「大隠者」のごとく金馬門の翰林院に隠棲している、これをもって、天上よりの「謫仙人」であるが、世間の人々は、そのことを認識していないのである。絶世の美人、西施は、笑い顔は言うに及ばず、胸を病んでしかめ顔をしたときでも、浅はかな醜女が真似をしたことで、帰って実を煩わしてということがあるので、自分の詩文の才芸をいかなる場合でも役立てるつもりでいるものの、つまらねものが形ばかりの真似をされて、価値をおとしめられるというのは辟易することである。また、女にして言えば、その容貌、才芸に優れているとして、君王の寵愛をうけるというのはありがたく喜ばしいことであるけれど、宮中においては、これがとかく、妬み、嫉みとなり、讒言、陰謀を構えるに至っては、どう対処してよいやら如何ともしがたいのである。
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年:743年天寶二年43歳 94-54

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    玉壺吟

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:  

 

玉壺吟 #1

(玉壷を傾けて酔余の時に思いついたことを詠う)

烈士擊玉壺,壯心惜暮年。

我は、烈士の志をもつ者であると自任している、胸におさめた不平を除去するにもっともよいのが、玉壺を撃って調子を取って詠い、今年の歳暮であるが、衰えぬ壮大な志を詠いつつ、魏の曹操のように何か手柄を立てたいと思っており、だから次第に老いてゆく年を惜しんでいる。

三杯拂劍舞秋月,忽然高詠涕泗漣。

かくて、酒におぼれず酒杯を重ねて秋月のもとに立って剣を抜き払い、舞う、すると思わず歌声は高まってきて、涙がとめどなく流れ落ちる。

鳳凰初下紫泥詔,謁帝稱觴登御筵。

紫泥で封じられた鳳凰の口にふくませた詔勅が、初めて下され、頂戴した、愈々出仕し、皇帝に拝謁し、御筵に列し、やがて酒杯を挙げたのである。
揄揚九重萬乘主,謔浪赤墀青瑣賢。

九重の宮中深くいます万乗の天子の徳を頌し、宮廷の赤墀青瑣に出入する今を時めく賢者たちを、自由自在にふざけ戯れていた。
#2

朝天數換飛龍馬,敕賜珊瑚白玉鞭。

朝廷への出仕には、「飛竜」の厩の駿馬をいくたび何度も取り換えことなどを勅令により、また、白い珊瑚の握りの玉で飾った美しい鞭を賜わった。
世人不識東方朔,大隱金門是謫仙。

いにしえの東方朔の才能とされ、かくいう私の才能が分からないが、「大隠者」のごとく金馬門の翰林院に隠棲している、これをもって、天上よりの「謫仙人」であるが、世間の人々は、そのことを認識していないのである。
西施宜笑復宜顰,醜女效之徒累身。

絶世の美人、西施は、笑い顔は言うに及ばず、胸を病んでしかめ顔をしたときでも、浅はかな醜女が真似をしたことで、帰って実を煩わしてということがあるので、自分の詩文の才芸をいかなる場合でも役立てるつもりでいるものの、つまらねものが形ばかりの真似をされて、価値をおとしめられるというのは辟易することである。
君王雖愛蛾眉好,無奈宮中妒殺人。

また、女にして言えば、その容貌、才芸に優れているとして、君王の寵愛をうけるというのはありがたく喜ばしいことであるけれど、宮中においては、これがとかく、妬み、嫉みとなり、讒言、陰謀を構えるに至っては、どう対処してよいやら如何ともしがたいのである。

(玉壺吟)

烈士 玉壺を擊ち、壯心 暮年を惜む。

三杯 劍を拂いて 秋月に舞い、忽然として高詠して涕泗 漣たり。

鳳凰 初めて紫泥の詔を下し、帝に謁し觴【さかずき】を稱げえて御筵に登る。

揄揚す 九重 萬乘の主、謔浪す 赤墀 青瑣の賢。

天に朝して數しば換う飛龍の馬、敕【みことのり】して賜う珊瑚の白玉の鞭。

世人は識らず東方朔、金門に大隱するは是れ謫仙。

西施 笑に宜しく復た顰【ひん】すること宜し、醜女は之に效【なら】いて徒【いたずら】に身を累す。

君王 蛾眉の好きを愛すと雖ども、奈いかんともする無し宮中 人を妒殺するを。

 

 

『玉壺吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

朝天數換飛龍馬,敕賜珊瑚白玉鞭。

世人不識東方朔,大隱金門是謫仙。

西施宜笑復宜顰,醜女效之徒累身。

君王雖愛蛾眉好,無奈宮中妒殺人。


(下し文)
#2

天に朝して數しば換う飛龍の馬、敕【みことのり】して賜う珊瑚の白玉の鞭。

世人は識らず東方朔、金門に大隱するは是れ謫仙。

西施 笑に宜しく復た顰【ひん】すること宜し、醜女は之に效【なら】いて徒【いたずら】に身を累す。

君王 蛾眉の好きを愛すと雖ども、奈いかんともする無し宮中 人を妒殺するを。

(現代語訳)
#2

朝天數換飛龍馬,敕賜珊瑚白玉鞭。

世人不識東方朔,大隱金門是謫仙。

西施宜笑復宜顰,醜女效之徒累身。

君王雖愛蛾眉好,無奈宮中妒殺人。

#2

朝廷への出仕には、「飛竜」の厩の駿馬をいくたび何度も取り換えことなどを勅令により、また、白い珊瑚の握りの玉で飾った美しい鞭を賜わった。
いにしえの東方朔の才能とされ、かくいう私の才能が分からないが、「大隠者」のごとく金馬門の翰林院に隠棲している、これをもって、天上よりの「謫仙人」であるが、世間の人々は、そのことを認識していないのである。
絶世の美人、西施は、笑い顔は言うに及ばず、胸を病んでしかめ顔をしたときでも、浅はかな醜女が真似をしたことで、帰って実を煩わしてということがあるので、自分の詩文の才芸をいかなる場合でも役立てるつもりでいるものの、つまらねものが形ばかりの真似をされて、価値をおとしめられるというのは辟易することである。
また、女にして言えば、その容貌、才芸に優れているとして、君王の寵愛をうけるというのはありがたく喜ばしいことであるけれど、宮中においては、これがとかく、妬み、嫉みとなり、讒言、陰謀を構えるに至っては、どう対処してよいやら如何ともしがたいのである。

(訳注)

玉壺吟 #2
(玉壷を傾けて酔余の時に思いついたことを詠う)

1. 玉壺吟  「玉壷を傾けて酔余の歌」。冒頭の一句に因んでつけた「歌吟・歌行」体の詩。四十三歳ごろ、長安での作。

 

朝天數換飛龍馬、敕賜珊瑚白玉鞭。 
朝廷への出仕には、「飛竜」の厩の駿馬をいくたび何度も取り換えことなどを勅令により、また、白い珊瑚の握りの玉で飾った美しい鞭を賜わった。
飛龍馬 駿馬。「飛龍厩」は、玄武門外重武門の厩の名。「使(軍府)内の六厩、飛龍厩を最も上乗の馬と為す」(『資治通鑑』「唐紀二十五」の胡三省注)。翰林院の学士や供奉は、初めて職につくと、飛龍厩の駿馬を貸し与えられた。(元桓「折西大夫李徳裕の《述夢》に奉和す、四十韻」の自注〔『元棍集外集』巻七、続補一〕)。「使(軍府)内の六厩、飛龍厩を最も上乗の馬と為す」(『資治通鑑』「唐紀二十五」の胡三省注)。翰林院の学士や供奉は、初めて職につくと、飛竜厩の駿馬を貸し与えられた。(元桓「折西大夫李徳裕の《述夢》に奉和す、四十韻」の自注〔『元棍集外集』巻七、続補一〕)。

(飛龍使) 官名。 696通天元年在殿中省置飛龍等六 飼養皇室馬匹, 由殿中丞主管以宦官為飛龍使。殿中省の條には武后萬歳通天元年に仗内六閑(飛龍、祥麟、鳳苑、鵷鸞、吉良、六羣〉別称六厩、として創立されたとある。また別に《通典》巻二にも見える。

唐の国営の馬政は、最盛期には、 隴西、蘭州、平涼、秦州にまたがる48の監牧に70万頭の軍馬が放牧されていた。 ところが、この48の監牧の地は皆、安史の乱に乗じた 吐蕃帝国の侵攻のために全て奪われた。唐には、国営の放牧場である監牧の他に、閑厩というものもある。 仗外閑厩・仗内閑厩(仗内六閑)のうち、仗内閑厩は皇帝の使用や宮城防衛のためのもので長安周辺にあった 。そして、安史の乱以前は、働いて疲れたり怪我をした馬は、監牧の豊かな草地に放して休養させていた。 しかし安史の乱後の監牧が失われたために、軍馬の総数が激減した。禁中にあった 飛龍厩以外の五つの閑厩は、既に名目だけの存在になった。 飛龍厩は玄武門のすぐ北に位置しており、あくまで長安の三宮(皇城、大明宮、興慶宮)を守るのが主体で、正規軍の何万頭もの軍馬を充分に放牧できる空間を確保できるほどのものではないのである。この馬の不足は、唐の駅伝制の崩壊も起こすことになる。(杜甫の詩にも、多く取り上げ、その問題点を指摘している。紀頌之の杜甫のブログ房琯関連に詳しく述べている。)

大明宮 作図011大明宮 作図011


世人不識東方朔、大隱金門是謫仙。
 

いにしえの東方朔の才能とされ、かくいう私の才能が分からないが、「大隠者」のごとく金馬門の翰林院に隠棲している、これをもって、天上よりの「謫仙人」であるが、世間の人々は、そのことを認識していないのである。
東方朔 漢の武帝に仕えた滑稽文学者をさすが、ここでは、李白、自分自身をたとえた。

大隠金門 最上級の隠者は、金馬門(翰林院)に隠棲する。東方朔が酒宴で歌った歌詞に「世を金馬門に避く。宮殿の中にも以って世を避け身を全うす可し」とあるのを踏まえた。晋の王康裾の「反招隠」詩にも、「小隈は陵薮(山沢)に隠れ、大隠は朝市(朝廷や市場)に隠る」とある。

謫仙 天上界から人間界に流されてきた仙人。李白、五言律詩「対酒憶賀監并序」(酒に対して賀監を憶う―参照)。



西施宜笑復宜顰、醜女效之徒累身。 
絶世の美人、西施は、笑い顔は言うに及ばず、胸を病んでしかめ顔をしたときでも、浅はかな醜女が真似をしたことで、帰って実を煩わしてということがあるので、自分の詩文の才芸をいかなる場合でも役立てるつもりでいるものの、つまらねものが形ばかりの真似をされて、価値をおとしめられるというのは辟易することである。
西施 - 春秋時代の越の国の美女。中国の代表的な美女、と意識されている。○醜女効之徒累身 「累」は、苦しめる、疲労させる。宋本では「集」に作るが、景宋威淳本・王本などによって改める。此の句は、上旬と合せて『荘子』(「天運」篇)の説話を踏まえる。西施が胸を病んで眉をしかめる(噺する)と、その里の醜女がそれを効ねて、胸に手をあてて眉をしかめていっそう醜くなった。李白は自分を西施にたとえ、宮中の小人たちを醜女にたとえている。ブログ西施物語、参照。(紀 頌之の漢詩ブログ)



君王雖愛蛾眉好、無奈宮中妒殺人。
また、女にして言えば、その容貌、才芸に優れているとして、君王の寵愛をうけるというのはありがたく喜ばしいことであるけれど、宮中においては、これがとかく、妬み、嫉みとなり、讒言、陰謀を構えるに至っては、どう対処してよいやら如何ともしがたいのである。
蛾眉 蛾の眉のような、三日月なりの細く美しい眉。また、その美女。李白「怨情」。。(紀 頌之の漢詩ブログ)白居易「長恨歌」では、楊貴妃を示す比喩に使っている。ここでも楊貴妃を示す。また李白自身をかけている。○妬殺  ひどく妖妬する。「殺」は動詞を強める助字。

初めて職につくと、飛竜厩の駿馬を貸し与えられた。(元槇「折西大夫李徳裕の〔述夢〕に奉和す、四十韻」の自注〔『元槇集外集』巻七、続補一〕)。


1.
 玉壺吟  「玉壷を傾けて酔余の歌」。冒頭の一句に因んでつけた「歌吟・歌行」体の詩。四十三歳ごろ、長安での作。


烈士擊玉壺,壯心惜暮年。 
我は、烈士の志をもつ者であり、胸におさめた不平や、鬱憤を除去するにもっともよいのが、玉壺を撃って調子を取って歌うことであるし、今、まさに歳暮であるから、衰えぬ壮大な志を詠いつつ、魏の曹操のように「烈士暮年,壯心不已。」(烈士暮年 に,壯心已まず。)何か功を挙げ、役立てたいと思っており、次第に老いてゆく年を惜しんでいる。

2. 烈士擊玉壺,壯心惜暮年。  晋の王敦は、酒に酔うといつも、「老驥(老いた駿馬)は櫪(馬小舎)に伏すも、志は千里に在り。烈士は莫年(暮年・老年)なるも、壮心已まず」(曹操「歩出夏門行」)と詠い、如意棒で痰壷をたたいたので、壷のロがみな欠けてしまった。(『世説新語』「豪爽、第十三」の四)。壯心:いさましい気持ち、壮大な志。

曹操《歩出夏門行 神龜雖壽》 

神龜雖壽,猶有竟時。騰蛇乘霧,終爲土灰。

老驥伏櫪,志在千里。烈士暮年,壯心不已。

盈縮之期,不但在天。養怡之福,可得永年。

幸甚至哉,歌以詠志。

(歩出夏門行  神龜 壽なりと雖も。)

神龜は壽なりと雖も,猶ほ竟をはるの時 有り。騰蛇は霧に乘ぜども,終に土灰と爲る。

老驥櫪に伏せども,志は千里に在り。烈士暮年 に,壯心已まず。

盈縮の期は,但だに天のみに 在らず。養怡の福は,永年を 得べし。

甚はだ 至れる哉,歌ひて以て 志を詠えいず。

3. 三杯 故事「一杯(いっぱい)は人酒を飲む二杯は酒酒を飲む三杯は酒人を飲む」飲酒は、少量のときは自制できるが、杯を重ねるごとに乱れ、最後には正気を失ってしまうということ。酒はほどほどに飲めという戒め。「遲到是要罰酒三杯的哦.酒三杯:駆け付け三杯[カケツケサンバイ]酒宴に遅れた者に対する罰として,続けて酒を3杯飲ませること

杜甫《卷二 故武衛將軍挽詞三首其二》「 舞劍過人,鳴弓射獸能。銛鋒行怯順,猛噬失蹻騰。赤羽千夫膳,黃河十月冰。橫行沙漠外,神速至今稱。」

杜甫《卷二○99 觀公孫大娘弟子舞劍器行並序》 「昔有佳人公孫氏,一舞劍器動四方。觀者如山色沮喪,天地為之久低昂。」

 

唐代は音楽が発達したばかりではない。舞踊もまた黄金時代を現出した。宮中では常時、大規模な歌舞の催しが開かれていた。たとえば、「上元楽」、「聖寿楽」、「孫武順聖楽」等であり、これらには常に宮妓数百人が出演し、舞台は誠に壮観であった。宮廷でも民間でも、舞妓は常に当時の人々から最も歓迎される漬物を演じた。たとえば、霓裳羽衣舞(虹色の絹と五色の羽毛で飾った衣裳を着て踊る大女の舞)、剣器舞(西域から伝来した剣の舞)、胡旋舞(西域から伝来した飛旋急転する舞)、柘枝舞(中央アジアから伝来した柘枝詞の歌に合わせて行う舞)、何満子(宮妓の何満子が作曲し、白居易が作詩し、沈阿翹が振り付けした歌舞)、凌波曲(美人がなよなよと歩く舞)、白貯舞(白絹を手にした舞)等々が白居易は「霓裳羽衣舞」を舞う妓女たちの、軽く柔かくそして優美な舞姿を描写している。

4. 高詠 声高に詠う。

5. 涕泗  なみだ。「沸」は目から、「酒」は鼻から流れるもの。

6. 鳳凰初下紫泥詔  鳳凰(天子)が、紫泥で封をした詔勅を初めて下す。五胡十六国の一つ後題の皇帝石虎が、木製の鳳凰のロに詔勅をくわえさせ、高い楼観の上から緋色の絶で回転させ舞いおろさせた、という故事(『初学記』巻三十、所引『鄭中記』)に基づく。「紫泥」は、紫色の粘り気のある泥。ノリの代りに用いた。

7. 稱觴  觴(さかずき)を挙げる。

8. 御筵 皇帝の設けた宴席。

10 九重 宮城、皇居。天上の宮殿には九つの門がある、世界観が九であり、天もちも九に別れているそれぞれの門という伝承に基づく。

11. 万乗  「天子」を意味する。多くの乗りもの。諸侯は千乗(台)の兵事、天子は万乗の兵事を出す土地を有する、という考えかた。

12. 謔浪 自由自在にふざけ戯れる。

13. 赤墀 (せきち)宮殿に登る朱塗りの階段。

14 青瑣 (せいさ)宮殿の窓の縁を飾る瑣形の透かし彫りの紋様。青くぬってある。「赤墀・青瑣」は、宮殿や宮廷自体をも表わす。 



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李白  玉壺吟 #1

烈士擊玉壺,壯心惜暮年。三杯拂劍舞秋月,忽然高詠涕泗漣。

鳳凰初下紫泥詔,謁帝稱觴登御筵。揄揚九重萬乘主,謔浪赤墀青瑣賢。

(玉壷を傾けて酔余の時に思いついたことを詠う)

我は、烈士の志をもつ者であり、胸におさめた不平や、鬱憤を除去するにもっともよいのが、玉壺を撃って調子を取って歌うことであるし、今、まさに歳暮であるから、衰えぬ壮大な志を詠いつつ、魏の曹操のように「烈士暮年,壯心不已。」(烈士暮年 に,壯心已まず。)何か功を挙げ、役立てたいと思っており、次第に老いてゆく年を惜しんでいる。かくて、酒におぼれず酒杯を重ねて秋月のもとに立って剣を抜き払い、舞う、すると思わず歌声は高まってきて、涙がとめどなく流れ落ちる。紫泥で封じられた鳳凰の口にふくませた詔勅が、初めて下され、頂戴した、愈々出仕し、皇帝に拝謁し、御筵に列し、やがて酒杯を挙げたのである。九重の宮中深くいます万乗の天子の徳を頌し、宮廷の赤墀青瑣に出入する今を時めく賢者たちを、自由自在にふざけ戯れていた。
743年(54)李白 卷六05 -《玉壺吟》(烈士擊玉壺,) Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-54) <李白> Ⅰ李白詩1713 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7113

 

 
  2016年1月7日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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年:743年天寶二年43歳 94-54

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    玉壺吟

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:  

 

玉壺吟 #1

(玉壷を傾けて酔余の時に思いついたことを詠う)

烈士擊玉壺,壯心惜暮年。

我は、烈士の志をもつ者であり、胸におさめた不平や、鬱憤を除去するにもっともよいのが、玉壺を撃って調子を取って歌うことであるし、今、まさに歳暮であるから、衰えぬ壮大な志を詠いつつ、魏の曹操のように「烈士暮年,壯心不已。」(烈士暮年 に,壯心已まず。)何か功を挙げ、役立てたいと思っており、次第に老いてゆく年を惜しんでいる。

三杯拂劍舞秋月,忽然高詠涕泗漣。

かくて、酒におぼれず酒杯を重ねて秋月のもとに立って剣を抜き払い、舞う、すると思わず歌声は高まってきて、涙がとめどなく流れ落ちる。

鳳凰初下紫泥詔,謁帝稱觴登御筵。

紫泥で封じられた鳳凰の口にふくませた詔勅が、初めて下され、頂戴した、愈々出仕し、皇帝に拝謁し、御筵に列し、やがて酒杯を挙げたのである。
揄揚九重萬乘主,謔浪赤墀青瑣賢。

九重の宮中深くいます万乗の天子の徳を頌し、宮廷の赤墀青瑣に出入する今を時めく賢者たちを、自由自在にふざけ戯れていた。
#2

朝天數換飛龍馬,敕賜珊瑚白玉鞭。

世人不識東方朔,大隱金門是謫仙。

西施宜笑復宜顰,醜女效之徒累身。

君王雖愛蛾眉好,無奈宮中妒殺人。

 

(玉壺吟)

烈士 玉壺を擊ち、壯心 暮年を惜む。

三杯 劍を拂いて 秋月に舞い、忽然として高詠して涕泗 漣たり。

鳳凰 初めて紫泥の詔を下し、帝に謁し觴【さかずき】を稱げえて御筵に登る。

揄揚す 九重 萬乘の主、謔浪す 赤墀 青瑣の賢。

天に朝して數しば換う飛龍の馬、敕【みことのり】して賜う珊瑚の白玉の鞭。

世人は識らず東方朔、金門に大隱するは是れ謫仙。

西施 笑に宜しく復た顰【ひん】すること宜し、醜女は之に效【なら】いて徒【いたずら】に身を累す。

君王 蛾眉の好きを愛すと雖ども、奈いかんともする無し宮中 人を妒殺するを。

 

 

『玉壺吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

玉壺吟 #1

烈士擊玉壺,壯心惜暮年。

三杯拂劍舞秋月,忽然高詠涕泗漣。

鳳凰初下紫泥詔,謁帝稱觴登御筵。

揄揚九重萬乘主,謔浪赤青瑣賢

(下し文)
(玉壺吟) #1

烈士 玉壺を擊ち、壯心 暮年を惜む。

三杯 劍を拂いて 秋月に舞い、忽然として高詠して涕泗 漣たり。

鳳凰 初めて紫泥の詔を下し、帝に謁し觴【さかずき】を稱げえて御筵に登る。

揄揚す 九重 萬乘の主、謔浪す 赤 青瑣の賢

(現代語訳)
玉壺吟 #1(玉壷を傾けて酔余の時に思いついたことを詠う)

我は、烈士の志をもつ者であり、胸におさめた不平や、鬱憤を除去するにもっともよいのが、玉壺を撃って調子を取って歌うことであるし、今、まさに歳暮であるから、衰えぬ壮大な志を詠いつつ、魏の曹操のように「烈士暮年,壯心不已。」(烈士暮年 に,壯心已まず。)何か功を挙げ、役立てたいと思っており、次第に老いてゆく年を惜しんでいる。

かくて、酒におぼれず酒杯を重ねて秋月のもとに立って剣を抜き払い、舞う、すると思わず歌声は高まってきて、涙がとめどなく流れ落ちる。

紫泥で封じられた鳳凰の口にふくませた詔勅が、初めて下され、頂戴した、愈々出仕し、皇帝に拝謁し、御筵に列し、やがて酒杯を挙げたのである。
九重の宮中深くいます万乗の天子の徳を頌し、宮廷の赤墀青瑣に出入する今を時めく賢者たちを、自由自在にふざけ戯れていた。

(訳注)

玉壺吟 #1
(玉壷を傾けて酔余の時に思いついたことを詠う)

1. 玉壺吟  「玉壷を傾けて酔余の歌」。冒頭の一句に因んでつけた「歌吟・歌行」体の詩。四十三歳ごろ、長安での作。


烈士擊玉壺,壯心惜暮年。 

我は、烈士の志をもつ者であり、胸におさめた不平や、鬱憤を除去するにもっともよいのが、玉壺を撃って調子を取って歌うことであるし、今、まさに歳暮であるから、衰えぬ壮大な志を詠いつつ、魏の曹操のように「烈士暮年,壯心不已。」(烈士暮年 に,壯心已まず。)何か功を挙げ、役立てたいと思っており、次第に老いてゆく年を惜しんでいる。

2. 烈士擊玉壺,壯心惜暮年。  晋の王敦は、酒に酔うといつも、「老驥(老いた駿馬)は櫪(馬小舎)に伏すも、志は千里に在り。烈士は莫年(暮年・老年)なるも、壮心已まず」(曹操「歩出夏門行」)と詠い、如意棒で痰壷をたたいたので、壷のロがみな欠けてしまった。(『世説新語』「豪爽、第十三」の四)。壯心:いさましい気持ち、壮大な志。

曹操《歩出夏門行 神龜雖壽》        

神龜雖壽,猶有竟時。騰蛇乘霧,終爲土灰。

老驥伏櫪,志在千里。烈士暮年,壯心不已。

盈縮之期,不但在天。養怡之福,可得永年。

幸甚至哉,歌以詠志。

(歩出夏門行  神龜 壽なりと雖も。)

神龜は壽なりと雖も,猶ほ竟をはるの時 有り。騰蛇は霧に乘ぜども,終に土灰と爲る。

老驥櫪に伏せども,志は千里に在り。烈士暮年 ねんに,壯心已やまず。

盈縮の期は,但だに天のみに 在らず。養怡の福は,永年を 得べし。

甚はだ 至れる哉,歌ひて以て 志を詠えいず。


三杯拂劍舞秋月、忽然高詠涕泗漣。
かくて、酒におぼれず酒杯を重ねて秋月のもとに立って剣を抜き払い、舞う、すると思わず歌声は高まってきて、涙がとめどなく流れ落ちる。

3. 三杯 故事「一杯(いっぱい)は人酒を飲む二杯は酒酒を飲む三杯は酒人を飲む」飲酒は、少量のときは自制できるが、杯を重ねるごとに乱れ、最後には正気を失ってしまうということ。酒はほどほどに飲めという戒め。「遲到是要罰酒三杯的哦.酒三杯:駆け付け三杯[カケツケサンバイ]酒宴に遅れた者に対する罰として,続けて酒を3杯飲ませること

杜甫《卷二 故武衛將軍挽詞三首其二》「 舞劍過人,鳴弓射獸能。銛鋒行怯順,猛噬失蹻騰。赤羽千夫膳,黃河十月冰。橫行沙漠外,神速至今稱。」

杜甫《卷二○99 觀公孫大娘弟子舞劍器行並序》 「昔有佳人公孫氏,一舞劍器動四方。觀者如山色沮喪,天地為之久低昂。」

 

唐代は音楽が発達したばかりではない。舞踊もまた黄金時代を現出した。宮中では常時、大規模な歌舞の催しが開かれていた。たとえば、「上元楽」、「聖寿楽」、「孫武順聖楽」等であり、これらには常に宮妓数百人が出演し、舞台は誠に壮観であった。宮廷でも民間でも、舞妓は常に当時の人々から最も歓迎される漬物を演じた。たとえば、霓裳羽衣舞(虹色の絹と五色の羽毛で飾った衣裳を着て踊る大女の舞)、剣器舞(西域から伝来した剣の舞)、胡旋舞(西域から伝来した飛旋急転する舞)、柘枝舞(中央アジアから伝来した柘枝詞の歌に合わせて行う舞)、何満子(宮妓の何満子が作曲し、白居易が作詩し、沈阿翹が振り付けした歌舞)、凌波曲(美人がなよなよと歩く舞)、白貯舞(白絹を手にした舞)等々が白居易は「霓裳羽衣舞」を舞う妓女たちの、軽く柔かくそして優美な舞姿を描写している。

4. 高詠 声高に詠う。

5. 涕泗  なみだ。「沸」は目から、「酒」は鼻から流れるもの。

 

鳳凰初下紫泥詔、謁帝稱觴登御筵。 
紫泥で封じられた鳳凰の口にふくませた詔勅が、初めて下され、頂戴した、愈々出仕し、皇帝に拝謁し、御筵に列し、やがて酒杯を挙げたのである。
6.
 鳳凰初下紫泥詔  鳳凰(天子)が、紫泥で封をした詔勅を初めて下す。五胡十六国の一つ後題の皇帝石虎が、木製の鳳凰のロに詔勅をくわえさせ、高い楼観の上から緋色の絶で回転させ舞いおろさせた、という故事(『初学記』巻三十、所引『鄭中記』)に基づく。「紫泥」は、紫色の粘り気のある泥。ノリの代りに用いた。

7. 稱觴  觴(さかずき)を挙げる。

8. 御筵 皇帝の設けた宴席。

 

揄揚九重萬乘主、謔浪赤墀青瑣賢。 
九重の宮中深くいます万乗の天子の徳を頌し、宮廷の赤墀青瑣に出入する今を時めく賢者たちを、自由自在にふざけ戯れていた。
9. 揄揚  ほめたたえる。

10 九重 宮城、皇居。天上の宮殿には九つの門がある、世界観が九であり、天もちも九に別れているそれぞれの門という伝承に基づく。

11. 万乗  「天子」を意味する。多くの乗りもの。諸侯は千乗(台)の兵事、天子は万乗の兵事を出す土地を有する、という考えかた。

12. 謔浪 自由自在にふざけ戯れる。

13. 赤墀 (せきち)宮殿に登る朱塗りの階段。

14 青瑣 (せいさ)宮殿の窓の縁を飾る瑣形の透かし彫りの紋様。青くぬってある。「赤墀・青瑣」は、宮殿や宮廷自体をも表わす。 
大明宮 作図011 

743年(54)李太白集卷六04-《侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌》 373-#3Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(54) Ⅰ李白詩1720 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7148

李白  侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌 #3

仗出金宮隨日轉,天回玉輦繞花行。始向蓬萊看舞鶴,還過茝若聽新鶯。新鶯飛繞上林苑,願入簫韶雜鳳笙。

(ジョウ)を持つ警護の者たちは金鑾殿を出て皇帝に付き添って回ってゆく。皇帝は天子の道である夾城で移動され、宝玉の輦(レン)をころがして花々を繞って御行なされる。はじめ蓬萊殿に向っていく、謝阿蛮や、張雲容が率いる舞姫たちを看() た、また茝若(シジャク)殿を過ぎたら、楊貴妃の作曲した新しい「涼州」を歌う紅桃という歌手の歌を聴いた。新歌手は次々に宮殿にゆき上林苑のなかを繞っている、簫韶(ショウショウ) 舜の楽に入って鳳笙の合奏の中に一緒に歌おうとしている。

743年(54)李太白集卷六04-《侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌》 373-#3Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-54) Ⅰ李白詩1720 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7148

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-53

卷別:    卷一六六              文體:    七言古詩

詩題:    侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              樂遊原 (京畿道 京兆府 長安) 別名:宜春北苑、宜春北院、宜春苑、太平公主山莊、曲江、樂遊苑、樂遊園、江頭            

龍池 (京畿道 京兆府 長安)              

大明宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:永安宮、蓬萊宮、含元殿、蓬萊殿  

交遊人物/地點:  

 

 

侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌 #1

(天子に興慶宮の宜春苑に扈従して「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くということを題にして、歌を作れという勅命を受けに賦して作つた歌である)

東風已綠瀛洲草,紫殿紅樓覺春好,池南柳色半青青。

東方の仙人の島の瀛洲と見紛う宜春苑には春を呼ぶ風、東風が緩やかに吹き渡って、満地の草々、木々を緑にし、すでに大明宮の紫宸殿、紫蘭殿の紫の宮殿、金鑾殿、綾綺殿の紅の楼閣、すべてに 春の景色がひろがっていて、興慶宮の龍池の南水辺の柳の色も黄緑から青々としてきた。

縈煙嫋娜拂綺城,垂絲百尺掛雕楹。

暖かき虹の春霞はただよいはじめしなやかに長安城、宮城の壁を覆い払っている。龍池のしだれ柳はその枝を百尺ものながさで枝垂れて、彫刻で飾った楼の柱にかかっている。

#2

上有好鳥相和鳴,間關早得春風情。

柳の上に鶯がしきりに相和して啼くと輪唱する、間關とした鳥のさえずりに宮女たちの声が混じれば、春風よりはやくも春の長閑な情を得たようにおもわれる。 

春風卷入碧雲去,千門萬皆春聲。

春風は、柳のたれ枝をゆらし、鶯の声を巻いて天上遥かに碧雲の流れる中に伝え、まさに、蓬莱宮の御座所近くまで届け、千門萬戸、いたるところみな春の声をきかないものはいない、それで、天子は、この行幸をなされたのである。
是時君王在鎬京,五雲垂暉耀紫清。

この時 君王は鎬京にいまし、五色の雲は輝煌を垂れて、天空の真ん中で耀くころ、行幸は宜春苑に着かれる。
#3

仗出金宮隨日轉,天回玉輦繞花行。

(ジョウ)を持つ警護の者たちは金鑾殿を出て皇帝に付き添って回ってゆく。皇帝は天子の道である夾城で移動され、宝玉の輦(レン)をころがして花々を繞って御行なされる。

始向蓬萊看舞鶴,還過茝若聽新鶯。

はじめ蓬萊殿に向っていく、謝阿蛮や、張雲容が率いる舞姫たちを看() た、また茝若(シジャク)殿を過ぎたら、楊貴妃の作曲した新しい「涼州」を歌う紅桃という歌手の歌を聴いた。

新鶯飛繞上林苑,願入簫韶雜鳳笙。

新歌手は次々に宮殿にゆき上林苑のなかを繞っている、簫韶(ショウショウ) 舜の楽に入って鳳笙の合奏の中に一緒に歌おうとしている。

(宜春苑に侍従し、詔を奉じて、龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くの歌を賦す)

東風すでに緑にす瀛洲の草、紫殿 紅楼 春の好きを覚ゆ。

池南の柳色なかば青青、烟を縈【めぐ】らせ裊娜【ジョウダ】として綺城を払ふ。

垂糸百尺雕楹【チョウエイ】に挂(かか)り。

上に好鳥のあい和して鳴くあり、間関はやく春風の情を得たり。

春風 巻いて碧雲に入って去り、千門 万戸みな春声。

この時 君王 鎬京【コウケイ】に在まし、五雲 暉【ひかり】を垂れて紫清に耀く。

仗【ジョウ】は金宮を出でて日に随って転じ、天は玉輦を回【めぐら】して花を繞って行く。

はじめ蓬萊に向って舞鶴を看【み】、また茝石を過ぎて新鴬を聴く。

 新鴬は飛びて上林苑を繞り、簫韶【ショウショウ】 に入って鳳笙に雑【まじは】らんと願ふ。

漢長安城 00 

 

 

侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

仗出金宮隨日轉,天回玉輦繞花行。

始向蓬萊看舞鶴,還過茝若聽新鶯。

新鶯飛繞上林苑,願入簫韶雜鳳笙。

(下し文)
#3

仗【ジョウ】は金宮を出でて日に随って転じ、天は玉輦を回【めぐら】して花を繞って行く。

はじめ蓬萊に向って舞鶴を看【み】、また茝石を過ぎて新鴬を聴く。

 新鴬は飛びて上林苑を繞り、簫韶【ショウショウ】 に入って鳳笙に雑【まじは】らんと願ふ。

(現代語訳)
#3

(ジョウ)を持つ警護の者たちは金鑾殿を出て皇帝に付き添って回ってゆく。皇帝は天子の道である夾城で移動され、宝玉の輦(レン)をころがして花々を繞って御行なされる。

はじめ蓬萊殿に向っていく、謝阿蛮や、張雲容が率いる舞姫たちを看() た、また茝若(シジャク)殿を過ぎたら、楊貴妃の作曲した新しい「涼州」を歌う紅桃という歌手の歌を聴いた。

新歌手は次々に宮殿にゆき上林苑のなかを繞っている、簫韶(ショウショウ) 舜の楽に入って鳳笙の合奏の中に一緒に歌おうとしている。

大明宮-座標02
(訳注) #3

侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌

(天子に興慶宮の宜春苑に扈従して「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くということを題にして、歌を作れという勅命を受けに賦して作つた歌である)

1  李白の経歴中、天寶の初、玄宗の知遇を蒙り、待詔として宮中に出仕したのが、その一生の最も光栄ある得意の時代であった。そして、ある時、天子の駕に扈従して、宜春苑へ往った時に、「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」ということを題にして、歌を作れという勅命を受けて、即時に賦して作つたのが、即ちこの詩である。他人の應制とは異にして、古體を用いては居るが、なは且つ放逸の句法を避けて、自然初唐の風格を帯びて居る。

 

仗出金宮隨日轉。天回玉輦繞花行。
(ジョウ)を持つ警護の者たちは金鑾殿を出て皇帝に付き添って回ってゆく。皇帝は天子の道である夾城で移動され、宝玉の輦(レン)をころがして花々を繞って御行なされる。

21.  杖の先に剣がついている宮廷の警護専門の武器。

22. 金宮 金鑾殿のこと、この宮殿に、禁軍が控える社殿と直結している。 

23.  天回玉輦 天回は天子の専用道路である夾城をさし、誰にも分らず大明宮と興慶宮、曲江離宮、芙蓉園を移動できたことを言い、金銀宝飾で飾った皇帝の御車に乗って移動した。。

 

始向蓬萊看舞鶴。還過芷若聽新鶯。
はじめ蓬萊殿に向っていく、謝阿蛮や、張雲容が率いる舞姫たちを看() た、また茝若(シジャク)殿を過ぎたら、楊貴妃の作曲した新しい「涼州」を歌う紅桃という歌手の歌を聴いた。

24. 蓬萊 宮廷にも大液池という大きな池がありその中島を蓬莱山している。ここでは、道教に言う東方に浮かぶ仙人の山である。大明宮丹鳳門、含元殿、紫宸殿、蓬萊殿、太掖池のなかの蓬莱山と南北直線状に並んで配置されていた。また、大明宮は唐初期の半ばころ、蓬莱宮に変更されたこともある。(大明宮圖参照)

25.  芷若 官の後宮未央宮の妃嬪の御殿の一つである。三輔黄圖にあるが、班固《西都賦》で〔(22)#9(後宮の華麗)―1〕について“「後宮則有掖庭椒房,后妃之室。合歡增城,安處常寧。茞若椒風,披香發越。蘭林蕙草,鴛鸞飛翔之列。」(後宮には則ち掖庭【えきてい】椒房【しょうぼう】が有り,后妃の室なり。合歡【ごうかん】增城【ぞうじょう】,安處【あんしょ】常寧【じょうねい】あり。茞若【しじゃく】椒風【しょうふう】,披香【ひこう】發越【はつえつ】と。蘭林【らんりん】蕙草【けいそう】,鴛鸞【えんおう】飛翔【ひしょう】と之れ列らる。)≪後宮の華麗≫ 後宮には、掖庭宮、椒房殿があり、ともに后妃のすまいである。それには、合歓殿・増城殿・安処殿・常寧殿があり、茞若殿・椒風殿・披香殿・発越殿とつづき、蘭林殿・蕙草殿・鴛鸞殿・飛翔殿の御殿がおしならぶのである。”とのべている。

班孟堅(班固)《西都賦》(22)#9(後宮の華麗)―1 文選 賦<112―22>18分割55回 Ⅱ李白に影響を与えた詩976 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3428

此処では、漢の妃賓の御殿を述べることで、寵愛を受けてはいるが、まだ、妃嬪のうちで権力基盤の出来上がっていなかった楊貴妃を挿しているのである。

26.  舞鶴・新鶯 そうするとこの時の歌声は、紅桃“『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。楊貴妃の侍女。楊貴妃に命じられて、紅粟玉の腕輪を謝阿蛮に渡した。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、楊貴妃の侍女の一人として会合する。そこで、楊貴妃の作曲した「涼州」を歌い、ともに涙にくれたが、玄宗によって、「涼州」は広められた。 であり、舞は、謝阿蛮“『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。新豊出身の妓女。「凌波曲」という舞を得意としていた。その舞踊の技術により、玄宗と楊貴妃から目をかけられ、腕輪を与えられた。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、舞踊を披露した後で、その腕輪を玄宗に見せたため、玄宗は涙を落としたと伝えられる。”張雲容“全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。”ということであろう。いずれも、楊貴妃付きの宮女、である。


新鶯飛繞上林苑。愿入簫韶雜鳳笙。
新歌手は次々に宮殿にゆき上林苑のなかを繞っている、簫韶(ショウショウ) 舜の楽に入って鳳笙の合奏の中に一緒に歌おうとしている。

27. 上林苑 漢の武帝が秦の庭園を発展拡充して作ったもの。ここでは、大明宮庭園をいい、其処から夾城を挟んで北側に広がる禁苑を言う。上林苑(じょうりんえん)とは、古代中国の秦、前漢の皇帝のための大庭園である。咸陽、長安の南方に広がっていた。

『三輔黄図』によると元は秦の庭園であり、漢の武帝の建元3年(紀元前138年)、遊猟を好む武帝がしばしば上林苑の敷地内を越えて民の土地に足を踏み入れるようになって民を苦しめていたため、武帝が吾丘寿王に命じて費用を計算させて拡大し、周囲300里の広大な庭園となった。上林苑の中には70箇所もの離宮があり、それはどれも馬車一千台、騎一万を収容できるほどの大きさだった。また多種多様な獣が飼われ、皇帝が秋、冬に猟を行ってその獣を取った。また武帝が上林苑を拡大した際に、群臣に命じて各地の珍しい植物や果樹を献上させ、それらを栽培した。また茂陵の富民袁広漢は珍しい動物や植物を集め、砂浜や激流を人工的に作り、建物を全て廊下で繋いであるという豪壮な庭園を造っていたが、後に罪があって誅殺されるとこれも官有の庭園とされ、動植物は上林苑に移された。上林苑には上林令、上林尉などの役人が置かれ、飼っている動物の種類や数を管理し、記録していた。また上林苑内には6つの池や10以上の宮殿などがあった。武帝の元鼎2年(紀元前115年)に水衡都尉の官が置かれ、上林苑を管轄することとなった。上林令、上林尉も水衡都尉の属官となっている。また武帝が民間で五銖銭を鋳造することを禁止すると、銭の鋳造は水衡都尉の属官である均輸、鍾官、弁銅の三官が独占して行うこととされた。これは上林三官と呼ばれた。

28.  真面目である。誠実である。 

29. 簫韶 舜の楽 簫韶とは、虞舜の時の樂章である。九章で成りたつ。《尚書·益稷》「簫韶九成,鳳凰來儀。」とある。

30.  雜 まじること。

31. 鳳笙 鳳凰の飾りのある笛。

 長安皇城宮城00

 

 

 

 

李白  

侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌

【字解】

 

東風已綠瀛洲草,紫殿紅樓覺春好,池南柳色半青青。縈煙嫋娜拂綺城,垂絲百尺掛雕楹。上有好鳥相和鳴,間關早得春風情。春風卷入碧雲去,千門萬皆春聲。是時君王在鎬京,五雲垂暉耀紫清。仗出金宮隨日轉,天回玉輦繞花行。始向蓬萊看舞鶴,還過茝若聽新鶯。新鶯飛繞上林苑,願入簫韶雜鳳笙。

 

1.    李白の経歴中、天寶の初、玄宗の知遇を蒙り、待詔として宮中に出仕したのが、その一生の最も光栄ある得意の時代であった。そして、ある時、天子の駕に扈従して、宜春苑へ往った時に、「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」ということを題にして、歌を作れという勅命を受けて、即時に賦して作つたのが、即ちこの詩である。他人の應制とは異にして、古體を用いては居るが、なは且つ放逸の句法を避けて、自然初唐の風格を帯びて居る。

2.    宜春苑 《雍録》「天寶中,即東宮置宜春北苑。按既日北苑,當在宜春宮之北。」(天寶中,即ち東宮に宜春北苑を置かる。按既に北苑と日う,當に宜春宮の北に在る。)とみえる。

3.    龍池 唐詩《紀事》云:「龍池,興慶宮也,明皇潛龍之地。」(龍池は興慶宮なり,明皇潛龍の地なり。)《會要》云:「開元元年,出祭龍池樂章。十六年,築壇於興慶宮,以仲春月祭之。」(開元元年,出祭龍池樂章。十六年,興慶宮に築壇さるる,以て仲春月之を祭る。)《長安誌》「龍池,在南南薰殿北、躍龍門南,本是平地,垂拱後因雨水流潦成小池,後又引龍首支渠分之,日以滋廣,彌亙數頃深至數丈,常有雲氣,或見黃龍出其中,謂之龍池。」(龍池は,南に在り南薰殿を北にす、躍龍門の南,本是れ平地なり,垂拱の後 雨水流潦し小池を成す因り,後又た龍首支渠を引き分けて之をす,日に以て滋廣す,彌亙數頃 深さ數丈に至る,常に雲氣有り,或は 黃龍 其の中に出ずるを見る,之う龍池と謂う。)とみえる。

4.    東風 春風。

5.    瀛洲 東方海上にある仙人の住む山、蓬莱山、方丈山、瀛州山。

6.    紫殿 大明宮の中には紫宸殿、紫蘭殿など翰林院からすべて東側にあるもの。

7.    半青春 萌木色。黄緑。

8.    縈煙 春霞。

9.    裊娜 しなやかな様。

10.  綺城 美しい長安城、宮城の壁。

11.  垂糸 しだれ柳の枝。

12.  雕楹【チョウエイ】 楼閣の彫刻で飾った柱。

13. 興慶宮圖 
興慶宮002 

14 間関 鳥の相和して鳴くさま。ここは、後宮の宮女たちの声を示す。 

15 春風情 春風に誘われる春の長閑な情。春風によって万物が成長する春の景色。

16. 碧雲 暗い雲。冬の雲。天子の蓬莱宮の御座所近くまで届けてくれる雲というほどの意味。

17. 鎬京 春秋戦国のころの宮廷の場所で長安の古称、詩的表現。西周 (→周 ) 時代の都の名。現在の陝西省西安市の西と考えられる。西周の始王である武王は,殷を討ったあと,父文王の営んだ豊京より移ってここを都とし,これが西周の東遷まで続いた。宮殿の跡そのものは漢の武帝の時代に土木工事のために破壊されたらしい。 

18. 五云 仙界の五色のうつくしい雲。 

19. 垂暉 かがやきひかりの輪が尾を引くさま。 

20. 耀紫清 大空のまんなか。

743年(54)李太白集卷六04-《侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌》 373-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(54) Ⅰ李白詩1719 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7143

李白  侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌#2

上有好鳥相和鳴,間關早得春風情。春風卷入碧雲去,千門萬皆春聲。是時君王在鎬京,五雲垂暉耀紫清。

柳の上に鶯がしきりに相和して啼くと輪唱する、間關とした鳥のさえずりに宮女たちの声が混じれば、春風よりはやくも春の長閑な情を得たようにおもわれる。 春風は、柳のたれ枝をゆらし、鶯の声を巻いて天上遥かに碧雲の流れる中に伝え、まさに、蓬莱宮の御座所近くまで届け、千門萬戸、いたるところみな春の声をきかないものはいない、それで、天子は、この行幸をなされたのである。この時 君王は鎬京にいまし、五色の雲は輝煌を垂れて、天空の真ん中で耀くころ、行幸は宜春苑に着かれる。
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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年:743年天寶二年43歳 94-53

卷別:    卷一六六              文體:    七言古詩

詩題:    侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              樂遊原 (京畿道 京兆府 長安) 別名:宜春北苑、宜春北院、宜春苑、太平公主山莊、曲江、樂遊苑、樂遊園、江頭            

龍池 (京畿道 京兆府 長安)              

大明宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:永安宮、蓬萊宮、含元殿、蓬萊殿  

交遊人物/地點:  

 

 

侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌 #1

(天子に興慶宮の宜春苑に扈従して「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くということを題にして、歌を作れという勅命を受けに賦して作つた歌である)

東風已綠瀛洲草,紫殿紅樓覺春好,池南柳色半青青。

東方の仙人の島の瀛洲と見紛う宜春苑には春を呼ぶ風、東風が緩やかに吹き渡って、満地の草々、木々を緑にし、すでに大明宮の紫宸殿、紫蘭殿の紫の宮殿、金鑾殿、綾綺殿の紅の楼閣、すべてに 春の景色がひろがっていて、興慶宮の龍池の南水辺の柳の色も黄緑から青々としてきた。

縈煙嫋娜拂綺城,垂絲百尺掛雕楹。

暖かき虹の春霞はただよいはじめしなやかに長安城、宮城の壁を覆い払っている。龍池のしだれ柳はその枝を百尺ものながさで枝垂れて、彫刻で飾った楼の柱にかかっている。

#2

上有好鳥相和鳴,間關早得春風情。

柳の上に鶯がしきりに相和して啼くと輪唱する、間關とした鳥のさえずりに宮女たちの声が混じれば、春風よりはやくも春の長閑な情を得たようにおもわれる。 

春風卷入碧雲去,千門萬皆春聲。

春風は、柳のたれ枝をゆらし、鶯の声を巻いて天上遥かに碧雲の流れる中に伝え、まさに、蓬莱宮の御座所近くまで届け、千門萬戸、いたるところみな春の声をきかないものはいない、それで、天子は、この行幸をなされたのである。
是時君王在鎬京,五雲垂暉耀紫清。

この時 君王は鎬京にいまし、五色の雲は輝煌を垂れて、天空の真ん中で耀くころ、行幸は宜春苑に着かれる。
#3

仗出金宮隨日轉,天回玉輦繞花行。

始向蓬萊看舞鶴,還過茝若聽新鶯。

新鶯飛繞上林苑,願入簫韶雜鳳笙。

(宜春苑に侍従し、詔を奉じて、龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くの歌を賦す)

東風すでに緑にす瀛洲の草、紫殿 紅楼 春の好きを覚ゆ。

池南の柳色なかば青青、烟を縈【めぐ】らせ裊娜【ジョウダ】として綺城を払ふ。

垂糸百尺雕楹【チョウエイ】に挂(かか)り。

上に好鳥のあい和して鳴くあり、間関はやく春風の情を得たり。

春風 巻いて碧雲に入って去り、千門 万戸みな春声。

この時 君王 鎬京【コウケイ】に在まし、五雲 暉【ひかり】を垂れて紫清に耀く。

仗【ジョウ】は金宮を出でて日に随って転じ、天は玉輦を回【めぐら】して花を繞って行く。

はじめ蓬萊に向って舞鶴を看【み】、また茝石を過ぎて新鴬を聴く。

 新鴬は飛びて上林苑を繞り、簫韶【ショウショウ】 に入って鳳笙に雑【まじは】らんと願ふ。

Ta唐 長安近郊圖  新02 

 

 

侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

上有好鳥相和鳴,間關早得春風情。

春風卷入碧雲去,千門萬皆春聲。

是時君王在鎬京,五雲垂暉耀紫清。

(下し文)
#2

上に好鳥のあい和して鳴くあり、間関はやく春風の情を得たり。

春風 巻いて碧雲に入って去り、千門 万戸みな春声。

この時 君王 鎬京【コウケイ】に在まし、五雲 暉【ひかり】を垂れて紫清に耀く。

(現代語訳)
#2

柳の上に鶯がしきりに相和して啼くと輪唱する、間關とした鳥のさえずりに宮女たちの声が混じれば、春風よりはやくも春の長閑な情を得たようにおもわれる。 

春風は、柳のたれ枝をゆらし、鶯の声を巻いて天上遥かに碧雲の流れる中に伝え、まさに、蓬莱宮の御座所近くまで届け、千門萬戸、いたるところみな春の声をきかないものはいない、それで、天子は、この行幸をなされたのである。
この時 君王は鎬京にいまし、五色の雲は輝煌を垂れて、天空の真ん中で耀くころ、行幸は宜春苑に着かれる。

(訳注) #2

侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌

(天子に興慶宮の宜春苑に扈従して「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くということを題にして、歌を作れという勅命を受けに賦して作つた歌である)

1  李白の経歴中、天寶の初、玄宗の知遇を蒙り、待詔として宮中に出仕したのが、その一生の最も光栄ある得意の時代であった。そして、ある時、天子の駕に扈従して、宜春苑へ往った時に、「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」ということを題にして、歌を作れという勅命を受けて、即時に賦して作つたのが、即ちこの詩である。他人の應制とは異にして、古體を用いては居るが、なは且つ放逸の句法を避けて、自然初唐の風格を帯びて居る。

 

上有好鳥相和鳴、間關早得春風情。

柳の上に鶯がしきりに相和して啼くと輪唱する、間關とした鳥のさえずりに宮女たちの声が混じれば、春風よりはやくも春の長閑な情を得たようにおもわれる。 

14.間関 鳥の相和して鳴くさま。ここは、後宮の宮女たちの声を示す。 

15.春風情 春風に誘われる春の長閑な情。春風によって万物が成長する春の景色。


春風卷入碧云去。千門萬皆春聲。
春風は、柳のたれ枝をゆらし、鶯の声を巻いて天上遥かに碧雲の流れる中に伝え、まさに、蓬莱宮の御座所近くまで届け、千門萬戸、いたるところみな春の声をきかないものはいない、それで、天子は、この行幸をなされたのである。
16. 碧雲 暗い雲。冬の雲。天子の蓬莱宮の御座所近くまで届けてくれる雲というほどの意味。


是時君王在鎬京。五云垂暉耀紫清。
この時 君王は鎬京にいまし、五色の雲は輝煌を垂れて、天空の真ん中で耀くころ、行幸は宜春苑に着かれる。
17. 鎬京 春秋戦国のころの宮廷の場所で長安の古称、詩的表現。西周 (→周 ) 時代の都の名。現在の陝西省西安市の西と考えられる。西周の始王である武王は,殷を討ったあと,父文王の営んだ豊京より移ってここを都とし,これが西周の東遷まで続いた。宮殿の跡そのものは漢の武帝の時代に土木工事のために破壊されたらしい。 

18. 五云 仙界の五色のうつくしい雲。 

19. 垂暉 かがやきひかりの輪が尾を引くさま。 

20. 耀紫清 大空のまんなか。

 

 

 

李白  

侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌

【字解】

 

東風已綠瀛洲草,紫殿紅樓覺春好,池南柳色半青青。縈煙嫋娜拂綺城,垂絲百尺掛雕楹。上有好鳥相和鳴,間關早得春風情。春風卷入碧雲去,千門萬皆春聲。是時君王在鎬京,五雲垂暉耀紫清。仗出金宮隨日轉,天回玉輦繞花行。始向蓬萊看舞鶴,還過茝若聽新鶯。新鶯飛繞上林苑,願入簫韶雜鳳笙。

 

1.    李白の経歴中、天寶の初、玄宗の知遇を蒙り、待詔として宮中に出仕したのが、その一生の最も光栄ある得意の時代であった。そして、ある時、天子の駕に扈従して、宜春苑へ往った時に、「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」ということを題にして、歌を作れという勅命を受けて、即時に賦して作つたのが、即ちこの詩である。他人の應制とは異にして、古體を用いては居るが、なは且つ放逸の句法を避けて、自然初唐の風格を帯びて居る。

2.    宜春苑 《雍録》「天寶中,即東宮置宜春北苑。按既日北苑,當在宜春宮之北。」(天寶中,即ち東宮に宜春北苑を置かる。按既に北苑と日う,當に宜春宮の北に在る。)とみえる。

3.    龍池 唐詩《紀事》云:「龍池,興慶宮也,明皇潛龍之地。」(龍池は興慶宮なり,明皇潛龍の地なり。)《會要》云:「開元元年,出祭龍池樂章。十六年,築壇於興慶宮,以仲春月祭之。」(開元元年,出祭龍池樂章。十六年,興慶宮に築壇さるる,以て仲春月之を祭る。)《長安誌》「龍池,在南南薰殿北、躍龍門南,本是平地,垂拱後因雨水流潦成小池,後又引龍首支渠分之,日以滋廣,彌亙數頃深至數丈,常有雲氣,或見黃龍出其中,謂之龍池。」(龍池は,南に在り南薰殿を北にす、躍龍門の南,本是れ平地なり,垂拱の後 雨水流潦し小池を成す因り,後又た龍首支渠を引き分けて之をす,日に以て滋廣す,彌亙數頃 深さ數丈に至る,常に雲氣有り,或は 黃龍 其の中に出ずるを見る,之う龍池と謂う。)とみえる。

4.    東風 春風。

5.    瀛洲 東方海上にある仙人の住む山、蓬莱山、方丈山、瀛州山。

6.    紫殿 大明宮の中には紫宸殿、紫蘭殿など翰林院からすべて東側にあるもの。

7.    半青春 萌木色。黄緑。

8.    縈煙 春霞。

9.    裊娜 しなやかな様。

10.  綺城 美しい長安城、宮城の壁。

11.  垂糸 しだれ柳の枝。

12.  雕楹【チョウエイ】 楼閣の彫刻で飾った柱。

13. 興慶宮圖 

興慶宮002

14 間関 鳥の相和して鳴くさま。ここは、後宮の宮女たちの声を示す。 

15 春風情 春風に誘われる春の長閑な情。春風によって万物が成長する春の景色。

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李白  侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌 #1

東風已綠瀛洲草,紫殿紅樓覺春好,池南柳色半青青。

縈煙嫋娜拂綺城,垂絲百尺掛雕楹。

(天子に興慶宮の宜春苑に扈従して「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くということを題にして、歌を作れという勅命を受けに賦して作つた歌である)

東方の仙人の島の瀛洲と見紛う宜春苑には春を呼ぶ風、東風が緩やかに吹き渡って、満地の草々、木々を緑にし、すでに大明宮の紫宸殿、紫蘭殿の紫の宮殿、金鑾殿、綾綺殿の紅の楼閣、すべてに 春の景色がひろがっていて、興慶宮の龍池の南水辺の柳の色も黄緑から青々としてきた。暖かき虹の春霞はただよいはじめしなやかに長安城、宮城の壁を覆い払っている。龍池のしだれ柳はその枝を百尺ものながさで枝垂れて、彫刻で飾った楼の柱にかかっている。

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  2015年12月29日 の紀頌之5つのBlog  
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  孟郊 張籍          
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743年 天寶2年(李白43)

正月

 

1.安禄山が入朝した。玄宗皇帝が特別厚く寵遇していたので、 彼は時期によらずに謁見できた。

  安禄山は上奏した。

「去年、営州で虫害が起こり、苗が食べられてしまったので、臣は香を焚いて天へ祈りました。 『臣の心がもし曲がっていて主君に不忠で仕えるならば、どうかこの虫に臣の心臓を食べさせてください。 もしも臣が神の御心に背いていないなら、どうかこの虫を追い散らしてください。』 そうすると、沢山の鳥が北から飛んできて、虫をたちどころに食べ尽くしてしまいました。 どうか、検分の役人を派遣してください。」

  これに従った。

2. 李林甫は、吏部尚書を兼ねていて、毎日政事堂に出勤しており、人事は侍郎の宋遙と苗晋卿に 全て委ねていた。

御史中丞・張倚が玄宗皇帝から気に入られ始めたので、宋遙も苗晋卿も彼と近づきになりたくなった。 この時、登用を望む者は一万人もいたのに、採用されたのは六十四人しかいなかった。 張倚の子息の張奭はその首席だったので、群議が沸騰した。 前の薊令・蘇孝韞が安禄山へ告げると、安禄山は入って上言した。 玄宗皇帝は、採用された人間を全員召集してこれを面前で試験した。張奭は試験用紙を手にしたまま、 終日一文字も書けなかった。時の人はこれを「曳白」と言った。

3. 癸亥、宋遙は武当太守に、苗晋卿は安康太守に、張倚は淮陽太守に左遷された。 この人選に関与した礼部郎中・裴朏らは、みな、嶺南の官に左遷された。

743年 天寶2年(李白43)

3月

1.     江・淮南租庸等使・韋堅が滻水の水を引き込んで望春楼の下に沢を造ろうとした。そこで江淮の運船をかき 集め、人夫や匠を使って運河を掘らせた。徴発された役夫は、まるで丘をなすように大勢で、 江淮から京城へ至るまで、民間は労役に苦しめられて愁い怨んだ。

  工事は、二年掛けて完成した。

2.     丙寅、玄宗皇帝は望春楼へ御幸して、新しい沢を観た。韋堅は、新船数百艘をこぎだした。 各々の船には平べったい板に郡名が書かれており、郡中の珍貨を船背に載せていた。

陜尉の崔成甫はきらびやかな錦の半袖、緑色のシャツで肌脱ぎになり、紅のスカーフを首に巻き、 船の先頭で得寶歌を歌った。飾り立てた百人の美人に唱和させ、船の列は数里も連なった。韋堅は跪いて諸郡の軽貨を 献上し、上は百牙の盤にて食した。

  玄宗皇帝の宴会は終日終わらず、見物人は山積みとなった。

 

743年 天寶2年(李白43)

4月

1.    韋堅に左散騎常侍を加え、その僚属吏卒も各々の地位に合わせて褒賞を下賜された。 その沢は、廣運と名付けられた。

  この時、京兆尹の韓朝宗も渭水から水を引いて西街へ沢を造り、 材木の貯蔵所とした。

2.    丁亥、皇甫惟明が軍を率いて西平らから出陣し、吐蕃を撃った。 千余里を行軍し、洪済城を攻撃し、これを破った。

長安城図 作図00 

 

年:743年天寶二年43歳 94-53

卷別:    卷一六六              文體:    七言古詩

詩題:    侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              樂遊原 (京畿道 京兆府 長安) 別名:宜春北苑、宜春北院、宜春苑、太平公主山莊、曲江、樂遊苑、樂遊園、江頭            

龍池 (京畿道 京兆府 長安)              

大明宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:永安宮、蓬萊宮、含元殿、蓬萊殿  

交遊人物/地點:  

 

 

侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌 #1

東風已綠瀛洲草,紫殿紅樓覺春好,池南柳色半青青。

縈煙嫋娜拂綺城,垂絲百尺掛雕楹。

(天子に興慶宮の宜春苑に扈従して「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くということを題にして、歌を作れという勅命を受けに賦して作つた歌である)

東方の仙人の島の瀛洲と見紛う宜春苑には春を呼ぶ風、東風が緩やかに吹き渡って、満地の草々、木々を緑にし、すでに大明宮の紫宸殿、紫蘭殿の紫の宮殿、金鑾殿、綾綺殿の紅の楼閣、すべてに 春の景色がひろがっていて、興慶宮の龍池の南水辺の柳の色も黄緑から青々としてきた。

暖かき虹の春霞はただよいはじめしなやかに長安城、宮城の壁を覆い払っている。龍池のしだれ柳はその枝を百尺ものながさで枝垂れて、彫刻で飾った楼の柱にかかっている。#2

上有好鳥相和鳴,間關早得春風情。

春風卷入碧雲去,千門萬皆春聲。

是時君王在鎬京,五雲垂暉耀紫清。

#3

仗出金宮隨日轉,天回玉輦繞花行。

始向蓬萊看舞鶴,還過茝若聽新鶯。

新鶯飛繞上林苑,願入簫韶雜鳳笙。

(宜春苑に侍従し、詔を奉じて、龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くの歌を賦す)

東風すでに緑にす瀛洲の草、紫殿 紅楼 春の好きを覚ゆ。

池南の柳色なかば青青、烟を縈【めぐ】らせ裊娜【ジョウダ】として綺城を払ふ。

垂糸百尺雕楹【チョウエイ】に挂(かか)り。

上に好鳥のあひ和して鳴くあり、間関はやくも得たり春風の情。

春風 巻いて碧雲に入って去り、千門 万戸みな春声。

この時 君王は鎬京【コウケイ】にゐませば、五雲も暉【ひかり】を垂れて紫清に耀く。

仗【ジョウ】は金宮を出でて日に随って転じ、天は玉輦を回【めぐら】して花を繞って行く。

はじめ蓬萊に向って舞鶴を看【み】、また茝石を過ぎて新鴬を聴く。

 新鴬は飛びて上林苑を繞り、簫韶【ショウショウ】 に入って鳳笙に雑【まじは】らんと願ふ。

 

大明宮-座標02 

 

侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌 #1

東風已綠瀛洲草,紫殿紅樓覺春好,池南柳色半青青。

縈煙嫋娜拂綺城,垂絲百尺掛雕楹。

(下し文)
(宜春苑に侍従し、詔を奉じて、龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くの歌を賦す)

東風すでに緑にす瀛洲の草、紫殿 紅楼 春の好きを覚ゆ。

池南の柳色なかば青青、烟を縈【めぐ】らせ裊娜【ジョウダ】として綺城を払ふ。

垂糸百尺雕楹【チョウエイ】に挂(かか)り。

(現代語訳)
侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌 #1(天子に興慶宮の宜春苑に扈従して「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くということを題にして、歌を作れという勅命を受けに賦して作つた歌である)

東方の仙人の島の瀛洲と見紛う宜春苑には春を呼ぶ風、東風が緩やかに吹き渡って、満地の草々、木々を緑にし、すでに大明宮の紫宸殿、紫蘭殿の紫の宮殿、金鑾殿、綾綺殿の紅の楼閣、すべてに 春の景色がひろがっていて、興慶宮の龍池の南水辺の柳の色も黄緑から青々としてきた。

暖かき虹の春霞はただよいはじめしなやかに長安城、宮城の壁を覆い払っている。龍池のしだれ柳はその枝を百尺ものながさで枝垂れて、彫刻で飾った楼の柱にかかっている。


(訳注)#1

侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌

(天子に興慶宮の宜春苑に扈従して「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くということを題にして、歌を作れという勅命を受けに賦して作つた歌である)

1.  李白の経歴中、天寶の初、玄宗の知遇を蒙り、待詔として宮中に出仕したのが、その一生の最も光栄ある得意の時代であった。そして、ある時、天子の駕に扈従して、宜春苑へ往った時に、「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」ということを題にして、歌を作れという勅命を受けて、即時に賦して作つたのが、即ちこの詩である。他人の應制とは異にして、古體を用いては居るが、なは且つ放逸の句法を避けて、自然初唐の風格を帯びて居る。

2.  宜春北苑 《雍録》「天寶中,即東宮置宜春北苑。按既日北苑,當在宜春宮之北。」

3.  龍池 唐詩《紀事》云:「龍池,興慶宮也,明皇潛龍之地。」《會要》云:「開元元年,出祭龍池樂章。十六年,築壇於興慶宮,以仲春月祭之。」《長安誌》:龍池,在南南薰殿北、躍龍門南,本是平地,垂拱後因雨水流潦成小池,後又引龍首支渠分之,日以滋廣,彌亙數頃深至數丈,常有雲氣,或見黃龍出其中,謂之龍池。

 

東風已綠瀛洲草,紫殿紅樓覺春好,池南柳色半青青。

東方の仙人の島の瀛洲と見紛う宜春苑には春を呼ぶ風、東風が緩やかに吹き渡って、満地の草々、木々を緑にし、すでに大明宮の紫宸殿、紫蘭殿の紫の宮殿、金鑾殿、綾綺殿の紅の楼閣、すべてに 春の景色がひろがっていて、興慶宮の龍池の南水辺の柳の色も黄緑から青々としてきた。

4.  東風 春風。

5.  瀛洲 東方海上にある仙人の住む山、蓬莱山、方丈山、瀛州山。

6.  紫殿 大明宮の中には紫宸殿、紫蘭殿など翰林院からすべて東側にあるもの。

7.  半青春 萌木色。黄緑。

 

縈煙嫋娜拂綺城,垂絲百尺掛雕楹。

暖かき虹の春霞はただよいはじめしなやかに長安城、宮城の壁を覆い払っている。龍池のしだれ柳はその枝を百尺ものながさで枝垂れて、彫刻で飾った楼の柱にかかっている。

8.  縈煙 春霞。

9.  裊娜 しなやかな様。

10. 綺城 美しい長安城、宮城の壁。

11. 垂糸 しだれ柳の枝。

12. 雕楹【チョウエイ】 楼閣の彫刻で飾った柱。
興慶宮002 

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李白  南都行 #2  

麗華秀玉色,漢女嬌朱顏。清歌遏流雲,豔舞有餘閒。

遨遊盛宛洛,冠蓋隨風還。走馬紅陽城,呼鷹白河灣。

誰識臥龍客,長吟愁鬢斑。
それから、この地から、光武の皇后となった陰麗華は、この地の出身で後宮に入った、玉貌、世に類なき絶世の美人であったが、その名残りでもあり、漢水の女神の名護残りでもある、漢水のほとりに戯れて居る遊女たちは、紅顔の美しきものが多いいのである。それから、臥龍と稀せられた諸葛亮も、その初、ここより程遠苦ではない襄陽の西20里の隆中に隠れて窮耕し、次第に年が寄って、両鬢のまさに斑ならむとするを愁つつ、梁甫吟を歌って居たのであるが、この事を思い出して、憑弔の意を寄せる人は、少いようである。

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年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一六六              文體:    五言古詩

詩題:    南都行

作地點:              南陽(山南東道 / 鄧州 / 南陽)

及地點:南陽 (山南東道 鄧州 南陽) 別名:南都         

武闕山 (山南東道 鄧州 南陽)         

洛陽 (都畿道 河南府 洛陽) 別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下    

紅陽城 (河南道 許州 舞陽)             

白水 (山南東道 鄧州 南陽) 別名:淯水、白河           

 

李白の足跡0000

南都行

(光武帝の故里で、古くは南都とされた、南陽の歌)

南都信佳麗,武闕橫西關。

南陽は、世に南都と称せられるだけあって、風物は、まことに佳麗であり、武闕山は西境に横って、自然の関門をなして居る。

白水真人居,萬商羅廛闤。

ここは、むかし、光武帝の故里であって、今では、物持ちの商人が多く店を連ねて、まことににぎやかなものである。

高樓對紫陌,甲第連青山。

高楼は、参差として、町中の大道に臨み、郷紳輩の邸宅は、山の手にずっと列んで居る。此地多英豪,邈然不可攀。

古いところでは、陶朱公といわれた范蠡も、ここにきて、財産を作ったというし、秦の穆公を輔けた五羖大夫の首里奚も、はじめ、ここに逃げて居たことがあって、この二人は、覇者の佐となり、その名は、天地の間に傳わって居る。

陶朱與五羖,名播天壤間。

古いところでは、陶朱公といわれた范蠡も、ここにきて、財産を作ったというし、秦の穆公を輔けた五羖大夫の首里奚も、はじめ、ここに逃げて居たことがあって、この二人は、覇者の佐となり、その名は、天地の間に傳わって居る。

 

麗華秀玉色,漢女嬌朱顏。

それから、この地から、光武の皇后となった陰麗華は、この地の出身で後宮に入った、玉貌、世に類なき絶世の美人であったが、その名残りでもあり、漢水の女神の名護残りでもある、漢水のほとりに戯れて居る遊女たちは、紅顔の美しきものが多いいのである。

清歌遏流雲,豔舞有餘閒。

その清らかな馨で唱へる歌は、流雲を遏むべく、巧みなる舞は、従容として、長閑に見える。

遨遊盛宛洛,冠蓋隨風還。

かくて、遊遨の風は、南陽と洛陽一帯の地に盛んであって、衣冠きらびやかに、立派な車に乗れる貴人どもは、風に随って、此方へ聚まって来る。

走馬紅陽城,呼鷹白河灣。

かくて、馬を漢の時代からの紅陽の城址に走らし、鷹を呼んで白河の岸に小鳥狩りをするといふような風俗は、むかしも、今も、変わることはない。

誰識臥龍客,長吟愁鬢斑。

それから、臥龍と稀せられた諸葛亮も、その初、ここより程遠苦ではない襄陽の西20里の隆中に隠れて窮耕し、次第に年が寄って、両鬢のまさに斑ならむとするを愁へつつ、梁甫吟を歌って居たのであるが、この事を思い出して、憑弔の意を寄せる人は、少いようである。

 

(南都行)

南都、信に、佳麗、武闕、西關に横ふ。

白水眞人の居、萬商、廛闤【てんかん】を羅ぬ。

高楼、紫陌に対し、甲第、青山に連る。

この地、英豪多く、邈然として攀ずべからず。

陶朱と五羖と、名は播く天壌の間。

 

麗華は玉色秀で、漢女は朱顔 嬌たり。

清歌、流雲を遏め、豔舞、餘間あり。

遨遊、宛洛 盛んに、冠蓋、風に随って還る。

馬を走らす 紅陽城、鷹を呼ぶ 白河の灣。

誰か識らん、臥龍の客、長吟すれば、愁鬢 班たり。

 

東都南都襄陽武昌山南東道舂陵03

 

『南都行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

麗華秀玉色,漢女嬌朱顏。

清歌遏流雲,豔舞有餘閒。

遨遊盛宛洛,冠蓋隨風還。

走馬紅陽城,呼鷹白河灣。

誰識臥龍客,長吟愁鬢斑。

(下し文)
麗華は玉色秀で、漢女は朱顔 嬌たり。

清歌、流雲を遏め、豔舞、餘間あり。

遨遊、宛洛 盛んに、冠蓋、風に随って還る。

馬を走らす 紅陽城、鷹を呼ぶ 白河の灣。

誰か識らん、臥龍の客、長吟すれば、愁鬢 班たり。

(現代語訳)
それから、この地から、光武の皇后となった陰麗華は、この地の出身で後宮に入った、玉貌、世に類なき絶世の美人であったが、その名残りでもあり、漢水の女神の名護残りでもある、漢水のほとりに戯れて居る遊女たちは、紅顔の美しきものが多いいのである。

その清らかな馨で唱へる歌は、流雲を遏むべく、巧みなる舞は、従容として、長閑に見える。

かくて、遊遨の風は、南陽と洛陽一帯の地に盛んであって、衣冠きらびやかに、立派な車に乗れる貴人どもは、風に随って、此方へ聚まって来る。

かくて、馬を漢の時代からの紅陽の城址に走らし、鷹を呼んで白河の岸に小鳥狩りをするといふような風俗は、むかしも、今も、変わることはない。

それから、臥龍と稀せられた諸葛亮も、その初、ここより程遠苦ではない襄陽の西20里の隆中に隠れて窮耕し、次第に年が寄って、両鬢のまさに斑ならむとするを愁つつ、梁甫吟を歌って居たのであるが、この事を思い出して、憑弔の意を寄せる人は、少いようである。


(訳注) #2

南都行

(光武帝の故里で、古くは南都とされた、南陽の歌)

○南都 南部は南陽のこと、後漢の光武の故里であって、即位の後は、都を洛陽に建て、ここを別都として、南都と号した。後漢の張衛は、南都賦を作ったが、李白も、亦た南陽の風土を詠じて、この篇を作つたのである。南陽は、襄陽に近いところであるから、これも、李白が襄陽に遊んだ時分の作である。

 


麗華秀玉色,漢女嬌朱顏。

それから、この地から、光武の皇后となった陰麗華は、この地の出身で後宮に入った、玉貌、世に類なき絶世の美人であったが、その名残りでもあり、漢水の女神の名護残りでもある、漢水のほとりに戯れて居る遊女たちは、紅顔の美しきものが多いいのである。

○麗華 光武帝の陰皇后 陰 麗華(いん れいか、5 - 64年)は、後漢の光武帝(劉秀)の皇后で明帝の母。諡は烈(諡号としては光烈皇后)。異母兄に陰識、同母弟に陰興、陰訢、陰就がいる。劉秀と同じ南陽郡(今の河南省と湖北省にまたがる)の新野県出身の豪族陰氏の娘で、近隣でも評判の美女として、挙兵前の光武帝もあこがれるほどであったという。更始1年(23年)に劉秀に嫁いだ。建武1年(25年)に劉秀が即位すると貴人として洛陽に迎えられた。しかしこの時、光武帝が後に娶った郭昌の娘の郭聖通(郭貴人)が先に男子の劉彊を産んでいた。光武帝は陰貴人を皇后に擁立したいと思うものの、陰麗華は男子を産んでいないことを理由に断った。建武2年(26年)に劉彊は皇太子になり、郭貴人が皇后に立てられた。建武4年(28年)、陰麗華は劉荘を産んだ。建武17年(41年)に、郭皇后がそのわがままな性格から、光武帝に疎まれるようになり皇后を廃されたため、陰麗華は皇后に、建武19年(43年)に劉荘は皇太子に立てられることになった。建武中元2年(57年)に光武帝が亡くなると、劉荘が即位し、陰麗華は皇太后となる。陰麗華の生活は、皇后になってからも質素であったという。また、己の一族には政治に関与させないようにした聡明な女性でもあった。このため、明帝皇后の馬皇后と並んで、中国史上でも優れた皇后の一人として称えられている。

○秀玉色 玉貌、世に類なき絶世の美人であること。・玉色:《禮記.玉藻》:「盛氣顛實揚休,玉色。」漢.鄭玄.注:「色不變也。」比操行堅貞。

○漢女 漢水の女神。孟浩然《萬山潭作》漢水の神の名。文選、張衡《南都賦》「耕父揚光於清泠之淵、游女弄珠於漢皐之曲。」(耕父 光を清泠の淵に揚げ、游女 珠を漢皐之曲に弄ぶ。)耕父揚光於淸冷之淵、遊女弄珠於漢睪之曲。〈注曰:遊女,漢女也。鄭大夫交甫於漢見之,而贈之橘柚。南陽の財宝と山岳について述べる部分にある。鄭耕甫が漢皐臺で二人の女神からふたつの珠を贈られたが、その珠は鶏卵ほどの大きさであった。

孟浩然  萬山潭作

垂釣坐磐石,水清心亦閑。

魚行潭樹下,猿掛島藤間。

游女昔解佩,傳聞於此山。

求之不可得,沿月棹歌還。

盛唐詩 萬山潭作 孟浩然<42> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -349

○嬌朱顏 

 

清歌遏流雲,豔舞有餘閒。

その清らかな馨で唱へる歌は、流雲を遏むべく、巧みなる舞は、従容として、長閑に見える。

 

遨遊盛宛洛,冠蓋隨風還。

かくて、遊遨の風は、南陽と洛陽一帯の地に盛んであって、衣冠きらびやかに、立派な車に乗れる貴人どもは、風に随って、此方へ聚まって来る。

○宛洛 南陽と洛陽。

○冠蓋 衣冠きらびやかに、立派な車にのること。高級官吏の官帽と服飾に銜えて立派な車に乘るようになること。後には、以って達官した貴人を稱することに用いる。南朝宋.鮑照《代放歌行》「冠蓋縱橫至,車騎四方來。」とある。

 

走馬紅陽城,呼鷹白河灣。

かくて、馬を漢の時代からの紅陽の城址に走らし、鷹を呼んで白河の岸に小鳥狩りをするといふような風俗は、むかしも、今も、変わることはない。

○紅陽城 紅陽侯の居城。前漢王立の侯国である紅陽侯国は南陽にあり、王立は光武帝ら南陽の劉氏と交流を持ち、彼らに恩があった。王立の子である王丹は中山太守となり、後に光武帝に降伏して将軍となり、戦死した。光武帝は哀れんで、王丹の子の王泓を武桓侯とした。

○白河 灣 襄陽で漢水に合流する河川。

 

誰識臥龍客,長吟愁鬢斑。

それから、臥龍と稀せられた諸葛亮も、その初、ここより程遠苦ではない襄陽の西20里の隆中に隠れて窮耕し、次第に年が寄って、両鬢のまさに斑ならむとするを愁つつ、梁甫吟を歌って居たのであるが、この事を思い出して、憑弔の意を寄せる人は、少いようである。

○臥龍 諸葛 亮(しょかつ りょう)のこと。後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。伏龍、臥龍とも呼ばれる。

司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。 妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。

『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。

諸葛亮は襄陽の西、20里隆中で晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。
襄陽一帯地図000 

252-#1 《卷六02南都行 #1》Index-18 Ⅱ―13-738年開元二十六年38歳 <252-#1> Ⅰ李白詩1509 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6093

南都行

南都信佳麗,武闕橫西關。白水真人居,萬商羅廛

高樓對紫陌,甲第連青山。此地多英豪,邈然不可攀。

陶朱與五羖,名播天壤間。
(光武帝の故里で、古くは南都とされた、南陽の歌)南陽は、世に南都と称せられるだけあって、風物は、まことに佳麗であり、武闕山は西境に横って、自然の関門をなして居る。ここは、むかし、光武帝の故里であって、今では、物持ちの商人が多く店を連ねて、まことににぎやかなものである。

 

252-1 《卷六02南都行 #1》Index-18 Ⅱ―13-738年開元二十六年38歳 <252-1> Ⅰ李白詩1509 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6093
 

 

 

年:738年開元二十六年38

卷別:    卷一六六              文體:    五言古詩

詩題:    南都行

作地點:              南陽(山南東道 / 鄧州 / 南陽)

及地點:南陽 (山南東道 鄧州 南陽) 別名:南都         

武闕山 (山南東道 鄧州 南陽)         

洛陽 (都畿道 河南府 洛陽) 別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下    

紅陽城 (河南道 許州 舞陽)             

白水 (山南東道 鄧州 南陽) 別名:淯水、白河           

 

 

南都行

(光武帝の故里で、古くは南都とされた、南陽の歌)

南都信佳麗,武闕橫西關。

南陽は、世に南都と称せられるだけあって、風物は、まことに佳麗であり、武闕山は西境に横って、自然の関門をなして居る。

白水真人居,萬商羅廛闤。

ここは、むかし、光武帝の故里であって、今では、物持ちの商人が多く店を連ねて、まことににぎやかなものである。

高樓對紫陌,甲第連青山。

高楼は、参差として、町中の大道に臨み、郷紳輩の邸宅は、山の手にずっと列んで居る。
此地多英豪,邈然不可攀。

古いところでは、陶朱公といわれた范蠡も、ここにきて、財産を作ったというし、秦の穆公を輔けた五羖大夫の首里奚も、はじめ、ここに逃げて居たことがあって、この二人は、覇者の佐となり、その名は、天地の間に傳わって居る。

陶朱與五羖,名播天壤間。

古いところでは、陶朱公といわれた范蠡も、ここにきて、財産を作ったというし、秦の穆公を輔けた五羖大夫の首里奚も、はじめ、ここに逃げて居たことがあって、この二人は、覇者の佐となり、その名は、天地の間に傳わって居る。

 

麗華秀玉色,漢女嬌朱顏。

清歌遏流雲,豔舞有餘閒。

遨遊盛宛洛,冠蓋隨風還。

走馬紅陽城,呼鷹白河灣。

誰識臥龍客,長吟愁鬢斑。

 

(南都行)

南都、信に、佳麗、武闕、西關に横ふ。

白水眞人の居、萬商、廛闤【てんかん】を羅ぬ。

高楼、紫陌に対し、甲第、青山に連る。

この地、英豪多く、邈然として攀ずべからず。

陶朱と五羖と、名は播く天壌の間。

 

麗華は玉色秀で、漢女は朱顔 嬌たり。

清歌、流雲を遏め、豔舞、餘間あり。

遨遊、宛洛 盛んに、冠蓋、風に随って還る。

馬を走らす 紅陽城、鷹を呼ぶ 白河の灣。

誰か識らん、臥龍の客、長吟すれば、愁鬢 班たり。

安陸・南陽・嚢陽 李白00 

 

『南都行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

南都行

南都信佳麗,武闕橫西關。

白水真人居,萬商羅廛

高樓對紫陌,甲第連青山。

此地多英豪,邈然不可攀。

陶朱與五羖,名播天壤間。

(下し文)
(
南都行)

南都、信に、佳麗、武闕、西關に横ふ。

白水眞人の居、萬商、廛【てんかん】を羅ぬ。

高楼、紫陌に対し、甲第、青山に連る。

この地、英豪多く、邈然として攀ずべからず。

陶朱と五羖と、名は播く天壌の間。

(現代語訳)
(光武帝の故里で、古くは南都とされた、南陽の歌)

南陽は、世に南都と称せられるだけあって、風物は、まことに佳麗であり、武闕山は西境に横って、自然の関門をなして居る。

ここは、むかし、光武帝の故里であって、今では、物持ちの商人が多く店を連ねて、まことににぎやかなものである。

高楼は、参差として、町中の大道に臨み、郷紳輩の邸宅は、山の手にずっと列んで居る。
古いところでは、陶朱公といわれた范蠡も、ここにきて、財産を作ったというし、秦の穆公を輔けた五羖大夫の首里奚も、はじめ、ここに逃げて居たことがあって、この二人は、覇者の佐となり、その名は、天地の間に傳わって居る。

古いところでは、陶朱公といわれた范蠡も、ここにきて、財産を作ったというし、秦の穆公を輔けた五羖大夫の首里奚も、はじめ、ここに逃げて居たことがあって、この二人は、覇者の佐となり、その名は、天地の間に傳わって居る。


(訳注)

南都行

(光武帝の故里で、古くは南都とされた、南陽の歌)

○南都 南部は南陽のこと、後漢の光武の故里であって、即位の後は、都を洛陽に建て、ここを別都として、南都と号した。後漢の張衛は、南都賦を作ったが、李白も、亦た南陽の風土を詠じて、この篇を作つたのである。南陽は、襄陽に近いところであるから、これも、李白が襄陽に遊んだ時分の作である。

 李白の足跡0000

南都信佳麗,武闕橫西關。

南陽は、世に南都と称せられるだけあって、風物は、まことに佳麗であり、武闕山は西境に横って、自然の関門をなして居る。

○武闕 武闕山という山名。西弘農の界にある。張衡《南都賦》「爾其地勢,則武闕關其西,桐柏揭其東。」(爾して其の地勢は,則ち 武闕 其の西を關し,桐柏 其の東を揭つ。)その説文に、武闕山為關在西也。武闕山為關而在西,弘農界也。【武闕山為關在西也。漢書音義,文穎曰:武闕山為關而在西,弘農界也。漢書曰:南陽之平陽縣有桐柏山。】

 

白水真人居,萬商羅廛闤。

ここは、むかし、光武帝の故里であって、今では、物持ちの商人が多く店を連ねて、まことににぎやかなものである。

○白水眞人 後漢の光武帝か指す、後漢書に「玉莽、位を篁し、劉氏も忌悪し、錢文

後漢書 “王莽位忌惡劉氏、以錢文有金刀、故改爲貨泉、或以貨泉字文為「白水真人」。”とあり、宋書 莽忌惡漢,而錢文有金,乃改鑄貨泉以易之 光武 起 舂陵 白水郷

に金あり、乃ち賀長も改鰻して、以て之ね易ふ。すでにして、光武、舂陵の白水郷に起る、貨泉の文、白水眞人たるなり。

光武帝(こうぶてい、前6 - 57[1])は後漢王朝の初代皇帝。南陽蔡陽(湖北省棗陽市)の人。王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された[2]。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。

○萬商 漢書に「南陽に其俗香春、嵐力む上び商賀な好む」とある。

○廓醜 市宅と市垣。

 

高樓對紫陌,甲第連青山。

高楼は、参差として、町中の大道に臨み、郷紳輩の邸宅は、山の手にずっと列んで居る。

○紫陌 町中の大逆。

○甲第 好宅、かみ屋敷。

 

此地多英豪,邈然不可攀。

この地は、景色の勝れて居るばかりでなく、山水、偉人を生ずといった通おり、むかしから、英豪が頻りに輩出し、すでに千歳を隔て、高風邈然としで攀じるべからざるも、人をして、懐舌の念を起さしめる。

 はるかなさま。李白《巻一12古風五十九首 其十二》長揖萬乘君、 還歸富春山。 清風洒六合、 邈然不可攀。 使我長嘆息、冥棲岩石間。」(万乗の君に長揖して、還帰す 富春山。清風 六合に灑ぎ、邈然(ばくぜん)として 攀()ずべからず。我をして 長く嘆息し、巌石の間に冥棲せしむ)万乗の天子、光武帝にたいし最敬礼をした、そして、さっさと富春山へと帰っていった。すがすがしい風格が天地四方にいきわたった、しかしそれは遠くはるかなことで、とても手がとどきそうにないようなことだわたしに長いためいきをつかせたこと、せめて洞窟の奥深くひっそりした中で静かにくらしてみたいと思わせたことだったのだ。

《卷9-18             遊溧陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅》「目色送飛鴻、邈然不可攀。」(目色 飛鴻を送り、 邈然として攀ず可からず。)ここに遊びに来たが、主人は飛ぶ雁に見惚れているのか、客が来ても、まるで相手にせず、ばくぜんとして取りすがりようがないくらいである。

 

陶朱與五羖,名播天壤間。

古いところでは、陶朱公といわれた范蠡も、ここにきて、財産を作ったというし、秦の穆公を輔けた五羖大夫の首里奚も、はじめ、ここに逃げて居たことがあって、この二人は、覇者の佐となり、その名は、天地の間に傳わって居る。

○陶朱 史記に「范蠡、その重宝をふところにし、問行して以て去り、陶に止まる。、以爲らく、これ天下の中、交易有無の道通ず、生む爲して富みをい致すベしと。ここに於て、陶朱公と號す」とある。

越を脱出した范蠡は、斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は名が上がり過ぎるのは不幸の元だと財産を全て他人に分け与えて去った。 斉を去った范蠡は、かつての曹の国都で、今は宋領となっている定陶(山東省陶県)に移り、陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言う。陶朱公の名前は後世、大商人の代名詞となった(陶朱の富の故事)。このことについては、史記の「貨殖列伝」に描かれている。

○五羖 五羖大夫のことで、春秋時代の秦の宰相であった百里奚のことである。献公の娘(太子申生(英語版)の同母妹で生母は斉の公女)が秦の穆公に嫁ぐことになり、百里奚はその召使いとして秦に入国した。ある日のこと、穆公の家臣の一人が百里奚と政治について語り合い、その賢哲を知って「百里奚を宰相に据えれば秦は千里を拓くでしょう」と言って穆公に推挙した。百里奚はこれを嫌って国外へと逃亡し、楚に流れて奴隷とされたが穆公の家臣に見つけ出され羊の皮5枚(五羖)で買い戻され、秦に連れ戻された。これに由来して百里奚は五羖大夫と号するようになった。

穆公は連れ戻された百里奚と国事について三日三晩語り合い、彼に国政をあずけることを決めた。ときに百里奚70余歳。

百里奚は徹底した徳政を行い、周辺諸国を慰撫する政策をとった。これにより周辺の10カ国が秦に服属することを申し出で、百里奚は文字通り千里(1国=百里、10国=千里)を拓き、国力を大いに増大させた。このことは、始皇帝の代に秦が中国を統一する基盤となった。

また清廉潔白で、冬でも外套を着ず、国内を巡察するときは衛兵に武器を持たせなかったという。更に百里奚は、彼がかつて世話になった親友の蹇叔の登用を穆公に薦め、それを受けて穆公は蹇叔を秦へと招聘し、上大夫とした。
襄陽一帯地図000 

226 《(改訂版) 巻6-1 襄陽歌 -#4》Index-14 Ⅱ― 9-734年開元二十二年34歳 <226> Ⅰ李白詩1463 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5863

襄陽歌 -#4李白  むかし、楚の襄王が巫山の神女に遭い、「朝雲暮雨」と、たのしんだという、しかし、それも昔人今は何処にありや、どこにもいない、けっきよく、はかない夢ではなかったか。現に巫山には、そんなものは跡かたもないし、長江の水は絶えず東流し、巫峡の猿声、夜夜悲しんで啼くばかり、功名富貴、飽食、美色、すべて世俗の儚きもの照り、人生、ただ酒を飲み酔い潰れることが楽しみであり、たとえ、それで襄陽の子供たちに囃されても、一向に構わないのである。

 
 2015年4月18日の紀頌之5つのBlog 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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226 《(改訂版) 巻6-1 襄陽歌 -#4》Index-14 Ⅱ― 9-734年開元二十二年34歳 <226> Ⅰ李白詩1463 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5863 
 孟浩然 詩 index李白詩index謝霊運 詩 index司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》揚雄 《 甘泉賦 》 ●諸葛亮(孔明)出師表 
 曹植(曹子建)詩 65首 index文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固)《李白 全詩》
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 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
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 孟郊張籍     
 ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog766年大暦元年55歲-48 《巻1512 往在 -1》 杜甫index-15 杜甫<911> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5865 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
 ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている 
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226 (改訂版) 巻6-1 襄陽歌 -#4》Index-14 Ⅱ― 9-734年開元二十二年34歳 <226> Ⅰ李白詩1463 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5863

 

 

年:734年開元二十二年34

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    襄陽歌

作地點:              襄州(山南東道 / 襄州 / 襄州)

及地點:襄州 (山南東道 襄州 襄州) 別名:襄陽         

峴山 (山南東道 襄州 峴山) 別名:峴首山    

咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸    

舒州 (淮南道 舒州 舒州)  

 

(改訂版) 巻6-1 襄陽歌》

襄陽歌  #1

(襄陽の名所旧跡について興をよせ,酒を頌える歌であると同時に山簡の賛歌でもある。)

落日欲沒峴山西,倒著接離花下迷。

まっ赤な夕日が幌山の西に今日も沈もうとしている。我独り、ここに来れば、山間のように白い帽子をさかさまにかぶって、花ざかりの木の下を、ふらりふらりと彷徨う。
襄陽小兒齊拍手,攔街爭唱白銅鞮。

すると、その態度がなんだかおかしいと見えて、襄陽の街の子供たちが大勢よってきて、いっせいに手をたたきながら、道いっぱいにさえぎって、「白銅鞮」の舊歌を口々にうたって囃したてる。
傍人借問笑何事,笑殺山翁醉似泥。【笑殺山公醉似泥】

そこで、通りかかった人がこれをあやしみ、いったい何でそんなに笑っているのかと、たずねれば、子供はこたえて、昔、ここで酩酊して有名であった山簡のようにあのおじさんがベロベロに酔っぱらった恰好がおかしくてたまらないのだという。
#2

鸕鶿杓,鸚鵡杯,百年三萬六千日,一日須傾三百杯。

鸕鶿の桮杓に、そして、鸚鵡の盃の道具はちゃんとそろっているし、どちらもすばらしく立派なうつわだ。人生、百年、一日に三百杯を傾け、それでもしょせん三万六千日、飲みつくすことが必要だ。こうして人生を満足できるものとなるのだ。  
遙看漢水鴨頭綠,恰似葡萄初醱醅。【恰似葡萄初撥醅】

こうして眺め遣ると、はるかに漢水が見え、春まさに至り、碧波漫漫として。水はあおあおとして、ちょうど鴨の頭のような緑色、染物屋の藍染のような水を流したようであり、葡萄が醗酵しはじめる時の色によく似ている。 
此江若變作春酒,壘麴便築糟丘臺。

この漢水の大江の水が、もしも春の新酒に変るものなら、うずたかく麹をかさねていって、殷の帝紂が築いたような酒の粕の高台を築いてやろうとおもう。 
#3

千金駿馬換小妾,笑坐雕鞍歌落梅。【千金駿馬換少妾】

そうなると、自分に侍している愛妾などもこれをするには必要ないのであり、千金の値うちのある駿馬に換えて、すぐにこれにまたがって、見事な彫り物をほどこした鞍に坐して、悠然として、「落梅花」の古曲を歌を口ずさんだらこれ以上の事は無いというものだ。

車傍側掛一壺酒,鳳笙龍管行相催。

お供の車などで数輌の随行があり、その車傍には一壺の酒がぶらさげてあり、醒めればまた飲み、鳳の笙笛やら龍管楽器の音楽を演奏していて、我が興を助けて、囃しながら道をゆく。
咸陽市中歎黃犬,何如月下傾金罍。【醉坐雕鞍歌落梅】

秦の李斯は小吏より立身して、宰相までなったのだが、後には、讒言に咸陽の町のまん中で腰斬される時に、おなじように処刑される息子に「黄色い犬をつれて免狩りしたかった」などと嘆いた李斯の最期を思うと、富貴栄華の末は、たいがいこうなるものであるから、むしろはじめから、世俗をはなれ、月の下で、黄金の杯を傾けて、快く酔って歌った方が、悠に面白いことではないか。
君不見晉朝羊公一片石,龜頭剝落生莓苔。【龜龍剝落生莓苔】

さらに、人生死後爽涼たる有様を見るのは、晉の羊祜がこの地に鎮して、人々に悦服せられ、襄陽の街を見下ろす峴山に堕涙碑を建てられたが、その一片の石だけは今も残っているが、その碑を背負っている亀の頭は既に剥落し、莓苔がこれらを埋め、淒寥の極みであって、誰も涙するというもので、心も悲しくなり、ただ茫然自失するばかりである。

 

淚亦不能為之墮,心亦不能為之哀。

羊祜の徳望をもってしても死後久しくするとこの有様で、「堕涙碑」とよばれるここにきても、あまりのことに涙さえおとすことも出来ないけれど、壮であれば生きているうちに充分楽しんでおくのがよく、心は羊祜のために、かなしむことが出来ないのである。
清風朗月不用一錢買,玉山自倒非人推。

だからここの清風朗月は、いくらこれを取ったとしても禁ずるものはなく、これが一銭も出すにおよばない。天地の佳景に対して、杯を傾け、かの山公が嵆康に云った、「玉山之將崩」というほどにのみ潰れることが良いのである。
舒州杓,力士鐺,李白與爾同死生。

ああ、舒州の杓は、これを以て酒を汲め、力士の鐺は、これを以て酒を承るべく、われ李白は杓と鐺というものを、たとえ死んでも、まして生きてるうちは、おまえをぜったい離さない。

襄王雲雨今安在,江水東流猿夜聲。

むかし、楚の襄王が巫山の神女に遭い、「朝雲暮雨」と、たのしんだという、しかし、それも昔人今は何処にありや、どこにもいない、けっきよく、はかない夢ではなかったか。現に巫山には、そんなものは跡かたもないし、長江の水は絶えず東流し、巫峡の猿声、夜夜悲しんで啼くばかり、功名富貴、飽食、美色、すべて世俗の儚きもの照り、人生、ただ酒を飲み酔い潰れることが楽しみであり、たとえ、それで襄陽の子供たちに囃されても、一向に構わないのである。
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(襄陽の歌)
落日 沒せむと欲す  峴山【けんざん】の西,倒【さかし】まに 接籬を著けて 花下に迷う。

襄陽の小兒 齊しく手を拍ち,街を攔【さえぎ】って 爭い唱う「白銅鞮」。 

傍人借問す 何事をか笑ふと,笑殺す 山の醉いて泥の似たるを。』

 

鸕鶿【ろじ】の杓【しゃく】、鸚鵡の杯、百年 三萬 六千日,一日 須【すべか】らく傾くべし  三百杯。

遙かに看る 漢水 鴨頭の綠,恰【あた】かも似たり 葡萄の初めて醱醅【はつばい】するに。

此の江 若し 變じて 春酒と作【な】らば,壘麹 便ち 築かん 糟丘臺。』

 

千金の駿馬 小妾と換へ,笑ひて 雕鞍に坐して 「落梅」を歌う。

車旁 側に挂【か】く 一壺の酒,鳳笙 龍管 行【ゆくゆ】く 相い催【うなが】す。

咸陽の市中に 黄犬を歎くは,なんぞ 如【し】かん 月下に金罍【きんらい】を傾(かたむ)くるに。

 見ずや 晉朝の羊公 一片の石,龜頭 剥落して 莓苔【ばいたい】生ず。


涙も亦た 之れが爲に墮つる能わず,心も亦た 之れが爲に哀しむ能はず。

清風 朗月 一錢の買うを 用いず,玉山 自ら倒る 人の推すに非ず。

舒州の杓,力士の鐺【そう】。李白 爾と 死生を 同じくせん。

襄王の雲雨  今 安にか在る,江水は 東流して 猿は夜に聲く。』

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李白《(改訂版)襄陽歌 -#2鸕鶿の桮杓に、そして、鸚鵡の盃の道具はちゃんとそろっているし、どちらもすばらしく立派なうつわだ。人生、百年、一日に三百杯を傾け、それでもしょせん三万六千日、飲みつくすことが必要だ。こうして人生を満足できるものとなるのだ。 

 
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年:734年開元二十二年34

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    襄陽歌

作地點:              襄州(山南東道 / 襄州 / 襄州)

及地點:襄州 (山南東道 襄州 襄州) 別名:襄陽         

峴山 (山南東道 襄州 峴山) 別名:峴首山    

咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸    

舒州 (淮南道 舒州 舒州)  

 

 

襄陽歌  #1

(襄陽の名所旧跡について興をよせ,酒を頌える歌であると同時に山簡の賛歌でもある。)

落日欲沒峴山西,倒著接離花下迷。

まっ赤な夕日が幌山の西に今日も沈もうとしている。我独り、ここに来れば、山間のように白い帽子をさかさまにかぶって、花ざかりの木の下を、ふらりふらりと彷徨う。
襄陽小兒齊拍手,攔街爭唱白銅鞮。

すると、その態度がなんだかおかしいと見えて、襄陽の街の子供たちが大勢よってきて、いっせいに手をたたきながら、道いっぱいにさえぎって、「白銅鞮」の舊歌を口々にうたって囃したてる。
傍人借問笑何事,笑殺山翁醉似泥。【笑殺山公醉似泥】

そこで、通りかかった人がこれをあやしみ、いったい何でそんなに笑っているのかと、たずねれば、子供はこたえて、昔、ここで酩酊して有名であった山簡のようにあのおじさんがベロベロに酔っぱらった恰好がおかしくてたまらないのだという。
#2

鸕鶿杓,鸚鵡杯,百年三萬六千日,一日須傾三百杯。

鸕鶿の桮杓に、そして、鸚鵡の盃の道具はちゃんとそろっているし、どちらもすばらしく立派なうつわだ。人生、百年、一日に三百杯を傾け、それでもしょせん三万六千日、飲みつくすことが必要だ。こうして人生を満足できるものとなるのだ。  
遙看漢水鴨頭綠,恰似葡萄初醱醅。【恰似葡萄初撥醅】

こうして眺め遣ると、はるかに漢水が見え、春まさに至り、碧波漫漫として。水はあおあおとして、ちょうど鴨の頭のような緑色、染物屋の藍染のような水を流したようであり、葡萄が醗酵しはじめる時の色によく似ている。 
此江若變作春酒,壘麴便築糟丘臺。

この漢水の大江の水が、もしも春の新酒に変るものなら、うずたかく麹をかさねていって、殷の帝紂が築いたような酒の粕の高台を築いてやろうとおもう。 
#3

千金駿馬換小妾,笑坐雕鞍歌落梅。【千金駿馬換少妾】

車傍側掛一壺酒,鳳笙龍管行相催。

咸陽市中歎黃犬,何如月下傾金罍。【醉坐雕鞍歌落梅】

君不見晉朝羊公一片石,龜頭剝落生莓苔。【龜龍剝落生莓苔】

 

淚亦不能為之墮,心亦不能為之哀。【案:一本此下有以下二句:誰能憂彼身後事,金鳧銀鴨葬死灰。】

清風朗月不用一錢買,玉山自倒非人推。

舒州杓,力士鐺,李白與爾同死生。

襄王雲雨今安在,江水東流猿夜聲。

 

(襄陽の歌)
落日 沒せむと欲す  峴山【けんざん】の西,倒【さかし】まに 接籬を著けて 花下に迷う。

襄陽の小兒 齊しく手を拍ち,街を攔【さえぎ】って 爭い唱う「白銅鞮」。 

傍人借問す 何事をか笑ふと,笑殺す 山の醉いて泥の似たるを。』

 

鸕鶿【ろじ】の杓【しゃく】、鸚鵡の杯、百年 三萬 六千日,一日 須【すべか】らく傾くべし  三百杯。

遙かに看る 漢水 鴨頭の綠,恰【あた】かも似たり 葡萄の初めて醱醅【はつばい】するに。

此の江 若し 變じて 春酒と作【な】らば,壘麹 便ち 築かん 糟丘臺。』

 

千金の駿馬 小妾と換へ,笑ひて 雕鞍に坐して 「落梅」を歌う。

車旁 側に挂【か】く 一壺の酒,鳳笙 龍管 行【ゆくゆ】く 相い催【うなが】す。

咸陽の市中に 黄犬を歎くは,なんぞ 如【し】かん 月下に金罍【きんらい】を傾(かたむ)くるに。

 見ずや 晉朝の羊公 一片の石,龜頭 剥落して 莓苔【ばいたい】生ず。』


涙も亦た 之れが爲に墮つる能わず,心も亦た 之れが爲に哀しむ能はず。

清風 朗月 一錢の買うを 用いず,玉山 自ら倒る 人の推すに非ず。

舒州の杓,力士の鐺【そう】。李白 爾と 死生を 同じくせん。

襄王の雲雨  今 安にか在る,江水は 東流して 猿は夜に聲く。』

 嚢陽一帯00

『襄陽歌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

 鸕鶿杓,鸚鵡杯,百年三萬六千日,一日須傾三百杯。

遙看漢水鴨頭綠,恰似葡萄初醱醅。【恰似葡萄初撥醅】

此江若變作春酒,壘麴便築糟丘臺。


(下し文)
鸕鶿【ろじ】の杓【しゃく】、鸚鵡の杯、百年 三萬 六千日,一日 須【すべか】らく傾くべし  三百杯。

遙かに看る 漢水 鴨頭の綠,恰【あた】かも似たり 葡萄の初めて醱醅【はつばい】するに。

此の江 若し 變じて 春酒と作【な】らば,壘麹 便ち 築かん 糟丘臺。

(現代語訳)
鸕鶿の桮杓に、そして、鸚鵡の盃の道具はちゃんとそろっているし、どちらもすばらしく立派なうつわだ。人生、百年、一日に三百杯を傾け、それでもしょせん三万六千日、飲みつくすことが必要だ。こうして人生を満足できるものとなるのだ。  
こうして眺め遣ると、はるかに漢水が見え、春まさに至り、碧波漫漫として。水はあおあおとして、ちょうど鴨の頭のような緑色、染物屋の藍染のような水を流したようであり、葡萄が醗酵しはじめる時の色によく似ている。 
この漢水の大江の水が、もしも春の新酒に変るものなら、うずたかく麹をかさねていって、殷の帝紂が築いたような酒の粕の高台を築いてやろうとおもう。 
李白の足跡0000
(訳注)

襄陽歌  #2

(襄陽の名所旧跡について興をよせ,酒を頌える歌であると同時に山簡の賛歌でもある。)

一年三百六十日,一生百年,毎日酒を飲んで暮らせたらという李白の目には,河川は酒に見え,丘陵は麹糟に映った。時空を超越させてくれるのは酒だけであり、李白はこの時“仙”になったのであり,「杓」と「鐺」が生涯の友であるという。「杓」は酒を酌む器,「錯」は酒を温める鼎。この作は酒を一生の友とすることを宣言した作としてたしかに劉伶の「酒徳頌」に匹敵する。

李白はまず山簡の飲酒を範として掲げた上で高らかに唱い出し,その上で以下には自分がいかに山簡のように酒を愛するかを詠んでいる。この詩は南宋・祝穆『方興勝覧』三二「襄州府」名官の「山簡」の条に唯一引用され, しかも全文が引用されているように,酒を頌える歌であると同時に山簡の賛歌でもあるといえる。では,山簡はといえば,夕暮れまで酒を飲み,花間に迷い,街の子供たちに通せん坊されて歌い囃されるという,滑稽な泥酔者として捉えられている。

「峴山の詩」張九齢 登襄陽峴山 李白「峴山懐古」関連   Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -306

峴山の詩] 陳子昂 峴山懷古 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -307

輿黄侍御北津泛舟 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -309

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峴山送蕭員外之荊州 孟浩然 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -312

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孟浩然 仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊 #2 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -320

孟浩然 暮歸故園(歳暮帰南山)  李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -323

 

鸕鶿杓,鸚鵡杯,百年三萬六千日,一日須傾三百杯。

鸕鶿の桮杓に、そして、鸚鵡の盃の道具はちゃんとそろっているし、どちらもすばらしく立派なうつわだ。人生、百年、一日に三百杯を傾け、それでもしょせん三万六千日、飲みつくすことが必要だ。こうして人生を満足できるものとなるのだ。  
・鸕鶿〔ろじ〕カワウ。鵜(う)。首の長い水鳥。「杓」とは首の長い酒を注ぐ酒器。 

・杓 〔しゃく〕しゃく。ひしゃく。桮杓。 

・鸚鵡〔おうむ〕ここでは、オウムガイのことになる。

・百年:人の一生。
・須 …する必要がある。すべからく…べし。 

・傾 (盃を)傾ける。酒を飲む。 

・三百杯 後漢の大学者鄭玄が別れの席で、一日300人以上から酒を注がれて、すべて飲み干しても酔わなかったという。

 

遙看漢水鴨頭綠,恰似葡萄初醱醅。【恰似葡萄初撥醅】

こうして眺め遣ると、はるかに漢水が見え、春まさに至り、碧波漫漫として。水はあおあおとして、ちょうど鴨の頭のような緑色、染物屋の藍染のような水を流したようであり、葡萄が醗酵しはじめる時の色によく似ている。 
・遙看:遥かに眺める。 

・漢水:襄陽を流れる川。現在の武漢(漢口、漢陽)で長江に合流する川の名。陝西省に発して、湖北省襄陽、襄樊を経て漢口に至る大河。 

・鴨頭:カモの頭。 染物屋の藍染のような水の色。

・恰似:まるで…にそっくりだ。まるで…のようだ。 

初醱醅:〔はつばい〕醗酵する。

 

 

此江若變作春酒,壘麴便築糟丘臺。

この漢水の大江の水が、もしも春の新酒に変るものなら、うずたかく麹をかさねていって、殷の帝紂が築いたような酒の粕の高台を築いてやろうとおもう。 
・若:もし。 

・變作:…と変わる。変わって(いって)…となる。 

・作:…となる。 

・春酒:去年仕込んだできたての新酒。『詩經・國風・風』に「六月食鬱及,七月亨葵及菽,八月剥棗,十月穫稻。爲此春酒,以介眉壽。」とある。 

・壘麹:積み重ねた麹(こうじ)。 

・麹:〔きく〕米、麦などを蒸して暖室に置き、麹黴(こうじかび)を繁殖させたもので、酒の醸造の原料となる。 

・便:するとすぐに。すぐに。すなわち。 

・糟丘臺:殷の帝紂が築いた酒の糟(かす)で造った小山。《韓詩外傳》卷四:「酒池,可以運舟,糟丘足以望千里,而牛飲者三千人。」(桀 酒池と爲し,以って舟を運す可く,糟丘以って千里を望むに足り,而して牛飲者 三千人。」とある。

223 《(改訂版) 巻6-1 襄陽歌 -#1》Index-14 Ⅱ― 9-734年開元二十二年34歳  李白と道教48襄陽歌 ⅰ<223> Ⅰ李白詩1459 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5843

李白(改訂版) 襄陽歌(襄陽の名所旧跡について興をよせ,酒を頌える歌であると同時に山簡の賛歌でもある。)まっ赤な夕日が幌山の西に今日も沈もうとしている。我独り、ここに来れば、山間のように白い帽子をさかさまにかぶって、花ざかりの木の下を、ふらりふらりと彷徨う。



 
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年:734年開元二十二年34

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    襄陽歌

作地點:              襄州(山南東道 / 襄州 / 襄州)

及地點:襄州 (山南東道 襄州 襄州) 別名:襄陽         

峴山 (山南東道 襄州 峴山) 別名:峴首山    

咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸    

舒州 (淮南道 舒州 舒州)  

 

 

襄陽歌  #1

(襄陽の名所旧跡について興をよせ,酒を頌える歌であると同時に山簡の賛歌でもある。)

落日欲沒峴山西,倒著接離花下迷。

まっ赤な夕日が幌山の西に今日も沈もうとしている。我独り、ここに来れば、山間のように白い帽子をさかさまにかぶって、花ざかりの木の下を、ふらりふらりと彷徨う。
襄陽小兒齊拍手,攔街爭唱白銅鞮。

すると、その態度がなんだかおかしいと見えて、襄陽の街の子供たちが大勢よってきて、いっせいに手をたたきながら、道いっぱいにさえぎって、「白銅鞮」の舊歌を口々にうたって囃したてる。
傍人借問笑何事,笑殺山翁醉似泥。【笑殺山公醉似泥】

そこで、通りかかった人がこれをあやしみ、いったい何でそんなに笑っているのかと、たずねれば、子供はこたえて、昔、ここで酩酊して有名であった山簡のようにあのおじさんがベロベロに酔っぱらった恰好がおかしくてたまらないのだという。
#2

鸕鶿杓,鸚鵡杯,百年三萬六千日,一日須傾三百杯。

遙看漢水鴨頭綠,恰似葡萄初醱醅。【恰似葡萄初撥醅】

此江若變作春酒,壘麴便築糟丘臺。

#3

千金駿馬換小妾,笑坐雕鞍歌落梅。【千金駿馬換少妾】

車傍側掛一壺酒,鳳笙龍管行相催。

咸陽市中歎黃犬,何如月下傾金罍。【醉坐雕鞍歌落梅】

君不見晉朝羊公一片石,龜頭剝落生莓苔。【龜龍剝落生莓苔】

 

淚亦不能為之墮,心亦不能為之哀。【案:一本此下有以下二句:誰能憂彼身後事,金鳧銀鴨葬死灰。】

清風朗月不用一錢買,玉山自倒非人推。

舒州杓,力士鐺,李白與爾同死生。

襄王雲雨今安在,江水東流猿夜聲。

 

(襄陽の歌)
落日 沒せむと欲す  峴山【けんざん】の西,倒【さかし】まに 接籬を著けて 花下に迷う。

襄陽の小兒 齊しく手を拍ち,街を攔【さえぎ】って 爭い唱う「白銅鞮」。 

傍人借問す 何事をか笑ふと,笑殺す 山の醉いて泥の似たるを。

鸕鶿【ろじ】の杓【しゃく】、鸚鵡の杯。

百年 三萬 六千日,一日 須【すべか】らく傾くべし  三百杯。

遙かに看る 漢水 鴨頭の綠,恰【あた】かも似たり 葡萄の初めて醱醅【はつばい】するに。

此の江 若し 變じて 春酒と作【な】らば,壘麹 便ち 築かん 糟丘臺。』

千金の駿馬 小妾と換へ,笑ひて 雕鞍に坐して 「落梅」を歌う。

車旁 側に挂【か】く 一壺の酒,鳳笙 龍管 行【ゆくゆ】く 相い催【うなが】す。

咸陽の市中に 黄犬を歎くは,なんぞ 如【し】かん 月下に金罍【きんらい】を傾(かたむ)くるに。

 見ずや 晉朝の羊公 一片の石,龜頭 剥落して 莓苔【ばいたい】生ず。』


涙も亦た 之れが爲に墮つる能わず,心も亦た 之れが爲に哀しむ能はず。

清風 朗月 一錢の買うを 用いず,玉山 自ら倒る 人の推すに非ず。

舒州の杓,力士の鐺【そう】。李白 爾と 死生を 同じくせん。

襄王の雲雨  今 安にか在る,江水は 東流して 猿は夜に聲く。』

嚢陽一帯00 

『襄陽歌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

襄陽歌  #1

落日欲沒峴山西,倒著接離花下迷。

襄陽小兒齊拍手,攔街爭唱白銅鞮。

傍人借問笑何事,笑殺山翁醉似泥。【笑殺山公醉似泥】


(下し文)
(襄陽の歌)

落日 沒せむと欲す  峴山【けんざん】の西,倒【さかし】まに 接籬を著けて 花下に迷う。

襄陽の小兒 齊しく手を拍ち,街を攔【さえぎ】って 爭い唱う「白銅鞮」。

傍人借問す 何事をか笑ふと,笑殺す 山翁の醉いて泥の似たるを。』

(現代語訳)
(襄陽の名所旧跡について興をよせ,酒を頌える歌であると同時に山簡の賛歌でもある。)

まっ赤な夕日が幌山の西に今日も沈もうとしている。我独り、ここに来れば、山間のように白い帽子をさかさまにかぶって、花ざかりの木の下を、ふらりふらりと彷徨う。
すると、その態度がなんだかおかしいと見えて、襄陽の街の子供たちが大勢よってきて、いっせいに手をたたきながら、道いっぱいにさえぎって、「白銅鞮」の舊歌を口々にうたって囃したてる。
そこで、通りかかった人がこれをあやしみ、いったい何でそんなに笑っているのかと、たずねれば、子供はこたえて、昔、ここで酩酊して有名であった山簡のようにあのおじさんがベロベロに酔っぱらった恰好がおかしくてたまらないのだという。
李白の足跡0000
(訳注)

襄陽歌  #1

(襄陽の名所旧跡について興をよせ,酒を頌える歌であると同時に山簡の賛歌でもある。)

一年三百六十日,一生百年,毎日酒を飲んで暮らせたらという李白の目には,河川は酒に見え,丘陵は麹糟に映った。時空を超越させてくれるのは酒だけであり、李白はこの時“仙”になったのであり,「杓」と「鐺」が生涯の友であるという。「杓」は酒を酌む器,「錯」は酒を温める鼎。この作は酒を一生の友とすることを宣言した作としてたしかに劉伶の「酒徳頌」に匹敵する。

李白はまず山簡の飲酒を範として掲げた上で高らかに唱い出し,その上で以下には自分がいかに山簡のように酒を愛するかを詠んでいる。この詩は南宋・祝穆『方興勝覧』三二「襄州府」名官の「山簡」の条に唯一引用され, しかも全文が引用されているように,酒を頌える歌であると同時に山簡の賛歌でもあるといえる。では,山簡はといえば,夕暮れまで酒を飲み,花間に迷い,街の子供たちに通せん坊されて歌い囃されるという,滑稽な泥酔者として捉えられている。

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落日欲沒峴山西,倒著接離花下迷。

まっ赤な夕日が幌山の西に今日も沈もうとしている。我独り、ここに来れば、山間のように白い帽子をさかさまにかぶって、花ざかりの木の下を、ふらりふらりと彷徨う。 

・落日:夕陽。 

・欲沒 沈もうとしている。 

・峴山 〔けんざん〕襄州の東南すぐに接してある山。その東を漢水が囲むように流れる。三者の位置関係は、西から東へ、襄州・山・漢水と並ぶ。 ・倒著:逆さまにつける。 

・接籬:〔せつ〕頭巾の総称。白い頭巾。白帽。本来は後出・晋の山簡の酒に酔ったときの様をいう。酔っては、頭巾を逆さまに被った 

・迷:さまよう。

 

 

襄陽小兒齊拍手,攔街爭唱白銅鞮。

すると、その態度がなんだかおかしいと見えて、襄陽の街の子供たちが大勢よってきて、いっせいに手をたたきながら、道いっぱいにさえぎって、「白銅鞮」の舊歌を口々にうたって囃したてる。
小兒 子ども。 ・齊 一斉に。 ・拍手 手を拍(う)っている。 

攔街 通せんぼ をする。 ・攔〔らん〕さえぎる。 ・爭唱 きそって歌う。 

・白銅提 六朝時代に襄陽で流行した童謡。ここでは童謡の『襄陽白銅』のこと。白銅の馬蹄の意。

 

 

傍人借問笑何事,笑殺山翁醉似泥。【笑殺山公醉似泥】

そこで、通りかかった人がこれをあやしみ、いったい何でそんなに笑っているのかと、たずねれば、子供はこたえて、昔、ここで酩酊して有名であった山簡のようにあのおじさんがベロベロに酔っぱらった恰好がおかしくてたまらないのだという。
・傍人 傍らの人。 

・借問 お訊ねする。質問の内容は後出の「笑何事」になる。 

・笑何事 何をそんなに笑っているのか。 

・笑殺 笑って問題としない。大いに笑う。笑いとばす。山公のことでありまた李白のことでもある。 ・-殺 用言に附き、程度の甚だしさを表す。 

・山公 山簡のこと。字は季倫。西晋時代の人。竹林の七賢の一の山濤の子。 

・醉似泥 泥のように酔いつぶれる。 

 

『襄陽』『山陽記』

   〔習郁池:〕〔裏判〕峴山南八百歩、西下道百歩、有大魚池、漢侍中習郁依萢叢養魚法、池邊有高陂、〔陂長六十歩、廣四十歩〕、當中築一釣臺。郁將亡、勅其長子煥日“葬我必近魚池”、煥爲起家於之北、去池四十歩。〔列植松篁于池側、郁所居也。又作石洑宅北、作小魚池。池長七十歩、廣二十歩。西枕大道、東北二邊限以高隄〕、皆種竹及長愀、芙蓉菱芡覆水、是遊宴名處也。

   〔習郁池:〕〔嚢陽の〕肩山の南のかた八百歩、西に道を下ること百歩に大魚池有り。漢の侍中の習郁は萢姦の養魚法に依る。池辺に高破有り、〔破は長さ六十歩、広さ四十歩〕、中に当たりて一釣壼を築く。郁の将に亡せんとするや、其の長子・換に勅して曰く“我を葬るに必らず魚池に近くせよ”と。喚は為に家を池の北、池を去ること四十歩に起つ。〔松篁を池側に列べ論う。郁の居りし所なり。又た石猷逗を作り、大池の水を痛風に引き、小魚池を作る。池は長さ七十歩、広さ二十歩。西は大道を枕にし、東北の二辺は限るに高論を以てし〕、皆な竹及び長椴を種え、芙蓉・菱茨は水を覆う。是れ遊宴の悪処なり。

 

   〔山簡〕山季倫鎮襄陽、毎臨此池、未嘗不大酔而還、恒日“此是我高陽池也”。襄陽城中小児歌之日“山公何所詣、往至高陽池’。日夕倒載歸。茗芋無所知。時時能騎馬、倒著白接離。擧鞭問葛彊、何如幷州児”。〔彊家在幷州、簡愛將也〕。

 

   山季倫はめんてい襄陽に鎮たりしとき、此の池に臨む毎に、未だ嘗て大いに酔いて還らざるなし。恒に曰く“此れ由れ我が高批の池なり”と。嚢陽の城中の小児は之を歌いて曰く“山公は何れの所にか詣る、往いて高峯池に至る。日夕に倒載せられて帰り、茗棄して知る所無し。時時に能く馬に騎るも、倒しまし白接離を著く。鞭を挙げて葛彊に問うらく、幷州の児に愛將”と。

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李白(改訂版) 《巻06-08 元丹丘歌》李白は秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。

 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoor『花間集』全詩訳注解説(改訂)-1溫庭筠53《巻2-03 遐方怨 二首之一》溫庭筠66首巻二3-〈53〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5462 
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 魚玄機全詩●花間集(6)●花間集(7)●花間集(8)●花間集(9)●花間集(10) 
 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
 魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻 
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170(改訂版) 《巻06-08 元丹丘歌》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <170> Ⅰ李白詩1382 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5458

 

年:731年開元十九年31

卷別:  卷一六六        文體:  雜言古詩

詩題:  元丹丘歌

作地點:        嵩山(都畿道 / 河南府 / 嵩山)

及地點:        嵩山 (都畿道 河南府嵩山) 別名:嵩高山、嵩、嵩丘、嵩高   

交遊人物:元丹丘        當地交遊(都畿道 河南府嵩山)

 

李白は少年時代、四川省にいた頃、処士東巌子といい者と岷山(ビンザン)に隠棲していたことがある。東巌子の素姓は不明だが、彼等の生活が十二分に道教的な色彩を帯びたものであったことは否めない。李白は20代後半から30代にかけ、しばしば隋州(湖北省)の胡紫陽の許に赴いた。胡紫陽の事蹟は李白の作「漢東紫陽先生碑銘」あり、ここに詳しく伝えられている。

 「胡紫陽は代々道士の家に生れ、九歳で出家し、十二歳から穀類を食うことをやめ(これが修行の第一段階である)、二十歳にして衡山(五嶽の一、南嶽、湖南省衡陽の北)に遊んだ。(この後は欠文があって判りにくいが、その後、召されて威儀及び天下採経使といふ道教の官に任ぜられ、隋州に飡霞楼を置いたなどのことが書かれている。)彼の道統は漢の三茅(茅盈、茅固、茅衷の三兄弟)、晋の許穆父子等に流を発し、その後、陳の陶弘景(陶隠居)、その弟子唐の王遠知(昇元先生)、その弟子潘師正(体元先生)、その弟子で李白とも交りのあった司馬承禎(貞一先生)を経て、李含光より伝はった。弟子は三千余人あったが、天宝の初、その高弟元丹邱はこれに嵩山(スウザン)及び洛陽に於いて伝籙をなさんことを乞うたが、病と称して往かぬといふ高潔の士であった。その後、いくばくもなくして玄宗に召されると、止むを得ないで赴いたが、まもなく疾と称して帝城を辞した。その去る時には王公卿士みな洛陽の龍門まで送ったが、葉県(河南省)まで来て、王喬(また王子喬、王子晋といい周の王子で仙人だったと)の祠に宿ったとき、しずかに仙化した。この年十月二十三日、隋州の新松山に葬った。時に年六十二歳であった。」

 と示しており、李白が紫陽と親交あり、紫陽の説教の十中の九を得たことをいっている。李白にはまた別に「隋州の紫陽先生の壁に題す」という詩があり、紫陽との交りを表している。しかし胡紫陽先生よりも、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。

元丹丘 《李太白集 巻六 巻06-08 元丹丘歌》元丹邱は李白が30歳前後に交際していた道士のひとり。李白はこの人物の詩を12編も書いているとおり、心から信服していたようだ。頴川は河南省を流れる川、元丹邱丘はこの川のほとりに別荘をもっていた、嵩岑は嵩山のこと、五岳のひとつで神聖な山とされた。

李白はこの年、秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。

胡紫陽、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。

李太白集

Category 詩題

作時

-No.

西暦 年号

06-08

1.元丹 

731年開元十九年

24-02

2.題元丹丘山居 

731年開元十九年

24-03

3.題元丹丘 陽山居 并序 

731年開元十九年

18-16

4.酬岑勛見尋就元丹丘對酒相待以詩見招

736年開元二十四年

02-08

5.將進酒 

736年開元二十四年

14-12

6. 潁陽別元丹丘之淮陽 

738年開元二十六年

23-55

7.觀元丹丘坐巫山屏風 

738年開元二十六年

06-07

8.西岳云台歌送丹丘子 

743年天寶二年

18-11

9.以詩代書答元丹丘 

744年天寶三年

24-08

10.題嵩山逸人元丹丘山居 并序 

750年天寶九年

22-02

11.尋高鳳石門山中元丹丘 

751年天寶十年

12-11

12.聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡

751年天寶十年

22-01

13.與元丹丘方城寺談玄作 

751年天寶十年

 以上の十三首である。

《巻06-08 元丹丘歌

(元丹邱をたたえる歌)

元丹丘,愛神仙。

元丹邱は神仙を愛した。長生不死の道術を修めている。

朝飲潁川之清流,暮還嵩岑之紫煙。

そこで、朝には、少室山に源としながれる清流は許由が耳の汚れとしてこの川で洗い清めた潁川の清流を飲み、夕べには、仙郷の紫煙がふかくたちこめる嵩山に帰って行く。

三十六峰長周旋,長周旋。

嵩山の三十六峰の間をのんびりとめぐりあるき、そしてまた、のんびりとめぐりあるくというものだった。

躡星虹,身騎飛龍耳生風。

これを続けるのは、星宿虹霓を踏みつけて、その身は飛龍に騎乗し、耳の穴から風雲を生じ、飛行自在に立ち回ったのである。

橫河跨海與天通,我知爾遊心無窮。

こうして嵩山の山中はおろか、ひとたび遠くに去れば、黄河を横切り、東海にマラガ里、果ては天空にも行くという。我々は彼の仙遊をする心持というもの無の境地の極みであり、自然に一体化することであるということを知るのである。

(元丹邱の歌)
元丹邱【げんたんきゅう】  神仙を愛す。
朝【あした】には頴川【えいせん】の清流を飲み、暮【くれ】には嵩岑【すうしん】の紫煙に還る。
三十六峰  長く周旋【しゅうせん】す、長く周旋す。

 星虹【せいこう】を躡【ふ】み、身は飛龍に騎って耳は風を生ず。
河を横ぎり海を跨【また】げて天と通じ、我れ知る  爾(なんじ)の遊心窮り無きを。

 

 

(改訂版) 《巻06-08 元丹丘歌》

『元丹丘歌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

元丹丘,愛神仙。

朝飲潁川之清流,暮還嵩岑之紫煙。

三十六峰長周旋,長周旋。

躡星虹,身騎飛龍耳生風。

橫河跨海與天通,我知爾遊心無窮。



(下し文)
(元丹邱の歌)

元丹邱【げんたんきゅう】  神仙を愛す。

朝【あした】には頴川【えいせん】の清流を飲み、暮【くれ】には嵩岑【すうしん】の紫煙に還る。

三十六峰  長く周旋【しゅうせん】す、長く周旋す。

 星虹【せいこう】を躡【ふ】み、身は飛龍に騎って耳は風を生ず。

河を横ぎり海を跨【また】げて天と通じ、我れ知る  爾(なんじ)の遊心窮り無きを。
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(現代語訳)
(元丹邱をたたえる歌)

元丹邱は神仙を愛した。長生不死の道術を修めている。

そこで、朝には、少室山に源としながれる清流は許由が耳の汚れとしてこの川で洗い清めた潁川の清流を飲み、夕べには、仙郷の紫煙がふかくたちこめる嵩山に帰って行く。

嵩山の三十六峰の間をのんびりとめぐりあるき、そしてまた、のんびりとめぐりあるくというものだった。

これを続けるのは、星宿虹霓を踏みつけて、その身は飛龍に騎乗し、耳の穴から風雲を生じ、飛行自在に立ち回ったのである。

こうして嵩山の山中はおろか、ひとたび遠くに去れば、黄河を横切り、東海にマラガ里、果ては天空にも行くという。我々は彼の仙遊をする心持というもの無の境地の極みであり、自然に一体化することであるということを知るのである。


(訳注)

《巻06-08 元丹丘歌》

李太白集 巻六 第八首目

元丹邱は李白が30歳前後に交際していた道士のひとり。李白はこの人物の詩を12編も書いているとおり、心から信服していたようだ。頴川は河南省を流れる川、元丹邱丘はこの川のほとりに別荘をもっていた、嵩岑は嵩山のこと、五岳のひとつで神聖な山とされた。

李白はこの年、秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。
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<!--[endif]-->

元丹丘,愛神仙。

元丹邱は神仙を愛した。長生不死の道術を修めている。

 

朝飲潁川之清流,暮還嵩岑之紫煙。

そこで、朝には、少室山に源としながれる清流は許由が耳の汚れとしてこの川で洗い清めた潁川の清流を飲み、夕べには、仙郷の紫煙がふかくたちこめる嵩山に帰って行く。

潁川 河南省臨潁(りんえい)県を流れる川。鄭州小室山付近に源を発し、淮河(わいが)に注ぐ。長さ約550キロ。隠士の許由が帝尭(ぎょう)に召されたが栄達を望まず、その話を耳の汚れとしてこの川で洗い清めたという。潁川(えいせん)

嵩岑 嵩山は、五岳の中にあるので中岳という。中国河南省登封市にある山岳群である。その山の二峰、東を太室と云い、西を少室という。南は登封に跨り、北は鞏邑に跨り、西は洛陽に跨り、東は密縣に跨る。その峰を千丈にすると一百五十余里。小室山は穎水の源。。最高峰は標高1440mの太室山である。古代から山岳信仰の場として有名で、北魏時代からは少林寺などの道教、仏教の道場が建立された。また、唐代には副都であった洛陽に近い事から、政府との結びつきが強く、ここを本拠地としていた潘師正、普寂、慧安などの道士、僧侶らが皇帝の崇敬を受け、道教、禅宗はそれぞれ自派を拡大した。

 

三十六峰長周旋,長周旋。

嵩山の三十六峰の間をのんびりとめぐりあるき、そしてまた、のんびりとめぐりあるくというものだった。

周旋 1 売買・交渉などで、当事者間に立って世話をすること。とりもち。なかだち。斡旋(あっせん)。「下宿を―する」2 事をとり行うために動きまわること。面倒をみること。3国際法上、国際紛争を平和的に解決するため、第三国が外部から紛争当事国の交渉をとりもって援助すること。4 ぐるぐると回ること。めぐりあるくこと。周遊。

 

躡星虹,身騎飛龍耳生風。

これを続けるのは、星宿虹霓を踏みつけて、その身は飛龍に騎乗し、耳の穴から風雲を生じ、飛行自在に立ち回ったのである。

 

橫河跨海與天通,我知爾遊心無窮。

こうして嵩山の山中はおろか、ひとたび遠くに去れば、黄河を横切り、東海にマラガ里、果ては天空にも行くという。我々は彼の仙遊をする心持というもの無の境地の極みであり、自然に一体化することであるということを知るのである。

中国の道教において、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を指す。羽人、僊人ともいう。道教の不滅の真理である、道(タオ)を体現した人とされる。仙人になるために修行をする者は「道士」(羽士)「方士」と呼ばれる。後世専ら、道士は道教修行者一般をさした。方士である徐福は秦の始皇帝の命を受けて東海の仙島に仙薬を求めて出航した。徐福は日本に逢着したともいわれ、日本各地に徐福伝説が残る。中国の軍師として知られる呂尚や諸葛亮なども仙術を修得していたと付会された。

なお、一般に仙人といえば白髯を生やした老人というイメージがあるが、韓湘子など若々しい容貌で語られる者や、西王母、麻姑仙人(仙女)などの女性の仙人の存在も多く伝えられている。

また、仙人は禁欲に徹する必要があるとする伝説もあり、たとえば久米仙人や一角仙人は色欲により神通力を失っている。

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李白(改訂版) 《巻06-12 梁園吟 -4》 とはいっても、酒ばかり飲んでいるわけにもいかず、むかし、謝安石が東山に隠棲したのとおなじように、世の人民を救おうという時が来れば起ちあがるのだ。この意欲があれば、遅すぎるはずはない。

 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    梁園吟

作地點:              宋城(河南道 / 宋州 / 宋城)

及地點:梁園 (河南道 宋州 宋城) 別名:梁苑             

平臺 (河南道 宋州 宋城)    

蓬池 (河南道 汴州 開封)    

信陵墳 (河南道 汴州 浚儀)              

九疑山 (江南西道 無第二級行政層級 九疑山) 別名:蒼梧山     

 

 

(改訂版)

梁園吟 -1

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

我浮黃雲去京闕,掛席欲進波連山。

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。

天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。

-2

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。

さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。

-3

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

そこで、楊梅にその塩をつけて食らい肴にし、酒を手にとって、ただただ飲めば、憂いなどさっぱり忘れ、愉快である。世の中が気にいらないと伯夷・叔斉が〝高潔さ〞にこだわることを真似などして、自分だけ高潔になってもどうしようもないことではないか。

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

そこで、試みにこの汴州梁州で、昔豪傑といわれた人々は、戦国では魏の信陵君、漢の時代は、梁の孝王を第一の貴人である。信陵君は食客三千人を致し、ひとたび起って秦軍を函谷関に追い詰めたし、漢の孝王は賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」に多くの賓客を集めていたのに、それはいきている間の事で、死後は、もとより、寂寞をまぬがれず、信陵君の墓地あとで、田畑を耕し種をまいているし、梁園を公園としか思っていない。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

荒れはてた都城を空しく照らすのは、青い山々にのぼった明るい月、世々を経た古木の梢いちめんにかかるのは、蒼梧の山から流れてきた白い雲により、愁色にとざされている。

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。

-4

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。

孝王は仙籍に登られたというので、枚乘司馬相如のいた時分には、ここ平台の地に歌舞を張ったというが、舞い姫の影も、歌い女の声も、清らかな池の水に散ってゆき、跡形もないようになり、あとに空しくのこったのは、汴水のみが滔々として東のかた海に流れ入るにすぎないのである。

沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

華の儚さを深く思えば、涙が衣服をぬらしつくす。黄金を惜しまず酒を買って酔い、まだまだ宿には帰れない。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

こうして、宴席は「五白よ五白よ」と梟(一の目)が出れば倍勝ちになり、五白のよい目を大声で連呼して、六博の賭けごとに興じあい、ふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれる。

歌且謠,意方遠。

かくて、組を分けて、酒を一杯ずつ賭けて、双六遊びをし、白日馳せゆくがごとく、時の間に酔いしれて、歌いかつ謡えば、心は、今こそ遠くあこがれゆく。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

とはいっても、酒ばかり飲んでいるわけにもいかず、むかし、謝安石が東山に隠棲したのとおなじように、世の人民を救おうという時が来れば起ちあがるのだ。この意欲があれば、遅すぎるはずはない。

(梁園吟)#1

我黄河に浮かんで京闕を去り、席を挂けて進まんと欲すれば波 山を連ぬ。

天は長く水は闊くして遠渉に厭き、古を訪うて始めて及ぶ平臺の間。

平臺に客と爲りて 憂思多く、酒に對して 遂に作す梁園の歌。

却って憶う 蓬池の阮公の詠、因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを。

2

洪波 浩蕩 舊國に迷い、路遠くして西歸 安んぞ得る可けんや。

人生 命に達すれば豈に愁るに暇あらんや、且つ美酒を飲んで高樓に登る。

平頭の奴子 大扇を搖かし、五月も熱せず 清秋かと疑う。

玉盤の楊梅 君が為に設け、呉塩は花の如く 白雪よりも唆し。

3

塩を持ち酒を把って但だ之を飲まん、學ぶを夷齊の高潔を事とする莫かれ。

昔人豪貴とす信陵君、今人 耕種す信陵の墳。

荒城虚しく照らす碧山の月、古木盡ことごとく入る蒼梧の雲。

粱王の宮闕今安くにか在る、枚馬 先づ歸って相い待たず。

4

舞影 歌聲 綠池に散じ、空しく抃水を餘し の東のかた 海に流る。

沈吟 此の事 涙衣に滿つ、黄金 醉を買うて 未だ歸る能はず。

五白を連呼し 六博を行い、曹を分かち 酒を賭して馳輝に酣【たけなわ】なり。

歌い且つ謠えば、意 方に遠し。

東山に高臥して時に起ち來る、蒼生を濟わんと欲するも 未だ應に晩からざるべし。

 

 

『梁園吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
--#4

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。

沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

歌且謠,意方遠。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。


(下し文) 4

舞影 歌聲 綠池に散じ、空しく抃水を餘し の東のかた 海に流る。

沈吟 此の事 涙衣に滿つ、黄金 醉を買うて 未だ歸る能はず。

五白を連呼し 六博を行い、曹を分かち 酒を賭して馳輝に酣【たけなわ】なり。

歌い且つ謠えば、意 方に遠し。

東山に高臥して時に起ち來る、蒼生を濟わんと欲するも 未だ應に晩からざるべし。

(現代語訳)
孝王は仙籍に登られたというので、枚乘司馬相如のいた時分には、ここ平台の地に歌舞を張ったというが、舞い姫の影も、歌い女の声も、清らかな池の水に散ってゆき、跡形もないようになり、あとに空しくのこったのは、汴水のみが滔々として東のかた海に流れ入るにすぎないのである。

華の儚さを深く思えば、涙が衣服をぬらしつくす。黄金を惜しまず酒を買って酔い、まだまだ宿には帰れない。

こうして、宴席は「五白よ五白よ」と梟(一の目)が出れば倍勝ちになり、五白のよい目を大声で連呼して、六博の賭けごとに興じあい、ふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれる。

かくて、組を分けて、酒を一杯ずつ賭けて、双六遊びをし、白日馳せゆくがごとく、時の間に酔いしれて、歌いかつ謡えば、心は、今こそ遠くあこがれゆく。

とはいっても、酒ばかり飲んでいるわけにもいかず、むかし、謝安石が東山に隠棲したのとおなじように、世の人民を救おうという時が来れば起ちあがるのだ。この意欲があれば、遅すぎるはずはない。


(訳注)

 

舞影歌聲散綠池,空汴水東流海

孝王は仙籍に登られたというので、枚乘司馬相如のいた時分には、ここ平台の地に歌舞を張ったというが、舞い姫の影も、歌い女の声も、清らかな池の水に散ってゆき、跡形もないようになり、あとに空しくのこったのは、汴水のみが滔々として東のかた海に流れ入るにすぎないのである。

○綠池-澄きった池。

○汴水-汴水べんすい。黄河から汴州(開封)をへて准水に到る。大運河通済渠の唐宋時代の呼称。

 

沉吟此事淚滿衣,黄金買醉未能歸

栄華の儚さを深く思えば、涙が衣服をぬらしつくす。黄金を惜しまず酒を買って酔い、まだまだ宿には帰れない。

 

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

こうして、宴席は「五白よ五白よ」と梟(一の目)が出れば倍勝ちになり、五白のよい目を大声で連呼して、六博の賭けごとに興じあい、ふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれる。

〇五白-賭博の札、黒く裏が白い六つのサイコロを投げて、すべて黒の場合(六枚すべて黒が最上、すべて白の場合〔五白)がその次、とする。

〇六博-賭博。二箇のコマを、六つずつに分けて質する。

〇分曹賭酒-二つのグループに分かれて酒の勝負をする。

《楚辞•招魂》九段 士女雜坐,亂而不分些。放組纓,班其相紛些。鄭衛妖玩,來雜陳些。《激楚》之結,獨秀先些。蓖蔽象棋,有六簿些;

分曹並進,遒相迫些。成梟而牟,呼五白些。晉制犀比,費白日些。鏗鍾搖虡,揳梓瑟些。

男女入り混じり坐して、入り乱れて区別なく、印綬の組紐や冠の平打ち紐を解き捨てて、バラバラに乱れ散っている。南の国の人を魅了する遊び女たちも、来てその間に交じって並ぶ。中でも激楚の曲の風を巻き結ぶ急激な舞い方が一人最も勝っている。玉で飾った双六の賽や象牙の駒で賭博をする。グループを敵味方に分けて、相対し、共に駒を進めて、急に相迫って、勝負する。梟(一の目)が出れば倍勝ちになり、五白のよい目を大声で呼ぶ。晋で造られた犀の角を鏤めた賽は白日に輝き、鐘を撞き、鐘掛け台が揺らぎ、梓の瑟を弾く。

○酣-酒興の盛んなさま。

○馳輝-馳けるように過ぎゆく日の光、時間。

 

酣馳輝,歌且謠,意方遠。

かくて、組を分けて、酒を一杯ずつ賭けて、双六遊びをし、白日馳せゆくがごとく、時の間に酔いしれて、歌いかつ謡えば、心は、今こそ遠くあこがれゆく。

○歌且謠-楽曲の伴奏に合わせてうたうのが「歌」、無伴奏が「謡」、とするのが古典的な解釈(『詩経』慧「園有桃」の「毛伝」)。ここでは、さまざまな歌いかたをする、の意。

 

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

とはいっても、酒ばかり飲んでいるわけにもいかず、むかし、謝安石が東山に隠棲したのとおなじように、世の人民を救おうという時が来れば起ちあがるのだ。この意欲があれば、遅すぎるはずはない。

○東山高臥-東晋の謝安(字は安石)が、朝廷からしばしば出仕を催されながら、東山に隠棲したま基易に承知しなかったこと。人々は、「安石出づる喜んぜずんは、将た蒼生(人民)を如何んせん」と言って心配した。(『世説新語』「排調、第二十五」の二六)。「高臥」は、世俗の欲望を離れて隠棲すること。

会稽東山の山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。謝安の芸妓を携えて東山始寧の別荘の南に楼があり、そこで漢の謝安の故事、朝廷の誘いに乗らず始寧の芸妓を携えて遊んだことにならい、芸妓を待っていたが来なかったときの感情を歌ったものである
『送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈』
攜妓東山去。 春光半道催。 
遙看若桃李。 雙入鏡中開。
 
姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り
妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。
(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。

送姪良携二妓赴会稽戯有此贈  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -287
○漢の謝安(字は安石)が始寧(会稽紹興市の東の上虞県の西南)に隠居して朝廷のお召しに応じなかったのは「東山高臥」といって有名な講である。山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。○携 佳人=美人=芸妓を携える。謝安の故事をふまえる。府城臥竜山南にあった白樓亭のこと。『会稽志卷第九』山府城の卧龍山府に其東麓に治据されていた。山陰陽經雲种山、また別名として重山は越大夫の种所葬られた太平御覧种山の名としたである。山南道で旧と傳えられる白楼亭は今の遺址は関連性からいうと不確かであるが、山頂にある城隍祠ああって、其の西南の越王台の下にある。

李白『贈僧崖公』「手秉玉麈尾, 如登白樓亭。」

会稽記 「浙江又東北、重山を径す、西山の上に白楼亭あり。」とある。

 

 

 

 

 

 

李白42 梁園吟

洛陽の下流、開封近くにある梁園に立ち寄った際の作。梁園とは前漢の文帝の子梁孝王が築いた庭園。詩にある平臺は梁園にあり、また阮籍は梁園付近の蓬池に遊んだ。李白はそうした史実を引用しながら、過去の栄華と今日の歓楽、そして未来への思いを重層的に歌い上げている。

 

雑言古詩 梁園吟

 

  我浮黄雲去京闕,掛席欲進波連山。

  天長水闊厭遠涉,訪古始及平台間。』

  平台爲客憂思多,對酒遂作梁園歌。

  卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水颺洪波。』

  洪波浩盪迷舊國,路遠西歸安可得。』

  人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

  平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。』

  玉盤楊梅爲君設,鹽如花皎白雪。

  持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。』

 

  昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

  荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。』

  梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

  舞影歌聲散綠池,空汴水東流海。』

  沉吟此事淚滿衣,黄金買醉未能歸。

  連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。』

  酣馳輝,歌且謠,意方遠。

  東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

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李白(改訂版) 《巻06-12 梁園吟 -3梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。

 

 
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 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    梁園吟

作地點:              宋城(河南道 / 宋州 / 宋城)

及地點:梁園 (河南道 宋州 宋城) 別名:梁苑             

平臺 (河南道 宋州 宋城)    

蓬池 (河南道 汴州 開封)    

信陵墳 (河南道 汴州 浚儀)              

九疑山 (江南西道 無第二級行政層級 九疑山) 別名:蒼梧山     

 

 

(改訂版)

梁園吟 -1

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

我浮黃雲去京闕,掛席欲進波連山。

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。

天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。

-2

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。

さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。

-3

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

そこで、楊梅にその塩をつけて食らい肴にし、酒を手にとって、ただただ飲めば、憂いなどさっぱり忘れ、愉快である。世の中が気にいらないと伯夷・叔斉が〝高潔さ〞にこだわることを真似などして、自分だけ高潔になってもどうしようもないことではないか。

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

そこで、試みにこの汴州梁州で、昔豪傑といわれた人々は、戦国では魏の信陵君、漢の時代は、梁の孝王を第一の貴人である。信陵君は食客三千人を致し、ひとたび起って秦軍を函谷関に追い詰めたし、漢の孝王は賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」に多くの賓客を集めていたのに、それはいきている間の事で、死後は、もとより、寂寞をまぬがれず、信陵君の墓地あとで、田畑を耕し種をまいているし、梁園を公園としか思っていない。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

荒れはてた都城を空しく照らすのは、青い山々にのぼった明るい月、世々を経た古木の梢いちめんにかかるのは、蒼梧の山から流れてきた白い雲により、愁色にとざされている。

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。

-4

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。

沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

歌且謠,意方遠。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

 

(梁園吟)#1

我黄河に浮かんで京闕を去り、席を挂けて進まんと欲すれば波 山を連ぬ。

天は長く水は闊くして遠渉に厭き、古を訪うて始めて及ぶ平臺の間。

平臺に客と爲りて 憂思多く、酒に對して 遂に作す梁園の歌。

却って憶う 蓬池の阮公の詠、因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを。

2

洪波 浩蕩 舊國に迷い、路遠くして西歸 安んぞ得る可けんや。

人生 命に達すれば豈に愁るに暇あらんや、且つ美酒を飲んで高樓に登る。

平頭の奴子 大扇を搖かし、五月も熱せず 清秋かと疑う。

玉盤の楊梅 君が為に設け、呉塩は花の如く 白雪よりも唆し。

3

塩を持ち酒を把って但だ之を飲まん、學ぶを夷齊の高潔を事とする莫かれ。

昔人豪貴とす信陵君、今人 耕種す信陵の墳。

荒城虚しく照らす碧山の月、古木盡ことごとく入る蒼梧の雲。

粱王の宮闕今安くにか在る、枚馬 先づ歸って相い待たず。

4

舞影 歌聲 綠池に散じ、空しく抃水を餘し の東のかた 海に流る。

沈吟 此の事 涙衣に滿つ、黄金 醉を買うて 未だ歸る能はず。

五白を連呼し 六博を行い、曹を分かち 酒を賭して馳輝に酣【たけなわ】なり。

歌い且つ謠えば、意 方に遠し。

東山に高臥して時に起ち來る、蒼生を濟わんと欲するも 未だ應に晩からざるべし。

 

 

『梁園吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
--3

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。


(下し文)3

塩を持ち酒を把って但だ之を飲まん、學ぶを夷齊の高潔を事とする莫かれ。

昔人豪貴とす信陵君、今人 耕種す信陵の墳。

荒城虚しく照らす碧山の月、古木盡ことごとく入る蒼梧の雲。

粱王の宮闕今安くにか在る、枚馬 先づ歸って相い待たず。
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(現代語訳)
そこで、楊梅にその塩をつけて食らい肴にし、酒を手にとって、ただただ飲めば、憂いなどさっぱり忘れ、愉快である。世の中が気にいらないと伯夷・叔斉が〝高潔さ〞にこだわることを真似などして、自分だけ高潔になってもどうしようもないことではないか。

そこで、試みにこの汴州梁州で、昔豪傑といわれた人々は、戦国では魏の信陵君、漢の時代は、梁の孝王を第一の貴人である。信陵君は食客三千人を致し、ひとたび起って秦軍を函谷関に追い詰めたし、漢の孝王は賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」に多くの賓客を集めていたのに、それはいきている間の事で、死後は、もとより、寂寞をまぬがれず、信陵君の墓地あとで、田畑を耕し種をまいているし、梁園を公園としか思っていない。

荒れはてた都城を空しく照らすのは、青い山々にのぼった明るい月、世々を経た古木の梢いちめんにかかるのは、蒼梧の山から流れてきた白い雲により、愁色にとざされている。

梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。



(訳注)#3

梁園吟

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

○梁園 梁苑。前漢の文帝の子、景帝の弟、梁孝王劉武が築いた庭園。現在の河南省開封府商丘市東南5kmに在った。宋の都となった。『史記』巻五十八「梁孝王世家」の「史記正義」「吟」は、詩歌の一体。この詩は、第一次在京期の後、長安を離れて梁園に遊んだおり、三十一歳の作と考えられる。梁の孝王が築いた園の名。現・河南省東部、商丘の東にある。竹が多く、修竹園とも呼ばれた。宮室の庭園。『史記・世家・梁孝王』に「孝王,竇太后少子也,愛之,賞賜不可勝道。於是孝王築東苑,方三百餘里。廣陽城七十里。」とある。王昌齡の『梁苑』「梁園秋竹古時煙,城外風悲欲暮天。萬乘旌旗何處在,平臺賓客有誰憐。

 

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

そこで、楊梅にその塩をつけて食らい肴にし、酒を手にとって、ただただ飲めば、憂いなどさっぱり忘れ、愉快である。世の中が気にいらないと伯夷・叔斉が〝高潔さ〞にこだわることを真似などして、自分だけ高潔になってもどうしようもないことではないか。

○夷斉-伯夷と叔斉の兄弟。殷周革命の際に・周の武重が武力によって殷の肘王を討つのを諌めた。周の世になってからは、首陽山に隠れて薇(野生のマメの槙)を採って食に充て、餓死して死んでしまった。儒教の「名分論」を体現する人物像として、伝承されている。史記列伝第一夷斉

伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は、古代中国・殷代末期の孤竹国(現在地不明、一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟である。高名な隠者で、儒教では聖人とされる。

一説には二人の姓は子、氏は墨胎、伯夷の諱は允・字は公信、叔斉の諱は智・字は公達で、夷・斉はそれぞれの諡であるとされる。なお、伯・叔は共に長幼の序列を示す字である。

伯夷が長男、叔斉は三男である。父親から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がそうとした。そこで伯夷は国を捨てて他国に逃れた。叔斉も位につかずに兄を追って出国してしまった。国王不在で困った国人は次男を王に立てた。

流浪の身となった二人は周の文王の良い評判を聞き、周へむかった。しかし、二人が周に到着したときにはすでに文王は亡くなっており、息子の武王が、呂尚を軍師に立て、悪逆で知られた帝辛(殷の紂王)を滅ぼそうと軍を起こし、殷に向かう途中だった。二人は道に飛び出し、馬を叩いて武王の馬車を止め「父上が死んで間もないのに戦をするのが孝と言えましょうか。主の紂王を討つのが、仁であると申せましょうか!」と諌めた。周囲の兵は怒り2人を殺そうとしたが、呂尚は「手出しをするな!正しい人たちだ」と叫び、2人を去らしめた。

戦乱ののち殷は滅亡し、武王が新王朝の周を立てた後、二人は周の粟を食べる事を恥として周の国から離れ、首陽山に隠棲して山菜を食べていたが、最後には餓死した。

○事高潔-臣下(武王)として主君(肘王)を討つべきではない、という「大義名分論」に殉じた高潔な事跡をいう。

 

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳

そこで、試みにこの汴州梁州で、昔豪傑といわれた人々は、戦国では魏の信陵君、漢の時代は、梁の孝王を第一の貴人である。信陵君は食客三千人を致し、ひとたび起って秦軍を函谷関に追い詰めたし、漢の孝王は賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」に多くの賓客を集めていたのに、それはいきている間の事で、死後は、もとより、寂寞をまぬがれず、信陵君の墓地あとで、田畑を耕し種をまいているし、梁園を公園としか思っていない。

○信陵君-戦国時代の讐昭王の公子、名は無忌。信陵(河南省寧陵)に封ぜられた。食客三千人を養い、讐助けて秦を破り、さらに十年後・五国の兵を率いて秦を破った。戦国の四公子(四君)の一人。

逸話 魏の公子と食客(信陵君・侯嬴・朱亥)

ある時、安釐王と囲碁(双六との説もある)を打っていた所、趙との国境から烽火が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけ」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと判断したのだが、これ以後の安釐王は信陵君の力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。

そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。その通り、信陵君は宴席を設けたが侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔もせず待っていた。そして宴席で信陵君は侯嬴を上席へと座らせた。他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯嬴朱亥と世間話をしていた理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑す一方で待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。

○信陵墳-『太平宴字記』によれば、その墓は開封府の富県の「南十二里」にあるという。

 

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

荒れはてた都城を空しく照らすのは、青い山々にのぼった明るい月、世々を経た古木の梢いちめんにかかるのは、蒼梧の山から流れてきた白い雲により、愁色にとざされている。

○蒼梧雲-『芸文類衆』「雲」に所引の『帰蔵』に、「白雲は蒼梧自り大梁に入る」とあるのをふまえたもの=蒼梧」は、現在の湖南省南部にぁる山の名。一名「九疑山」。三皇五帝の舜が亡くなったところといわれている。

 

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待

梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。

〇枚馬-前漢時代の文学者、枚乘と司馬相如。ともに梁苑に来訪して、梁王の栄華に彩りを添えた。「梁園の賓客」とよばれた。

枚乗(ばい じょう、未詳~前140)は、前漢の人。字は叔。淮陰(江蘇省淮安市)の人。賦や文章を得意とした遊説の徒。

呉王劉濞の郎中となっていたが、呉王が漢に対し恨みを持ち反逆しようとすると、枚乗は上書してそれを諌めた。しかしながら呉王はそれを取り上げなかったので、枚乗は呉を去って梁へ行き、梁王劉武の元に就いた。

景帝が即位すると、御史大夫晁錯が漢の制度を定めると共に諸侯王を抑える政策を行った。景帝前3年(紀元前154年)に呉王はついに他の六国と共に反乱を起こし(呉楚七国の乱)、晁錯の誅殺を反乱の名目に掲げた。漢はそれを知ると晁錯を殺して諸侯に謝罪した。枚乗は再び呉王に対し書を奉り、速やかに兵を帰還させることを説いたが呉王は用いず、反乱は失敗に終わり呉王は滅びた。

反乱の後、枚乗は有名になり、景帝は彼を弘農郡都尉に任命した。しかし大国の賓客となって英俊たちと遊説し、望むものを得る事ができていた彼は役人となることを喜ばず、病気と称して官を辞して再度梁の賓客となった。梁の賓客の中でも彼が最も賦に長じていた。

梁王劉武が死亡すると、枚乗は故郷の淮陰に帰った。

その後、武帝が即位すると、皇太子時代から枚乗の名を聞いていた武帝は、老年の枚乗を安車蒲輪(座って乗れて揺れの少ない馬車)で召し出したが、枚乗はその途上で死亡した。

子の枚皋も賦に優れ、武帝に仕えて多くの賦を残した。

なお、『文選』に枚乗の作品である「七発」が収録されている。

司馬相如 司馬 相如(しば しょうじょ、紀元前179 - 紀元前117年)は、中国の前漢の頃の文章家である。蜀郡成都の人。字は長卿(ちょうけい)。名は、もと犬子(けんし)と言った。

賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。また妻である卓文君との恋愛も有名である。

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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    梁園吟

作地點:              宋城(河南道 / 宋州 / 宋城)

及地點:梁園 (河南道 宋州 宋城) 別名:梁苑             

平臺 (河南道 宋州 宋城)    

蓬池 (河南道 汴州 開封)    

信陵墳 (河南道 汴州 浚儀)              

九疑山 (江南西道 無第二級行政層級 九疑山) 別名:蒼梧山     

 

 

(改訂版)

梁園吟 -1

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

我浮黃雲去京闕,掛席欲進波連山。

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。

天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。

-2

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。

さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。

-3

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

-4

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。

沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

歌且謠,意方遠。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

 

(梁園吟)#1

我黄河に浮かんで京闕を去り、席を挂けて進まんと欲すれば波 山を連ぬ。

天は長く水は闊くして遠渉に厭き、古を訪うて始めて及ぶ平臺の間。

平臺に客と爲りて 憂思多く、酒に對して 遂に作す梁園の歌。

却って憶う 蓬池の阮公の詠、因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを。

2

洪波 浩蕩 舊國に迷い、路遠くして西歸 安んぞ得る可けんや。

人生 命に達すれば豈に愁るに暇あらんや、且つ美酒を飲んで高樓に登る。

平頭の奴子 大扇を搖かし、五月も熱せず 清秋かと疑う。

玉盤の楊梅 君が為に設け、呉塩は花の如く 白雪よりも唆し。

3

塩を持ち酒を把って但だ之を飲まん、學ぶを夷齊の高潔を事とする莫かれ。

昔人豪貴とす信陵君、今人 耕種す信陵の墳。

荒城虚しく照らす碧山の月、古木盡ことごとく入る蒼梧の雲。

粱王の宮闕今安くにか在る、枚馬 先づ歸って相い待たず。

4

舞影 歌聲 綠池に散じ、空しく抃水を餘し の東のかた 海に流る。

沈吟 此の事 涙衣に滿つ、黄金 醉を買うて 未だ歸る能はず。

五白を連呼し 六博を行い、曹を分かち 酒を賭して馳輝に酣【たけなわ】なり。

歌い且つ謠えば、意 方に遠し。

東山に高臥して時に起ち來る、蒼生を濟わんと欲するも 未だ應に晩からざるべし。

 

 

『梁園吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
-2

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。


(下し文) 2

洪波 浩蕩 舊國に迷い、路遠くして西歸 安んぞ得る可けんや。

人生 命に達すれば豈に愁るに暇あらんや、且つ美酒を飲んで高樓に登る。

平頭の奴子 大扇を搖かし、五月も熱せず 清秋かと疑う。

玉盤の楊梅 君が為に設け、呉塩は花の如く 白雪よりも唆し。

(現代語訳)
さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。


(訳注)#2

梁園吟

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

○梁園 梁苑。前漢の文帝の子、景帝の弟、梁孝王劉武が築いた庭園。現在の河南省開封府商丘市東南5kmに在った。宋の都となった。『史記』巻五十八「梁孝王世家」の「史記正義」「吟」は、詩歌の一体。この詩は、第一次在京期の後、長安を離れて梁園に遊んだおり、三十一歳の作と考えられる。梁の孝王が築いた園の名。現・河南省東部、商丘の東にある。竹が多く、修竹園とも呼ばれた。宮室の庭園。『史記・世家・梁孝王』に「孝王,竇太后少子也,愛之,賞賜不可勝道。於是孝王築東苑,方三百餘里。廣陽城七十里。」とある。王昌齡の『梁苑』「梁園秋竹古時煙,城外風悲欲暮天。萬乘旌旗何處在,平臺賓客有誰憐。

 

洪波浩盪迷舊國,路遠西歸安可得。

さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

○浩蕩 水の広がるさま。

○旧国 旧い都の地。梁園のあった商丘地方が、先秦時代の宋国、漢の梁国など、旧くからの都だったので、こう表現した。一説に、長安をさすとする。

 

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

○達命 自己の天命に通達する。

○豈暇愁 (愁えている暇がない)。

 

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

○平頭奴子-上の平らな頭巾をかぶった下僕、召使い。ただし異説も多い。

 

玉盤楊梅爲君設,鹽如花皎白雪。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。

○楊梅-ヤマモモの頼。

〇皎-白く光るさま。

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169 -1(改訂版) 《巻06-12 梁園吟 -1Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <169 -1> Ⅰ李白詩1378 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5438

 

 

年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    梁園吟

作地點:宋城(河南道 / 宋州 / 宋城)

及地點:梁園 (河南道 宋州 宋城) 別名:梁苑             

平臺 (河南道 宋州 宋城)    

蓬池 (河南道 汴州 開封)    

信陵墳 (河南道 汴州 浚儀)              

九疑山 (江南西道 無第二級行政層級 九疑山) 別名:蒼梧山     

 

 

(改訂版)

梁園吟 -1

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

我浮黃雲去京闕,掛席欲進波連山。

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。

天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。-2

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。

-3

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

-4

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。

沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

歌且謠,意方遠。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

 

(梁園吟)#1

我黄河に浮かんで京闕を去り、席を挂けて進まんと欲すれば波 山を連ぬ。

天は長く水は闊くして遠渉に厭き、古を訪うて始めて及ぶ平臺の間。

平臺に客と爲りて 憂思多く、酒に對して 遂に作す梁園の歌。

却って憶う 蓬池の阮公の詠、因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを。

2

洪波 浩蕩 舊國に迷い、路遠くして西歸 安んぞ得る可けんや。

人生 命に達すれば豈に愁るに暇あらんや、且つ美酒を飲んで高樓に登る。

平頭の奴子 大扇を搖かし、五月も熱せず 清秋かと疑う。

玉盤の楊梅 君が為に設け、呉塩は花の如く 白雪よりも唆し。

3

塩を持ち酒を把って但だ之を飲まん、學ぶを夷齊の高潔を事とする莫かれ。

昔人豪貴とす信陵君、今人 耕種す信陵の墳。

荒城虚しく照らす碧山の月、古木盡ことごとく入る蒼梧の雲。

粱王の宮闕今安くにか在る、枚馬 先づ歸って相い待たず。

4

舞影 歌聲 綠池に散じ、空しく抃水を餘し の東のかた 海に流る。

沈吟 此の事 涙衣に滿つ、黄金 醉を買うて 未だ歸る能はず。

五白を連呼し 六博を行い、曹を分かち 酒を賭して馳輝に酣【たけなわ】なり。

歌い且つ謠えば、意 方に遠し。

東山に高臥して時に起ち來る、蒼生を濟わんと欲するも 未だ應に晩からざるべし。

 

(含異文)

我浮黃雲去京闕【我浮黃河去京闕】,掛席欲進波連山。天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。

 

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。

 

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔【何用孤高比雲月】。昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

 

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

歌且謠,意方遠。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

 

 

『梁園吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

梁園吟

我浮黃雲去京闕,掛席欲進波連山。

天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。


(下し文)
(梁園吟)#1

我黄河に浮かんで京闕を去り、席を挂けて進まんと欲すれば波 山を連ぬ。

天は長く水は闊くして遠渉に厭き、古を訪うて始めて及ぶ平臺の間。

平臺に客と爲りて 憂思多く、酒に對して 遂に作す梁園の歌。

却って憶う 蓬池の阮公の詠、因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを。

(現代語訳)
(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。


(訳注)

梁園吟

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

○梁園 梁苑。前漢の文帝の子、景帝の弟、梁孝王劉武が築いた庭園。現在の河南省開封府商丘市東南5kmに在った。宋の都となった。『史記』巻五十八「梁孝王世家」の「史記正義」「吟」は、詩歌の一体。この詩は、第一次在京期の後、長安を離れて梁園に遊んだおり、三十一歳の作と考えられる。梁の孝王が築いた園の名。現・河南省東部、商丘の東にある。竹が多く、修竹園とも呼ばれた。宮室の庭園。『史記・世家・梁孝王』に「孝王,竇太后少子也,愛之,賞賜不可勝道。於是孝王築東苑,方三百餘里。廣陽城七十里。」とある。王昌齡の『梁苑』「梁園秋竹古時煙,城外風悲欲暮天。萬乘旌旗何處在,平臺賓客有誰憐。

 

我浮黄雲去京闕,掛席欲進波連山。

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。。

○黄雲 黄河のはてで雲がと一体になる謝靈運『擬魏太子鄴中集詩八首 阮瑀』 「河洲多沙塵,風悲黃雲起。」黄河流域の挨塵の色の黄なるものが雲のように湧き上がることを云う。といい、淮南子には「黄泉の浜は上りて黄雲となる」とある。擬魏太子鄴中集詩八首 阮瑀》 謝靈運 六朝詩<84-2 劉楨 795 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2523

○京闕 都、長安。

○掛席-船に帆(席)を掛ける。船旅をする。「席」はイグサの筵で織った席の帆。

○波連山 大波が山を連ねたように湧き立つ。木筆の「海賦」(『文選』巻十九)に「波は山を連ぬるが如し」とある。

 

天長水闊厭遠涉,訪古始及平台間。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

○遠渉 遠い旅路。

○平台 漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台。もとは、春秋時代の宋の平公が築かせた。場所は、現在の商丘市の東北(虞城県の西約二〇キロ)とされる。《漢書》卷四十七,梁孝王「大治宮室,為復道(樓閣之間架空的通道),自宮連屬於平臺三十餘里」。據古人注釋,那平臺「在大梁東北,其處寬博,土俗云平臺也」。

 

平台爲客憂思多,對酒遂作梁園歌

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

○遂 動作や行為がスムーズに進むことを表わす副詞。「すぐさま・たやすく・かくして」などの意。

 

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水颺洪波。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。

○蓬池阮公詠 魏の阮籍の「詠懐詩、其の十六〔陳伯君『阮籍集校注』(中華書局)による〕」に、「蓬池(梁園付近の池)の上を徘徊し、還って大梁(開封)を望む」とあるのをさす。「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。走獸交橫馳、飛鳥相隨翔。是時鶉火中、日月正相望。朔風厲嚴寒,陰氣下微霜。羈旅無疇匹,俛仰懷哀傷。」

阮籍. 阮 籍(げん せき、210年(建安15年) - 263年(景元4年))は、中国三国時代の人物。字(あざな)を嗣宗、兗州陳留郡尉氏の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は建安七子の一人である阮瑀。甥の阮咸も竹林の七賢の一人である。子は阮渾。

『晋書』によると、阮籍は世の人を救う志を持っていた。しかし当時、司馬氏による帝位簒奪が進む中、政争で命を落とす者が相次いでいた。竹林の七賢の一人で、阮籍と仲のよかった嵆康もまた、鍾会に陥れられ殺された。そこで阮籍は政争にかかわらず、酒浸りの生活をする道を選んだという。司馬昭はそんな阮籍を「至慎(もっとも慎み深い)」と評した。

263年、蜀漢征伐の途上で司馬昭を晋公に封じる詔勅が下された。司馬昭が型の通り辞退したため、封爵を勧める勧進文が司空の鄭沖らにより提出された。この時、鄭沖は阮籍に勧進文の草稿を命じた。阮籍はそれに従い草稿を提出した[1]。阮籍はその年の冬に亡くなった。

老荘思想を理想とし、その著作の『大人先生伝』・『達荘論』に老荘思想が十分に見て取れる。詩では「詠懐詩」82首が有名で、陶淵明の「飲酒」・李白の「古風」など、五言詩の連作の先駆けである。深い思索に基づき格調高く、全編が人間社会の悲哀に満ちている。また、琴をよく弾いた。

○淥水颺洪波-同じく「其の十六」の詩句。「淥水」は青く澄んだ水や川や池。

140-#3 《邠(豳)歌行上新平長史兄粲》Index-10 Ⅱ―5-730年開元十八年30歳 李白<140-#3> Ⅰ李白詩1327 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5183

李白《邠()歌行上新平長史兄粲》-#3これは人生のことであり、前に栄華を極めたものが、後には枯落するというもので、翻覆というものは常ならんもので、自分も今不遇の境遇にあるから、貴兄との義兄弟のよしみで、餘光を借りるを許して、どうか引き立ててもらいたいと思っている。

 
 2014年11月28日の紀頌之5つのブログ 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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140-#3 《邠(豳)歌行上新平長史兄粲》Index-10 Ⅱ―5-730年開元十八年30歳 李白<140-#3> Ⅰ李白詩1327 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5183 
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27-#11 《此日足可惜贈張籍-11》韓愈(韓退之)ID <1240> Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5184 
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 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
 孟郊張籍     
 ●杜甫の全作品1500首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 魚玄機全詩●花間集(6)●花間集(7)●花間集(8)●花間集(9)●花間集(10) 
 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
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年:730年開元十八年30

卷別:    卷一六六              文體:    七言古詩

詩題:    ()歌行上新平長史兄粲

作地點:              邠州(京畿道 / 邠州 / 邠州)

及地點:             

邠州 (京畿道 邠州 邠州) 別名:桂陽、新平、豳         

邠谷 (京畿道 邠州 邠州)    

交遊人物:李粲    當地交遊(京畿道 邠州 邠州)

 

 

()歌行上新平長史兄粲

(新平郡の長史である族兄の李粲というものに贈ったもの)

邠谷稍稍振庭柯,涇水浩浩揚湍波。

秋の季節もいい時季に、身は依然として、邠州の谷間に寓居しているが、庭には木樹は、葉が落ちつくして枝だけがにょきにょきと交差している。涇水は漲って早瀬の波をうって流れている。

哀鴻酸嘶暮聲急,愁雲蒼慘寒氣多。

その時、大雁は夕暮れにあたって悲しい声を残して飛んでゆく、雲は愁いを重ねる様に深く立ち込めて、そぞろに寒さを覚える。

憶昨去家此為客,荷花初紅柳條碧。

前日、家を去って、この地に来たので、その時は蓮の花が初めて紅の花を咲かせ、柳の枝葉が青く繁っていた。

(邠【ひん】歌行、新平の長史 兄粲【けいさん】に上【たてまつ】る)

邠谷 稍稍として 庭柯を振い,涇水 浩浩として 湍波を揚ぐ。

哀鴻【あいこう】酸嘶【さんせい】暮聲 急なり,愁雲 蒼慘 寒氣多し。

憶う 昨 去家をって此に客と為り,荷花 初めて紅にして 柳條 碧なり。

 

-#2

中宵出飲三百杯,明朝歸揖二千石。

ここに滞在している間、夜ごと,市中に出て宵の間に三百杯の酒を呑み、翌朝になれば、この州の長史である貴兄に会釈し、普通に仕事をこなしたのである。

寧知流寓變光輝,胡霜蕭颯繞客衣。

而も、この地に流寓している間に、太陽と月の輝きが変動し、北の国境の先の異民族地に霜が降り雪が降り、寒風が吹きつけるようになって、旅人の衣を廻るようになった。

寒灰寂寞憑誰暖,落葉飄揚何處歸。

火桶もすぐに灰になり、部屋は悲惨な状態になってしまう、誰も火を継ぎ足したり、暖かくしてくれる人があろうか、落ち葉は突風に吹かれて、飄颻として何処へ飛んでゆくのだろうか、帰って来ることはない。

-#2

中宵【ちゅうしょう】出でて 飲む 三百杯,明朝歸って 揖【ゆう】す 二千石。

寧ろ知らん 流寓 光輝を變じ,胡霜 蕭颯 客衣を繞るを。

寒灰 寂寞として 誰に憑ってか暖めん,落葉 飄揚として 何處にか歸る。
 

-#3

吾兄行樂窮曛旭,滿堂有美顏如玉。

このように、時節の移り変わりは、どうしようもないことで、我々は貴兄に薦めるのは、だからこそ、朝に、夕に行楽を極めることがよろしいと思うし、珠のように麗しい妓女たちがこの奥座敷にはいっぱいいるのだからなおさらであろう。

趙女長歌入綵雲,燕醉舞嬌紅燭。

趙の女は歌が上手で、その歌声は仙郷の彩雲まで届くし、燕の姫妓が酔うて踊るさまは紅燭に映じてとても艶めかしく見える。

狐裘獸炭酌流霞,壯士悲吟寧見嗟。

そこで秋の終わりになったので、狐裘の暖かい着物を着こんで、獸炭で酒を温めて流霞の盃を浮かべて痛飲すべく、壯士の悲吟をまねて、長嗟するにも及ばない。

前榮後枯相翻覆,何惜餘光及棣華。

これは人生のことであり、前に栄華を極めたものが、後には枯落するというもので、翻覆というものは常ならんもので、自分も今不遇の境遇にあるから、貴兄との義兄弟のよしみで、餘光を借りるを許して、どうか引き立ててもらいたいと思っている。

-#3

吾が兄 行樂 曛旭を窮めよ,滿堂 美有り 顏 玉の如し。

趙の女 長歌して 綵雲に入り,燕の 醉舞して 紅燭嬌なり。

狐裘 獸炭 流霞を酌み,壯士 悲吟 寧ろ 嗟せらる。

前榮後枯 相い翻覆し,何ぞ惜まん 餘光の棣華に及ぶを。

邠州亰兆府00 

 

『邠()歌行上新平長史兄粲』 現代語訳と訳註解説

(本文) -3

吾兄行樂窮曛旭,滿堂有美顏如玉。

趙女長歌入綵雲,燕醉舞嬌紅燭。

狐裘獸炭酌流霞,壯士悲吟寧見嗟。

前榮後枯相翻覆,何惜餘光及棣華。

 

(下し文) -3

吾が兄 行樂 曛旭を窮めよ,滿堂 美有り 顏 玉の如し。

趙の女 長歌して 綵雲に入り,燕の 醉舞して 紅燭嬌なり。

狐裘 獸炭 流霞を酌み,壯士 悲吟 寧ろ 嗟せらる。

前榮後枯 相い翻覆し,何ぞ惜まん 餘光の棣華に及ぶを。

 

(現代語訳)

このように、時節の移り変わりは、どうしようもないことで、我々は貴兄に薦めるのは、だからこそ、朝に、夕に行楽を極めることがよろしいと思うし、珠のように麗しい妓女たちがこの奥座敷にはいっぱいいるのだからなおさらであろう。

趙の女は歌が上手で、その歌声は仙郷の彩雲まで届くし、燕の姫妓が酔うて踊るさまは紅燭に映じてとても艶めかしく見える。

そこで秋の終わりになったので、狐裘の暖かい着物を着こんで、獸炭で酒を温めて流霞の盃を浮かべて痛飲すべく、壯士の悲吟をまねて、長嗟するにも及ばない。

これは人生のことであり、前に栄華を極めたものが、後には枯落するというもので、翻覆というものは常ならんもので、自分も今不遇の境遇にあるから、貴兄との義兄弟のよしみで、餘光を借りるを許して、どうか引き立ててもらいたいと思っている。

 

華州から秦州同谷成都00 (訳注) -#2

()歌行上新平長史兄粲

(新平郡の長史である族兄の李粲というものに贈ったもの)

○邠() 周の先祖公劉が初めて都としたところ。邠州は、いにしえの豳国、西魏、豳州を置き、後周、隋の時も個の名称であった。唐開元十三年、邠州とし、天寶三載、新平郡とした。

○長史 州の佐職で、今でいえば県の理事官程度のものである。

 

吾兄行樂窮曛旭,滿堂有美顏如玉。

このように、時節の移り変わりは、どうしようもないことで、我々は貴兄に薦めるのは、だからこそ、朝に、夕に行楽を極めることがよろしいと思うし、珠のように麗しい妓女たちがこの奥座敷にはいっぱいいるのだからなおさらであろう。

○曛旭 朝に、夕に。

 

趙女長歌入綵雲,燕醉舞嬌紅燭。

趙の女は歌が上手で、その歌声は仙郷の彩雲まで届くし、燕の姫妓が酔うて踊るさまは紅燭に映じてとても艶めかしく見える。

○趙 現在の山西省と河北省の一部を指す。 戦国七雄の1つの趙国。

○燕 戦国七雄の一つ。河北省北部、現在の北京を中心とする土地を支配した。首都は薊(けい)で、現在の北京にあたる。

 

狐裘獸炭酌流霞,壯士悲吟寧見嗟。

そこで秋の終わりになったので、狐裘の暖かい着物を着こんで、獸炭で酒を温めて流霞の盃を浮かべて痛飲すべく、壯士の悲吟をまねて、長嗟するにも及ばない。

○獸炭 ① 粉炭をねって獣の形に作ったたどん。 活性炭の一種。獣の血・肉・骨などを乾留して作った黒色の炭素質の物質の総称。吸着剤として,薬用または脱臭・脱色用に用いる。骨炭・血炭など。

○流霞 李白『遊泰山.六首其一』「遺我流霞盃」(我に流霞【りゅうか】の盃を遺る。)

 

前榮後枯相翻覆,何惜餘光及棣華。

これは人生のことであり、前に栄華を極めたものが、後には枯落するというもので、翻覆というものは常ならんもので、自分も今不遇の境遇にあるから、貴兄との義兄弟のよしみで、餘光を借りるを許して、どうか引き立ててもらいたいと思っている。

○餘光 ① あとまで残る光。 先人の名声が,のちにまで影響を与えること。余徳。おかげ。

○棣華 兄弟愛の美しさを詠うもの、「常棣」じょうていの冒頭にある「常棣の華」のことです。『詩経』小雅・鹿鳴之什「常棣之華、鄂不、凡今之人、莫如兄弟」
李白図102 

140-#2 《邠(豳)歌行上新平長史兄粲》Index-10 Ⅱ―5-730年開元十八年30歳 李白<140-#2> Ⅰ李白詩1326 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5178

李白《邠()歌行上新平長史兄粲》-#2 ここに滞在している間、夜ごと,市中に出て宵の間に三百杯の酒を呑み、翌朝になれば、この州の長史である貴兄に会釈し、普通に仕事をこなしたのである。

 
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140-#2 《邠()歌行上新平長史兄粲》Index-10 Ⅱ―5-730年開元十八年30歳 李白<140-#2> Ⅰ李白詩1326 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5178

 

 

年:730年開元十八年30

卷別:    卷一六六              文體:    七言古詩

詩題:    ()歌行上新平長史兄粲

作地點:              邠州(京畿道 / 邠州 / 邠州)

及地點:             

邠州 (京畿道 邠州 邠州) 別名:桂陽、新平、豳         

邠谷 (京畿道 邠州 邠州)    

交遊人物:李粲    當地交遊(京畿道 邠州 邠州)

 

 

()歌行上新平長史兄粲

(新平郡の長史である族兄の李粲というものに贈ったもの)

邠谷稍稍振庭柯,涇水浩浩揚湍波。

秋の季節もいい時季に、身は依然として、邠州の谷間に寓居しているが、庭には木樹は、葉が落ちつくして枝だけがにょきにょきと交差している。涇水は漲って早瀬の波をうって流れている。

哀鴻酸嘶暮聲急,愁雲蒼慘寒氣多。

その時、大雁は夕暮れにあたって悲しい声を残して飛んでゆく、雲は愁いを重ねる様に深く立ち込めて、そぞろに寒さを覚える。

憶昨去家此為客,荷花初紅柳條碧。

前日、家を去って、この地に来たので、その時は蓮の花が初めて紅の花を咲かせ、柳の枝葉が青く繁っていた。

(邠【ひん】歌行、新平の長史 兄粲【けいさん】に上【たてまつ】る)

邠谷 稍稍として 庭柯を振い,涇水 浩浩として 湍波を揚ぐ。

哀鴻【あいこう】酸嘶【さんせい】暮聲 急なり,愁雲 蒼慘 寒氣多し。

憶う 昨 去家をって此に客と為り,荷花 初めて紅にして 柳條 碧なり。

 

-#2

中宵出飲三百杯,明朝歸揖二千石。

ここに滞在している間、夜ごと,市中に出て宵の間に三百杯の酒を呑み、翌朝になれば、この州の長史である貴兄に会釈し、普通に仕事をこなしたのである。

寧知流寓變光輝,胡霜蕭颯繞客衣。

而も、この地に流寓している間に、太陽と月の輝きが変動し、北の国境の先の異民族地に霜が降り雪が降り、寒風が吹きつけるようになって、旅人の衣を廻るようになった。

寒灰寂寞憑誰暖,落葉飄揚何處歸。

火桶もすぐに灰になり、部屋は悲惨な状態になってしまう、誰も火を継ぎ足したり、暖かくしてくれる人があろうか、落ち葉は突風に吹かれて、飄颻として何処へ飛んでゆくのだろうか、帰って来ることはない。

-#2

中宵【ちゅうしょう】出でて 飲む 三百杯,明朝歸って 揖【ゆう】す 二千石。

寧ろ知らん 流寓 光輝を變じ,胡霜 蕭颯 客衣を繞るを。

寒灰 寂寞として 誰に憑ってか暖めん,落葉 飄揚として 何處にか歸る。

 

-#3

吾兄行樂窮曛旭,滿堂有美顏如玉。

趙女長歌入綵雲,燕醉舞嬌紅燭。

狐裘獸炭酌流霞,壯士悲吟寧見嗟。

前榮後枯相翻覆,何惜餘光及棣華。

 

 

-#3

吾が兄 行樂 曛旭を窮めよ,滿堂 美有り 顏 玉の如し。

趙の女 長歌して 綵雲に入り,燕の 醉舞して 紅燭嬌なり。

狐裘 獸炭 流霞を酌み,壯士 悲吟 寧ろ 嗟せらる。

前榮後枯 相い翻覆し,何ぞ惜まん 餘光の棣華に及ぶを。

 

華州から秦州同谷成都00

『邠()歌行上新平長史兄粲』 現代語訳と訳註解説

(本文) -#2

中宵出飲三百杯,明朝歸揖二千石。

寧知流寓變光輝,胡霜蕭颯繞客衣。

寒灰寂寞憑誰暖,落葉飄揚何處歸。

 

(下し文) -#2

中宵【ちゅうしょう】出でて 飲む 三百杯,明朝歸って 揖【ゆう】す 二千石。

寧ろ知らん 流寓 光輝を變じ,胡霜 蕭颯 客衣を繞るを。

寒灰 寂寞として 誰に憑ってか暖めん,落葉 飄揚として 何處にか歸る。

 

(現代語訳)

ここに滞在している間、夜ごと,市中に出て宵の間に三百杯の酒を呑み、翌朝になれば、この州の長史である貴兄に会釈し、普通に仕事をこなしたのである。

而も、この地に流寓している間に、太陽と月の輝きが変動し、北の国境の先の異民族地に霜が降り雪が降り、寒風が吹きつけるようになって、旅人の衣を廻るようになった。

火桶もすぐに灰になり、部屋は悲惨な状態になってしまう、誰も火を継ぎ足したり、暖かくしてくれる人があろうか、落ち葉は突風に吹かれて、飄颻として何処へ飛んでゆくのだろうか、帰って来ることはない。

邠州亰兆府00 

 (訳注) -#2

()歌行上新平長史兄粲

(新平郡の長史である族兄の李粲というものに贈ったもの)

() 周の先祖公劉が初めて都としたところ。邠州は、いにしえの豳国、西魏、豳州を置き、後周、隋の時も個の名称であった。唐開元十三年、邠州とし、天寶三載、新平郡とした。

長史 州の佐職で、今でいえば県の理事官程度のものである。

 

 

中宵出飲三百杯,明朝歸揖二千石。

ここに滞在している間、夜ごと,市中に出て宵の間に三百杯の酒を呑み、翌朝になれば、この州の長史である貴兄に会釈し、普通に仕事をこなしたのである。

○三百杯、二千石 一回の飲酒の席では、三百杯飲む。李白將進酒會須一飮三百杯後漢・経学家の鄭玄は、袁紹が催した送別の宴席で、三百杯を飲んで酔わなかったという。

李白月下獨酌四首 其四《月下獨酌四首 其四》「窮愁千萬端,美酒三百杯。」李白と道教48襄陽歌「百年三萬六千日,一日須傾三百杯」

李延年は協律都尉に任命されて二千石の印綬を帯び、武帝と寝起きを共にするほど寵愛された。

 

寧知流寓變光輝,胡霜蕭颯繞客衣。

而も、この地に流寓している間に、太陽と月の輝きが変動し、北の国境の先の異民族地に霜が降り雪が降り、寒風が吹きつけるようになって、旅人の衣を廻るようになった。

 

寒灰寂寞憑誰暖,落葉飄揚何處歸。

火桶もすぐに灰になり、部屋は悲惨な状態になってしまう、誰も火を継ぎ足したり、暖かくしてくれる人があろうか、落ち葉は突風に吹かれて、飄颻として何処へ飛んでゆくのだろうか、帰って来ることはない。
芍薬001 

140-#1 《邠(豳)歌行上新平長史兄粲》Index-10 Ⅱ―5-730年開元十八年30歳 李白<140-#1> Ⅰ李白詩1325 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5173

李白《邠()歌行上新平長史兄粲》-#1 秋の季節もいい時季に、身は依然として、邠州の谷間に寓居しているが、庭には木樹は、葉が落ちつくして枝だけがにょきにょきと交差している。涇水は漲って早瀬の波をうって流れている。

 
 2014年11月26日の紀頌之5つのブログ 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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140-#1 《邠(豳)歌行上新平長史兄粲》Index-10 Ⅱ―5-730年開元十八年30歳 李白<140-#1> Ⅰ李白詩1325 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5173 
 孟浩然 詩 index李白詩index謝霊運 詩 index司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》揚雄 《 甘泉賦 》 ●諸葛亮(孔明)出師表 
 曹植(曹子建)詩 65首 index文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固)《李白 全詩》
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 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
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 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
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年:730年開元十八年30

卷別:    卷一六六              文體:    七言古詩

詩題:    ()歌行上新平長史兄粲

作地點:              邠州(京畿道 / 邠州 / 邠州)

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邠州 (京畿道 邠州 邠州) 別名:桂陽、新平、豳         

邠谷 (京畿道 邠州 邠州)    

交遊人物:李粲    當地交遊(京畿道 邠州 邠州)

 

 

()歌行上新平長史兄粲

(新平郡の長史である族兄の李粲というものに贈ったもの)

邠谷稍稍振庭柯,涇水浩浩揚湍波。

秋の季節もいい時季に、身は依然として、邠州の谷間に寓居しているが、庭には木樹は、葉が落ちつくして枝だけがにょきにょきと交差している。涇水は漲って早瀬の波をうって流れている。

哀鴻酸嘶暮聲急,愁雲蒼慘寒氣多。

その時、大雁は夕暮れにあたって悲しい声を残して飛んでゆく、雲は愁いを重ねる様に深く立ち込めて、そぞろに寒さを覚える。

憶昨去家此為客,荷花初紅柳條碧。

前日、家を去って、この地に来たので、その時は蓮の花が初めて紅の花を咲かせ、柳の枝葉が青く繁っていた。

(邠【ひん】歌行、新平の長史 兄粲【けいさん】に上【たてまつ】る)

邠谷 稍稍として 庭柯を振い,涇水 浩浩として 湍波を揚ぐ。

哀鴻【あいこう】酸嘶【さんせい】暮聲 急なり,愁雲 蒼慘 寒氣多し。

憶う 昨 去家をって此に客と為り,荷花 初めて紅にして 柳條 碧なり。

 

-#2

中宵出飲三百杯,明朝歸揖二千石。

寧知流寓變光輝,胡霜蕭颯繞客衣。

寒灰寂寞憑誰暖,落葉飄揚何處歸。

 

-#3

吾兄行樂窮曛旭,滿堂有美顏如玉。

趙女長歌入綵雲,燕醉舞嬌紅燭。

狐裘獸炭酌流霞,壯士悲吟寧見嗟。

前榮後枯相翻覆,何惜餘光及棣華。

 

 

-#2

中宵【ちゅうしょう】出でて 飲む 三百杯,明朝歸って 揖【ゆう】す 二千石。

寧ろ知らん 流寓 光輝を變じ,胡霜 蕭颯 客衣を繞るを。

寒灰 寂寞として 誰に憑ってか暖めん,落葉 飄揚として 何處にか歸る。

吾が兄 行樂 曛旭を窮めよ,滿堂 美有り 顏 玉の如し。

趙の女 長歌して 綵雲に入り,燕の 醉舞して 紅燭嬌なり。

狐裘 獸炭 流霞を酌み,壯士 悲吟 寧ろ 嗟せらる。

前榮後枯 相い翻覆し,何ぞ惜まん 餘光の棣華に及ぶを。

 

 

『邠()歌行上新平長史兄粲』 現代語訳と訳註解説

(本文)

()歌行上新平長史兄粲

邠谷稍稍振庭柯,涇水浩浩揚湍波。

哀鴻酸嘶暮聲急,愁雲蒼慘寒氣多。

憶昨去家此為客,荷花初紅柳條碧。

 

 

(下し文)

(邠【ひん】歌行、新平の長史 兄粲【けいさん】に上【たてまつ】る)

邠谷 稍稍として 庭柯を振い,涇水 浩浩として 湍波を揚ぐ。

哀鴻【あいこう】酸嘶【さんせい】暮聲 急なり,愁雲 蒼慘 寒氣多し。

憶う 昨 去家をって此に客と為り,荷花 初めて紅にして 柳條 碧なり。

 

(現代語訳)

(新平郡の長史である族兄の李粲というものに贈ったもの)

秋の季節もいい時季に、身は依然として、邠州の谷間に寓居しているが、庭には木樹は、葉が落ちつくして枝だけがにょきにょきと交差している。涇水は漲って早瀬の波をうって流れている。

その時、大雁は夕暮れにあたって悲しい声を残して飛んでゆく、雲は愁いを重ねる様に深く立ち込めて、そぞろに寒さを覚える。

前日、家を去って、この地に来たので、その時は蓮の花が初めて紅の花を咲かせ、柳の枝葉が青く繁っていた。

 

華州から秦州同谷成都00

(訳注)

()歌行上新平長史兄粲

(新平郡の長史である族兄の李粲というものに贈ったもの)

() 周の先祖公劉が初めて都としたところ。邠州は、いにしえの豳国、西魏、豳州を置き、後周、隋の時も個の名称であった。唐開元十三年、邠州とし、天寶三載、新平郡とした。

長史 州の佐職で、今でいえば県の理事官程度のものである。

 

邠谷稍稍振庭柯,涇水浩浩揚湍波。

秋の季節もいい時季に、身は依然として、邠州の谷間に寓居しているが、庭には木樹は、葉が落ちつくして枝だけがにょきにょきと交差している。涇水は漲って早瀬の波をうって流れている。

邠谷 邠州の谷間。

稍稍振庭柯 庭には木樹は、葉が落ちつくして枝だけがにょきにょきと交差している。

涇水 陝西省中部の渭河(渭水)の支流,涇河ともいう。寧夏回族自治区と甘粛省の境界,六盤(りくばん)山系に発し,南東へ流れ,渭河盆地の中央付近で渭河と合流する。全長約450km。黄土高原をへるため土砂が多く水はにごり,〈涇渭〉として本流の澄んだ渭河と対比される。秦代に東方の洛河とを結ぶ鄭国渠(ていこくきよ)が開かれ,また,漢の武帝時代には渭河に直結する白渠も開削されるなど,早くから灌漑に利用されてきた。

揚湍波 早瀬の波をうって流れている。

 

哀鴻酸嘶暮聲急,愁雲蒼慘寒氣多。

その時、大雁は夕暮れにあたって悲しい声を残して飛んでゆく、雲は愁いを重ねる様に深く立ち込めて、そぞろに寒さを覚える。

鴻 大雁。

酸嘶 悲しい声を残して飛んでゆく。


 

憶昨去家此為客,荷花初紅柳條碧。

前日、家を去って、この地に来たので、その時は蓮の花が初めて紅の花を咲かせ、柳の枝葉が青く繁っていた。

荷花初紅 蓮の花が初めて紅の花を咲かせる。

柳條碧 柳の枝葉が青く繁っていた。
邠州亰兆府00 

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123-

#2 《白毫子歌》Index-7 Ⅱ―2 727年開元十五年27 6首 安陸を中心に35歳まで約十年遊ぶ。<123-#2> Ⅰ李白詩1304 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5068

 

 

安陸を中心に35歳まで約十年遊ぶ。

年:727年開元十五年27

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

李太白集 巻六

詩題:    白毫子歌

寫作地點:安陸(淮南道 / 安州 / 安陸)

 

 

白毫子歌

(神道の道に志があり、白毫子の後を継ごうということで、淮南王の君臣が仙去したことを思慕する意をのべたもの)#1

淮南小山白毫子,乃在淮南小山裡。

白毫子というのは、淮南王に昵近していた小山の仲間の一人で、その文藻を以て世に知られているが、後には淮南の小山の裡というところに、隠遁して仙道を学んでいた。

夜臥松下雲,朝餐石中髓。

夜には、松下にいて白雲に臥して、朝には石中の髓を食らって仙道を成就した。

小山連綿向江開,碧峰巉巖綠水迴。

その小山というのは、山勢が連綿として、淮水に面して開くように向っている。碧峰巉巖、突兀として聳え、その麓を奇麗に澄んだ水が廻っている。

余配白毫子,獨酌流霞杯。

私は、神道の道に志があり、白毫子の後を継ごうということで、その山に分け入って、一人、仙家の酒を酌注いだ流霞の杯を傾けるのである。

#2

拂花弄琴坐青苔,綠蘿樹下春風來。

こうして、花を拂って、琴を爪弾いて楽しみ、青苔の修行台の上に坐っていると、緑の葉をつけて樹木にまといついている蔦羅が茂る木の下でいて、春風が吹き抜ける。

南窗蕭颯松聲起,憑崖一聽清心耳。

南側に窓のまえには蕭颯とした松聲が起こっていて、それを崖に倚りかかってすずやかな声をきいていると、まるで浮世を離れているようである。

可得見,未得親。

白毫子、その人は見るべきところを得ようとするが、未だに親しむことができないのである。

八公攜手五雲去,空餘桂樹愁殺人。

そもそも八公の徒は、手を携えて淮南王とともに、五色の彩雲に乗じて羽化登仙し、そこには空しく桂樹が名残をとどめているだけであるが、こうしてここで修行しても無論、八公子に逢うことはできないということでは、私の仙道の修行も前途多難で非常に嘆き悲しむというものであるが、何時かは浮世の外に超脱したいと思うところである。

 

 (白毫子の歌)

淮南の小山 白毫子,乃ち淮南小山の裡に在り。

夜には松下の雲に臥し,朝には石中の髓を餐す。

小山は連綿とし 江に向って開き,碧峰は巉巖とし 綠水迴る。

余は白毫子に配し,獨り流霞の杯を酌む。

#2

花を拂い 琴を弄して 青苔に坐せば,綠蘿 樹下 春風來る。

南窗 蕭颯として松聲起り,崖に憑って 一たび聽けば 心耳を清す。

見るを得可し,未だ親しむを得ず。

八公 手を攜えて五雲に去り,空しく桂樹を餘して人を愁殺す。

 

keirin01 

『白毫子歌』 現代語訳と訳註解説

(本文) #2

拂花弄琴坐青苔,綠蘿樹下春風來。

南窗蕭颯松聲起,憑崖一聽清心耳。

可得見,未得親。

八公攜手五雲去,空餘桂樹愁殺人。

 

(下し文)  #2

花を拂い 琴を弄して 青苔に坐せば,綠蘿 樹下 春風來る。

南窗 蕭颯として松聲起り,崖に憑って 一たび聽けば 心耳を清す。

見るを得可し,未だ親しむを得ず。

八公 手を攜えて五雲に去り,空しく桂樹を餘して人を愁殺す。

 

(現代語訳)

こうして、花を拂って、琴を爪弾いて楽しみ、青苔の修行台の上に坐っていると、緑の葉をつけて樹木にまといついている蔦羅が茂る木の下でいて、春風が吹き抜ける。

南側に窓のまえには蕭颯とした松聲が起こっていて、それを崖に倚りかかってすずやかな声をきいていると、まるで浮世を離れているようである。

白毫子、その人は見るべきところを得ようとするが、未だに親しむことができないのである。

そもそも八公の徒は、手を携えて淮南王とともに、五色の彩雲に乗じて羽化登仙し、そこには空しく桂樹が名残をとどめているだけであるが、こうしてここで修行しても無論、八公子に逢うことはできないということでは、私の仙道の修行も前途多難で非常に嘆き悲しむというものであるが、何時かは浮世の外に超脱したいと思うところである。

 

 

(訳注) #2

拂花弄琴坐青苔,綠蘿樹下春風來。

こうして、花を拂って、琴を爪弾いて楽しみ、青苔の修行台の上に坐っていると、緑の葉をつけて樹木にまといついている蔦羅が茂る木の下でいて、春風が吹き抜ける。

 

南窗蕭颯松聲起,憑崖一聽清心耳。

南側に窓のまえには蕭颯とした松聲が起こっていて、それを崖に倚りかかってすずやかな声をきいていると、まるで浮世を離れているようである。

 

可得見,未得親。

白毫子、その人は見るべきところを得ようとするが、未だに親しむことができないのである。

 

八公攜手五雲去,空餘桂樹愁殺人。

そもそも八公の徒は、手を携えて淮南王とともに、五色の彩雲に乗じて羽化登仙し、そこには空しく桂樹が名残をとどめているだけであるが、こうしてここで修行しても無論、八公子に逢うことはできないということでは、私の仙道の修行も前途多難で非常に嘆き悲しむというものであるが、何時かは浮世の外に超脱したいと思うところである。

八公の徒 淮南王は謀反によって自死したのではなく、天に昇って仙人になったのだという感懐が淮南の世人のあいだあった。昇仙幻想なのである。

 後漢の王充の『論衡』にも綴られている。「淮南王は食客を好んだので、道士や方士が次々に集まり、奇方異術の蘊蓄をかたむけ、王またそれを会得して道(タオ)を悟り、家族もろともに昇仙していった」ということである。昇仙譚が後漢の時代に伝わるほどに、死後の淮南王については神仙めく噂が付きまとっていたということである。実際にも、干宝の『捜神記』にも葛洪の『神仙伝』にも、八公の手引きによって淮南王が羽化登仙した不思議な経緯が綴られている。

 これが何を意味しているかといえば、『淮南子』の執筆編集にもそうした神仙陰陽道を加味されたということなのだ。

愁殺【しゅうさつ】)非常に嘆き悲しむこと。また、非常に嘆き悲しませること。

春秋戦国勢力図 

123 《白毫子歌》Index-7 Ⅱ―2 727年開元十五年27歳 6首 <123> Ⅰ李白詩1303 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5063

李白《白毫子歌》#1 (神道の道に志があり、白毫子の後を継ごうということで、淮南王の君臣が仙去したことを思慕する意をのべたもの)#1

 
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 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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123 《白毫子歌》Index-7 Ⅱ―2 727年開元十五年27歳 6首 <123> Ⅰ李白詩1303 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5063 
 孟浩然 詩 index李白詩index謝霊運 詩 index司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》揚雄 《 甘泉賦 》 ●諸葛亮(孔明)出師表 
 曹植(曹子建)詩 65首 index文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固)《李白 全詩》
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24-2 《遠遊聯句〔韓愈、李翱、孟郊〕》韓愈(韓退之)ID 798年貞元14年 31歳<1216> Ⅱ韓昌黎集 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5064韓愈詩-24-2 
 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
 孟郊張籍     
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
 魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻 
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123 《白毫子歌》Index-7 Ⅱ―2 727年開元十五年27 6首 <123> Ⅰ李白詩1303 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5063

 

 

安陸を中心に35歳まで約十年遊ぶ。

年:727年開元十五年27

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

李太白集 巻六

詩題:    白毫子歌

寫作地點:安陸(淮南道 / 安州 / 安陸)

 

 

白毫子歌

(神道の道に志があり、白毫子の後を継ごうということで、淮南王の君臣が仙去したことを思慕する意をのべたもの)#1

淮南小山白毫子,乃在淮南小山裡。

白毫子というのは、淮南王に昵近していた小山の仲間の一人で、その文藻を以て世に知られているが、後には淮南の小山の裡というところに、隠遁して仙道を学んでいた。

夜臥松下雲,朝餐石中髓。

夜には、松下にいて白雲に臥して、朝には石中の髓を食らって仙道を成就した。

小山連綿向江開,碧峰巉巖綠水迴。

その小山というのは、山勢が連綿として、淮水に面して開くように向っている。碧峰巉巖、突兀として聳え、その麓を奇麗に澄んだ水が廻っている。

余配白毫子,獨酌流霞杯。

私は、神道の道に志があり、白毫子の後を継ごうということで、その山に分け入って、一人、仙家の酒を酌注いだ流霞の杯を傾けるのである。

#2

拂花弄琴坐青苔,綠蘿樹下春風來。

南窗蕭颯松聲起,憑崖一聽清心耳。

可得見,未得親。

八公攜手五雲去,空餘桂樹愁殺人。

 

 (白毫子の歌)

淮南の小山 白毫子,乃ち淮南小山の裡に在り。

夜には松下の雲に臥し,朝には石中の髓を餐す。

小山は連綿とし 江に向って開き,碧峰は巉巖とし 綠水迴る。

余は白毫子に配し,獨り流霞の杯を酌む。

#2

拂花弄琴坐青苔,綠蘿樹下春風來。

南窗蕭颯松聲起,憑崖一聽清心耳。

可得見,未得親。

八公攜手五雲去,空餘桂樹愁殺人。

 

巫山十二峰002 

『白毫子歌』 現代語訳と訳註解説

(本文)

白毫子歌

淮南小山白毫子,乃在淮南小山裡。

夜臥松下雲,朝餐石中髓。

小山連綿向江開,碧峰巉巖綠水迴。

余配白毫子,獨酌流霞杯。

 

(下し文)

(白毫子の歌)

淮南の小山 白毫子,乃ち淮南小山の裡に在り。

夜には松下の雲に臥し,朝には石中の髓を餐す。

小山は連綿とし 江に向って開き,碧峰は巉巖とし 綠水迴る。

余は白毫子に配し,獨り流霞の杯を酌む。

 

(現代語訳)

(神道の道に志があり、白毫子の後を継ごうということで、淮南王の君臣が仙去したことを思慕する意をのべたもの)#1

白毫子というのは、淮南王に昵近していた小山の仲間の一人で、その文藻を以て世に知られているが、後には淮南の小山の裡というところに、隠遁して仙道を学んでいた。

夜には、松下にいて白雲に臥して、朝には石中の髓を食らって仙道を成就した。

その小山というのは、山勢が連綿として、淮水に面して開くように向っている。碧峰巉巖、突兀として聳え、その麓を奇麗に澄んだ水が廻っている。

私は、神道の道に志があり、白毫子の後を継ごうということで、その山に分け入って、一人、仙家の酒を酌注いだ流霞の杯を傾けるのである。

呉越の地図 

(訳注)#1

白毫子歌

(神道の道に志があり、白毫子の後を継ごうということで、淮南王の君臣が仙去したことを思慕する意をのべたもの)

 

淮南小山白毫子,乃在淮南小山裡。

白毫子というのは、淮南王に昵近していた小山の仲間の一人で、その文藻を以て世に知られているが、後には淮南の小山の裡というところに、隠遁して仙道を学んでいた。

 

夜臥松下雲,朝餐石中髓。

夜には、松下にいて白雲に臥して、朝には石中の髓を食らって仙道を成就した。

石中髓 《太平廣記》卷九《神仙傳》:王烈独之太行山中,忽崩圮,殷殷如雷声,烈不知何等,往之,乃山破石裂数百丈,两畔皆是青石,石中有一穴口,径,中有青泥流出如髓。烈取泥丸之,臾成石, 如投蜡之状,随手凝。

王烈独り太行山中を之く,忽ち山崩れ圮けるを聞く,殷殷として雷声の如し,烈 何等知らず,乃ち山破れ石裂け数百丈を観る,两畔 皆 是れ青石,石中 一穴口に有り,径,中に青泥流出して髓の如き有る。烈 取って泥丸を之う,臾 石と成る, 如投蜡之状,随手凝。)

 

 

小山連綿向江開,碧峰巉巖綠水迴。

その小山というのは、山勢が連綿として、淮水に面して開くように向っている。碧峰巉巖、突兀として聳え、その麓を奇麗に澄んだ水が廻っている。

連綿 途絶えずに長く続くさま。

 

余配白毫子,獨酌流霞杯。

私は、神道の道に志があり、白毫子の後を継ごうということで、その山に分け入って、一人、仙家の酒を酌注いだ流霞の杯を傾けるのである。

流霞杯 《論衡校釋》卷七〈道虛〉~325~「曼都曰:有仙人數人,將我上天,離月數里而止。口饑欲食,仙人輒飲我以流霞一杯。」(曼都曰く:仙人數人有り,我を將て天に上る,月を離れて數里して止る。口饑えて食んと欲す,仙人輒ち我に飲ましむるに流霞一杯をて以す。)
泰山の道観 

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李白詩全集 卷六 (古近體詩二十八首) 
ID歌吟 初句
206卷六 襄陽歌 落日欲沒峴山西
207卷六 南都行 南都信佳麗。 
208卷六 江上吟 木蘭之(枻)沙
209卷六 侍從宜春苑奉詔賦龍池柳色初青聽新鶯百囀歌 東風已綠瀛洲草
210卷六 玉壺吟 烈士擊玉壺。 
211卷六 豳歌行上新平長史兄粲 豳谷稍稍振庭柯
212卷六 1.西岳云台歌送丹丘子 西岳崢嶸何壯哉
213卷六 2.元丹丘歌 元丹丘。 愛神
214卷六 扶風豪士歌 洛陽三月飛胡沙
215卷六 同族弟金城尉叔卿燭照山水壁畫歌 高堂粉壁圖蓬瀛
216卷六 白毫子歌 淮南小山白毫子
217卷六 梁園吟 我浮黃云去京闕
218卷六 鳴皋歌送岑徵君 時梁園三尺雪若有人兮思鳴皋
219卷六 鳴皋歌奉餞從翁清歸五崖山居 憶昨鳴皋夢里還
220卷六 勞勞亭歌 在江寧縣南十五里. 古送別之所 金陵勞勞送客堂
221卷六橫江詞六首其一 人道橫江好。 
222卷六橫江詞六首其二 海潮南去過潯陽
223卷六橫江詞六首其三 橫江西望阻西秦
224卷六橫江詞六首其四 海神來過惡風回
225卷六橫江詞六首其五 橫江館前津吏迎
226卷六橫江詞六首其六 月暈天風霧不開
227卷六 金陵城西樓月下吟 金陵夜寂涼風發
228卷六 東山吟 攜妓東土山。 
229卷六 僧伽歌 真僧法號號僧伽
230卷六 白云歌送劉十六歸山 楚山秦山皆白云
231卷六 金陵歌送別范宣 石頭(巉)岩如
232卷六 笑歌行 ( 以下二首 蘇軾云是偽作 ) 笑矣乎。 笑矣
233卷六 悲歌行 悲來乎。 悲來
漢文委員会紀頌之タイトル002李白1000李白図102続きを読む
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